どこからかさっきの男の声がする。
「中途半端な奴だ。死ぬと決めてから慌てて……」
目の前は真っ暗なまま、しかし首を絞められる感覚はすでになかった。
「これが最後のチャンスだ。生きたければ振りかえろ。そして覚悟しろ!」
さっきと同じ、私に迷いはなかった。生きられるのならなんだってする。なんだって覚悟する。
「いいんだな」
私は、見えない体を動かして後ろを振り返った。
目の前が急に明るくなり、眩しさに思わず怯んだ。
目を細めて、光に慣れてくるのを待つ。時間が経つにつれてぼんやりしていた周りの様子がはっきりしてくる。
「あ、あぁ……」
だだっ広い空き地。夕日に染まったヤマブキの高層ビル群が遠くに見える。この場所がどこかはすぐに分かった。昔、私がまだポケモントレーナーとして旅立つ前、よく遊んでいた場所だ。状況もすぐに納得できた。セキエイリーグに来た時と同じだ。
「おじさん、ねぇ、おじさんってば!」
「えっ、あ、何かな?」
すぐ近くで呼ばれる声がするのに気づいて、はっとなった。目の前には10歳前後といった年頃の男の子がいた。
「おじさんそこで何してるの?」男の子は純粋に、不思議そうに聞いてきた。
「あ、いや、ちょっと……ね」
「ちょっと何なの?」
この子は空気を読むということを知らないらしい。割とうっとうしい。
「懐かしい風景だなぁって眺めてただけだよ。おじさん、ずいぶん長い事遠くにいたから」
「おじさんもこの街の人なの?」
「そう。ポケモントレーナーになってから旅に出ちゃったんだけどね」
「えっ!! おじさんポケモントレーナーなの!? ねっ、じゃ、ポケモン見せてよ!」
男の子の好奇心は暴走を始めていた。
「ごめんね。今、ポケモン持っていないんだ」
「えぇー……そんなぁ」
あからさまにがっかりした顔をする。ちょっとかわいそうなくらいだ。
「ねっ、じゃあさ、おじさんがどんな旅してたのか教えて!」
訂正。全然かわいそうじゃない。なんなんだこの立ち直りの速さ……。
ここで振り切ろうととしてもしつこく付きまとわれ続けることは分かっている。しかし、だからといって、今の私はとても自分の旅を振り返る気になれなかった。
「分かったよ。でもその前に座らないかい? 立ちっぱなしじゃ疲れる」
空き地の道路側の端にはボロいベンチが置かれているを覚えていた。
「分かった!」男の子は言うが早いかベンチの方へ小走りで進んでいった。
前を行く男の子をゆっくり追いかけつつ、その様子をなんとも言えない気分で見ていた。洗いすぎてプリントがボロボロのTシャツ、ポケットのところが異様に膨らんだ短パン、遊び過ぎてドロドロのスニーカーという格好。彼の幼さを見ていると私は何やら面白いような、ちょっと切ないような気分になってくる。
それは私が失ったものを持っている彼が羨ましく感じたせいかもしれないし、彼が着ているTシャツのプリントが好きなアニメキャラクターであることも、ポケットの中身が大量の木の実であることも、スニーカーが誕生日に買ってもらったもので、一週間でドロドロに汚してしまったことも全部知っていたせいかもしれない。
ベンチに着くと、男の子はすでに座って準備万端という様子だった。
「はやく! はやく!」そうやって私を急かし、足をバタバタさせる。
ベンチのペンキはほとんど剥げてしまっていて、座るとズボンが汚れそうだなと、つかの間躊躇させる。しかし、すでに深く腰掛けている男の子を見て、私もベンチに座った。
「んー……まず、先に君の事教えてよ」
「僕の事?」
「うん。君がどんな人なのかまだおじさん何も知らないんだよ」
「んー……僕の事かぁ」困ったような顔をして唸る。
「君の好きなものとか?」
「好きなもの? そりゃ、ポケモンだよ! 僕ももうすぐポケモントレーナーになるんだ」得意満面という様子で言った。
「へぇ! それはすごいね。じゃあ、最初のポケモン何にするかもう決めた?」
「それがさぁ、まだ迷ってるんだ。カメックスもかっこいいし、リザードンも捨てがたいし……かといってフシギバナもなぁ。そうそう! この間のポケモンリーグ準決勝見た!?」急に話が変わった。
「あ、いや……」見たことは見た。ただし、20年以上前に。もちろん全然覚えていない。
「うっそ! ありえねー! もうめちゃくちゃすごかったんだぜ! ラストのフシギバナ対カイリュー。フシギバナが体力ぎりぎりで動けなくなって、そこにカイリューがぶわぁーって突っ込んできて、もうこれで終わりかって思ったら、フシギバナがつるのムチ使ってこうガって避けてさ、もうとにかくすごかったのに、おじさんもったいないなぁ」両手をぶんぶんと振り回しジェスチャーを交えて私に解説する。正直勢いだけで全然伝わらない。
「そっか、それはすごかったんだねぇ」
「おじさんホントにポケモントレーナー? もっとちゃんと強い人のバトル見て勉強しなきゃだめだよ」偉そうに男の子は言った。この子には私がチャンピオンであったなんて、知る由もない。
――いや、むしろ知らなくていいんだ。
「おじさん?」
「あっ、なにかな?」私はまたぼーっと沈んでいた。
「おじさん、さっきからぼーっとしすぎじゃない? 僕の話ちゃんと聞いてる?」
「ちゃんと聞いてるよ。でも、おじさんちょっと疲れちゃったみたいだ。今日はもう遅いし、そろそろ帰ることにするよ。君も暗くなる前に帰った方がいい」
卑怯なことをしている気はしたが、どうしても今私は自分の旅を振り返る気になれなかった。特に、この子の前では。
「えー! やだよ! まだおじさんの話聞いてないし」男の子はやだやだという風に首を振る。
「ごめんね、また明日ここに来るから。その時に、話してあげるから。それに、君も早く帰らないと、お母さんにまた叱られるんじゃない?」私は嫌らしい調子で付け足した。
「うっ……うん……じゃあまた明日ね。ぜったい、明日おじさんのこと聞かせてね! ぜったいだよ!」何度も何度も念を押してくる。
「絶対くるよ。また明日ね」
私が約束すると、彼はようやく納得したようで帰って行った。すでに日は暮れかかっていた。日没前に家に戻らないと、彼の母親が怖い事は、身を持って知っている。
私は彼が見えなくなるまで立ったまま見送った。そして、彼の姿が見えなくなると、私はまたベンチに座りなおした。
太陽が暮れかかって、あたりがオレンジ色に染まっていく。うつむくと、その中に長く伸びる自分の影が見えた。
ここはもう、何年前の過去になるんだろう。旅に出る前の私がいることからして、20年は昔で間違いない。人生の本編が旅に出てからポケモンリーグ優勝までだとするのなら、ここはさながら人生のプロローグというところか。私は、捨てた人生をどんどん遡ってきている。
――はぁ……。
やるせなさは、ポケモンリーグ決勝戦に戻った時よりも強くなっていた。まざまざと過去を振りかえらされるというのはこうも辛い事なのか。
私は結局死ぬ間際だったところから生き延びることはできたものの、あの控室にあるはずの優勝トロフィーを見ることはできなかった。しかし、ついさっき半狂乱になって求めたはずなのに、今は全く未練を感じない。トロフィーよりも私は、まだ今の私の半分ほどの背丈しかない子供の「私」の事が気になっていた。
彼は夢中になって見も知らぬ私に対しポケモントレーナーになると語っていた。彼はポケモンが好きだし、私が失ってしまったピカピカと輝く新品ものの夢を持っている。今更それが欲しいとはこれっぽっちも思わないが、出来るものなら、私は彼からその夢を奪ってしまいたいと思った。
――そういえば。
彼は私に対して一切見知ったような接し方をしなかった。やたらと人懐っこい感じではあったが、自分が今話している相手が“自分本人”であることに気付いている様子はなかった。自分同士に働く第六感があるのかと思っていたが、どうもそういう訳ではなさそうだ。……まぁ、昔の自分が鈍感なだけかもしれないが。
日がどんどん暮れていく。東の空はすでに夜だった。
――今晩どうしようか……。
どこかで一夜を過ごさなければならないが、ポケモンも図鑑も持っていない状態でポケモンセンターは利用できないだろうし、野宿しかなさそうだった。
旅していたころに何度か野宿したことはあったが、もちろんテントやら寝袋やらがあったうえでのことで、完全な野ざらしは初めてだ。
太陽が完全に暮れて、辺りは一気に冷えてきた。一晩で凍死することはないだろうが、きつい一夜になりそうだ――。
「おじさん、まだいたの?」
ふいにさっきの子供――もとい、昔の私の声がして驚いた。
「あれ? 君の方こそどうしたんだい? 家に帰ったんじゃなかったの?」
「それが、こっちにボール忘れてきちゃってさ」
確かに、少年の脇の下には泥汚れの激しいゴムボールが一つ挟んであった。
「そっか、それじゃあ、もう暗いから気を付けてお帰り」
「おじさんは? 今日どこ泊まるの?」
「えっ、まぁ、ポケモンセンターかな……」予想外の質問に焦りつつ、とりあえず答えた。
「ポケモン持ってないのに?」
「うっ」
空気の読めない鈍感なガキかと思っていたのに、こういう時には鋭い奴。ますますもってかわいくない。
「ポケモンセンターに預けているんだ。だから大丈夫だよ」
「ふーん……」
ちょっと沈んだ感じの返事をする。
「ねぇ、おじさん?」
「うん?」
彼は先ほどまでと打って変わって、下を向きぼそぼそと喋っていた。
「よかったらさ、今日ウチに泊まっていかない?」
「えっ!?」
驚いた。確かに昔の私は多少見知らぬ人間に対しぶしつけな所もあったし、疑いを知らないといった感じの部分もあった。そのせいで、よく母からは「知らない人について行ってはダメ」と注意されていた。だが、さすがに、今さっきであったばかりの、30過ぎのおっさんを家まで招待するほど危険知らずだっただろうか。
「君のお母さんはいいって言ったの?」
「……うん。旅のトレーナーさんに宿を貸すのはマナーだって」
彼は嘘をついている。私の母は確かに、ある時期までは、それが旅人へのマナーだとしてよく家にトレーナーを泊めていた。だが、私が旅に出る2,3年ほど前、トレーナーに成りすました凶悪な強盗事件が発生し、それからは一切トレーナーを泊めなくなった。
彼がどうして嘘をついてまで私を家に泊めようとするのか分からない。だが、正直なところ、防寒具無しの野宿を覚悟していた私にとって、彼の話はまさに渡りに船。願ってもない話だった。にも拘わらず、私は、彼の家に泊まりたい気持ち半分、あまり気の進まない思い半分といった状態だった。
「うーん。ありがたい話だけど、今日はポケモンセンターに部屋をもう借りちゃってるからなぁ」
「そんなのキャンセルしちゃえばいいんだよ! だからさ、ね? いいでしょ?」
まくしたてるように迫ってくる。母親の許しがあると嘘をついて、さらに部屋のキャンセルまでさせようとは、私はここまで意固地な子供だったのだろうか。
「分かった。じゃ、お言葉に甘えて今日は君の家に厄介になろうかな」半ば身を乗り出して私に迫ってきている彼の頭をぐしゃっと撫でて言った。
「ホント!?」一気に声が明るくなる
「あぁ、ホントだ。でも、その前にポケモンセンターに部屋をキャンセルすることを言ってこなきゃいけないからちょっとここで待っててもらえるかな」
「分かった」
彼が再びあのベンチに座るのを見て、私はポケモンセンターへ向かって歩き始めた。
広場から離れ、彼の姿が見えなくなったところで、私はポケモンセンターから行先を変えた。特に目的地はないが、ぶらぶらと歩き続けた。もともとポケモンセンターに部屋など借りてはいないし、こうやっていれば考える時間が稼げる。
彼の家に泊まるということは、つまり幼い頃の私の家に泊まるということだ。そこには私が自分の命と一緒に振り切ってきたありとあらゆる物がある。小さなボロアパート、脱ぎ散らかされた靴、誰も見ていないテレビの音、私を出迎える母の姿……。
きっとさっきベンチへと向かって走っていく「私」を見ていた時以上の、切なさに襲われることだろう。私はどうしてもそれらに耐えられる気がしなかった。
今、私には三つの選択肢がある。一つはこのまま広場へと戻り彼と一緒に自分の家に泊まる。もう一つは、彼の元へは戻らず、黙ってどこか適当な場所で一夜を明かす。最後は――。
――また、死ぬ。
それが一番いいのかもしれない。
初め私は、退屈な余り物の人生を避けて自殺した。次に私は、かけがえの無い夢を失っておきながら、それを幸福に感じていたことを知り、安心しつつも自分の人生が馬鹿馬鹿しくなって自殺した。
どれもこれも、くだらない、他人からしてみれば理解しがたい理由だろう(もちろん私にとってはどちらも十分な理由であったが)。
だからこれは初めての、最もまともな自殺の理由かもしれない。
――逃げるのだ。
今目の前まで迫ってきている、恐怖、私の心をかき乱す耐え難い脅威から、「死」を利用して逃げるのだ。
「結局、死ぬんだな。お前は」
突然の声にはっとし、辺りを見ると私は見覚えのない路地裏に来ているのに気付いた。 声はまたあの男のものだ。一瞬どきっとしたものの、私はすぐに冷静になった。
「余計なお世話だ。ほっとけ!」
「そうだな。だが、ついさっき、あれほど生き延びたいと泣きついていたお前が、もう死ぬ気でいるのは何とも滑稽じゃないか?」男の口調は嘲るように笑っていた。
「うるさい! 私は生き延びるにしたって、さっきのあの場所に居続けたかったのに、これじゃ何にも意味がない」私は怒りを抑えきれず怒鳴った。
「そんなことは知らんな。生き続けたいと言うから、その通りにしてやったまでだ」なおも男は私を笑っていた。
「……やっぱりか」
気が高ぶって、いっそ振り返って男に一発お見舞いしてやりたいとすら思っていたところだったが、これでも一応「一流」と呼ばれたポケモントレーナー、バトル以外のやり取りの中でも大切な部分は見逃さなかった。
「何が、『やっぱり』なんだ?」男が聞き返す。
「お前が、私をここまで連れてきたんだな。初めから、全部、お前の仕業だったんだな!」
「……」男は黙っている。
初めて現れた時から何となくそんな気はしていたが、今の発言ではっきりした。一体どんな方法を使っているのか想像すらつかないが、今私の背後で話している男こそが、私を過去に送り返し苦しめている元凶で間違いない。
「どうしてこんなことする!? 私はちゃんと死にたかった。自分の過去なんて思い出したくない! 今までのことなんて全部消してしまいたかったのに! それをお前は……」 私は再び怒りで我を失いかけていた。
「……初めにあった時言ったことを覚えているか?」男の声は冷静そのものだった。しかし先ほどまでと違い嘲るような調子はなくなっていた。
「何のことだ?」
「振り返ったらこの地獄をもっと味わってもらうと、そう言ったはずだ」
「はぁ?」
何言っているんだコイツは。地獄? コイツは頭のイカレたマッドサイエンティストか? 人の記憶を操る機会でも発明して、神になった気でいるのではないか。
「バカバカしい。他人の人生弄んで何が楽しい? いい加減こんな悪ふざけ止めるんだ」
「偉そうなことを抜かすな。与えられた時間の価値を省みず、手前の勝手で捨てた人生だろうが。今更捨てた人生を我が物のようにほざくな」
私はあたかも図星を突かれたような気になって、言葉を失ってしまった。
「きっとお前は何も後悔してないのだろう。ならばしょうがない」
男の言葉が終わるかいなや、後頭部を鈍器で思いきり殴られたかのような衝撃が走った。視界が歪み、私はその場に崩れ落ち思わず頭を抱えた。
――あれ……?
何ともない。確かに凄まじい衝撃を感じたはずだが、後頭部は何ともなっていなかった。それどころか、別段痛みすら感じない。そっと首筋のほうをさすってみたが、確かに手の触れる感覚はある。衝撃のあまり皮膚感覚を失ったのかと思ったが、そういう訳ではないようだ。
「うっ……何だったんだ今のは……」
俯いたまま目をしばしばさせ立ち上がった。すると、すぐ目の前に何か巨大なゴツいもの二つが見えた。
いきなり頭を上げると痛み出す気がして、私はゆっくりと視線をそのゴツいものの先へ移動させていった。
鮮やかな青色した、二つのそれは一本が私の胴ほどもある足だということが分かってきた。
――足?
でかすぎる。人間じゃない。巨像か? いつのまに?
さらに上を見上げていくと、足の主の胴体と思しき部分が見えてきた。その大きさにも驚きだが、何より目を奪われたのは胴体の中央部分で輝いている巨大な宝石だった。
――これは……ダイヤモンド?
しばらく私はその美しさに見惚れてしまっていた。それほどまでに、ある種神々しい輝きを放っていた。
「私のことは知っているか? カントーチャンピオン」
さらに頭上から声がした。
シンオウの知り合いから借りた古い本に、伝説上の神として名前と姿が載っているのを見たことがある。しかし、あれはあくまで伝説の話、ほとんど空想のものと思っていた……。
「ディアルガ……なのか?」
その圧倒的な存在感に気圧され、私にはそれだけ言うのが精一杯だった。
「ほう、さすがチャンピオン。他地方のことまでよく勉強しているじゃないか」
私は本物の神を目の前にし、混乱した頭の端っこで、こいつが神になったつもりのマッドサイエンティストだった方がどれだけマシだろうと、そんなことを考えていた。