あかいはな 少女は駆けていた。齢八から十位であろうか、幼い顔立ちを笑顔一色に染めている。彼女は、三つ編みにした一本のお下げを跳ねさせ、朝日の暖かい光を受けて、気持ちよさそうに走る。 風を切る音が耳に届く。草木の香りが鼻をくすぐる。背が高い芝を踏みしめ、少女は走る。 その後ろにも、駆ける影があった。紫とクリーム色に分かれた毛皮、小さな耳、つぶらな赤い瞳、そして、その存在を象徴するかのような、頭と腰から勢い良く燃え盛る炎。マグマラシ。彼もまた、暁光を受け、気持ちよさそうに走っていた。 ひとしきり駆け回った後、少女は大の字になって芝生に寝転んだ。その隣にマグマラシが座りこむ。 やわらかい風が、彼女の頬を撫でる。 「あー、気持ちいい!」 少女は照る太陽にも負けないような、満面の笑顔で言った。 「うん、とても、とっても気持ちがいい風」 マグマラシが同意した。うんうんと頷きながら、やさしく吹く風の感触を楽しんでいた。 緩やかな時間が流れる。少女は目を瞑りながら、樹のざわめきと、風が流れる音の交響曲を聴いていた。 そんな中、マグマラシはテクテクと二、三メートル程歩き、何かを咥えると、踵を返して少女の下へ戻ってきた。 「ルーン、どうしたの?」 少女は目を開き、マグマラシを見つめる。 「綺麗な花を見つけたんだ。一つ、摘んできたんだよ」 彼が口に咥えているのは、一本の花。厚ぼったい四つの花びらを持つ、小さくて赤い花。 ルーンと呼ばれたマグマラシはその花を、嬉しそうに少女へ贈った。 「ありがと、ルーン」 少女は期待に胸を膨らませた表情で花を受け取ると、目を閉じ、匂いをかいだ。 甘くて酸っぱい、春の香りが鼻いっぱいに広がった。 少女は一人ぼっちだった。引っ込み思案な彼女は、小学校で同級生に声をかける勇気も無く、孤立していた。休憩時間に一言も喋らず、ただぼんやり座って過ごし、昼食時には、仲良しグループごとに集まって談話しながら食事をしている同級生を尻目に、一人で弁当を頬張っていた。家に帰っては、いつも両親の膝元で、寂しいと泣いていた。 不憫に思った両親は、流行ってるゲームを持たせ、同級生との話題の種にさせようと、携帯ゲーム機と、一本のソフトを買い与えた。 ソフトの名は、ポケットモンスターハートゴールド。 少女はそのゲームにのめりこんだ。 そのゲームでは、ポケモンを連れ歩く事が出来た。さらに、連れ歩いているポケモンに話しかけると様々な反応を示すのだ。喜んだり、笑ったり、怒ったり。まるで、本当にポケモンという生き物がそこに存在するかの様。 少女は喜んだ。一人でも、このゲームさえあれば、寂しくは無い。友達がいなくても、私の傍にはポケモンがいてくれる、と。 少女は両親に、「友達と遊んでくる!」と嘘をつき、公園へ出かけた。そうとは知らない両親は喜んだ、ついに、少女にも友達が出来たのだ、と。 彼女は嘘を付いた事に罪悪感を感じつつも、いつも一人で公園に出かけ、遊具の陰に隠れて座り、ポケモンとの時間を楽しんだ。 少女が最初のパートナーとして選んだポケモンは、ヒノアラシ。臆病で気弱なポケモン。彼を選んだ理由は、自分と同じ匂いを嗅ぎ取ったからだった。 彼女はヒノアラシを『ルーン』と名付けた。かっこいいアニメの主人公と同じ名前。 少女は他のポケモンを捕まえる事は無かった。ルーンが居てくれるだけでよかった。タマゴを貰った時もあったが、ルーンとふたりきりで居たい為、すぐに預けてしまった。 他のポケモンをルーンが倒したある日、彼に変化があった。光に包まれ、なにやら姿が変わっていくではないか。 それは、進化。ヒノアラシは、マグマラシに進化した。彼女は強い感動を覚えた。マグマラシの瞳は精悍で、尚且つ優しさを多分に持ちあわせていた。少女はルーンに恋をした様に、何度も何度も話しかけた。 少女は、ルーンさえいてくれれば、それでよかった。放課後、登校前、休日に公園にて、絶えず画面の中にいるルーンと触れ合う日々。嫌な事全てから目をそむけるかの様に、少女は一人ぼっちの公園でゲームにのめりこんだ。 ある日少女は、ルーンと共にとある場所に辿り着いた。 自然公園。ドット絵で表現された濃い緑の潅木、青々と生い茂る芝、中央に鎮座している大きな噴水。 少女はその場所に安らぎを覚えた。ずっとこの場所にいたい、そう思った。 薄暗い、閉塞的な公園。辺りを照らすのはかすかな木漏れ日のみ。古臭いブランコがギイギイと風に揺れる音が響く。幼い少女は滑り台の陰に隠れて座っていた。彼女の服装は野暮ったいこげ茶のトレーナー、そして黒のロングスカート。その姿は、暗い雰囲気が蔓延しているこの公園に、見事に溶け込んでいた。 少女はゲームをしていた。嬉しそうにゲーム画面を見つめていた。 画面の中では、少女の分身、そして、ルーンと名付けられたマグマラシが居た。ドットで描かれた鮮やかな色彩に溢れる自然公園で、共に走り回る。ひとしきり走り回っては後ろを見て、ルーンに話しかけた。 『ルーンは あまえためで こっちを みている!』 少女はルーンの反応を見て嬉しそうに笑い、ゲームの中で何度も走っては話しかける。そんな中、ふと、彼が見覚えの無い反応を示した。 『おや? ルーンが なにか もっている…… もってる ものを もらいますか?』 『はい』『いいえ』の選択肢のダイアログがポップアップ表示された。 少女は期待に胸を躍らせながら、カーソルを『はい』に合わせて、ボタンを押した。 『ルーンは うれしそうに わたして くれた!』 『あかいはなを てにいれた!』 少女は彼の贈り物に心をときめかせた。そして、あかいはなに思いを馳せた。その花はどんな形をしているのだろう、どんないい香りを漂わせるのだろう、と。 彼女はふと、ゲームの画面から目を離し、顔を上げた。夕暮れ時、誰も乗らないシーソーの青い色が朱色に染まる。風がぴゅうぴゅうと音を立てて暗い公園を通り抜ける。ゲームの中はこんなにも暖かいのに、現実は酷く寒い。寂しくて、凍えそうだった。 彼女は悲しくなって、ゲーム機を閉じた。 その晩、少女は夢を見た。 少女は目を開けた。眼前に広がるは真っ青な空。。鼻に濃い草の香りが広がり、ちくちくと芝が刺す感触が掌に心地よく染みた。 少女は不思議そうに上体を上げて、周りをきょろきょろと見回し、首を傾げた。 ベッドで寝ていたのに、ここはどこ? その疑問は、彼女の後ろに座る姿を見とめた瞬間に、跡形も無く吹き飛んだ。 「ル……ルーン?」 流線型の身体、小さな耳、つぶらではあるが、精悍さと優しさを兼ね備えた瞳……そこにはルーンがいた。ニコニコと笑いながら、彼女を見つめていた。 「ようこそ、よく来たね」 目をまん丸くしている少女へ、ルーンは語りかける。 「君を、待っていたよ」 ゲームの住人であるはずの彼は、紅く燃える炎を風にたなびかせながら、座る少女に寄り添った。 炎が直接少女の身体に当たっても、熱いという事は全く無く、柔らかな温もりが伝わってくるだけだった。 驚愕により暫し硬直していた彼女は、その温もりで我に帰ったのか、弾かれたようにルーンに抱きついた。 「うわあ」 少女は感嘆の声をあげる。彼の毛皮はすべすべでやわらかい。少女の手が、ふさふさとした毛に埋もれる。ルーンは、気持ちよさそうに目を閉じていた。 ひとしきりルーンを撫でた後、少女は満足したように嘆息を付いた。 「ふふ、僕の毛皮は気持ちいいだろう」 彼は笑いながら少女に言った。 「うん、とっても」 少女は幸せの渦中にいた。触れたくて、近寄りたくて……想ってやまなかったルーンが、自分の腕の中に居るのだ。 木々のさえずりが聞こえる。それに気付き、少女が周りを見渡すと、この場所が、見覚えのある場所だという事に気付いた。大きな噴水は絶えず水飛沫をあげ続け、太陽はふたりを力強く照らしていた。 この場所は、自然公園。光に溢れた場所。ゲームの中では、ドット絵で表現されていたものが、少女の目の前でまるで現実のように息吹いていた。 あどけない笑みを浮かべて、少女は立ち上がった。 「走ろう、ルーン!」 ルーンは、待ってましたとばかりに頷いた。 少女は目を覚ました。ルーンと共に過ごした時間は瞳の裏に鮮やかに残っており、とても夢だとは思えないほどだった。 次の日、彼女は「友達と一緒に登校するんだ!」と両親に告げ、朝早くに出かけた。そして薄暗い公園の陰に隠れ、ゲーム機の電源をつけた。いつもと同じように自然公園を駆け回り、ルーンに話しかける。すると、彼女は驚きに目を見開いた。 『おはよう。これからよろしくね』 ルーンのセリフとして、画面にそう表示された。 少女は嬉しそうに笑った。夢の中で見た事は、本当にあったことなのだ、と。 『うん、君は笑顔が一番だ。君が笑ってくれると、僕も嬉しい』 ドット絵のルーンは、一つ跳ねて笑顔を表す吹き出しをみせた。 少女はその晩も、その次の晩も夢を見た。夢の中は現実より、遥かに輝きに満ちていた。ルーンが居るからだ。 毎晩見る夢の中でも、一人ぼっちの公園でのゲームの中でも、少女はルーンを引き連れて嬉しそうに駆け回る。 「ねぇ、ルーンは、どこにも行ったりしないよね」 ある日、少女は夢の中で、彼にそう問うた。 少女は臆病だった。臆病だからこそ、今ある幸せに、不安を覚えた。漠然で、何の根拠も無い不安。 「大丈夫だよ」 ルーンは、怯えた様な色を見せる彼女の瞳を見て、答えた。 「僕は、ずっと君の傍に居る」 「だから、笑って。君が悲しい顔をしていると、僕も悲しい」 少女はおずおずとルーンの毛皮を撫でた。そして、そこに彼が居る事を確認するかの様に、彼の身体を抱きしめた。 ルーンの息遣いが聞こえる。心臓の鼓動が聞こえる。暖かな体温が伝わってくる。 少女は、安心したように笑った。 一ヶ月が経った。少女は変わらずルーンと共に過ごした。少女は放課後、誰よりも早く家に帰り、両親に嘘をつき、ゲーム機を持って公園へ駆け、日が暮れるまでゲームをして家に帰る。その後は食事と風呂を済ますと、すぐにベッドに入る。ルーンと一緒に過ごす時間を、少しでも多くとるために。 自然公園の中央、大きな噴水が水滴を散らす。光が水滴に反射して、キラキラと宝石のように輝く。 少女とルーンは噴水の縁に座って、その様を見上げていた。 「きれい……」 少女は言葉を口からもらした。 「うん……本当に」 ルーンは目を細めて、小さく呟いた。その声に覇気はない。 少女は噴水から目を離し、そんな彼を心配そうに見つめた。 彼の様子がおかしくなったのはいつからだろうか。彼は何かを思案しているかのように、遠くを見つめる。少女は何度もその理由を尋ねたが、いつも困ったような笑顔ではぐらかされた。 「ね、ルーン。私は、笑顔だよ」 少女は、ルーンに白い歯を見せた。彼女なりに、にこやかな顔を見せることで、彼を元気付けようとしたのだ。 彼女に心配をかけたことに気づいたのか、ルーンは慌てたように笑顔をみせた。 「うん、僕も、嬉しいよ」 いくら表面では取り繕っても、彼の炎の陰りは、隠せなかった。 次の日、少女がほの暗い公園でゲームをしていると、思わぬ来訪者があった。 「お、またお前、ここでゲームしてんのか」 幼い少年。短パンにランニングシャツといった、いかにも活発そうな出で立ち。 彼は、少女のクラスメイト。少年はいつでも人の輪の真ん中におり、絶えず大勢の友達に囲まれていた。 少女は彼に一瞥をくれると、ゲームの画面へ目線を戻した。 「なんだよ、無視すんなよ」 少年は口をとがらせた。 「なー、お前がやってるの、ポケモンだろ? ちょっと見せてみろよ」 彼はそう言ってゲーム画面をのぞき込もうとしたが、少女は、見られないようにゲーム機の背面を少年へ向ける。 「少しくらい、いいじゃねーかよ」 ぶつくさと少年は文句を言った。 少女は相変わらず、ゲームの中でルーンと駆けていた。光あふれる自然公園で、ひたすらに。 少女にとって、ルーン以外は平等に無価値であった。 だが……。 『ほら、見せてあげなよ。友達ができるよ』 ゲーム機の中で、ピョンピョンと跳ねながら、ルーンがそう言った。 瞬間、少女の感情が爆発した。 「あっちへ行って」 小さく呟く。少年は、訝しげな表情をして彼女を見た。 「あっちへ行ってよ!」 大きな声で、少女は叫んだ。ビリビリと空気の振動が辺りを震わす。 少年は驚いたように目をまん丸に開いたが、すぐに気を持ち直したのか 「ちぇー。つまんねーの」 と捨て台詞を残して、公園から去っていった。 「今日は、君に話があるんだ」 夢の世界で、少女が目を覚ますなり、炎をたなびかせながら、ルーンはそう切り出した。 真剣な彼の瞳に、少女は少しの驚きを感じつつも頷いた。 「どうして、公園に入って来た子と話さなかったんだい? 友達になれただろうに」 その言葉で、一人と一匹の間に沈黙が走った。風が芝を撫でる、さわさわといった音だけがふたりの間を流れた。 「私には、ルーンがいるから、それでいいもん」 少女は、俯きながら、言葉を搾り出した。 彼の心が、ちくりと痛んだ。でも彼は、言葉を発する事をやめなかった。 「ダメだよ。それじゃあ……」 彼は深呼吸をするように、大きく息を吸い、続ける。 「それじゃあ、君は、いつまで経ってもひとりぼっちじゃないか」 その言葉に、少女は顔を上げた。瞳からは大粒の涙がこぼれていた。彼女は泣いていた。歯を食いしばりながら。 「違うもん! ルーンがいるから、ひとりぼっちじゃないもん!」 彼女の言葉は悲しみに満ちていた。嗚咽を口から断続的にもらしながら、ルーンに向かって声の限りに叫んだ。 風の音はもう聞こえない。彼女の悲痛な叫びだけが、彼の耳をつんざいた。 少女は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、彼に尋ねた。 「どうして? どうしてそんな事言うの? ルーンは、私のことが嫌いなの? 嫌いだから、そんなことを言うの?」 そんな彼女を見て、ルーンは今にも泣きたい気持ちになった。今すぐでも、大好きだ、と言って、抱きしめたかった。 だが、それを理性が止めた。そうするならば、彼女はずっとひとりぼっちのまま。 だから、彼は。 「……僕は、お母さんに嘘をついてまで、僕と一緒に遊ぼうとする君は」 「自分から、望んでひとりぼっちになろうとする君は」 「……嫌いだよ」 彼は俯き、口に苦々しい物を感じながら、辛らつな言葉を吐き出した。 ルーンは顔を伏せたままだった。彼女の顔を見るのが怖かった。 少女の嗚咽が聞こえる。それは、彼が一番聞きたくなかった音。胸がかきむしられるように痛む。その痛みは、心の痛み。 「あっちへ……行ってよ」 少女は、うずくまって、泣きじゃくりながら言った。涙をぬぐう事もせず、大粒の涙が何粒も何粒も芝にたれる。葉に乗った水滴は、頬を流れる涙のように、重力に従って地面へと零れ落ちた。 ルーンは、少女から逃げるようにして、その場を後にした。 少女の心には、裏切られたという思いが渦巻いていた。彼女は、鉛のように重い足取りで学校へ向かった。 学校では、ひとりぼっち。誰も彼女に話しかける者などいない。 家に帰ると、母が思い出したように言った。「あら、今日はお友達と遊びに行かないの?」 その言葉に背を押され、少女はゲーム機を持ち、気が進まないが、公園へ向かう事にした。 薄暗く、鬱々とした公園。彼女は滑り台の陰に座っていた。手には、電源が入っていないゲーム機。 少女は凍えていた。季節は春の半ば。既に肌寒い時期は過ぎている。にもかかわらず彼女は凍えていた。孤独は、少女の心を凍えさせた。暖めてくれる炎が、側にいて欲しかった。 彼女は電源の入っていないゲーム機をじっと見つめた。このゲーム機の電源を点ければ、ルーンがいる。彼女のたったひとりの友達。ひとりぼっちな彼女の、唯一の温もり。 彼を拒絶したのは、彼女自身であった。だが、少女はもう孤独に耐えきれなかった。ゲーム機の電源スイッチへ指を伸ばし、電源を点けた。 「おーい、また会ったな」 その時、公園に招かれざる来訪者があった。 活発そうな少年。憂鬱に佇む少女とは、正反対の存在。 「じゃーん、今日は俺も持ってきたんだぜ、ポケモン」 少年は、ゲーム機を見せびらかすように少女に示す。 だが、少女は少年から顔を背けた。 「だから、無視すんなって」 少年は注意を引こうと、彼女の手の中にあったゲーム機を取り上げた。 「か、返してっ!」 少女は立ち上がり、少年の腕にすがりつく。身長差のせいか、ゲーム機に手は届かない。だが、彼女は体重をかけて、全力でゲーム機を取り返そうとした。 「お、おい、危ねぇだろ」 「返して、そこには、そこには!」 少女の両手に引っ張られる様にして少年の体が傾く。少女はつま先立ちになって手を伸ばし、ついにゲーム機に指先がかかった。 「あっ」 無理矢理に引っ張られたゲーム機は、手から、滑るようにしてこぼれ落ちた。地面にそれが叩きつけられる様が、スローモーションの様に、彼女の瞳に映った。 「ああっ!」 少女は土に汚れたゲーム機を拾い上げ、大事そうに胸に抱きしめた。瞳に涙をためながら俯く。 「お、俺のせいじゃねーぞ! お前が悪いんだからな!」 少年は、彼女の姿から目をそらし、公園から走り去った。 少女はいつまでも俯いていた。ひとりぼっちでゲーム機を抱えながら。 少女は泣きながら家に帰った。その姿に両親は驚き、理由を聞いたが、彼女は答えなかった。食事も風呂もいい加減にすまし、一人の部屋に籠もった。 少女は思った。私にはルーンしかいない、と。私の居場所は、彼の隣にしかない、と。 彼女はルーンに謝ろうと、ゲームの電源を点けた。 しかし、現れたゲームの画面に、彼女は愕然とした。 「はじめから……?」 いつもゲームを始めるときに選択する、『つづきから』が無い。少女は半狂乱になって、何度も何度も電源を点けなおした。 だが、結果は同じ。何度スイッチを入れ直しても、ルーンに会うことはできない。彼女はベッドの中で途方に暮れた。 その暫し後、少女は思いついた。 「そうだ、夢の……夢の中なら!」 彼女は一縷の望みにかけるように、ベッドに横になった。 彼はかつて、少女と同一だった。彼が生まれたのは、少女があかいはなに憧れを抱いた時。その憧憬が、マグマラシに宿った。 彼の感情は当初、少女と一致していた。だからこそ、『君が笑ってくれると、僕も嬉しい』と言ったのだ。ただ、少女と共に笑って、一緒の時間を楽しんでいた。 しかし、共に過ごす一ヶ月のうちに、彼自身の自我が芽生え始める。このままではいけない、という思いが日に日に強くなった。 葛藤の末、ひとりぼっちの少女を想う彼は、ある決断をした。 それは、別れの決断。 夢の中の世界で、少女は目の前の光景に絶句した。 美しく輝いていた空はモザイクがかかったように歪んでいた。足下は雲の上のように頼りなく、体重をかける度に沈み込んだ。 その中で、少女は焦燥感に駆られた顔で、走りながら唯一の友達の姿を探した。 「ルーン!」 ルーンは座っていた。その姿は陽炎のように頼りなく揺らいでいた。少女は躊躇無く彼の体を両腕で抱きしめた。 「よく、来たね……。君を、待っていたよ」 彼は、瞳を虚ろにし、息も絶え絶えに言った。 「今日は、お別れを、言いにきたんだ」 彼のその言葉に、少女は驚愕と悲哀に幼い顔を染め、いやいやと言うように首を振った。涙が一滴二滴、こぼれ落ちる。 「ごめんなさい、私が、私が、ゲーム機を落としたから……」 彼女はうわ言の様に、謝罪の言葉を繰り返す。そんな彼女を見、ルーンは悲しそうにして、震えた声で囁いた。 「違うよ、君は、悪くない。落ちたのは、きっかけに過ぎない。僕は、データの崩壊を、止めることができた。だけど、しなかった」 ごめんなさいと繰り返す、彼女の口が止まった。 「僕がいると、君は友達を、作れない。現実では、君は、ずっとひとりぼっち……」 「ここは、夢。僕も、夢。夢は、いつか醒める物。それが、今。だから、悲しまないで」 ルーンは少女の瞳を真っ正面から見つめながら、喉奥から言葉を絞り出した。 「いや……いやだよ、ルーン……」 涙で歪んだ少女の顔が、さらに悲痛な色に染まる。 彼の姿が揺れる。ノイズがかったように不確かにぼやける。 「君は、これから、たくさんの友達をつくるんだ。僕のことなんか、忘れちゃうくらいに、たくさんの」 モザイクがかった空が、白く滲む。足下が緩んでゆく。 「たくさんの友達と遊んで、いっぱい、いっぱい、笑顔の花を、咲かせるんだ」 「君なら、できるさ」 ルーンの炎も揺れる。今にも消えそうにゆらゆらと。 「そのはなむけに、君に、贈り物が、あるんだ」 少女の手に、何かが手渡された。 それは、花。赤い花。彼女が一番好きな花。ルーンの炎にも似た暖かい色を持つ花。 「嫌いなんて、言って、ごめん。僕は、君のことが……」 「……大好きだ」 ルーンは、痛苦にその表情を歪ませながらも、笑った。 「私も、私も大好きだよ、だから……」 行かないで。少女のその言葉は、かすれて声にならなかった。 ルーンは彼女に抱きつき、あかいはなのような笑顔を咲かせて、少女の耳元に囁いた。 「大丈夫だよ。僕は、ずっと……」 瞬間、少女の視界が、真っ白に染められた。 少女はベッドから起きあがった。視界が涙で歪み、目を開いても、何も見えなかった。 「ルーン……」 彼女の呟きは、ひとりぼっちの部屋に空虚に響いた。 その時、少女は自分が手に、何かを持っている事に気がついた。 涙を拭い、手を広げる。 そこには、あかいはながあった。ルーンから贈られた、あかいはな。彼が、少女の隣に居た証。 四つの花弁を大きく広げ、太陽の光を一身に受ける花。 その姿が、ルーンを想起させて、少女はあかいはなを抱きしめた。離したくないといいたげに。再び溢れる涙を拭おうともせず。 甘くて酸っぱい春の香りが、部屋いっぱいに広がった。 少女は、朝早く学校へ出かけた。胸の内ポケットに、赤い花を傷つけないようにしまって出かけた。 教室に着くと、同級生が数人で遊んでいた。少女が椅子に座る。 それを見て、数人の輪の中から、一人の少年が出てきた。 短パンにランニングシャツといった出で立ちの、活発そうな少年。 彼は余所を向き、ばつが悪そうに言った。 「悪かったな、ゲーム機、落としちまって」 少女は、小さく首を横に振った。 「な、待ってるから、一緒に遊ぼうぜ」 少年は少女の答えも聞かずに人の輪の中に戻っていった。 少女には花があった。ルーンから贈られたあかいはな。彼がくれた勇気。 だから、彼女はもう、怖くなかった。席を立ち、歓談している同級生の輪に近づいて、言った。 「みんな、何してるの? 私も混ぜてよ!」 薄暗い公園、木漏れ日が申し訳程度に地面を淡く照らす。少女は過去を思い出すように目を閉じながら、ベンチに一人で座っていた。 あれから数年が経っていた。彼女は高校生になっていた。 少女はルーンが言った通り、たくさんの友達をつくった。いつでも人の輪にまざって笑っていた。凍える様な寒さも、姿を消していた。 それでも、少女がルーンのことを忘れる事はなかった。彼はいつまでも心の中に残っていた。 彼女がルーンを思い出したくなったときは、かつて、ゲームをしていた公園を訪れる。 少女は、目を瞑って思い出を反芻していた。 「大好きだよ、ルーン。ずっと、ずっと」 幼き日の少女は笑顔で言った。ルーンも、爛漫と咲く花のような笑顔で、頷いた。 「僕も、君のことが大好きさ」 言い、彼は少女に飛びついた。暖かい毛皮が、少女をとても幸せな気持ちにさせた。 少女は永遠を信じていた。この宝石のような一瞬が、永遠に輝くことを、ただ純粋に信じていた。 「ルーン、私は今、笑っているよ。友達も、沢山、いるんだよ」 高校生となった少女は、口角をあげた。閉じた瞼の端から、涙が流れ落ちた。 「だから、だから、ルーン……」 震えた声は涙で続かない。彼女は、無理矢理に笑顔をつくりながら、過去に思いを馳せた。 その時、嗅いだことのある香りが、微かに漂った。 『大丈夫だよ。僕は、ずっと……ずっと、君の傍にいる』 少女は驚き、涙を拭いながら目を見開いた。そこには誰もいなかった。だが、残されたものがあった。 残香。少女が大好きなあの香り。 甘くて酸っぱい春の香り。 あかいはな。 (9997文字) 〔作品一覧もどる〕
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