飽食のけもの




 1

 最近、屋敷のクラウディア夫人はやたらと美しくなった。
 肌は雪のように白いし、髪の色は奇麗な黄金色。目のブルーは深い海のよう。細い体はたるみ一つなく引き締まっている。そんな若々しい身体をしていながら年頃の娘がいると聞けば、多くの人は驚くことだろう。
 その年頃の一人娘――ロコは、そんな母の様子をいぶかしく思っていた。つい数ヶ月前までは、シミも増え、背中のにきびを気にし、どうすれば若い身体を保てるのかと悪戦苦闘していたというのに。夫人は自分の見た目について口出しする者に容赦がなかった。紅を引いた口をむちゃくちゃに歪ませながら、使用人を重い扇子で十発も殴る姿を、ロコは見てしまったことがある。それ以来、ロコ自身も発言には細心の注意を払うよう心がけていた。この急激な若返りには、何かしらの裏があるに違いない。そう思いながらも、ロコは絶対に直接問うようなことはしまいと誓っていた。若さを失うにつれ、夫人は心の余裕も失っていくように見えて、ロコには辛かった。
「ねぇ、ロコ」
 ふいに呼ぶ母の声に身体をびくつかせるも、何とか平静を装って答える。
「何でしょうか、お母様」
 顔を上げると、黄色いドレスを着たクラウディア夫人が立っていた。自分より少し年上、くらいの顔にしか見えない。
「今日は物理の先生がお見えになるけど」
「順調です。予習復習も滞りなく」
「それでこそ私の娘ね」
 にやりと笑って、夫人は喜んだ。屋敷の生活に張り合いがない夫人は、ロコに立派な教育を施すことが趣味だった。様々な分野の教師を招き、ロコに教えさせた。勉強は嫌いではないのだが、一週間に十人も入れ替わり立ち替わり来たときは、目が回りそうだった。笑顔の裏に隠れた、母のエゴと呼ぶべきものが、ロコを憂鬱にさせる。
 部屋に戻り、物理の教師を待つ。外の空気は、どんよりと濁っている。気分まで沈んでいきそうで、ロコはため息をついた。
「ロコ様、先生がお見えになりました」
 下女が扉を開け、高い声でロコに知らせる。それと同時に物理教師が部屋に入ると、ロコは挨拶した。
「こんにちは、本日も宜しくお願いします」
「やぁ、ロコ君、今日もいい天気だね。ただちょっとにおうかな? ははは」
 ロコはこの男があまり好きではなかった。言葉に一切慎みがないので、品が無い。ロコは笑みを浮かべてみたが、きっと引きつったものになっていたに違いない。だがこの男はきっとそんな細かい所作など気にしないだろう。
 物理の話をしている間じゅう、ずっと彼は眉間にしわを寄せていた。それが妙に癇に障って、集中できない。もしかして、出会いがしらの「ちょっとにおう」の話だろうか。失礼な男だと思って、ロコは気分を悪くした。

 2

 それから数日後、ロコは母に一緒に出かけようと誘われる。お茶会の誘いだ。
「今日はどちらへ?」
「オコネルさんのところよ。いつも来てくれていたのだけれど、たまには来て欲しいと言われちゃってね。最近ロコも外に出てないでしょう。レベッカちゃんとお話ししたらどうかしら」
 レベッカとは、オコネル家の娘だ。ロコと同い年ということで、仲が良かった。ロコは言われて、ここ数カ月家の敷地を出ていないことを思い出した。
「それじゃあ、お邪魔しましょうかしら」
「良かったわ。じゃあ、早速準備しましょ」
 クラウディア夫人ははしゃいでいる。今の若い見た目を人前にさらすのが、きっと楽しみなのだろうと思った。自分を知るより多くに人を驚かせるために。
 馬車に揺られていく。幌の中にロコと夫人が座り、前には御者の隣に一人ボディーガードが座る。麦畑を抜け、木々の間を抜けて行くと、高い塀に囲まれた屋敷が姿を現した。
 ようこそいらっしゃいました、と初老の男が門で出迎える。言われるままに二人は庭を歩き、屋敷の裏に回る。広い芝生に、色とりどりの花が咲いた花壇。奇麗に整えられた花々は、ロコの家の庭とは随分違い、輝いて見えた。
 丸いテーブルが二つ用意されていて、それぞれのそばに立つ女性がいた。片方はオコネル夫人、もう片方には娘のレベッカ。オコネル夫人に挨拶をして、ロコとレベッカは椅子に座った。
「お久しぶりね、ロコさん」
「レベッカさんこそ、本当にお久しぶり。元気だったかしら」
「ええ、もちろん」
 ロコはレベッカと、近況を報告し合った。久しぶりに会えば、語ることも語られることも多い。一番心に残ったのは、声をひそめて顔を近づけてした話だ。
「ロコさん、そう言えばあなた、こんな噂知ってる?」
「どんな?」
「最近、この辺りに出るんですって」
「出るって、何が」
「人食い」
 そんな馬鹿な、とロコは思った。言い伝えの中ではよく語られるが、実在を信じる者はいない。
「そんなことって、あるわけないでしょう」
 ロコは苦笑した。だけれども、レベッカが神妙な表情を崩さないので、ロコは居直る。
「農夫が一人、夕暮れ時にふとした瞬間いなくなった。仕事を終えて、いざ家に帰ろうとした瞬間突風が吹いて、仲間はみんな目を瞑った。目を開いてみれば、一番後ろを歩いていた男がいなくなっていた。そして、代わりに落ちていたのは、男の右の腕……」
 背筋がぞっとした。それってまさか。
「で、でも、一体何があったのかちゃんと見た人はいないんでしょう?」
 ロコは反論を試みて、じっとレベッカの眼を見つめる。レベッカは沈黙し、紅茶を少し口にする。そして、からっと調子を変えてひそひそ話の態勢を解いた。
「そんな顔しないでくださいな、ロコさん。噂ですよ、うわさ」
「そうですよね」
 ロコは力が抜けて、弱弱しく笑った。レベッカの悪戯っぽい笑みがまぶしかった。
「そう言えば、ロコさん」
「何でしょう」
「あなたの家のある街で、異臭がするという噂があるのだけれど、それは本当なの?」
 ロコは面食らった。心当たりは無いことは無いが。
「まさか。私、普段通り暮らしているけれども全然ですわ」
「なあんだ。お母様がそんなこと言っていたから、何かあったのかと思ったけれど。お母様が少しヘンなだけなのね」
 レベッカがつまらなさそうに呟いた。昔から、彼女は噂話の類が大好きなのだ。その多くは結局噂に留まるのだが、次から次へとおもちゃ箱のように飛び出して、ロコは楽しい気分になるのだった。

 帰りの路、ロコはスカッとした気分に包まれていた。
 久しぶりに外出したおかげか、友人と話すことができたおかげか。普段感じていた閉塞感が一気に吹き飛んだ気がした。思えば、訳もなく憂鬱な日々が続いていた気がする。来て良かった、と思った。
 それはロコだけではなかったらしい。馬車に戻ると、御者が不思議な石を拾ったと言った。母に内緒でこっそり、奇麗な橙色をしたそれを見せてもらった。触ろうとすると、拾ったのは自分だと言い張って譲らなかった。
 馬車に揺られていると、風が強く吹いた。幌がバタバタと音を立てる。
「強い風ねえ」
 夫人が呟く。
「そうですね。雨かしら」
 幌を少しめくって、ロコが外を見ようとした瞬間だった。
 グオォォォ!!
 大きな獣の咆哮が聞こえた。それと同時に、馬車が何者かに押され、傾き、横倒しになっていく。夫人とロコは叫び声を上げ、地面に叩きつけられた。ロコは夫人の上に落ちてしまい、夫人は気を失った。ロコは謝ったが、返事がなかった。
 状況確認をしようとロコは何とか幌の中から抜け出した。まず目に入ったのは、二頭の馬の腹に隠れるようにして震える御者の姿。見せてもらった橙色の宝石を地面に落としているのに、拾おうともしない。
「何があったの?」
 ロコは聞いた。御者の顔はくしゃくしゃになって、もうおしまいだと口を開かずに語っていた。そして、馬の向こう側を指さした。ロコはその方向を見る。
「こ、この化物め!」
 ボディーガードが剣を抜き、叫ぶ。その先にいたのは、とてつもなく巨大な獣だった。人間の身体よりも遥かに大きい狗のような姿。御者の血の気の引いた顔の意味が、ようやく分かった。毛並みは橙色に、黒い縞模様。その歯をむき出しにしているのは、威嚇というよりむしろ笑っているように見えた。

――最近、この辺りに出るんですって……人食い。

 ボディーガードが巨躯に斬りかかる。だが化物はそれに構わず、口を最大限にまで開き、ばくん、と音を立てた。ひっ、とロコは悲鳴を上げた。腰が抜けて、崩れ落ちる。本当にいたんだ、人食いが。
 逃げようかと思ったが、こんなに大きな身体の化物から逃げられるはずがない。この化物の腹がボディーガード一人で満ち、飽いて何処かへ去って行くことを祈るしか出来ない。ロコは震える手を組み、ぎゅっと目を閉じた。
 助けて。

 どれくらい経ったのだろうか、ふいに草むらを掻き分ける音が聞こえた。
「失礼」
 若い男の声だった。ロコが目を開けると、全身真っ黒な衣装に包まれた男が立っていた。
 もう化物は去ったのかと思ったが、まだそいつは前にいた。既に、ボディーガードだったものの姿はなく、巨躯の前に靴が落ちているだけだった。
 殺される、とロコは思った。男を止めようと思ったが、声が出ない。彼は振り返って、にやりと笑う。
「安心して下さい。私たちが来たからには、もう大丈夫です」
 冷静に考えれば、私たち、という言い方に引っかかりを覚えたかもしれない。そう思うより前に、一匹の狐が現れ、黒服の男のそばに座った。それは普通の狐とは随分違っていた。毛並みは茶色と言うより明るい金色で、目は赤い。そして何より、尾の数が一本どころではなかった。
 男は巨大な人食いに対峙する。
「随分と沢山の人間を食ってきたようじゃないか、ウインディ」
 ウインディ、という言葉に応じるように、獣は全身の毛を立たせ、目を見開いた。
「何故私の名を知っている」
 低い声が響いた。これは、あのウインディという人食いが喋ったのか。
「こいつが教えてくれたのさ」
 黒服の男が金色の狐の方をちらと見る。歯を見せて、人食いは威嚇してくる。
 ウオオ! という唸り声を上げると、ウインディの口が赤く光った。そしてその瞬間、炎が口から吐き出され、真っすぐに黒服の男目がけて飛んでいく。危ないっ。ロコは身を固くした。だが、男は動じる様子がまるでない。
「キュウ」
「はいよっ」
 金色の狐が、飛んでくる炎に向かって飛び込んだ。燃えてしまうかと思ったが、狐は全く苦しむ素振りをみせず、どんどん炎を受け止める。
 長いような一瞬が過ぎた頃、ウインディの吐く炎が途切れた。心なしか、キュウと呼ばれた狐の毛並みが輝いている。
「人間の熱意も美味いけど、あんたの炎も美味いねぇ」
 また別の、細い男の声。これはあの狐が喋ったのか。
「さぁてどうする。こちらにはお前の戦法は効かない。キュウは火を食えば食うほど強くなる」
 黒服の男が言う。人食いの獣は少し後ずさりをしたかと思うと、男の方に飛びかかってきた。
「キュウ、とどめだ」
「はいよっ」
 金色の狐が、口から炎を吐き出す。その火は、先ほどウインディが放ったものよりもずっと、ずっと強い炎だった。一瞬で、ウインディは骨まで黒い炭と化した。
「……ふう」
 ため息のあと、彼はロコの方を向いた。
「大丈夫ですか」
「え、ええ」
「それは良かった。最近人食いが暴れ回っていると聞いて、張っていた甲斐がありました」
「あの、あなたは」
 さっきから、途切れ途切れにしか言葉が出てこない。今無事であるということが、夢のようだった。黒服の男は帽子を取り、お辞儀をする。
「私はドド・タルト。この周辺で、まじない屋を営んでいる者です。この狐はキュウコン。人食いですが、私のしもべですので、害はありません」
「よろしく」
 キュウは言って、笑うように目を細めた。笑っているのだろうか。はあ、とロコは気の抜けた返事をした。
「人食いというのは、妖しい術の世界に属する者です。普段は滅多に人前には姿を現しませんが、最近は妙に表立って行動するものが増えてしまってかなわない。……そうだ」
 彼は黒服の内ポケットから、一枚の紙を取りだした。
「お近づきのしるしに、便箋を差し上げましょう。この紙には特別なまじないをかけてありまして、折って投げると真っすぐ私の元へ飛んでくるようになっています。もしお嬢様の身に何かあれば、こちらに要件を書いて送ってください。すぐに駆けつけて参ります」
 ロコは、渡された便箋をまじまじと見た。正方形をしていて、便箋にしては変わっている。裏面には、投げる際の折り方が図解してあった。
 ドドは、御者と二人で馬車を起こしてくれた。御者が落した宝石をドドが拾い、御者に見せて何かを耳打ちした。それからずっと、御者はとてつもなく辛そうな表情を浮かべたままになった。
「それでは、私はここで。また会いましょう」
 ドドに見送られて、馬車は再び走りだした。御者に何を言われたのか尋ねてみたが、彼は答えなかった。クラウディア夫人は相変わらず気を失ったままで、目を覚ましたのはそれから暫く後のことだった。

 3

 そろそろ自宅の屋敷が近づいてきたという頃のことである。
「何か臭いませんか、お母様」
 いやな臭いだった。ロコは無意識のうちに、眉間にしわを寄せていた。夫人は少し大げさに嗅いでみたが、良く分からない、という顔をしていた。
 ロコは俯く。何かが胸の中でぐるぐると回っている感じがした。
「ロコ? ねえ、大丈夫?」
 暫くは気のせいだと思っていた。しかし、馬車が進むにつれ異臭はどんどんひどさを増していく。酸味、甘味、苦味、渋味、辛味、全ての味が負に転じたような。この世のあらゆる食材が腐り、ごちゃまぜにしたスープを飲まされているような。そんな臭い。吐き気を催して、必死にこらえた。
 ロコの身体が倒れそうになる。夫人はそれを支えた。その動きは平常時と変わらぬ様子だった。どうやら、母はこの臭いを感じていないらしい。
「はぁ、はぁ、げほっ」
 到着し、馬車を降りたロコは、えづき、胃の中のものをひっくり返した。水で口をゆすぐと、むせて咳が出る。涙も出た。
 下女が大丈夫かと心配する言葉をかける。この下女も異臭に気付いていない。どうして。
「部屋まで、連れていって」
 肩を借りて、何とか自分の部屋に辿り着いた。この時ほど、自室が二階にあることを憎らしく思ったことはない。
 部屋に入って、お香を焚くよう下女に頼んだ。ロコはふらふらになりながら机にしがみつき、椅子に座った。お香を焚き、白い煙を上げた後、下女が出て行く。
 胸ポケットから、一枚の便箋を取り出す。正方形の便箋。ドドと言うまじない師に贈られた不思議な紙。この尋常じゃない臭いに、頼れる人間は彼しかいない。震えた手で、紙にインクを乗せていく。要件を書き、インクを乾かし、裏に書かれている通りにロコは紙を折り始めた。そうして完成した姿は、どこか滑空する鳥の嘴に似ていた。
――助けて。
 ロコは願いを込めて、窓から便箋を飛ばした。不思議なことに、それは投げた力以上に力強く滑空し、遠くに消えた。

 その夜、明かりを全て消した頃。誰かがノックする音が聞こえた。こんな時間に誰だろうと、寝ぼけた目をこする。そうしているうちに、もう一度ノックが聞こえた。そこで、叩かれているのはドアでは無いことに気付く。
 ノックは、窓から聞こえた。ロウソクに火を灯し、ロコは異臭を覚悟で開けてみる。開いた瞬間、窓の桟に人間の手がかかった。ロコはぎょっとしたが、上がり込んできた男の黒い帽子を見て納得する。どうやら壁をよじ登ってきたらしく、指を痛めて払うポーズを取った。後に続いて尾の多い獣が、おじゃまします、と言って上がり込んでくる。
「ドドさん。来てくれたのですね」
「こんばんは、お嬢様。お休みのところ申し訳ございません。手紙が届きましたので、早速参上しました」
「こちらこそ、来てくれてありがとう」
 ロコは答えて、窓を閉める。一刻も早くこの異臭から解放されたい一心で、手紙を書いたのだ。
「しかし、手紙通りですね。ひどい臭いだ」
 ドドは肩をすくめた。そして、ロコに視線を合わせた。
「単刀直入に言いましょう。この臭いを放っているのは人食いです。しかもこの屋敷の中にいる」
「うそ」
 ロコは衝撃を受けた。ウインディの姿を思い出して、背筋が凍る。あんなおぞましい生物が、身近に潜んでいるのか。
「今からその場所を特定しに行こうと思うのですが、お嬢様にも同行をお願いしたい。いいですか?」
 ロコは頷いた。ドドは頷き返すと、一枚のハンカチを取り出してロコに渡した。これを口に当てれば、息をするのが苦しくない、と言う。ほんのりハーブの香りがして、ひどい臭いを感じずに済んだ。
「そう言えば、夕方御者に何を言ったのですか? あれからずっと、辛そうな顔を浮かべてましたが」
 ロコの質問に答えたのは、キュウだった。
「本当のことを教えてやったのさ。ウインディはあの橙色の宝石を持っている人間を狙って食うんだよ。宝石って欲の塊じゃん? そう言う人間の方が美味いんだよ」
 けたけたと、キュウは笑う。すぐに振りかえり、ドドがどんな顔をしたのかは分からなかった。

 足音を響かせないように、気をつけて歩く。キュウの吹き出す炎を灯り代わりにした。
 二人は一階の一室に入る。母が化粧をするときに使う部屋だ。ドドは壁にかけられた大きな全身鏡の前に立ち、金属で装飾された淵をじっと眺めていた。
「ここだな」
 胸ほどの高さの一部分を、ドドはぐっと指で押し込んだ。その瞬間、かちっ、という音がして鏡が淵ごと横に開く。奥は地下へと続く階段になっていた。
「なるほど、隠し扉か。おあつらえ向きだな」
 下から、ハンカチで覆っていても分かる程の強い異臭が吹きこんできた。ハンカチをさらに強く押し当てる。この下に、人食いがいる。心臓がばくばくと鳴り始めた。
 キュウが燭台に火をつけて降りる。ロウソクはまだ新しい。きっと、誰かがこの部屋に頻繁に出入りしているのだ。
 階段が終わり、開けた場所に出る。キュウが、ロウソクの全てに明かりを灯した。
「お前が人食いだな」
 ロコは顔をしかめた。その人食いの姿は、ウインディやキュウコンとは全く違っていた。
 一言で言えば、それは紫のヘドロだった。光に驚いたのか、ヘドロの手のようなものを伸ばしてくるが、ヘドロが地面に滴り、すぐに全部崩れ落ちた。今まで見た人食い達よりも、遥かに鈍重な印象を与えた。
「こいつは、ベトベトンだな。身体がドロドロだから、自分では動けねえんだ」
 キュウが喋る。ふうん、とドドは相槌を打つ。
 ロコは一歩下がった。このヘドロから放たれる臭いは強烈で、近寄りがたい。
 ドドは右腕をベトベトンの前に差し出す。ベトベトンはうー、と低い無気力そうな唸り声を上げて、ドドの腕にヘドロを伸ばし包みこんだ。ロコはぎょっとしたが、ドドは振り返って笑う。
「大丈夫ですよ、お嬢様。人食いとは言えど、ただその肉を食らう者だけとは限らないのです。例えば、水分を食らう者、爪を食らう者、色素を食らう者。色々な奴がいる。こいつは恐らく、人間の垢や体内の毒素を根こそぎ食らう」
 ドドの腕にまとわりついたヘドロは、事実すぐに離れた。ドドがその腕を見せてくれたが、確かに少し奇麗になっている気がする。
「ほらね」
 ドドは微笑んだ。ロコははっとして、尋ねた。
「でもどうして私、こんなにひどい臭いに気付かなかったのかしら。近くにずっといたはずなのに」
 ロコの問いに、キュウが答えた。
「こいつは人間の毒素を食うと、ゲップみたいなのを出すんだ。食えば食うほど臭いを出す。ただ一回の量はそんなに多くないから、あんたみたいにずっと屋敷にいたら少しずつ臭いが増えていって気付かないんだ。出した本人は自分の臭いだから気付かないかもな」
 けたけたと笑う。ロコは数か月家を出ていなかったことを思い出した。
「しかし、この人食いを隠しているということは、誰かが利用しているということになる。自分の毒素を餌にして、美を保っている人間が」
 ロコははっとした。ある人物が一人、頭に浮かぶ。まさかと思ったが、どうしても疑念が消えない
 その時、階段を勢いよく降りてくる音に気付いた。誰か来る。
「あなた達、ここで何をしているのです」
 クラウディア夫人だった。息を乱し、肩を震わせ、口元を大きく歪ませていた。若々しいはずの顔が、台無しになるくらい。
「こんなところに勝手に入るなんて……さては泥棒ね! 人を呼ぶわよ」
 夫人は大声を上げ、ドドに向かって怒鳴る。ドドの方ばかり見て、ロコのことは目に入っていないようだ。
「お母、様」
 はっとして、クラウディア夫人は口をつぐんだ。ドドは深く頭を下げ、名乗る。
「泥棒ではありません。私は街のまじない師。お嬢様の依頼により、屋敷に漂う異臭を絶ち切る為に参りました」
「ロコが……頼んだ? 異臭?」
 夫人はドドとロコの姿を代わる代わる見やった。
「これはお母様のものなのですか」
「そうよ」
 きっぱりと、夫人は答えた。ベトベトンは、低い怠惰そうな声を上げて夫人の方に手を伸ばした。
「このヘドロのようなものを一体何処から手に入れたと言うのです」
 嫌悪感を込めて、ロコは言い放つ。その強さに負けないほど、強い口調で夫人はぴしゃりと言いつけ、語る。
「ヘドロなんて滅多なことを言うんじゃないわ、ロコ。これは魔法の薬よ。いつもひいきにしてる商人が、ここだけの品と言って売ってくれたの。これを肌につけるだけで、全身が若返る。こんな素晴らしいことはないわ。あなたも一度やってみなさい。そうしたら、きっと素晴らしさが分かるはずだから」
「いいえ、お母様。こんなものに頼ったって、何にもならない」
 ロコは首を振る。
「お母様は気付いていないでしょうが、今屋敷はこれのせいでひどい臭いなんです。物理の先生が率直に述べ、レベッカが噂を聞いたと言っていました。そして私はこの臭いにやられてしまった」
 ロコは言葉を切った。
「私は耐えきれないのです。美しさと引き換えに、もっと大切なものを失っていくことが」
 姉と言っても差し支えないほど、若返った母の姿。年相応の姿を失った顔は、若さよりも無知を浮き彫りにしているようで、哀れに映った。
「だけれども、私は嫌なの。だって、奇麗でなくなったら誰も私のことなんて気にしないでしょう? みんなどうせ、私の美の秘密を知りたくて近づいてくるだけなのよ。だから」
 夫人は泣きそうな顔をしていた。だから、の後に続く言葉はない。
 その時、ベトベトンが声を荒げた。その手をクラウディア夫人に伸ばす。
「エサくれるご主人が焦らすもんだから、怒っちまったか」
 キュウがケタケタと笑う。
 怒りのせいか、ベトベトンはいつもより強烈な臭いを出した。ロコの口に当てたハンカチはとうとう意味を成さなくなり、その場に崩れ落ちた。
 クラウディア夫人ははっとした。娘のそばに駆け寄り、苦しそうな呼吸を肌で感じた。
「お母様」
 ロコは吐き気をこらえながら、何とか言葉を紡ぎ出す。
「人の魅力は、見た目の美しさだけではないはずです。そんなことを言わないで。昔の、もっと優しさに溢れていたお母様を、もう一度見たい」
 ロコは言葉を切った。夫人はほんの少し、葛藤した。そしてドドの顔を見る。
「まじない師さん。お願いします。この子を、……処分して下さい」
 その声に、震えは無かった。ドドは頭を下げる。
「ご決断、ありがとうございます。キュウ」
「あいよっ」
 キュウが高温の火を吹き続け、ベトベトンのヘドロの身体は少しずつ蒸発していった。苦しげな低い声が、切なかった。
「ごめんね、ロコ」
「いいのですよ、お母様」
 ロコは目を瞑って、首をゆっくり振った。

 夜風に当たろうと言い出したのはロコだった。夫人は椅子に座り、二人は冴え冴えとした空気の中に立っていた。
「今日は二度も助けて頂いて、本当にありがとうございます」
「まじない師とは、そう言うものですから」
 ドドは笑った。
 ひとつ、風が吹き抜ける。
「先ほどキュウが申したように、人食いは我欲に溺れた人間を好む傾向がある」
 美しさを求めた母。宝石を自分のものにしようとした御者。行き過ぎた欲望の末路は、決して幸せではなかった。
 そして、いつか自分も食われる時が来るのかもしれない。誰の胸にも住んでいる、欲望という名の獣に。
「いつまでも、今日のことを忘れないで下さい。それだけで、きっと貴女は強くなる」
 そう言って、ドドは一枚の正方形の便箋をロコに渡す。
「それでもどうしても私の力が必要であれば、この手紙を送ってください。必ず駆けつけますから」
 ドドはにやりと笑った。

 獣との戦いは続いていく。絶対に負けるものかと、ロコは一枚の紙に強く誓った。




(9998文字)