今日という日は、どんな少年もどんな少女もワクワクが止まらない日。
自分さえ入りそうなリュックを背負い、おろしたてのスニーカーはマジックテープで止めて。腰のベルトには手にしやすいよう、水筒に十徳ナイフ、そしてモンスターボールが五つ。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
少年テトは、生家に別れを告げる。母親の挨拶は淡白だったが、冒険に逸る心にはそのくらいでちょうどいい。テトは今日、ポケモンをもらって旅に出るのだから。
テトの行き先は、六年間通い続けたトレーナースクールだ。著名なポケモン博士に才能を見出され、ポケモン図鑑を渡され……なんていうのは、マンガの主人公でないとありえない。バトルコートを小中大と横切って、テトは平べったい校舎へ入っていく。中は早くに来た卒業生たちでザワザワしていて、みんなで一匹の巨大なイモムシみたく、順路にしたがってモゾモゾと進んでいた。
廊下には一緒に旅するのかかしましく話してる人らもいれば、一人旅なのかおしゃべりを我慢するように手をぐーぱーしてる人もいる。テトも一人旅だけれど、もっぱら空想で時間をつぶしていた。最初にもらえるポケモンのこと、これからの旅の不安のこと、希望のこと。今という時間がすごく長く感じられて、でもきっと、ポケモンを受け取った途端、今の長さなんて忘れて思い出せなくなってしまうんだろうな、という予想。
空想している内に、ポケモンをわたす部屋の入り口が見えてきた。普段は一年生の教室で使っているところだ。中も順路が決まっているらしく、出ていく人はみんな、テトから遠い方のドアを使っていた。入り口が近づく。一人入った。二人入った。三人四人。十人を超えて数えまちがえて少しして、テトの番がやってきた。
「テトくんですね」
教室には総出で来た先生の他に、子どもが何人かいた。ポケモンをわたす儀式は思ったより流れ作業で、先生が名前を確認した順に、トレーナーカードとモンスターボールをわたしていく。簡単な注意事項もいっしょに。
「テトくんのポケモンはこの子です。“かんそうはだ”だからよく水分補給させること。あとこれがトレーナーカード。大事な身分証になるもので、キャッシュ機能もあるからなくさないでね」
やっと受け取った宝物のようなポケモンとトレーナーカードを吟味する間もないまま、「はい次」とテトは教室から追い出された。先生は年百人に同じことをするのだ。輝きが色あせたって仕方ない、とテトなりに忙しそうな先生たちを思いやる。
その代わり、この輝きはテトだけのものだ。
テトはバトルコートへ出た。気の早い子たちが集まってポケモンバトルを始めていた。でもそういう人はテトの予想よりずっと少なかった。旅路を踏みたい人の方が多かったのかな。テトはゆるゆると、バトルを横目に見ながら、バトルの邪魔にならない隅っこへ移動する。そして、当初の目的を達成するのだ。
「ふふ」
まずはトレーナーカード。一人前のポケモントレーナーの証で、ポケモンを捕まえて連れ歩いていい、いわば大人の証。
そして、なにより。キャッシュ機能とか、スコア獲得によってランクが上がるとかお得な制度の利用とか色々あるけど、テトにとっての一番は。
「もう『危ないからダメ』なんて言われずにポケモンに触れる!」大人の証。
そう、この日のために。
“ちょっと”触りたいから散歩中のガーディに“ちょっと”近づこうとしたり、“ちょっと”お腹の皮の薄さが気になってニョロモのいる沼の淵へ“ちょっと”踏み出そうとしたり、そのたびに
「危ないから、ポケモンに近づいちゃいけません」
大人にガミガミ言われずに、自己責任でポケモンを自由に触れる!
なんて素敵なんだろう。
それが、この頃の子どもたちみんなが取る資格だとしても、この輝きはテトだけのもの。
そして。
「出ておいて!」
モンスターボールのボタンを押すと、赤と白に塗りわけられた部分からパックリ割れる。その隙間から小さな紫の光が飛び出し、地面に当たって急速にふくらんだ。光はテトの腰ぐらいまで膨らむと、光るのをやめて、その素肌を見せた。青紫色のかがんた姿が、手足を伸ばす。立ち上がったカエルのポケモン。目の覚めるようなオレンジ色を、中指と頬に持っていた。
「グレッグル」
テトの、はじめてのポケモン。
グレッグルはテトを見ると、ニコッと笑った。そして、初心者向けによく躾けられているらしく、右手をテトに向けて、まるで握手を期待するように待つ。
テトの心臓が小さくジャンプした。テトは、その小さな手を包みこむようにした。三本ある指の、両端は黒い。黒い指を撫でるように親指を動かして、そして、真ん中のオレンジ色の指を撫でる。
そのままぎゅーしたい衝動をこらえた。第一印象、大事。母さんも言ってた。
「あのね、グレッグル、えっと」
グレッグルは目玉焼きの黄身の下半分みたいな目で、テトをじっと見つめた。ジト目とかって言うのだろうか。目つきが悪いポケモンらしいけど、こうしてテトの言葉を待っているグレッグルの目つきは、どう見たってかわいいのだった。
「えっと」
落ち着け、テト。この日のためにがんばってきた。この日のために考えた台詞を、心の中で何回も練習したじゃないか。
「よろしく」
グレッグルが目を細めた。嬉しそうに。
「ぼくはテト」
ぷー、と頬のオレンジ色が風船みたいにふくらむ。
「グレッグルのトレーナーになりました。よろしくおねがいします」
ペコリとテトが頭を下げると、頬のオレンジ色がしぼんて、そして、ケロケロ跳ねるような声で鳴いた。
「それでお願いなんですが、君を触らせてください」
グレッグルは快く、非常に快くテトの頼みを受け入れてくれた。
まず両手で握手。それから頬のオレンジ色を触る。ふくらませている時はイヤみたいだけれど、触ってもいいみたいだ。そしてお腹。グレッグルの青紫色の体にぐるりと巻きつくような白い模様を触ると、特に喜んだ。
けれど、予想していたより、ザラザラしている。全体的に。
もっとツルンツルンだと思ったんだけどな。テトの手のひらがグレッグルの二の腕を滑っていく。カエルのポケモンだというのに、皮膚は失敗した紙粘土みたいな感じで、ヒビ割れ、爪がかかるとポロッと。
「特性かんそうはだ――!」
ギャー、と悲鳴を上げて、テトは裏庭にダッシュした。五十メートル走の自己新は確実なくらい、ダッシュした。
「ごめんね、グレッグル」
スクールの裏庭にある水道でたらふく水をかけて謝ると、グレッグルはテトのことを許してくれた、ように思う。テトが触ってもいやがらなかったから、オーケーだと思う。
水道の水をちょろちょろぱっぱとグレッグルにかけつつ、テトは反省していた。特性“かんそうはだ”。ポケモンのタイプとは別に、火に弱く、“にほんばれ”で引き起こされるような高温乾燥の環境にも弱い。そうでなくとも、人間の体温はグレッグルよりも高いのだ。気がねなしにベタベタ触ったところから、熱くなってしかたなかっただろう。
「本当にごめんね」
グレッグルはケロケロと軽やかな鳴き声をたてて、頭をテトの胸に押しつけてきた。
「ありがとう、グレッグル」
その頭に、水で濡らした手を置く。グレッグルのように体温の低いポケモンを触れる時には、まず、手を水で冷やすこと。ここのように井戸水を引いた水栓がある場所ならいいけれど、それがなければ市販のミネラルウォーターを使うとかして、一般の処理水は使用を控えること。
そして、グレッグル自身もしっかり水浴びさせること。特性“かんそうはだ”のグレッグルは特に。手に溜めた水を、グレッグルの頭からかける。くすんでいた青紫色が、光をぼんやりと反射する青紫色に変化した。乾いて分裂していた皮膚が、ふくらんで間隙をつめる。オレンジ色の頬を両手ではさむ。その部分だけゴムのようかと思いきや、目を閉じれば境目がわからないほどに、他の箇所と違いがなかった。ツルリとした感触の中に、水のヒタヒタした感触。グレッグルのオレンジ色から放した手から、わずかに刺激臭がする。グレッグルのどくタイプのせいか。粘液に毒をまぜるポケモンではないから、気にするほどではない。お腹の白色を触る。
「おお」
思わず声がもれた。内蔵を守るためだろうか、そこの皮膚は青紫色のところより、わずかだけ固い。和紙の断面みたいな固さ。毛羽立ったような凹凸があるようなないような。ひっかかりに指を当てると、そこは水をよく吸う箇所なのか、ちゅうと水が出た。そして予想以上に指が沈む。あわてて引く。
少し離れて見てみれば、グレッグルはリラックスした様子でテトにお腹をさらしていた。ちょっとだらしないポーズだ。オレンジ色の頬袋は一定のリズムでふくらんだり縮んだりをくりかえしていて、ふくらむごとにジジジと低い振動音をたてた。
「グレッグル」
目をぱちりと開いた。グレッグルは半身を起こすと、目玉焼きの半分みたいなジト目でテトを見つめた。
「あのね、グレッグル」
グレッグルが頬を膨らませた。ギギギ、と低い音がする。
「こんなぼくですが、いっしょに旅してもらえますか?」
テトは右手を差しだして、握手を待った。
ケロケロと軽やかなジャンプみたいな鳴き声を上げ、グレッグルは水分たっぷりのヒタヒタな手で、テトの右手をとった。