大学にも慣れてきたある日のこと。
 俺は家に帰る気になれず、開拓と称して大学の近辺を散歩していた。


 今朝のことだ。
 母親に何気なく下宿したいと言ったら、
「アンタに下宿なんてムリ。絶対ムリ。三日で泣いて帰ってくる」
と断言され、
「なんで下宿する前から分かってんだよ。四日じゃなくて三日で帰ってくるっていう根拠を言えよ。非論理的。ガキ臭い。原始人」
と言い返した。
 母親は言われたら言い返さずにいられないタチだから、言い返した。
 俺も残念ながら母親に似て言い返さずにいられないタチだから、やっぱり言い返した。
 そこからどういう喧嘩になったんだか、今朝は「いってらっしゃい」ではなく。

「二、三日野宿でもしてきたらええわ!」

 ……罵声と共に送り出されたのだった。


 いつもの駅に向かう道とは逆を行き、少し歩くと年季の入ったアパートが見えた。
 年季の入った……というか、年代物だ。もしかしたらあれが、下宿組の間で噂になっていた幸薄荘かもしれない。実家通いの俺はあまり話を真面目に聞

いてなかったが。
 建物の日陰になった場所で、タライとホースを持ち出して洗濯している人がいた。
 大変だなー。下宿したら自分で洗濯もしなきゃいけないもんな。せめて洗濯機くらい欲しい。
 そんなことを考えながら道を歩いていく。
 下宿で住めそうな家ないかな。さっきの幸薄荘以外で。
 いざとなったら今日はポケモンセンターに泊まろうか。
 腹へったなあ飯くいたい。下宿したら自分で飯も作んないと。

 ……あ。

「これ、……店? かな」

 外見は一般人が住む一戸建てのようだが、ドアの所に白地に黒で定食屋と書かれたのれんが掛けてある。
 隣家との壁の間の、ドアの開閉の邪魔にならない所に、「OPEN」と書かれた黒板が狭そうに立っている。
 店、らしい。
 そういえば丁度昼メシ時だ。俺は衝動的にドアを開けていた。


「いらっしゃいませー」

 人の良さそうな小顔のおばちゃんが笑顔をこちらに向けた。

 定食屋の店内は、民家を改造したみたいだった。
 狭い屋内は厨房とカウンター席でいっぱいになってしまっている。数えてみると、カウンター席は九席あった。
 店の奥には幅が狭くて急な階段があるが、そこには「御手洗」とのれんが掛かっている。二階席なんてものはなさそうだ。
 そののれんの向こうから、痩せ形でキツイ眼光のおじさんが現れた。
 まっさらな白色のエプロンをして、手に同じく白い布を被せた大きなカゴを抱えている。
 階段を通れるギリギリの幅のカゴだ。

 と思って見ていると、布が唐突に揺れた。

「お客さん?」

 見かけに反して、おじさんは朗らかな声を上げた。今まで鋭かった目付きが、一瞬で笑いに変わった。

「何にします?」

 そう聞きながら、おじさんはカゴに被せた布をそっと押さえている。なんだか布が動いている気もするが……。
 俺はおじさんの笑顔に押されて、カゴから目をそらし、壁に貼られたメニューを見た。

 カツ丼 ¥490
 親子丼 ¥470

 そんな調子で学生向けのそこそこ安いメニューが並んでいる。
 定食は味噌汁と小鉢付き、白米おかわり自由でそれも安い。
 揚げ豆腐や旬の魚の煮付け、デザートに木の実のシャーベットもある。
 俺はざっとメニューを端まで見渡すと、

「あれ、ください」

 一番右端、チラシ裏に書かれたような冷やし中華の絵を指さした。

「はい、冷やし中華ね。五十円で大盛りにできるけど」とおばさん。
「いえ、いいです」
 俺は見かけの割に少食だ。友人にもよく言われる。
「じゃあ代わりに、何かトッピング付ける?」
 別に
いいです、と言おうと思ったが、おばさんが笑顔でカウンターに置いてあったメニューを差し出してくるので断れなかった。
 まあ、欲しいものがなければ断ればいいや、と思ってメニューに目を通す。


『とっぴんぐめにゅう

 紅しょうが 五円
 わかめ 五円
 錦糸玉子 五円
 枝豆 五円
 鳥ささみ
 十円

 カゲボウズ 食ベラレマセン 五十円』


「…………」
「決まりました?」
「カゲボウズ……?」
「冷やし中華中盛り、カゲボウズ憑きー!」
「えっ!?」

 俺の戸惑いをよそに、おじさんとおばさんは笑顔で冷やし中華を作り始めた。

 麺の上に、カニカマ、ハム、キュウリ、トマト、そして何故か目玉焼きが乗せられ、最後にタレがかけられる。

 それで完成と思いきや、おじさんがさっきのカゴの白い布を取り払った。
 白い布の下から、黄青青の三色に分かれた目をパチクリさせる、黒い布たち。

 おじさんはそいつらから一匹を選ぶと、ひょいと角をつまみ上げて冷やし中華の上に置いた。

「はい、冷やし中華カゲボウズ憑きね」
 そう言いながら俺の前に皿を置くおばさん、超笑顔。厨房の奥のおじさん、満面の笑み。俺、引きつった笑み。
「あら、カゲボウズのトッピングははじめて?」
 俺の表情で分かったのか、返答を待つ気がないのか、おばさんは勝手に喋り始める。

「いや〜なことがあってもね、食事は取らなきゃいけないでしょ?
 そんな時ね、カゲボウズが人気なんですよ、気分が悪くても気持ち良く食事できるってね」

 そうですか、と俺は小さな声で返事をする。割り箸を割ったはいいが、箸を付けられない。
 おばさんは厨房の真ん中あたりまで行って、くるりとUターンして戻ってきた。
「あ、ちゃんと洗ってますから、大丈夫ですよ」
 そして厨房に戻るかと思いきや、また振り返ってこっちへ来た。
「分かってると思いますけど、その子は食べないでくださいね」
 はあ、と曖昧な返事をすると、おばさんは厨房の真ん中へ行って、洗い物を始めた。


 カゲボウズが冷やし中華の中央に鎮座している。
 箸で軽く奴を突付くと、三色の目でこっちを見た。
 じーっとこっちを見る。
 食べにくい。
 こいつの下に敷かれている冷やし中華を食べにくい。
 カゲボウズはなおも俺を見つめている。

「嫌なことねえ」

 今朝の喧嘩のこと、とか。

 思い出すと腹が立ってきた。
 カゲボウズが目をぱちくりさせて俺を見、嬉しそうに体を震わせた。
 これがカゲボウズの「負の感情を食べる」というやつかもしれない。

 大体あれだ、俺の母親は何でも「ムリ、ムリ」っていうんだよな。
 好きになった女の子が受験が難しい有名校に行くと聞いて、半ば冗談でその学校に行きたいと言った時もそうだ。
「アンタじゃムリ!」とにべもなく撥ね付けた。
 その前にも、ちゃんと練習するから自分のトランペットが欲しいと言った時も、ポケモントレーナーになりたいと言った時も……

 何の前触れもなく、目の前の皿からカゲボウズがひゅんと飛び出し、俺の周りをぐるぐる回りだした。
 あっけに取られてカゲボウズを見ていると、またカゲボウズは皿に戻った。
 そして、俺をじっと見つめた。

 少し、心が軽くなったような気がした。
「もっと感情が欲しいのか?」
 箸先で突付くと、いやいやするみたいに体をねじった。それから、期待を込めた目で俺を見た。
「もうやらん」
 そう言って軽く笑う。
 口に出して言うと、心の荷が少し降りたようだ。
 ぐちゃぐちゃした嫌なことを、食事時に考えることはない。
 箸でカゲボウズをつまんで皿の横に置く。
 俺はやっとのことで、食事に取り掛かった。

 カゲボウズを見ると、いつも目が合う。
 どうも俺を見続けているらしい。
 こうしてじっくり見てみると、三色に分かれた瞳は愛嬌に溢れている。シンプルな造形に頭の角が良いアクセントを添えて、見ていて飽きない。
 気持ち良く食事できる、ってこういうことかもしれないな。

「ごちそうさまでした」
 俺は、食事前よりずっと晴れやかな気分で外に出た。


 店を出て、駅に向かう。
 ふと気になって、幸薄荘の日陰の、タライとホースの人がいたあたりを見てみた。

 そこには、洗濯ひもと、青空の下風に揺れるカゲボウズたち。
 時折風でひっくり返っては、冷やし中華を片手に抱えた人が出てきて元に戻している。

 下宿は大変そうだ。しばらく遠慮しとこう。母親に謝って、今度の日曜は冷やし中華にしよう。
 俺はカゲボウズに見送られながら、駅に向かった。







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