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  [No.1097] 追いかける者〜プロローグ 追いかける者 投稿者:咲玖   投稿日:2013/05/17(Fri) 17:43:55   58clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
タグ:PG12

 八坂智志は、同じ説明を同じ日に二度行った。一度目は母親に、二度目は妹に。
 正確には、母親に一度目の説明を終えて、母親が猛り狂って罵声を吐き散らかしているところから逃げ出した先に妹がいたのだ。智志は妹に匿ってもらい、そして当然、妹に説明を求められた。
「お母さんすごく怒ってるねえ。どうしたの?」
 驚くでもなくおののくでもなく、普段と変わりない絵里子は、兄の説明を聞いてもまだ普段と変わりなかった。
「大学は辞めたらちょっと損だね。お兄ちゃんの、いい大学だし。ジャーナリストって色々大変そうだし」
 そういう現実的な利害判断を下したのみだった。
「でさ、ジャーナリストって具体的に何するの」
 妹の部屋に避難した八坂智志は、まだ勝手は分からないがインタビューに付いていってアシスタントをやることになってる、と話した。妹はふーん、と言った。ベッドに寝転んだ体勢のままで。
「正義をかざしたり、真実を暴いたりは、しないの」
「まだ分からない」
 妹はベッドに寝転んだまま、ふーんと言った。それから、智志に言うでもなく、漫画を取り出しながら、
「じゃあ愛とか優しさとかになるのかな……どうなんだろ」
 今読んでいる漫画に答えはなさそうな様子だった。智志はというと、晩ご飯までに母親の機嫌がいくらか直ればいいと思っていた。

 八坂智志は二十二歳ではじめて人生の転換を試みた。が、そのやり方はスマートからは遠かった。スマートが聞いたら裸足で逃げる程にはかけ離れていた。
「俺を弟子にしてください。雑用係でもなんでもいいです」
 初対面の人間に頭を下げた。
 その人間が書いた本に七日前に感銘を受け、なおかつその人間の事務所が近所にあって、その上智志がその人間に会ったという、そんな理由で。
 下げた頭に鉄拳が降ってくる可能性もあった。が、智志の頭は下がった後、何事も無くきちんと上がった。師事する人間の呆れ顔が、智志の目にアップで映った。白髪に鷹の目、と智志は思った。
「履歴書、持って来い」
 それが智志の人生を変える予定の出会い――真壁誠大との出会いだった。

「でもさ、大学辞めることないよね」
 笑う妹に、智志は
「まだ辞めてない」
 と一応反論する。智志も利得計算からは逃れられなかったのだ。
「で、どうなるの? 週三でバイトとか、そんな感じ?」
「いや、まず、次のインタビューの時にアシスタントとして連れてってもらえることになってる」
 言ってから、過分な扱いだと気付く。いくら事務所に人がいないとはいえ、押しかけ女房みたいな智志をいきなりアシスタント扱いとは。
「ま、何事も経験だよ。頑張りな、兄ちゃん」
 妙に偉そうに、絵里子が言った。虚勢にも見えた。そして、なおも母親の機嫌を気にする智志に、しかし兄ちゃんのやり方って、スマートが裸足で逃げそうだよね――と言ったのだった。

 真壁の事務所の扉を開く。もう一人働いている子がいるらしいが、今は真壁しかいなかった。挨拶をし、中に入る。四方の壁を埋める棚の、ある段にはファイル、ある段にはカセットテープと、ラベルを貼った方をこちらに向けて、整然と並んでいた。
 白いラベルの群れが見つめる中央に、真壁はいた。硬派な記事とは裏腹に、疲弊したサラリーマンのような真壁。だが眼光は鋭く、智志を射った。
「これ、読んどけ」
 そう言って真壁から渡されたのは、分厚い黒いファイルだった。最初の頁を捲る。『ポケモンを用いた脅迫による連続強姦事件』。
 確かこれは、十年以上前に終わった事件ではなかったか。
 智志の顔色を読んだ真壁が言う。
「俺は、正義を求めたり、真実を暴いたりはしないんだ。ただ、追いかけるだけだ」
 その追跡に、今日智志は同行する。


  [No.1098] 〜1.育て屋の少年 投稿者:咲玖   投稿日:2013/05/17(Fri) 17:45:02   62clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
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 智志は落ち着かない思いで、周囲を見渡した。
 シンプルで落ち着いたデザインの家具が並ぶ部屋。無駄のないデザインが、却って選んだ人物のセンスを感じさせた。そして、ソファとテーブルの下に敷かれたカーペットや、テーブルと棚に置かれた花瓶、そこに生けられた季節の花が、ここが応接間であることを感じさせる。それにしても、育て屋らしくないな、と智志は思った。育て屋というと、皆が皆作業着で、インタビューもポケモンの育成場と直結の半分作業場みたいな所でやるのだと思っていた。
 インタビュー。そう、それをしに来たんだ。
 正確には、八坂智志はただのアシスタントであって、インタビューをするわけでも、ましてや記事を書くわけでもない。ジャーナリスト真壁誠大の金魚のフンというのが正しい。
 なのに、インタビューをしに来たのだと思うと、胸に冷水を注ぎ込まれたような感じがした。この感覚は何だろう。
「お前は黙って見ておけばいい」
 智志の様子を緊張の所為だと思ったのか、真壁が言った。テーブルには真壁の持って来たカセットテープレコーダーが、足元にはあの黒いファイルを入れた大きな鞄がある。そして、それらに囲まれる真壁は、やはりジャーナリストよりもくたびれたサラリーマンに見えた。
 緊張か、と智志は単語を咀嚼した。緊張かもしれない。しかし、体が一瞬にして骨の髄まで凍りつくようなあの感覚は、緊張では説明できないような気がした。
 自分のことさえ説明できないのに、他人のことを説明するのか。俺はまだ、ジャーナリストの梯子の一段目にすら足をかけていないんだ。そう智志は思った。いや、気付いたのだ。

 今朝、智志は午前六時に起きた。母親との冷戦状態は一応解除されたが、いつもより早く起きた息子に用意された朝ご飯はなかった。
 智志は自分でトーストを焼いて家を出た。行き先は大学ではなく、ビルの片隅にある真壁の事務所。藪から棒に弟子入りさせてくれと頼んで、履歴書を持って来いと言われてその通り行動した智志の、記念すべき初出勤の日となる。
 目を通しておけ、と言われて渡された、黒いファイルのずしりとした重さを急に思い出した。『ポケモンを用いた脅迫による連続強姦事件』――十三年前に起きた、センセーショナルな事件。
 俺たちは今日それを追いかけてきたんだ、と智志は思った。そして、真壁の横顔を盗み見た。彼が何を考えているかは分からなかった。
 その時扉が開いて、智志たちが追いかけている者が姿を現した。
「はじめまして。山田優吾といいます」
 現れたのは、智志といくつも違わない青年だった。

 彼は事件当時、十三歳だった。智志とは四つ違い、今は育て屋のフィールド主任補をやっている――と言って優吾は笑った。
「フィールド主任、って言っても、分かんないですよねえ」
 歳の近い智志がいて気が緩んだのか、優吾は妙に子どもっぽい、無邪気な笑みを浮かべた。実直を顔に描いたような太い眉毛とがっしりした鼻梁からは、その笑みがこぼれることは意外に思われた。ギャップ、というのか。
「ここみたいに大きい育て屋って、フィールドごとに分けてポケモンを管理するんですよ。それで、フィールド毎にチームを組んで、ポケモンを預かるんです」
 管理っていう言い方はまずいですよね、と言いながら、優吾がバツの悪そうな顔でテーブルに乗っかったレコーダーを見た。
 レコーダーは、赤いランプを灯してクルクル回っていた。
「最近は、そう言葉に煩いこともありませんよ。それに、書いたものは一度以上目を通してもらうことになっていますから」
 対する真壁の声は、やはりジャーナリストというより疲れたサラリーマンのようだ。しかし、目を見れば、そこに何かがあることが智志にさえ分かった。

 インタビューの直前、山田優吾に断ってレコーダーをセットした真壁は、置き物のようにそこにいた智志に、適宜メモを取るようにと言った。真壁は真壁で、手帳を持参している。名義上はアシスタントだが、智志にそんな働きは毛程も期待していないのだ。
 それを自覚しながら、智志は自分の手帳を見下ろした。おろしたての、まっさら。ここに何を書けばいいだろう、と智志は寸の間考え――ペンを動かした。目の前の優吾の、太い眉。がっしりした鼻梁。そこからこぼれた無邪気な笑い。
 ……あまり上手くはない。
「今はフィールド主任補ですけど、その当時はまだ入りたてのペーペーでした」
 優吾の話に、智志は耳を傾けた。優吾の目がすっと暗くなったのを、智志は見逃さなかった。

 親が小さな育て屋を営んでいる関係で、優吾はここにやって来た。この育て屋はフィールド毎にポケモンを管理するのが主流だが、新任の優吾にはポケモン一匹を世話する仕事が任された。一匹だけなら、初心者でもなんとか世話が行き届く。だが一方、相手が一匹だけなのだから誤魔化しようのない仕事でもある。優吾のミスや管理不行き届きがポケモンに確実に現れる。
 他人のポケモンを預かるのだから、緊張するし、一つ一つの失敗が重い。大変だし、何にも分かってなかった時代でした、と優吾は言う。教育係には頭をよくはたかれた。
 その教育係、当時のフィールドA1の主任であった根岸翔平がそのポケモンを持ち込んで来たのは、優吾が十四歳の時――ちょうど事件の報道が終息し始めた頃のことだった。
「びっくりしますよね、そんなポケモン持ち込んできたら。でもその時はそんなこと知らなかったし、知った時は後の祭りだったんです」
 そして、優吾が関わった事件を語り始めた。

「なんですか、根岸さん」
 その日の業務を終えた優吾は、珍しく根岸に呼び出されて、心穏やかではなかった。働き始めて三年、ミスは少なくなっていたが育て屋として一人前には程遠い。何かマズいことをやらかしたのかと、気が気でなかった。
 思えば、自分がそんな風に悪い方に考えていたのは、ひとつに、根岸の顔がこの世の終わりのような暗いものだったからだ。
「優吾」
「はい」
 根岸はひと言でそれと分かる程、重いものを抱え込んで疲れた声を出した。
「お前、今日で対一匹の研修終わりだったな?」
 業務上の確認。それでさえ根岸は疲れきった声を出した。
「はい」
 対一匹、つまり一匹をひとりが集中的に管理する仕事だ。優吾は三年で三十二匹の世話をしてきた。そしてちょうどその日、三十二匹目を顧客の元に送り出した。その三十二匹目に、何か問題があったのだろうか。
「明日からフィールドの研修入れるが、対一匹のも入れて構わないな?」
 根岸の言葉に構うも構わないもなく、優吾は「はい」と答えた。それで自分が事件に関わることになるとは、露程も思っていなかった。
「そうか」
 と言って、根岸はモンスターボールを取り出した。そして、防護室――攻撃的で、他のポケモンに危害を加えると判断されたポケモンを一時的に隔離する専用の部屋――へ向かい、機器を使って防護室内部にそのポケモンを解き放った。
 ニドラン♂。
 突然、一面を特殊なガラスで覆われた部屋に投げ出されたニドランは、時が止まったかのように目を見開いたまま静止していた。そして、やにわに大きな耳をバタリと振り下ろすと、もんどりうって自分の体を引っ掻き始めた。
「錯乱してますよ、防護室入ります! 入り口のロック開けてください!」
「馬鹿野郎、特性毒のトゲだ、服着てから入れ!」
 早まった優吾に怒鳴った時、これでやっと根岸さんらしいと優吾は思った。防護服を着、パートナーのサーナイトを呼び出してから、優吾はガラスの向こうの部屋に入った。
 優吾が二重扉の向こうに辿り着いた時、ニドラン♂は既に自分の体をズタボロにしていた。応急処置しようにもどこまで傷か分からない状態で、優吾は手を上げてガラスの向こうの根岸にニドランをボールに戻すよう要請した。そして、自分の無力さを痛感した。
 回復機械では治せないということで、優吾と根岸は最寄りのポケモンセンターへ向かった。大きな育て屋はポケモンセンターと密な契約を結び、資金援助をする代わりに色々な無理を利かせてもらっている。それでも、というか当然というか、優吾たちの対応に出た職員はいい顔をしなかった。
「どうしたんですか、根岸さん」
 その日、対応に出た職員は優吾たちの顔馴染みの人で、根岸の技量も良く知っていた。だからこそ只事じゃない、と思っていることが顔に書かれていた。
 その問いに、根岸は「なに、少々問題のある預かりものでな」とはぐらかすばかりで、一向に答えようとしなかった。“少々”問題のあるポケモンくらいで、根岸がこんな大きなミスを犯すはずはない。優吾のみならず、応対した職員全てが根岸の言葉を信じてはいなかったが、結局、根岸からそれ以上真実らしい話を聞き出すことは出来なかった。
 そのポケモンと一番密に関わった優吾でさえ、真実を教えてもらったのは何もかもが終った後だったと言う。

「すいません」
 不意に優吾の目から零れたものを見て、智志は驚いた。そういう人物ではないと思っていた。あるいは、昔のことだから、泣かないと思っていたのか。インタビューを受けられる程度には、気持ちの整理がついているものと思い込んでいたのかもしれない。
 ず、と鼻をすする音がして、優吾が立ち上がった。シンプルな調度類に紛れ込んでいる箱ティッシュに近付いていく。その背中だけ見れば、逞しいという言葉がこれ程似合う男もいなかった。だから一層、何故泣いているんだという疑問が湧くに違いない。何も知らない人が見れば。
 でも、だったら、俺は何かを知ってるのか? 智志は、優吾が鼻をかみ、応接室のソファに戻ってくるまでの間、ぐるぐると、言葉を回して考えていた。優吾が泣いているのは、気持ちの整理がついていないからだろう。だがそんなものは、智志が今さっき抱いた印象に過ぎない。本当のことは、優吾にしか分からない。優吾本人に聞いても、分からないかもしれない。だとしたら、他人である智志が理解することは出来ないだろうし、それを言葉にしてもっと何も知らない他人に伝えるなんて、不可能だ。他人に伝えるのが不可能なのだとしたら。智志は横にいる真壁誠大をチラリと見た。この人は、俺は、何の為にここに来たのだろう?
「すいません、続き、いいですか?」
 目の端を頻りに擦りながら、優吾が言った。真壁は静かな鷹の目を伏せ、そっと先を促した。

 ニドラン♂を預かった次の日から、激務が始まった。
 午前中はニドランの様子を見、午後はフィールドを走り回って研修。夜はいつも倒れるように眠った。ニドランは根岸がメインで優吾が補佐という形だからまだ楽だった。フィールド研修の方は、本来一日でやる内容を半日に押し込めたような状態で、慣れないこともあり、ミスが目立った。餌のやり方が下手で、他のポケモンに餌を取られたりとか、あるいは餌を取り違えたり。掃除のやり方が雑だと怒られ、やっとこさ掃除を終えて用具を片付けたと思ったら、用具室へ通じる扉を閉めろ、そこからポケモンが逃げると怒られたり。酷いものでは、フィールド間を繋ぐシェルのスイッチを入れ忘れた、というのがあった。この育て屋では、ポケモンの技であるリフレクターと光の壁を科学的に再現して作った“シェル”をフィールドの周囲に配置して、ポケモンの逃走を防いでいる。一応、フィールドとフィールドの間に柵や水路はあるが、ポケモンが逃げるのを防ぐ為、というよりシェルの位置を示す目印だ。優吾はフィールドに入る時、うっかりシェルの内外を行き来できる状態のまま半時間放置していたわけで、実害はなかったものの、あの時は雷が落ちた。
 優吾はこの話をする時、不思議に明るく笑った。そこには今まであった苦笑の影が、少ししか見えない。
 と、優吾はすっと笑いを引っ込めた。口元は笑ったままだが、それは苦笑の形で、優吾は机の上に乗っているレコーダーに目を落として言う。
「本当、ちょっとへこみましたね……ちょっとじゃなくて、すごく、だったんですけど。次の日の午前がニドランじゃなかったら、俺、育て屋行かなかったかもしれない。でも、ここで行かなかったら後どうするんだってのもあって。俺、両親が育て屋だから、後継がなきゃなあって思ってて、でもその時正直、育て屋やめたいな、とかって。怒られて、仕方ないけど、でも俺育て屋でやってけんのかなって思って、でも両親が育て屋で、俺は中卒だから、あんま選択肢とかないなって思って。俺の将来、育て屋しかないじゃんって思って、両親に怒るというか、なんで選択肢ないんだよって」
 あはは、と優吾は声を出して笑った。そして、「多分、それが俺の反抗期だったんですよ」と言った。真壁が頷く。反抗期。その単語が智志の心の中に冷たく入り込んだ。
 反抗期、俺にはあっただろうか。

 智志の両親は、ありふれた両親だった。父親は、旅をしていたトレーナーが多い時代のことで、行方不明。母親はそれを嘆いたり、笑ったりしながら、智志と絵里子を育てている。好きにしなよ、と口で言いながら、目では、旅のトレーナーにはなるんじゃない、と言っていた。母親の苦労を事あるごとに聞かされて育った智志は、特に疑うこともなく、周りの皆と同じように、とりあえず大学まで進学した。
 特に反抗した覚えなんて、なかった。あるのは、直近の一度だけ。勉強しなさいと言われれば宿題くらいは済ませ、家事を手伝ってと言われれば手伝った。このお金で本でも買いなさい、と渡されたお小遣いは、言われた通り全てを本に替えた。写真集という本もあったが。そこへいくと、妹の絵里子は、兄の智志より、ずっとはっきり反抗していた。智志は、彼女が小遣いをマンガに替えていることを知っている。そして、母が本と呼ぶ物に、マンガは入っていない。

 優吾の言葉が耳に入ってきて、智志は過去を巡回していた思考を、現在に引き戻した。
 レコーダーが静かに回っている。
「でも、まあ」
 レコーダーの赤い光。
「結局疲れて寝て、育て屋に行ったんですけどね。道中色々考えたけど、結局到着して」
 優吾が顔を上げる。
「でもやっぱ、疲れてたんですね。午前中ずっと寝てて、起きたら、根岸さんに帰るかって言われて。でも、寝たら体力回復して、却って元気になっているわけですよ。で、午後も行きます、って」
 過去への誘い。
 そういえば、優吾の両親は育て屋だったと言うのに、優吾は何故ここで働いているのだろう。疑問を手帳に書き留めて、過去の時間が進んだ。

 元気になった、といっても、相変わらず小さなミスは多かった。優吾はあまり要領のいい方ではなかった。それでも、ミスといっても、やり方のミスでなくて、優吾がポケモンの性質を分かっていなくて起こるミスの方になっていて、優吾は失敗しながらも、自分の成長を感じ取っていた。
「っていうのも、今だから分かることかな。そん時は、もう仕事で手一杯でしたから」
 起こりうるミスは多分、全部起こしましたと言う。同じミスを繰り返すこともあった。当然、怒られることも多かった。
 ニドラン♂と、根岸と過ごす半日が、いつしか心の安らぎとなっていた。防護室で暴れて以来、ニドランは凪のように静まり返っていて、ちょっと大人しすぎるくらいだった。その凪のようなニドランをブラッシングしてやったり、栄養管理をして餌を作ったり。預かり物といっても育てて強くするコースではないらしく、訓練が入らないので大分、楽だった。ニドランは大人しいので、躾なければということもない。根岸は時折、ニドランを抱いてフィールドを歩き回ったりしていたが、優吾はそれは根岸の仕事と割り切っていた。 対一匹の仕事はもう呑み込めていたし、隣にベテランがいるから、研修の時みたいに時間いっぱい走り回ることもなかった。時間に余裕が出来ると、心のタガが緩んだ。仕事中に、フィールド研修の愚痴みたいなものを根岸に話すようになった。午前中の失敗や午後の不安を、根岸に話してアドバイスを貰うこともあった。根岸は業界でも名の通っているベテランの育て屋だ。その彼と、事実上一対一で話せるのだから、優吾にとってこんなに有難いこともなかった。それに気付いたのも今になってからだったが。
 優吾と根岸の会話を、ニドランは大人しく聞いていた。そう、優吾は思っていた。

「僕らが対一匹の仕事を入れる時っていうのは、そのポケモンにお客様から細かい要望があった時と、そのポケモンが特別手がかかる時なんです」
 優吾はずい、と前に身を乗り出した。その動作が突然で、智志はぎょっとしたけれど、隣を見て姿勢を正す。隣にいる真壁誠大の瞳は、ただ優吾の話を真摯に聞く為に前に向けられていて、揺らがなかった。
 智志は手帳に目を落とす。真壁の鋭い目を、手帳に書き写す。
「もちろん、見習いの時はそういうポケモンの世話はしませんよ」と優吾が説明を付け足す。
「でも、その時の僕は対一匹の研修は終わってた。それに、ニドランの世話は根岸さんが主にやってた」
 そこまで言って、優吾は目を閉じた。手を組み、それを額に当てる。そうすれば、彼の表情は電灯の影になって見えなかった。なのに何故か智志には、優吾が苦悶を押し留めるかのように瞼をきつく閉じ、口を強く引き結ぶ様が、フィルムに焼き付けられたかのようにはっきりイメージできた。否、断定できた。
 優吾が身動ぎする。自身の体の影に入った口を動かす。
「俺は、でっかいミスをしてたんです」
 取り返しの付かないミスを。しかしそれは、研修の日々に忙殺されて、気付かれることはなかった。本当に本当の、直前まで。そして、それでは遅すぎたのだ。

 半年が経ち、研修はますます忙しく、厳しくなっていった。
 元々、優吾はここでの研修を終えたら、実家の育て屋に帰る予定だった。それが、ニドラン♂の仕事で押していた上に、父親の体調が良くないと連絡が入った。早く一人前にならなければ、という優吾の思いと、早く一人前に育て上げなければ、という周囲の思いが歯車のように咬み合って、優吾は人生で最高に多忙な日々を迎えた。研修をこなし、ニドランの世話の合間に雑用もこなし、事務仕事も覚えさせられ、帰宅後は両親にメールして、帰郷の算段をつけたり、もしもの時のことを相談したりした。
「ああ、父は今も元気に生きてますよ。手術するかどうか、って話だったんですけど、事件が終わったくらいのタイミングで治ってしまって」
「君のことで、思うことがあったんだろう」
 真壁が、はじめて自分の意見を声に出した。優吾がはっと顔を上げ、真壁を見つめる。まるで、真壁という人間がいることに、たった今気付いたみたいに。
 しばらくの間、優吾と智志は、応接間に石でも投げ込まれたみたいに、呆然としていた。しかし、真壁がそれ以上、自分のことで喋る気がないのを見てとると、優吾は再び語り始めた。最初はぎこちなく、しかし、すぐに前の調子に戻った。
「えっと、ほら。両親にメールして、近い内に有給とろうかとか、葬式とか墓の費用とか、結構色々細かい所まで話し合っていました。ただの胃潰瘍だし、手術すれば大丈夫とは言われてましたけど、やっぱりもしもとかあるかもしれないし、お母さんが『うちは身内経営だから、そういうのはきちんとしとかないとね』って。最後は治ったんですけど、最初は吐血して病院に担ぎ込まれたって言ってたし、気が気じゃなかったと思います。職業柄、色んな種類のポケモンの世話をしますから、それで変な病気を貰ったんじゃないかとか。実際、毒ポケモンの世話で体に毒が溜まって、とか、炎ポケモンの世話でいつの間にか体内を火傷してたとか。やっぱり聞くんですね、そういうの。それで余計に不安になって、今ニドランの世話してるらしいけど大丈夫、とか」
 優吾は、ここで苦笑を挟む。苦笑なのに、見ているこちらが幸せになるような、素朴な笑みだった。
「俺としては、研修で忙しいのを気にしてほしかったかなあ。でも、親ってそんなもんですね」
 本当に忙しかったというか、今では違法じゃないかな。そう言って優吾は、今度は明るいはずなのに苦い笑みを浮かべる。

 ポケモンたちのコンディションチェック、餌決め、餌の配合、餌やり、掃除、それからフィールドごとに訓練がはじまり、訓練後のコンディションチェックがあり、もう一度餌をやって。
 それを、ポケモンたちの個々の性質に気をつけながらやらなければならない。それ以外にも、扉の鍵の管理から掃除用具の使い方から、見習いの優吾には気にすることが山程ある。ただでさえ過密スケジュールのところに加えて、実家の心配だ。でも、だから仕方ないとは、優吾には言えなかった。ニドランの時間は半日、優吾に割かれていたのだから。
 根岸が優吾に、最初に打ち明けていれば、事態は違っていたかもしれない。しかし、あの事件があって心を一番痛めていたのは間違いなく根岸で、その彼に誰が何を言うことなど、出来はしなかったのだ。
 些細なミスだった。
 疲れていた。実家が心配だった。言い訳は色々あるが、起こってしまったことは、もう戻らなかったのだ。
 あの日、優吾は用具室の扉の鍵をかけ忘れた。
 ニドラン♂は逃走した。

 バタバタバタと、ひっきりなしに誰かが駆けずり回る音がする。加えて、絶え間なく鳴り続ける電話のベル。とんでもないことをしてしまったのだと、優吾はやっとこさ自覚した。職員は状況を尋ねるのに入れ替わり立ち代わり、電話番の片方は休みの職員に片っ端から電話をかけて援軍を頼み、もう片方は地元の警察やレンジャーに電話をかけて説明しながら謝り続けている。一方で、それを眺める優吾は、何もやることがなかった。それが優吾の罪悪感を加速させる。
 根岸が扉を開けた。
 根岸は周囲にちらりと目をやって、それから真っ直ぐ優吾の元に来た。雷が落ちるか、と期待して優吾が肩を竦める。しかし、雷が落ちることはなかった。
「状況をお願いします」
 根岸は、狩人みたい、と度々評される眼光でもって、優吾の隣にいる人物を見た。育て屋の長、及川。彼は現場から退いて貫禄の付いた体を揺すって、根岸の質問に答えた。
「エス一匹A棟用具室東出入口より。エスはニドラン♂。イヌ四匹、ソラ三匹で追跡中。十一分、もうじき十二分」
 優吾は目が回るような気分を味わった。自分にはよく分からない言葉で、それを早口で言われたのだから、分からなかった。しかし、根岸にはそれで分かるのか、彼は顔を青くして頷くと、「十二分か……」と項垂れた。
「ソラ一匹追加するか」
「僕も出ます」
 根岸は作業着のポケットからボールを取り出す。しかし、及川は渋面を作って、何やら言いにくそうにしている。
「なんですか」
 根岸が、焦れて言った。
「今回、君が責任者だから……」
「責任なら後でたっぷり取れます。それより」
 根岸が優吾の腕を掴む。及川は何か言う前に、根岸は部屋を出た。
 育て屋の外に出たところで、根岸は優吾を放した。そして優吾を見下ろす。狩人という言葉では到底足りない、猛る竜のような、凄まじい気迫と眼光が優吾を見た。食い殺される、と一瞬優吾は、本当にそう思った。
「ごめんなさい」
「何?」
「すいません」
 反射的に謝罪の言葉が飛び出ていた。蚊の鳴くような声で、根岸には純粋に聞こえなかったのだろうと思う。
「反省は後で出来る。今は」
 根岸はくっと息を飲む。それだけのことをしてしまったのだと、優吾は思う。
「ニドランを探そう」
 根岸は及川との対談から、ずっと手に持ち続けていたボールを開けた。
 光が飛び出し、形を作る。竜の体躯、尻尾に灯る炎。一目でよく育てられたと分かるリザードンだ。
「僕は空から探す」
 どこから拝借していたのか、双眼鏡を首にかけて、根岸はリザードンの背に乗った。
「君は歩いて探せ。まだニキロ圏内だろう。タグが付いてるから見れば分かるな。サーナイトも出して。ニドランだとイヌの臭気追跡は頼りにならん。サーナイトの感情探知能力の方がまだいい」
「なんでですか?」
 リザードンの背中から見下ろした根岸の目を見て、優吾は、その質問は今すべきではなかったことを知った。だが、口から出た発言は取り消せない。根岸も、教育係としての性が消せないようで、優吾の質問に丁寧に答えた。
「ニドランに限らない、毒ポケモンの追跡を臭いでやるのは難しいんだ。ポケモンが嫌がるからね。これは本能であって、訓練しても中々うまくいかない。臭いを嗅げば、相手が毒を持っているかどうか分かる。相手が毒を持っていると分かった上で突っ込むのは、ポケモンも嫌なんだろう。デルビル系統は自分も毒を使うからか、ある程度の距離まで詰めてくれるが、それ以上はポケモンの意志で進んでくれないと思っていい。それよりサーナイトだ。野生ポケモンと明らかに違う感情を探すこと。外はテリトリーじゃないから、心細いとか、居心地が良い場所を見つけたいとか、あと――まあ」
 根岸が額に手を当てた。「あいつは」手を下ろす。「まあとにかく」リザードンに座り直した。
「頼んだ」言うと同時に飛び立った。
 空高く、リザードンの咆哮が聞こえる。どうやら、早く空を飛びたかったらしい。
 地上にポツネンと残った優吾は、育て屋の外に散らばった職員に邪険にされつつ、サーナイトをボールから出した。感情に敏感と言われる種族の彼は、優吾を見て目を丸くしてたたらを踏み、倒れそうになったところをエスパーの力で立て直した。
 彼にはもう、状況が分かっただろう。それでも、優吾は声に出さずにはいられなかった。
「俺の所為で、俺の所為でニドラン♂が逃げた。一緒に探してほしい。頼むよ、ラルフ」
 これだけ言うのが精一杯だった。本当は、せめて、涙声じゃない方が良かった。
 ラルトスからの付き合いの彼は、任せたと言う代わりに、明るい表情で頷いてみせた。

 この育て屋は自然を利用して作ったようなもので、だから建物の周りには、当然道路は通っているものの、自然が多かった。この中からニドランを一匹探すのは大変だろうな。優吾はそう思いながら、サーナイトの先導に従って進む。
 途中、臭いの追跡部隊を追い越した。根岸の言った通り、気を逸らしたり、道草を食ったりして、中々目標に辿り着く気配を見せない。グラエナは頻繁に止まってトレーナーの顔を見上げている。ヨーテリーは進んでは嫌なのか戻りの繰り返し。根岸の言った通り、デルビルは彼らの中ではまともに進んでいる方だったが、それでも歩みが遅い。残るガーディは、完全に探索を放棄していた。それでも、見つかって声を掛けられるのが嫌だったので、遠巻きにして進む。
「ラルフ」
 サーナイトがこくりと頷く。目を閉じ、瞑想の体勢に入って、周囲にある感情を探る。目を開けると、デルビルの鼻先を見てしばらく進み、そこでまた瞑想に入る。それを繰り返し、もう臭いの追跡部隊が木々に隠れてすっかり見えなくなったところで、サーナイトが片腕を上げた。
「そっちにいるんだね?」
 こくりと頷いた。サーナイトが優吾の手を掴む。そして、指し示した方向に向けてテレポートした。
「ニドラン!」
 森の中に湧き出た泉。そのほとりにニドラン♂はいた。いつものように大人しく、揺れない水面を見つめていた。前足にタグが付いている。間違いない、このニドランだ。
 ニドランは優吾の声でぎょっと顔を上げると、目を見開いたまま後ずさった。優吾はぱっと背を屈める。隣でサーナイトも跪いた。自分より大きな人やポケモンは、小さなポケモンにとっては恐怖の対象なのだ。普段はそうでなくとも、神経が昂ぶった状態では、そうなるだろう。
「ほら、帰ろ、ニドラン、こっちにおいで!」
 対する優吾の声も、少し上擦っていた。自分が見つけたことで、ミスも帳消しになるかもしれない、という淡い期待もあった。でもそれより何より、ニドランを見つけた安堵がそうさせた。
「恐くないよ。ご飯も用意して待ってるから、ほら」
 背を屈めすぎて、腹ばいの体勢になって、優吾はニドランに呼びかけた。「ほらおいで」両手を伸ばす。ニドランが後ろに下がる。優吾は焦れた。「ごめん、ラルフ。一旦ボールに戻って」自分より背の大きなサーナイトを、ボールに入れる。そしてまた、優吾は呼びかけた。
「大丈夫だから」
 ニドランが一歩下がる。
「怖くないから」
 ニドランがまた一歩下がる。
「お腹すいてない?」
 ニドランがもう二歩下がった。
「おいで」
 優吾はニドランに近付こうと、身を起こした。
「悪いことなんてないから、帰ろ?」
 ニドランが下がらなかった。
 代わりに耳がパタリと下がって、そこから発条仕掛けの玩具みたいに、耳が上がって。
 見開かれた目は、糊付けされたみたいに優吾を見ていた。まるで、蛇に睨まれた蛙みたいに。
 糊付けされた目が、動き出した。横にずれる。ニドランは泉を見た。
「ダメッ!」
 優吾の左足が泉を叩き、思いがけない深さに驚いて、引き戻される。優吾は濡れた左足を引き上げて、何をするでもなく、ただぼうっと立ち尽くしていた。
 ぱしゃん、という水面を割る音は、とうの昔に鳴り終わっていた。ニドランがぽーんと宙に自分を放り出すのも。優吾が叫んだ後には、何もかも終わっていた。後は、泳げないニドランが沈むのを眺めるだけ。
「ポケモンが自殺するなんて、思わなかったんだ」
 その言葉は、いつ言ったのか。過去を思い返す度に、その言葉を何度も何度も免罪符として取り出してきて、いつから言い出したのか、分からなくなっていた。分かるのは、その時は何も分からなかったということだけ。
 ややあって、優吾はサーナイトのボールを出して、開いた。手が震えて、たったそれだけの操作に、手間取った。出てきたサーナイトに助けて、というのにもう十秒。承知したサーナイトも、まるで何かの壁にぶつかったかのように念力を飛ばせず、結局ニドランを引き上げたのは他の人達が到着してからだった。

 それからというもの、優吾は下宿にこもりっきりで、職場からの電話も出ようとしなかった。終いには鳴り響く電話が鬱陶しくなって、電源を元から切ってしまった。それから十日目だったか五日目だったか、優吾の下宿のボロい扉を、強く叩く者が現れた。
 しばらく、優吾は出なかった。しかし、扉を叩く音がしつこいのと、食料が尽きてお腹が空いてきたのもあって、優吾は扉のところへ体を引きずっていくと、スコープを覗いた。
「なあ」
 そこには、心の何処かで期待していた、根岸がいた。
「いるんなら開けてくれ。話したいことがある」
 それから根岸は、カップ麺を入れたビニール袋を持ち上げた。が、それを見るまでもなく、優吾は扉を開けるつもりでいた。すいません、一歩下がってと断ってから、優吾は外開きの扉を開けた。
「お邪魔するよ」
 根岸はカップ麺の袋を優吾に渡したが、家には上がらなかった。優吾は袋を持ったまま、狭い部屋の中で立ち尽くしていた。根岸の意図が分からなかった。てっきり、自分を引っ張って連れ出していくものと思っていたのに。
 唐突だった。
「すまん」
 根岸が土下座した。
「許してくれとは言えん。ニドランにもお前にもサーナイトにも、すまなかった。
 言わなかった俺の責任だ。あいつは、あのニドランは、ポケモン使った連続婦女暴行事件ってあったろ。あの事件の」
 扉から上がり込んだ風が、ビニール袋を揺らしていた。
「加害者のものだった」

 実を言うと、ニドランの事件の後、優吾の記憶は混乱している。他の人に聞いたりして時系列に並べてみたが、どうも自分の記憶と食い違うと言う。それに、どうやっても欠けた記憶がひとつ出てくる。それは仕方ないとして、優吾は話してくれた。
 ニドランの遺体を引き上げた時、優吾は手を組んで、ごめん、とか、すまない、とか言っていたらしい。しかし優吾は、当時の自分は混乱していて、謝罪を口に出来る状態ではなかったと言う。手を組んでいたのは確かだが。この時、ニドランとサーナイト、サーナイトと優吾と順番にシンクロして、優吾がニドランの感情をぼんやりとながら把握していた為、謝罪の言葉を口に出した、と説明はつけられるらしいが、あまり納得は出来ない。それから、ニドランのお別れ会が育て屋の隅で小さく行われ、根岸が土下座して謝り、優吾が数日間下宿に引きこもった後、年度の終わりを待って根岸が辞め、優吾が実家に帰った、らしい。
 しかし優吾の記憶ではこうなる。まず、優吾が引きこもる。そこに根岸がやってきて土下座で謝り、ニドランのお別れ会が催される。それから、何度辻褄合わせをやっても解せないことに、優吾の父親の葬儀が入る。これはどう考えてもおかしいことで、第一に優吾の父親は生きている。実家に帰る前に優吾が葬儀に出席できたはずもないので、これは捏造された記憶なのだろう。両親と葬儀について、仔細に渡って打ち合わせていたから、夢に出たのだろうと思う。そして年度末をもって、優吾が実家に帰り、優吾が知らぬ間に根岸が育て屋を辞める。ここでも時系列が前後するが、根岸は本当にひっそりと育て屋を辞めたので、優吾が気付かなかったのも無理はない。予期はしていたが、別れの場面には立ち会えなかった。
 根岸は予め及川に言っていた通り、後で責任をたっぷり取った。それも、過剰な程に。ニドラン♂の“事故死”も、用具室の鍵の不手際も、全てその双肩に負って辞めていった。風の噂では、遠い地方に渡って、そこで育て屋をやっていると聞く。根岸らしい、と優吾は思う。自分の腕一本で、それなりに盛り立てているらしい。一方、こちらの育て屋の方は散々だった。預っていたポケモンが事故死したとなれば、そうなるしかあるまい。客足が遠のき、職員も多くが別の育て屋に移った。及川もそれから間もなく隠居し、後任に育て屋を引き継いだ、つまり丸投げした。優吾も一旦は実家の育て屋に戻った。しかし、今度は時流が安寧を許さじと彼らの元へやってきた。旅をしてジムバッジを集める、という風潮が下火になった。義務教育が六から六・三になって学歴水準があがった。ポケモンバトルリーグが財力に下支えされるプロのものになっていった。乗用車が大衆化し車人口が増加、それに伴って舗装路が増え、町と町の間を歩いて行ける環境ではなくなった。原因なんてあるようでないようなものだ。ただ、時流が変わった。優吾の実家の育て屋は潰れ、大自然を活かしたリラクゼーションとポケスロン訓練に的を絞った経営で大穴を当てたこの育て屋が生き残った。ただ、用具室は配置を変えた。昔の用具室には、払い下げの馬鹿でかいコピー機が鎮座している。

 語り終えて、優吾はふう――、と長い息をついた。まるで、十何年も歳を取ったかのようだった。
「それで、僕はここに戻って、今ではフィールド主任補になりました」
 思い出したように、付け足す。
 ウィーンガシャ、と音がした。レコーダーがテープを吐き出していた。
 真壁は慣れた手付きでテープを鞄へ仕舞うと、ひと通り定型の謝意を述べた。それから、今度は優吾と心の篭った握手を交わして、深々と礼をする。優吾が戸惑って、顔を上げてください、とも言えない間に、真壁は体を起こしてこれからこのテープを元に原稿に起こす旨を伝えた。
「もちろん、そうしてください」
 優吾は笑っていた。
「今ではポケモンのPTSDも、皆知ってますけど。たった十年前には、ニドラン一匹救えない馬鹿がいたって」
「君は馬鹿ではないよ」
 大きな鞄を持ち上げた真壁が言った。持ちましょうか、と言うのを断って、鞄を抱える。そして、言葉を続けた。
「若いのに、難しいポケモンを抱えて困ってた根岸に頼られたんだ。それは誇っていい」
 優吾は不思議そうに、「はあ」と頷いた。誉められた理由が分かっていないように。そんな顔もするんだな、と智志は思った。


 帰り際、応接室から外へ向かう廊下の途中、外から帰ってきたらしい、後ろ足にタグを付けたガーディと、育て屋の作業着を来た職員とすれ違った。育て屋の外でも訓練をするのだな、と智志は思う。振り返って、ガーディの動きを目で追った。自分がよく知っている個体よりも、ずっとたくましい後ろ足の動きに合わせて、小さな金色のタグが上下している。
「あれは、うちで始めた新しいサービスに参加する個体なんですよ」
 智志の視線に気付いた優吾が、説明を始めた。
「町に訓練を施したポケモンを放して、犯罪の防止や早期発見につながるよう、動いてもらおうという……まだ訓練を終えたポケモンも多くないし、この取り組みに協力してもらってる町も、一つだけなんですがね」
 途中まで自慢気に、最後は失速して苦笑まじりに言った。
「どこまで抑止力になるのか……うまくいけば、まだ自分のポケモンを持てない子どもなどを、犯罪から守れるかと」
「だから町の方で訓練してたんですか」
 智志は返事を期待せず、呟いた。しかし、優吾はそれにも丁寧に答えを返した。
「ええ。移動のコストも馬鹿にならないんで、町にある出張所を支部に作り変えてる最中ですよ」
「発案したのは、君か?」
 それまで、ずっと若者二人の会話を聞いていた真壁が口を出した。鷹の目が、一狩り終えて、休息に入ったような余裕を持って、優吾の方をじっと見た。羽を休めていても、鷹は鷹。優吾の背筋がピンと伸びたのが、隣で見ていてよく分かった。
「ええ」
 真壁は返答を聞いて、目を伏せて納得を示した。そして、その姿勢が見えない扉を開けたかのように、優吾は先程のインタビューでは語らなかったことを、するすると語り出す。
「ニドランのことは折に触れて考えてたというか。自分はなんでもっとちゃんと見てなかったのかなっていうのもそうだし、どうしてニドランはあんなにじっとしてたんだろうっていうのもそうでしたし。僕がいて根岸さんがいて、あいつは微動だにしなかったですからね」
 優吾はそこで近くの壁にもたれかかった。
「後で考えたら、動けなかったのかな。ニドランが亡くなって、自分がそれで罪悪感感じて、はじめて思ったんだけど、ニドランも罪悪感を感じてたんじゃないか。……僕が下宿に引きこもってたみたいに、ニドランも動けなかった」
 失礼しました、と言って優吾は壁からパッと身を起こした。無意識にもたれていたらしい。続きは歩きながら、と優吾は二人を促して言った。自然と、真壁と優吾が並び、智志が後に続く構図となった。
 優吾は話し続ける。
「ポケモンも罪悪感感じるんだな、って、思いました。人間と同じくらいに、あるいはそれ以上に。だから、罪悪感を感じるなら法律も守ってくれるんじゃないかなって思った。この話はこれで終わりです」
 優吾が闊達に笑う。
 外に出るまで、微妙に間が空いた。その隙間に、智志は質問を挟んだ。
「それが、ニドランの供養になるとかは……」
 安い問いだ、と智志は思った。
「俺がニドランから得た物をマイナスにしたくないって意味では、そうです。でも結局は自己満足ですよ。願望だし」
 相手が智志だからか、砕けた口調で優吾は言う。さようなら、と別れの挨拶を告げる。
 育て屋の建物から一歩外に出た瞬間、眩い陽光に目が眩んで、立ち止まる。振り向くと、優吾も同じように立ち止まって目を細めていて、彼には夕日が似合いそうだなあと、なんとなくそんな感想を抱いた。


 真壁と共に、なし崩し的に彼の事務所まで戻った。ドアの向こうから、微かに機械の駆動音が聞こえた。働いているもう一人が来ているのだろうか。
 真壁が事務所のドアの取っ手に手を掛けたところで、動きを止める。そして、「根岸だ」と言った。
「はい?」
「根岸だよ。俺に田中優吾を紹介したのは。あいつもほとぼりが冷めてから、こっちに戻ってきた。二年程前になるかな。流石に育て屋には戻れなかったみたいだが、調子よくやってるよ」
 ドアの向こうでは、相変わらず機械の稼動音がしている。時々途切れながら、でも継続していた。
 智志は首を傾げた。
「どうして今、その話を?」
「もう一人事務所で働いてるのって、根岸のところから来たやつなんだよ。驚かすのも悪いと思ってな」
 言いながら、真壁はドアを開いた。智志は声もなく驚いた。真壁の目が穏やかに笑っている。
「紹介しよう。新人アルバイトの八坂だ」
 そう、声を掛けた。
 事務所の中では、真壁が丁寧にまとめたファイルや手書きのメモが、縦横無尽に飛び交っていた。駆動するパソコンが二台、一台は超高速ワードプロセッサと化し、もう一台は人間には目視できない勢いで画面を切り換えている。コピー機が絶えず紙を吐き出していた。その高速化の嵐の中心に鎮座する人物――人物?
「で、こちらが事務所の先輩のトビイシだ」
 挨拶は、と促されて、やっとの思いで「はじめまして」と口にする。
 トビイシはパソコンと飛び回るメモの中心部から、ジロリと智志を睨み上げた。思わず智志は立ちすくむ。
「あの、真壁さん、あれメタグロス」
「トビイシさん、な」
「はい」
 真壁は慣れた様子で、飛び交うメモ類をかいくぐって、コピー機から紙束を持ち上げた。「お、もう書き上がったのか。ご苦労さん」それから、パラパラ捲って読み始める。
 暫くして、事務所に入った所で立ち止まっている智志に気付いたのか、真壁がこっちに来いと手招きする。相変わらず危険に飛び交うファイルを避けながら、智志は真壁の近くに寄った。
「まず、これ。とりあえず内容ごとに分けといて。トビイシさん、複数の作業同時にしながら印刷するから、交ざってるんだよ」
 こっちが原稿用こっちが資料用、とトレイを渡される。智志はファイルにぶつからないよう、地べたに座り込むと、重い紙束を抱え直して、上から一枚ずつパラパラと捲り始めた。文章が切れていると思ったら、印刷した時に最後の文章が上に来た為か。たどたどしく作業を始めた智志に、真壁が笑いながら話しかける。
「トビイシさんは資料も集めてくれるし、ちょっとした文章も書けるから、助かるっちゃあ助かるんだが、整理だけは下手なんでな」
「文章書けるんですか?」
「ああ、事務所の経営が助かってるよ」
 言っとくけど、俺と名前は別だぞ――という真壁に同調するかのように、名詞が飛んできた。『フリーライター 飛石薫』なるほど。
「なんで薫っていう名前なのかは聞いてもいいですか?」
「性別不明だから、ユニセックスな名前なんだと」
 あきら、とかでは駄目だったのか。
 真壁が笑う。笑っていると、疲れたサラリーマンから、疲れが少し癒えた感じのサラリーマンなったように見える。
 そうして暫く、真壁と二人、トビイシが散らかした資料の整理に追われた。片付ける傍から、トビイシがコピー機に新しい資料や原稿を吐かせるので、終わらない。一段落したと思ったら、また機械が唸り出した。そういやトビイシさんって、メタグロスなのに資料は紙派なんだなあと思いながら、智志はそれを見つめていた。
「トビイシは」
 真壁が智志をちらりと見ると、言った。
「根岸が引退すると聞いて、俺の所に引き取らせてもらった。あの事件の後、外国へ行って、そこで捕まえたポケモンらしい。それから色々あって、根岸はその国でも育て屋で落ち着いたみたいだ。だが、歳を取ったから、故郷の土を踏みたくなったと言っていた。育て屋は後に譲って、こっちに戻ってきたんだと。
 俺とはその時会ったんだよ。ちょうど向こうはポケモンの引き取り手を探してる最中、俺は事件を追ってうろついてる最中でな。色々話をしてる間に、トビイシを俺が引き取るってことになった」
 そして、真壁は手元の紙束に視線を落とした。
 智志も、目はメタグロスが作った文章を追いながら、心では別のことを考えていた。運命という言葉で片付けるのは、余りにも簡単すぎる気がした。事件によって一度は故郷を離れた人間が、外地のポケモンを連れて帰り、そのポケモンが、事件を追ってきた別の人間の経営上のパートナーとなる。事件がなければ、生まれなかったもの。事件があって、変わってしまったもの。
「手が止まってるぞ」と真壁に指摘されて、慌てて智志は手を動かした。


 そのまま、夜遅くまで事務所に居着いてしまった。送ると言う真壁の申し出を断って、智志は夜道を徒歩で帰る。家までさほど遠くないし、成人男性だし、大丈夫だろう、と思う。一応、ポケモンも連れているし。
 途中、野生のヤブクロンを一匹見かけた他は、特筆すべきこともなく、智志は玄関まで辿り着いた。鞄を引っ掻き回して鍵を探す。それにしても、この国にもヤブクロンっているんだな、とか、考えながら。あれは外国のポケモンだと思っていた。
 鍵は掛かっていなかった。不審と不安が横隔膜からガッとせり上がってきて、智志は筋繊維が緊張するのを感じた。こめかみの当たりがピリピリする。泥棒か、強盗か。智志は自分が唯一持っているモンスターボールを、間違って取り落としたりしないよう、両手でしっかり包み込んで、右手の親指をボールの開閉スイッチに添えた。玄関に上がる。途端、センサーライトが智志を照らす。一驚、そして安堵。二つの感情は失敗した色粘土みたいにごっちゃになって、智志にもよく分からないものになった。ドアを静かに閉め、靴を履き捨てて、上がる。そうっと、そうっと。変だな、静かすぎる。それとも泥棒や強盗なら、静かにするのが当たり前なのか。リビングとキッチン、どちらのドアを先に開けるか迷って、金目の物を狙うならリビングだろうと考え、音を立てないよう、震えながら、ボールは両手で持ったまま、指先でドアノブを引っ掛けてドアを開いた。
「こんな時間までどこ行ってたの!」
 一喝。母親の吠え声に、智志は目を白黒させた。智志は大学生だし、成人男性だ。日付が変わる前に家に帰って、怒鳴られる筋合いはない。
 手元から零れたボールから、ぽんと光を放って子犬が姿を現した。今日、育て屋で見たのよりはずっと貧弱なガーディが、きゅうんと鳴いてソファの後ろへ身を隠した。
「あら、智志だったの。ごめんね」
 母親が謝る。しかし、そのはらわたは煮えくり返っていて、謝罪に身が入っていないのは、智志にはよく分かった。昔から、堪忍袋の緒が切れやすい人だった。思い通りにならないことがあると、いつもそうだった。
「どうしたの?」
「絵里子よ」
 そして、母親の堪忍袋の緒を切るのは、いつも妹だった。
「絵里子が、旅のポケモントレーナーになるんだって言うのよ!」
 そうして、母親は泣き崩れた。智志は困って、ただしゃがみこんだだけ。ガーディは相変わらず、ソファの後ろで悲しげに鳴いていた。
 旅のポケモントレーナーなんて、そんな前世紀の遺物みたいなもの。トレーナーなら町のジムに通って、教えてもらえばいいのに。高校にも行かないなんて、あの子……智志は母親の言葉を、ぐるぐると聞いていた。話はいつも同じところに戻って、同じところへ返ってきた。私の育て方が悪かったのかしら、智志はいい子に育ったのに……
 母親のぐるぐる回る言葉を聞いて、智志は自分の頭もぐるぐるしてきたように感じてきた。その中で考えたのは、何故かメタグロスのトビイシさんのことだった。宙にメモ帳や百科事典を、ぐるぐる回すトビイシさん。ポケモンなのに名刺を持った、性別不明のイットのことを。
 その日の内に妹は帰らず、ただ、夜が当たり前に更けて、まどろむ内に朝になっていた。


  [No.1099] 〜2.骸の塔 投稿者:咲玖   投稿日:2013/05/17(Fri) 17:46:15   52clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
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 窓の外では、休日に繰り出した人々が行き来している。
 指先でカップを叩き、冷えきったコーヒーを揺らす。約束の時間をもう、十五分過ぎていた。忙しい人とは聞いている。が、時間を守らない人だとは聞いていない。今日は来れないのだろうか。
 智志は足元で寝そべっているガーディの頭を手遊びに撫でた。ポケモンカフェに来たというのに、ポケモン用の美味しいご飯を貰えないからだろう、ガーディは恨めしげに智志を見た。「ごめんな、相手の人が来てから頼むから」食事の匂いだけがいたずらに鼻をくすぐった。
 ガーディはそっぽを向くと、自分用のお冷をいじましく舐める。智志は冷めたコーヒーをすすった。
 窓の外では、休日を楽しむ人々が行き来している。自分の日常が非日常に変わっても、自分のすぐ側で世間は素知らぬ顔をして日常を過ごしている。それは酷く当たり前のことなのに、酷くやるせなく思えた。

 あれから二週間が経った。
 旅のポケモントレーナーになる、と言って家出した絵里子は、一日経たない内に家に戻ってきた。といっても、旅のトレーナーを諦めたわけではなく、友達の家に居候するのも気が悪いし、仕方ないから中学卒業までいるだけだと、智志に何度も言っていた。
 絵里子は母親と口を聞いていない。母親は何度も絵里子を説得しようとして、その度に拒否されてヒステリーを起こしていた。
 智志は、どっち付かずだった。母親の言うことをよく聞いて、大学まで入ったいい息子である智志は、母親の味方だと思われている。でも、智志は母親と一緒になって絵里子を説得する気にはならなかった。それをやると二対一で、絵里子の立場がないと思うし、何より……智志には言葉がなかった。絵里子を諭す言葉も、応援する言葉も、智志の中にはない。いい息子でやってきて、何となく大学まで行ってしまった智志には、妹へ掛ける言葉がない。
 もっと考えて大学に行っていたら、もっと違っていたのだろうけど。智志はまたコーヒーを口に含む。何をしたいか、何が出来るか、そういうことを考えて自分で道を選んでいたなら、絵里子にせめて、大学に行った場合の功利を話せたのだろうけど。そんな智志だから、この時節にあえて旅を選ぶ妹に、何も掛ける言葉がなかった。

 まだかな。智志は顔を上げて、カフェの時計を見る。毎時零分になると上の小窓からマメパトが飛び出してくるその時計は、十七分前に一度くるっぽーと鳴いたきり、沈黙していた。
 今日はもう、来られないだろうか。真壁の知り合いだという人間で、真壁はインタビューの練習台にでもしとけと言っていたが、まさか蔑ろには出来ない。しかし、遅れてきたのは先方なのに、勝手に帰るなとは真壁は言うまい。あともう少し、待とうか。智志は鞄からトビイシが書いた原稿を取り出した。どうせなら大学のレポートをやりたかったが、真壁の事務所でこれを押し付けられることは目に見えていたし、そうなると荷物の量が馬鹿にならなくなるので諦めざるを得なかった。赤のボールペンを取り出し、原稿のチェックを始める。恐るべき速筆のトビイシだが、間違いが多い。トビイシが書いた大量の原稿を、真壁か智志が必ず目を通さなければならない程で、トビイシの印刷好きも相まって、智志は事務所の経営は本当に助かっているのか疑問に思う。一応黒字らしい。
 智志はトビイシの原稿に目を落とす。外地育ちの所為だろう。怪しげなカタカナ語がよく交じっている。智志は辞書を引いて、それをこちらの言葉に直す。時計のマメパトがもう一度くるっぽーと鳴いた。と同時に、カラン、とカフェのベルが鳴った。
 いらっしゃいませ、という店員の声の後に、何かやり取りが続く。
 と、やにわに店員が視界に出現した。「こちらでございます」店員は一礼して、去る。間もなく智志の目の前に、中年の男がどっかと座り込んだ。男は豪快に笑う。
「すまんな、遅れた。ひったくりを追いかけ回しててな。
 悪かったな。食事はまだか? ここは俺が持つから、遠慮なく頼め」
 そう言って、男はメニューを智志に寄越した。
「いえ、自分の分は自分で持ちます。今回、こちらの都合に合わせていただいたわけですし……」
 しどろもどろになる。「まあそう言うな。俺の方が年長だし、遅れて来たし、第一お前に会わせろって真壁に言ったのは俺なんだから」男が豪快に言い募るその途中で気付いて、智志は立ち上がって礼をした。
「本日はお世話になり」
「まー、座れ座れ。折角お洒落なカフェに来たんだから」
 男は智志の台詞を途中で切って言う。
「それから、面倒な敬語もなしだ。仕事で肩凝ってんだよ。非番まで肩凝ってたらやってらんねーや」
「あ、いえ、そういうわけには……」
「敬語はやめ、つってもそんなもんか? まあいっか」
 男はニヤリと笑って自分の分のメニューを開く。
「これいいな。モモン・タルト・タタン」
「すっごく甘いですよ」
 モモンの実を始め、ポケモンが食べるきのみというのは、味がどぎつい。その味は甘い、辛い、酸っぱいなどと表現されるが、人間が知覚するそういう味とはまた別物だと智志は思っている。
 智志の忠告に、男は「俺じゃねえよ、こいつだこいつ」と笑ってモンスターボールを開けた。ボールから現れたのは、智志のポケモンと同じく、ガーディだった。
「フレイヤって名前だが、普段はフレって呼んでる。女の子だ」フレ、と男が声に出すと、ガーディが男を見上げて、お座りの姿勢のまま尻尾を振った。
「お前のポケモンは?」言ってから、男は机の下を覗き込んだ。「ああ、そこか。お前のもガーディか」そして身を起こす。
「仲良さそうだな。いいカップルになりそうか?」
「こいつは女の子です」
「あ、そう」
 男は残念そうな顔をした。しかし、すぐに表情を切り替える。
「お前も好きなの頼め、な?」と言われ、智志は一番安いポフィンを頼んだ。「若い内から遠慮すんなって」男はまた豪快に笑う。智志は「はあ」と曖昧に答えた。
「でだ」
 注文を終え、男は腕を組んで机に付くと、智志の方へずいと身を乗り出した。
「お前だな? 真壁の弟子の、八坂智志ってのは」
「あ、はい」
 今ので、うっかり自己紹介していなかったことに気付く。
「真壁さんの所で働かせてもらってます。八坂智志と申します」
 智志は座ったまま頭を下げた。男は「いいっていいって」と手を振った。
「真壁から話は聞いてるんだ。面白い奴だな、あんな唐変木に弟子入りするなんて。あの唐変木はお前のことをモラトリアム小僧と言ってたが」
 智志は少しムッとした。モラトリアム小僧は余計だ。が、事実でもあるので言い返せない。
「まあ、俺も自己紹介せにゃなあ」
 男はそう言って、背筋を伸ばした。
「俺は青井守。真壁とは警察の記者クラブで知り合ったんだ。こう見えて、警察官だ」
 そう言って、青井はニッと笑った。真壁とは同い年と聞いたが、薄くなりそうな気配を見せる黒髪に、白色は交じっていない。代わりに、顔のシミが目立った。しかし、笑った時に見せる歯は白くて健康そのもの。やんちゃ坊主が順当に年を取ったらこんな感じなんだろうな、と智志は思った。いつも通り、手帳に書く。あまり似ていない。

 ポケモンたちの為に頼んだ食事が来た。人間の分として追加でコーヒーを頼む。「インタビューの練習なら、レコーダーの一つでも出した方がいいんじゃないか」と青井に言われ、智志は遠慮がちに、バイト代で買ったばかりのICレコーダーを机に置いた。カフェの店長には、予め許可を取っている。
「真壁とは違うなあ。あいつはどうせカセットテープ使ってんだろ?」
「はい」
「どこの遺物かと思うわなあ。まあでも、ああいうデカブツを使ってた方が、インタビューだっていう意識が両方に出て良いって真壁は言ってたな」
 智志には、カセットテープによって時間制限を意識させるのだと言っていた。
「おっと、こんな与太話で時間を潰すわけにはいかないよな」
 そう言って、青井は座り直す。目がギョロリと智志を見た。
「あの事件のことを話せってことでいいか?」
「その事件と、その後のことを」
 真壁にも言われたことを、智志は小さな声で繰り返す。――俺は、正義を求めたり、真実を暴いたりはしないんだ。ただ、追いかけるだけだ。
 青井はコーヒーを煽ると、天井の照明を見上げた。
「そうかあ。あいつはまだ追いかけてんだなあ」
「この事件を、ですか?」
「いや」
 青井は再度座り直す。そして、智志を見た。その顔には先程までの磊落さはなく、ただ、年老いて寂しそうな男が表れていた。男は、ふっと声を落として話し出した。
「雪ちゃんのことだよ……あんなもん、どうにもならねえのになあ。あいつは生真面目すぎる。適当に放り捨てなきゃ、やってられんもんだぜ」
 青井は眩しそうに目を細めた。まるで、今しがた照明の存在に気付いたかのようだった。そして、手をひらひらと振ると、「愚痴になっちまったなあ。悪い、忘れてくれ」と言った。
「あるいは、真壁に直接言ってくれてもいいぞ。もう追いかけるのをやめろ、ってな」
「それは」
 智志は言葉に詰まる。本来言い返すべき真壁は、ここにはいない。大事なインタビューがあると言って、どこか別の場所へ行った。
 青井は手で智志を黙らせるジェスチャーをした。そして、言う。
「あいつは事件じゃなくて、その後の人生を追ってるつもりだろうが、おんなじことだ。いい加減、忘れっちまえ。俺が真壁に言いたいのは、これだけだ」
 青井は手を引っ込めると、また前のように磊落そうに笑った。
「ま、お前と真壁は別の人間だ。お前はお前で、好きな道を選べばいいさ。ただし、真壁と同じやり方はお薦めしない」
 青井はコーヒーを飲もうとして中身がないことに気付き、店員を呼び止めておかわりを頼んでいた。智志はそれを眺めながら、今言われたことを頭に入れていた。追いかけるのをやめろ。そう言われても、智志にはこの場で何も言えなかった。自分の中に言葉がない。また俺は、何も考えていなかった。すすったコーヒーの苦味が際立つ。
「まあ、脱線したが、本筋と行こうじゃないか」
 おかわりのコーヒーが来るのを待って、青井が言った。智志はコクリと頷く。手帳を構えて。
「あの事件のことだが、俺は実は関わってないんだ。事件に当たったのは別の奴でな。そいつも色々あって警察をやめたが……そうだな。まずは、俺たち三人のことを話そうか。真壁を入れたら四人か。俺たち四人がお前くらいの年で、青春やってた頃だな」

 あの頃は、まだ旅のポケモントレーナーも多かった。青井くらいの年代の奴は、ほぼ全員が旅に出ていただろう。
「それが、こんな時代になるとはね」
 嘆くわけじゃねえけど、自分の頃にあった風習が、さも悪習みたいに言われんのはねえ。青井はやるせなさそうにため息を吐いた。
 ともかく、旅をするトレーナーが多かった時代のことだ。若い内から旅をする関係で、義務教育は小学校まで。通信教育や留年制度を利用する者も多かったが、小学校までの学歴のまま、職を探す者も少なくなかった。それが出来たのは、“旅をした”“旅をしてジムバッジをいくつ集めた”というのが、高評価で受け入れられてきたからだろう。ポケモンバトルがプロリーグに移行して、アマチュア向けのジムバッジ制度はすっかり廃れてしまったが。
「俺たちも例外なく、旅をしてバッジを集めて、その伝手で警察に採用されたような連中だった」
 青井は可笑しそうに笑う。
「真壁は聞屋で、海原はよく分からんかったが」
 ともかく四人は出会った。
「俺、海原、記者クラブにいた真壁。それから、アキちゃんだ。
 まるで幼馴染だったよ。今まで出会ってなかったのが不思議なくらい、俺たちは気が合った!」
 過去を懐かしむ目。
「ああいうのは、中々ないだろうな。真壁は職業が違うからあまり一緒にはならなかったが、俺たち三人は警察内で一緒に馬鹿やって、トリオ扱いされてたもんだ」
 しかし、今では四人とも、別の所にいる。
「皮肉だよなあ。それも、こんな職を選んだから離れざるを得なかったというか」
 出会った頃は、そんなこと、露程も思わず。

 四人は全くもって仲が良かった。仲良く喧嘩もやったが、すぐ仲直りした。四人それぞれタイプが違うのもあっただろう。
 如何にもやんちゃ坊主が成長した感じの青井。
 思慮深く、知的なインドア派の真壁。
 クールで影があり、天才肌ながら面倒くさがりな海原。
 そして紅一点、おてんばでズケズケと物を言うかと思いきや、奥手でもあったアキちゃんこと晶子。
 当然の如く、青井は晶子に惚れ、晶子は海原に惚れていた。真壁は惚れていたかどうか分からないが、トリオの恋愛事情からは一歩身を引いていた。
「ま、その頃のアキちゃんは可愛かった。丸顔で、背もよく警察なれたなってくらい低かったからな。可愛い系だよ。ま、今はオバサンだが」
 青井は笑って続ける。
「海原は女に寄られても仕方ない顔してた。洋画の俳優みたいな顔でな。鍛えてるけど、細身で長身。休日にサングラスして黒のスーツして歩いてたら、女が冗談じゃなく振り向くんだよ。しかもあの性格だ。女はああいうのが好みなのかねえ。アキちゃんの呼び方がな、『青井さん』『真壁さん』『海原くん』なんだよ」
 青井が笑う。智志も笑った。
 智志は手帳に似顔絵を描く。会ったことのない、想像の晶子と海原の顔が並んだ。
「もっとも、アキちゃんは俺と馬鹿やることの方が多かったけど。でもあれでアキちゃんは、学級委員みたいな真面目なとこがあったんだなあ。でなきゃ、辞めるわけないしな」
 青井はそこで急に身を起こすと、智志に「おい」と言った。
「なんでしょう?」
 記録されるとまずい話だろうか。智志の目がICレコーダーに飛ぶ。しかし青井はそれに構わず、話し続ける。
「お前、バベルタワー事件を知ってるか?」
 智志は息が詰まって、そして、ガクリと首を落とすようにして頷いた。知らない、なんて言ったら常識を疑われる。
 深くは知らない。しかし、その概要は誰もが知っている。当時小学生であった智志でさえ。
 酷い事件だった。
「ヤマブキハイランドマークで、宗教団体がテロが起こした、とは聞いています」
 それだけ答えた。

 当時、世界最大の自立式鉄塔であったヤマブキハイランドマーク、高さ五百八十三メートル。エレベーターやレストランが設置され、ヤマブキの観光の目玉になっていた場所。
 そこで事件が起こった。
 天使塾、と名乗る宗教団体のメンバーが、タワーの最上階で次々とポケモンを開放した。塔の内部に突然現れた大型のポケモンたち。タワーに訪れた人々の頭にまず浮かんだのは、襲撃の恐怖と、塔の崩落という恐怖だっただろう。タワーを降りようとする人々と、登ろうとする人々。天使塾による封鎖。パニックによる死者も出たらしいと聞く。その中で天使塾は声明を発表する。
「我々人間は、ポケモンを自らの欲望の為に、物として扱ってきた。ポケモンの力を酷使して作り上げた、このバベルタワーはその典型である。今一度、我々は神に赦しを請い、その裁きを受けなければならない。しかし、あるべき修業を積んできて我々は、神に赦され、天使として命を受けるであろう」
 そして、天使塾は神を呼ぶ儀式と称して、虐殺を始めた。
 その日は日曜だった。

 後で分かったことだが、天使塾の主なメンバーは、ポケモントレーナーを長く続けすぎて、職にあぶれた人々だったそうだ。
 旅をすることが公に認められている、と言っても、限度はある。引き際を見極められなければ、その先に道はなかった。旅をそんなに長く続けて、バッジはそれだけ? それとも、旅の経験でよっぽど売り込めるものがあるのかい? 大抵の人には、ない。バッジを集められず、あるいはポケモンリーグの本選に進めず、そんな所で足踏みを続けていた人々。足踏みしている間に時間が過ぎ、その時間に値する物を得る為に、また足踏みをして。そうしている内に、ポケモントレーナーから身を引こうとしても、居場所がなくなってしまう。そんな人々を天使塾は吸収して、肥大化した。
 これも、旅するポケモントレーナーが時代から消える一因だった。

 ヤマブキハイランドマークは、バベルタワーのように崩れ去ることはなかったが、観光塔としては閉鎖された。そして、慰霊塔となり、骸の塔と名を変えて、今でもそのまま残っている。忘れてはならない記憶の場として、訪れる観光客も多いそうだ。

「……その事件が、どんな風に終わったかは知ってるか?」
 智志はコクリと頷いた。そして、青井を見て、頷くだけでは足りなかったのだと知る。智志はコーヒーではなく水を一口飲んで、言葉を連ねた。
「最後は警察が突入して。でも、その前に、噂ですけど」
 青井が頷く。智志は半ば驚きながら、言葉を連ねる。
「ホウオウを連れたトレーナーがやってきて、収めた、と。塔からホウオウが飛び去った、と聞いてます」
 智志は水を置いた。静かに置いたつもりだったが、テーブルに触れ、コップがコンと小さな音を立てる。すいません、と思わず小さな声で呟く。
 青井はそれには気付かず、黙っていた。
 ICレコーダーが、小さな駆動音を立てる。
「……青井さん?」
 一分程待ってから呼びかける。青井は「ああ」と返事をして、体を智志の方に向け直した。
 窓の外を顎でしゃくる。
「今日も休日だなあ、と思ってな」
 何となく、青井の感じたことが分かる気がした。
「とにかく、話の続きだ。前後したがな」

 バベルタワー事件が起こる前、俺たち三人が警察になってからの話だ。
 最初は刑事課で仲良くやっていた。仲良く、といっても、扱う事件は強盗や殺人という重いものばかり。精神的にきついなんてことはいくらでもあった。しかし、人間には忘れるという機能がある。事件が解決したら、そこでエンドマークだ。それ以上、刑事が関わって出来ることなどないのだから、すっぱり忘れることだ。青井は、そうやってやってきた。
「俺にだって、忘れられないことはあるさ。でも、アキちゃんや真壁に比べたらなあ」
 晶子は人に実直すぎた。真壁は言葉に実直すぎた。一度、真壁が上司に噛み付いているのを見たことがあると言う。
「あれだ。報道の時、強姦が婦女暴行になるだろ。それが真壁は気に入らなくて、噛み付いてた。『そんな曖昧な言葉にすり替えていいのか。真実を報道する以上、それに即した言葉を使うべきじゃないのか』……真壁はそういう奴だった」
 晶子はいつも、被害者や遺族に親身になって寄り添った。カウンセラーや被害者の会の紹介のみならず、警察や検察の被害者支援制度についても詳しく、そういったものが必要な人々の案内役を買って出ていた。取り調べ室でも気を使って「休憩したかったらいつでも言って」と発言したり、これから取る調書について、裁判所での扱いを予め説明したり。事件後も彼女は彼らを気に掛け続けた。命日には、自分の都合と相手の心情が許す限りで、花を手向けに行っていた。
「アキちゃんの手帳は、事件の命日がいっぱい書き込んであってな。その内三百六十五日命日で埋まるんじゃないかってな」
 心配だった。青井は小声で付け足す。
 海原は、よく分からない。何も感じてないのか、と思う時もあったし、忘れているのかと思う時もあった。多分、彼は並外れて精神的にタフだったと青井は思う。
 そうして、三人がトリオで仲良くやっていても、いつかは別れる時が来る。三人のそれは、異動だった。青井は時代の要請が大きくなり始めた交通課へ。晶子はポケモン犯罪課へ。そして海原は刑事課に残った。真壁は変わらず記者クラブにおり、四人の縁はまだ続いていた。しかし、前に比べると、会う頻度は下がる。それぞれに職場があり、上司がいて、後輩が出来た。後輩が出来ると、自分だって至らないのに後輩の指導を任されて、四苦八苦した。しかし、会えばまた昔のように語り合った。
「海原はまあいつも通りだから心配ない。真壁は相変わらず上司に噛み付いてたよ。あれで飛ばされなかったのが不思議だよな。それで、アキちゃんは」
 そこで青井は息を吸った。
「前よりちょっと、マシになった。ポケモンが関わった事件でも、殺人みたいな重いのはポケモン犯罪課に来ないからな。よっぽどのことがない限り」
 加えて、晶子はポケモンに関しては天性の才能を持っていた。本人は否定していたが。
「でもまあ、アキちゃんのポケモンを見れば分かるわな」
 彼女はポケモン犯罪課で上手くやっているようだった。前のように重苦しい空気を背負って思い詰めていることもすっかり減ったし、ポケモンといるとそうなるのか、笑顔が増えた。
 海原が珍しく晶子に言及したのを、青井はよく覚えている。
「普段は、じゃじゃ馬だな、とか言って鼻であしらってるだけなのによ」
 ――大分笑うようになったな。笑ってる方が、俺たちにも良いな。
 そう言って、海原はウイスキーを飲んだ。銘柄までよく覚えている。シルバー・ギャロップ・ラン。そういえば、後にも先にも、海原が人前で酒を飲んでいたのはその時だけだった。

「“よっぽどのことがない限り”、アキちゃんはもう大丈夫だろうと思ってた」
 マメパトがくるっぽー、と鳴いた。もう随分ここに長居している。悪いと思ったのか、青井は二匹のガーディに追加で注文を取った。そして、智志に向き合う。
 机の上の小さなレコーダーを見て、気付いた。これじゃ、どのくらい録音したのかいまいち分からない。真壁のレコーダーは、途中で一回、テープを裏返す動作音が入った。
 それとも、聞けるだけ聞いとけってことか。智志はレコーダーから目を離し、青井の顔を見た。青井はただただ、笑う。
「よっぽどのことは、あったよ。あの事件だ」

 まず、“ある事”が起こった。
「あの事件の被害者は四人、だったな」
 言ってから、青井は右手の平を智志に向け、大きく広げる。
 少し経ってから、智志はその意味に気付いた。
「被害者は」言いかけて、口を閉じる。被害者は、本当は五人いた。一人、事件の被害者にされなかった人間がいた。
 青井は智志を見て頷くと、智志のICレコーダーを手に取った。そして、録音を切った。
「これは一般論だが」と前置きする。
「強姦事件の時、同意があったなかったで揉めることは少なくない。日を置いて被害者が届けを出したら、証拠は双方の言い分だけ、ということも多い。その状態で、被害者と被疑者が仲良さそうに歩いてたり喋ってたりするところを見られてたら、事態はシロの方に傾くことになる。心情的にはクロでもな。被疑者が強姦目的で被害者に近付いていたとしても。不起訴ということすらある」
 一般論終わり、と青井は言った。「もう録音していいぞ」青井はICレコーダーを顎でしゃくった。
 智志は少し体を伸ばして、ICレコーダーを手に取った。録音を再開する。レコーダーを机に置いた。コン、と小さな音がした。
「連続強姦事件の前に、そういう一般的な強姦事件があった。いや、事件にすらならなかった」
 ゼロ番目の事件。いや、事件にすらならなかった。
 青井は乱暴に、机に両手を置いた。ドン、と意外に大きな音が鳴る。
「で、やっと事件の話だ」
 皮肉を込めて、青井はそう言った。

 ポケモンを用いた脅迫による連続強姦事件が起こって、まず呼ばれたのは、ポケモン犯罪課の晶子だった。しかし、その時点では、“連続”であったが“連続”ではなかった。
「本来なら、刑事課だけで担当する事件だろうな」
 しかし、事件にならなかった“あの事”がある。その時点では、ポケモンを用いた脅迫が行われたかどうかもあやふやだった。でも、と刑事課は晶子を呼んだ。どうせ海原が手を回して呼ぶように仕組んだのだろうが、そんなことは、今となっては、最早どうでもいい。
「多分、あそこにいた警察官は誰でも思ってたろうからな。晶子以上のことが出来る奴はいない、ってな」
 事件が事件であったから、なおさら晶子を選んだ。
「アキちゃんは期待通りやったんだろうな。裁判で被害者側の調書がほぼ採用されてたし、判決もこっちの求刑に近かった。いや、俺は交通課だったからな。詳細は知らない」
 ただ、と青井は言う。酷かったよ、と。

 犯人のやり方は、ワイドショーなんかで散々言及されたが、こうだった。
 まず、辺りをうろついて、適当な女性を物色する。旅のポケモントレーナーなんてありふれたものだったのだ。誰も気に止めない。
 ターゲットを決めたら、旅のトレーナーらしく、旅の話をしたり、道中で手に入れたポケモンを見せたりして相手の気を引く。そして、しばらくこの町にいるんだけど、どこか案内してくれないかな、などと言って何度もターゲットと会う。出来れば人の多い所で。そうして親しさを演出した後、事に及ぶというわけだ。
 智志ははっと気付いて、いつの間にか作っていた握りこぶしを解いた。手の平に爪痕がしっかり付いていた。青井はそれに気付かず、話を続ける。
 ニドラン♂を使うかどうかは、まちまちだった。“二番目”の事件では使わずに犯行に及んだ。最後の事件では、親しくなる過程を飛ばしてニドラン♂で脅迫し、犯行に及んだ。そうして味を占めて計画が杜撰になっていったことも逮捕の一因だが、これもどうでもいいことだ。ただ、共通していたのは、ニドラン♂はそこに居させただけで、実際に危害を加えたりなどはしていない、ということ。
「実際に危害を加えてたら、最初の最初でとっ捕まってムショ行きだっただろうさ。小賢しい野郎だ」
 そう、青井は吐き捨てた。
 何はともあれ、犯人は捕まり、有罪が確定した。懲役十三年という罪は、罪状に比べて軽すぎるものだっただろう。それでも、被害者には何とか、怒りを向ける先が出来たと青井は思う。そう信じないとやってられない。
「晶子は生真面目すぎた」
 青井は再度ICレコーダーを手に取ると、録音を切って、机の上に投げ戻した。
「あいつのやりそうなことぐらい、分かっとけってんだ」
 あいつはなあ。青井は笑いながら言う。
 被害者でもない人間に会いに行ったんだよ。馬鹿だろ。
 泣き出しそうな声だった。

 その人は、事件の捜査が始まってすぐと、事件が終息に入った時の二度、姿を現した。だから、晶子とその人は一応、面識があった。誰かから聞いてその人のことを、ゼロ番目の被害者のことを知った晶子は、矢も盾もたまらず、謝罪に行った。「警察としては、やってほしくない行動だな」その人としても、やってほしくない行動だったのだろう。晶子は拒否されたが、それでもめげず、再捜査して今度は起訴させると約束して、事実その通りに行動した。
「アキちゃんは、行動力はあるし、多少のルール違反はやってしまうタイプだし、何より真面目で、正義感があった」
 四回の強姦事件が、大きく報道されたこともある。警察が非を認めさえすれば、有罪を付けることぐらいは出来ただろう。
「出来なかったんですか?」
「再捜査も、もうされないだろうな」
 青井は息を吐いた。そして、窓の外を見る。横顔を見て、はっとした。彼もやはり、真壁の同年代の人間なのだと痛感した。目元と口元に細かい皺が寄っており、それはきっと笑い皺なのだろうと思うのだが、今は、青井の顔にどうしようもなく深く時を刻んでいるのだ。
「自殺した。ご丁寧に、被害届を取り下げてな」
「……」
「ま、過去のことさ。俺は忘れようと思ってる」
 青井は先程投げたICレコーダーを持ち上げると、録音を再開して机の上に戻した。ICレコーダーはキュルキュルと鳴った。だからインタビューに応じたのだろうか。
「そっから」
 青井は気を取り直すように、乱暴に手で顔を擦る。元やんちゃ坊主らしく、豪快に笑ってみせるが、やはり元気がない。
「アキちゃんは窓際に飛ばされてな。それで持ち直せばいいと思ってたが、そこにバベルタワー事件だったよ」
 つくづくついていない、と青井は思ったものだ。
「捜査にあたった、じゃないんですよね?」先程飛ばされたと聞いたのを思い出す。
「ああ」青井は頷く。そして、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「巻き込まれたんだよ。海原と一緒にな。ったく、非番に二人で何してたんだか」
 苦々しい顔の次は、苦笑。「俺も混ぜろってんだ」笑う。
 そしてすっと表情が消えた。表情がよく変わる人だとは認識していた。だが、消えるとは思っていなかった。
「なあ」
 青井は感情を映し出さない目で、智志を見た。
「俺が最初に、事件がどうやって終わったか知ってるか、って聞いたの、覚えてるか」
 智志は頷く。
「ホウオウを連れたトレーナーが収めた、という噂のことですね」
「それだ」
 青井は人差し指を智志に向け、言った。智志はただ、たじろいだ。
「合ってるようで、違う。それぞれは真実だがまとめると間違いになる」
 智志は眉間に皺を寄せた。青井の問いかけが、謎かけのようで分からない。
「噂は、確かに噂だったってことだよ」
「えっと?」
「つまり」
 青井は机に肘を付くと、智志を指差した。
「ホウオウは目撃されたが、それは場を収めたトレーナーのものじゃない」
「つまり?」
 青井は一呼吸置く。そして、悲しそうに智志を見た。
「あの場を収めたのは、海原だ。ホウオウは、野生でも、海原のポケモンでもない。アキちゃんの手持ちだよ」
 一拍置いて、
「場が収まったんなら、ポケモンを出す必要なんてないのにな」
「えっと、それは……」
「宿題だ」
 青井は目を伏せて、足元にいるガーディの耳を掻いてやった。そして、「俺も真実は知らん」と付け足した。
「これは、と思う可能性はある。ただ、それを確定するのはむごすぎる。海原も、何も言わなかったしな。結局、俺の推測だけだ」そして、酷かったな、と独りごちた。

 晶子は警察を辞めた。
 前後して海原も警察を辞めた。こちらは、予め辞めるつもりだったらしい。ばっちり引き継ぎもして、後も綺麗にして辞めていった。きっと、旅のトレーナー時代に引っかけた女に追われてるんだと軽口を叩かれていたが、それがあながち外れでもないことが後々発覚する。「それはさておき」
 真壁も、何故か記者クラブから外れた。のみならず、新聞社を辞め、フリーに転向した。心当たりはある。色々積み重なったのだろう。
 青井は、警察に勤め続けた。他の三人のように辞める理由がなかったのもある。
「でも、最も大きい理由は、忘れてもいい、って思ったことだな」
 青井は言う。
「アキちゃんや真壁みたいな連中がいる。いて、事件のことを覚えててくれる。なら俺は、忘れてもいいんじゃないか、って思うんだよ」
 言いながら、青井は寂しげな表情をする。
 多分。
 智志には分からないけれど、推測は出来る。
 青井は、親友たちを懐かしんでいるのだ。親友たちとの戻らない時間。事件が起こらなければ、今も親友たちと笑い合っていたかもしれない。そんな可能性を考えているのだ。

「真壁に伝言を一つ、頼むよ」
 カフェの支払いを終え、外に出て別れる、という時に、青井は智志に頼んだ。智志は断るはずもなく、頷く。じゃあ、と青井は息を吸った。
「“雪ちゃんのことは忘れろ”」
 それだけだ、と青井は言った。
 智志は口の中で伝言を繰り返す。一字一句、間違えてはいけない。そんな気がして。
「ああ」
 背中を見せて、去りかけた青井が戻ってきた。「なんでしょうか?」と智志が尋ねる。青井は、智志の足元の子犬を指差した。
「些細なことなんだが、気になってな。
 そいつ、名前はなんていうんだ?」
「へっ?」
「名前、付けてるんだろう?」
 戻ってこれて嬉しいのか、青井のガーディのフレが、尻尾を振って智志のガーディに挨拶している。智志のガーディの方も、友達が出来て嬉しいのか、控え目に尻尾を振っていた。青井はというと、不思議そうに智志を見た。
「ガーディ、って名前じゃないんだろう? いや、店で一回も名前を呼ばなかったから、気になってな」
「名前は、付けてますが……」
「ほう、どういう名前だ?」
 教えてくれないと、今夜から眠れんなあ、と言って青井は大口を開けて笑う。
 智志はどもった。
「何と言いますか……」
「発音できない名前でも付けたのか?」
「いえ、発音は出来ますが。その」
「なんだ、はっきり言え」
「こいつを貰ったのが八歳の頃で、名前を付けたのが、その、八歳児なんで」
「ほうほう、それで?」
 この人は取調室でもこんな調子なんだろうか。
 智志は観念した。
「アマテラス」
 智志の足元の貧弱ガーディが、ぴょいと顔を上げた。まさしく「呼んだー?」と言う感じで。
「……」
「あの」
「何だ」
「コメント、してもらえます?」
 青井は、アマテラスをしげしげと眺めていた。「ああ、まあ」と言って咳払いをすると、こうコメントした。
「いい名前じゃないか?」
「そうですか」
 名前に敗北を喫したガーディが、愉快げに尻尾を振っている。


  [No.1100] 〜3.初雪は溶けぬ 投稿者:咲玖   投稿日:2013/05/17(Fri) 17:47:58   68clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
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 青井と別れた後、智志は真壁を探した。
 待ち合わせ場所に決めていた公園に、真壁はいない。近くをうろつき回って、公園の裏手にあるコンビニに来たところで、出しっぱなしにしていたアマテラスがうぉんと鳴いた。
 真壁さん、と声を掛けようとして、智志は黙る。
 真壁は、智志に気付いていなかった。いつもの大きな鞄を背負ったまま、茫漠と彼方を見やっていた。指を熱しそうな程短くなった煙草を持ったまま、彼は風を試すように、ひゅうと鋭く紫煙を吐き出した……今にも飛び立ちそうな鷹であった。
 智志は、自分でも気付かぬまま、両手を上げていた。自分でも何故そうしたのか分からない。しかし、両手で箱でも持つみたいにして、顔の前まで持ち上げていたのは事実だ。真壁と目が合って、智志は捧げていた手をパッと顔の前で合わせた。パンと小気味良い音が鳴る。魔法でも解けたようだった。
「八坂か」
 真壁はもう燃え尽きそうな吸殻を、携帯灰皿へ入れると、智志の方へ歩み寄った。智志は会釈して、顔を上げる。「どうだった、青井は?」そう聞かれた。
「えっと……元気そうでした」
「他の連中のことは、何か言ってたか」
「いえ……」
「そうか」
 言いながら、真壁は二本目の煙草を出した。真壁がスモーカーだとは知らなかった。智志の目に気付いたのか、真壁は付けたばかりの煙草を消す。
「事務所では吸えないんだよ。壁紙が変色するって、トビイシが煩いからな」
 それから、「海原が冷血だとか、言ってなかったか?」と尋ねた。
「いえ」
「そうか」
 ふう、と紫煙の混じらない空気を吐き出して、真壁は言った。
「青井はよく、海原のことを他人を顧みない冷血漢みたいに言っていたが。俺はむしろ、逆だと思ったよ。海原は自分を顧みない奴だった」
 智志は首を傾げた。
「思い遣り以前に、合理的なんだよ。自分も含めて損得勘定をやる。だから冷血漢みたいに言われるんだが、人に思い遣りがない奴じゃない」
 青井も、と真壁は続けた。
「あいつは如何にも豪放磊落って感じに見えるだろう? でも、あいつは気を遣う奴だよ。自分を豪放磊落に見せといた方が他人にとって都合がいいから、そうやってるんだ、あいつは」
 真壁は、不思議と嬉しそうだった。きっと、智志が青井に会ってきたという事実を通して、彼も旧友に再会しているのだと、智志は思った。それで、智志は聞いてみた。
「真壁さんはどうだったんです?」
「俺? 俺は線の細いもやしだったよ」
 真壁は笑って言う。
「それと、彼女についてはノーコメントだ」
 智志が何か言う前に、先回りした。
 智志は、青井が真壁について言っていたのを思い出した。――真壁はトリオの恋愛事情からは一歩身を引いていた。
 真実は分からない。あるのは智志の推測だけだ。ただ、真壁も、晶子が好きだったのだという気がした。
 真壁はしばらくの間、立ち止まって、ひと気のない道の向こうを見やっていた。智志も真壁に付き合って、立ち止まっていた。真壁の視線を追っても、彼が見ているものは分からなかったが。

 ――しばらくして。
 智志は唾を飲むと、「真壁さん」と切り出した。
「ん、何だ?」
「青井さんから伝言です」
 真壁の目が、すっと細くなった。
「“雪ちゃんのことは忘れろ”」
 伝言の内容も、予想がついていたのだろう、それでも。真壁は手に持ったままの煙草を、ノロノロと口に運んだ。そして、火が付いていないことに気付いたのか、それを携帯灰皿へ突っ込む。
「雪ちゃん、て、誰です?」
 智志は聞いた。
「場所を変えよう。それから」
 真壁は真新しいカートンを、智志の手に落とした。
「これを渡しておく。遅くなったが、いずれ必要になる」

 真壁の後ろに付いて、ありふれたマンションの一つに辿り着いた。エントランスの郵便受けから、苦労して鍵を取り出す。その様子を、生垣の上からニャースが見つめていた。嫌に見つめていた。真壁がやっと鍵を出して「行くぞ」と言った時に、ニャースもヒラリと身を翻して消えた。去り際、後ろ足に金色のタグが見えた。
 あの育て屋のポケモンかな。
 真壁に連れられて、階段を上る。アマテラスはボールに戻した。ドアの並びを抜け、コの字型の角にある部屋に入った。表札をチラリと見る。『遠泉』。真壁は慣れた手付きで明かりを付け、中に入る。智志も彼に続いた。
 中は恐ろしく生活感のない部屋だった。応接セットに備え付けの棚があった。それしかなかった。真壁がソファに掛けられた埃よけのカバーを取り払っている。リビングの向こうにキッチンが見えるが、そこも似たり寄ったりだろう。冷蔵庫が入るべきスペースが、ぽっかり空いていた。
 真壁はソファに座ると、智志にも座るよう、促した。会釈して、智志は真壁の向かいに腰を下ろす。低い机の上には、灰皿と、何も入っていない一輪挿し。
「友人の家だ」と一言説明を加えてから、真壁は灰皿に煙草を置いた。促されて、智志もICレコーダーを置く。レコーダーは灰皿の影で、控え目に駆動音を立てた。
「さて、どう話したもんか……」
 真壁は火の付いていない煙草を見つめ、考え込む。そして、こう始めた。
「お前を青井に会わせたのは、早すぎたかもしれないな。でも、いい。いずれは話すつもりだったんだ。
 ……お前を引き入れる気になったのも、元はと言えば、この話をする為だったかもしれん」
 真壁は目を伏せる。
 鷹の目を伏せた男は、急に老け込んで見えた。
「これは、馬鹿な男の話だ。話半分に聞いてくれていい。
 関わらなくていい事件を追いかけた、ある男の話だ」

 ずっと頭の中にこびり付いて離れない光景がある。
 それは、駅のポスターだ。ポスターらしからぬB5判で、印刷屋に頼んだらしい光沢のある紙面には、素人じみたレイアウトでこう書かれている。
『   ちゃんが行方不明です。情報提供お願いします』
 名前なんて覚えていない。一時期、ニュースでやっていた気はするけれど。
 立地と接続に恵まれた駅だったから、利用者は多かった。カントーの大都会には及ばなかったろうけれど、何千もの人々が、そのポスターの前を通り過ぎただろう。
 そう、通り過ぎただけだった。
 偶に目をやる人もいるが、すぐに自分に関係ないこととして目を逸らす。当たり前だ。一ヶ月か一年か、そんな昔の、行方不明になった子どもの手がかりなんて、持っているものか。
 そして、ポスターは日常風景の中に溶け込み、その存在は消え失せる。
 駅を、そのポスターの前を、何千何万の人々が通り過ぎる。その人々を眺めながら、ポスターは静かに黄変していく。

 そのポスターと関係があったかは分からない。ただ、その光景が忘れられなかった所為だろう。
 成長して、人並みに旅に出て、あまりうだつが上がらず早期に学業に身を投じたその男は、新聞社に就職した。文章を書くのは嫌いではなかった。
 警察の記者クラブに入れられたその男は、最初はそれなりにやっていた。が、間もなく全体と、自分の理想との齟齬を感じるようになる。
 報道はこれでいいのか。
 ニュースというのは売り物だ。そしてその売り物は、人目を引くものでなければならないし、何より新鮮でなければならない。そういった売り物を陳列棚に並べていけば、自ずと古いものは取り除かれる。
 それでいいのか。
 男の頭の中には、常にあのポスターがあった。誰も最早、気にしない事件。ニュースになったその時には、事件現場の地名も、行方不明になった子の名前も、皆言えたはずなのに。忘れられた事件。それでいいのか、と男は思った。
 それでいいんだ、と周囲は言った。人間が覚えておけるのは、バベルタワー事件や、アサギ大震災のような大きな事件だけだ。細かい事件を覚えていたら、キリがない。
 でも、と男は思う。
 男の脳裏には、古びていくあのポスターがあった。それを見て、通り過ぎていく人々があった。
 どんなに細かな事件であっても、あのポスターを貼った誰かの人生が、変わらなかったはずはないのに。
 忘れていいのか。

 少し記憶が相前後していたようだ。彼らに会ったのは、バベルタワー事件より前のことだったから。
 さっきも言ったように、男は警察の記者クラブに出入りしていた。そして、周りから爪弾きにされていた。まあ仕方ない。浮いたことを言う奴だったから。
 そんな彼だからこそ、あの人たちは声を掛ける気になったのだろう。あるいは、警察から出てきたから、一匹狼の、変わり者の刑事とでも思ったか。しかし、全くもってそれは、関わる必要のない事件だったんだろうよ。
 極端な話、彼らが二言三言話しかけてきた時点で、さっさと無視して行ってしまえばよかった。男の同僚たちならそうしただろう。
 でも、男は最後まで話を聞いた。話を聞いて、協力すると約束した。
 結局、男は約束を破った。出来もしない約束だったんだ。

 忘れもしない、初雪が舞った日のことだったよ。

 老齢の夫婦は、事件の被害にあったのだと男に語った。そして、男に事件の捜査状況について、教えられる範囲でいいから、教えてほしいと頼み込んだ。
 男は承知した。
 男は伝手を頼って、警察内を色々尋ねて回った。その結果、夫婦に知らせられるようなことは、何もないと分かった。
 捜査はもう、されていなかった。
 少し考えれば分かることで……その事件が起こってから、もう四年の月日が流れていた。その四年の間に、新たな事件が起こるし、未解決の事件も増えるだろう。証拠は古び、証言は当てにならなくなる。人員の割り振りや効率を考えて、捜査はやらない方が当然だった。
 でも、男は諦めなかった。
 警察の人間に、片手間でいいから捜査をしてくれないかと頼み込んだ。無碍に断られた。当たり前だ。警察の捜査は、組織でやるから意味がある。一人で足掻いたって、結果は得られない。他の人の協力を得ようにも、新しい事件が起こる。結局、一人を除いて、男に賛同する者は現れなかった。その一人も、十分変わり者だったが。

 とはいえ、十分な成果が得られたとは言い難い。捜査してくれるのは、たった一人だ。男は捜査なんて出来ない。そこで男は、老夫婦と交わした、もう一つの約束を果たすことにした。
 ――事件にあったあの子が、生きていた証を残してほしい。
 本を出そう、と男は言った。その子の半生と、事件で残されたあなた方の思いを、本にまとめましょう。上手く出来たら、警察だって再び動いてくれるはず。
 なんて思い上がりだったんだろうな。

 男は、本の出だしはこうするつもりだった。
『その年の初雪が舞った日に、可愛らしい女の双子が生まれた。
 彼女らは、その日の雪の美しさに因んで、初と雪と名付けられた……』
 そして、男は彼らの半生を追い始めた。

 男は足繁く夫婦の家に通っては、本を書き進めた。
 そうすることで、事件を人の記憶に残すことが出来ると、事件にあった人のその後の人生に意味を持たせられると、そう思っていた。
 事件にあった雪ちゃんの部屋は、ほとんど事件当時のまま残されていた。雪ちゃんがいつ帰ってきてもいいように、服や教科書は毎年新調していたようだった。
 言い忘れていた。彼女は誘拐されたんだ。
 下校途中に、誘拐されたらしい。雪ちゃんは日直当番で、双子の初に先に帰ってと言ったらしい。そうして、少し遅く小学校を出た彼女が、家に戻ることはなかった。
 帰りが遅いことを不審に思った両親が学校に連絡し、被害届を出した。雪ちゃんが学校を出てから、その時点で一時間も経っていなかった。しかし、手がかりとしてあがったのは不審な車一台だけ。それ以外には何も分からず、お宮入りだ。
 夫婦はそれでも、必死に雪ちゃんの手がかりを探した。チラシも撒いたし、事件に繋がる手がかりに謝礼金も付けた。それで集まる手がかりというのは、記憶違いや謝礼金目当てのものばかりだったが。とにかく夫婦は尽力した。慣れないインターネットを使って、情報を集めようともした。その一方で、男に雪ちゃんのこれまでの人生の話をした。運動会とか、ポケモンとの触れ合い会だとか、他愛のない話ばかりだったけれど、言葉の端々に、彼女にまだ生きていてほしい、会いたいというのが零れていて、その印象が強く残っている。
 それから、印象に残っている話がもう一つある。事件から大分経って、報道もパタリと消えて、情報提供を申し出る電話の数も目に見えて減っていた時の話だ。珍しく、手がかりらしき情報を、夫婦の家まで持ってきた人たちがいた。結局手がかりは意味のないものだったんだが、その人たちと、学校から帰ってきた初が、ちょうど鉢合わせた。誘拐されたと聞いていたのと、同じ年くらいの女の子がいたから、相手も驚いてただろう。夫婦は、この子は誘拐された子じゃなくて、双子の初ですと説明してから、その人たちを帰した。初が家に入り、その人たちが家を出て、扉が閉まる。閉まった途端、外から声が聞こえてきた。
 ――なんだ。もう一人いるなら、いいじゃない。
 男はその話を聞いて、義憤に駆られた。なおさら、本を書き上げなければと思った。
 男は本を書き進めた。その間に月日は流れて、雪ちゃんのいない日々の話が増える。彼女は当時七歳だったから、今年、小学校を卒業する予定だった。夫婦は旅に出る予定だったと言っていたが、子どもを授かったのが遅かったし、古い気質の人だったから、彼女がいたらどうだったか。
 起こらなかったことを考えても仕方ない。
 この頃になると、夫婦の話にも変化が生じてきた。本は雪ちゃんがいなくなった後のパートに入っていた。男はここから、雪ちゃんがいなくなった後の、家族の苦悩を書き出そうと思っていた。最初は調子よく進んでいた。いつでも雪ちゃんが帰ってこれるよう、頑張って待ってるよ、とそういう調子だった。それから、雪ちゃんがいなくて寂しい、になる。雪ちゃんがいればもっと良い事があっただろう、になる。それから、雪ちゃんがいた時は良かった、雪ちゃんがいれば、雪ちゃんなら。どんどんそういう方向にズレていった。
 男は軌道修正しようとした。でも、後悔してもしきれないんだ。そういうものだ。あの時、こうしていれば事件は起こらなかったかも、というイフを考えて、事件がなかったら、というイフを考えてしまう。そういうものだ。でも男は、どうしても軌道修正したかった。その方がいい本になると思っていたんだ。そして、夫婦が自分の思い通りにならないと見るや、今度はうんざりしはじめた。同情がなければ、夫婦の言葉はうんと暗い音楽が入った、壊れたレコードみたいなものだったからな。男は一旦、距離を置いた。そうした方がいいと思ったんだ。
 今まで、初の話をほとんどしてなかったな。
 彼女はそもそも、男にあまり協力的ではなかった。一度、インタビューめいたものはやってみたが、無理矢理書かされた作文を音読してるみたいだった。駄目だったよ。今から思えば、あの年頃の子だ。あまり自分の心情を突っつかれたくなかったんだろうな。
 それでも、男と夫婦が本を作ってるのをよく見てたし、何より夫婦とずっと暮らしてたのは彼女だ。夫婦が雪ちゃんについて話すのを、ずっと聞いてた。夫婦が、雪ちゃんを見つける為に頑張ろう、って気持ちから、どんどん後ろ向きになっていくのを、傍で見てた。男が夫婦から身を引いたのを見て、今度は自分が夫婦を支える役になろうとやってもみた。それで、あんなことになったんだろうな。
 ずっと後悔してるんだ。
 俺があの家族に手を出さなければ、あんなことにならなかった、ってな。
 でも、だからといって、なおさら、あんなことになったからこそ、手を引けなくなった。
 言い訳ばっかりだよ。情けない。

 夫婦が疲れてきて、その影響をモロに被ったのが初だった。
 それまでも、悪い予兆はあった。夫婦は、雪ちゃんがいれば初ももっと勉強できたかも、とか、雪ちゃんはいい子だったのに初は、とか言い始めてたからな。
 それでも初は頑張った。月並みな言い方だが。先に抜けた俺の穴を埋めて、夫婦に自分を認めてもらおうとしたんだと思う。雪ちゃんはいないけど、自分はいる。そういう心情だったのかな。あの頃は、夫婦は雪ちゃんのことばっかり言ってたよ。あの夫婦にそうさせたのは俺だ。
 初は今でも、俺を憎んでるだろうな。
 秋が終わって、冬の寒さが増してきた頃のことだった。初雪が、降るか、降らないか。ちょうどそんな頃のことだ。俺が久方ぶりに夫婦の家を訪れると、中から怒鳴り声が聞こえてきた。そして、扉に近付くと、触れもしないのに引き戸がガラッと開いて、中から初が飛び出してきた。妻の方が戻ってきなさい、というのも聞かず、走り去っていった。家に残された夫婦は、呆然としていた。
 諍いの内容は、家の外からでもはっきり分かった。小学校の卒業を間近に控えた初が、旅に出ると言い出したんだ。その頃は既に、旅のトレーナーには逆風が吹いていた。そんなんで食っていけるわけがないし、それにあの事件だ。雪ちゃんのことがあって、初を旅に出すわけがない。それで喧嘩したんだな。
 結局、初は両親と和解しないまま、旅に出ていった。そのまま両親を避けるように、遠い地方で結婚して、そこに腰を据えた。あの時代に旅に出た割りには、平凡な幸せを掴んだんだと思いたい。最初の幸せをぶっ壊したのは、俺だからな。
 本を作る話はまだ有効だったが、手は止まっていた。雪ちゃんがいれば、という話の次は、初がいれば、とそればっかりだったよ。俺は、もう嫌気が差していたんだ。他にも事件を追いかけてつつき回した所為で、会社にも睨まれてた。連続強姦事件の、ゼロ番目の被害者についても掘り出そうとして、しこたまブーイングを食らってた。最後の方は干されてたよ。会社にいても仕事がない。俺は会社を辞めて、家も引き払った。フリーだと都会の方が都合がいい、なんてのは建前だ。思惑通り、距離が離れれば、あの家族との縁は自然と切れた。重荷はなくなった。心は晴れなかったよ。
 それからはフリーで色々と活動した。お前も本を読んだかもしれないが、俺も多少はまともな物を書くようになった。昔手がけた事件の内、いくつかは縁があって、まだしつこく追いかけていた。途中で、もう追いかけるのをやめよう、と言われたことも何度かあった。でもまあ、双方話し合って中止を決定したんだから、マシだろう。俺なりに満足感もあった。その時、電話がかかってきたんだ。
 六年前のことだ。
 電話の主は海原だった。
 俺は忘れていたよ。海原に、事件の捜査を頼んだこと、何もかもな。
 海原は、事件をずっと追いかけていた。警察を辞めて、その時は探偵になっていたが。
 電話を受けて、俺は海原が言った場所へ向かった。雪ちゃんの事件の手がかりが見つかった、と電話ではそれだけだった。
 俺は喜んでいた。これで、あの夫婦に報告できると思った。この数年間の停滞をチャラに出来ると思ったんだ。
 俺は、何をしていたんだろうな。

 手がかりが見つかった、と言っていた山への出入り口は、全面的に封鎖されていた。登山道の入り口に、キープアウトの黄色いテープが貼ってあった。その内側にも外側にも、パトカーやら色々停まってて、海原はテープの外側に立っていた。
 俺は海原に近付いた。海原は俺を見るなり、言ったんだ。
 ――喜べるものじゃない。
 それから車に乗せられて、手がかりを見せてもらえることになった。車に乗せられた当初は、俺は喜んでいた。手がかりが何であれ、犯人逮捕に繋がるならいいことじゃないか、とな。だが、車が進む内に、海原の性格を思い出して不安になってきた。あいつが意味深な言い方をする時は、絶対何かあるんだ。外れてほしいと思いながら……車は、山道を上っていった。夏でも暗い、あの時は真昼間だったのに、寒くて、俺は幽霊パトカーじゃないかとバックミラー越しに運転手の顔を確かめた。その時は、本気で不安だったんだ。
 車は山道を上りきったところで停まった。峠道で、進むと下りになるが、山頂じゃない。右も左も鬱蒼とした山の中だった。その、暗い森の中を、警官たちが大勢、歩き回ってた。山全体の捜索をかけてたんだ。俺は車から降りて、別の車に誘導された。そこに置いてあった。
 最悪なのは、遺体だと思った。意味のよく分からない手がかりで、落胆する可能性も考えた。雪ちゃんに関係ない可能性も考えた。
 想像力が欠如していたよ。
 その車には、証拠品が集められていた。俺が姿を見せると、捜査員が頷いて、例の手がかりの情報をプリントした紙を見せてくれた。
 見つかったのは、彼女だった。足だけだった。
 そこからどうやって戻ったのか、見事に記憶がない。歩いて戻ったのは確かだろうけどな。
 俺は海原の所へ行った。そこで会話を交わした。家族には、捜査員が説明するから、お前が気に病む必要はない、そういうことを海原は言っていた。
 それから、一人で近くにあった定食屋で、ラーメンを食っていた。気付いたら、考え事をしながら麺をすすっていた。彼女の事件では、足の指紋も取れていたから、ほぼ確定だろう。あとはDNA鑑定をしてお墨付きだ。それから、生活反応のことを考えていた。彼女は生きている。そして恐らく近くにいる。足がない状態で。それが喜ばしいことなのか、悲しむべきことなのか。それ以上はもう、考えたくなかった。
 夫婦が呼ばれて、説明を受けたと思う。俺は会っていない。
 それから間もなくして、夫、妻と立て続けに亡くなった。初は結局帰ってこなかった。外国に行ってしまって、連絡もついたかどうか。他に身寄りもないしで、妻の方は俺が看取った。最期に言われたよ。「どうして本を書いてくれなかったのか」ってな。

「それで、俺は追うのを辞められなくなった。生きている雪ちゃんが見つかるかもしれない。そういう希望に縋って」
 真壁は言葉を止めた。
 そして、自動人形のように、灰皿から煙草を拾い上げると、咥えて火を付けた。
 少し一人にしてくれ。その姿が、そう言っているように思えて、智志はそっと部屋を出た。

 夜の帳はもう下りたというのに、町は不自然に明るかった。生き生きと輝く町の明かりに照らされて、智志は犯罪者になったかのように、落ち着かなかった。智志は慣れない地理で、コンビニを探した。見慣れた看板を目指し、ふらふらと入り込む。他の商品には目もくれず、一番安いライターを買うと、智志はコンビニを出た。そして、縋るような思いで喫煙所を探した。古い煙草屋の前に円柱状のそれを見つけて、智志は取る物もとりあえず煙草の煙を呑んだ。まるでニコチンの切れたニコチン中毒者のようだ、と思いながら。もうシャッターの降りた煙草屋を見ながら、乾ききった者に水を与えるようだとも思った。
 煙を呑み込むだけ呑み込んだ彼は、やっとの思いで煙を吐き出した。吐くだけ吐いて、次は空気を吸い込んだ。夜のそれは、町中らしく淀んではいたが、十分に冷たくて彼の肺を洗った。
 智志は、煙草を灰皿に捨てた。赤い一点の光は灰皿の底に落ちて、見えなくなった。
 何秒間も、智志は何も考えずにいた。何故かこみ上げてくる涙を、ただ堪えていた。

 しばらくして顔を上げた智志は、「あれ」と懐疑の声を漏らした。数メートル先の街灯の下にいる人物。首を伸ばしてよく見てみる。確認すると、小走りで近寄った。
「何やってんだ、絵里子」
 妹が、驚いたように振り返った。驚いたのは智志の方だ。こんな夜中に、こんな遠くで、何をしているのか……知らない男と。
「何だ、知り合いか?」
 知らない男が声を上げた。変な匂いがした。加齢臭か、あるいは風呂にしばらく入ってないのだろうかと智志は思った。絵里子は困ったように智志を見た。智志は絵里子を見、男を見る。
 男は、目ヤニの溜まった目で智志を睨んだ。白目が灰色にくすんでいた。頬が痩け、雑草のように髭が生えている。旅のトレーナーだろうか。その可能性が頭を過る。
「知り合いじゃないならなんだ。マスゴミか?」
 智志は一瞬、聞き違いかと思った。だが違う、確かに男はゴミと言ったのだ。
 うるせぇ蠅みたいにブンブンいいやがって、と前置きしてから、男は口に入った蠅でも吐くようにこう言った。
「刑期は終えただろ。なのに前科がどう、事件がどうこういいやがって。いいか、俺はまともに就職もできねえんだ。住む場所もねえ、トレーナーにもなれねえ。くそっ」
 男が唾を吐いた。そこではじめて、智志は男の口が臭いことに気付いた。歯磨きもできないのか、と智志は思う。
「いいか、俺はムショにいたんだ。罪を償ったんだよ。なのに世間は事件がどうこういいやがる。もう終わったんだよ。事件は終わったのに。畜生っ」
 あなたも忘れたいんですね、と智志は呟いた。智志が忘れたであろう事件の、咎人。彼らも覚えてはいられないのか。

「行くぞ」
 男が絵里子に手を伸ばした。とっさに智志が間に割って入る。途端、目の前が白く光った。気付いたら、智志は殴られて地面に転がっていた。
「通報したけりゃしろよ。どうせ前科者だ」
 男はそう吐き捨てて、去っていった。
 道端から、ひょいとガーディが姿を見せた。ガーディは横たわったままの智志を呆れたような目で見ると、男の後に付いていった。後ろ足に金色のタグが付いていた。
 ガーディと男は街灯の光が届かないところへ行った。智志は冷たいアスファルトから起き上がる。絵里子と目が合った。
「向こうが絡んできたの」
「何も言ってないよ」
 自分でも驚く程穏やかな口調で、智志はそう言った。
「旅に出るなら、気をつけろよ」
 妹は唇をきっと結んで頷くと、何も言わずにボールからヨルノズクを出して、夜空を一直線に飛んで帰っていった。
 智志は、しばらくそこに立ち竦んでいた。闇に溶けたガーディの橙が網膜に焼き付いて、離れない。
 手の平でボールを転がした。そっと地面に落とし、開く。夜闇に驚いたアマテラスが、きゅんと鳴く。智志は黙って歩き出した。アマテラスはご主人の様子を訝りながら、それでも横に付いてトコトコ歩いた。
 真壁の本に、事件を忘れないでいることに感銘を受けて、ここまでやってきたのだった。でも、事件を覚えていることがとても重くて、それでも忘れないで出せた答えが、ポケモンに法律を守ってもらうことなのだというなら。それは良い事のはずなのに、空しくて、情けなかった。
 それとも、忘れた方がいいのだろうか。
 遠くから近付く人影に、立ち止まった。疲れ切ったサラリーマンのようなその男は、「忘れ物だ」と言って、智志の手にレコーダーを握らせた。
 そのまま去ろうとする真壁に、思わず「真壁さん」と呼びかけた。
 しかし、レコーダーを握ったまま、言葉が出てこない。
「あの、……」
「慌てて答えを出さなくてもいいぞ。モラトリアム小僧」
 真壁は疲れたような、優しい目で智志を見ると、鷹が飛び立つように、夜風を切ってその場を去った。
 智志はそっと、アマテラスのたてがみを撫でる。ポケモンに法律を守ってもらうのは、悲しい。でも今は、ポケモンに傍にいてほしかった。


  [No.1101] 〜エピローグ そして人生は続く 投稿者:咲玖   投稿日:2013/05/17(Fri) 17:49:38   54clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 壁全面に広がる窓の向こうに、離着陸する飛行機が見えた。智志は何度も、パスポートと搭乗券を確認する。それを見て、大学の友人たちが笑う。
「確認しすぎだ」
「でもさ、しすぎってことはないから」
 智志は言いながら、今度こそ最後の確認をする。小振りなリュックサックには簡単な着替えを含めた手回り品が、腰のポシェットにはモンスターボールが入っている。モンスターボールの中身は、まだ外に出ている。それから、忘れてはいけない、カメラ機材一式。
「おみやげよろしくな!」
「体に気を付けて!」
 友人たちに手を振り、荷物の預け入れ口へ。ここで預けるのは、リュックサックの方だ。カメラが入っている方は大事に抱えて、セキュリティチェックへ向かう。その道中に、よく知る人がいた。
 智志は会釈した。
 彼は笑って、
「就職先までモラトリアム企業か」と言った。「お前らしい」
 智志はあの後、頻度の多寡は変われど、大学を卒業するまで、真壁の元で働いた。そして、卒業したら就職活動して、内定を取った。内定してから一年の自主研修期間を設けて、その間トレーナーとして旅することを奨励する企業。真壁の言う通り、モラトリアム企業かもしれない。
 天塩にかけて育てた子ども二人が同時に旅に出ることになって、母親は嘆き悲しんでいたが、いずれマシになるだろう。
「ま、好きにやれ。体に気を付けてな」
「はい」
 智志はカメラの入っているバッグを、少し持ち上げてみせた。
「俺は、真壁さんみたいに文章うまくないから。これで、いけるところまでいってみます」
 真壁は頷いた。
 智志は真壁に別れの挨拶をした。そして、ガーディと共に歩き出す。後ろで羽音がしたが、もう振り返らない。
 真壁が書くことを選んだように、智志は、カメラで世界を写すことを選んだ。俺が見る世界の中の、大事な一瞬を覚えておけるように。事件で人生が変わったとしても、その先にある、幸福も悲嘆も写し出せるように。
「行こう、アマテラス」
 大事なことを覚えていて、隣にこいつがいるなら、なんとかなると思うから。

 真壁の事務所に、羽音が響いた。
「ご苦労さん。ありがとうな、サイハテ」
 開かれた窓から、小柄なポッポが入ってきた。嘴と足の両方に、様々な大きさの手紙を抱え込んでいる。
 ポッポは隅にある真壁の机の上に手紙類を全て落とすと、その中から一通を嘴で咥え上げた。真壁が取り上げ、封を切る。淡い春色の便箋には、こんな事が書かれていた。
『脱稿、おめでとうございます。本になるかどうかはまだ分からないそうですが、私は、真壁さんが私の話を聞いて書き上げてくださったこと、いたく嬉しく思います。話すのが辛い時もあったのですが、真壁さんが、事件の後の、私の生き様も書きたいと言ってくださった時、私が生きてきたことに書く価値があるんだと思って、すごく励まされました。まだ寒さが厳しいですが、お体にお気をつけてください』
「この業も、案外悪くないのかもしれない」
 真壁は便箋を机に乗せると、目を伏せた。口元は緩んでいた。
 羽音がした。
 ポッポは最果てへ飛んでいったようだ。


 完.





 ……あとがき

 ここまで読んでくださった皆様方、ありがとうございました。
 咲玖と申します。と挨拶しといてなんですが、これ仮面HNです。ま、作者が誰かなんてあまり気にしないことです。しばらくしたらどうせバラすのでしょうから。
 あとがきということで、これを書くにあたって、影響を受けた作品などを書いておこうと思います。

(敬称略)
誉田哲也(原作)『ストロベリーナイト』(フジテレビ)
宮部みゆき『名もなき毒』(文春文庫)
恩田陸『Q&A』(幻冬舎文庫)
クローバースタジオ企画・開発、カプコン発売『大神』(Wii版)
東京スカイツリー
エトセトラ、エトセトラ。

 ……もっとあったと思うんですけど、意外と思い出せないものですね。
 それでは皆々様方、読了お疲れ様そして重ねてありがとうございます。

(6・10追記)あとそれから、拙作を読んでこまめに感想をくださったレイコさんに、この場を借りて篤くお礼申し上げます。
 さて、物語構想ですが、番外編が続きましたら、『光の時代』というお話の終幕をもって、この『追いかける者』のシリーズは本当のエンドマークを打つことができます。それまで、良ければお付き合いも。私も頑張って、もがき、走ります故。


  [No.1105] [番外編]幸せの最大値 投稿者:咲玖   投稿日:2013/05/25(Sat) 18:29:28   64clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
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 ねえ、直斗。僕は“物”になるよ。もう二度と、誰かを傷つけないように。もう二度と、幸福を減らさないように、僕は“物”に徹するよ。そして、必要な時が来たら、直斗、君に命令してほしい。そういう風に、契約をしよう。もう僕が誰かを傷つけないように。ごめんなさい。でも、君が幸福でいられるというのなら、僕は幸福なんて要らないから。だから、
 僕は目を覚ます。嫌な夢を見ていたが、忘れた。カーテンの向こう側は、薄明かりに晒されていた。でもまだ、直斗は眠っている。いつ彼が起きてもいいようにと、僕は居住まいを正す。それから、視覚器官を移動させて、カーテンを見た。安い一枚布の上と横から早起きの太陽の光が漏れていて、カーテンが光に押されているみたい。この情景に名前はあるのだろうか。薄明光線、という言葉が頭に浮かんだ。違うけれど、なんとなく思いついた。そういう、頭に浮かびやすい言葉はいくつかある。最大多数の最大幸福、とか。
 僕は視覚器官を動かして、直斗を見た。固い椅子の背もたれを限界まで倒して、サングラスの僕を掛けたまま、ぐっすりと眠っているのだ……多分。距離が近すぎる所為で却って見え辛いけれど。三十代も後半に入ったけれど、まだまだ格好いい方だと僕は思う。引き締まった体。適度に切り揃えられた黒髪。今はまだ瞼の下の青い目。眼瞼の下で眼球が動いている時って、夢を見ている時なんだっけ。なんにしろ、いい夢ではないのだろう。起こした方がいいだろうかと思うけれど、それは契約に入っていないし、また余計な手間を掛けさせたと思われるのが嫌だから、僕はじっとしている。その内朝日が直斗を起こしてくれるはずだから。
 僅かに目を離した隙に、カーテンの向こうの光はその強さを増している。暗かったこの事務所も、少しずつ光を取り込んだ。このまま朝日が昇れば、その明るさで直斗は目を覚ますはずだった。
 予想外。事務所のドアがバン! と開いた。
 直斗が飛び起きた。ずり落ちた僕を掛け直し、背もたれを起こす。ドアの向こうの光の世界からやってきたのは、逆光で顔が見えないけれど、女性。
「探偵さん、っている?」
 直斗は真っ直ぐ座ると、
「探偵は私ですが」
 と営業スマイルを作った。
 女性は事務所が暗いことを訝しがらないのが、トントントンと直斗の机の前まで進んで、机にバンと手を置いた。ドアだってぶち破る勢いで開けてたろう、乱暴な女性だ。
 乱暴な女性は要求も乱暴だった。
「お願い、友達が事件に巻き込まれたの。犯人を探し出して!」
 そして女性はウルウル、といった感じで直斗を見る。視覚を調整して分かったけれど、器量は悪くない。もっとも、薄汚れた衣服と山ん婆ヘアで台無しだ。日に焼けた肌が傷んでいる。三十路くらいだろうか。腰に六つフル装備したモンスターボールも、年季が入っている。
 そんな女性に、直斗は慣れた様子でこう受け答えした。
「事件の捜査なら警察へどうぞ」
 そして、机の上の電話から受話器を取り上げてみせる。ここから警察に電話してもいいよ、という具合に。しかし、女性は直斗の手ごと受話器を掴むと、押さえ込むようにフックへと戻した。なんて乱暴な奴だ。
「警察は動いてくれないもん」
 駄々をこねるみたいに彼女は言った。口調からすると、早熟なティーンエイジャーだろうか。女性の歳というのはパッと見では分からない。そう考えると、モンスターボールも、年季が入っているのではなく、単に扱いが悪くて傷だらけに思えてくるから不思議だ。
「だから、探偵さんに頼みに」
「お気持ちはお察しします。しかし、当探偵事務所でも、昏睡事件については取り扱っておりません」
「探偵ってそういうことするもんじゃないの?」
 女性は声を上げる。怒り半分、当てが外れた動揺半分といったところ。この狼狽え具合から見るに、三十路ということはないだろう。
「表のプレートに“海原探偵事務所”って書いてあるのは何なのよ?」
 彼女の指が、開かれたままのドアの方向を指した。ドアの外は、すっかり明るい。
「そのままの意味です」
 直斗は営業スマイルを崩さない。
「当事務所の業務内容は、主に行動調査と行方調査となっております」
「つまり?」
「主に、離婚の時の浮気調査と迷子のポケモン探し」
「事件の捜査はしてくれないの?」
「しませんね」
 直斗は断言すると、開いたままのドアから出るよう、彼女を促した。「事件の捜査は警察にお願いしてください」と言い添えて。「でも、警察は……」少し粘ってみせたものの、結局彼女は外に出ていくことになった。不承不承、といった感じで。
 良かった、と僕は胸を撫で下ろした。彼女は出ていく。ドアがバタンと閉まれば、部屋はまた暗くなる。そして日常が戻ってくる。もう一寝入りして、時間になったらカーテンを開けて、それで彼女のことは忘却の彼方。直斗の幸福は減らない。めでたし、めでたしだ。
 そこで、なんで余計な一言を付け足してしまうのか。
「離婚の際には是非、当事務所をご用命ください」
 開いていたドアが、閉まった。ただしそれは僕の展望とは別な閉まり方だった。事務所を出ていきかけた彼女は、ドアの手前で止まると、直斗を振り返って見た。それはもう、鬼子母神はかくや! って感じで。
 彼女はドアから机までの短い距離を電光石火の勢いで駆け抜けると、その勢いを乗せて、右ストレートを撃ちだした。ボグ、と鈍い音がした。
「サイッテー」
 そんな捨て台詞を残して、今度こそ彼女は去っていった。
「全く、何だってんだ」
 直斗は再び暗くなった事務所の中で、呆れたようにぼやいた。
 ただし、「腹、大丈夫かな」と付け足すあたり、お人好しなのだと思う。
 直斗を殴ろうとしたけど踏み込む場所を間違えて机の縁に腹をぶつけた上、グーパンチは届かなかった女のことなんて、僕はどうでもいいのだけれど。直斗の幸福が減らなければ、それで。……過保護なのは分かっているさ。

 直斗は僕の予想以上に、お人好しだったらしい。
「イドラ、行くぞ」
 そう言って、寝室で寝ていたリグレーのイドラを運び出した。底の浅い鞄に入れ、肩に掛ける。イドラはモンスターボールが嫌いなのだ。なら横を歩かせればいいじゃない、と思う人もいるが、イドラには足がない。悪い奴に切られてしまったらしい。エスパーポケモンだから念力を使えばいいじゃない、とその次に人は思うのだが、これがどうも難しい。僕もやってみたけれど、足のあるポケモンが、足を失った状態で移動するというのは、それがエスパーポケモンであっても難しい。まあ、訓練して少しは動けるようになったみたいだけれど、基本は鞄移動。イッシュくんだりまで行って、そんなポケモンを引き取って帰ってしまうあたり、やはり直斗はお人好しだ。
 直斗はリグレー入りの鞄にモンスターボールを入れると、事務所を出て、鍵を掛けた。『本日の営業は終了致しました』のテンプレートの紙を貼っ付け、事務所の入ったボロビルを出る。エレベーターもあるが、待ってても来ないし、いつ落っこちるか分からないようなボロなので、使わない。六階から階段で、ご苦労なことだ。リグレーも気を遣ってはいるが、やはり重いだろうに。
 そうやって苦労して階段を下りて、また歩く。太陽は余程気が早いのか、もう夏本番といった勢いで辺りを熱している。アスファルトの続く向こうに、陽炎が揺れていた。暑い。直斗は小さくため息を吐いて出発した。
 行き先は、つい最近までは近くにあったけれど、統廃合の結果、一時間以上歩いた先にしか存在しなくなったポケモンセンター。まあ、これはマシな方だと思う。山間の村なんかでは、山の麓の町まで行かなくちゃポケモンセンターがなくて、そうなると村に人が来なくなって、過疎化が進む一方だと聞くから。かつては、そういう村にポケモンジムが配置されて、村おこしの役目を担っていた。けれど、旅のポケモントレーナーが犯人の凶悪事件が起こって、旅すること自体が白い目で見られるようになって、各地にあるポケモンジムを回って修行するというスタイルは崩れてしまった。今ではポケモンジムは、ポケモンのことを学ぶ塾みたいな形で、町の真ん中に残っている。ジムバッジは塾の修了証みたいになって、ポケモンジムの権威は下がり、挙句、私立のポケモンジムというのまで出来てきた。もっとも、『ポケモンジム』の名称は使えないから、リトルジムとかサブジムとか、規定逃れのそれらしい名前を使っている。そして、そういう私立ジムが、未だに旅をしているポケモントレーナーたちの新たな一里塚となっているのだから、何の皮肉なのやら。
 そういった私立ジムの一つを横目に見て、進む。繁盛しているらしく、立派な店構えをしていた。ここで不意に、鞄に揺られていたリグレーが、「気持ち悪い」とこぼした。
 直斗が立ち止まってリグレーを見た。
「大丈夫か、イドラ?」
 放っておけばいいのに。このリグレーは、大したことじゃなくても世界の終わりみたいに騒ぎ立てるんだから。しかし、僕の予想していなかったことに、リグレーはコクンと首を縦に動かした。
「そうか?」
 鞄を掛け直し、直斗は進みだす。私立ジムの前を通り過ぎる。リグレーが、ほっとしたように息を吐いた。
「なんかあのジム、嫌な感じでさ」
 聞いてもいないのに、リグレーが答えた。言ったところで、直斗には分からないし、僕は相手をしないけれど。どうせ、あのジムがゴーストタイプ専門だから嫌だったとか、そういうオチだろう。相手をするだけ、無駄なんだから。

 一時間以上歩いてやっと、お馴染みの赤い屋根が見えた。どんなに時代が変わっても、ポケモンセンターの基本的な外観は変わらない。自動ドアをくぐると、これまた変わらない内観が出迎えてくれる。真正面にカウンター、広いロビーに待合用の椅子がいくつか。直斗は真っ直ぐカウンターには向かわず、まずロビーの隅にある椅子に腰を下ろして、休憩を取った。暑さで参ってしまったのだろうか。しかし、普段は少し疲れてたって、目的を先に済ませるのに。僕はちょっと直斗の体調が心配になった。
 少し休むと、直斗は何事もなかったかのように立ち上がって、カウンターに向かった。平日昼間のポケモンセンターは、がら空きだ。目的の人物、須藤光一を見つけて、必要な情報を仕入れる。まず直斗は、ここ三日間で、ポケモンセンターの宿泊施設を利用した女性について尋ねた。宿泊の際に提示するトレーナーカードの顔写真のデータを見せてもらったら案の定、そこに今朝の横暴山ん婆が入っていた。それから直斗は、彼女と同室の人間がいなかったかどうか聞いて、その情報も貰って、ポケモンセンターを出た。帰り際、須藤光一は「お気をつけて」と手を振ってくれた。彼には昔から目をかけていたから、今でも直斗を慕ってこうして情報を都合してくれる。情けはかけておくものだと思う。『情けは人の為ならず』という昔の人の言葉を噛み締めて、次に向かったのは、警察署だ。
 警察署に着くと、直斗は慣れた様子で馴染みの刑事を呼び出して、しばらくつっ立って待っていた。周囲のポスターを眺める。『能力アップ薬に注意! 麻薬と同じ成分の偽物が出回っています』『ポケモンの無責任な繁殖・売買は違法です』『ポケモンバトルはマナーとルールを守りましょう』……いつも思うのだけれど、このポスターは一体誰に訴えかけているのだろうね。
 直斗が普通自動車免許取得のパンフレットを見ているところで、呼びつけた刑事がやってきた。ハイヒールを高らかに鳴らし、パンツスーツ姿で現れた、直斗より一回り年下のこの女性、名を結城夏輝という。直斗に一目惚れしたらしく、それ以来、何かと直斗に情報を都合してくれる。直斗もそんな彼女を利用、いや虚仮、いや重宝させてもらっている。まあ、頑張り屋の後輩以上に何も思われていないことは、彼女も分かってやっていると思う。
「海原さん、今日は何のご用かな? あ、私明日非番なんですよ」
「昏睡事件について聞きたい」
 結城夏輝の台詞を半分スルーして、直斗は単刀直入に尋ねた。途端、夏輝の顔が曇った。「捜査中の事件だし、犯人捕まらないし、機密情報多いよ?」
 昏睡事件。その名の通り、被害者が皆、昏睡状態に陥っている事件だ。昏睡状態になっていること以外には外傷もなく、どんなポケモンの技が使われたかのかも判然としない。何も手がかりが掴めないまま、旅のトレーナーを中心に、被害者の数はうなぎのぼりに増える一方だ。野生ポケモンが人を襲ったのではないかという説もある。とにかく五里霧中の事件だった。
「じゃ、被害者の名前だけでも」
「それもちょっと」と夏輝は渋った。直斗も少し、引いてみせる。「じゃ、確認だけ」言いながら、さりげなく夏輝と距離を取った。
「昨晩の被害者は安藤康隆、で間違いないな?」
「どうしてそれを? まだ報道もされてな」
 途中で気付いて口を塞ぐ。今更黙っても遅いぞ、結城夏輝。
 夏輝はバツの悪そうな顔をして、直斗を応接室に誘った。
「私から聞いたって言わないでくださいね?」
「言わないよ、もちろん」言わなくてもバレバレだものね。
 夏輝は一つに括っていた髪を解き、結び直す。そして、「どうして分かったんですか」と直斗に聞いた。
 直斗は今朝からの推理を惜しげもなく披露する。
「今朝、俺の事務所に、『友人が事件に巻き込まれたから犯人を捕まえろ』って女性が来た。明らかに旅装で、ポケモントレーナー。汚れ具合から昨日今日ぐらいに町に着いたのは分かった。それから、彼女は『事件に巻き込まれた』とか、『警察は動いてくれない』とか、どことなく歯切れが悪かったからカマをかけてみた。『昏睡事件の捜査は受け付けてない』と言って。今、警察が動き辛くて、被害に遭っても被害者と断言し辛いっていったら昏睡事件だからな。で、その通りだった。後は女性の素性を調べて、それから、同室の人間を調べればいい。事件に巻き込まれたなんて、友人のポケモントレーナーに警察が一々知らせるはずないだろうから、彼女が自分で気づく要因があったはずだ。どうせ同じ部屋を取って、昨日帰ってこなかった、とかだろう。調べたら、同室の人間に荷物を置いたまま戻ってこない人間がいた。それが安藤康隆だった。こんなところだ」
 夏輝は悔しそうに頷いた。分かってしまえば簡単なことだ。僕は直斗と一緒にいて、いつも気付かないけれど。
 夏輝は俯いたまま、口を開いた。
「夜中に搬送された安藤氏のケータイに、明朝から電話を掛け通しだったそうです。警察にも未明に来ました。朝の四時でしたよ」
「俺のところにも、大体そんな感じの時間に来た」
 あの山ん婆、ほうぼうにそんなことして回ってたのか。直斗も苦笑する。夏輝も少しホッとした様子で相好を崩した。
「あ、でも」
「何だ」
 夏輝の疑問を、直斗はすかさず拾い上げる。夏輝は調子をつけるようにコックリ頷くと、こんな話をした。
「その女性、柿崎凛子さんですが、安藤さんが事件に巻き込まれたと分かったのは、部屋に戻らなかったからだけじゃありません、って言ってましたね」
「他に何か?」
 直斗が穏やかに先を促す。夏輝が髪をいじりながら、「それがね」と切り出した。
「カード占いで気付いたんだそうです」
「カード? タロットカードか?」
「本人は別物ですって言ってましたけど、私には違いが分かりません」
 夏輝が胸を張って言う。この合理的で他人に迎合しないところを、彼女は自分で気に入っているらしい。
「とにかく、柿崎凛子さんが何故タロットカードの話を持ちだしたのか、私には理解できません」
「理由はあるんだろうさ。俺にも分からないが」
 直斗に分からないなら、夏輝にも僕にも分からないな。
「あと、あの歳で女一人で旅してるっていうのも珍しいですよ」
「歳?」
「ポケモンセンターで見た時に、確認は? 彼女、二十歳なんですよ」
 直斗の動きが一瞬、止まる。それは不自然なくらい長い一瞬だったのだけれど、夏輝は気付かずに話続ける。
「十二歳とか十五歳とかで旅をしてる子は稀に見ますが。二十歳って高校でも大学でも中途半端ですし、何故でしょう?」
「妙だな」
 そう言う直斗の声も妙に上擦っている。流石に夏輝も直斗の様子に気付いたらしく、「どこか具合でも悪いんですか?」と尋ねてきた。
「悪いと言えば悪いな。食欲がない」それは心配だ。
「どうしたんでしょうね?」
「さあな」
 直斗は立ち上がると、場を辞した。後ろから、「明日非番なんですよ」と声が飛んでくる。
「どうせ事件の捜査が入るんじゃないのか?」
「知ってます? 私また捜査外されるんですよ! 今回は警部補にドロップキックかましました!」
 君はまたやらかしたのか、結城夏輝!

 警察署を出て、直斗は歩きだす。
「全く、結城は何回問題起こせば気が済むんだか。もう少し周りとの協調性があれば。目の付け所は悪くないんだが」
 リグレーに半ば独り言のように喋りかけつつ、直斗は道を右に曲がったり、左に曲がったりした。自分でどこを歩いているか、把握していないものらしい。居た堪れなくなって、僕は直斗の耳の後ろを軽く叩いた。しかし、直斗は気付かない。そのまましばらく道を進んで、途中で気付いて引き返した。
「あいつは柿崎じゃなかったはずだ」
 そんなことをリグレーに確かめつつ。いや、この国で結婚したら、大半の女性の苗字は変わるからね。
 直斗が二十歳という年齢に反応するのには、わけがある。要するに男女関係になって逃げましたというわけだが。それだけなら、良くないけれど、まだ良かった。あまり真面目に年齢を逆算されては、困ったことになる。いや、直斗がちゃんと話していれば、いや、場の雰囲気に流されなければ、というか僕がしっかりしていれば……。
 そんなわけで、直斗は今年で二十歳ぐらいの人間を見かけると、どうしても、それとなく、家族関係を探らずにはいられない。その性癖の所為で結果的にポケモンセンターの須藤光一に慕われることになったのだが、人生何がどう転ぶか分からないとはこのことだ。その時、既に転倒していたけれども。
「生まれてるかどうかも分からない人間だ。まさか俺を探す為に旅に出たわけでもないと思う」
 な、と直斗はリグレーに同意を求める。
 リグレーは首を横に傾けて不賛成を示した。嘘でも頷くとこだろ、そこは。

 やや回り道をして事務所に戻ると、本日二度目の山ん婆と遭遇した。もっとも髪を整えてきたから、もう山ん婆ではなくなっていたけれど。
「貼り紙を見ませんでしたか? 今日は店仕舞いです」
「今日が駄目なら明日にするから」
 しれっと元山ん婆、柿崎凛子が答える。髪に櫛を入れた今は、吃驚する程普通の女の子に見えた。
「警察呼びますよ、柿崎凛子さん」
 直斗はそう言って、貼り紙はそのまま、事務所へと戻る。「ちょっと!」閉めようとしたドアに足を挟まれた。
「事件のこと、どうなったの?」
「当事務所では刑事事件の捜査は行なっておりません」
「じゃあ行方調査! 犯人探しじゃなくて、私の個人的な依頼なの。話だけでも聞いてくれない?」
 流石にこれには直斗も観念して、ドアを開いた。そして、彼女を中に入れた。どうせ、今日無理だと言っても明日来るに決まっている。どうせ犯人探しじゃない行方調査と言いつつ、犯人探しをねじ込んでくるのだろうが、彼女は諦めないのだろうし、それに、直斗も事件のことは気になっているようだから、どのみち首を突っ込むのだろう。お人好しだ、直斗は。
 直斗は凛子を誘って、事務所の応接スペースに向かった。凛子は途中、足をさすってから直斗を追いかけた。どうやら、さっき挟んだのが意外と痛かったらしい。ざまあみろ、だ。二人は背の低い机を挟んで、向かい合わせになるように座る。先に座った直斗を見て、凛子が感心したように声を上げた。
「探偵さんって、目が青色なんだ。いいなあ。私も青色が良かったなあ」
 直斗は少し癇に障ったようだった。目の色に触れられるのは、嫌いなんだ。
「目の色で探偵業が捗るわけではありませんよ」
「でもいいなあ。私には遺伝しなかったんだよね。あ、サングラスしてるのってその所為? 青い目の人は強い光が苦手って聞くから」
「ご依頼の件は」
 延々続きそうな凛子の目の色談義をぶった切って、直斗が言う。凛子はむう、と頬を膨らませた。なるほど、仕草だけ見れば、子どもっぽい二十歳と言われて納得できる。肌年齢は三十路だが。
 凛子は前に身を乗り出すと、直斗の目を見るようにしてこう言った。
「私の父親を探してほしいの」
 直斗はポーカーフェイスで、凛子に先を話すよう促した。
 凛子は乗り出していた体を伸ばし、背筋を伸ばすと、少し考えてから言葉を紡ぎだした。
「私のお父さんは、私が生まれる前にいなくなったの。元々トレーナーとして、旅してる途中の恋愛だったの。妊娠して、そのまま二人とも旅を続けて、別の道を選んだっきり、会えなかったの。写真とかはないから、手がかりはお母さんの言葉だけ」
 そこで凛子は間を置いた。そして、鞄から何かを取り出しながら、
「それも、黒髪で若い男の人とかで、当てにならないから」
「そんな人間は、この国にはごまんといる」
「うん、で、ね。私はこれで探すことにしたの」
 凛子は鞄から出した手の平サイズの物を、直斗に見えるように差し出した。
「タロットカードですか」
「これはジャギーカード。確かに似てるけど、ちょっとルールが違うの。絵柄が人間じゃなくてポケモンって決まってて、全部で二十五枚。逆位置や正位置はなくて、純粋に出てきた絵柄で占う」
「二十五枚、カードの一組の枚数としては、少なくありませんか?」
「そうね。一般的なトランプカードは一組五十二枚、占いでよく使われるタロットカードは一組七十八枚。でも、タロットで使われるのは大抵、大アルカナの二十二枚組だし、それにこのカードは、絵柄がポケモンでしょ? 占う人の手持ちポケモンから特徴的な示唆を得られるから、枚数は問題じゃなくなるの」
 舌がよく回る娘だ。占い師としてやっていけるんではなかろうか。
 直斗はジャギーカードの絵柄を見ながら、いかにも不思議そうにこう言った。
「そのような手段があるなら、探偵の力は必要ないのでは?」
「有り有り、大有りなの!」
 凛子は大げさに手を振ってみせた。不自然な程芝居がかった仕草で、直斗を指差した。
「これは所詮占いだし、私は人探しの素人なのよ。プロの力が欲しいの。それと、人探しのプロに占いを見てもらって、私の力が人探しに役立つかどうか見てほしい」
「それは、どういう?」
 流石の直斗も、この説明は理解できず、聞き返した。
「つまりね」
 凛子は再び身を乗り出す。
「私の占いでね、探偵さんの真実をどこまで当てられるか、力量を試したいの」
「それは、そこら辺の人に頼めば済む話では?」
「駄目なのよ。占いしますって言って集まる人って、そもそも占いしたい人でしょ? 協力的だから、試金石にならないの」
 凛子は胸の前で手を合わせてみせた。直斗は腕を組んで沈黙の時間を少し稼いでから、口を開いた。
「私には、君がどうしても私を占いたいように見える」
「ばれた?」
 何かと言って誤魔化すかと思いきや、凛子はあっさり認めてしまった。
「実は、私は探偵さんに個人的な興味があってね」
「そうか」
「ね、だから占いしていい?」
 直斗は脱力したように、「そうか」ともう一度言った。直斗は容姿の所為で、『個人的な興味』を持たれることがよくあるのだ。しかし、お茶や映画の誘いはよくあったが、占いのお誘いとは新しい。凛子は意外と強敵ではないだろうか。
「じゃあ、占いたければどうぞ」
「やった」
「その前に」
 直斗は手を上げて、凛子を制した。
「今回の事件、友人が巻き込まれたのを占いで察知したと聞きました。その話を詳しく聞かせて貰えませんか?」
 言い終えると、直斗は手を膝の上で組んで、傾聴の姿勢に入る。
「ええっと、昨日のこと? うん」
 直斗の目が鋭く光った。占いの好きそうな女の子のこと、この話を持ち出せば喜んで喋り出すと思っていた。だが、なんだか歯切れが悪い。
 凛子は頻りと、直斗の左後ろに掛かっている時計を見つめた。まるで、何かを思い出そうとしているように。そして、時計の秒針に合わせて何度か頷いてから、その時の話を始めた。
「今朝早く、胸騒ぎがして目が覚めたの。そしたら安藤さんがいないし、何かあったのかなと思って、ジャギーカードを並べてみたら、私に一番近い男性に凶相、と出たの。普段ならちょっと運が悪いくらいだと思って気にしないんだけど、大きな荷物が置きっぱなしで。それで私、不安になって、彼のケータイに電話してみたの。病院の人が出てくれたから、思わず『家族です』って嘘ついて、面会に行っちゃった」
 凛子はそこまで早口で言うと、息をついた。
「その時のカードは?」
「え?」
「占いをしていたんですよね? 凶相と出た、その時のポケモンのカードは?」
 明らかに、彼女は動揺した。目を思い切り直斗から逸らすと、「ミミロル」と小声で答えた。
「そうか」
 直斗は不意に僕を外した。そして、目を逸らした凛子を、羨ましがられる青色の目で見つめた。
 そして、こう言った。
「君は嘘をついている」
 カチ、コチと時計の秒針の音が響いていた。まるで時間それ自体が止まってしまったかのように呆然としていた凛子だが、我に返ると、「ほんとのことだよ」とおどけてみせた。しかし、直斗も譲らない。
「いや、違うな。ついでに、俺を占いたいという話も、大筋では嘘だろう」
「なんでそこまで言うの?」
 根拠があるなら見せてよ、と凛子は言った。直斗は僕を手に持ったまま、空いた方の手で、彼女の手の中のジャギーカードを指差した。
「そのカードだよ。俺がさっき見た一組の中に、ミミロルはなかった」
 単純な話だ。
 凛子は直斗を見た。そして、手の中のカードを見ると、苦笑した。見ていると不思議な気分になる、清々しい苦笑で、彼女は「ばれちゃった!」と言うと、手の中の一組を机に置いてから、鞄の中に手を突っ込んだ。
 すると、机の上に置いたのとそっくりなジャギーカードが、一組、二組、三組、四組、五組、六組。
「地元とか、旅先で出会った友人に描いてもらってたの」
 彼女は計七組百七十五枚のカードを、全て表にして広げた。色んな地方の色んなポケモンが描かれている。よく見ると、絵のタッチは似ているが、違う人のものだ。
「ポケモンも地方差ってあるでしょ? 色んな組のカードがあった方がいいなー、と思って。ちなみに一応これ全部、オンリーワンのカードだからね?」
 ミミロルのカードがあった。無難に、両耳を伸ばしてこちらを向いている構図だ。一体これのどこが凶相のカードなのやら。
 直斗はメタモンのカードを取り上げると、裏表と見て、机の上に戻した。
 凛子の方は、ミミロルのカードを持ち上げて話を続ける。
「ジャギーカード占いっていうのも、でっち上げなの。その人の手持ちポケモンや出身地から、馴染みの深そうなポケモンや思い入れのありそうなポケモンのカードを選んで、二十五枚のセットを組むの。でもって、引いたカードにそれらしい説明を付けるの。私、手品もちょっとかじってるから、少しは思い通りのカードも引けるしね」
 凛子は近くに散らばっていたカードを適当に集めると、何度か切って直斗に差し出した。直斗は一番上のカードを取る。「タツベイよ」その通りだった。
「あなたは向上心があり、常に努力を怠らない人です。常に大局的な物の見方を試みますが、目の前の物事に集中して、周りが見えなくなることもあります。夢や目標に対しては頑固ですが、環境の変化には柔軟に対応します……なんてね」
「大抵の人間はそれで当たっていると思うわけか」
 直斗は引いたカードを返した。
「君は、自分の母親の手持ちポケモンを交ぜたセットを組み、かつ、わざとそのポケモンたちを引いて、並べていたんじゃないか? そのポケモンたちの組み合わせに反応する人間が、自分の父親だろうから」
「当たり」
 凛子はミミロルのカードを脇に除けると、散らばったカードから、六枚、つまみ上げて、こちらに見えるように表をかざした。
 ラッタ、オオスバメ、メノクラゲ、サイホーン、ロコン、ネイティオ。
 僕が反応した。思わず体が変形しそうになるのを耐え、僕は視覚器官だけ移動させて直斗を見た。いつもの青い目、いつものポーカーフェイス。
「どうも俺は、君に疑われているらしい」
 微笑を浮かべると、直斗は僕を掛け直す。
「自分に遺伝しなかった、と言っていたところを見るに、その失踪した父親というのは青い目だったんだろうな」
「先入観を抱かせるつもりはなかったんだけど。口って災いの元ね」
 そう言うと凛子は、カードの海の中からメタモンのカードを取り上げた。
「父親探しは頓挫したようだし、目下の問題は」
 直斗はミミロルのカードを持ち上げた。
「こいつだな」

「ところで、なんで途中から丁寧語じゃなくなったの?」
「君が一向に丁寧語で喋らないから、途中で面倒になった」

 直斗は再び、暑い中ポケモンセンターまで繰り出した。何故か凛子も一緒だ。
「君は付いてこなくていい」と言ったが、案の定、付いてきた。
「探偵さんの仕事に、興味あるから」そう言って笑みを浮かべたが、僕としては、直斗が彼女の父親だという証拠を探し出そうとしているみたいに思えて、気が気でない。直斗は平気なんだろうか。まあ、まだ親子だと決まったわけじゃない。凛子の母親の手持ちポケモンと、直斗がその昔愛した女性の手持ちポケモンが一緒だなんて、ただの偶然かもしれないじゃないか。
 私立ジムの前を通る時、再びリグレーが文句を言ったことを除けば、概ね平和な道中だった。それと、凛子が私立ジムについて尋ねたこと、リグレーのことを聞きたがったことぐらいだ。私立ジムについては、直斗は知らないと答えた。旅のトレーナーの情報網に乗っていないジムだそうだが、後で凛子が勝手に調べるだろう。リグレーについては、この国には生息していないポケモンだと、直斗は簡単に説明した。
「じゃあ、高値がつくから誘拐されちゃったり、そういう心配ってしない?」
「しない。イドラは足を切られてるから」
 淡々とした直斗の台詞に、凛子は顔を歪めて「かわいそう」と叫んだ。「ところで」と直斗が話題を戻す。
「ポケモンの誘拐が多いのか?」
 凛子は眉間に皺を寄せて、「うーん」と唸った。彼女は意外と、リアクションが大きい子だと思う。
「噂は聞いたことあるけど、実際の被害は聞いたことないや。それよりか、他の地方のポケモンを連れてきて、無闇に繁殖して売りさばいて、残った個体が逃げ出して野生化したりとか、そういう被害の方がよく聞くよ」
 そういえば、警察署にポスターが貼ってあった。『ポケモンの無責任な繁殖・売買は違法です』――凛子は息継ぎをして、続けた。
「安藤さんを占った時にね、彼、ミミロルのカードを見て、変な反応したのよ。どう変か、って聞かれると困るんだけど。だから私、カードの位置の解釈を変えて、反応を見てみたの」
「解釈って、変えていいのか?」
「いいのよ。私が始祖の占いなんだから」
 凛子はリグレーを抱っこしてから、話の続きをする。僕は、その点は凛子を評価することにした。重いリグレーを抱きかかえて、直斗の負担を減らしてくれるとは。でも、まだ信用したわけじゃない。
「その時は、将来について占ってたんだけど。このままトレーナー続けるべきか、諦めて就職口を探すべきかって。普段なら、ミミロルは飛び跳ねるから、大きなギャップを飛び越えなければならないでしょう、みたいな解釈を出すんだけど、その時は、『この位置にあるカードは、凶兆を示しています。あなたが未来にやろうとしていることは、これによって困難に陥るでしょう』って言ったの」
「それで?」
「『やっぱりやめた方がいいか』って彼が言った」
 ポケモンセンターの自動扉をくぐる。
「何が、って聞いても、はぐらかされたんだけど。その夜よ、彼がいなくなったの」
 涼しい風が体全体に当たる。暑さで溶けかけていた僕は、身を持ち直してこっそり深呼吸した。
「少しの間だけど、一緒に旅をした仲だし。ミミロルのことがあるから気になっちゃって。それでね、私、思ったんだけど」
 直斗の方を向こうと、後ろ向きに歩き出した途端、凛子はロビーの椅子に引っかかって倒れた。幸い、椅子に座り込む形になったので、怪我はなかったものの、万一抱いているリグレーが怪我したらどうするつもりだったのだと問いたい。直斗が困るじゃないか。
 直斗はというと、「大丈夫か」と凛子に尋ねて、彼女の隣に座った。全く、お人好しだ。
 凛子は足をひょいと上げると、カウンターの方を向いて座った。直斗も彼女に合わせて体の向きを変える。
 凛子はリグレーを膝の上に乗せると、さっきの話の続きを始めた。
「でね、ミミロルとその進化形のミミロップって、この地方にはいないけど、紹介されて人気はあるじゃない? だから、ミミロルやミミロップの強制繁殖とか違法売買とかがされてるんじゃないか、って推理したわけ。そして、彼はそれに関わって、何かあって、昏睡状態になっちゃった。
 でも、そこからどう進めればいいか分からなかったし、警察に言おうにも、わけを話したら、彼に前科がつくって思って。それでひとまず、探偵さんを頼ったの。でも、本当に彼が犯罪に関わってたとしたら、前科とかも仕方ないことなんだよね」
 全部言い終えると、凛子は直斗の顔を覗き込んだ。
「ねえ、さっきから黙ってるけど、大丈夫?」
 言われて、直斗は背筋を伸ばした。
「大丈夫。ちょっと考え事してただけだ」
「そう?」
 凛子は不服そうな顔をした。「顔色悪いよ?」
「光の加減だろ」
 そう言って、直斗はそっぽを向く。僕には近すぎてよく分からないのだけれど、言われてみれば、確かに、顔が青い気がする。
「本当に大丈夫?」
「海原さん」
 第三者の、明るい声が割って入った。直斗と凛子が彼を見上げる。直斗の快い協力者、須藤光一だ。
「また何かご用事ですか?」
 今朝来てまた今来たことに、疑問はないらしい。普段はもう少ししっかりしているのだが、時折心配な程鈍感になる。今も、ありがたいことに、直斗の不調には気付かないでいてくれている。
「ああ。最近、ミミロルやミミロップの所持が増えてないかどうか、データを見てみたい。あと、モンスターボールの売り上げのデータ」
「モンスターボールの売り上げはすぐ出ますが、ポケモンの所持の方は時間掛かりますよ。掛けてお待ちください」
 そうやって、直斗に対してポンポンとデータを出してしまうのは、どうなのだろう。意気揚々と持ち場に戻りかけた光一だったが、途中で振り向くと、
「海原さん、具合悪そうだけど、大丈夫っすか?」
 余計な一言を言った。
「食あたりだ」
「最近暑いですものね。気を付けてくださいよ」
 直斗の言葉を簡単に信じて、光一は今度こそバックヤードに去っていく。素直なのは美点でもあるが、その内詐欺の被害に遭わないか心配だ。それで直斗が二次被害に遭わなければ、僕は別にいいのだけれど。
 思いがけず、後ろから襲撃者はやってきた。
「食あたりって、何食べたの? 食欲ないんじゃなかったの?」
 直斗と凛子が振り向く。やはり、刑事の結城夏輝だった。まだ一日の業務は終わっていない時間だろうに、何故かもう私服に着替えている。パーカーに綿パンという格好だが、色合いがハスブレロ。センスない。
「お前、非番は明日じゃなかったのか?」
「知ってます? 私、今日から謹慎なんですよ」
 やっぱり。同じ日に一体何をやらかしたのかとも思うが、聞きたくない。「謹慎なら家で大人しくしとけよ」という直斗の言葉を無視して、夏輝は凛子にすっと視線をずらした。
「おーっ、ユーは明け方のタロット娘!」
「その節はどうも」
 凛子は大人しく頭を下げる。
「私は捜査外されたからユーの手伝いは出来ないけど。自慢のタロットで犯人見つかるといいね」
 あはは、と凛子は笑って誤魔化す。
「ま、この人はこう見えて優秀な元刑事で現探偵さんだから、頼れば解決すると思うよ」
「俺としては、お前が事件を解決したという知らせを聞いてみたい」
「ま、その内」と答える夏輝。「それと」夏輝は一歩下がると、二人の顔を交互に見た。
「さっき立ち聞きしてしまいましたが、もしかしてミミロル系統の闇取引について捜査してらっしゃる?」
 はじまった、と僕は思った。結城夏輝は激昂して上司に頭突きしたり裏拳を食らわしたりしなければ、そこそこいい刑事なのだ。
「だとすればそれは十中八九、カラ取り引きですよ。つい先月、ここいら一帯で大規模摘発がありまして、主要な闇繁殖場をぶっ壊しちゃったんです。それ以後、目立った取り引きはありませんし、今から大規模繁殖を始めようにも、もう供給過多ですから」
「供給過多?」
 凛子が首を傾げる。夏輝はいつもと変わらぬ調子で答えた。
「もう売りすぎちゃってね、ミミロルを買いたいって人にはほぼ行き渡ったってことです。他にもパチリスとかザングースとかアブソルとかが供給過多になってましたね。繁殖させるだけさせて、買い手がつかない状況でした。そこら辺の種類の取り引きは、しばらく収まってると思います。繁殖場はさっきも言ったように、破壊してしまったので」
 それじゃ、と言って夏輝は背を向ける。と思いきや、「本来の目的を忘れてた」と言って戻ってきた。カウンターまで行き呼び鈴を鳴らす。間もなく現れた光一に、夏輝は「健康診断お願い」と言ってモンスターボールを預けた。
「あの、夏輝さん」
「何だい?」
 トレーナーカードを取り出し、ポケモン預け入れの手続きをしている夏輝に、凛子が問いかける。
「繁殖場とか、そこで生まれたポケモンがいるんですよね。そういう子たちって、事件の後、どうなるんですか?」
「一応、引き取ってくれる人や慈善団体に渡すべし、ってことになってます。でも実際は殺処分。生まれたても何も、関係なしにね」
「分かりました。答えてくださってありがとうございます」
 凛子は夏輝に頭を下げると、立ち上がった。
「あのさ、ちょっと出よう」
 凛子はやや強引に直斗の手を引っ張ると、ポケモンセンターの外へ出た。

 外は相変わらず暑かった。太陽はまだまだ、沈む気配を見せない。
「あそこのお店に入ろう」
 そう言って凛子が指差したのは、有名な量産ブランドを取り扱っている靴屋だ。チョイスが喫茶店とかでないのがよく分からなかったが、入ってみて納得した。靴屋には、靴を履いて合わせる為の椅子がそこここにある。二人は大きめの椅子を選ぶと、並んで座った。直斗は手で顔を扇いだ。ポケモンセンターと比べると、この靴屋の気温は生温い。
「ごめん。なんかさっきの話聞いて、あそこには居辛くて」
 直斗は「構わん」と言った。しかし、凛子は聞いていないらしく、靴の箱の山を見回している。
「なんというか、ね」
 靴屋の生温い気温に慣れた頃、凛子は口を開いた。
「ユートピアってないんだなあ、って思ってさ。私の故郷の、ホウエン地方でもああいうことはあった」
「へえ、故郷はホウエンなのか」
 直斗は影でそっと胸を撫で下ろした。あの女性はジョウト地方の出身だ。
「うん。パパの実家がホウエンにあってね」
「パパ?」
 直斗が怪訝な顔をする。自分が何を言ったか気付いていなかったらしい。凛子は直斗の顔を見てから気付いて、説明を始めた。
「お母さんはジョウト地方の人で、ジョウトで私を生んだの。そんで、子どもを連れて苦労してたお母さんを援助して、結婚もしてくれて、助けてくれたのが私のパパ。パパはホウエン地方の人なんだ。後で家族皆、ホウエンに移り住んだの。パパは私にもよくしてくれるの。本当にいい人」
 凛子はそこまで言うと、ふっと笑った。いい話だというのに、妙に寂しげな笑みだった。
「そんなにいい人が父親なら、なんで生物学上の親探しなんか」
 そう言う直斗は、少し苦々しげだった。彼は、生物学上の親にも、法律上の親にも恵まれなかった。
「幸せじゃないから、かな」
 直斗は、凛子から目を逸らした。凛子は話し続けている。
「お母さんが今年のはじめに亡くなってね。お母さんは、私の生物学上の父親のことをずっと気にしてた。死ぬ間際までずっとその人のことを言ってて。それは、お母さんの青春の思い出かもしれないけど、それじゃ、お母さんを看取ったパパがかわいそう。私にかわいそうって思われる状態になっちゃったことがすごく嫌。お母さんは死んじゃったのに、後に残った私とパパの上に、その生物学上の父親の影がちらついてて。なんだかやりづらくなるの。だからさ、いっそ生物学上の父親を探しだして、その人が生身の人間だって分かれば、そういう影も怯える必要もない。私のパパがどういう人で、お父さんはどういう人か分かれば、それならなんとかやっていけると思うの。だからね、この機会に私、大学休学して旅に出ちゃった。元々、旅には出てみたかったし、ポケモン育てるのも好きだし、パパも応援してくれたから。でも、色々世間の汚い面も見てきて、悲しかったな。ホウエンでもポケモンの殺処分はあったし、こっちはもっと制度が整ってるかと思ったけど、変わりないんだね。ま、同じ国だしこんなもんか」
 凛子は虚ろな笑い声を上げた。
「このまま、お父さんも見つからずに帰ることになるのかな。休学は一年、って、パパと決めてるんだよね」
 そしてまた、笑う。
「もちろん楽しいこともあったけどね。
 ねえ、探偵さんは私の父親じゃないの?」
 まるで、時限爆弾が放り込まれたみたいに感じた。触ったら爆発する。でも、時間切れでも爆発する。直斗はしばらくの間、無反応だった。それから、「計算が合わない」と淡々と告げる。
「俺は今年で三十六なんだ。お前が今二十歳だから、俺は十五か十六で子どもをこしらえたことになる。それはまずいだろう」
「それが、合ってるんだ。お母さんがそう言ってた」
 直斗は凛子に完全に背を向けた。そして、肩を竦めてみせる。
「それが事実なら、放っておけばいいだろう、そんな奴。そんな歳で子どもを作るなんて、どうせろくでなしだ」
「仮にそうだとしても、私の親なのよ? もうちょっと言葉を選べない?」
 鍋が沸騰するように、急に凛子は怒りだした。僕には理解できない。何故会ったこともない、血の繋がりがあるだけの親を擁護できるんだ? 君には既に、理解力ある素晴らしいパパがいるじゃないか。そっちの、素晴らしいパパの元へ帰れよ。直斗の過去を突き回して、彼の幸福を減らす真似はやめてくれ。
 これ以上彼に付きまとうなら、“僕は契約を無視するぞ”――
 直斗の指が僕に触れて、我に返った。そのまま彼は何気なく僕を掛け直す。
 ずっと、直斗の傍にいた。直斗の膝の上が僕の居場所で、直斗の手の平の温もりが僕の存在理由だった。今、僕は彼の鼻の上で固まって、もう指先でしか触れて貰えない。僕の幸福は、どこへ消えていったのだろう。その分、直斗が幸福になってくれればよかったのに、なんで。僕は思考を停止させる。後悔の無限ループを終わらせる。過去はもう、終わったんだ。
「最大多数の最大幸福」
 直斗が呟く。凛子は戸惑ったように直斗を見上げた。
「幸福の量が一番大きくなるように、社会が運営されることを理想とする。功利主義の考え方だ」
 直斗は立ち上がった。
「誰かの幸福は誰かの不幸だ。誰かが儲ければ誰かが損をする。この世界の幸福の最大値は、決まってるんだ。なら、幸せな誰かは、それ以上欲張るべきじゃない。幸せになろうとして、却って不幸な目に遭ってると自覚があるなら余計に。さっさと元いた家に帰って、幸せな古巣で安穏としていればいい」
「そんなの」凛子は拳を握った。「そんなの、間違ってる」
 直斗は片手を上げた。直斗お得意の、詭弁だ。
「百匹の飢えたポケモンがいる。一匹が死んで九十九匹が飢えを凌げるなら、それは正義と言えないか」
「そんなの」
「そういうものだ」
 凛子は言い返す言葉を探している。言葉を探して、彼女は自分の靴先を見つめている。
「誰かがポケモンを売って儲けようとした。その結果が何千匹分のポケモンの処分だ。それを見て悲しいと思うなら……幸福の量を減らすなら、そんな無駄なことはせず、さっさと帰宅した方がいい」
 凛子は何か言いかけたが、直斗はそれを無視して、靴屋を出た。須藤光一に、用事を頼んだままだ。しかし、直斗はそれを忘れたのか、思い出せないのか、町をただ朦朧と進んだ。いつか、どこか分からない場所に出て、直斗は自嘲気味に呟いた。
「俺は、晶子と同じ返答を望んでいたのか」
 やっと世界には夕焼けが訪れたというのに、焦がされ続けていたこの町は、まだ酷く暑い。
「許してくれよ、ミーム」直斗が呟く。しかしその呟きは、僕には理解できない。
「返事は、なしか」 直斗はリグレーの鞄を背負い直すと、また当てもなく、歩き続けた。

 〜

 思えば生まれた時が、直斗の人生におけるケチのつきはじめだった。
 父親は見た目と金回りのいいクズだったそうだが、母親の妊娠が発覚した瞬間雲隠れした。母親も母親でクズで、生まれたばかりの直斗に名前を付ける代わりに、男を引き止めるのにクソ程の役にも立たなかったクズ呼ばわりした。臓器売りに売り飛ばされなかったのは不思議でもなんでもなくて、僕が直斗に興味を示して、四六時中ずっと彼の傍にいたからだった。その頃の僕は、まだポケモンだったので、直斗に降りかかる火の粉を払ってやっていた。あとは近所のおばさんから同情で貰うご飯を食べて、直斗は成長していった。
 しばらくしたら、母親は自分と息子を男に売り込んだとか言って、男の家に行って、結婚した。自分の体が魅力的だから高値で買われたのだと、堂々と吹聴して回るようなクズだった。そして昼間っから、いや、あんな女のことはどうでもいい。問題は、自分と“息子”を売り込んだと言っていた点だ。全く、最低な奴だ。結婚相手の男もだし女もだ。あの男、直斗に手を出そうとしやがった。今でも、一字一句、覚えている。「綺麗な目してるじゃねえか」そう言って、手を伸ばしてきた。僕は当然、激怒した。それでも理性は保っていて、何針か縫う大怪我ぐらいで済ませておいた。そんな甘っちょろいのじゃ駄目だったんだ。男は、怪我をしたから仕事が出来ないとかほざいて、女に働けと指示をした。出来る仕事は一種類だったけど。で、こともあろうに、直斗まで働かせようとした。直斗は逃げた。逃げても、何度か保護者どうとかという理由で連れ戻された。僕らはまた逃げ出した。何度も逃げる内に知恵がついてきて、僕らは戸籍を買うという方法を実践した。お金はゴミ山から金属を拾い、高レートのポケモンバトルを年上に吹っかけて、なんとか稼いだ。そして、少し高かったけれど、両親のいない、天涯孤独の身の上の潔白な人間の戸籍を買った。それが“海原直斗”という人間だった。実年齢より二つ年上だったけれど、直斗は大人っぽく見られたし、問題ないだろうと思っていた。
 彼は戸籍上十歳になったら即、初級のポケモンの取り扱い免許を取って旅に出た。そこからは根無し草生活だった。途中、コガネシティの路地裏で死にかけていたイーブイを拾ったりもして、そこそこ楽しくやっていた。
 人生に必要な大抵のことは、旅で出会った人たちから習った。最大多数の最大幸福、という言葉も、そういった人から学んだように思う。そこで僕らは思ったんだ。この世の幸福には最大値がある、皆が皆、幸せにはなれない、とね。僕ならそこで幸福を他人から奪ってしまえと思うのだけれど、直斗はそうではなくて、皆の幸せを願う優しい子だったから、僕はそれに付き従った。僕は直斗が大好きだからね。
 そうして、あの人に出会った。とても優しく、賢いかと思いきや、時々頭のネジがすっぽ抜けていた。直斗は彼女に出会って、恋らしきものをした。あれが恋かどうかは、ちょっと分からない。多分、あと二年遅く出会っていれば、二人はもっと幸福だった。
 彼女は直斗を、戸籍通りの年齢の青年として扱った。直斗も、そのつもりで振舞っていた。それがあんなことを引き起こすなんて、僕らは分かっていなかった。で、後になってとんずらした。一緒にいられる精神状態ではなかった。愛があった分、余計酷くなった。とにかく遠くへ行きたくて、直斗はその場で一番高かったチケットを買った。そして、船に乗ってイッシュに旅立った。
 イッシュではまた根無し草生活だった。悪くはなかった。一番良かったのは、目の色をどうこう言う人が少なかったこと。そこで流浪の生活を送り、リグレーを引き取って、直斗は再び故郷へ戻った。
 再び踏みしめた故郷の地には、何も残っていなかった。あの血の繋がりがあるという理由で直斗を好き勝手しようとしたクズも、そのクズを買って悦に入っていたクズも、行方不明でほぼ死亡者とニアリイコールの扱いを受けていた。昔の家も、いつの間にか取り壊されて、後に新しい建物が建っていた。
 ずいぶんと気分の晴れた直斗は、新しいことにチャレンジしてみることにした。それは、どこかに根を下ろしての生活。職業には、就職に有利なジムバッジもあったし安定しているという理由で、警察を選んだ。この頃は、幸せだったと思う。親友と呼んでいい存在が、一気に三人も出来た。彼らには、自分の本当の歳のことも話した程だった。戸籍を買ったことは言えなくて、自分が生まれた時に二歳年上の兄が死んだから、その籍に入れられたのだと、嘘をついたけれど。
 三人の内一人は、かわいくて、優しくて、聡明で、勇気のある女性だった。彼女が晶子だ。晶子は直斗を好いてくれていたみたいだが、直斗は決して、親友以上の関係になろうとしなかった。きっと、そろそろ幸福の量が天井を突いてしまうと、思っていたのだ。直斗は、頑なに晶子に手を出そうとしなかった。他に野郎が二人いた。そっちとくっついた方が、きっと彼女も幸せだと思いたかったのだろう。それが、たった一度だけ、その決意はたった一回だけ、揺れた。それがあんな結果になるなんて、運命は、どうしても直斗を叩き落さなければ気が済まないらしい。

「階段で上ろう」直斗は言った。
 ヤマブキの新名所、町を一望できる展望階のついたテレビ塔。確か、そういう触れ込みで完成した塔は、高くて、なんだかすごくて、観光やデートにはピッタリの場所だった。その高い展望階まで、階段で上ろうと、直斗は言ったのだ。
 晶子はエレベーターがあるのに、としばらく渋っていたが、やがて直斗に賛成した。そうね、警察官だもの。このくらい、運動しなくちゃあ。地上階でラージカップのソフトクリームを食べた彼女は、そう言って笑っていたのだった。
 あの塔の最上階、つまり展望階までは、エレベーターで行くことも出来たし、階段で行くことも出来た。エレベーターは長い順番待ちで、階段の方は、途中でばてても大丈夫なように、高さ数メートルごとに休憩所が設けられていた。それでも、階段で上る酔狂は少ない。時折下りの人とすれ違い、時折休憩所で休み、二人は黙々と、少しずつ最上階へ上っていった。
「疲れたけど、なんだか幸せ」
 何度目かの休憩所で、晶子はそう言った。「じゃあ、どこかで誰かが不幸になっている」直斗は淡々と言葉を発した。
「あら、そんなことないわ」
 そう言う晶子に、直斗は、あのひねくれた、百匹の飢えたポケモンの話をした。そして聞いた。君ならどうする? と。
「あら、簡単よ」晶子は微笑んだ。
「皆が少しずつ、犠牲になるの。そうしたら、独りだけ悲しい思いをしなくていいわ」
 ね、と言って、晶子は両手で直斗の手を包んだんだ。
 それから、二人は塔を上り進んだ。異変を感じたのは、直斗だった。彼は近くにあった休憩所にぱっと飛び込んで、そこでしばらくじっとしていた。それが正しい選択だった。そうしなければ、数秒後に階段を落下するように通過した人の群れによって、彼らはもみくちゃにされてしまっていただろうから。最悪、そこで圧死していたかもしれない。人の群れとはいうものの、実際は怯え狂ったケンタロスの群れみたいな勢いで、集団が通った瞬間、丈夫なはずの塔がぐらぐら揺れたようにさえ感じた。
「ここで待ってて」
 直斗は晶子にそう言い含めて、自分は上へ向かった。集団は上から下へ、転落するように進んでいった。つまり、上の展望階で何かが起こったのだ。直斗は、警察時代で培っていた正義感でもって、その原因を突き止めようと思った。嫌な予感がしていたから、晶子は連れて行かなかった。ここで待ってて、と言った。そして、直斗はその選択を後悔することになる。ずっと、ずっと、永遠に。でも、選択肢があって、その先がどれも絶望しかないとしたら、直斗は、一体どうしたら良かったんだ。一緒に連れて行って、あの光景を見せれば良かったのか? 彼女だけ先に避難させて、あの殺戮に巻き込めば良かったとでも? それとも、僕が残って、彼女の目も耳も塞いで、動けないようにしてやればよかっただろうか。そうすれば、僕が憎まれるだけで済む。それだけで済むなら、良かったんだ。
 展望階は、惨劇の後だった。後でバベルタワー事件と名付けられるこの惨劇。どこぞのカルト教団が起こしたものだったそうだ。神を呼ぶ、とか言って、やったそうだ。この場に居合わせず、後になって新聞でこの事件を読んでいたなら、どんなに良かっただろう。儀式と称された、人の所業とも思えないあの出来事を、薄っぺらい言葉の羅列で見ていたなら、どんなに良かったか。
 デュナミスもイドラもいたけれど、僕は怒りに任せて、教団の上層部がいる真っ只中へと飛び込んだ。そして、奴らを危うくミンチ肉にするところだった。それをしなかったのは、罪は法律で裁かれるべきだという、警察官のポケモンとしての最低限の矜持が、まだ僕の中に残っていたから。それと多分、直斗の止める声が聞こえたから。でも最低限半殺しにはした。だって、さ。どこの世界に、人間を切り刻んだ挙句、部位ごとに並べる狂人どもを擁護できる理論があるっていうんだい?
 狂人どものことは最早どうでもいいんだ。彼らは全員死刑になったそうじゃないか。もっとも、僕も死刑になるべきなのかもしれない。
 さて、僕は無我夢中で暴れまわった。狂人どもを粛清して、さあ地上に帰ろうと、笑顔で振り返った僕を迎えたものは……僕は自分の視覚が信じられなかった。
 直斗が死にかけていた。僕を止めようとして、僕に殺されかけたんだ。
 泣いた? 泣けなかった。僕に対する怒りと憎しみが強すぎて、別の物体に変異してしまいそうだった。必死に深呼吸を繰り返して、僕は体をずるずると引きずって直斗のところまで行って、そして、僕の体を部分部分に切り分けて変身させて、直斗の傷口を塞いだんだ。その頃の僕には、直斗とDNAレベルで同一の細胞に変化することなんて、朝飯前とは言わないけれど、出来たからさ。
 直斗は一度は死にかけた体を叱咤激励して、長い長い階段を、今度は降りていったんだ。エレベーターはもう使えない。だから、降りるしかなかった。パニックに陥った人が、人を轢きながら行軍したその痕を。
 ただ、晶子のことだけが支えだった。
 晶子は、休憩所にはいなかった。生きていてくれと願って、直斗は先へ進んだ。そうして、とうとう地上階へと辿り着いた。
 そこも、展望階とあまり変わらない惨劇があったようだった。でも、余りに感覚が麻痺していて、直斗は、その場で一人、佇んでいた晶子に歩み寄るので精一杯。
 彼女は泣いていた。
 そこで僕らは、やっとこさ、あの大きな鳥に気付いた。
 赤く燃える、太陽みたいな優しい炎。でも熱くて、恐ろしくもある。
 彼女はホウオウを連れていた。そして、バベルタワーの地上階で、ホウオウを解き放った。
 その時、願い事なんて、一つだろう。彼女は優しかった。
「お願い、皆を生き返らせて。お願い」
 でも、神様と呼ばれるポケモンにも、出来ないことはあるらしくて、ホウオウは首を横に振ったんだった。晶子は何度も、何度も、同じ言葉を繰り返した。お願いされる度に、ホウオウは首を横に振っていた。
「もういい。行け」
 直斗は言った。
「お前がテロリストのポケモンと勘違いされると困るから。晶子を連れて行け」
 ホウオウは、この指示には素直に頷いて、晶子を乗せて、とりあえず、遠くへ飛んでいった。
 その後になってようやく、警察隊が到着して、直斗にも、事情聴取をした。それから解放されて、何時間経ったのかすら分からない道を、直斗はフラフラ歩いた。そして、家に帰り、ベッドに倒れこんで、随分長いことうなされていた。
 そして、目覚めた時、僕は直斗と契約した。
 もう誰も傷つけないよう、僕は“物”になる。そして永遠に、ポケモンとしては活動しないことにする。それを破る唯一の例外は、直斗、君の言葉だけ。君の為なら僕はなんでもする。なんにでもなるよ。でも、その時が来るまで、僕は永遠に、

 さよなら。

 それが僕の贖罪。

 〜

 どんなに悔いても、どんなに憎んでも、朝はやってくるのだ。
 もう何も語るまい。もう何も感じるまい。僕は直斗の交換可能なサングラスとして、一生を過ごすんだ。
 コンコン、と事務所のドアが叩かれた。直斗は「少々お待ちを」と言って、髪を撫で付けてから、ドアに向かう。
「よう。おはよう」
「おはようございます、海原さん」
 そこにいたのは、須藤光一だった。「はい、これ」昨日頼んだ資料を、わざわざ持ってきてくれたらしい。「ああ、ありがとう」夏輝の情報で、ほぼ不要になってしまったのに、手間を掛けさせてしまった。
「あがるか? 何もないが」悪いと思ったのか、直斗がそう口にした。
「では、出勤までまだ時間があるので、失礼します」
 真面目にペコリと頭を下げて、光一は部屋に上がった。
 事務所にあったティーバッグの紅茶と、いつかどこかで貰った、とりあえず賞味期限前のクッキーを光一に出す。光一は、こちらが申し訳なくなるぐらい美味しそうにクッキーを食べて、「また、用事があったら言ってくださいね」と言っている。
「そのデータが事件解決につながったら嬉しいですね」
「そうだな」
 まさか不必要になったとは言えず、直斗は礼儀程度に、印刷されたデータを見ていた。ミミロル系統の取引数と、処分数が書かれたデータだ。取引数の、実に倍の数の個体が処分されている。しかし、夏輝に既に指摘された以上のことは見当たらないように見える。
「結城刑事なら、こういうのから真相をばばーっと言い当てるんですかねえ」
 光一は言いながら、クッキーの袋をひっくり返していた。「あ、もちろん海原さんもですよ。あれ?」光一が首を傾げた。
「クッキー、六個入りって書いてあるのに、僕、五つしか食べてないですよ?」
「俺は食べてない」
「ですよねえ」
 光一はキョロキョロと机の周囲を見回した。そして、「あっ」と叫んでティースプーンを紅茶へ突っ込んだ。「すいません、紅茶の中に落っこちてました」
 刹那、直斗はデータを机の上に叩きつけた。紅茶のカップが、小さく飛び跳ねてチャリンと鳴いた。光一が小鼠のように縮こまる。
「ああ、悪い。怒ったわけじゃない」
 言いながら、直斗の目はミミロルのデータを追っていた。
「悪い、光一。大至急頼まれてくれ」
「あ、はい。アブソルですか、パチリスですか、それとも」
「いや」
 直斗は顔を上げた。その目は強い光を湛えていた。
「ホウエン地方のデータだ」

 光一はその名に恥じない素早さでもって、頼まれたデータを持ってきた。こいつと夏輝が組めば、いいコンビになるかもしれない。そんなことを、僕はチラリと思う。
「やっぱりだ」
「何がですか?」
 データを検分した直斗が、二枚を光一の方に向けて、それぞれある一点を指し示す。
「こっちはこの町で起きたミミロルの大量売買、大量処分のデータ。こっちはホウエンの一都市で去年行われた、闇売買の大規模摘発の前後のデータ」
「はあ」
 直斗の指が、データの目盛りを指した。
「ここが大事だ。こっちのミミロルも、ホウエンの町の、これはコリンクか、どっちも同じくらいの数、取り引きされている」
「はあ」
 グラフは月日が経つにつれ、取り引き数という縦軸を増していく。だがある数量に達すると、それ以上は頭打ちとなり、やがて、減少に転じる。
「どっちも儲からなくなってから捕り物をやってるな。ここも何かありそうだが、目下のところは、これだ」
 直斗は処分数の項目を指し示す。
「全然数が違う」
「本当だ」
 光一はそこだけは分かったらしく、目を丸くして言う。
「取り引きした個体数は変わらないのに、ホウエン地方の方が処分数が遥かに多い。これだけじゃない。取り引きの規模と処分された個体数の割合を図ると、ホウエン地方は取り引き一に対して処分数が二十近い値になるが、この町では取り引きされたポケモンの倍程度しか処分されていない」
 凛子が言っていた、「制度が整っているかと思ったけど、ホウエンと変わりない」という言葉。多分、彼女は数字をどこかで見て、実際のシステムを夏輝から聞いて、その間にギャップを感じていたのだ。
 直斗はデータを置く。「どちらが正常なのか……」
 光一が直斗をちらりと見る。そして、口を開いた。
「僕、ポケモンセンターで聞いたことあります。優秀な個体を一匹手に入れる為に、何百匹もポケモンの子どもを産ませて、そこから厳選するんだ、って。だから、いい個体を選んで取り引きしてたなら……」
「取り引きされた一匹の個体の裏で、二十匹ぐらい闇から闇へ葬られていても、なんら不思議はないねえ。しかし、データに表れるのはごく一部で、実際は三十匹から五十匹は葬られていると聞くよ!」
 横から、夏輝が首を突っ込んできた。今日はケロマツカラーのジャージだった。
「お前、謹慎はどうなったんだ」
「やだなあ、私の謹慎と非番はイコールですよ。しかし、ホウエン地方のデータとは、思いつかなかったね!」
「須藤が探してくれたお陰だ」
「いえ、僕はただ言われて」
「しかも、取り引きの傾向がドンピシャ一致。よくこんなデータ見つけたね!」
「須藤が数、探してくれたからな」
「データ分析したのは海原さんですよ」
 光一は、殻にこもる亀みたいに、首をすっこめた。
「だが、手柄には違いない」
「お見事、お見事」と夏輝が囃し立てた。
「さて、横流しかな、食肉市場かな? 私がそのデータを照らし合わせて、数に合わないミミロルたちの行方、探しますね!」
 夏輝がデータに手を掛ける。
「いや、それは後でいい」
「ホワイ?」
 夏輝が首を傾げた。光一も一緒に首を傾げる。直斗は二人を見て、「見当は付いているから」と言った。
「ただし、須藤、出勤しろ。結城は自宅で謹慎しとけ。情報の裏付けやるだけだから、俺だけでいい」
 そんなあ、と夏輝は頬を膨らませた。光一は時計を見て、大慌てで事務所を飛び出した。夏輝は中々、その場から動かない。
「俺だけでいいーとか、死亡フラグじゃないですか。私も連れてってくださいよ」
「駄目だ。自宅謹慎っつったら自宅謹慎」
 直斗は夏輝の頭に手を乗せた。そして、クシャクシャと撫でる。
「まずは、自分の身の回りの法律を守れ。正義感ばっかあっても、自分が法律破ってるようじゃ、守る人間にはなれん」
「でも、海原さん……」
「出来るな?」
「……イエス」
 いつになく不貞腐れて、子どもっぽい表情になった夏輝を残して、直斗は心当たりの場所へと向かった。リグレーを置いて。

 ★

 テレビか何かで、見たことがあった。
 宿泊施設に置いてある、何の変哲もないメモ帳。あまりに平凡すぎて、必要な時にならないと、思い出されもしない存在。
 そのメモ帳の一番上に、そっと鉛筆を置いて、滑らせる。
 ドラマとかでは上手くいく。でも、こんなの、成功するのは前に書いた人が、よっぽど筆圧が強い場合だけだと思う。
 ほら、真っ黒になった。無理だった。
 柿崎凛子は紙を手放す。紙はヒラヒラと待って、ベッドの下に潜り込んだ。
 ああ、やっちゃった。掃除の人が困るから、拾っておこう。
 彼女は床に寝そべるようにして、覗き込む。
 答えはそこにあった。

 ★

 よく考えれば、おかしい点はいくらでもあった。
 なんといっても、私立ジムの癖に、誰かが出入りしているのを見たことがない。情報もないときた。それに、リグレーが異様に怖がっていた。
 ゴーストタイプ専門のジム、とはよく言ったもの。恐らく、ゴーストポケモンが生まれる元になりそうなエネルギーが、中に充満しているのだ。
「デュナミス、頼む」
 ボールから出現した水分子は、さっと地面に溶け込む。「さて」直斗は敷地を踏んで、扉に手をかけた。「頼もう、ってところかな」
 扉は無音で開いた。直斗は建物の内部へと踏み込む。誰かが最近、中に入ったのか、埃の薄く積もった廊下を歩き、もう一枚、現れた扉を開ける。
 くそ、と直斗は小さく毒づいた。
「デュナミス!」
 先程伏兵として配置した水分子を呼び戻す。
 ポケモンたちが、落ち窪んだ目を直斗に向けた。
 私立ジムの奥には、ジムバトルに相応しい、広大な空間。しかし、そこで行われていたのは、死臭漂うポケモンたちによるカゴメ・カゴメ。それ以外に何が行われていたかというと……周囲の壁に穿たれた鎖と、不自然に細かく配置されたパーティションを見れば分かりそうだ。
 床の配管を強行突破して出現したデュナミスが、元の形へと戻る。イーブイが水の加護を受けし、シャワーズ。ただし、多勢に無勢。
「海原さん!」
 ポケモンたちに囲まれていた女の子が、柿崎凛子が直斗を呼んだ。

「波乗り!」
 シャワーズが配管に残っていた水を強制集結させ、展開。
 排泄物のような、えぐい臭いの水がポケモンたちを押し流す。綺麗に揃えられていたパーティションをドミノのように押し倒し、隠れていたものが顕になる。鎖に繋がれていたのは、人だったものか。直斗と凛子も多少は被るが、それは必要上の犠牲。
 相手を倒せていれば、そうとも言えるのだが。
「ポケモンか……?」
 直斗が今しがた押し流されたはずのポケモンたちを見た。ダメージを受けているが、痛みを感じていると思えない。ミミロップ、アブソル、パチリス、コリンクに、ミカルゲ、ザングース、ヤミカラス、ピィ、トゲチック……多種に渡るポケモンたちの内、ゴーストタイプは先の波乗りで少し傷を負っている。それ以外のポケモンたちの眼窩は虚ろで、死臭を放っている。
「死体を念力かなんかで動かしてんのか。元を叩くぞ」
 直斗はデュナミスの名を呼ぶ。指示されたのは電光石火と溶けるの合わせ技。動く遺体をふっ飛ばし、あるいは溶けるで通過して、シャワーズは一気に距離を詰める。目指すは一躍暗所で目立つ回転体、この場で唯一のゴーストタイプ、ミカルゲ。
「ハイドロポンプ」
 激流、要石を穿つ。
 そして終わりだ。

 繰り人形たちが脆く崩れ去る。
 その中央で、汚水を被ってへたりこむ彼女に、直斗は歩み寄った。
「大丈夫か」
 そしてややあって、「凛子」と名前を呼ぶ。
 差し出された手に、凛子は素直に掴まった。
「お前はどうしてここに?」
 直斗に問われて、凛子は今にも泣き出しそうに顔を歪めて、涙声で話し始めた。
「ポケモンセンターの泊まってた部屋にあったメモ帳……使ってたみたいだから、もしかしたらと思って調べてみて、書き損じか要らなかったのか、ベッドの下にあって、それ見て」
「そうか。よく調べたが、無茶だったな」
 直斗は口元を緩めると、凛子の背中をトントンと叩く。「無茶じゃないもん……」凛子が蚊の鳴くような声で呟いた。モンスターボールは腰のベルトに六つ、揃っている。恐怖で身が竦んで出せなかっただけだろう。
「あ、そうだ、探偵さん」
「何だ?」
 凛子は無理に笑顔を作ろうとして、唇を歪めてから、直斗に「この前の問題」と
言った。
「百匹のポケモンが飢えてたら、畑に種を蒔いて、モンスターボールに入って、春まで待てばいいのよ」
「新理論だ」
 直斗はまんざらでもなさそうに、笑う。どちらともなく、扉の方へ向かった。

 何が起こったのか、直斗と一緒に吹き飛ばされた僕にさえ、よく分からなかった。
 ただ気付いたら、ジムの奥まで数十メートルの距離を、一気に飛ばされていた。
 僕も衝撃で、直斗のところから飛ぶ。バトルフィールドの隅っこに落ちたサングラスに、誰も興味を払わない。
 直斗が、手酷くふっ飛ばされたにも関わらず、起き上がって凛子の身を案じていた。
 凛子は、出口側のフィールドの端で、泣きそうな顔で、固まっていた。慌てて出したらしい、六匹のポケモンが彼女を囲んでいる。直斗はそれを見て、安堵の息を吐く。だが、エンディングよりゲームオーバーの方がより身近な状況であることに、変わりはないようだった。
「かーごめ かごめ」
 フィールド中に、黒い霧が生まれる。
「かーごのなーかのとーりーは」
 黒い霧に、目玉が生まれる、口が生まれる。
「いーつ いーつ でーやーる」
 ポケモンの遺体からも黒い物が湧き出て、それも別の異形を成す。
「よーあーけ の ばーん に」
 壁に繋がれていた人々からは、金の仮面を持った異形が生まれる。
「つーるとかーめがすーべった」
 霧はそれぞれに合体し、より協力な異形を生み出す。
「うしろのしょうめん」
 そして、
「だー あれ?」
 首だ。

 素早い身のこなしでその場から跳んだ直斗だったが、それでも足りなかった。
 この“場”から生まれたゴーストポケモンたちに押さえつけられ、あっという間に動けなくなる。地面に這いつくばる格好の直斗の前に、一際大きな影が差した。
『ケラ ケラ ケラ』
 奇妙に笑い声を響かせながら、それは出現した。
「サマヨールか」
 異形の首、サマヨールは、『クス クス クス』と再び響く笑い声を立てた。
「答えろ」直斗が叫ぶ。「お前らは、一体何をやっている?」
『オホ ホ ホ ホ』
「答えろと言っている」
『ウ フ フ アハ 見て分からない?』
 サマヨールは、一つしかない目で、うっとりの辺りを見回した。黒い霧でほとんど視界のないそこに、さも美しい偶像でもあるかのように。
『人間をつかまえてー オスとメスを同じ箱に入れてー しばらく放置しました
 人間たちがいつもやってることじゃない?』
 霧の向こうで、息を飲む音がしたような気がした。
 直斗は、サマヨールの目を真っ直ぐ見て答えた。
「赤子を産ませて、人身売買か」
 がん、がんと霧の向こうから大きな音がした。相変わらず、霧が濃くて姿が見えない。凛子は何をやっているんだ?
『フ フ フ あなたみたいな殿方は嫌いじゃないわよ?』
「ポケモンの遺体は何に使った?」
『クス クス クス』
 また、霧の向こうから大きな音。一体、何をやっているんだ?
『なあーん に も 本当はポケモンを飼育係にしようとしたの でも だ め ねえ すぐ 傷んで ゴーストポケモンに なっちゃう もーん』
 サマヨールの体を覆う包帯が、ボロボロと剥がれた。中から小さな、しかしもう原型をとどめていないポケモンの遺体がこぼれ落ちて、霧の中に消える。サマヨールは包帯を巻き直すと、『ケ ケ』と笑った。
『ほかーに 質問は ないかしらあ?』
「昏睡状態に陥った人間たちがいるな。あれは何の為だ」
『ウ ク ク ククククウククウク』
 一頻り奇っ怪な鳴き声を上げた後、サマヨールは愉快そうに答えた。
『人間だってするじゃなあい? 厳選 あれは 要らない 個体』
 サマヨールは顔をぐいと直斗に近づけた。『でも あなたは 優秀な 個体 かも?』サマヨールは、弦をバラバラに弾くような、奇っ怪な笑い声を上げた。そして、大きな手を直斗に伸ばす。直斗の顔が一瞬苦痛を堪えるように歪んだ。
 ――綺麗な目してるじゃねえか。
 駄目だ、直斗に触るんじゃない。僕は焦る。でも、声が出ない。出せない。僕は物だから、声を出せない。出しちゃいけない。動いちゃいけない。僕はいつも、間違いを選択してきた。
「ミーム」
 直斗の声。
 君は、誰を呼んでいるんだ。
「ミーム、助けてくれとは言わない。ただ、許してくれ」
 手が近付く。下卑た笑いが聞こえる。やめて、直斗に触らないで。
「いつもお前に頼って重荷を負わせていた。俺は見捨てられて当然だ。だから、ミーム」
 あのクズみたいな男の目が、サマヨールの手が僕の頭の中でグルグル回る。なんだよ、幸福の量はどれだけカツカツなんだ。僕らは幸せになっちゃいけないのか。僕と直斗は。
「変身を解いて、こっから凛子を連れて逃げろ。あんただけでも、幸せになればいい」
 違う。
 僕らは、本当は。そんなことを、願ったんじゃない。

 思い出した。


 熱いくらい眩しい光が、黒い霧のフィールドを照らし出した。
『ヤメロ』と叫びながら、サマヨールは空中で身を捩った。
「やめるもんか」
 僕のレパートリー中、最強の変身であんたらを終わらせてやる。
「直斗に手を出した罰だ」
 聖なる炎が、サマヨールの包帯を燃やしていく。
 世界中の弦を一斉に打ち鳴らしたような、凄まじい音を立てて、サマヨールが燃えていく。
『ク く や しい』
 燃える。サマヨールに中身はない。燃え尽きる。そうして、終わると思っていた。だが。
『これ デ おわる モノカ』
 サマヨールの赤い目が僕を見る。その瞬間、僕の脳みそを直接揺すられたような衝撃が走った。僕は空中で投げ出され――変身が解けていた。
 今のは怨念、か。それもとびっきり強力な。僕の中の技を使う力を、一気にゼロにしてきたらしい。そうすると、僕は変身できなくて、落ちる。
「ミーム」
 差し出された手の中に落ちた。ぺしょ、と間抜けな音が鳴る。久しぶりの感触。
「直斗」
 声帯の作成くらいは、まだ出来るらしい。もっと直斗の名を呼びたい。もっとその手で撫でていてほしい。でも、それどころじゃないみたいだ。
 直斗は僕を抱えたまま、後ろに下がる。さっきより大きな影が、建物の中に生まれていた。
 サマヨールの進化形、ヨノワール。
 さっきのサマヨールが、進化したようだ。燃え残りの包帯を払う。ばかりと腹が開く。世界中の嘲笑を混ぜ込んだような不快な声が、そこからジム全体に響いた。赤い一つ目が見開かれる。直斗がとっさに目を腕で覆うが、遅かった。
「直斗、くろいまなざし!」
「知ってる」
 これで、僕らがここから出るには、こいつを倒すしか方法がなくなってしまった。
「デュナミス、波乗り」
 シャワーズが声を上げて、水のうねりを生み出した。周囲に集まってきた雑魚ゴーストを、これで一掃する。だが、キリがない。まるで、無限に種を蒔いたかのように、フィールドから、ぼこぼことゴーストポケモンが湧いてきている。きっと、この地に恨みつらみが染みこんでこうなったんだ。
 周囲に集まってきたゴーストポケモンたちに、シャワーズが再度波乗りを仕掛ける。キリがない、と直斗も呟いた。
「凛子! お前だけでも先に逃げろ!」
 直斗は入り口の方向に向かって、そう叫んだ。
「嫌よ!」すぐさま返事が帰ってくる。
 凛子は自分のポケモンたちに周囲を守らせて、扉に何かしていた。十徳ナイフで、蝶番を何度も叩いていた。
「何その、自己犠牲カッコイイみたいな! 幸せの最大値とか小難しいこと言って、ばっかみたい!」
 凛子は叫ぶ。叫びながら、ナイフを打ちつけた。
「最大値があるなら、それを増やせばいいんでしょうが!」
 蝶番が、割れた。
 すぐさま彼女のキノガッサが掛け寄り、残りの蝶番を壊す、そして、扉を外した。
「最初からキノガッサでやれ」
「馬鹿で悪かったわね!」
 彼女は直斗に噛み付いてから、バトルフィールドから外へ続く廊下へ飛び込んだ。どうやら、そこにはゴーストポケモンたちは入れないらしい。
 凛子が、外側の扉に手を掛ける。扉を開く。
 太陽の光が、流れ込むように建物の中を満たした。
 と同時に、ゴーストポケモンたちの断末魔の声が、地面から吹き上がった。思わず耳を塞ぎ、耐える。たった数秒間の出来事。でもこの数秒間、僕は、まるで地獄の亡者たちの声の千年分、濃縮して聞かされているようなおぞましさを感じていたのだ。
 地獄のような数秒間が過ぎ、辺りは陽光に照らされた。
「勝ったなあ」
 殆ど落っこちるみたいに、直斗は仰向けに倒れた。僕を抱いたまま。空と、当たり前の廃墟が見えた。割れた窓から光が差し、蔦がたらりと伸びていた。昼だったのだ。さっきまで夜のように暗かったのが、嘘みたいだ。
 直斗と凛子を呼ぶ声が、外から聞こえてきた。「すいません、何故か鍵がかかってて」光一の声だ。「この建物の上に、暗雲が垂れ込めてたよ。扉を凛子嬢が開くと同時に、それが雲散霧消してね!」夏輝がいいものを発見した、と言う風に声を弾ませている。
「私、今回役に立たなかったなあ」
 一匹で落ち込んでいるのは、リグレーのイドラだ。
「気持ち悪い、って怖がってたから」
「置いてかれちゃって、可哀想に。そんなの、置いてく奴が悪いんだから」
 本物の怨嗟が混じった声でリグレーを慰めている凛子。
 そして、直斗。
「海原さん?」
 光一、夏輝、凛子の三人が交互に呼びかける。
「ちょっと、運ぶの面倒なんだから起きなさいよ」
 凛子が直斗の手を突く。しかし、直斗はピクリとも動かない。
 三人とポケモンたちは、互いに顔を見合わせた。

「最近顔色悪いとか調子悪いとか言ってたから、本気で心配したのよ? 何、結局お腹空いてただけ?」
「心配したのか」
「してません」
「今さっき」
「一瞬だけ!」
 散々うだうだ言っていた凛子も、光一と夏輝の二人に「他の人に迷惑だから」と窘められて、病室の外に退散していった。「やれやれ、やっと静かになった」直斗が身を横たえる。「静かがいいなら、僕は黙っとこうか」「好きにしてくれ」直斗が目を閉じる。じゃあ、好きにしよう。僕は直斗にそっと寄り添って、どうでもいい話をする。

 昏睡事件の被害者は、あれから皆、目を覚ました。今回の昏睡はポケモンでいう、極度のパワーポイント不足に当たるのではないかという推理がなされ、そしてその通り、被害者たちはヒメリの実を食べさせれば目を覚ましたらしい。あの場所で、恨みや怨念に散々当てられたのだろう。被害者は、ポケモンの闇取引という儲け話につられて来た人が大半だったそうだ。私立ジムに挑戦しようとした旅のトレーナーもいたけれど、それは少数だった。それと、野生のポケモンが加害者だったから、保険で補償されなければ、泣き寝入りするしかないようだ。
 今回の事件の真の被害者、人身売買に利用されていた人たちは、今、色んな組織が協力して、身元を特定している。でも、旅のトレーナーが多いみたいで、難航しているそう。赤子の方の行方は、悲しいけれど、もう分からないだろうということだ。
 夏輝と光一は相変わらずいい連中で、直斗のお見舞いによく来てくれる。その一方、データ集めのとデータ解析の鬼才の名コンビ誕生かと、ある方面から期待されているらしい。しかし、夏輝は未だに揉め事を起こす天才でもあるそうで、直斗はまだ彼女のことを心配している。
 直斗は倒れたついでだからと、精密検査を受けることになった。結果が出るのはもう少し先だ。よく考えてみたら二日近く食事をしていなくて、低血糖状態になっていたのだった。ちゃんと食べなさいよ、と凛子には散々、説教された。
 その凛子だが、後で聞いたら、なんでも事件被害者の安藤といい関係だったらしい。僕が見る限り、安藤は格好良くないし、楽して暮らせればいいやみたいな人間で、そんなんだから闇取引に引っかかるのだが、何故凛子と付き合っていたのか分からない。凛子は、ヒモ男に吸い寄せられるタイプなのだろうか。そうなるとこれから、心配しなくちゃならない。
 そう、直斗は凛子に、自分が父親であることを打ち明けた。……のだが、結果は「知ってた」という惨憺たるものであった。凛子は、父親が黒髪で、青い目で、イケメンで、名前が海原直斗であることを、母親から聞いて知っていたそうだ。だったらあの手の込んだ占いカードはなんだったんだというと、直斗から言ってほしかったのだと。
 それから、リグレーのイドラのこと。イドラはポケモン用車椅子の訓練をすることになった。そうすれば、今よりもっと上手に、念力で移動出来るようになるのだという。僕としては、直斗にあまり世話をかけなければ、それでよい。
 そして、僕のこと。
「思い出したよ」
「そうか」
 直斗は、それだけ言って、再び目を閉じた。「もう、“物”でいいなんて言うなよ」そう、僕に言い含めて。
 僕も目を閉じた。
 昔から、僕はちょっと変なメタモンだった。部分的な変身が得意で、声帯模写も得意。だから、そんな僕が直斗と出会えば、彼に変身してみようと思うのも、当然のことで。
 はじめはちょっとした気持ちで始めたことが、途中から、直斗が言い寄られたり、迫られたりすることから庇うことになって、そうやって近付いてくる人を傷つけることになって、いつの間にか、僕はミームとして傷つけたのか直斗として傷ついたのか、分からなくなっていた。それが、塔のことがあって、僕は、直斗が傷ついていたことを盾にして、他人を傷つけていたのだと知った。だから、何も傷つけない“物”になろうと思った。でも、それが却って直斗を傷つけて、けれども僕はポケモンに戻ることもできなくて、僕らは一緒に手に入るはずの幸せを目減りさせていた。でも、そんな後悔も贖罪ももう終わり。
 これからは、もっと心安く過ごせる。最初のきっかけを、思い出すことが出来たから。
 ――僕が直斗に変身したら、僕らの幸せは二倍になる。
 たったそれだけの、僕らの変身の方程式。
 とても簡単な、幸せの最大値の増やし方。


  [No.1109] [息抜き掌編]主人が寝てる間の、私たちの日常 投稿者:咲玖   投稿日:2013/06/01(Sat) 15:29:59   54clap [■この記事に拍手する] [Tweet]



 事件が立て込んで、久しぶりの非番になった。
「さあ行くぞ」と言うその人に尾を振り、横を歩いて、近所の公園へ。
「ここしばらくが嘘みたいに、平和、って感じだなあ」
 私の主人はそう言うと、ベンチに座ってうたた寝を始めてしまった。ここ数日は寝たのか寝てないのか分からないくらい、激務だったし仕方ない。私は公園を適当にうろつき回って、勝手に遊ぶことにする。今日は人が少ない。平日だったっけ。警察官のポケモンなんてやってると、曜日感覚が怪しくなるわね。
「フレちゃん、やっほお」
 馴染みの声がした。パタパタ尾を振ってやってきたのは、私と同じガーディのアマテラス。私は警察犬だけど、アマテラスは愛玩犬。特にバトルも訓練もしていないらしく、アマテラスは足も体も細くて、貧弱な体つきをしている。一匹でフラフラ歩いていると、浮浪者みたいだ。
「あれ? 貴女、今日は一匹なの?」
「うん。ひとりで散歩してたらね、迷ったー」
「今時、一匹でフラフラ歩いてたら、野良と間違われて保健所行きになるわよ」
「保健所? ちゅうしゃするの?」
 じゃなくてね……
「わーい、イカー!」
 私が説明しようとした先から、アマテラスは空を飛ぶマンタインを追いかけて走り去ってしまった。
 イカじゃなくてせめて凧、そもそもエイ、と思ったが、追いかけてツッコむのも面倒なので諦める。保健所の心配はあるけど、アマテラスなら大丈夫そうな気がするし。

 私は公園で適当に遊ぶ。飽きてきた。主人はまだ寝ている。熱中症になってないか、時々確認。
 次に公園に来たのは、エーフィのサン。「いい天気ね」と言って、尻尾をゆらゆらと揺らす。
「今日、曇りだけど」
「悪くなければ、いいのよ」
「あ、そう」
 それから互いの主人のことを話す。
「こっちは相変わらず」私はベンチで寝ている主人を鼻先で指す。「そっちはどう?」
「相変わらず、お金にならない事件を解決して、勝手に心を痛めてる感じかなー」
「うわー……手厳しいね」
「そう?」
 サンは尻尾を揺らしながら、公園の植え込みの方を見た。
「私の主人が心痛感じてることで、私も一緒に心痛めても、仕方ないじゃない? 同情は私の主人にしか出来ないことだし、私は私で、別に心痛感じることがあるし」
「たとえば?」
 彼女は独特の倫理観の持ち主のようだ。私は主人が悲しそうなら、寄り添ってあげたいと思うんだけど。
 サンは「ん?」と首を傾げると、植え込みを顎でしゃくった。
「たとえばねえ、あそこの桜の木の下に絞殺体が埋まってるんだけど」
「え」
「好きな人に絞め殺されちゃったのよ。可哀想に」
「え、え」
「という幽霊に同情したり、時には力技で成仏させたりするんだけど」
「掘り出してあげて」
「それもいいんだけど、私の主人も仕事が立て込んじゃって、心が擦り減ってるのよねえ。私が掘り出すと巻き込んじゃうから、だから、もうちょっと先でもいいかなって」
 私は恐る恐る、植え込みを見た。「あー、難しいと思うよ。ちょっと見つけにくい場所に埋まってるから」
 サンはふわ、と欠伸をする。
「まあ、気が向いたら掘り出してあげて」
「サンは?」
「その内」
 そして、サンも公園を出ていってしまった。
 植え込み、桜の木の下。幽霊なんて見えないんだけど、いないよね?
「ちょっと掘ってみるか……」
 見つからなかった。埋め直して、主人のところへ戻る。主人はまだ寝ていた。

「フレイヤ、今日は非番か?」
 上空から声が振ってきて、私は空を見上げる。
 木の枝にとまっていたのは、手紙を抱える伝書ポッポ、サイハテ。
「そうよ。サイハテは仕事中? ご苦労様」
「私が好きでやっていることだから、苦にならないさ」
 手紙を器用にまとめて持ち直すと、「そっちはどうだ?」と聞いてきた。「普段通りよ」私は答える。「そっちは?」「相変わらずさ。手紙を持って行ったり来たり」
 サイハテは羽繕いをした。「そうそう」と口火を切る。
「前にとった弟子が、またちょくちょく顔を出すようになってね。カメラが好きなのか、私も何枚か撮らせてくれと頼まれた」
 弟子って、サイハテの主人の弟子か。
「で、撮らせたの? ダンディに撮れた?」
「悪くない。だが、私が飛び立つところを撮ろうとして、ブレた写真を量産しなくともよかろう」
 サイハテは理解に苦しむ、という様子で首を傾げたが、私には分からなくもない。空を飛んでる鳥ポケモンたちを見ると、なんとなくいいな、って思う。
「では、そろそろ次の目的地へ向かうとするよ」
「配達ご苦労様。ところで、前から気になってたんだけど」
 サイハテは広げた翼を畳み、「ふむ」と頷いた。
「サイハテの運ぶ手紙って、切手がないのと、切手だけあるのと、切手と消印両方付いてるのが交じってるよね。なんで?」
「企業秘密だ」
 飛び去っていった。

 いや、それは駄目だろう、と心の中でツッコミを入れ、再び主人の元へ。うん、生きてる。
 公園の入口の方から、車輪の音が聞こえてきた。車椅子に乗ったリグレー、イドラだ。
 イドラは片手を上げて、私に近寄ってくる。ポケモン用車椅子を器用に念力で操っている。
 彼女には足がない。昔は人間の主人に移動を頼りきりだったが、今はこうして訓練をして、自力で外出するまでになっている。ところで、エスパーポケモンなんだから念力で浮かんで移動できないの? と聞いてみたけれど、「君も、足を切られたら動けないでしょ? それと同じ」と顔をしかめられてしまった。
「今日は非番なの? お勤め大変だねえ」
「そっちもね」
「こっちはもう、辞めたからね」
 イドラはすっと浮かぶと、ベンチで寝ている私の主人を見た。車椅子という足代わりがあると、念力でも問題なく移動できるらしい。「寝てるね」と言った。
「そう」
「疲れてるんだね」
「たまにはね。そっちはどう?」
 私の質問の何が悪かったのか、イドラはブルリと体を震わせた。
「もう、無理」
「え、何が?」
「ミームキモい。マジキモい。キモすぎ」
 あ、何だ、そのことかと私は安堵する。ミームは、イドラと主人を同じくするポケモンだ。イドラのミーム嫌いはいつものことで、私はイドラの「ミームキモい」を二百回から聞かされている。
「あ、鳥肌立ってる」
「もう聞いてよ! この前なんか、主人の枕に変身しててさあ」
「地球外生物でも鳥肌って立つんだね」
「そうよ。地球外生物といっても地球で代重ねてるから鳥肌くらい立つわよ。じゃなくて!」
 そしてイドラのミームキモいが始まる。
「前はペンがないって言ったらペンに変身してさあ」
「献身的だ」
「パンがなかったらパンに変身するしさあ」
「文字通り身を捧げたね」
「食べてないよ!」
「食べてたら、君のミーム談義も終了してるね」
「っていうかなんであんな四六時中べったりしてるの!?」
 それは……知らん。
「っていうかていうかていうかうわあああ思い出すだにキモいいい!!」
 何か決定的なことでもあったのだろうか。イドラは車椅子を加速させて、その場でキュインキュインと回り始めた。地面が削れる。
「あ、でも」止まった。
「……」
「……」
「でも、何なの?」
 イドラは目をぱちくりさせて、私を見つめた。
「ごめん」
「何が?」
「『でも』でミームの長所を挙げて、いい話で終わらそうとしたけど、思いつかなかった」
「仕方ないね」
「こんなことなら、主人に引き取られなければ良かった……」
「そこまで言うか」
「っていうか物に徹して一言も喋らなかった時の方がマシだった」
「もう一回、トラウマ発動させて黙らせれば?」
 ミームはとある事件の後、変身もろくにしなくなった時期があった。イドラは他人の脳内に直接イメージを送る力があるらしいから、頑張ったら出来ると思うけど。
「あー、いや、そこまでは」
「そう?」
「やってもいいけど、主人がね」
「ご主人のことは好きなんだねえ」
 双方、黙る。私は口を開いた。
「嫉妬?」
「違う!」
 聞いてもらったらスッキリした、と言ってイドラは去っていった。念力で空中を滑る。空中移動の時でも、車椅子の車輪が回るのね。足がないと、と言われた意味がちょびっとだけ分かったような気がする。

「よう、フレやんか」
 次にやってきたのは、シャワーズのデュナミスだ。一時期コガネシティにいたからコガネ弁らしい。その後、イッシュ地方に渡航したにも関わらず、コガネ弁が抜けなかった。ある意味剛の者だ。
「今日非番か? 今日もべっぴんさんやなぁ」
「便所臭い近寄らないで」
 私が言うと、デュナミスはショボンとヒレを垂れさせた。
「綺麗に洗ろてんけどなぁ? まだ便所臭い?」
「臭いわよ」
 あんまりにも彼が落ち込むので、一応、「シャワーズよりガーディの方が嗅覚いいから、その所為もあると思うけど」と補足する。
「そやな。今度からもっと気張って洗うわ。ところでなぁ、聞いてえや」
「何?」
「おれまた便所に流されてしもてん」
「……あっそ」
「ちょっと、真面目に聞いてえや」
 デュナミスが尻尾をバタバタと振った。
「おれなぁ、仕事で便所のタンクに入って、聞き耳立てとってん」再利用水がなければ、便所のタンクに入っている水は綺麗なのだろう。水は。
「ほら、人ってトイレ来ると気ぃ緩んで、色々喋るやん? せやけどな、油断して」
「油断しなければいい」
「そない言うたかてなぁ」
「ま、デュナミスも頑張ってると思うよ」
 私がそう言うと、デュナミスは顔を上げて、目をキラキラ輝かせた。
「ホンマ? フレに言われたら説得力あるわぁ」
 そう言って笑う。
「ほな、近場の川行って、もうちょい体洗ろてくるわ」
 デュナミスは尻尾をバタバタ振って、公園を出ていった。

 主人はまだ眠っている。私も一眠りした。誰かのキノガッサが来て、自分の腕がどこまで伸びるか、実験していた。電線まで腕を伸ばして、タッチして感電してぶっ倒れて、しばらくして這々の体で帰っていった。何だったのか。

 夕刻、首から買い物袋を提げて、ヘルガーが公園の入口を横切ろうとしていた。
「ヘル!」
 私は声を上げる。ヘルガーがこちらを向く。やっぱり彼だった。
 ヘルは私の方へ歩いてきた。横目で私の主人を見る。「今日、非番か?」
「うん。ヘルは時間大丈夫なの?」
「ああ」
 私は首を伸ばして、買い物袋を覗き込んでみた。特売のシールがでかでかと貼られたお肉に、ネギ、トマト、ブロッコリー、ホウレンソウ……
「何作るの?」
「トマト鍋」
「ふうん。美味しいの?」
「まあ、」
 ヘルは横を向いた。
「作る人が作れば……」
「……」
「いや、あれから料理も上手くなったから……」
 大方、ホームパーティーの時のことを思い出しているのだろう。仲良し同士の集まり、密かに思いを寄せている男の人も来ている。そういう時に限って、失敗をやらかしてしまったのだ、彼のご主人。
 私もそのパーティーには呼ばれたので、よく覚えている。全く食えないわけではなく、食えるけどものすごく不味いゲテモノと化した料理を、想い人が黙々と始末していた。他人事ながら、思い出す度に胸が痛む。
「うん、まあ、お料理頑張ってね?」
「オレの主人がね」
「うん、そう」
 じゃ、そろそろ行くわ、と言ってヘルが後ろを向く。尻尾をヒュンと振ったのを見て、私はもう一つ、尋ねようと思い立つ。
「サンとの仲はどうなの?」
 ヘルは振り返って、ニカッと笑った。
「順調!」
 そして、ヘルも去っていった。

 日が落ちた。
 皆、結構一匹でフラフラ出歩いてるのね。よく保健所送りにされないなあ。
「やっほお、フレちゃん」
 アマテラスが戻ってきた。あちこちに泥を付け、頭の上には葉っぱを乗せていた。
「どこまで行ってきたの?」
 んー? とアマテラスは首を傾げる。
「イカを追っかけて」
「エイね」
「橋を渡って」
「うん」
「隣の国に行って」
「多分、違うよ」
「大きなポケモンさんに会って」
「うん」
「くんりゃんづんしゅの枝を探して」
「……へえ」
「その途中で大きなイカさんと仲良くなって」
「……」
「宇宙に行ってきた」
 夢でも見てたのね。
 アマテラスは「わーい」と言いながら、くるくる回ってその場でコケた。しかも、回るスピードも大したものじゃなかった。彼女は天性の運動音痴なのだろう。
「そういえば」
「なに?」
「アマテラスって、バトルはやったことあるの?」
 貧弱な体つきで、見るからにバトルは不得手そうだが、経験はあるのだろうか。
「あ、フレちゃん優しいから好きだよ」
「え? ありがとう」
「バトルねえ」
 アマテラスは首を傾げて横に転んだ後、「分かんない」と告げた。
「やったことないの?」
「んー、技は使えるよ」
 そりゃあ、技の一つは使えるでしょうが、と思いつつ、「どんな技」と一応聞いてみる。
「ひのこ、かえんぐるま、ほえる、あと、にほんばれ」
「へえ。やってもらってもいい?」
「いいよ」と言って、アマテラスはひのこの構えに入る。運動音痴だけど、実は炎の扱いがすごかったりするのかもしれない。
「ひのこ」
 一瞬、アマテラスの口元に光が見えた。炎の舌らしきものが、ちょろっと。
「今の?」
「うん」アマテラスは頷くと、「次、かえんぐるま」と言ってでんぐり返りした。いや、返れてない。半回転したところで止まって、四肢をだらーんと伸ばしている。
「ええと、真面目にやってる?」
「周囲に被害を及ぼすといけないから、適度に力を抜いてやってる」
 抜きすぎ。
「ほえるのはどう? これなら被害は及ばないでしょ」
「んー」アマテラスは口を開くと、「ひょおん」と鳴いた。
「……めんどくさい」
「あっそ」
 この子、バトルできるのだろうか。ご主人に危機が迫った時とか、一体どうする気だろう。アマテラスがよい子なのは知っているけど、やっぱり同じガーディとしては、不測の事態に備えて日頃から自分の技を磨いていてほしいなあ。
「にほんばれは得意だよ。見る?」
「うん。見せて」と私は言った。にほんばれは、大きめの火の玉で擬似太陽を生み出す技だけど、さっきの火力を見るに、大したものは期待できそうにない。
「じゃ、いくよ」
 アマテラスは四肢を踏ん張ると、ウォ――――ン、と高く長く鳴いた。
 やろうと思えば普通に吠えられるのだな、と思ったのも束の間。
 光の束が落ちた。空からはかいこうせん、だと思った。
「アマテラス」と呼ぶが、眩しすぎて何も見えない。上空に目を逸らした。光の束が雲を貫いていた。そして、上下方向と平面方向に収縮する。眩しさはそのまま。雲より少し下くらいの高さに、真っ白く発光する楕円体が生み出された。
「ねーねー」
 アマテラスがひょこひょことやってきた。
「どう?」
 どう? ではない。何をどうやったらこうなるんだ。
「もっと頑張った方がよかったかな?」
「もう結構」
 地球の気候が変動してしまいそうだ。
「おお、明るっ」
 私の主人が目を覚ました。そして、「今、昼か、夜か?」と言った。困惑するのも分かる。時刻は夜、だが、アマテラスの所為でこの公園は昼みたいに明るい。
 私の耳が、遠くから近付いてくるサイレンの音を捉えた。私は主人の服の裾を引く。
「ん? そうだな。そろそろ帰るか」
 公園を出たところで、「一日、寝て過ごしっちまったなあ」と主人は伸びをしながら言った。そして、「おー、アマテラスじゃないか?」と言って、私の後ろに付いてきたガーディを撫でてやっていた。アマテラスもニコニコして、「えへへー」などと言って照れている。
 私は主人の服を噛んで、引っ張る。「おお、悪かったなあ、フレ。一日ほっといちまって」いや、色んなポケモンが来たのでそれはそれで楽しかったのですが。今は、騒ぎに巻き込まれたくないから急いでいるだけだ。
 家路を急ぐ。途中、サイレンの音が公園の近くで止まったらしいのを耳にした。
「ねえねえ!」
 知らない人に話しかけられた。それでも、主人は嫌な顔一つせず、「どうしました」と問う。
 知らない人は、私たちが今しがた来た方向を指差した。
「あれ、UFOでしょうか?」
 後ろを振り返って見る。アマテラスのにほんばれが、確かに、UFOっぽく見える。主人は今気付いたらしく、目を丸くしていた。
「あっちから来ましたよね? 何かありませんでした?」
「いや、気付かなかったなあ。明るいなあ、とは思ったけど」
 本心からそう言って、主人はしげしげとUFOを眺めていた。
 そうしている内に、近くの家からも野次馬が出てきて、頻りに写真を撮ったりしていた。
 私はアマテラスを小突く。
「一体あれ、どうやったの?」
「頑張った」
 私は頑張っても、あれは出来ない。
「ほら、アマテラスだけに」
 意味が分からない。

 あの後、アマテラスを家に帰してから、私と主人は自分の家に戻った。
「昼間あんだけ寝たから、眠れんなあ」と言って、主人はずっと前に買ったDVDを見ていた。これから盛り上がるというところで、主人のケータイが鳴った。頷いて電話を切った後、主人はスーツに着替えて外出の準備をした。どうやら、呼び出されたらしい。
「UFOのことで市民から問い合わせが相次いだから、調べるんだとよ」
 ……折角の非番なのに、仕事増やしちゃった。
 主人はしゃがみこむと、私の首周りをわしゃわしゃと撫でる。「確かにあれ、すごかったもんなあ。なあ、フレ。お前、何か知らないか?」
 知ってるけれど伝えられないし、言っても信じてもらえないと思うので、私は無邪気に首を横に振った。

 〜

 殺伐としてきたので、息抜きに。まだ出ていない奴が混じってます。くんりゃんづんしゅ、特に意味は無い。


  [No.1118] 光の時代 #0〜#3 投稿者:咲玖   投稿日:2013/06/23(Sun) 18:28:42   46clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
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 『光の時代 #0〜#3』には『光の時代#0〜#2』の加筆修正が含まれます。お手数ですが、こちらからお読みください。作者の力不足で、手間をお掛け致します。

 『#0』『#1』はそのままの内容となります。
 『#2』は大幅な加筆修正があります。
 『#3』は舞台が『十月』→『八月』、とある日付が『五月五日』→『四月二日』になっている他に、大きな変更はありません。
 つまり『#2』だけ読めば、はい、ごめんなさい。お手数をお掛けします。


 #0

「今日はポケモンリーグのナイターあるんだよなあ」
 カラカラと乾いた音を立てて、自転車の車輪が回る。押しているのは、歳若い、青い制服に身を包んだ男。警察官だ。
「四月になったのに、まだまだ寒いよなあ。こんな夜は、家でテレビでも見ながら」
 話を聞いていた彼のコリンクが、咎めるように一声鳴いた。
「はいはい。真面目に見回りするよ」
 一匹のニャースとすれ違う。野生だろう。男は曲がり角に来て、自転車の頭を右へと向ける。何かの足しに、と点けていた自転車のライトが、振れた折に何やら見慣れない、赤く光るモノを捉えた。
「コリンク、フラッシュ」
 男がコリ、まで言ったところで、警察ポケとして訓練を受けているコリンクは全身を発光させた。コリンクは光の向きを調整し、さっき一瞬だけ見えたモノへ百ルクスの光を投げかける。警察官は制帽の鍔を摘んで、無意識に向きを直していた。
 コリンクが作った光の円の中。茶色い動物が蠢いていた。浮浪者、と男は思う。旅に出たトレーナーが食いっぱぐれて落ちるところに落ちてしまうというのは、よく聞く話であった。「おい」と誰何しようとした矢先、茶色いモノの眼が、コリンクの作る光を見返して、真っ赤に光った。赤目現象。さっき光ったのはこれか、と結論付けると同時に、男はそれが獣の眼であることを直感する。
 自転車のスタンドを蹴って手を離す。コリンクの光度が上がって、やっとその細部が見えた。二叉に分かれた冠羽と、その下で光る大きな眼。茶色の胴には、一際濃い茶色で逆三角の模様が並んでいる。
 ヨルノズク発見、と警察官は心の中で呟く。署に一報を入れるべきか? まだ分からない。迷い込んだ野生ポケモンなら、そのまま放っておけばいずれ帰るし、トレーナーの手持ちなら持ち主を探すべき。考えあぐねている彼を促すように、コリンクが一声鳴いた。その声に諭されて、男はヨルノズクを見る。
「怪我してるのか」
 さっきから、そういえば様子がおかしかったのだ。ヨルノズクは一向に飛び立つ気配もなく、身を不自然に震わせている。風邪でもひいたのかな、最近寒かったし……。そんなことを思いながら、緊張を解いた彼が装備の傷薬に手を伸ばした瞬間、赤い光が三度、夜の町を走った。
 途端、ヨルノズクを照らしていた光が引き、消える。男の隣で、コリンクがばったりと横ざまに倒れた。男は舌打ちしながら、傷薬に伸ばしていた手を、眠気覚ましへ滑らせる。さっきの赤い光は赤目現象などではない。催眠術だ。
 茶色いモノのシルエットが、ぶわりと膨れ上がった。マントを翻したように。しかしマントではない。翼だ。ヨルノズクが飛び上がった。
 警察官は片手で眠気覚ましをコリンクに投げつつ、もう片方の手で無線機を取った。遭遇時点から催眠術を三度使用してきたヨルノズク、敵意あり。しかし、ヨルノズクの爪と無線機が激突して、哀れ無線機は冷たい道路へ投げ出された。機械は無事だが、マイクと無線機本体を繋ぐ線が今の一撃で切れた。
「くそ、コリンク!」
 しかし、通信が切れたとなれば、本署も動くだろう。それまで持ちこたえるか、あわよくば、この場でヨルノズクを取り押さえる。男がコリンクへの指示を出し終わる前に、小さな電気ポケモンは、その身に漏電から来る火花を纏わせて、地面に降りた茶色い影へと突進を繰り出していた。
 次瞬、バンと破裂音がして、警察官は自分の目を疑った。自分のコリンクが真っ茶色に染まって吹き飛ばされていく。泥かけ、という技の存在自体は聞いて知っていた。しかし、その技は、目眩ましをメインに据えて、出来ればダメージを与えようという技だったはずだ。相性が悪いとはいえ、警察ポケとして訓練されたポケモンが、飛行ポケモンの泥かけの一撃で、あんな凄まじい音を立てて飛んでいくものか?
 金属の加工工場に迷い込んだかのような不快音がして、隣に立っていた自転車が鉄くずになった。警察官は気付いた。様子がおかしい、なんてものじゃない。目の前のヨルノズクは……異常だ。
 荒々しい羽音を立てて、ヨルノズクが空に飛び上がった。コリンク、自転車と来て、次のターゲットは自分だ。引くべきか、留まるべきか、その一瞬の逡巡さえ無為だった。ヨルノズクが次に選択した技は“エコーボイス”。耳を塞ぐも空しく、不愉快な音の反響が彼の背骨を揺らす。彼はひっ、と小さな声を立てて、尻餅をついた。街灯の明かりを背に、ヨルノズクが嘴をもう一度開くのが見えた。エコーボイスは使い続けるとダメージが増える技。今度食らえばどうなるか、頭の中に最悪の可能性がちらついた。
 電柱を蹴って、小さな影が夜空へ飛んだ。夜のバトルステージに突如乱入した、三匹目。獣らしいシルエットの三匹目が何をやったのか、ヨルノズクの動きがピタリと止まる。乱入した獣は、空中でくるくると身を翻すと、華麗に地に降り立った。一声、にゃあ、と鳴く。ヨルノズクが急降下する。それを迎え撃つように、獣――ニャースが爪を出して跳びかかる。
 ヨルノズクは音もなく地に落ちた。男の目に、ニャースの足で光を弾く金色のタグが焼き付いた。


 #1

 出会いは、ありふれたポケモンカフェで起こった。
「あ」と小さな声がした。倒れてしまったアイスコーヒーが、注文を取ろうと立ち止まっていた店員のスカートに掛かる。
「すいません」
 コーヒーを掛けてしまった男性客は、おしぼりを素早く彼女に渡した。のみならず、会計の時に封筒を彼女に渡し、「じゃあ」と言って去ってしまった。封筒には金一封と、表書きに『クリーニング代』と綺麗な字で書かれていた。
 カフェの制服は洗いやすい素材だから別にいいのに、と思いつつ、店員はその男性客のことが、少し気になった。

 再会もまた、彼女が勤めるポケモンカフェで起こった。
 店員にアイスコーヒーを掛けてしまったのに厚顔かなと思いつつ、男性はそのカフェを利用していた。もっとも、それは杞憂であったが。
 アイスコーヒーを頼み、机の真ん中へ置く。そして雑誌を読み始めた男性の傍へ、封筒が差し出された。
「これ、この前のお返しです」
 封筒には、『クリーニング代 差額』と書かれていた。
 受け取って中を検めると、結構な額残っている。
「あの、すいません」
 男性は店員を呼び止めた。
「これ、迷惑料のつもりだったので、差額はそちらで使ってもらえれば」
「でも、そんなに。悪いですよ」
 封筒は二人の間で宙ぶらりんになる。ややあって、店員の方が口を開く。
「お詫びの印にすることで、真っ先に何を思いつきますか?」
「え? えっと。食事を奢る、ですかね」
「じゃあ、そうしましょう」
 店員は壁時計を見た。
「あと十五分でシフト終わりですから、それまで待っていただければ、予定を決められますよ」
 そう言って、バックヤードに下がっていく。
 男性客が、女性を食事に誘ったことに気付いたのは、彼女の姿が見えなくなってからである。思わぬ展開にドギマギしつつ、男性客はこう考える。差額をきちんと返すなんて、いい子だな、と。

 彼女と彼が話し合って決めた行き先は、そのポケモンカフェから少し遠くにある、ここよりちょっとお洒落で、ここよりちょっと値段の高いカフェ併設のケーキ屋だ。彼女と彼はそこで、お互い自己紹介していないことに気付く。
「柿崎凛子といいます。よろしくね」
「八坂智志です。よろしく」
 それから二人は互いのことを話す。好きな映画とか、手持ちのポケモンのこと。話し足りない分は、次回に持ち越した。そうして逢瀬を重ねて、手を繋いでキスをする間柄になるまで、そう時間はかからなかった。


 #2

「お前、付き合ってる奴がいるのか」
 師匠と仰ぐその男に言われた瞬間、八坂智志はコーヒーを取り落とした。コーヒーカップは幸いにも、ソーサーに受け止められて、大過なく済んだ。この前のアイスコーヒーみたいなことが、そうそうあっては敵わない。
「ちょ、ちょっと、えー……勘弁してください」
 メタグロスの赤い目が智志を見た。事務所で働くメタグロスで、名を飛石薫という。仕事に必要なのだと称して、過剰に紙を刷るのがトビイシの趣味なのであるが、何故か今に限って、印刷機が沈黙している。
 智志は片手に持ったソーサーに、コーヒーカップをきちんと置き直す。立ち上がってきた湯気を、ふ、と吹き飛ばした。
「何だかニヤニヤしてたぞ。どうなんだ?」
「うーんと、ノーコメントでいいですか?」
「ということは、いるんだな」
 窓の光を背に、嬉しそうに笑う中年男性。白髪に鷹の目、フリージャーナリストで智志が師と仰ぐ、真壁誠大である。もう二年近く前になるが、その時色々と目をかけてもらって、以来、事務所に出入りするようになった。今回は、働き始めての感想と、一年の大旅行を終えた成果の報告である。少なくとも、智志はそのつもりだったのだが。
 真壁は智志のカメラを机に下ろした。智志が旅行先で撮ってきた写真を、大方見終えたようだ。
「よし、じゃあ、吐け、若造。俺たちぐらいの年代に洗いざらい話して、それでもって恋愛のコツを聞き出すといい」
「結局自分が話を聞きたいだけですよね?」
「ばれたか。……しかし、お前が恋人とはなあ」
 肩を震わせる真壁の後ろを、智志は指差す。「ん? ああ、サイハテか。ご苦労さん」首に羽飾りを巻いた伝書ポッポが、封書の束を抱えて窓を叩いていた。
 智志はポッポを見て、嬉しくなった。ポッポが巻いている首飾りは、智志が旅の土産に買ってきたものだ。本来は魔除けの壁飾りらしいが、ああして使ってくれているだけで胸が暖かくなった。
 ポッポを事務所内に招き入れた真壁は、智志の表情に気付いたらしい。
「これか? 野生と区別するのに便利なんだよ」
 弟子の土産に対して、まるで気のない風を装っているが、本心は違うところにあるのだろう。野生と区別したいだけなら、足輪でもすればよいのだから。
「で、お前の彼女はどんな別嬪さんなんだ? さあ、言ってみろ」
「いや、それは……」
 渋っていた智志であったが、結局真壁の口車に乗せられて、自白することになってしまう。

 柿崎凛子という、同い年の女性のこと。
 名前の通り凛としていてる、ホウエン地方出身の女性。智志は引っ張られることが多い。男性としてちょっと情けないが、ついでに彼女の方がバトルも強い。
 なんでも、大学を一年休学して、父親探しのついでにポケモンを鍛えたそうだ――と、これは言わずにおいた。
 だから、彼女は去年大学を卒業して、今は父親を発見したこの地方でバイトをしながら、就職先を探しているという。こちらに根を下ろすつもりかと尋ねたら、彼女はそのつもりだと答えた。「こっちにいい人もいたし」ということだそうだ。
 意味をよく飲み込めないでいる智志に、凛子は頬を寄せた。彼女の釣り目がちな目が、焦香色の虹彩が、目近に見えた。
「あら、あたしは遊び?」
「違うよ、もちろん」
 挑戦的な目に、智志はタジタジになる。

 智志は熱いコーヒーを一口飲んで、彼女の目の幻影を振り払った。
「結婚とか、真面目に考えとくべきなんですかね?」
 智志はカップの縁についたコーヒーを指先で擦った。
「焦って考えることはないぞ。それと、結婚ってのは目標じゃない。結果であり通過点だ。それを間違えると俺みたいなことになるぞ」
 真壁はそう真面目に答えたかと思えば、
「というか、モラトリアム小僧が事を急いたりしたら、気味が悪い」
「そのあだ名、まだ有効なんですか」
 茶化す。しかし、智志もやられっ放しではない。
「真壁さんって、結婚されてたんですか?」
「離婚には成功した。これ以上は言わん」
「聞かせてくださいよ。ほら、後学の為に」
 智志のしつこい追及に、真壁も兜を脱いで、自身の結婚生活の断片を話す。しかし智志も無傷では済まず、いつかはその自慢の彼女に、結婚式の時でもいいから会わせろと、そう約束させられる。

「ああ、それから、写真も面白かったぞ。旅の話も、またしてくれよ」
 そう言って、真壁が智志にカメラを手渡した。智志の大事な品だと心得ている所為か、手付きがぎこちない。智志はカメラを受け取ると、いつも通り、首に提げた。
「ありがとうございます。あの、いいと思った写真とかって、あります?」
「俺に写真の良し悪しは分からんぞ」
 真壁はそう言ってから、鷹のように鋭い瞳をカメラに向けた。まるで、中のデータを見透かしているかのようだった。
「そうだな。一瞬ぎょっとしたけど、女の子が虫を食ってるやつ」
「あれですか」
 智志は手元のカメラを操作して、その写真を出した。
 カメラのレンズに向かって、肌の黒い女の子が、幼虫を持った手を突き出している。もう片方の手にも同じ種類の幼虫が握られ、そちらは女の子の口に運ばれている。女の子は満面の笑みで、その目は、カメラの向こうの智志に向けられている。
「この村は偶々訪れたんですけど、そこの人たちにすごく歓迎されて。虫の幼虫ってこの人たちにはご馳走らしいです」と智志は解説した。
「でもこれ、見た人皆びっくりするんですよね」
「こっちは昆虫食の文化があんまりないからな」
 真壁は穏やかに笑う。
「でも、いい写真だと思うぞ? 女の子の笑顔が。虫はちょっとグロいけどな。
 それから、その次の写真」
「それ、見た人皆に非難されました」
 智志はカメラを操作して写真を出す。もっとも、一々見なくとも内容は覚えてしまっているが。
 砂漠に砂煙が少し立っている。黒い鳥、バルジーナの影が三つ、見える。その足元には砂漠で遭難したらしい人とポケモンの残骸。バルジーナは人の骨を咥え、羽を広げて、今にも飛び立とうとしている。
 智志は力なく笑った。
「良い事も、悪い事も、全部写真にするんだろ? それを貫いてるんだ。いいじゃないか」
 真壁に励まされ、智志は背を伸ばす。
「はい」
 そのまま、頑張っていこうと思った。

 真壁は穏やかな目を智志に向けていたが、やがて笑みを浮かべると、こう言った。
「それから、後ろの方に入ってる、彼女の写真も良かったな」
「え。えっ?」
 智志は慌てて写真のデータを呼び出した。愚かなり。智志は旅行の写真を入れたメモリーカードの続きに、凛子の写真を入れていたのだ。
「いい笑顔だ。ま、結婚はゆっくり考えろ」
「ちょっと、真壁さん……」
 伝書ポッポがくるっぽ、と鳴いた。タイミングを図ったかのように、印刷機が再び動き始めた。


「ただいま、母さん」
 声を掛けたのに、返事がない。まただ、と智志は肩をすくめた。先月のはじめに帰国してからというもの、母親はずっと拗ねていた。原因は分かりきっている。子どもが二人とも、ポケモンを連れて旅に出たからだ。
 最初は智志も母親に同情的だった。彼女の夫、つまり智志の父親は、智志が幼い頃に旅に出たきり、失踪している。妹は生まれたばかりだった。乳飲み子と小学生を、一人で育て上げた母親の苦労は分かっている。子どもが旅に出るとなれば、その子たちまで行方知れずになったらどうしようと、不安に駆られるのだろうとも思う。しかし、母親の拗ねた態度も、一ヶ月近く続くと流石に嫌気が差す。そしてこう思う。母親は、単に子離れできてないだけなんじゃないか、と。
 智志は慣れた動作でネクタイを緩めた。一年の旅を終え、四月からやっとこさ智志も社会人の仲間入りをした。だから一層、子どもじみた母親の態度は気になった。
「ただいま」
 もう一度大声で言った。今日の仕事は午前中で終わりだったが、午後に真壁の事務所へ足を伸ばしたので、帰りが遅くなった。そういうのも、母親が拗ねる原因なんだろうな、と思った。智志はノックしてから、母親の部屋を覗く。案の定、母親はそこにいた。外出着に着替えている。
「智志、お母さん出かけるわ」
 母親はバッグを手に取ると、少々苛つき気味に言った。彼女がイライラしているのは、もはや通常なので、智志も相手をしなくなった。
「行ってらっしゃい」
「行ってくるわ。夕飯は勝手に食べといて」
 母親は乱暴にドアを閉めると、大きな靴音を立てて出ていった。
 やれやれ、と智志は息をついた。どうせ職場の人と食事とか、そういうのだろうに、あんなに苛ついて行かなくても。智志は自分の部屋に戻ると、部屋着に着替えて、カメラ雑誌をパラパラと捲った。しかし、間もなく放り出した。読む気にならない。次は仕事に必要だからと購入した、インテリアデザインの本を読んだが、余計に手に付かなかった。
 智志はモンスターボールを取り出すと、手の中で転がした。
「絵里子はどうしてっかな。なあ、アマテラス」
 返事などは期待せず、誰に言うでもなく、言った。
 智志の妹、絵里子は、智志と同じく一年前に旅立ってから、ろくすっぽ連絡も寄越さない。当然どこにいるかも、元気かどうかも分からない。それが母親のフラストレーションを加速させる原因になっている。仕方ないからと母親は同居している智志に当たる。就職を機に家を出れば良かった、と智志は思う。でも、母親一人置いとくのもなあ。
 アマテラスのボールが、不意に揺れた。うっかり床に落ちて開閉スイッチを押さないよう、手で支え直す。智志は思わず、「どうした、アマテラス」とボールに話し掛けた。もちろん返事は返ってこない。しかし、何かの不安を予期していたかのように、リビングの電話がコール音を叫び出す。
 智志は部屋を飛び出すと、受話器を取った。話を聞いた智志は「嘘でしょう」と叫んだ。
「すいません、すぐそちらに伺います。場所は」
 着替える時間も惜しく、智志は部屋着にコートを羽織って家を飛び出した。四月にしては冷たい風が、智志の頬を容赦なく切っていった。

 警察署。
 運転免許の更新以外で、お世話になることはないと思っていた。
 電話の内容を伝えると、すぐに奥に通された。奥も奥、警察署の広さの感覚が分からない程奥に、その部屋はあった。
「念の為、このゴーグルを着けてください。檻に入れて拘束していますが、いつ暴れ出すか分かりませんので」
 案内した警察官に従って、智志はゴーグルを着けた。少し辺りが暗くなった。「では、入ります」深呼吸しようとしたが、間に合わなかった。中途半端で止まった。いや、深呼吸なんて意味がなかった。きっと、この光景の前では。
「ご確認ください」
 ヨルノズクが眠っていた。強化ガラスの向こうで。足にはがっちりとした鉄輪が嵌められている。
「妹の絵里子さんの所持するポケモンで、間違いないですね?」
 答えるまでの時間が、こんなの長かったことはない。考えて、考えて、躊躇って、否定して、結局はじめの答えに戻る。
「はい」
 智志は掠れた声を出した。一秒が、こんなに長いことはなかった。
「では、次の質問ですが」
 警察官の声のトーンで、智志は、これは確認だったのだなと気付く。ゲットしたポケモンには、マイクロチップの埋め込みが義務付けられている。それを調べれば、妹が“おや”であることも、妹のトレーナーIDも、すぐ分かるはず。
「最後に妹さんに会われたのはいつですか?」
 落ち着いた警察官の声を聞きながら、智志は首を振った。
「去年の四月以来、連絡も取ってません。トレーナー修行の旅に出ると言って出て行ったきりです」
 警察官は頷いて、何かメモを取った。
 それから智志の名前を聞かれ、職業を聞かれ、家族構成を聞かれた。特に詰まるところもなく、正直に答えた。どういう意図で質問されているかすら、頭になかった。智志はただ、目の前のヨルノズクを見るので精一杯だった。バトルで受けた傷もそのままに、拘束されているヨルノズク。胸元に付いた引っ掻き傷が痛々しい。
「では、このポケモンの所有者である絵里子さんが六ヶ月以内に見つからない場合、」
 こんな子じゃなかった、と智志は抗弁したかった。妹はこんな状態のヨルノズクを放って逃げる奴じゃない。ヨルノズクだって、
「お母様はポケモン取り扱い免許をお持ちでないようですので、このポケモンの所有権は兄である八坂智志さんに移ります」
 真面目で、気が良くて、いいポケモンなのに。
「その際、ヨルノズクの処分の同意書にサインしていただくことになります」
 同意書にサイン。同意一択のようだ。
 ヨルノズクが目を覚ました。翼を広げ、威嚇する。しかし、足の拘束に囚われて、その場から動くことも出来やしない。ヨルノズクはそれでも、必死に抵抗していた。迫り来る運命から、逃れるように。しかしやがて抵抗も無意味と悟ったのか、再び羽を畳んで、目を閉じた。
「助けることって出来ないんですか」
 知らず、智志の口から声が漏れた。そう、それが本心だった。ヨルノズクは悪くない。助けたい。しかし、警察官は無慈悲に首を振る。
「人を襲っただけでも、酌量の余地がなければ処分対象です。その上、覚醒剤を打たれているとなれば」
 智志は警察官の制止を無視して、一歩前に進んだ。ヨルノズクへ伸ばした手は、見えない壁でペタリと止まる。
「ホー」
 名前を呼んだ。ホーホーの頃に付けた名前は今でも有効だった。ヨルノズクは、覚醒剤の影など見えない無垢な瞳で、智志をじっと見つめた。
「ごめん」
 覚醒剤なんて使う子じゃなかった。きっと旅先で悪い人に誘惑されたんだ、一時の気の迷いに違いない。そう思いたい。でも、やってしまったことは取り返しが付かないのだ。
 ヨルノズクは、じっと智志を見つめていた。智志はカメラを構える。かつての自分との約束を守る為に。


 #3

 一人の少女が、公園の桜の木からスルリと降りた。
「不安だな」
 そして、今しがた降りた木を見上げ、心情を吐露する。その顔には、子どもらしからぬ深い憂いが刻まれている。
 彼女が登っていた木には、フワンテが絡まっていた。それはそうだろう、彼女が括りつけたのだから。彼女はフワンテと、その紐みたいな腕に半ば糊付けするように絡めた封筒を見た。少々の風では落ちないことを確かめる。そして、公園にいくつかある出口の一つから道路に出た。
 少女は、ファー付きの赤いフードを目深に被る。今は八月だというのに、彼女は分厚い防寒具に身を包んでいる。突き刺さる視線が痛い。でも、仕方ない。
 少女はきっと唇を結んで、歩き続けていた。その目からは今にも涙が零れそうで、しかし頑なな程前を見つめている。白い頬に、熱を持ったように赤い唇。「私がやらなきゃ」少女が言葉を漏らす。「“光の時代”の為に、私が」
 周囲から悲鳴が上がった。その中心に自分がいることに気付き、少女は立ち止まる。クラクションの音が両耳を潰した時には、もう遅かった。ありふれた四人乗りの自家用車が、彼女に真っ直ぐ向かってくる。
 危ない、と誰かが叫んだ。自動車がブレーキを踏む。誰もが間に合わない、と思った。少女も固まる。凍りついたように。動けない。
 少女は目を閉じた。やらなきゃいけないことが、頭を過ぎった。ごめん、と念じるのと同時に、彼女の意識はホワイトアウトした。

 〜

 赤い自動車が止まった。運転手は窓から顔を出すと、キョロキョロと辺りを見回した。そして、何も被害がなかったことを悟ると、窓を閉めて、その場から走り去っていった。すわ交通事故かと立ち止まっていた人々も、三々五々散っていく。その中で、凛子たち二人は長い間立ち尽くしていた。
「ねえ、智志くん。あの子」
「うん、消えたよね」
 智志はいつも首から提げている一眼レフを持ち上げると、凛子に画面が見えるようにした。いくつかボタンをいじって操作する。先程撮っていたらしい写真が現れた。
「趣味が悪い」と言いながら、凛子はその写真を見る。
「これは……」
「消える瞬間、かな」
 智志は事も無げにそう言うと、何やらいじって、画面を拡大したり縮小したりしていた。その動きに酔いそうで、凛子は「貸して」というと写真をデフォルトサイズに戻して、睨めっこした。
「何か分かった?」
「さっぱり」
 カメラを智志に返す。智志はカメラの電源を切って、再び首に提げ直した。
 交通事故の瞬間のはずだった写真。そこには赤い自動車らしき影と、フードを被った少女と、それらの輪郭を強烈に歪めた何かが写っていた。その何かの所為で写真全体が強烈に歪められ、あの場に居合わせた人でないと、何が写っているのか分からない程だった。あの瞬間、何が起こったのだろう。車に轢かれるはずだった少女は、一体どこへ消えたのか。ポケモンのテレポートだろうか。しかし、それならテレポートを使ったポケモンが写り込んでいそうなものだ。
 デートなのに、何だか妙なことになっちゃったな、と凛子は思った。付き合い始めて、もう四ヶ月だ。そろそろキスから先に進んでもいいと思うのに、中々前へ行かない。今日こそはと思ってきたのに、何だか出鼻を挫かれた気分だ。
 立ち止まったままの凛子に智志が「行こ」と手を差し伸べて、二人は歩き出した。今日は智志が先導だ。なんでも、仕事で外回りをした時に、いい店を見つけたらしい。
「あ、そうそう」
 凛子はあわや交通事故の衝撃で忘れていた話題を思い出す。
「智志くん、クッカバラさんも“光の時代”も知らないって、ありえないって!」
 蒸し返された話題に、智志は困ったように微笑んでみせる。
「俺、その時、外国を旅して回ってたからなあ」
「帰ってきてからもニュースになってたでしょ? 知らなさすぎるよ」
「“光の時代”が旅のトレーナーたちの互助団体で、クッカバラがその代表、っていうのは知ってるけど」
「それは知ってる内に入らないから」
 鞄からタブレットを出して、クッカバラと“光の時代”の情報を検索しようとした凛子だが、智志に制された。智志が顎でしゃくった方向を見る。誰もいない公園の隅で、フワンテが一匹、木の枝に引っかかっていた。
 智志は真っ直ぐフワンテの所へ向かうと、少し背伸びして枝に絡まっているフワンテを放してやった。凛子も遅れて彼に追い付く。なんだか今日は彼が先を行く日だな、と思いながら。
 枝の呪縛から逃れたフワンテは、ハート形の手を揺らして「ぷわわ」と鳴くと、上空へ飛んでいった。
「お礼、言ってるのかな」
「そうだといいな」
 言いながら、智志は手の中の物をじっと見つめた。凛子も智志の視線に気付いて覗き込んでみた。ありふれた、茶封筒のように見える。
「何それ?」
 智志は「分からない」と言う代わりに首を傾げると、茶封筒の中身を取り出した。
「チケット?」
 凛子は解せない、と言うように声を上げた。封筒の中身は、遊園地のチケットだった。大人用が三枚。有効期限は来年の四月二日まで。
「これ、フワンテの手を糊の部分で挟み込むようにして付けられてたんだけど」
 智志はチケットを改めた。全て同じ遊園地のチケット、有効期限も同じだ。「ちょっと待ってね」と言って、凛子はさっきから手に持ったままだったタブレットをいじって、遊園地の情報を出す。「あった」凛子は検索で出した情報を読み上げた。
「ああこれ、第二のバベルタワーになるって言われてるやつだ。セキチクのサファリ跡に去年出来た遊園地。新しい観光の目玉になるって期待されてたけど、そんなに流行ってない」
「第二のバベルタワー?」
 智志が顔を上げる。凛子は去年この国にいなかった智志に、簡単に説明をした。
「バベルタワー事件以降、カントー地方で何となく観光用のタワーってタブーになってたじゃない? それがこの遊園地、バトルタワーの建設を決行してね。第二のバベルタワーだって言われているの」
「……大げさだね」
「まあ、ポケモンのデータを使った模擬バトルしか出来ないし、子ども向けの難易度で最大七連勝しか出来ないし、ってすごく不評で、経営の上でもバベルタワーだ、なんて言われてるみたいだけど」
 大げさ、と言った時の智志の目が、言い様のない暗さというか、強いものを秘めていて、思わず凛子は軽い口調でそう返した。
「ほら、バトル施設を作ると、その周辺で不法なポケモン繁殖とか廃棄とかされるって、地元の反対があってそんな仕様になったんだけど……」
「そっか。それと、チケットについて調べてくれる?」
 おかしくなってしまった雰囲気を誤魔化すように、凛子はタブレットの操作に集中した。凛子が情報を探し出した時には、智志の様子も普段通りの穏やかなものに戻っていた。
「ワンデーチケットの前売り券が、子ども四千円、大人六千円、有効期限は六ヶ月だって。多分これが三枚」
 言いかけて、智志の表情を見た凛子は口を噤んだ。そして、凛子も気付いた。
 今は八月。なのに、このチケットの有効期限は、来年四月。

 〜

 予定を変更して、安いチェーン店で食事を済ませた。智志と凛子の二人とも、未来から来たチケットが気になって、それどころではなかったのだ。
「でも、本当に未来から来たと思う? 遊園地の関係者が、融通を利かして有効期限を伸ばしてもらったとか、じゃない?」
 懐疑的なのは、凛子だ。それに対して智志は、何とも言えないと首を振る。
「あと、フワンテに絡まってたのも気になる。とりあえず、警察に届けた方がいいよ」
 そう結論を出して、二人は腹が満たす為だけの昼食を終える。どこかに交番もあるだろう、と歩き出して間もなく、凛子が新しいオフィスビルを指差して智志の肩を叩いた。
 智志は凛子の指先を追う。『古結探偵事務所』
「ね」
 凛子が言った。
「ね、じゃないよ。凛子ちゃんのお父さんじゃないんだから、普通の探偵さんはこういうの、やってくれないと思うよ?」
「ちょっと行ってみるだけ。断られたらそれでいいし。それに、お父さん以外の探偵さんも興味あるから」
 智志もまあいっか、と思ったので行くことになった。凛子の図々しさと智志のお気楽さが相まって、時々こういう風に、あらぬ方向に邁進してしまう。しかし智志にとっては、それも凛子と一緒にいる楽しさの一つだった。
 凛子は何の躊躇いもなくオフィスビルに入ると、エレベーターを使って真っ直ぐ古結探偵事務所へ向かった。
「すいません、予約はないんですが」
 探偵事務所の表書きがあるドアを開けると、案の定、数名いる職員が胡散臭そうに智志たちを見る。
「何のご相談でしょうか?」
 近付いて来たのは、いかにもやり手ですよと言わんばかりの、ひっつめ髪に三角眼鏡の女性。名札の『森本』という名前をチェックしてから、凛子が口火を切る。
「森本さん、私たちさっき、謎の物体を一つ見つけたんです。それで、最近の探偵さんは謎解きするのかなあって」
 そんな文句を、いけしゃあしゃあと言えてしまうのが凛子だ。彼女お得意のジャギーカードでもそうだが、凛子は、自分が発言することに引け目を作らない。
「森本さんは分かりますか、この謎?」
「私は探偵ではありませんので」
 森本は三角眼鏡を押し上げて言った。
「じゃあ、探偵さんに会いたいです」
 凛子は引かない。
 森本はそこで二人を帰すかと思われたが、意外なことに、「少々お待ちを」と言うと、奥に引っ込んでしまった。智志は凛子と目を見合わせた。凛子が小声で言う。
「小説に出てくるような謎解きする探偵は、実際はいないって話を聞いたんだけど、実際どうなんだろう」
「さあ」
 そこへ森本が戻ってくる。
「古結は十五分程時間がありますので、用があれば手短に」
 そう言って、さっさと歩き出す。智志たちは勿論、後に続いた。「あれ、“こけつ”って読むんだね」と凛子が再度智志に囁いた。

 古結探偵は、パーティション一つ隔てられた向こう側にいた。森本は智志たちを案内すると、自分の持ち場に戻る。
「はじめまして。急に押しかけてすみません」
「はじめまして、柿崎凛子です」
 そして、二人揃って頭を下げた。相変わらず調子の良い凛子に、クスクスと楽しそうに笑う声。
「こちらこそ、はじめまして。古結晶子です」
 二人は顔を上げる。凛子は探偵が女性なのが、ちょっと意外そうな顔をしている。智志は古結晶子を観察した。背は低い。姉にも妹にも母にも妻にもなれそうな女性。家庭的な雰囲気が付きまとうのは、人懐こい笑みと丸顔の所為だろうか。しかし、大人しいというよりは元気溌剌という感じ。足元で動き回っているエーフィは、人見知りなのか、智志たちに毛を逆立てている。
「そっちの彼氏くんは?」その聞き方が、年齢を感じさせる。
「八坂智志です」
「そう。それで、早速だけど、持ってきた謎について」
 古結晶子は、そこで一際人懐こさを感じさせる笑みを浮かべて、言った。
「もしかして、四月二日に関する何かじゃないかしら」
 智志はジャケットのポケットから茶封筒を出して、中身を出す。有効期限を確かめた。四月二日。
「当たりです」
 智志は唖然としていた。隣の凛子も、どうして分かったのだろうと首を捻っている。晶子一人が、いたずらが成功した子どもみたいにクスクス笑っている。
「あ」と智志が声を出す。
「もしかして、古結さんの物でしたか?」
「残念、違います。それと、晶子でいいわよ。こけつ、ってちょっと言いにくいのよ」
「じゃあ晶子さん、どうしてこのチケットのこと、知ってたんですか?」
 直球に尋ねるのは、やはり凛子だ。
 晶子はニコニコしながら、ちょっと考えるように頬に手を当てた。
「それを言うと、つまらない、って思うわよ」
「思いません、思いません。教えてください」
 凛子は待ちきれない、とばかりにはしゃいだ様子で言った。晶子はちょっと困ったように笑うと、
「実はね、うちの事務所にタレコミがあったのよ。四月二日に関する物について」
「あ、そうだったんですか」
 凛子はがっかり、とまではいかなくとも、ちょっぴり失望した声を出した。やっぱり、小説の名探偵みたいに、僅かな手がかりや仕草から真相を、というのを期待していたのだろう。
「つまらなくてごめんなさいね」と晶子は言った。
「いえ、こちらこそ急に押しかけたのに、お時間をいただきまして」
 頭を下げた智志に、「いいのよ」と手を振る。その声を聞くと、体面や義理ではなく、本当に許してもらえている、という気がして安心感がある。悩みのある男の人とか、イチコロだろうなあ、と智志は思った。
 三角眼鏡を押し上げた森本が、パーティションの切れ目に現れたので、智志と凛子も探偵事務所を出ることにした。
「付き合ってくださってありがとうございます」
「ありがとうございます。あの」
「なんですか?」と尋ねる晶子に、智志は胸の前のカメラを持ち上げて見せた。
「よろしければ、写真を撮らせていただけないでしょうか?」
 智志は慣れた動作でカメラを持ち上げると、「撮りますよ」と一言。手のやり場に困って、無難に前で組んで笑顔を見せた晶子の後ろで、彼女のエーフィがツンとすましてみせた。

 撮った写真を晶子に見せ、チケットは警察に届けておくようにと言われて、事務所を出た。森本女史に、「“光の時代”のことで」と言っている初老の男性がいた。予約を入れてきた人だろうか。
 二人はオフィスビルを出て、辺りをうろついた。途中、見つけた交番に封筒を届ける。それから、凛子のタブレットで地図を見て歩き、大きめのショッピングモールに入ってあちこち冷やかしてからフードコートに入った。
 智志はオムライスを、凛子はきつねうどんを頼んで空いている場所に座った。
「結局あのチケット、何だったんだろうね」
 パキン、と割り箸を割って、凛子が口を開いた。智志も先が割れたプラスチックのスプーンを手に取る。
「さあ」と智志は答えた。「あの警官の人が言うように、遊園地側のミスかもしれないし」一拍置いて、「未来から来たチケットかも」
「晶子さんに色々、聞き損ねちゃったね」
 凛子はうどんを慎重に摘み上げながら言った。汁が飛ぶのを気にしているらしい。
「タレコミの主とか、どういうタレコミだったのかとか。なんでそれを私たちに結び付けたのかとか……」
「凛子ちゃんが『謎』って言ったからじゃないかな、多分」
「あの人も、『もしかして四月二日に関係ある物』って聞いてきたよね。チケットとは言ってなかったし。うーん、本当に、どういうタレコミだったんだろ?」
 智志は黙って、カメラをいじった。
 最新の写真のデータを呼ぶ。事務所でかしこまりながら、笑顔で手を組む古結晶子の写真。
 彼はバベルタワー事件について、あの時話したことを思い出す。
 この国最悪のテロ事件。そこに居合わせながら、犠牲者を救えなかった、ホウオウのトレーナー。彼女の名前が“晶子”なのは、チケットの行き先が第二のバベルタワーを示しているのは、果たして、偶然なのか。

 〜

 少女の視界がクリアになった。一も二もなく、少女は前方に転がった。しかし、後に続くはずのブレーキ音も、衝突音も、何も聞こえない。少女は体を起こして後ろを向く。自分を轢きかけた、あの赤の乗用車さえなかった。通行人たちが、怪訝な顔で少女を見ている。少女は恥ずかしそうにフードを握ると、公園へ一直線に走り出した。
 公園に着くと、木に結んだあのフワンテがいない。公園にある時計を見る。そして、少女はホッと胸を撫で下ろすと、近くの公衆電話へ向かい、電話を掛けた。人が出た瞬間、相手が誰かも確かめずに喋りだす。
「古結晶子さん、あの悲劇の再来を止めたいと願うなら、四月二日、示された場所で」
 そこまで言って電話を切る。出来るだけ、怖そうな声を出した。これで上手くいくだろうかと、少女らしからぬしかめっ面をして……ゴミ箱に突っ込まれた新聞を見た瞬間、彼女の顔色が変わった。
「あの、すいません」
 近くにいた通行人を捕まえる。通行人は、少女の勢いにぎょっとしたように身を引いたが、相手が小さい女の子と分かった所為か、警戒を解いた。
「今日、何日ですか? あの、待ち合わせしたはずなのに、相手が来ないから、日にちが合ってたか不安になって」
 少女がさも困ったようにそう言うと、通行人は笑って今日の日付を教えてくれた。それを聞いた途端、青ざめた。「私が間違えてたみたい」と言い捨て、お礼を言うのも忘れて、脱兎の如くその場を去った。
 少女が目指したのは、空き地。四方を塀で囲まれているが、手入れする者もおらず、建っていた家も半壊状態のまま、放置されている。彼女はそこへ入り込むと、草ぼうぼうの地面に体育座りして、顔を揃えた膝にぎゅっと押し付けた。
「ばか、ばか、ばか、ばか、ばか」と一頻り呪詛のように唱えた後、分厚いコートの下から真っ白なモンスターボールを取り出した。
「あんたもばかっ。焦ってこっちに飛ぶなんてばか、ばか」
 モンスターボールが抗議するように揺れた。そうだ、この子は協力せざるを得ないから協力しているだけなんだった。なのに、こんな八つ当たり、だめだ。今回のミスは自分が早とちりしなければ……
「どうしよう」
 少女は顔を揃えた膝に押し付ける。さっきより、もっと強く。
「このミスで、全部ダメになったら。皆もパパもママも調べてくれたのに」
 緑色の瞳から、ポロポロと落ちる滴。
「私の所為で“光の時代”が」
 残りは嗚咽に紛れて消える。どうしようと言いながら、思いつめた目をして泣く少女。誰かが見たとして、ただの迷子にしか見えなかったことだろう。


  [No.1119] 光の時代 #4 投稿者:咲玖   投稿日:2013/06/25(Tue) 23:02:27   52clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
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 お詫びと訂正
 『光の時代 #0〜#3』に『光の時代#0〜#2』の加筆修正が含まれます。お手数ですが、そちらからお読みください。作者の力不足で、手間をお掛け致します。


 #4

 女の子は、暗い箱の中で目を覚ました。
 どうなってるの。叫びは音にならない。代わりに、箱が喜ぶように揺れた。その瞬間、彼女の頭の中がクリアになって、最悪の可能性を次々に弾き出す。
 そうだ、あの男はバクーダの他にデスカーンも持っていた。でも、だからって、こんなことって。両手で蓋を叩くが、暗い箱は、意志を持ったように開かない。
 いやよ、と彼女は泣こうとするが、涙は元栓を閉じたみたいに出てこなかった。暴力を受けた箇所がまだ痛い。こんなことなら旅なんて出るんじゃなかった。死にたい、でも死にたくない。彼女は喚いた。喉が痛くなる程喚いたのに、音は一向に聞こえない。
 やっと、とうとう、彼女は泣き始めた。暗い箱の床に涙が落ちる度、箱が喜ぶように震える。彼女は理解した。死体も残さないつもりなんだ。私は行方不明になって、誰にも顧みられずに、いつの間にか死んだことになるんだ。
 彼女は自分の思考を真っ暗な闇に浸して、絶望の中に身を置いた。何も考えない。何も感じない。最後に残った自我を守るには、それだけしか出来なかった。
 しかし、その闇を割って、光が差し込んできたのだ。

 〜

 待ちぼうけを食らわされて、真壁の機嫌は良くなかった。八月の夏真っ盛り、しかもインタビューのつもりであったから、真壁はスーツ姿である。これで機嫌が悪くならない方がおかしい。
 道端に申し訳なさそうに設けられた喫煙スペースを見つけ、煙草に火を付けた。最近は煙草を吸うのにも肩身が狭い。真壁はそこまで吸う方ではないが、いざ吸いたい時には決まって喫煙所を見つけるのに手間取る。真壁は煙草の煙を吐いた。
 目の前を、若い集団がぞろぞろと通り過ぎていく。下は小学生くらいから、上は大学生くらいまで、と思ったが、三十歳くらいか、真壁と同じくらいの年回りの者もいる。皆一様に軽装だが、統一感はない。段ボール箱を運んでいる者や、旗を担いでいる者もいる。その旗を見て分かった。黒い布に、六本足の翼竜が、白で染め抜かれている。なるほど、“光の時代”の連中か。この先の大きな交差点で、演説でもするのだろう。今日の待ち合わせ相手も“光の時代”の人間だったが、その斎藤隆也という人間はどこにいるのやら。
 ここで煙草を吸ってても仕方ない、と真壁は思った。冷やかしがてら、さっきの団体のパフォーマンスを見に行くことにした。

“光の時代”の若い人間が、旗を並べたり、台座を作ったりしている。あるはずの物がないだの、配置が打ち合わせと違うだの、そこここで細かなイザコザを起こしている。寄せ集めの集団だ。真壁は思った。“光の時代”という集団の成り立ちからしてそうだ。クッカバラという大富豪が、老若男女問わず、修行の旅をするポケモントレーナーを集め、トレーナー同士の互助集団と称して“光の時代”を作った。今は金の力で保たせているようだが、それがなくなったら駄目だろうというのが、真壁の当初の見方だった。まあ、金の使い方は上手い。パフォーマンスも上手い。上手なパフォーマンスが功を成して、金を吸い上げるルートが出来たという話もある。真壁としては気に入らないが、しかし、本当に善意なのかもしれないという淡い期待もある。
 事実として、旅をやめたポケモントレーナー専用の職業訓練校は早くも成果を出してきている。それから、このカントー地方の各地に設置した、旅のトレーナー用の無料の宿。そこに籍を置かせることで就職の斡旋も容易にしているそうだが、そこは同時に“光の時代”の集会場という側面もあるそうだ。とりあえず浮浪者同然のポケモントレーナーが減って、喜ぶ住民数多である。
 お手並み拝見ってところか、と真壁は心の中で呟く。広い道に出来上がったステージに、壮年の男性が登る。これも、“光の時代”の特徴の一つ。こういうパフォーマンスの時に、必ず代表のクッカバラが出てくるのだ。
 クッカバラは一礼すると、集まった人々を見回した。クッカバラ、本名・時本瞬。クッカバラはリングネーム、つまり、ポケモントレーナーとしての登録名らしい。外国人とのハーフらしく、彫りの深い顔立ちをしている。残り少ない髪は、全て真っ白に染まっていた。老人のように見えるが、真壁と同じくらいの年代らしい。だとしたら頭部がちょっと可哀想だ。安物よりは少し上等な値段帯のスーツ。壇上のクッカバラを観察していると、クッカバラと目が合った。真壁は少し驚いた。どうやら彼は、集まった人一人一人と目が合うように、壇上から見回しているらしい。中々出来る芸当ではない。それに、見られた感じも不愉快なものではない。人間、興味を持たれると悪い気はしないものだ。
 クッカバラは話を始めた。ここでマイクを使わないのも、パフォーマンスの一つらしい。暑いのに、彼に差し掛けられる傘も天蓋もない。暑いですが、聴衆の皆さんと同じく私も同じ条件下でスピーチしますので、なにとぞよろしくお願いします、というところだろう。真壁は時折手で風を送りながら、クッカバラの話を聞いた。話自体はマスメディアに露出した分で、既に聞き飽きる程聞いたものだった。幼い頃父親に捨てられ、母親に虐待を受け、苦労したという話。家を飛び出すようにして飛び込んだトレーナー修行の旅が、如何にその後の人生に影響を与えたかという話。それは何度も聞いている。だが、話の途中でもクッカバラは、群衆を見回して、話の反応を伺うかのように注意深く見つめるのだ。いつの間にか、聴衆は魅入られたように皆、クッカバラの方向を向いている。これはちょっと怖いな、と真壁は思った。
 いよいよ話は佳境に入った。トレーナー修行の末、巡り合った妻との間に、クッカバラは一児をもうける。しかし、ある日曜日、遊びに出かけた妻と子どもが、帰ってくることはなかった。事件に巻き込まれたのだ。
「それがあの、バベルタワー事件です」
 クッカバラは今までより力を込めて言った。
「極めて遺憾な、極めて悲しい事件です。しかし、私はこうも思うのです。修行の旅に出るトレーナーへの支援制度が、もっと充実していれば、彼らに居場所があれば、あの悲劇は防げたのではないか、と。私自身、旅をしてその素晴らしさを知った身です。これからを生きる子どもたちから、旅を一様に奪って欲しくない。子どもたちに旅を、それを可能にする為の社会制度を、今一度、私は提案し、生み出していきたいのです」
 ざあ、と豪雨が地面を打つような、盛大な拍手が起こった。真壁は二、三度手を叩いたが、すぐに辞めてしまった。クッカバラに向けてフラッシュが焚かれる。それ自体は何の不思議でもなかったが、フラッシュを焚いた人間を見て、真壁は一方ならず驚いた。八坂智志。何故彼がここにいる? いや、いても不思議はない。それより、いつも穏やかで気弱な笑みを浮べている彼が、恐ろしい表情で、クッカバラを睨み付けているのが異様だった。あれは本当に八坂智志なのか。
 いつの間にか、話は終わりの部分に突入していた。独り遺されたクッカバラに、僥倖が訪れる。去年、外国の大富豪が、生き別れの息子に莫大な財産を遺して死んだ。その生き別れの息子というのが、クッカバラだったのである。クッカバラはこれを神のご意思と考え、その遺産を、ポケモントレーナーとその旅を支援する制度の確立の為に使うことに決めた――
 再び盛大な拍手が起こった。真壁は今度は手も叩かず、八坂智志の方を見た。智志はカメラに触れながら、今度はクッカバラがいるのとは別の方向を見ていた。否、睨んでいた。
 あいつは一体、何をしているんだ? 真壁は訝った。その疑念は、次に始まった質疑応答の時にも解消されなかった。
 集まった群衆の中から、選ばれたが何人かがクッカバラに質問をする。クッカバラはそれに丁寧に答える。しかし、その質問もお決まりの、事件があって悲しくないんですかとか、これからどのように制度を作るつもりですかというもので、クッカバラの回答も、形式通りのものだった。質問者はサクラか、と思った矢先に、智志が高々と手を上げたのだった。
「そこの、カメラを持ってる方」
 智志は“光の時代”の人からマイクを受け取ると、「はじめまして、八坂智志と申します」真壁が予想していたより、至極はっきりと喋り始めた。思いがけず、あいつも成長しているんだと感じた。そして、どこか置いていかれたような寂しさも少々。
 智志はハキハキとした声で続ける。
「非常に為になるお話でした。ありがとうございます。
 ところで、クッカバラさんはお話の最後の方で、“神のご意思”だという言葉をお使いになりました。クッカバラは何か特定の宗教を信仰してらっしゃるのでしょうか?」
 智志はマイクを一旦係の人間に渡すと、一礼して、顔を上げる。その表情は流石に鬼か魔物かと見まごうような恐ろしさはないものの、微妙な険しさが残っている。
 クッカバラは智志と視線を合わせて、そして、微笑んだ。それから群衆を見回し、智志に視線を戻して、話し出した。
「この国では、バベルタワー事件以降、宗教に関する一種の線引と申しますか、奇妙な誤解や、遠慮が発生していますね。ええ、私は神を信じています。特定の宗教には属しておりませんが、日々、神の恵みや、神のご意思というものを感じながら生きています」
「それはどういった場面で?」
 智志はマイクを受け取ると、今度は返さなかった。返す手間が面倒になったのだろう。
「そうですね」
 クッカバラは穏やかに笑う。
「例えば、こう言うとおかしく聞こえるかもしれませんが、妻と子をバベルタワー事件で失ったこと。それが切っ掛けで、私は旅のトレーナーを援助する道に入った。神のご意思なのだと思いますよ」
「でも、家族を亡くして悲しくありませんか?」
「それはもちろん、事件直後などは、どうしてあの日にバベルタワーに行ってしまったのか、何故妻と子どもだけで行かせたのかと、何度も後悔しました。でもね、違うんです。私の家族は、少し早く神に見初められて、天に呼ばれただけなんです」
 クッカバラは再び、あの笑みを浮かべた。じっと智志を見つめる。そして、止めを刺すようにこう言った。
「私は、今日貴方と会えたことも、神のご意思だと思いますよ。そして、神に感謝します」
 クッカバラは両手を組み合わせると、軽くお辞儀をした。クッカバラ以外にも、“光の時代”の何人かが同じ動作をするのを、真壁は見た。係の人間が、マイクを返してもらおうと手を伸ばす。しかし、智志はその手を退けると、質問を続けた。ますます彼らしくない。
「では、何があっても神の意思で、それが正しいということですか?」
 やれやれ、もうちょっと上手く質問しろよ。真壁は腹の中でぼやく。これじゃ、いきがって噛み付いてるガキじゃねえか。
 案の定、クッカバラは落ち着き、諭すような態度で答えた。
「全てが神のご意思だというわけではありません。この世界を動かす、大半が人の意志によるものです。しかし、どうにもならないこと、後悔してもどうしようもないことは、世の中にいくらでも存在します。それを神のご意思だ、神の与えたもう試練だと、自分の心の中で、理由を付けて、納得する。あるいは奮起する。そうやって心の安寧を得るとか、自身の向上を図ることは、決して悪いことではないと、私は思います」
 パラパラと、急に拍手が湧き上がって、止んだ。智志は、今度は反論しなかった。
「ところで八坂くん。時に、君にとっての神とはなんですか?」
 今までとは逆に、クッカバラが智志に質問した。聴衆がざわついた。“光の時代”の面々は、落ち着き払って、揃ってクッカバラを見つめている。多分、これもパフォーマンスの内なのだろう。
 嵌まるなよ。真壁はそう腹の中で呟いた。智志はマイクを構える。
「俺にとっての神は、ポケモンです。自然の力そのものです。人の味方にもなれば、脅威にもなる。手懐けていると思って油断していたら、噛み付かれる。伝説や神話で語られたり、神社で祀られたりしているポケモンが、俺にとっての神です。少なくとも、絶対に正しい存在ではありません」
 智志は話を終えた。
「なるほど」
 クッカバラは満足したように言った。
「私もかつては、そう考えていました」
「ありがとうございました」
 智志は一礼すると、今度こそマイクを係の人間に返した。
 ああやって、表向きは相手の考えを肯定しつつ、遠巻きに否定して、なおかつ自分の意見を盤石にするわけだ。はじめから勝ち目がなかったな。真壁はそう思った。

 真壁の鷹の目が、最初に異変を捉えた。舞台の後方に立つ旗から、煙が上がっている。
 変だと思うよりも先に、旗が炎に包まれて燃え上がった。群衆から悲鳴が上がる。我先に逃げようとした人々に、クッカバラが叫ぶ。
「皆さん、恐がることはありません。あの炎の原因はバクーダ。ただの一匹のポケモンです」
 なるほど、確かに旗を燃やしたのはバクーダだった。しかし、様子がおかしい。“光の時代”のトレーナーたちが宥めても、全く大人しくなる気配が見えず、むしろ、却って興奮しているようにさえ感じる。縄張りを侵されたポケモンなら宥め難いだろうが、町のど真ん中で縄張りもあるまい。様子がおかしいが、その原因が掴めない。暑気に熱気が加味されて、思考がうまく回らない。真壁は苛立ちのままに舌打ちを一つ。この違和感は何だ?
 バクーダから離れた位置にある旗が二本、火を噴いて燃え出した。そして更に二本。バクーダの興奮と共鳴しあっているかのように、人々のパニックが膨れ上がった。交差点の西と南、こちらには歩道が続いているが、北と東、横断歩道がある方角にまで人が雪崩れ始めた。赤信号になっている横断歩道を、しかし、パニックに陥った人々は構わず、渡ろうとする。
 その人の群れを、“光の時代”のトレーナーたちがとどめた。それぞれ屈強そうな、カビゴンやハガネールといったポケモンを出して、強引に通行止めをかけたのだ。群衆から、わっと、悲鳴とも怒号ともつかない大きな音が上がった。
「皆さん、落ち着いてください。こちらには手練れのトレーナーたちがいます」
 クッカバラは再び叫んだ。
「皆さん、水ポケモンを出してください」
 クッカバラの指示に、トレーナーたちが足並みを揃えて指定されたタイプのポケモンを出した。ジュゴン、カメックス、ニョロボン、ギャラドス、スターミー。真壁の位置から見えたのはそのくらいだったが、他にも十匹程いるようだ。
「かかれ!」
 クッカバラが腕を上げ、振り下ろすのと同時に、総勢十五匹程のポケモンたちが、息を合わせてハイドロポンプを繰り出した。太い水流が、たった一匹のバクーダを貫く。そして、あっという間に鎮火した。
 ハイドロポンプで起こった煙霧が収まった時、バクーダは目を閉じて、腹をべったり地面に付けていた。あれでは即死だろうと真壁は思った。
「では、後はお願いします」
 トレーナーたちが揃って頷いて、バクーダに近付いていく。そして、白い布をバクーダに掛けた。ポケモンの中には、燃えていた旗に水を掛けて、駄目押しの鎮火を行なっている者もいる。ポケモンたちが水を撒いた所為か、真夏だというのに、辺りは少し涼しくなっていた。あれ程騒いでいた群衆も、頭を冷やされたかのように、静まっている。
 クッカバラの去った舞台を見つめて、真壁は、これはパフォーマンスだろうか、それともクッカバラの命を狙った誰かの犯罪だろうかと考えていた。クッカバラは何かと命を狙われることが多いという話だが、あの手並みの鮮やかさから見て、パフォーマンスという可能性も捨てきれない。パニックの収まった人々は、興味津々といった様子で、早速騒ぎについて話し合っている。気楽なものだ、と真壁は思った。ポケモンが一匹、死んでいるというのに。
「おや」と真壁は小さく驚いた。智志が女の子の腕を引っ張っていくのが目に入ったのだ。それも、どう見ても嫌がっている女の子を、智志が無理矢理引っ張っている構図だ。これで、女の子が前に写真で見た柿崎凛子なら真壁は放っておくのだが、遠目に見ても明らかに違う人物なのだ。
「今日は変わった八坂をよく見かける日だな」
 独りごちる。智志と女の子の後ろを、金色のタグを付けたコラッタが尾けていくのが見えた。あの金色のタグは、真壁も関わったことのある、ある育て屋のものだ。ああして、野生ポケモンに混ざって町を警備するポケモンを育てる事業を、今は全国規模で展開している。
 とにかく、その警備ポケにも不審に思われてるぞ、八坂。
 真壁は彼らを追う足を速めた。

 先に行ったコラッタは、二人から離れた所でじっと成り行きを見守っていた。とすると、今の所は、事件性はないらしい。智志と女の子は、何やらただならぬ雰囲気で話し合っている。真壁はコラッタに習って、しばらく様子を見てみることにした。さっきの交差点からは離れているが、ここも立派に大きな歩道なのだ。人通りは多い。智志だって変なことはするまい。
 聞き耳を立てる。人通りと交通量が多い所為で、数メートル先の智志と女の子の会話が聞こえない。駄目押しのように、パトカーがサイレンを鳴らしながら、交差点の方向へ走っていった。あのまま交差点に留まっていたら、事情聴取やら何やらで面倒くさいことになっていた。警察官の友人には悪いが、真壁は面倒事を逃れられて、ホッと胸を撫で下ろした。
「だから、とにかく一旦戻ってこいって。ホーにも顔見せてやれよ」
 智志が声のトーンを上げた。“ホー”という単語に真壁の体が反応する。しかし、すぐに飛び出して“ホー”について尋ねたいという衝動を抑えて、真壁はとにかく成り行きを見守った。
 女の子が智志の手の振り切ろうとする。しかし、智志は彼女の腕をがっちり掴んで離さない。
「変わらない、じゃねえよ。俺に押し付けようとすんな」
 女の子が何か言う。いつも穏やかだと思っていた智志が、顔を紅潮させた。
「母さんは今関係ないだろ!」
 突然の大声。道行く人が、何事かと立ち止まり、振り返る。智志は女の子の腕を掴んだまま、怒鳴る。
「お前がホーの“おや”だろ。なら最後まで責任取れよ」
 女の子が顔を上げて、智志を睨んだ。中々、気の強そうな顔をした子だ。しかし、非常に幼い顔付きでもある。
「責任って何?」
 女の子が口を開いた。そこから出た声は、真壁の所まで届く程度には大きいものの、少し震えている。
「ホーを殺すことが責任? 同意書にサインしたら責任取ったことになるの? だったらサインくらいいくらでも書くよ、書けばいいんでしょ!」
「そんな話してんじゃねえだろ!」
「落ち着け」
 金色のタグを付けたコラッタが出動する前に、真壁は二人の所へ行って、言い争いを止めた。女の子の腕を握っている方の、智志の手を叩いた。
「あんまりきつくやるな。痣になんぞ」
 智志はさっと手を引っ込めた。
「どういう事情かは知らんが」
「何このおっさん」
 これ見よがしに腕を擦りながら、女の子が言った。逃げる様子はない。逃げても追い付かれると思っているのか。真壁はおっさん呼ばわりを受け流して、続けた。
「道のど真ん中で派手にやるもんじゃないと思うぜ。どっか、座れるとこ探して」
「警察に行きます」
 智志が言った。
「妹を警察に出頭させなきゃならないんで」
 そうか、と真壁はそれだけ答えた。
 智志と、彼の妹だという女の子をタクシーに乗せて、見送る。交差点の騒ぎも一段落したようだ。そういえば、結局インタビューは出来ず仕舞いだった。午後の予定に丸々穴が空いた形になる。
 どうしようかと考えて、この近くに、警察官の友人が勤める警察署があることを思い出す。そうだ、そこへ行こう。上手くいけば、さっきの騒ぎの情報を手に入れられるかもしれない。上手くいかなければ、さっきの騒ぎを手土産に、友人を冷やかすことにしよう。あいつ今閑職だし。
 真壁は午後の予定を書き換えると、早速新しい目的地へと歩いて行った。

 〜

「“光の時代”の資料、こっちに持ってきて」
「今度もクッカバラの評価を上げて終わりかね」
 バタバタと、廊下を早足で駆け回る音。大半が革靴やパンプスを履いている所為か、音が響く。忙しそうなポケモン犯罪課の連中を横目に、警備課の青井守は欠伸をする。すると、座っていた椅子ごと、タックルを食らった。犯人は分かっている。
「タックルするこたねえだろう、結城夏輝」
 青井は背もたれに肘を乗せて、後ろを向いた。
 結城夏輝、二十八歳。女性ながらしっかり鍛えた体に、警察官としての真面目さを付加するように、後ろでまとめられた長い黒髪。頭は回るし、ポケモンの育てもバトルの筋もいい彼女だが、いつまで経っても身の振り方というものを覚えない。端的に言うと上層部に反抗的で、出世できない。挙句の果てには、警備課という閑職に飛ばされる始末。“育て屋さんの警備ポケがいるから正直いらない部署”呼ばわりされる窓際である。そこでも彼女は資料水浸し事件をはじめ、もれなく問題を起こしている。
「そんなこと言って、普段の気の緩みが、いざという時に出ちゃうんですから」
「理想論もいいが、程々にしろよ」
 青井がそう言うと、夏輝は「なんでですか」とむくれた。
「理想論を言う人がいないと、組織っていうのは落ちるとこに落ちるんですよ」
「正論ばっか言ってると嫌われるぞ」
 夏輝は騒がしい刑事課の方に目をやって、青井に戻す。
「嫌われてない人もいますけど」
「クッカバラは別」
「お金ばら撒いてるから?」
「お前、やけにクッカバラに拘るなあ」
 青井は呆れた声を上げた。
「資料水浸し事件の恨みか?」
 彼女がこんなにクッカバラに敵意剥き出しになったのは、確か、資料水浸し事件の後からだ。あの時彼女が水をぶっ掛けた資料は、大半が“光の時代”に関するものだった。居残りで資料の作り直しを命じられた恨みだろうか。
 夏輝は頬を膨らますと、
「だからあれ、私がやったんじゃないですってば」と言った。
「じゃあ何だ。水を入れたバケツが勝手に飛んでったとでも?」
「そうですよ。青井さんは信じてないみたいですけど」
 そう言って、ポケモン犯罪課の、出動が掛かっていない班の方へ歩いて行った。最近、彼女はポケモン犯罪課に顔を出していることが多い。別の課というのが引っ掛かるが、夏輝が波風立てずに付き合える人たちがいるというのはいいことだからと、青井は黙って見守っている。
 まあそれに、警備課にいてもやることがない。青井は、さてどうしようかと呟いた。夏輝のお守りが終わったら、特にすることがない。どこかで雑用でも探すかと思った矢先、青井の携帯電話が鳴った。
 画面を見る。
『遠泉』
 青井は顔をしかめて電話を取った。口元を覆う。
「おい、今勤務中だぞ」
『でも、周りに人がいませんでしょう?』
 青井は周囲を見回して、窓の外に目を止めた。ヤミカラス。赤い首輪を着けたのが一匹、窓の外に停まっている。青井は窓を開けると、ヤミカラスを中に入れた。窓を閉め、ヤミカラスを机の上に置く。そして、首輪を外して引き出しの中に放り込んだ。
『あら、いけず』
「悪趣味な真似してるんじゃねえ」
『ああら、そう。次は青さんの趣味に合う首輪を探さなあねえ』
 電話の向こうで、ペルシアンの鳴き声がした。遠泉が豪奢なベッドに横たわりながら、片手でペルシアンを愛撫しつつ、片手間に電話を掛けてきているのが、目に浮かぶようだ。全く、真壁はとんでもない置き土産をしてくれた。
「巫山戯たこと言ってねえで、とっとと用件を言え」青井は出来るだけ迫力のある声を出す。もっとも、彼女には糠に釘だろうが。
『おお、恐』
 思った通り、彼女は愉快そうに笑いながら言う。「いいから用件を」とせっついて、やっと彼女は本題に入った。
『前に言われたこと、調べましたんよ』
「あ、ああ。そうか」
 青井は出来るだけ、平静に聞こえるように答えた。自分が頼んだことを思い出して、ドキリと心臓が跳ね上がる。
「で、どうだった?」
『大変でしたんよ。何せあたしが家業を継ぐ前の話でしたから』
「苦労話はいい。結果だけ早く」
 遠泉が溜め息を吐いた。艶っぽい匂いが、受話器越しに漂ってきそうな溜め息だった。
『せっかちな男は嫌われますんよ? ……まあ、ええわ。結論から申しますと、青さんが睨んだ通りですわ』
「……」
 青井は黙った。二十年前に既に察していたとはいえ、こうして友人の罪が明らかになると、言葉を失ってしまう。遠泉は、たっぷりと青井に沈黙させた後に、再び話を始めた。今度は、電話の向こうにペルシアンはいないようだった。
『それだけならあたしも青さんに電話しませんのんよ。電話したのんは』
 ここで遠泉は言葉を切って、笑う。
「おい、電話してきたのは、何だ。何とか言え」
『その前に、“光の時代”について、警察は調べてますのん?』
 青井は携帯電話を強く握りしめた。
「それが、お前に関係あるのか?」
 探るように言う。だが、すぐ躱された。
『ムニンに首輪を着けてくれます?』
 青井は舌打ちすると、引き出しから先程の首輪を取り出した。机の上にいるヤミカラスのムニンをこちらに向かせ、首輪を着け直す。ヤミカラスはカアと一声鳴くと、勝手に廊下の方へ飛んでいった。青井はそれを見送る。
「それで?」
 青井は携帯電話を拾い上げた。
「本当の用件は何だ?」
『こちらも色々調べましたんよ。そうしたら、面白いことが分かってねえ』
 遠泉は笑い、たっぷりと間を取って青井を苛立たせてから、こう言った。
『あんたの友人は時本瞬やった』
 笑い声と共に、通話が切れた。
 青井はビジートーンを鳴らし続ける携帯電話を片手にぶら下げたまま、今言われたことを反芻していた。そして、それが事実だとして、自分はどうすればいいのかを考えていた。

 〜

 警察署にやっと到着した時、真壁はタクシーを使えばよかったと後悔した。徒歩だと思いの外時間が掛かる上、スーツでこの暑さだ。しかしこれで一息つけると警察署内に踏み込んだら、冷房があまり効いていなかった。節電の煽りを食ったらしい。流石に耐え切れなくなり、鞄から扇子を出して扇いだ。そして、ようやく一息つく。
 受付の若い女性にご用件はと聞かれ、友人に用があると答えた。呼び出しましょうか、という彼女の申し出を断って、真壁は勝手知ったる警察署内を進んでいく。途中でヤミカラスのムニンにぶつかりそうになりながら、進む。真壁と違って、青井は鳥ポケモンを屋内で飛ばすような人間ではない。珍しいこともあるものだと思った。

 珍しいことといえば。
「あ、また会いましたね」
 八坂智志がこの警察署にいた。廊下に作られた休憩スペースで、自販機で飲み物も買わず、一人で座っていた。「ここ、いいか」と尋ね、返事も待たずに真壁は智志の正面に座る。日焼けすると赤くなる方らしい。智志の顔が火照っていた。
 そのまま、二人でじっと黙って向き合っていたが、ずっとそうしていても仕方ない。真壁は鞄の中をいじってから、単刀直入に切り出した。
「妹が犯罪者になっちまったんだってな」
「ええ」
 智志は答えた。その手はカメラを触っていたが、真壁の視線に気付くと、カメラから手を離した。そして、手を机の上に置いた。
「やってしまったことは取り返せないし、償うしかないと思います。弁護士のこととか、犯罪者の家族になることとか、本当はもっと色々考えなきゃいけないんですけど、あんまり頭、回らなくて。なんか、今までは妹にすごく腹立てたり、とか、後悔とかしてたり、してたんですけど」
 智志は大きく溜め息をついた。
「俺に出来ることは協力する」
 真壁はそう言ってから、質問をした。
「今日は、妹を見つける為にあの演説に出てたのか?」
 智志は下げていた顔を上げた。真壁を見て二、三度瞬きすると、「それは」と言って口ごもる。
「起こったことから、順番に話していいですか? ちょっと、そうでないと俺の頭が追い付かないので」
「ああ」と真壁は頷いた。智志も頷くと、重かったのか、首から提げていたカメラを机の上に置いて、話し始めた。

「警察から連絡があったのは四月です。ちょうど、真壁さんの事務所に行った日の夜でした。妹のポケモンが、」
 そこで、智志は一旦言葉を切る。カメラを起動してから、話を再開した。
「ヨルノズクのホーが、警邏中の警官を襲って捕獲されたって連絡が来ました。俺は急いで警察署に行きました」
 そして、智志はカメラの画面を真壁に向けた。目を真っ赤に光らせたヨルノズクが、こちらを見ていた。カメラのフラッシュが目に入って、赤目現象が発生している。自分に起こったことを、まだ受け止めきれていないような、悲しげな目で、睨み付けていた。ガラスに光が反射して、写真を撮った智志の姿がうっすらと写り込んでいる。
 ホーとは、ヨルノズクの名前だったか。ややこしい名前を付けやがる、とこれは口に出さなかった。
 智志は続ける。
「ホーは、ポケモン用の覚醒剤を打たれてるから、処分されるって話で」ここだけ、早口で言い終える。智志はまた俯いていた。
「妹も、ポケモン愛護法違反や管理義務違反で罪に問われるという話でした。でも、妹と全然連絡が取れない。困っていた時、“光の時代”の話を凛子から聞いて、もしかしたらそこにいるのかな、と思ったんです」
 ふう、と息をつくと、
「それから、色々調べて、今日の集会に行き当たったんです」と早口で話し終えた。
 話し終えると、智志は廊下の向こうを見やった。ずっと奥の方の取調室に妹がいるのだろう、と真壁は思う。
 話を聞いて、合点がいったことが一つある。智志と妹が近くの交番ではなく、この警察署に出頭した理由だ。おそらく、ヨルノズクのホーがここに保護されているのだろう。
 真壁は写真のデータを見ていた。智志は足繁くこの警察署に通っていたようだ。足枷を嵌められたヨルノズクの写真が、何枚もある。智志がカメラに手を触れたので、真壁はカメラを智志へ返した。
「今日、俺がいて吃驚しましたか?」
 智志は脱力した笑みを浮かべた。真壁は「そういう偶然もある」と答えた。智志がいたことそれ自体よりも、他に驚くべきことが多かった。真壁はその疑問を潰すように、質問をする。
「お前、クッカバラが嫌いみたいだな? 質問の時とか、最後の方、突っかかってたぞ」
 智志は笑みを浮かべた。いつもの彼らしい、気の弱そうな笑みだ。
「妹を取り返さなくちゃって気になってて、気が立ってたかもしれません」
 それから、真壁と目を合わせると、「あの質問をしたのは」と切り出した。それは、クッカバラに質問をした時と同じ、自分の意見をしっかりと持った瞳だった。
 成長したものだ、と真壁は喜び半分、寂しさ半分にそんなことを思う。つい二年前は、真壁の後ろを困ったように付いて歩いていたというのに。
「俺が旅をしてた時、クッカバラさんと同じように、何でも神のご意思だって言う人がいて、疑問を持ったんです。疑問、というか、違和感、かな。神様のご意思だから正しいとか、神様の思想だから正しいとか、そういうのに違和感を持ちました。絶対に正しい神様っていうのが、俺の中では有り得なかったんです。
 それは、俺にとって神様っていう概念が、自然そのもの、ポケモンそのもので、人間に与したり、牙を向いたりする存在だって思ってるっていうのもあるんですけど。むしろ、」
 智志はそこで息を吸う。
「神様が絶対に正しくて、神様の言う通りにすべきだっていうのは、俺にとっては思考停止なんですよ。神様の言葉に従うんじゃなくて、自分で考えて、自分で言葉にしないと、自分にとっての本当だって気がしない。それだけです。絶対に正しい、って言われて、反抗したいだけかもしれないですけど」
「いや」
 真壁はそう言って、言葉に詰まった。旅を通じて、智志は真壁が思っていたより、ずっと成長していたらしい。その予想とのギャップに面食らうだけだった。
「ただ、ポケモンを神様として敬ってたら、それでいいのかっていうとそうでもなくって」
 智志は話を続けた。カメラをしばらくいじってから、真壁に渡す。そこには、揃って同じ方角に頭を垂れる人の列が写されていた。前に一度見た写真だ。おそらく、生活レベルを同じくする村の住民なのだろう。どちらかと言えば簡素な服に身を包んだ人々が、老若男女問わず、一方向に敬意を向けている。
「旅の途中で訪れた村です」
 智志が説明を付ける。
「その村では、ネイティオが神様として祀られているんです。生きている本物のネイティオですよ。撮影お断りなので、撮ってないですけど。それで、そのネイティオが未来を見て、今年はどの作物をどのくらい植えるべきか、今日は狩りに行くべきか、それとも釣りをするべきか、今度生まれる赤ちゃんの名前は誰が付けるか。そんなことを全部予言して、村人はそれに従うんです。
 それも、俺はなんかおかしいな、って思うんです。確かにポケモンは人間より優れてる感覚も多いし、ネイティオみたいに未来を予知する種類もいますけど。でも、そういうのに頼りっきりで、ポケモンの言う事を聞いてばっかりっていうのは、おかしいと思うんです」
 智志は話を終えた。
「若造が背伸びして言ってることかもしれないですけど」と付け加える。
「いや、俺はそうは思わないな」
「そうですか」
 智志は少し笑った。それからふと顔を上げると、思いがけないことを言った。
「ポケモンに従ってておかしいっていうのは、真壁さんもですよ」
 突然そんなことを言われて、真壁はたじろいだ。いつ自分がポケモンの言う事を聞いただろう。真壁の手持ちポケモンはポッポのサイハテだけだが、彼に従った覚えもない。基本的に、付かず離れずの間柄なのだ。
「今日のことですよ」と言われ、ますます真壁は分からなくなる。智志はちょっと困ったような笑みの中に、自分の意志を曲げない頑固一徹の瞳を忍ばせて、こう言った。
「今日、俺と妹が喧嘩してた時、真壁さん、止めなかったでしょ? あれ、何でですか。真壁さんは俺の妹知らないでしょう。あの時はまだ、俺が知らない女の子を引っ張り回してるようにしか見えなかったはずですけど」
 何でですか、と言われて真壁は止まる。その時の自分の思考回路に気付いたからだ。
 ――育て屋の警備ポケが大丈夫だと判断してるから、大丈夫。
「お前、そんなとこまで見てたのか」真壁は唸る。
「知り合いが近くにいると、やっぱり見ちゃいますよ」智志はゆるゆると笑った。
「参ったな」真壁は両手を上げた。
「でも、」智志は再び目を落とす。
「そうやって、警備ポケモンたちの判断に従ってしまうことって、これからどんどん多くなっていくと思うんです。法律って難しいし、法律に違反しているかどうか、法律をよく知ってる警備ポケに判断仰いだ方が早いかもしれない」
「でも、それはおかしいんだな。お前にとって」
「ええ」
 智志は頷く。
「吃驚しましたよ。帰国したら、優吾さんがやってた警備ポケのサービスが全国展開されてましたから」
 おそらく、智志が驚いたのはそのことだけではないのだろう。きっと彼は、人々が警備ポケの判断に頼っているという現実に、驚愕したのだ。

 智志はまた、廊下の向こうを見やった。
「取り調べって、時間が掛かりますね」
「容疑者だからな」
 真壁は自販機でコーヒーを買った。智志に要るかと聞いてみると、自分で買うと答えた。真壁は席に戻ると、コーヒーのペットボトルを開ける。その時、休憩スペースと廊下の間の仕切りを叩く者が現れた。
「おい、真壁」
 警察官の友人、青井守だった。真壁が片手を上げると、青井は躊躇いも見せずにズカズカと彼らの席に近寄ってきた。
「水臭いじゃねえか。こっちに来たのに、顔も見せないなんて」
「悪いな」
 青井は真壁から智志へ目を移した。智志が「お久しぶりです、八坂智志です」と挨拶して、やっと青井はかつて会った友人の弟子の顔を思い出したらしかった。
「おお、久しぶり」
 そう言いながら、空いていた椅子に座る。
「逞しくなってたんで、分からなかったぞ」それから、真壁に顔を寄せると、「遠泉から連絡があったぞ」と囁いた。
「そうか」
「そうか、じゃねえよ。お前の女だろ。どうにかしてくれ」
「あれは誰の女でもない」
 青井の遠泉談義に付き合わされそうな予感がした。真壁は片手を上げて青井を制すると、智志に向き直った。
「さて、ちょっと真面目な話をしていいか」
「はい」
 智志は真壁を見て頷いた。真壁は鞄の中の物をそっと確認する。出来れば、こういう物は使いたくない。
「お前は、“光の時代”のことを、彼女から聞いたんだな?」
 智志は素直に頷いた。
「前々から噂は聞いてたんですけど、妹がそこにいるかも、って考え始めたのは、凛子の話を聞いてからです」
「いつ聞いた」
「二週間前の土曜です」
 真壁は頷く。自分の調子を整える意味もあった。
「それで、色々調べて、今日の集会に妹も顔を出すことを知ったんだな」
「ええ」
 ここまでは、まだ普通だ。真壁は質問を続けた。
「どうやって調べたんだ?」
「それは、」
 智志の返答が急にしどろもどろになった。やはり、と真壁は自分の印象が正しかったことを確認する。“光の時代”について調べたという話だけ、彼は妙にぼかしていた。それに、“光の時代”とクッカバラに対する異様な敵意。二週間の間に、何かあったのだとしか思えない。
「“光の時代”の人に……会ったりとか」
「誰に会った? 具体的に、名前は?」
 智志が黙った。分かりやすい、と思いながらも、真壁は追及の手を緩めない。
「警察が四ヶ月間調べて分からなかった妹の居場所を、二週間で突き止めた。だとしたら、お前は随分捜査が上手いな」
 智志の目を泳ぐ。真壁は智志をじっと見た。
「どうやったか言えないのは、何故だ?」
 智志は答えない。真壁はそうあってほしくないと思いながら、彼を詰問する。
「非合法な手段に頼ったのか?」
「違います」
 やっと、智志がはっきりと答えを口にした。真壁はひとまず胸を撫で下ろすが、肝心なことをまだ聞いていない。
「なら、俺に教えてもらっても構わないな」
「協力してもらいました。ある人に」
 真壁の問いに、智志はそう言うと、「これ以上は」と口籠った。しかし、青井が「後ろめたいんなら、いっそ吐いて楽になれ」と横から口を出して、とうとう智志は白状した。
「結城夏輝さんです」

 動いたのは青井だった。「すまんな、行くよ」と言うと、休憩スペースを出て走っていった。
 青井の足音が遠ざかってから、真壁は机に肘を付いて、智志に疑問に思っていたことを問いかけた。
「“光の時代”が関係しているかもしれないと気付いたなら、妹の事件の担当者にそう言えばいい。捜査する時に、視野に入れてくれるだろ。なのに、お前はそれをした様子もなく、関係ない結城に協力を頼んだ挙句、彼女を庇うような素振りを見せた。何故だ?」
 智志は「えっと」を繰り返した。頭を掻いて、何度か吃った後に、やっと彼は話し出す。
「凛子と話して、“光の時代”が関係してるかもって思い付いて、でも、当然警察もそういうことは捜査してるだろうと思って、言う気もなかったんです。それが」
 智志はかぶりを振る。「信じられないかもしれないですけど」と前置きした。
「あの日、ここにホーの顔を見に寄って、帰る時、偶々、居残りで資料を作り直してる結城さんに会ったんです。結城さんとは年が近かったし、俺もしばらく警察署に出入りしてて、警察官相手に気が張らなくて話しやすかったというか。とにかく」
 智志は息を整えた。
「お仕事お疲れ様です、って挨拶して、そのまま話し込んで。それで俺、“光の時代”に妹がいるかもしれないんだけど、そういう考えって警察の人に言った方がいいか、って彼女に聞いたんです。そしたら、それは警察に言わない方がいい、自分が捜査しておくって結城さんが言って。それで、頼んだら、本当に妹の居場所を探し出してきてくれたんです。その時だったかな。結城さんが、“光の時代”は怪しい組織だから信用しない方がいいって言って。それで、演説の時は、妹がそこに誘拐されたような気分になってたんだと思います」
 智志はそこまで言うと、背もたれに身を預けた。これで全部らしかった。
「そうか」
「はい」
「話してくれて、良かったよ。ただな」
「はい」
 智志が顔を上げるのを待って、真壁は言った。
「俺に一言ぐらいあっても良かったろうが。相談しにくかったのは分かるが」
「あ……いえ」
「ま、今度から困ったことがあったら言ってくれ」
 真壁は語調を努めて明るくした。
「年上の人間にはいくらでも頼れ。でもってその時どうやるか、ちゃんと見とけ。見て盗め。どうせノウハウなんざ天国には持って行けやしないんだ。だったらこっちに覚えてる人間を置いといた方がいい。勿論、自分で解決するのも大切だが、何もかも自分でやる必要はない。頼れ」
 真壁の口調で許されたことを感じたのか、智志に笑顔が戻った。知らない内に大人になったと驚いたが、こいつはまだまだ子どもでもあるのだ。

 〜

「おい、結城!」
 青井はポケモン犯罪課に走って戻ると、叫んだ。しかし、そこに夏輝はいない。残っていた警察官が、「結城さんなら取調室だよ」と青井に言った。
「くそ」
 小さく毒づき、近道を走る。遠回りのルートだと、真壁たちがいる休憩スペースの横を通ることになる。こっちが近道で良かったが、そんなことは瑣末な問題だ。
 途中でヤミカラスのムニンが戻ってきて、青井と並行するように飛んだ。ヤミカラスをボールに戻す手間も惜しく、青井は取調室に入る。
「おい、結城!」
 夏輝はそこにいた。智志の妹と思しき女の子の取り調べに、ちゃっかり立ち会っている。逃げようとした夏輝を、青井は容赦なく取調室の外に引き摺り出した。
「何ですか青井さん! 今いいとこだったのに!」
「いいとこもクソもあるか! こういうことやるなって言ってるだろ!」
 抵抗する夏輝を引っ張るようにして、青井は休憩スペースに向かう。途中で「八坂智志に会ったぞ。お前、また勝手に捜査してたんだってな」と言うと、夏輝はむくれながらも、抵抗をやめる。
「だって」
「話は後で聞く」
 それから、青井と夏輝は廊下を走り出した。ヤミカラスが、今度は彼らを先導するように飛んだ。

 青井が戻ってきた時に、ちょうど真壁と智志の話も一段落したらしかった。
「八坂、すまんかった!」
 そう言って、青井は頭を下げる。
「本来なら、上にちゃんと報告上げて捜査しなきゃならないんだ。それが、こういうことになっちまったから、お前にも色々聞いて、これから手間掛けさせると思う。全てはこいつと、こいつを監督できなかった俺の責任だ。ほら、お前も謝れ」
 そう言って、青井に引き出された夏輝は、不機嫌そうに頬を膨らませている。青井を見上げて、夏輝は「何でですか」と噛み付いた。
「困ってる人がいて、困ってる事を解決して助けたんですよ? それのどこがいけないんですか!」
「やり方が駄目なんだよ、報告も上げず他の課の事件に首突っ込んでその上勝手に捜査資料盗み見て、違法捜査じゃねえか!」
 夏輝はスーツのポケットからクシャクシャになった紙を出すと、広げて青井に突き付けた。
「これ、どういうことか分かります?」
 青井は紙を突き出されて身を引きながら、その文面を見た。しかし、すぐ夏輝に突き返す。
「分からん。とにかく」
「日付!」
 夏輝は紙を引っ張って、青井の目の前に広げる。「見えねえよ」青井が紙から離れた。「で、日付が何なんだ?」夏輝が持っている紙を、真壁も横から覗いてきた。智志と、それから青井の肩のヤミカラスも覗く。捜索願のようだ。今でも旅のトレーナーの失踪は多い。受理した日付は一月下旬、失踪した当人の名は、斎藤隆也。
 青井は声を荒げる。
「この日付がどうしたんだよ?」
「書き換えられてます!」
 夏輝が叫んだ。その言葉に、青井は飛び上がりこそしなかったが、非常に驚いた。夏輝の言葉が本当だとしたら、それは犯罪だ。
「前見た時は七月の終わりでした。覚えてますもん、私。資料が水浸しになった時、作り直す時にちゃんと見ましたから!」
「お前が間違えたんじゃないのか?」
「待ってくれ」
 真壁が二人の間に割って入って口論を止めた。それから、手帳を出してパラパラと捲った。
「結城が正しいと思う。俺は斎藤隆也と、今日、インタビューをする約束だったんだ。そのアポを取ったのが、先月の末。でもって今日は、インタビューの場所に現れなかった」
「きっと、彼の妹さんが捕まったから慌てて書き換えたんだ」
 夏輝がほら見ろ、とばかりに言った。
「さっき取調室行ってきたの。彼女から証言取れたよ。三月くらいに斎藤のバクーダとデスカーンに襲われて、それがきっかけで“光の時代”に入ったんだって。きっと、そういうことしてたのバレるとマズイから、行方不明になってたことにしたんだ」
「お前はまた、捜査に首突っ込んで」
 青井が苦虫を噛み潰したような面で言う。
「だって、仕方ないじゃないですか」
 夏輝が背伸びをした。
「この改竄をしたのが“光の時代”なら、警察に内通者がいるってことですよ! 正攻法で正々堂々と捜査なんて出来ません!」
「胸を張って言うことかそれが!」
 真壁がまた、二人の言い争いを止める為に、割って入ってきた。夏輝はむくれ、青井は渋面で、お互いを睨んでいる。「あの」と智志が声を出した。
「どうした?」
「バクーダっていうのは、もしかしてと思って」
 夏輝が「そうそれ」と声を上げた。
「今日、“光の時代”の演説してる所に、バクーダが出てきて暴れ出した事件があったんですよ」
「知ってる」
 真壁は暗い声を出した。
「俺もそこに居合わせたんだ」
「そうですか」
 夏輝は一旦静まって、それから今度は落ち着いた調子で説明を始めた。
「事件を起こしたバクーダのマイクロチップを調べたところ、“おや”が斎藤隆也であることが分かったんです」
「それで、改めて資料を見て、改竄に気付いたってとこか」
 真壁の言葉に夏輝は頷くと、再び喋り出す。
「暴力的に“光の時代”への勧誘を繰り返していたトレーナーが行方不明になって、それから時を置かずして、トレーナーの持っていたポケモンが暴れ出す。これは何かありますよ、絶対。きっと、“光の時代”に属するトレーナーの暴力行為が表沙汰になりそうだったから、始末しちゃったんですよ!」
「しかし、それにしちゃあ不手際が多い気がするな。クッカバラがそんなことするだろうか」
 真壁が疑問点を突くと、夏輝は不満そうな顔をした。「早く始末しなきゃいけなかったとか?」そう言ってはみるものの、夏輝が自分で納得していないことが分かる。
 議論が尻すぼみになったところで、智志が「あの」と声を上げた。
 智志の視線の先を見る。真壁の知らない警察官と、彼に連れられた智志の妹が廊下にいた。取り調べは終わったらしい。
「帰れるんですか」と警察官に確かめると、智志は妹を連れて一足先に帰った。
「騒がせたな。俺も帰るよ」
「ああ」
 荷物をまとめた真壁に、青井は上の空で答えた。
「歓迎できなくてすまんな」
「いつものことだろ」
 そのまま、休憩スペースから真壁を見送った。

 来客がいなくなると、夏輝が早速張り切って声を上げた。
「青井さん、こうなったら徹底的に調べましょうよ! 表に出てないだけで、“光の時代”がトレーナーを脅して入会させたり、自分たちに不利益のある会員を始末したり、そういう証拠がもっと出てくるかもしれませんよ!」
 張り切って走り出した夏輝を追う。目を離して、また好き勝手されたらことだ。夏輝の背中を追いながら、意外と足が速いと思った。それとも、青井の体力が落ちてきているのか。
「青井さん、早く行きましょうよ」
 前を行く夏輝の更に前方に、ヤミカラスが飛び出た。夏輝が資料室へ向かう。とその時、ヤミカラスが何を思ったか、廊下いっぱいの黒い霧を吐き出したのだ。
 青井ははぐれないよう、夏輝の腕を掴むと、霧から出るように後ろへ下がった。同時に、ヤミカラスに呼びかける。
「ムニン、何やってんだ、ストップ!」
 だが、ヤミカラスは一向に黒い霧を止めない。それがするべき仕事だというように、せっせと霧を生み続けている。
「ムニン、ストップ! 黒い霧、やめ!」
 青井がどれだけ言っても、ヤミカラスの黒い霧は止まらなかった。おかしい、と青井は思った。ムニンは遠泉に懐柔されてはいるが、だからといって青井の命令を無視したことなど、一度もなかったのだ。
「ムニン!」
 何度目かの呼びかけで、ヤミカラスのムニンはやっと黒い霧をやめた。そして、飛び上がると、そのまま青井の横をすーっと通り過ぎていった。
「本当にどうしたんだ、ムニン」
 夏輝の腕を引いたまま、追いかけた。資料室から十数メートル離れた、その時だった。

 爆音。

 それ自体は、鼓膜がいかれて、しっかり聞こえなかった。青井の記憶に残ったのは、むしろ爆発の副作用で窓ガラスが割れる音だった。
 青井は夏輝を庇うように肩に腕をやって、廊下に伏せた。音が収まってから、振り向く。資料室が火を吹いていた。
「火事だ!」
 誰かが叫ぶ。モンスターボールの開く音が、火の燃える向こうから聞こえた。
「ノルン」
 青井は我に返って、自分のラプラスを出した。
「消火を頼む」
 ラプラスは頷くと、狭い廊下にヒレを引っ掛けて痛そうにしながらも、口から水を吐き出した。直線的に飛ぶ水は、延焼を防ぐのには役に立ったが、部屋の中の資料を守るのには毛程の役にも立たなかった。
 熱気に混じって、肉の焼ける匂いが鼻に届いた。
「捜査資料が……」
 夏輝が悔しそうに呟く。青井は彼女の腕を押さえると、首を振った。

 消防の現場検証で、原因はバクーダの遺体だと分かった。炎ポケモンの死後、急速に腐敗して体内にガスが溜まり、炎袋で引火して爆発することが時々ある。今回の火事もそれによるものだろうと判断された。死傷者が出なかったのは、不幸中の幸いだった。バクーダの遺体が資料室の近くに運び込まれていたのは、警察の管理の不徹底としか言いようがない。
 夕方のニュースでは、そう発表されたが、しかし。
「腑に落ちねえよ」
 青井は腕に乗せたヤミカラスに話しかける。ヤミカラスのフギン。青い首輪をしている。
「わざわざあんな話をした時に限って火事になんなくてもな」
 そして、年を取ると独り言が多くなると呟いてから、こう言った。
「そういや警察署にも、“光の時代”で斡旋してもらって来た奴が、何人かいるんだよな。バクーダの遺体を運んだ中にもいたようだし。そういうの全部が、偶然かねえ」
 ヤミカラスのフギンは、カアと一言鳴いた。ヤミカラスはポケモンの中でも知能が高いと言われているが、果たしてこの話をどこまで理解しているのか。
「どうだろうな、遠泉」
 理解度は、青井も変わらない気がした。

 〜

 真壁は事務所に戻って、荷物を下ろした。
 まだ日が落ちるには早い時間帯だが、メタグロスのトビイシは先に帰ったらしい。人間のライターと一緒で、トビイシも、締め切り直前でなければ仕事を定時に切り上げて帰るのだ。今日は真壁もおらず、やることが見つからなかったのだろう。
 念の為、戸締りを確認してから、真壁は自分の椅子にどっかと座った。冷房を付け、これでもかと設定温度を下げる。だが、すぐに寒風が吹き付けてきて、設定温度を上げる。
「意のままにはならんもんだな」
 独り言ち、窓の外を見てポッポのサイハテが戻ってきそうもないことを確認してから、真壁は鞄に手を突っ込んだ。
 中から取り出したのは、新しいICレコーダーだ。前に使っていたカセットテープレコーダーがとうとうお釈迦になり、仕方なく買い替えた物だが、使ってみるとこれが中々便利だった。小ささより何より、一度録音ボタンを押すと、カセットテープを入れ替る手間がないのが良い。……盗聴にも便利だ。この録音は後で消すつもりだが。
 真壁はICレコーダーの録音を止め、再生を選ぶ。今日の智志との会話が、最初から訥々と流れてくる。智志の様子がおかしかったから、色々聞き出して、もし彼が違法な何かに関わっているようなら、この録音を出してでも止めるつもりだった。まあ、そういうことがなくてよかったと、真壁は再び安堵する。
 今日の会話を、ずっと聞いていく。智志の妹の話。智志や夏輝が、“光の時代”について疑いを抱いていること。今日インタビューするはずだった斎藤という男が行方不明で、しかも捜索願を出した日にちがいじられていた。斎藤には更に、脅迫で“光の時代”のメンバーを増やしていた疑いがある。
 早く始末しなきゃいけなかった。夏輝の声がICレコーダーから流れてくる。真壁はその言葉に引っ掛かりを覚えた。早く始末しなければならなかった理由、そこに、真壁とのインタビューが関係するのだろうか? 思えば、斎藤の方から面白いネタがあると真壁の事務所に持ち込んできたのだった。
 だが、その面白いネタが何だったかは、分かりそうにないな。真壁は背もたれに身を預けた。斎藤がやっていた悪行それ自体の話だったのかもしれない。あるいは。真壁は別の可能性を考える。斎藤は数年前のイッシュブームで、イッシュ地方に足を伸ばしている。時本瞬、すなわちクッカバラの父親もイッシュ地方出身だというから、そこで何か掴んだのか。
「妙な事件に出くわしちまったな」
 真壁は窓の外を見る。まだサイハテは帰ってこない。

 〜

 絵里子は帰り道の途中で足を止めた。智志も足を止める。
 会話はなかった。どこか遠くから、子どもの嬌声が聞こえてきた。それが二人の間に存在する音だった。
 やがて、絵里子は家とは違う方向へ体を向ける。
「おい」
 智志が呼び止める。絵里子は逃げ出しはしなかったが、智志の方を見ることもしなかった。
「友達ん所に行く」
「家に戻ろうよ」
「あの人いるから嫌」
 再び、二人の間に沈黙が降りた。
 智志は絵里子を見た。もう十七歳だ。暫く見ない間に、色々と成長して、大人っぽくなっている。旅に出る前は、色々と発展途上で、もっと子どもだった。成長の速さに驚いたけれど、それでも彼女はまだまだ子どもで、それが智志には歯痒かった。自分もまだまだ子どもだからだ。
 遠くの道を、自動車が走っていく。エンジンの音が聞こえた。
 智志は言葉を選ぶ。
「でも、いつまでも帰らないってわけにもいかないだろ」
 妹は俯いている。高いヒールのサンダルで、地面を無為に蹴っていた。
 沈黙。
 血が繋がってるから分かり合えるなんて、嘘だ。一緒にいる時間が長くなりがちだから分り易いだけで、別の人間という点では、赤の他人と変わらないのだから。
 智志はそんなことをぐるぐると考えて、また黙っていた。でも、いつまでも妹をこうやって放っておくことは出来ない。俺が兄貴なんだから、年上なんだから、しっかりしないと。
「ずっと旅を続けるわけにもいかないと思うんだ。友達の所を渡り歩くわけにもいかないだろ。いつかどっかで職見つけて、腰を下ろさないと。今回が節目だと思って、一回帰ろ。母さんともちゃんと話し合ってさ」
 絵里子はこくりと頷いた。そして、二人して家路を辿っていく。智志の言葉が、妹に通じたのかどうかは分からない。でも、ひとまずは家に帰ってくれる気持ちになってくれて、智志はホッとした。裁判のこととか、色々考えなきゃいけないことはあるけど、とりあえず、ホッとした。

 鍵を開け、家に入る。
「ただいま」
 センサーライトがパッと点灯して、二人を出迎えた。
 妹には一年半振りの家だ。智志に続いて、妹が家に上がる。「ただいま」と彼女は小さな声で言った。
「おかえり」
 智志は彼女に言った。
 絵里子は廊下を走って、自分の部屋に向かった。その途中でガラリとリビングの扉が開く。
「絵里子、帰ってたの」
 母親が現れた。絵里子は顔を伏せて、母親の前を通り過ぎようとする。だが、母親が廊下を塞いだ。
「待ちなさい」
 それから、智志の方を見る。
「智志も、ちょっとこっちに来なさい」
「でも母さん、絵里子は疲れてるから、今日は休ませたら」
 智志の言葉に反応したかのように、絵里子がまた、母親の横を通り過ぎようとした。だが、母親は絵里子を通さない。
「駄目。今話さないと」
 頑として、受け付けない構えのようだった。
 智志は大人しく母親に従った。こういう時の彼女は、本当に、梃子でも動かない。大人しく従って早めに切り上げるのが得策だと、智志は知っていた。
 智志は母親の後に続いて、リビングに入った。ゴワゴワした、肌触りの悪いソファ。低い机の上には、コップに入った麦茶が三つ、置かれていた。こちら側に二つ、向こう側に一つ。母親が向こう側に座った。遅れて、絵里子が智志の隣に座る。気不味い雰囲気を破ったのは、母親だった。
「智志。今日電話があったんだけど、どういうことかしら」
「え……」
 何の事なのか、全く心当たりがない。会社だって今日は休みだったから、あの場所へ行ったのだ。
 母親は不機嫌そうに言う。
「絵里子が、事件に巻き込まれたんですって?」
 それで智志は、ああ、と合点した。事件に巻き込まれたという言い方は好きではないけれど。
「四月の時点で連絡が来てたらしいけど。お母さん、全然知らなかったわ」
 母親は嫌味たっぷりに言った。
「心配すると思って、言わなかったんだ」
 智志が言うと、母親は鼻の穴を膨らませて「そう」とだけ言った。そして、絵里子に目を移した。
「絵里子、どうするの?」
 絵里子は話を聞いていなかったのか、顔を上げると、「何を?」と聞き返した。母親はますます不機嫌そうになりながら、言う。
「これからどうするの? 学校に戻るの、それとも就職? 今からだとどっちもきついと思うけど」
 絵里子は眉根を寄せ、唇を一文字に結んで、母親を睨み付けた。
「母さん、その話、今すること?」
「智志は黙ってなさい」
 母親の強権発動だ。癇に障ったので、智志はすかさず言い返そうとした。
 だが、それより先に絵里子が発言する。
「クッカバラさんの職業訓練学校に行く」
 智志は妹を見た。焦り半分、苛立ち半分といったところだ。彼女は“光の時代”に、脅されて入ったのではなかったのだろうか。なのに、クッカバラの作った職業訓練学校へ行くって? “光の時代”で、クッカバラに傾倒するような事でもあったのだろうか。洗脳、という言葉が智志の頭に浮かんだ。
 思い悩んで言葉に詰まった智志に先んじて、母親が口を開いた。
「それ、大丈夫なの?」
 思いがけず、母親も智志と同意見のようだった。いや、ただ単に、子どものやることは全て反対したいだけなのかもしれないけれど。
 妹は答えた。
「クッカバラさんは大丈夫」
「でも、お母さん心配だわ」
 出た、伝家の宝刀“お母さん心配”だ。これを言えば、大概の子どもは黙ると思っている。
 妹は剥き出しの膝小僧を擦った。
「そんな変な所じゃないってば。実績もあるし、今から高校行くよりマシ」
「ちょっと宗教じみてない? あそこ」
「そんなことない」
 妹は膝小僧を擦るのをやめた。
「確かにクッカバラさんは絶対神っていうの? 信仰してるし、他の人も、信じてる人いるけどさあ。そういうの、信じるのも自由だし信じないのも自由。だから大丈夫」
 母親は、納得はしていないものの、この事については引き下がる素振りを見せた。しかし、引き下がるのは宗教関係の議論だけで、妹の今後について、彼女の意志通りに運ばせる気はないのだった。
「でもね」
 母親は言う。
「お母さんはそういう新しい学校より、もっと前からある、きちんとした学校に行ってくれた方が安心だわ」
「古かったらきちんとしてるの? それどういう判断基準なの」
 妹は顔を逸らして、目だけ母親の方に向けて言った。
「古い学校とか、耐震基準問題になってるじゃん、最近」
 母親は鼻を膨らます。
 やれやれ、と智志は思った。これじゃいつもの喧嘩だ。
「智志は?」
「え?」
「お兄さんでしょ。絵里子に何か言ってやって」
 絵里子が智志を睨む。俺はいつから母親の味方になったんだ、と智志は心の中で叫んだ。
「俺は」と言い淀む智志に、絵里子が
「黙ってて」と叫ぶ。
「絵里子、お兄さんになんて口の聞き方するの」
「私の問題でしょ? 兄貴は関係ない」
「関係あるわよ、家族なんだから」
 智志自身は、母親と同じく、家族だから関係あると思っている。だが、それを先に母親に言われると話をし辛い。
「俺は」
 智志は、今度は声を大きくして言った。
「絵里子が学校行くのはいいと思うよ。“光の時代”が経営してるとこに行くのは、ちょっと不安だけど」
「兄貴まで、そういう偏見」
 絵里子は智志からも顔を逸らした。
「まあ」智志は彼女を宥める用の言葉を選んだ。
「クッカバラさんってああいう経歴の人だし、急に出てきて活躍してるから、ちょっと警戒しちゃうんだよ」
 そして、母親が何か言う前に、智志は絵里子に聞きたかったことを聞いた。
「そもそもさ、絵里子が“光の時代”に入ったのって、どうして?」
 母親が口を真一文字に結んだ。やや青ざめている。どうやら警察からも、そこまでは聞いていなかったらしい。あるいは、当然知っていると思われたのか。
 絵里子は智志をチラリと見て、そしてまた目を逸らした。彼女も口を結んでいる。そういう表情をすると、母と妹は、とてもよく似ていた。
「それこそ兄貴には関係ないでしょ」
「それ、どういうこと? 絵里子、お母さんに分かるように説明して」
 母親に火が付いたようだ。妹が答えないでいると、母親が「絵里子」と声を荒げた。
「分かってるよ。今どう答えようか考えてんじゃん」
 妹がうるさそうに言った。そして、ミニスカートの裾を、引き破りそうな勢いで撫で付けた。
「黙って聞いてよ」
 絵里子はそう前置きした。
「前に、ちょっと他のポケモントレーナーに襲われたことがあって、その時助けてくれたのが」
「襲われた!?」
 母親が素っ頓狂な声を上げた。
「襲われたってどういうこと? その時なんでお母さんに言わなかったの?」
「黙っててって言ったろ!」
 妹の雄叫びに、母親は身を引いた。だが、顔には不満と不愉快がくっきりと表れている。妹がおしとやかでないのが、気に食わないのだろう。
 母親が不機嫌を全開にして、黙る。絵里子は強いて智志に話しかけるようにした。
「私、ポケモントレーナーに襲われて、ちょっとやばかったんだけど。その時に“光の時代”の人が助けてくれて。それで、一人で旅をするより、皆で行動した方がいいよって言われて、それで“光の時代”の人と一緒に行動することになったの。時々集会場にも出入りして。結構あそこも居心地いいし」
 クッカバラが作った、トレーナー用の宿のことだろう。“光の時代”の集会場にも使われているという話は本当らしい。
「クッカバラさんも偶に見に来るし。兄貴は嫌いみたいだけど、あの人そんな悪い人じゃないよ」
「その襲ってきたトレーナーって、“光の時代”の人じゃ」
「そうじゃない!」
 智志が質問を終わりまで口にする前に、絵里子が声を荒げた。
「警察でも聞かれたけど、斎藤は“光の時代”にいなかった。あいつ、絶対“光の時代”の評価を落とす為にそういうことやってたんだよ」
 智志は口を閉じた。これは単なる傾倒で済むのか? そうあってほしいと智志は思った。
「確かに、“光の時代”は、借金で夜逃げしてきた人とか、学校とか会社でイジメに遭って旅に出た人とか、色々いるけどさ。基本、良い人ばっかりだよ」
 絵里子はそう話を結んだ。

 ややあって、母親が口を開いた。
「それで」
 智志は麦茶に手を伸ばす。いつの間にか、すっかり汗をかいていたようだ。コップも、智志も。
「絵里子は、その職業訓練校に行くっていうことでいいのね」
 絵里子も麦茶に手を伸ばして、頷いた。母親が続ける。
「その学校が始まるのはいつ?」
「いつでも」
 絵里子は美味しそうに麦茶を飲むと、機嫌良さそうにそう答えた。話は、彼女の望む方向に進んでいる。母親も絵里子の“光の時代”へのハマりっぷりを見て、引き離すのを諦めたのだろうか。あるいは、引き離したら逆効果だと思ったのか。
「いつでも?」
 聞き返した母親に、妹が頷く。
「トレーナーが旅を辞める時って、特に決まってないでしょ? だから、それに合わせて、いつでも入学できるようになってるの」
 なるほどと智志は相槌を打った。同じ理由で、今でも通年採用をしている企業が多い。職業訓練が終わった順に送り出せるから、職業訓練校も柔軟にやっているのだろう。それに対応できるくらいの人員を揃える金は、あるのだろうし。
 智志は凛子のことを思い出した。彼女も今就職活動中だが、上手くいっているのだろうか。
 母親は麦茶を飲まず、智志と絵里子の中間ぐらいの場所を見つめて、「いつでもね」と呟いた。それから姿勢を正すと、言う。
「じゃあ、明日にでも入学案内を取って来なさい」
「え?」
 急なことを言い出した母に、絵里子は驚きの声を上げる。
「そういう所なら手続きも早いわよね? あと、駅前に写真屋さんがあるから、帰りに寄って写真も撮っときなさい。どうせ要るから。入学金の振り込みは用紙がいるだろうから後で。そうね、私は明日、履歴書と筆記用具と学校に持って行けそうな鞄を見繕って買ってくるわ。それから、中学に内申書を貰わないといけないと思うけど、絵里子、自分で電話する?」
 明日の予定をあっという間に作り上げてしまった母親を、智志はただ呆然と見つめていた。頬に視線を感じて、絵里子が智志を見ていたことに気付く。絵里子も、母親のこの急激な変化には付いていけていないようだ。
「あの、裁判とかは?」
 おずおずと切り出した智志を、母親が一蹴した。
「裁判までの間にも学校通えるでしょ!」
「え、うん、まあ」
 通えるのか?
「でも、クッカバラさんの職業訓練校って遠いけど」
「電車で行けばすぐです!」
 次は絵里子が母親に一蹴されて、黙った。
 そういえばこうだった、と智志は思い出す。最近は母親の感情的な面が目に付いていたが、やると決めたら即実行という性分でもある。
 母親の決定で、今夜の会議はお開きとなった。絵里子は麦茶を飲み干すと、伸びをして、自分の部屋に戻っていった。心なしか、肩の荷を降ろしたような顔をしている。自分のいるべき場所が分かっている状態というのは、心が安まるのだろう。その点では、母親の決定力に感謝だ。
「母さん」
「裁判関係は智志がやってね」
 それも決定された。
 でも、弁護士や裁判については、智志も前々から調べていたし、それで問題ないだろう。智志は母親に頷いた。
 母親も、智志たちが帰ってきた時よりは落ち着いた様子で、今は麦茶をチビチビと飲んでいた。
「母さんはいいの? 学校」
 絵里子が出ていった後を見つめて、智志が尋ねる。母親は事も無げに答えた。
「どうせ高校行かせても勉強しないでしょうから」
「そう」
 智志は飲み終えた麦茶のコップを机に置いた。
 リビングを蛍光灯が煌々と照らしている。話し合いが終わって、蛍光灯も、どこか照らす目的を見失っているように見えた。
「智志」
「何?」
「今度から、お母さんにもちゃんと言ってね。家族なんだから」
「分かった」
 家族だから。さっきは受け付けなかったその言葉が、今はすんなりと受け入れられた。
「後は片付けとくわ」
「ありがとう」
 母親を置いて、智志も自室へ戻った。

 結局、斎藤隆也は“光の時代”の人間だったのか、そうでないのか。今日聞いたことを真壁にメールで知らせようと思って、智志は自分のノートパソコンへ向かう。
『真壁さんへ
 今日の夕方、妹が妙なことを話していました。斎藤隆也という人についてですが、妹が、彼は“光の時代”の人間じゃない、と言っているのです。僕個人としては、“光の時代”も大きな組織になってきたから、単に顔を合わせなかっただけだと思います。妹は斎藤を個人的に知っているみたいです。しかし、あまりにも強く否定するので、少し気になっています。
 八坂智志』
 何度か見直して、送信ボタンを押した。それから宛名を変えて、夏輝にも同じ内容を送る。ノートパソコンを閉じてから、風呂に向かった。妹は、今日はよっぽど疲れていたらしい。部屋のドアは開けっ放し、電気も点けっ放しで、ぐっすり眠り込んでいた。行き掛けに電気だけ消した。湯船に浸かる気にはなれなかったので、シャワーだけさっさと浴びて風呂を出た。絵里子はやはりぐっすり眠っていた。さっきのメールに、何か返信は来ているだろうか。あまり期待せずに、智志はノートパソコンを開く。
 メールが来ていた。
 封筒に入った便箋という形で、キーボードの上に、それは置かれていた。
 智志は呆然とそれを持ち上げて、ひっくり返した。差出人はなし。もう一度ひっくり返す。宛名には「ヤサカサトシサンヘ」と書かれているだけ。
「智志、もうお風呂上がったの?」
 ノックの音がした。智志は生返事をしていたらしい。母親が顔を出して、「あ、もう入ったのね」と言った。
「母さん」
「どうしたの?」
「これ、郵便で届いてたやつ?」
 智志が封筒を見せる。
「いいえ、今日は貴方には何も届いてないわよ。絵里子じゃないの」
 その絵里子は寝ていたのだ。
 母親が去った後で、智志は便箋を出した。片仮名ばかりで読み辛いが、読めないことはない。パソコンをチェックしてみるが、真壁と夏輝からの返信はない。智志は便箋に目を落とした。

『ヤサカ サトシ サンヘ
 トツゼン ノ オテガミ シツレイ シマス
 コノ テガミ ハ アトデ カナラズ ヤイテ クダサイ
 アマテラス ヲ マモッテ クダサイ オネガイ シマス』

 やはり差出人の名前はなかった。
 智志はそっと腰のボールに手を触れた。アマテラスを守れ、だって?
 手紙の指示通り、キッチンで封筒と便箋を焼きながら、智志は文面を何度も頭の中で繰り返していた。
『アマテラスを守ってください、お願いします』
 一体、何故? 俺は、アマテラスは、何に巻き込まれているんだ?

 〜

 智志の部屋の電気が消えた。
 それを見守った小さな人影が、向きを変え、八月の熱帯夜の中を歩き出す。
「ねえ」
 ファー付きの赤いフードを被った少女が、独り言ちた。
「これで良かったのかな」
 その声には、少女とは思えない、熟れきった疲労が滲み出ている。少女の手の、真っ白なモンスターボールがピクリと動く。
「もう、変わらないんじゃないかな」
 モンスターボールが抗議するように揺れた。
「うん、でも」
 少女の赤い唇が動く。
「足掻けば足掻く程、悪い方向に転がっていく気がするよ」
 今の少女には、二週間前のように思い詰めた感じはないものの、覇気もなかった。少女は行く当てもなく、ただひたすら足を動かしていた。
「あの後、資料にちゃんと水を掛けた。でもそれじゃあもう駄目だったんだ」
 モンスターボールがひとりでに宙に舞った。
 少女が顔を上げる。暗闇に半分溶けたポケモンを、緑の目が捉える。金色の棺から伸びた四本の闇色の腕。デスカーン。腕を右へ左へ、上へ下へと、酷く忙しなく動かしている。どこか、様子がおかしい。
 デスカーンは四本の腕を少女に伸ばした。同時に棺がパカリと口を開ける。少女の反応速度では付いていけない。少女は、底知れない黒一色で出来た、デスカーンの棺の中を見た。
 刹那。
 緑がかった光が辺りに散らばった。デスカーンの棺の蓋が、激しく閉じた反動でまた開く。その中には何も入っていなかった。少女も、真っ白なモンスターボールも。
 デスカーンは獲物がいないことに苛立ったようで、棺とその蓋とを激しく擦り合わせた。一頻り擦り合わせて不快音を撒き散らすのに満足すると、今度は四本の手をペタリと地面に付け、四足歩行の動物のように、這って移動した。
「おい、さっきの奴、仕留めたのか?」
 移動する先に、男の声。デスカーンのトレーナーのものらしい。男は、デスカーンに負けず劣らず苛立っていた。
「仕留めたのか?」
 男は繰り返す。デスカーンは答えず、這って距離を詰める。男はいよいよ大声を上げた。
「仕留めたのか、って聞いてんだ! いいか、あいつを消さないと、もうクスリも貰えないんだぞ。おいデスカーン、聞いて」
 棺の閉じる音。くぐもった声、そして、静寂。


  [No.1120] 光の時代 #5 投稿者:咲玖   投稿日:2013/07/06(Sat) 23:39:48   37clap [■この記事に拍手する] [Tweet]


 #5

「信号、変わってるぞ」
 助手席に座る英の言葉で、智志は我に返った。
「すいません」
 慌ててアクセルを踏み込む。急発進で、英の頭がガクリと後ろに下がった。
「本当にすいません」
「次、左折な」
「はい」
 ウィンカーを出し、左へハンドルを回す。横断歩道の手前で止まった。歩行者はともかく、自転車が縦横無尽に飛び交っていく。その僅かな切れ間を縫って、智志の車の右横を、バイクが音を立てて通り過ぎていった。
 智志の運転する車が動き出したのは、歩行者側の信号が赤になってから、やっとだった。トロトロ発進して道に入る。業を煮やした後続車が、智志の車を無理矢理追い越していった。
「インフラが整備されても、人の心の整備までは追い付かないらしい」
 英が呟いた。
「すいません、僕、運転が下手で」
 社用車でこんな運転ばかりしていたら、査定に響きそうだと智志は思う。
「いや、構わないよ」
 英はしれっと言った。
「ただ、もう少しスピードは出してもいいかな」
「はい」
 智志はスピードメーターを睨みながら、そっとアクセルを踏み込んだ。色付き始めた街路樹が、窓の外を少し速めに流れていく。

 バクーダのことがあってから、もう一ヶ月が過ぎていた。
 会社に行っていると、日々がさも日常のように流れていく。そのことに戸惑いもしたし、安心もした。
 なんとしても連れ戻さねば。そう思って、絵里子の腕を引っ張った。あの日の記憶が薄れるのは、悪くない。別に絵里子の腕に痣なんて残っていないし、絵里子も学校で上手くやっているようで、智志にも「帰って良かった」と言っているぐらいだし、後悔すべきことは何もないはずなのだけれど。それでも時々、もっと上手なやり方があったような気がして、ドキリとしてしまう。

 目の前で車が詰まっていると思ったら、工事中か何かあるようで、智志と同じ方向に走る車が全部、ウインカーを出して右に逸れていく。前方の車が退いて、その何かが見えた。
「ガーディの遺体か。ハザード点けて止まろう」
「あ、はい」
 とっさの指示だったが、ハザードランプはすぐに灯せた。ガーディの数メートル手前で止まる。後ろからクラクションを鳴らされた。英はシートベルトを外した。
「運転を代わろう」
 そして、さっさと降りた。
 智志は「すいません」とまた謝った。サイドブレーキを引き、ギアをPに入れる。出るタイミングを何度も逃して、まごつきながら下車した。智志のすぐ横を、自動車が猛スピードで走り抜けていく。急に止まった自分も危なっかしかったが、これも危ない。智志は車に張り付くようにしながら前方を回って、英の元へ向かった。
 英は携帯電話を切った。
「今、保健所に連絡した」
「そうですね。それがいいと思います」
 何と答えていいか分からず、智志はそれだけ言ってガーディに目をやった。その目が止まる。
 金色のタグ。
「行くよ」
 英に促されて、智志は助手席に乗り込んだ。
 英は苦もなくガーディを避けると、調子良く走り出した。
「ま、運転なんて慣れだ、慣れ」
「すいません」
 気のいい先輩に、智志はまた謝った。
「そんなに謝るな。その内腰が折れるぞ」
 自動車を難なく操りながら、英は快活に笑う。智志はまた「すいません」と言いそうになるのを押さえながら、今の時期、彼女と仕事をすることになって良かったと思った。
 九月の再配属からこっち、彼女の元で働かされている。英を一言で表すなら、“有能な変人”である。もう一言付け加えるならば、“男装の麗人”あたりか。それ故長らく一人管理職をやっていた彼女と、しょっちゅう上司に真っ向から反対してしまう智志。この組み合わせは、要するに、扱いに困っているということなのだろうなと智志は思う。
「仕事には慣れてきたか」
「はい」と智志は答える。ソジー・英という女性は分かりやすい。「仕事に慣れてきたか」と問われれば、それはその通りの意味だった。彼女が笑っている時は例外なく機嫌の良い時だった。時々シルバーブルーの目を怪しく光らせることを除けば、彼女には裏表がなくて、付き合い易い。
「その割りにはミスが多い」
「はい、すいません」
 その代わり、言葉は率直だ。彼女が言うからには、ミスが多かったのだろう。ぐうの音も出ない。
「何か、仕事以外に気を取られることでもあるのか?」
 赤信号。英の運転する車は、すっと停止線に吸い付くように止まる。ブレーキペダルを踏んだまま、彼女は智志の答えを待った。
「はい」
 青信号。車はGを感じさせることなく発進した。
「そうか。建前上は、仕事をしている時は仕事に集中するのが望ましい」
 英がしかめ面で言った後、笑顔を作った。
「だが、人間である以上、常々そうもいくまい。話して気持ち整理のつくことなら、話すと良い。それから私はある例外を除いて口が固い。話すなら私にすると良い」
 智志は思わず笑った。あまりにも率直な物言い。英も笑っているということは、ここは笑って良かったのだ。
 しばらく笑って、智志は前を向いた。この道は常緑樹が植わっているらしい。緑の並木が続いている。
「話したいのは山々ですけど」
「けれど、何だろうか?」
「ある例外、って何ですか?」
 彼女の目がキラリと光った。赤信号だったはずが、もう青に変わっている。
「そうだな」
 英は車にもう一度スピードを吹き込んだ。
「一種の雇用契約と言うべきか」
「雇用契約?」
「案ずるな。会社の規約は犯していない」
 そう言って彼女はまた愉快そうに笑った。
「金銭の授受はないが、契約がまだ有効でな。その人物に奉仕の義務がある。謂わば、ポケモントレーナーとボールで捕獲されたポケモンの関係だと思って貰えればよい。で、その義務の中には情報提供も含まれていてな」
 智志は鞄の上から、そっとアマテラスのボールを押さえた。人とポケモンの関係を、そういう風に考えたことはなかった。
「アマテラスにも、あ、僕のポケモンの名前ですけど。奉仕、させてるんですかね」
 智志はポツリと零す。英は「アマテラス?」と別の所に引っ掛かったようで、目を丸くしていた。
「すいません、名前は僕が八歳の時に付けたので、あまり言わないでもらえますか」
「そうするよ」
 英は片目を閉じると、話題を戻した。
「いや、人間に奉仕するのと同等に、色々貰っているんだよ。契約とはそういうものだ」
「そうですか」
 智志の表情を読んだらしい。英が言った。
「ボールで捕獲するというその行為自体が、そのポケモンと契約できるという力量の証明なのだよ」
「よく、分かりません」
 智志は正直に答えた。今日は何だか、青信号が多い。
「分からなくとも無理はない」
 英は鷹揚に答えた。
「過去には、操り人や呪術師と呼ばれる専門職のみがポケモンを従えていた。その当時はポケモンと契約する手続きも煩雑で、儀式めいたものだった。そういう専門的な手続きをこなせる人間こそが、ポケモンを従えられるのだと、人間にもポケモンにもそう思われていたんだ。
 だが今はどうだろう。モンスターボールが高性能化して、上質なボールを使えば、そこいらの野生ポケモンぐらい、誰でも簡単に従えられる。秘密めいた、技術的、儀式的なものはなくなって、誰でも簡単にポケモンと契約できるようになった。と同時に、契約の意味合いも薄れてきた。だからだろう、人は要求される条件を満たしてポケモンを従えているのだが、それを意識しない人間は多い。ポケモンが人間に奉仕するという契約は、同時に人間がそれに値する代価を払うという契約でもあるのだが、それも忘れているね。
 ま、人間の叡智もポケモンを従える力の内さ。それに、契約が満たされていなければ、ポケモンの側から契約を破棄するものだ。だから、傍にいてくれる内は安心して良い」
 英はそこまで言って、ニッコリ笑った。智志にはまだ、理解が出来ない。
「それは、酷い扱いをしたら、モンスターボールがあっても、ポケモンは逃げるということですか?」
「例えを上げるならば、そういうことだね。逆に言えば、そんなことが起こらない内は大丈夫さ」
 また少し考えてから、智志は口を開いた。
「でも、あんまりそういう話は聞きません。ポケモンって多少の理不尽は我慢して、人間に付き合っている気がします」
「おっと」
 右折するのに、右折レーンを見逃しかけた。ウインカーを出すと同時に右車線に入り、停止する。英にしては危なっかしい運転だ。
 赤信号が変わらないのを確かめてから、英は智志の問いに答えた。
「話を聞かない、というのと、事実が存在しない、というのは別問題だ。グラエナは骨まで噛み砕く強靭な顎を持っているし、デスカーンは獲物を体内に閉じ込めたまま、百年以上開かないこともあると聞く」
 英は智志の横顔を窺って、今度は軽い調子で言った。
「ま、確かにポケモンは契約を破棄したがらない。だが、それは人間も同じじゃないか? 最近よく言うじゃないか、ブラック企業」
 右折信号が灯る。車が発進した。
「まあ」と曖昧に相槌を打って、智志は黙った。英も喋らなかった。
 静かに走る車内で、智志が考えていたのは凛子のことだった。彼女ともう長いこと会っていない。智志の方もゴタゴタしていたし、凛子も、就職先が決まらなくて落ち着いていないようだった。彼女、どうしてるかな。
「おや、目的地に着いてしまった。君の人生相談を受けられなかったな」
 言いながら、英はコインパーキングに難なく駐車した。取引先の入っているビルが、もう目の前にあった。
「仕方ない。人生相談は帰りの車の中でやろう。ま、今回は私の隣でそれっぽく頷いとけばいいから」

 この時の商談はダメ押しの確認みたいなもので、すぐにまとまった。智志は結局、敬語やビジネスマナーに気を付けながら、英の隣で頷いているだけだった。早く英のサポートぐらい出来るようになりたい、といった意味のことを漏らすと、
「サポートなどと小さいことを言わない。私の場所を奪うくらいの気持ちでやれ」
 と前半は苦味を含ませて、後半は明るい口調で、助手席の英が言った。次の営業先までは智志の運転だ。
「いつまでも、私が上司でいるわけでもないのだから」
 はい、と智志は大人しく返事をした。
 二つ目の取引先に着くまで、智志は運転に集中していて喋れなかった。取引先はハナダシティに出店予定のデパートだ。そこに会社直営のインテリアショップを出したいのだが、中々折り合いがつかない。こちらはデパート内のこの土地が欲しい、あちらはその土地を出したくない、という感じで話が平行線を辿りそうだったのだが、英の口八丁手八丁で、何とか先方にこのくらいなら出せるかも、と思わせた。
「いい感じだよ。後は同じ階にいい店が入るといいな」
 保留を貰った帰りに、英が言った。
「八坂はショップが好きなんだっけ」
「ええ、まあ」
「じゃあ将来は店長候補かな」
「そのつもりです」
 ふふ、と英が満足そうに笑った。
「私が取った場所の担当になるかもしれないな。苦労して取ってきてるんだから、潰さないでおくれよ?」
「ど、努力します……」
 それから英は店舗内のレイアウトについて少し話した後、車に戻って、今度は運転席に座った。
 さてと、と英は黄昏始めた道路に向かってロービームを投げ掛けた。そして、しばらくの間、無言で車を走らせていた。
「妹が事件に巻き込まれて」
 静寂に耐え切れなくなった頃、智志はポツリと、そんなことを口に出した。

 本社までの道のりは長く、その間に、智志はかなり色々なことを話した。
「妹が色々取り調べを受けてて。ああ、でも、弁護士さんに任せてあるし、お金以外は当分心配しなくていいんですけど。裁判がまだ先なので」
 話しただけで、心配事が一つ解消してしまった。こういう事は、よくある。
「むしろ今は、妹の行ってる学校が心配というか。“光の時代”が経営している所なので」
 ああ、と英が声を上げた。「職業訓練校?」
「はい」
 智志は頷いて、続ける。
「妹自身は、学校に行ってて楽しそうだし、いいんですけど」学費は高いけれど。「ただ、“光の時代”っていうのが」
「八坂君は、“光の時代”が嫌い?」
「嫌いというか」
 英が車をターンさせた。どこかで道を間違えたのだろうか。
「信用できない、ですかね」
「なるほどね」
 英のシルバーブルーの目が光る。いつの間にか、車は都心を離れたひと気のない道を進んでいた。
 それから智志は斎藤隆也のことを話した。その男が妹を襲い、それが切っ掛けで妹が“光の時代”に入ったこと。しかし、斎藤という男は“光の時代”にいたのに、いなかったことにされていたこと。行方不明になった日付がいじられていた話はしなかった。
 斎藤隆也といえば、あの後、夏輝からメールも届いていた。

『八坂君へ
 やあ三日ぶり。
 メールの件だけれど、それはないな! 斎藤隆也は絶対“光の時代”に所属していたよ!
 あそこには寄付制度があってね。一口千円から寄付できるそうだよ。表向きは寄付した金額によって待遇が変わることはない、って言ってるようだけれど、実際は寄付金の多い方がカースト制度の上の方、という感じだ。で、斎藤隆也の口座を調べてみたら、かなりの額が“光の時代”に支払われていたよ! これで関係がないなんてチャンチャラおかしいよね。あ、妹さんは寄付金ゼロだったよ。
 また何か分かったら連絡するよ。捜査資料黙って見たことは、青井さんには黙っててね!
 結城夏輝』

 ということは、どういうことだろう。妹が斎藤隆也を庇ったとは考えにくい。他のメンバーに斎藤隆也はここの人じゃない、とでも言われたか。出来れば後者であったほしかった。
「斎藤隆也ねえ」
 英はコンビニの駐車場に車を滑り込ませると、エンジンを切った。そして、腕を組んで、言った。
「知ってるよ」
「へっ」
 智志の驚いた声に、英が驚いて身を引いた。「吃驚した。そんな声出すなよ」そして、運転席に座り直してから、話しだした。
「斎藤隆也とは、イッシュ地方にいた時に出会ってね」
 ソジー・英はイッシュ地方出身だ。
「まー、冴えない男だったな。自分より弱い人間には威張り散らし、強い人間にはヘイコラして威光を借りるという、駄目人間の典型のような男だった。欲望に忠実で、よく女を抱きたいとほざいていたが、あの性格だからまともな女は逃げる」
 妹は、変な事を、つまり、強姦をされていないだろうか? 智志は窓の外を見た。暗く速く流れる景色は、智志の目には捉え辛い。
 英は智志の様子に気付かなかったらしく、さっきの話に付け足すように呟いた。
「あの人も、なんで斎藤みたいな男を傍に置いてたんだか」
「あの人?」
 聞き返した智志を、英は横目で見て、思いがけない答えを口にした。
「クッカバラだよ」
「えっ、あの」
「それ以外にどんなクッカバラがいると言うんだい?」
 英の口調には苛立ちが混じっていた。それは、智志に対してだろうか、それとも、クッカバラに対して?
「去年、クッカバラの相続騒ぎがあっただろう? あの時に私はクッカバラに会って、それから彼に付いてくる形でこの国に来たんだが、その時にはもう、斎藤はクッカバラの腰巾着をしてたな。金目当てのおべんちゃら使いで、いや、それにしても、寄付をするタイプには見えないな」
 智志は首をかくりと落として頷いた。高額の献金、後ろ暗い活動、そして、様子のおかしかったバクーダ。智志の中で、三つがパチリと噛み合った。豆電球が一つ点いたみたいに、頭の中が明るくなる。でもまだ、豆電球一つ分の明かりだ。
 とにかく、この思い付いた可能性を、真壁と夏輝に伝えよう。智志はそう決心して、時計を見た。
「もうこんな時間ですね。そろそろ会社に戻らないと」
「ああ、そうだな」
 英がエンジンを掛ける。車が息を吹き返した。
「すいません。お時間頂いて」
「構わない。後輩を育てるのも有能な先輩の義務さ。それに、お前には、私が開拓した店を盛り立ててもらわないと」
 英は明るい声を立てて笑った。

 智志は、二人に送るメールの文面を考えていた。どう伝えればいいだろう。シンプルに、
『斎藤はポケモン用の覚醒剤に手を出していたのだと思います』
 これでいこう。
 自動車は夜道を颯爽と駆け抜けていく。その光の照らす先には、何も憂いがないように思えた。

 〜

 星月夜。それは果たして、今夜のように月が明るい夜のことだったか、それとも星明かりが月のように明るい夜だったか。この国の言葉はややこしいな、と思いながら、ソジー・英は電話を掛けた。
 きっちりスリーコールで電話を取る気配があった。伝える必要があるのは一言だけ。
「アマテラスを見つけた」
 そして、英は電話を切った。

 英は夜を見上げた。
 自分は星月夜が、月の明るい夜である方に賭けよう。間違っていたら、その時は。
 英は口角を歪ませた。