一歩、二歩、アーケオスが均した地面から離れ、木々が折れ飛び、けもの道のようになった場所を進む。 さっきのレンジャーたちの誰かが、道として切り開いたのだろうか。 彼女は先の青年たちの顔を思い浮かべながら、有り難く使わせてもらうよ、と呟いた。 風神雷神をあの場所から引き離すのに、使えるかもしれない。 途中からは森に入ることになるだろうが、それも策のうちだ。 そこまで考えて、彼女は雨で額に張り付いた髪をかき上げた。 ……少し、調子が悪い。 気のせいと思いたかったが、それは事実だった。 伝説に謳われる風神と雷神。 この機を逃せば、十中八九、次はない。 怪我なんかで寝ている場合ではないのだ、と自分自身に喝を入れる。 近くで雷が落ちた。風が乱れ、右から左から、不規則に吹いては彼女の体を揺らした。 顔を上げ、ゾロアークの視線の先を探るが、人間である彼女には暗闇と雨以外何も見えない。 不意に、雨の中に明かりが灯った。 相棒のゾロアークの様子を窺うが、彼は明かりの方に興味を示していない。 危険ではないらしい、と判断する間にその正体が知れた。 彼女は顔をしかめた。 さっき岩棚の所にいた青年が、何を思ったか、リオルとヒトカゲを連れて、ここに来ていたのだ。 戻って、救助でも待ったらどうだ。彼女がそう口にする前に、青年が口を開いた。 「助太刀に来ました……と言っても貴女は断るでしょうが、俺も手伝わせてもらいますよ」 青年が連れて来たリオルとヒトカゲが、彼女の足元まで来て、やる気満々だよという風に彼女を見上げた。 青年は、どこか底の知れない瞳で彼女を見ていた。 トレーナーとして、長い間修行してきたのだろう。 隠そうとしても隠しきれない、彼の強さと闘いを求める心がその奥にあった。 彼女には分かった。彼は、帰れと言っても絶対に帰らない。自分もそうだから他人のことをとやかく言えないが。 「勝手にしろ。ただし、技に巻き込まれて瀕死になろうが、知らないからな」 「じゃあ、勝手にしますよ」 そう言って、不敵な笑みを浮かべる。 青年の腰に付けられたモンスターボールが、カタカタ揺れた。 彼の体全体から、一挙一投足から、彼の戦士としての技量、隙の無さが見えた。 青年の、意味ありげな視線が自分に向けられているのを感じて、体の向きを変えた。 無意識に鳩尾を庇っていた手を外した。 治りかけた傷が、どうなっているか……だが、倒れるとしたら、奴らを負かした後だ。 リオルとヒトカゲに手で戻るよう促すと、二匹は青年の近くへ寄っていった。 その様子を見て、とりあえず邪魔になることはなさそうだと判断する。 肩に乗せたバチュルが、細い笛に似た音を出し続けている。 ゾロアークのスーが、視線を固定させて、低く唸っている。 他のポケモンたちも、それぞれのやり方で、トレーナーの彼女に近づく危険を知らせていた。 いつの間に現れたのか、先程土砂崩れを防いだエーフィが、雨の中、彼らを見上げていた。 エーフィがひと声鳴くと、スーが応えるように鳴いた。 スーが彼女のコートの裾を、軽く引っ張った。 数メートル下がると、黒狐は肯定するように鳴いて、彼女の斜め前に回った。 エーフィが彼らに背を向け、耳と尻尾を、ピンと立てた。 リオルは静かにトレーナーの隣で待機し、ヒトカゲは自分を奮い立たせるように小さく鳴きながら、尻尾の炎を爆ぜさせた。 「……来るか」 右手を上げ、バチュルの視界を遮ると、小さな電気蜘蛛はピタリと鳴くのを止めた。 他のポケモンたちが、動作を止めて、彼女を見上げる。 「いつもやっている通りだ」 息を吸う。雨が口の中に入り込む。 ちょっと危ない奴を逮捕する時と同じだ、と言って笑う。 「スー、先導を頼む。グンとユンは陽動。ナンは、」 灰鼠と紫オコジョが片手を上げる。 彼女がドレディアに目を向けると、特性がマイペースの彼女は、気が早いのか呑気なのか、離れた場所で蝶の舞を踊っていた。 「……それでいい」 雨と、風と、雷鳴。 ひたすらにうるさいのに、妙に静かに感じた。 音が消え、冷たさが消え、この時間がずっと続くのではないかと思われた、その時。 時間が目に見えるなら、壊れて弾けた。 頭を打ち割る大音響と、目が潰れそうな眩い一閃。 何もかも白くなって、たったの数秒が引き伸ばされて、延々と白の景色を見ていた気がした。 視界が戻り、雨風が場を支配する。 さっきの閃光で大きさの狂った瞳孔はすぐには戻らないが、そこに何がいるかは、見ずとも分かる。 風神と、雷神。 ……危なかった。エーフィとゾロアークに言われて下がっていなかったら、さっきの白光が彼女の命を奪っていただろう。 青年を押しのけて、前に出る。 「ここじゃ、また土砂崩れが起こったらフォローできない。まずはここから引き離す」 ぎりぎり雨に消されない大きさの声で、青年に伝える。 了解です、とこの状況にしては軽い調子で青年が答えた。 雨の中で、二つの影が動いていた。 ひとつは地面で、腕を支えに起き上がろうとしている姿。 もうひとつは、地面に這いつくばる兄弟を嘲るように、中空を旋回していた。 地面に落ちていた方が、体を起こし、宙に浮かび上がった。 二つの影は、よく似た形をしていた。 どこか人間に似ているが、雲を支えに空を飛び、一本の輪のような尻尾を持っている。 互いが互いに、似ている。 だから争うのだろうか。 右手を半端にバチュルの前に持っていく。 バチュルは彼女の意図を察したように、小さく鳴いた。 紫を多分に含んだ虹色の光が、兄弟神の間を割くように飛ぶ。 争いの邪魔をされた兄弟神が、光の出所を睨んだ。 空気が変わった。 気まぐれな雨が、風が、雷が、彼らの眷属であるというように、意志を持って彼女たちに敵対していた。 「風神と雷神だな」 静かに発した彼女の声を、黙って聞いているのは、神の気まぐれか、憐れみか。 「お前たちがところ構わず暴風雨を撒き散らすせいで、迷惑してる」 片方が、クックッと笑った。 何がおかしいのか。 彼女は静かに、人差し指を向ける。 「だから、成敗させてもらう」 人間ごときが。そんな声が聞こえた気がした。 怒りを含んだ空気が膨れ上がる。 神が、雷鳴、豪風に似た雄叫びを上げた。 彼らが攻撃の予備動作に入る前にさらに数歩下がり、三匹のポケモンの名を呼んだ。 すべきことを弁えている三匹は、彼女が名前を呼び終わるより先に、攻撃を繰り出した。 チラチーノが小さな手にエネルギーを込め、無数の岩を撃ち出す。 ゾロアークが闇色の刃を撃ち、その行く末を見極めたコジョンドが風神との距離を一瞬で詰め、眉間に腕の体毛の一撃を加えた。 「下がれ、スー。グン、ロックブラスト。ユン、ストーンエッジ」 「ラックル、まねっこ」 黒狐が大きく跳躍して切り開かれた道に降りた。 数歩下がり、チラチーノたちを道の奥に少しずつ移動させる。 青年のリオルが、コジョンドを真似てストーンエッジを撃ち出す。 ヒトカゲとエーフィも、自分で技を選んで彼らに放つ。 尖った岩と炎が飛び交い、大量の礫に全身を打ち据えられながら、なお風神雷神は泰然自若と笑っていた。 雷神と風神は顔を歪めて笑うと、尾を光らせ始めた。 神の力を見せてやろう。 そう言いたげに雷神が雷鳴と、風神が豪風と同じ声を上げた。 二体が輪のような尾をしならせ、弾いた――と同時に雷竜が天に昇り、弧を描いて地面への走路を選ぶと、道の後方で大口を開けた、竜のようなような竜巻に迷わず突っ込んだ。 後方の道の部分でで爆発音が起こり、細かい砂が雨に混じってバラバラと降ってきた。 ゾロアークの安全を確認しようと後ろを振り向くと、そこにはすり鉢状にえぐれ焦げた地面だけがあった。 スーの姿が見えない。地面に倒れていなければ、あいつは無事だ。 前に向き直ると、勝ち誇ったような笑みを浮かべる雷神と風神の姿があった。 しかしなおも、ポケモンたちは負けじと攻撃を続けていた。 彼女たちも足場を確認しながら、後ろに下がっていく。 えぐれた地面の縁まで来て、彼女は足を止めた。 場所ではない。音だ。 雨の中を、こぉーん、と高い声が通ってくる。彼女のゾロアークは仕事をひとつ済ませたようだ。 土砂崩れで消えているかと思ったが、目を付けていた天然のバトルフィールドはしっかり存在しているようだ。 傍らの青年を肘でつついた。 「何ですか」と青年が答える。 その横顔にふと安心感を覚えた気がして、慌ててそんなことはないと心の中で否定する。 「場所、変えるぞ」 「いいですけど、どこに?」 こぉーん、と雨の中、かすかに聞こえる遠吠え。 その音の方向を黙って指し示す。青年は静かに頷いた。 ポケモンたちに陽動の指示を出そうと、口を聞く。 「グン、ユン、こっちに……」 突然、鳩尾に鉛の大玉を入れられたような感覚に襲われ、喉も、声も、体の動きも機能しなくなった。 倒れかけた彼女に、風神が強風を撃ち出す。 技でも何でもないただ強いだけの風だが、彼女を吹き飛ばすには十分だった。 棒のようになった彼女の体が、すり鉢状にえぐれた地面の底へ転落した。 すり鉢の底に着いた彼女は、すぐさま痛みをおして立ち上がった。 そして、状況が如何に悪いかを知った。 豪雨で泥と変じた地面は、ただえぐれただけでなく、即席の蟻地獄の巣のように彼女の足を絡めとっていた。 今の彼女では、ここから出られない。 ボールからアーケオスを呼び出し、その背に乗る。 色鮮やかな始祖鳥は、彼女を乗せるや否や、鳴き声を上げる間も惜しんで蟻地獄から駆け出した。 ――青年がいる方向とは逆向きに。 「ロー、何やってる!?」 不可解な動きをした始祖鳥に少しの間戸惑った彼女だが、後ろを向いてようやく事態を把握した。 雷神が体に余るほどの雷を身にまとい、憤怒の形相で追ってきている。 奴が、彼女と青年を引き離すよう動いたのだ。その上、道を塞ぐように暴風で出来た壁が出現していた。 最初からこれが狙いだったのか。 ポケモンのいないポケモントレーナーなど、魚の卵より簡単に潰せると踏んだのか。 神の名を冠するとはいえ、一介の野生ポケモンが彼女だけをあの集団から引き離そうとした。高らかに成敗すると宣言した彼女を狙って……悪いことばかり考えても仕方ない。 「ロー、スーの声だ。あいつの声を追え!」 飛ぶよりも走るのが速い始祖鳥は、僅かに余裕が出来たのか、クエッとひと声鳴いた。 狐の声を頼りに、身を翻し、道から外れて脇の山林に飛び込む。 雨でぬかるんだ地面を蹴り、風で倒れた木々を越えて、アーケオスはひたすらに走り続ける。 後ろから、低い雷の音が聞こえる。 至近距離で雷が落ちた。 アーケオスに立ち止まって技を出す余裕など、ない。しかし。 雷の音に消されそうなスーの鳴き声を拾いながら、彼女は人差し指を立てて、肩のバチュルの前で軽く振った。 小さな蜘蛛は、心得た、と彼女の背中側に回り、技を繰り出した。 パチパチ、と雷に比べると可愛らしいぐらいの電気を込めて、特別な糸で編んだ網を、追いかける雷神に向けて広げた。 大きな唸り声を上げて、雷神が網に突っ込んだ。 粘着力と電力両方を備えた糸を払いながら、なおも彼女を追いかけてくる。 スーの声が、近い。 木々をかき分け、彼女は相棒の示す場所へ、一目散に飛び出していった。 森の中でそこだけ、自然に開けた広場となっていた。ポケモンバトルにはおあつらえ向きだ。 合流を果たした彼女に、おかえりと言うようにゾロアークが鳴いた。 ここまで駆け抜けた始祖鳥に、奥の山林に隠れるよう指示を出す。アーケオスはすぐさま木々の中に飛び込んだ。 雷の音を聞きつけた化け狐は、指示を仰ぐまでもなく、彼女の姿を真似た。 広場に、雷神が姿を現す。 人間の女の姿を探していた雷神は、探す姿が二つに増殖して、面食らったと見えた。しかし、それから雷神が次の決断をするまでの間は短かった。 雷神の考えとはつまり――二人いるなら、両方攻撃すればいい。 さっきとは比べ物にならない程太い黄竜が、広場の中央を穿った。 彼女とゾロアークは慌てて左右に分かれて飛び退く。 雷の直撃は免れた。しかし、その余波で撒き散らされた電気は、人間の彼女には耐え難かった。 体勢を崩し、その場に倒れ込んだ彼女の上に、追い打ちをかけるように雨が降ってきた。 「ガウゥッ!」 ゾロアークが焦燥の声を上げた。 自ら尻尾を出してしまった狐をギロリと睨みつけると、雷神は、地に転がって動けない彼女に、尾を突きつけた。 今までに、見せつけるように地をえぐる雷撃を撃ち出した、その銃口の部分が、ピタリと彼女に向けられた。 雷神の持つエネルギーが、肥大化していく。 その全てを銃である輪っか状の尾に溜め、その先には彼女がいる。 雷神が勝利を確信し、雷と同じ声を上げて笑った。 エネルギーが尾の先に収束していく。 尾の先が放電を始める。 尻尾の先が下方に揺れ、いよいよだと彼女に突きつけられ、尾の先が眩く輝いた。 と思うや否や、尾の輝きが消えていく。 雷に変換されたのではない。 尾に蓄えられていたはずのエネルギーが、どこかに消失したのだ。 尾の先には、彼女と――雷神に取り付いたバチュル。 「フィィィッ!」 笛のような音を上げて、雷神が尾を地面に打ち据えるより先に、バチュルが雷神から吸い取ったエネルギーを、元の持ち主へ打ち放った。 かつて雷神のものであったそれは、今は雷神を襲うものとして、光を放った。 尻尾が地面に当たり、小さな蜘蛛が跳ね返って飛んだ。 再び雷神がエネルギーをチャージする。 「ロー、原始の力!」 体の痺れを振り払って、叫ぶ。 緑の中から原色の鳥が跳躍し、翼を振るって白い光体を打ち出した。 白の発光体が、雷神に直撃した。ぐう、と雷神が唸った。効いている! コジョンドたちの攻撃が、ここまで来て功を成した。 始祖鳥はすかさず、第二、第三の原始の力を撃つ。 負けじ、と雷神が雷を放つ。 初撃を避けたローだったが、二撃目は避け切れず、右の翼を麻痺させた。 バチュルが飛び出し、弱気になりかけたローにすかさず胃液を使った。 気を取り直したローは地を駆けながら、残った左の翼を打ち振って原始の力を使う。 雷神の放つ雷が、地面に焦げ跡を作っていく。 太い光の柱のような雷撃の間を潜り抜け、地を駆ける始祖鳥は確実に雷神の体力を削っていた。 焦れた雷神は咆哮を上げると、鳩尾を庇い、未だ立ち上がれない彼女に向かって突き進んだ。 アーケオスが彼女と雷神の間に立った。 繰り出された雷撃がアーケオスを直撃した。 雨に打たれ、雷に打たれ、それでも倒れない始祖鳥を見て、雷神が口角を上げ、尾に溢れるほどのエネルギーを充填した。 「ロー、撃ち落せ!」 漆黒の尖った岩が、雷神が背にした山林から、銃弾のように飛び出した。 岩が背骨の中央をしたたかに突いたのに耐えきれず、雷神が高度を下げる。 雷神の目の前にいた鳥が、ニヤリと笑った。 輪郭が歪み、元の姿を現す。 騙し合いを楽しむそれは、化け狐のもの。 ゾロアークは残った力を振り絞り、雷神に向けて草結びを発動した。急成長した蔦が、雷神の尾に絡みつき、離陸を阻む。 「今だ。ロー、地ならし!」 始祖鳥は、雷神と至近距離にいる彼女を困惑の眼差しで見た。 しかし、このチャンスを逃すことは出来ない。 黒狐が彼女を守るように抱きしめると、ローに向けて叱咤するように鳴いた。 ローが不満げに鳴き、両の翼を地面に叩きつけた。 大地に叩きつけられたエネルギーが、衝撃となって地に接するもの全てを襲った。 彼女を守るように立っていた黒狐が、苦悶の声を上げる。 腹の古傷を強く、何度も強く殴られたような衝撃が走った。 意識を手放すまいと、黒狐の腕を探り、強く握りしめた。 そしてそれは、地に伏した雷神とて例外なく襲った。 地面の衝撃が収まり、真っ赤な目で狐と、その向こうにいる彼女を睨みつける雷神は、轟雷の声を三度上げ、いざ飛び立たんとした。 「フィ、フィッ!」 突然の、高い声。 見れば、上空に、一本の糸を頼りに風に遊ばれる、黄蜘蛛の姿があった。 バルーニング。通常は旅立ちのために使われるその手段で、黄蜘蛛は空に飛び、地ならしを逃れたのだ。 黄蜘蛛は風に吹かれるまま、雷神に向けて多量の糸を吐いた。 空で幾何学的多角形を描いたそれは、雷神に被さると、雷神の体を地に縛り付けた。 蜘蛛の糸で白い団子状になった雷神に、バチュルはさらにもうひと山ほどの糸を吐いた。 糸の奥から、雷神の怒声が聞こえる。 雷神は雷を使うだろうが、電気蜘蛛一族の網は、電気ごときで焼け溶ける代物ではない。 バチュルは勝ち鬨を上げると、始祖鳥と共にトレーナーの元へ駆け寄った。 彼女はゾロアークにもたれかかっていた。 小さな蜘蛛は彼女の名前を呼ぶように何度も鳴いた。 始祖鳥はそんな蜘蛛の様子を見て、申し訳なさそうに項垂れた。 「大丈夫。……大丈夫だ」 何とか声に出し、意識を繋ぎ止める。 雨はまだ降り続いていた。 |