激しい雨が降り続いている。ここまで、急に天気が崩れるのは、いくら山だと言っても珍しい。この山はそれほど険しくはないが、天気によって山と言うのは豹変するものなのだ。遭難、土砂崩れ、落下――。雨は、足元を悪くし、視界を狭め、体温を奪う。 「何か起こるな」 そんな胸騒ぎがした。とびきり悪い、何かが起こりそうな気がした。今夜、自分は眠れるだろうか。いや、今夜自分が生きている保障などないのだ。自ら危険な場所に赴く、そんなことが仕事なのだから。 どこかで獣の吼える声がする。遠吠えとは違うその吼え方は、レンジャーの訓練を受けたポケモンだけが発する吼え方だ。深呼吸をして、耳を澄まし、雨の音の中から吼え声だけに全神経を集中させる。 ――増援。 やはり。傍らに居た相棒も険しい顔をしていた。うむ、頼むぞ。 「行こう、あの場所へ」 相棒の左手をしっかりと握り締め、俺は目を閉じた。余計なことを考えると、普段からアレが下手な相棒の成功率がさらに下がってしまう。はやる気持ちを抑え、無心、無心と心の中で唱えた。内臓だけが浮くような気持ちの悪い心地。徐々に、意識が遠のき、ぷつんと切れた。 「大丈夫ですかって……ぅわーっ!!」 気づくと、俺は2メートルほど藪の中をずり落ちていた。泥だらけである。相棒はちゃっかり地面のあるところに着地したらしい。泥だらけの俺を見て、両手を合わせて申し訳なさそうにしている。テレポートミスってごめん!みたいな。 ……。 ―――― 「はぁはぁ……増援に参りました!――のポケモンレンジャーです!」 「おう」と力強い言葉が返ってきた。一人は強そうなトレーナー、毛一人は同業者。そして、おそらく彼らの手持ちであろう逞しげなポケモン達がトロピウスの背中に乗せられた一人の少年を囲んでいる。少年に意識はなさそうだ。少年の身体に大量の出血や、大きな傷は見られなかったが、見えないところが余計に怖かった。小さな、ヒトカゲが彼の力なく下がった手を握り締めている。 「少年とヒトカゲが土砂崩れに巻き込まれました。ポケモンは無事ですが、少年の様態が危険です」 アブソルを従えたレンジャーが言う。短い言葉だが、無駄がなく、不足した情報もない。目の前の二人はどちらも、本当に危険な状況を何度も切り抜けてきたような人たちなのだろう。互いのやり取りも、することにも、無駄がなく速く、正確だった。 手袋をはずし、少年の身体に触れる。ふむ。体温が低い。意識レベルも低い。確かに危険だ。生死を彷徨うという状況ではないが、すぐに、病院で手当てを受けたほうがいいだろう。ついさっきまで大丈夫そうだった状況が一気に急変することだって、ありえないわけではないのだ。 それに、また何かが起こらないとも限らない。今すぐにでも、この場所を離れた方がいい。 だが、降り続く雨がそれを阻んでいる――わけか。雨は先ほどよりも、強くなっている。雲も黒い。雷雲である可能性が高い。下手に飛べば、少年もトロピウスも、命を落としかねない。 「なるほどねぇ……」 だとすれば、少しでも時間に余裕をもたせるほかあるまい。 俺の腰につけたモンスターボールから、一匹の小さなポケモンが飛び出した。魔女のような帽子の頭に、ひらひらとした紫の身体。ムウマージ。 彼女は、ボールから出るやいなや俺を少しだけじっと見つめて力強く頷いた。自分のすることは、ボールに出る前から気づいていたのだろう。すまん。心の中で俺は謝った 弱った少年の上に覆いかぶさるように俺のムウマージが擦りつく。そして、少年の身体と自分の身体を密着させるように、張り付いた。 「な、何を……?」 リオルを連れたトレーナーがが不信そうに俺を見る。大丈夫ですと、小さく答えて俺は少年とムウマージを見ていた。ゆらりと、不思議な力が動く気配を感じる。徐々にムウマージの身体が光をおび、やがては少年をも包み込む。数秒程たって、ムウマージは少年から離れるとふらふらと俺のもとへ戻ってきた。俺は、頭を一撫でして、モンスターボールに戻した。ありがとう、おつかれさま。ゆっくり休んでくれ。 少年の呼吸が、先ほどに比べて穏やかになったように感じる。身体も温かくはないが、冷たくもなくなっていた。これで、少しは時間が稼げるはずだ。 「様態が……何をされたのですか?」 「いたみわけですよ、いたみわけ」 いたみわけは、自分の体力と相手の体力を同じにする技。つまり、ムウマージの体力が少年に分け与えられたということである。もっとも、この技を使うレンジャーは少ない。自分のポケモンを傷つける、犠牲にするようで嫌だと言われるし、俺は何て冷たい奴なんだと思われていることだろう。けれど、俺もムウマージもポケモンレンジャーの端くれとして、一生懸命に誰かを助けたい。そんな気持ちでやっているから、まあ、しょうがない。 遠くの空は、白い。きっと、あと少しすれば雨が弱まるはずだ。いや、弱まってくれないと困る。この、黒雲が通り過ぎる、もしくは、少しでも雨が弱まるまで、少年がもってくれれば、大丈夫だろう。 「やっぱりポワルン……」 「気を抜くんじゃないぞ」 「り、了解です!」 トレーナーもポケモンレンジャーも、今まで険しかった顔を少し緩ませ、同時にポケモンたちもほっとしたように、笑顔を見せた。何とか、最悪な状況は避けられそうだ。その場には、微かな安堵の空気が流れていた。その時だった。 アブソルが急に立ち上がった。全身の毛を激しく逆立てて、赤い赤い目を大きく見開いて―― ――まさか! アブソルは吼えた。救助を求める声ではない。それは恐ろしいほどに響く――災いを知らせる声。 「逃げろ!!」 誰が言葉を発したのか、はたまた自分が発したのか。大木の折れる音がする。視界が斜めに揺れる。青年のレンジャーが何か叫んでいるらしいが、何も聞こえない。藪も木も地面も、下へ下へと、動き始めた。 |