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  [No.1337] 僕らはリンゴの樹の下で 投稿者:Ryo   投稿日:2015/10/14(Wed) 23:55:12   55clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

始まりは、一冊の図鑑。


  [No.1338] 1:落とし物と拾い物 投稿者:Ryo   投稿日:2015/10/14(Wed) 23:59:56   59clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

6月24日 午後0時55分
カイトの通う小学校の校庭の片隅には、小さなリンゴの樹が生えています。
リンゴの樹が校庭にあると聞いたら、小学校に上がったばかりの一年生はみんなこう思うでしょう。
「それってリンゴの実がなったら、食べていいの?食べたらおいしいの?」
だけど、残念ながらこの小学校で過ごしたお兄さんお姉さんの答えはこうです。
「食べられるけど、すっごくまずいらしいよ」
本当はちゃんとおいしいリンゴもなるのだそうですが、そういうリンゴは鳥達が真っ先に食べてしまいますし、リンゴがなる時期は夏休みの終わり頃です。食べられるようになった頃、この樹のリンゴは勝手に落っこちて腐ってしまうのだそうです。それにそもそもこの樹にリンゴがなること自体が、とても珍しいことでした。
リンゴの樹の傍らには、白くて古ぼけた看板が立っています。ニュートンという偉い博士が、万有引力の法則を見つけた有名な話と、そのきっかけになったリンゴがこの品種なのです、という説明が書いてあるのですが、ところどころ字が薄れているし、言葉も古めかしいので、その文をちゃんと読んだ生徒が学校中にいるかどうかも分かりません。
いえ、いました。この木のそばの小さなベンチでよく過ごしている、四年生のカイトです。

カイトは本当は図書室や教室で静かに本を読んでいるのが好きな、体の小さな大人しい子供でした。低学年の頃はずっと休み時間はそうやって過ごしていました。でも、今年はそうやって過ごしていると、担任の先生が真夏の太陽みたいな笑顔で言うのです。
「おいおいカイト、そんなところでじっとしていたら、もやしっ子になっちゃうぞ。男の子は元気が一番。ちゃんと友達と外で遊びなさい。いいね?」
時にはそのまま背中をドンと叩かれることもありました。そうされたカイトは、牧羊犬に追い立てられる子羊のようにおどおど校庭に出ていくのですが、あっちではドッジボール、こっちではサッカー、みんながっちりチームを組んでいて、とても楽しそうだし、それにみんなの背の高いことといったら!未だに3年生に間違われるカイトと比べたら、本当に大人と子供くらいに違う気がしてしまいます。そんなところに自分のようなちびの「もやしっ子」が加わったところで、チームのみんなに迷惑をかけてしまうだけのようにしか思えませんでした。
この校庭のどこにも自分の居場所がないように思えて、途方に暮れていたカイトがある日見つけたのが、この校庭の隅のリンゴの樹でした。
校庭の奥の方には、錆びたブランコや雲梯があるのですが、見るからに古くてそっけないので、一年生がちょっと使ってみるだけで、遊ぶ人はあんまりいません。リンゴの樹は遊具の並んでいる一番左端に静かに立っていました。側には小さなベンチがあって、そこから奥はもうフェンスしかありません。リンゴの樹がカイトだけの場所を作ってくれているように見えて、カイトにはその樹は小さいのになんだかとっても頼もしく見えました。

それでもリンゴの樹の側のベンチでただぼーっとしているのでは、いくらなんでも面白くありません。そこでカイトは「朝読書」の時間用に持ってきていた本を読んで過ごすことにしました。
「朝読書」というのは、毎週木曜日の朝、朝の会が始まるまでの20分間、静かに本を読んで過ごす時間のことです。カイトはその日、小さなサイズの動物図鑑を持ってきていました。家にある物語の本はもう、全部覚えるまで読みきってしまったのです。
「日本の動物図鑑」とは書かれていますが、ここに載っている生き物を、カイトはほとんど見たことがありません。鳥は別として、カイトの住んでいる街にいる動物は、動物園にいるものの他は、人間と、犬と、野良猫くらいしかいないような気すらします。そういえば夜に道路をちょっと太った野良猫みたいなのが横切ったのを見たことがあるけど、あれがタヌキだったのかな?などと思いながら、カイトはペラペラと図鑑をめくっていました。

「おーい、カイト!そこで何やってるんだ?」
突然名前を呼ばれてカイトが振り向くと、同じクラスのハヤタが大きく手を降ってカイトを呼んでいました。
「あのなー、ドッジボール一緒にやらねえ?」
「えっ…僕が入っていいのー?」
「全然いいぞー!昼休み終わる前に早くこーい!」
カイトはバサッと本を取り落として、立ち上がりました。静かに本を読んでいるのが好き、とは言っても、やっぱり友達に遊びに誘われるのは、とっても嬉しいのです。
カイトはハヤタたちの所に走りだしました。落とした本のことは、すっかり忘れていました。

***
6/24 3:00 PM
ユウマがよく遊びに来る自然公園には、小さなリンゴの樹が生えています。
リンゴの樹が公園にあると聞いたら、やって来た人はみんなこう思うでしょう。
「それってリンゴの実がなったら食べていいの?食べたらおいしいの?」
だけど、残念ながら公園に何度も来ている人の答えはこうです。
「ポケモンなら食べられると思うけど、人間はちょっと無理だね」
ポケモンと人間とでは、似ているところもあるけど違うところもたくさんあります。例えば人間にとっては火を噴くくらい辛い木の実や、口が曲がるくらい酸っぱい木の実でも、ペロリとたいらげてしまうポケモンがいるように。このリンゴも、渋いのや酸っぱいのが好きなポケモンにはいいけれど、人間にはちょっと合わない味でした。それに、この公園にリンゴの樹は一本だけです。リンゴの樹は一本では、ほとんど実をつけられないのです。
リンゴの樹の傍らには、自然公園の案内板が立っています。けれど、この公園に来る人は、みんな早くバトルをしたいかポケモンを探しに行きたいかでワクワクしているので、ほとんど素通りしていきます。
ちゃんと見ているのは、しっかり者のユウマくらいです。

ユウマは10歳の誕生日に、初めてのポケモンを貰いました。ワニノコは噛まれたら痛そう、ヒノアラシは炎が怖い、そんなわけで一番怖くなさそうなチコリータを選びました。小さな四本足でちょこちょこ歩く姿は、見ていて全然飽きません。この公園でも色んなポケモンを連れている人を見たけれど、自分のポケモン、というのはただ見ているだけと全然違います。いつも側にいてくれるのもそうですが、遊ぼう遊ぼうとせっつかれたり、ご飯をあげたりトイレの始末をしたり。まるで弟ができたみたいです。
ユウマは夏休みになったら、初めての旅に出ることになっていました。ジョウトの色んな所を回って、たくさんのポケモンやトレーナーに出会うのです。それを思うとワクワクしてたまりません。まだ7月にもならないのに、目が覚めたら夏休みになっていて欲しいくらいです。
そして注意深いユウマは、旅に出るのにチコリータ一匹じゃあ、きっと危ないだろうな、とも思っていました。トレーナーの基本は、色んなタイプのポケモンを連れ歩くこと。なので、自然公園にポケモンを捕まえに来たのです。もちろん、迷わないように公園の案内板を見るのも忘れません。
「…あれ?何これ」
ユウマは案内板の前にやって来て、そこに小さな本のようなものが落ちているのを見つけました。

「日本の動物図鑑」

このタイトルの中でユウマが分かった言葉は「図鑑」だけでした。何の本だろう。ずいぶん小さいけど、漫画かなぁ。ユウマはしげしげとその本を眺めました。表紙にはどこか遠くの知らない国の草原のような風景の写真が載っています。そこにはユウマの知らない生き物が写っていました。
「なんだろこれ…ポケモンなのかな…」
その生き物は一見、ロコンのようにも見えますが、随分きりっとした顔立ちをしているし、第一にあの可愛らしい巻き毛も6本の見事な尻尾もありません。
ユウマは本をひっくり返してみました。裏表紙に使われている写真は夜のようで、白い花の咲いた草に、ピカチュウとコラッタを足して2で割り、うんと小さくしたような生き物が掴まって、黒いビーズのような目でこっちを見ています。こんなオモチャみたいに小さな生き物を、ユウマは知りませんでした。
そしてその本の下の方には白いラベルが貼ってあり、こんな名前がプリントされていました。
「4年2組 大沢 海斗」
おおさわかいと、とユウマは頭の中で名前を読み上げました。それから自分の知っている中にそんな名前の友達がいたかどうか、できるだけ思い出そうとしてみました。が、どうしても思い当たりません。
(でも、僕が知らないだけで、そういう名前の子がいるのかもしれない)
ユウマのクラスは4年3組なのだから、2組の生徒に知らない名前の子がいてもおかしくありません。ユウマは自分の考えに一人で納得して、うんうんとうなずきました。
落とし物なのだから、警察か公園の係員の人に届けたほうがいいのかもしれない、という考えもありましたが、「大沢海斗」君が自分の学校にいるものだと結論を出したユウマは、自分でこの落とし物を返せるものだと思ってしまいました。そしてそれ以上に、この不思議な本への好奇心が抑えられなかったのです。
ユウマはしゃがんでリュックを降ろし、その本を大事に、一番底にしまいました。それから本来の目的だった、旅のお供にするためのポケモンを探しに公園の奥に向かって行きました。

***
6月24日 午後7時30分
カイトが本を失くしたことに気がついたのは、家に帰って自分の部屋の本棚を見て、そこにちょうど本一冊分の隙間があるのを見つけた時でした。
カイトの持っている図鑑は、動物図鑑だけではありません。魚、鳥、昆虫、それにもう日本にいない、絶滅した動物のものだってあります。これはカイトの10歳の誕生日に、カイトのおじいさんが一揃いのセットでプレゼントしてくれたものなのです。裏には名前のプリントされたラベルまで貼ってありました。(ただ、学年とクラスはいらなかったなぁ、とカイトは裏表紙を見る度に思うのでした。だって、4年生は1年で終わってしまうでしょう)
きれいに全部揃っているはずのものが、一つだけ欠けているのは、嫌なものです。それにこの本は、おじいさんがくれた大事なものなのです。勉強していても、テレビを見ていても、本棚に開いた一冊分の隙間が気になって仕方ありません。でも、学校のどこかで落としたのか、帰り道に落としたのかさえ、カイトはよく覚えていませんでした。リンゴの樹の下に行くまでは持っていた、ということだけは確かに覚えていたので、まず学校の先生に聞いてみよう、とカイトは考えながら眠りにつきました。

***
6/24 7:35 PM
ユウマは自分の部屋で寝転がり、「日本の動物図鑑」をしげしげ眺めていました。
「すごいなあ、こんなのどうやって作ったんだ」
どのページを開いてみても、ユウマが見たことも聞いたこともない生き物ばかりが載っています。全身真っ黒の毛むくじゃらで、目がどこにあるのか分からないようなのは、ヒミズという名前です。クッキーみたいな可愛い縞模様とフサフサの尻尾をした妖精のようなものは、シマリス。しかも、どれも絵ではなく、しっかりとした写真で、これがどういう生き物なのか、ちゃんとした説明までついているのです。確かに世の中には、まるで写真そっくりな絵を描ける人もいますが、この本に載っている生き物たちは、どれも絵とは思われないほど生き生きとした姿を見せており、そして強そうなものも、可愛らしいものも、どこか人間を寄せ付けない顔立ちをしていました。
(もしかしたら、これは全部本物そっくりの人形で、それを色んな所に置いて撮影したのかな?)
そうも思ってみましたが、だとしてもその「本物」はいったいどこにいるのでしょう?説明を読んでも「本州」「四国」「青森県」など、ユウマの知らない地名ばかりが出てきます。この本を作った人の想像の世界なのでしょうか?これらはユウマの知らない物語に出てくる生き物なのでしょうか?ユウマは頭がグルグル回ってしまうような気持ちになりました。

不意に、ふわりといい香りの風が吹いてきました。その香りをかぐと、頭の中のグルグルがピタッと止まり、目の前がちょっと明るくなったような感じがしました。風の吹いてきた方を見ると、チコリータが心配そうな顔でユウマを見つめています。チコリータはユウマと目が合ったのに気づくと、ユウマの顔をまじまじと見て、また頭の葉っぱを2,3回、ユウマに向かって仰ぎました。
「ありがとう、チコリータ」
チコリータの葉っぱの香りには、心や体を癒やす効果があるとユウマは聞いていました。チコリータはユウマが難しい顔をしているのを見て、どこか悪いのかと心配になったのかもしれません。ユウマはこの心優しいパートナーにお礼を言いました。すると、
「きゃう、きゃうきゃう!」
反対側から甲高い声がしました。それから床を乱暴に踏み鳴らす音がして、床が小さく震えました。ユウマがびっくりしてそっちを向くと、今日捕まえたばかりのオスのニドランが、ぶすっとした顔でこちらを見ています。いきなり知らないところへ連れて来られたと思ったら、ずっと放っておかれていい加減腹が立った、といったところでしょうか。
ニドランは紫色の毛をぶわっと膨らませ、ユウマを睨みながら、後ろ足で床を何度も、乱暴に叩きました。ドスン、ドスンと部屋が揺れ、机の上に積んである本が落ちそうになりました。
「わ、怒ってるの?ご、ごめんよ…」
ユウマは慌ててご機嫌斜めのニドランをなだめようとしました。本を開いたまま床に置いて、おずおずと両手を差し出します。ユウマはこの毒の角を持ったポケモンを、少し苦手に思っていました。強そうなポケモンだと思って捕まえたはいいけれど、怒らせてしまって角で刺されたらどうしようとか、撫でている時にじゃれつかれて、うっかり角が刺さったらどうしようとか、そういうことばかり考えてしまうのです。不安いっぱいに差し出した手はニドランの前で止まってしまい、どうしようかと空中をおろおろするだけでした。
すると突然ニドランが、ユウマの方に飛びかかってきました。
「うわあ!」
ユウマはすぐさま両手を頭にやり、殻にこもったゼニガメのようにぎゅっと縮こまりました。

でも、ニドランが飛びついたのは、ユウマではなくて、ユウマが床に置いた本の方でした。ニドランはぴんと耳を立て、ふんふんと鼻息を立てて、本を調べています。ユウマは腕の間からちらっとそれを見て、少し安心しましたが、今度は
(ニドランが本を食べたり汚したりしたらどうしよう?)
という別の心配事が頭に湧いてきました。これは他の人の本なのです。汚したり破いたりしたら弁償しなければいけませんが、いったいこの本はどこで売っているのか検討もつかないし、お小遣いで払えないほど高い値段だったらユウマにはどうしたらいいか分かりません。
「ニドラン、お願い、そこをどいて?」
ユウマが弱気な声でニドランに頼むと、チコリータも葉っぱを振ってニドランに何か呼びかけてくれました。でもニドランは本の上にどっかと座り込み、知らん振りをして毛づくろいなんかしています。
「ねえニドラン、お願いだから…」
「チコ!チコリー!!」
たまりかねたユウマが二度目のお願いをしようとした途端、チコリータの方がしびれを切らしてニドランに飛びかかりました。ニドランは器用にひょいとそれを避けて、ぴょんぴょんと部屋中を逃げまわり始めました。チコリータは一生懸命にニドランを追いかけます。
二匹の追いかけっこの隙にユウマは本を拾い上げました。とりあえず、本はどこも無事なようでした。二匹も追いかけっこのうちになんだか怒るより楽しくなってきたらしく、やがてちょっかいを出し合って遊びだしました。

ふと、ユウマは手の中の本を見て思いつきました。
(これが図鑑なんだったら、ニドランやチコリータのことも載っているんじゃないかな?)
ユウマは本をパラパラとめくりました。すると本のおしまいのところに索引のページを見つけました。早速ニドランのことを調べようと「に」のところを探し当てたユウマは
「あれ?」
と思わず声をあげました。「に」のところに「ニドラン」の名前がありません。「に」で始まる最初の生き物は「ニホンアカガエル」という聞いたこともない長い名前の生き物です。その次はニホンアナグマ、その次はニホンアマガエル、その後にもずっとユウマの知らないニホンナントカが果てしなく並んでいました。
目を真ん丸にしながらユウマは「た」行の生き物の欄を見ていきます。「ダルマガエル」の次はいきなり「ツキノワグマ」に飛んでいます。つまり「ち」で始まる生き物は載っていないということです。
「どういうことなんだ…」
ユウマはわけがわからなくなってしまいました。最近見つかったポケモンであるらしいチコリータはともかく、ニドランはその辺りの草むらにもいる、そんなに珍しくもないポケモンなのに。
遊びが一段落したらしいチコリータがもう一度香りの良い風を送ってくれましたが、ユウマの頭はずっとグルグルしたままでした。
この2度めのグルグルで、ユウマの頭は完全にノックアウトされてしまいました。
たまらず本を閉じ、ユウマは2匹のポケモンをモンスターボールに戻すと、ベッドに横になりました。途端、どっと疲れが襲ってきて、そのままユウマは眠ってしまいました。

6/25 7:35 AM
次の日の朝。
朝の支度をしながら、昨日捕まえたニドランのことや今日の予定、テレビのニュースの感想なんかをお母さんと話していたユウマは、ふと、こう聞いてみたのです。
「ねえお母さん、『シマリス』って知ってる?」
さり気ないようで内心、恐る恐るしてみた質問なのですが、
「さあ?お母さん知らないわよ。最近はそんなポケモンがいるの?」
という取り付く島もないあっさりとした答えに、ユウマはがっかりしたようなホッとしたような変な気分になりました。
それはもう学校へ行く出かけ際のことでした。ユウマはお母さんの答えに対する返事もろくろくできず、
「ううん、聞いてみただけだよ。行って来まーす」
とだけ言って、家を後にしたのでした。

学校でユウマが分かったことは、3つありました。
1つ目は、「大沢海斗」というクラスメートが4年2組にはいないということでした。これは2組の友達に聞いたことで、その時ユウマは本のことは言わず「そういう名前とクラスの刺繍が入った帽子を拾った」ということにしていました。本のことは秘密にしておきたかったのです。ユウマは「大沢海斗」君と直接会って、この本がいったいどういうものなのか聞きたいと強く思っていました。
2つ目は、誰もあの本に出てくる動物の名前を知らない、ということです。これは朝お母さんにしたように、話の流れや休み時間の終わり際などに、さり気なく聞いてみたことです。
ところが返ってくる答えはこんなものでした。
「ねえ、ところでさあ、『ニホンアマガエル』って知ってる?」
「何それ、新しいポケモン?新種?」
「なんか長い名前で強そうじゃん、伝説?」
「んなわけないだろ、そもそもそんな長い名前のポケモンいねえし。漫画のキャラか何か?」
誰にどの生き物のことを聞いても、答えは似たり寄ったりでした。ユウマは「前に何かの本で読んだのを思い出した」とだけ答えて、それ以上は言わないでおきました。
3つ目は、ポケモンの本や図鑑をどんなに読んでも、どこにもニホンアマガエルもツキノワグマも、シマリスも、あの本で読んだ生き物はどこにも出てこない、ということでした。
これは一人で、学校の図書館で解明したことでした。ポケモンの図鑑は、ジョウトで新種が見つかってから新しくなったものも読みましたが、やはりあの図鑑の生き物たちはどこにもいませんでした。
草原で出会えるポケモン、水辺に住むポケモン、街の近くにいるポケモン…など、なるべく近くで会えそうなポケモンのページをじっくり読んでも、火山や海の中、まだ詳しい生息地が分かっていないような珍しいポケモンのページを読んでも見つかりません。
水辺でみずでっぽうを放ち、虹を作って遊ぶマリルや、思いっきりかえんほうしゃを放つバトル中のガーディ、街の片隅で撮ったらしい、電気をまとった姿でこちらを見つめるコイルなどの写真を見ていると、逆に新たな疑問がユウマの中に浮かんできます。
「あの本に載ってた生き物のタイプは、何なんだろう…」

その週の土曜と日曜、ユウマは町の図書館に入り浸って過ごしました。
分かったのはまず「『日本の動物図鑑』に出てくる生き物にはタイプがないらしい」ということでした。ポケモンの図鑑には、名前の近くに絶対にタイプのことが書かれています。でも、「日本の動物図鑑」に出てくる生き物にはタイプのことや、使う技のことは何も書かれていません。前書きにもありません。書かれているのは住んでいる場所と大体の大きさ、食べるもの、繁殖期、冬眠するかしないか、など、その生き物が自然で生きていくのに関係の深いことばかりです。
それと「『日本の動物図鑑にポケモンは載っていないし、ポケモン図鑑に『日本の動物図鑑』の生き物は載っていない』けれど「分類で同じ名前を使っているものがいる」という、とても重要かもしれない事が分かりました。
例えば「ロコン」と「ホンドギツネ」はあまり似ていませんが、ロコンは「きつねポケモン」という分類をつけられているのです。
この2つのことから、ユウマは「もしかしたら、『日本の動物図鑑』の生き物は、ポケモンの先祖みたいなものかもしれない」という仮説を立てました。技もタイプもなかった頃の、ポケモンのご先祖様です。この仮説はユウマの中でとても有力なものになりました。そしてもし「大沢海斗」君に出会ったらそのことを聞いてみようかと思っていたのですが…
日曜の夜、山積みになった宿題を必死にこなしていたユウマは、大変なことに気づいてしまいました。
「『日本の動物図鑑』に載ってるのがポケモンのご先祖様ってことなら、化石ポケモンのプテラやカブトはどうなるんだろう?」
これはユウマの仮設を根底からくつがえすショックでした。思わず鉛筆をあらぬ方向に滑らせ、宿題のプリントに黒いギザギザ模様を描いてしまうほどでした。
もうこうなったらユウマにはお手上げです。「大沢海斗」君に直接聞いてみるしかありません。けれど、この子は一体どこに住んでいるのでしょうか?


  [No.1339] 2:ここではないところ 投稿者:Ryo   投稿日:2015/10/15(Thu) 19:59:04   60clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

6月28日 午後2時40分
カイトはもうずっと困り果てていました。あの本を落とした次の日、学校に来てからすぐに職員室に行って、担任の先生に図鑑のことを聞いたのですが、先生は知らないというのです。裏にラベルが貼ってあるから、学校のどこかで落としたのならすぐに先生のところに届けられるはずなのに。
帰り道のどこかで落としたのでしょうか?そうするとカイトにとってはとても面倒なことになります。帰り道のどこで落としたにしても、交番に行かないといけないのです。10歳の子供にとって交番に行くのはとても勇気がいることです。家族に言って一緒に行ってもらえばまだ気持ちが楽かもしれませんが、おじいさんにもらった本を失くしたと言えば怒られるに決まっているでしょう。
どうすることもできないまま、カイトは重い気持ちで土日休みを過ごしたのでした。

週が明けても、どうしても気持ちが晴れないカイトは、放課後にもう一度リンゴの樹の下へ行ってみることにしました。この樹の下で過ごしている人を、カイトは自分以外に知りません。もしかしたら、もしかしたら、樹の影とかベンチの下とかに落としたのが、そのままになっているかもしれない、そんな儚い望みを抱いて、カイトはリンゴの樹の下へ走りました。
ところがなんと、その望みは叶えられたのです。しかも、「日本の動物図鑑」はきちんとベンチの上に乗っかっているのです。カイトは最初、走りすぎて疲れて幻を見たのかと思ったくらいです。ちゃんと触れて、裏にはラベルもあります。4年2組、大沢海斗。カイトはその名前を愛おしそうに指でなぞります。学年とクラスまでラベルに入れてくれたおじいさんに初めて感謝しました。
カイトは鼻歌を歌いながら、校庭を戻って行きました。

***
6/28 7:45PM
ユウマは家に帰ってからも、ぼうっとしていました。今日あったことが本当にあったことなのかどうか、ユウマには分かりません。もしかしたらエスパーポケモンがどこか近くにいて、その仕業だったのかもしれません。

学校が早く終わる日だったので、ユウマは学校帰りにまっすぐ自然公園に向かいました。あの本が落ちていたのはこの公園なのだから、公園に行けば持ち主の大沢海斗君に会えるかもしれないと思ったのです。
ところが、本を持って公園のリンゴの樹の下に来た途端、信じられないことが起きたのでした。

ユウマがいたのは自然公園のはずなのに、リンゴの樹の下、案内板の前に立った瞬間から、ユウマの周りは自然公園ではなくなっていました。
フェンスに囲まれた広い砂の地面、古くて錆びた遊具、半分だけ埋められたタイヤ、少し遠くに見える四角い建物。
「…学校…?」
ユウマはつぶやきましたが、でもこれはユウマの通っている学校ではありません。ここはどこなのでしょう。本当に学校だったら、この学校の子供じゃない自分がここにいていいのでしょうか。帰り道はどこなのでしょうか。
とても心細い気持ちになって、ユウマはあたりを見回しました。すぐ側にリンゴの樹があります。このリンゴの樹だけは自然公園にあったのとそっくり同じ形です。側に白いベンチがあるところは違うけれど、ユウマはそれを見て物凄く安心しました。そしてこの場所から離れることがとても恐ろしく感じられました。ここから離れたら、二度と自然公園にも、自分の家にも帰れない気がしたのです。
ユウマはひとまずベンチに座り、側に本を置きました。ユウマの他に、動く生き物の姿が何も見えません。人間も、ポケモンも。チチチ、ピピピとどこからか鳥ポケモンのような声がしますが、ポッポの声でもオニスズメの声でもありません。ユウマの学校にポケモンは連れていけないので、ポケモンは家に置いてきています。ユウマは世界で自分一人だけになってしまったような気がしました。
ユウマは途方に暮れて頬杖をつき、学校のような建物の方を見やりました。と、小さな人影がこちらへ向かってすごい勢いで走ってくるのが見えました。ユウマは驚いて立ち上がり、とっさにリンゴの樹の影に隠れようとしました。知らない子供が紛れ込んだと思われて、騒ぎになったら大変です。でもこの小さなリンゴの樹の向こう側にはフェンスしかありません。その先にはユウマの全然知らない町が広がっています。どこへ逃げよう、どうしよう、とあちこち目を泳がせているうちに、その人影はいつの間にかベンチの側まできて、それからユウマに気づかないまま遠ざかっていきました。
そっと覗いたリンゴの樹の影から、歩いて戻っていく後ろ姿が見えました。ユウマはホッとして、それからベンチに戻ろうとして、そこに置いていたはずのものが無くなっていることに気づきました。あの不思議な本が!
あの人影が持っていったに違いありません。ユウマはここが自分の知らない場所なのも忘れて人影を追いかけようと走りだしました。その途端。
ユウマは元の自然公園に戻っていたのでした。いつもと全然変わらず、大人や子供や色んな人が楽しげに行き来して、レディバが花壇の上を眠そうな顔で飛び回っています。空を見上げるとヤンヤンマが一匹ユウマの真上まで飛んできて、不思議そうにユウマをちらっと見てから180度旋回してどこかへ行ってしまいました。そんな風景の中でユウマは一人、ぽかんとした顔で立っていました。

そんなことがあったので、ユウマは何にも手がつきません。大好きなカレーだったはずの夕飯も何を食べたのやらだし、ポケモンの世話もどこか上の空です。怖かったはずのニドランの角に軽くつつかれても全然なんとも思いません。
あれは何だったんだろう。
考えても考えても、答えはすぐには出そうにありませんでした。

***
6月28日 午後7時45分
大事に図鑑を両手に抱えて帰ったカイトは、家で図鑑を広げてみて、おかしなことに気が付きました。図鑑のあるページだけが、変に開きやすくなっているのです。それはシマリスのページでした。左のページに簡単な説明があって、右は大きな写真が載っています。頬を膨らませて何かの種を両手に抱えている、いかにもシマリスといった写真です。
(シマリスを飼ってる人にでも読まれたのかな…)
カイトは首を傾げました。でも、もっとおかしなことがあったのです。そのシマリスのページの奥には、何かの毛のようなものが挟まっていました。一塊の毛玉と、バラバラの一本ずつのものが十数本。それは、とてもきれいな紫色をしていました。
カイトはそれを最初、絨毯や服、毛布、とにかくそんな感じのものの毛玉がこのページに落ちたのだと思いました。でも、もうすぐ夏になるというのに、こんな柔らかな毛玉の出るような服を着る人や、毛布にくるまって寝る人がいるのでしょうか。絨毯の毛だとしても、こんな塊の形で本に挟まるというのもおかしな話です。
カイトはしばらく指先で毛玉をいじくっていましたが、カイトの記憶にある中でその感触に一番似ていたのは、去年死んでしまった雑種犬の「ゴロ」の抜け毛でした。ゴロは夏と冬が来る度に毛がごっそり抜けて、あちこちに毛玉が落っこちて掃除が大変だとお母さんがよくこぼしていたものです。小さい頃のカイトはその毛玉を集めて丸め、雪玉のように大きくして遊ぶのが好きでした。
カイトは毛の塊をじっと近づけてみてみました。そもそもこれは作り物、なのでしょうか?
「でも紫の動物…ってなんだ?」
「日本の動物図鑑」をペラペラめくっても、紫の毛をした生き物なんか載っていません。みんな黒っぽいか、茶色っぽい地味な毛色ばかりです。野生の生き物の毛ではないのかもしれませんが、紫色の犬なんて聞いたこともありません。ネコにはロシアンブルーという種類のきれいな毛色をしたものがいますが、あれはもっともっと灰色っぽかったはずです。
カイトが知らないだけで、世界のどこかに、こんなきれいな色の生き物がいるのでしょうか。それとも新種の生き物?もう絶滅した生き物?
想像が未知の世界へ広がった瞬間、カイトは急にワクワクしてきました。その紫の毛玉がとても貴重なものに思われました。指でこねるなんて乱暴なことはもうできません。カイトは毛玉をそっと本の上に戻し、部屋中を引っくり返して、やがてタンスの奥から小さなチャック付きの空のビニール袋を取り出しました。元々何が入っていたのかは分かりませんが、今この毛玉がどこにも行かないよう閉じ込めておくにはぴったりです。
カイトは右手でそうっと毛玉をつまみ上げて、左手に開けたビニール袋の中へ降ろしました。残ったバラバラの毛も、本を机の上でトントン立てて全部落とし、これもビニール袋に入れました。それから袋の中の空気を追い出すようにしっかりとチャックをして、机の使っていない小さな引き出しにしまいました。
一仕事終えたカイトは大層満足していました。もしかしたら世紀の大発見になるかもしれない秘密を手に入れたのです。この謎の紫色の動物は、一体どこにいるのでしょうか。どんな美しい姿をしているのでしょうか。
しばらく想像に浸っていたカイトは、やがて素晴らしいことに気が付きました。この動物の毛が見つかったのは、図鑑が置かれていた場所―学校のリンゴの樹の下なのです。ということはこの動物はすぐ近くにいるのかもしれません。カイトは思わず立ち上がり、小さくこぶしを握りしめました。なんとしてもその未知の動物のことをもっと知りたくなりました。
そしてカイトは、ある計画を考えついたのです。それには木曜日まで待たなければなりませんでした。

7月1日 午後0時52分
計画の日がやってきました。この日の朝読書用にカイトは「日本の鳥類図鑑」を持ってきていましたが、この本の真の目的は、読むことではありませんでした。
昼休みがやって来るとカイトは、「日本の鳥類図鑑」を持ってリンゴの樹の下へ向かいました。そして、ベンチの上にその本をそっと置きました。言わばこの本は紫の動物をおびき寄せるための「罠」のつもりだったのです。何を食べるのか、どんな姿なのかもわからない紫の生き物についてカイトが知っているのは「図鑑の上に乗っかっていたらしい」ということだけですから、罠として使えるのはこれだけでした。動物図鑑を忘れた時、ページは開いていたか閉じていたか覚えていなかったので、汚れないように閉じたまま置きました。
そしてカイトはそっとその場を離れようとしました。
その途端。
カイトの周りは学校ではなくなっていました。

カイトは全然知らない場所に、一人で突っ立っていました。木々が立ち並び、きれいで大きな花壇があるところで、あちこちに大人や子供がいて、みんな楽しげに行き来しています。
でも、それよりも何よりもカイトの目を引いたのは、あちこちにカイトの知らない生き物がいたことでした。
人間の肩や頭の上に、ニワトリよりも少し大きいくらいの様々な色の鳥が乗っかっていたり、小さな子供がピンク色の人形みたいな生き物?と手をつないで歩いていたり。よく見れば花畑の側では物凄く大きなてんとう虫がのんびり飛び回っていて、カイトはぎょっとしましたが、歩いている人は誰も驚いていません。そこら中変な生き物だらけなのに、みんな当たり前のような顔をして通りすぎたり、肩に乗せたり、一緒に歩いたりしているのです。
カイトは自分がおかしな夢を見ているのかと思いました。そしてリンゴの樹に助けを求めるように後ずさり、体を幹に寄せました。するとカイトの足元で、けたたましい声が聞こえて、カイトは飛び上がるほど驚きました。
見れば茶色い鳥が2羽、リンゴの樹から少し離れた地面から、カイトのことを怪しげな目でじろじろ見上げています。そんなに大きくはありませんが、飛びかかられたら痛いに違いありません。カイトは鳥達の視線を受けて、リンゴの樹に張り付けられたように動けなくなりました。すると不意にその鳥のうちの一羽が、羽をバサリと広げて
「ぽっぽぅ!ぽっぽう!」
と大きな声で鳴きました。まるで、ここに怪しい奴がいるぞ!とみんなに知らせているようです。カイトは恐ろしくなって
「うわーっ!!」
と叫びながらそこから逃げ出しました。
すると、カイトは学校に戻っていました。おかしな遊園地のような場所に行ったのと同じくらい突然に。
カイトはしばらく呆然とそこに立ち尽くしていました。スズメの声がやけに大きく聞こえます。そこへ突然肩を叩かれたので、カイトはさっきの茶色い鳥を思い出して本当に飛び上がってしまいましたが、それは鳥ではなくて人間の友達で、
「お前、何でこんなとこでぼーっとしてたんだ?」
と、変な顔をされてしまいました。
「う、うん、ちょっと考え事」
と適当な返事をしながらチラリとベンチを見ると「日本の鳥類図鑑」はまだそこにありましたが、カイトはもうそこに近づく勇気はありませんでした。

***
7/1 2:25PM
ユウマはリンゴの樹の前で、どうしたものかとじっと立ち尽くしていました。
月曜日、あの不思議な場所で、誰かにあの本を持って行かれてから、ユウマは毎日学校帰りに自然公園に寄っていたのです。あの「日本の動物図鑑」がまたリンゴの樹の下に落ちていないか。もしくは「大沢海斗」君がやって来るんじゃないか。そう思って毎日リンゴの樹の側で、少しだけ待ってみたりもしたのです。
それが、どうでしょう。今ユウマの目の前にあるのは、「日本の鳥類図鑑」です。「日本の動物図鑑」とそっくり同じ形で同じ厚さですが、表紙に映っているのは、宝石のように輝く緑色をした、大きなくちばしの鳥ポケモン、ではないらしい生き物。

拾おうと一歩足を進めようとして、ユウマはふと歩みを止めました。頭の中にあの、どこまでも続く乾いた砂と、がらんどうのコンクリートの建物の光景が浮かんだからです。あの事件があってからリンゴの樹の案内板の側までは、ユウマはなるべく行かないようにしていました。あの光景を怖いと思う気持ちがずっとあったからです。
一度だけ、たったの一度だけ勇気を出して案内板の前に立ってみたことがありますが、なぜかその時は周りの景色も変わらず、まるでなんともなかったのです。と、なると、リンゴの樹の力も絶対ではないのかもしれませんが、もし今この図鑑を拾ってしまえば、またあの場所に行ってしまう。そんなほぼ直感めいた確信が、ユウマの足を地面に貼り付けていたのです。
けれど、「シマリスって知ってる?」とお母さんや友達に聞いた時の怪訝そうな反応や、ポケモン図鑑のどこにも姿を見せない奇妙な動物たちの写真、あの本を持って走り去った人影、そして今このリンゴの樹の案内板の下にユウマを誘うように落ちている「日本の鳥類図鑑」が、ジグソーパズルのように合わさってユウマの中である一つの答えを導き出していました。
つまりこの「図鑑」に載っているのはあの学校のような建物のある世界に住んでいる生き物。そしてあの図鑑を持って走り去ったのが「大沢海斗」君である、ということです。大沢海斗君のいる世界の生き物が、ポケモンとどう関係があるのかはわからないままですが、少なくともこの考えは確かな形をもって、ユウマの中で固まりつつありました。
あの事件から時間が経つうちに、心のどこかでもうあの図鑑は見つからないかもしれない、全部夢や幻だったのかもしれない、と思いたくなる気持ちも少しずつ生まれていました。しかし、「日本の鳥類図鑑」が目の前に現れた今、もうそんな事は言っていられなくなりました。この図鑑の謎を解くにも、大沢海斗君に会うにも、案内板の側まで行って、図鑑を拾ってこなければなりません。例えまたあの、寂しくて恐ろしい場所に飛ばされるとしても。
ユウマは大きく深呼吸をして、心を落ち着けました。そして、重要な事を思い出しました。自分は今、一人ではないということです。
もしもまたあの場所へ飛ばされても、心細い気持ちにならないように、あれからユウマはこっそりと、学校の決まりを破って、モンスターボールをリュックの底に入れて持ち歩いていたのです。
いざとなったら、ニドランとチコリータがいる。そう思うと怖いものがなくなりました。
ユウマは決心して案内板の前に歩いて行きました。そして周りの景色が、ふっと変わりました。

ユウマはまたあの学校のような場所に立っていました。リンゴの樹だけがやっぱり、自然公園にあったのと変わらずに側にあります。
「日本の鳥類図鑑」はベンチの上に置かれていました。ユウマはそれを拾い上げます。初めて来た時と違い、気持ちは不思議に落ち着いていました。
(やっぱりだ…)
たったの一度、何にも持たずに案内板の前に立った時のことをユウマは思い出していました。案内板の下から見る景色は全く普段と変わらない、平和な自然公園でした。ということはやはり、この図鑑こそがこの場所とあの場所を繋ぐ、パスポートのような役割をしているのかもしれません。
ユウマはゆっくりと周りを見回しました。自分以外に誰もいないような場所だと思っていたけれど、フェンスの向こう側を見ると、背の高い木が立ち並んでいて、その先には道路があるのか、沢山の車が行き来しています。そしてその手前側の歩道をユウマと同じくらいの年の子が何人か歩いているのも見えます。でも、ポケモンは誰も連れていません。
ユウマはそれを見ると急に寂しくなって、思わず背負ったリュックを開けて、モンスターボールを一つ、取り出してしまいました。そしてあたりを見回して、誰も見ていないのを確認すると、カチリとボタンを押しました。飛び出した赤い光が砂の上で、ユウマの知っている姿になりました。
「チコ?」
呼び出されたチコリータは、知らない場所でとても不安そうにしています。まるで初めてここに来た時のユウマのようです。ユウマは図鑑を自分の横に置き、代わりにそっとチコリータを抱き上げて膝の上に乗せました。爽やかな香りと暖かさがユウマを包みます。チコリータも少し安心したようで、膝の上で力を抜いて、ユウマの体にもたれかかりました。
それにしても、ユウマのいたところでは、生徒は学校にポケモンを連れてきてはいけないことにはなっているけれど、ポッポやオニスズメみたいな野生のポケモンはしょっちゅう校庭にやってくるし、そういうポケモンが危ないことをした時に追い払うために、先生がポケモンを連れてきたりもしているのです。でも今いるこの学校のような場所は、何にもいなくてまるで砂漠のようです。
いえ、ユウマは思い出しました。「日本の動物図鑑」のことを。あの図鑑に載っていた動物たちはどんな大きさだったか。その辺りの草花よりも小さな生き物が、沢山いたはずです。
きっと見えないだけで、人間以外の生き物もちゃんといるんじゃないのか。そう思った時、
「チコ!チコ!」
膝の上のチコリータが突然、落ち着きなくそわそわしだしました。チチチ、チチチと頭の上で鳴き声がしました。見ると、ユウマの手のひらほどもなさそうな小さな鳥が、ふるるる、と高く細かな羽音を響かせて、フェンスの上に舞い降りてきました。油断なく周りを見回して、ちゅん、ちゅん、とよく響く声で鳴いています。
ユウマはそれがどんな鳥なのかよく見たかったのですが、あまりに小さく、それに太陽の光が眩しいので、何となく茶色っぽい、ということくらいしか分かりません。草タイプのチコリータはこんな小さな鳥でも怖いようで、ぎゅっと伏せて身を固くしています。困ったユウマはそこで、自分の傍らにあるものの事を思い出しました。
今こそ、この図鑑が役に立つ時なのではないでしょうか。そう思って早速ユウマは図鑑を手に取りました。伏せたチコリータの葉っぱがうまい具合に本の支えになってくれます。が、表紙をめくったところに書かれていたのはこのような文章でした。

「野外で鳥を見た時、その鳥のおおよその大きさがわかると、その鳥の名前を知る良い手がかりになります。大きさの基準になる、身近にいる鳥を「ものさし鳥」といいます。本書では、スズメ、ムクドリ、カラス、ハト、トンビを基準に設定しました。例えばスズメくらいの大きさの野鳥を見つけた時には、右の検索欄の「スズメくらい」の横の四角が灰色になっているページをたどって探してみてください」

なるほどページの右には「スズメより小さい」「スズメくらい」「ムクドリくらい」「ハトくらい」…という見分け方の例と、灰色の四角いマークがずらりと縦に並んでいます。ページをパラパラめくってみると、右端にある四角いマークの色の場所で、鳥の種類が大きさから検索できる仕組みでした。
確かにこれはわかりやすいかもしれません。この世界で暮らしてきた人たちにとっては。でもユウマにとってはスズメもムクドリもカラスも、未知の鳥です。
いえ、スズメだったらオニスズメ、カラスだったらヤミカラスが、ユウマのいる世界には住んでいます。でも…
「オニスズメとヤミカラスって、そんなに大きさは違わないような…」
考えこんでいるユウマは、気が付きませんでした。ベンチの側に、背の小さな男の子が立っているのを。

***
7月1日 午後2時45分
放課後になってから、やっぱり昼間のことが気になってリンゴの樹の下へ戻って来たカイトは、呆然とその男の子を見ていました。
同い年、なのでしょうか。でも全然知らない子です。それに、あまりこの辺りでは見たことのない格好をしています。第一にランドセルではなくリュックを背負っているし、服も靴も、何となくユウマや友達のものよりしっかりした頑丈そうな感じのものに見えます。
そんな子が、ベンチに座ってとても熱心にカイトの図鑑を読んでいます。時々フェンスに止まっているスズメを真剣に睨んでいます。どうしてそんなにスズメが気になるのでしょうか。
それになんといっても、その膝の上に乗っている、へんてこな生き物は一体何なのでしょうか。全身黄緑色で、頭には大きな葉っぱが生えています。カイトは最初、その子が大きな野菜を抱えているのかと思ったほどです。大きな二つの赤い目があって、それがちゃんとまばたきするのを見て、やっと生き物だとわかったのでした。一体カイトの持っている、どの図鑑を読んだらこんな生き物が載っているのでしょうか。
変な夢の次は、見たことのない子。そしてあの変な夢から飛び出してきたような生き物。「日本の鳥類図鑑」をリンゴの樹の下に持ってきてから、おかしなことばかりが起きています。紫色の小さな毛玉一つで大発見だと喜んでいたのが、ずっと昔のようです。
とにかくこの子は、自分の図鑑を勝手に読んでいるのだから、声をかけないといけない、とカイトは思いました。
ところが声をかける前に、その子の膝の上の変な生き物が、鋭い声をあげてこちらを見たのです。

その生き物に睨みつけられたカイトも、カイトに気づいたその子も、凍りついたように動けませんでした。
おかしな黄緑の生き物は、子犬の遠吠えみたいな高い声で一声鳴いて、その子の膝の上から飛び降りると、頭から生えた葉っぱをぶんぶんと振りました。まるで、近寄るな!と言っているようです。でもカイトはその様子が恐ろしいとか怖いと思うよりも、へんてこすぎてどうしたらいいのかわからない、というのが正直なところでした。
だって、そんな変なことをする生き物なんて動物園でも見たことがないし、その生き物が必死に振り回している大きくて柔らかそうな葉っぱがカイトの体に当たったところで、全然痛そうには思えなかったからです。それどころか辺りに爽やかないい香りがしてきて、なんだかそのよく分からない生き物の様子が可愛らしいとさえ思えてきてしまいました。
が、その生き物はあまりにも突然に、カイトの目の前から消えました。その姿は一瞬で小さな赤い光になって、いつの間にか立ち上がっていた男の子の手元に吸い込まれていきました。
(ええっ?!どういうこと!?)
何が起きたのか全く分からず戸惑うカイトを、その男の子は怯えた目で見つめています。二人の間に風が一つ吹きました。先ほどまでのどこかほんわかした空気はいっぺんにどこかへ行ってしまい、恐れと緊張感に満ちた空気が二人の間をさえぎりました。

「ねぇ、」
先に声をかけたのはカイトでした。やっと出せたその声は震えています。変なことを言ったら自分も赤い光に消されそうで、とても怖かったのです。でもその子はカイトの呼びかけにびくりとして、真っ青な顔でカイトを見返しました。
「その図鑑、」
カイトは言葉を続けます。見ればその子もカイトの声と同じに、小さく震えています。けれどカイトの方だっていつ消されるかと気が気ではありません。だから次の言葉は勇気を振り絞って言わなければいけませんでした。
「僕の…」
だけどその子はカイトの言葉を聞かずに一目散にフェンスの方へ走りだしたかと思うと、不意にカイトの目の前から消えました。
「…?!」
カイトは目をこすりました。誰もいません。何もいません。目の前の光景が信じられないカイトは何度も瞬きをしました。ベンチの上には何もありません。あの子が穴が空くほど見ていたスズメも、いつの間にか逃げてしまったようです。自分が消されるかと思っていたカイトは、自分の体がそこにあることと、ベンチの上に何もいないことを、何度も確かめました。
「…オバケ?」
カイトは自分の独り言に、思わず震え上がりました。こんな真っ昼間にオバケなんておかしいような気もしますが、現に図鑑はそのオバケに持って行かれてしまったのです。あの黄緑色の変な生き物が突然消されたように見えたのも、あの生き物もオバケだからなのかもしれません。
あるいは、もう全部夢だったのかもしれません。リンゴの樹の下で見た悪い夢が、まだ続いているのかもしれません。カイトは今まで自分だけの場所を作ってくれた、頼もしいリンゴの樹が、急に、学校から打ち捨てられた幽霊のような、とても不気味なものに見えてきました。白く寂れたベンチも、字の薄れた看板も、もう何もかも怖くて仕方ありません。
カイトはぎゅっと目をつむって方向転換して、そこから一目散に逃げ出してしまいました。

***

7/1 2:50PM
ユウマは「日本の鳥類図鑑」を持っていつもの自然公園の、いつものリンゴの樹の側に立っていましたが、まるで、自分が自分でないような、世界が世界でないような気持ちになっていました。
頭の中ではサイレンのように、ユウマを責める声が響いています。
(ばか、ユウマ!これじゃあ、まるでドロボウじゃないか!人のものを持って逃げるなんて!)
今すぐにリンゴの樹の案内板の前に戻れば、あの場所に戻れるんじゃないか。この図鑑を返せるんじゃないか。そう思っても、足が地面に張り付けられたように一歩も動きません。
耳の奥にはまだあの震えてかすれた小さな声が残っています。
(ねぇ、その図鑑、僕の…)
その言葉を振りきって逃げ出してしまったユウマを、あの男の子―今では大沢海斗君だとはっきりわかったあの子はどう思ったでしょう。きっと怒っているに違いありません。
でも、それ以上に、戻れない理由がありました。それはユウマがあの場所から逃げ出した理由でもありました。
チコリータを見た大沢君が、どんな様子だったか。撫でようとも、話しかけようとも、ましてや自分のポケモンを出そうともせず、ただ困ったような顔でチコリータを見下ろしていた、あの、全身で「なんだ、こいつは?」と言っているような姿。チコリータをモンスターボールに戻した時の、あの真ん丸な目と真っ青な顔。もし4年生の大沢君がユウマと同じ10歳だとすれば、普通ポケモンやモンスターボールを見てあんな顔は絶対にしません。するとやはり、あちらの世界に、ポケモンはいないのです。
ポケモンのいないはずの世界でポケモンを出し、それを人に見られたこと自体も大変なのかもしれませんが、今はそれ以上に、あのチコリータを拒絶するような大沢君の様子がショックで、それだけでユウマの足はすくんでしまうのでした。
でも、手の中にある図鑑は、いつか返さなければならないものなのです。そしてそれができるのは「いつか」ではなく、「今」「すぐ」なのだと分かってはいるのです。なのに体はマヒにかかったように頭のいうことを聞いてくれません。そんなユウマを、通り過ぎる人たちは不思議そうな顔で見ていきます。
「ぽっぽぅ?」
いつの間にかポッポが数羽、ユウマの近くに寄ってきて、首を伸ばしてユウマの顔を覗きこんでいます。
(ポッポにまで心配されるなんて…)
ユウマは自分が情けなくなりました。そして決心しました。今から「あっち」に戻って図鑑を返し、用が済んだらすぐ戻ってくる。それでもうこのことはおしまいにしよう。
でも、もう遅かったのです。周りに人がいなくなったのを見計らって、案内板の前から大沢君の学校へ行った時には、もうそこには誰もいなくなっていました。ユウマはがっくりと肩を落とし、また図鑑を持って自然公園へ戻るしかありませんでした。


  [No.1340] 3:小さな窓から 投稿者:Ryo   投稿日:2015/10/16(Fri) 20:26:51   54clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

7月2日 午後0時57分
カイトは図書室で、物語の本を読んでいました。トガリネズミのおじいさんが、若いころにした冒険を孫のネズミ達に語って聞かせるお話です。でもなんだか、読んでいる、というよりも、開いた本を両手に持っている、という方が正しいようでした。簡単な文章のはずなのに、文字が目の上でつるつる滑って、頭の中まで入ってこないのです。
カイトは同じページの同じ行を見つめたまま、しばらくボーっとしていましたが、やがてその本を棚に戻し、別な本を持ってきました。映画にもなった有名な、魔法使いの男の子の物語です。けれど、これはさっきの本にも増して、今のカイトの手に負えないものでした。魔法使いたちの楽しげな授業も華やかなパーティーも、白いページの上の黒い模様の向こう側で、カイトのことなんか構わずに行われていることでした。
それでもなんとなくこの話の筋は覚えていたカイトは、この話がどのように始まったかを思い出した途端、背筋を冷たい手で撫でられたような気分になりました。
この話は、普通の男の子だと思っていた主人公のもとに魔法の世界から手紙が届いて、地下鉄の壁を通り抜けて魔法の世界へ行くところから始まるのです。
カイトの頭の中で悪夢のように大きなてんとう虫が飛び始め、茶色いもそっとした鳥が「ぽっぽぅ!」と鳴きました。その瞬間カイトの体中に鳥肌が立ちました。そして大慌てで本を戻し、今度は何も持たずに椅子に戻り、ぐったりと机にうつ伏せてしまいました。どんな物語の世界も、もう人事と思って楽しめる気持ちではなくなってしまいました。

リンゴの樹の下でオバケを見てから、カイトは一度もリンゴの樹の側へ行くことも、その姿を見ることすらも避けていました。だから昼休みもこうして、先生に見つからないことを祈りながら図書室にいるのでした。
とん、と肩を叩かれてカイトはびくりと体を震わせましたが、なんてことはない、クラスメイトのユウイチでした。ユウイチはヒソヒソ声でカイトに聞きました。
「なあ、ニュートンの幽霊見たってマジ?」

あのリンゴの樹はどうやら「ニュートンの幽霊がリンゴのオバケを連れて出る場所」として変に有名になってしまったようでした。もちろんこれはカイトの見たものとは全然違います。外に出たがらないカイトに、ハヤタがしつこく理由を聞くので、仕方なく
「変な黄緑色の、葉っぱが生えた動物を連れた子供のオバケをいつもいる樹の下で見た」
と答えたら、それがおかしな風に広まってしまったようなのです。あの生き物はリンゴとは似ても似つかない姿だったけど、じゃあ他の何に似ているかと言うとどうとも言えず、訂正するにしてもどう説明したらいいのかカイトには分かりませんでした。
「ニュートンじゃないってば…ただの子供のオバケだよ、多分」
カイトが面倒そうに言ってもユウイチは聞きません。
「絶対ニュートンだって!今から一緒に見に行こうぜ」
ユウイチの頼みを、やだよ、と跳ね除けて、カイトは再び机に突っ伏しました。
夏休みも目の前だというのに、梅雨の雨雲の中に引き戻されてしまったような気分でした。

***
7/4 8:00 PM
ユウマは自分の部屋で、ニドランの毛を慎重にブラッシングしてやっていました。少しずつ仲良くなってきたとはいえ、ブラッシングで力の入れ方を間違えると、ニドランはすぐに怒るのです。でも、何度か失敗を繰り返し、手痛いキックを何度も受けるうち、例え怒ってもその毒の角をユウマに向けるつもりはどうやらないらしい、ということが分かってからは、ずいぶんとこのニドランに対して余裕を持って接することができるようになりました。
「チコ!」
不服そうな声をあげて、チコリータがぴょこぴょこと飛び跳ねます。自分のことも構って欲しい、という合図です。
「チコリータは後でやってあげるね」
そう言って、側にあったモンスターボール柄のゴムボールを転がしてやると、チコリータはぴょいと飛びついて、前足で転がしたり葉っぱで仰いでみたりして、楽しげに一人遊びを始めました。
無心にポケモンの世話をしていると、あの図鑑のことを忘れられます。ユウマにとってつかの間の、ほっとできる時間でした。

図鑑を持って逃げた日から、ユウマはあの図鑑を開くことはおろか、見ることすらできずに机の奥に突っ込んだままにしてしまっていました。自分は大沢君の目の前で、あの図鑑を持って逃げてしまった。そのことが重く心にのしかかって、図鑑を見るたびにあの自分を呼び止める声が頭に蘇ってしまうのです。
「あの、その図鑑、僕の…」
この声が頭に響くたび、ユウマは心がズキンと傷んで、その場で胸を抑えたくなるほどでした。
でも、忘れたいと思うことほど、ふとした瞬間に思い出してしまうものです。ニドランのブラッシングを終えて、チコリータのブラッシング―というよりほとんどブラシで軽く撫でてあげるだけのものですが―のために柔らかいブラシを取りに立ち上がったユウマは、目線の先にあったカレンダーを見た瞬間に図鑑のことを思い出して、ずんと胸が重苦しくなりました。
日付が並んでいるその上には、青い海と山吹色の砂浜に、ゼニガメがサングラスをしてベンチに寝そべっている絵。カレンダーはもう7月になっていました。そして、1つだけ赤い丸で囲ってある日付が、夏休みの始まり、つまりユウマが旅に出る日です。それは20日のことですが、もう今は7月も4日の夜です。旅に出るまで2週間ちょっとしかありません。旅に出るために必要なものだって、いくつか用意し始めています。傷薬や状態異常を治す薬一揃い、地図、モンスターボール、そういうものが机の脇にまとめて置かれていました。
つまり図鑑を返そうと思ったら、もう時間が2週間くらいしかないのです。大沢君がその間にユウマを許してくれるか、どころか、そもそもユウマと会えるかどうかも分かりませんし、もしかしたらリンゴの樹の不思議な力が突然無くなってしまうかもしれません。でも、どうしても大沢君の怯えた顔と声が頭から離れてくれません。
カレンダーを睨んだまま動かず、大きくため息をついたユウマに、放っておかれたままのチコリータが腹を立てたのか、ユウマの足元にどんとぶつかってきました。よろけたユウマの視界がぐらりと揺れました。
「いたたっ」
ユウマがその痛みで本来の用事を思い出し、慌ててしゃがんでチコリータに謝ると、チコリータは「しっかりしてよ」と言うように葉っぱを一つ振りました。ふわりと優しい香りが部屋に広がります。
その瞬間、ユウマは思いつきました。大沢君に直接会わなくても、図鑑を返して、ちゃんと謝ることのできる方法があったのです。
「そうだよ!」
思わずユウマはチコリータに話しかけました。チコリータはちょっとびっくりしたような顔をしてユウマを見返しましたが、ユウマはドタバタと足音を立ててブラシを取りに行ってしまいました。
ユウマが考えた方法は、大沢君に手紙を書いて、図鑑に挟んで「あっちの世界」のベンチの上に置いておくというものでした。チコリータのブラッシングをしながら、ユウマは一生懸命文章を考えて、それが済むとすぐさま机に向かい、机の引き出しを片っ端から開けて、居眠り中のフシギダネの絵が描いてある薄緑色の便箋を取り出し、書き始めました。

「始めまして。
図鑑を勝手に持って行ってしまってごめんなさい。
ぼくはジョウト地方のエンジュシティに住んでいる佐渡有真といいます。
本当は会ってちゃんとあやまりたかったけど、ぼくは7月20日から旅に出ないといけないので、あなたに会えないと思うので、手紙であやまります。ごめんなさい。」

ここまでで手紙は終わるはずでしたが、注意深いユウマは一度読み返してから
(もしかしたら、旅って何だろうと思われるかもしれない。ポケモンがいない世界だから、旅もわからないかもしれない)
と考え、続きを書き始めました。

「旅とは、ポケモントレーナー(ポケモンを育てている人)がポケモンを連れて、いろんな町に行ったりポケモンをつかまえたり、バトルしたりすることです」

手紙はこれで終わりませんでした。そもそもポケモンがわからないだろうし、バトルだってそうだろう、と思ったユウマはどんどん説明を付け足していきました。

「ポケモンとは、ぼくたちの世界にいるいろんな生き物のことです。ぼくたちの回りにいるのはみんなポケモンで、あなたのところにいるような動物や鳥類はたぶんいません。ポケモンはバトルをして強くなるので、みんなそうしています。うちにもいます」

ユウマは余白にニドランとチコリータの絵を描きました。絵を描いたら説明もつけたくなって、説明も付けました。なんだか永遠に終わらないような気持ちになりましたが、便箋はいつかはいっぱいになるものです。書くところがなくなれば、手紙はおしまいです。
手紙を書ききったユウマは心からほっとして、もう謝るのが済んでしまったような気分になりました。そして初めて「日本の鳥類図鑑」をゆっくり眺めようと思えるだけの余裕ができたのでした。

「日本の鳥類図鑑」を一通り読み終えて分かったことは、やはりこの図鑑の生き物とポケモンは全然違う、ということでした。分類だけでなく名前自体がポケモンと同じでも、同じなのは名前だけで、後は全然違うのです。例えば「スズメ」と「オニスズメ」は見た目も大きさも、性質もちっとも似ていません。「ハシブトガラス」と「ヤミカラス」も全く似ていませんが、ユウマは「ハシブトガラス」の方がかっこいいな、と少し思いました。
それから、やっぱりどの鳥も、とてもとても小さいように感じられます。大きいものもいるけれど、100センチを超えるようなものはほとんどいません。ピジョンやオニドリルのような、少し旅慣れたトレーナーなら一羽は連れているような鳥ポケモンが、あちらの世界では相当珍しいのかもしれない、と考えてみるとなんだか変な気持ちです。
ほとんどの鳥は、あのフェンスに止まっていた茶色い鳥―スズメのように、片手の手のひらでも余るくらいの大きさしかありません。そういう鳥が大きな鳥に進化するのかと思えば、そもそも「進化」というもの自体が図鑑のどこにも書かれていないのです。スズメは一生小さなスズメのままで、なんだか育てる楽しみも…
そこでユウマはふと、思いました。あちらの世界ではこういう生き物を育てたりバトルさせたりするんだろうか、と。そういうことに役立つ情報、例えば覚える技やタイプ、どう育てれば進化するか、など何も書かれていないこの図鑑と、小さな鳥たちの精悍な瞳とキリリと結ばれたくちばしを見ていると、なんだかどの生き物も人間なんか必要としていないように見えたのです。
ユウマは何かに突き動かされるように図鑑の「コマドリ」のページに挟んだ薄緑色の便箋をもう一度机に広げ、その隅になんとか一文書き込めるだけの隙間を見つけ、こう書き足しました。

「あなたのところでは、動物や鳥類をつかまえて育てたりしますか?」

こんなことを書いて、自分がどうしたいのか、ユウマには自分でも分かりませんでした。返事が欲しくて書いたわけではないし、のんきに文通なんかしている暇はないのです。この手紙を送ってもうおしまい、のつもりだったのです。ユウマは消しゴムでこの文章を消しました。するとまわりの文章まで一緒に消えてしまったので、それはもう一度書き直しました。
終わりまで真っ黒になったフシギダネの便箋を、ユウマはその時改めて見返しました。この世界のことや旅のことやポケモンのことを伝えようとして、いっぱいになった便箋です。
(こんなに書くつもりじゃなかったんだけど…でも)
ユウマはその文章の奥に隠された、そして自分の中でいつの間にか見えなくなっていた自分の気持ちを見つけました。ユウマは大沢君に会いたい、話したいと思っていたのです。ポケモンのいない世界と、動物のいない世界のことを。
ユウマはさっき消した質問を、同じ場所にもう一度書き直しました。それから、いろいろ考えた末に、ある一文を書き直しました。
そうして、やっと眠りにつきました。

次の朝。ユウマはズバットがねぐらに帰るより早く起きて、公園へ走ると、済んだ空気の香りがする公園から、朝日に砂がキラキラ光る校庭へ渡り、ベンチに本を置いてすぐに戻りました。

***
7月5日 午前11時
カイトがその図鑑を受け取ったのは、2時間目の終わりのことです。
担任の先生に職員室に呼び出されて、何かと思って行ってみれば、先生の机の上に、記憶の彼方へやっていたはずの「日本の鳥類図鑑」があったのです。カイトはもう、言葉も出ないほどのショックを受けました。
「2年生の子が体育の時間中にベンチの下に落ちてたのを見つけてくれたんだと、山本先生が届けてくれたんだ。いやあ、ちゃんと名札をつけてあってよかったなあ。なあカイト」
先生がそんなようなことを言っていますが、頭が真っ白で何も入ってきません。小さく返事をしながら、人形のように首を縦にふるだけです。
「あんなリンゴの樹のところで、鳥の観察でもしてたのか?さすがカイトは勉強熱心だなあ」
先生はやっぱり太陽のような笑顔をしているなあと、カイトはぼんやり思いました。こちらの調子など構わずに、百パーセントの明るさで照らしてくるのがそっくりです。
「ほら、もう無くさないようにするんだぞ」
カイトは白昼夢を見ているような気持ちで本を受け取りました。どうして返ってきたんだろう。誰が戻したんだろう。死んだ犬のゴロが突然天国から戻ってきたら、きっと嬉しいより先に同じような気持ちになるでしょう。でも、ゴロだったらきっとその後泣きたいくらい嬉しくなるけど、カイトに悪夢やオバケを見せた図鑑が戻ってきても、素直に嬉しいとは思えませんでした。きちんとした四角いフォントの「日本の鳥類図鑑」というタイトルも、表紙に写された宝石のように美しいカワセミも、どこかこの世のものでないような感じに見えていました。

ポンと手渡された図鑑を持って、ぼうっとしたまま職員室を出たカイトは、廊下の静けさの中で、途方に暮れたような気分でした。力なく左手に図鑑をぶら下げて、おぼつかない足取りで教室に戻ろうとすると、パサリと何かが落ちました。
「え?何これ…」
2つに折られたその紙を拾い上げて開き、「始めまして」の文字を一番上に見つけた瞬間、カイトは再び頭を殴られたようなショックを受けました。
(オバケからの手紙だ!!)
カイトは一瞬、怯えてその手紙を床に投げ出しそうになりましたが、職員室の前の廊下でそんなことはできません。震える指先でその「始めまして」の文字をなぞると、鉛筆の粉が指先につきました。同じクラスの友達が頑張って丁寧に書いたらこんな感じだろうな、という文字の後に、二匹の生き物の絵が描いてありました。そしてそのうちの一匹は、まさにカイトが見た、あの黄緑で頭に葉っぱがあった、あの生き物とそっくりな形です。リンゴのオバケなんかじゃない、世界の何にも似ていない謎の生き物です。絵の周りにもたくさんの文字が書いてあります。
よく見ればそれの仲間のような、背中に球根のようなものを背負ったカエルみたいな生き物が、便箋の上の方で気持ちよさそうに居眠りしている絵がプリントされています。
(どうしよう、どうしよう)
カイトは今すぐ休み時間も授業も放り出して、家に帰りたくなりました。この図鑑と手紙をどうするにせよ、とにかくまず気持ちを落ち着けることが必要でした。何せ手紙の絵はなんとか分かっても、「始めまして」から先が全く読めないくらい混乱しているのです。
恐らくそんなカイトの顔は真っ青になっていたのでしょう。3時間目の授業が始まるとすぐさま、担任の先生はカイトの顔色が酷いのを見て取り、保健室に行くよう促しました。
保健室のベッドでしばらく横になっていたカイトは、いくらか落ち着いた気分にはなりましたが、帰りたいという強い気持ちは変わりませんでした。そんなわけでカイトは保健室の先生にそう言って、慌ててやって来たお母さんの車に乗って早退したのでした。

7月5日 午後1時
「カイト、本当に大丈夫なの?熱はない?病院に行く?」
家のベッドに横になったカイトに、お母さんは心配そうに声をかけました。
「ううん、気分が悪くなっただけだから、寝てれば治るよ」
カイトはお母さんを安心させるように笑って返事をして、お母さんがそっとドアを閉めて出て行くのを見守りました。
寝転んだカイトは、自分の右手の人差し指をしばらくじっと見つめていました。家に帰ってから手をきれいに洗ったので、もう鉛筆の粉はついていませんでしたが、あの文字を指先でなぞった時の感覚が、まだ残っているようでした。
(…オバケの文字だったら、鉛筆の粉なんか、つかないよね…)
カイトは自分の手を見つめ、それを鉛筆を握るポーズにしてみました。
(そうだ、きっと僕とおんなじだ、おんなじ人間なんだ)
カイトは自分に勇気を出させるように、気持ち悪いのを吹き飛ばすようにベッドから身を起こしました。そして図鑑をランドセルから取り出して、手紙を手に取り、再び布団に潜りました。
確かに心臓が飛び出しそうなくらい緊張してはいるけれど、怖い気持ちは少しずつ薄れていました。1人で、静かに、安心できる布団の中であれば、オバケの言葉とでも向き合える気がしていました。「始めまして」の文字とあの絵の間に何が書かれているかは分かりませんが、オバケはカイトにも分かる言葉を使ってくれている。それはとても大きなことでした。それでも手紙を開く前に何度も何度も目をつむって深呼吸をしなければいけませんでしたが…

カイトは手紙を読みました。うまく分からない言葉があったので、何度も何度も、隅から隅まで、漏らさないよう読みました。

カイトは、あのオバケたちの名前を知りました。彼らがどこに住んでいるのかも知りましたが、全く聞いたことのない地名でした。カイトは佐渡有真君というその子が、ポケモンという生き物たちと、どういう暮らしをしているのか想像しようとしました。たったの10歳で出なければいけない「旅」とはどんな感じだろうと考えてみました(ゴロを連れて一人旅に出る自分を想像してみましたが、頭の中で県境を超えただけで怖くなってきたので、やめました)。佐渡君の住んでいる町や自然はどんな感じなのか、頭の中に一生懸命描いてみました。鳥も動物もいない、ポケモンという生き物だけの世界とはどういうところなのか。
ふいに、あの「悪夢」の光景が思い出されました。あの両手で抱えられそうなくらい大きな鳥たちや、ピンク色のぬいぐるみみたいな生き物や、あくびしそうな顔のてんとう虫、そしてそういう生き物たちと、まるで家族や友達のように一緒に歩いていた人々を思い出しました。
(そっか、あれがみんな、ポケモンなのか…)
あの光景と手紙にかかれた文章と絵が一つに繋がり、まるでなかなか飲み下せなかった薬が突然喉から落ちたように、カイトの頭の中にスッと入ってきました。確かにカイトにとっては見慣れない光景です。第一にあんなに大きな鳥や虫や動物があっちこっちにいたら、車も走れないし、学校に行くのだって危ないでしょう。3年生の時、隣町に山からサルが一匹降りてきて、大騒ぎになったニュースを、カイトは家で見たことがありました。でも、小さい頃からそういう生き物がそこら中にいる世界にいた佐渡君や、この「ジョウト地方のエンジュシティ」の人々にとっては、そういう生き物が身の周りにいる光景が、きっと普通なのです。
佐渡君の家にいるという、2匹のポケモンの絵には、矢印で引いた説明があちこちに書いてありました。文と文の間にまで、無理矢理に文を押し込んで、ぎっしり書いてあったので、カイトは読むのがとても大変でした。

「チコリータ オス はっぱポケモン くさタイプ(分類はそのポケモンを大まかに表すもの タイプはそのポケモンの力のもとみたいなもの)
葉っぱはいいにおいがするからおちつく
緑の点点は進化すると花になるらしい(進化とはポケモンが強くなって大きくなることです)
まだ子どもなので小さい 36センチくらい(頭の葉っぱを入れるともっと大きい)」

「ニドラン オス どくばりポケモン どくタイプ
どくなのでむらさき色 あぶない トゲトゲもいたい(毛はだいじょうぶ)
角に強いどくがあるのでキケン!!さわっちゃだめ!!
すぐおこるけどかわいい 年はなぞ(たぶん子ども) 40センチくらい」

他にも背中やらお腹やらに矢印が引いてあって「ここをさわるとおこる」やら「ここをなでるとよろこぶ」だの、はたまた「ここはブラッシングの時にやさしくしないとおこる」などなど、とにかく沢渡君がこの2匹を大切にしていることが分かるようなことがたくさん書いてありました。

カイトはニドランの説明が気になり、何度か読み返しました。チコリータの方はもう自分の目で見たことがあるから、説明と合わせれば大体分かるのですが、それだけではなく、ニドランについての文に何か引っかかるものがあったのです。
「毒なので紫色…危ない…毛は大丈夫…」
口の中でぶつぶつ呟いているうちに、
(あっ!あれだ!)
カイトは頭の中で光が閃いたようになりました。そして急いで飛び起きると机の引き出しから小さなビニール袋を取り出しました。その中には紫色の毛玉が、ぎゅっと詰められて入っています。
(これが、きっとそうなんだ…)
カイトはベッドに座り、毛玉を見つめると、穏やかなため息をついて、目を細めました。まだ本物を見たわけでもないのに、まるで懐かしい友だちに会ったような気分でした。
紫の毛玉をビニール袋ごしに撫でながら、カイトはそのボサッとした毛玉と沢渡君の描いたトゲトゲで目付きの悪いウサギの絵を見比べ、頭の中で重ねあわせてみます。生き物の毛の感触は、ビニール越しでもどうしてもゴロのことを思い出させて、本物のニドランも触った感じはゴロに似ているのかな、でも犬とウサギじゃ全然違うよな、でも本当のウサギとこのニドランもきっと違うだろうな、と想像はどんどん進んでいきました。
(…本物を触ってみたいなあ)
カイトの想像は最後にそこに行き着くと頭の中で行き場をなくし、再びため息となってカイトの部屋にこぼれました。

でも、どうすればいいのでしょう。カイトは再び最初から手紙を読み返します。どこかに「ここに行けば僕たちに会えます」というようなことが書かれていないでしょうか。「ジョウト地方のエンジュシティ」への行き方のヒントなどは書かれていないでしょうか。しかしそんなことはどこにも書いてありません。あったのは
「20日から旅に出るので、あなたに会えないかもしれないので、手紙であやまります」
というカイトの希望を打ち砕く一文だけでした。カイトはがっくりと肩を落としました。佐渡君は、カイトに会える、会いたいなどとは始めから思っていないのでしょうか。
(…待てよ)
会えないかもしれない、ということは、会えるかもしれない、ということでもあります。それにこの一文は何やら変でした。後半の「会えないかもしれない」の部分が妙に詰まったようになっているのです。
(書き直したのかな…)
無理矢理に詰め込んだようなその文字列は、元々そこにあった文章がもっと短かったということを示していました。もしかしたら「会えない」の後に無理やり「かもしれない」を書き足したのかもしれません。
わざわざそんなことをした佐渡君の気持ちが知りたくて、カイトは探るように端から端まで手紙を読んでいきました。すると手紙の隅の方に小さく、本当に小さく、こんなことが書いてありました。

「あなたのところでは、動物や鳥類をつかまえて育てたりしますか?」

カイトは首を傾げました。それは奇妙な質問に見えました。一体どうしてこんな質問を、こんなところに書いたのでしょうか。
確かに手紙の本文、真ん中辺りには「ポケモンをつかまえたり」と書いてあります。と、すると、チコリータやニドランも佐渡君が捕まえたものなのでしょうか。でも、カブトムシやカエル、頑張ってもトカゲくらいならまだ網で捕まえられそうだけど、40センチ程もある生き物を一体どうやって捕まえるのか、カイトは全く分かりませんでした。
兎にも角にも、それはカイトへ向けられた質問でした。この文字でぎっしり埋まった黒い壁のような手紙の中で、これだけがカイトの世界と佐渡君の世界を繋ぐ小さな窓のようでした。
そしてカイトは、その窓から手を伸ばそうとしました。つまり、返事を書くことにしたのです。
書きたいこと、というよりも、聞きたいことは山程ありましたが、部屋に便箋はありません。仕方がないのでもう使わなくなったノートの最後のページを破り、そこに返事を書くことにしました。

「初めまして。
図鑑を返してくれてありがとうございます。大沢海斗です。
ぼくが住んでいるのは日本の京都府というところです。ぼくのところにはニドランやチコリータのようなポケモンはいません。スズメやサルのような鳥や動物ならいますが、野生動物をつかまえて育てるということはしません。
家でかう(ペットと言います)動物はペットショップで買うか、人からもらうか、すてられたのをひろいます。うちには、近所の人からもらった犬のゴロがいましたが、去年死んでしまいました。」

そこでカイトは佐渡君の真似をして、ゴロの絵を描きました。あまり似ませんでしたが、説明もつけて一生懸命描きました。
それが終わるとまた手紙の続きです。

「佐渡君は、自分でニドランやチコリータをつかまえたのですか?どうやってつかまえたのですか?つかまえる時に、ニドランたちはいやがりませんでしたか?
ニドランとチコリータはケンカしないのですか?エサは何で、どうやって毎日世話をしているのですか?」

質問ばかりが続くので、カイトは自分でもちょっと面倒になってきました。読む側の佐渡君はもっと面倒に思うでしょう。カイトは少し考えて、自分のした、あの体験について書くことを決めました。
あの事はこれまで家族にも友達にも、誰にも言っていなかったし、自分の中でも夢だと思って心にしまい込んでいたので、手紙に書きだすのにも勇気が要りましたが、自分のことで佐渡君に向けて書くべきことがあるとしたら、何よりもまず、この出来事以外に思いつきませんでした。

「ぼくは一度、ポケモンのいる世界?に行ったことがあります。ぼくの通っている学校にあるリンゴの木のところからワープしたみたいになって、緑がたくさんある公園みたいなところに行きました。大きな鳥や虫があちこちにいました。あれは全部、人がつかまえてもいいんですか?おこられたりしないのですか?ぼくのところでは野生の動物を勝手につかまえてはいけないことになっています(虫とか小さいのは大丈夫です)」

書きながらカイトは、名前を知る前の「オバケ」の佐渡君がベンチに座ってスズメを熱心に見ていたのを思い出しました。あの時は二人とも訳がわからなくなっていたけれど、カイトが来る前はきっと、佐渡君もカイトと同じように、この世界を夢のように思っていたのかもしれません。カイトはあの時の佐渡君がスズメを見てどう思っていたのか、とても知りたくなりました。手紙の最後には、自分の正直な気持ちを書くことにしました。

「ぼくのいるところでは、ポケモンのような大きな動物や鳥と毎日いっしょにいることはむずかしいです。世話が大変だし、しつけもむずかしいです。ぼくはゴロの世話もよくサボってしまっていました。だから2匹もそだてている佐渡君はすごいなと思います。ぼくはニドランの毛のかたまりが図かんにはさまっていたのを大切にしています。いつか本物のニドランをさわってみたいです。そちらへ行ってみたいので、エンジュシティへ行く方法があったら教えて下さい(リンゴの木からワープするやつは、どういう仕組みなのか自分でもよくわからないので、ちゃんとした行き方が知りたいです)。あと佐渡君がスズメを見てどう思っていたのかも聞きたいです。
最後ですが、手紙はなるべく学校が終わったくらいの時間に置いてくれると助かります(他の人に見つかるといけないので)」

カイトは一度読みなおして、一つうなずくと、その手紙を「日本の昆虫図鑑」に挟みました。佐渡君が読むかもしれない、ということが分かると、図鑑を選ぶのも楽しくなりました。人差し指の先くらいのてんとう虫の写真を見たら、どんなに驚くでしょう。
その時、ドアを静かにノックする音が聞こえたので、カイトは机についたまま振り向いて返事をしました。ドアを開けたお母さんに
「カイト、夕ごはんができたけど、気分が悪いのはもういいの?」
と尋ねられたカイトは、笑顔で
「うん、もうすっかりいいよ」
と答え、少し早い夕食に向かったのでした。


  [No.1341] 4:君はポケモン? 投稿者:Ryo   投稿日:2015/10/17(Sat) 21:54:11   47clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

そして、その次の日の放課後、カイトは家に帰る前にこっそりリンゴの樹の下に、図鑑を置きに行きました。
万一ポケモンのいる世界に飛ばされた時のことも、もう考えてありました。だから、突然周りの景色が変わっても、カイトはもう怖くありませんでした。

カイトはまた、あの公園か遊園地のような場所に立っていました。
けれど、今のカイトは怯えてリンゴの樹に寄りかかったりはしません。むしろ、ポケモンのいる世界をちゃんと見るんだ、と、背筋を伸ばし目をりんと張って周りを見渡しました。
通り過ぎる人たちは皆、とても楽しそうです。虫取り網のようなものを持って勢い良く駆けていく男の子の後ろを、色鮮やかなトンボのポケモンがついついと追いかけていきます。男の子の頭に止まって羽ばたいたら、そのまま一緒に飛べそうなくらいの大きさです。
カイトの前方、どうやらこの公園だか遊園地だかの入り口らしいゲートのあたりで井戸端会議をしているおばさんたちの足元では、青くて真ん丸なハムスターのようなポケモンと、茶色い大きな尻尾のポケモンがじゃれあって遊んでいます。
「いけ!コラッタ!」
元気のいい声がどこかから聞こえてきて振り返ると、奥の少し開けたところでカイトと同じくらいの年の子たちが離れて向かい合い、その中央で二匹のポケモンがぶつかり合ったり、追いかけあったり、跳びかかったり避けたり、何やら激しく争っていました。その周りに男の子や女の子が何人か集まって、わいわいとはやし立てています。やっていることはポケモン同士のケンカのようですが、それを取り囲んでいる人間たちはケンカの雰囲気ではありません。手紙にあった「ポケモンをバトルさせたり」という一文をカイトは思い出し、あれがそうかと納得しました。
「ガーディ、ひのこ!」
その声に答えた小さなトラのようなポケモンが、ボワッと小さな炎を吐き出したのが見えたので、カイトは目を見開いて驚きました。
(ポケモンって、あんなこともできるんだ…)
毒を持っていたり、火を吹き出したりするような生き物を、よくも同い年くらいの子供が面倒見ていられるなぁと、カイトは感心する反面、恐ろしくもなりました。どう考えてもあんな生き物を捕まえるのに普通の網なんかでは無理です。カイトのところだったら大人が何人もかからないと無理でしょう。本当にポケモンを捕まえたり面倒を見るときに佐渡君やあの子たちはどうしているのだろうと、カイトは不思議に思いました。

それからカイトはリンゴの樹の下で、少しだけ待ってみました。若草色の四本足の生き物が、大きな葉っぱを揺らして走ってくるのを。あるいは、紫色のトゲだらけのウサギが、角をふりふり飛び跳ねながらやって来るのを。そして、それを追いかけてやって来るであろう、しっかり者そうな男の子を。
でも、どれも起こりませんでした。いつまでもリンゴの樹の下でぼうっとしているカイトを、次第に周りの人がチラチラ見ていくようになりました。
(…やっぱりダメか)
カイトは2つの計画を立てていました。もしもここで少し待っていて、佐渡君がやって来てくれたら、手紙は無しでそのまま話をするつもりでした。持ってきた図鑑を見せれば佐渡君はカイトのことが分かるでしょうから、カイトはまず図鑑を返してくれたことと手紙のお礼を言い、手紙に書いてあった質問に答え、それから色んな話をしたいと思っていました。
でも、どうやらそれは叶わないようでした。ここにいつまでもいると今度はここの人たちにカイトが怪しまれてしまいます。なのでまた、図鑑を置いて学校に戻るしかありませんでした。
「ぽっぽう、ぽっぽーう」
あのもさっとした茶色い鳥のポケモンが、少し遠くの地面からカイトを呼ぶように鳴いています。白い眉毛のような羽がおじいさんみたいで、どこか親しみのある顔をしています。カイトはどうしてこんなのを怖がっていたんだろうと思いながら、そっとしゃがんで、その鳥に気を取られているふりをしました。チチチ、と舌を鳴らしたり、手招きでおいでおいでをしてみたり。茶色い鳥は不思議そうに首を曲げてカイトを見るだけです。でもそうしていると、周りの人もカイトがポケモンとじゃれているだけだと思うのか、不審そうな視線を向けてくることはなくなりました。
鳥ポケモンの相手をしながら、カイトはこっそり人の行き来を見計らいます。周りに誰もいなくなった瞬間、カイトはそっと「日本の昆虫図鑑」を地面に置きました。
そしてすくっと立ち上がると、思いっきり入口のゲートの方へ走り出しました。

そうしてカイトの周りは、テレビのチャンネルを切り替えるように元の校庭の風景に戻ったのです。
「やっぱり…」
カイトは立ち止まり、フェンスとリンゴの樹に囲まれたいつもの空間を、確かめるように一通り見渡しました。自分が立っている場所を見下ろし、振り返ればすぐ後ろにリンゴの樹があります。カイトは確信しました。自分がポケモンのいる世界にいられるのは、このリンゴの樹の下にいる時だけだということを。リンゴの樹の葉が届く場所から一歩出れば、元の学校に戻ってしまうのです。
でも、どうしてなのでしょう。考えてみれば、このリンゴの樹が、ポケモンのいる世界にあるものとそっくり同じなのも不思議ですし、カイトの他にこういう経験をしたという人も聞いたことがありません。特に今は「ニュートンの幽霊」騒ぎでこの樹を訪れる生徒が増えているのに、こんなことがあったら絶対に学校中に広まっているでしょう。
カイトは腕を伸ばして、リンゴの樹の葉っぱに触れてみました。何の変哲もない普通の緑の葉っぱです。不思議な力があるようには見えません。
(でも、もしかしたら、実はこの樹もポケモンだったりして…?)
葉っぱを静かに撫でながら、カイトはそんなことを考えました。火を吹いたり毒の角を持っていたりするポケモンが当たり前にいることを見知ったばかりのカイトです。人をワープさせる力を持ったポケモンがいてもおかしくないと考えるのも自然でした。もしもこの樹がポケモンだとしたら、もしかしたら実はよく側にいるカイトに懐いていて、カイトだけにこっそりワープの力を使わせてくれているのかもしれません。
誰もいない校庭で、カイトは小声でリンゴの樹に呼びかけてみました。

「ねぇ、君はポケモンなの?」

リンゴの樹は何も答えません。枝をカイトの方に差し出して頭を撫でてくれたりもしません。自然の風にまかせて、ざわざわと枝をなびかせるだけです。
カイトは自分の考えがさすがにいきすぎていたのを思い知り、一人で顔を赤くしました。でも、それでもこのリンゴの樹がただの樹だとは、どうしても思えなくなっていました。カイトはまず自分の友達に、リンゴの樹の下に行った時に変なことが起きなかったか、聞いてみなければならないと感じました。本当は佐渡君にこの樹の秘密を何か知っているか聞いてみたいのですが、今日はもう校門が閉まる時間が迫っています。カイトは何度も振り返りながら、校庭を後にしました。

***
7/6 6:00 PM
ユウマが公園からの帰りにその図鑑を見つけたのは、もう落ちかけの夕陽が遠くの山に触れる頃でした。
このところユウマの学校は早くに終わります。給食もありません。午後の時間割は、旅に出るための準備や、捕まえたりもらったりしたばかりのポケモンと触れ合う時間を作るために、丸々無しになるのです。だから、授業が無しになったからといってユウマ達は暇になるわけではありませんでした。ポケモンを捕りに行ったり、バトルしたり、旅のための道具を買いに行ったり手続きに行ったり、それぞれ色々と用事があるのです。
この日のユウマは、友達同士で「旅に出るときまでにポケモンを鍛えよう」ということになって、公園でちょっとしたバトル大会をしていたのでした。といっても、ユウマのチコリータは怖がりだし、ニドランは気まぐれ。うまい具合に言うことを聞かせるのも一苦労で、バトルの成績は全然ダメでした。
(ミナト君のガーディ、凄かったなぁ…僕もあんな風にバトルできればいいのに…)
とぼとぼうつむいて歩くユウマのちょっと前を、鼻高々に歩いて行くのが、今日のバトル大会で一番の成績、全戦全勝だったミナト君です。ガーディの入ったモンスターボールを両隣の友達に見せながら、捕まえた場所やら育て方のコツやらを得意気に話して聞かせています。別に仲が悪いわけではないけれど、今のユウマはその輪に混ざる気にはなれませんでした。
下を向いて歩くユウマの視界に図鑑が飛び込んできたのは、そんな時でした。
「日本の昆虫図鑑」
リンゴの樹の案内板の下に、いつもと同じように、図鑑が置いてあります。ユウマはそれを見た途端、自分が何を落ち込んでいたのかも忘れてしまいました。ユウマが立ち止まっても、ミナト君たちは何も気付かずにおしゃべりに夢中なまま、先へ歩いていきます。それはユウマにはかえってありがたいことでした。ユウマは周りを見回し、誰にも見られなようそっと案内板の前に立ちました。
景色が移り変わります。

ユウマは夕暮れの色に染まった校庭の隅、リンゴの樹の下に立っていました。地面に落ちていたはずの図鑑はやはり、最初からそうであったようにベンチの上に置かれています。そのこと自体も不思議は不思議なのですが、それを言えばリンゴの樹以外の全てが一瞬で全く違う景色になってしまっていることがそもそも不思議なので、ユウマは不思議で頭がパンクしないように、あまり難しいことを一度に沢山は考えないようにしました。
ユウマは図鑑を拾いあげます。表紙の写真に写っているのは、何かの樹の幹につかまっている虫です。その姿はヘラクロスを小さくしたような、いや、そんな言葉では足りません。まるでお菓子のおまけについてくるオモチャのようです。こんなに小さいのにちゃんと生きていけるのかと心配になるくらいです。
ともかく、ユウマが「日本の鳥類図鑑」に手紙を挟んで返したのが昨日の朝方のことでした。そして今「日本の昆虫図鑑」がこうしてここにある理由。それは一つしか考えられませんでした。
1ページ1ページを確かめるようにパラパラと図鑑をめくっていくと、あるページに半分に折られたノートの切れ端が挟まっていました。そっと開くとそこには「始めまして」から始まる長い文章がありました。
それを見たユウマがどんな気持ちだったか。嬉しい、驚き、どうしよう、どれも合っていて、それでいてどれとも違います。一つや二つの単純な言葉では足りません。全身が弾けそうで、まぶた一つも動かせません。ユウマは自分がちゃんと息をしているのかどうかもわかりませんでした。
どれくらいそうしていたか分かりません。随分長かったような気がします。我に返ったユウマが瞬きをすると、右目から涙がつうっと流れだしたので、慌ててそれを腕で乱暴に拭いました。それから手紙が落ちないように手紙を元のページに深く挟み、その図鑑を大事にリュックにしまいました。

案内板の前に戻ってきたユウマが家へ戻ろうと歩き出した途端、
「あ!!ユウマそこにいたんだ!」
ユウマの後ろから大きな声がしたかと思うと、あちこちから
「見つかったの?」
「佐渡君、いたんだ!」
という声と共に、今日のバトル大会で一緒だった友達がバタバタとユウマの周りに集まってきました。ミナト君も一番遅れて走ってきて、ユウマの前でゼイゼイと息をつきました。
友達の一人が
「佐渡君、どこに行ってたの?いきなりいなくなっちゃったから、みんなでずっと探してたんだよ」
と、心配そうに聞きました。ユウマはとっさにうまく答えられずに
「え、ええっと、ちょっとトイレに」
と口ごもりました。すると何故か言葉の代わりに涙が頬を伝い、ユウマはまた慌てて涙を拭って何でもないふりをしようとしました。何しろ友達の前なのです。泣くのは恥ずかしいのに、何故か涙は後から後から溢れてきます。
すると友達はみんな、ユウマがバトルで負けて悔しくて、隠れて泣いていたのだと思ったのか、口々に励ましの言葉をかけてきました。ミナト君などは、今度チコリータとニドランのトレーニングに付き合う、などと申し出をしてくるほどでした。
ユウマは元々は違う理由で泣いていたのですが、みんなの気持ちが嬉しくて、もう勘違いされてもいいような気持ちで、ミナト君に肩を貸してもらって泣きました。
ユウマは夕闇の中、友達に支えられながら、家に続く十字路まで一緒に帰りました。

7/6 8:00 PM
あれほど拭っても拭っても流れっぱなしだった涙は、何故か家に帰ると同時にピタリと止まってしまいました。ユウマは何でもないような声でただいまを言うと、手を洗うついでに顔を水でビシャビシャ洗い、涙を全部洗面所に流してしまいました。
この頃は、遅くなっても家族はあまりとやかく言いません。旅に出るような年になったらもう一人前の大人ですし、その証としてのポケモンだって連れているのです。
代わりにこんなふうに言われます。
「あなたももう大人と同じなんだから、自分のことは自分で面倒見られるようにしときなさいよ。旅に出たら、暗くなっても電気とご飯とお風呂があるお家に帰れるわけじゃないんだからね」
はあい、と生返事をしてユウマは温かいお味噌汁を飲み干します。お母さんの言っていることも大事なことですが、今のユウマにはそれ以上に大事なことがあるのです。

お風呂に入り、歯磨きをして、ユウマは自分の部屋に戻ります。
そしてリュックから「日本の昆虫図鑑」を取り出し、そこから一枚のノートの切れ端を丁寧に抜き出しました。
そしてユウマは手紙の返事を読みました。上から下まで、何度も繰り返して読みました。

ポケモンのいない世界。野生の動物は捕まえてはいけなくて、「ペット」の動物はお店で買ってくる世界。ユウマにはそれがどんなものか想像もつきませんでした。
けれど、今までの図鑑に載っている生き物たちがみんな、人間の方を向いていない、向いていてもキッと睨んだような目つきばかりだった理由は、なんだか分かった気がしました。
大沢君のいるところでは、野生の動物達と人間は、住む世界がはっきり分かれているのです。きっと人間と動物たちの間で、お互いにそれを侵してはいけない、ということになっているのでしょう。
不思議なことがありました。手紙に描かれていた「犬のゴロ」の絵に似た生き物を、ユウマは「日本の動物図鑑」で見た覚えがないのです。半分垂れた耳をした、強いて言えば「ホンドギツネ」を太らせたような感じのその絵につけられた説明は

「雑種犬」「4さいの時に近所の人にもらった」「色は茶色」「『待て』が得意、ずっとできる」「時々だっ走する」

というものでした。「雑種犬」とはまた、初めて聞く名前です。これまで読んできた図鑑には野生の生き物しか出てこなかったことと合わせて考えると、野生の動物を捕まえてはいけない代わりに、それとは別にペットの動物がたくさんいるのかもしれません。そして、その中には、ポケモンに似た生き物もいるのかもしれません。
(もしかしたらこの「待て」っていうのが技なのかもしれない…じゃあタイプは…書いてないからわかんないな…やっぱ無いのかな…)
ユウマはこの「犬のゴロ」の絵と説明から、なんとかポケモンに似たところを探そうとしてみましたが、これだけでは詳しいことは何も分かりません。文章の残りのほとんどは、ユウマがどういう暮らしをしているのか、というような質問ばかりでした。ユウマの方こそ、聞きたいことはたくさんあるのに、これでは何度手紙を送り合ってもきりがありません。それに、きっかり二週間後には、もうユウマは旅に出ることになっているのです。
大沢君の方でもなんとかこちらと連絡を取りたい、会いたいと思ってくれているようで、手紙の末には、エンジュシティへの行き方を教えてほしい、と書かれてありました。でもそんなのは、ユウマの方だって知りたいことなのです。
この間ユウマは、ジョウト地方のガイドブックを買ってもらいました。ポケモンセンターや宿泊施設の場所、どの道路にどんなポケモンがいて、どんな名所があるのか、そういうことが全部詳しく書いてある優れものです。でも「日本の京都」などという地名は確かどこにもなかったし、この書き方からするとおそらく地方からして違っていそうです。そうなると旅もこれからのひよっ子トレーナーが簡単に行き着ける場所ではないように思えました。
いえ、今のところ、確実に「日本の京都」にすぐ行ける方法が、一つだけありました。その方法は手紙を読むと、どうやらお互いに知っているやり方なので、うまくすればユウマと大沢君はきちんと会って話ができるかもしれません。けれどこの方法は、お互いに分かっていないことが多すぎて、うまくいくかも分かりません。
でも、ユウマにはその方法しか考えられませんでした。ユウマは決心すると、机からまたフシギダネの便箋を取り出し、返事を書き始めました。

「こんにちは。返事をくれてありがとうございます。
犬のことや大沢君の住んでいる場所のことを色々教えてくれてありがとうございます。
前にも書いたけど、旅に出なければいけないので、手紙はもうたくさんは書けないのでごめんなさい。
それから、京都からエンジュシティへ来るやり方は、ぼくも分かりません。ごめんなさい。
でもぼくも大沢君と話がしたいので、リンゴの木の下で待ち合わせをしたいと思っています。大沢君は、休みの日に校庭に来ても大丈夫ですか?もし大丈夫なら、今度の日曜日(7月11日)の午後1時に、何でもいいから図鑑を持ってリンゴの木の下に来てください。もしダメなら、いつが大丈夫か手紙を書いてください(長くても返事がかけないので短く書いてください)」

必要なことだけを簡単に書いた手紙です。書き終えてユウマは、そういえば大沢君の住んでいる京都と、エンジュシティのカレンダーは同じなんだろうか、と疑問に思いました。でも、ユウマが早朝に公園へ向かった時は、校庭でも朝日が登る頃だったし、昼も夕方も、ユウマのところと大沢君のところで違いがあるようには思えませんでした。
大沢君のところで雪が降っていたり、木々が紅葉していたり、というのも見たことがないし、昼が一番長いこの時期の格好であの校庭にいても、寒い思いをしたことはありません。ということは、時間や季節は大体同じ、と思っていいでしょう。日にちが一緒かまでは分からないけど、もしダメなら返事をくださいとも書いたことだし、多分これで分かってくれるだろうと思い、ユウマは鉛筆を置きました。

手紙を入れる前に、また一通り「日本の昆虫図鑑」を眺めてみます。今までも大沢君のいるところの生き物の小ささに驚いてきたユウマでしたが、今回の図鑑に載っている昆虫たちといったら、これが本当に生き物なのかと目を疑うほどでした。なんといっても、表紙に映っているオモチャのヘラクロスみたいなのが、昆虫の中では一番に大きい方なのです。ゴマ粒ほどの羽虫、指先ほどのてんとう虫、花に埋もれるくらいのチョウ。虫ポケモンがこんなのだったらモンスターボールにそのままの大きさで入ってしまいそうだし、その前にモンスターボールなんてものをぶつけたら、それだけで弱って死んでしまいそうです。
「小さな虫なら勝手につかまえても大丈夫」と手紙にありましたが、確かにこんなちっぽけな生き物たちまで捕まえるのを禁止していたら、きりがないでしょう。
もしもこんなに小さくて美しいものたちを捕まえてもいいのなら…ユウマはこの小さなチョウたちを両手の中に収めてみたいと思いました。てんとう虫が人差し指の先から飛び立つのを、見てみたいと思いました。スズムシやコオロギが美しい声で鳴くのに耳をすませてみたいと思いました。
ユウマはこんなきれいで神秘的な生き物たちに囲まれて暮らしている大沢君を羨ましく思いながら、一番きれいだと思った「アゲハチョウ」のページに便箋を挟み、またリュックに戻しました。

それにしても―
本当に、こんな面白い不思議な生き物のことをだれも知らないのでしょうか。本当に、こんな精巧な生き物たちはここにはいないのでしょうか。
シマリスやニホンアマガエルのことを聞いた時は、知っている人はいませんでしたが、あの時のユウマはちらりと名前を出しただけでした。
もし、もしも。
この図鑑を見せて人に聞けば、誰か一人くらいは「あ、モンシロチョウだ、知ってるよ!」と言ってくれる人がいるのではないでしょうか。こんなに小さな生き物たちならどこにだって隠れて数を増やせるだろうし、あるいは―
ユウマの心臓がドクンと鳴りました。そもそも、この図鑑はいつもリンゴの樹の案内板の下に堂々と落ちているのに、なぜ誰も気にせず通り過ぎていくのでしょう。なぜユウマだけがいつもいつも気づいて、拾っていくのでしょう。確かに案内板の前でいちいち立ち止まるのはユウマだけです。けれど、それにしたって、これまで本当に誰も気づかなかった、なんてことはないはずです。
ユウマは再びリュックから図鑑を取り出しました。そして便箋を抜き取り、また図鑑だけをリュックに入れました。
手紙はすぐにでも出したい気分ですが、その前にどうしても確かめたいことが会ったのです。
それからいつものようにポケモン達の世話をして、眠り、次の朝を迎え―


  [No.1342] 5:透明な本 投稿者:Ryo   投稿日:2015/10/17(Sat) 23:31:21   48clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

7/6 6:00 PM
ユウマが公園からの帰りにその図鑑を見つけたのは、もう落ちかけの夕陽が遠くの山に触れる頃でした。
このところユウマの学校は早くに終わります。給食もありません。午後の時間割は、旅に出るための準備や、捕まえたりもらったりしたばかりのポケモンと触れ合う時間を作るために、丸々無しになるのです。だから、授業が無しになったからといってユウマ達は暇になるわけではありませんでした。ポケモンを捕りに行ったり、バトルしたり、旅のための道具を買いに行ったり手続きに行ったり、それぞれ色々と用事があるのです。
この日のユウマは、友達同士で「旅に出るときまでにポケモンを鍛えよう」ということになって、公園でちょっとしたバトル大会をしていたのでした。といっても、ユウマのチコリータは怖がりだし、ニドランは気まぐれ。うまい具合に言うことを聞かせるのも一苦労で、バトルの成績は全然ダメでした。
(ミナト君のガーディ、凄かったなぁ…僕もあんな風にバトルできればいいのに…)
とぼとぼうつむいて歩くユウマのちょっと前を、鼻高々に歩いて行くのが、今日のバトル大会で一番の成績、全戦全勝だったミナト君です。ガーディの入ったモンスターボールを両隣の友達に見せながら、捕まえた場所やら育て方のコツやらを得意気に話して聞かせています。別に仲が悪いわけではないけれど、今のユウマはその輪に混ざる気にはなれませんでした。
下を向いて歩くユウマの視界に図鑑が飛び込んできたのは、そんな時でした。

「日本の昆虫図鑑」

リンゴの樹の案内板の下に、いつもと同じように、図鑑が置いてあります。ユウマはそれを見た途端、自分が何を落ち込んでいたのかも忘れてしまいました。ユウマが立ち止まっても、ミナト君たちは何も気付かずにおしゃべりに夢中なまま、先へ歩いていきます。それはユウマにはかえってありがたいことでした。ユウマは周りを見回し、誰にも見られなようそっと案内板の前に立ちました。
景色が移り変わります。

ユウマは夕暮れの色に染まった校庭の隅、リンゴの樹の下に立っていました。地面に落ちていたはずの図鑑はやはり、最初からそうであったようにベンチの上に置かれています。そのこと自体も不思議は不思議なのですが、それを言えばリンゴの樹以外の全てが一瞬で全く違う景色になってしまっていることがそもそも不思議なので、ユウマは不思議で頭がパンクしないように、あまり難しいことを一度に沢山は考えないようにしました。
ユウマは図鑑を拾いあげます。表紙の写真に写っているのは、何かの樹の幹につかまっている虫です。その姿はヘラクロスを小さくしたような、いや、そんな言葉では足りません。まるでお菓子のおまけについてくるオモチャのようです。こんなに小さいのにちゃんと生きていけるのかと心配になるくらいです。
ともかく、ユウマが「日本の鳥類図鑑」に手紙を挟んで返したのが昨日の朝方のことでした。そして今「日本の昆虫図鑑」がこうしてここにある理由。それは一つしか考えられませんでした。
1ページ1ページを確かめるようにパラパラと図鑑をめくっていくと、あるページに半分に折られたノートの切れ端が挟まっていました。そっと開くとそこには「始めまして」から始まる長い文章がありました。
それを見たユウマがどんな気持ちだったか。嬉しい、驚き、どうしよう、どれも合っていて、それでいてどれとも違います。一つや二つの単純な言葉では足りません。全身が弾けそうで、まぶた一つも動かせません。ユウマは自分がちゃんと息をしているのかどうかもわかりませんでした。
どれくらいそうしていたか分かりません。随分長かったような気がします。我に返ったユウマが瞬きをすると、右目から涙がつうっと流れだしたので、慌ててそれを腕で乱暴に拭いました。それから手紙が落ちないように手紙を元のページに深く挟み、その図鑑を大事にリュックにしまいました。

案内板の前に戻ってきたユウマが家へ戻ろうと歩き出した途端、
「あ!!ユウマそこにいたんだ!」
ユウマの後ろから大きな声がしたかと思うと、あちこちから
「見つかったの?」
「佐渡君、いたんだ!」
という声と共に、今日のバトル大会で一緒だった友達がバタバタとユウマの周りに集まってきました。ミナト君も一番遅れて走ってきて、ユウマの前でゼイゼイと息をつきました。
友達の一人が
「佐渡君、どこに行ってたの?いきなりいなくなっちゃったから、みんなでずっと探してたんだよ」
と、心配そうに聞きました。ユウマはとっさにうまく答えられずに
「え、ええっと、ちょっとトイレに」
と口ごもりました。すると何故か言葉の代わりに涙が頬を伝い、ユウマはまた慌てて涙を拭って何でもないふりをしようとしました。何しろ友達の前なのです。泣くのは恥ずかしいのに、何故か涙は後から後から溢れてきます。
すると友達はみんな、ユウマがバトルで負けて悔しくて、隠れて泣いていたのだと思ったのか、口々に励ましの言葉をかけてきました。ミナト君などは、今度チコリータとニドランのトレーニングに付き合う、などと申し出をしてくるほどでした。
ユウマは元々は違う理由で泣いていたのですが、みんなの気持ちが嬉しくて、もう勘違いされてもいいような気持ちで、ミナト君に肩を貸してもらって泣きました。
ユウマは夕闇の中、友達に支えられながら、家に続く十字路まで一緒に帰りました。

7/6 8:00 PM
あれほど拭っても拭っても流れっぱなしだった涙は、何故か家に帰ると同時にピタリと止まってしまいました。ユウマは何でもないような声でただいまを言うと、手を洗うついでに顔を水でビシャビシャ洗い、涙を全部洗面所に流してしまいました。
この頃は、遅くなっても家族はあまりとやかく言いません。旅に出るような年になったらもう一人前の大人ですし、その証としてのポケモンだって連れているのです。
代わりにこんなふうに言われます。
「あなたももう大人と同じなんだから、自分のことは自分で面倒見られるようにしときなさいよ。旅に出たら、暗くなっても電気とご飯とお風呂があるお家に帰れるわけじゃないんだからね」
はあい、と生返事をしてユウマは温かいお味噌汁を飲み干します。お母さんの言っていることも大事なことですが、今のユウマにはそれ以上に大事なことがあるのです。

お風呂に入り、歯磨きをして、ユウマは自分の部屋に戻ります。
そしてリュックから「日本の昆虫図鑑」を取り出し、そこから一枚のノートの切れ端を丁寧に抜き出しました。
そしてユウマは手紙の返事を読みました。上から下まで、何度も繰り返して読みました。

ポケモンのいない世界。野生の動物は捕まえてはいけなくて、「ペット」の動物はお店で買ってくる世界。ユウマにはそれがどんなものか想像もつきませんでした。
けれど、今までの図鑑に載っている生き物たちがみんな、人間の方を向いていない、向いていてもキッと睨んだような目つきばかりだった理由は、なんだか分かった気がしました。
大沢君のいるところでは、野生の動物達と人間は、住む世界がはっきり分かれているのです。きっと人間と動物たちの間で、お互いにそれを侵してはいけない、ということになっているのでしょう。
不思議なことがありました。手紙に描かれていた「犬のゴロ」の絵に似た生き物を、ユウマは「日本の動物図鑑」で見た覚えがないのです。半分垂れた耳をした、強いて言えば「ホンドギツネ」を太らせたような感じのその絵につけられた説明は
「雑種犬」「4さいの時に近所の人にもらった」「色は茶色」「『待て』が得意、ずっとできる」「時々だっ走する」
というものでした。「雑種犬」とはまた、初めて聞く名前です。これまで読んできた図鑑には野生の生き物しか出てこなかったことと合わせて考えると、野生の動物を捕まえてはいけない代わりに、それとは別にペットの動物がたくさんいるのかもしれません。そして、その中には、ポケモンに似た生き物もいるのかもしれません。
(もしかしたらこの「待て」っていうのが技なのかもしれない…じゃあタイプは…書いてないからわかんないな…やっぱ無いのかな…)
ユウマはこの「犬のゴロ」の絵と説明から、なんとかポケモンに似たところを探そうとしてみましたが、これだけでは詳しいことは何も分かりません。文章の残りのほとんどは、ユウマがどういう暮らしをしているのか、というような質問ばかりでした。ユウマの方こそ、聞きたいことはたくさんあるのに、これでは何度手紙を送り合ってもきりがありません。それに、きっかり二週間後には、もうユウマは旅に出ることになっているのです。
大沢君の方でもなんとかこちらと連絡を取りたい、会いたいと思ってくれているようで、手紙の末には、エンジュシティへの行き方を教えてほしい、と書かれてありました。でもそんなのは、ユウマの方だって知りたいことなのです。
この間ユウマは、ジョウト地方のガイドブックを買ってもらいました。ポケモンセンターや宿泊施設の場所、どの道路にどんなポケモンがいて、どんな名所があるのか、そういうことが全部詳しく書いてある優れものです。でも「日本の京都」などという地名は確かどこにもなかったし、この書き方からするとおそらく地方からして違っていそうです。そうなると旅もこれからのひよっ子トレーナーが簡単に行き着ける場所ではないように思えました。
いえ、今のところ、確実に「日本の京都」にすぐ行ける方法が、一つだけありました。その方法は手紙を読むと、どうやらお互いに知っているやり方なので、うまくすればユウマと大沢君はきちんと会って話ができるかもしれません。けれどこの方法は、お互いに分かっていないことが多すぎて、うまくいくかも分かりません。
でも、ユウマにはその方法しか考えられませんでした。ユウマは決心すると、机からまたフシギダネの便箋を取り出し、返事を書き始めました。

「こんにちは。返事をくれてありがとうございます。
犬のことや大沢君の住んでいる場所のことを色々教えてくれてありがとうございます。
前にも書いたけど、旅に出なければいけないので、手紙はもうたくさんは書けないのでごめんなさい。
それから、京都からエンジュシティへ来るやり方は、ぼくも分かりません。ごめんなさい。
でもぼくも大沢君と話がしたいので、リンゴの木の下で待ち合わせをしたいと思っています。大沢君は、休みの日に校庭に来ても大丈夫ですか?もし大丈夫なら、今度の日曜日(7月11日)の午後1時に、何でもいいから図鑑を持ってリンゴの木の下に来てください。もしダメなら、いつが大丈夫か手紙を書いてください(長くても返事がかけないので短く書いてください)」

必要なことだけを簡単に書いた手紙です。書き終えてユウマは、そういえば大沢君の住んでいる京都と、エンジュシティのカレンダーは同じなんだろうか、と疑問に思いました。でも、ユウマが早朝に公園へ向かった時は、校庭でも朝日が登る頃だったし、昼も夕方も、ユウマのところと大沢君のところで違いがあるようには思えませんでした。
大沢君のところで雪が降っていたり、木々が紅葉していたり、というのも見たことがないし、昼が一番長いこの時期の格好であの校庭にいても、寒い思いをしたことはありません。ということは、時間や季節は大体同じ、と思っていいでしょう。日にちが一緒かまでは分からないけど、もしダメなら返事をくださいとも書いたことだし、多分これで分かってくれるだろうと思い、ユウマは鉛筆を置きました。

手紙を入れる前に、また一通り「日本の昆虫図鑑」を眺めてみます。今までも大沢君のいるところの生き物の小ささに驚いてきたユウマでしたが、今回の図鑑に載っている昆虫たちといったら、これが本当に生き物なのかと目を疑うほどでした。なんといっても、表紙に映っているオモチャのヘラクロスみたいなのが、昆虫の中では一番に大きい方なのです。ゴマ粒ほどの羽虫、指先ほどのてんとう虫、花に埋もれるくらいのチョウ。虫ポケモンがこんなのだったらモンスターボールにそのままの大きさで入ってしまいそうだし、その前にモンスターボールなんてものをぶつけたら、それだけで弱って死んでしまいそうです。
「小さな虫なら勝手につかまえても大丈夫」と手紙にありましたが、確かにこんなちっぽけな生き物たちまで捕まえるのを禁止していたら、きりがないでしょう。
もしもこんなに小さくて美しいものたちを捕まえてもいいのなら…ユウマはこの小さなチョウたちを両手の中に収めてみたいと思いました。てんとう虫が人差し指の先から飛び立つのを、見てみたいと思いました。スズムシやコオロギが美しい声で鳴くのに耳をすませてみたいと思いました。
ユウマはこんなきれいで神秘的な生き物たちに囲まれて暮らしている大沢君を羨ましく思いながら、一番きれいだと思った「アゲハチョウ」のページに便箋を挟み、またリュックに戻しました。

それにしても―
本当に、こんな面白い不思議な生き物のことをだれも知らないのでしょうか。本当に、こんな精巧な生き物たちはここにはいないのでしょうか。
シマリスやニホンアマガエルのことを聞いた時は、知っている人はいませんでしたが、あの時のユウマはちらりと名前を出しただけでした。
もし、もしも。
この図鑑を見せて人に聞けば、誰か一人くらいは「あ、モンシロチョウだ、知ってるよ!」と言ってくれる人がいるのではないでしょうか。こんなに小さな生き物たちならどこにだって隠れて数を増やせるだろうし、あるいは―
ユウマの心臓がドクンと鳴りました。そもそも、この図鑑はいつもリンゴの樹の案内板の下に堂々と落ちているのに、なぜ誰も気にせず通り過ぎていくのでしょう。なぜユウマだけがいつもいつも気づいて、拾っていくのでしょう。確かに案内板の前でいちいち立ち止まるのはユウマだけです。けれど、それにしたって、これまで本当に誰も気づかなかった、なんてことはないはずです。
ユウマは再びリュックから図鑑を取り出しました。そして便箋を抜き取り、また図鑑だけをリュックに入れました。
手紙はすぐにでも出したい気分ですが、その前にどうしても確かめたいことが会ったのです。
それからいつものようにポケモン達の世話をして、眠り、次の朝を迎え―

7/7 7:35 AM
「ねえお母さん、この間こんな本を借りたんだけど」
朝の支度に忙しく、くるくる台所を動き回るお母さんに、ユウマは「日本の昆虫図鑑」を差し出してみたのです。
しかし、お母さんはフライパンの上でジュウジュウ焼ける卵焼きから目を離さずに
「なあにユウマ?借りた本なら汚すといけないから台所に持ってきたらダメでしょ」
と、相手にしてくれません。
これはダメだ、とユウマは頭の中でため息をつきました。そもそもお母さんはこういう生き物とか、ポケモンとかにはあんまり縁のない生活をしているのです。家のことをしたら近所のスーパーのレジ打ちのパートに出て、帰ったらまた家のことです。お父さんはユウマが起きるころには家を出て会社へ行き、ユウマが寝る頃に帰ってくるような生活です。これでは二人とも、ユウマの疑問には関心を持ってくれそうにないでしょう。ユウマは早々に諦めて、学校で聞いてみることにしました。

学校でのユウマはそれなりに顔が広い方でした。というより、ポケモンをもらった生徒はみんな、お互いに育て方について情報を交換しあったり、放課後にバトルをしたり、一緒にポケモンを捕まえに行ったりするので、友達の輪が広がるのです。休みの日を使ってポケモンを探しに、フスベシティの辺りなど、かなり遠いところまで行った友達もいるとも聞いています。だから、一人くらいはきっと、この昆虫たちについて知っている子がいるだろうと、ユウマは希望を持ちました。

休み時間。ポケモンの話で盛り上がる友達の輪の中で、ユウマは、みんなに見せたいものがあると言って、おもむろに図鑑を広げます。
「ねえ、これ友達から借りた本なんだけど、この『昆虫』っていうの誰か見たことある人いる?」
ユウマは、みんなの視線が開かれた図鑑のページに集まるのを感じると、そこに載っている写真を指さしました。「アシナガバチ」という、オレンジと黒の派手な昆虫が花に止まっている写真です。
一瞬だけ友達の輪がざわつきました。「スピアー…?」という小さな声が聴こえました。どう見てもスピアーとは大きさからして全然違うのに、何を言ってるんだとユウマは思いましたが、はっきり聞こえた言葉はそれきりで、みんな一斉に静まり返ってしまいました。
(あ、あれ?)
明らかに冷えた空気に、ユウマは戸惑います。顔を上げるとみんな、何を言っていいのか分からないような、困ったような顔をしています。冷や汗がユウマの背中を伝いました。まさかこんな空気になるとは思ってもみなかったのです。
(ハチだから怖いのかな…可愛いチョウなら、みんなもっとよく見てくれるかもしれない)
ユウマは慌ててページをペラペラめくり、「モンシロチョウ」のページを改めてみんなの前に広げました。
「ほら、こういうの、誰かどこかで見たことない?」
ユウマの声には焦りがありました。とにかく誰か何か言ってほしい。「知らないよ」でも「バタフリーじゃないの?」でもいいから、僕に何か言ってほしい。
でも、ユウマに向かって何か言う人はいませんでした。輪の中で、小さな声で、友達同士で戸惑いに満ちたささやきが交わされるのをユウマは聞きました。
(知ってる?)
(さあ…)
(何あれ…)
ユウマはだんだんと、いたたまれない気分になってきました。まるで自分が変なことを言っているようです。もう、さっさとこの図鑑を閉じて、おしまいにしてしまいたい、そう思った時でした。

「ねえこれ、作り物でしょ」

それはまるで授業中に先生に当てられた生徒が、正解の答えを言う時のような、ハキハキとした声でした。その声の主はカナちゃん、メガネをかけた読書好きな女の子でした。
みんなの視線が図鑑の上のモンシロチョウからカナちゃんに集まります。カナちゃんは続けました。
「前にね、こういう作り物の生き物を本当みたいに書いた本、読んだことあるの。だからこれもそういうのでしょ」
へぇー、ふぅん、そんな感じの声にならない返事が、カナちゃんの言葉に返されます。そんな中でユウマ一人が、さっきまで友達みんながしていたような顔をしていました。
「カナちゃん、よく知ってるねー」
他の誰かが感心したように言いました。凄いねー、何の本?という質問に、「妖精の飼い方」ってやつ、とカナちゃんの答える声、へー面白そう!と口々に言う女子たち。
ユウマはそんな中で一人、違う、妖精なんかじゃなくてモンシロチョウは本当にいるんだ!と大声で叫びたい気持ちでしたが、誰かが何か言う度にその声は心の中でどんどん小さくなっていきました。
「ところでさー」
ミナト君が出し抜けに話しだしました。ミナト君はこの輪にいながら、さっきから話にいまいち乗れずにつまらなそうな顔をしていたのです。
「こないだオレのガーディが『かえんぐるま』覚えたんだけど」
その言葉に、輪の友達は一斉に目を輝かせてミナト君を見ました。それからみんなミナト君に質問したり、ミナト君の話を聞きたがったりして、すっかりミナト君とそのガーディは大スターのようになってしまいました。妖精の本の話をしていたはずのカナちゃんとその友達も、どうやって?すごいね、おめでとう!と、すっかりミナト君に構いっきりになってしまい、ユウマと「日本の昆虫図鑑」は完全に話の輪から放り出されてしまいました。
やがてチャイムが鳴るとみんな慌てて、バタバタと席につきました。ユウマも図鑑を片手に、トボトボと席につきました。
授業の間もユウマはずっと、顔を伏せたままでした。
(どういうことなんだろう)
(やっぱり、本当にモンシロチョウもアシナガバチもこの世界にはいなくて、きっとシマリスもニホンアマガエルもいなくて)
(でもこれじゃ、本当に僕はおかしな人みたいじゃないか)

ユウマは今日を早送りして、明日へ行ってしまいたい気持ちでいっぱいでした。そしてそれは半分その通りになりました。ユウマはその日ずっとぼんやりしていて、家にもすぐ帰ってそのまま夕方まで寝てしまったからです。変な時間に寝たからか、夕飯にお風呂、ポケモンの世話をこなしたら、もうぐったりしてしまいましたが、ベッドに潜っても頭は変に冴えてしまって、一向に眠れる気配がありませんでした。
眠れなくて良いことがあったとすれば、図鑑に手紙を挟むのを思い出したことです。ユウマはベッドから起き上がり、机の引き出しにしまった手紙を取り出しました。
ユウマは思い出したついでに、手紙を机の上に広げ、鉛筆を取り出しました。頭の中は昼間のことでいっぱいです。ユウマは自分はおかしいことを言っていない、絶対にそうだ、そうだよね、と願うような気持ちで、手紙の最後に一文、書き足しました。
大沢君がこの文を読んで、ユウマの思うとおりにしてくれるかは分かりませんでしたが、それはユウマの切なる願いでもありました。

そして次の日、学校が早く終わるユウマが「日本の昆虫図鑑」をいつもの場所に置いたのは、ちょうど昼休みの、校庭に人が出てくるくらいの時間でした。

***
7月8日 午後0時50分
カイトは、首をひねりながら、校庭に出てきました。
昨日からいろんな人に聞いてみたのですが、「リンゴの樹の下で変なものや変な光景を見なかったか」という質問に、カイトの思うような答えをする人は、誰もいなかったのです。
ハヤタには
「は?お前、今更それ?ちょっと乗るのずれてね?」
と、キョトンとされてしまうし、他のクラスメイトに聞いてみても
「一度行ってみても何もなかったけど…なんか見間違えたんじゃね?」
「ってかニュートンの幽霊が子供なわけないしなー!誰だよ広めたやつ!お前じゃん!」
こんな調子です。そもそもあのリンゴの樹の下で見たものをニュートンの幽霊だなんて言い出したのはカイトではないのですが、なぜかカイトが広めたことになってしまっています。とにかく、リンゴの樹の下でカイトが見たものと同じようなものを見た人は誰もいなかったし、そもそも「ニュートンの幽霊」騒ぎ自体もピークを過ぎてしまったようで、リンゴの樹の下、というワードを出しただけでおかしな顔をされることさえありました。
カイトは今更自分の見たものが全部見間違いだった、全部夢だった、なんてことはもう思いませんが、こうも誰も彼もに否定されると、やっぱり自信が無くなってしまいます。
(やっぱり、僕はおかしいんだろうか)
そう思ってリンゴの樹の方を見た時でした。小さな人影がリンゴの樹の下、ベンチの側で何かをしているのを見たのは。

カイトは最初、見間違いかと思いました。なぜならその人影は、瞬きの間に消えてしまったからです。でも、「消えてしまう」ということがどういうことなのか分かっているカイトは、自分の見たものが見間違いなどではないことがすぐにわかりました。だからカイトは思い切り走りだしました。リンゴの樹の下へ。
果たしてそこには「日本の昆虫図鑑」があったのです。いつものようにベンチの上にきちんと置かれたそれは、カイトが見てきたものが幻でないことの証であり、みんなが知らない世界との唯一の通信手段でもありました。カイトの言葉が正しく伝わっていれば、きっとあの図鑑のページのどこかには、カイトの質問への答えが、不思議な生き物の絵が描かれた便箋に書かれて挟まっているはずです。
(でも―)
この図鑑は、ついさっき置かれたもの。さっき消えた人影が残していったもの。つまりさっきまでここに、佐渡君がいたということです。
(ちょっと、もったいなかったかな…)
もう少し早く校庭に出れば、もしかしたら佐渡君と直接話ができたかもしれません。けれどもし今すぐ会えたとしても、いったん話しだしたら昼休みの20分は、おそらくカイトにとっては短すぎるでしょう。そして多分、佐渡君にとっても。
だから、今はこれでよかったんだ。カイトは自分にそう言い聞かせながら、図鑑を拾いにかかりました。
カイトの周りは一瞬だけ公園になって、またすぐ校庭に戻りました。カイトは自分の周りが元の校庭であることを確認すると「日本の昆虫図鑑」のページが風でめくれないよう大事に両手に抱え、校庭を戻って行きました。

その夜―
カイトは佐渡君の手紙を前に、どうしたものかと頭を抱えていました。
その手紙には、カイトが書いた手紙に詰め込んだありったけの質問に対する答えは、何一つ書かれていませんでした。
「ジョウト地方のエンジュシティ」への行き方も書かれていないどころか、佐渡君も分からないという返事でした。
代わりに書かれていたのは、リンゴの樹の下で待ち合わせをしたい、というカイトがなるべく避けたかった方法と、一番最後になぜか書かれていた「それと、なんでもいいから昆虫をつかまえて持ってきてください」という佐渡君のお願いだけでした。何度読んでも、それだけです。
やっぱりかぁ、とがっくり頭を垂れながら、心の中でカイトは、こうなることも半分くらいは分かっていたような気持ちになっていました。
何せ佐渡君は「旅に出なければならない」ということを何度も繰り返しているのです。きっと準備も忙しいことでしょう。手紙の返事なんかいちいち書いていられないでしょうし、このまま文通が始まったとしてもそれは、20日でおしまいにしなければならないのです。20日までに何回手紙のやり取りができるか、お互いにそればかりに時間を作れるのかを考えると、カイトの方でも、もうこれは直接会ったほうが早いと思うだろうな、というのは分かるのでした。
それに「ジョウト地方のエンジュシティ」への行き方だって、リンゴの樹の下で待ち合わせ、で良かったのかもしれません。そもそも佐渡君もこちらへの行き方を知らないのだから仕方ないのですが、もしちゃんとした行き方が書かれていたとして、飛行機や船で長い時間かかる場所だったら、学校に通っている間のカイトはおそらく行けませんし、夏休みに入ったら今度は佐渡君の方が旅に出てしまうのです。
校庭のリンゴの樹だったら、それこそ毎日通う距離なのだから、問題なく行くことができます。手紙で指定されていた「7月11日の日曜日」は、カイトの町でも日曜日です。カイトの学校の校庭は、日曜日であっても、その学校の生徒なら自由に使ってもいいことになっていたはずでした。もっとも、もやしっ子のカイトは今までそんなことをしたことがないですし、明日1日学校に出て、次の日が休みで、その次の日にもう佐渡君と会う日が来てしまう、ということを考えると、それだけで緊張しすぎて倒れそうな思いでした。

こんな風で、手紙を繰り返し読みながら、良かった探しをいくつしてみても、カイトの気持ちは晴れませんでした。
カイトの疑問がすぐには解決されなかったこと。休みの日に学校に行くのを考えただけで緊張すること。佐渡君に会えるのは嬉しいけど、今度の日曜日、というのがカイトにとって早すぎて、気持ちの整理がつかないこと。
それから、今のところ佐渡君とカイトしか使えないらしい、リンゴの樹からワープするあのやり方が、どうしても「ちゃんとした行き方」に思えないこと。何か遠くに興味のあるものを見つけてもリンゴの樹の下から出られないのでは不便すぎるし、リンゴの樹が気まぐれを起こして変な場所に飛ばされたりすることがないとも限りません。それにもしカイトが佐渡君のいる方へ、佐渡君がカイトの学校へ、そんな風に行き違いになってしまったらどうするのでしょう。
それでもこの方法を佐渡君が選んだのは、佐渡君はもしかしたらリンゴの樹の力をうまく使う秘密を何か知っているから、なのかもしれません。カイトは、あのリンゴの樹は、実はポケモンの一種なのかと思ったことがありましたが、それが当たっているか、近い考えなのだとしたら、佐渡君がその力を恐れていないように見えるのも説明がつきます。そのことについてはもう、佐渡君を信じるしかありませんでした。もう返事は書けないので、霧の中でボールを投げるような気持ちでしたが、カイトは「リンゴの樹の下で」と書いた佐渡君に信頼を置くことにしました。

それにしてもわからないのは、最後に書かれた「なんでもいいから昆虫をつかまえて持ってきてください」という一文です。途中に書かれた「なんでもいいから図鑑を持ってきて」というのは、きっとカイトの周りにいる動物やら何やらについて話したいからなのでしょうが、虫についてもそうなのでしょうか。それにしたって図鑑で充分な気がするのに、なんでこんなことをわざわざ書いて頼むのでしょうか。カイトの質問に答えるよりも、これは大事なことなのでしょうか。
カイトは頬杖をついて机の上の「日本の昆虫図鑑」を眺めました。手紙が挟んであったページが開かれたままのその図鑑の上で、アゲハチョウの色鮮やかな羽が蛍光灯の灯りを受けて光っています。
(確かにアゲハチョウはきれいだけど、でもなぁ)
カイトは何だか納得がいかないまま、しばらくそのアゲハチョウを睨んでいました。

7月10日 午前10時
金曜日は、何事も無く過ぎて行きました。
土曜日、カイトは通学路から少しそれたところにある小さな川の土手へ、虫を探しに行きました。水槽だけを片手にぶら下げて、虫取り網は置いていくことにしました。チョウやトンボのような飛ぶ虫は採れなくなりますが、仕方ありません。そういう虫は虫かごに入れておくと、みるみるうちに弱って死んでしまうのを、カイトは知っていました。死んだ虫なんかを佐渡君に見せられるわけがありません。
けれどダンゴムシやワラジムシのような、地面を這っているようなのは、あんまりきれいなものがいなくて、そういう虫を見せてもつまらないだろうし、カイトは土手に腰掛けて大いに悩みました。
「やっぱり、バッタとかが普通でいいかなあ」
バッタやキリギリスならちょっと探せば見つかるだろうし、適当に草を入れておけば1日くらいは元気で過ごしてくれるでしょう。佐渡君と別れたら、そのまま逃がせばいいのですから。
ところが、探してみるとこれが意外に見つからないのです。いえ、見つかることには見つかるのですが、ぴょんと草むらの奥に飛び込むと、草に紛れてすぐに見えなくなってしまうのです。小川の土手はちょっと急なので、奥まで立ち入ることはできません。だから奥に逃げられるともうダメでした。カイトは土手沿いをゆっくり歩きながら、じっと息を殺し草むらを睨んで虫を探すしかありませんでしたが、ずっとそうしているとカイトの目にしているものが草だかバッタだか、一体全体よくわからなくなってきてしまうのでした。

カイトは疲れてしまって腰を下ろし、目をぎゅーっとつむりました。それから顔を上げると、ちょうどカイトの目線と同じ高さのところで、広い葉っぱの上に乗って、顔だけをきょとんとこっちに向けている虫と目が合いました。若葉のような色に透き通りそうな細い体、でもそのカマのような前足は、しっかりとしたハンターの証です。
(カマキリだ!)
カイトはそろそろと右手を伸ばそうとして、引っ込めました。カマキリは生きた虫を食べるのです。カマキリを採ったら、たとえ明日までであっても、エサの世話が大変です。バッタ一匹も捕まえられないでいるカイトに、カマキリのエサが捕まえられるでしょうか。
でも、ピンとお尻の先をあげてカイトの手を見上げているカマキリの子供は、なんだかとても可愛らしくて、その姿を見ていると、エサの1匹や2匹がなんだという気になってしまうのでした。
決心したカイトは、パッと右手を広げて、3センチほどのカマキリを一息にその手の中に収めました。手の中でもぞもぞと動くカマキリを水槽の中に放り込むと、辺りの草を2,3本、茎の上の方からちぎって、水槽の中に入れました。すると水槽の中で、ぴょんと跳ねるものがあったので、慌てて水槽を持ち上げて見てみると、なんともうまいことに、オンブバッタの小さいのがしきりに中で飛び跳ねているではありませんか。カマキリの子供は反対側で知らん顔をしていますが、うまくいけば明日までの食料になってくれるかもしれません。
カイトはすっかり気を良くして、水槽を持って立ち上がると、家へ戻って行きました。これで佐渡君へのお土産は完璧です。
家に帰ったカイトは、水槽の中のカマキリとバッタを見つめながら、佐渡君が昆虫を見たがった理由を考えてみましたが、「図鑑を見て、小さくて可愛いと思ったから」以上の理由がどうしても見つかりませんでした。実際、カマキリもバッタも小さいのに一生懸命動いていて可愛らしいものです。2匹とも見せたいところだけど、きっとそうもいかないのでしょう。

実際、日曜日に目を覚ましたカイトが水槽を見てみると、そこにいるのはカマキリだけになっていて、水槽の底には食べ残されたバッタの触覚らしきものが寂しく落ちていました。
カイトは気もそぞろに本を読み読み時計の針を眺めながら午前中を過ごし、12時40分に水槽と「日本の昆虫図鑑」を持って学校へ向かいました。


  [No.1343] 6:7月11日 1:02PM 投稿者:Ryo   投稿日:2015/10/18(Sun) 19:53:01   45clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

ユウマはその日、わざと約束の午後1時にほんの少しだけ遅れるようなつもりで家を出ました。公園までは歩いて15分くらいですが、ユウマは12時48分に家を出たのです。
何故なら今のユウマは、リンゴの樹から学校へ行くためのパスポート―あのポケモン図鑑に載っていない動物や植物や昆虫の図鑑―を何も持っていなかったからです。
何も持たずにリンゴの樹の案内板の前に立っても、周りの景色は普段通りの公園のままで、学校の校庭へは行けないことをユウマは知っていました。だから、あの場所には、先に大沢君の方が着いている必要があったのです。
自然公園のゲート前で、ユウマは時間を確認しました。午後1時2分。佐渡君が忘れ物をせず、時間通りに着いて待っていてくれれば、図鑑の力でユウマも入れるはずです。
ユウマは深呼吸して、案内板の前へ一歩一歩歩き出しました。すると、案内板まであと5歩くらいのところまで来た時、古ぼけた案内板の向こう側に、男の子の姿が一瞬見えた気がしました。そして―

***

カイトは数人の男の子のグループ、何組かの小さい子を連れた大人を遠巻きに見ながら、校門の前でじっと待っていました。
日曜日に校庭が開放されるのは確かなことでした。ただしそれは午後1時からだったのです。佐渡君が時間きっかりに着いていたらどうしよう、待たせてしまったら困るな、と、カイトは落ち着きがありませんでした。右手にぶら下げた、水槽と図鑑の入った手提げは不自然に四角く膨らんでいます。重くて目立つそれを持って一人で立っているのも恥ずかしく、カイトは今か今かと指導員さんが校門を開けるのを待ちわびていました。
指導員さんが現れ、ギィと重い音を立てて校門を開きます。カイトにはそれがずいぶんゆっくりなように見えました。校門が開ききるとバラバラと子どもや大人が校庭へ出ていきます。
一番最後に入って、一番先頭で走りだしたのがカイトでした。けれどカイトは校庭の真ん中にはいかず、雑草が茂る端の方を走って、リンゴの樹の下へ大急ぎで向かいました。
リンゴの樹の辺りはいつものように、ひっそりとしていました。カイトが走ってその影に飛び込む直前、誰かがこの場所へ向かってくる足音が聞こえた気がしました。
そして―


  [No.1344] 7:そして、僕らはリンゴの樹の下で・上 投稿者:Ryo   投稿日:2015/10/18(Sun) 19:57:23   48clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

二人はリンゴの樹の下で、何も言えず、お互いを見つめていました。
一生懸命走ってきたカイトは息をぜいぜいさせています。右手には四角く膨らんだ手提げカバンをぶら下げ、息が整うまで何も言えない様子です。
ユウマはリュックを背負い、手には何も持たず、ただじっとカイトを見つめています。カイトが何か言うまで待とうとしている様子でした。カイトは荒い息の中でユウマの足元やその周りを確認しましたが、チコリータもニドランらしきポケモンも見当たらず、どういうことだろう、家に置いてきたのかしら、と不思議に思いました。
やっとカイトの息が整っても、お互いに何も言うことができません。二人とも何から切り出そうか全く分からずに、あの、とか、その、とか、えっと、みたいな言葉を口の中で飴玉のように転がすばかりでした。

先に言葉を発したのは、ユウマの方でした。
「あの、大沢君、ですか」
途切れ途切れで、最後は消え入るような声でしたが、カイトはきちんと聞き取って、首を何度も縦に振ります。
「手紙をくれた、佐渡君ですか」
カイトの声はしっかりとしたものでした。先にユウマの方が喋ったので、カイトはすっと楽になった気分でした。ユウマは、はい、と言いながら一度だけうなずきました。
それからまた、えっと、あの、の応酬が始まりましたが、それはあまり長く続きませんでした。あのあのを繰り返すうちに二人とも何だか少しおかしくなって、クスクス笑い出してしまったからです。
「どうしよう?」
「どうしましょう?」
二人はそう言い合うと、更に面白くなってしまい、とうとう声を上げて笑い出してしまいました。
「とりあえず」
笑いがひとまず収まると、カイトは言いました。
「座りましょう」
そう言ってカイトは、古ぼけた白いベンチを指さしました。

カイトとユウマは並んでリンゴの樹の下の、白いベンチに座りました。カイトが左側に座って手提げを膝の上に置き、ユウマはその右隣に少し間を開けて座りながら、リュックを自分の更に右側に置きました。
二人の周りは、カイトにとってはいつもの風景、ユウマにとっては見知らぬ世界である校庭のようでした。けれど少し変なのは、このリンゴの樹のいわれが書かれている看板が、ずいぶん近い位置にあるのです。カイトが立ってそのまま前に歩きだすと、すぐぶつかってしまうような位置に、いつの間にかその看板があったのです。それに大きさもカイトの見知っているのより、ずいぶん横に大きいようでした。

「あの、手紙、ありがとうございました」
カイトはあちこちに視線を散らしながら言いました。初対面?の男子同士で顔を見合って話すのは気恥ずかしいし、かと言ってどこを見て話したらいいものか、迷ってしまっていたのでした。
ユウマは、ああ、はい、とだけ返事をして、その先どう答えたものか、何を言ったらいいものか、考えあぐねていました。知りたいことと聞きたいことと話したいことは頭の中で洪水のように溢れ、渦を巻き、流れていましたが、そこから何か一つ取り上げて話すのはとても難しいことでした。
その時ユウマの頭の中で閃いたものがありました。自分がカイトをここに呼び出した理由の中で、一つ、明確なものがあったのを思い出したのです。

「すみません、昆虫…でいいのかな…を、持ってきてくれましたか」
カイトはその言葉に弾かれたように、膝の上に乗せた手提げかばんから透明な水槽を取り出します。
「あぁ…えっと、いますよ。ほら、ここ」
カイトは人差し指で水槽の天井を指差します。緑色のプラスチックでできた屋根に、同じ緑色の、3センチほどのほっそりした生き物が逆さまにひっついているのを確認するのに、ユウマは随分な時間がかかりました。が、その姿を捉えた瞬間
「わあっ!」
ユウマの目が見開かれ、一気に輝きを増しました。カマキリの子供はユウマにちっとも構わず、端から端まで丁寧にカマの手入れをしています。水槽をカイトから受け取ったユウマはぎりぎりまで水槽を顔に近づけ、可愛いと凄いを何度も繰り返しました。
カイトはそんなユウマを驚いた顔で見ていました。確かにカマキリの子供は小さくて可愛いけど、こんなにはしゃぐとは思っていなかったのです。
「凄いね、ほんとにいたんだ!こんなにちっさいのが!」
「そんなにびっくりした?」
「超びっくりした!だってこんだけしかないのに動いて生きてるんだよ?超凄い!」
ユウマは顔を上げて興奮しながら、カイトに右手の親指と人差指で作った、ほんの小さな隙間を示しました。
その隙間を見ていると、「日本の昆虫図鑑」を読み、ちっぽけな虫達の写真を見た時にユウマがどんな気持ちだったのか、カイトは少し分かったような気がしました。

「あ、アゲハチョウじゃなくてごめん」
「ううんいいよ、全然いい」
「ほんとはアゲハチョウが見たかったとかない?」
「ううん、そりゃまあアゲハチョウだったら嬉しかったけど、もう何でもいい」
「そっか、アゲハチョウすぐ死ぬからダメだった、ごめん」
「すぐ死ぬの」
「うん、飛ぶやつは閉じ込めとくとすぐ死ぬ」
それを聞くとユウマは、そっかあ、とため息を付くように言いながら、しばらく黙ってしまいました。カイトは何かまずいことを言ったかと思い、慌てましたが、ユウマは何でもなかったようにカイトに色々と質問をしてきました。
「これってさあ、育つとどうなるの」
「え?カマキリ?大きいカマキリになる。手のひらくらいの」
「それくらいなの」
「うん」
「進化…分かるかな、なんかこう、いきなり大きくて強そうな感じに一気に変身したりしない?色が変わるとか」
「変身?カマキリが?しないよ?」
「そうかあ…なんか技とかは…出せそうにないね」
「火吹いたりするやつ?」
「うん、ていうか大沢君見たことあるんだ」
「前に見た。でも無理だと思う、これただのカマキリだもん。エサ取るくらいしかしないと思う」
「そうなんだ…」
ユウマは目の前の小さなカマキリの、あまりの無力さに、くらくらするようでした。このカマキリは、何の技も持たず、この身体ひとつで生きていかないといけないのです。
すると今度はカイトの方が、ユウマの質問に出てくる言葉に興味を持ったようで、逆に質問を投げかけてきました。
「っていうかさ、ポケモンって変身するの?」
「変身じゃなくて進化って言われてるけど、戦ったりして強くなると一気に大きくなる」
「えー!何それかっこいい!」
「かっこいい…かは分かんないけど。カマキリっていうんだよねこれ」
「え、うん」
「こっちにも『かまきりポケモン』っていうのがいて、ストライクっていうんだけど」
「え!そっちにもカマキリいるの」
「いや多分こっちのカマキリとは関係ないし、ストライクのほうがずっとでかくてごついけど、それは進化すると赤くて手がハサミになって『ハッサム』っていうのになる」
「へー!!」
ユウマの語りで、カイトはポケモンという生き物の不思議さにすっかり魅入られてしまったようでした。

二人の上で、ひゅう、という音がして、何か大きな暗い影がリンゴの樹ごと二人を覆ったのはその時でした。二人が思わず空を見やると、見事な翼を持った首の長い鳥が、太陽を背にしてゆうゆうと舞っていました。その鳥はゆっくり一つ羽ばたくと、あっという間に遠くへ見えなくなってしまいました。

二人は呆然とその大きな鳥の後姿を見送っていましたが、やがて
「…オニドリルだ」
と、ユウマが信じられないものを見た、というようにつぶやきました。
「オニドリルって何?ポケモン?」
カイトが聞くとユウマはうなずき、
「ちょっと、こっちにもポケモンっていたの?」
と早口でカイトに訪ねました。カイトは困ったように首を横に振るだけです。
「ううん、今まであんなの見たことないし…それになんか、誰も驚いてなさそうなんだけど…」
カイトは校庭を見やります。ところがそこで見たのは、更に驚くべき光景でした。

サッカーをしている高学年生の間を、茶色い大きな尻尾の、猫よりも大きいくらいの生き物が数匹、ひょこひょこと走っていきます。カイトも前に見たことのある姿です。なのに高学年生は誰も気にせずにサッカーを続けているのです。
「…ええっ!あれって」
「オタチだ。蹴られちゃう」
カイトとユウマはリンゴの樹の下から、ヒヤヒヤしながらその光景を見ていました。高学年生とあっては4年生のカイトとよそ者のユウマが注意できる相手ではありません。でも、ふと気が付くと、いつの間にやらフェンスの外の様子までが変わってしまっていました。
ケヤキが立ち並び道路が続いていたはずのそこには、花畑と噴水があり、二人の前、フェンスのすぐ向こう側を、女の人がヨタヨタと二本の足で歩く草を連れてゆっくり歩き、花に水をやっています。
「自然公園…」
「僕が来たとこだ…」
二人は同時に声を上げていました。そしてフェンスの向こうとこちらを、モンシロチョウが行ったり来たりしています。
「どうなってるの?」
「わからない」
二人には今起きていることが全く分かりませんでした。フェンスの向こうでは人々がポケモンを連れて思い思いにバトルをしたり、一緒に遊んだりしています。そんな中をスズメが小さな翼をはためかせてすり抜けていきます。
フェンスのこちら側では、サッカーにドッジボール、追いかけっこ、色々の遊びを楽しむ子供や大人たちの間で、ポケモンたちが走り回り、寝転び、遊びしているのです。
「これってさあ、僕のとこと佐渡君のとこが、混ざっちゃったってこと?」
「…多分。でも誰も気づいてない…」
「ねえ、ちょっとこれ、まずくない?」
「ううん、ちょっと待って…」
混乱するカイトを制し、ユウマはじっくりと周囲を見回し、何か考えている風でした。
それが一段落すると、ユウマは、聞いて、とカイトに一言言うと、話しだしました。

「多分だけど、混ざってる風に見えてるのは僕たちだけで、他の人には見えてない」
「え」
「だって普通、あんなのいたら、邪魔だし、コートごとどっか行くでしょ」
ユウマはドッジボールのコートのど真ん中でくつろいでいるヤドンを指さしました。ボールはそのピンクのカバみたいなポケモンを見事に避けて往復しています。けれど当てないように注意している、という風でもないようです。
「これも多分、だけど」
「うん」
「このリンゴの樹でワープできるの、僕らだけだと思うし、ポケモンが見えるのは君だけ」
「それは…なんとなく分かってた」
カイトはうつむいて言いました。それから、ぽつり、ぽつりとユウマにこれまでのことを話しだしました。リンゴの樹の下でポケモンやカイトの姿を見たのはどうやら自分だけだということ。不思議な場所へワープした、なんて噂を聞いたことが一度もないこと。
「ニュートン?何それ」
「ニュートンのオバケだって、そう言ってた。僕が君のこと見た後、そのこと人に言ったら、そうだろって。この樹、ニュートンっていう偉い博士が万有引力を発見した時に使われたリンゴなんだって」
「へぇ…そのニュートンって人、僕くらいの年なの?」
「まさかぁ」
「だよねぇ」
二人はまた笑い合います。そんな噂はすぐに消えて、もう誰もこのリンゴの樹のことは見向きもしてない、という話が終わった後に、ユウマはまた少し考えこむと、小さな声で言いました。
「ポケモンが見えるのは君だけ。それで、あの図鑑のことが分かるのも僕だけ」

カイトはその言葉の意味が分かりませんでした。図鑑のことが分からない、とはどういうことなのでしょう。ユウマの周りの人はみんな、字が読めないのでしょうか。
カイトがそんなことを聞くと、ユウマは小さく笑って首を横に振りました。けれどその笑顔はとても寂しそうでした。
「僕はあの図鑑を友達に見せた。誰も何のことか分からなかった。それどころか全部作り物だと思われて、相手にされなかったんだ」
持ってきた図鑑を見せて。そう言われてカイトは手提げの中から「日本の昆虫図鑑」を取り出しました。ぺしゃんこになった手提げの上で、オオムラサキのページが開かれます。
ユウマはカイトに許しを得て、愛おしそうにその羽根を一つ撫でると、ページをめくり、アシナガバチのページを開き直しました。
「これは誰も知らないといった。みんな困ってた」
それからモンシロチョウのページを探しだして
「これは作り物だって」
「この図鑑に載ってるのは、みんな作り物の嘘ごとの生き物だって言われて、それでおしまいだった」
ユウマの声には、投げ捨てられた空き缶のような、がらんどうの寂しさがあるようでした。カイトはみんなから嘘つき呼ばわりされたも同然なユウマのことを思い、胸がじんと痛くなりました。
「でも、もう悲しくない。本当にいたってことは、僕は嘘つきじゃないってこと」
そう言うとユウマは膝の上の水槽を高らかに持ち上げました。カマキリの子は今はユウマに背を向け、葉っぱに乗って透明な壁の向こう側を見ています。その小さな小さな背中が、光り輝いて見えました。

「…なんかさぁ、分かったよね」
カイトはカマキリの子の背中を見ながら、しみじみと言いました。何が?とユウマが水槽を膝に戻して聞き返します。
「ワープの理由。なんとなくだけど」
ユウマは目をぱちくりさせました。言葉の意味を聞き返すと、カイトは椅子に座り直して、
「佐渡君は、図鑑を拾って、面白かったんだよね?」
と、ユウマの方を見て言いました。ユウマはうなずきます。最初に「日本の動物図鑑」を拾った日のことは今でもすっかり思い出せます。
「僕も、図鑑に挟まってたニドランの毛を見て、わぁ紫だ、凄いなあ、どんな生き物だろうって思った」
ユウマは何も言わず、下を向きました。カイトには見えない位置でしたが、ベルトにセットしてきたニドランのモンスターボールを見ていたのです。
「だから多分、それだよ。ワープの理由」
あぁ、とユウマは小さく息を吐きました。図鑑がパスポートの役割をしているのだとは思っていましたが、それでは何か足りない気がしていたのです。もしあの図鑑を別な人が拾っていても、同じようになっていただろうか、とか、他の人はそもそもあの図鑑を拾おうと思うほど、案内板の下をきちんと見ていたんだろうか、とか。言葉にならないモヤのような思いを、カイトが言葉にしてくれて、ようやく形になったような気分でした。

けれど、カイトの方ではまだ一つ、解決されていない謎がありました。
「でさあ、このリンゴの樹は、佐渡君のとこにもあるんだよね?」
ユウマがうなずくと、カイトは続けます。
「佐渡君のとこに、なんかこう、願いを叶えるとか、思いを形にするとか、そういうポケモンがいたりしない?それでこのリンゴの樹に住んでるとか」
「え…?ううん」
「え、いないの?」
おかしいな、とカイトはユウマの困惑した様子を見て首を曲げました。二人がそれぞれ図鑑とポケモンの痕跡を見て、面白いな、と思ったのを見知って、この樹に住んでいる願いか何かの力を持ったポケモンが引き合わせようとしたのだと、これなら辻褄が合うと、カイトは思っていたのです。
カイトの考えを聞いてユウマは、自分で自分の知っていることを確かめるように、独り言のように話しだしました。
「エスパータイプのポケモンならテレポートはできると思うけど、ポケモンのいない、こういうとこにテレポートした人の話は聞いたことがない。自然公園にもエスパータイプのポケモンは普通いない…図鑑がないと僕はここに来られなかったから、僕はずっと図鑑が怪しいと思ってたんだけど…」
「図鑑なしでリンゴの樹のところに来ても、何もなかったってこと?」
「うん」
カイトは分かりかけてきたものがまた分からなくなって、ううーん、と伸びをしました。リンゴの樹はカギでは無いのでしょうか。
「でも、リンゴの樹は、両方の場所でおんなじなんだよね?」
「うん、同じっぽい」
「リンゴの実はなる?」
「なるけど、超まずいらしい。まずいっていうか酸っぱいって聞いた。だからポケモンは食べるけど人間は食べないんだって」
「おんなじだ!」
カイトは叫ぶように言いました。
「うちのリンゴも凄くまずいんだって。だから誰も食べないし、なっても虫とか鳥が先に食べちゃうんだって上級生が言ってた」
「はぁー…じゃあ、本当に同じなんだ」
「うん、おんなじ」
二人はベンチの上に広がるリンゴの樹の枝を見上げました。するとその先に、小さな緑色の丸いものが見えました。
「あ、実がなってる。初めて見た!」
「え、本当?僕も初めて見た!」
しばらくの間、二人はしみじみとそれを見ていました。枝の向こうの高い空で、太陽を覆うくらい大きな鳥や、空に打った点のように小さな鳥が、お互いを邪魔すること無く平和に飛び交わしていました。

「リンゴの樹以外は全部違うのに、リンゴの樹だけは全然おんなじって、何だか変な感じだね」
「うん…最初から同じだったのかな…」
二人が話をしているうちに、周りはまた変わっていました。今度はフェンスの内側が自然公園に、フェンスの外側がカイトの町になっていました。カイトが校庭があった方を見ると、木で囲まれた広々とした空間に、夏本番を迎えた太陽を受けて草むらがいきいきと茂っています。
カイトたちの前方は、入口のゲートに続く道でしたが、その道はフェンスのところで途切れて、ケヤキの木に遮られていました。その向こうはもう道路でした。手前の歩道で、ビーグル犬を連れた奥さんと、ふわふわの尻尾のロコンを連れた少女のトレーナーが、何にも言わずにすれ違います。
じじじ、と小さな羽音がして、青い体を光らせて、シオカラトンボが二人の前を通りかかりました。そのトンボは不意に二人の前で羽ばたいたまま一瞬静止し、またフェンスに向かって飛び始めたかと思うと、すうっと消えてしまいました。
そしてシオカラトンボが消えた何もないところ、フェンスの向こう側から突然、鮮やかな赤色の、両手を広げたより大きな羽のトンボが、小型ヘリコプターのような騒々しい羽音を唸らせて現れました。
ヤンヤンマ、と口の中で小さくユウマがつぶやきましたが、カイトは目の前のことが信じられなくてそれどころではありません。ヤンヤンマはきょろりと二人をひと目見ると、空高く舞い上がり、どこかへ行ってしまいました。

ヤンヤンマを見送った後、二人の間に沈黙が流れました。
そしてカイトが喋り出しました。どこか遠いところからする声のようでした。
「…これってさ」
「うん」
「同じ所にあるのかな」
「何が?」
「エンジュシティと京都のこの辺」
ユウマはそれを聞いて、うなじの毛がぞわっと立つような感覚に襲われました。カイトも呆然とした顔のまま、言葉を続けます。
「多分そうだ。佐渡君の住んでる場所と、僕の住んでる場所は同じ所にある。なんていうか別な次元みたいな場所なんだと思う。でもリンゴの樹以外は全部違っていて、リンゴの樹だけがずっとおんなじだった」
「で、おんなじだから時々繋がってたんじゃないかと思う。だからカマキリとか同じ名前の生き物がいたり、図鑑がそっちに行ったのかもしれない。でも普段は誰も気にしてなくて、興味がなくて、僕たちみたいにお互い『知りたい』とか『見たい』とか『話したい』と思った人は、ほとんど誰もいなかったんじゃないかなと思った」
「僕、さっき『ニュートンのオバケ』の話したけど、あれ、実は僕も最初、佐渡君のこと、オバケだと思ってたからなんだ。だってこんな話、普通の人はオバケだっていう以外に信じられないでしょ?」

「オバケじゃないよ!!」

カイトの話をじっと聞いていたユウマは、初めてカイトに向かって大きな声をだしました。
「僕はここにいる。オバケじゃない。僕のポケモンだってオバケじゃない。あ、でもゴーストタイプっていう種類のポケモンはいるらしいけど…でもみんな生きてる。オバケじゃないよ!」
ユウマの心からの叫びを受け、カイトは、わかった、わかってるよ、と必死になってユウマをなだめました。ユウマは突然の感情の高ぶりに、目に涙を浮かべていました。
「僕たちは、生きてる」
「うん、わかってる。僕は知ってる。さっきのは本当にごめん。でも、今はもう、佐渡君がオバケなんかじゃないの、知ってる」
言葉が1つずつ届くたびに、ユウマの体から空気が抜けていくように、感情が落ち着いていきました。
「僕は佐渡君のことを知ってる。ポケモンのことを知ってる。だから会えた」
カイトは諭すように言いました。ユウマは、そうだね、と静かに言って
「僕も、時々この本は自分以外には見えなくて、自分がおかしいんだと思ってた」
と、図鑑の上のモンシロチョウを見つめながら言いました。
「おんなじだね」
「おんなじだ」
二人はそう言って、小さく笑いました。


  [No.1345] 8:そして、僕らはリンゴの樹の下で・下 投稿者:Ryo   投稿日:2015/10/18(Sun) 21:33:18   49clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

「ねえ、周りからは、僕らはもう気にされてない、よね」
ユウマは突然声の調子を落として、ヒソヒソ声で聞きました。きっとそうでしょう。リンゴの樹がいつもいつも気にされないように、きっと今の2人もリンゴの樹と同じ状態なのです。
カイトがそのように言うと、ユウマはニッと笑いました。
「じゃあ、ポケモンを出しても、何も問題ないわけだ」
今度はカイトが目を輝かせる番でした。でも、ユウマのポケモンらしきものは、やっぱりどこにもいません。
「ポケモン、いたの?いないと思ってた」
「ふふふ、実はずっといたんだよ」
「『出す』って、リュックから出すの?リュックの中にいたの?」
違う違う、とユウマは笑い、懐から小さなボールを取り出しました。水槽をカイトに渡し、カチリとボタンを押すような仕草をすると、ボールは空気を入れたようにぼわんと膨らみ、手のひらいっぱいのサイズになりました。
カイトは水槽を左隣に置き、ユウマのすることを、まるで手品を見る子供のような目で見ていました。ユウマは右手にボールを高く持ち、左手はもうそこにポケモンがいるように、抱っこの姿勢を取っていました。もう一度ボールをカチリとやると、光がヒュンと飛び出して、ユウマの腕の中で、頭に立派な角を持った、トゲトゲの紫のウサギの形になりました。

「ニドランだ!!」
カイトが歓声をあげると、ニドランは耳をパタパタさせて、じろりとカイトをにらみます。ユウマが、しー、と、ボールを持ったままの右手で人差し指を立てました。
「知らない人が大きい声出すと、怒るんだよ」
カイトは慌てて小さな声で謝ると、まじまじとニドランを見つめました。思っていたより毛は短くて、みっしりしている感じです。抜けたのは首の後ろか耳の付け根あたりの毛だろうか、とカイトは思いました。耳も背中もあちこちトゲトゲしているけれどきちんと毛に覆われているし、その先は案外と鋭くなさそうで、痛いというのは本当だろうか、と思いました。唯一毛に覆われておらず、硬そうな芯を晒しているのが、毒があると言われている角のところで、よくよく見ると角の先には小さな穴が開いています。ニドランはその角を油断なくカイトの方に向けたまま、ユウマの腕に抱かれていました。

聞きたいことはたくさんありました。特にさっきのボールのことは、カイトが全然知らなかったことです。でも、カイトが興奮して喋ると、うっかりニドランを怒らせてしまいそうです。
カイトはとりあえず、ニドランと仲良くなろうと思いました。
「ねえ、やっぱり、触ったら怒るよね…?」
「僕が?ニドランが?」
「えと、ニドラン…だけど、佐渡君が怒るんならそれでも諦める」
ユウマは、うーん、とニドランの耳の後ろを撫でながら考えていましたが、
「ニドラン、この人は僕の友達だけど、君と仲良くなりたいんだって。いいかな」
と、穏やかな声でまず、ニドランに聞きました。ニドランは赤い目をぱちぱちさせて、しばらくじっとしていましたが、やがて、どっこいしょという風に体の向きを変え、フェンスの方を向いてツンと顔をそらしました。
「いいって」
「分かるの?」
「そりゃもう、毎日一緒だし」
ユウマはニドランの背中側、トゲトゲに近い場所を撫でながら、明るく笑って言いました。
「でも乱暴にすると怒ると思うから、この辺を毛の流れに沿って優しくなでてあげて」
ユウマがそう言って指したのは左前脚の付け根から左後脚の付け根にかけての、脇腹の辺りでした。カイトはおずおずと手を伸ばし、触れてみました。短く薄い毛の下に暖かな皮膚があり、そこに絶え間なく息と血が通っているのが感じられました。
「ゴロと同じだ」
カイトは思わずそう呟いていました。ゴロによくしてやったように指を軽く立てて、毛の流れにそって撫でてやると、ニドランはしばらくカイトから顔を背けたままの姿でいましたが、やがて正面を向き直すと、静かに目を閉じ、力を抜き、カイトの撫でる様に任せてくれました。
「良かった、ニドラン、喜んでる」
ユウマがホッとしたような声で言いました。カイトは徐々に指先を上の方へ持っていき、背から伸びたトゲトゲに少しだけ触れてみました。脇腹より少し温度が低く、トゲというより毛皮を貼りつけた堅い板のようでした。ニドランは何も抵抗しません。完全にリラックスしているようでした。
「ありがとう」
カイトがそう言って手を離すと、ユウマはどういたしまして、と微笑み、先ほどのボールを取り出すと、半分眠ったニドランを光に変えてその中にしまいこみました。

「ねえ、さっきからずっと気になってたんだけど、そのボール何なの?」
「モンスターボール。これにポケモンを入れてあちこち連れ歩ける。手紙に書いてなかったっけ?」
「いや知らない。何度も読みなおしたけどそんなこと書いてなかったと思う」
「あちゃ、ごめん」
ユウマは頭を掻き、カイトにその赤白のボールを見せながら、その仕組みや捕まえ方などについて簡単にカイトに説明しました。
「それってさあ、中に入ってるポケモンはどんな感じなの?」
「うーん、わかんない。中がほら、ちょっと透けて見えるけど、大体寝てるから気持ちいいんじゃないかな」
ユウマがカイトの顔の前にボールを近づけます。ボールの中では手のひらサイズに縮んだニドランが、丸まって眠っていました。
「へええ、便利なんだねえ」
カイトはすっかり感心して言いました。これなら何匹だって手軽に飼うことができそうだし、炎のような危ない力を持ったポケモンでも、いざとなったらボールの中にしまってしまえば危なくありません。
カイトは真ん丸でピカピカの小さなボールと、四角いただの古ぼけた水槽を見比べて、肩をすくめました。どう見てもボールの勝ちです。カイトは言葉を尽くしてモンスターボールをほめました。
「…それにこんな水槽みたいに大きくないし、中でずっとおとなしくしてるなんて…」
ところが、ほめ言葉は、そこで何故か途切れました。自分の言葉に何か引っかかるものがあったのです。ユウマが、どうしたの、と言いたげにカイトを見たので、カイトは思い切って聞いてみました。

「ずっとボールの中にいたら、ずっと眠ったままなの?」
「そういうことになる…かも」
「ご飯もいらないの?」
「…多分」
ユウマが額にしわを寄せながら答えたので、カイトも難しい顔をしてしまいました。きっと自分で試したことはないのでしょう。でも、それは確かに便利かもしれないけれど、本当に大丈夫なのでしょうか?
しかしユウマは、手の中のボールをしっかり握り、きっぱりとした声で言いました。
「でも、僕はほっといたりしない。世話も遊ぶのもちゃんとする。だって可哀想だしつまらないから」
「どっちが?ポケモンが?佐渡君が?」
「うーん、つまらないのは僕。ポケモンはどうか分からないけど、遊べなかったりご飯食べられないのは可哀想だと思うから」
それを聞いたカイトは、どことなくホッとしたような気持ちになるのと同時に、やっぱり佐渡君は凄いなあ、とも思うのでした。自分はいつも一緒にいたゴロの世話だって時々サボって家族に任せてしまっていたのです。こんなボールがあったら、ゴロを何日も放っておいてしまったかもしれない、と思うと、自分が恐ろしくなりました。
だからカイトはそのことは言わず、ただ佐渡君は凄いと思う、というだけのことを言いました。

「でも、僕はそのカマキリみたいのも、なんかいいなって思う」
カイトの言葉を受けたユウマがそんなことを言ったので、カイトは、え?と思いました。聞き間違いをしたのでしょうか。確かにユウマはいたく気に入っているようですが、これは昨日捕まえたばかりの、何の変哲もないカマキリの子供なのです。水槽の中で、外のことなんかお構いなしで、何を考えているのか分かりません。カイトが水槽から放したら、きっと一目散に逃げていって、すぐにわからなくなってしまうでしょう。カイトが入れた草にバッタがひっついていなかったら、今日まで生きていなかったかもしれないのに。
「ただのカマキリなのに?」
と、カイトが聞くと
「でも僕のニドランだってただのニドランだよ?」
と、返されました。
「えー、でも、ニドランやチコリータのほうがずっと凄いよ。だってボールがあればどこにも連れていけるし、邪魔にもならないし、世話は…ボールから出した時にすればいいんでしょ?それに…」
ユウマは何も答えず、じっとカイトの言葉を聞いていました。
「なんていうか、ニドラン、佐渡君と通じ合ってる感じがしたし」
それを聞いたユウマの目が微かに揺れた気がしました。通じ合う。ユウマが小さくその言葉を繰り返しました。
「違うの?」
カイトの質問に、ユウマはううん、とうなりました。「はい」とも「いいえ」ともつかない返事でした。
「仲良くなったとは思う、捕まえた時よりは」
「やっぱ最初は大変なの?」
「うん、言うこと聞かないし、キックされた」
「痛そう…」
「痛いね」
ここと、ここと、ここ蹴られた。ユウマは自分の足や脇腹を順に指差して言いました。カイトは思わず自分でも脇腹を抑えてしまいました。
「でも、今は仲良くなったんでしょ?」
「まあね」
「ほら、だからやっぱ凄いって。うちの犬のゴロ、僕の言うことあんまり聞かなかったし。それにこのカマキリだって、絶対僕の言うことなんか聞かないと思う」
カイトは水槽を再び膝に乗せます。ユウマはまたそれを覗き込みました。そのまましばらくカマキリの子を見つめていたユウマは、一言
「なんかこう、遠い感じ」
と言いました。それはぼんやりした言葉でしたが、カイトには分かる気がしました。水槽に閉じ込めても、目に入るくらい近くで見ても、カマキリの世界には近づけません。カマキリの子の生きている世界、見ているものは人間にはちっともわからないのです。
「この遠い感じを知りたい」
ユウマはさっきと同じような、でも少し強い調子で言いました。

「虫の見てるものが知りたい、みたいな?」
「虫だけじゃなくて、うーん」
ユウマはそこでカマキリから目を離し、どこか遠くに視線をやりながら、おもむろに、鳥類図鑑や動物図鑑の話をし始めました。あの図鑑に載っていた野生の生き物たちの、凛とした姿や、強い瞳について語りました。
「だから虫だけじゃなくて、なんかみんな、遠い感じだった」
「野生だからじゃないの?」
「ううん、なんかもっとこう、自分の世界があるような…」
「でもニドランは、その辺にいたのを捕まえたんだよね?野生ってことじゃないの?」
「それはそうなんだけど」
ユウマは頭を上に向けました。ユウマ自身でも言葉を探しているようでした。
それから
「大沢君は野生のポケモン、見たことある?」
と聞いてきました。カイトが見たのは、人間の側にいたもの以外では、カイトの顔を覗き込んできた、あのおじいさんみたいな顔の鳥ポケモンと、花畑にいた大きなてんとう虫のポケモンくらいです。ポッポとレディバ。ユウマはそう名前を教えてくれました。
「結構、近くまで来たでしょ」
「え?うん、ポッポ、の方は」
レディバは僕に気づかなかったみたいだけど、とカイトは付け足して続けます。
「あのポッポ、人からエサ貰ってたとかじゃないの?うちのとこでも公園とかに行くとハトっていう鳥がいっぱい人間に寄ってくるよ、エサ目当てで」
「あー、エサか…」
エサ、という言葉を聞いたユウマは難しそうに目を閉じ、また目を開いて言いました。
「ポケモンは、エサがなくても人間の側まで来るんだよね。そんで人間と仲良くなって一緒にいたりする、野生でも」
ユウマの口から語られた衝撃の事実に、カイトは目を丸くしました。
「何それ!凄くいいじゃん。楽しそう!ええー、なんかずるい!」
カイトのそんな様子を見て、ユウマはまた寂しげに笑いました。カイトにはその笑顔の意味が分かりません。
「え、だってそんなの凄く楽しくない?野生のポケモンと普通に友だちになれるとか凄いじゃん。僕のとこなんか山からサルが一匹降りてきただけで大騒ぎなのに」
「うん、楽しいよ。楽しいけど…近すぎても、見えないことが、あるんだなって思って」
ユウマはさっきからずっと、カイトの見えない迷路に迷い込んでいるようでした。

ユウマがカイトに犬のゴロの話をしてもらうよう頼むと、カイトは懐かしそうな笑顔を浮かべて、いろんな事を話してくれました。
「待て」がとても苦手だったこと。雷に怯えて逃げ出したこと。散歩の時に寄り道ばかりしたがったこと。絶対に前を通りたがらない、大きな犬の銅像がある家。話しても話しても思い出は尽きないようでした。
ユウマはそれに相槌を打ちながら、自分の感じた「遠さ」についてずっと考えていました。
首輪をつけても従わないことだらけの犬。水槽に入れても自分の世界を保つカマキリ。そもそも閉じ込めると飛べずに死んでしまうアゲハチョウ。
モンスターボールに入っているニドランとチコリータは正真正銘「カイトのポケモン」です。でも、首輪をつけても、水槽に入れても「誰かのもの」と言い切れない部分が、大沢君の周りの生き物たちにはあるようでした。そもそも始めから誰のものにもならない生き物もいるのです。
ポケモン達はみんな人間を助けるために草むらから出てくる、遠い地方のそんな神話を習ったことがありました。ボールに入れればどんなポケモンとでも友達になれる。そんな世界で生きてきました。
でも、ポケモンと人間の間にあるのはそれだけでしょうか。もっと知らないことが、あるのではないでしょうか。
プラスチックの箱に閉じ込められても凛とした姿の小さなカマキリのような心が、もしポケモンにあるのなら、それを知りたいとユウマは思いました。

「決めた」
ユウマが突然きっぱりとした声で言ったので、カイトは驚いて言葉を止めました。
「え、佐渡君どうしたの」
「僕は旅に出たら遠くまで行く。それでいろんなポケモンを探すんだ」
「え、うん」
いきなりのユウマの決意表明を、カイトは曖昧にうなずきながら見守るしかありませんでした。
ユウマは再びモンスターボールを見せながら、カイトに言いました。
「言ってなかったことがあるんだけど」
「うん」
「このモンスターボールは連れ歩けるだけじゃなくて、これに入れたら大体は言うこと聞くようになるんだ、どんなポケモンも」
「えっ…?でもさっき蹴られたって」
「そりゃ、ちょっとのしつけは必要だけど、きちんと頼めば大体聞いてくれる」
「へえ…」
じゃあ、ゴロがボールに入ってたら、待てもちゃんとできたのかなあ。カイトはぼんやりそんなことを思いました。
「でも、なんていうか、僕はそれだけじゃなくて。そのポケモンの見ている世界をもっと遠くから知りたい。公園とか町の側の道路でいつも人間の側にいるポケモンだけじゃなくて、人間のあまりいない遠いところに行って、そこにいるポケモンの見ている世界を知りたいんだ、と思う。ボールじゃなくて、僕の目と手で、人間をあまり知らないポケモンを見て、触れてみたい」
ユウマの言葉は熱を帯び、更に続きます。
「でもそれはもちろん僕のポケモンを大事にしないってことじゃないよ。逆にちゃんと大事にして、それでも僕のポケモンが、僕に邪魔されずに大事にしたいこととか、どうしても嫌なことがあるなら、ちゃんとそれも知りたいってこと」
カイトには、突然ユウマが鳥になって羽ばたいていってしまいそうに見えました。
「なんか、凄い。佐渡君」
「そうかな」
「僕と同い年のはずなのにもう大人みたい」
「うん、僕のとこでは10歳はもう大人と同じ」
「ええっ」
カイトは思わずユウマと自分を見比べました。同じ10歳のはずなのに…と思っていたけれど、背の高さの違いもありますが、ユウマの瞳には強い力が宿っていて、弱気な自分とは大違いに見えました。
「凄いね…」
カイトはもうそれだけしか言えなくなって、自分が小さくなったようで、すっかり縮こまってしまいました。
「仕方ないよ。仕方ないって言葉でいいのか分からないけど、住む場所が違ったから大人になるまでの時間も違うんだ、きっと」
だからカイトはカイトのペースで大人になればいい、そう言ってユウマは笑いました。
でも、とカイトは反撃します。
「せっかくこうして友達になれたんだから、僕も佐渡君みたいにしっかりしないといけないと思う、ちょっと」
「でも僕もまだ旅にも出てないから、半人前だよ」
「ううん、僕からしたら充分大人だし。僕も夏休みは遊んでばかりじゃなくて、なんか、また会えた時に笑って前向いて会えるような感じになりたいな」
カイトは目を細めて空を見上げました。いつの間にか陽は傾いて、人がまばらになっているようでした。今はフェンスの隔てもなく、カイトとユウマ、二人の住む世界が、フィルムに描いた絵を2つ重ねたようになっていました。校庭の中にうっすらと公園が見えたり、また公園の中に校庭が透けて見えたりするのでした。

別れの時は少しずつ迫っていました。二人の間に夕風が吹き、その時を告げていました。
「あのさ」
ユウマが柄にもなく弱気な声で言いました。
「どうしたの」
「もしもだけど、ここから手を繋いで出たら、どっちかの世界にそのまま行けたりしないかなって」
それは先程までのユウマらしくない提案に聴こえました。カイトは慌てて返します。
「ええ、でも戻れなくなったら困らない?僕このカマキリ逃がさないといけないし」
「うーん、だよね。…まあ、ちょっと思っただけ。実験」
ユウマはうつむいて、それから無理やり笑ったような顔で言いました。その顔を見ていると、カイトも泣きたいような笑いたいような顔になって
「じゃあ、実験」
と言い、手提げに荷物をしまって立ちました。ユウマもすっくと立ち上がり、二人はしっかりと手を繋いで、校庭と草むらがうっすら重なっている方に向き直りました。
せーの、の合図で二人は一歩ずつ前へ進みます。二人の足がリンゴの樹の影を離れた時、

カイトは一人で校庭の片隅にいました。ユウマも、一人で公園の案内板の前に立っていました。
それから二人は別々な場所で全く同じことをしました。先程まで確かにそこにいた、夢のように消えてしまった友達と繋いでいた手を、じっと見つめました。それから、その腕でごしごしと顔を拭いました。拭っても拭っても涙は止まらずに溢れました。
そうしてやっと涙が止まった後、二人はきっぱりとした歩幅で、それぞれの家、それぞれの道に向かって歩き出したのでした。


  [No.1346] 9:夏休み、そして 投稿者:Ryo   投稿日:2015/10/18(Sun) 21:40:05   60clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

それからカイトとユウマが出会うことも、手紙が届くことも、もうありませんでした。
残り僅かな一学期を二人はそれぞれのことをして過ごしました。時折リンゴの樹を見やることも、側へ行ってみることもありましたが、そこはもう何事もなかったようにただひっそりとしていました。
何事も無く夏休みは訪れ、ユウマは決まっていたとおり、家を旅立ちました。
カイトは夏休みが始まった途端、家族に必死になって頼み、あるものを買ってもらいました。それは小さいデジタルカメラでした。
それが届いた日からカイトは毎日徒歩や自転車であちこち出かけ、小さな虫や生き物を見かけては撮り続けました。そのうちに自分の家の周辺であまり見かけない、珍しい植物なども見分けられるようになって、それも熱心に撮りました。言うまでもないことですが、これはユウマにいつか再び出会えたら見せるためのものであり、小さな生き物たちと友達、とまではいかなくとも、その生き物たちの見ている世界に近づきたくて始めたことでした。
新たな出会いもありました。ある日、自転車で遠出した帰り、河原に落ちていたダンボールの中に、子猫を見つけたのです。真っ黒な捨て猫は「クロスケ」という名を貰い、無事にカイトの家で飼われることになりました。みんな口には出しませんでしたが、ゴロがいなくなってやはり寂しかったのです。

そんな日々の中、衝撃的な事件が起こりました。カイトがそれを知ったのは、突然の大嵐のような雨風がカイトの町に吹き荒れた、次の日のことでした。
朝、カイトが目を覚ましてリビングへ降り、おはようの挨拶をすると、寝転んでテレビを見ていたお父さんが、側で畳んであった新聞を指し
「どうも、学校の樹が倒れたみたいだぞ。しばらく校庭には行けないかもな」
と眠たげな声で言ってきたので、カイトは眠気を忘れて新聞に飛びつきました。まさにあの、校庭の隅のリンゴの樹が折れてしまったというニュースが、新聞の一面に小さな囲い記事で載っていました。
地域面には、リンゴの樹の云われと、樹の内部で病気が進行していたらしいこと、折れたのはそれが一因であった、ということが書かれており、元気だった頃の、よく知ったリンゴの樹の写真が載っていました。
カイトはしばらく、呆然とその記事を見つめていました。それから、いつしか寄ってきていたクロスケを胸に抱き、雲一つない晴れた空をじっと見上げました。
佐渡君は、今どこで、何をしているのか、カイトからはもう分かりません。遠いところに行くと言っていたから、もし夏休みが終わっても、会えなかったかもしれません。
(でも、いつかまた会えたら)
カイトはクロスケを腕から降ろし、外へ出ると自転車に乗り、デジカメを前かごの手提げに入れました。
(僕は、笑って前を向いて会える人になると決めたんだ)
そして自転車を勢い良く漕ぎ出しました。自分の決めたことを為すために。

同じ頃、ユウマは、暑い日差しを受けて真っ直ぐな道を歩いていました。潮の香りを受けて顔を上げると、遠くに街が見えました。だいぶ栄えているようで、高い建物が立ち並んでいます。特に真っ白で美しい灯台は、遠くからでもユウマの目を引きました。
風にのって汽笛の音が、微かに聴こえます。それはこの街がユウマの目的地である何よりの証拠でした。
(僕は、船を探してどこか遠くへ行く。ジョウトじゃなくたっていい。そして、いろんなポケモンを見つける)
(僕を知らないポケモンが、人間をよく知らないポケモンが、僕を見てどんな目をするのか、見てみたい)
ベルトにつけたモンスターボールが微かに揺れました。3匹目のポケモン、ミルタンクのものです。旅に出たユウマがしばらくお世話になった牧場の主さんが、選別にとくれたポケモンです。このポケモンを大沢君に見せてあげられるのは、いつになることでしょうか。
(もしもいつかまた会えたら、僕は旅で見てきたもの、触れてきたものを全て話そう)
ユウマはあのちっぽけなカマキリの背中を思い出しました。今のユウマは大きな世界に立ち向かう一匹のカマキリのようでした。やがてユウマは、しっかりした足取りで歩き出しました。
公園のリンゴの樹が折れてしまった、というニュースは、ユウマの耳には届いていませんでした。

こうして二人の物語は、ここで一旦筆を置くことになります。
けれど、二人がお互いを忘れなければ、二人の世界は再びどこかで重なるのかもしれません。


  [No.1350] 読ませて&描かせて頂きましたv 投稿者:   投稿日:2015/10/25(Sun) 14:18:58   70clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
読ませて&描かせて頂きましたv (画像サイズ: 542×666 186kB)

Ryoさん初めまして、ボウヤと申します。僕らはリンゴの樹の下で、読ませて頂きましたv

現実の世界とポケモンがいる世界の、ささやかながら面白い繋がり方にうきうきしました。好奇心が鍵!
ユウマ君視点(ポケモン世界から見た現実世界の描写)がとても新鮮で引き込まれました。目からハートのウロコです(気持ち悪い)!
ニュートンのリンゴの樹、私が出た小学校にもありました(ある小学校って多いんでしょうかね?)。ちょうど四年生の時に入っていた科学委員会で人工受粉など諸々の世話をしたので懐かしくなりました(^^)。リンゴがまずいのも最初に聞きました(笑)
別れのシーン、そして折れてしまったリンゴの樹が切ない…。もう二人は会えないのかな…会えるといいなあ…!
個人的に、カイト君がニドランの毛を見つけて大切に保管するシーンが好きです。綺麗な色ですもんね。私もニドランなでたいです。むしろ欲しいです←
あとどうでもよさMAXなんですけども、私、虫が大嫌いなんですが(蝶でも避ける)、何故かカマキリの子供だけは好きなので、なんだか嬉しかったです。可愛いですよねv

【描いてみた】もさせて頂きました。
何やら樹が大分成長してしまったことと(こら!)、二人共身長が高いのが悔やまれますが(10歳前後を描くのは意外と難しい;)…少しでもRyoさんのイメージに近いといいな…!
スキャナはあるものの環境が整っておらず、ケータイで撮影しました。画像が暗くて申し訳無いです。

素敵なお話を読ませて頂いて、ありがとうございました!


  [No.1351] ありがとうございます!! 投稿者:Ryo   投稿日:2015/10/26(Mon) 13:13:29   38clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

はじめまして、ボウヤさん。気づいたのが今さっきで、返事が遅れてしまってごめんなさい。
そして本当にありがとうございました。自分の書いたものに絵をつけてもらったのが初めてなので、ちょっと今全身が震えるほど嬉しいです…
私がこの話を考えた時に最初に思いついたシーンがこんな感じだったので、本当に自分の頭の中が絵になって目の前にある、という感じです。
ポケモンの色、いいですよね。紫というとコラッタでも良かったんですけど、自然公園にはいないっぽかったので、ニドランにしました。可愛いですよねニドラン…膝に乗っけるシーンは私の願望ですw
それとカマキリは小さい頃に部屋で卵嚢がかえって大変なことになった思い出があるので思い入れの深い虫です(どんなだよ)カマキリの子供は指の先に乗るくらいでもちゃんと立派にカマキリの形してるのがほんと良いと思います。

リンゴの樹については結構各地の小学校にあるらしい、ということでお話に出してみましたが、ボウヤさんのところにもあったんですね!そして科学委員会っていうのがあるんですねえ(初めて聞きました…)一本だとちゃんとならないから花粉をどっかから持ってこないといけないんですよね(ということをかなり後半になって知ったので慌てて書き足した)アニメやポケダンを見ながら「ポケモンの世界にも、リンゴはリンゴのまま、普通にあるんだよなあ。ポケモンにも木の実にもなってないんだなあ」と思ったのがこの話の始まりです。
二つの世界は遠く離れた世界じゃなくて、重なっているので、何かのきっかけと少しの好奇心、一歩踏み出す勇気があれば、きっとまた二人は会えるはず…です!

こちらこそ、素晴らしい絵をありがとうございました!!