境界線の溝 何も信じるな、何も疑うな、ただ生きていれ! もうこの人間の傍では生きていけない。以前からそう感じていた。このトレーナーと出会ってたくさんの事を学んだ。そしてたくさん傷ついた。経験した。もう十分経験した。彼との思い出は胸の中でいっぱい。だから、もういい。 でも、これは嘘。まだまだやり残した事はたくさんある。あと一つ階段を上れば、塗り潰されていない景色がきっと見えるのだろう。私がもし進化でもしたら、違う経験が楽しめるのだろう。 私は自由になりたい。人間から離れて自由になりたい。空はこんなに広いのに、私の居場所は狭すぎる。もっといろんな場所に行きたい。自分の頭で考えた方角へ進みたい。どうも私は不自由である事に慣れすぎて、今まで重たい鎧もかぶっていた事に気づかなかった。確信した。私は束縛されている。その状態はとても苦しい。だから私は眼の前の大きな窓を割って、マスターの傍から離れて、自由に生きるんだ。 でも、これは嘘。どうせ私のことだから、一匹では生きていけなくて、群れの中に潜り込むのだろう。群れには必ず掟というものがある。それによって、私は束縛される。自由になる事はできない。群れの掟はとても厳しい。過去にそれを身を持って体験した。 いや、これも嘘だ。私は別に自由になりたいなんて、これっぽっちも思っていない。それに群れの掟がそこまで厳しいとも思わない。分かる人には分かる。仲間との関係を円滑に保つためには、定められた掟を適度に破らなくてはいけない。そうしないと嫌われる。 本当の事を言おうかな。ある事件があった。マスターの事が大嫌いになるある事件があった。 この日マスターはポケモンバトルの実力を試すために、ジムリーダーに挑戦する事を決めた。私と、その他のポケモンを連れてジムまで行った。そして戦った。私も気持ちに応えられるよう精一杯力を出した。しかし、いとも簡単に負けてしまった。相手の実力が高すぎた。審判が旗を上げこっちの敗北が確定した後、マスターはジムリーダーに、ポケモンの育てが甘いとか、技の選択がおかしいとか散々に罵倒されていた。 建物から出たマスターは、いらついているのが明らかだった。すぐに町から出た。草むらの中を歩く。当たり前のように野生のポケモンが飛び出してくる。マスターはそのポケモンを鋭い目で睨みつけた。ボールからハーデリアを出して戦った。野生のポケモンはレベルが低いので、すぐに倒す事ができた。しかし、マスターはその後もまだ何か言っていた。 それは一生忘れることのできない、負の思い出だ。まだじめじめとした暑さが残っている季節、彼は瀕死のポケモンに止めを刺した。衝撃的だった。しかもその動機は、幼稚でくだらないものだった。ジムリーダーにぼろぼろに負けて、説教されてむかついたというだけ。それだけの理由で罪の無い命を握りつぶせるなんて、トレーナー失格というより、もはや人間失格だろう。 ポケモンを殺す瞬間をこの眼で見た私には、トレーナーを見捨てて勝手に出ていく権利がある。これは真理だと思う。絶対にそう思う。けれど私はまだここにいる。まだ悩んでいる。なんだ、私は。ひどいなあ。御主人様に優しくされると、ここから離れたくなくなっちゃうんだ。マスターは私にだけは鬼にならない。私の事を大切に思ってくれる神様。不覚にも私のなつき具合は上がっていった。そして、あの悪夢はしだいに薄められていった。マスターは本当は良い人だという変な考えが、ここから逃げ出そうとする正しい心をむりやりにでも引き戻そうとする。一度信じたものを裏切るのは難しい。だから私は今日までずっとこのありさま。ずっとこの調子。あの人から逃げ出す踏ん切りがつかない。もちろんマスターが良い人であるはずがない。あの人は最底辺の人間。それは認める。間違いない。でも……。 もしこれが「罪の無いポケモンを殺した」みたいな、いかにも綺麗な人から嫌われるような事では無く、たとえば「貧しさのためにお金を盗んだ」とか「襲ってきた相手を殺した」とかだっだら。それなら、仕方ないなと許したかもしれない。生き抜くためだから。でもこれは別。マスターが犯した事はどこか吹っ飛んでいる。人間の道徳なんて知らないけど、ポケモンの私から見てもそれは人徳から極端に外れているように思う。自分の身の安全に無関係な罪。自分より弱い立場をいじめる行為。誰も許しはしないだろう。私だって許さない。許すもんか。 けれど私には、どうやらそれだけじゃ足りないらしい。何かもっと。もっとマスターの悪い所がないと、私は出て行く気にならないらしい。甘いんだろうな、私は。マスターに対してでは無く、自分に対して。最近はなんだか変な妄想に取り憑かれてきた。あの時ポケモンを殺したマスターは、体が入れ替わった別の人物だったんじゃないかって。そんな筈ないのに。 とにかく、マスターにお願いしたい。彼の嫌な部分を私に見せてほしい。ポケモンを殺すような重罪でなくてもいい。私がバトルで負けた時、一瞬睨んでくれればいい。私が支持通りに動かなかった時、あえて聞こえるように舌打ちしてくれればいい。そしたら決心がつく。決断ができる。 それなのにマスターはいつも優しくて、全くスキを見せる事がない。だから私は粗探しをした。なんとしてでも、マスターの「生き物としておかしい所」を見つけなければならない。なんとか粗を一つだけ見つけた。私には名前というものが存在しなかった。それは私にとって、とても重要な事だと強引に考えた。私にあるのは、ツタージャという無個性な種族名だけだ。大事なポケモンに名前を付けないのはおかしい。間違っている。そうだそうだ。そうに決まっている。うん、おかしいよ絶対。こじつけでも何でもいい。ポケモンを殺す事に比べたら全くたいした事ないけどこれでいい。これでマスターから離れる理由ができた。良かった。 ただ、最後のお別れの挨拶だけはしておこうと思った。何も言わないで出て行ったら、きっとびっくりするだろうから。 私はこれから送別されるのだ。トレーナーに別れを告げる。そして、その後は分からない。野生に帰るか。他のトレーナーに捕まるか。 マスターの目の届く所へと歩く。マスターは部屋でテレビを見ていた。 「どうしたんだ。ツタージャ」 短い手を上げて、左右に振った。それは、人間の言葉を話せない私なりの、さよならの合図だった。私は半開きになった窓を抜け道と定め、そこから逃げ出そうとした。 「おい、どこに行くんだよ」 マスターは当然のように私を引き止めた。真面目な顔をしていた。そうくると思っていた私は構わず無視した。無視しても許されるから。しかしその瞬間、彼との思い出が頭の中を駆けめぐり、足が凍り付いてしまった。 マスターは現在トレーナーを引退に近い状態となっているけど、少し前はポケモンバトルを盛んに行っていた。もちろん私もマスターのポケモンの一員として活躍した。しかし私のバトルの成績は良くなかった。決してレベルが低いというわけでは無い。数値的な問題じゃなかった。私には所謂、勝負強さというものが無かった。いつも肝心なところでミスをするのだ。例えば相手が弱っていてこれが最後だという時に、攻撃を変な方向に飛ばすとか。そんなミスを犯すと、身体から冷たい汗が出てきて、ああ失敗したという気持ちで胸を締めつけられて、気絶させられて、目を覚まして、後悔の渦が大きくなっていき、おもわず溜息が出る。私はこれを何回も何回も繰り返した。錆び付いた歯車を狂わす事ができなかった。ループから永遠に抜け出せないのかと、恐怖を感じた。 なんとか自分の欠点を直す事はできないものか。そう思い、私は夜中にこっそりモンスターボールの中から抜け出した。マスターに内緒で技の修行をするといった、健気めいた事を試みた。しかしあまり効果は無かった。身体に傷が無駄に増えていくだけだった。結局すぐにばれた。私は申し訳なく思った。すぐにでも消えたかった。実際消えた。けれどもすぐに戻ってきた。その時にマスターが言ってくれた事、それがずっと心に残っている。 「お前は良く頑張ったな」 嬉しかった。涙が出た。体内から余計な血が抜けていくような気がした。建て前を失くしてから言うと、私はマスターを喜ばせたいだとか、そういう事は一切考えていなかった。そうじゃない。傷だらけになった身体を見せびらかして、こんなに頑張っているんだから見捨てないでと伝えたかったのだ。認めて欲しかった、私の努力を。 そんな事があったから、あの事件は私にとって永遠に忘れる事のできないものとなった。人ってこんなにも変わるものだろうか。同じ人間。けれども違う。マスターだけじゃない。きっと全ての人間には表と裏があって、いつもは本性を隠しているけれど、突如誰かにスイッチを押されると、途端に猛獣のようになり周りに危害を加えるようになる。そう思う。そう思いたい。 いったいどっちなの。マスターを信じる事がいいの。裏切るダメ? 裏切らないダメ? マスターの事が好きになったり嫌いになったり、これまでずっと極端だった。今初めて私は境界線上に立っている。分からないよ、私には。一度信じたものを裏切るのは難しい。どうやらせっかくの粗探しも無駄に終わったようだ。当たり前だ。名前があるとかないとか、そんなのは全く関係無い。特別な意味を持たない。やっぱり本質の問題から目を逸らしてはいけない。ポケモンを殺した。それを許すか許さないか。 ポケモンを殺すなんて最悪の人間だよ。ポケモンから見てそれは、一番罪な事だろう。あんたは分かっている筈だ。それなのに一度信じた神様を見捨てるために、いったいどれ程の時間を費やすつもりだい。まったく、つくづく愚か者だ。結局さ、あんたはトレーナーに優しくしてもらいたいだけだろ。エゴだ、それは。自分の幸せを守りたいだけのエゴだ。黙れ。そこのイスに座るな。近づくな。離れろ。さっさと出ていけ。 それは、私の良心の声。あるいはその逆。どちらにしたって一理ある。いや、一理どころじゃない。私はポケモンという分類の中のツタージャだ。同じ分類の仲間を殺されて黙っているのは、どう考えたっておかしい。普通なら殺した人間に復讐くらいするんじゃないかな。確かにそれが正しいと思う。だけど私の感情は、その正しさを実体化する事を許さなかった。マスターはいつだって自分を捨てて、私の事を第一に考えてくれた。私をずっと信じてくれた。バトルの時だって、もう勝てないと諦めかけている私を、精一杯応援してくれた。そんな彼に、いったいどうして復讐する事ができるのだろう。 マスターが動いた。恐らく、私が逃げようかどうか迷っている事をとっくに察している。そりゃあそうだ。ずっと窓の傍で静止しているんだから。それにさっきさよならの合図もした。 マスターはにっこりと微笑むと、一度深く息を吐き、私を力強く抱きしめた。大変な事になった。このままだと、私の気持ちがそっちに傾いてしまう。せっかくの計画が全部台無し。 マスターの口がゆっくりと開く。 「逃げたくなったら、いつでも逃げていいんだよ」 それだけは言わないで欲しかった。それを言われたら、もう何もかもおしまいになる。良い人だと思わないといけないようになる。私は決して自由じゃない。見えない糸で引っ張られている。マスターが言った事はちょっとおかしい。快く送ってくれるような事を言っておきながら、さっきよりも私をきつく抱きしめている。これじゃあ逃げたくても逃げれない。矛盾しているよね、これ。 私の腕に冷たいしずくがこぼれた。マスターは泣いていた。思わず私も泣きそうになった。泣くな、今泣いたら本物になるぞと自分に言い聞かせた。ポケモンを殺した奴の涙なんか偽りに決まっている。騙されるな。これは演技だ。感動なんかするな。彼はポケモンから見て、最も醜い事をした。信じてはいけない。つねに疑っていろ。許してはいけない。今すぐ裏切るんだ。 もうだめだった。もがけばもがく程、溺れてゆく事に気付いた。私の中で「逃げる」というコマンドは、とっくに失われていた。もう終わりだ。目から涙がこぼれた。私はマスターの胸の中で思い切り泣いた。 だいすき。 一度信じたものを、裏切るのは難しい。私にはできない。 ポケモンを殺したとかそんな事、全部全てどうでもいい。 マスターは良い人なんだ。 私にとって神様なんだ。 もう迷わない。 私はマスターをずっと信じる。 次の日、マスターは珍しく早く起きていた。どうやらまたジムに挑戦するつもりらしい。私と、その他のポケモンを連れてジムまで行った。そして戦った。私も気持ちに応えられるよう精一杯力を出した。しかし、いとも簡単に負けてしまった。相手の実力が高すぎた。審判が旗を上げこっちの敗北が確定した後、マスターはジムリーダーに、ポケモンの育てが甘いとか、技の選択がおかしいとか散々に罵倒されていた。 建物から出たマスターは、いらついているのが明らかだった。すぐに町から出た。草むらの中を歩く。当たり前のように野生のポケモンが飛び出してくる。マスターはそのポケモンを鋭い目で睨みつけた。ボールからヨーテリーを出して戦った。野生のポケモンはレベルが低いので、すぐに倒す事ができた。しかし、マスターはその後もまだ何か言っていた。 大丈夫、私はマスターを信じているから。 (5501文字) 〔作品一覧もどる〕
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