八坂智志は、同じ説明を同じ日に二度行った。一度目は母親に、二度目は妹に。
正確には、母親に一度目の説明を終えて、母親が猛り狂って罵声を吐き散らかしているところから逃げ出した先に妹がいたのだ。智志は妹に匿ってもらい、そして当然、妹に説明を求められた。
「お母さんすごく怒ってるねえ。どうしたの?」
驚くでもなくおののくでもなく、普段と変わりない絵里子は、兄の説明を聞いてもまだ普段と変わりなかった。
「大学は辞めたらちょっと損だね。お兄ちゃんの、いい大学だし。ジャーナリストって色々大変そうだし」
そういう現実的な利害判断を下したのみだった。
「でさ、ジャーナリストって具体的に何するの」
妹の部屋に避難した八坂智志は、まだ勝手は分からないがインタビューに付いていってアシスタントをやることになってる、と話した。妹はふーん、と言った。ベッドに寝転んだ体勢のままで。
「正義をかざしたり、真実を暴いたりは、しないの」
「まだ分からない」
妹はベッドに寝転んだまま、ふーんと言った。それから、智志に言うでもなく、漫画を取り出しながら、
「じゃあ愛とか優しさとかになるのかな……どうなんだろ」
今読んでいる漫画に答えはなさそうな様子だった。智志はというと、晩ご飯までに母親の機嫌がいくらか直ればいいと思っていた。
八坂智志は二十二歳ではじめて人生の転換を試みた。が、そのやり方はスマートからは遠かった。スマートが聞いたら裸足で逃げる程にはかけ離れていた。
「俺を弟子にしてください。雑用係でもなんでもいいです」
初対面の人間に頭を下げた。
その人間が書いた本に七日前に感銘を受け、なおかつその人間の事務所が近所にあって、その上智志がその人間に会ったという、そんな理由で。
下げた頭に鉄拳が降ってくる可能性もあった。が、智志の頭は下がった後、何事も無くきちんと上がった。師事する人間の呆れ顔が、智志の目にアップで映った。白髪に鷹の目、と智志は思った。
「履歴書、持って来い」
それが智志の人生を変える予定の出会い――真壁誠大との出会いだった。
「でもさ、大学辞めることないよね」
笑う妹に、智志は
「まだ辞めてない」
と一応反論する。智志も利得計算からは逃れられなかったのだ。
「で、どうなるの? 週三でバイトとか、そんな感じ?」
「いや、まず、次のインタビューの時にアシスタントとして連れてってもらえることになってる」
言ってから、過分な扱いだと気付く。いくら事務所に人がいないとはいえ、押しかけ女房みたいな智志をいきなりアシスタント扱いとは。
「ま、何事も経験だよ。頑張りな、兄ちゃん」
妙に偉そうに、絵里子が言った。虚勢にも見えた。そして、なおも母親の機嫌を気にする智志に、しかし兄ちゃんのやり方って、スマートが裸足で逃げそうだよね――と言ったのだった。
真壁の事務所の扉を開く。もう一人働いている子がいるらしいが、今は真壁しかいなかった。挨拶をし、中に入る。四方の壁を埋める棚の、ある段にはファイル、ある段にはカセットテープと、ラベルを貼った方をこちらに向けて、整然と並んでいた。
白いラベルの群れが見つめる中央に、真壁はいた。硬派な記事とは裏腹に、疲弊したサラリーマンのような真壁。だが眼光は鋭く、智志を射った。
「これ、読んどけ」
そう言って真壁から渡されたのは、分厚い黒いファイルだった。最初の頁を捲る。『ポケモンを用いた脅迫による連続強姦事件』。
確かこれは、十年以上前に終わった事件ではなかったか。
智志の顔色を読んだ真壁が言う。
「俺は、正義を求めたり、真実を暴いたりはしないんだ。ただ、追いかけるだけだ」
その追跡に、今日智志は同行する。