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  [No.1008] 虚空の彼方 投稿者:サン   投稿日:2012/07/08(Sun) 10:39:27   53clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 ガタゴトと音を立てながら、何かの貨物が揺れているらしい。辺りは黒い布を被せたみたいに薄暗く、あいにく外の様子は分からないのだが。
 その音に従うように、私の入ったボールもまた、揺れていた。
 察するに、何かの乗り物に乗っているようだった。前にご主人と乗った、眩い光を発しながら真っ暗なトンネルをひた走る巨大な鉄の塊が、これと似たような感覚だったように思う。
 ボールの中にいることもあってか、小気味良いリズムはまるで揺りかごのよう、ガタゴト音はさながら子守唄といったところか。私はその揺らぎに身を任せ、うとうとと目を閉じていた。
 体はひどくだるくて、頭は重石をくくりつけられたようにぐらぐらする。何かを考えることすら億劫だった。重苦しい意識の中、ただひたすら、眠りにつくことだけ集中していた。
 これは、ただの悪い夢。寝て起きたら、きっと、全て元通りになっているはず。
 そう自分に言い聞かせながら。








―――――――――――
BW2をやってたらふと書きたくなったので、一気に書きなぐりました。
とりあえず読みきりサイズには収まらなかったので続きます。
完全なる見切り発車です。どうなることやら……

すでに長編一本連載していますが、特にいくつまでという規制もないようなのでこちらに投稿したいと思います。
簡単に見積もって五、六話くらいの長さになりそうです。
できるだけ完結できるよう頑張ります!

また、この作品は流血シーンや生々しい描写を少々含みます。
苦手な方はお気をつけ下さい。


  [No.1009] 一、夢の終わり 投稿者:サン   投稿日:2012/07/08(Sun) 10:41:16   71clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 私がご主人と出会ったのは、まだ飛び蹴りもできないようなレベルの低いころだった。
 捕まえた私をすぐにボールから出した少年は、にっと笑ってこう言った。日向にたんぽぽが咲いたみたいな、柔らかくて、優しい笑顔だった。

「今日から、お前の名前はユイキリだ!」

 私がちょこんと首を傾げると、特に意味があるわけじゃないんだけど、と少年は苦笑した。

「ただ、何となくカッコイイ名前だろう? よろしくな、ユイ」

 何がカッコイイのかはよく分からなかったけれど、とにかく私はそのときからご主人のポケモンになった。
 ご主人は旅をしていた。私はご主人に連れられて、たくさんの場所を見て回った。
 空まで届きそうなほど高い建物が蟻塚みたいに密集している街や、乾いた砂の風が吹く黄色い大地、一面が白一色の雪の山など。ご主人と一緒に歩いた世界は、どれもこれも生まれて初めて見るものばかりだった。
 行き交う人の多さに圧倒され、思わずご主人の足にしがみついた私に、彼は大丈夫と優しく頭を撫でてくれた。手でつまみあげた黄色い砂がさらさらと落ちていく様が面白いあまり、ついつい何度も繰り返す私を見て、ご主人は笑っていた。雪道をふと振り返れば、花びらのような小さな足跡のすぐ横に、頼もしい大きな足跡。何となく、嬉しくなって、私は黙々と足を動かす彼の横顔を見上げながら、その隣を歩き続けた。
 海を見たこともある。どこまでも、どこまでも広がる大海原に、私は例えようのない感動を覚えた。本当に世界は広かった。ご主人と出会う前の私が、どれほどちっぽけな世界を生きていたのかと思うと、喜びとも悲しみともつかぬ涙が自然と溢れてこぼれ落ちた。ご主人はそんな私を抱き上げて、いつも通りの、日向のたんぽぽみたいな優しい笑顔でそっと受け止めてくれた。その温もりが身に染みて、また泣いた。
 どれほど一緒にいたのか分からない。
 昼は色々なところを歩いたり、バトルで勝ったり負けたりを繰り返し、夜は仲間たちとご主人を取り囲み、星を数えて眠りについた。
 バトルを繰り返すうちに飛び蹴りはできるようになったけれど、まだまだ私は弱かった。仲間たちにずいぶんと助けられて手にした勝利も数多い。肝心なときに飛び蹴りを外して地面に激突し、そのまま負けてしまったこともある。
 そんなとき、ご主人はいつも私の体を労って、優しく慰めてくれた。だが、私がバトルで勝ったときなどは、とびきりの笑顔で褒めてくれた。
 まだ野生であったころに、かつての仲間が言っていたことを思い出す。人間にもいい奴と悪い奴がいる。強くなればなるほど、自分でトレーナーを選べるものだ、と。
 私は決して強くはなかったが、ご主人は優しい人間だった。ご主人が笑うと、何だか温かい心地になる。
 私は、ご主人のために強くなりたかった。
 強くなって、ご主人にもっと笑ってほしかった――



 ガタン。一際大きな揺れがしたかと思うと、それを境に音が消えた。
 どこかに着いたのか。
 揺れも収まり、しんと静まり返った世界の中で、ふいに、規則正しい足音が聞こえてきた。こちらに近づいてきているらしい。コツコツと床を叩く響きが、徐々に大きくなっていく。
 その音を聞くうちに、急に心に不安が兆した。
 だめだ。
 何も考えたくない。考えてはいけない。
 これは、全部、夢だ。
 ただの、悪い夢なんだから。
 私は目をつむったまま、必死に心の内に走る悪寒と戦っていた。
 誰かがボールの中の私を見て、蔑むような気配がした。



 その日も、私はいつものようにボールから出してもらって、ご主人の隣を歩いていた。
 近くに街があるのだろう。やたらきっちり整備された道路や、往来の多さがそれを物語っていた。
 何度かバトルも挑まれた。
 その日、私は朝から調子が良く、気持ちいいほどに飛び蹴りが決まった。一度も相手から攻撃を受けることなく、一発KOすることもままあった。

「ユイキリ、疲れてないか?」

 ずっと戦いづめだったからか、ご主人が心配そうに眉を曇らせて私の顔を覗き込んだ。

『平気だよ』

 私は元気に返事をした。
 ご主人にはきっと、キュウとしか聞こえなかっただろうけれど。それでも彼は何となく私の気持ちを察してくれる。

「そうか。なら、いいんだけど」

 あまり無理はしないでよ。ぽんと頭に手を乗せられた。
 胸の中にじんわりと温かいものが広がって、私は慕わしげにご主人を見上げた。そこで、彼の異変に気がついた。
 私の方を見ていない。ご主人は顔を上げ、どこか別の方向を威嚇するように睨んでいる。
 その視線の先を追っていくと、見知らぬ男が二人、私たちの行く先に立っているのが分かった。
 今が夜であったなら、すっかり闇に紛れていただろう。男たちは頭から爪先まで、見事に真っ黒な服を身にまとっていた。
 男たちはご主人の視線に気づくと、黒の帽子と黒のマスクの間に薄ら笑いを覗かせながら、こちらに向かって歩き出した。

「ユイ、行こう」

 ご主人は突然私の右手を掴み、前へ歩き始めた。
 今までさんざんご主人の隣を歩いてきたけれど、こんな風に手を引かれて歩くのは初めてだった。それも、そっとつまむような優しい導きではなくて、彼らしくない、有無を言わさぬ堅苦しいエスコート。
 喜びより先に、驚きのあまり私は慌ててご主人を見上げた。
 あの男たちの何がそんなにご主人を刺激しているのだろう?
 彼はきつく口を結んで、前を見据え、ずんずんと歩いていく。
 正直その慣れない歩調についていくのがやっとで、考える間なんてありはしなかった。私は何度かつまずきかけながら、遅れまいと必死になって足を動かした。
 あの黒ずくめの男たちとすれ違う、ちょうどその瞬間。一人の男がさっと手を伸ばし、ご主人の右腕を捕まえた。

「おい、待てよ少年」

 卑しい笑いを浮かべながら、男が言った。

「ずいぶんと可愛らしいお連れさんだな。一目惚れしちまうぜ」

 それを聞いていたもう一方が、下品な笑い声をご主人に浴びせた。

「いや、全くだ! なあ少年。そのコジョフー、俺の嫁に欲しいなぁ、なんて」

 言いながら、男はいやに親しげな様子でご主人の肩をぽんぽん叩いた。
 嫌な感じだ。男たちはあからさまに此方が困るのを面白がっている。

「ようし。じゃあ少年、こうしよう。俺たちとバトルして、もしお前が負けたら……」

 男は目玉をぐるりとさせて、いかにももったいつけるようにわざとらしく間を開けた。
 不意に、繋いでいた右手の圧迫感が強まった。どきりとしてご主人の顔を見上げると、彼は青ざめた顔を固く強張らせ、まるで痛みを堪えるかのごとく細かく肩を震わせていた。まるで、これから男たちに言われるであろう言葉が分かっていて、それに怯えているかのように。
 こんなご主人、見たことない。彼の不安を吸い込んでしまったように、どきどきと胸の鼓動が走り出す。痛いくらいに握られて熱のこもった手の中が、じっとりと汗ばんだ。
 男たちは、ご主人の顔を目ざとく見つめながら、歪に並んだ白い歯をにたりとさせた。

「……少年。お前のポケモンを解放してもらおう」

 それまでにたにたと笑っていた彼らの瞳に、獲物を定めた獣のような、爛々とした光が宿った。
 まずい。この男たちは、ずっと上手だ。私の直感がそう告げた。

「逃げよう、ユイ!」

 繋いだ手をぱっと離して、ご主人は腕を掴んでいた方の男に当て身を食らわせた。とたんによろける男の足下を、すかさず私が駆け抜ける。いつもの二足歩行ではなく、より早く走れるように、両手も使って。まろびながら前を走るご主人の後ろにぴったりとくっついて、ぐんぐん地面を蹴り上げた。
 男が何かを叫んでいる。よく聞こえない。聞きたくもない。
 心臓がばくばくと波打った。怖い。冷たい汗が首を伝い、肩に流れる。
 走る。ただ走る。
 今できるのは、それだけだ。
 と、不意に何かが風を切って、私の横を駆け抜けた。
 尻尾から頭のてっぺんまで、急に全身を逆撫でされたようで、怖気が走った。私は反射的に前へ向かって跳躍した。
 ご主人の驚愕した顔に、紫の疾風が凶器を振り下ろす。
 それは、一瞬の出来事だった。
 布地を裂くような音がして、真っ赤なものが飛び散った。
 ご主人は襲われた勢いのまま地面に倒れた。彼は這いつくばった状態のまま青ざめた顔を上げ、私を見つめた。その頬には、真っ赤な血がついていた。

「ユイ、キリ……」

 その声は、それまで聞いたことのないほどに弱々しく、今にも消え入ってしまいそうだった。
 赤い液体が大地を濡らす。
 ご主人は、今にも泣き出しそうな、震える声で、言った。

「ユイキリ……なんで、そんな……お前、僕を庇って……」

 私は右腕をだらりと垂らしたままぎゅっと歯を食い縛り、ご主人を襲おうとした相手を睨みつけた。
 右肩のつけ根がやけに熱い。私は流れ出るものを押し込むように、傷口に添えた左手に力を入れた。
 尋常でない痛みに気が遠退きそうになったが、今ここで倒れてしまうわけにはいかなかった。

『どうして、ご主人を狙ったの』

 目の前ですまし顔のままこちらを見据える黄色い斑模様の紫猫に向かって、私は声を低くした。

『知らない。そんなこと』

 いかにも関心のなさそうな、冷めた態度で、紫猫が言った。

『命令されたから。それだけ』

 なぜ、そんな。
 いくら命令されたとはいえ、場にいるポケモンを無視して人間を攻撃するなんて。そんな命令、普通は鵜呑みにするだろうか?
 紫猫が不敵に笑う。

『幸せなコね。世の中のこと、何にも知らないんだ』

 全身の体毛がぞっとそそけ立った。
 分かっている。気圧されているのを悟られてはならないのは。分かっている、はずなのに。紫猫の奇妙な目を見ると、胸に冷たい風が吹き抜けた。
 この紫猫は、底が知れない。身体はそこに存在しているのに、意識というか、心というか、そういったものをどこか遠くへ置いてきてしまったような、得体の知れない歪な気配を感じてしまう。
 どうしようもなく、身体の震えが止まらない。じりじりと焼けるような痛みがより一層ひどくなる。つい膝をつきたくなる。だが、ここで少しでも力を抜いたら、きっともう二度と立ち上がれない。
 私はよろめきながらもなんとか両足を踏ん張った。
 怖いけど、痛いけど。私が、ご主人を守らなければ。

「ユイ、もういい! もういいよ! 頼むから、もう、戻ってくれ!」

 ご主人が震える手で私のボールをかざしている。
 あの中に戻れば安全なのは分かっている。でも、そのときご主人は――
 不吉な思いが心に揺らいだその瞬間、男の声が冷たく響いた。

「デスマス、黒い眼差しだ」

 そのとたん、身体中に悪寒が走った。おぞましい眼光に晒されて、身動き一つままならない。

「おいおい少年。いきなり逃げようとするなんて、礼儀がなってないじゃないか」

 余裕しゃくしゃくといった様子で、男たちが迫ってくるのが見えた。
 その傍らに、小さな影のような、見慣れぬポケモンが浮かんでいる。そいつは黒ずくめの男たちに合わせたような黒ずくめの全身に、金色に輝く人の顔のような仮面を持って、小さいながらも独特の不気味な雰囲気を漂わせている。
 ゴーストポケモンだ、と直感した。
 その瞬間、私の中の微かな光が消えていった。胸の奥底に辛うじて燻っていた最後の戦意が、あまりにも呆気なく崩れ落ちていく。
 格闘ポケモンの私に、勝てる手段は、何もない。

「トレーナーなら、挑まれた勝負は断れない。だろう? 少年」

 まるで足の下に押さえた獲物を転がして、弄ぶように、男たちがにじり寄る。
 その嫌味な笑顔に吐き気を覚えた。

「デスマス、シャドーボール」

 仮面の影から放たれた黒い塊が音もなく私に向かってくる。

「ユイ! 避けろぉぉっ!」

 喉も割れんばかりの勢いでご主人が叫んでいる。それはトレーナーとしての指示というより、もはや祈りに近いものだっただろう。
 でも、無理だ、と思った。だって、もうどこも動かないもの。
 がっくりと膝をつく私の視界を、黒い稲妻が上から下へ、真っ二つに走り分けた。

「ユイキリ……」

 ご主人が、信じられないものでも見るように目を見開いた。僅かに開いた唇から、私の名前が掠れ出る。手を伸ばす。私に向かって。
 まるで夢の中にいるような、現実味のない、ふわふわとした不快な感覚。光と闇が入り混じる意識の狭間で、私はぼんやりと差し出された手を見つめていた。
 触れたい。触れたい。彼の手に。彼の温もりに。
 あるいは、それは本能的な衝動だったのかもしれない。産まれたての赤子が母の乳房を探るように、羽化したばかりの蝶が飛び方を知っているように。
 私の手は、不自然なほど自然にご主人を求めていて。それでも身体はうまく動いてくれなくて。
 辛うじて伸ばそうとした左手が、不意に誰かに引っ張り上げられる。とたんに痛みまで引き上げられたようで、私はか細い悲鳴をもらした。まるで血管と一緒に痛みの脈が走っているのではないかと思うほど、ズキンズキンと一定のリズムに乗って身体中に響き渡る。
 ご主人が何かを叫んでいる。口の動きしか分からない。きいきいと金属音のような耳鳴りがうるさくて、何も聞こえない。
 すぐ後ろで、男が何かを言った。
 指示を受けたのだろうか。あの紫猫が、しなやかな足取りでご主人に向かっていく。
 止めて、止めて。彼を傷つけないで。
 どんなに心の中で叫んでも、助けてくれる者は誰もいない。
 紫猫の長い前足が鋭く伸びて、ご主人の手から何かを掠め取る。何か。
 答えはすぐに出た。それが何を意味するのかも。

(私の、モンスターボール……!)

 それは、人間であるご主人と、ポケモンである私を繋ぐ、唯一の道具。
 あれがご主人の手にあったから、私は彼の元にいることができたのに。
 まるで身体の一部をもぎ取られたような、そして、二度と取り返しのつかないような、焦燥感と、喪失感。痛みと、絶望と、他にもいろんなものがぐちゃぐちゃになって、もう何が何だか分からない。
 紫猫が赤白二色の小さな球を咥えて悠然と踵を返し、黒ずくめの男の一人に渡した。
 男がボールを私に向け、たちまち赤い光に包まれる。
 どうしてだろう。もう何度も経験している感覚のはずなのに。
 自分のボールに戻るときは、こんなにも息苦しいものだったろうか。目が熱くて熱くて、身が引きちぎれそうなくらい悲しくて、どうしようもないものだったろうか。
 ご主人が呼んでいた。泣きながら、私の名前を。
 その声に答えたかった。彼の胸にすがりつきたかった。
 それでも、私の従わなければならない人間は、もう彼ではなくて。
 遠ざかっていく彼の声が、また悲しくて。
 私の意識は、深い深い悪夢の底へと落ちていった。



 ここはどこだろう。
 身体がぽかぽかと温かい。鉛のようなだるさも、痛みも、悪寒も、全て嘘のように消え失せている。
 ここは夢の中なのだろうか。
 誰かが私の背中をさすってくれている。毛の流れに沿うように、首の後ろから、尻尾のつけ根まで、優しく、優しく、そっとつまむような指運びで。
 この感覚には覚えがある。
 ご主人だ。ご主人が撫でてくれているんだ。
 そうか。やっぱり、あれは夢だったんだ。きっと私がうなされていたのを見て、ご主人が慰めてくれているんだ。
 こっちが本当の現実なんだ。
 何だか急にほっとしたようで、私はもう一度眠りの世界へと落ちていく。
 大丈夫。あんな悪夢を見るなんて、どうかしていたんだ。きっと少し疲れていたんだ。
 今度はいい夢を見られるさ。だって、ご主人が一緒だもの。
 大丈夫。大丈夫――



『大丈夫だ。今は、ゆっくり休みなさい』

 誰かが心に話しかけてくる。
 低く威厳に満ち溢れ、それでいて落ち着いた声だった。
 声は、私を諭すように、一言一言区切りながらゆっくりと続けた。

『傷は、きっと良くなる。だから、焦ることはない。
 目覚めた後は色々思うところもあるだろう。だが、決して自暴自棄になってはいけないよ。最初は納得いかないかもしれないが、よく周りを見て、落ち着いて行動しなさい。
 大丈夫。とにかく、今は静かに休むことだ。大丈夫、大丈夫……』

 夢の中の声に導かれるように、私は更に深い眠りの底へとついていった。
 今度はもう、夢は見なかった。ただひたすらにぐっすりと、安心し切って闇の中へと溶けていった。



 わあぁぁぁっ。沸き立つような喚声に、突如私は跳ね起きた。いつの間にか、またボールの中だ。
 やかましいほどの喚声からは、歓喜、怒声、激励など、さまざまな感情が入り混じって聞こえてくる。そして時折、地響き、雷鳴、いななき、何かと何かが激しくぶつかり合う鈍い音。
 何がどうなっているか分からぬうちに、私は突然ボールから放たれた。
 不思議だ。ずいぶんと長い間、外の空気を感じていなかった気がする。
 それを確かめるように、大きく息を吸って、吐こう、とした、その矢先。
 息と一緒に、心臓までも止まりそうになった。

「固体識別番号二三六。種類、コジョフー。性別、メス。使用可能な技は……」

 見知らぬ女性。
 何かのファイルをめくりながら、感情のない淡々とした口調で情報を告げていく。
 その様子だけでも相当不気味に思えるというのに。彼女は、夢の中に出てきたあの黒ずくめの男たちそっくりと服を身にまとっていた。
 辺りを見回して、更に混乱した。
 同じような格好をした人間が、何人も、いる。
 皆、闇夜のごとき黒服に、黒い帽子、黒いマスク、黒い手袋、黒い靴。全身真っ黒の、黒ずくめ集団。
 これは、一体何の悪夢だろう。思わず肩を抱き、目をつむる。
 ご主人、お願いだ。私を起こして。どうか、どうか、一刻も早く。この悪い悪夢から、目覚めさせて。
 わあぁぁぁっ。また喚声。
 つい目を見開くと、少し離れたところに、全身に刃をつけて真っ赤なヘルメットを被った小さな人型が、相対するように組み合っていた胴長鼠を辻斬りで一閃するところであった。
 息を呑む私をよそに、黒ずくめ集団が再び地沸くほどに声を上げる。

「固体識別番号二三一、コマタナ、認定ランクB」

 女性が、やはり抑揚のない声で言いながら紙に何やら書き込んでいく。
 地面に記された白いライン。スポットライト。広いフィールド。見覚えのあるような情景に、ここが、何をする場所なのか、うっすらと分かった気がした。
 ふと何かの視線を感じて振り向くと、白い稲妻型のたてがみを光らせながら、縦縞模様の大きな馬が此方を見つめ、いきり立つように蹄を鳴らしていた。

「行け、コジョフー」

 聞き覚えのある声にぞっとした。振り返ると、見たことのある顔の男がそこにいる。
 夢であったはずのものは、夢ではなかった。ずっと覚めることを願っていたはずなのに、目覚めた場所は、現という名の悪夢の続きで。
 私は、真っ白になった頭のまま、自分をご主人から引き離した男の顔を呆然と見つめていた。


  [No.1026] ニ、悪夢の饗宴 投稿者:サン   投稿日:2012/08/14(Tue) 16:21:54   70clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

「どうした。早く行け」

 苛立ちを露わに男が言った。尊大に私を見下す瞳には、光がない。

「行けったら」

 男は痺れを切らしたように舌打ちすると、私の脇腹の辺りを蹴り上げた。
 私は否応無しに広いバトル場へと放り出される。
 痛みよりも、絶望のあまり、身体が言うことを聞かない。何もかもうまく考えられなくて、頭の中に黒い渦がくるくる巻いては同じ問いを繰り返す。
 ねえ、教えてよご主人。私はどうしたらいいの。
 お願い、助けてよ。怖いよ、怖いよご主人。

『怖いよおぉぉっ!』

 突如響き渡った笛の音のような悲鳴に、私ははっと我に返った。
 子供らしい、甲高い声。見れば、すぐ隣のバトルフィールドで、毛むくじゃらの小さな犬がひっくり返って四つ足をじたばたさせながら、大声で咽び泣いている。

『怖いよおぉぉ! あいちゃん、あいちゃぁん! 助けてよおぉぉ!』

 トレーナーの名前だろうか。嗚咽混じりの声からは、時折、それらしい響きがこぼれて聞こえてくる。
 こんな小さなポケモンまで主人と引き離されたのか。
 その光景につい目を奪われていると、フィールドの端にいた黒ずくめの一人が子犬を指差し激しく罵声を浴びせた。
 何をやっている、役立たずめ。
 子犬の泣き方がひどくなる。
 さっさと言うことを聞け、この愚図が。
 思わず耳を塞ぎたくなる言葉の嵐。
 それでも子犬は泣き止まない。
 とうとう罵り続けていた黒ずくめが歩み寄り、まるでサッカーのシュートでもするような大袈裟なモーションで子犬を蹴り上げた。たちまち子犬の身体は投げ出され、対戦相手らしい腕組みした砂色の鰐の足元で、ぼろ雑巾のようにぺたんとなる。周りで見ていた他の黒ずくめたちから、ゴールだ何だの大喚声。
 砂鰐は、少しの間虚ろな目で子犬を見下していたが、特に手を差し伸べることもなくどこやらに視線を泳がせあくびをした。
 さっと鳥肌が立った。
 砂鰐の態度は、見て見ぬ振りというよりも、まるで関心がない様子。何事もないように平然と突っ立っている彼の足元には、まだ痛みにのたうち回る小さな獣がいるというのに。
 砂鰐の荒んだ瞳に、あの紫猫の面影が見えた気がした。目だけは対象物を捉えているのに、そこから通じた先には何もない。常世のどこでもない、遠く離れた別の場所から、何もかも、自分のことさえも他者の目線で見下しているみたいな、淀んだ光を浮かべた目。
 どうして、なんで。あんな目ができるんだろう。

「個体識別番号二三三、ヨーテリー。認定ランクE。調教の必要あり」

 女性が機械的に何かを読み上げると、黒ずくめの一人が仰向けに転がる子犬を乱暴な手つきで押さえつけた。
 縮れた毛玉が悲鳴を上げる。怪しく艶めく黒手袋の向こう側で、小さな足が懸命にもがいている。溺れているみたいに、苦しげに。
 黒いマスクがからから笑い、毒蜘蛛の足のような黒い指先が踊るように動くたび、チャラチャラと、金属同士が擦れるような音がする。
 喉元を降りてくる冷たい予感。見てはいけないと思いつつ、吸い寄せられて繋ぎ止められたように、目だけが離せない。
 やがて、子犬の泣き声がぱったり止んだ。精一杯の抵抗も、ぜんまいの切れた玩具のように緩やかに、そして、完全に動きが止まる。
 何らかの処置を終えた黒い手が、捕らえたときとは対照的に、優しく、そうっと、子犬の身体を解放した。
 子犬は動かなかった。仰向けにひっくり返ったまま、ぼろぼろの毛を床に広げて、いっぱいに見開かれた瞳はぐりんと白目をむいている。そのすぐ隣、涎で固まって房のようになっている長い毛と毛の間から、黒光りする何かが見え隠れした。口輪だ。いかにも頑丈そうな、幾つもの鋲を打ち込んだ、鉄の口輪。
 喉から降りてきた冷たいものが、胸の奥底の隅々まで広がっていく。
 時を失ったように動かない子犬の身体。きつく食い込む黒鉄の隙間から、無数の泡が溢れ出す。泡は薄汚れの毛を伝い、重力の赴くままに滴り落ちた。

『全く、馬鹿なチビだぜ』

 地面を蹴りつける蹄の音と一緒に声がした。私を威嚇していた、あの縞模様の馬だ。口元には、嘲るような笑みを浮かべている。

『ガキはガキらしく、素直に言うこと聞いときゃあ痛い目見ずに済んだのに。なあ、新入り?』

 言いながら私に向けられた縞馬には、また、あの目。
 止めて。止めてよ。もう、こんなの、見たくない。
 いよいよ堪え切れなくなって、身体中が痙攣したように震え出す。無駄に力んだ筋肉が次から次へとびくついて、だめだと思うのに、何とかしたいのに、自分ではどうにも止められない。止めようと思えば思うほど、固く食いしばった歯の隙間から、きりきりと耳障りな音がもれる。

『じゃ。一応新入りさんに、ここでのルールっていうの? まあ忠告な』

 そんな私の様子にも頓着せず、縞馬がぎざぎざのたてがみを振りかざした。

『ルールは大きく分けて二つ。一つはまあ、分かるよな? 奴らに逆らうなってことだ』

 縞馬が顎でしゃくった先には、ちょうどあの子犬が気絶したまま黒ずくめの人間に首根っこをつまみあげられて、どこかへ連れて行かれるところであった。
 いい見せしめだよな、縞馬が笑いを含んだ声でそう言った。

『さて、もう一つはもっと簡単。この場所じゃあ、弱さは罪。強さこそが全て。それだけだ!』

 場内のスポットライトが一斉に私と縞馬を注目する。試合開始を告げる、女性の声。むせるほどの喚声。その声の群れに混じって、一直線に指示が飛ぶ。

「ゼブライカ、スパーク!」

 相手方の黒ずくめが縞馬を指差し大きく叫んだ。それと同時に彼の白黒の身体が青白い稲光に包まれる。
 その様子を、地面に這いつくばったまま、半ば放心して見つめていると、

「コジョフー、見切りだ」

 コジョフー?
 背後から聞こえた男の言葉に、微かな違和感。
 違うよ、私の名前は――

「何やってんだ、馬鹿野郎!」

 縞馬の攻撃を直撃し、フィールドの端まで吹き飛ばされた私にたちまち叱咤の声が降り注いだ。
 ああそうか、と初めて気づく。私は、この男の言うことを聞かなければならないんだ。
 ボールを持っているだけの、私の名さえ知らない、この男の言うことを。
 いや、本当は分かっていたのかもしれない。男の声を聞き、顔を見た、最初のあの瞬間に。それでも、心の奥底で、何かが必死に抗い続けている。まだ、私は、ご主人の面影を探している。
 頬を地面につけたまま起き上がれずにいる私の腹の下を通じて、一旦遠ざかった蹄の振動が迫ってくるのが感じられた。あの縞馬が再び此方へ向かって突進してくるつもりらしい。

「もう一度、コジョフー。見切りだ」

 低くて、冷たい、有無を言わせぬ厳しい声。
 哀れな子犬の姿が脳裏をよぎる。
 動かなきゃ。うわべでも、何でもいいから、言うことを聞かなきゃ。
 ああ、でも。足が、強張って、動けない。
 近づいてくる、蹄の音。まるで運命のカウントダウンみたいに、刻々と。
 ご主人、ご主人。嫌だよ。まだ、あなたと一緒にいたいのに。
 そうだ。また海を見せてよ。海が見たい。
 きらきら光を弾いて揺れる水面。世界のまだ見ぬ土地へと続く青い地平線。走馬灯のように脳裏に閃いたその情景は、私はご主人の腕の中にいるみたいで、いつもより少しだけ視点が高く感じられて。いつか見た景色。いつか見る景色。または、そのどちらでもない、今までの彼との思い出全部が夢だったような気までして。
 いつしか目の前の静かな海が、荒ぶる雷となり、激しい音を立てながら襲いかかる。
 嫌だ。嫌だよこんなの。お願い。助けて。助けて、ご主人――!

『大丈夫』

 頭の奥底に声が響く。

『自暴自棄になってはいけないよ。周りをよく見て、落ち着いて行動するんだ』

 これは、夢の中の声?

『大丈夫、大丈夫……もう一度主人に会いたいのなら、とにかく、生きろ』

 そうだ。生きなきゃ。
 カッと目を見開くと、青い稲光がもうすぐ目の前まで迫っていた。硬い蹄が槌のように振り上げられ、下ろされる。
 見える。はっきりと。見切れる!
 全身の細胞が瞬時に反応する。咄嗟に左腕を地面に打ちつけ転がると、縞馬の蹄が背をかすった。
 危なかった。ひやっとしたのは一瞬だけ。
 私はバネのような膝を使って、ほとんど反射的に跳ね起きる。そのまま勢いは殺さない。空中で右手を突き出し、縞馬の脇腹の辺りに発勁を食らわせる。
 筋肉だろうか、それとも骨か。想像していたよりも遥かに固い。
 だが、不意の攻撃に驚いたのだろう。縞馬の細い足が四本とも、頼りなげにふらついた。
 チャンスだ。膝を使ってしなやかに着地をすると、軸足に力を入れ、そのうちの一本に鋭い蹴りを入れてやる。
 私より丈のある縞馬の巨体が、いとも簡単にひっくり返った。
 場内からどよめきの声が上がる。その反響に若干飲まれつつ、男が何かを叫んだ。
 私への指示のつもりだろう。聞こえないし、聞く気もない。
 全部無視して、もう一度地面を蹴って飛び上がる。その足を、前へ。
 ようやく起きた縞馬の顔に、驚愕の色が浮かんだ。
 ドッ、という鈍い音。一瞬間が空いて、縞馬の頭が再び地に伏す。場内のどよめきが吸い込まれるように消えていく。しんと静まった世界で、あの女性だけが相変わらずの淡々とした声で、何かを告げた。

「個体識別番号二三六、コジョフー。認定ランク、B」

 それを皮切りに黒ずくめたちがざわめき始める。なあおい、今の、何かすごくねえ? ああ、ぜったい負けだと思ったのに。いいなあ、いきなりランクBかあ。俺の奪ってきたやつも、それくらい強かったらなあ。
 私は肩で息をしながら、そのざわめきをぼんやりと聞き流していた。不思議と現実味が感じられず、何の達成感も湧いてこない。身体を流れる熱い血が、まだ刺激を求めて暴れている。
 今まで感じたことのない感覚に戸惑いが芽生え出したとき、ふと誰かが背後に立った気配がした。例のあの男だ。先ほどまでの苛立った様子はどこへやら、勝利の美酒に酔いしれた様子で目尻に皺を寄せ、黒マスクの向こうで満足げに笑っている。だが、見下す瞳は完全に私を通り越して、ここではないどこかを見つめていた。

「ようし、よし。よくやったな」

 言葉だけの労いを口にすると、男はボールを取り出し私に向けた。
 赤い光に包まれながら、私は、今ここにご主人がいたなら、どんな言葉をかけてくれただろうかと、そんなことを考えていた。



「ナンバー二三六、ランクB……いきなりBか。すごいなこりゃ」

「ああ。お前も闘技場来れば良かったのに。なかなか面白い試合だったぜ」

「ほー、そりゃあ見てみたかったな。……えーと、Bの四。ここだな。おい、出ろ」

 私が連れて来られた場所は、薄暗い地下道のような場所だった。
 ざらざらとしたコンクリートが剥き出しの質素な床には大小様々なポケモンが寝そべっていて、ボールから出された私を出迎えた。思わず咽そうになる埃っぽい空気と、一斉に突きつけられる、刃のように冷たい視線。その様子も、やはりというか、魂の抜けたような儚げな印象だ。どのポケモンも、あの紫猫や縞馬と同じ渇いた目。ここにいるポケモンは、皆こんな風に生気を吸い取られた抜け殻みたいになってしまうのだろうか。
 目に見えない圧力につい後ずさりすると、ガシャリという無機質な音とともに、冷たいものが背に当たった。妙な違和感。壁じゃない。思わず振り返り、息を飲む。床から天井に、それに、此方の壁から向こうの壁までびっしりと、規則正しく整列する黒い線。一本一本が私の腕ほどの太さもある。各隙間もそれぐらいだろうか。鼻先だけなら出せそうだが、頭はつかえてしまいそうだ。
 逃げ場のない鉄格子を呆然と見つめていると、静かな洗礼から一転、突然けたたましい雨音のような響きが押し寄せた。それを合図に、今まで寝そべっていただけのポケモンたちが腰を上げ、皆こぞって同じ方向へと集まり始める。
 何が始まるのだろうか。十数匹ほどの異種族が寄り集まった一群は、何もないように見える壁の前で静止した。
 やがて激しい音が鳴り止むと、壁の下部分が縦方向に回転した。口を開いたそこは窪みのようになっていて、中には何か茶色いものが覗いて見える。どうやら食べ物であるらしい。
 それを察したのと、強い香りが鼻を貫いたのと、どちらが先だったろうか。食欲を増すようにと、故意につけられた人工的な匂い。そのあまりの刺激に思わず口を押える。腹から熱いものがこみ上げ、それに感化されたように、飛び切り苦い唾液が湧き出てくる。まるで毒だ。
 その間に簡素な食卓は盛況に包まれていく。ある者は手を伸ばし、ある者は顔を窪みの中に突っ込んで、互いを押しのけぶつかり合い、一心不乱に咀嚼する。
 その音を聞きながら、私はその場に座り膝をかかえた。考えごとをするときのいつもの恰好。こうすると心持ち少し落ち着く気がする。
 できればこれから先どうするかを考えたかったが、とても気力が足りず断念した。代わりに、ぼんやりとした意識はあの縞馬との戦いを思い出していた。正直、彼に勝てたのは偶然だろう。あんな風に戦ったのは初めてだった。まるで熱に浮かされたみたいに、気づけば次から次へと技を繰り出していた。そういえば、結局あの男の言うことはほとんど聞かなかったのだと思うと、小さな抵抗が成功したみたいで少しだけ嬉しくなった。
 しばらくすると、ほぼ食べ尽くされてしまったからか、それとも匂いに慣れたのか、少しずつ吐き気も収まってきた。何も食べずとも、不思議と空腹は感じない。
 私は丸まったまま目を閉じた。
 ここ数日の色々な出来事が頭の中で再生される。小川で水遊びをしたこと、ご主人に肩車をしてもらったこと、仲間と一緒にオレンの実を頬張ったこと――
 ふいに明るく色づいた情景が停止した。じんわりと、目の裏が熱くなる。
 なぜ。なぜ、私だったのだろう。
 あのとき外に出て、ご主人の隣を歩いていたのが、私ではなく、他の仲間だったら。
 今更何を考えたって仕方がない。それは分かっているはずなのに、どうしようもなく“思うこと”は止められない。
 ディンは私よりずっと強いから、あの紫猫や仮面の影にも負けなかったかもしれない。ソルは身体も大きいし、足も速いから、ご主人を背に乗せて逃げられたかもしれない。
 いや、そもそもあの場所は何人ものトレーナーとすれ違った場所。街だって近くにあった。
 なぜ、私が目をつけられたのだろう? なぜ、誰も助けに入ってくれなかったのだろう?
 ご主人は泣いていた。顔をぐちゃぐちゃに歪めて、声を枯らして、何度も、何度も、私の名前を呼んでいた。
 そこまで思い出して、ふと、あることに気づいてしまう。
 守れなかった。私は、ご主人のポケモンなのに。何一つ、できやしなかった。
 なぜ今まで考えもしなかったのだろう。彼がその後、無事なのか。自分のことばっかりで、どうして、微かでも気にかけなかったのだろう。
 私がご主人を守らなくちゃいけなかったのに。
 助けて、なんて。私が言える言葉じゃなかったんだ――



『食べないのかい?』

 暗闇の中、低くて張りのある声が響いてくる。あのときの声と同じ。
 私はまた夢を見ているのだろうか。

『食欲が、無いんです』

 この前の夢と違って、今度は声を出せた。自分の耳でも辛うじて拾えたほどの、小さくか細い声になってしまったが。

『食べないと元気が出ないだろう。また明日も戦うことになるだろうから』

 それは分かるが、とてもそんな気分じゃない。匂いを嗅ぐだけであれだけ気持ち悪くなるのなら、口に入れたとたんに吐き出してしまうだろう。
 何も言わずにいる私に、暗闇の声は再び問いかけてきた。

『きみの名は?』

 名前? 私の?
 初めてご主人に会った日のことが、一瞬にして脳裏に浮かぶ。

 ――今日から、お前の名前はユイキリだ!

 眩しいほどの彼の笑顔。懐かしさすら感じることが、やたら悔しく思う。

『……ユイキリ、です』

『そうか、ユイキリ。その名前、大事にしまっておきなさい。必要なときに失くしてしまわないように』

『え?』

 何やら意味深な言葉を告げられ、戸惑う。
 そんな私を見てか、声はゆっくりとした口調で語り続ける。

『今はまだ耐えるときだ。日の光が差さぬこの場所で、きみの名を呼ぶ者は誰もいない。
 だが、いずれ必ず好機が来る。希望を捨てるな。
 ユイキリ。きみならきっと、主人に会える』

 はっとして、顔を上げる。
 深い暗闇の向こうで、おぼろげな白い霧が静かにたなびき、消えていった。


  [No.1048] 三、忘れえぬ思い 投稿者:サン   投稿日:2012/10/13(Sat) 13:00:22   87clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 新しい日常が始まった。
 目が覚めると、檻の向こうに毎日違う人間が私のボールを持って現れる。いちいち黒ずくめの顔なんて覚えていないが、昨日と別人かどうかの見分けくらいはつく。だからといって、別に何の感情を抱くわけでもないが。
 そのままあの縞馬と戦った闘技場まで連れられて、毎日へとへとになるまで戦わされる。相手は毎回違うポケモン。誰もが沈んだ目をして、自分のボールを持つ人間の指示をただ黙々と聞くだけだ。それに倣って、私も大人しく言うことを聞いて見せた。
 正直なところ毎回指示を出す人間が違うというのは難儀なもので、無茶苦茶な指示を出されたり、全く合わない呼吸を無理に合わせなければならなかったりと気苦労も多い。
 何度も何度も戦って、身体中がすっかりぼろぼろになるころ。私はようやく戦いから解放され、簡単な傷の処置の後、再び鉄格子の中へ戻される。そのときには、もうすでに余力など残っていない。泥のように眠り、起きると、もうそこには別の人間が私のボールを持って立っている。
 毎日、毎日、闘技場と檻の往復だけ。戦って、眠って、起きて、また戦って。うんざりするほど繰り返し、それでもまだまだ終わりは見えない。



『ずいぶんとやつれたように見える』

 暗闇の向こうから声が聞こえてくる。
 この場所に来てから度々例の夢を見る。一寸先も分からぬほどの真っ暗な闇の中、声だけの誰かと話す夢。低く落ち着いたその声は、何かと私の身を案じてくれる。夢を見る度に、私はいろいろなことをその声だけの誰かに話した。この場所での暮らしのこと。野生だった頃のこと。そして、ご主人のこと。何の繋がりも築かれないこの場所で、気づけばこの夢が唯一心の内を吐き出すことができる場になっていた。

『今日も、あまり食べられなくって』

『ひどい顔だ』

 戦いばかりの日常はともかく、あのきつい匂いを放つポケモンフーズだけは未だに馴染めずにいた。それでも何か食べねば衰弱していくのは目に見えている。今のところ水と一緒に無理矢理飲み込んで、何とか飢えをしのぐしかなかった。そんな荒っぽい食べ方のせいか、いつも腹に重苦しい感覚がつきまとうようになってしまったのだが。
 そういう話をしたら、以前は何を食べていたのかと尋ねられた。かつての記憶を手繰り、答える。

『ご主人が、よく、手作りしてくれたんです。木の実とかを使って。仲間たちも皆好きな味が違うから、わざわざ別々に作ってくれたりとか』

 何とも情けない話だが、以前の私にはそれが普通のことだった。その一食のありがたみを実感することもなく、ただ出されたものを平らげるだけ。何と無遠慮だったのだろう。その清々しいまでの図太さが、今となっては憎らしくも羨ましい。

『なかなかに気の回る主人だな』

『ええ、本当に。今思うとびっくりです』

 別に、それほど深い意味を込めて言ったつもりも、意識して表情を作ったわけでもない。なのに。声は、気遣わしげな響きを伴って、私の心の奥底を鋭く突いてきたのだ。

『ユイキリ。きみは、主人の話となると、いつも悲しそうな顔で笑うのだな』

『え……』

 突然の指摘に、私は返す言葉を無くしてしまった。
 鋭い刃先を煌めかせた言葉の矢は真っ直ぐに飛んでいき、隠していたはずの心に小さな穴を開けたのだ。自分でも知らず知らずのうちに布を被せて、見えないように、見ることのないようにと隠していた、深い心の奥底に。
 冷たく凍りついた頭に追い打ちをかけるように、再び声が滑り込む。

『……主人に、会いたくはないのか?』

 ああ。溢れてくる。ヘドロのようにどす黒く、どろどろと惨めで醜い感情が。
 黒い思いはとぐろを巻き、他の色んな思いまでも引きずり絡めてもつれさせ、ぐるぐる、ぐるぐる、と頭の中を駆け巡る。
 大事な大事なご主人を守れなかったのは誰?
 守るべき相手に助けを求めて泣き叫んでいたのは誰?
 そうやって語りかけてくる声は、意地悪な悪魔などではなく、間違いなく私自身のもので。
 どこまでも黒々と渦巻く意識の中、私はかろうじて弱々しい返事を喉の奥から押し出した。

『……分かり、ません』

『分からない、だと?』

 訝しげに声が言う。
 そうだろうな、と思う。初めてこの場所へ来たときの態度から考えると、きっと理解できないだろう。あのときはただ赤ん坊みたいに泣き喚いて、救いの手を差し伸べられるのを待つだけだったのだから。

『こうなってしまったのは、全部、私のせいなんです。私が、弱かったから。なのに……』

 脳裏に蘇る、あの白昼の悪い夢。紫猫の不適な笑み。爛々と光る男の目。そして、本当に何もできなかった、ぼろくずみたいな自分自身。
 守ろうなどとは笑わせる。守られていたのは、ずっと私の方だった。私はご主人の腕の中で、甘い現実に浸りながらのんびり暮らしていたに過ぎなかったのだ。
 止めどなく湧き出る黒々とした思いを断ち切るように、私は頭一つ振ってため息をついた。

『……こんな私が、もし、もう一度会えたとしても……ご主人と一緒にいる資格なんて、あるわけない』

 小さく呟いた本音の声は、風穴の開いた心の奥底へと帰ってゆく。
 真っ黒な気持ち。真っ黒な記憶。真っ黒な行く先。心の蓋をほんの少しでも開ければ、もう自分ではどうすることもできないほどに黒で塗り潰されていて。
 ああ。もういっそのこと。

『全部忘れてしまえれば楽になれるのに、か?』

 驚いて目を上げる。今、心を読まれた?

『ユイキリ。きみは、私に名を教えてくれただろう』

 呆然と闇を見つめる私に、声はいつもと同じ、ゆっくりとした口調で語り続ける。

『とうに答えは出ているだろうが、きみには少し考える時間が要るようだ。
 きみがなぜそこまで自分を責めるのかは分からないが、誰しも最初から強いわけではない。ならばどうするか? それは簡単でいて難しい。我々皆が抱く願いだ』

『……でも、私は……』

 言いかけたところで、何も言葉が見つからない。分からない。本当に。
 私は何がしたいの?
 このままここで暮らしていくの?
 ご主人に会いたいの?
 会ってどうするの?
 ごめんなさいって言えばいいの?
 分からない。ワカラナイ。
 思いは泡のようにふつふつと湧き上がり、浮かんでは弾けて消え、ぶつかり合っては混ざり合い、もはや思考の筋道を成そうとしない。
 口をつぐんで俯く私に、声は、静かに言い放った。

『どうにせよ、機が熟すまであと少し時間がある。それまで、よく考えておくといい』



 また、目が覚めた。一日が始まる。
 黒ずくめが檻の前にやってくる。私をボールに戻して、闘技場へと向かう。
 いつもと同じ。全く同じ。
 ボールの向こう側で後ろに下がっていく廊下の景色をぼんやりと見つめながら、昨夜の夢の記憶を辿ってみる。何を考えればいいのだろう。何の気力も湧かない。代わり映えのしない日常に、自分の意識がどんどん希薄になっていくような気がする。こっちが現実のはずなのに、頭は夢の中の方がはっきりしているのではないだろうか。
 結局大して思考は進まぬまま、広いバトルフィールドでボールのスイッチが押される。
 ああ、また一日中戦わなきゃ。今日の黒ずくめはどんな命令をしてくるだろう。面倒な指示とかされなければいいけれど。そんなことを思いながら、最初の対戦相手と向かい合う。
 その瞬間、杞憂も、何もかもが吹き飛んで、頭が真っ白になった。
 なぜ。なぜ、そんな姿をしているの。
 私の目の前に立つのは、あのときの子犬。泣きじゃくり、何度も何度も繰り返し主人の名を叫んでいた挙句、罵倒され、蹴りつけられ、鉄の口輪をはめられてどこかへ連れて行かれた、あの哀れな獣だ。
 なぜ分かったかといえば、その幼い顔立ちと甲高い声に、微かな面影を感じ取ることができたからだ。実際どうして気づけたのか自分でも不思議である。
 それほどまでに、子犬の姿は変わり果てていた。興奮露わに逆立つ全身の毛は無茶苦茶に踏みにじられた毛糸玉のように汚れ乱れて、鼻に皺を寄せて闘志全開、今にも標的に食いつかんと唸り声を上げるその姿は、もはや子犬と呼ぶには似つかわしくないほど異様な脅威を放っている。この短い期間に何をどうしたら、ここまでの変貌を遂げるというのだろう。
 目と目が合って、久しく感じることのなかった感情が心の底から迸る。
 この場所に連れて来られてから何度も見た、すっかり見慣れたはずの、淀んだ光を浮かべたその瞳。全身剥き出しの敵意の熱が、そこだけは冷たく凍りついていて。
 なんで。どうして。同じ日に、同じ時間に、同じ心を持っていたはずのこの子犬が、こんな荒んだ目をしているのだろう。
 私が戦いに明け暮れていた間に、あなたの身には何があったの?
 喉まで出かかった疑念の声は、すぐさま恐怖にかき消される。
 聞いたところでどうするの。答えなんて、返って来ないに決まってる。それに、知りたくない。きっと知らない方がいい。
 すっかり麻痺したものだと思い込んでいたけれど。心の激情は、ただ単に突貫工事の脆い壁で塞き止められていただけだったんだ。予想だにしない出来事に直面すれば、こんなにも呆気なく壊れてしまうのだから。
 いつしか冷たい目をした子犬の容姿が、自分の姿へと変わっていって。私の前に立つ私は、淀んだ光を浮かべた目で、顔いっぱいにどろどろに歪んだ微笑みを浮かべて、私にこう言った。

『あなたも、こうなるんだよ?』

 怖い。怖いよ。
 ねえ、助けて、ご主人――
 もう私には、そう願う他にどうすることもできなくて。後で自己嫌悪に陥ることを分かっていながら、心の中に浮かべたその面影にすがるのを止められない。
 実際にはほんの数秒の顔見せだったのだろう。あり得ぬ幻は、相手方の黒ずくめが何かを叫んだことで唐突に消えていった。それを合図に子犬が此方に向かって飛びかかる。空中で薄茶色の毛玉は大きく横に裂け、ぎざぎざの白い牙を前面に剥き出した。その様子も、ひどくゆっくりに見えた。
 おそらく私にも何かの指示を飛ばされていただろう。でも、もう何も聞こえない。何も感じない。音も消え、色も果て、世界は私を置き去りに、静かに時を進めていった。



 その後のことは、もうよく分からない。子犬以外の相手とも戦った気がするし、そうじゃない気もする。
 今更だが、きっと私は他のポケモンよりほんの少し演技がうまいだけだったのだろう。黒ずくめたちが怖い。逆らったら、何をされるか分からない。だから器用に心を殺した振りをして、大人しく言うことを聞いているように見せかけて、でも、独りになれば膝を抱えて泣いていた。
 どれだけ意地汚いのだろう。どれだけ浅ましいのだろう。それでも私は生きたかった。“私”として生きていたかった。それなのに、その先を見据えることもせず、望む勇気もなく、ただひたすらに己の生にしがみついて足踏みするだけだった。だから、たったこれだけのことに気づくのに、こんなにも遠回りをすることになってしまったのだ。



 気がつくと、私は檻の中にいた。いつ戻って来たのかも思い出せない。
 場はちょうど食事の時間らしく、同居者たちは例の回転する壁の前に群がって、いつも通り押し合いへし合いの執着ぶりでせっせと頬張っている。
 身体が熱い。喉が痛い。ずっと震えが止まらない。私は泣いていた。鉄格子にもたれかかって膝を抱え、顔を埋めて丸まりながら、声もなく静かに涙を流していた。
 きっと、答えはシンプルだった。それはどこまでも純粋で、透き通った、揺るぎないものだったのに。それなのに、私はそれを否定して、遠ざけ続けた。
 ここへ連れて来られてから今の今まで、たくさんの心の壊れたポケモンたちを見てきた。見慣れてきたとさえ言ってもいいだろう。ここにはそういった生き物しかいないのだから。皆、恐ろしいほど物事に無頓着で、黒ずくめの命令を淡々とこなすだけの機械のような生き物だ。しかし、あくまでも自分は違うと思っていた。自分がそんな薄っぺらな生き物になるなんて、想像すらもしなかった。
 今日、あの子犬が目の前に現れて、ようやく私は己の危うさを知ることになったのだ。目と目が合ったあの一瞬、子犬と私の辿ってきた道の違いを思い知らされた。視線、表情、息づかい。子犬から感じられるものの全てが、言葉よりも何よりも強い説得力を伴い物語っていた。もうあの子は、かつてのポケモンじゃない。心を殺され、過去のことは何もかも忘れ去り、完全にこの場所への仲間入りを果たしたのだ。あれだけ求めていた主人のことも、主人を求めていた、自分のことさえも。
 ああ、どうしてもっと早く気づけなかったのだろう。ちょっと考えれば分かることだろうに、何かと理由をつけて現実から目を背けようとして。馬鹿みたいだ。
 もう、嫌だよ。こんなところにずっといたら、いずれ私も毒されて、私が私じゃなくなってしまう。人も、ポケモンも、みんなが自分の心をズタズタに引き裂いて、それで笑っていられるんだもの。おかしいよ。こんなの、どうしてみんな平気でいられるの。
 分かったつもりではあったけど、その真の恐ろしさが改めて身を食むようだった。
 きっと、今までは運がよかっただけ。適当な演技で黒ずくめたちを出し抜けていただけなんだ。結局そんなものは、ほんの少し寿命を延ばすだけ。私も、いつ心が死んでしまうか分からないんだ。
 そう思ったとたん、今まで感じたことのないくらい酷い寒気に襲われた。
 嫌だ。忘れたくない。ご主人のことを。私に名前をくれて、居場所をくれて、優しさをくれた、大好きな人間のことを。

『……いたい』

 会いたい。会いたい。会いたい。あの人に。ご主人に。
 あの柔らかな笑顔に包まれたい。あの優しい声で私の名前を呼んで欲しい。そして、あの温かな腕に抱かれてぐっすりと眠りたい。
 ずっと押し殺していた彼への思いが、堰を切って溢れたようだった。
 それは忘れ去ろうとしたはずの記憶。願ってはならないと潰したはずの夢。
 温かくて、懐かしくて、悲しくて、切なくて、苦しくて。
 決して負い目が消えたわけではない。だが、もはや戒めの楔では感情を抑えることができないのだ。
 会いたい。思いは、願いは、たったそれだけ。どこまでも純粋で、透き通った、揺るぎない気持ち。
 泣いている場合じゃない。じっとしている暇だってない。行かなきゃ。ご主人に、会いに行くんだ。
 私は乱暴に涙を拭い、顔を上げた。
 脱出の当てがあるわけではない。それでも、あの子犬の変貌した姿を見てしまった今、こうしてここにいることがとてつもなく恐ろしく思えてならなかった。息をする度に吸い込む埃っぽい空気が、つんと鼻をつく食べ物の匂いが、凍てついた氷のような同居者たちの視線が、徐々に私を蝕んで狂わせていくのではないかと、過剰な疑念さえ呼び起される。
 とにかく早く逃げ出さなくちゃ。でも、どうしたらいいだろう。
 辺りを見回して、ふいにあるものが目に留まった。食事の時間になると山盛りのポケモンフーズが壁の向こうから現れる仕組みの回転扉。
 私がいつも口にするのは、皆が食べ終わった後の方だ。一匹、二匹と食事を終えて離れていくのを待ってから、ほとんど空になった窪みに手を突っ込んで数粒だけ頂戴している。覗き込めばそこそこの深さがあって、毎回前のめりにならなければ奥まで手が届かないくらいだ。そう、ちょうど小さなポケモンならば十分に入り込めるほどに。そしてこの回転扉は皆が満足して離れると、勝手に壁の向こうへ動きだし、元の何もない壁へと戻るのだ。
 こんなにもタイミングのいいことがあるのだろうか。まさに今、音を立てて窪みが閉まりつつあるところであった。
 あの先がどうなっているのかは分からない。でも、もう迷っていられない。私はなりふり構わず駆け出すと、口を狭めていく窪みの中へと身を滑り込ませた。僅かな空間でたちまち光が遮断されたかと思うと、ガチャンという音がして動きが止まった。真っ暗で何も見えない。
 私は息を詰め、五感を目一杯に使って周囲の様子を探ろうとした。どんなに目を凝らしても、黒い影で塗り潰された空間には僅かな光さえ見えない。だが突き出した鼻面に、一瞬だが確かに空気の流れを感じた。それに、音も聞こえてくる。錠つきの扉が動くような、金属めいた音。もしかしたら出口の音かもしれない。
 よかった。真っ暗でよくは見えないけれど、ここはちゃんとどこかに繋がっている。いよいよ希望の光が実感を伴って兆し始めた。喉の奥で、ばくばくと心臓が波打っている。
 会える。ここを抜ければ、ご主人に会える――!
 私は体制を低めて四つん這いになると、足元に十分注意を払いながらゆっくりと歩き始めた。高まる気持ちを抑えつつ、空気の流れを感じた方向に向かって一歩ずつ進んでいく。
 どうやらここは食糧庫のような場所らしい。例のきついポケモンフーズの匂いがあちらこちらから漂ってくる。ただでさえ苦手な匂いだ。普段の虚ろな状態ならば、決して耐えられなかっただろう。
 時折、ごうん、ごうん、と重量感溢れる無機質な響きが聞こえてくる。何かの機械が動いている音だろうか。おそらくだが、ここから各檻に食糧が振り分けられているのだろう。
 嫌な感じだ。何から何まで管理され、閉塞的で人工的なここでの暮らし。その禍々しい渦の中に引きずり込まれるところであったことを思うとぞっとする。いや、ここで失敗すれば同じこと。もう後には引けない。私は絶対に立ち止まれない道を歩み出したのだから。
 やがて、暗闇の奥に一筋の光が見えた。出口だ。
 いてもたってもいられなくなって、私は駆け出した。
 会える。会える。あと少しで、ご主人に会える!
 興奮が膨れ上がっていくと同時に、妙な感覚が胸の奥に引っかかった。ふいにこの先へ行ってはいけないと、誰かから警告されているような気がしたのだ。
 だが、無駄に足を止めればその分捕まる可能性も高くなる。
 違和感の正体を何も掴めぬまま、私は転げるように光の中へ飛び込んだ。
 食糧庫の先は、白い蛍光灯が寒々とした光を放つ細い通路であった。檻と闘技場の往復時に使われる廊下と通じているのだろうか、普段ボールの中から見る情景とはよく似ていた。
 例の黒ずくめの人間が三人ほど、途中の壁にもたれて何やら立ち話をしている。
 私は息を詰めてそっと様子を伺った。
 冷たい壁に阻まれた陰気な通路は奥まで真っ直ぐ伸びており、一定の間隔毎に十字の曲がり角があるようだ。一番奥の突き当たりは、どうやら登り階段になっているようである。
 ここは地下なのだろうか? だとすると、出口はあの階段の上にあるのか。いずれにせよ、黒ずくめたちの前を通らなければならないのは間違いない。隠れられるような場所がどこにも見当たらないため、見つかる覚悟で一気に駆け抜けるしかなさそうだ。
 私は息を深く吸っては吐いてを繰り返し、少しの間目を閉じた。心の奥底では、まだあの違和感が不穏な煙を立てながら燻っている。
 迷っている場合じゃない。ご主人に会いに行くんだ。何があっても、絶対に立ち止まらないようにしないと。
 私は意を決すると、力強く床を蹴り上げた。前足と後ろ足を交互に動かし、みるみる勢いを増していく。
 私に気づいた黒ずくめたちの間から驚きの声が上がる。突然のことに呆然と見ていただけの彼らの様子が、脱走だ、という誰かの一声で皆一様に我に返ったようだった。ばたばたと慌ただしく動き出す。

「おい、首輪は!」

「着けてないみたいだ! あいつ確かBだぞ」

「ボール、ボール取って来い!」

 猛々しい土砂降り雨のような足音を立てながら黒ずくめたちが追って来る。
 覚悟していたこととはいえ、全身が燃え立つように戦慄した。
 止まるな。駆け抜けろ。人間を振り切るくらい、簡単なはずだ。恐怖で負けそうになる心を、必死になって叱咤する。

「ジヘッド! そいつを止めろ!」

 背後から光が放たれ、私の目の前に降り注いだ。白い光はみるみる形を成していき、一つの身体に二つの頭を持った黒い竜の姿になる。

「竜の息吹だ!」

 二つの頭が同時に仰け反り、青く煌めくブレスを吐き出した。私は急ぎ足を速めた。直撃は免れたものの背中をかすったらしく、ビリリとした刺激が走る。だが、これしきで怯んではいられない。私は双竜の胸元まで一気に詰め寄ると、右の頭の顎に発勁を食らわせた。右の頭はたちまち首をのたうたせ、苦痛に呻いた。
 今のうちだ。
 双竜の足元を素早く駆ける。抜けた、と思ったその瞬間、腹に鋭い痛みが走った。左の頭が、胴を丸々包み込むような形で噛みついてきたのだ。とたんに肺が圧迫され、息が詰まる。鋭利な牙は容易く皮膚を裂き、めきめきと嫌な音を立てながら少しずつ私の身体に食い込んでいく。私はぎゅっと歯を食い縛り、双竜の頭を掴みあげると、ありったけの力で引き抜こうとした。双竜も負けじと顎に力を入れて、離すまいとしているようだ。
 こうしている間にも、黒ずくめたちの足音がどんどん近づいて来る。早く、早く何とかしないと。だが焦って力めば力むほど、腹を蝕む痛みがじくじくと増していく。玉のように浮き出た赤い液体が、重みに耐えきれず床に滴る。
 双方一歩も譲らず組み合ううち、もう一方の首が起き上がり、此方を見据えて大きく息を吸い込んだ。もう一つの首ごと竜の息吹を浴びせるつもりか。
 とっさに私は掴んでいた頭を引っ張った。突然のことに反応しきれず、双竜は足をよろめかせる。右足に全体重をかけて、双竜の頭を一気に床へと叩きつけた。二本の首を生やした身体はバランスを失い、派手な音を立てて転倒した。
 また攻撃される前に、早く逃げよう。幸い階段はもうすぐそこだ。
 背後から飛んでくる黒ずくめたちの怒声を無視して、私は再び駆け出した。
 腹の傷は、もう大して気にならない。走る度に高まっていく感情が、痛みも恐怖も全て薄めてくれているようだ。
 私は飛びつくように階段へ到達すると、勢いそのままに登って行った。
 あとちょっとなんだ。ここを登れば、きっと、ご主人に会えるんだ。
 いよいよ実感を伴って膨らむ期待。同時に、酷く不快な――目の前が眩んでいき、吐き気がして、胸の奥底をじらじらと焦がすような――そんな感覚が、少しずつ大きくなってくる。これは、あのとき感じた違和感だ。まるでご主人に会える期待が膨らむほどそれに比例するように、いや、むしろその膨らんだ期待を取り込んで、更に大きく成長しているようである。この先へ行ってはいけないという警告が真っ赤に色を変え、もはや抗いようのないほど強大な力を持って私を苛んでくる。
 喉に穴が開いたみたいにうまく呼吸ができなくて、どんどん息が苦しくなり。黒いカーテンが両側から閉じられていくように、視界がみるみるうちに狭まって。もはや自分の身体とは思えぬほど鉛めいた重さの圧しかかる全身が、とうとう這って進むことさえできなくなり。
 一瞬、なぜだろう、と思ったが。一つだけ、心当たりがあった。思い出した。私と、ご主人とを繋ぐ、一つの道具の存在を。
 何なのだろう。思えば思うほど、固く強く、繋ぎ止められてしまうなんて。何なのだろう。こんなの、どうしろと言うの。おかしいよ。おかしくて、涙さえ出ないよ。
 諦めというよりも、空っぽになった、本当にそんな感じだった。だから、後からやって来た黒ずくめたちに押さえつけられ、罵詈雑言を浴びて、どこかへ連れて行かれる間も、私はただ呆然と絶望の底を眺め続けるだけだった。


  [No.1060] 四、名前を呼ぶ声 投稿者:サン   投稿日:2012/11/01(Thu) 16:48:28   71clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 モンスターボールが発明されたのは、とある実験中に偶然起きた不幸な事故がきっかけだという。だが、その偶然がなければ、今の人間とポケモンとの関係はあり得なかったのだろう。両者の距離はぐっと縮まって、人間は誰でもポケモンと心を通わすことができるようになり、ポケモンはいつでも人間の傍にいられるようになった。
 もちろん、いいことがある反面、悪いことだってある。ポケモンは、自分で主人を選べない。捕まえたのが悪い人間だったときは、自分の運勢を呪うしかないだろう。だが、それで終わりでは救いがない。人間に逃がす気がなくても、ポケモンがその気になれば、主人の元から去ることもできるそうだ。
 最も、モンスターボールにポケモンを縛る魔力があるのは間違いないが。
 だから、私は逃げられない。このボールはご主人のものだから。離れたくても、離れられないんだ。
 何の冗談だ。ご主人に会いたくて、ただそれだけなのに。そうするには、彼との絆を一度断ち切らなければならないなんて。そんなこと、できるわけがないじゃないか――!



「脱走? へえ、珍しいこともあるんだな。薬漬けがうまくいかなかったのか?」

「それが、餌をまともに食ってなかったみたいなんだ。簡易検査の結果だと栄養状態が悪くてさ」

「あー、それで見逃してたのか。格闘タイプは見た目じゃ体調分かりにくいからなあ。ちょっとくらい絶食しても平気なツラしてやがるし」

 誰かの声で目が覚めた。人間の声だ。
 目覚めの重苦しい意識は、それでも冷静に状況を把握しようと働いてくれた。
 背中に固くて冷たい感触。どうやら仰向けに寝かされていたらしい。
 ここはどこなのだろう。高い天井から吊り下げられた、何本もの白い管。すっと鼻を通る消毒液の匂い。壁の一部はガラス張りになっていて、その向こう側は白く曇ってよく見えない。
 すぐにポケモンセンターの治療室を連想したが、そんな日常的な場所でないことはよく分かっていた。
 なぜだろう。ものすごく嫌な予感がする。
 起き上がろうとして、身体に全く力が入らないことに気づく。手も、足も、首も、腕も、膝も、尾も、まるで全身が石になったみたいに動かない。
 一瞬身体が麻痺しているのかとも思ったが、感覚はあるようなので、単に痺れて動けないわけではないようだ。目は眩しいほど強烈な光を発する白熱灯や、黄色い点滅を繰り返す大きな機械の形をはっきりと映しているし、耳も、そもそも黒ずくめたちの話し声で目が覚めたので、ちゃんと機能しているのだろう。
 感覚の一つ一つが正常かどうかを確かめて、やはり身体だけは動かせないという結論に辿り着いた。明らかに普通の麻痺とは違う。どんなに動こうと思っても、神経が遮断されたようで、どうすることもできないのだ。それこそ、頭と身体をばっさり切り離されてしまったみたいに。

「筋弛緩剤は? ちゃんと入ったか?」

「もう十分だろ。じゃ、調教始めますか」

 黒ずくめたちの言っている意味はよく分からない。だが、黒ずくめの片方が手にしたものは、見覚えがあった。艶やかに光を反射する黒鉄のリング。あの子犬に着けられていた禍々しい口輪とそっくりだ。
 やめて。やめてよ。それだけは、嫌だ。
 どんなに心の中で叫んでも、それが本当の声になることはない。浅い呼吸をするので精いっぱいの喉は、微かな呻き声しか出してくれなくて。
 冷たい手が降りてくる。怪しく艶めく黒い手袋は、躊躇なく私の喉元を捕らえた。その手を振り払いたくても、大声で泣き叫びたくても、目に見えない力で押さえつけられた私は綿の詰まったぬいぐるみみたいに大人しくしていることしかできない。
 やがて、ガチャリ、という金属質な音がして、冷たい首輪がはめられた。凍りついたような感覚が首に張りついたその瞬間、思考が真っ黒になる。自由も、尊厳も、何もかも奪われて、もう二度とご主人の元へ帰れないのだと告げられたようだった。
 そして、呪わしい儀式が始まる。
 黒手袋が離れたのを皮切りに、首輪から強力な電撃が流れ出した。電流は激しい音を立てながら、瞬く間に全身を駆け巡る。機能を失った筋肉が好き放題に暴れまわり、焼けるような痛みが身体中を蝕んでいく。
 何度か遠退きかけた意識は、いっそ手放せてしまえば楽だというのに。黒ずくめたちの悪意が透けて見える。苦痛を与えるためだけに、気絶するかしないかの限界ギリギリまで調整された強烈な電圧。
 痛くて、苦しくて、辛くて、怖くて、悲しくて、悔しくて。永遠とも思える責め苦の中、辛うじて繋ぎ止められた意識の底で、私はずっと助けてと叫んでいた。届かないと分かっていても、くしゃくしゃで、途切れかけて、おぼろげに色あせた、あの日向のたんぽぽみたいな優しい笑顔に向かって必死になって手を伸ばし続けていた。何もかもぐちゃぐちゃに壊されていく中で、それでも、一秒でも長く私が私でいられるようにと。それが、身体の自由も心の自由も全部縛りつけられてしまった今の私にできる、悪意に対する最大限の抵抗だった。

『ユイキリ! なぜきみがここにいる!』

 上下感覚も、光の加減も、自分がどちらを向いてどんな格好でいるのかさえ分からなくなっていたにも関わらず、ふいに聞こえてきたその声は、妙にはっきりと頭に響いていた。聞き覚えのあるような、朗々とした声。
 一瞬何か閃きかけたような気がしたが、すぐに混沌とした思考の渦に消えてしまう。
 なぜ? なぜ、分からない。何も分からない。嫌だ、考えたくない。怖い、怖い、怖い――

『しっかりしなさい! 今、助ける』

 再び声が響いたとたん、ものすごい爆発とともにガラスの壁が派手な音を立てて飛び散った。無数の透明な破片は、ダイヤモンドダストのようにきらきらと光り輝きながら辺り一面に降り注ぐ。
 黒ずくめたちが驚き、それと同時に電流が止んだ。二人は我先にと扉へかじりつき、その向こうへと消えていく。
 割れたガラスの向こうから、もくもくと白い煙が溢れ出る。それは炎から立ち上るものとは違っていて、液体のような重みを持って床へ流れ広がった。
 開きっぱなしの瞳は、目の前で起きたことをしっかりと捉えていた。だが、目では見えていても、ぼろぼろに焼け焦げた頭の中はその状況をさっぱり呑み込めない。何一つ分からない、呆然とするしかない私を、無情な時は待ってくれない。
 滔々と湧き出る白い煙幕を突き破り、それは現れた。
 凍った竜。その姿を一言で表現するなら、まさにそれしかないだろう。
 銀の鱗で包まれた全身は、ところどころが冷たい氷で覆われていた。それは甲冑のように顔や、腕や、尾を取り巻いて、それぞれが冷気の渦を発している。凍った翼の先端には、鋭く透き通った氷柱のようなものが生えていた。だが、大きさからしても、長さからしても、一対の翼は明らかに左右非対称でバランスがおかしい。さらには身体の割にやたらと首が長い上、頭は重そうに垂れ下がり、もはや床すれすれだ。生物としての形状を大きく間違えているような身体つき。だが、不思議と歪さを感じない。その姿は一見異形のようであって、緻密に作り上げられた彫像のように荘厳でもあった。
 竜が歩くと、辺りの空気が一斉に張り詰めた。ぴしりぴしりと音を立て、床に、壁に、薄い氷の膜が広がっていく。冷気の渦が私の顔にも降りかかった。
 氷の竜は目の前までやってくると、おもむろに腕を振り上げて爪をカッと閃かせた。振り下ろされる凶器。私は息を飲んで身を固くした。しかし痛みはいつまで経ってもやってこない。その代わりというべきだろうか、気づけば首回りの冷たい感覚が消えている。首輪が、外れている――?
 いちいち鈍間な思考しか成さない頭に、再び声が滑り込む。

『大丈夫かユイキリ、一体何があった!?』

 なぜ、私の名前を知っているのだろう? 首を捻りかけて、ようやく合点がいった。
 この声、いつも夢の中で聞こえてくる声だ――
 何か返事をしようとしたが、うまく声が出せない。それを察してか、

『ああ、喋らなくていい。心の中で教えてくれ』

 彼は、そう言った。
 目の前にいるのは、そこにいるだけで辺り一帯を氷漬けにしてしまえるほど強大な力を持った相手。にもかかわらず、私は警戒心を無くしていた。もはや疑う力さえ残っていなかったというのもあるし、やはり声だけはよく知っている相手だったから。私は言われるまま、夢の中でよくやるように心の声で呼びかけた。

『逃げようと、したんです。でも、だめだった。あれのせいで――』

 逃げ出した黒ずくめたちが落としていったのだろう。
 モンスターボール。私とご主人を繋ぐもの。私をここに繋ぎ止めるもの。
 氷竜は、私の視線の先を見据えて重々しいため息をついた。

『……そういうことか。ずいぶんと非道な真似をするものだな。
 まあ、きみもなかなかの無茶をしたようだが』

 私は妙な感覚に陥っていた。夢の中の、それも声だけしかなかった存在が、今目の前にいて、親しげに語りかけてくることを、私は当然のこととして受け入れている。
 彼はその辺にいるような普通のポケモンではない。それはよく分かる。だが、私はその存在をあまりにも自然に受け入れ過ぎていて、本来恐れるべきところが麻痺しているようなのだ。
 それでも、これだけは聞いておかなければならない。

『あなたは、何者なんです? どうして私に話しかけてきてくれたんですか?』

『キュレム』

 短く言い放ち、竜は侘しげに笑った。

『連中に限らず、人間は私をそう呼んでいる。私もきみと同じ、ここに連れて来られたポケモンの一匹なのだよ』

 キュレムと名乗った氷竜は、簡潔に自身の身の上を話してくれた。全身から絶えず発せられる、自らをも凍らせてしまうほどの猛烈な冷気。それは言い換えれば、自分に近づく者全てを望む望まぬに関わらず氷漬けにしてしまう、呪われた力だ。彼は、それほどまでに強大な力を、気が遠くなるほど長い年月の間ずっと一匹で抱えていたのだという。だが、その力を黒ずくめたちに狙われ、捕えられてしまったそうだ。

『ジャイアントホールという場所を知っているか?』

 聞いたこともない場所だ。
 それを伝えると、キュレムは言った。

『私の住み処であった場所だ。山奥の、静かな場所でな。きみと同じ種族のポケモンも近くに暮らしていたよ』

 きっとキュレムにとって、私の存在は故郷を思い起こさせるものでもあったのだろう。
 きみにはつい色々と話し込んでしまった、彼は少しだけ照れ臭そうにそう言った。

『私は人間と共に旅をしたことがないからな。ユイキリ、きみの話はなかなか楽しませてもらっていた。優しい主人に巡り合えて良かったな』

『……はい。私も、そう思います』

 もう、そうやって頷くことに迷いはない。そんな私の心の変化を正確に読み取ったらしい。暗闇の中でずっと見守ってくれていた彼もまた、満足げに頷いた。
 不思議と穏やかな時間だった。傷が癒えたわけでも、脱出が叶ったわけでもないというのに。むしろ、危険な状況なのは変わらないのに。それでも、少しだけ許された緩やかな談話はほんの僅かな間にも思えたし、とてつもなく長い時間にも感じられた。
 でも、時は確実に流れていて。
 逃げて行った黒ずくめが仲間を呼んできたのだろうか。ばたばたと駆けつけてくるいくつもの足音が、温かな夢の終わりを告げていた。

『……ユイキリ。一つ頼まれてくれないか』

『何です?』

『あのとき、誰も守れなかった私に、もう一度機会をくれ』

 私はてっきり、脱出のための手筈を相談するものだと思っていた。だから、キュレムの言っている意味を理解できなかった。
 呆然とする私を待つことなく、彼は続ける。

『念のため言っておく。優しいきみのことだから、これから私がすることで、きみはきっとまた自分を責めてしまうだろう。だがこれは私の自分勝手な我が儘のようなものだ。きみが思い悩む必要は、何もない』

 意味が、分からない。キュレムは何を言って、何をしようとしているのだろう。

『どういう、ことです』

 やっとのことで聞き返しても返事はない。目の前の氷竜は、苦い笑みを浮かべるだけだ。
 鈍い思考を時は待たない。
 彼が大きく首を仰け反らせたその瞬間、猛烈な冷気が爆発した。細かな氷の粒が弾け飛び、床も、壁も、天井も、みるみる分厚く凍りつく。
 凍てつく風は動くことのできない私さえも抱き寄せた。鼻孔がびりびり痺れ、全身の体毛が霜に覆われていく。
 そんな中、私は見た。冷気の中心にいる氷竜が、決意を帯びた瞳で私を見下ろしているのを。その視線が揺れて、何かに止まる。氷屑まみれの小さな球体。微かに垣間見える、象徴的な赤と白の配色。
 それはとても懐かしくて、でも、切なくて、悲しいもの。大切だった。大事だった。たとえ今は私を縛る鎖となろうとも、彼との絆の象徴だったから。

『まさか――』

 竜の口から放たれた青白い光線が、一直線に球体を貫いた。目を開けていられないほどの目映い閃光。
 それでも、私は目が離せなかった。その身を包む氷の衣が剥がれ落ち、宙に弾け、ゆっくりと落下していく様を。やがてそれが床にぶち当たり、ひび割れて、粉々に砕け、破片の一つ一つがきらきらと輝きながら辺りに飛び散る瞬間を、ただただ絶句して、最後の一欠片が煌めきを残して散っていくまで、私は片時も目を離さずにその光景を見つめていた。

『――――っ!』

 まるで自分が傷つけられたようだった。もし声が出せたなら、間違いなく悲鳴を上げていただろう。
 痛かった。悲しかった。
 胸の奥底に大事に抱いていた何かを、無理矢理もぎ離されたようで。
 なぜ。どうして、こんなことを。
 そうやって問い詰めたい気持ちは、次の瞬間全て吹き飛んでしまった。
 本当に一瞬の出来事だった。衝撃の余韻に浸る間もなく、キュレムが激しい咆哮を轟かせたのだ。大気が裂けるほどのそれは次第に力を増して色を帯び、荒ぶる光の矢となって天に向かう。頂点へと達した光は大輪の花となり、真っ赤な花弁が放射状の帯を描きながら、盛大に火の粉を散らす。星々の群れは舞い踊り、大気を揺らし、爆発する。
 崩れた壁の向こうから光が優しい手を伸ばす。柔らかな、空の輝き。それは外の世界へと通じる道。
 キュレムの反乱を察知したらしい。黒ずくめの用意した仕掛けが全力で脱出を阻もうと動き出す。証明は白から赤へと変貌し、頭を貫くようなサイレンが狂おしく鳴り響く。天井からは、光を受けて毒々しい赤に染まったガスが勢いよく噴射され、蛇がうねるように部屋中を覆い尽くしていく。
 そんな中、咆哮は続く。冷気と熱線が入り混じるひどく歪んだ空間で、どこまでも力強い歌声のように。それは一匹の竜が奏でる命の旋律。荒々しくも美しい、華々しくも猛々しい、気高き調べ。
 そして、彼は言う。本当にいつもと同じ、腹の底から出すような力強い声で。

『ユイキリ、主人に会いに行け』

 まるでそれが己の望みであるかのように、荘厳な竜は朗々と言い放った。
 どうして。
 私が何かを思う間があったとすれば、それしかなかっただろう。
 壁の一か所にぽっかりと浮かぶ、虚ろな穴。流れ込んでくる鋭い風が乱暴に私をかき抱いて――私は、空中へと放り出された。


  [No.1096] 五、安息の地 投稿者:サン   投稿日:2013/05/05(Sun) 13:06:48   66clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 雨が降っていた。
 私はご主人の隣を歩いていた。
 真っ直ぐな道だった。どこかの街道だろうか、石畳が規則正しく並べられた道はどこまでも延びていて、決して見通しは悪くないはずなのに先は見えない。
 しとしとと地面を叩く冷たい水は、全身を舐めるようにじっとりと毛皮に染みていく。ご主人は何も言わずに、淡々と雨を割りながら進んでいる。だから、私も黙ってその隣を歩き続けた。
 当たり前の感覚だった。もうずっとこうやって、ご主人と一緒に旅をしてきたのだから。
 しかし、次第に様子がおかしくなってくる。ご主人の歩調が段々と速くなって、歩けど歩けど追いつけない。遅れまいと走り出そうとしたところで、ようやく私は異変に気づく。ご主人が足を速めたわけではない。私の足取りが重くなっているのだ。石造りの道はいつの間にかぬかるむ泥沼へと変わっており、一歩足を踏み込むごとに粘っこい感覚が吸いついて、満足に動けない。
 そうこうしているうちにご主人はどんどん先へと進んでいく。置いて行かれる!

『待って!』

 無我夢中になってもがきながら、私は叫んだ。
 たとえ言葉は分からずとも声は伝わったようで、先行く彼は足を止め、振り返る。見下す瞳には驚きの色。そして――

「お前、まだついてきてたのか?」

 ――今、何て。

「お前はもう、僕のポケモンじゃないだろう?」

 彼は、本当に不思議そうに。私の顔を見据えて、そう、言った。



『……いっ、おいっ! だい……ぶか!?』

『……どい怪我だ……空から……ってくるな……て……』

 まどろみの彼方に、冷たい悪夢が尾を引いて消えていく。
 ああそうだ。全部夢だ。ご主人があんなことを、言うはず、ない。
 分かっているつもりでも、心はばらばらに壊れきっていて何も受けつけようとしない。目を閉じたまま、熱いものが頬を伝っていく。

『おいったら! しっかりしろってば!』

『こらこら、あまり騒がないでやりなさい。傷に響くだろう。オーナーが帰って来たらすぐに知らせるから』

『そうね、それまでは静かに休ませてあげましょう。人間の街まで連れて行ってもらえればすぐに治してもらえるわ』

 すぐ傍で、誰かが話している。人間の言葉じゃない。ポケモンだ。
 オーナー? 人間?
 ふいに引っかかったその言葉が、一瞬にして恐怖の皮を剥く。

『……で、くだ……い』

『……何だって?』

『人間、は……呼ば、ないで……ください……』

 無理矢理絞り出した声は、ほとんど呻きのようなものになってしまった。それでも、どうにか周囲の相手には伝わったらしい。

『そりゃまた、どうして……ひどい怪我じゃないか! 人間の街に連れて行ってもらえば、すぐに治して……』

『お願い、します……絶対に……人間は、呼ばないで……』

 心からの懇願だった。もう、二度と連れ戻されたくない。あんな薄暗くて、薬臭い、冷たい牢獄めいた場所。ちょっと想像するだけで、気が狂いそうなほど、怖い。
 それはほんの少し触れただけでも跳ね上がってしまうほど、生々しくて、痛々しくて、赤黒く腫れ上がった記憶の傷痕。その記憶はもはや人間に対する過剰な恐怖心へと置き換えられていて。
 身も心もぼろぼろになった私は、壊れたように同じ言葉を呟き続けた。

『分かった、分かったから……とにかく今は眠りなさい』

 渇いてひび割れた心に染み入るように、その声は虚ろな意識の中でも妙にはっきり通って聞こえてきた。

『大丈夫、ここにはきみを傷つけるものは何もないよ。ゆっくり、お休み』

 あるはずのない幻を見る。優しく穏やかに諭してくれるその声は、暗闇の中で次第に輪郭を露わにし、彼の竜の姿になる。
 ねえ、キュレム。こうやって助けられるの、二度目だね。
 本当は分かっているんだ。どうしてあなたが私のモンスターボールを壊したのか。私を逃がそうとしてくれたんだよね。あのままじゃ、私は過去の思いに足を取られたまま、消えてしまっていただろうから。
 恨まれるかもしれないのに、憎まれるかもしれないのに、それでもあなたは自ら汚れ役になって私を救う道を選んでくれた。
 あなたの気持ち、すごく嬉しいよ。
 でもね、ごめんなさい。
 どうか今は、今だけは。あの小さな球に込められていた大事な思いに、大切な絆に。ほんの少しだけでいいから、さよならする時間をください――



 柔らかな光。緩やかな風。
 新鮮なようで、懐かしい。そんな感覚。目覚めとは、本来こんなにも爽やかなものなのだと実感する。とても温かい、穏やかな心地だ。
 木々のざわめき、土の温もり、川のせせらぎ。世界は豊かに色づいていて。そんな当たり前の情景が、何故こんなにも眩しく感じるのか分からなくて。つかの間、私は我を忘れたまま呆然と青い空を眺めていた。
 ここはどこなのだろう。
 身を起こそうとして、突如雷に打たれたように痛みが走った。
 そうだ。何を寝惚けているのだろう。私が目を覚ますのは、いつも檻の中ではなかったか。それに、節々がひどく痛むものの、いつの間にか身体も動くようになっている。
 動かせる範囲で首を回してみると、どうやら草地に仰向けの状態で寝転がっているらしい。眼前に広がる低い台地は、背の低い草を疎らに生やしながら樹木の群れを繋いでいる。
 どこかの林だろうか? なぜ私はここにいるのだろう。自分の置かれている状況がさっぱり分からない。
 思い出せ。思い出せ。あのときは、確か――

『やあぁっと起きやがった!』

 記憶を辿ろうとしたところで、どこからか声が降ってきた。甲高い、幼さを感じる声。
 目をやると、三角型に顔の尖った青い獣人が、腕組みをして尊大に此方を見下ろしている。彼は頭から生えた耳のような黒い突起を不機嫌そうに細かく震わせ、早口でまくし立てた。

『もう昼だぞ! どんだけねぼすけなんだよ全く! ぶっとい神経してんなあ。傷だらけで空から降ってきといてさあ、心配させんじゃねーよ馬鹿!』

 小さな獣人の苦情はまだまだ続き、幼さゆえの舌の回らなさも関係無しといった様子で次々と稚拙な文句を口にする。
 寝起きの説教にも面食らったが、私が驚いたのは、どちらかというと獣人の態度の方であった。こんなにも開けっ広げに気持ちをぶつけられたのがあまりにも久々すぎて、どうやって受け止めればいいのか分からないのだ。何より私をひたと見つめるその瞳は、いつも向けられる人形めいた空虚な目ではなく、生気の輝きをはっきりと宿している。
 迸る感情の躍動があまりにも眩しくて、私は馬鹿みたいにぽかんと口を開けたまま、目を白黒させていた。
 そんな私の態度が気に召さなかった様子で、獣人の声がまた一層荒くなる。

『やかましいよチビ太。そう一方的にまくし立てたら話ができないだろう』

『そうよチビお。まだ起き抜けなんだから、そんな風に言い寄ったらかわいそうだわ』

『だーもう、チビチビ言うな!』

 甲高い獣人の声をすり抜けて、ふいに落ち着き払った声が聞こえた。見れば、口回りにベージュの髭をたっぷり生やした栗毛の犬が二匹、尖った耳をぴんと立ててすぐ傍らに座っていた。少しだけあの子犬と容姿が似ている。が、あの荒れてささくれ立った禍々しい雰囲気とは対照的で、黒く澄んだ瞳は優しげな光を宿していた。
 小さな獣人はまだ何かを喚いていたが、栗毛たちになだめられると不服そうに口を尖らせて押し黙った。表情が素直な子だ。栗毛たちが向き直る。

『ああ、驚かせてしまったね。僕らは君の敵ではないよ。そう身構えないでおくれ』

『でも昨日より顔色が良くなったみたいだわ。チビ坊の採ってきてくれた薬草が効いたのかしら』

 彼らの優しげな口調には覚えがあった。夢うつつに彷徨っていた虚ろな意識の向こう側で、ずっと励ましの言葉をかけ続けてくれた誰かの声。ふいに仄かな夢の残り香が蘇る。彼の荘厳な竜の面影を感じさせた語り口調は、この獣のものであったようだ。

『いやはや、しかし驚いたよ。まさか空からポケモンが降ってくるとはね。天気予報ちゃんと見ておけばよかったな』

『やだわ、あなたったら。寝る前にちゃんと明日のお天気確認しておくよう、いつも言ってるじゃない』

『ダンナダンナ、おカミさんも。まずそれ天気じゃねーから』

 もしゃもしゃと髭を動かして笑う栗毛たちに対して、すかさず獣人が言い添える。
 彼らのやり取りは何とものどかな空気を演出していたが、私の思考は全く別の方向へと飛んでいた。
 空から、降ってきた?
 ぼんやりと霞みがかった記憶の輪郭が、少しずつ明確な形を成して浮かび上がってくる。肺が凍ったように息さえできぬまま、真っ青な空気の中を、ただひたすら落ちていく感覚。遠ざかっていく太陽と、無情に見下ろす黒い影。
 そうだ。地下というのはまるっきり見当違いであった。遮るものも何もない遥か空の彼方から、私は逃げ出してきたのだ。
 ふと不安の種が芽を出した。あの後キュレムはどうなったのだろう。彼も、無事に逃げられたのだろうか。

『あの、助けてくださって、ありがとうございます。それで、その……私の他に、空から落ちてきたポケモンはいませんでしたか?』

 二匹の栗毛と獣人は互いに顔を見合わせると、皆怪訝そうに眉をひそめ、首を横に振って見せた。
 頭の中で、急速に悪い想像が膨らんでいく。

『仲間が一緒だったのかい?』

 栗毛の一匹が気遣わしげに尋ねてきた。
 仲間、そう呼べる関係だったのだろうか。少し違う気がする。私は、ただ一方的に助けられていただけ。夜な夜な愚痴を聞いてもらい、たくさんの助言をしてくれて、その上私を全力で逃がしてくれた。彼には感謝してもし足りないくらいなのに。今の私には、その身を案じることしかできない。

『とりあえず、さ。色々思うことはあるだろうけど、考えるのはもう少し身体の調子が落ち着いてからの方がいいんじゃないかな』

 俯いたまま何も言えずにいる私を見かねてか、栗毛はそう言い、足元に置いてあった紺色のものをくわえて差し出した。しっかり完熟したオレンの実。私の拳より一回りほど大きなそれは、もぎたて特有の青臭さを漂わせている。受け取ってみると、固い皮から中身のずっしりとした重みが伝わってきた。もう一度栗毛の顔を見上げると、食べなさい、とでも言うように彼は大きく頷いて見せた。
 そういえばもう大分長い間、何もまともに食べていなかった気がする。
 相変わらず腹の重みは残っていたが、私はゆっくりと慎重に、紺色の木の実にかぶりついた。そのとたん、長らく忘れかけていた味が口中に広がった。歯ごたえのある皮からほぐれ出た柔らかい果肉がとろけるように溢れ出し、キリリとした酸味と、渋味と苦味とが絶妙に混ざり合って舌を焦がす。オレンの実独特の、自然の恵みを凝縮したようないくつもの味。遅れてやってくる仄かな辛さも、より味わいを深めてくれる。
 もうずいぶんと前から、空腹は限界を超えていたのだ。何の細工もない純粋で素朴な味が、堪らなくおいしく感じる。
 溢れんばかりの果汁を一滴もこぼさぬよう、貪るようにしゃぶってすすり、さらに一口、二口、噛みしめて。あっという間にへたごと食べ尽くしてしまうと、栗毛は何も言わずに二つ目のオレンを差し出してくれた。だから、私もそれを受け取っても何も言わなかった。いや、言えなかった。
 ここまでくるともう止まらない。涙も、嗚咽も、食欲も。ずっと押さえつけていたものが全部喉に押し寄せて、出ていこうとするものと、入り込んでいくものとが、ぐちゃぐちゃのごった返し。
 私は息をするように小さな木の実にむしゃぶりついてすすり上げ、最後の一口を飲み込んで、それから、空に向かって吠えるように泣き叫んだ。言葉にならない思いを、喉の奥から絞り出すようにして。もう自分でも何と叫んでいるのか分からない。自分の心が何色なのかも分からない。今はただ、何も考えず、空っぽになるまでこうしていたかった。
 ふいに柔らかな何かが濡れた頬に張りついた。分厚い毛布のような、栗毛の獣の大きな背。
 たまらず私は、その紺色の背中に顔を押し当てた。
 栗毛が息をする度に、優しい背中は緩やかに上り下りを繰り返す。
 ああ、温かい。そのじんわりとした温もりから、栗毛の精一杯の思い遣りが滲み出てくるようで。でも、それがどんなに温かくとも、凍えきった心が満たされることはなくて。本当に欲しい温もりはここにはなくて。それなのに、愚かで貪欲な私の心は無いものねだりばかりしてしまう。無いものは無い。そんなこと、とっくに分かり切っているはずなのに。
 会いたいのは。愛しいのは。切ないのは。
 どこまでも、本当にどこまでもちっぽけな私。そんな感情の吐露を、大きな背中はいつまでも受け止めてくれていた。



 綿雲のようにもこもことした何十もの羊たちが、なだらかな丘の草地を駆けていく。一子乱れぬ見事な様子で滑らかに動く黄色い一群は、まるで一匹の巨大な生き物か何かのようである。それは三日月のように大きく曲がったり、風船のように膨らみ丸まって、それからまた萎んだりと、何とも忙しない様子で姿形を変えていく。
 その集団の周りには、常につかず離れず二匹の獣が走り回っていた。林の中では栗色に見えた体毛が、太陽の下では黄金色に光を弾いてきらきらと輝いている。彼らは綿羊たちの群れを取り巻くようにひたすらぐるぐると走り続けていたが、丘のふもとに立っているのっぽの人間がぴういと笛を一吹きすると、すぐさまインディゴマントを翻し、今までとは反対の方向へと駆け出した。とたんに黄色い一群は驚いた様子で形を変え、追い立てられるように丘の上へと続いていく。
 栗毛たちの日常。人間と共に暮らし、助け支え合う。ポケモンと人間の間に結ばれた、ありふれて、それでいて貴い関係。
 生き生きと走る二匹の獣。嬉しそうな眼差しで見つめるのっぽの人間。そんな眩しい情景を、私は少し離れた木立の陰からぼんやりと眺めていた。
 あれから、私は栗毛たちの世話になりながら毎日を過ごしていた。ここら一帯は彼らの主人が管理している土地らしく、他の人間は滅多に奥までやって来ない。おまけに栗毛たちやこの辺りで暮らす野生ポケモンがひっきりなしに私の元を訪れては、食べ物を持ってきただの、この葉っぱを貼ると傷に効くだのと、何かと面倒を見てくれた。
 恥ずかしい話だが、私は何をされても戸惑うばかりで、まともな礼さえ言うことができなかった。誰かと言葉を交わすのも、優しさに触れるのも、目と目を合わせることでさえ、あり得ないくらいに新鮮で、嬉しく感じた。でも、自分の感情をどう表現したらいいのか分からなくて、私はもどかしさを抱えたまま俯くしかできないのだ。自分でも驚きだった。いつの間にか私の心はこんなにも麻痺していたのだ。
 それでも彼らは嫌な顔一つせず、進んで私の面倒を見てくれた。
 静かな環境と、心優しいポケモンたちの献身的な看病。そのおかげで、身体の方の傷は少しずつ治ってきていた。
 ぴゅーいっ、ぴゅう。鋭く甲高い音が鳴る。
 栗毛たちはわう、と一声吠えると綿羊たちを追うのを止め、笛を吹いた人間の元へと駆けて行った。のっぽの人間が栗毛たちに何かを語りかける。栗毛たちは嬉しそうにふさふさと尻尾を振る。

『おい、泣き虫!』

 栗毛たちの仕事を見学していると、どこからか獣人がやって来て私のすぐ隣で立ち止まった。
 泣き虫とは私のことだろうか。首を捻りかけて、思い出す。そういえばこの子と出会った直後に大泣きしたんだったっけ。
 出会ったとき同様の、腕組みしたまま此方を見下すふてぶてしい態度で彼は言った。

『こんなとこにいていいのかよ。お前、人間嫌いなんだろ』

 獣人の聞き方は妙に確信がこもっていた。一瞬驚いて、返事に詰まる。

『いや……そんなこと、ないよ』

『嘘つけよ。お前、大怪我して大変だったときに人間呼ぶなって喚いてたじゃねえか』

 いよいよ答えに困ってしまう。そんなことを言っていたのか。正直記憶にはない。が、心当たりも全くない、と言えば嘘になる。
 黒い帽子とマスクの間に覗く冷たい目。抑揚のない機械じみた声。喉元に迫る黒手袋。
 そんな悪夢にうなされて冷や汗まみれに飛び起きるのも、もう一度や二度では済まされない。
 とはいえ一度人間に連れ添って旅をした身としては人間を嫌いになれないし、全ての人間が悪人ではないことだって分かっている。
 栗毛の主人も心優しい人間なのだろう。それは遠くから見ていてもよく分かる。
 だが、そこまでだ。

『嫌いなんじゃない……怖いんです』

 これ以上人間に近づくことなど、今の私にはとてもできない。
 人間が、怖い。
 その感情はもはや疑う余地もなく、私の心の奥底に深く根を下ろしているのだ。

『なんだよ、それ。ワケ分かんね。どう違うってんだよ』

 獣人が苛立たしげに言い放つ。

『あんなにボロッボロでドロッドロの身体でさ。怯えて震えて、あんなうわ言まで呟いて……お前、人間に酷い目に遭わされたんじゃねえの?』

『いや、私は……』

『その首の傷』

 言いかけた私の言葉を、獣人は鋭く遮った。
 言われて初めて気がついた。首元に手をやると、皮膚の感触が他とは違う部分がある。手の平から伝わってくるのは、ざらざらとしていて微かに膨らんでいる感覚だ。それが首の回りを一周するような形で続いている。まるで、首輪でもしているみたいに。

『何があったらそんなところに火傷なんかするんだよ。人間だろ? 人間に傷つけられたんだろ! お前、何でそんな目に遭っておきながら怒らねえんだよ!』

 そう強い口調で言う獣人の拳は固く握られ、肩は細かく震えていた。

『何よ、それでチビ福が代わりに怒ってあげてるの? また変わったことをしてるわね』

 ふいに声が聞こえたかと思えば、仕事を終えたらしい栗毛の一匹がちょうど此方にやって来るところであった。
 獣人は荒い鼻息で私を指差し反論する。

『うるせー! ちげーよ、こいつが泣き虫で弱虫だからいけねーんだろーが!』

『何馬鹿なことを言ってるの。まあ、ごめんなさいね。チビ助は気は優しいんだけど、口を開けば雑な言葉しか出てこないの。この子、これでもあなたのこと心配してるのよ』

 そうだったのかと思わず獣人の方を見ると、小さく悪態をついてそっぽを向かれてしまった。何だか急に勢いがなくなったようだ。彼女には頭が上がらないのだろうか。
 栗毛は私のすぐ隣に腰を下ろした。

『あなた、最近よくここで私たちのことを見てるでしょう。羊追いに興味があるの?』

『えっと……そういうわけじゃないんです。ただ、懐かしい感じがして』

 そう言ってから、ようやく自分でも自覚した。
 栗毛と獣人が揃って不思議そうな顔をする。

『私にも、ご主人がいたんです。だから、ちょっと色々思い出してしまって』

 そう。私はあののっぽの人間に、ご主人の幻を見ていた。主人と戯れる栗毛たちを羨ましいと思っていた。それでも私はもう以前の私に戻れない。人間に対して確固たる恐怖を抱いてしまった今の私にできるのは、人間を遠くから眺めることだけなのだ。

『何だよお前、ただの飼われモンかよ! くっだらねぇ!』

 獣人は大きく息巻いたが、栗毛にじろりと一睨みされて不服そうに口をつぐんだ。栗毛が声を低め、改めて尋ねる。

『どういうこと? それじゃ、あなたのトレーナーは今どこにいるの?』

『分かりません。前にはぐれてしまって、それっきりで……』

 そういえば、あの黒ずくめたちの元でどれくらいの時間を過ごしていたのだろう。分からない。ご主人と最後に歩いた景色を思い浮かべようとしてみるが、うまくいかない。卑しい目をした男の顔と、紫猫の酷薄な表情が脳裏に霞み、慌てて私は首を振った。
 今頃ご主人はどこで何をしているだろう。私のことを探しているのだろうか、あるいは――

『はぐれたんじゃなくって捨てられたんじゃねえのか』

『ちょっと! 何てこと言うの!』

 栗毛が今にも噛みつかんとする形相で獣人に吠えかかった。あまりの剣幕に獣人は押し黙る。が、ふいに上がった視線が私に向けられる。真っ赤な瞳。その色は、彼の感情をありのままに表しているかのようで。

『俺は、嫌いだ』

 ぽろり、と。ほんの一滴が溢れたのをきっかけに、彼は感情を爆発させた。

『なあ、お前だって分かるんだろ! あいつらなんて、人間なんて! ……あんな奴ら、大ッ嫌いだ!』

 そう吠えるように吐き捨てて、止める間もなく林の奥へと消えていく。
 取り残された私と栗毛は、遠ざかっていく小さな背中を見送ることしかできなかった。
 ああやっぱり、とため息混じりに呟いて、栗毛は再び此方に向き直る。

『本当、ごめんなさい。あの子ったら、あんなこと言うなんて……』

『……いえ、気にしてないですから』

 私は小さく首を横に振って見せた。
 それに、罪悪感もあった。捨てたという表現で例えるならば、それはご主人ではなく私の方だろう。あの場で彼を守れなかった、それどころか守られることすら望んだ私は、自分からご主人のことを見捨てたと言っても過言ではないように思う。もう、何もかも、今更なのだが。

『実はあの子はね、昔、一度捨てられたことがあるの。自分のトレーナーにね。だからあなたのこと、昔の自分と被って見えちゃうのかな』

 初耳だった。私は思わず栗毛を見つめた。彼女は苦々しげな笑みを浮かべて静かに続ける。

『でもね、ずっとああやって人間を恨み続けていても……きっと、疲れるだけよ』

 それきり、栗毛は遠くを見つめたまま黙り込んだ。
 驚きもあったが、妙に納得している自分もいた。あの獣人が何かと突っかかってきたのはそのせいだったのだ。私の知らないところで、彼は私を案じて小さな胸を痛めていたのだろうか。
 もう一度、首元にそっと手を当ててみる。手のひらに伝わるのは、あの禍々しい首輪の痕。こんなところに傷があったって、自分ではよく見えない。それでもはたから見ればぎょっとするような痕になっているのだろう。目を閉じれば、黒い手袋が私の喉元を捕まえたときのあの感覚が、まざまざと蘇ってくる。
 この傷は、きっと簡単には消えてくれない。そしてどんなに時間がかかろうとも、完全に消え失せることもないだろう。なぜかは分からないけれど、何となく、そんな感じがした。
 少しだけ強張った私の頬を撫でるように、緩やかに風が通り過ぎていった。草地に幾重ものさざ波が走る。丘の上では綿羊たちがしきりに草を食んでいる。橙色の宝玉がついた尻尾を時折ぶらつかせながら、もそもそとのんびりした様子で口を動かし、辺りの草地を少しずつ開拓していく。
 その情景をぼんやりと眺めているうちに、私は無意識にある花を頭に思い描いていた。細長い緑の葉を大地に這わせ、日の光を求めて精一杯に首を伸ばし、鼓のような蕾を開く、あの花を。
 ふわふわとした黄色の花弁。無数に咲き乱れるたんぽぽ畑。
 あの人の、笑った顔を思い出す――

『……私、ご主人のところに帰らなくちゃ』

 帰る。あの人の元へ。ご主人の元へ。
 小さく呟くように口にした言葉の意味は、後からじんわり心に染みて広がった。
 栗毛がはっとしたように此方を向くのが分かった。私はそれには構わず、丘に広がる黄色の花々を見つめ続けた。

『約束、したんです。ご主人に会いに行くって。絶対に、会いに行くって』

 約束。
 一般的に言うそれとは少し意味が違うかもしれない。本来ならば、互いに同意した上で交わすのが約束というものだ。

 ユイキリ、主人に会いに行け――

 あのとき、キュレムが何故そんなことを言ったのかは分からない。それでも、彼は確かにそう言った。あの切羽詰まった状況でも、キュレムは最後まで彼らしい堂々とした態度を持って、力強く私を送り出したのだ。
 彼にはいつも助けられてばかりいて、私からしてあげられたことは何一つなかった。与えられるばかりで、歯がゆくて。もう、直接恩を返す機会があるのかも分からないけれど。
 私がご主人の元に帰ることが、少しでも彼の思いに報いることへ繋がるのではないだろうか。
 どれだけ大変かは分からない。私のモンスターボールだって粉々に壊れてしまった。手がかりなんて何もない。それでも、私は。

『……そっか。それじゃ、早く傷を治して、会いに行けるようにならないとね』

 栗毛は穏やかな笑みを浮かべてそう言うだけで、多くを問いはしなかった。
 それが彼女なりの優しさなのだろう。素直にありがたく思った。
 でも、言葉に出せない。態度で表せない。私は小さく頷いて見せるしかできなくて、また胸の内に歯がゆさが残る。

『それにしても、チビ吉くんには困ったものだわ』

 言いながら、栗毛が深いため息をつく。

『あの子がここに居着いてから大分経つのに、未だにあの調子だものね。もう少し、前向きになってくれればいいんだけれど』

 人間が嫌いだと言っていた獣人。ひょっとすると、ここへ辿り着いた境遇は私と似ていたのかもしれない。ただ一つだけ分かるのは、私と違って、あの子は人間の優しさに触れたことがほとんどないのだろう。
 何だか変な感じがした。
 いっそご主人のことを忘れられれば、こんなに悩んだり、苦しんだりすることはない。人間という種族を全部丸ごとひっくるめて、躊躇いなく憎めたはずだ。
 あの場所にいたときは、確かにそう思っていた。願ってすらいただろう。なのに今は、とても恐ろしくて、悲しいことのように感じてしまう。
 林の奥に消えていった、悲しみと憎しみをいっぱいに湛えた泣き顔が、まだ目に焼きついていて離れない。
 そういえば、少し不思議に思うことがあった。

『でも、あなたたちのご主人も、すごく優しそうな人間ですよね。それなのにあんなこと言うなんて……』

 私の言葉に、栗毛は微かに首を傾げた。意味が伝わらなかったのだろうか、つけ加えようともう一度口を開きかけたとき、突然栗毛が笑い出した。そうか、そんな風に見えていたのね。そんなことを言いながらひとしきり笑ったあと、彼女はようやく答えてくれた。

『あのね。あの人は、別に私たちのご主人ってわけじゃないわ。ただのオーナーよ。この土地の住人』

 今度は私が首を傾げる番だった。あれほど親しげな人間が、主人ではない? 一体どういうことなのだろう。

『ふふっ。そうね、確かに普通だったらそう見えるでしょうね。でも何て言うのかな。うまく言えないけど、私とダンナがオーナーの仕事を手伝ってるのは、あの人がトレーナーだからとかそういうわけじゃないのよ。簡単に言っちゃえば、同じ場所で暮らしているご近所さんって感じ。縁みたいなものかしら』

 衝撃的だった。それでは栗毛たちも野生のポケモンということになるのだろうか。言われてみれば、確かに今までの今まで栗毛たちがモンスターボールに入っているところを見たことがない。それなのに、あんな風に共に暮らすことができるのか。あんな風に、助け支え合うことができるのか。

『私はね、人間だからとか、ポケモンだからとか、そういうのってあんまり関係ないと思うの。大事なのは自分の気持ち。ありのままを見て、感じればいいのよ』

 恋と一緒でね、最後にそう一言つけ加え、栗毛はウィンクして見せる。
 ぴうい、甲高い笛の音。たんぽぽたちがのそのそと動き出す。笛の響きに従って颯爽と草原を駆けていく獣の姿を、私はいつまでも眺め続けていた。