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 穏やかな風が吹いています。朝と夜の入り混じった空に、眩しすぎるほどの太陽が姿を現しました。金色の美しい光が私の腕の中の彼を照らします。

 幸せな夢を見ながら眠っているような彼の顔を見て、私は心臓が力強く握りしめられたような痛みを感じ、身体を丸めました。息をするのが苦しいくらいに、本当に胸が痛いのです。奥歯を噛み締めて、私はその痛みに耐えようとしました。

 耐えられたならどんなによかったことでしょう。後悔はしないと決めたのに、これが自分の望んだ結末なのに、こうなることはもう分かっていたことなのに――私は痛みに耐え切れず嗚咽を漏らし、彼の身体に涙を零しました。


 *  *  *


 ご主人は僕の大事な人です。僕もご主人にとっては大事な存在であるはずです。いや、あったはずというほうが正しいのでしょうか? ご主人! 大好きです! 愛しています! 僕は今でも、あなたのことを誰よりも愛しています!

 思い返せば、僕という存在が生まれたのはあの日でした。僕の身体がこの世界に作り出され、幼いあなたが僕を愛してくれたときに僕という人格が生まれ、そしてあなたが成長して僕を必要としなくなったとき、僕は動くことの出来るこの身体を手に入れたのです。

 動くことの出来る身体を手に入れて、僕は暗い空間を抜け出し、あなたの前に現れました。動く僕を初めて見たときのあなたの顔と言ったらもう! ピジョンが豆鉄砲をくらった顔というのはああいう顔を言うんでしょうね! 今思い出すだけでも、涙が出るほど笑える思い出の一つです。あ、涙なんて出したことないんですけども!

 そうそう、そのとき、僕は久しぶりにあなたの顔を見たんです。あなたは銀縁の眼鏡をかけていました。どこか苦労したような顔をしていて、笑うと目じりに小さなしわがいくつも出来るんです。それでもにっこり微笑んだ顔は僕の記憶の中のあなたと全くおんなじで。僕はこらえ切れなくなって、タックルでもするかのようにあなたの胸に飛び込んだんです。あの頃は僕を抱きあげるだけでも精一杯だったあなたが、そのときは筋張った腕と大きな手のひらで僕を包み込んでいることに、僕はとても驚きました。僕は成長というものをしないものなので、ただひたすら劣化していくのみなのですが、あなたは立派に成長していました。



 けれど、僕はあなたと生活していくうちに二つのことを知るのでした。


 一つ。人間に限らず生きているものは、生まれ、成長し、しかし成長し続けはせずある地点を過ぎると急激に劣化していくという事実。僕の身体で言えば劣化なのだけど、人間の言い方だとなんというのだろう。わからない、わからないけど、病気というものに蝕まれ死んでしまうのだそうです。そして、あなたもその例外に漏れず、病気に蝕まれていたのです。あなたはそれを僕に見せまいと必死でしたよね。僕は……気づいていましたよ。けれど、気づかないフリをしていました。あなたが気づかれたくないのなら、気づかれないフリをしていたほうがお互いにいいでしょう? 体調が悪いのを隠したり、ビョーインというところに行くときは必ず僕の寝ているときだったり、薬はトイレで飲んでいたり――うーん、ちょっぴり気にしすぎだったと思いますよ。
 けれど、僕は治ると信じていました。今でも、治ると信じています。あなたが病気なんてものを気にせずに生きられる日が来るって信じてます。だって、あなたは努力していたもの!大好きだったお酒もやめて、野菜をいっぱい食べて、運動は嫌いだけど毎日毎日一緒に散歩にいきましたよね。僕がいなくなっても、ちゃんと続けてくださいね。

 二つ。僕は幸せには生きられないということ。
 あなたといると幸せな気持ちでいっぱいになるんです。幸せすぎて、だんだん眠くなって、ふと……って危ない危ないと僕はダッシュであなたから逃げました。あのまま、眠りにつけば僕にとっては永遠の眠り。動けなくなるのは、ただのぬいぐるみに戻るのは勘弁です。
 僕は恨みのぬいぐるみ。恨み、妬み、負のエネルギーで動いているのです。けれど、あなたと一緒にいると幸せな気持ち、つまり正のエネルギーを貰いすぎてしまって、負のエネルギーがなくなってしまうのです。その結果、僕は動けなくなってしまい、ただのぬいぐるみと化すのです。
 そんなときは僕はあなたから少し距離を置いて、嫌なことをいっぱい思い出したり、自分のことを嫌悪することでバランスを保っていたのです。何も人を恨むときだけに釘を使うわけではないんですよ。
 負のエネルギーを蓄えるとき、僕はあなたと距離をおきました。誰だって、自己嫌悪の現場なんて見られたくないでしょう?

 でも、僕は思うのです。あなたが病気のことを隠し僕に気づかれていたのと同じように、僕もこのことをあなたに隠し同様に気づかれていたのだろうと。


 * * *


 唐突に山登りに行こうと言いました。
 発想自体はずっと前からあったのです。

 山登りに行けるのは今のうちかもと、実行する機会のほうが唐突に訪れてしまっただけです。


 * * *


 あなたの息は激しく、僕は何度も下山しようとあなたの服を引っ張りました。それでも、あなたは断固として首を横に振り、上へ上へと足を進めていきました。その目には絶対に成し遂げてやるというような強い意志がありました。
 日が暮れて、僕はあなたの後ろを守りました。宵闇に紛れて襲ってくる蝙蝠を地面に叩き落し、蛾の身体を潰し、あなたに触れようとするもの全てを排除しました。その度にあなたはやさしく微笑んでありがとうと言いました。


 * * *

 頂上につきました。頂上といっても周りには誰もいません。夜の一時を越えているとは思えないほどに明るい、街の景色が見えました。手に持っていたカンテラの灯をおろし、私は小さなテントを建てました。少しの食べ物を無理やり飲み込み、寝袋の中に入りました。彼を呼んではみたのですが、予想通りテントの端に座り、私に近づこうとはしませんでした。

 + + +

 夜明けでした。あなたは目を覚ますと、景色の見えるベンチに座りました。そして僕を呼びました。僕が完全に近づく前に僕はあなたに抱きしめられていました。何が起きたか分からずにうろたえる僕をあなたはそっと抱き上げ、ふともものうえに僕を座らせました。もちろん、抱きしめる腕はゆるめずに。

 そのままあなたはどれくらい黙ったままでいたでしょうか。
 
 東の空が明るくなってきた頃、あなたは「すまない」と一言静かに言いました。
 一方の僕はというと、死にかけていました。それもそのはず、好きな人に抱きしめられている時間がどれほど幸せなことか。世界中の幸せを集めても、僕のこの幸せに勝るものはないと胸をはって言えます。
 もちろん、死んではならないのです。さっさとあなたの腕の中から抜け出し、自分の身体に釘打たねば、僕はもう死んでしまうでしょう。

 けれど、この幸せを離してしまうくらいなら、僕はいっそもう死んだほうがマシだと思いました。

「私は……もうこの先そう長くはないだろう」

 知ってる。強い眠気の中、僕は頷きました。

「お前を……してしまうのは、私だって嫌だ。私が死んだ後もお前には生きていて欲しい。だが、お前を生かしたまま残してしまうと……お前は一生死ねないだろう」

「強い負の力は尽きることはない。悲しみや恨みの中で、永遠の生を彷徨ってほしくないんだ」

 あなたはそういうと、肩を震わせて涙を零しました。

「私の勝手な事情かもしれない。お前はもっと生きたいかもしれない。すまない。恨んでくれ、呪ってくれ――すまない」 

 すまない、すまない。あなたは何度も繰り返しました。

 
 分かる、分かってるよ――。

 あなたにそう伝えようと身体を起こしたとき、朝の眩しい光が遠くに見えて僕は――


 * + *

 私は涙を零しました。泣いても、泣いても涙が溢れます。


  だいじょうぶ?


 こんなとき、私を心配そうに見上げる彼はもういません。楽しげに笑いかけてくれる彼も、一人でつらそうな顔をしていた彼も、もういません。

 私はもう動かないと分かっていながら、彼の亡骸を抱きしめずにはいられませんでした。

 
 恨んでくれ、呪ってくれ、私は、私は――



 彼を殺したのだから――。


 + * +

 さあさ、悲しまないでご主人。僕はあなたのことを恨みも呪いもしないよ! なんたってあなたが大好きだからね! もちろん、殺されてよろこぶ変態性癖でもないよ!

 あなたの言うことはごもっともだもの! あなたが生み出し、あなたのために生き、あなたのために存在したこの僕という生き物が、あなたを失ってどうやって生きていけるというでしょう生きていけるけど!
 

 ……生きてはいけるけど、真っ暗な、出口のない迷路を、僕は永遠に彷徨い続けるのでしょう。そうあなたが言ったとおり。
 あなたをなくした悲しみで、永遠に生き続けなければならない苦しみは想像しただけで胃にくる話です。


 だからご主人悲しまないで! 僕はあなたから最高のプレゼントをもらったんだ! 自分一人になってしまっては絶対に手に入れることの出来ないであろうものをもらったんだ!

 最初に『生』を、最後に『死』を――僕があなたからもらった二つのプレゼント。最高のプレゼント。

 ありがとうご主人! 悲しまないで! 



 だいじょうぶ、僕は待ってる。ずっと、ずっと待ってるから!




 ――あなたが送ってくれたから、僕はまたあなたと会えるんだ!




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