ベトミちゃん




 青い静かな空に、泣きたくなるほど澄んだ月が浮かんでいた。


 霧のように降る防犯灯の光の中で“それ”は呻いていた。
 噛みつくような二月の寒さが体から柔軟さを奪っていく。このまま全身の水分が凍り付けばいずれ体が岩石のように固まってしまうだろう。
 そうなればお終いだ。なんとしても辿り着かなければいけない場所があるのに。
 ああ、徐々に視野が狭まっていく。こんなところで身動きが取れなくなるわけにいかないと“それ”は強く自分に言い聞かせる。気をしっかり持てと。
 ――でも駄目だ。どんなに鼓舞したところで自然の力には敵わない。
 力なく被さった瞼の裏にまだ見ぬタマムシジムが浮かんで、消えた。
 意識は不意に閉ざされた。まるで舌の上でほろりと溶けた砂糖菓子のように。


 *


 最初に感じたのは温もりだった。
「あっ! 起きた」
「気分はどうだ?」
「ぐっすり眠れたかいマドモアゼル」

 マドモアゼル?

 目を開けた“彼女”はぎょっとして縮こまる。
 見たこともないねっとりした顔が一、二、三。
 見知らぬ誰かが額をぎっちり突き合わせてこちらを監視しているではないか。まるで彼らは目のついた毒々しい花片で自分はその蕾の中にいるようだ。
 取り囲まれている彼女は恐くて声もあげられずにいた。ところが相手は危害を加えるつもりなどこれっぽちもないらしい。それどころか「いやー良かった良かった」と彼女の意識が戻ったのを喜んでいる。花が開いて散るように円陣が崩れて彼女は過密な状態から解放された。
 しかし胸をなで下ろすにはまだ早い。一体彼らは何者でここは何処なのか。詳しいことが分かるまで落ち着いてなどいられるわけがない。

 彼女はまず辺りを見渡した。屋内らしい。もっと言えば地下のように見える。青い火の玉が上に下にいくつも漂っているため見晴らしが利く。あちこちに家具や電化製品その他諸々の廃品がうずたかく積もれていた。元々置いてあったのか誰かが寄せ集めてきたのか。それともその両方か。
 トリオの後方にあるゴミ山の下から紫色のどろどろが絨毯のようにはみ出していた。
 ずー……ぐるるる……ずー……
 大きないびきが聞こえてくるのだがひょっとしてあの向こうにいるのも仲間だろうか。
「おいらベトジ、よろしく」
「おれはベトイチ。ベトジの兄貴だ」
「ふ……僕はヘドラス。君と出会えた幸運に乾杯しよう」
「ここはおれ達の縄張りだ。いい下水道だろ。人間はもう使ってないけど」
 紫一同はにこやかな笑みを絶やさない。
 ベトジ、ベトイチ、ヘドラス。心の中で名前を繰り返す。陽気なトリオを前にしていると彼女はぴりぴりしている自分がだんだん寂しく思えてくる。
「あの、私はどうしてここにいるのですか? どなたか助けてくださったので――」
 
「おい、ウンコ!」

 酷い。唐突な暴言で話を遮ったのは、おんぼろソファに乗っていた不気味な黒いぬいぐるみだった。


「私はチョコレートです!」
 
 彼女は夢中で叫んだ。
 はっと我に返る。思わず刃向かってしまった。あのぬいぐるみはきっとトリオの仲間だ。
 どうしよう。 気さくな彼らと打ち解けられそうだと思ったのに。嫌われたかもしれない。
「お前なー、ただの汚物扱いはないだろ」
 ベトイチがぬいぐるみに向かって呆れたように言い返した。
「チョコレートってなんだぁ? おめえみてえな茶色いベトベターのこと?」
 彼女の心配を他所に好奇心で目を輝かせたベトジが尋ねた。

「べ、べとべたー? なんですか、それは……?」
 彼女がおずおずと聞き返すとヘドラスは不思議そうに瞬きした。
「もしかして君、自分の顔見たことないのかい? ならばこれをどうぞ」
 ヘドラスから彼女に手渡されたもの。それは四分の一ほどが欠けている手鏡。
 そうっと覗き込むと。

「……これが、私……?」
 瞬きをすると鏡の中の大きな三白眼も瞬きをした。
 唖然と見つめ返すのはベトベターと名乗る彼らに瓜二つのぬかるみのような顔。
 違うのは紫色ではなく茶色で小柄ということくらいだ。
 お世辞にも美しいとはいえないこの容姿に人間が好む菓子の面影は残っていない。
「そんな……でも私……ユキコちゃんのチョコレートです。どうか……信じてください……!」

 悲痛な声。困ったように顔を見合わせるトリオ。必死さは伝わってくるのだが肝心の意味を理解できないのだ。彼らの間に上辺だけ鵜呑みしたように見せかけるのは不誠実だという空気が流れていた。
 その様子を見た彼女は自分の訴えの無力さを痛感した。そして自覚する。
 彼らの反応は何もおかしくない。本当に変なのは自分の方だ。
 なぜなら菓子が動いて喋るはずがない。それが真理だから。なぜ今の今まで異常に気づかなかったのだろう。

 自分は一体何者なのだろう。

 心につんと空いた小さな孔から当然のようにそこにあったものが急激に吸い出されていくような気がした。作り手のユキコに託されたあの大切な仕事さえ夢の記憶のように思われた。

 BGMのようだったいびきが突然大きくなり、ぴたりと止まった。
 トリオと黒いぬいぐるみがはっとゴミ山へ顔を向けた。彼女も恐る恐るそちらを見た。
 どろりどろりと這い出してきたのはやはりベトイチ達によく似た容姿。ただしその全貌はトリオの三倍もある特大ベトベター――ベトベトン。
 ただでさえ混乱していた彼女は見上げるような巨体の出現で完全に打ちのめされた。

「ファーザー! ちょうど良かった!」
 ベトイチがほっと笑みを浮かべて言う。ベトジ、ヘドラスと一緒に端へ寄って場所を空けた。
「んおお……よぉく寝た……」
 ファーザーと呼ばれたベトベトンが遅い動作で目を擦る。欠伸混じりのとぼけた声が大柄に似合わない。
「この茶色い子、変な事言うんだぜ」
 ベトジの言葉に、どれどれ、とファーザーが空けられた場所まで進み出る。そしてやや前屈みとなって彼女を見下ろした。向かい合う両者の体格差は圧倒的だった。
「そう堅くならんでええぞ」
 怯える彼女を眠気の覚めた深みのある声が包み込む。
 途端に不思議なことが起きた。あれほど渦巻いていたファーザーへの恐怖感が瞬く間に消えてしまったのだ。まるでそのゆったりとした笑みに吸い取られでもしたかのように。気がつくと全身の強ばりもおさまっている。なんという包容力だろう。
 巨体という理由だけで恐がったことを恥じて彼女は俯いた。まだ未解決の問題が胸にのしかかっているせいも少しあったが。

「おれはファーザーと呼ばれてる。おちびちゃんの名前は?」
「名前は……ないんです」

 今、物凄く変なことを言ったに違いない。彼女はそう思った。
 しかしファーザーは動じない声で言った。

「そんなこともある。ではこんな寒い夜になぜ出歩いていた?」
「それは……どうしても会わなければいけない人がいて……」

 どこからどう話せばよいのか。考えがまとまらず尻すぼみになっていく彼女の声。ファーザーはゆっくり頷いてから不意に話題を変えた。
「ベトジ、この子が何を言った」
「あんね、自分はチョコレートだって言ったんだ」
「ははーん。それは人間共の食べ物の名だ。この時期は特に出回ると聞いてるぞ」
 トリオは物知りなファーザーを賞賛するのに忙しく、彼女の顔が明るくなるどころか一段と曇ったのも、黒いぬいぐるみの赤い目が彼女を盗み見たのにも気がつかなかった。
 ファーザーは顎を撫でながら言う。

「きっとおちびちゃんの生みの親は今夜の綺麗なお月さんだろう」

 食べ物に行き着いた瞬間からてっきりファーザーにもまた否定されるのだと信じていた。それが思いも寄らない言葉によって覆されたため彼女は興奮気味でファーザーの顔を仰いだ。
 彼女の目は何もかも見透かしたような優しげな瞳に見つめ返された。

「ベトベターがタマゴ以外でこの世に生まれる方法がもう一つある。人間共の研究によると月のエックス線とやらを浴びたヘドロがベトベターになるそうだ。おちびちゃんの場合はヘドロではなくチョコレートだったというだけの話だ」

 何をどう表現すればいいのだろう。嬉しさばかりが予測不可能な走り方をして追いつこうとする言葉を引き離してしまう。言うなれば原因不明の症状に悩まされていた者が医師によってようやく病名が判明した時の懸念の払拭感に近かった。もう何も後ろめたさはない。これで元は平凡なチョコレート“だった”自分に胸を張れる。今やとびっきりの笑顔を浮かべた彼女は関節のある足もないのに地面から跳び上がろうとしていた。
 トリオも嬉しそうにやっぱりファーザーは凄い、時々話の流れについて行けないけどという意見で一致した。

「ふっふ、では友好の印として名前を贈ろうか。これからしっかり生きていくのに欠かせんぞ」
 彼女は一瞬きょとんとして、すぐにファーザーの提案に乗り気になった。チョコレートの自覚を完全に捨て去る気はなかったが、一度はショックを受けたこの姿も理由がわかれば素直に受け入れることができ、よく似ている彼らへの親近感が高まって仲間として認めて貰いたい気持ちが無意識に強くなっていたのだ。名前を貰えるのは大きな前進だった。
 トリオは身に覚えのある名付け親(ファーザー)のそんな台詞ににやついた。
「チョコは安直すぎるな。ベトミでどうだ」

 ベトミ。

 ベトミはにっこりして頷いた。おめでとう、よろしくねと次々にトリオの歓声があがる。
「チャック、お前もこっち来い。ついでに頼みがある」
 ぷっくら二頭身で、帽子を被ったような長い後頭部の終わりがじぐざぐに折れ曲がった黒いぬいぐるみがぴくりと反応した。チャックと呼ばれた彼は何か厄介事を押しつけられそうな空気を察し露骨に嫌がる表情をしてみせる。ファーザーは知らん顔で続けた。
「ベトミは会いたい人がいるそうだ。お前護衛としてついて行け」

 ベトミとチャック、トリオが一斉にファーザーのコレクションであるゴミ山を崩しかねない勢いで「えー!」と叫んだ。

「あいつはジュペッタだ。どこか遠くから流れて来たらしいが最近はこの下水に居着いちまった。何度聞いても名前を教えてくれないから勝手に“チャック”と呼んでいる」
 すらすらとファーザーが紹介してくれるのはいいがベトミにとって重要な問題はそこではない。いきなり罵るような相手と一緒に行くくらいならひとりの方がずっと気楽だ。不安がるベトミの視線に気づいたチャックが自棄になって顔を背けたので、それを見たベトミは自分の態度が彼を煽ったとも知らずますます不信感を募らせた。トリオも心配そうだった。

「ファーザー、チャックに付き添いやらせて大丈夫なの?」
 ベトイチの疑問にファーザーは笑い返す。
「こいつは鬼火で暖を取れる。それに“捜しもの”で身につけた土地鑑もある」
 なるほど。水先案内役には打って付けというわけだ。
「冗談じゃない!」
 くぐもった声で猛抗議するチャック。金色の口はたぶん呼び名の通りチャックなのだろう。締まりっぱなしなのでモゴモゴと喋りにくそうだった。
 あれあれー? と、ベトジがチャックに向かって茶目っ気たっぷりの悪意ある笑みを浮かべながら言った。

「気絶してたベトミを見つけてここへ運んできたジュペッタは誰だっけ?」

 まさかの真実。
 チャックが「きょうわーっ!」と奇声を上げて掻き消そうとしたのも虚しくベトジの告発は一言一句漏らさずしっかりベトミの耳に届いてしまった。
 まさかあの嫌みったらしくて感じの悪い彼が恩人だったとは。度肝を抜かれてチャックを凝視するベトミ。たとえ天井が崩落してもここまで驚きはしなかっただろう。
「男なら中途半端な情けをかけてはいけない。最後まで責任を取りたまえ」
 ぐうの音も出ない。ヘドラスにとどめを刺されたチャックはおんぼろソファのクッションを踏みにじり、勢い余って飛び出したバネの先端に足の裏を刺されるという有様だった。
「話はまとまったか。じゃあ行ってこーい!」
 ファーザーは声高らかに後押しした。


「……でもやっぱり心配だ。あいつら仲良くできるのかな。喧嘩しそうだ」
 ふたりが下水道を出て行った後、ベトイチがぽつりと呟いた。
 ファーザーはベトイチの頭をゆっくり撫でながら静かに諭した。
「チャックは元はぬいぐるみだった。その点ではベトミに似ている。だからきっと、深いところまで寄り添ってやれるだろう」


 *


 鬼火が明るく足下を照らす。寂しい道路で信号機が黄色く点滅していた。ベトミはチャックから微妙な距離を保って横を歩く。鬼火を操る彼から離れすぎるとたちまち寒気が押し寄せてくるからだ。それにしても、もう随分時間が経ったというのに下水道を出てからまだ一度も口を利いていない。黙っているのもそれはそれで気まずいのでベトミは何度か話かけてみようとしたが、相手の機嫌が悪そうなので上手く切っ掛けを掴めずにいた。
 広い交差点に差し掛かった時だった。
「……お前の言ってた会いたい人ってどんな奴だ?」
 ようやくチャックのほうからモゴモゴと口を利いてきた。待った甲斐があるというものだ。ベトミはほっと胸をなで下ろした。
「タマムシジムのエリカさんをご存じですか?」
「敬語やめろ。いらいらする」
 ベトミは少しの間黙り込み、気を取り直してもう一度聞いた。
「タマムシジムのエリカさん……知ってる?」
「この辺じゃ有名人だ。そいつがどうした」
 ぶっきらぼうな言い方に少し肩をすくめてから、ベトミは答えた。
「ユキコちゃんが私を手作りしたの。エリカさんに贈るために。だから私、エリカさんのところへ行かなくちゃ」

「おまえ贈り物だったのか? 何のための?」
 自身の境遇と少しばかり被っていることに内心どぎまぎしながらチャックは気怠そうな雰囲気を装って聞いた。贈り物という言葉に完全に気を取られていたせいでベトミの言葉が孕んだ違和感に気づかないままだった。
 照れた彼女は口を押さえてフフッと微笑んだ。

「バレンタインデーだから」

 チャックの返事はすぐには返ってこなかった。
 
 それがどういう日なのか。ベトミがここにいるのは何を意味するのか。ずっと捜し続けている持ち主の人間とまだ一緒にいた時分の記憶からチャックは苦もなく割り出せた。同時に見過ごしてしまった違和感を突き止めた。
 それがかえって彼を慎重にさせたのだった。むっつり押し黙ることで彼は気持ちを整理し考えをまとめる時間を少しでも置きたかったのだ。
 
「……お前さ」
「はい?」
「そのユキコってのは、せっかく作ったお前を贈らなかったのか?」
「実は……よくわからないの。でも、たぶんそうね」

 ベトミは一度遠くを見るような目をしてから、熱っぽく語り出した。
「でも、ユキコちゃんがとても幸せな気持ちで私を作ってくれたのは覚えてる。エリカさんへの想いが私の中にいっぱい詰まってるのは本当よ。どんな手違いで贈られなかったのは分からないけれど、それなら私は自分の力でエリカさんの所へ行かなくちゃ。ユキコちゃんの気持ちを伝えるのが私の大事な役目だから」

「違うだろ」チャックは青ざめていた。赤い目ばかりが執拗に輝いていた。
「本物だったから。お前に込められたのは本気の気持ちだったから。だから捨てたんだ」
 なんだか妙な雰囲気だ。
 地の底から響いてくるようなチャックの声にベトミはぞくりとした。
「どういう……意味?」
「お前のやろうとしてること、絶対的に意味がねえんだよ!」
 あまりの剣幕にたじろいだベトミは反射的に頭を守った。腕の下から恐々と覗かせた眼に、まるで何かと闘っているかのように必死なチャックの表情が突き刺さる。

「ユキコとかいう奴は臆病だったんだよ! なんせ相手は……」
 ぐっと言葉の続きを押し殺し、チャックは燃える目でベトミを見た。
「とにかく気持ちを届けるなんて無理だ。お前はもうチョコレートじゃない。少なくとも見た目はベトベターなんだぞ!」
 一体何が彼を動揺させたのかは分からない。なんとか想像しようにも情報が少なすぎた。ベトミに出来ることはただ一つ。チャックの気が静まるまでじっと耐え抜くしかない。

「だからお前がこれ以上頑張ったって仕方ないんだよ……!」
 あんなに幸せな気持ちで作っていたのに。完成品を見て満足そうに笑ってたくせに。だんだん気分が落ち着いてくると今度は哀しくなってきて……挙げ句の果てに全部なかったことにしてしまう。
 どうせ届かないからと人間はそこで諦めるだけでいい。だけど愛情を受け継いだまま棄てられる自分達は? 
 顧みることもない人間のために翻弄される自分達はなんと滑稽で自由がないのだろう。
「……悪いことは言わねえ。そんな中途半端な自分は全部忘れちまえ」

「……できない」
 声は震えているが、ベトミははっきりとそう口にした。チャックが何か思うところがあって、本気で止めようとしているのは痛い程伝わってきた。しかしこればかりはそんな端的な言い方をされたところであっさり引き下がれるものではない。むしろチャックが迫れば迫るほどにこれは自分の問題だという意識が明確になるようだった。
 自身に関する記憶がほとんどないからこそ、その一つ一つを否定されるのも辛かった。

「……そうか」
 チャックは立ち上がって背を向けた。表情は見えない。
「忠告はしたからな。鬼火は置いてってやる。好きにしやがれ」
 手近な街路樹に登ったチャックが手頃な小枝を折って投げ寄こした。ベトミがそれを拾ったのを見届けると、彼は木の幹を滑り落りてからは一度も振り返らずに暗がりへと消えていった。


 *

 
 小枝の先に灯した鬼火を頼りにひとりぼっちのベトミが暗い街を行く。
 チャックの言動は少なからず彼女に影響を与えていた。ベトミは目的地をタマムシジムからユキコの家へと変更したのだ。
 自分が今ここで、こうしている理由。
 それが大切な仕事を後回しにしてでも確かめたいことだった。
 生まれについて何か知ればチャックがなぜあんなに否定したのか分かるかもしれない。何も分からないまま前進するのは嫌だった。

 自身に関する記憶はほとんどないが、ユキコの家の位置を漠然と知っていた。タマムシジムもそうだった。この出発点と到着点の道筋の記憶はユキコから継承されたものに思えた。それはベトミがユキコの想いを一心に引き受けたことが原因だったのかもしれない。
 ベトミが思うに自分を形成する根幹にユキコという存在が関わっていて、ユキコのことを考えているときの自分は極端に言うとユキコの一部のように感じられた。
 ブロック塀に囲われた二階建ての家がそうだった。門は堅く閉められているがベトミの大きさと柔らかさには関係ない。下の隙間からくぐり抜けてしまおうと考えたその時、塀の向こうに植わっていた大きな木が口を開いた。

「誰だ」

 ベトミは鬼火の枝を取り落としそうになった。
「ごめんなさいっ、ベト……私はユキコちゃんが手作りした元チョコレートです」
 こう説明するのが一番手っ取り早いと思ったのだが、せっかくファーザーが贈ってくれた名前をないがしろにしたようで胸がざわざわする。
「元チョコレート? 訳がわからない」
 門番のように構えたその木は太い幹と大きな尖った葉っぱ、三つの木の実形の顔を持っていた。おそらくユキコの知り合いなのだろうがそれに関する記憶はない。ベトミはファーザーの時の失敗を繰り返すまいと、自分の何倍も大きなその木――ナッシーを無闇に恐がらないように努め、辛抱強く繰り返した。
「ユキコちゃんがエリカさんのために作った元バレンタインチョコです。どういう訳かベトベターになってしまいました。どうかユキコちゃんに会わせて下さい」

「ユキコはエリカにチョコを贈らない」
 そういえばチャックも似たような事を言っていた。
「それはどういう意味なんですか?」
 三つの顔が代わる代わる喋った。
「ユキコはエリカにチョコ贈って今の関係崩れるのが恐い」
「だがユキコはエリカにチョコ渡した。ただの友人の顔をして」
「本命チョコ、用無し。我々、眠い」
「汚いベトベターは帰れ。醜いドロドロは帰れ」

 手が震えていた。鬼火が揺れていた。

「私は……一体ユキコちゃんの何なのですか?」

「知らん」
「お願いします! 確かめさせてください! ユキコちゃんと話をさせて下さい……!」
「無駄だ。我々もお前もユキコに言葉通じない」
「しつこい。我々、眠い。五月蠅くするならお前やっつける。覚悟しろ」

 ぬうと塀から上半身を乗り出すナッシーの顔が険しくなった。
 ベトミはそこから動けなかった。

 その時だ。枝の先の鬼火がごうと勢いを増したかと思うと何本もの筋に分かれてナッシーの葉っぱを襲った。ぎゃああと熱さに悲鳴をあげてナッシーがブロック塀に葉っぱをこすりつけて火を消している隙に、困惑するベトミをさっと持ち上げてかっさらったのは。

「チャックさん!?」


 
 中央分離帯に敷かれている刈り込まれた芝生の上で、ずっと走り続けていたチャックがようやく足を止めた。ごろんと芝生に投げ出されたベトミはぼうっと夜空を見上げながら、隣でぽってりした腹を上向きにしているチャックのひいひいという呼吸を聞いていた。彼のあがった息がだんだんと落ち着いてくるにつれ何か伝えなければというベトミの思いが強くなる。しかし浮かんでくる言葉はどれも支離滅裂で上手く綺麗にまとまってくれない。

 一方チャックも悩んでいた。ベトミと違って言うべき言葉は決まっていたのだが、それを素直に口にする踏ん切りが付かなかったのだ。
「……オレは! 別にお前をつけてたわけじゃねえっ」
 やっとの思いで出てきたのはまるで空に向かってモゴモゴと叱責するかのような口調だった。
「それにお前に謝りに来たわけじゃねえ! さっきは急にカッとなって悪かったなんて思ってねえ! ひとりぼっちにして後悔なんかしてねえ! だから絶対勘違いすんなよ!」
「うん」
 短い返事に一抹の寂しさを覚える。チャックは沈黙した。
 ベトミは小さな息を漏らした。そして目を合わせないようにしながらゆっくりと言葉を紡いでいく。
「私……手作りしてもらった家にも入れないのね」
 震えた、涙声。チャックが引き止めようとした理由が今ならなんとなく分かるから。
「ごめんね。私みたいなどろどろの役立たずのせいで……手も汚れちゃったし……」
 ウィッと奇妙な音がした。不審に思ったベトミがチャックを見やる。
 金色のチャックが開いていた。
 ぱっくり割れた大きな口いっぱいに、すきっと鮮明な声がはち切れた。

「ばっかやろぉーっ!」

 ベトミは身じろぎもせず、かっと目を見開いた。
 持ち上げた際にベトミの一部が付着した両手をばくっと口に差し入れ、汚れを舐め取った後、チャックは掌を突き出して見せつけながら毅然とした声で言う。

「甘いじゃねーか! オレの持ち主が言ってた通りだ。オレ、一瞬すっごく幸せな気分になったぞ。見ろ、ベトミにもいいとこがあったんだ。だから自分で自分を役立たずとかゆーな!」
 ベトミの目元がみるみる萎んでいく。くっ、と言葉にならない小さな声が漏れる。
 そして。

「……ありがとう、チャックさん」

 最初は道端で。今度もやっぱり道端で。
 
「なっ、ばかっ、礼なん……あー!」
 チャックは追い立てられるように次々言葉を並べようとしたが、突然血相を変えると口のチャックを乱暴に閉めた。そのために元の聞き取りにくい籠もった声に戻ってしまう。
「この策士、よくもチャックをこのオレに開けさせたな! 呪いのエネルギーが少し逃げちまっただろうが!」
 瞳を潤わせて余韻に浸っていたベトミは大慌てで謝った。
「え、あ、ごめんなさい! 逃げるとどうなるの?」
「秘密だ。ウンコにはぜってー教えない」
「ひどい! 私のこと、二度とそう呼ばないでよ!」

 神妙な空気が尻尾を巻いて逃げ出すような明るい喧噪だった。
 そこだけ昼間のようなふたりが、心配して探しに来たベトベターのトリオと出会すのは、もう少し先のこと。




(9670文字)