瞼の向こうに、朝の日差しを感じた。 もう朝か、と女性は思った。 布団の中が暖かい。 もう少し寝ていたい。 女性が寝返りを打とうとして、腕の中にポケモンがいることに気付く。 またゾロアか、チラチーノあたりが布団に入り込んだのか、と思う。 それにしては、何だか平べっちゃくて…… 何だか細いものを掴んだ。 「ぷぎゅぇっ!?」と腕の中の物体が声を上げた。慌てて女性は掴んだ手を離して、起き上がった。 「あら!? ちょっと、お姉さん起きはったで!」 彼女の姿を見た知らないおばさんが、嬉しそうに声を上げ、周囲に伝える。 体の上には見覚えの無い毛布と、ヒノアラシ。 さっき彼女が鼻先を掴んでしまったのだろう。ヒノアラシは頬を膨らませて怒っている。 「悪かった、謝るよ」 ヒノアラシを膝から下ろし、自力で立ち上がると、女性警官は周囲の状況を確認した。 付近に、風神、雷神と思われるポケモンの影はない。 さっきまでのバトルが夢のようだった。 観光客と覚しき賑やかな一団が、毛布やモーモーミルクを配給している。 雷神と戦う前はトロピウスの背に乗せられて、具合悪そうにしていた少年は、今は毛布を重ねた地面の上に寝かされていて、その周りに人だかりができている。顔色が随分良くなっていた。 遠くには平和そのものといった顔で巨体を揺らす、マダツボミの姿。 ぬかるんだ地面と、ところどころで倒れている木があることを除けば、あの大嵐の爪痕など見るべくもない。 晴れていた。 空は青く、風神雷神が呼んだはずの、重たげな黒雲は取り払われ、薄い白い雲が少し残っているだけ。 いつの間にやって来たのか、誰かのポワルンが赤く小さな太陽の姿で飛んでいる。 とにかく、バトルは終わったのだ。 彼女は毛布を綺麗に畳み、その上にヒノアラシを置いておばさんに託し、それから近くで彼女を見守っていた三匹のポケモンに労いの言葉をかけた。 そして、雨に濡れて重くなったコートを脱いで相棒のゾロアークに持たせた。 ゾロアークは心配そうに顔を覗きこんでくる。 「大丈夫だよ」 バチュルをいつも通り肩に乗せると、彼女はそう言って笑った。 少し麻痺の残る体をおして、人だかりの方へ歩き出す。 仮にこさえられた木製の物干し場に、誰かの上下服がはためいていた。 その下では、ヒトカゲが安らかな寝息を立てている。おそらく、毛布の上で眠っている少年の服だろう。 彼女は人の群れから離れてた位置で休んでいる、自身の手持ちの三匹を見つけ、そちらに近寄った。 三匹は配給されたらしいきのみを食べ終え、体力を回復させたところだった。 彼女らのうちの一匹、ドレディアだけが物欲しそうに、次のきのみをねだった。 体力は十分なのに。彼女は手渡されたきのみをドレディアの手から奪った。 「ナン、体力が回復したのにねだるな、はしたない。……すいません」 そう言って元の持ち主にきのみを返すと、持ち主の女性はいいえと微笑んで、彼女の手にきのみを押し付けた。 「まだたくさんありますから、遠慮しないでください」 そう言う彼女の瞼は閉じられている。どうやら目が見えないらしい。 「じゃあ、……ありがとうございます」 好意に甘えてドレディアにきのみを渡し、お礼を言うように促すと、ナンは他の二匹から離れた位置に移動し、きのみを持ったまま踊り始めた。 彼女の目は見えないのに、と思ったが口には出さなかった。 横を見ると、紅い髪に白いワンピースの彼女は、踊り出したドレディアの方を向いて穏やかに笑っていた。 視覚以外の感覚が優れているのかもしれない、と思ったが、野暮だと感じて口には出さなかった。 歩いて二匹のポケモン、コジョンドとチラチーノの間まで行き、そこに腰を降ろした。 きのみをもらった二匹はすっかり元気になっていた。 どうやら今回のバトルでは自分が一番ダメージを負ったらしい、と思い苦笑する。 眠たげに瞼を落としてボールをつついて来たコジョンドをボールに入れ、チラチーノを膝の上に乗せて、暫くの間、ナンの舞を見ていた。 彼女の近くに、紫の猫又が駆けてきて、続いて橙の火竜が飛んできた。 おそらく、誰かを暖めたりする手伝いをしていたのだろう。二匹のポケモンに、彼女は労いの言葉をかけていた。 「そのエーフィ」 彼女は猫又の背を撫でる手を止めて、女性警官の方を見る。 「えっと……世話になったよ。ありがとう」 アーケオスだけでは土砂崩れを防げなかっただろう。 それから、彼女のミスでバトルの場から弾き飛ばされた後、エーフィはその場に残ってサポートをしてくれたに違いない。 雨の中を走り回ったであろう猫又の体は、まだ少し泥で汚れている。 ふと、大事なことを思い出す。 「風神と雷神はどうなった……?」 「どっちも“ひんし”状態ですよ。風神の方はまだ近くに転がってるはずです」 答えたのは盲目の彼女ではなく、最初にここに着いた時に目にしたレンジャー二人のうち、アブソルとウツボットとトロピウスを連れた若い方のレンジャーだった。 彼はレンジャーたちの装備なのであろう、小型の通信機を取り出しながら、 「俺は遭難者の保護に必死でした。皆さんのお陰ですよ」と言った。その皆さんの内のひとり、先輩レンジャーがドンカラスに掴まって、額に包帯を巻いた状態で姿を見せた。 「こっちは問題ない。二次災害の心配なしだ」 「こっちも見回り終わりました。大丈夫みたいですね。帰り道も確保されてます」 嵐の爪痕を見回り、無事を確認した二人のレンジャーは、嵐の後の詳しい地理情報をレンジャー本部に伝えている。 「あと、嵐の原因となったポケモンですが、彼が懲らしめました」と少年レンジャーがおどけた調子で付け加えると、 「俺だけじゃ無理でした。他の人たちとポケモンの協力あってのものですよ」と先輩レンジャーが訂正する。 その“他の人たち”の内、彼女と少しの間共闘した、あの青年はここに姿を見せていない。 通信を終えた二人は、女性警官と盲目の彼女の方を向き、 「さて、あのポケモンたち、どうしましょうか」 どちらともなく、そう言った。 中々結論は出なかった。 「警察の方ですよね。逮捕とか出来ません?」 「野生のポケモンを逮捕する法体系はない」 「ですよねー」 いつ自分の身分がバレたのだろう。仮にも休職中の身であるから、こんな所に出歩いていることがバレたら不味いことになる。 「それより、レンジャーたちの方でどうにか出来ないのか? 保護するとか」 「どうでしょう。伝説に出てくるポケモンを保護したなんて前例、聞きませんし……」 「あの……」 今まで黙っていた紅い髪の女性が、声を出した。 「ゲットする、……というのはどうでしょう? 皆さん程のレベルなら、彼らも認めると思うんですが」 今まで話を続けていた三人が黙った。 ゲットする。トレーナーとしてこんなに基本的なことを、どうして思い付かなかったのだろう。 「私は遠慮するよ」 他の三人の顔がこちらを向いて、何か言う前に女性警官はそう言った。 「自分を殺す気で技を出してきた奴を手持ちに入れる程、心が広くないんでね」 「そういえば、体の具合、大丈夫なんですか?」 心配そうに声をかけたレンジャーの額には、中央が赤く染まった白い包帯が巻かれている。 「そちらこそ、怪我は? 私が未熟なせいで、迷惑をかけた」 申し訳ない思いでそう口にした彼女に、 「いやあ、元気、元気。ピンピンしてますよ!」 とレンジャーは快活に笑って答えた。その隣でドンカラスが血気盛んな風で、大きな声で鳴いた。 「どちらにしろ、あの青年の意見も聞かないと決められませんね」 若いレンジャーがそう口にした。 ずっと踊り続けていたドレディアが、気が済んだらしく、一礼した後、身を翻して森の中へ飛び込んでいった。 入れ替わりに件の青年が、リュックを背負った状態で姿を現した。 簡単な挨拶を交わし、今回の事の次第に言葉少なに触れて厚い謝辞を述べた後、青年は先に抜ける意を伝えた。 その彼に、レンジャーの二人が、先程までの議題であった風神雷神の処遇について問いかける。 「どう思う?」と尋ねた彼女に、彼は苦笑しながら、 「どう思うと言われても、ヘマした俺には発言権無いですよ。耳と尻尾はあなたのものです」 そう軽い口調で答え、「ただ」と付け足した。 「俺の故郷にはこんな言葉があります。 『天から下ろされたものに、役目の無いものは何一つ無い』、と。 ……少なくとも俺自身は、ガキの頃からそう言い聞かされて育ちましたし、それが間違ってると思った事もありません」 そう言い残して、彼は体の向きを変え、頭を下げた。 「後の事は宜しくお願いします。縁が会ったら、またお会いしましょう」 そう言って、彼は足早にその場を去って行く。 青年の背中を見送ったその後は、またさっきの議題に逆戻りした。 「どうします? やっぱりゲットしますか。耳と尻尾はあなたのものだそうですよ」 「耳と尻尾だけゲットしてもなあ」 そう言ってから考え込んだ彼女に、 「でも、雷神を打ち破ったのはあなたなわけだから」 そう意見が述べられた。 彼女は少し考えて、結論を出した。ゾロアークからリザードンの尻尾の炎で乾かしたコートを受け取り、膝の上のチラチーノをボールに戻すと、その場に残った三人に向けて、こう告げた。 「風神の処遇はあなた方に任せる。……片を付けたのはあなた方なわけだし……。私は、雷神の方の始末を付けるよ」 了解しました、と答えたレンジャーたちを残して、彼女はアーケオスに乗ろうとした。 その時。 「あのポケモン……」 一番早く気付いたのは、目の見えない彼女だった。 彼女が示すその先には、青と黒の小さな獣人、リオル。 「あの子、彼のポケモンですよね」 女性警官は静かに頷いた。青年と共同戦線を張った時にもいた、あのリオルだ。 「確か、ラックル、だったか」 現場を心配して戻って来たのか、しかしトレーナーである青年の姿は見えない。 リオルは自分を見つめる四人に、大丈夫だと言う風に頷いて見せて、今は助太刀に来た人々に囲まれている少年の方へ視線を向けた。 ふと、バトル中、ラックルが少年のヒトカゲと懇意にしていたことを思い出す。 彼女の考えに、紅い髪の女性も気付いたようで、 「彼らと一緒に行くことを選んだのかもしれませんね」 そう呟いた。その後ろでリザードンと、そして何故かドンカラスが勇ましく鳴いた。未来の好敵手を思っているのかもしれない。 ラックルを迎え入れるかどうかは、少年たち次第だが、仮に断られてもあの青年のリオルなら問題あるまい。 そう判断した彼女は、待っていた原色の始祖鳥の背に腰を落ち着かせ、森の中へ駆けて行った。 辿り着いたのは、もう二度とごめんだと思っていた場所。 森が拓かれた、天然のバトルフィールド。例の雷神の目の前だ。 ドレディアのナンは先に来ていて、待ちくたびれたように彼女を見上げた。 彼女はアーケオスから降り、相棒のゾロアークが付いて来ていることを確認すると、バトルフィールドの中央にある、不自然な白い糸の塊に近付いた。 中にいるであろう雷神は、今は静かにしていた。 「ベー」 静かにバチュルの名を呼ぶと、肩に乗った黄色蜘蛛は、心得たとばかり彼女から飛び降りて、雷神を包む糸を切り始めた。 大方切り終わると、雷神は自分で糸を払って這い出してきた。 その目にさっきのバトルで見せた覇気はない。バチュルの糸に電気を吸われたらしく、フラフラしている。 雷神はどうにでもせい、と言わんばかりに、残った力と生意気さでもって彼女を睨めつけた。 「ナン」 花人の手から体力回復のきのみを受け取ると、それを雷神の方に差し出した。 驚いた表情で、きのみを断った雷神に向けて、彼女はこう言った。 「さっき言われた。……どんな生命にも役割があるらしい。お前たちにも、役目があるんだろう。……私には分からないが。 ただ、少なくともそれは、ところ構わず暴風雨をまき散らして、民家や畑を壊すことじゃない。人を遭難させるなんて、論外だ。 そんなことをしたら、私はもう一度お前たちを倒しに行く」 そして、雷神にきのみを押し付けて、こう付け加えた。 「それ以外は、勝手にしろ」 きのみを齧りながら、雷神は彼女を不思議そうに眺めていた。 「個人的に恨みがあったが、それももうどうでもよくなった」 と正直に答える。相棒の母親の問題はまだ彼女の心に深く根をはっていたが、それとこの雷神とは、最早無関係な別問題だ。 「……何か言うことはないか、スー」 水を向けた相棒は、ゆっくり頭を振って彼女に寄り添った。 相棒のたてがみを撫でる、その目の前で、雷神が離陸した。 「お別れだ。もう会うこともない」 彼女は静かに呟く。 その声が聞こえたのか、雷神は力強く頷いてから、遠くへ飛び去って行った。 もう、すっかり日は落ちている。 「とりあえず……地均しであの大穴を直して、……それから、お礼を言いに行くか。ひとりで息巻いて来たが、随分助けられたよ」 そう言うと、夜目にも鮮やかな原色の始祖鳥の背に乗って、彼女は元来た道をゆっくり戻り始めた。 |