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  [No.1368] 王者の品格 投稿者:GPS   投稿日:2015/11/03(Tue) 21:00:18   38clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

ポケモンリーグ。


それは、ポケモンバトルの王者を決する聖なる戦いだ。
王の玉座を手に入れるためには幾つもの勝負を制し、無数の技を掌中にして、ポケモンと心を一つにすることが求められる。
ポケモンバトルの強き者、それが王たる資格なのだ。


しかし、真実はどうであろう。

バトルに強き者だというだけで、果たして王と成り上がることは叶うのだろうか。


王者に乞われる力とは、もっと別のところにあるのではないか?





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池井戸潤・作『民王』およびその映像化作品、金曜ナイトドラマ『民王』のオマージュ要素があります。


  [No.1369] 第一話「青天霹靂」 投稿者:GPS   投稿日:2015/11/03(Tue) 21:03:51   42clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

「泰生さん、本日のご予定ですが」
「ん」
「十一時からブリーダーの山崎によるメンテナンス。十三時からスタジオ・バリヤードで月刊トレーナーモードの取材及び撮影。内容は先日のタマムシリトルカップと、リーグについてです。連続して毎朝新聞社のスポーツ紙のインタービューも入ってます。それが終わり次第、野島コート、二ヶ月前に根本信明選手との練習試合で使いました、あそこに移動して、事務員内のシングルトレーナーでタッグを組みマルチバトルトレーニングです。それが三時間、その後、そのままコートを取ってあるとのことですから、あとは個人練に回して良いと伺いました。以上です」
「ん」
「何かご不明な点はございませんか」
「む」

ん、は肯定の合図で、む、は否定の印。寡黙さと冷徹な印象が評判のベテランエリートトレーナー、羽沢泰生は低く唸りながら首を横に振った。
しかし実際のところ泰生は長々と続くスケジュールなど、本当は大して真面目に聞いていなかった。わかったことは、とりあえずあまり自分の本業たるシングルバトルに費やせる時間が無さそうだということのみである。生まれつきのしかめっ面をますます強張らせる泰生に、彼の専属マネージャーにあたる森田良介は溜息をついた。人の感情や思惑の機微に敏感なこの男は、泰生が話をまともに聞いてくれないことを察するのにも慣れきっていたが、しかしそのたびに肩を竦めずにはいられないくらいには生真面目な男でもあった。

「まあ、いいですけどね。泰さんの予想通り、今日のシングル出来る時間は最後の自主トレだけです。事務所としてのトレーニングがマルチですから」
「ふん。なんでシングルトレーナーがマルチをやらなきゃならないんだ」
「それは、ほら、自分以外のトレーナーと協力することで相手の手を読む力を養うとか」
「そんな悠長なこと言ってる場合か。リーグはあと一ヶ月も無いんだ」
「しょうがないでしょう。ウチの方針なんですから、幅広いトレーニングとメンバー同士の密なこ・う・りゅ・う」
「ふん」

わざと『交流』の部分を強調した森田に、泰生は不機嫌そうに鼻を鳴らす。腰につけた三つのモンスターボールを半ば無意識に伸びた手で握ると、それに応えるようにしてボールが僅かに動く気配が掌越しに伝わった。こんなにやる気なのに、夕方まではシングルどころかバトルすらまともにさせてやれないのが嘆かわしい、泰生はそんなことを思って眉間に皺を寄せる。

「それに、それはリーグでも……とにかく、予定は詰まってるんですから文句言わずに行きますよ。まずは山崎のとこに、恐らくもう待ってるでしょうから」

慣れた口調で森田は泰生を急き立てる。足早に廊下を歩く二人とすれ違った事務員の女性が、桃色の制服の裾をやや翻しながら「おはようございます」とにこやかに声をかける。「あ、谷口さん、おはよう」同じような笑顔で森田が返すが、しかし、泰生はしかめた顔のまま無言で通り過ぎた。女性事務員は、それも日常茶飯事といった感じで向こう側へと歩いていってしまったが、森田は童顔気味の面を渋くする。「泰さん」そして苦言というより、聞き分けの悪い子供に言い聞かせるようにして言う。「いい加減挨拶くらい出来るようになってくださいよ」

泰生は元来、人付き合いとか人間関係とか、そういった類のものが全く以て苦手かつ大嫌いな男だった。ポケモンバトルの才能は天賦のものであったため、若い頃は実際ほぼほぼ山籠りのような、孤高の野良トレーナーとして人と最低限度の付き合いをしながら生きていたというほどである。泰生にとって、人間は何を考えているのかわからない、口先ばかりの嘘つきな存在なのだ。その点ポケモンは信頼に値する、心と心で通じ合える生き物であり、出来ることならば一生ポケモンとだけ過ごしていたいと考えていた。
そんな泰生が、何故こうして森田(当然ながら人間である)のサポートの元、がっつり人間社会に縛られているのかというとワケがある。泰生は本職のエリートトレーナー、つまりはトレーナー修行の旅はしていないが、バトルで飯を食べているという職業だ。国の公金から援助が出る旅トレーナーとは違い、定住者としてバトルで生活をしていくには一匹グラエナというわけにはいかず、余程の強さ、それこそ今や行方不明だが噂によるとシロガネ山で仙人になったという、かつてカントーの頂点に立ったマサラ出身の少年くらいでなければ叶わない話である。
ではどうするのか、というとどこかに所属するしか無いのだ。ジムリーダーとはその代表格で、地方公共団体という存在に属し、バトルを通して市町村の活性化に努める役目を負っている。そして泰生など、いわゆる『エリートトレーナー』は概して、トレーナープロダクションに所属しているトレーナーを指す言葉なのだ。野球選手が球団に入ったり、アイドルが芸能事務所に身を置くのと同じようなものだと考えてくれれば良いだろう。旅をすると道中バトルを仕掛けてくるトレーナーの中に、自分をエリートトレーナーと名乗る奇妙なコスチュームの者がいると思うが、そのコスチュームは彼、彼女の所属しているプロダクションの制服である。特定の制服のエリートトレーナーが色々な場所に点在しているのは、『フィールドでの実践』がその事務所のウリという理由なのだ。
ともかく、泰生は生活のため『064トレーナー事務所』というプロダクションの一員となっている。野良トレーナーだった頃とは違い、日々ガチガチにスケジュールを縛られるのに加えて人間関係を良好に保つことを強いられる毎日は、もはや二十年以上続けているにも関わらず一向に慣れる気配は無かった。無論、そうして予定を詰められるのは泰生が強く魅力的なトレーナーであることの裏返しなのだが、彼がそれに気づく日が来るかは不明である。

「ほら、もう少し柔らかい表情しないとまた山崎に笑われますよ。オニゴーリみたいだって、まったく、オニゴーリの方がまだ可愛げがあるってものでしょうに」
「陰口を叩く奴なんかブリーダー失格だ」
「まーたそんなこと言って。陰口じゃなくて、面と向かって言われたの忘れたんですか」

そんな泰生に手を焼いて、森田は丸っこい目を尖らせた。自分のサポートする相手は決して悪人では無いし、むしろ深く付き合えば好感の方がずっと上回る人だとはわかっている。が、周囲がそうは思ってくれないことも森田は知っていた。
本人がこれ以上損をしないためにもどうにかしてほしいものだと思いつつ、いかんせんこの調子ではとても無理だろう。三十を過ぎてから重くなる一方の身体が殊更に重くなったような感覚に襲われながら、革靴の足音を事務所内に響かせる森田はぐったりと息を吐いた。





「お疲れ様でーす」
「おつかれー」
「遅かったじゃん」
「三嶋の講義でしょ? あいつすぐ小レポート書かせるから時間通り帰れないんだよな、お疲れ」
「羽沢今日メシ食いにいかない? 友達がバイト始めた居酒屋あるからさー」

『第2タマ大軽音楽研究会』と書かれたプレート部室のドアを開けた羽沢悠斗へ、先に中にいた者達が口々に声をかける。ある者は楽器をいじっていた手を止めて、ある者は個々のおしゃべりの延長戦として、またある者は携帯ゲームや漫画に向けていた顔を上げて羽沢を見た。その一つ一つに「お疲れ様ですー」「はいアイツです、ジムリーダーの国家資格化法案について千字書かされました」「本当面倒くさいですよねあの万年風邪っぴき声」返事をした彼は、各々自分の居場所に陣取ったサークル員の間を縫って部屋の奥まで行き、簡易的な机に鞄を置いた。「行く行く、ちょうど夕飯どうしようか考えてたんだよな」
最後の一人まで返事をし終えた悠斗は言いながら机を離れ、壁に立てかけられているいくつかの楽器のうち、黒い布で出来たギターケースに手を伸ばした。その表面を、とん、と軽く指で突いた彼は何か言いたげな顔をしてサークル員達の方を振り返る。

「富田ならまだ来てないぞ」

悠斗が口を開くよりも前に、ギターの弦を張り替えていたサークル員の一人が声をかけた。「そうか」悠斗はへらりと笑う。

「練習室、五時からですよね。芦田さん?」
「ん? うん、そうそう。第3練習室ね、まぁ一個前の予約がオケ研だから押すと思うけど」

悠斗の問いかけに、芦田と呼ばれたサークル員がキーボードに置いた楽譜から視線を上げて返事をする。それにぺこりと頭を下げ、悠斗は「そうなんですよ」と誰に向けてというわけでもない調子で言った。

「だから、五時までやろうと思ってたんですけど。有原と二ノ宮もいるし、結構、合わせられる時間はなんだかんだいって無いですから」
「そうだな」
「ま、そろそろ来るでしょ。事務行ってるだけらしいから」

会話に出された有原と二ノ宮が、それぞれ反応を返す。「なんだ、そっか」と小さく息を吐いた悠斗にサークル員がニヤリと笑って「いやぁ」と半ばからかうような口調で言った。「流石キドアイラク、期待してるぞ」
やめてくださいよ、ソツの無い笑顔でその台詞に応えた悠斗は、タマムシ大学法学部の二回生という肩書きを持っているが、それとは別にもう一つ、彼を表す言葉がある。新進気鋭候補のバンド、『キドアイラク』のボーカリスト。それが悠斗に冠する別の名だ。ボーカルの悠斗をリーダーとして、先ほど話題に上っていたギターの富田、そしてベースの有原とドラムの二ノ宮で編成されたこのバンドはサークル活動の枠を超え、今はまだインディーズといえども、数々のメジャーレーベルを手がけている事務所にアーティストとして登録されているという実力を持っている。それはひとえに彼らの作る音楽の魅力あってのものだが、それは勿論として、しかし同時に別の理由もあった。

古来、壮大な話になるが、それこそ『音楽』という概念が生まれてからずっと、人間にとっての音楽はポケモンと切っても切れない存在であった。ポケモンの鳴き声や技の立てる音を演奏の一部とするのは当然、それ以外にもパフォーマンスの一環としてポケモンのダンスを演奏中に取り入れたり、電気や水の強い力を楽器に利用したりと幅広く、音楽とポケモンとを繋げていたのだ。
ポケモンと共に作る音楽は当たり前ながら、人間だけでのそれと比べてずっと表現の可能性が広いものとなる。人間ではどう頑張っても出せないサウンド、限界を超えた電圧をかけられたエレキギター、多彩な技で彩られるステージ。そのどれもが、ポケモンの力で出来るようになるのだ。
そのため、遥か昔から今この瞬間まで、この世にあまねく、いや、神話や小説などの類で語られる『あの世』の音楽ですら、ポケモンとの共同作品が主流も主流、基本中の基本である。ポップスだろうがクラシックだろうがジャズだろうが関係無い。民族音楽も、EDMも、アニソンもヘビメタも電波も環境音楽もみんなそうだ。人間の肉声を使わないことが特徴であるVOCALOID曲ですら、オケのどこかには必ずと言って良いほどポケモンの何かによるサウンドが入っている。世界中、過去も未来も問わないで、音楽にはポケモンがつきものなのだ。

が、その一方で、ポケモンの力を一切使わないという音楽も確かに存在している。起こせるサウンドは確かにぐっと狭まるが、限られた可能性の中でいかに表現するかを追求するアーティスト、そしてそれによって実現する、ポケモンの要素のあるものとは一味違う音楽を求める聴衆は、いつの時代もいたものだ。くだらない反骨精神だの異端だのと評されることは今も昔も変わらないが、その音を望む人が少なからず存在するのもまた、事実。
そして悠斗率いる『キドアイラク』もそんな、ポケモンの影を一切省いたバンドなのだ。元々、彼らの所属サークルである第2タマ大軽音楽研究会自体がそういう気風だったのだが、悠斗たちはより一層、人間独自の音楽を追い求めることをモットーとしていた。
ポップス分野としては珍しいその音楽と、そしてそれを言い訳にしないだけの実力が評価され、彼らは今日もバンド活動に邁進しているというわけである。

「っていうか二ノ宮、何読んでんの」

そんな悠斗たちだが、まだ全員揃っていないこともあって、今は部室のくつろいだ雰囲気に溶け込んでいる。円形のドラム椅子に腰掛けて何か雑誌を広げていた二ノ宮に、悠斗は何ともなしに声をかけた。「んー」雑誌から顔は上げないまま、二ノ宮は適当な感じの音を発する。

「トレーナーダイヤモンド。リーグの下馬評とかさー、もうこんなに出てんだな。ま、一ヶ月切ったし当たり前かぁ」
「え? もうそんな時期なのか、今回誰が優勝すんのかなー、去年はまたグリーンだったからな」
「出場復帰してからもう四年連続だっけ。もうちょっとドラマが欲しいね、全くの新星とまではいかなくても逆転劇っていうか」
「でも五年守り続けるってのはさ、それはそれですごいじゃん?」
「あー」

二ノ宮の返事を皮切りにして、口々にリーグの話を始めるサークル員達の姿に、悠斗はふっと息を吐いた。聞いた本人にも関わらず、彼は会話に入らずぼんやりとその様子を眺めていた。
皆が盛り上がる声に混ざって、扉か壁か、その向こう側から他の学生のポケモンと思しきリザードの声が聞こえてくる。それを振り払うようにして悠斗が頭を振ったのと、「お疲れ様ですー」ドアが開いて、事務で受け取ったらしい何かの書類を手にした富田が顔を覗かせたのは同時だった。





「では、今リーグもいつものメンバーで挑むということですか」
「当然だ。俺はあいつらとしか戦わない」
「流石は首尾一貫の羽沢選手ですね。しかしリーグに限らず、今までバトルを重ねていく中で、今のメンバーだけでは切り抜けるのが難しいことがあったのではないでしょうか? そういった時、他のポケモンを起用しようとか、編成を変えてみようとか、そうお考えになったことはございませんか?」
「三匹という限られた中で戦わないといけないのだから、困難に直面するのは必然だろう。そこで、現状に不満を抱いて取り替えるのでは本当の解決とは言えん。編成を変えたところでそれは一時凌ぎでしか無い、また違う相手と戦う時に同じ危機に苦しむだろう。取り替えるのではなく、今のままで課題を乗り越えるのだ。それを繰り返していれば、少しずつ困難も減っていく」
「なるほど! それでこそ羽沢選手ですよ、不動のメンバーに不動の強さ、見出しはこれで決まりですね」

これが狙ってるんじゃなくて、素でやってるんだから厄介だよなぁ。興奮するレポーターの正面で大真面目に腕組みしている泰生の一歩後ろで、森田は内心そんなことを考えていた。
タマムシ都内、スタジオ・バリヤード。そこで今、泰生はトレーナー雑誌の取材に応えている。まるで漫画やドラマの渋くダンディな戦士かのような受け答えをする泰生に、インタビューを務める若いレポーターは先ほどからずっと大喜びだ。頑固一徹を具現化したような泰生は、ともすれば周囲全てを敵に回す危険を孕んだ存在ではあるものの、同時にその堅物ぶりは世間から愛される要因でもある。それが決して作り物ではない天然モノであること、本人の真剣ぶりに一種のかわいさが見受けられることがその理由だ。また泰生の根の真面目さが幸いし、いくら嫌とは言えど、受けた仕事はこうしてしっかりこなすというところにも依拠している。
背筋をぴんと伸ばした泰生が、眉間の皺は緩めないものの順調に取材を受けている様子に、森田は尚も心の中でそっと安堵の溜息をついた。朝はいつものように不機嫌だったが、いざ始まってしまえば大丈夫だ。これなら何の心配もいらないだろう、彼がそう考えたところに、レポーターがさらなる質問をする。

「ところで、羽沢選手にはお子さんがいらっしゃるとのことでしたが……やはり同じようにバトルを……」
「………………知らん」
「えっ」

途端、森田は一気に顔を引きつらせた。森田だけではない、レポーターも同じである。まだ新人だし初めて対面した相手だから、この類の質問が泰生にとってはタブーであると知らなかったのだろうか。しかし今はそんなことに構ってはいられない、凍りついた空気をかき消すようにして、「いやー、すみませんね!」森田は無理に作った笑顔と明るい声で二人の間に割り込んでいく。

「そういうのはプライベートですから、ね、申し訳ないんですけど控えていただけると! いや、お答えになる方も沢山いらっしゃるでしょうが、羽沢はその辺厳しいものでして、本当申し訳ございません!」

早口で謝りながらぺこぺこと頭を下げる森田の様子にレポーターはしばらく呆気にとられていたが、やがて「……あ、ああ!」と合点がいったように頷いた。

「なるほど、そうでしたか……! いえ、こちらこそ大変失礼いたしました。そうですよね、あまり尋ねるべきではありませんでしたよね、不躾な真似をしてしまい申し訳ございません」
「いえいえ、本当すみません。ほら、泰さんもそんな怖い顔しないで。別にこんなの大したことじゃないでしょう、ね、まーたオーダイル呼ばわりされますよそんな顔じゃ」
「…………ふん」

オーダイルじゃなくてオニゴーリだったか、森田は冷や汗の浮かんだ頭でそんなことを思ったが、この際別にどちらでも良いことだった。とりあえず泰生の機嫌が思ったよりは損なわれていないらしいことを確認し、森田の内心はまたもや大きな息を吐く。まだ引きつったままの頬を押さえ、彼は寿命が三年ほど縮んだ心地に襲われた。
泰生のマネージャーとなってから十年ほど。少しずつ、本当に少しずつではあるが、泰生も丸くなっていっているのだと要所要所で実感する。しかしこればかりは緩和されるどころか、自分たちが歳を重ねるたびに悪化しているようにしか感じられない。そう、森田は思う。

「で、ではインタビューに戻らせていただきます……今リーグからルール変更により二次予選が出場者同士が一時味方となるマルチバトルが導入されましたが、その点に関してはどうお考えで?」
「非常に遺憾だ。シングルプレイヤーはシングルプレイヤー、ダブルプレイヤーはダブルプレイヤーとしての戦いを全うすべきなのに、まったく、リーグ本部は何を考えているのかわかったものではない」

この頑固者の、親子関係だけは。
ダグドリオの起こす地響きの如き低い声で運営への不満を語る泰生に、森田は困った視線を向けるのだった。





「樂先輩、樂先輩」
「なに?」
「羽沢のやつ、なんであんなムスッとしてるんですか」
「あー、それはね、羽沢泰生っているでしょ? 有名なエリトレの、ほら、064事務所のさ。あの人、羽沢君のお父さんなんだよ」
「え! そうなんですか……でも、それがあのカゲボウズみたいになってる顔と何の関係が」
「実はさぁ、羽沢君、お父さんとすっごく仲悪いらしいんだよね。だからトレーナーの話、というか羽沢泰生に少しでも関係する話するといつもああなるの。っていうか巡君もなんで知らないの。結構今までも見てたはずだけど」
「すみません、多分その時はちょっと、僕ゲームに忙しかったんでしょうね。でも、別に雑誌程度で……」
「まあ、ねぇ……よっぽど何かあるんだろうけど……」

「聞こえてますよ、芦田さんも、守屋も」

一応は内緒話っぽく、小声で喋っていたサークル員たちに向かって悠斗が尖った声を出すと、二人はびくりと身体を震わせた。守屋と呼ばれた、悠斗の同級生である男子学生は猫背気味の後姿から振り返り、「ごめんなさい」と肩を竦める。彼はキーボードの担当だったが今は楽器が空いていないらしく、同じくキーボード担当である芦田の隣に陣取って暇を持て余しているらしかった。
決まり悪そうに、お互いの眼鏡のレンズ越しに視線を交わしているキーボード二人へ、悠斗はそれ以上言及しない。それは悠斗の、のろい型ブラッキーよりも慎重な、事を出来るだけ波立たせたくない主義がそうさせることだったが、彼らの言っていることが間違ってはいなかったからでもある。

悠斗が父親のことを嫌っているというのは、もはやサークル内では公然の秘密と化している。ただ、守屋のような一部例外を除いての話であるが。
泰生は悠斗が物心ついた時からすでに、というか彼が生まれるよりもずっと前からバトル一筋だった。それはトレーナーとしては鏡とも言える姿なのかもしれないが、父親という観点から見たらお世辞にも褒められたものではなかったのかもしれない。少なくとも悠斗からすればそれは明白で、悠斗にとっての泰生は、ポケモンのことしか考えられない駄目な人間でしかなかったのだ。
彼がポケモンの要素を排除した音楽をやっているのもそこに起因するところがある。勿論、悠斗の好きなアーティストがそうだからという理由もあるが、しかしそれ以上に彼を突き動かしているのは父である泰生への、そして彼から嫌でも連想するポケモンへの黒く渦巻いた感情だろう。悠斗はそれを自覚したがらないが、彼の気持ちを知っている者からすればどう考えても明らかなことだった。
兎にも角にも羽沢親子は仲が悪い。本人たちがハッキリ口に出したわけではないけれど、彼らをある程度知る者達なら誰でもわかっていることである。

「……おい、なんだよ瑞樹。その目は」
「別に。それより練習するんだろ、今用意するから」

そのことは、悠斗とは中学生からの付き合いである富田瑞樹ともなれば尚更の事実であった。それこそ泰生にとっての森田くらい。
そして富田は、それを悠斗が指摘されると不快になることもよくわかっている。理解しきったような目をしつつも、何も言わずにギターケースを開けだす富田に、悠斗は憮然とした表情を浮かべていた。が、富山が下を向いたところでそれは若干、それでいて確かに緩まされる。その様子をやはり無言で見ていた有原と、図らずも発端となってしまった二ノ宮は「なあ」「うん」と、各々の楽器を無意味に弄りながら、やや疲れたような顔で頷き合った。





やはりマルチバトルなど向いていない。
本日何度目かになる試合の相手とコート越しに一礼を交わし、泰生は心中で辟易していた。現在彼は今日の最後のスケジュール、プロダクション内でのマルチバトルトレーニング中である。貸し切りにしたコートには、064事務所のトレーナー達がペアを組み、あちこちでバトルを繰り広げている真っ最中だ。
所内のトレーニングに重きを置いている064事務所では前々から取り入れられていた練習だが、今回のリーグから予選がマルチになったこともあり、より一層力を入れている。ただ、シングルに集中したい泰生にとっては厄介なことこの上無い。そもそも彼は元より、自分以外の存在が勝敗を左右するマルチバトルが好きではないのだ。少しでも時間を無駄にしたくないのにそんなことをしたくない、というのが泰生の本音である。

「ミタマ、ラグラージにエナジーボール」
「かわせトリトン! 左奥に下がれ!」

ただ、やる以上は本気で勝ちにいかなくてはいかない。ミタマという名のシャンデラに指示をしながら、泰生はくすぶる気持ちをどうにか飲み込んだ。
敵陣のラグラージがミタマの放った弾幕を避けていく。長い尻尾の先端を緑色の光が少しばかり掠ったが、ほとんど無いであろうダメージに泰生の目つきが鋭くなった。現在の相手はラグラージとカビゴン、シャンデラを使う泰生としては歓迎出来ない組み合わせである。また、クジで組んだ本日の相棒という立場から見ても。

「クラリス、ムーンフォースだ、カビゴンに!」

シャンデラの眼下にいるニンフィアが光を纏い、カビゴンの巨躯へと走っていく。可憐さと頼もしさが同居するそのフェアリーポケモンに声をかけたのは、エリートトレーナーとしては新米である青年、相生だ。甘いマスクと快い戦法が人気で、事務所からも世間からも期待のホープとされているが、今の彼は、よりにもよって事務所一の偏屈と名高い泰生と組んだことからくる緊張に襲われている。
無口で無表情、何を考えているのかわからない泰生のことを日頃から若干恐れていた相生は、誰がどう見ても表情を引きつらせており、対戦相手達は内心、彼をかわいそうに思っていた。ニンフィアに向ける声も五度に一度は裏返り、整った顔は時間が経つごとに青ざめていく。今のところは勝敗こそどうにかなっているが、もし自分がくだらぬヘマをしてしまったら何を言われるか。そんな不安と恐怖が渦巻いて、相生の心拍は速まる一方だった。

「なんかすみません……相生くんに余計なプレッシャーかけちゃってるみたいで」
「いやぁ、いいんだよ。アイツは実力こそ確かなんだけど、まだそういうのに弱いから。今のうちに慣れておかないと」
「え、あ、じゃあ、泰さんでちょうど良かった、みたいな感じですかね? あはは、なら安心……」
「ま、ちょっと強すぎる薬だけどな」
「うっ……そうですね、ハイ…………」

ポケモンバトル用に作られたこの体育館は広く、いくつものコートで泰生たち以外のチームが各々戦っている。その声や技の音に掻き消されない程度に落とした声量で、森田と、相生のマネージャーはそんな会話を交わしていた。まだ若い相生にはベテランのマネージャーがあてがわれているため、トレーナー同士とは真逆に、森田からすれば相手はかなりの先輩である。「まぁ、それが羽沢さんの良いところなんだがな」「いえホント……後でよく言っておきますので……」泰生からのプレッシャーを感じている相生のように、森田もまた委縮せざるを得ない状況であった。
誰も得しないペアになっちゃったよなぁ、と考えながら、森田は会話の相手から視線を外してコートを見遣る。シャンデラが素早い動きでラグラージを翻弄する傍らで、「クラリス、いけ、でんこうせっか!」ニンフィアがカビゴンに肉薄していった。瞬間移動かと見紛うその速さに、流石はウチの期待の星だ、と森田は感心した。
しかしカビゴンのトレーナーである妙齢の女性は少しも動じることなく、むしろ紅い唇に不敵な笑みを浮かべる。「オダンゴ」

「『あくび』!」
「っ! そ、そこから離れろ、クラリス!」

しまった、と泰生は内心で舌打ちしたがもう遅い。慌てて飛ばされた相生の指示は間に合わず、カビゴンの真正面にいたニンフィアは、大きな口から漏れる欠伸をはっきりと見てしまった。
華奢な脚がもつれるようにして、ニンフィアの身体がふら、とよろめく。リボンの形をした触覚が頼りなく揺れ、丸い瞳はみるみるうちにぼんやりとした色に濁っていった。カビゴンと、そのトレーナーが同じ動きで口許を緩ませる。

「駄目だ、クラリス! 寝ちゃダメだって!」

元々、泰生に対する緊張でいっぱいいっぱいだった相生は完全に混乱してしまったようで、ほぼ悲鳴のような声でニンフィアへと叫び声を上げた。ああ、駄目なのは思えだ。泰生は心の中で深い息を吐く。こういう時に最もしてはならないのは焦ることだというのに、どうしてここまで取り乱してしまうのか。
期待のホープが聞いて呆れる。口にも、元から仏頂面の表情にも出しはしないが、泰生はそんなことを考えた。

「もう遅い。せめて出来るだけ遠ざけとけ、後は俺がやる」
「す、すみませ……」

涙が混ざってきた相生の声を遮るようにして言うと、彼はまさに顔面蒼白といった調子で泰生を見た。その様子を少し離れたところで見ていた相生のマネージャーが、あまりの情け無さにがっくりとうなだれる。
「本番でアレが出たらと思うとなぁ」「ま、まだこれからですから……それに今のはどちらかというと、泰生さんのせいで」小声で言い合うマネージャー達の会話など勿論聞こえていない泰生は、ぐ、と硬い表情をさらに引き締めた。ニンフィアが間も無くねむり状態になってしまう以上、二匹同時に相手にしなければならないのは明白である。しかしシャンデラとの相性は最悪レベル、切り札のオーバーヒートも使えない。もう一度欠伸をかまされる可能性だって十分あり得るだろう。

「ミタマ、ラグラージにエナジーボール」
「なみのりで押し退けてしまえ、トリトン!」

とりあえずラグラージから何とかしよう、と放った指示は勢いづいた声と水流に呑まれそうになる。「避けろ!」間一髪でそれを上回った泰生の声で天井付近に昇ったシャンデラは、びしゃりと浴びた飛沫に不快そうな動きをした。まともに喰らっていたら危なかった、コートを強か打ちつけた水に、泰生の喉が鳴る。
しかし技は相殺、腰を落としてシャンデラを睨むラグラージもまた無傷のままだ。ニンフィアのふらつきはほぼ酩酊状態と言えるし、もう出来る限り攻め込むしかあるまい。しかし冷静に、あくまで落ち着いて。そう自らに言い聞かせながら、泰生は次の指示を飛ばすべく息を吸う。

その、時だった。

(ピアノ……?)

今この場所で聞こえるはずの無い音がした気がして、泰生は思わず耳を押さえる。急に黙ってしまった彼を不審に思ったのだろう、隣で真っ青になっていた相生が「……羽沢さん?」と恐る恐る声をかけた。
ラグラージに指示しようとしていた、またニンフィアへの攻撃をカビゴンに命じようとしていた相手トレーナー達も、異変を察して怪訝そうな顔をする。

「……ああ、いや。すまない」

何でも無いんだ。
何事かと駆け寄ってきた森田を手で制し、そう続けようとしたところで、またピアノの音がした。軽やかに流れていくその旋律はまさかこのコートにかかっている放送というわけでもあるまいし、仮にそうだとしてもはっきり聞こえすぎである。「チャ、チャンスなのか? やってしまえ、トリトン、なみ……」「バカ、やめた方がいいでしょ! オダンゴも止まって、羽沢さん! 大丈夫ですか!?」相手コートからの声よりも、勢い余って技を放ってしまったラグラージが起こした轟音よりも、ピアノの音はよく聞こえた。
まるですぐ近くで、それだけが鳴り響いているようだ。「羽沢さん!」「どうしたんですか、聞こえてます!?」反対に、自分に投げかけられる声はやけに遠くのものに思える。血の気を無くして近寄ってくる森田に何かを言おうとしたものの声が出ない。不安気に舞い降りるシャンデラの姿が、下手な写真のようにぶれて見えた。

「しっかりしてください、羽沢さん!」

「救急車!? 救急車呼ぶべき!?」

「まだ様子見た方が、羽沢さん! 羽沢さん、答えられますか!?」

「泰さん、どうしたんですか! 泰生さん!!」



「羽沢君!!」



そのブレが不快で、数度瞬きをした後に泰生の目に入ったのは、シャンデラとは全く以て異なる、


「いきなり黙るからびっくりしたよ……大丈夫?」


グランドピアノを背にして自分を見ている、心配そうな顔をした、白いシャツの見知らぬ男だった。





「もうさぁ、巡君のアレは何なんだろう。『先輩がいない間の椅子は僕が安全を守っておきますよ!』って、アレ、絶対俺が帰ってからも守り続けるつもりでしょ……絶対戻ってから使うキーボード無いよ俺……」
「すごい楽しそうな顔してましたもんね、守屋。イキイキというか、水を得たナントカというか」
「部屋来るなり俺の隣に座ってたのはアレを狙ってたんだろうなぁ」

予約を入れた練習室へと向かう廊下。悠斗は練習相手である芦田と、部室を出る際の出来事などについて取り留めの無い会話を交わしていた。
夕刻に差し掛かった大学構内は騒がしく、行き交う学生の声が途切れることなく聞こえてくる。迷惑にならない程度であればポケモンを出したままにして良いという学則だから、その声には当然ポケモンのそれを混ざっていた。天井の蛍光灯にくっつくようにして飛んでいるガーメイル、テニスラケットを持った学生と並走していくマッスグマ。すれ違った女生徒の、ゆるくパーマをかけた柔らかい髪に包まれるようにして、頭に乗せられたコラッタが眠たげな目をしている。
空気を切り裂くような、窓の外から聞こえるピジョットの鋭い鳴き声は野生のものか、それとも練習中のバトルサークルによるものだろうか。絶えない音の中で、悠斗が脳裏にそんな考えを浮かべていると「まぁ、巡君のことはいいんだけど」隣を歩く芦田が話題を変えた。

「羽沢君も忙しいよねぇ。学内ライブって言ってもこうやって練習、結構入るし、あと学祭もあるじゃん? いいんだよ、無理してそんなに詰めなくても……」

身体壊したら大変だからさ。地下へと繋がる階段を降りながら、そう続けた芦田が何のことを言っているのか、それを悠斗が理解するまでには数秒かかったが、すぐに来月のオーディションのことだと見当がついた。
はっきりと口に出してはいないが、芦田が話しているのは来月に迫った、悠斗始めキドアイラクが受ける、ライブ出演を賭けた選考のことである。これからの開花が期待される新進アーティストを集めて毎年行われるそのライブからは、実際、それをきっかけにしてブームを巻き起こした者も数多く輩出されている。悠斗達は事務所から声をかけられて、その出演オーディションを受けることにしたのだ。ライブに出れれば、その後の成功こそ約束されてはいないものの、少なくとも今までよりずっと沢山の人に演奏を聴いてもらうことが出来る。
しかしそのオーディション前後に、悠斗達はサークルの方の予定が詰まっているのも事実だった。芦田が心配しているのはそのことだろうと思われたが、悠斗は「大丈夫ですって」と、いつも通りに明るい笑顔を作って言った。

「ちょっとぐらい無理しても。楽しいからやってることですし、やった分だけ本番にも慣れますしね」
「それはそうだけどさ。でもほら、本当やりすぎはダメだよ、なんだっけ……こういうの言うじゃん、『身体が資本』? だっけ、ね」
「そんな、平気ですよ。それに俺、今度の学内ライブで芦田さんと組めるの楽しみなんですよ? ピアノだけで歌ってのもなかなか無いですし、それも芦田さんの演奏で、なんて」
「やだなぁ、褒めても何も出ないから……いや、ま、ほどほどにね。あと一ヶ月無いのか、何日だっけ? 確かリーグの……」

そこで芦田は言葉を切った。それは「着いた着いた」ちょうど練習室に到着したからというのもあるだろうが、悠斗は恐らくあるであろう、もう一つの理由を感じ取っていた。
悠斗はポケモンを持っていないが、芦田はいつもポワルンを連れている。しかしその姿は今は見えず、代わりに、練習室へと入る芦田の肩にかかった鞄からモンスターボールが覗いているのが見て取れた。バインダーやテキストの間で赤と白の球体が動く。

「芦田さん」
「ん?」
「別に、そんな、気を遣っていただかなくてもいいですから」

苦笑しつつ、しかし目を伏せて言った悠斗に、芦田は「うんー」と曖昧な声で笑った。「そうでもないよ」にこにこと手を振って見せた芦田に申し訳無さを感じつつも、同時に彼が閉めたドアのおかげでポケモン達の声が聞こえなくなったことに確かな安堵を覚えた自分に、悠斗は内心、自分への嫌悪を抱かずにはいられないのだった。

「それはそれとしてさ、始めちゃおっか。あと何度も時間とれるわけじゃないし、下手したら今日入れて三回出来るかどうか」
「はい、そうですね」

練習室に鎮座するピアノの蓋を開け、何でもない風に芦田が言う。大学の地下に位置するこの部屋は音楽系サークルの練習場所であり、防音になっているため外の音は全くと言ってよいほど聞こえない。室内にあるのは芦田がファイルの中の楽譜を漁る、バサバサという音だけだった。
二週間ほど後に予定されている学内ライブは、サークル内で組まれているバンドをあえて解体し、別のメンバー同士でチームを作るという試みである。悠斗は芦田と組んでいるため、キドアイラクの方と並行して練習しているというわけだ。

「じゃあとりあえず一曲目から通して、ってことでいい? 今は俺も楽譜通りやるから気になったことがあったら後で、あ、キーは?」
「わかりました、二つ上げでよろしくお願いします」
「了解!」

言い終えるなり、芦田が鍵盤を叩き出す。悠斗も息を吸い、軽やかな旋律に声を乗せた。悠斗の最大の武器とも言える、キドアイラクの魅力の一つである伸びの良い高音が練習室に響く。
歌っている間は余計なことを考えなくて済む。悠斗は常日頃からそう思っており、歌う時間だけは何もかもから解放されているように感じていた。所々が汚れた扉を開ければ途端に耳へ飛び込んでくるだろう声達も、今は全く関係無い。自分の喉の奥から溢れる音を掻き消すものの無い感覚は、悠斗にとってかけがえの無いものだった。

しかし、である。

『ミタマ、ラグラージにエナジーボール』

今最も聞きたくない、そして聞こえるはずのない声が鼓膜を震わせた。

(何だ――?)

それは父親のものにしか思えなかったが、ここは大学の練習室だ。いるのは自分と、芦田だけである。その声がする可能性はゼロだろう。気のせいだろうか、嫌な気のせいだ、などと考えて悠斗は歌に集中すべく歌詞を追う。きっと空耳だろう、自覚は無くても少し疲れているのかもしれない。芦田の言う通り、無理はせずにちょっと休むべきだろうか。

『なみのりで押し退けてしまえ、トリトン!』

が、そんな悠斗の考えを否定するように、またもや声が聞こえた。今度は父親のものではなかったが、含まれた単語から、先程した父親の声と同じような意味合いを持っていることが予想出来た。次いで耳の奥に響いたのは水流が押し寄せる轟音と、何かが地面を弾くような鋭い爆発音。いずれにせよ、この狭い、地下の練習室には起こり得るはずもない音である。
どうして、なんで、こんな音が。サビの、跳ねるような高音を必死に歌い上げながら悠斗は激しい眩暈を覚えた。悠斗の異変に芦田はまだ気づいていないようだったが、『羽沢さん?』彼の奏でるピアノに混じる声は止む様子が無い。『オダンゴも止まって!』ありえない声達はやたらと近くのものに聞こえ、それと反比例するようにして芦田のピアノの音が遠ざかっていくみたいだった。

『聞こえてますか!?』

「羽沢君!?」

おかしくなった聴覚に、悠斗はとうとう声を出せなくなった。あまりの気持ち悪さで足がよろめき、口を押さえて思わずしゃがみ込む。声が聞こえなくなったため、流石に気がついた芦田は悠斗の姿を見るなり慌ててピアノ椅子から立ち上がった。

「羽沢君、大丈夫!? どうしたの!?」
「いや、なんか……」

どう説明するべきかわからず、そもそも呂律が思うように回らない。自分の身体を支えてくれる、芦田の白いシャツがぼやけて見えた。
『救急車!?』『羽沢さん、答えられますか!?』聞こえる声のせいか、頭が激痛に襲われたようだった。簡素な天井と壁、芦田の顔が歪みだす。何だこれは、声にならない疑問が息となって口から漏れたその時、悠斗の視界が一層激しく眩んだ。



「泰さん!!」



ほんの一瞬の暗転から覚めた視界に映っていた光景は、まるで映画か何かを観ているような感覚を悠斗に引き起こさせた。
自分を覗き込んでいる知らない顔、若い男もいれば初老の男もいる、長い髪を結った綺麗な女の人も……。彼らの背景となっている天井がやたらと高いことに悠斗の意識が向くよりも先に、その顔達を押し退けるようにして一人の男が目に飛び込む。


「泰さん、大丈夫ですか!? どこか具合が悪いですか、それとも疲れたとか……いや、泰さんに限ってまさか、ともかく平気ですか!?」


ああ、この人の顔には見覚えがある。そう思った悠斗の上空から、ふわりふわりという緩慢な、しかし焦った様子も滲ませた動きでシャンデラが一匹、蒼い炎を揺らしながら降りてきたのだった。


  [No.1377] 第二話「驚天動地」 投稿者:GPS   投稿日:2015/11/05(Thu) 21:49:02   42clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

「泰さん、気づきましたか!?」

なんだ、ここは。

自分を取り囲む見知らぬ顔達、体育の授業を彷彿させる四方の景色。ガクガクと肩を揺すりながら自分に向けて話しかけてくる者がいるが、その名は他ならぬ父親を指すものであるはずだ。
それに、瀟洒な照明器具によく似た姿のゴーストポケモン。美しくも不気味な蒼色の炎を宿したそれは、数いるポケモンの中でも最も苦手な部類だった。父の相棒であるからという理由だけで、ポケモンに罪は無いというのは百も承知なところであるのはわかっているが、見たくないものは見たくない。

しかしどうして、それが至近距離に。理解出来ないことの数々に、リノリウム張りの床に腰を下ろした悠斗は頭が痛くなった。

「あ、あなたは……」

ようやく発した声は震えていたが、今の悠斗はそれどころではない。何もかもがわけのわからない状況なのだ。
だがその中で、唯一見覚えのある面影を見つけた彼の心に、少しばかりの安堵が浮かぶ。


「ああ、目が覚めましたか、泰さん!」


声をかけた相手である、先ほどまで自分を揺さぶっていた男はホッとしたような表情になる。そう、彼は今までに何度か見たことがある。悠斗は記憶の糸を手繰り寄せ、確か、確か、と脳の奥から情報を引っ張り出した。この、丸っこい童顔と苦労性っぽさが印象的な人は家にもいらしたことがある、父親のマネージャーとかいう、この世で一番大変そうな仕事に就いている男は確か……。

「そうだ、確か…………森田さん?」

「さ、『さん』……!?」

悠斗の台詞に、男ばかりでなく、周囲で様子を伺っていた他の者達まで驚きを露わにした。人だけではない、困った風に浮遊しているシャンデラでさえ、ギョッとしたように炎を揺らす。

「ええと、俺は……すみません。あの、ここは……」

しかしそんな反応も、そして自分の口から出た声が低く濁ったものであることにも意識がいかない悠斗は、痛む頭を押さえながら断続的な言葉を紡いだ。それにまたもや、皆が驚愕の表情を形作る。
「す、すみません……!?」「あの羽沢さんが……あの羽沢さんが謝った……」「しかも、こんなにスマートに……」ざわめきの内容はよく聞こえなかったが、彼らの不安そうな様子はただでさえ不安な悠斗をさらに不安にさせた。本当に何が起きているのか、と問いかけようとしたが怖くて聞けない。「ねえ、これヤバいんじゃ……やっぱり救急車……」数歩後ずさっていた女性が震える声で言いかける。が、彼女を制して動く影があった。

「いえ、もう少し具合を見てみます。泰さん、ちょっと休みましょう、いや、今日はもう帰りましょうか」
「あの……それはありがたいのですが、俺は……」
「すみません! 羽沢が体調不良のようですので、本日はこれで失礼させていただきます! 所長!」

口を開いた悠斗にまたしてもどよめきかけた周囲の声を遮るように、森田はシャンデラをボールに戻しながら早口で叫ぶと、「立てますか」と悠斗に手を差し伸べた。「おー、了解」離れたところで別のバトルを見ていた064事務所の所長が呑気に返事をした時にはすでに、悠斗は森田に腕を引かれながら歩かされていた。

「どうしちゃったんですか、泰さん。さっきから変だし、なんか気持ち悪いこと言い出すし……あ、いえ、別に泰さんがキモいんじゃなくってその、様子のおかしいのがキモいと言いますか……」

コートを出て、駐車場に向かいながら森田はぶつぶつと文句を言い、そして一人で慌ててごまかした。そんな彼の台詞の半分も頭に入っていない悠斗は「違うんです」と、弱々しい声で言う。

「俺は、泰さんじゃなくて……いや、何なんですか! 俺はあいつじゃない、俺は羽沢、悠斗だ!」

「はぁ?」

くぐもる声を裏返して叫んだ悠斗に、森田は丸い目を細くした。「そっちこそ何なんです、泰さんが冗談なんて、明日はヒトツキでも降るんじゃないですか」呆れたようにしつつも愉快そうに笑い、森田は自分の車の鍵を開けながら悠斗の肩をポン、と叩く。「ま、送っていきますから。今日は帰って、ゆっくり休んでください」
しかし、そんな森田の労いの言葉など、悠斗の耳には入っていなかった。
車のガラスに映る、自分の姿。ジグザグマみたいな森田の隣に位置するそれは確かに自分のものであるはずなのに、それでも、悠斗のものではなかった。

眉間に深く刻まれた皺。鋭く細い瞳。動きやすいよう短く切り揃えられた黒の髪。人当たりが悪すぎる人相。鍛えられてはいるがところどころに青筋の浮かぶ身体。
下ろしたばかりの灰色のジャケットと、気に入っている細身のパンツは姿形も無く、代わりに纏っているのは運動に適した、半袖のTシャツとジャージである。間違いない、この姿はどうしようもなく、一番嫌いで一番憎くて、自分が何よりも遠くありたかった――

「あの」

「はい。どうしました? 泰さん」

許しがたいその呼び名も、もはや否定することは出来ない。自分が父の身体になって、父がいるべきバトル施設にいるということは、本来の自分の身体は今何をしているのだろうか? 新たに浮かんだ疑問に、悠斗の脳はコンマ数秒で最悪の答えを叩き出す。
助手席のドアを開けて待っていた森田の丸顔に、悠斗は体温が一気に降下していくのを感じながら叫んだ。

「携帯! 俺の、早く!」
「何言ってんですか、もー。家ですよ家、いくら頼んでも『そんなものは必要無い』とか言って泰さんは携帯を携帯してくれないんですから、今日も――」
「じゃあ! じゃあ森田さん貸して!」

明らかに狼狽を顔に浮かべた森田だが、あまりの気迫に押されたらしく、笑顔を引きつらせて携帯を悠斗に手渡した。「ありがとうございますッ」その言葉に森田が硬直したのが視界に入ったが構ってなどいられない。
心拍が跳ね上がり、ガクガクと震える指をどうにか動かして、悠斗は自分の電話番号をタップした。





「羽沢君!」


何が起こったんだ。

チカチカする視界が徐々に晴れていく中、泰生はぼんやりとそんなことを思った。
頭が痛い。低く響いているような鈍い衝撃が、脳の奥から断続的に与えられている。キーン、と耳鳴りがして、彼は思わず頭部に自分の片手を当てた。

「よかった、気がついて……羽沢君、少しの間だけど、気失ってたんだよ。やっぱり疲れてるんじゃないかな」

目の前にいる男がホッとしたように喋っている。眼鏡のレンズの向こうにある穏やかそうな瞳に見覚えは全く無い。そうそう珍しい外見というわけでは無いからその辺ですれ違うくらいはしたかもしれないが、少なくとも、こんな慣れたように話しかけてくる仲ではないはずだった。
では、こいつは誰なのか。倒れていたらしい自分を支えてくれていた、その見知らぬ人物の腕から立ち上がって泰生は口を開き掛ける。言うべきことは二つ、お前は誰か、と、先ほどまでしていたバトルはどうなったのか、だ。

「今日はもう帰って休んだ方がいいよ。とりあえず、さっき富田君たちには連絡いれたからさ。ゆっくりして、貧血とかかもしれないし」

が、泰生が言おうとしたことは声にはならなかった。

何だ、これは。泰生の目が丸くなる。起こした身体がやけに軽い、いや、軽いを通り越して動かすのに何の力を入れなくても良いくらいだ。また、耳の聞こえも変に良く、一人でぺらぺら話している男の声は至極クリアに聞こえてくる。
それにここはどこなのか、天井はかなり低く圧迫感があり、四方を囲う壁には無数の穴が開いていた。酷く狭苦しい室内にはあまり物が無く、古臭さを感じる汚れた絨毯は所々がほつれて物悲しい。座り込んだ自分の横で膝をついている男の後ろには、黒々としたピアノが一台。コートにはあるはずもないそれに目を奪われ、泰生は、視界に広がるその風景が不自然なほど鮮明に見えることまで意識がいかなかった。
視線をさまよわせ、固まっている泰生を不審に思ったのだろう。白いシャツの男が「ねぇ、羽沢君」と軽く肩を叩いてくる。

「大丈夫? 医務室とか行った方がいい? どこか痛むところとかあるかな、頭は打ってないはずだけど……」

「いや、俺は――」

そう言いかけて、泰生はまたもや驚愕に襲われた。口から出た声が、いつも自分が発しているものよりもずっと高く、そしてよく通ったのだ。口を開いたまま硬直してしまった泰生に、男はどうして良いかわからないといった様子で困ったように瞬きを繰り返す。「もう少しで富田君達来るから……」戸惑交じりの声が狭い部屋に反響した。


「悠斗!!」


その時ちょうど、簡素な扉が勢いよく開かれた。飛び込んできたのは、鬱陶しいほど長い前髪が目を隠している若い男で、泰生は彼に見覚えがあった。詳しいことも名前もわからないが、家に何度か遊びに来ているのを見たことがある。確か、息子である悠斗の友人だったはずだ。
よく知っているというわけではなくとも、面識のある者の登場に泰生の心がいくらか落ち着く。彼に続いて扉の向こうから顔を覗かせた他の若者達には残らず憶えがないが、それでも心強さは認めざるを得ない。

「ああ、富田君! あのね、羽沢君なんだけどちょっと調子やばいっぽくて……」
「ありがとうございます芦田さん、悠斗、大丈夫か? 悠斗が倒れたって聞いて――」

「悠斗?」

白いシャツの男に短く礼を言った若者が自分に向けて手を伸ばしてくる。が、泰生は彼の言葉を遮るようにして問いかけた。「悠斗、って、なんだ」若者始め、自分を見つめる全員がピタリと動きを止めるのを無視して尋ねる。

「何故、俺を悠斗と呼ぶ? 俺は羽沢だが……悠斗じゃない」

「え、羽沢君……? ホントどうしちゃったの?」

「それに、誰だ、お前は?」

その質問に、今度こそ皆の表情が凍りついた。信じられない、そんな気持ちを如実に表した顔になった白シャツの男が、陸に打ち上げられたトサキントのように口をパクパクさせる。
そんな中、最初に動いたのは泰生の腕を掴みかけていた若者だった。すっ、と目の色を変えた彼はそのまま泰生を強く引っ張り、無理に立ち上がらせて歩き出した。

「すみません。こいつ具合悪いっぽいので今日は帰らせます。俺も送っていくので。では、お疲れ様です」
「え!? 富田、ちょっと……」
「おい、俺の話を聞――」

サークル員や泰生の声など全く構わず、一礼した彼は素早い動きで扉を閉めてしまう。バタバタと足音を響かせて部屋から出ていった二人を呆然と見送り、取り残された者達はぽかんと口を開けたまま固まった。「何なんでしょうアレ……樂さん、何があったんです?」「さぁ……」流れについていけなかった軽音楽サークルの面々はしばらくの間、そこに立ち尽くすことしか出来なかった。

「よくわからないのは富田だけだと思ってたけど、羽沢もなかなかエキセントリックだな」
「そうッスね。悪いものでも食ったのかなぁ」

中でも一層呆然状態なのがキドアイラクのベースとドラムである有原と二ノ宮で、彼らは泰生達の走り去った方向をぼんやり見つめて言葉を交わす。

「極度のポケモン嫌い以外は普通のヤツなんスけどねぇ」
「それな。ま、変なのはお前の髪型の方が上だけどな」
「うっせー。誰が出来損ないのバッフロンッスか」
「言ってねぇよ」

「芦田ー、ここ使わないなら俺達借りちゃっていい? 今度の月曜と交換でさー」「え? ああ、いいよー、ごめんね。ありがと!」漂っていた困惑もにわかに霧散し、日常へと戻っていくサークル員たちを背にして、話題を強引に変えたかったらしい有原は二ノ宮の天然パーマを無意味に小突いたのだった。





「いい加減話を聞け! 質問に答えるんだ、お前は誰なんだ!? ついでにここはどこで、どうなってるのかも!」

富田という名前らしい、不躾な若者に腕を引かれながら泰生は何度目かになる疑問を叫び声にする。壁には所狭しとビラが貼られ、黒ずんだ床のあちこちにゴミが落ちているこの廊下がどこのものなのか全くわからない。ごちゃごちゃと散らかった印象が、こんがらがりそうな泰生の頭をさらにイライラさせた。
しかし気が立っているのは富田の方も同じだったらしい。階段を半ば駆け上がるようにして昇りつつ、前方を行く彼は「何言ってんの」と尖り気味の声で言う。

「そんな冗談、気持ち悪いんだけど。やめろよ悠斗」
「冗談だと? 真面目に聞け、冗談なんか言ってない! 俺は悠斗じゃない、羽沢泰生だ!」
「なんでよりによってそのモノマネなんだよ。普段あんななのに、どうして急にお前の父さんが出て来るんだ?」
「モノマネなんかじゃ――」

そこで、泰生の声が途切れた。

もはや富田のことなどどうでもよく、彼は全身の血が一気に冷え切るような心地を覚えて身体を固まらせる。腹に据えかねて叫んだ拍子に揺れた髪が目にかかり、鬱陶しいと苛立ちながら手で退けたのだが、そこで気付いたのだ。
短髪の自分には、目にかかる髪などあるわけないのだと。
それだけではない。泰生を待ち構えていたのはさらなる驚愕だった。階段を昇りきったところにあった窓ガラス、暗くなりかけた外と廊下を隔てるそれには富田と、そして恐らく自分と言うべきなのであろう姿がはっきりと映っている。

「…………な、」

「『な』?」

「何だ、これは!!」

窓ガラスにベッタリと張り付き、泰生はそこに映った自分に向かって叫び声を上げた。廊下を歩いていた学生達がギョッとしたように見てくるが、そんなものに構ってはいられない。鬼気迫る泰生の雰囲気に怯えたらしい、女子学生の連れていたポチエナが、ガルルルル、と唸り声をあげて威嚇した。それにもはや気づいてすらいない、ガラスを割らんばかりに押し付けた泰生の指がワナワナと震える。
整えられた眉。明るい茶色に染められた頭髪。少年らしい印象を与える二重まぶたの両眼は、自分の妻のそれにそっくりだ。取材の撮影以外では袖を通さないジャケットの間に揺れるのは、泰生は生まれてこの方つけたことなど無いであろう、ペンダントの類である。驚きを通り越してこちらを見ているのは、街頭や雑誌にごまんといそうな、ありふれた若い男だった。

間違いなかった。そこに映っているのは、すなわち今の自分の姿は、間違い無く自分の息子、悠斗のものだ。ロクに口を聞いてもいない、勘当してやるべきかと真面目に考えるほどの馬鹿息子が、自分の見た目となってそこにいた。足の裏から絶望と、混乱と、そして激しい憤怒が這い上がってくる。その足さえも今は自分のものではない、他ならぬ息子のものなのだ。

「何が……何が、どうなってるんだ」

力無い、高めの声が口から漏れる。隣で黙って立っていた富田が、泰生の様子に前髪の奥の目を少しだけ細めた。一瞬の逡巡をその瞳に浮かべた彼は、「とりあえず」と泰生の腕を軽く引く。

「ここじゃなくて、もっと人の少ないとこに……冗談じゃ無いのはわかったから、まずは」
「おい、何だこれは! どうなってるんだ、なんで俺がこんなことになった! 俺は、……俺は今、何してるんだ!?」
「そんなこと、俺に聞かれても困ります。まずはここから離れて、どこかに連絡を……」

苛立ったように富田が言ったその時、泰生の、正確には悠斗のジャケットのポケットから明るい音楽が鳴り響いた。「電話ですよ」何事かという風な顔をする泰生に富田が伝える。「出た方がいいと思いますが」

「何だ!」

あたふたと携帯を操作し、電話に出た泰生は怒りを隠しもせずに通話口へと叫ぶ。傲岸不遜なその声に、富田がチッ、と舌打ちした。

『おい! 俺だ、俺! 俺だろ!? 俺は今何やってるんだ、俺! どこにいる俺』

「誰だお前は! 切るぞ!!」

間髪置かずに電話の向こうから叫び返してきた珍妙極まりないセリフに、泰生も負けじと叫んで通話終了ボタンをタップする。その行動に目を剥いた富田が「かけ直せ!!」と激昂したのに、成り行きを見守っていた学生及びそのポケモン達はビクリ、と各々の身体を震わせたのだった。





キィィ、と音を立て、森田の運転する車カラオケ店の駐車場に停まる。平日の夜とはいえそこそこ繁盛しているらしく、駐車場は三分の二ほど埋まっていた。隣に停まった車の上で寝ていたらしい、ニャースが軽やかに飛び降りて暗がりへ消える。
自分の携帯にかけた電話は一度目こそ酷い態度で切られてしまったが、程なくしてかけ直されてきたものとは話がついた。電話口の向こうで話しているのは友人の富田で、落ち着いたその口調に、どうやら自分の身体は無事らしいことが伺えて悠斗はホッとした。が、同時に、「ややこしくなるから僕が話をしましょう」と代わってくれた森田に電話を渡すなり「おい、森田か!? 今どこにいる!」と偉そうな声が響いてきて、最悪の予想は現実となってしまったであろうことに絶望したのもまた事実である。

とにかく通話の相手と話をつけて、いや、正確に言うと話をつけたのは森田と富田だが、悠斗はタマ大近くのカラオケ店に来ていた。『カラオケ BIG ECOH VOICE』の文字列と、暑苦しい感じのバグオングのイラストが並ぶ看板をくぐって店内に入る。「連れが先に来てるはずでして、はい、富田という名前で入ってると思います」手早く受付を済ませてくれた森田の後について、「じゃあ行きましょうか、泰さ……じゃなかった。悠斗……くん?」未だに混乱したままの彼と共に店の奥へと向かう。

「なぁ、アレって羽沢泰生だよな!?」
「やっぱり! だよねー! え、マジびっくりなんだけど!? ツイッターツイッター……」
「バカ、そういうの多分ダメなやつだろ? プライベートだよ、プライベート」
「あ、そうか。でも意外ー、あの羽沢もカラオケなんか来るんだねー」

本人達はないしょばなしのつもりらしい、一応落とされた声が悠斗の背中から聞こえてくる。その会話に、やはりこの姿は自分だけの見間違いなどではないのかと悠斗の気は一段と重くなった。「いやー、なんというか、泰さんと一緒にカラオケとか変な感じだなー。あ、泰さんじゃない、のか……?」沈黙に耐えかねたらしく、一人で喋っている森田も調子が狂っているようだ。

「あ、ここです。202号室、ソーナンスのドア」

突き当たりにある部屋の扉を指差して森田が言う。ソーナンスの絵札がかかったそれを目の前にして、悠斗は一瞬だけ躊躇った。開けた先に待っているのは、きっと考え得る限りで一番の絶望だろう。背を向けて引き返したい気持ちがないかと問われれば、それは嘘になる。
しかしそうしたところで何も解決するわけではなく、悠斗は仕方無しにドアノブへと手を伸ばす。節くれ立った右手に一度深く呼吸をし、ええいままよ、と勢いよくノブを回した。



「…………俺、だ」


「……誰だ、……お前は」



そして足を踏み入れた、狭い個室。そこにいたのは――ある程度予想していたものではあるが、それでも実際目にすると受け入れがたい――そんな光景だった。

「おい、お前は誰だ!? それは……それは俺の身体だ! 返せ、今すぐにだ!」

「そっちこそ返せよ! どうせお前なんだろ? 今も、さっきの電話も。あんな偉そうな話し方する奴、お前しかいないからな」

「お前とは何だ! 偉そうなのはお前の方だ、まずは名を名乗れ! 自己紹介はトレーナーの常識のだろう!?」

「トレーナーなんかじゃねえよ。……わからないのかよ、本気か? 見りゃわかるだろ、俺とお前がこうなってて、お互いこの状況。考えられるのなんて、」

その先を悠斗が言うよりも先に、悠斗の見た目をした誰か、と言ってもこんな不遜な態度を取ってくる相手は悠斗が知る限りそう何人もしないが、とにかく悠斗の身体が息を呑んだ。「まさか」ようやく気づいたらしいそいつが唖然とするのを見て、自分は驚く時こんな顔をするのか、と悠斗は場違いな感情を抱く。
「と、いうことは」悠斗の身体が言った。「じゃあ、俺は…………俺と、お前は」血色を失いかけた唇を震わせて、悠斗の身体が呟く。「悠斗、……お前と俺は、入れ替わったのか?」

「…………そういうことになるな」

「ちょ、ちょっと、待ってくださいよ!」

フシデでも噛み潰したような顔で答えた悠斗の声を遮って、ぶっ飛んだ会話に取り残されていた森田が慌てて口を開く。互いに叫び合う、仲の悪さは先刻承知な親子を不審に思いつつも邪魔しない方が良いだろうと考え、「あ、初めまして、羽沢泰生のマネージャーの森田良介と申します」「どうも。悠斗の親友です、富田瑞樹です」「そうか、悠斗くんの!」などと、先に個室にいた青年と自己紹介などをしていたのだが、いよいよ会話が聞き捨てならなくなってきたのだ。

「待ってください、『入れ替わった』……!? 何を言ってるんですか、親子揃って。いつからそんなに仲良くなったんです? まあ、それは結構なことですけど……」

無理に作ったのであろう苦笑を浮かべ、そんなことをのたまう森田に、羽沢父子は揃ってお互いの顔に嫌悪を示した。「こんな馬鹿げたことを俺がすると思うか」「そうですよ、冗談にしてももっとマシな冗談を言います」二人が苦々しげに否定するも、あまりに非現実なその言い分に森田は呆れ混じりに溜息をつくだけである。泰生は勿論、悠斗のことも十年ほども前からの付き合いでよく知っているが、両者ともこんなことをする性格では決してない。「お二人ともなかなか似てるとは思いますが」適当な講評を述べながら、彼が頭を掻いた。「急にボケるのは心臓に悪いんでやめてくださいよ」
しかし、泰生(もっとも外見は悠斗だが)の横でやり取りを見ていた富田は、森田と違って神妙な顔つきになっていた。「何故こんなことになってるのかはまではわかりませんが」泰生と、悠斗を交互に見比べて富田が静かに言う。

「悠斗たちが言ってることは、冗談でも嘘でも勘違いでも無いでしょう。2人の言う通り、こっちが悠斗で、こっちが羽沢泰生。お互いに入れ替わってるんですよ」
「はっ…………え、あ……えええ!?」
「おい、悠斗。なんでこいつはこんなに飲み込みが早いんだ」
「富田は霊感というか、そういう類のモノを察する力があるらしいからな。だからわかったんだろ。霊とか呪いとか、前からよくそんな話聞いてるし」

「いや、今はそんなことはどうでもいいでしょう!!」

ぴ、ぴ、と羽沢親子を指し示した富田を見遣って話す二人の会話を遮り、森田はバン、とテーブルを叩いた。ビニールがかけられたままのマイクがカタカタと音を立てる。どうでもいい、と言われた富田が前髪の奥の眉をひそめたが、そんなことにまで気を回せ無い森田は丸顔に冷や汗を浮かべて叫ぶ。

「そんな馬鹿なことが……ねぇ、泰さん。そろそろ悪ふざけはやめてくださいよ、それに、こんなお茶目なことは僕の前だけじゃなくて事務所のみんなにも見せてあげてください。みんな泰さんのこと怖が……」
「うるさい!! 俺はこっちだと言ってるだろうが!!」

引きつり笑いで悠斗(見た目は泰生であるが)の肩などを軽く叩いた森田を、泰生が鋭く怒鳴りつけた。その声は悠斗のものであり、高いがとてもよく通る、音圧の高いそれに森田はびくりと震えて動きを止める。泰生の低い声にもなんとも言えない畏怖があるが、日々歌うことに熱を注いでいるだけあって、悠斗の声には恐ろしいまでの迫力があった。
アーボックに睨まれたニョロモ状態の森田を呆れたように一瞥し、富田が「じゃあ、確かめてみましょうよ」と提案する。「悠斗じゃなければわからないような質問に、こっち……悠斗のお父さんに見えるこっちが答えられて、その逆も出来たら。本当に入れ替わってるってことになるでしょう」

「あ、なるほど……それは名案ですね」
「よし、富田、何か質問してみろ。なんだって答えてやる」
「じゃあ……悠斗の好きなバンド、『UNISON CIRCLE GARDEN』の結成日」
「2004年7月。ただ、今の名前になったのは9月25日」
「今年5月にリリースされたシングルはオリコン何位までいった?」
「週間5位。で、それはCD。ダウンロードは首位記録だ」
「ドラムの血液型」
「Aだ!」
「…………全問正解。覚悟はしてたけど、最悪」
「すごい……確かに泰さんじゃこんなことわかるはずないですね」

自信満々に答えきった悠斗に、微妙な表情の富田が溜息をつく。そんな彼らを他所に感心する森田を見て、黙って話を聞くしかなかった泰生が「おい、森田!」と不機嫌な声をあげた。こんなことわかるはずないと言われたのが嫌だったのか、自分の知らないことを自分がぺらぺらと答えているのが気に食わなかったのかはわからないが、彼は怒った表情のままで言う。「俺にも何か聞いてみろ、こいつの知らないようなことを」
どうせポケモンのことなどわかるまい、そう言い捨てた泰生に、悠斗は明らかにムッとした顔をしたが黙っておくことにする。「わかりましたよ……では、」森田が少し考えてから口を開いた。

「泰さんの顔が怖いという理由で、獣医の里見が泰さんにつけたあだ名は?」
「わるいカメックス」
「泰さんが怒ってる様子がこれに似てると、酔った重井がうっかり口を滑らせたのは何?」
「……げきりんバンギラス」
「泰さんを勝手に敵視してる『週間わるだくみ』の先々月号で、泰さんをこき下ろした記事の見出しに書かれてた悪口は?」
「…………『特性:いかくで相手ポケモンのこうげきをダウン、手持ち以外での戦闘は反則ではないのか!?』」
「泰さんの……」
「馬鹿野郎!! なんでそんなくだらんことばかり聞くんだ、もっとあるだろ、バトルの戦法とかトレーニングのコツとかスパトレの問題点とか俺がよくわかること!!」

耐えきれずに激昂した泰生から耳を塞ぎつつ、「だって泰さんといえばこういう感じですから」などと森田は言葉を濁す。その横で、そんな酷い言われようをされている見た目を今の自分はしているのか、と悠斗が絶望に暮れていたが誰も気づかなかった。

「………………なるほど。確かに、これは泰さんですね。じゃあ、お二人はお二人の言う通り本当に……」

森田はそこでようやく、泰生と悠斗の精神がお互いに入れ替わってしまったらしいこと自体には、なんとか納得したらしい。しかし当然それだけで終わるはずもなく、「いや、でもやっぱり待ってくださいよ!?」と何度目かの叫び声をあげる。

「人の……なんだ、ええと……心? それが入れ替わる? そんな、ドラマや漫画みたいなことが本当に起こるわけ、」
「起こるんですよ。勿論、真っ当な方法というわけじゃありませんが」

そもそも、こんなことに真っ当なやり方自体無いんですけどね。泰生と悠斗から森田へと視線をスライドさせ、すっと口を挟んだ富田は続ける。

「端的に言うならば呪術の類です。誰かが悠斗達のことを呪ったんですよ、二人からそんな気配がかなりしてますから。どういう呪いかは僕じゃわかりませんけど」
「何だ富田。『そんな気配』って?」
「呪われてるなー、とか、祟られてるなー、とか。あとは憑いてるなぁ、みたいな気配のこと。でもおかしいな、悠斗は前からずっと、一度もこんな気配しなかったのに」
「そうなのか?」
「そうだよ。多分体質というか、生まれ持った何かで、そういうのが通用しないんだ。……だから、全く通じないタイプだと思ってたんだけど。一体どうやって」

富田の話に必死について行きつつも、森田は「泰さんにも通用しなそうだな」ということをぼんやり考えた。

「いや、それは今置いておきましょう! 呪われた……って、誰に! 何の目的で! それで……どうやって!!」

頭を抱えて叫ぶ森田に富田が、結局聞くんじゃないか、と言いたげな目をして口を開く。

「悠斗の体質をどう破ったのかまではすぐにわかりませんが、呪術自体はそれほど難しい話でもありません。もっとも普通に違法まっしぐらですし、自分も何かしら犠牲にしないといけないから、表立っては言われてませんけど」
「え、そうなの……?」
「図鑑に書いてあるでしょう? ゴーストタイプやあくタイプ、エスパータイプは特に多いですけど、本当にこんなことするのかって思うような、恐い能力。ゲンガーとかバケッチャとか……」
「ああ、あの……命を奪うとかのヤツですか?」
「はい。実際のところ、アレは『こういうことが出来るのもいる』というだけで、その種族全てのポケモンがああするわけではないですけどね。そうだったら堪ったものじゃない……けど、『それを可能にする』ということは出来るんです。ポケモン自身だけでは引き出せない潜在能力を、外から引っ張りだすようなものでしょうか」

ポケモンを使った呪術と言えばわかりやすいでしょうかね、という富田の説明に、三人のうち誰かが生唾を飲む音がした。「心を交換するような力を持ったポケモンがいるかどうかは今すぐ思い出せませんから、後ほど専門家にかかりましょう」淡々とした声に一抹の焦りを滲ませて、富田は言う。

「ポケモンが自分で勝手に力を使うのとは話が違いますから、ある程度その力の矛先を操作することも可能です。どう使うのか、誰に向けるのか……昔から使われてきた術ですね」
「使われてきた、って……じゃあ、それは誰にでも出来るってことなんですか!? 泰さんのシャンデラも図鑑上ではなかなか怖いポケモンですけど、あのシャンデラの力を操って、誰かを呪い殺すみたいなことも!?」
「不可能とは言いません。ただ、素質や技量が必要ですから『誰にでも』というわけではありませんよ。サイキッカーやきとうしなどは、ある程度、そういう能力を持った人が就けるトレーナー職です。元の力は弱くても修行でどうにかなる人もいるにはいますが、生まれつきのものもありますから……」

そこで富田は言葉を切ったが、森田は彼が何を言わんとしたかを大体察する。富田の視線の先にいる泰生や悠斗はわかっていないようだったが、シャンデラのトレーナーである彼、もっと言うなら彼ら親子にそんな力が備わっているようには見えなかった。物理重視のノーマル・かくとう複合タイプのイメージを地でいくような男なのだ、いくら修行しようとしたところで、呪術の『じ』の字も使えないだろう。
生産性の無い思考は隅に頭の追いやって、森田は「それはわかりましたが」と話題を変える。

「最悪の奇跡っていうわけじゃなくて、下手人がいるってことは、まあ、理解しました。でも誰が? こんなことをしたのは一体誰なんですか?」

誰に向けたともつかない森田の問いに、泰生以下三人は黙り込む。各々の脳内で各々の交流する者達の顔が次々に浮かんでは消えたが、人の精神を入れ替える呪術などという芸当が使えそうな存在に心当たりは無かった。

「直接やったわけじゃなくても、専門家に依頼して呪いをかけさせたという可能性もなくはありません」
「どうせお前がどっかで恨みでも買ってきたんだろ。バトルもそうやって偉そうな態度でやってんなら、嫌われて当然だぜ」
「おい、なんだ悠斗その口の利き方は――」
「泰さん、今は喧嘩してる場合じゃないですよ。それに悠斗くんも。大体、泰さんくらいの活動してたら恨みの一つや二つ、十個や百個、無い方がおかしいですって」
「それは多すぎでしょう……まあ、確かに。俺だって全く、世界の誰からも恨まれてないかって言われたらそれは違うしな」

諦めたように頷きながら悠斗は言う。プロを目指して音楽をやっている以上、ライバルの存在は当然のものだ。そのバンド達が、悠斗らを疎んでこんなことを仕掛けてくる可能性もゼロではないだろう。
「でも、そんなこと言ってたら埒があきませんね」森田が『お手上げ』のポーズを取る。「泰さんや悠斗くんを恨んでそうな人を全員調べていくなんて、ヒウンシティで特定のバチュル探すようなものですよ」

「それは、後で専門の人に頼みます。知り合いにその筋がいるので、調査は任せた方がいいでしょう。それよりも」

森田の言葉に割り込むようにして、富田が声を発した。

「今考えなきゃいけないのは、悠斗と、羽沢さん。元に戻れるまではお互いがお互いのフリをして、お互いの生活をこなさないといけないってことです」

富田の指摘に、羽沢親子と森田の表情が固まる。あまりの衝撃から意識を向けられないでいたが、確かに一番重要なことだった。しかし泰生と悠斗は、職業トレーナーと学生という肩書きの違いから始まって、何もかもが正反対の日々を送っていたのだ。それを入れ替えて過ごすなど、不可能といっても過言ではない。
「で、でも」黙りこくってしまった親子の代わりに森田が焦った声で反論する。「こんな一大事なんですから、警察とかに言うとかするべきなんじゃないですか。そんな、隠すようなことしなくても……」彼の言葉に、しかし富田は苦々しく首を横に振った。

「勿論、そうするのがベストです。でも、信じてもらえるかわかりませんし……それに、タイミングが」
「タイミング?」
「今、そんなことが明るみに出たら俺たちの……ライブ出演をかけたオーディションが来月あるんですけど、当然、それは無理になってしまいます。羽沢さんも同じですよ。リーグの申し込みはもう終わってるんでしょう? 出場資格の無い悠斗が中にいるだなんてことになったら、あるいは悠斗の見た目をしていたとしたら、リーグに出られませんよ」

畜生、と泰生が歯噛みする。自分の外見をしたその様子を見遣り、悠斗は内心で悪態をついた。
富田の言う通り、きっと自分達にとれる手段はそれしか無いのだろうという、漠然とした、かつ絶望的な確信が悠斗にはあった。きっと、犯人の狙いはそこなのだ。殺してしまったりすると大事になって足がつくだろうから、この、悠斗達自身が隠してしまえば逃げ切れるであろう類の攻撃を仕掛けてきたのだ。それでいて被害はかなり大きく、同時に隠さざるを得ない時期である。非常に狡猾、かつ悪質な罠であった。

「やるしか無いだろ」低い声で呻いた悠斗に視線が集まる。「俺と、こいつとで。互いの生活ってのを」

「何も出来なくて共倒れなんて、こんなことしたヤツの思う壺にはなりなくねぇよ。少なくとも、俺達にある大きな予定まではあと一ヶ月あるんだ。それまでには戻れるだろうし、もし戻れなかった時に備える意味でも、それぞれにならないといけないだろ」

「だが、悠斗。お前わかっているのか? 俺はポケモントレーナーだ。ポケモンと力を合わせ、共に進む人間なんだ。ポケモンが嫌いだとか、そんなことを言ってるお前に務まるわけないだろう、甘えたことを抜かすな!」

「そんなこと言ってる場合じゃねぇんだよ!!」

叫んだ悠斗に、泰生は思わず言葉を失った。凄んでみせる顔は自分のものではあったが、言いようのない迫力に満ちており、彼は不本意にも日頃自分に向けられる不名誉なあだ名の数々に同意せざるを得なかった。

「それは俺だってわかってる。……けど、他にどうしようもないんだから、やるしかないんだ。俺がお前みたいに、ポケモンと協力してバトルをする。お前は俺みたいに、ポケモンと極力関わらない生活をする。そうするしか、ないだろ……」

「…………お前に、出来るのか。俺の生活が」

「何度も言わせるな。やるしかないんだよ。お前こそ、俺の顔で、俺の顔に泥塗るようなマネするんじゃねぇぞ」

どうにか話はまとまったらしいものの、未だ睨み合ったままの親子を眺め、森田は重く嘆息した。この、ザングースとハブネークもかくやというほどの仲の悪さである彼らが久方ぶりに交わしたであろうまともな会話がこんなものになるだなんて、一体誰に予想がついただろうか。
疲れきった顔の森田の横で、富田が思案するような表情を浮かべる。

「じゃあ、さしあたって、悠斗には森田さん、羽沢さんには僕がついてサポートするということでいいんじゃないですか? 森田さんは羽沢さんのマネージャーですから一緒にいて不自然ではありませんし、僕も悠斗と授業、サークル同じですから」
「どうするよ。このこと、二ノ宮とか有原に言った方がいいかな」

尋ねた悠斗を富田は手で制した。「余計な混乱招くのもよくないし、今のところは黙っておこう」その言葉に森田も頷いた。「ですね。とりあえずは、僕たちだけに留めておきましょうか」

「問題はポケモン……泰さんのポケモン達にどうわかってもらうか、ですね。他の人達はごまかせても、こっちは……」

言い淀みながら、森田が悠斗のベルトにセットされたモンスターボールの一つを取ってボタンを押す。中から現れたのは先ほどバトルを中断されたシャンデラで、カラオケボックスなどという、生まれて初めて(ゴーストポケモンである彼に『生まれた』という表現をするのが果たして適切か否かということは今は考えないことにする)訪れる場所を物珍しそうに見回していた彼は、その視線が一点に定まるなり浮遊する身体をびくりと震わせた。

「なっ……どうしたミタマ! 確かに今はこの見た目だが、俺だ! お前のトレーナーの泰生だぞ!?」

その視線の先、じっとりとした目を向けられた泰生が物凄く狼狽えた声をあげる。しかしシャンデラからしてみれば今の彼は悠斗――日頃『泰生のポケモン』という理由だけで自分を目の敵にしてくる嫌な奴――なのだ。つつ、と距離を置くような動きで天井に逃げていったシャンデラに、泰さんはこの世の終わりかのような顔をする。
「ミタマ、あのですね、今の泰さんは悠斗くんで、悠斗くんが泰さんなんですよ」ダメ元で森田が説明してみるが伝わるはずもない。しかしトレーナーである泰生(中身は悠斗だが)が苦い顔をして自分を見てくることなど、なにやら様子がおかしいことは察したらしく、シャンデラは困った風に皆を見下ろして炎を揺らした。

「なかなか理解はしてもらえないでしょうね……お二人には、大変ですが、ポケモン達の調子を狂わせないように振舞っていただかないと……」

「失礼しまーす、お飲物お持ちいたしましたぁー」

と、間延びした声でドアを開け、アルバイトと思しき若い女が個室に入ってきた。慌てて口を噤んだ悠斗達に、「ちょっとお客さんー、当店はポケモンご遠慮いただいてるんでー」と言いつつ、雑な手つきでテーブルに飲み物を並べていく。そそくさとシャンデラをボールに戻す森田の脇を通り、ごゆっくりどうぞー、という言葉を残して彼女は素早く出ていった。
ガチャ、とドアが閉まる音がするのを確認して、誰からともなく溜息をつく。今から待ち受けているであろう数々の苦難がどっしりと背に重く、四人はそれぞれ受付時に頼んだ飲み物に手を伸ばした。

日頃好んで飲んでいるブラックコーヒーに口をつけた悠斗は、コップを傾けるなり激しく咳き込む。口内を駆け巡った苦味、いつもならばこれほどまでに強く感じないはずのそれに目を白黒させていると、「ああ、悠斗くん、これをどうぞ」ウーロン茶を飲んでいた森田が鞄から取り出した何かを差し出してきた。どうやら自前で持ち歩いているミルクとスティックシュガーらしいそれを、「泰さんは甘党ですから。ミルクを3つと、砂糖2本。いつもそうです、おくびょ……じゃなかった、ともかく、辛いのも駄目なんで」と言いながら悠斗へと手渡す。
「身体に染み付いた感覚はそのままなんでしょうね」父とは真逆で、甘いものが苦手な辛党の悠斗の身体でココアを飲み、同じく咳き込んでいる泰生を横目に富田が言った。彼の持ったコップの中で、コーラの炭酸の泡が弾けては消えていく。「好みとは別で」そう呟いた森田の、前髪越しの視線が、テーブルの上のモンスターボールに向けられたことには誰も触れなかった。

「しかし、エライことになってしまいましたね」

力の無い、森田の言葉がカラオケボックスへ溶けていく。テレビから流れてくる、場違いに明るいアーティスト映像に掻き消されそうなそれに答える者がいなかったのは、不本意な賛同からくる沈黙であったのは言うまでもない。
「俺達……どうなっちゃうんだろうな」不安気にそう漏らした悠斗の肩を、富田がグッと掴む。

「安心しろ。悠斗が困ったら俺がどうにかするし、羽沢さんのことも俺が見てるから。悠斗は心配しなくていい」

「瑞樹…………」

「そうです。僕も泰さんのため、精一杯サポートしますから!」

熱い友情の言葉を交わす二人に便乗し、森田も「ねっ、泰さん」と笑いかけた。が、それは泰生の見た目をした悠斗であったようである。「馬鹿森田。そっちは俺じゃない」悠斗の姿である泰生の冷たい声を横から飛ばされた森田は、「すみませんでした」と小声で言いながら、三者の突き刺さるような視線に身体を縮こまらせたのであった。


  [No.1379] 第三話「前途多難」 投稿者:GPS   投稿日:2015/11/07(Sat) 20:53:04   36clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

「今日のスケジュールは……とりあえず午前いっぱいは事務所内でシングルバトルのトレーニング。午後から自主トレですが、これは外のコートに行く予定です。で、十七時から事務所のミーティング……わかりましたか?」

「あ、ええ。なんとか」

どこかぎこちない動きで064事務所の廊下を歩きつつ、悠斗は森田の説明に頷いた。
悪夢のような、いや悪夢の方がまだマシであろう出来事に見舞われた翌日。もしやするとアレは何かの間違いだったのではないか、と淡い期待を抱いていた悠斗だが、顔を洗いにいった際に鏡に映った父親の姿、および起床した自分に気がついた母親の反応でその思いは粉々に打ち砕かれた。

羽沢家の一人息子である悠斗は、泰生が家をほとんど顧みないこともあって、母である真琴と割合仲の良い母子であったのだが、今朝の彼女が悠斗に向けた反応の冷たさといったらない。いつもであれば「おはよう」の言葉に続いて二言三言の会話くらいは交わすのだが、朝に悠斗に投げかけられたのは「ああ、早いのね」という冷たい声と「朝食はそこにあるから」とのすげない台詞だった。その、いつも自分が接している相手と同一人物とは思い難い素っ気なさに悠斗は心が折れそうだったが、今の自分は真琴にとって『最愛の息子』ではなく『冷戦状態の夫』であることをどうにか思い出してその場を凌いだのである。人のことは言えないものの、両親の夫婦関係のあまりの悪さに頭が痛くなったのもまた事実だが、今はそれどころではないため考えないことにした。

「でも、良かったですよ。この前みたいに取材あったり、マルチの練習だったらたくさんの人と話すから危うかったですけど……シングルと個人トレーニングならなんとかなるでしょう」

刺々しいオーラを放つ真琴と一緒にいるのが気まずくて、悠斗は泰生、自分の身体を使っている父親が起きてくるよりも前に家を出てしまった。この一大事は母親にも伝えるべきだと彼は思ったのだが、それを止めたのは今汗を拭いながら話している森田と、今頃大学で泰生といるはずの友人、富田である。親子それぞれと付き合いの深い彼らは、羽沢家がどうにもギクシャクしているのも知っているから、話が余計にこじれるのを避けたかったのだろう。
ともかく、今は泰生として振舞わなくてはならない。悠斗は気持ちを切り替えて前方を見据える。これは自分のためでもあるのだ、しっかり『羽沢悠斗』を泰生にやってもらうには、自分も自分の役目を全うしなくてはいけないのである。

「でも不安ですよ。バトルで戦う相手の人に気づかれませんかね」
「ああ、それは大丈夫! 戦うのは相生……昨日泰さんと悠斗くんが入れ替わった時、マルチのトレーニングで組んでた奴ですが、自分のことでいっぱいいっぱいになるタイプなんでそうそう気づきませんよ。実力はあるんですけどメンタルが弱くて、あと泰さんを個人的に怖がってますんで」
「はぁ……」
「むしろ心配なのが相生のマネージャーやってる加藤さんですよ。ベテランだし肝も座ってるから、今の状態では『羽沢の様子がおかしい』ことを察しかねません」
「え、じゃあどうするんですか! ヤバくないですか」

強面を引きつらせて焦る悠斗に、森田は「ご心配なく」と指を振った。

「ですから、あまりいて欲しくないなと思いまして。先程、彼奴のコーヒーにねむけざましを三つほどぶち込んでおきました。きっと今頃……」

「あ! あ、あの、羽沢さん……と森田さん! おはようございます!!」

森田が最後まで言い終わらないうちに、廊下の角から出てきた青年が、裏返り気味の声で頭を下げた。「ああ、相生くんおはよう! 今日はよろしく」森田の言葉に、悠斗も泰生らしさを意識しつつぶっきらぼうに会釈する。
相生と呼ばれた、件の対戦相手は悠斗とそう歳の変わらない、爽やかな好青年だった。清潔感のある風貌と整った目鼻立に悠斗は素直に羨望の混じる憧れを覚えたものの、しかし悠斗(つまり相生からしてみたら泰生である)に対し明らかに怯えきっているその様子で、せっかくのイケメンも形無しであると思わざるを得なかった。そうしょく系だとかフェアリー系男子だとかの需要はあるにしても、これではもはや、それすら通り越して単なる情けない奴である。泰生のことを考えると気持ちはわかるとはいえ、流石に肉親をここまで恐れられては悠斗も複雑な心境であった。

そんな悠斗の気持ちなどわかるはずもなく、相生は怯えたままの口調で続ける。

「あの、申し訳ないんですけど……加藤さん、なんか急に動悸が止まらないとかで医務室行っちゃって、今からのトレーニング来れないみたいなんです……」

……ねむり状態のポケモンを即時覚醒させる『ねむけざまし』。そんなものを三つも四つも、しかも人間が摂取したら血圧上昇もするだろう。

人畜無害そうなツラをしておいて恐ろしい男である。「ええ! 大丈夫かな、加藤さん。あとで僕も様子見にいってみますね」何食わぬ顔で、相生を心配するようなことをのたまっている森田を横目で見て、悠斗は内心で戦慄した。





「ここが大学か……」

一方、タマムシ大学構内。昨夜「ジャージで大学行くな、これとこれとこれを着てこれ被ってけ」と悠斗にコーディネートされた今時風の服に身を包み、今や男子大学生である泰生は大きな学舎を見上げて呟いた。

あの信じがたい出来事から夜が明け、洗面所で現実を再認識した後、泰生が一番に驚いたのは妻の態度である。妻の真琴が一人息子の悠斗を可愛がっていたのは承知の上だし、その悠斗の姿を今の泰生はしているのだから当然と言えば当然だが、いつも真琴が泰生に向けるぜったいれいどのそれとは大違いだったのだ。「おはよう、悠斗」という言葉と共に浮かべられた柔らかな笑顔など、一体いつから泰生の知らぬものとなっていただろうか。どうやら先に家を出てしまったらしい悠斗のいないテーブルで、朝食を一緒に食べながら和やかに会話を交わしていると(もっとも泰生のぎこちなさは否めないが)、在りし日、彼女と恋人であった時のことを思い出さずにはいられなかった。

「侵略しにきた異世界人みたいなこと言ってないで、早く歩いてください。なにぼんやりしてるんですか」

そんな、うっかり感傷に浸っていた泰生に冷たい声が投げかけられる。その主は悠斗の友人、富田であり、この衝撃的事実を共有する数少ない一人として泰生のサポートについているのだ。長い前髪で隠れた目元や淡々とした喋り口は、泰生とはまた違う意味で無表情、無感動な印象を与えるが、しかし今の彼からは明確な苛立ちと不躾さが読み取れる。険悪な両目と視線がぶつかった泰生は自分のことを棚に上げ、「なんだ」と不機嫌な声で返した。

「初めて見るんだから仕方ないだろう。何故、そんな失礼な口を聞くんだ」
「失礼にもなりますよ。いいですか、羽沢さん、あなたには悠斗のフリをしてもらうんです。悠斗は大学見上げて『ここが大学か』なんて言いませんし、そんな凶悪犯みたいな表情もしませんからね。悠斗のイメージが損なわれるようなことがあったら困りますし、もしそうなったら」

富田はそこで言葉を切る。泰生――見た目は悠斗だが――よりもやや上にある二つの瞳が、得も言われぬ光を放って泰生を見下ろした。その眼力に思わずひるみ状態に陥った泰生は、ふん、と面白くなさそうな顔をしてそっぽを向く。
泰生が黙ってしまったのを見やり、富田は「まあ、俺もですね」と相変わらずの冷たさを保ちつつ口を開く。

「出来る限りの協力はしますよ。悠斗が困るようなことにはならないよう……元に戻れたときに、悠斗が苦しむ羽目になんてならないために。そのためには何だってするつもりでいますから」
「はっ……その心意気だけは立派だな。森田にも見習ってほしいところだ」
「悠斗は俺の親友ですからね。あ、その笑い方はやめてください。悠斗は男女先輩後輩教授事務員その他誰とでも仲良くなれる、明るい人気者として通ってるんですから」

早速指摘を入れてきた富田に、泰生はげんなりした顔をする。が、これも自分のリーグ出場のため、『羽沢泰生』を悠斗にしっかりやってもらうためだと言い聞かせ、表情筋をリラックスさせるという慣れないことをどうにかやってのけた。
と、そんな二人の横を数人の学生達が通っていく。取り留めのない会話をしながら走っていく彼らと共に、彼らのポケモンだろう、ガーディやニャルマーも楽しそうに駆け抜けた。その微笑ましいポケモン達の様子に泰生はつい心と口許が緩んだが、「でも大のポケモン嫌いとしても通ってるんですよ」とすかさず横槍が入ったのは言うまでもない。





「では、羽沢泰生と相生翼の対戦を始めます!」

064事務所のトレーナー達が集まってそれぞれバトルを繰り広げるコートで、ジャッジ役の森田が号令をかけた。何本かの白線を挟んだ向かい側にいる、緊張のせいで顔が面白いくらいに白くなってしまった相生を見据え、悠斗は心の中で重い溜息をついた。ポケモンバトルなんて、中学の授業の一環でちょろっとやったきり一度たりともしていない。どうにも情けないとはいえ相手はプロのトレーナーなのだ、いくら泰生のポケモンだからといって、まともに戦えるのだろうか。そんな不安が悠斗の胸を渦巻く。
しかし一番大変なのは自分ではなくポケモン達なのだ。せめて何が起きているかだけはわかっている自分がしっかりしなくてどうする――そんな風に言い聞かせ、気を引き締めた悠斗はキッと前方を睨んだ。

「では……両者、始め!」

掛け声と同時にボールへと手をかける。そのまま天井へ向けて大きく振り投げる、真向かいの相生が血の気の無い顔をしつつもスマートに投球したのは流石というべきか。対峙するトレーナー二人の間に、紅白の球体から放たれた閃光が舞う。

「えー……いけ、ヒノキ」

悠斗が投げたボールから飛翔し、堂々たる登場をかましたのは真紅の両翼が自慢のボーマンダだった。ヒノキと名付けられたこのメスの龍は、タツベイだった頃から泰生が手塩にかけて育てた懐刀である。勇ましい咆哮をコートに響かせ、天井付近を舞う彼女はまさしく、今から始まるバトルに血湧き肉躍るといった感じだ。

とはいえ。悠斗は内心冷や汗を流す。昨夜、今朝とボーマンダとコミュニケーションを図ったのだが、やはりイマイチ困惑しているという様子だったのだ。シャンデラと同じで、一応見た目で判断しているものの『何かおかしい』というのはわかっているようで、悠斗が呼んでも、泰生が声をかけても、そのどちらにも戸惑っているらしかった。
こんな状態で乗り切れるのだろうか。悠斗はまたしても不安に陥ったが、悠然と飛ぶボーマンダの姿にその気持ちを振り払う。とれる方法は他に無いのだ、やってやれ、ええいままよ。と、割合思い切りの良い彼は拳を固める。

「よろしく頼むよ、クラリス!」

一方、対する相生が繰り出したのは、昨日のマルチバトルでも戦っていたニンフィアだ。上空から睨みつけるボーマンダの眼光に、可憐な容姿の彼は一瞬気圧されたかのようだったが、すぐに姿勢を正して真っ向から見返した。

ふふん、運が悪かったようだね、相生くん。ハッキリ分かれたタイプ相性に若干安心したのか、僅かに表情を弛緩させた相生に森田は密かな笑みを浮かべる。確かにボーマンダとニンフィアは最悪とはいかずとも相性が悪い、タイプから考えればこの勝負、相生が一歩リードしているように思えるだろう。
――でも、そうはさせないのが泰さんなんだよね!
心の中で大きく胸を張りつつ、森田はそう思う。ドラゴンタイプを使っていればフェアリーで攻められるのは当たり前、対策を練っておくのは基本中の基本。先制して火力で押し切るのも不可能ではないが、抜かれることも少なからずあるため今ひとつ不安が残る。ハンパなフェアリーであればそらをとぶやじしんでどうにかなるにしても、その慢心を許さないのが羽沢泰生である。だからこそ仕込まれたあの技、最悪こおりにも撃てるウェポンなのだ。

(さあ、悠斗くん! アイアンテールでやってしまえ!)

先ほど、悠斗には泰生のポケモン三匹が使う技をしっかり教えてある。複雑な戦法などはまだわからないにしても、とりあえずタイプ相性で考えてこの技しかないだろう。どのみちヒノキのメインウェポンであるドラゴン技は使えないのだ、残る選択肢はこれしかない。

「よし、ヒノキ――」

早速指示を飛ばす悠斗に、飛翔するボーマンダが闘志にみなぎるように身体を震わせた。その後に続く技の名前をボーマンダも、森田も、そして一瞬遅れた相生たちも待ち構え、



「げきりんだ!!」



「ハアアァァァァァァ!?」



そして、一様に耳を疑った。





「あー、悠斗くんおはよー!」
「うーっす、羽沢!」
「おはようザワユー!」

富田に連れられて教室へと辿り着いた泰生は、次々に声をかけてくる学生達に辟易していた。何故若者というのはこんなに騒がしいのか、それも相生など事務所にいるようなトレーナーよりずっとうるさい。この、大学生という種族は、どうしてこれ程までにさわぐのかと、泰生は甚だ疑問だった。
「よー、ゆうくん。元気ー?」そんな泰生に声をかけてきたのは一人の男子学生である。ワックスで固められたヘアセットの逆毛だった様子に、泰生はサンドパンのことを考えた。サンドパンは、あの棘もさることながら真っ黒の吊り目がまたいいものだ。懐くと棘を寝かせてそっと擦り寄ってくるのも可愛らしくてよい。

「ん」

しかしこの男にそうされても何一つ嬉しくないだろう。そう思いながら、泰生は短い撥音――『ん』は肯定の意――をして「問題無い」と短く言った。

「やだ羽沢、何それ! 超笑えるんだけど」

ふてぶてしいというよりは、本物の悠斗との乖離のせいでどうにも演技がかったように感じられるその言葉に、近くにいた女子生徒が大きな笑い声をあげた。声をかけた男も、悠斗らしからぬその様子に「何だよキャラチェンかぁ?」と笑いながらバシバシと泰生の肩を叩く。その隣では終始無言の富田が苛ついたように舌打ちをしたが、そのどれも気に留めず泰生は憮然とするだけだった。不機嫌なその表情は元の身体だったらさぞかし敬遠されたであろう迫力だが、その理由は単純なもので、授業開始が近づくにつれて学生達がポケモンをしまったことが残念だったというだけである。
そうこうしているうちにチャイムが鳴り、「はいはいみんなおはよう〜」と言いながら講師が教室に入ってきた。気の抜けた感じの喋り方をするその男は森田よりも少し若いくらいだろうか、大学で教鞭をとる人といえば皆年季の入った老人である、という固定観念があった泰生は「おい、富田」と横に耳打ちする。

「随分と若いヤツだが、あれも教授なのか? タマムシ大学とはあんな軽薄な男を教壇に立たせる場所だとは思っていなかったのだが」
「滅多なこと言わないでください。別に教授だからってみんな歳いってるわけじゃないですよ、若かろうがチャラかろうが教授になれる人はなれますから。まあ、あの人は教授じゃなくて外部から来てる講師の方ですけど」
「講師? なんだ、大学ってのは研究をするわけじゃないのか?」
「そういう時間もありますけど、この授業は一般教養の授業なんです」

「テキストはこれで、悠斗は確か……ああ、これです、青いファイルにノート入れてます」と、富田の小声に言われるままにして鞄を漁る。指示通り取り出したテキストには、『数学の世界へようこそ』という面白みゼロのタイトルと、ハイセンスな感じの幾何学模様が描かれていた。

「単位の関係で、こういう授業も取らなきゃいけないんです。まあ、理系の専攻じゃないですし、内容は中学……いっても高校一年レベルですから。ES対策も兼ねてて、その程度ですよ」

ふうん、と、富田の説明をほぼほぼ聞き流した泰生は曖昧に頷く。あれほど騒いでいた学生も結構な静けさとなっており、パラパラとめくったテキストが立てる微かな音もしっかり聞こえた。
「はい、じゃあ五十二ページからね〜」相変わらずふわふわした声で講師が授業を始め、「じゃあ、ええと……羽沢君、解いてみて」と泰生を指名した。よりにもよって、と一度は頭を抱えかけた富田だが、問題を見て思いとどまる。『Aさんは毎分60mの速さで歩いて家を出た。その15分後にAさんの弟が自転車に乗り毎分180mの速さでAさんを追いかけたとき、Aさんの弟は家を出て何分後にAさんに追いつくか。』……速さの基礎が出来てれば簡単に解けるだろう。講師が適当に悠斗を指したのも、それほど時間のかからない問題だと踏んでのことだ。
まあ、考え方などを問う厄介なところであてられるよりもマシである。富田はそう考え、小さく溜息をついて自分のテキストに視線を落とした。別に答えるだけだし、こんな心配取り越し苦労に――


「わからん」


「………………え」



が、取り越されなかったようである。
はっきりと言ってのけた泰生に、講師も他の学生も、そして富田も目をぱちくりさせて彼の方を見た。


「自転車など使うより、ひこうポケモンに乗って追いかけた方が速いのではないか?」


そして視線を一点に集めた泰生は何も臆することなく、自分の信じるままを堂々と答えたのであった。





予想だにしない発言により、コートの全員が時間を止めた中、最初に動いたのはボーマンダだった。
普通に考えてありえない指示だったが、しかし彼女にとっては唯一無二の主人の命令でもある。一瞬迷いはしたもののすぐにその身体を翻し、ボーマンダはニンフィア目がけて急降下していく。咆哮と共に全身から放たれた、熱量を持った殺気を纏って突進するその様子は逆鱗というよりもむしろ困惑極まれりといった感じであったが、どちらにしろかなりの勢いに満ちているのには変わらない。飛ぶ鳥も蹴散らすかのようなそれにニンフィアと相生、森田、それに悠斗も言葉を忘れて固まった。ボーマンダがより一層強く嘶く。恐ろしいまでの激情を溢れさせる竜が喰らい尽くさんばかりの力で、小さな精霊との距離をゼロにした。

「でも効かないものは効かないですよね!!」

「え!? なんで!? なんであのポケモン全然平気なの!?」

……しかし、やはりというか何というか、ニンフィアはどこか困りきったような顔をして、痛くも痒くもない状態でコートに立ったままだった。
その横では、流星の如き勢いでニンフィア、というか床に突っ込んだボーマンダが頭の上に星を浮かべて目をチカチカさせている。彼女のげきりんがまさに放たれんとしたその瞬間、ニンフィアの全身を目映い桃色の光が覆いつくし、ボーマンダの軌道を無理矢理に逸らしたのだ。

「ちょっとー!? なんで駄目だったんだ、アレか! 聞いたことがある、『外した』ってヤツか!!」
「違いますよ何言ってんですか!? フツーに相性の問題です、ドラゴンはフェアリーに無効なんですよ!!」
「はぁ!? 何それ!?」
「え……えと……よくわからないけど、いいのかな……これは」

何が起こったのか理解出来ないらしい悠斗と、あまりの衝撃に血の気を失っている森田が叫び合っている脇で、蚊帳の外となった相生が次の行動を図りかねる。勝手に突っ込んでこられて勝手に自滅されたニンフィアもまた、目を回すボーマンダを横にしてオドオドするしかないという有様だ。その、何とも馬鹿らしいコートの様相に相生は数秒の間戸惑いを露わにしていたが、やがて覚悟を決めたように呟いた。

「ク、クラリス……ムーンフォース」

ものすごく遠慮がちに告げられた指示に、ニンフィアもまた控えめな動きで技を発動する。室内だというのに月光のような美しい輝きが彼の周りに収束し、神聖な雰囲気を醸し出した。
長い耳、細い四つ脚、そして可愛らしい触覚の先端までその光が満ちる。そして一気にニンフィアの頭上に纏め上げられたそれは、明らかな質量を伴って、横で転がるボーマンダへと衝突した。ああ! と悠斗が声を上げる。

「どうなってんだよ……さっきのは何も起きなかったのに、どうしてアイツのはこんなに、一発で倒れちゃうんだ!?」
「どうもこうもありませんよ!! フツーにタイプ相性の問題だっつってるでしょーが!! 流石に確一だったのはキツいですけど、それはさっき床に頭ぶつけて無駄な体力使ったせいです!!」
「な、なんだよそれ……わけわかんねぇ……」
「わからないのは悠斗くんの頭ですけどね!? とりあえずここはポケモン交換して! 次いきましょう!」

ムーンフォースによって、二度目の転がりを呈したボーマンダをボールに戻して悠斗は頭を軽く振る。何がどうなっているのかさっぱりわからないが、過ぎたことを気にしても仕方ないだろう。気持ちを切り替えてやるべきだ、と、恐らくこの場で一番混乱しているだろう相生を見据えて悠斗は一人頷いた。
悠斗は割と思い切りがよく、見切り発車をかます男である。高校時代にはマッスグマと暗喩されていたことを知らない彼は、二つ目のボールを天へ向かって高く投げた。

「ミタマ! 頼む!」

赤い閃光と共にボールから現れたのは、火炎の熱と霊力による冷気のどちらをも持ち合わせるゴーストポケモン、シャンデラだ。昨日の一件から、自分のトレーナーの様子がどうにもおかしいことを一晩気に揉み続けている彼は納得のいかない表情をしていたが、蒼い炎に包まれたそれを気に留めてくれるほど余裕のある者は、今この場にはいない。眼下に見える、いつもと比べてやけに声が大きい泰生にシャンデラは嫌な予感しか覚えなかった。
「シャンデラかぁ……」その正面で、相生が苦々しい顔で呻くように言った。一瞬迷ったような時間を置いた彼は、「クラリス!」と声をかけながらボールに手をかける。

「一回戻って! 交代だ、ジャッキー!」

ニンフィアがボールに吸い込まれると同時に投げられた、新たなボールに入っていたポケモンがコートに降り立つ。木の幹のような体躯と、果実に似ている両腕の先。とぼけた顔は愛嬌があり、観賞用としても人気のポケモンだ。

(ふむ、エースのニンフィアは温存しておこうってわけですか)

どうにか落ち着いてきた森田はそんな予測をする。シャンデラと相性が良いとは言いがたいから、もっと戦える相手と交換してきたのだろう。タイプ一致もこうかばつぐんになるし、確かあくタイプの技も使えたはずだ。楽に倒せはしないまでも、出来るだけ削ってやれという魂胆に違いない。
しかし、泰生のシャンデラはエナジーボールを習得済みだ。それをくさタイプの技だと悠斗が認識しているかどうかが一抹の不安だが、オーバーヒートという明らかなほのおわざは流石に選ぶまい。まあ、エナジーボールを使わないまでもシャドーボール辺りを決めてくれればそれはそれで……



「よし、どう見ても木っぽいし、あのポケモンはくさタイプだな! くさにほのおが強いことくらいは知ってる……よし! ほのおっぽい名前してるからこれだな、ミタマ! オーバーヒートだ!!」



「金銀発売当初にしか通用しない間違いしてるんじゃねーーーーーよ!!」





森田は混乱のあまり、よくわからないことを言った。





「ええと、羽沢くん……?」

静まり返った教室で、講師が困り笑いを浮かべて問い返す。しかし泰生に悪びれた様子は欠片ほども見られない、本人だけが大真面目であった。

「だから言ってるだろう。分速百メートルだか二百メートルだか知らんが……自転車よりもポケモンの力を借りた方がずっと速く追いつけるし、安全だ。街中で乗るならばピジョットやトゲキッス、それかメブキジカなどがいいかもしれない。ただしフワライドは……」

「ハハ、ええと……面白いよ! は、羽沢くん」

口調も思考回路も言っていることも何もかもがおかしい泰生に、ついついポカンとしていた講師は無理に引きつった笑いを浮かべてその答えを遮った。その言葉につられ、ワンテンポ遅れて教室の学生達も作った笑い声を上げる。どう考えても笑っている場合などではなかったが、明らかにおかしい『羽沢悠斗』に皆戦慄し、この現実を直視するのを本能が避けたがったのだ。人間、最も恐れるものはわけのわからないものなのかもしれない。
「俺は真剣に――」そんな皆の様子に気づかない泰生は尚も食い下がろうとしたが、静かに、しかし非常に強い力で腕を引いた富田によって止められる。その衝撃で泰生が黙った一瞬を見逃さず、講師は「じゃ、じゃあ、この問題は先生がやっちゃおうかな〜」などと言いながら、話の流れを授業へと強引に戻したのだった。



「おい、何が悪かったんだ」

「全部ですよ」

話を遮られ、席に座らされた不満を小声でぶつけた泰生に、富田はシンプルな返事をした。

「これは数学なんです。そういう、こっちを使えば速いとかこんなことする必要無いとかそもそも動く点Pってなんぞやとか、そういうことは考えないで、数式で答えを導けばいいんです。分速120メートルの自転車で行くって言うんなら、それで行くものなんですよ」
「なんでそんな妙なことを……大体、なんだ数式って? アレは出来るだけ早く追いつく方法を見つける問題ではないのか?」
「そんなわけないでしょう。方程式を作って、それで解きゃいいんです」
「方程式って研究者以外も使うのか?」

まるで予測不可能なことを言い出した泰生に富田は目を剥いたが、「使うんですよ」とおざなりな返答をして話を断ち切った。世代も育ちも違うだろうから仕方ない、そう自分に言い聞かせて心を落ち着かせる。
それからしばらく、平穏に授業を受けていたのだが、十数分経ったところで「おい」と泰生が富田に声をかけた。どうやらテキストをパラパラと見ていたらしい彼は、とあるページの一部分を指して富田に尋ねた。


「これ、何て読むんだ」


泰生の指が指し示していたのは『円錐』の二文字。

富田は、悠斗の顔を殴りたくなるという、生まれて初めての衝動に駆られていた。





「も〜、どういうことなんですか!! フェアリータイプにドラゴンの技は効かないなんて、当たり前のことでしょうが!!」
「だって、ドラゴンって強そうだし……なんにでも勝てるんじゃないかなって……」
「小学生ですか!? というか、よくそれで『げきりん』がドラゴンわざだとわかりましたね……」

色々と散々なバトルを終え、事務所が貸し切っている体育館のロビーで森田はぷんぷんしていた。ぶーん、という低い音を立てる自販機に雑な感じで硬貨を突っ込んだ彼は、「はいどうぞっ」苛立った動きで取り出したブラックコーヒーを悠斗に押し付け、続いて購入した緑茶のプルタブを乱暴に開ける。
言うまでもなく、先程のバトルは悠斗の負けだった。結局オーバーヒートがこうかいまひとつとなり――その直後にふいうちを撃たれ――最後の一匹もそんな風に嘘みたいな負け方をしたというわけである。相生に至っては三匹目を出さず、ウソッキーとニンフィアだけで潜り抜けていたため、それまでの羽沢泰生を考えればあり得ないくらいの敗北のしようだ。

「相生の奴は都合いい勘違いしてくれましたから助かりましたけど! 勘弁してくださいよ、泰さんの評判だだ下がりですよ、もぅ〜」
「すみませんでした…………」

あの後、相生はせっかくの勝利に喜ぶ様子を全く見せなかった。それどころか「この前マルチバトルのトレーニングで僕足を引っ張ったから、羽沢さん怒ってるんだ……それで手を抜かれたんだ……」などと勝手に打ちひしがれ、勝手にめそめそと泣きながらトイレに籠っているらしい。悠斗達からすれば好都合だが、お前はそんなんで大丈夫なのかという気持ちは拭いきれないところである。
ともかく、あまりに馬鹿らしい理由で惨敗した悠斗に、森田は怒りを隠しきれずこうして不満をぶつけているのである。バトルの間はずっと肝を冷やし続けていたのだから、それも仕方ないことだろうと、説教されている悠斗はその文句を甘んじて受け入れていた。普段はユニランのような顔の森田だが、今はどちらかというとダルマッカみたいである。怒りで赤くなった丸顔に、悠斗は内心で焼いた餅を思い出した。
そんなことを彷彿させられているとは露知らず、森田は「大体!!」視線を自販機から悠斗へと移す。

「タイプ相性くらい忘れないでくださいよ! 一番意識しなきゃいけないことなんですよ、そこ間違えたらどうしようもないでしょう!」

ぷりぷりと怒る森田に、しかし悠斗は「でも、森田さん」と遠慮がちに口を開いた。

「……俺、忘れるもなにも、ポケモンのタイプ……何? アイショー? そんなの知らないんですけど……」

「はぁぁぁぁぁぁ!?」

小さな声で告げられたその言葉に、森田は驚きのあまりお茶のペットボトルを手から滑らせた。危うく落ちかけたそれをすんでのところでもう片手で支え、彼は「いやいやいやいやいや」と目を白黒させて首を横に振る。

「タイプ相性を知らないだなんてそんなそんなそんな!! あんなの基本中の基本ですよ!? あれ知らないとバトルなんか出来ないに決まってるでしょうが!!」
「いえ……というか、その前に俺……どのポケモンが何タイプかもわからないし、何タイプがあるのかさえも知らないんですが……」
「はい!?」

「いや、でもわかるものはわかりますよ! あの、相生さんの木みたいなポケモン! アレとか、植物っぽいのはくさタイプなんでしょ…………」

「いわタイプだって言ってるでしょうが!!」

衝撃的すぎる発言に、森田の顔が赤から青になる。まるでダルマモードだ。

「ちょっと待ってくださいよ……そんなことって……こんな人がいるだなんて…………」
「え、森田さん……なんですかその目は」
「あり得ない……全ポケモンのタイプととくせい、全技のタイプくらい知ってて当然でしょう、ねえ…………?」
「はぁ!? 知るわけないでしょそんなの!! どんな認識なんですか、そんな、何百匹何百種類のことなんて覚えられるわけありませんって!!」
「覚えるとかそういう話じゃないですよ! 難しいこと何も言ってないんですよ、個体値だとか物理特殊だとか命中率だとか、そういう話は何もしてないんです。ただ、ポケモンの種類と技の種類だけじゃないですか!!」
「知らないものは知らないし、そもそも……そもそも俺、名前すら知らないポケモンも……います……」

相生さんが最初に出してきた可愛い感じのアレとか、何ていうんですか? 視線を逸らしながら尋ねてきた悠斗に、森田はがっくりとうなだれる。尚悪いことに見た目は泰生である、何もかもが悪夢のようだ。半ば無意識下で答えた「ニンフィアです」という自分の声は、魂が抜けかかったように掠れていた。
だけど、と、森田は朦朧とした意識を引き戻して考え直す。今ここで、悠斗(自分が知らないだけでバトルをやらない人というのは概してこうなのかもしれないが)の知識の無さを問い詰めても仕方ない。泰生のフリをしてもらうために、彼にはタイプやとくせいはおろか戦術を徹底的に覚えてもらわなければ困るのだ。時間は少しも無駄に出来ない。
「悠斗くん」呼吸を整え、森田は可能な限りの冷静な声を出す。「とりあえず今日のミーティングは体調不良ということでお休みします。今から悠斗くんにはポケモンについて一から教えますからね、本当頼み――」


「あら、羽沢さんじゃない」


そう森田が言いかけたところで、彼らに声をかける者がいた。
コートから出てきたその女性は悠斗と同じ、Tシャツとジャージというラフな姿ではあるが、スレンダーかつメリハリのあるボディラインがむしろ強調されてもおり、勝気な美貌も相まってゴージャスな印象すらも与えている。長い髪をまっすぐに下ろしたこの女性は、確か昨日入れ替わった際に自分を心配していた、カビゴンのトレーナーだったはずだと悠斗は思った。余談だがカビゴンのことは知っていたらしい。学年に一人は、その名称がニックネームとされる者がいるからだろう。
「ちょっと待ってて」と、二回りは年上であろう泰生(彼女からすれば)にフランクな口調で言った彼女がコートに一時戻った隙に、悠斗が森田へ耳打ちする。

「森田さん、あの人誰ですか」
「うちの事務所のトレーナーの一人、岬涼子。若めの美人さんだからマスコミに人気だよ、ノーマル使いの女王って」
「その二つ名、あまり強そうに思えませんけど……それにそんな若いですか? 森田さんと同じくらいじゃないんですか」
「悠斗くんからしたらそうかもしれないけどね、それ絶対本人に言わないでね。……岬さん、泰さんのことライバル視してるから。戦い方も似てるし、あと、猪突猛進同士何かあるのかも」

「お待たせ。お疲れ様、羽沢さん。それに森田さんも」

スニーカーの足音を鳴らし、コートから再び出てきた岬に森田が慌てて口をつぐむ。その隣、缶コーヒーを飲み終えた悠斗は反射神経で「お疲れ様です」と返した。

「え?」

泰生ならば何も言わないか、「ん」で終わらせるであろうそこで、自分よりも丁寧な言葉が返ってきたことに岬は怪訝な顔をした。彼女の死角で、森田が口の中の緑茶を盛大に噴き出す。
「あ、いや、その」泰生らしからぬ行動を取ってしまった自分の失言に気がつき、悠斗はしどろもどろになって視線をさまよわせる。どうにか言葉を取り繕おうとしているらしいがしかし、「羽沢さん」岬は心配するように悠斗を覗き込んだ。

「やっぱり、この前倒れたとき……大丈夫なの? なんか、後遺症とか残ってるとか……」
「あ、そういうんじゃないです、ホント……いや、はい」

悠斗は必死にごまかそうとするが、岬は尚も「でも様子が変だし」と食い下がってくる。困惑のせいか無防備に距離を詰めてくる彼女に、悠斗は内心めちゃくちゃ焦っていた。確かに一回りも上の相手ではあるが、それを含めても高レベルな美しさ、軽装によって表出しているナイスバディ、汗ばんだ肌から立ち昇る色気――普段接することのないような相手を至近距離で前にして、悠斗は落ち着かない気持ちをどんどん高めていた。
端的に言えばメロメロ状態に陥りかけているのである。が、完全に戦闘不能になる前に悠斗は跳ね飛ぶようにして岬と距離を取った。「本当、大丈夫ですから」裏返り気味の声で言い、彼は無理に作った笑顔で岬に笑いかける。

「気にかけてくれて、ありがとうございます。もう大丈夫ですから、一緒に頑張りましょう――行きましょう! 森田さん!!」
「え!? 急にどうしたの悠――じゃなくて泰さん!!」

足早に出口から外へ行ってしまった悠斗と、それを追うため走っていった森田を眺め、取り残された岬は呆然と立ち竦んだ。やはり泰生の様子がおかしいとは思ったが、それ以上何かを確かめる前に彼らの姿は消えていた。

しかし、今の彼女は正直なところ、その違和感を問い詰めるどころではない。バトルで惨敗したといういけ好かないライバルに嫌味の一つでも言ってやるつもりだったのに、普段であればあり得ない、今までされたことの無いような気遣い、配慮、……そして、どうにも可愛らしい反応。
決して見せるはずも無い行動の数々を脳内で反芻し、岬は自分の頬が熱くなるのを信じられない気持ちで感じる。確かにバトルは強くトレーナーとしては大変魅力的であることは重々承知だし、トレーナーに年齢は関係無いというし、今まで何かと噛みついていたのも思えばある種裏返しであったのもあながち間違っては――


「そんなはず!! この私に限ってそんなわけはないっ!!」


今後のポケモンバトルをどうするかということばかりに意識を取られている悠斗と、森田。彼らの知らぬところで、うっかり蒔いたいらない種が早くも芽を出してしまったことなど、知る由も無いのだった。





時計の針は五時を回り、大学構内にはサークル活動を始める学生達の姿が増えてくる。クレッフィやガブリアスを引き連れ、育成論を語り合いながら歩いていくバトルサークル。ラケット片手に飲み会の話などを交わし、ハトーボーやピジョンと共に中庭へ出ていくテニスサークル。仰々しいカメラを持ち、レフ板代わりと思しきツンベアーと歩いているのは写真サークルだろう。
人とポケモンが入り乱れ、タマムシ大学は今日も騒がしい。

「しかし、あれほどまでに知らないとは思いませんでした」

そんな中、淡々とした声のくせに殺気を孕んだオーラを放っている学生が廊下を歩いていた。彼、今日の分の授業を終えた富田はよく見ると疲れ切ったことのわかる顔で、嫌味っぽく話し続ける。

「数学は出来ないわ感じは読めないわ……最近のニュースもポケモン絡むの以外全然把握してないし、本当ポケモンのことしか頭に無いんですね」

「当たり前だろう。俺はトレーナーなんだから」

が、その嫌味にも全く動じず、隣を歩く学生は平然と答えた。富田が本日何回目かになる舌打ちをかます。
あの、教室中を困惑に満たした数学の講義の後も、あちらこちらで泰生は富田の頭を痛めるようなことをした。歴史の講義では基礎中の基礎である戦の名前を「こんなの初耳だ」とのたまい、文学の授業ではテキストの目次にあった『枕草子』を見て「おい富田、この『……くさ、こ』って何だ」と大真面目に尋ね、パソコンを使う時間には「あずかりシステム以外のことはわからん」と早々に断言したため逐一富田が教える羽目になった。悠斗の所属する社会学部の専攻の授業に至っては、「ポケモントレーナーの修学率の低さが産業の崩壊を招く」と論じた教師に食ってかかろうとしたため、富田は泰生の腕をひっつかんで講堂を出なければならなかったほどである。
この人みたいなのがいるから、あの教授みたいな考え方が出てくるんだ。自分の分と、そして悠斗の分、出席点を一回失ってしまった富田はもう一度舌打ちした。「大体ですね」彼はイライラしたままの口調でさらに言う。「小学校から学校行ってないと言っても、もう少しどうにかなるでしょう」

「知ったことか。俺は俺の知るべきことを知っていればいいんだ。余分な知識はいらん」
「そうは言っても、限度ってものがあるんですよ」
「あんな、逆さにしたディグダみたいな落書きの計算? だかなんだか、そんな豆知識なくても生きていける」
「それは二次関数だ!! 豆知識じゃなくて常識ですよ、常識!!」

キレる富田に、ふん、と一睨みを返した泰生はそっぽを向く。その、あくまでも聞く耳を貸さない姿勢に富田は額に青筋を浮かべたが、長い前髪のせいで泰生は全く気づいていないようだ。まあ、仮に富田がスキンヘッドやぼうずだったところで泰生は気づかないだろうが。
「ともかく」必死に気を落ち着かせているらしく、深い溜息を吐きながら富田が言葉を発する。鞄の中から取り出した何枚かの紙を泰生に渡した彼は、「これ、明日までに覚えてくださいよ」と強い口調で言い含めた。

「何だ、これは」
「二週間後にある、学内ライブであなたが歌う曲の歌詞です。芦田さん……三年生の先輩のピアノソロに合わせて、独唱ですから。頼みますよ」
「俺が? 歌うっていうのか?」
「文句言わないでください。今日のサークルは体調不良ってことで休みます。羽沢さんには、これから僕とカラオケ行って特訓してもらうんで」

冷たく言い切られたその台詞に、泰生は眉間の皺を深めたが、渡された歌詞の漢字全てに振られたルビから滲み出す嫌味っぽさにはこれまた気がついていないようである。「仕方ないな」彼は悠斗との約束、お互いのフリをしっかりするということを思い出して、諦めたように頷いた。歌うのは好かないが、諸々のためには渋るわけにいかないだろう。
「しっかり、してくださいよね」ギターケースを抱え直しながら言った富田が、そこで「げ」と口の中だけで小さく呟いた。

「おー、羽沢、富田」

「羽沢風邪だって? 大丈夫なの?」

そんなことを口々に言いながら、向かいからやってきたのは悠斗や富田と同じバンドのメンバー、有原と二ノ宮だ。遠目からでもわかる、二ノ宮の特徴的なバッフロン頭を視線が捉え、知り合いにはなるべく会いたくないと考えていた富田は、「うん、まあ」などと言葉を濁す。

「悪いな。練習、行けなくて。俺も悠斗送ってくから」
「んー、いや。別にいいんだけど。今日は俺もバイトだし」
「センパイ、まだあのバイトやってんスか? どくタイプカフェの店員だっけ、なんでまたそんなキワいのを……」
「いいだろ別に。ウチの父ちゃんと母ちゃん、元マグマ団と元アクア団でハブネークとかドガースとか使ってたから俺免疫あるんだよ、毒に。時給いいし、それになれるとなかなか可愛いもんだぞ? 特にペンドラーなんかの分かれてる腹が……」
「あー、やめてやめて! 俺、足がいっぱいあるポケモンダメなんッスよ。気持ち悪い!」
「そんなこと言ってやるなよ。ノーマルとどくはそれほど相性悪いわけじゃないぞ」
「うるせぇ、誰がノーマルタイプカフェ(大型)のポケモンサイドッスか」
「言ってねえよ」

繰り広げられる二人のやり取りに、いつもだったら笑いの一つでも浮かべていたかもしれないが、あいにく富田はそれどころではなかった。泰生の飲んでいたモモンオレ、悠斗であれば絶対飲まないそれをこっそり奪い取り、後手に隠すので精一杯である。いつ何時、泰生が危うい行動を取らないか気が気ではない。

「ところでさぁ」そして、そんな富田の不安は早速現実のものとなる。「羽沢って、いつからポケモン好きになったの?」


「ごめん。俺達これで失礼するまた明日」


いつの間にやら中庭へ出て、野生と思われるコラッタに手を伸ばしている泰生(つまりは公の悠斗)を指差した有原の言葉が終わるよりも先に、ものすごい早口で別れの挨拶を告げた富田は二人の元から走り去る。自分のバンドのギタリストによる一陣の風のようなその勢いに、取り残されたベーシスト及びドラマーはポカンとしてたちつくすしかなかった。

「何度も言わせないでください! 悠斗っぽくないことすんのやめろつってるでしょうが!!」
「しかしコラッタがいたんだぞ」
「だからなんだよ!? コラッタがいたからなんだっていうんだ!!」
「静かに近づいたのだが、逃げてしまった。何が悪かったのか……」

今後の行く末に眩暈を覚える富田と、そんな彼など気にもしない泰生の会話は、廊下にいる有原達には聞こえない。ただ、二人で何かを言い合うその様子に、彼らはぼんやりと口を開いた。

「あいつら仲良いッスよねぇ」
「特に富田が羽沢大好きだからな」
「大好きすぎるッスね」
「あれってそういうことなの?」
「そうだったら話はもっと簡単ッスよ――あれは『like』じゃなくて」
「かといって『love』でもなくて」
「『faith』」
「それな」

羽沢悠斗教。有原と二ノ宮が内心そう感じている富田のそれすらあまり気に留めていない泰生は、今度は中庭にある木に止まっているポッポに目を向ける。そのまま、ひみつもちからを使えるわけでもないのに、木登りを始めようとした彼を怒りのあまり目から光の消えた富田が強引に引っ張っていったのは言うまでもない。


  [No.1380] 第四話「破綻百出」 投稿者:GPS   投稿日:2015/11/09(Mon) 23:10:56   38clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

悪夢よりも悪夢かもしれない、羽沢親子入れ替わり事件勃発から二日目である。

悠斗は森田によるポケモンバトルレクチャーに知恵熱を出し、泰生は富田に連行されたカラオケボックスで行われたボーカル特訓(と言っても、身体的に染み付いた歌唱力は残っていたため問題はもっぱら泰生の妙な羞恥を突き崩すことだったが)の屈辱に夜、うなされた。もっとも本人達より安らかでいられないのは森田や富田の方であり――森田は胃薬をラムネ菓子のようなペースで摂取し、富田はイライラ対策のためにモーモーミルクを大量購入した。腹を下す体質では無いのだけが幸いである。
しかしどれだけ嘆いたところで、この現状がどうにかなるわけではない。元に戻るまではお互いのフリをしっかりこなすことが最優先だ。そんな決意を悠斗、泰生、森田、富田の四人はそれぞれの胸に宿して困難へと立ち向かう。

……その困難は、悠斗と泰生それぞれの知識があまりに偏っていたため、彼らが予想していたものよりずっと大きかったのだが。


「いいですか。くれぐれも、くれぐれも、くれぐれも! 芦田さんに怪しまれるようなこと言わないでくださいよ」

さて、そんな泰生と富田は本日も学生生活の真っ只中である。
今日の講義は学部の専門科目が二つ、テキストの漢字が読めなかったり一般常識の部類であろう語句を知らなかったりと、泰生のトレーナー一本ぶりに、昨日に引き続きうんざりを繰り返すことになったが、散々言い含めた甲斐もあり、余計な発言をすることだけは回避出来た。『若き旅トレーナーを狙う性犯罪問題をどう解決するか』という授業の最中に「普通にポケモンや自分を鍛えればいいのではないのか?」などと真っ直ぐな瞳で言いだした時には頭が痛んだが、昨日のように講堂全体に聞こえる声で言わなかっただけよしとする。

「三回も言うな。ドードリオやレアコイルじゃあるまいし、一回言えばそれでいいだろう」
「一回言ってわかってくれないから何度も言うんですよ。何ならポケモンミュージカル部にペラップ借りてきて、常に聞いていただきたいくらいです」

しかし今日の富田が声に棘を作るほど懸念しているのは、どちらかというと授業ではなく、この後にあるサークル活動の方だった。個人練であれば何とかごまかせそうではあるけれど、本日の羽沢悠斗の予定は学内ライブのセッション練なのだ。セッションの相手、一学年上である三年生のキーボード、芦田は当然この事態を知らない。
羽沢悠斗という人物に向けられた信用を崩壊させることなく、また要らぬ誤解を招くこともなく、芦田との練習を終わらせなくてはならないのだ。どうすれば一番安全かと思考を巡らす富田の隣から、泰生がつつつ、と離れていった。

「タツベイ……」
「え、え……何すか…………?」

廊下ですれ違った見知らぬ男子学生の肩に乗っていたタツベイに引き寄せられ、そわそわと近づいていく泰生に気づいた富田は「だから! だから三回言ったんですよ!」と青筋を浮かべて泰生の首根っこを捕まえた。いきなり近寄ってきた赤の他人、しかも呟かれた独り言以外は無言の仏頂面という怪しさに、何事かとヒいている学生に秒速で頭を下げる。「すみませんホント、何でもないんです」そんな富田の鬼気迫る様子に彼はさらに不審感を募らせたが、関わり合いになりたくないためタツベイを抱え、そそくさと去っていった。
はぁ、と重い溜息を吐いた富田が、辿り着いた部室の扉を前にしてもう一度言う。「本当頼みますからね。悠斗らしく、悠斗らしく、悠斗らしく、悠斗らしく、ですよ」

「……メタグロスか」

泰生の漏らした不平は無視して、富田はドアを開ける。
「お疲れ様です」「おっす羽沢、富田」「おつかれー」「ハザユー風邪大丈夫なの?」「あ、ただ疲れてたらしいです」「何でトミズキが答えるんだよ」「お前、そのニックネームわかりにくいって」口々に交わされる言葉が、各々の楽器が鳴らす音と共に響く部室を歩く。有原と二ノ宮は今は不在みたいだな、などと思いながら、富田と泰生は一台のキーボードの前まで進んだ。

「芦田さん、こんにちは」
「あ、お疲れ! 羽沢君、具合はもう平気なの?」

何やら携帯で連絡を取っていたらしい芦田は顔を上げ、人の良さそうな笑みを浮かべる。彼の質問に富田が泰生の脇腹を素早く突き、泰生は慌てて「ん」と頷いた。
その態度に富田はまたしても頭を抱えたくなったが、「まだ本調子じゃなさそうだね〜無理はしないでね」と、芦田は都合良く解釈したらしい。それに内心で胸を撫で下ろしながら、「守屋もお疲れ」と芦田の隣に座っていた同級生へ声をかける。「『も』は余計ですよ」冗談っぽく拗ねたような顔をして、守屋は軽く片手を上げた。彼の足元のマグマラシが富田達をちらりと見たが、すぐに、一緒に遊んでいたらしいポワルンの方へ視線を戻してしまう。マグマラシとポワルンは、それぞれ守屋と芦田のポケモンだ。芦田のポワルンは、何故か常に雨天時のフォルムをしていることでちょっと有名である。
「今日は悠斗と合わせでしたよね」 晴天の室内にも関わらず雫型のポワルンに興味津々の泰生は無視してそう尋ねた富田に、「そうだよー」壁にかかった時計を見ながら芦田は答える。「本当は横木くん達が使うはずだったんだけど、一昨日代わってくれたからね」対角線上でベースをいじっているそのサークル員、横木に感謝の合図をしながら、芦田がキーボードの前から立ち上がった。

「悠斗の具合が心配なので、俺もついていっていいですか」

そこでそう言った富田に、芦田はほんの一瞬不思議な顔をしたものの、「もちろん」と笑って頷いた。ちょうど時間だしそろそろ行こっか、そんな言葉と共に床の鞄を持ち上げた芦田に泰生と富田も続こうとする。

「樂先輩」

が、守屋が芦田の名前を呼んだため、彼は一度足を止める。「なに」言うことは大体予測がついているらしい芦田が、じっとりとした目を守屋に向けた。

「残念ながら、僕は樂さんにお供いたしませんので……」
「いいよ別にしなくて! 巡君には期待もしてないし! わざわざ言わなくていいよそんなこと!」
「むしろこの辺が片付いて、せいせいし……いえ、スッキリした気持ちになってます」
「言い直さなくていいから! アメダスのこと見ててね、じゃあね!」

守屋の軽口に呆れ混じりの声で返し、溜息をついた芦田は背を向けて歩き出す。「いってらっしゃいませ」と悪戯っぽく笑った守屋が手をヒラヒラと振り、芦田が座っていたキーボードを早速弾き始めた。
「まったく、巡君はいつもああだ」などと呻きながら部室を出た芦田の後ろを歩きつつ、まったくはこっちの台詞だ、などと富田は考えていた。有原と二ノ宮達といい、よくぞ毎回飽きないものである。自分のことを完全に棚に上げる富田の隣で、泰生はアメダス――芦田のポワルンを少し触らせてもらえばよかった、などとのんきな悔恨に駆られていた。




「うーん、なんか……」

部室から移動して、第一練習室。学内ライブでやる予定の曲を一通りやってみたところで、芦田がなんとも言い難い顔をした。「……やっぱり、羽沢君まだ調子悪い?」言葉を選ぶような声で問いかけられた泰生が「どういうこと……、ですか」と、ギリギリのところで口調を悠斗のものに直しながら問い返す。
芦田は「なんというか」「別にいつも通りと言えばそうなんだけど」と、グランドピアノと睨み合いながらしばらく首をひねっていたが、ややあってから顔を上げて泰生を見た。

「なんというか、ね。楽しそうな曲なのに、楽しそうじゃない、っていうか」
「…………そんなこと、」

とてもじゃないが楽しくなどない泰生は「そんなこと言われても困る」と言いたかったのだが、芦田の目には途中まで発されたその言葉が、不服を訴えるものに聞こえたらしい。慌てたように「いや、俺の気のせいかもなんだけどさ」と頭を掻いて、彼は「でも」と困ったような笑みを作る。

「羽沢君って、こういう歌を本当に楽しそうに歌ってたから。だからこれにしようって決めたわけだし……なんか違うような、そんな気がして……」

譜面台に置いた楽譜を見遣り、怪訝そうに言った芦田に何か弁明しようと富田が「あの」と口を開きかける。しかしそこで芦田の携帯が着信音を響かせ、「ごめん。ちょっと待って」彼は電話を取った。

「はい。はい、そうです。さっきの……ああ、そうですか……いえ、わかりました。はい。了解です」

電話の向こうの相手と短いやり取りをしていた芦田だが、数分の後に「失礼します」と通話を切る。どうしたんですか、と富田が尋ねると、彼は重く息を吐いて「学内ライブなんだけど」と力の無い声で答えた。

「日にちが一週間前倒しになっちゃって……昨日事務の人にそう言われて、どうにかしてくれないか頼んでみたんだけど……」
「そんな、じゃあ……」
「点検の日付を変えるのは無理だから、って。みんなに言わないとなぁ……」

苦い顔をして気落ちする芦田に、富田も歯噛みする。ただでさえ、元に戻るまでの諸々をごまかすのに必死なのに、ここに加えて本番までこられては大変まずい。一体どうしたものか、という思いを、芦田と富田はそれぞれ違う理由で抱く。
だが、泰生の反応はそれとは違った。「なぁ」携帯でサークルの者達に連絡を送っていた芦田が泰生に視線を向ける。

「なに、羽沢君?」

「どうして、そこでもっと抗議しないんですか?」

泰生からすれば純粋な疑問をぶつけたに過ぎないが、いきなりそんなことを言われた芦田は面食らったように瞬きを繰り返した。

「それは……まあ、したにはしたんだけどダメだって言われたし……学校の都合ならどうしようもないから……」
「何故です? 先に予定を入れておいたのはこちらなんだろう、なら、向こうは譲るべきなんじゃないんですか」
「僕だって同じこと思うよ。それはそうだ、羽沢君の言う通りだ……でも、しょうがない、じゃん」

「学校にそう言われちゃ、仕方ないよ」芦田がぽつりと言って、白と黒の鍵盤に視線を落とす。諦めたような顔が盤上に映し出された。

「しょうがない、って……」

しかし、泰生は違った。
その一言を聞いて、眉を寄せた彼は、両の拳を握り締める。

「そこでもっと言わないから、こういうことが起きるんじゃないのか? どうせ言うことを聞くから、と馬鹿にされて……だから後から平気で変えてくるんだ!」

「羽沢、君…………?」

「なんでそんな無理を言われるのかよく考えてみろ、そうやって、受け流すから見くびられるんだ。大学だか事務だか知らんが、そことの不平等を作っているのはこっち側なんじゃないか!」

「…………それ、は」

「これでまた、一つつけ上がらせる理由になったんだ……わかってるのか、これは俺だけじゃなくて、他の奴らにも関係あるんじゃないのか? こうして平気で諦めたことは、他の学生にも――」

「おい、羽沢――――」


「樂先輩」


見かねて口を挟んだ富田が何か言うよりも前に、そこで、泰生と芦田の間に割り込む声があった。

「赤井先輩が呼んでます、学祭の件で急用だって……」

携帯じゃ気づかないだろうから呼びに来ました、そう付け加えた守屋は、半分ほど開けたドアの向こうから三人を見ている。その足元と頭上それぞれで、マグマラシとポワルンが、何やらただ事では無さそうな雰囲気にじっと動かずにいた。

「あ、うん。わかった。すぐ行く」

一瞬、目をパチパチさせていた芦田が慌ててピアノの前から立ち上がる。「ごめん、羽沢君、富田君」そう言いながら簡単に荷物をまとめた芦田の様子は、少なくとも一見した限りでは普通のもので、富田は反射的に頭を下げる。彼に背中を叩かれた泰生も会釈したが、すでにその前を通りすぎていた芦田が気づいたかどうかはわからない。

「本当にごめん。戻れたら戻るけど、ここ六時までだから、駄目だったら次の人によろしく」

忙しない口調で告げて、芦田はドアの向こうに消えていく。「ありがとね」そう彼に言われた守屋が、芦田に軽口を叩くよりも前に、練習室の中を少しだけ見遣った。
何か言いたげな、探るような視線。が、彼が実際に発言することはなく、二人と二匹は慌ただしく廊下を走り去ってしまった。

残された泰生と富田は、閉まったドアの方を見てしばらく無言だった。が、やがて「俺は」と、泰生が口を開く。


「間違ったことを、言ったのか」


「悠斗、は――――――――」


毅然とした口調でそう問うた泰生に、しかし、富田の細い眼の中で瞳孔が開いた。
その瞳を血走らせた彼が、一歩踏み出して泰生の胸ぐらに掴みかかる。咄嗟のことで反応出来なかった泰生は怯んだように身を竦ませた。
表情というものを消し去って、富田の、握った片手が勢いよく振り下ろされる。


「………………悠斗は」


が、その拳が泰生を打つことはなかった。
思わず目を瞑っていた泰生が、訪れない衝撃を訝しんで目を開けると、肩で息をする富田が自分を黙って見下ろしていた。
時計の秒針が回る音だけが、彼らの間にうるさく響く。


「……すみませんでした」



その言葉と共に、富田は泰生を掴んでいた手を離す。急に解放された泰生は足をよろめかせたが、俯いてしまった富田がそれを見ていたかは不明だ。声を僅かに震わせていた富田の顔は、長い前髪に隠れてよくわからない。
それきり、富田は何も言わなかった。泰生も無言を貫いた。



結局六時を過ぎても芦田は戻らず、後で彼、および芦田を呼びつけたサークル代表の赤井から謝罪のメールが届いたが、それに対して富田が言及したのは「芦田さんが置いてった楽譜は僕が渡しておきますから」ということだけだった。





そんなことがあった翌日――悠斗は、森田と共にタマムシ郊外の街中を歩いていた。

「悠斗くん、そんな落ち込まないでください。まだ三日目ですから、次に勝てるよう頑張りましょう」

「………………」

彼らは先ほどまでいたバトルコートから、近くの駐車場まで移動しているところである。地面を見下ろし、俯く悠斗に森田が励ましの声をかけた。しかし、悠斗は依然として肩を落としたままである。
数十分前、バトルコートで悠斗が負けた相手は別のトレーナープロダクションに所属している、しかし064事務所と懇意にしている壮年の男トレーナーだ。リーグも近いし練習試合を、ということで前々から約束されていた予定である。
そのバトルに、悠斗はまたしても負けてしまったのだ。今回は必要最低限の知識は入れていたし、少しは慣れたから惨敗とまではいかなかったが、それでも男トレーナーに怪訝な顔をさせるくらいにはまともな勝負にならなかったと言える。ある程度は予想のついていたこととはいえ、悠斗は度重なる敗北に少なからず傷心していた。

「相手方にはスランプで通していますから。それにですね、いくら泰さんのポケモンとはいえ、バトル始めたばかりの悠斗くんがそう簡単に勝てたら、エリートトレーナーも商売上がったりですよ」
「それはそうですが……」
「泰さんと互角の相手なんです、あの人は。負けるのもしょうがないです」

片手をひらひらさせた森田は「とりあえず、今日は帰るとしましょう」と歩を進める。「そうですね」悠斗も浮かない顔のままだが頷き、その後に続こうとした。


「おい、そこのお前!」


が、背中にかかった声に二人は反射で足を止める。

「お前、羽沢泰生だよな!?」

振り返った悠斗達の後ろにいたのは、半ズボン姿の若い男だった。年の頃は悠斗の元の身体とそう変わらないだろう、サンダースのような色に染めた髪やその服装から考えるに、悠斗や富田に多少のチャラさを足した感じである。
「俺は、たんぱんこぞうのヒロキ!」膝小僧を見せつける彼の始めた突然の自己紹介に、悠斗と森田は頭の上に疑問符を浮かべる。「森田さん、たんぱんこぞうって、中学二年生くらいが限度じゃないんですか」「ミニスカートとかたんぱんこぞうとかっていうのは、名乗るための明確な規定が無いからね……『小僧』が何歳までっていう線引きも無いし」「あ、ああ……?」小声で交わされる珍妙な会話は聞こえていないらしい、やけに真っ直ぐな目をした男は、人差し指を悠斗へ向けてこう言った。

「羽沢泰生! 俺と勝負しろ!」

「はぁぁ!? 駄目、だめだめだめ!!」

唐突なその申し出に反応したのは、悠斗ではなく森田だった。慌てたように冷や汗を浮かべた彼は、「そんなこと、出来るわけないでしょう!」ときつい調子で男を叱る。

「そう簡単にバトルを受け付けるわけにはいきません! 羽沢は今事務所に戻る途中なんです、お引き取り願います!」

「目が合ったらバトル、トレーナーの基本だろ!? エリートトレーナーだからって、それは同じじゃないのかよ!」

滅茶苦茶な理論を並べて森田に詰め寄る男に、悠斗は何も言えず立ち竦むしか無かった。ポケモンにもバトルにもとんと関わったことのない悠斗には縁遠い話であったが、しかし偶然、同じような状況を街で見かけたことがある。有名トレーナーを見つけ、無理を通してバトルを申し込む身勝手なトレーナー。最悪のマナー違反として度々問題となっているが、結局のところ、今までこれが解決したためしは無い。
そして、こういうものを煽る存在がいるのも原因の一つだ。「エリートのくせに、にげるっていうのかよ!」「いいから帰ってください!」騒ぐ二人の声に引き寄せられて、近くを歩いていた者達が次々と視線を向けてくる。

「え? なんか揉め事?」
「なぁ、あれって羽沢泰生じゃね!?」
「は!? マジで!? なになに、なんかテレビの撮影!?」
「バトル!? バトルするんだ!!」
「おい大変だ! 羽沢泰生の生バトルだぞ!!」
「やっべー! 次チャンプ候補じゃん、ツイッターで拡散……あとLINEも送ってやらないと……!」

人が人を呼び寄せ、その様子に興奮したポケモンがポケモンを呼び寄せ、気がつくと悠斗達はギャラリーに取り囲まれていた。人とポケモン専用の道路には、ちょうど、バトルが出来るくらいのスペースを残して群衆達が集まっている。「ここまできて、やらないってことはないよなぁ!」パシン、と膝を両手で叩き、男は挑発するような笑みを浮かべた。

「森田さん、これ、やるしかないよ」
「でも、悠斗くん……あっちにしか非はありませんし、ここは理由をつけて……」
「ううん。あいつなら、こういうのが許せないからこそ戦うんだろうし、それに」

「俺、勝つから」

小さく告げられたその言葉に森田が唇を噛む。一歩前に踏み出した悠斗の姿に群衆と男が上げた歓声が、中途半端な狂気を伴って、曇天の空に響いていった。



「やってこい! クレア!」

男が放り投げたボールから現れたのは、肩口と腰から炎を赤く燃え滾らせたブーバーンだった。アスファルトを震わせながら着地したブーバーンは、口から軽く火を噴いて悠斗の方を睨みつける。

「いけ、キリサメ!」

対して悠斗が繰り出したのは長い耳を揺らすマリルリで、雨の名を冠した彼は跳ねるようにボールから飛び出した。ギャラリーの中から「かわいー」と声が上がる。割とお調子者な傾向のある彼はその方へ視線を向けながら丸い尻尾を振ったが、すぐにブーバーンへと向き直り、丸い腹を見せつけるように胸を張った。
タイプはこっちの方が有利のはず。マリルリが覚えている技を急いで頭の中に思い出しながら、悠斗はそんなことを考える。今にも雨が降りそうな天気と、どんよりした湿気も手伝って、炎を使う技は通りが悪そうだ。ここはみずタイプの技で一気に決めてしまおう――そう決めて、指示をするため口を開く。

が、その一瞬が男に隙を与えた。悠斗が考え出した時には既に息を吸っていた男は、灰色の空を見上げながら、こう叫んだのだ。

「にほんばれ!」

彼の声にブーバーンが目を光らせた途端、その空に異変が起きた。重苦しい、分厚い雲の隙間に小さな亀裂が走ったと思うと、それはみるみるうちに広がりだし、瞬く間に文字通りの雲散霧消となってしまった。その向こうから現れたのは青く晴れ渡った天空と、強い輝きを放つ太陽である。

「なに――――」

こうなるかもしれないという予測どころか、てんきを変える技があることすらよく知らなかった悠斗は明らかな動揺を顔に浮かべる。「アクアジェット!」とりあえず言葉は発されていたものの、その狼狽がマリルリにも伝わってしまったらしい。完全に出遅れた彼が水流を放った時にはもう、ブーバーンは次の技に入っていた。

「クレア、ソーラービームだ!」

陽の光の力による目映い一撃が、マリルリに向かって一直線に放たれる。確かな強さを以たアクアジェットはしかし、弱体化していたこともあって、黄金色の光線によって呆気無く跳ね返されてしまった。
キリサメ、と悠斗が叫ぶ。成す術もなく宙を舞ったマリルリは、無様な音を立ててアスファルトへ墜落した。甲高い声がマリルリの喉から響く。
「もう一回アクアジェットだ!」焦ったように悠斗が言うが、マリルリが体勢を整え直すよりも前に男とブーバーンの攻撃が飛んでくる。「させるな! ソーラービーム!」繰り返される一方的なその技を何度も喰らい、マリルリはその度に多大なダメージを負っていく。にほんばれが終わらないうちに勝負をつけてしまおうという魂胆なのであろう、連続する攻撃は暴力的な勢いすら持ってマリルリを襲う。何発目かになるそれを腹部に受け止めた彼は、数秒ふらつく足を震わせていたものの、とうとうその身を横転させてしまった。

「キリサメ!」

地面に倒れ伏したマリルリに悠斗が叫ぶ。力無く横たわった彼は耳の先まで生気を失い、これ以上のバトルが出来るようにはとても見えない。
しかし、悠斗は叫び続けた。

「頑張ってくれ、キリサメ!!」

それはバトルに疎い、ポケモンの限界というものをよく知らない悠斗だからこそ言えた、突拍子も無い言葉なのかもしれない。普通だったらもう諦めて、ボールに戻してしまうところだろうに、それでも声をかけ続けるなどは決して賢いとは言えないであろう。無駄な行動だと一蹴されてしまうようなものだ。
だけど、少なくともマリルリにとっては、そうではなかったらしい。ぴくり、と、片耳の先端が小さく動く。勝利を確信し、マリルリを見下していたブーバーンの目が、何かを察知して僅かに揺らいだ。

その時である。


「クレア!?」

「…………キリサメ!」


突如、勢いよくぶっ飛んだブーバーンに、男が悲鳴に似た声を上げる。やや遅れて、悠斗が呆然とした顔で叫んだ。
ぐち、と奥歯でオボンを噛み砕きながら、マリルリは肩で息をする。ブーバーンの隙をついてHPを回復した彼は、ばかぢからをかました疲労をその身に抱えながらも、不敵な笑みを口元に浮かべた。


「キリサメ! よくやった……!」


悠斗の声を背に受けて、マリルリが二本の足でしっかり立ち上がる。彼を支援するようなタイミングで、技の効果が消えたのか、空が再び灰色に覆われていく。ブーバーンに有利な状況が一変し、急速に満ちる湿り気にマリルリは、可愛らしくも頼もしい鳴き声を空へと響かせた。
つぶらな瞳を尖らせたマリルリに、男は「まだいける! 10万ボルトだ!!」と狼狽えながらもブーバーンに指示を飛ばす。ブーバーンが慌ててそれに応えようと身体に力を溜めるが、マリルリはとっくに動き出していた。アクアジェット。湿気のせいで行使が遅れた10万ボルトなど放たれるよりも先に、重く激しい水流を纏った彼は、ブーバーン目掛けて突っ込んでいった。

「クレア!!」

地響きと共にブーバーンがひっくり返る。その脇に着地して、マリルリは自らの、力に満ちた肢体を見せつけるかのように、得意げな表情でポーズを決めた。
声も出せず、成り行きを眺めるだけだった悠斗が息を漏らす。「…………勝っ、た」呟きと言うべき声量で発されたそれは、やがて喜びの声へと変わっていく。



「勝った…………!!」



信じられない、という笑顔になった彼をマリルリが振り返り、キザな動きで片手を上げた。その様子に笑い返して、悠斗は全身に込み上げる高揚感に包まれた。

しかし――


「……………………」
「ねえ、今のってさぁ……」
「…………羽沢、だよな?」
「あの、アレ……」

喜ぶ悠斗とは対照的に、集まったギャラリーの反応は薄いものだった。相手トレーナーも、倒れたブーバーンをボールに戻しつつ渋い顔をする。
「さあ、行きましょうか」やけに落ち着いた声で森田が言い、悠斗の背を押すようにして促した。小声で広がるざわめき、怪訝そうに見つめる視線。おおよそ勝敗がついた際のものとは呼べないその状況が理解出来ず、悠斗は困惑しながらその場を離れた。





「どういうことですか」

駐車場に停めた車に戻り、シートに座ったところで悠斗は耐えきれずそう尋ねる。彼らの後をちょこちょことついてきたマリルリをボールへとしまってから運転席についた森田は、シートベルトを締めつつ「それは」と口ごもった。
数秒、車内に沈黙が流れる。

「泰さんの、戦い方というものがありまして」

呼吸を何度か繰り返した森田が観念するように口を開く。彼がかけたエンジンの音が響き、悠斗の身体が軽く揺れた。

「シンプル、かつ的確な指示。言葉自体は少なくても全力で通じ合う。ポケモンの様子をいち早く察知して、勝敗よりもポケモンが傷つかないことを最善と考え、結果的にそれが強さを呼ぶ――それが、羽沢泰生のバトルなんです」
「……………………」
「要するに、さっきのようなバトルとは真逆、ということです」

悠斗の指の先が小さく震える。
「ポケモンに任せきり、判断を仰ぐ……なんて、羽沢泰生、らしからぬバトルでした」普通を装った、しかし絞り出すかのような森田の声が鼓膜を掠めた。

「今までのは事務所内にしか見られてないのでスランプという形でごまかせましたが……プライベートなものとはいえ、衆人環視でのあれは少し痛いところでした。泰さんは気にしないと思いますが、やはり、エリートトレーナーともなるとイメージというものもありますから」
「俺は、…………」
「いえ、でも勝てたのは良かったんですよ! ここで負けてたらそれこそ大惨事ですし、悠斗くん的にも、ほら、快挙じゃないですか!」

無理に明るいと笑顔を声を作って森田が言った。「過ぎたことは過ぎたことですし、まあ今後は、ああいうのを控えてくれれば大丈夫ですから」ハンドルに手をかけて、周りをチェックする彼は笑う。「それに今回のは相手が強引でしたしね」

「でも、あれはあれで悠斗くんらしいと思いましたよ! ああいうバトルもいいものです」

そう言いながら車を動かし始めた森田の様子は、すっかりいつも通りに戻っていたが、乗車してから一度もルームミラーに映る悠斗を見ていない。そのことを悟った悠斗は、「そうですかね」と曖昧に返して窓の外を見る。
動き出した景色の中、路地でジグザグマとバルキーとでバトルをしている子供達を見つけ、悠斗はそっと目を閉じた。







それから、家に帰った悠斗は母・真琴の剣呑な態度から逃げるように戻った自室で一人、ベッドに腰掛けて天井を見上げていた。
今日の夕方には、富田が連絡をつけてくれたという『専門家』のところへ行くことになっている。森田は一時事務所に戻り、雑務をやってから羽沢家に来るということだった。車で悠斗を送り届けた彼は、道中も、そして悠斗が降車する際にも何かを言うことは無かった。

ただ、申し訳無さそうな顔が頭に浮かぶ。泣きそうなその顔に滲み出る感情が、自分ではなく父に向けられているのは確かだった。森田はそんなことを一言足りとも口にはしないが、それでも、わかる。
自分が父に、羽沢泰生の名に泥を塗ったことは痛いほどに理解した。自分の無知が、意地が、愚かさが、父という存在を貶めることによって、父を慕う人達を傷つけることになる。忌み嫌い、目を背けていた父が自分のあずかり知らぬところでどれほど愛されていたのか。その側面を垣間見たような気がして、恐ろしいまでの後悔が襲ってきた。

(だけど――)

どうすればいいというんだ。壁に貼った、敬愛するバンドのポスターに問いかける。

どうしろというんだろう。三日三晩で作ったハリボテの人格を演じるだなんて不可能だ。しかも相手が、ずっと見ないようにしてきた父親である。どれだけ頑張っても埋められないことへの無力感と、憎むべき父のためにしなくてはならないことへの怒りが心の中でぶつかり合い、押し潰されそうだった。

「おい、悠斗」

そして間の悪いことに、父――自分の姿だが――がノックもせずに部屋へ入ってくる。そういえば今日は三限で終わるから帰ってきたのか、と思いながら「今話せる気分じゃないから」と、悠斗は泰生の顔も見ずにすげない言葉を返した。
しかし泰生はそれをまるで無視し、遠慮無い足取りで悠斗に近づく。迷惑だという気持ちを表すために悠斗は泰生を睨みつけたが、彼は動じる素振りも見せなかった。

「何の用だ」
「何の用だ、じゃない。おい、これはどういうことだ」

言いながら泰生がポケットから取り出したのは、別々にいる時には持ち歩かせることにした悠斗の携帯だった。だからそれがどうしたんだよ、そんなことを思いながらようやく立ち上がった悠斗に、泰生は唸るような声で言う。

「お前の知り合いから送られてきたんだ。『ツイッターで話題になってるけど、お前の父親大丈夫?』と、な。誰だか知らんが、お節介な奴もいるもんだ」

吐き捨てるように告げた泰生の差し出す画面を見て、悠斗は言葉を失った。
泰生の言う通り、ネット上で拡散されているらしいその動画は、先程悠斗が街中でやったバトルを撮影したものだった。あの中に正規のカメラマンがいるはずがないから、人混みからした隠し撮りであるのは間違いないが、駄目なら駄目でしっかり注意しなかったのが悪いとも言えるため口は出しにくい。何より、取り沙汰されたくないならば、森田が言うようにあんな場所でバトルをするべきではなかったのである。
有名トレーナーのプライベートバトルということで、動画はインターネットユーザー達の注目を集めていた。ただ、その注目の内容が問題だった。勝ったとはいえ、森田の言葉を借りるなら『羽沢泰生らしくない』戦い方は、大きな波紋を生んでしまったらしい。

『羽沢も落ち目だな』
『堅実だけが取り柄だったのに。今年は決勝までいけないだろ』
『つまらないバトルだけはするなよ』

まとめサイトに並ぶ辛辣なコメントに、悠斗は発する言葉も無く目を伏せた。

「こんなものはどうでもいい……しかし、お前は俺の代わりをするはずだっただろう。これではポケモンがあまりにも惨めではないか! トレーナーの無茶な言い分に……こんな戦い方、やっていいわけがない!」

「それは…………」

「どうしてお前はそんなこともわからないんだ! ポケモンの気にもなれ、こんな、自分本位な指示でまともに動けるわけがないだろう!? 考えればわかることだ、ポケモントレーナーとして発言するなら、もっと、ポケモンの心に寄り添おうと何故思わない!!」


「っ……そんなの、お前だってそうだろ!!」


怒鳴った泰生に、一瞬目を大きく開いた悠斗が叫ぶ。その大声に泰生が怯んだように言葉を止めた。

「ポケモンの気持ちを考えろ、ってお前はいつもそうだよ。ポケモンの心、ポケモンと通じ合う。言葉なんかじゃない。じゃあ……じゃあ、人間の気持ち考えたことあるのかよ!!」

「なんだと、っ……」

「いつといつも態度悪くてさ。自分本位はどっちだよ、ロクに気もきかないし愛想悪いし、母さんや森田さん困らせて! 人の気なんか、全然考えないんだもんな! ああそうだ、お前はいつだって勝手なんだ!」


一度頭に上った血はそう簡単に冷ないらしく、悠斗の口は止まらない。この、入れ替わったことによるストレスが積み重なっていたのもあって、溜まりに溜まった苛立ちがまとめて溢れ出ていくようだった。
「お前だって大変だろうから、言わないようにしようと思ってたけど」荒くなった息を吐き、悠斗は泰生の胸倉を掴みあげる。「お前、芦田さんに何言ったんだ」

「守屋からLINEきたんだよ――お前、あの人にどんなことしたんだ! 俺の顔で、俺の口で、なんてこと言ってくれたんだ!?」
「何も言ってない。ただ、当たり前のことを――」
「それが駄目だっつってんだよ!! いいか、お前はわからねぇかもしれないけどな、人はな、言われて嫌なこととか、言われてムカつくこととかあるんだよ。だから、言葉を選ばなきゃいけないんだよ、常識だろこんなの!」
「そんなの知ったことか……大体言葉を選ぶ……それは言い訳だ、どうせ本心を隠して影で笑って、嘘をついてるのと同じだ! だから人間なんて信用ならないんだ……人間なんて…………」

泰生も語気を荒げて悠斗に掴みかかる。が、悠斗は全く怖気つくことなく「『嫌い』だろ」と冷めきった声色を出した。

「いつもそうだもんな。お前。人間嫌い、人間は駄目だって。いつもいつも、そうだ」

せせら笑うように、据わった眼の悠斗は言う。



「そんなに人間が嫌いなら、どうぞ、ポケモンにでもなればいいんだ」

「っ!!」



泰生の瞳孔が開かれる。悠斗が口角を吊り上げる。
呼吸を止めた泰生の片手が固く握られ、後方へと振りかぶられた。それを察した悠斗も冷めた眼のまま同じように拳を固め、勢いよく後ろにひいたが――


「ちょっと。悠斗も、羽沢さんも、一回そこまでにして」


突如聞こえたその声と、ドアが開く音に、今にも双方殴りかかりそうだった悠斗と泰生は同時に黙り込む。向かい合って互いを睨む二人の口論を遮ったのは、無表情の中に苛立ちを滲ませた富田だった。
前髪の奥から羽沢親子を見ている彼の後ろには、気後れ気味に顔を覗かせた森田もいる。どうやら二人とも、取り次いでくれた真琴に促されてこの部屋に来たらしい。
勢いづいたところを中断されて、次の行動を図りかねる泰生に鋭い視線を向け、富田は言う。

「絶対こうなると思いましたけど。だから言ったんですけどね、余計なことを言わないでください、と」
「それはこいつが――」

刺々しい言葉に、泰生は反射で返す。が、富田の目を見て、途中で言葉を切ってしまった。
「悠斗くんも、あまり怒ったら駄目だよ」森田の、静かに、しかしはっきりした口調で告げられた言葉に悠斗も黙り込む。気まずい沈黙がしばし続き、やがて謝りこそしないものの、親子はお互いの胸ぐらを掴んでいた腕をそっと離した。

「じゃあ、行きますか」

そうして部屋に響いた富田の声は相変わらず淡々としていたが、先程のような不穏さは消えており、三者の緊張もふっと解ける。親子がそれぞれ顔を見合い、それぞれ軽い溜息をついてまた視線を外したのを見て、森田がほっとしたような表情を浮かべた。
その様子に、富田も僅かに目を細くする。「ちなみに、言っておきますけど」話題を変えた彼に、悠斗達三人は一斉に首を傾げた。「何を」言い含めるような語調に森田が問う。

「今から行くのは、無論『そういう問題』を扱う『そういうところ』ですから――」

一瞬の間を置いて、富田は平坦な声で言った。



「くれぐれも、驚かないようにしてくださいね」





富田が案内した『専門家』は、タマムシ大学から徒歩二十分ほどの街中に事務所を構えているということだった。
街中といっても華やかなショッピング街や清潔感のあるオフィス街ではなく、タマムシゲームコーナーのあたり、要するに治安があまりよろしくない地区である。アスファルトの地面は吐き捨てられたガムや煙草の吸殻が所々に見られ、灰色のビル群もどこか冷たく無機質な印象を受ける。そのくせ聞こえる音はやたらとやかましく、誰かの怒鳴り声やヤミカラスの嬌声、スロットやゲームの電子音にバイクの騒音と、鳴り止まない音に泰生や森田は不快感を顔に示した。
そんな街並みの中を縫って進み、少しばかり裏路地に入る。ドブに寝ていたベトベターが薄目を開けて、並んで歩いてきた四人を迷惑そうに見た。ヤミ金事務所や怪しげなきのみ屋、開いているのか閉まっているのか判断出来ない歯医者などを横目にもうしばらく汚れた道を行く。

「ここだ、このラーメン屋の三階」

いくつかのテナントが複合するビルの一つを指し、先頭を歩いていた富田が足を止めた。何人か客の入っているらしい、ラーメン屋のガラス戸を横目に鉄筋で出来た非常階段を昇る。脂の匂いが路地裏に捨てられた生ゴミ、及びそれに群がるドガースの悪臭と混じり合うそこを進んでいく、二階のサラ金業者、そしてその上に目的地はあった。
「あ、あやしい」森田の率直な呟きが薄暗い路地に響いた。それも無理はないだろう。三階に入っているテナントは、『代理処 真夜中屋』といういかにも不審な業者名が書かれたぺらっぺらな紙一枚を無骨な金属ドアに貼っているだけで、他に何かを知れそうな情報は無い。泰生と悠斗もなんとも言えない顔をして、汚れの目立つ、雨晒しの通路に立ち竦む。

「ちょっと富田くん、本当にここで大丈夫なの?」
「失礼ですね。ここは表向きには代理処……便利屋稼業なんですけど、今悠斗達に起こってるみたいな、あまり科学的じゃない感じの問題も請け負ってくれるんです。そういうところ、なかなか無いんですよ」
「そうは言ってもさぁ、もう少し何というか……得体が知れそうなところというか……」
「得体なら知れてますよ。僕の再従兄弟の友達がやってるんで」
「瑞樹……それは他人と呼ぶんじゃないかな……」
「ミツキさーん、富田です、電話した件ですー」

悠斗のツッコミを完全に無視して、富田は平然と扉を開ける。ギィィ、と思い音を響かせて開いたその向こうは、ただでさえ日陰になっていて薄暗い路地裏よりも、輪をかけて暗澹と不気味だった。
森田が口角を引きつらせる。泰生の眉間のシワが深くなる。「なぁ瑞樹……」まだ陽が落ちていない外には無いはずの冷気が室内から漂ってきて、いよいよ不気味さに耐えられなくなったらしい悠斗が遠慮がちに呟いた。


「あー! 瑞樹くん、久しぶり!!」


が、その時ちょうど中から出てきたのは、そんな禍々しさからはかけ離れているほどにあっけからんとした雰囲気の男だった。

見た目からすれば、目元を覆うぼさぼさの黒髪によれたTシャツとジャージ、十代後半にも三十代前半にも見える歳の知れない感じとなかなかに怪しいが、そんな印象をまとめて吹き飛ばすほどにその男の声は朗らかで明るい。スリッパの底を鳴らしながらヘラヘラと笑うその様子はどう考えてもカタギの者では無かったが、しかし恐いイメージを与えるような者でも無かった。
「お久しぶりです」「半年ぶりくらいじゃん、学校近くなんだからもっと来てくれてもいいのに」「色々忙しくて」二言三言、言葉を交わした富田は悠斗達を振り返って口を開く。

「こちら、真夜中屋代表のミツキさん。ミツキさん、この人たちです。電話で話したの」
「どうも、ミツキと申します。こんな、かいじゅうマニアのなり損ないみたいなナリしてますけど一応ちゃんとしたサイキッカーなんですよ」

おどけた調子でそんなことを言ったミツキに、泰生が「ほう」と感心したように息を漏らした。サイキッカーという肩書きに反応したのだろう、『mystery』というロゴとナゾノクサのイラストというふざけたTシャツ姿に向けていた、不快なものを見る目が少し緩められる。「サイキッカー……」森田は森田で、超能力持ちトレーナーの代名詞でもあるその存在を目の当たりにして言葉に詰まっていた。
ただ一人、サイキッカーという立場の何たるかをほぼ理解していない悠斗だけが「はじめまして」と挨拶している。それに軽く一礼で返し、ミツキは数秒の間を置いて、「なるほどね」と前髪の奥にある垂れ目を光らせた。

「入れ替わったっていうのは、君と、あなたですか。なるほどなるほど、これは……大変だったでしょう」
「あれ。俺、誰と誰が、とまでは言ってないと思いますけど。わかるんですか?」
「流石にこのくらいなら、見ればね。あとは僕のカンもあるけど」

悠斗と泰生を交互に見遣り、同情するような顔をしたミツキは「まあ、立ち話もなんですから」と四人を扉の奥へと招く。
言われるままに室内へと足を踏み入れた悠斗達は、それぞれ思わず目を見張った。勝手知ったる富田だけが、破れかけた紅い布張りのソファーに早速腰掛けてリラックスしている。

「散らかっていて申し訳無いのですが」

決まり悪そうに笑いながらミツキは頭を掻いた。その足元には必要不必要のわからない無数の書類、コピー用紙、紙屑が散乱し、事務所らしき部屋の至る所には本だの雑誌だの新聞だのが積み上げられている。そこかしこに転がっているピッピにんぎょうや様々なお香、ヤドンやエネコの尻尾、お札の使い道は不明だが、ただ単にそこにあるようにしか思えない。唯一足の踏み場がある来客スペース、富田が座っているソファーには何故か、ひみつきちグッズとしてあまり人気の無い『やぶれるドア』が打ち捨てられている。
確かに酷い散らかりようだが、悠斗達の意識を集めているのはそこではない。室内のあちこち、そこかしこにいるゴーストポケモン、ゴーストポケモン、ゴーストポケモン。もりのようかんやポケモンタワーなどを2LDKに凝縮するとこうなる、といった様相だった。

「これは、一体……」

窓に所狭しとぶら下がるカゲボウズ、ガラクタに混じって床に転がるデスカーン。観葉植物用の鉢植えにはオーロットが眠っているし、壁を抜けたり入ってきたりして遊んでいるのはヨマワルやムウマ、ゴースの群れだ。ぼんやりと天井付近を漂うフワンテの両腕に、バケッチャがじゃれついてはしゃいでいる。
洗い物の溜まったシンクを我が物顔で占拠している、オスメス対のプルリルを見て、森田が呆けたように息を吐いた。

「このポケモン達は……全員お前のポケモンなのか?」
「いえ、違いますよ。みんな野生だと思うんですけど、ここが居心地いいらしくて。溜まり場みたいになってるんですよね」

切れかけた蛍光灯の上でとろとろと溶けているヒトモシを見上げ、どこかソワソワした様子(シャンデラの昔を思い出したらしい)で尋ねた泰生にミツキは答える。「僕のポケモン、というかウチの従業員はこいつだけです」
その言葉と共に台所の方から現れたのは、お茶の入ったコップを乗せたトレーを運んできたゲンガーだった。テーブルに四つ、それを並べるゲンガーにまたもや驚いている悠斗達を尻目に「僕の助手のムラクモです」とミツキが呑気に紹介を始める。


『本日はお越しいただきありがとうございます』


「え!? 喋った!? ゲンガーが!!」

紫色の短い腕でトレーを抱えるゲンガーの方から声がして、森田が仰天のあまり叫び声を上げる。富田の横に腰掛けた悠斗は仰け反り、泰生も両目を丸くした。
「違う違う、喋ってるわけではないですよ」面白そうに笑い、ミツキはゲンガーの隣にしゃがみ込む。トレーを持っていない方の手に収まっているのは、ヒメリのシルエットが描かれたタブレット端末だった。

「ムラクモは、これを使って会話してるんです。念動力で操作して」
『そういうわけです、驚かしてすみません』
「な、なるほど……いや、それにしてもびっくりですけどね……」
「だから言ったじゃないですか。『そういうところ』なんだって、ここは」

驚いたままの森田へと、何でもない風に富田が言う。泰生はもはや驚愕を忘れ、どちらかというとゲンガーを触りたくて仕方ないらしく(しかしそう頼むのは恥ずかしいらしく)チラチラと視線を送っていた。『本当、汚くて申し訳ございません。ミツキにはよく言って、はい、よく言って聞かせますから』小慣れた感じに操作されるタブレットが電子音声を再生する。
『よく言って』を強調させながら紅の瞳の睨みを効かせるゲンガーに、「も〜、悪かったってば! 次からちゃんとするから呪わないでよ」などとミツキが情けない声を出す。そんな、当たり前のように交わされるやり取りを眺め、悠斗がポツリと呟いた。



「ポケモンにも、色々いるんだな……」



親友が漏らしたその一言に、「ムラクモさんのアレは特別だと思うけど」と富田が言う。森田は散らかり尽くした台所から出されたお茶の消費期限を気にするのに忙しく、泰生はゴーストポケモン達に内心でときめくのにいっぱいいっぱいで気づいていないようだったが、ただミツキは聞いていたらしく、長い前髪を揺らして悠斗の方を振り向いた。

「そうだね」

嘘のように澄んだ瞳が悠斗をみつめる。

「ポケモンも、人間も。色々いるもんだよ」

それだけ言って、ミツキは「じゃあ本題に入りましょうかー」と話を変えてしまう。「ムラクモ、なんか紙取って紙、メモ取れるやつ」などと甘ったれるその声色は頼り無く、先ほど悠斗に向けられた、浮世離れした神秘を感じるものとは全くもって違っていた。『その辺のゴミでも使え』悪態を再生しながらも、ゲンガーは机に積まれた本の中からノートを探し出してミツキへ放る。そんな献身的な姿を見ていた森田は、どこか親近感を覚えずにはいられなかった。
ノートでばしばしと叩かれているミツキの方をじっと見たまま、悠斗は黙って動かない。そんな彼に声をかけようとして、しかし、富田はそうしなかった。
何か言う代わりに口をつけたお茶は不思議な香りを漂わせ、喉に流れると奇妙に落ち着くようだった。消費期限のほどは、大丈夫だったようである。





「…………それで、羽沢さんたちにかけられた、っていう呪いなんだけど」

悠斗達、依頼者の向かいに座ったミツキが言う。「なんか、おかしいんだよね」
両腕を組み、ミツキは視線を上へ向ける。何がだ、と尋ねた泰生に『妙なんだよ』と答えたのはムラクモだ。

『ミツキの千里眼や俺の影潜り……人やポケモンを通して、そのバックボーンを調べると、大概呪いをかけた相手が多かれ少なかれ見えるはずなんだ。その人に思いを向けているヤツってことだな、感情の内容がわかれば普通、その主もわかる』
「でも、羽沢さん方は、その『思い』しか見えないんです。ポケモンによる力だということはなんとなくわかるけど、それしかわからない……呪いをかけた相手の顔が、全く感じ取れないんだ」
『多分、直接呪いをかけたわけじゃないんだ。そもそもお二人とも、呪術だの魔術だのが効くタマじゃないっぽいからな。覗くくらいなら出来るが、霊感が無さすぎて効果が消えるらしい』
「ノーマルタイプとか、かくとうタイプにゴーストの技が通じないみたいなものですね!」

ミツキによる例え話に、森田が「あー、あー」と納得したような声を出した。「やっぱり」と富田も一緒になって頷く横で、羽沢父子はなんとも言えない敗北感に面白くない顔をする。
それに気づいた森田が慌てて咳払いをし、その場を取り繕うように「で、でも」とわざとらしく発問する。

「直接っていうのは、ポケモンバトルの技みたいに、呪いをかけたい相手とかける方がダイレクトに繋がってるってことですよね。じゃあ、そうじゃないっていうなら、どういうことですか。間に誰かがいるってことですか?」
「誰か、というより感情の類です。祈ったり願ったり呪ったり……そういう、何か霊的だったり神的だったりする気持ちを媒介にすると、直接は無理な場合でも呪術が通じることがあるんですよ」
『もっとも、明るい感情はうすら暗い呪いにはほぼ使えないし、もっぱら負の感情になるが……一番手っ取り早いのが、五寸釘打たれたみがわりにんぎょうを使うアレだな。そこにこもった感情から本人にアクセスする呪い』

「どうです羽沢さん。ここ最近、何か呪いをしたことは」
「あるわけないだろう」
「んなバカなことするもんか」
「ですよね」

怒気を孕んだ二つの即答に、ミツキは「すみません」と謝りつつ肩を竦めた。会話を聞いていた森田と富田はそれぞれの心中で、まあそうだろうな、と同じ感想を抱く。泰生も悠斗も、呪いどころか可愛いおまじないでさえもまともに信じていないようなタチなのだ。宗教的なことを軽んじる人達では無いけれど、かといって自分からそういう行為をするなどあり得ないだろう。
行き詰まった問答に、一同はしばし黙り込む。最初に動いたのは「でも、一応手がかりは掴めたわけですから」と伸びをしたミツキだった。

「霊力自体は嗅ぎつけたんです。地道な作業にはなりますが、ここを中心に、カントー中、ひいては世界中の……まあ出来ればそうしたくないですが……気配を探し当てて、この力と同じものを探してやればいいんです」
『何、俺たちは探偵稼業もやってますからそういうのは得意なんですよ。ホエルオーに乗ったつもりでいてください』
「色々ありがとうございます。申し訳ありませんが、どうかよろしくお願いします……!」
「お、お願いします!」
「…………よろしく頼む」
「なるべく早く、ね。よろしく、ミツキさん」
四者による各々の頼み方に一つずつ頷いたミツキは、「任せてください」と微笑んだ。

何かあったら連絡してください、という言葉と共に彼が扉を開けると、陽はとっくに暮れていた。一階のラーメン屋の灯りだけが路地裏を照らす。手すりにぶら下がっていたズバットが、扉の隙間から急に差し込んだ光に驚いて飛んでいってしまった。
「ここのこととか、ムラクモのこととか、御内密に頼みます」「言いたくても言えませんよ……」「そりゃあそうか」気の抜けた会話を交わしつつ、悠斗達は非常階段へ続く外に出る。薄ぼんやりとした月が見上げられるそこで、いざ帰路につこうと彼らが背を向けたところで、真夜中屋のサイキッカーとその相棒は、揃ってイタズラっぽく笑ったのだった。


『そんな場合でも無いかもしれないが――』

「この際、思いっきりぶつかってみるのもいいと思いますよ」


無言で視線を逸らし合う親子にミツキが言う。「生き物だもの、ってね」なんとも微妙なアレンジが加えられたそれに、『パクんな』という電子音声が夜の空に響いた。


  [No.1388] 第五話「一意専心」 投稿者:GPS   投稿日:2015/11/11(Wed) 21:55:44   33clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

「大変なことになったのねぇ」

不貞腐れた顔で朝食をつつく夫と一人息子――つまりは入れ替わった泰生と悠斗を交互に見て、彼らの妻であり母である、真琴はどこか呑気な溜息をついた。
ミツキに話を伺い、呪いをかけられたことがいよいよ明らかになったため、悠斗達はこのことを真琴に言うことに決めたのだ。森田と富田も交えて説明を受けた真琴は最初のうちこそ「いつの間にそんなバカやるくらい仲良くなったのよ」と笑い飛ばしていたが、二人の切羽詰まった雰囲気と、森田や富田までもが真剣な表情をしていることから、渋々ながらも信用することにしたらしい。

「でも、ポケモンって不思議だもんねぇ。私はよくわからないけど、そういうこともあるかもしれないわね」

それにしてはあまり焦った様子の見られない真琴だが、彼女は元来こういうマイペースなところがあった。そうでもなければ、昔からひどく偏屈だった泰生の妻になろうなどと考えないだろうから当然かもしれない。話をした昨夜に引き続き、羽沢家に訪れている森田は「本当、びっくりですよね」と相槌を打った。

「入れ替わるだなんて、まさか、そんなことが起こるだなんて。ごめんね悠斗、そうとは気づかず、冷たくしたりしちゃって」
「いいよ別に。俺達こそ、黙っててごめん」
「本当よ。いつもいつもこうなんだから、肝心なことは言わないで。まったく」
「…………ふん」

泰生のマネージャー歴が長い森田や、悠斗の友人で家もほど近い富田は、羽沢家の家族関係が客観的に見てうまくいっていないことは重々理解している。もっとも、物凄く危機的であるとか破綻寸前であるというわけではないから踏み込む必要も無いだろうが、それでもあまり心臓に良いものではない。今のように、言葉の端々から醸し出される刺々しさや態度の差異など、その片鱗を見せつけられるといたたまれない気持ちになる、と森田は思う。富田は慣れた様子で何食わぬ顔をしているが、彼は必死に笑顔を貼り付けて、ヤドンにでもなりたいなどと現実逃避するのに精一杯だった。
「森田さん、ご迷惑おかけして本当申し訳ありません。富田くんも、ごめんね。こんなことに巻き込んじゃって」そんな森田はさておき、真琴が深々と頭を下げた。森田が慌てて首を横に振る。

「いえ、泰さんの問題は僕の問題ですから! 泰さんが困ってるなら、僕は全力でサポートするのが当然、ってものですよ」
「本当に……森田さんがいてくれてよかった。こんなマネージャーさん、世界で森田さんしかいないでしょうよ」
「俺も、たとえ火の中水の中草の中森の中……悠斗のためなら、何だって」

感動して森田を見つめる真琴に、出されたお茶を飲んでいた富田が言葉を発した。「富田くんも、ありがとうね。頼もしいわ」微笑む真琴からご飯のおかわりを受け取りながら、「よせよ、瑞樹」まんざらでも無さそうな風に照れている悠斗が口元を緩める。内心、羽沢親子のギスギスした会話から話題が逸れたことを安堵した森田は、ひっそりと溜息をついた。
「本気なんだけど」短く富田が漏らしたその言葉は、悠斗と真琴が今日の帰宅時間などを話し始めたため、それに掻き消されてしまったようである。が、黙って味噌汁を啜っていた泰生だけは、今は真琴によく似ている目を少し動かしてそちらを見た。





「今日は午前がまるまる空いていますから個人トレーニングですね。事務所のビルの地下に、狭いですけどコートがあるのでそこ使いましょう」

064事務所を擁するビルに入り、自動ドアを潜りながら森田は言った。警備員の男と、その向かいにいるゴーリキーが揃って一礼したのに会釈を返した悠斗はそれに続く。
関係者用、と書かれたエレベーターの前には誰も並んでいない。森田が押した下りボタンが点灯する。『54』という、パネルに表示された数字がどんどん小さくなっていくのを何ともなく眺める森田の、どちらかというと高めの声が廊下に響いた。「午後はトレーナー向けニュースサイト何件かのインタビューがありますが、まあそれは、泰さんらしい感じで答えてください」

「そんなに心配しなくて大丈夫ですから! そんな変なこと聞いてくるところじゃないですし、大体の原稿は昨日泰さんに尋ねて作っといたんで……」
「あの、森田さん」

いつも通り、丸っこい童顔に笑顔を浮かべた森田の言葉を、悠斗が遮った。ぽーん、と音が鳴って、エレベーターの到着が告げられる。
中から出てきた、むしよけスプレーの詰まった段ボール箱を台車に乗せた作業服の男と入れ違う形で、悠斗と森田はエレベーターへ乗り込んだ。湿気た空気の充満する狭い密室、パネルを操作する森田の横顔は見ずに、階数表示を見上げる悠斗は言葉を続けた。

「どうして、あいつと一緒にいられるんですか」

それは、悠斗が森田を知ってからずっと気になっていて、森田が泰生のマネージャーを務めるようになる時間が経つにつれてますます強まって――それでいて、聞けなかった問いであった。

「ずっと聞きたかったんです。なんで、森田さんは……あいつのことを、そんなに」

そこで黙り込み、俯いてしまった悠斗を、視線を動かした森田はじっと見つめる。バトルの邪魔にならないようにというポリシーの元、短く切り揃えられた泰生の髪の下で、悠斗の顔に影が落ちた。それが森田の瞳に映ること数秒、モニターが『B2』の表示に変わり、重い灰色をしたドアが開く。
「悠斗くんは」開くボタンに指を置き、悠斗に出るよう促しながら森田は言う。「泰さんのことが、嫌いですか」
言葉を詰まらせた悠斗を見て、森田が小さく笑った。ビルの地下二階はしんと静まり返っていて、独特の臭いが満ちている。コートと廊下を隔てる大きな扉を押し開けながら、森田は先程の問いにはすぐに答えず、「悠斗くん、悠斗くんが中学校に上がる前、カイナからタマムシに引っ越したでしょう?」と質問した。

「ええ、まぁ……」
「その理由、知ってますか」
「それは…………」

問われた悠斗は口ごもる。知っている、という意味を持ったその沈黙に、森田は八年前の彼を想像した。
八年前、悠斗が小学校卒業を目前にした羽沢家は、それまで住んでいたカイナシティから、ホウエン地方タマムシシティへ越してきた。それは大まかに言うならば、泰生がそれまで所属していたトレーナープロダクションの責任者と揉め、飛び出す形になってしまったからである。勿論、大まかすぎるほど大まかなもので実際は、はもっと色々とあったのだが――真琴に聞いた話だと、悠斗の認識は小学六年生の頭で理解したもののまま、その状態で止まってしまっているらしい。
当時の悠斗は、友達と同じ中学に通うのをとても楽しみにしてたという。しかし泰生の都合仲の良い友人達も、海が見える中学校も、潮の匂いに満ちたカイナの街並みも、全て手放さざるを得なかったのだ。悠斗の心境を考えると、確かに許しがたいことかもしれない、と森田は推し量る。元々泰生が家にあまりいなかったために父子関係が上手くいってなかったこともあって、その出来事は悠斗が泰生をいがむようになった決定的事項と言えた。

「実はですね、悠斗くん。あの時、泰さんがあっちの事務所を辞めなかったら、064事務所は無かったんですよ」

でも、まあ――その『色々』も、知っておいて悪くは無いだろう。
そう考えた森田の言葉に、悠斗が目を丸くする。それに口許を緩めた森田は、まだ時間が早いせいか、あるいは他のトレーナー達のスケジュールが埋まっているせいか、しんと静かな無人のコートに目を向けた。

「カイナのトレーナープロダクションは、かなり大きなところでした。064の何倍も所属してましたし……完全な自社ビルも持っていたくらいでして」
「知ってます。……何度か、見たことがあるので」
「すごいビルでしたでしょう。その頃、泰さんはそこに所属していました。私もその事務所に就職して、研修や他のトレーナーのマネージャーを数年やって……泰さんのマネージャーになって一年弱、そんなあたりだったんです」

まだそれなりに若かった森田は、羽沢泰生という強者の相手に日々胃を痛めていた。気難しい泰生のマネージャーという、言ってしまえば森田の人の良さにつけ込んで押し付けられた汚れ役をどうにかこなすのに精一杯だったのだ。とはいえ、彼は元来人付き合いが得意だったし、持ち前の要領の良さを活かして上手いこと立ち回り、泰生が引き起こす小さな揉め事こそあれど、そこまで大きな悩みも無くまあまあ順調な日々ではあった。
しかし、それを崩壊させたのが、悠斗に振った話のことである。あの時は確か各地方からスバメが戻ってきていたから、冬であったのだろう。

「事の起こりは、ホウエンバトルコンペの出場資格に関わる、大幅かつ急な規定変更でした。あ、バトルコンペっていうのは、リーグに似てるんですけど公的なものじゃなくて、いろんなスポンサーがお金出してやる大会で」
「ああ、毎年二月にムロでやる、観光客誘致も兼ねてるってあの……」
「それです、それです。それがですね、開催の三ヶ月前……例年の出場者募集締め切りの一月前に、いきなり出場条件を変えやがったんですよ」

それまでのバトルコンペは、トレーナー歴が五年以上であることと、自分のポケモンとして三匹をバトルに出せること、ホウエンに本籍があること、という三つの条件が揃っていれば誰でも参加出来るものだった。もっとも特別な枠として、これに収まらない旅トレーナーが出ることもある(泰生も旅人時代にスカウトされて出場した)が、どちらにしても、門戸の広いイベントだったのだ。
が、それを覆す要件が提示されたのである。トレーナー歴は問わないが所有バッジ六つ以上であること、バトルに出すポケモンのレベルが五十を超えていること、そしてこれが一番話題になったのだが、それまではホウエンのトレーナーしか出られなかったのに対し、本拠地はどこでもいい、どの地方の者でも出場出来るということになった。

「バトルコンペは、ホウエンのトレーナー界を活性化するためのものでもありました……それなのに、なぜ、ということがかなり問題になったんです」

それでも批判の声があまり大きくならなかった、というよりも大きくなれなかったのは、コンペの運営が赤字であることが容易く予想出来たからだろう。誰でもかれでも受け入れればその分大会の規模が膨らみ、そしてかかる費用も増える。しかしみんなが強いわけではない、烏合の衆が集まったところで盛り上がりに欠けるのだ。そうなると予選のチケットはあまり売れず、収支のバランスはとれなくなってしまう。それを見越したスポンサーは離れていく。
だから運営側の人間も、そうせざるを得なかった。ある程度線を引いて強いトレーナーだけを集め、リーグまでとはいかなくとも、本格的なイベントになるよう規定を変えたのだ。それは苦肉の策で、誰が解決しようと動くわけでも無い以上、どうすることも出来ないものだと考えられた。
みんなこう思っていたのだ――しょうがない、と。

「でも、泰さんは違ったみたいでして」

当時のことを思い出し、森田は苦笑いを浮かべる。あの頃から、泰生は変わっていないままだ。そんなことを思った。

「出場資格の変更で、コンペに出れなくなったトレーナーは沢山いました。勿論事務所に所属するほどなら大抵出れますけど、、外にも……そういう人たちは、その数ヶ月をいきなり空白にされたようなものですし、何よりかなりショックだったでしょう」

泰生は、それが許せなかったという。こんなのはおかしいと主張し、運営に反対声明を上げるべきだと事務所の幹部に訴えた。
が、その要求は突っぱねられ――結果的に、事務所と決裂した泰生はそこを飛び出すことになったのである。

「もう、あの時は……ホンット肝を冷やされましたよ」

今思い出しても胃が痛むらしい、森田は頭を抱えるジェスチャーつきで大きな溜息をつく。

「まあ、いつかやらかすだろうとは常日頃二十四時間思ってましたけどね! エスパータイプでなくともみらいよち出来ますよ、絶対何かやっちゃうだろうと! マネージャーに就任してからずっと、ずっと、ずーーーーーーっと!! 僕はヒヤヒヤしっぱなしでしたから!!」
「……………………」
「もー、頑固だし、自分の考え何としてでも貫くし、正論以外のことは理解出来ないみたいだし、頑固だし、いしあたまだし、脳味噌オコリザルだし、頑固だし!! いつも誰かと喧嘩してるんですから、泰さんは!!」

その頃の鬱憤すらも吐き出しているのではないかという勢いで愚痴り始めた森田に、悠斗は半ば呆然とするように固まった。どうしようもない申し訳無さに、「本当すみません…………」と、今この場にはいない父親に代わって詫びる。「ホントですよ! ホントに!!」森田はぷにぷにしている手で拳を作り、ぶんぶんと振ってみせた。
「でも、ですね」しかし、その様子を引っ込めた森田が穏やかな声で言う。「そんな泰さんに、僕は――いえ、僕たちは、ついていったんですよ」

「泰さんの主張は、ポケモントレーナーという存在全てを守りたいがためのものでした。そもそも、泰さん自身はリーグ出場資格もあるので、規定が変わったコンペにだって出られるんですよ。わざわざ抗議なんてしなくても、自分の立場は何も変わっていないんですから」
「まあ、それは…………」

幼い頃、父親の集めたバッジを見せてもらった記憶を手繰り寄せた悠斗は曖昧な答えを返す。いくつかの地方の、いくつものバッジはキラキラしていて綺麗だった、ということは、薄れた思い出の中にあっても覚えていた。

「ポケモントレーナーがポケモンバトルをするための場所は、守らなければいけないと。そして、それはトレーナーだけでなく、それを支持している存在であるはずのプロダクションの役目でもあると。泰さんは、そう言ったんです」

ここで抗議しなければ、今後ますますトレーナーの立場が侵害されるかもしれない。少なくとも、これを許してしまえば、トレーナーを利用する者達を一つつけ上がらせることになるのは確実だ。だから諦めないで、黙って飲み込まないで、戦わなくてはならないと――そう、泰生は訴えたのだ。

「でも、あの事務所の人たちはそれを聞かなかった。当然といえば当然です。ホウエンで一番大きな、と言ってもいいくらいの事務所でしたから、下手なことは出来ませんからね。保守的になるのも当たり前なんです、トレーナーにつくスポンサーもいなくなったら困りますし」
「…………でも、あいつは……森田さん、は」
「ええ。だから、そこから出て行ったんですよ。泰さんも、僕も。そして、064の社長も、ね」

泰生の主張は確かに退けられたが、それに賛同した者は少なくなかった。そしてその中には、彼を実質的に支えようとした者もいた。それが森田であり、その事務所の幹部の一人であった現064社長であり、今も泰生と同じ事務所で活躍しているエリートトレーナーの何人かだ。
「僕たちは、泰さんについていこうと決めたんです」森田が言う。プロのトレーナーのマネージャーになるという夢を叶え、しかも大手事務所に就職したのに、それを棒に振ってまで選んだ彼の道は、今も続いているままだ。確かに、ひどく悩んだし、迷った。きっと森田だけでなく、064社長や他のトレーナー達も同じことだろう。「それでも」それでも、選んだ。「泰さんといたいと、思ったんです」

「なんで……どうして、そこまでして、あいつに」

呟くような声で、悠斗が疑問を口にする。森田はその、決意したあの日に見ていたものと同じ、しかしそれとはまるで違う横顔を黙って見つめた。悠斗の視線も森田へと向く。

「悠斗くん」

泰生に背を向ける彼に、泰生の背を見続けてきた男は言った。答えを待っている瞳に自分の姿が映っていて、ああ、自分もあの時より随分と老けたものだ、と森田は場違いなことを考える。そんな思いは頭の片隅に追いやって、森田はにっこりと笑顔になった。

「僕と、バトルしてみましょうか!」
「え!? はいっ!?」

あまりに唐突、かつ色々な意味で理解出来なかった森田の台詞に、悠斗は素っ頓狂な声を上げる。「いや、なんでいきなり……」冷や汗を浮かべ、悠斗は狼狽した様子を見せたが、森田は涼しい顔で笑っているままだ。

「いいじゃないですか、誰もいませんし……それに悠斗くんが誰にも怪しまれず、バトルを練習するにはうってつけの相手でしょう、僕」
「それはそうですが、……いや、待ってくださいよ! 森田さんってポケモン持ってるんですか!? そもそも!」
「当たり前でしょ! 自分だってある程度わかってなきゃ、ポケモントレーナーのマネージャーなんてやらないよ。バトル見るの好きだからなりたかったわけだし、それなら多少はやるもんだよ」

そりゃあ趣味程度でしかないけどさ、言いながら森田は立ち上がり、コートの中心へと向かう。「はぁ、そういうもんですか……」状況を飲み込めない悠斗も促されるように立ち上がり、彼に続いて白線の前に足を進めた。ここ数日で何度も立ったその位置についた悠斗を、森田は笑って眺めていた。
「一対一で見せ合いなし。相手は僕ですから、どんどん来ちゃってください!」バトルスペールを挟んだ向こうで森田が叫ぶ。その笑顔を見ているうち、悠斗の気持ちがふっと軽くなった。先程の話の続きは気になるし、昨日の今日で心は暗いままだけど――しかし、やってみよう、とも思えたのだ。
「わかりました」腰のボールに手をかけて、悠斗も叫び返す。「全力でいきます!」

「よし、遠慮なんてしないからね! ……いけ、タマノスケ!!」

「頼む、ミタマ!」

悠斗の投げたボールから現れたシャンデラが、蒼い炎を散らしながら天井まで昇っていく。その向かい、森田の前に走った赤い閃光が描いた形は四つ足の獣だった。僅かばかりの音も立てず、リノリウム張りの床に降り立ったのは、しなやかな身体つきをしたペルシアンである。

「ニャースの進化した奴だ! タイプは、確か……ノーマル…………?」

「そうです! ということは、もうお分かりですよね悠斗くん。シャンデラのミタマにノーマルタイプの技を使っても通じない……だけど、同時に?」

「……こっちのゴースト技も、通じない!」

少しばかり考えて答えた悠斗に、森田は「その通りです!」と嬉しそうに笑った。頭に入れたタイプ相性が間違ってなかったことに悠斗は安堵したが、その先に森田が続かせた言葉に目を丸くする。

「でも、ノーマルだからと言ってノーマル技ばかり使うわけじゃないんですよね。先手必勝、すばやさなら負けませんよ!」

「ねこだましだ、タマノスケ!」森田の放った声と共にペルシアンの姿が掻き消える。目にも留まらぬほどの速さで動いた彼に、悠斗とシャンデラは揃って困惑してしまった。
そしてその直後、驚くべき跳躍力で以てシャンデラの眼前に跳び上がったペルシアンの姿があった。三角の目を光らせた彼は、あまりのスピードに追いつけなかったシャンデラの傘スレスレで、勢いよく牙を打ち鳴らす。至近距離で放たれたその一撃に思わず身を竦ませたシャンデラに、ペルシアンは回した後脚で蹴りを一発かました。

「ミタマ!」

「百パーセントひるみ状態です、何も出来ません! ねこだましはあまり強い技ではありませんが、あくタイプのためゴーストに有効なのと……テクニシャンという、弱い技の威力が上がるとくせいのおかげですよ!」

「どのポケモンにどんなとくせいがあるのか、ちゃんと知っておかないと!」と言う森田の前に、涼しい顔のペルシアンがひらりと戻ってくる。先程の技日怯んでしまったシャンデラは下降し、黄色に光る眼でそちらを睨みつけることしか出来ない。そんな様子にオロオロする悠斗を森田とペルシアンは同時に見遣り、森田は丸っこい目を、ペルシアンは尖った目をそれぞれ細めて「かみつく!」次の攻撃を繰り出した。
実体を伴わないようにも見える、シャンデラの傘にペルシアンの牙が突き刺さる。冷えた空間でガラスを弾いた時のような音が、二人と二匹の他に誰もいない体育館に響き渡った。
しかしその衝撃でシャンデラはようやく動けるようになったらしく、炎を膨らませてペルシアンを遠ざける。上半身を屈めて臨戦状態を保つペルシアンに、シャンデラもまた、身に纏う蒼をより一層大きくして対峙した。地下の湿った空気が、それでも焦げる音がする。

「よし……ミタマ、エナジボール!」

「避けなさいタマノスケ! かわしながら近づいてもう一回かみつく!」

炎を揺らし、シャンデラは幾つもの弾を放つがその全ては軽々とかわされていく。床にぶつかっては弾けて爆発するエナジボール、その衝撃すらもものともせずに、ペルシアンはまたもやシャンデラへと肉迫した。
「何度でも噛みつくんだ! かみついて、みついて」森田の叫ぶ通り、ペルシアンの牙がシャンデラに幾度と無く刺さっては、シャンデラの体力を削っていく。「そこでもう一度、ねこだまし!」もはや満身創痍となったところにあの一発を喰らい、シャンデラは目を瞑って身体を固まらせた。
言葉に詰まる悠斗に森田が言う。「早く次の手を考える! このまま負けていいんですか!?」わかってる。いいわけがない。勝ちたい。しかしどうやって。一瞬の間に沢山の気持ちが悠斗の中を駆け巡る。そうしている間にもペルシアンの攻撃は続き、シャンデラの限界は迫っていく。
どうすれば。何をすれば、これは。

刹那、悠斗の視界が開けたような気がした。
そこには森田もペルシアンも体育館も無い――――ただ、シャンデラだけが映っていた。


「…………いたみわけ!!」


気づいたら声を出していた悠斗がそう言った瞬間、シャンデラの身体を真っ黒なものが覆い隠した。それは影のようで、しかし光のようでもあって、瞬く間に大きく膨らんでペルシアンをも取り込んだ。
途端、甲高い、ペルシアンの鳴き声が二人の耳をつんざいた。そして晴れた視界にいる、幾分闘気を取り戻したように見えたシャンデラと痛みに顔を歪めて縮こまるペルシアンに、森田はどうしてだか、口元をにっと緩ませた。
黒が霧散したその時には、悠斗の口はもう動いていた。「ミタマ」それは意識したことではなく、自然に。
驚くほどクリアになった頭から、直接声が出ているようだった。

「オーバーヒート!!」

限界突破の熱量を持った、恐ろしいくらいの炎がシャンデラから溢れ出す。逃げる暇もなく、その渦に包み込まれたペルシアンは全身を焼き尽くされることを余儀無くされる。長い長い断末魔があがる。真っ青な炎が煙になって消えた時、そこには身体を横たえたペルシアンと、それを見下ろすシャンデラがいた。
「お疲れ、タマノスケ」目を閉じ、床に倒れ伏したペルシアンの頭を何度か撫でて、森田はしゃがみこんだ姿勢から立ち上がる。無意識のうちに息を荒くしていた悠斗の方を見た彼は、そのまま悠斗の方へ歩いてきた。浮き上がって道を開けたシャンデラの横を通った森田と、悠斗は黙って向き合う。


「…………ね、悠斗くん」

「………………はい」


短く言って、微笑んだ森田に、悠斗もまた微笑み返した。その肩、森田にとっては唯一無二の大切な上司のそれを、ぽん、と叩く。
「悠斗くん」ペルシアンをボールに戻しながら森田が言う。「泰さんは、天才です」

「あの人は、間違いなく天才なんです。勿論、僕には想像も出来ないような努力を積んで、とてつもない苦労を重ねてきたことは確かなのでしょうが……それでも、それだけでは決して手に入らない、そういう力を泰さんは持っているんです」

森田の話を、悠斗は黙って聞いている。場の雰囲気を察したか、天井付近で炎を揺らし、シャンデラは静かに彼らの様子を見守っていた。
「悠斗くんも、わかるでしょう」そう言いながら、森田が悠斗に視線を向ける。

「ポケモンバトルに限った話ではなくて、スポーツでも絵でも、音楽でも。泰さんみたいな『天才』は、そうじゃない人が絶対に追いつけない、そんな境地にいますよね」

「……………………」

「文字通り、住んでいる世界が……いえ、きっと、生まれてくるべき世界が違ってしまったのだと、僕は思っています。僕たちには絶対行けない、絶対見れないような世界。天才の人たちは多分、そこに生きるべきで、この世界は本当は違う場所なんじゃないでしょうか」

「だから、」森田は悠斗から視線を外し、どこか遠くを見るような目をして呟いた。「だから僕たちは、あの人たちが輝いて見えるんです」

「そうして、どうしようもなく羨ましくて妬ましくて憧れてしまって憎たらしくて――――理解出来ない、と、思うんですよね」

その言葉に、悠斗は小さく息を飲んだ。
彼はボーカルとしての実力は十分にあるが、天賦の才と言えるまでの素質ではない。無論、それを補って余るほどの技量は持っているし、才能だけが全てという世界というわけではあるまいが、それでも天才的な音楽性に生まれながらにして恵まれたと言うべき存在を目の当たりにすれば、計り知れないほどの不安に陥るのは否定出来なかった。
それに何より――父を、泰生を、そう思っていた。バトルはしないから、それに秀でていること自体については何とも感じない。しかし森田が言ったような『天才であること』、そして『生きるべき世界が違う』ということ。そんな父が悠斗にとってはどうしようもなく眩しくて、時として見ていられないほどに、理解出来ない存在だったのだ。
理解出来ない。その感情は、埋められそうにない恐怖と、理不尽な怒りに結びついていく。だから父親から目を背け、距離を置き、自ら道を違えようという真似をした。


あいつとは生きる世界が違うのだと。自分とは異なる存在なのだと。
関わる必要なんか、少しも無いのだと。
そう言い聞かせて、父親を遠ざけたのだ。

バトルにかまけてばかりで、家庭を顧みないロクデナシだともっともらしい理由をつけながら。


「僕も、そっち側の人間ではありませんから。天才って呼ぶべき人を見るたびに、あーもうどうしてくれようか、みたいな気持ちになってますよ。なったところでどうしようも無いのはわかってるんですが、まぁ、それが、余計に」

口をつぐんだまま、俯いてしまった悠斗を横目で見遣った森田は穏やかに話し続ける。羽沢父子と長く関わってきた彼は、今の悠斗が考えているであろうことも大方の予想がついたが――触れることなく、「泰さんに対しても同じでした」苦笑を浮かべた。

「ポケモンとシンクロしているような、無駄のないバトル。人間全てを受け入れようとしない、冷徹なオーラ。その両方が、あの人を『天才』だと証言しているみたいに見えました」

だから、嫌でした。自分との違いを、これ以上無いくらいに見せつけてくるみたいで。
無人のコートに、そんな声が反響した。それを聞いた悠斗は奥歯を噛む。意味の無いその行為は何も成果をもたらしてくれるわけもなく、やり場のない感情が喉元から抜け出てくれることは無かった。
森田が目を伏せる。「でも」続く言葉が、また響く。

「あの時、わかったんです。泰さんが、カイナの事務所を飛び出した時。幹部とぶつかって、それでも一歩も譲ろうとしなかった時。そうしたって自分は損しかしないのに、それなのに抗議し続けた時」

「わかった、って…………」

「簡単なことですよ。天才っていう人が……住んでる世界の違う人が、自分の世界じゃないこの場所を、本当は生きづらくて仕方ないはずの場所を、守ろうとしていることに」

森田が再び、悠斗の方を向く。丸っこい童顔に浮かぶ笑みは、悠斗の知る限り、いつでも泰生の隣にあったものだった。

「違う世界で生きなきゃならない、それが、違う世界の力を持てた人の背負うものなんだと思います。僕たちが天才を理解出来ないみたいに、きっとあの人たちも、僕たちのことを理解するのが難しい。そんな、何もわからない、何もわかってもらえない、そういうものが、あの人たちが見ている『この世界』なんじゃ、ないでしょうか」

一瞬、森田の目が少しだけ揺らいだ。何かを思い出すようなその瞳に、悠斗は小さな疑問を抱いたが、それに気づいた時には既に元のものに戻っていた。

「だから思ったんです。本当に理解することは無理でも、せめて、少しでも力になれればいい、って。どうすることも出来ない世界の中で、そこに生きる者として、支えていきたいと思ったんですよ。泰さんを、この世界で」

だから、僕たちは泰さんについてきたんです。森田はそう言って、悠斗に笑顔を見せた。父親の仕事仲間として、もう何度となく見てきたはずのそれはしかし、今まで見たもののどれよりも満ち足りていて、はっきりとした笑顔だった。
「ですから、――――」その先に続くはずだった言葉を、悠斗はわかったような気がした。しかしそれが森田の口から語られることはなく、代わりにコートに鳴り響いたのは、少し口ごもった彼のポケットの携帯電話から発された着信音であった。

「す、すみません……ちょっと出てきます…………」

気まずそうに頭を下げなから「あー、はい、もしもし森田です」などと言いながら森田はドアを開けてコートから出ていく。それを見送り、悠斗は小さく溜息をついた。先ほどの、森田の言っていたことが頭の中でリフレインする。
自分のこと、父親のこと。一度気持ちを落ち着かせようと、悠斗は目を瞑った――が。

「マネージャーに勝って、満足してるんじゃないわよ」

つん、とした声に耳を突かれて慌てて目を開けた。片手で押さえたドアの向こうに立っているのは、均整のとれた身体をシンプルなトレーニングウェアに包んだ岬だった。どうやら森田と入れ違いで入ってきたらしい、レパルダスのイラスト入りのロゴを腰元に光らせた彼女は「羽沢さんなら勝てて当然でしょうに」と、わざと挑発的な口調で言う。
「……見てたの…………か」内心慌てつつも、表面上は精一杯の平静を取り繕った悠斗はそんな言葉を返した。「見てたわよ」こともなげに岬も返す。「カメラがずっと動いてるんだから。事務所でリアルタイムのが見れるの」

「それにしても、本当どうしちゃったのよ。この頃全然別人みたいになっちゃって」

「そ、それは」

あながち間違ってない岬の指摘に、悠斗は思わず言葉を詰まらせた。「ちょっと体調不良が続いて」などと適当な言い訳をしてみるもあまり信じてもらえた様子はなく、岬は鼻を軽く鳴らしただけだった。
「それより、見たわよ。あの動画」尖った調子の声が言う。あの動画、という言葉が何を指しているのかを数瞬考え、答えに行き着いた悠斗は口の中が苦くなったような気持ちになった。

「あれは…………」

「何なの、アレ。いつもの羽沢さんと違いすぎじゃない。いつもみたいな、全部わかってます、全部見通してみせます、みたいなんじゃなくて。行き当たりばったりで、しかも何? あんな叫ぶキャラじゃないでしょ」

矢継ぎ早に飛んでくる岬の声に、悠斗の肩身はどんどん狭くなっていく。本当のことだから何も否定できず、彼はただただ黙り込むしかない。先ほどの森田の話が蘇る。
「自分だけは周りに流されません、みたいな顔してるのが羽沢さんでしょ」岬は言う。そうだ、そして裏を返すならば、どう足掻いてもそうはなれないのが自分なのだ。ずっと目を背け続けてきた、そしてこの数日で痛いほどに理解させられた事実が悠斗の中に渦巻いては、黒くくすぶる。父のようにはなれないと。ポケモンバトルだろうがそれ以外だろうが、父のような力はとても持つことなど出来ないのだと。
わかりたくなかったそれが目の前に立ち塞がっているみたいで、悠斗は息が苦しくなる。俯いた彼を、岬はちらりと横目で見て、また視線を逸らした。

「まあ、でも……本当に人が変わったっていうなら」

肩にかかる長髪を手でかき上げた岬の声色が変わった。
それに視線を向けた悠斗の隣で、岬は横顔を少しだけ逸らして、口を動かす。


「……私は、あの動画の羽沢さんがしてた戦い方の方が好きだけど」


「泰さーん! 書類関係でやってほしいことがあるって事務の人が! 上戻りましょー」

ほぼ呟きのような声量で言われたその言葉が終わるよりも前に、扉の外から森田の声が響いてきた。思わぬアクシデントに岬はげんなりとした顔をしたが、「あ、はーい!」悠斗には全く見えていなかったようである。
まあ、元よりくだらない一言だったのは承知の上だ。そんなことを岬は自分に言い聞かせる。羽沢泰生にこんな言葉をかけたところで相手にされないのだろう、いつものように、視線すらロクに向けないで立ち去るに違いない。会った当初からずっとそうなのだ、格の違い、いや、もしかするとそれよりもずっと根本的なのかもしれない違いを見せつけてくるように、この男は自分と相容れないところで生きているのだから。
岬はそう考えて自嘲する。

しかし。


「あ、あの、岬……さん!」

ドアから出ていくその男が、振り向きざまに自分を呼んだ。彼の後を追うシャンデラが起こした空気の動きが、岬の髪を弱く揺らす。

「ありがとう、ございます!」

その時自分に向けられた、『羽沢泰生』の声と笑顔に、岬は呆然と立ち竦み――顔を両手で覆い、先ほどとは違う意味での溜息をついてしまったのであった。





「うん。うん、そうか……良かった。ありがとう」

森田のおかげで、気持ちの晴れたように感じた数時間後。缶コーヒーを片手に、トレーニングの休憩中の悠斗はコートの廊下で電話を耳に当てる。通話の相手は大学にいる富田であり、泰生のことを報告してくれたのだ。その連絡と、内容に礼を告げる悠斗の声が誰もいない廊下に響く。森田曰くの『泰生らしからぬ』喋り方になるため、無人のタイミングを見計らったのだ。
しかし、そこで悠斗は「あっ」と声を上げた。どうした、と電話口の向こうで尋ねた富田に「ごめん、人来たから切るわ」と告げて携帯をしまう。怪しまれないように、と気持ちと表情を切り替えてその人影の方を向いた悠斗は、控えめな深呼吸を一つした。階上の事務所へ雑務を片付けに行ってしまったため、今ここに森田はいない。自分だけでどうにかしなくては、と悠斗の気が引き締まる。

「あっ…………」

その人影――同時に悠斗(くどいようだが見た目はは泰生)の方を見た、064事務所若手ホープにして屈指のヘタレ、というか極度の臆病である相生が震えた声を上げた。その声と整った顔の両方に浮かぶ、恐怖と狼狽と不安と怯えの入り混じったそれに、悠斗は何とも言えない憐憫の情を抱く。相生は自分よりも年上のはずだし、森田に聞くところによると、優しくもありながら頼られキャラでもある先輩、芦田と彼は同い年だという。えらい違いもあるものだ、などと悠斗は率直な感想を得た。
そんなことを思いながらも「相生」と低い声で言葉をかける。それにびっくりしたらしく、相生は大げさなくらいに身体を震わせた。その拍子によろけた彼が、足をもつれさせて壁にぶつかり、悠斗は思わず駆け寄った。

「あ、あの……大丈夫?」

咄嗟に自分本来の話し方が出てしまい、悠斗は内心でしまった、と思う。しかし相生はそれどころではないらしく、顔を真っ青にしてひたすら怯えていた。まともに声も出せないらしいその様子が、自分が相生の肩を支えてやっているせいであることに気づき、悠斗は人知れず傷ついたが、所詮は泰生の顔によるものである。何を悲しむ必要があるのか、と自分に言い聞かせ、「すまない」彼がバランスを取り直すのを確認してから手を離した。

「こ、こちら、こちらこそすみません……あの、ちょっと考え事、を……」
「考え事?」

しどろもどろに弁解する相生に、悠斗は思わず質問する。「いえ、大したことじゃないんです、本当に」と、顔の前で両手を振る彼を数秒眺め、しばし思案した悠斗の口から出たのはこんな言葉だった。

「何か困ってるなら、俺に――」
「えっ?」

半ば無意識に悠斗がそう言っていたのは、相生翼という人間の、驚くまでの弱々しさに何か思うところがあったからかもしれない。自分と数歳しか変わらない彼が背負うプレッシャーや重圧というものを、少なからず自分もそうである悠斗は感じ取ったのだろう。悠斗個人の、元来人を放っておけない性分も影響しているのであろう、彼は気がついたら口を動かしていた。
言ってから、しまった、と思う。相生は泰生のことを怖がっているのだから、今こんなことを言っても彼の不安を余計に増強させてしまうだけだろう。「あ、いや――」悠斗が慌てて取り繕い、言葉にならない言葉で場をやり過ごそうとする。

「え、あの……羽沢、さん?」

完全に動揺しているらしい、バチュルのような目を向けてくる相生に「いや、何でもないんだ」と悠斗は適当なことを言う。
明らかに違和感を覚えられている。入れ替わりなどという突飛な発想に、まさかよりにもよってこの相生が行き着くとも、また不審に思って探りを入れてくるとも考えがたいが、余計なタネを蒔くわけにはいかない。
どうにか都合の良い解釈をしてもらえないものだろうか、と祈る悠斗に、相生はひたすら目を白黒ている。気まずい沈黙がしばらく続いた後に「あの――」口を開いた彼の言葉を耳にした悠斗は、何度か瞬きを繰り返した。

「もしよければ、聞いていただけますか」


  [No.1390] 第六話「誠心誠意」 投稿者:GPS   投稿日:2015/11/13(Fri) 21:09:14   40clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

『だって、お前は違うから』


昔からずっと、こんなことばかり言われてきた。

今でこそ長く伸ばした前髪で隠されている富田の両眼だが、その眼球は人のそれではない、赤である。色素の薄い瞼の下で光るその色は燃え盛る炎のようなものではなく、かと言って生命の象徴たる血のようなわけでもない。暗闇の中で深く、爛々と輝く瞳孔。恐ろしい獣のようだと、彼が過去に出会った心無い者はその眼をそう評したものだ。
富田の瞳が人ならざる色をしているのは、彼の血筋のせいである。彼の母親の祖父、つまり曽祖父にあたる男はブラッキーだった。
神話の名残が今でもまだ強いシンオウ地方で、曽祖父であるブラッキーと曽祖母は夫婦の契りを交わし、じきに富田の祖母となる娘を生んだ。だんだん血も薄まり、祖母にあった濃い体毛や尖った耳が母には無く、そして母にはあった両耳、両手首と両足首および額の金色の輝きが富田には表れずと、少しずつその面影も消えていった。唯一残った目に見える特徴こそが、真紅に光る両眼なのだ。

しかし、その唯一こそが富田の人生を生まれたその時最初から、狂わせていた原因であるとも言える。

まず、単純に見た目の問題。真っ赤な瞳は誰が見てもはっきりとわかるもので、少しでも富田と向き合えばその色を知ることが出来る。怖い、不気味、気持ち悪い。子供も大人も、第一印象として否応無しにそんな感情を抱くのだ。
そして二つ目。外見の方は対人関係において障害となったが、こちらの問題はどちらかといえばポケモンに関係する。彼の曽祖父の特性だったシンクロ、その力の影響で、富田は自分の近くにいる存在とその状態を、その赤い両眼で『視る』ことが出来た。基本的にポケモン、特に野生のものは自分の気配を悟られることを避ける傾向がある。人間のくせに、すぐさま自分たちに気づく富田はポケモンからすれば危険以外の何者でも無かった。ポケモンが彼を警戒し、そして近寄らないことがますます富田を人間からも孤立させていた。

だから、彼はいつも一人だった。
人間からは後ろ指を指され、ポケモンからは敵視される。そんな毎日が当たり前だった。

やがて彼はそれを、自分にブラッキーの血が流れているせいだと思い込むようになった。勿論それだけが理由ではないのだと――自分よりもずっとその血が濃かった祖母や母親には仲間が沢山いるのだから――、むしろそういった自分の態度こそが余計に孤独を招いているのだと、それはわかってはいたけれど、そう考え続けるようにした。両目がこんな色だから、曽祖父かブラッキーの家なんかに生まれたから、勝手に皆が恐れるから。そうすることが富田なりの自己防衛で、生き抜くための手段だったのだ。

一人だけで生きてやると。
わかってもらう必要なんか無いのだと。
それが、富田の頭の中にずっとあったことだった。


しかしあの時、彼は言ったのだ。
彼がああ言った時、この赤の瞳で見るどうしようもない世界が、一気に拓けたような気がした。
その言葉は今でも富田の光であり、道標であり、何より勝る希望であり続けている。


『違うものは違うんだから、しょうがないじゃん』

『俺が聞きたいのは、お前がそれをどう思ってんのかだよ』

『嫌なら、嫌だって言やいいんだ。もしそうなら、お前がちゃんと教えてくれんなら、俺は、……』




ピックに弾かれた弦が、手に込めた力同様気の抜けた音を立てた。
一限という、授業に出るのさえ渋って当然である時間のせいか、第二軽音楽サークルの部室には富田と泰生以外に誰もいない。一度羽沢家に集まったものの悠斗達は早々に出てしまったため、家でやることも特に無く、今日は四限からなのだが大学へ行ってしまうことにしたのだ。それに部室ならば練習もできる、他にサークル員がいないのもむしろ好都合だった。

それにしても、と、やや離れたところにあるアンプの隣で歌を練習している泰生を見る富田は思う。昨日、泰生が芦田と揉めたことについて、何の解決も出来なかった。少し聞いたところによると悠斗には守屋から何かしらの連絡があったらしいが、芦田からの音沙汰は無いという。それは富田も同様で、芦田が練習室を出ていったきり彼とコミュニケーションを取っていない。無論、芦田の普段の様子から考えて、それは恐らく怒っているからというよりも、忙しかったりして単に時間が無いからだろうと思われるが、それでも彼が快くは感じていないだろうことは確かだ。
これ以上悪化するかどうかは定かで無いにしろ、良くなることは見込めない現状。早くどうにかしなければならないということだけはわかるけれど、どうしたら良いのかを富田は知らない。悠斗のため、この事態を解決しなくてはと強く考えているものの何も出来ていない、その自分がもどかしくてたまらないと、彼は思った。

「なあ、聞きたいことがあるんだが」

そんな富田の思考に割り込むようにして、泰生が声をかけてくる。現実に引き戻された富田はギターを弾く手を止めた。歌詞の言葉の意味がわからなくなったか読めない漢字でもあったのか、適当な予想をしながら「何ですか」と言葉を返す。

「これは、悠斗が書いたのか?」

が、問いの内容は富田の想像とは違っていた。歌詞の書かれたコピー用紙を片手に聞かれた、その意味を飲み込むのに数秒かけて、呆然となった富田はぽかんとしてしまう。そして次に込み上げてきたのは、何を場違いなことを言い出すんだ、という憤りだった。
「そうですよ」が、そんな苛立ちを泰生にぶつけたところで無意味である。「キドアイラクの曲は、作詞作曲どちらも悠斗です」聞かれたままに答えた富田は、淡々とした口調で付け加えた。有原と二ノ宮は、悠斗の曲に惹かれて一緒にやるようになったんです、と。今、泰生が練習していたのは爽やかなテイストの歌で、片想いの相手が住んでいる数駅離れた町まで電車もバスも車も使わず、勿論ポケモンに乗ることもなく、自転車を漕いで会いに行くという歌詞だった。明るく調子の軽い感じの曲で、悠斗のイメージに合っているだろうからと、学内ライブでの演目に芦田が選んだものである。
これに限らず、悠斗の作る曲は正直なところ特段個性的な歌詞でも旋律でも無いけれど、悠斗がそれを歌うことによって無二の素晴らしさになるのだというのが、有原や二ノ宮、そしてキドアイラクを好きだという人達の総意である。

しかしせっかく答えたにも関わらず泰生の反応は薄いもので、「ふうん」とだけ、大した興味も無さそうな声が返ってきた。その態度にも富田は内心に鬱憤を溜めずにはいられなかったが、泰生がそれに気づくはずもなく、指先に握られたピックが軽く軋んだ音を立てるだけで終わる。
「じゃあ、お前は」泰生がまた声を発したので、富田はギターに落としていた目線を上げた。部屋は違えどこの二人、歌とギターで悠斗の作った曲を演奏するという、富田が何度も繰り返した光景である。見慣れた両目と聞き慣れた声の奥にいる泰生は、富田に次の問いを投げかけた。

「なんで、ギターを弾いてるんだ?」
「悠斗がいるからですよ」

間髪置かず、少しの迷いも見せずに応えた富田を泰生が見る。「それだけか?」部室に響いた声は重く、足下から震わせるようなものだった。
「そうです」だが、それすらものともせずに富田は返す。

「それ以外に、何かいりますか」

前髪に隠れた富田の瞳に姿を映す泰生は、少しの間だけ、黙って富田のことを見据えていた。富田も、泰生も、何も言葉を発さない。開け放たれた窓の外にいる、学生やポケモンの声だけが聞こえてくる。富田の脚に置かれたギターが、日光を反射して赤く光る。
その沈黙の果てに、先に「いや」口を動かしたのは泰生だった。「そんなことはない」何か聞かれるのではないかと内心待ち構えていた富田だが、泰生がそれ以上言及することはなく、「わかった」とだけ言っただけだった。

「行くぞ」

その代わりに彼がとった行動は、全くもって唐突なものだった。急に立ち上がった彼に、「は?」富田は無意識のうちに声をあげる。「行くって、どこに」

「決まってるだろう。あの上級生のところだ、この前のことを謝りにいく」
「上級生……って、芦田さんのことですか?」

状況を把握しきれないながらも、慌ててギターを椅子に置いて席を立った富田は、訝しむような声でそう尋ねる。いとも自然であるかのように「そうだ」と答えた泰生を殴りたくなる衝動に駆られた彼は、しかしそれをどうにか抑えて、無言のままに俯いた。
流れは何も理解出来なかったが、ともあれ泰生が芦田に謝罪(その行動と泰生が結びつかないという意味でも理解不可能であるとしても)をし、あの一件を解決しようとしているのであるなら、それに越したことは無いだろう。そんな自己暗示で思考をポジティブな方へとどうにか持っていき、富田は頭に手をあてながら歩き出す。
先にドアを開けて待っていた泰生の隣までいくと、彼がドアノブを回した。一気に耳へ飛び込んでくる大学構内の喧騒の中、「最後にもう一つ」泰生が静かな声で言った。

「何故、悠斗は音楽が好きなのか知ってるか?」
「……………………」
「答えないなら、別に構わんが」

俺は知らないからな。
口を閉じたままの富田にそう続けた泰生の質問に富田が答えることはなく、ただ「でしょうね」という言葉だけが、廊下の騒がしさへ消えていった。





昼前の大学は混雑の極みである。授業に行く者、行かない者、学食目当てで入り込んでいる余所者、そのさらにおこぼれを狙うコラッタなどの間を掻き分けて廊下を進みつつ、富田はうんざりと溜息をついた。

「行くなら行くで、連絡くらい入れてくださいよ……」

芦田と話をする、と泰生が部室を出たのは良いものの、蓋を開けてみればそれはあまりに無計画が過ぎていた。彼がどこにいるのかもわからないのに、全く連絡をとっていなかったのである。芦田だってサークル以外の生活があるのだから、四六時中部室周りにいるわけがない。カントーきってのマンムー校と名高いタマ大で人探しなど至難の技だし、下手をすれば学校にいるかどうかも危ういだろう。少し考えれば、泰生がそんな手回しをするはずもないくらい富田にもわかりそうなものであるが、突然のことでそこまで頭が追いつかなかったようだった。
「ああ、忘れていたな」うなだれた富田に、泰生は少しも悪びれずに言う。「そういうのは、いつも森田にやらせてるんだ」返ってきたそんな言葉に富田は拳を固め、そして馬鹿らしくなって力を抜いた。「そうですか」もはや怒る気も無くなった彼は、とりあえず今からでも連絡を入れようと、ポケットから携帯を取り出す。

「あ、すみませ……」
「こちらこそ……」

その携帯が、近くを歩いていた誰かにぶつかった。
反射で謝った悠斗と、同じように頭を下げたその相手は、直後、また同じ行動を取ることになった。


「………………あ」

「えー………………」


なんという偶然であろうか、ぶつかった相手は他ならぬ探し人、芦田であった。
芦田にしてみれば、今一番顔を合わせづらい存在なのだろう、ぶつかったのが富田と泰生だと気づいた彼は笑顔こそ崩さなかったものの、明らかに狼狽えた様子で視線を逸らす。彼と一緒にいたらしい、芦田の後ろから顔を覗かせた守屋も同じような表情になった。富田も何と言えば良いのかわからず、携帯を持ったままの手が所在をなくす。
数秒間、次に取るべき行動を三者それぞれ図りかねる時間が流れたが、最初に声を発したのは芦田だった。「あ、じゃあ俺用事あるから……」取り繕うようにそう言った芦田は、微妙に視線を外したまま富田の横を通り過ぎる。彼の後ろを歩く守屋が富田と芦田を交互に見たが、レンズ越しの目は伏せられてしまった。そんな彼らを引き留めようと、富田は指先を携帯の表面から浮かせたが、しかしそれは芦田たちに伸びることなく元の位置へと戻される。そんなことに気づくはずもなく、二人は廊下の雑踏へと消えかけた。

「待ってください。話がある」

が、消えるよりも先に、彼らを呼び止める声が響いた。
敬語なのかそうじゃないのかわからない言葉遣いで言われたそれは、周囲の様子などまるで気にもしないくらいの音量で以て、タマ大の空気に通っていった。何事か、と廊下を歩く学生たちが振り返る。天井を這っていたイトマルが、驚きのあまり足を滑らせた。落下地点にいた女子学生が悲鳴をあげる。

「えと、羽沢君……?」

呼び止められた張本人である芦田は、困ったように振り返る。「ごめん、今本当に行かなきゃいけないとこあって……あとここ廊下だし……」と、申し訳無さそうに立ち去ろうとした彼だったが、「待ってくださいと言ってるだろう!」泰生の中途半端な言葉がそれを許さない。

「目と目が合ったら、逃げることは認められない! それが礼儀ってものでしょうが!」
「いや別に逃げてないし……っていうか何言ってんの羽沢君……?」
「ここがどこだろうと関係無い、俺はあんたと話さなきゃいけないことがあるんだ!」
「だからここ廊下……なんだけど……」

『羽沢悠斗』らしからぬ様子に鼻白む芦田だが、それ以上に周囲の注目を集めてしまっているのがいたたまれないらしい。「何? ケンカ?」「いやバトルだろ、見なきゃ見なきゃ」「なんだよ告白か?」「ここで? 廊下で?」「つーか森センのレポート昨日締め切りってマジ?」などとざわめく学生たちを横目で見て、彼は広い肩背を縮こまらせた。その様子を面白そうに眺めていた守屋が、いつの間にか携帯のカメラを構えてるのに気がつき、富田は「撮ってんじゃねぇよ」「すいません」彼の頭を割と強めに小突く。芦田が戸惑っているのを楽しげに見ている守屋に、こいつは怒ってるのかそうじゃないのかわからないなと富田は場違いなことを考えた。
そんな彼らのことなど気にも留めず、泰生は芦田を正面から見据える。居心地悪そうに片頬を掻いた芦田の頭上で、彼のポワルンが困った風に漂った。「昨日のこと、なんだが」泰生が迷いの無い声を発する。

「ああ……それなら。昨日はごめんね、急に出てっちゃって、あれなら……」
「本当に、申し訳なかった!!」
「あのあと…………って、え……?」

苦笑しながら両手を振った芦田だが、勢いよく下げられた泰生の頭に動きを止めた。芦田だけではない、富田も、守屋も、そして状況を把握しきれていないだろうが群衆もだ。

「え……と、どうしたの、羽沢君……?」

数瞬の硬直から脱した芦田が、首を傾げて尋ねる。その問いにも一切動じず、泰生は頭を下げたままで言葉を続けた。

「昨日は、事情も知らないのに、無責任なことを言って申し訳ございませんでした。誰が何を考えているかということを、よく考えずに勝手なことを言ってしまいました」

「………………」

「そもそも、芦田さんに文句を言うべきではありませんでした。そんなことをする資格は俺にはありませんし、それに、言ってはいけないことでした。俺が悪かったです」

芦田の目を見て、そう言ってから再度深々と頭を下げる泰生を前にして、芦田はしばらく何も言わないで瞬きを繰り返した。言葉を選ぶような沈黙の末、「…………ううん、」という、彼特有の穏やかな声色が開口と共に空気を揺らす。

「俺の方も、ごめんね。昨日のは、羽沢君の言う通りだった。そりゃあ学校の都合なのはそうなんだけどさ、でも、確かに食い下がったりしても良かったんだよね」
「だが、それは…………」
「うん、だからね。あの後事務の人とかと色々して、まぁ工事の日は流石にずらせないんだけど、でも、練習室を優先して使わせてくれるってことになったんだ。ライブ当日まで、僕たちが使えるって」

だから、それで。羽沢君がよければ、これで終わりにして、あとは練習頑張るってことで。苦笑いしながらそう言った芦田に、泰生は数秒、少し驚いたように黙っていたが「はい」と、頷きを一つ返した。
「よくわからないですけど、良かったですね」僅かな安堵の色を表情に浮かべた芦田を見て、守屋が富田に耳打ちする。調子のいい学生が、「めでたしめでたし!」などと手を鳴らし始め、辺りにいた皆の拍手に変わっていく。その中心となっている、どうにもいたたまれなさげな芦田と、慣れているためか全く気にしていない泰生を眺めつつ、富田は「ああ」と生返事をした。

今の泰生は、日頃の悠斗によく似ていた。自分の信念は曲げないけれど、自分が悪いと思えば素直にそれを告げるというところと、しかしそう認めるまでに本人知らずに時間を要するところ。ただ、主義主張がはっきりしている泰生はともかくとして、融通をきかせることが多く時には『しょうがない』と折り合いをつけることもよくある悠斗が、自分の弱味を認めたがらないということは滅多に無い。だから初めて悠斗がそれを富田に漏らしたとき、そんなことを言うのは珍しいと当時の彼は思ったものだった。
そのとき、悠斗が話した『悪い』ことは今でもはっきり覚えている。彼が未だに折り合いをつけていない、認めていない、ずっと相手のせいにしていることを。
そして、富田自身もまた、いつでも悠斗のためにありたいという大義のもと、それをどうにも出来ずにいることを。

どうなさりました? 拍手が落ち着いてきた中で、黙ってしまった富田に守屋が聞いた。何でもない、そう答えた富田の声は、彼自身が思っていたものよりも乾いていて、富田は泰生に向けていた視線を床まで落とす。守屋が訝しむように目を細めた。



「それで、芦田さん。一つ頼みたいことがあります」

と、そこで泰生が声を発した。守屋の意識はそちらへ傾く。話題を変えたらしい彼に、芦田が「なに?」と言葉を返す。
どうやら一件落着したらしい、と興味を無くした学生たちはほうぼうに去っていった。取り残された者達、富田と守屋と、空中に浮かぶ芦田のポワルンが、それぞれ泰生のことを見た。
俺に聞けることなら何でも言ってみて、と芦田が次の言葉を促す。それに頷いた泰生は芦田に向かって切り出した。

「実は――――」





「泰さん、富田くん!」

練習を終え、芦田と別れた泰生と富田が大学を出る頃には、既に二十一時を回っていた。すっかり暗くなったタマムシシティに、それでも未だ多くの窓から明かりの漏れるタマ大のシルエットが浮かんでいる。街灯に誘われて飛んでいるモルフォンの大きな眼玉が信号の色を反射して、三色を交互に光らせた。
泰生は意識的に、富田は無意識に、そんなモルフォンを眺めながら歩いていたところである。聞こえた声に振り向くと、路地に停められた車の運転席から森田が顔を覗かせていた。「そろそろ終わる頃だっていうんで、ここで待ってたんですよ」開けられた窓に片手を置いて、森田は人懐っこい笑顔を見せる。「富田くんから連絡もらったんで」

「別に、わざわざ来る必要など無いだろう」
「またそういうことを。無愛想もいい加減にしてくださいって」
「うちから大学までは徒歩圏内だ。車に乗る距離とは言えん」
「はいはい。まったく、僕はミタマたちが泰さんに会いたがってるからって、そう思っただけなんですけどね」

憮然としたまま車を睨みつける泰生を、何食わぬ顔であしらった森田の言葉に、「……そういうことなら早く言え」泰生は不機嫌そうに言いながら助手席へと乗り込んでいく。あまりにもわかりやすいその態度に苦笑し、「ほら、富田くんも」と森田は後部座席を指差しながら富田を促した。そんな森田が視線だけで示した先、夜道を歩く通行人の何人かが、「ねえ、あれってさー」「そうだよな、送迎ってやつ?」などと、窓から見える羽沢泰生に反応してるのに気がついて、富田は急いでドアに手をかけた。
すみませんわざわざ、などと言いながら富田が乗り込んだシートには、森田と共に乗ってきた悠斗が通行人から顔をやや隠すようにして座っていた。「いいのいいの、僕らもちょうど終わったとこだから」軽い調子で笑った森田がアクセルを踏んだところでようやく、悠斗はほっとしたような顔で背もたれに寄りかかる。そんな様子に思わず口元を緩めつつ、ギターケースを傍らに置き直した富田は声をかける。

「お疲れ。すっかり有名人だな」
「やめろって……そうなるのは、メジャーデビューしてからって決めてるんだから」
「なんだそれ。……あれ、森田さんどこ行くんですか」

悠斗と適当な会話をしていた富田が、森田にそう尋ねる。車窓の向こうに流れる景色は光源が徐々に少なくなっていき、確かに住宅街へと入っていたが、羽沢家に向かう道のりではなかったのだ。怪訝に思って目を細めた富田に、「ごめん、ちょっとだけ時間もらうよ」と森田が答える。泰生は当然のような顔をしてフロントガラスを見ているし、悠斗は何も言わずに腕を組んでいるだけだった。
程なくして車が滑り込んだのは、住宅地の中にある小さな公園だった。子供が遊ぶには遅すぎて、大人が溜まるには少し早い時間であるためか、そこには誰もいない。木の間をズバットが飛んでいく音や、立ち並ぶ家からの生活音こそ聞こえてきたが、先ほど森田に声をかけられた場所である繁華街と比べ、随分静かであると富田は思った。

「二人ともごめん。少し待ってて」

歩道の無い道路に車を停めて、エンジンを切った森田が後部座席を振り返る。泰生は早くも車を降りていて、夜露に濡れた雑草を踏んでいた。それを追うようにドアを開けた森田は、座席の下に置いてあった三つのボールを持って泰生の隣へ歩いていく。
曇った夜空に向かって投げられたそのボールから出てきた三匹は、薄暗い公園に立つ泰生、つまり悠斗の姿を見つけるなり、揃って不思議そうな顔をした。が、それもすぐに消え去って、それぞれ思い思いに遊び出す。シャンデラが遊具の間を颯爽と飛び回り、マリルリは噴水に飛び込んで見事な泳ぎを披露する。輝かんばかりの笑顔になったのボーマンダの影はもはや遥か上空のものとなり、楽しそうな咆哮だけが聞こえてきた。

「…………何、これ?」

その様子を公園の中央で見守る泰生と、一歩後ろに控える森田を見遣ってから、富田が率直な疑問を口にした。

「なんか、いつもやってるらしい」

一日頑張ったポケモンと、一緒に遊ぶんだってさ。今は一緒にってわけにはいかないけど。森田さんが言ってた。窓枠に肘をつき、悠斗がそう捕捉する。「そうなんだ」それ以上添えるべきコメントも無く、富田もシンプルな返事をした。

「今日、芦田さんとこ行く前。あの人に、お前がなんで音楽好きなのかって聞かれた」

そこで途切れた会話を引き継ぐように、富田は平坦な口調のままにそう言った。それを聞いた悠斗は数秒、口を若干開けて富田を見たが、やがて「なんだそれ」と笑い混じりの声を出す。

「意味わかんねぇ。なんであいつが、そんなこと聞くんだ」
「俺が知るかよ」
「ま、そうか」

乾いた声で言い、「でも、懐かしいな。お前も前に同じこと聞いてきたよな」と悠斗は富田に笑みを見せた。「そんなの誰だって聞くだろ」と富田も笑い半分に返す。そりゃそうだけど、と、悠斗はそう言ってから、父のものである両眼を伏せた。

「で、瑞樹は。答えたの?」
「いや」
「答えなかったか」
「そうだな」

富田がそう頷くと、悠斗は「そっか」と少しだけ笑った。そっか。もう一度、その言葉が繰り返される。
口角を緩めた悠斗は、窓の外へと視線を向けていた。そこにあるのは、好きなように遊んでいるポケモンを、穏やかに見守っている泰生の姿だ。昨日の口論の時とは似ても似つかないその様子を見ている悠斗の、黒い影が落ちた横顔を富田は赤い目だけで見遣る。前髪の隙間から、悠斗が口を動かすのが見て取れた。

「他に、何か聞かれた?」
「この曲はお前が書いたのかって。あと、」
「あと」
「俺がなんで、音楽やってんのかって」
「何て答えた?」
「いつもと同じだよ」
「そっか」
「そうだよ」
「うん」
「それ以外ないだろ」

そっか、とまたしても繰り返した、悠斗の目は泰生へと向いたままだった。「悠斗がいるからだよ」狭い車内に、そんな言葉が反響する。「変わらないって」

「そうだな」

相変わらず、悠斗の視線は窓の向こうにあるままだったけれど、「ありがと、瑞樹」富田の夜目は暗闇の中、彼の表情が少し柔らかくなったのを確かに捉えた。
うん、と短く頷いて、富田は無為に天井を見上げる。先程、悠斗に言われた言葉を頭の中で反芻した。お前も同じこと聞いたよな、そうだ、確かに聞いた。なんでお前はそこまでして音楽をやるのかと。

悠斗と知り合ったのは中学二年生に上がる前で、まともに話すようななるまでは、大したプロフィールも知らなかった。中学入学と同時にタマムシへ越してきたこと、有名なトレーナーの子供だということ、そのくせ、やけにポケモンを嫌っていること。あとは、合唱部から勧誘が来るほどに歌が上手く、しかし歌は自由にやりたいという理由で断ったらしい、ということくらいだ。
当時から悠斗は誰からも好かれる人柄で、富田からすれば日陰者の自分と関わることも無いだろうから詳しく知る必要も無い存在だ、と思っていた。だけどある時を境に親しくなり、家に招くまでの間柄になった富田は、世の中どうなるかわからないものだ、などと考えずにはいられなかった。
そんな富田の内心も知らず、初めて富田の家に遊びにきた悠斗は、リビングにあったギターを見つけてものすごく興奮したようだった。『なぁ、これ!!』などと、ロクに言葉の体を成していないそれに戸惑った富田は、どうしたの、と尋ねたものである。

『どうしたのって、それは俺が言いたいよ! なんだよこのギター!』
『何って…………』
『マジやばいよこれ! レッチリのジョンが使ってたのと同じモデルじゃん、今持ってるのって世界でもほとんどいないらしいって!』

息を荒くする悠斗に若干ヒキながら『いや、知らないし……』と富田が答えると、『レッドホットノワキペッパーズだよ!? イッシュの! 知らないのかよ!』と彼は大袈裟に驚いてみせた。そんなことを言われても、ギターの持ち主は富田でなく富田の父親で、当時の富田自身は音楽など人並み以下の知識しかなかったのだから仕方ないだろうが、そんなことを悠斗がわかるわけでもない。余談だが、ギターの持ち主にして、若い頃インディーズバンドをやっていた富田の父親は息子に出来た音楽好きの友達をたいそう気に入り、時には歌の指南をしたりということもあるほどで、悠斗にとってかなり大切な人の一人である。
ともあれ、興奮しきりのそんな悠斗を見かねて、富田の母が何枚かのCDを持ってきてくれたのだ。それを見てさらに悠斗は喜び、流れた曲に合わせて歌い出したのである。
リビングに響き渡る、どこまでも通りそうなその声を聞き、富田は、この出来たばかりの友人が、どんなくらいに歌を好きなのかを垣間見たような気がした。だから聞いたのだ、その理由を。

富田がギターを始めたのは、「こんないい楽器あるならやってみてくれよ!」と、その時に悠斗が言ってからだ。父に助けられながら血が滲むような練習を重ね出したあの日から、自分がギターを弾く理由は、音楽をやる理由は、今も何一つ変わっちゃいない。微塵もぶれることの無い道標に向かって、ひたすら進んでいるだけなのだ。
そしてそれは、悠斗も同じなのだろうと富田は考える。自分が変わっていないように、悠斗もあの時と同じままだ。音楽に対する想いも、ポケモンと距離を置いているのも、人を惹きつけてやまない歌声も。
そして、この目をすることも。何も、変わっていない。

ガラス一枚隔てた車外から聞こえてくるのは、泰生のポケモン達がはしゃぐ音と、どこからか鳴り響くクラクションと、見知らぬ家庭の子供が泣いている声だった。奇妙に騒がしい沈黙に、外を見たままの悠斗の横顔をもう一度盗み見て、富田は目を閉じかけたが、しかし代わりに口を開く。


「なぁ、悠斗、俺は…………」



「毎度お世話になっております! 浮気調査から反魂術まで、あなたの町の便利屋さん、真夜中屋でございます!!」



と、富田が悠斗に何かを言いかけたところで、やけに楽しそうな声が車内に反響した。同時に二人の眼前に現れたのは巨大な黒の顔面で、彼らは揃って全身を粟立たせる。

「!? な、……!?」

「え!? 誰、ミツキさん……?」

大きく仰け反り、シートに背中を張り付かせた富田がおそるおそる問う。口をぱくぱくさせる悠斗を面白そうに笑ったその顔面、低い天井いっぱいにガスを蔓延させたゴースは「その通り!」と高らかに言った。

「ご依頼の件で報告があるからお邪魔させてもらったんだ。これはこの子のナイトヘッドの力で、幻覚見せる要領で僕の声を伝えてもらってるんだよ。驚かせようと思ったんだけど……もしかして、お取込み中とかだった?」
「いや、それは大丈夫ですけど。……普通に電話とかでいいんじゃ」

ぼそりとつけ加えられた富田の正論はあっさり無視され、ゴース、もといその向こう側にいるらしいミツキは「で、早速本題なんだけどさ」一人で勝手に話を始めてしまう。富田は疲れきった顔で、ミツキさんは昔からこういうとこがあるから、ごめん、などとうんざりした声で呟いた。それに曖昧な頷きを返し、未だ驚きが落ち着いていないらしい悠斗は鼓動の収まらない胸を押さえる。

「あまり長くやるとムラクモに怒られちゃうから、手短にね。とりあえずわかったことだけ、まず、これはポケモンの仕業と見て間違いない。人間の呪術ではなかったよ。ただ、ポケモンが自分の意思でやったイタズラなのか、それとも人間が指示してやったことなのか、そこまではわからない。でも一つだけ言えるとしたら、もしもポケモン自身の意思だとするならば、だいぶピンポイントすぎるよね」
「それは、悠斗たち両方が大事な時期ってことですか」
「それもあるけど。あと、ポケモンがイタズラ目的でやったなら、親子だなんて近い関係をわざわざ選ぶ道理も無いし……。次、ポケモンのってことまではわかるけど、何のポケモンかは見当がつかない。僕のよく知らない力だった。僕の家にはいろんな子が出入りしてるけど……そのどれとも違う感じだね」
「そうですか…………」
「まぁ、そこはバチュル潰しに探してくしかないよ。みんな……僕の友達のゴーストタイプたちも協力してくれてるしね。で、最後なんだけど……」

そこでミツキは一度言葉を切る。「何ですか」と急かした富田に、彼は思案するような間を少し置いてから、大きな両眼を動かした。

「これは、便利屋としての勘だけどさ。この件は……君たちお二人が、君たちのことをどうにかしないと、解決は難しいよ」

「…………は」

「ま、君は少し進展あったみたいだし、あっちもサークルの人の誤解とけたみたいだけど。その調子だよ、そういうこと」

よくわからないことを好き勝手に言い残し、「そんじゃ、また何かあったら連絡しま〜す」などと軽い調子で言ったミツキは話を終わらせてしまう。ゴースの口が大きく開いて笑い声を響かせ、ガス状の身体がぶわりと広がった。
その煙に思わず目を覆った悠斗と富田の視界が戻った頃には、ゴースの姿は影も形も無く、すっかり霧散したようだった。一方的に押しかけられて一方的に取り残された二人はしばらく呆然としていたが、「…………なぁ」と悠斗が力の無い呻き声をあげた。

「……あの人、俺たちのこともどっかで見てるってこと」
「……そうだな」
「……ああいう人、他にもいるの」
「……知らん、けど」

とりあえず、悪いことはするもんじゃないよな。そう呟く富田に、悠斗はこっくりと頷いた。ぐったりとシートに倒した身体が、無性に溜まった疲れを訴えていた。
その後すぐに、「ちょっとちょっと!? 今、車からなんか紫の煙出てたんだけど! 大丈夫!? 壊れたりとかしてない!?」と森田が青い顔で駆け寄ってきたのだが、悠斗たちにはもはや、まともに答える元気はない。げっそりと首を横に振っただけの二人に、森田は怪訝な顔をする。遊ぶポケモンたちを見守る泰生だけが、夜の公園で一人楽しそうであった。





石で出来た階段をようやく全部上りきり、悠斗は長い息を吐いた。本来の自分の身体ならばここまで疲れきることも無いだろうに、感じる疲労は何倍かに増しているようにしか思えない。トレーナーとして鍛えているとはいえど、やはり年相応の身体にはなっているのだろうか、などとこの場にはいない父親のことをふと考える。
しかしなんとなく面白くない気持ちになった悠斗の思考はすぐ切り替わり、泰生の幻像を振り払うように彼は視線を前に向けた。大きく聳える朱色の鳥居と、そこに止まっている十羽ほどのポッポ、奥に見える立派な社。背景となる空には、ポッポたちに餌でも運んでいるのか、ピジョンのシルエットが旋回していた。
秋の涼しさに、青さを少しばかり失いつつある木々の匂いを吸いつつ悠斗は神社の中へと足を踏み入れる。平日の昼間だけあって参拝客はまだらだった。散歩ついでとみられる老夫婦に連れられた、ヨーテリーが砂利を無為に掘っている。拝殿の柱に絡みついている二、三匹のマダツボミが、近づいた悠斗に気づいて慌てて逃げていった。

「………………」

五円玉を投げ込み、悠斗は黙って手を合わせる。神頼みしたいことはこの状況解決含め山ほどあったが、とりあえず今願うのは父が、つまりは表向きの自分が、学内ライブを良いものにしてくれるようにということだ。用意されたステージと、芦田の演奏に報える、いや、それ以上のものを。
羽沢泰生がいるとなればこの前みたいに騒がれるのでは、と悠斗は危惧していたのだが、人の少なさ故にそれは杞憂に終わってくれた。バトルトレーニングの合間、つまりは休憩中に来たため、事務仕事があるらしい森田は同行していない。泰生と富田も学校にいる。ベルトにつけたモンスターボールには三匹のポケモンが控えているから、一人ではないと一応は言えるのかもしれないが、彼らを同行者とみなすほどに悠斗はまだ至っていなかった。
そのため、今の悠斗は実質一人。聞こえるのは風の音と参拝客の喋り声、ポッポ達の囀りだけで、なんとも穏やかな空気が漂っている。この頃とても落ち着ける状況ではなかった(もっとも、戻れていないのだから今も落ち着いている場合ではないが)悠斗は、久々に心が安らいだように感じられた。先程、事務所内で行われたバトルトレーニングでも勝ちこそ出来なかったが、だいぶしっかりと戦えたこともあり、少しは安心してきた……

「お参りなんて、案外余裕なのね」

と、安堵に浸っていた悠斗の安らぎはそこであっさりと終わりを迎えた。
慌てて振り向いた先、お守りなどを売っている社務所を背にして立っていたのは、長い髪を下ろした岬だった。「入ってくのか見えたから」そう言った彼女も悠斗同様、今はオフの時間だからだろうか、ジャージやTシャツといったトレーニングウェアではなく、カジュアルながらも少し洒落た格好である。モノトーンのパンツルックが岬の雰囲気とよく合っていて、悠斗は先程対戦したトレーナーのポケモンでもあった、ゼブライカを頭に浮かべた。

「そんな頻繁に来たって、神様だって困るんじゃないかしら」
「頻繁……」
「なに、忘れたの? 先月みんなで来たじゃない、リーグ一ヶ月前だからお参りに。絵馬まで書いたのに、何をとぼけてるのよ」

今年の干支であるメリープとモココが描かれた絵馬の吊るされた方を指差して、呆れたように言った岬に、悠斗は適当に「ああ、そうだな」生返事をする。しかし思考回路は別のこと、数週間前に自分もまた、キドアイラクの四人でここに来たことへ傾いていた。オーディションの一次選考通過のお礼参りと、さらなるステップアップを祈ってのことである。絵馬まで書いた、というところまで全く同じで、いくら家や大学、064事務所からほど近いからといっても、泰生と似たような行動をしていたことが悠斗にとってはどうにも複雑であった。
「それにしてもどうしたの、一人で神社なんて」そんな悠斗の内心など知らず、革ジャンの肩にかかった髪をかきあげながら岬は問う。「スランプ脱却祈願でもしに来たの?」

「いえ、学内ライブが成功するように……」
「へ?」
「あ、違くて……息子が音楽やってて、今度大学でライブやるらしいから、そのことを」

うっかり滑らせた口をどうにか取り繕い、しかしこれはこれで泰生らしからぬ発言だ、と悠斗は遅まきながら後悔する。ポケモンバトル一筋の泰生が、自分の子供のために神社まで足を運ぶなど不自然極まりないだろう。
「息子さんの……」案の定、目を瞬かせた岬に悠斗はどう言葉を続けたものかと口ごもる。下手に何かを言ってしまえば、また余計なことを口走りそうだった。

「なるほどね。羽沢さんらしいわ」

が、返ってきた岬の言葉は予想外のものだった。え、と悠斗が思わず首を傾げると、岬は紅い唇を緩めて笑った。

「知らないの。よく言われてるわ、羽沢さんはあのとっつき悪さの割には、そう見えない面もあるって」
「……………………」
「バトルは完全主義の冷徹そのもの、対人スキルは最悪レベルの人当たり悪さ。……なのに、バトルじゃない時のポケモンに対する態度は誰よりも優しくて穏やかで愛に満ちてて……同じ人間だとは思えない、って」

何も返せない悠斗を見上げるようにして、「でもね」岬は青のアイシャドーでうっすら輝く瞼を見せた。

「私は、そっちの羽沢さんが本当の羽沢さんだって思ってたのよ。自分のポケモンや家族を何より大切にするような、そんな人。たとえそれを見せないとしても、あえてアピールするような奴らなんかよりも、ずっと、ね」

否定も肯定もしようがない悠斗は、黙って岬の肩口に視線を落とす。一人で話す彼女の言っている意味の半分ほどしか理解出来なかったし、聞いていてもどこか辛くなるものだとしか思えなかった。気まずさと、早く終わってくれないかという気持ちがないまぜになる。いつの間にか参拝客の老夫婦達は帰ったようで、また巫女や神主も奥に引っ込んでいるのか社務所にも影がなく、岬の他に話す者は誰もいない。秋晴れの空から響いてくるピジョットの声が、やたらと聞こえるような気がした。
だが、どうして岬がそんな話をするのかどうかは疑問に思い、悠斗の気になるところではあった。森田は彼女を、泰生をあまり良く思っていない人間であるというように評したが、それならばなぜ、ここまで話しているのかも理解しがたい。

「確かに、バトルからすれば全然、そんなことないけれど。でも、そうじゃないんだろうって、思ってたのよ」

形の良い吊り目が、悠斗を覗き込む。やや詰められた距離と、至近での美貌に悠斗はつい息を飲んだ。
「だから、」長い睫毛の影になった、見極めるような瞳の奥にちらりと光が走ったのを、悠斗の視力が捉えた。その光に覚えがあるように思えたが、それより先に岬が口を動かす。「この前のバトルを見たとき、それは間違いじゃなかったって思って、それに――」

「…………ん? 今、何か変な音しなかったかしら」

「え? いや……」

言葉を切り、不意にそんなことを言った岬に、何も感じなかった悠斗は首を振る。それよりも気になったのは、全く意味がわからなかった彼女のセリフの続きだったが、そこに話を戻せるほどに悠斗は泰生としての立場に慣れていなかった。そもそも泰生だったら人の会話が途切れようと気にしちゃいないだろうな、悠斗はそんなことを考える。

「そう、気のせいね」

彼を余所に、岬はあっさり頷いて、耳のあたりを軽く指で押さえてみせた。「マダツボミでも走ってったかしら」
「それより、そろそろ戻った方がいいんじゃない? 今日、マッサージ師さん来る日でしょ」話を変えた岬に悠斗も「ああ」と答え、鳥居の外に向かって歩き出す。定期的に事務所に来てくれるポケモンマッサージサービスは、コンディション向上に関して大きな影響力を持っていた。
砂利を踏みながら鳥居をくぐる。視界の上部を赤が埋めたところで、「あの」悠斗は岬へと顔を向けた。

「色々、ご心配おかけしてるみたいですが……ご期待に添えるよう、バトル。頑張ります」

羽沢泰生として。最後に悠斗の心の中だけで、そんな言葉が付け加えられたのだが、岬がそれを知る由も無い。風に揺れる葉の音が響く中でもよく通った彼の声に、彼女は数度、目をぱちぱちさせた。
少しばかりの時間が経ってから、「馬鹿ねぇ」岬は、若干視線を逸らして言う。

「羽沢さんの好きなように、やればいいじゃない。私が心配してるとか、どっちがいいとか……そういうんじゃなくて」
「いや、でも……」
「…………いいったら、それでいいのよ! 本当、最近どうしちゃったの、いいから早く行きましょう!」

口ごもる悠斗に、岬は何か言いたげな表情をし、しかし、ぷいと顔を背けて歩き出してしまう。先を行く綺麗な長髪を追いかけるように、悠斗は急いで歩みを速めた。


  [No.1406] 第七話「全身全霊」 投稿者:GPS   投稿日:2015/11/24(Tue) 21:54:29   44clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

バトルコートの片側、白線の外に立った悠斗は奥歯を強く噛み締めた。
右手に握ったボールに、無機質な電子音を立てて戦闘不能となったマリルリが吸い込まれていく。対峙するトレーナー、064事務所所属の中年男性もまた、倒れたポケモンを同じようにボールへ戻した。
これでお互い残されたポケモンは一匹だけ。悠斗の繰り出したマリルリは相手トレーナーのエレザードの十万ボルトにあえなく沈み、次に突撃したシャンデラの猛攻はエレザードを制し、次鋒のオーロットをも破ったかに思えたが、その直前にオーロットが発動していたみちづれで共倒れした。三対三で両者共々二匹を失うという、観客側からすれば最高に盛り上がる展開に、二人のマネージャーや、すでにバトルを終えた他のトレーナーたちは固唾を飲んで見守っている。

「行ってこい、メカブ!」

その、緊張感を少なからず含んだ空気の中、相手トレーナーが野太い掛け声と共に残り一つのボールを振り投げた。
球体の放つ赤い閃光が描いたのは、ガタイの良いそのトレーナーよりも少し大きい、丸みを帯びた竜の姿だった。可憐とも言えるパステルカラーの紫に彩られた体躯と、くりくりと愛嬌の溢れる緑の瞳。コートに降り立ったその竜は、主人に呼ばれたのが嬉しくてたまらないという風に、短い前足を天井へと向けて喜んだ。

「ヌメルゴン……」

人好きのする笑顔を、トレーナーにも悠斗にも周りの者達にも、惜しみなく振りまいている紫の竜を見て、悠斗はその名を呟いた。ヌメルゴンについては、森田のレクチャーを受けた覚えがある。見ての通り人間が好きな種族で、全体的に穏やかであるため他のポケモンに対しても優しく接するという傾向にはあるものの、その気性とは相反するかなりのレベルの強さを持っている、という内容だ。手懐けるのも他のドラゴンタイプに比べて難しくは無いために、多くのトレーナーが使ってくるだろうから気をつけろ、と森田は言い含めた。
種族の性質故にトレーナーへの忠誠心も厚く、もし繰り出されたら厳しい相手。せめてマリルリが残っていれば良かったのだろうけれど、あいにくそれは無理な話だ。
険しい顔で腕組みする相手トレーナーと、にこにこ笑顔で尻尾を振っているヌメルゴンを前にして、悠斗はボールを握る手に力を込める。タイプ相性からして、決して有利とは言えない状況。しかしそれは相手も同じことで、つまりは不利というわけではない。

「頑張ろう、ヒノキ!」

どうなるかはここから次第だ。そう自分に言い聞かせ、悠斗はモンスターボールを天へと投げる。それを突き破るかのような勢いで現れたボーマンダは、威勢の良い咆哮をあげながら、広いコートをぐるりと旋回してみせた。まだバトルをやっている、他のトレーナーやポケモン達が何事かと顔を引きつらせて視線を上に向ける。
ようやく悠斗の前に戻り、紅の翼で風を生み出しているボーマンダに、相手トレーナーは苦々しい顔を作った。恐らくそれは、悠斗と同じ心境ゆえのものだ。ドラゴンタイプとドラゴンタイプ、お互いに効果抜群となるタイプ同士で、勝負の行方は今ひとつ予想しづらい。悠斗達を取り囲む観客も、難しい顔でコートの中を見る。

「メカブ、りゅうのはどう!」

先手必勝、とばかりに火蓋を切ったのはヌメルゴンのトレーナーだった。
主の指示に瞬時に応え、ヌメルゴンは柔らかそうな口を大きく開けた。鋭い呼吸音がして、次の刹那にそこから現れたのは炎とも水ともつかない光の塊である。質量を帯びたその波動は、瞬く間に広がってボーマンダへと迫っていった。

「避けろ、ヒノキ!」

が、ボーマンダも負けていない。持ち前の素早さと瞬発力で、放たれた攻撃を見事に回避してみせたおお、とギャラリーの一人が感心したような声を出す。
「次は当てろ、もう一回だ!」「何度でもかわせ! 右! 次は上!」各々のトレーナーの指示に合わせ、二匹の竜は絶えず動く。一時の間も置かずに繰り広げられる戦いに、コート外の森田は隣の者に気づかれない程度に口許を緩めた。この数日間、泰生さながらの真剣さでトレーニングに取り組んだ成果は確実に、今の悠斗に現れている。前二匹のバトルの時にも感じられたが、戦闘の流れを感覚で掴めるようになっているのだ。
心からバトルが好きで、強くなりたいと願う者でもなかなか身につかないその技術を、まともにポケモンと関わったことも無い悠斗がこうも短時間で会得してしまったのは、やはり泰生の子だからと言うべきか。世間一般では『才能』と呼ばれるのだろうものの現れに、森田は少々複雑な気持ちにならざるを得なかったが、トレーニング中の彼の態度を思い出して心中で苦笑する。本気で、真摯に、まっすぐに向かったからという理由がたぶん一番大きいのだ。彼のうたう歌や作る曲が素晴らしいのと、きっと同じことなのだろう。

「うろちょろしやがって……メカブ! もっと広範囲狙え!」
「飛んでかわして、じしん!」

そんな森田の思考を現実へと戻すように、悠斗は鋭くそう告げた。何発目かのりゅうのはどうを避けたボーマンダが、空中で方向を変えたかと思うと床に向かって急降下する。ハッとして構えの体勢をとったヌメルゴンだが、その予想に反してボーマンダは、全く別の場所へと突き刺さるようにぶつかった。

「ッ……メカブッ!」

その震動がヌメルゴンの全身を襲う。足をもつれさせ、よろめくヌメルゴンが思わず目を瞑るのを上空から眺め、ボーマンダは得意気に羽を動かした。
ダメージを先に与えられたことで、悠斗は僅かに笑みを浮かべる。ふらふらとバランスを立て直すヌメルゴンと「メカブ、しっかりしろ!」と声をかけるトレーナーは対照的に悔しげな表情になりそうだったがしかし、揃って口許をにっと歪ませた。それに気づいた悠斗が、怪訝に思って眉根に皺を寄せる。

「よし、メカブ……上に向かってヘドロウェーブだ!」
「ヒノキ、かわしてもう一発じしん!」

体勢を立て直したヌメルゴンが、今度は毒々しい紫色をした液体を噴射する。ボーマンダは先程と同じように翼を広げてそれを避け――――られなかった。

「ヒノキ!?」

思わず声をあげた悠斗の頭上で、ボーマンダに紫の毒液が激突する。悲痛な叫び声をあげて床に墜落した彼女は、長い牙の覗く口許から呻きを漏らした。どく状態。みるみるうちに悪くなっていく顔色が、そのことを如実に表していた。
どうして、と悠斗が呆然と呟く。どうして、さっきと同じように避けられなかったのだ、と。

「あ、『ぬめぬめ』……」

思わぬ形勢逆転に、呆気にとられていた森田がそんな言葉を口にする。歯噛みする彼の隣で、相手トレーナーのマネージャーが森田を横目に薄く笑った。
ぬめぬめ、ヌメルゴンの特性とされるそれは、全身を覆う粘液を、接触してきた敵に付着させるというものだ。粘液が付いてしまうと身体が滑って動きづらくなり、本来のスピードを出せなくなってしまう他、不快感によって集中力を失うこともある。
その手法に、まさにボーマンダが今ひっかかった。加えて毒を負ったことで、旋風のような鋭い動きに鈍りが生まれていく。「慌てるな、そらをとぶ!」焦りを抑えた悠斗の声に、ボーマンダはどうにか体勢を整え高く飛ぶ。その勢いで衝突されたヌメルゴンは、確かに顔を痛みに歪めこそしたけれど、さしたるダメージは負っていないように見えた。むしろ、衝突時のぬめりによって受け流されたことでボーマンダの方が遠くへぶっ飛ぶ羽目になり、低く唸って床を舐めている。「今のうちだメカブ、十万ボルト!」相手トレーナーの声と共にヌメルゴンが放った強力な電流が、ボーマンダの翼の先まで痛めつけた。

「ヒノキ!」
「とどめさしてやれ! メカブ! りゅうせいぐん!!」

全身に走る痺れに、ボーマンダは四肢を投げ出してのたうち回る。それでも悠斗の声を聞き、残った力を振り絞って彼女はどうにか翼を操った。青い巨躯が床を離れ、まだ戦えるというようにヌメルゴンを睨みつける。が、相手トレーナーの言葉は無慈悲な宣告となってコートを震わせた。
床につくかつかないかという低さに浮かび、両翼を重そうに動かすボーマンダを、ヌメルゴンが丸い瞳で見下ろす。にっこりというその笑顔からは、愛嬌と、同じくらいの殺意が滲み出されていた。
紫色の両手と緑色の両眼が天を仰ぐ。低重音を響かせながら、天井付近の空中に隕石が生み出される。紅や蒼の閃光を纏ったその岩達は、険しい肌を露わにして空気を割る音を立てる。
「やっちまえ、メカブ――」主の声を合図にして、ヌメルゴンが目を鋭く光らせた。二本の角が力を誇示するように長く伸び、天へ向かって聳え立つ。高らかな鳴き声が空間をつんざいて、その全身から粘り気のある汗が飛んだ。

「…………ヒノキッ!」

ぐらりと揺れて、自身の方へと落下を始めた隕石に、ボーマンダが目を閉じる。当たればひとたまりも無いだろうその一撃がしかし、始まるか始まらないかのところで、悠斗の声が彼女の鼓膜を貫いた。

「大丈夫だ! ……りゅうのまい!!」

ヌメルゴンのそれより何倍もよく響いたその声が聞こえるなり、ボーマンダの目に力が再度宿る。

「舞って避けろ!!」

悠斗が叫ぶ。ボーマンダが慟哭する。その気迫に押されたのはヌメルゴンとトレーナーだけじゃない、宙から落ちる隕石達も同じに見えた。
ボーマンダの翼が大きくしなり、ここに無いはずの風を切って動き出す。確かに彼女を押し潰すはずだったのだろう隕石を、奇跡的なタイミングで次々と避けてはそのたびに、彼女の纏う闘気や熱気は増しているようだった。失われていた勢いが取り戻され、床を撃つだけに終わった岩々の落下音をボーマンダの雄叫びがかき消していく。
悔しさに顔を歪めたヌメルゴンが、負けてられないとばかりに新たな隕石を呼び出しては落とす。しかし「何度でも避けろ!」繰り返されるりゅうのまいは、その全てを華麗に避けては無駄撃ちと化していき、ボーマンダの闘志とヌメルゴンの苛立ちだけがひたすらに積もるだけだった。

「っそ……! びびるなメカブ、りゅうのはどうだ!」
「空を飛べ!」

焦燥感の滲む声で、相手トレーナーが指示を出す。間髪置かず、熱量のある波動がヌメルゴンから放たれる。
しかしそれをものともせずに発された悠斗の声に、ボーマンダは天井高く飛翔した。繰り返しのりゅうせいぐんによって精度を失ったヌメルゴンの攻撃は、いとも容易くかわされる。不甲斐なさと怒りからであろうか、可愛らしい顔がサザンドラのそれよりも恐ろしいものに変わる。

「げきりん!!」

そしてその顔は、一気に恐怖に彩られた。
頭上から突進してくるボーマンダは、戦闘当初よりもその速さを増していた。あまりの気迫にヌメルゴンの全身が引きつり、次の行動をとれなくなる。皮膚から、翼から、腕から、瞳から。身体中から立ち昇る、『お前に勝つ』という意志は凄まじいくらいの強さを持って、ヌメルゴンの闘志など呆気なく凌駕する。愛くるしい丸顔を、縮こまってしまった角を、大きく膨らんだ腹部を長く弾力のある尻尾を短い足を、その全てをボーマンダは、全体重をかけた打撃で襲った。

「メカブっ…………」
「畳み掛けろ! いける! 俺たちなら勝てる! 一気にいけ、そうだ、大丈夫だ!!」

取り乱され、指示を出しそびれた相手の声を遮って悠斗は言う。ヌメルゴンへ猛攻を連発するボーマンダと、悠斗の呼吸が重なった。

「…………勝つんだ、」

最も大きな叫び声をあげたボーマンダが、最大限の力で以て両翼を動かす。それと同時に丸太のような両腕がヌメルゴンを抱え上げ、彼女はそのまま高く飛び上がった。
床から引き離されたヌメルゴンが、顔を青くして抵抗する。その動きが一段と大きくなった瞬間、彼の纏う粘り気がボーマンダの鱗に滑ったその時に、ボーマンダはあっさりと、紫の巨体を手放した。
慌ててしがみつこうにも、互いを隔てるぬめりが働いて何もできない。支えを失ったヌメルゴンは、突然の解放に対応しきれず落下する。受身も何も取れていない姿勢のまま、彼の姿は床へと叩きつけられる。


「ヒノキ!!」


その衝撃と同時に、ボーマンダが最後の攻撃を叩き込んだ。逆鱗。竜族の怒りが物理的な力を帯びて、同じ竜へと打ち込まれる。耳を殴り殺すような轟音と、視界を覆う粉塵に、バトルを見ていた誰もが息を呑んだ。
空気の揺れが無くなって、そこに現れたのは二本の足で立つヌメルゴンと、宙に浮かんでいるボーマンダだった。その、ヌメルゴンがゆっくりと時間をかけて、糸が切れたような動きで倒れ伏す。床にぴったりとくっついた彼は、もう指一本も動かさないようだった。ヌメルゴンのトレーナーが、額を抑えて溜息をつく。

「あ、……勝て、た…………」

その正面、どこか信じられないというように、悠斗は気の抜けた声で呟いた。肩から、越しから、脚から、全身の力が抜けていく。それと入れ替わるようにして込み上げてきたのは言いようの無い達成感と興奮と、そして嬉しさだった。
森田がガッツポーズを作って飛び跳ねて、隣にいた別のマネージャーが驚いたようにビクリと震える。相手トレーナーが肩を竦めながら苦笑して、床に転がって目を回しているヌメルゴンをボールに戻した。「今なら泰さんに勝てると思ったんだけどなぁ」彼はそう口を尖らせながらも、「楽しかったよ」と笑顔を見せる。緊張の糸が解け、拍手などをしているトレーナー達の傍で、一連の様子を見ていたらしい岬がふん、と鼻を鳴らした。
そんな光景をぐるりと見渡して、息を整えていた悠斗に、大きな影が近づいてくる。

「あ、…………」

勝ち星を挙げ、満足そうな顔で悠斗のところへボーマンダが戻ってくる。身体中に傷を作りながらも悠々とした雰囲気を失わず、凱旋を決めた彼女に、悠斗は大きく息を吸ってこう言った。


「ありがとう、ヒノキ……!」


その一言に、ボーマンダは一瞬、ぽかんとしたまま強面を固まらせた。翼の動きが止まり、悠斗の目の前にストンと降り立つ。
と、同時に、彼女はこれ以上無いほど嬉しいのだというような勢いで、全身を使って悠斗に飛びついた。「!?」という感嘆符を頭上に浮かべた悠斗は慌てて受け止めようとするが、あまりの重量と大きさと、そして勢いづいているせいでとても敵わない。

「ちょっ、……ヒノキ! なんだよ、降りてくれ!」

結局、あえなく下敷きになった彼が森田などに救出されるまでボーマンダはずっと、溢れんばかりの笑顔で悠斗にひっついて離れなかったのである。「泰さんがあんな風にされてるのも珍しいなぁ」「ですねぇ」青い腹の下から引っ張り出され、息を切らす悠斗を横目に、相手トレーナーは彼のマネージャーとそんな会話を交わした。





「もうすぐかぁ」

学内ライブ当日――タマムシ大学中庭にセットされた、簡易ステージの裏から客席の様子に視線をやって、芦田がそわそわした調子で呟いた。
今現在、ステージ上で演奏しているのはベース二本というなかなか珍しいスタイルを取り入れた、五人組のサークル員達だ。ギターとドラムとシンセサイザーを担当する学生がむしろ裏方となり、メインに据えられたダブルベースが見事なスラッピングを交互に披露する。まるでバトルにも思える奏法の応酬に、集まった学生達は盛り上がりを見せていた。
「いつもと違う組み合わせだから、みんなはっちゃけてるなぁ」苦笑し、芦田が背後の泰生を振り向く。その横で、彼のポワルンが同意するように頷いた。あいも変わらず、どういうことだか常時あめバージョンの姿をした彼だったが、芦田を応援しているらしいその顔は晴れやかである。「僕たちもあのくらいの勢いでいこうね」熱意を表すように両手を握りしめた彼は、気合い十分という風に泰生へと笑いかけた。

「……そんな曲でも、無いでしょう」

一方、冷静沈着を絵に描いたような図になっている泰生は、芦田の言葉にそう返した。「そりゃあそうだけどさぁ」あっさり流された芦田はむくれ、拗ねたようなことを言い出す。「そりゃあ、まぁ、そういう曲だけどさ」
選んだのはあんただろ、口を尖らせる芦田にそう言いたくなったところで、泰生は一つの疑問を頭に浮かべた。自分と彼の会話、また彼について富田から聞いた話などを振り返り、泰生はその問いを口にする。

「俺以外にも、色んな人の曲選んだりしてるらしいけど」
「え? うん、そうだけど。羽沢君もそれは知ってるでしょ」

いや知らない、と返しかけた泰生はギリギリのところでその言葉を飲み込んだ。「そうでしたね」誤魔化すように、ぎこちなく笑った彼に芦田は怪訝そうな顔をして首を傾ける。芦田がこれ以上何かを不審がらないよう、泰生はさっさと本題に入ってしまうことにした。
「どうやって、そういうの選んでるんですか」思ったことをそのまま彼は聞く。「その人に何が合うか、とか」羽沢君はこれが似合ってるよ、などというようにして、芦田はそれぞれの個性を見極めコメントしていた。その姿を見ていた泰生からすると、どんな基準を以て選んでいるのかよくわからなかったのだ。他人にあまり興味を持たず、そんなことの出来そうにない泰生だから、尚更。

「うーん……? そうだなぁ、改めて言われると。なんだかんだ、直感かな」

その人のこと、いつも見てればなんとなくわかってくるもんだよ。だから俺だって初対面の相手に同じことやれって言われたら無理だし。
そう続いた芦田の答えは、なんとも具体性に欠ける、はっきりしないものだった。「いつもの感じとか、好きなこととか、喋り方とか雰囲気とか。そんなのを見てれば、大体」そういったことをずっとやってきた芦田は、特に困難を感じることもなくそんなことを言う。
が、それに泰生が不満を抱くことは無かった。「そうですか」芦田の方を見て、泰生は少しだけ笑みを浮かべる。伴奏者を見上げる、僅かに細くなったその瞳は、どこか懐かしむような色をしていた。

「昔……旅に出た先で、あんたみたいな奴に会ったことがある」
「旅!? は!? えっ!? 羽沢君って旅に出てたの!?」

その色にも、安定しない言葉遣いにも突っ込むよりも先に、芦田は聞き捨てならない情報に目を剥いた。
言うまでも無いことではあるが、羽沢悠斗は大のポケモン嫌いで通っている。その上、それは彼を知る者や本人の証言により、昔からのことだということも広まっているのだ。その羽沢悠斗が、なんと旅に出ていた過去があるとは。「っていうか羽沢君、ポケモン持ってたんだ……」「当たり前だろう」「び、びっくり……ここ数ヶ月で一番驚いてる……」明らかにおかしい発言を真に受けた芦田と、自分の失言に全く気づいていない泰生は、中途半端な意思疎通のまま会話を続ける。

「とにかく……旅先で、よく似た人がいた。トレーナーに会うと、そのポケモンを見ると、すぐに……どうしたら良いか、っていうのがわかるらしいんだ」

泰生がまだ若い頃、トレーナー修行の旅の最中に出会ったその男には、不思議な力が備わっていた。
彼は仕事を引退した老人で、小さな村で妻と娘夫婦と、その子供である孫と共に暮らしていた。彼の生きがいは、そこに訪れる数々のトレーナーとポケモンと会い、話し、心ばかりの助言をするということだった。
その男は少し話を聞くだけで、トレーナーとポケモンの様子を眺めるだけで、彼らの通ってきた道が見えるようだった。それは泰生もまた例外ではなく、老人は当時の彼が抱えていた悩みを言い当ててみせたのだ。
どうしてそんなことが出来るのか、と問うた泰生に、男は穏やかな笑みと共にこう答えた。「わかろうとすれば、自然にわかる」掴み所のないその答えに、泰生は何一つ理解を得ることは出来なかったが、男がそれ以上何かを教えてくれることは無く、ただ、そんな泰生とまだ第二進化系だった三匹を見ているだけだったのだ。

「よくわからないが……その男の答えが、さっきの答えと、似てるような気がした」

「そっかぁ、そんな人もいるんだ」ようやく驚愕(誤解である)が収まってきたらしい芦田は、泰生の話に感心したようにそう言った。「いいよね。旅に行けば、色んなところの色んな人と、色んなポケモンが見れるからね」眼鏡越しの目で、ステージ上のベーシストコンビを見守りながら彼はそう続ける。すぐに、っていうのは無理かもしれないけど。苦く笑い、芦田が泰生へと視線を戻す。「俺も、旅に出たらそんな人になりたいな」

「…………旅は、行かなかったのか?」

芦田の発言に、泰生はそう尋ねる。問われた芦田は「うーん」頬を軽く掻きながら、「そうだね。一回も行ったことないや」今更気づいたかのような物言いをした。

「なんでかと言われると……なんでも、無いんだけどさ。僕、父が転勤族でしょっちゅう転校してたから、あえてどこかに行かなくても色んなところを見れてたし。バトルとかもそこまで興味があったわけじゃないし、あと、子供心に……せっかく旅に出るならお金貯めて、好きなところにいっぱい行く方が楽しいかなって思ってたから」
「…………そんなことを……」
「行きたいとはずっと思ってたけどね。今も。さっき言ったみたいに、色んな人に会って、色んなポケモンにも会って、あとその場所のおいしいもの食べたりさ。色んなものも見たいし。まだまだだけど、バトルももうちょっと強くなりたいし」

でもさ。芦田はそこで、頭上のポワルンに一瞬だけ視線を向けて言った。

「旅に出るよりも、やりたいこととか、したいことがあったんだよ。ちょうどパソコンやり始めたくらいだったし、観たいテレビも聞きたいラジオもあったし、家族といるのも学校に行くのもまぁ楽しかったし。……その頃は嫌だったけど、ピアノ教室に行き続けてたのも、今は良かったな、とも思えるし」

ステージの方から、ギターがラスサビ後の見せ場をバリバリに弾き鳴らす音が響いてくる。「今も同じかな」秋の高い空はあいにくの曇天だったが、ギターソロはまるでそこに轟く急な雷鳴のようだった。「旅にも行きたいけど、大学があるし、サークルは楽しいし、タマムシだけでも知らないことは山ほどあるし」そこに被せるようにして、一年のドラマーがスティックをめちゃくちゃに操っては軽重様々な打撃を繰り返す。「巡君は、旅なんか嫌だって言うだろうしさ」シンセを駆使する学生の指が高速でキーを行き来して、二本のベースが最後の決め技を披露して、ギターの高音がステージ中をつんざいた。「だから、今はいいかなって思うんだ」


「でも、……こうやって、『ここにいよう』って思えるような……そういうのがあるのって、もしかしたら、ものすごいいいことなのかもしれないよね」


あ、終わったみたい。そろそろ行こうか。
拍手と歓声、口笛などの音に振り向いて、芦田が声のトーンを変える。楽しもうね、と言った彼の笑顔に、泰生は僅かな間を置いた後、首肯とともに一歩足を踏み出した。



有原達が下手側へとはけていき、泰生と芦田はそれと入れ替わりで上手から中央へ進む。ステージに現れた羽沢悠斗の姿に彼を知る者達が、観客席(と言っても、数十脚のパイプ椅子以外は立ち見だが)の方で歓声をあげた。手を叩いたり、「悠斗ー!」と名前を叫んでいるのは大学の友人だが、その他にも、どうやらメンバーが演奏する機会らしいとどこからか聞きつけてきたキドアイラクの熱心なファンも数人、目を輝かせながら出迎える。
それなりの盛況を見せる中庭を一望し、泰生はマイクスタンドの前に立つ。芦田は既にキーボードの準備を始めており、あれこれとボタンを押したり音を確かめたりと忙しい。そちらを一瞥し、泰生もマイクを手に持ちスイッチを入れる。その辺りの度胸は泰生個人の元々の人格と、ニュース番組やらトレーナーイベントやらへの出演を重ねたことでなんら問題無いようだ。

「こんにちは、今日は来てくださってありがとうございます」

少しも緊張した様子を見せず、泰生は客席に向かって喋りだす。マイクを通してもノイズに負けず、よく響くその声に何人かがどよめき立った。
それにも動じず、泰生が続ける。

「今日はいつもと違って、ピアノに合わせて歌います。短い時間ですが、楽しんでいってください」

それだけ言い、泰生はマイクをスタンドへ戻してしまった。客席にいる者達が視線を交わして囁き合う。普段の羽沢悠斗はMCもウリの一つであり、その場その場に合った挨拶を日毎にこなすのが当たり前なのだ。こんなにもシンプルで、お世辞にも気が利いているとは言えないコメントは今までに無かったかもしれない。まだ続きがあるのではないか、そう感じた客達はその意を込めてステージを見たが、やはりそれ以上、彼が何かを言う様子は無かった。
ざわめきを他所に、泰生は軽く呼吸を繰り返す。準備を終えた芦田が泰生へと目配せし、人差し指で白鍵をそっと押さえた。音程を確かめるその一音に、数秒の間を置いて泰生は頷く。
「もう始めるの?」「今日の羽沢なんか静かだな」「いつもあんなもんじゃない?」「いつも何見てるん……」完全にMCが終わったことを示すその行動に、客席でそんな言葉が交わされた。


が、それは、次の瞬間には少しも残らず掻き消えていた。


ステージを超え、中庭に響いた歌声。
キーボードの音を伴わない、男声のアカペラは高く、伸びやかに、それでいて重く確かな芯を持ち、泰生を中心に広がっていく。客席の誰かが、声にはならなかった悲鳴をあげたらしく、短く息を吐いた音がした。
少し遅れて入ってきた芦田の伴奏が、零れ落ちる水滴のように鳴り響き始める。それと絡み合い、冷たい風さえも自らの音楽に取り込んで、泰生は歌っていた。
ステージ上から響く歌は、何十年前かに流行った歌謡曲のカバーである。自分の人生を振り返り、深い後悔に沈んでいく、そんな歌詞。およそそこらの若者になど、二十年そこそこ生きただけの者になど歌いこなせるはずの無いだろうその歌を、羽沢悠斗は恐ろしいくらいに自分のものにしてみせた。羽沢悠斗のはずなのに、羽沢悠斗ではないみたい。ある種、曲に入り込んでいるどころではないほどの彼の気迫に、ステージ脇から見ていたサークル員は、何かが取り憑いているようだという感想を抱いた。
切なく、哀しく、どうしようもなく愛おしい歌声。伸びる高音が僅かに掠れたその刹那、彼があまりに儚い存在に思えてしまって、客の一人は無意識のうちに自分の胸を掴んでいた。
そんな泰生の背中へ視線を向けて、芦田は数日前のことを思い出す。鍵盤をなぞる指の動きは止めないまま、彼はあの時の羽沢悠斗を脳裏に呼び戻した。自分が間違っていたのだと頭を下げた後、一つお願いがあるのだと言ってきた彼の『お願い』を。



『曲を選び直してほしい』

羽沢悠斗が芦田に頼んだのは、ライブで歌う曲の再選だった。
初め、ただでさえ残された日数が少ないのに曲を変えるなど、これ以上負担を増やしてどうするのかと芦田は戸惑わざるを得なかった。が、そう言った羽沢悠斗の真剣な目と揺るぎない態度、いつになく強さを帯びている彼の声に、芦田の内心は大きく傾いた。本来羽沢悠斗が歌う予定である曲が、彼の心中で鳴り始める。

『今の俺が、一番、期待を超えられるような曲を選んでほしい』

凛とした彼の声がそう告げた瞬間、芦田の心中に流れていた本来の曲は既にストップしてしまい、代わりに流れ出したのは今の羽沢悠斗に見合いそうな新たな候補曲達だった。


あの時、彼がああ言ってくれて良かった。
芦田は心からそう感じると同時に、自分の選曲にも満足感を抱く。急な申し出だから慌てたけれども、この曲を選んで、羽沢悠斗に歌わせることに決めた数日前の自分に彼は深く感謝した。元々歌うつもりだったアップテンポの明るい曲でも、羽沢悠斗は難なく歌いこなしたであろうが、今の彼には間違いなくこっちの方が向いている。雰囲気、歌い方、纏うオーラ、その全てがものすごく急激な変化を遂げて芦田は焦らずにいられなかったが、それが逆に功を奏して、他の若者にはそうそう歌えないであろうこの歌をここまで魅力的に歌い上げているのだから。
ちなみに、この古い歌謡曲は母の影響で芦田が好んでよく聴くものであったが……今の羽沢悠斗にある人格を完全に見極めた選曲であるのに加え、泰生がちょうど悠斗の年齢だった頃に流行った曲だということを考えると、それを選び抜いた芦田の『直感』はいよいよ恐ろしい。が、そのことに思い当たる者は芦田本人を含め誰もおらず、ただただ羽沢悠斗の歌声に皆は魅了されるのみだった。

悔恨に打ちひしがれ、嘆くような歌声が観客達を包み込む。まるで慟哭の如きその響きは、言い表せないほどの哀愁と狂おしいほどの愛慕を伴って、今この場にいる誰もの心臓を強く掴んで離さなかった。
三回目のサビが過ぎ去って、曲の終わりを飾る長い長い高音が曇り空の果てまで昇っていく。その裏で白鍵と黒鍵をとめどなく連打する芦田が泰生を見遣り、こめかみに冷たい汗を伝わせた。怒涛のような打鍵の音が、皆の鼓膜を揺さぶっていく。
キーボードの音と共に、空の向こうに溶けるようにして、泰生の声が甘く消えた。無音になった中庭は世界の全てに取り残されたように静まり返り――そして、溢れるほどの拍手に満ちた。

食い入るように自分を見つめ、手を叩いている者でいっぱいになった客席を、泰生はまっすぐに見返した。空いた口を塞がない者、何度も繰り返し頷いている者。圧倒され、自分の頬が濡れていることにも気づいていない者。その全てに、深く深く頭を下げて、泰生はもう一度彼らを見渡した。



「楽しかったよ」


ステージの裏に引っ込むなり、芦田が悠斗にそう言った。「本当に、楽しかった」

「いえ……こちらこそ、」

言葉を返した泰生に、芦田は微笑んで片手を差し出した。未だ鳴り止まない拍手が、鉄骨で組まれたステージの向こうから聞こえてくる。
「君の伴奏を出来たことを、本当に幸せに思う」伸ばされた手をとった泰生に、芦田は深く礼をした。泰生の手を握る大きな右手に力がこもる。眼鏡越しの二つの瞳が、少なからず潤んでいた。

「あんな素敵な歌の、あのステージに君といれて良かった。羽沢くん。とても楽しかった、本当に、ありがとう……」

と、芦田がそこまで言ったところで、「芦田ぁー」と機材の置いてある方から彼を呼ぶ声がした。泰生達を包んでいた、得体の知れない余韻が一挙に霧散する。「わりー、ちょっと来てくれ」とヘルプを求めるその声に今行くよ、と答えてから「ごめん、ちょっと行ってくるよ」と申し訳無さそうな顔をして、芦田は小走りで去っていく。頷いた泰生は彼を見送り、富田のところに行くべきかと考え客席へと歩き出した。

「あの、悠斗くん」

と、そこで、泰生を一人の女子が呼び止めた。
泰生の知るところでは無いが、彼女は悠斗と同じ学部学科の学生であり、ゼミも一緒のところに所属している友人である。サークルは異なるものの音楽好きだということで、キドアイラクの出番があると頻繁に足を運んでくれる子だ。パーマをかけたふわふわの茶髪、白のポンチョに合わせた焦げ茶色のフレアスカートと、優しげな印象同様おだやかなせいかくである。
そんな彼女は、泰生を前にして何やらもじもじとした態度をとっている。なんかエルフーンに似てるな、と、なんでわざわざ舞台裏まで来たんだろう、などという思いを頭に浮かべた泰生は、女子学生が何を言い出すのか黙って待った。言いたいことがあるならさっさと言えばいいのに、などと色々ぶち壊しなことも思っていた。

「あ、あの、悠斗くん」

何やら今までに無く偉そうなオーラを放っている羽沢悠斗に若干気後れしていたものの、とうとう彼女は口を開く。ステージを作る鉄骨を背にした彼女は、頬を紅潮させて「あのね、もしも今度のオーディションで悠斗くんたちが優勝したら」熱を帯びた声で、泰生をじっと見つめて言った。「私と、デートしてくれない、かな」

「いや、それは無理だ」
「…………!!」

泰生は『妻子がいるし悠斗の身体で勝手なこと出来ないしそもそも今はそんなことしてる場合じゃないし』という意味合いで言ったのだが、当然そんなことが彼女に伝わるはずもなく(伝わったらそれはそれで大問題だが)、単に振られた形になってしまった彼女はいたくショックを受けて表情を固まらせた。無理もない。結構な覚悟を決めて告げた想いを、即答かつきっぱりと退けられたのだから、絶望の一つや二つしてしかるべきだろう。
「そ、そうか……無理なんだ……」女子学生は、明らかに涙混じりになった声で言う。「そうだよね……私なんか……私なんか、悠斗くんは……」柔らかそうなスカートの裾をぎゅっと握りしめ、彼女は声を震わせた。

「やっぱり、悠斗くんは富田くんが一番だよね……みんな言ってるもん、悠斗くんと富田くんはそういう……」
「は? 何言ってるんだ?」
「いつも一緒にいるもんね、悠斗くんが大切なのは富…………え?」

ショックのあまりか、一人突っ走ったことを言い出した彼女が言葉を止めた。濡れた頬を押さえた彼女に、泰生は「あんな奴が一番大切だと!?」と、こちらも一人突っ走って声を荒げる。誤解とはいえ至極ばっさり斬られた上に『あんな奴』呼ばわりされた富田がもしもこの場にいたのならば良かったのだが、あいにく彼は何も知らない。ツッコミを入れられることも止めてもらうことも叶わずに、泰生は今の自分が誰であるのかを忘れているままだった。

「あんな奴じゃなくて、俺が大切なのは……」
「え……? もしかして、彼女がいるとか」


「ポケモンだ!!」


…………泰生は、自分自身のまっすぐな想いを伝えたかったにすぎない。が、女子学生にとってはそうだと受け取れず、また失恋によるショックの混乱もあって、彼女は渦巻いた思考の果てにとんでもない解釈をしてしまった。
「そ、そんな……」女子学生が、ガタガタと震えながら言う。ハブネークに睨まれたミネズミだって、ここまで激しく震えはしないだろう。「そんな、悠斗くんが……」



「悠斗くんが、ポケフィリアだったなんてーーーーーー!!」



そう叫んで、疾走してしまった彼女の背中を眺めながら、泰生は「ぽけふぃりあ、とは何のことだ……?」と純粋な疑問に首を傾げた。ポケモンバトル一筋四十年、どちらかと言わなくても俗世間に疎い彼は、一人ぽつんと取り残されて腕を組む。後で森田に聞いてみようか、などと考えながら。
その後、ポケモン嫌いで有名な羽沢悠斗は実際のところ携帯獣性愛者であるという噂が各所で広まることとなったが、もちろんのこと、泰生が気づくはずもなく、次の演奏者であるサークル員のかき鳴らすギターの音をぼんやり聞くだけの彼がそこにいたのだった。





「富田くん」

一方――自分のあずかり知らぬところで勝手に振られた挙句、親友に特殊性癖疑惑が立っていることなど露知らず、次の演奏を見ていた富田に声をかける者がいた。一年生のギターボーカルが歌う、地下バンドのカバーにリズムを刻んでいる二ノ宮の、ドラムを叩くたびに揺れるアフロから視線を外して後ろを振り向く。

「森田さん」

大きな学者を背にして立っていたのは森田だった。にこにこと片手を上げたその童顔は、ライブを見にきた他の学生達と並んでも何ら不自然ではなく、見事なまでに溶け込んでいると富田は思う。丁寧に着たスーツが少々浮いてはいるものの、就活中だと言えば十人中十人が納得するだろう。
「来てたんですか」学生の群れから少し距離をとり、富田は森田の横まで近づく。「うん」頷いた森田は、間奏のギターソロに苦戦しているボーカルを横目で見遣り、答えた。「聞いてたよ。泰さんの」

「いやあ、さすが悠斗くんの身体はすごいね。歌が好きっていうのは知ってたけど、うん、僕が思ってたよりもずっと」
「………………」
「二人が元に戻ったら、また聴きたいよ。本物の悠斗くんの歌、今度は富田くんもいるバンドで」

そう言った森田に、富田は少し間を置いて「本当に、悠斗だからってだけだと思ってますか」とゆっくり尋ねる。「うん?」その問いに首を傾げた森田は何かを答える代わりに、細めた両目を富田の方から僅かに逸らした。それに富田も微笑で返し、瞳を隠す前髪を風に揺らす。
「この前、ミツキさんに言われたんですけど」沈黙を破り、先に切り出したのは富田だった。

「これは、悠斗と……羽沢さん、二人がどうにかしないと解決しない問題だって」

森田の視線が、無意識的な動きで富田へと移る。数回瞬き、彼は「そうか」また視線を富田から外してしまった。ちょうど晴れてきた雲間から刺し込んだ光で影になり、黒く染まった森田の顔にどんな表情が浮かんでいるか、読み取ることは不可能だ。茶に染めた髪の先を輝かせ、富田は森田の言葉を待つ。

「そうかぁ」

だけど、森田は富田が求めていたような、何か明確な答えを返してくれたわけではなかった。そうかもね。二ノ宮によるキックの音が足元から響いてきて、森田のそんな言葉を掻き消した。そうなんじゃないかな、穏やかな声が富田の鼓膜へ僅かに届く。
期待していた言葉を返してくれなかった森田に、しかし富田は怒る気にはなれなかった。自分も、同じ答えを返すのだろうと思ったのだ。森田の立場で、同じ質問をされたのならば。多分同じことを考えて、昔から同じことを思っていたのだから。あの一歩後ろから常に見ていて、自分も、森田も。
「悠斗くんなんだけどさ」声の調子は変えないまま、森田がそんなことを言う。

「来ないかって誘ったんだけど。行かないって言われちゃったんだ、行きたいけど行けない、って」

なんでだと思う? 逆光になった顔のうち、森田の口元だけが動くのが見えた。

「バトルの練習でしょう」
「うおう、さすがだね。やっぱりわかるもんなんだなぁ、そういうのってあるんだろうなぁ」

森田はけらけらと笑い、「そうだよ」と首を縦に振る。「今、自分は羽沢泰生だから。羽沢泰生のすべきことをしないといけない、ってさ」そう言った森田に、富田は泰生の言葉を思い出す。
彼が芦田に謝った後、どうしていきなりそう決めたのかと尋ねた富田に、泰生は迷わず答えたのだ。悠斗に合う曲を選んだ芦田や、ステージを用意してくれた人たちに報うだけの歌をうたうことは、悠斗のしなくてはならないことだと。そして、今の悠斗は自分だから、それは自分の使命だと。
「森田さん」きっと、悠斗も泰生の顔をして、同じように言ったのだろう。そう思いながら富田は言う。「悠斗が、歌が好きな理由は」


何か言うのに、一番いいじゃん。


どうして歌が好きなのか、と尋ねた富田に、まだ中学生だった頃の悠斗はそう答えた。
『言葉だけでも、別に出来るけど。曲だけでも、インストとか、出来ると思うけど。でも、その両方があればさぁ』少しも飾った様子の無い、まっすぐな声だった。心の奥からそのまま出てきたようなその声は、きっと今まで一度も変わっていないのであろう、彼の信じるもの、そのものなのだろうと富田は思った。


「自分の言葉で、自分の曲で……、自分の、歌で。誰かに何かを伝えられて、誰かの何かを変えられたら、そうなったらいいじゃん。っていうのが、悠斗です」

あの時、泰生に言わなかった、言いたくないと思ったこの記憶が、当たり前のように口をついて出てくることを、富田は自分のことだというのにまったく理解出来なかった。何故だろうか、今なら泰生にも言っても良いと、いや、言う必要など無いとすら感じるほどだった。泰生の歌う姿に感服したから? 真剣さを認めても良いと思ったから? きっと違う。違うのだろうということはわかったが、だというのならばどうしてか、ということは考えつかなかった。
「悠斗は」言いながら、富田は自分の声が、僅かに掠れているのに気がついた。ステージの方から響いてくるベースの重低音と、マイクのハウリングに掻き消されてしまいそうなほどの声だった。

「でも、悠斗は…………本当は、悠斗は、悠斗が伝えたいって思ってるのは、変えたいと思ってるのは」

そこで、富田は言葉を切る。何を言えば良いのかわからなくなり、黙り込んでしまったらしい彼へと森田は視線を動かした。それでも、富田は何も言わないまま俯いてしまう。
「うん」数秒の沈黙の後、森田は小さな声でそう応えた。「そうだね」マイクに口を近づけすぎているのだろう、ボーカルの割れ気味な高音が二人の鼓膜を刺激する。そちらを少しだけ見遣ってから、再度富田の方へと目を戻した。
冷たい空気を吸って、森田は言う。

「僕も、それは――――」


「あなたの町の便利屋さん! どうもお世話になっております、真夜中屋でございます!!」


その言葉を上から残らず塗り潰すような声と共に、森田と富田の周辺に白い粉が舞い飛んだ。刹那、一瞬にして全身に走った悪寒と冷気に、二人は揃って身体を震わせる。

「っひ……!? な、何!?」

自分の肩を両手で抱いて、森田が上擦った声で言う。完全にパニックになっている彼は、背筋の凍りそうな寒さを振り払おうと無意識に頭を動かして、「うわっ!?」背後に見つけた影にまた、素っ頓狂な声をあげた。
「ミツキさんですよね」一足先に状況を把握したらしい富田が、白い粉、もといごくごく局地的な吹雪に負けずとも劣らぬ冷たい物言いをする。その視線は彼の下方、腹部あたりにある頭部へと向いていた。氷で出来たその頭部の下に続くのは、ガラス細工のように細い首と浴衣姿によく似た身体。赤い金魚帯にも見える腹部をひらひらさせて、二人のことを見上げている影――ユキメノコを睨みつけ、富田は低い声で言う。「何やってるんですか、今度は」

「いや、こないだと同じで途中経過報告だけど。せっかく大学に潜入することだし、この子に頼んでみた」
「どうなってるんですかそれは。っていうか、大学とユキメノコにどんな関係があるっていうんですか」
「あやしいひかりベースの幻覚だよ、雪山で遭難すると幻覚見るじゃん? あれはユキメノコの仕業でもあってね、そのメカニズム。ま、ほとんどの場合が単なる疲労と体力消耗、神経衰弱による見間違いだけど……このビジュアル、なんか女子大生っぽいじゃん。JDだよJD」

元も子もないことを言いながら、袂のような腕を振ってみせたユキメノコ、あらためミツキを「どこの大学に、そんな和の心に目覚めた仮面女子大生がいるんですか」富田はあっさり切り捨てた。「えー、なかなか溶け込めてると思うんだけど」「ユキメノコが大学にいるって時点で全然目立ちますよ」「そうかな。まぁかわいいからなこの子」「問題はそこじゃないです」他の学生に気づかれないよう、気の抜ける会話が小声で交わされる。
「え……何……? ユキメノコ、が? ……あの、え?」突如現れ、表面上は人語を話しているようにしか思えないユキメノコに、事情を呑み込めていない森田が目を白黒させた。「深く考えちゃダメです。とりあえず、これがあの便利屋の代わりってことです」雑な説明をし、富田は学生達からユキメノコを隠すようにしゃがみ込む。が、そんな気遣いなどまったくわかっていないらしいミツキは、氷に空いた穴から覗く鋭い目で、辺りの様子を見渡した。

「それにしても、大学って楽しそうなとこだよね。いいなぁロゼリアの右手色のキャンパスライフ。僕も行きたいなぁ」

「それはどうでもいいですから、早く本題に入ってください」服に付着した雪を払いのけつつ、ミツキがイライラとした調子で先を促した。わかったよ、とつまらなそうに言い、ミツキが渋々といった調子で話始める。

「そんな進んだわけじゃないけど……あ、でも結構な手がかり。今回のコレに使われた呪いはね、純粋な魔力じゃなくて感情によるもの。つまり、僕みたいに霊力あって何に対しても呪術が使えるんじゃなくって、強い気持ちを向けてる対象にだけ有効ってことね。それで、……手口は海の向こうのモノだよ」
「海の向こう?」
「あ、って言ってもシンオウとかホウエンじゃなくてね。カロスやイッシュの方……あっち側のやり方だと思う。こっちじゃ無いよ。あんなの」

ミツキは確信したように言ったが、その辺りの話は富田にはよくわからない領域であるため「はぁ」と適当に受け流す。その態度にムッとしたらしく、ミツキは片手に冷気を纏ったが、それを放つよりも話の続きを優先した。
「でもさぁ」白い両腕がお手上げのポーズをとる。「今のところ、そこまでしかわからなくてさ。そもそも呪術の種類が確定したところで、絶対そっちに住んでる人っていうわけでもないし」嘆息したミツキの口許が白くなり、空気が一瞬凍りつく。

「誰か心当たり無いの? どっちでもいいからさ」
「それは……俺たちだって、まあ、他のバンドに恨まれたりはあるかもしんないけど……羽沢さんクラスならもっとだろうし」
「うーん、それはわかるけど。もっとピンポイントで、そういうんじゃなくてもっと個人的なやつ。ない?」
「あ、個人的かどうかわからないけど……」

と、そこまで黙っていた森田がハッとしたように声を発する。ミツキが嬉しそうに「誰?」と食いつきの良さを見せた。

「根元信明っていう、泰さんと同じ歳くらいのエリートトレーナーです。リーグの優勝候補筆頭で、名実ともに泰さんのライバルですから、もしかしたら……」

「あぁー、ライバルか……」しかし森田の説明を聞いたミツキは一転した落胆ぶりを露わにする。
ライバルとかじゃなくってさ、もっと別に、なんかドロドロしてるさぁ。そういうの。魔力とか持ってない人間がそういうことするって、強い気持ちに頼るしかないんだよ。入れ替わりだなんて『奇跡』起こせるレベルの、そういう、ドロドロ。それだよ。
そんな要望を語るミツキに、森田は「そんなの、無い方がいいですよ」と溜息を吐いた。富田も黙って頷いたが、ミツキは納得がいかないらしくむくれた声を出す。だって呪いってそういうものだからさ、そういった類のことを本業にしている便利屋は、物騒なことをのたまった。

「呪いの代行依頼とかも時々あるけど、やっぱりそういうのって本人の気持ちがドロドロしてるほど上手くいくんだよ。恨みとか憎しみとか怒りとか悲しみとか、強い愛情ってこともあるけど。とにかく、単なるライバルとか、そんな爽やかなものじゃ……ただでさえあの親子は呪いにくそうなのに、よっぽど強い何かがないと」
「そう言われても……もう一回考えてみますけど。でも、もしそうだとしたらかなりの身内ってことですよね? 行きすぎたファンとかでは無い限り」
「なるほど、過激派ね。その線は思いつかなかったよ、そっちも当たってみることにする。……でも悔しいなぁ、海の向こうの呪術で、強い感情を元にやったってことしかわからないなんて」

あとちょっとでいけそうな気もするんだけど。歯がゆそうにミツキが呻いた。あともう少しのところなんだけどさ、と、鋭利な瞳が殊更に細くなる。
「なんとなくイメージは掴めてるんだよ、呪いに使ったポケモンの……シュッてしてて、キュリュキュリュしてて、シュキュルーンってなってるんだけどシュバッとも出来て……」全く的を射ない発言に、富田は「えらくふわふわしてますけど」と呆れに満ちた率直な感想を告げた。森田も沈黙によって同意を示す。が、ミツキには全く響いた様子が見られず、「ふわふわっていうよりがしゃがしゃだ」などと不毛な説明が続けられた。

「あ、そういえば……瑞樹くんに一つ、聞きたいことがあるんだけど」

そこで、思い出したようにミツキが言った。唐突な指名に、富田は首を傾ける。

「何ですか?」

「客観的に見て、瑞樹くんたちが今度出るオーディション。客観的に、君らのバンド、正直言って勝ち残れそう?」

歯に衣着せない、あまりにストレートなその質問に、富田は言葉を失った。ある種残酷だともとれる問いかけには森田も驚いたらしく、口をぽっかり開けた状態で固まった。
「ええと、それは……」なんとか気を取り直した富田が、冷静を装いつつ考え込む。しばらく思案した彼は、ネット掲示板の前評判や他の出演者の演奏、風の噂などを頭の中で整理し、答えを出した。「下馬評ですけど」平坦な声で、富田は言う。「大穴の、優勝候補です」

「ふうん」

対するミツキの返事はあっけないものだった。そっかぁ、と、さしたる興味も無さそうに言った彼は、赤の腹部を冷たい秋風にはためかせる。
そんな反応に、肩透かしを食らった富田と森田は今度こそ無言で硬直した。そんな二人を放り出し、ミツキの意識はすでにステージの方へと向かっている。「ねえ見てみなよ、あの人やばいって」

「すごいね。手がいっぱいあるんじゃないの、エテボースみたいにさ」

よくわからない感想を述べたミツキが視線を向ける先、未だ続行中の学内ライブステージでは、至極楽しそうな笑顔の守屋がバンドをバックにピアノの鍵盤を猛スピードで叩きまくっていた。





その頃。事務所ビルの地下、今は人の少ない体育館で悠斗は一人トレーニングに打ち込んでいた。
事務所の運営やビルの維持費のため、このコートは時間次第で一般にも解放している。現に何人かのトレーナー達が、各々練習に励んでいるが、その実全員が羽沢泰生の姿に意識を持っていかれてしまうという間抜けな状況だ。が、そんなことに気づく様子も無い悠斗は次のバトルのため、三匹と共に特訓を続ける。
シャンデラの火力の強さを、寸分違わず見抜けるように。マリルリの持つ力を全部、外側へと引き出せるように。ボーマンダの飛距離と相手の技の攻撃範囲を、瞬時に判断出来るように。

自分がポケモンバトルに対し、こんなにも熱心に向き合うことになるだなんて、数週間前までには考えられなかっただろう。それでも、悠斗はそうせずにはいられなかった。
いつか、前に、それまでの人生のどこよりも本気で歌が上手くなりたいと望んだ時と同じ気持ちであった。一緒に進む者達に、彼らに見合うだけの力を手に入れなくてはと思ったあの時と。並んで前へと向かっていけるくらいに、自分も強くなりたいと願ったあの時と、同じなのだ。

「じゃあ、少し休憩にしよう」

キリの良いところで切り上げ、悠斗は三匹に声をかける。それぞれ頷いたポケモン達は、自分でボールに触れて戻っていく。マリルリが丸い尾の先をボールとくっつけ、球体へと収まったのを見届けて、悠斗はボールを拾い上げる。自力でこうするというのは、どうやら泰生が身につかせた風習らしい。
他のトレーナー達の視線を知らず知らずに受けながら、悠斗はコートの外へ出る。秋も深いというのに地下は奇妙な蒸し暑さと湿気で満ちており、彼は額の汗を拭った。外の空気を吸おう、悠斗はそう考えて、エレベーターの前に立ち、上向き三角のボタンを押した。

「あ、相生さ……」

「羽沢さん!」

と、上ったエレベーターから降りた悠斗は、ビルのエントランスに見つけた人影に呟いた。それと同時に、悠斗に気づいたその人影が名前を呼んでくる。
「コートで練習中だって、森田さんから聞いたんです」ぺこりと頭を下げた相生によると、偶然ではなく泰生に会おうとしていたらしい。嫌でも目につく、綺麗な顔が柔らかな笑みを形作る。「今、ちょうどコートまで行こうと思ってたところなんです」
そう言う相生に、外に行こうとしていたのだと告げると、少し時間をもらえるかという問いが返ってきた。構わない、と頷きながら悠斗は考える。この前話したときよりも、相生の態度は随分和らいでいた。いきすぎた緊張は見られないし、羽沢泰生を前にしても以前ほどの怯えは無くなっている。彼の変化した理由をしばし考え、もしや、と悠斗は一つの心当たりを思い出した。

「この前は、ありがとうございました!」

自動ドアを潜り抜け、ビルの庭へ出るなり、相生は悠斗に深く頭を下げた。次に上がってきた顔は晴れ晴れとしていて、数日前に彼が悠斗へ見せていたようなオドオドしっぷりはもう抜けている。

「いや、……そんな、大袈裟にすることでは無いだろう。何か良いことがあったなら、それは君自身の……」
「そんな……いえ、羽沢さんのおかげです。羽沢さんのおかげで、僕は、初めて、バトルを楽しむことが出来たんです」

森田とバトルをした日、悠斗は相生に相談を受けた。何か思い詰めたような顔をしている相生に、先に声をかけたのは悠斗は、どうにも泰生を苦手にしているのであろう態度から断られるかと思ったのだが、予想に反して相生が話を切り出してきたのである。
相生の話とは、バトルになると緊張してしまい、思うように戦えないというものだった。正直なところ相生に言われなくともそれは誰の目にも明らかだし、悠斗を始め恐らく皆が感じていることだろうが(泰生は例外で気づいていないと思われる)、あえてそこには触れず悠斗は彼の話を聞いたのだ。相生は、野生ポケモンと戦うのは難無く出来るけれども、いざ相手トレーナーと顔を合わせると、一気に萎縮してしまうのだと言った。
ポケモンの向こうにいるトレーナーの、明確な勝負心。本能のままである野生ポケモンの闘志とは異なった、『こいつを負かしてやろう』という感情を目前にすると、相生はどうしようもなく怖くなってしまうのだという。自分を倒そうと、押し潰そうとするその気持ちに圧倒されて、何も出来なくなってしまうのだと。
「そんなのは、バトルなんだから当たり前だって。それはわかってるんですよ。わかってるんです、けど」反響の激しい地下の廊下で、相生は泰生にそう漏らした。どちらかといえば中性的な見た目も相まって、そのときの彼はとても弱々しく――バトル中に見せる、何かに怯える顔をしていた。


「ずっと、怖くて仕方なかったんです。……でも! 羽沢さんが、それを、助けてくれたんですよ!」


その相生に、悠斗は言ったのだ。
コートに立ったら、自分がこの世で一番強いと信じ込め、と。
一緒に戦うポケモン達は、誰より頼れる仲間だと考えろ、と。
怖いものなんか何もない、全てが自分を待っているのだ、と。

「羽沢さんにそう教えてもらって……それを考えたら、ふっ、て、身体が軽くなったんです。いつもは震えて立てないくらいの足がちゃんとしてて、泣きそうにもならないで、相手の方の顔も見れて。ボールを投げて、中からクラリスが出てきてくれるのが、今までで一番嬉しかったんです」

それは悠斗がいつも、ステージに立つ前に自分に言い聞かせていたこと――この世で一番自分が上手くて、バンドメンバーは最強の奴らなんだと――ではあったが、相生に効果はてきめんであったらしい。今まで(と言っても、悠斗が彼と知り合ってから十日も経っていないが)に見せたことの無いような笑顔を向けてくる相生に、悠斗は内心で若干驚きながらも「だから、それは俺の力じゃなくて」とあくまで憮然とした口調で返した。
が、相生は珍しく引き下がる様子を見せず「いえ、羽沢さんのおかげなんです」とはっきりと告げた。形の良い、大きな瞳が真っすぐ自分を見つめてきて、悠斗は思わず言葉に詰まる。「ちゃんとバトルに向き合おう、って、思えましたし。バトルが楽しいってわかりました。それに」涼しげな風に乗せ、相生が凛とした声で言う。

「僕、羽沢さんのバトル見て、ポケモンバトルするようになったんですよ」

相生の言葉に悠斗は、え、と眉を上げる。「いや、始めたって言うのもおかしいんですけど」そう言いながら苦笑した相生は、片頬を掻きながら目を細めた。

「実は僕、一回ポケモントレーナー挫折してるんです。十歳で旅に出て、それで、十五歳の時に」
「………………それは、」

無意識に言葉を失った悠斗に、相生は申し訳無さそうな笑みを見せる。次のセリフを選ぶような間を置いて、彼は「僕って、この見た目ですから」少し話題を変えるような調子で言う。

「女の子っぽいとか、弱っちいとか。キルリアってあだ名つけられたり。小さい頃よく言われて……いや、今もですけど。なんか、弱く見られることばっかりで」

それは悪いことじゃないと思うけれど。悠斗は心の中でそんな感想を抱く。線が細く、色白で、どこぞの王子様かと思うような美貌。黙って立っていればモデルか何かとしか思えない相生のルックスは、確かに中性的で女性らしさはあるが、間違いなくかなりのレベルに分類されるものだ。バンドマンは見た目じゃないとはわかってはいるものの、しかし見た目が良ければそれだけ興味もひきやすいということを否応無く理解している、割合平均的容姿の悠斗としては、相生を羨まずにはいられなかった。こんな男がボーカルを務めていれば、いやギターだろうが何だろうがメンバーにいるバンドは確実に注目を集めるだろう。
そんな不服は勿論表出せず、悠斗は黙って相生の話を聞く。目を伏せた彼は物憂げで美しく、次に出すシングルのジャケットを飾ってくれやしないか、という邪念は必死で頭から振り払った。

「昔からそうやっていじめられてて、でも僕は、それが怖くて何も出来なかったから……だからせめて、ポケモンバトルで強くなりたいって思ったんです。強いポケモンと、かっこいいポケモンと一緒にいれば、僕だってもう弱虫だなんて言われないよな、って思って」

だから旅に出たのか、と悠斗はぼんやりと考える。トレーナー修行の旅など悠斗はしようとも思わなかったから、友達がどれだけ旅立とうと、そして戻ってこようと関係の無い話だった。思えば、初めてまともにこんな話を聞いた気さえした。
「旅に出る時に、お前なんかにポケモンバトルは無理だって何度も言われましたけど……絶対誰にも勝てないって言われましたけど……」苦々しい顔をしつつも相生は言う。「でも、僕なりに頑張って、自分で言うのもなんですけど、結構強くなったんですよ! バッジもちゃんと、あ、僕はホウエン出身なんですけど、八個集めましたし」

「ポケモン達も進化して、気づいたらたくさんの人に勝ってて……少しは、自分に自信も持てました。僕は少しは強いのかなって、弱いって言われなくていいのかなって、……」

バッジの価値もトレーナーの強さも今ひとつ理解していない悠斗だが、相生がその旅とやらで、かなりの努力を積んだことは何となく感じ取る。自分には想像もつかないほどの苦しさと辛さがあったのだろうと、そう思うだけの険しい道を通ってきたのだろうと、そんな想いを抱いて悠斗は、

「でも!」

しかし、そこでいきなり声を(彼なりに)荒げた相生にびくりと肩を震わせた。唐突な逆接接続詞を口にした彼は、驚きのあまり少し引いてる悠斗には気づかず、整った形の眉をぎゅっと寄せる。

「やっぱり、なんか弱く見られるんですよ! 僕達はかっこよくて、強くて、たくましい感じになりたかったのに!」
「はぁ…………」
「ブラッキーに進化させたかったクラリスは突然ニンフィアになるし、エルレイドに進化させたかったダニエル、あ、キルリアはレベルが上がりすぎちゃったのかサーナイトになるし、ジャッキー、家の庭にいたから連れてきたウソッキーはなんかオーロットに進化するかなって思ってたらならないし! 僕も旅をしてればムキムキになれるかなって思ってたのにならなかったし、女の子に間違われるのは直らないし! 全然強っぽくならなかったんですよ!」

ここで、たとえば森田などが聞いていたのなら「どうして夜の進化を狙わない?」「なんでめざめいしを早く使わない?」「何をどう間違えばウソッキーの進化系がオーロットとか思うわけ?」と、ごもっともなツッコミを入れただろう。が、あいにくここにいるのはポケモン知識が先週まで皆無だった悠斗一人である。唯一最後の件についてのみ「旅してるだけでムキムキとは限らないのでは」と疑問を感じただけで、相生の謎の天然っぷりを指摘するには至らなかった。
そういうこともあるのか、と素直に頷いている悠斗に、相生は「でも」と、先程と同じ言葉を繰り返した。それは同じ言葉ではあったけれど、口調はまったく違っていて、静かに、自分に言い聞かせるような声だった。

「でも、本当は――そうじゃ、ないんですよね。そりゃあ見た目もあるんでしょうけど、そんなの本当はどうとでもなって、僕が弱虫だって言われるのは、弱く見られちゃうのは……そう言われて、何も言い返せないくらいに、僕が本当に弱いからだったからで」
「……………………」
「それを、ポケモン達にまで責任転嫁してたから。だから、僕は負けちゃったんです。あいつに、バトルに、自分に……バトルの時の、恐怖に」

確かな力を身につけながらも、抜けきらない弱さに悩んでいた相生は、八つ目のバッジを手に入れたところでとある男と再会した。その男は、かつて相生と同じ町に住んでいた者で、相生を取り囲む子供たちの中でもより激しく相生を傷つけた者でもあった。
有無を言わせず持ち込まれたバトルで、相生は何度も言われてきた言葉を思い出し、手に入れたはずの力の全てを失ってしまった。お前は弱い。誰にも勝てない。真正面に立つ、闘志と敵意を露わにしたトレーナーがとても恐ろしいものに見えて、相生は何も出来なくなった。何も出来ない、弱虫の子供に戻ってしまった。それはその男が相生を完膚無きまでに叩きのめし、「やっぱり、お前は弱っちいんだよ」と吐き捨てながら去っていってからも同じだった。

「旅をやめて、町に帰って……それからしばらく、ポケモンバトルは一度もしませんでした。いえ……出来なかったんです。怖くて。負けたくなくて。負けるのが怖くて。僕は弱いから、そんなものは出来なくて」

「ですけど」相生は、少しだけ滲んだ声で言う。「羽沢さんの、バトルを見たんです」
大学受験のためにカントー地方を訪れた相生は、そこで偶然、羽沢泰生のバトルを見た。そして、もう一度ボールを投げたい、と思った。

「まるで自分と、自分のポケモンだけしか味方じゃないような――いえ、実際そうで、その中で、前に進んでいくバトルを。そんなバトルでした。長かった夜とか嵐とかが、ふって終わったみたいでした。僕も、また、ポケモンバトルをしたいと思ったんです。羽沢さんみたいに、戦いたいって」

大学進学をやめ、家族を説得し、ポケモンバトルの道に復帰した相生は必死にブランクを取り戻し、さらなる高みを目指して猛特訓を積んだ。その成果は確かに現れて、二十歳を迎えると同時にエリートトレーナーの称号を得、期待の若手と注目されて、憧れのトレーナーたる羽沢泰生と同じ事務所に所属した。いくつもの勝利を収め、彼を弱いなどという者は圧倒的少数意見として扱われる。今の彼は、ポケモンリーグ優勝候補のダークホースとすら言われるほどの存在だ。

「でも、いつだって、僕は弱かった。勝った分の何倍も負けた。僕のせいです。相手の方が、僕を倒そうとしてるのが怖くって。それが本当に怖くて。いつでも、僕は子どもの頃と何も変わらない、弱虫のままだったんです」

何度も挫けそうになり、何回となく泣きじゃくり。「そうするといつも、羽沢さんのバトルを見て、どうしようもなく、辛くなりました」いつになっても強くなれない自分が死ぬほど嫌いで、それでも恐怖は微塵もなくならなかった。「だけど、それ以上にすごいなって思って、がんばろうって思えるんです」この人のように、素敵なバトルを。「そのたびに、僕はまた、モンスターボールを握れるんですよ」
「だから、羽沢さん」相生は、まっすぐに羽沢泰生を見つめて言った。

「僕は何度でも羽沢さんに助けられて、何度でも羽沢さんに引き上げてもらって、何度でも、羽沢さんに、ポケモントレーナーにしてもらったんです」

悠斗は、何も言わずに相生を見返した。そうするのが、一番良いと思ったのだ。

「この前、羽沢さんにアドバイスをいただいた後のバトルは、怖くなかったんです。クラリスと、ジャッキーと、ダニエルと、初めて全部、力を出せたと思います。あなたのおかげです。羽沢さんがいたから、僕は怖さを抑えられていたんだし、怖さに勝つことが出来たんです」

「…………ん」

「実は、リーグに『あいつ』が出るって知ってから、怖いのがよけいに酷かったんです。……でも、もう大丈夫です」

むしろ、倒してやろう、って思えるくらいですからね。そう言って、少しばかりイタズラっぽく笑った相生に、悠斗も僅かな微笑を浮かべる。それを見た相生はあからさまに驚いた顔を見せたが、それすらもすぐに笑顔へ戻った。
そうしてしばし笑った後、「でも、僕も駄目ですね」と相生が詫びるような言い方をした。「何がだ」悠斗がそっけない問いを返す。


「この前教えていただいたこと、羽沢さん、昔もおっしゃっていたのに。僕は初めて、ちゃんと聞いたんだな、って」

「………………え?」


思わず聞き返した悠斗に、相生が首を傾げながら「あれ、ずっと前ですけど、僕がここに入ったときに……」と呟いた。慌てた様子で「ああ、うむ」と悠斗はごまかす。相生はそれ以上不思議がることもなく、「あのとき」と、悠斗に向かって笑いかけた。

「同じこと、言っていましたよね。あれは僕にではなく、森田さんに大してですけど」
「………………」
「どんなときでも、ポケモン達は裏切らないし、自分もそうすることは無いって。それはどんなことよりも強いから、バトルに勝てない理由なんて無い、そう信じるんだって……」

喉の奥に、何かが詰まったような感覚。それを不意に抱いた悠斗の、一時静止した思考は次に返すべき言葉を見失っていた。
「羽沢さん?」押し黙った悠斗の両目を、相生が不思議そうに覗き込む。それではっと我に返った悠斗は、「あ、いや――――」と慌てて取り繕う。「とにかく、また何かあったら。俺で良ければ」泰生らしさを悠斗なりに醸し出しながら言葉を続けると、相生は「はい!」と目を輝かせて頷き、悠斗の両手を握りしめた。
流石にそれには彼も気恥ずかしくなったらしく、「あ、すみま、……つい……」焦った様子で、いつものようなどこか頼りない姿に戻って手を離す。気にするなと言いつつ、何だか妙に懐かれてしまったなぁと悠斗は心中で肩を竦めた。本来自分よりも年上の相手だが、小さなヨーテリーのように思えてしまうのはどうなのだろうか。


「あれ、今…………」


その時、何か乾いた音が聞こえたような気がして、悠斗は反射で辺りを見回した。が、「どうかしましたか?」何も無かったような顔をしている相生と、結局何も見つからなかった周囲の様子に、気のせいかと思い直す。ビルの周りに植えられた木にはオニスズメやバタフリーが行き来したりしているし、きっとその羽音か何かだろう。そう、悠斗は結論づけた。
戻るか。タイミングがちょうど良いと思って、彼は相生に声をかけた。色素の薄い、滑らかな髪を揺らして頷いた相生の笑顔と横に並び、悠斗はビルの入り口へ向かって歩き出す。
二人分の影を飲み込み、よく磨かれた自動ドアが音を立てて閉じていく。ガラス製のそれにうっすらと映り込んでいる、黒いカメラをそれぞれ構えた男とカクレオンの姿に、彼らが気づくことは無かった。


  [No.1419] 第八話「暗雲低迷」 投稿者:GPS   投稿日:2015/11/26(Thu) 18:22:34   51clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

『羽沢泰生、岬涼子と熱愛発覚!』
『驚愕! 冷徹の鬼トレーナーも美女のメロメロには戦闘不能か?』
『ゆうわく? じゃれつく? 064トレーナー事務所選手2人の密会を激写!』


「何なんだよこれは!?!!?!?!」


タマ大第二軽音サークルの学内ライブが成功を収めた翌日――朝の羽沢家に、そんな悲鳴が響き渡った。

「待てよ、一体どういうことだよ!? 岬涼子……って、あの人と!? お前が!? 何したんだよおい!!」

朝食が並べられた羽沢家の食卓に、スポーツ新聞を広げた悠斗が叫び声をあげる。泰生の声帯でなされたそれはびりびりと低く響き、隣に座っていた森田の腹部を圧迫した。彼の向かい側に腰掛け、森田同様ご相伴にあずかっている富田がさりげなく、髪に隠れた耳を両手で塞いでいた。
そんな悲鳴の原因となったのは、今朝方森田が持ってきた、何社かの新聞の一面を揃って飾っている記事である。「なんか、面白いことになっちゃいましたよ」と、あまり面白くなさそうな顔をしながら新聞を差し出した森田から、それぞれ受け取った悠斗、泰生、富田は一様に目を丸くした。泰生に至っては、紙面を握る手に力を込めすぎて、紙の端をヒンバスの鱗の如くボロボロにしたほどである。
あまり画質は良くないが顔などの特徴ははっきり特定出来るレベルの写真と、派手派手しいフルカラーフォントが躍るその紙面。それらはいずれも、『羽沢泰生のスキャンダル』を報じているものだった。

「…………何したんだ、か。むしろそう言いたいのは俺の方だ」

この世の不機嫌全てを煮詰めでもしたのだろうか、というような声で泰生が唸る。今にもゴングを鳴らしそうなオコリザルみたいな顔をする今の彼を、事情を知らぬ他の者が見れば、温厚な人間として知られている羽沢悠斗にこんな表情筋があったのかと驚くに違いない。
が、それも無理はないだろう。新聞に載っている写真――神社の境内で、距離を密に詰めている羽沢泰生と岬涼子――カメラマンによる巧妙なアングルのせいで、見ようによっては唇を重ねているようにも思えるものすらある――はどれも、泰生に覚えがないものなのだ。つまりは、悠斗と入れ替わってから撮られたものということである。自分の身体でとんでもないことをしでかした悠斗に、ファイヤーに勝るとも劣らないレベルの眼光を泰生が放つ。
「間違いなくお前のせいだろうが!」堪らず怒鳴った泰生に、ようやく思い至った悠斗は決まり悪そうに視線を逸らす。「落ち着いてくださいよ、まだ朝なんですから」お茶を飲んでいた森田が呆れたように泰生をなだめる。そのやり取りをぼんやり聞いている富田は、損害を被ったのが泰生であるためこの件にはそこまで興味も無く、既に思考を来週提出のレポートへとシフトさせていた。

「あらあらあら」

悠斗と泰生が険悪な雰囲気を醸し出し、富田がジム運営によって得られる社会教育的成果について考えている横で、羽沢家の母、真琴は呑気な声をあげている。「大変、大変」新聞の一つを手に取った彼女は、驚きながらもゆったりしたままの口調で言った。泰生と岬の姿が大写しになった一面を眺めて真琴が呟く。

「スキャンダルなんて初めてよ。額に入れて飾らないと」

どこか恍惚とした声色でそうのたまった真琴に、泰生がうんざりしたように「やめろ」と一言言い添えた。しかし真琴もそれだけでは引き下がらず、「だって、あなたがこんなニュースになったことないじゃない。せっかくのレア事件なんだから、記念にとっとかないと」と、いそいそと新聞を読み進める。泰生はもはや突っ込む気力も失ったらしく、憮然とした顔で漬物をかじる作業に没頭しだしてしまった。

「こういうことって、よくあるんですか?」
「そうよ。リーグが近づくと、特にね」

真琴があまり驚いていないのと、『あなたが』という部分が引っかかり、富田がそんなことを聞く。頷いた真琴が「富田くんや悠斗はポケモントレーナーに興味無いから知らないでしょうけど」と言うと、森田が同意するようにうんうんと首を縦に振った。「芸能人やスポーツ選手と同じくらい、ありふれたことですよ」その森田が真琴の話を引き継ぐ。

「トレーナーは実力主義、今強くさえあれば他は何も関係無い……っていうのは、必ずしも正しいようで正しくないんです。もちろん強いのが絶対条件、第一なのは当たり前ですが。とはいえ……」

多かれ少なかれ、それ以外のものも大事なんですよ。溜息をついた森田に、何となく思い当たる節のあった悠斗と富田は微妙な顔をした。

「性格。キャラクター。テレビやイベントに出た時の態度。見た目、ポケモンとの関係、使うポケモン、好きな食べ物家族構成SNSでの発言経歴恋愛事情年齢生まれ育ち生活レベル住んでる場所服装趣味バトル以外の特技…………その他、諸々ありますが。要するに『イメージ』ですね」
「トレーナーって言っても、結局は人間だからね。ポケモンバトルを見ているようで、その向こうにある人間性を見てる人も結構いるのよ」
「そうなんです。ポケモントレーナーとして、誰かに応援してもらうということは、つまるところその個人が問われるってことでもありますから。それが本当だとしてもそうでないにしても、トレーナーはそのトレーナーとしての『像』を求められてるんです。そんなのはアイドルみたいで許せないって怒る人も一定数いますが……スポンサーやマスコミが絡んでる以上当たり前の話ですし、バトルのパフォーマンス上、もう抜きには出来ませんよね」

真琴の言葉に頷く森田に、「でも、羽沢さんは……」富田が何かを言いたげな顔をして泰生を見る。彼の言いたいことはわかっていないながらも、喜ばしくないことを思われているのは何となく察したようで、泰生が箸を止めてきっと富田を睨みつける。
「そうなんですよ」が、森田は富田の言わんとすることを理解したらしく、特に渋ることもなくそう答える。「泰さんは確かに、強いだけ、って感じですもんね」

「でも、それもまた、泰さんのキャラクターなんですよ。ただひたすら『強さ』だけを追求する、硬派で頑固なトレーナー。羽沢泰生っていうのは、そんなイメージでやってるんです。ま、やってるっていうか、泰さんの場合は本人まんまなんですけど」

話が逸れましたね、一度お茶を口に含んだ森田が仕切り直すように言った。

「とにかく、そういうのが大切なトレーナーに対して……邪魔してくるのがスキャンダル、ってわけです」
「邪魔? マスコミがってことですか?」
「まぁ、単純に数字稼ぎや売上目的のそれもありますけどね。でも、それ以上に多いのが、ライバルトレーナーからのタレコミなんですよ。そりゃあもう、有る事無い事何でもかんでも炎上炎上、火の無いとこにもブラストバーンの勢いで」
「それが本当か嘘かは置いといて、こういう形で『イメージ』が崩れるとスポンサーが離れたり、サポーターが減ったりするかもしれないでしょ。そこまでいかなくても、相手のメンタルにダメージは与えられるでしょうし。カメラマンとか探偵とか雇って、ライバル付け狙って隙あれば証拠押さえて……」
「で、週刊誌や新聞社に持ち込むんです。この時期多いんですよね……リーグが近いとこういう情報戦も過激になって、あー、馬鹿らし」

童顔に似合わぬガラの悪さを珍しく発揮し、舌打ちまでかました森田に、泰生と真琴が揃って深い頷きを見せる。富田と悠斗も、土俵は違えど思うところがあったため、その件については心の底から同意した。
「……でも、いいんですか」遠慮がちな悠斗の声に、四人が一斉にそちらを向く。「そんな時期に、こんなことになっちゃって……その、スポンサーとかって……」

「ああ、それは全然大丈夫」

一応は自分の行いから引き起こされた事件だけに、流石の悠斗も申し訳なさを感じているらしいが、彼の思いに反して森田の反応は軽いものだった。

「ホテルから出てきたとことかならともかく、一緒に神社いた程度じゃ痛くも痒くもひるみも無いですよ。こんなんで切るスポンサーなんて、むしろこっちから願い下げってものでしょう。まさかの羽沢泰生のスキャンダルってことで世間的にはしばらく騒がしいかもしれませんが、所詮噂は噂、すぐ飽きられますって」
「でも、岬さんにご迷惑が……」
「あんな奴の心配など、しなくていい」

憔悴した悠斗の声に、しかし泰生が斬り捨てる。「あいつは数年前まで、自分から他所の男トレーナーに近寄っては、自らこういうことを引き起こしてた奴なんだ」相手のイメージはどんどんダメにして、自分は悪女キャラで通すって戦法ですよらことごとく成功しててアレは笑えましたね。補足した森田に、「だからあいつのことは放っておけ」泰生が苦々しくそう吐いた。
「でも、それって悠斗がハメられたってことじゃ……」富田が前髪に隠れた眉間にシワを寄せる。その呟きに、森田が「それは……」首を捻ってから、そこを横に振った。「無いでしょう。同じ事務所の人にあまいミツトラップ仕掛けるバカが、どこにいるっていうんですか」

「ま、そういうことですから。岬さんのことは、そこまで気に揉むことはありませんよ。アイツだけはちょっとアレですが……いえ、なるようになるでしょ。社長やスポンサーの心配もいりません、むしろ社長は喜ぶでしょうね。なにせ、スキャンダルに一番縁の無い羽沢泰生のスキャンダルですから」
「黒澤さん、こういうの大好きだものねぇ。でも、このくらいの盛り上がりはあってもいいと思うわよ。他のトレーナーさん達の事件が沢山ある中、あなたは大抵忘れられてるものね、いつも」
「余計なことを言うな。とにかく、悠斗。お前は無駄な心配などする必要は無い。つまらんことを考えるくらいなら、バトルに集中しろ。変な噂が立つよりも、ポケモンに恥をかかせる方が余程許せんからな」

きつい口調でそう言い含める泰生に、悠斗は何か言いたそうに憮然とした顔をしたが、やはり迷惑をかけている手前か素直に頷いてみせる。その様子を横目で見ていた富田が泰生に口を開きかけたが、「テレビでもつけましょうか」ちょうどリモコンを握った真琴の声により、彼が発言することは無かった。

「いいですね。泰さんのスキャンダルが映像で観れるかもしれません」
「そうそう。今なら『ねむけざましテレビ』やってるもの。どうしよう、録画しといた方がいいかしら」
「今はYouTubeとかにアップされますから、大丈夫ですよ」

勝手な会話をする真琴と森田に、泰生がギリギリと歯を鳴らす。「いい加減にしろ……」とうとう頭を抱えた泰生と、肩身の狭そうな悠斗と、どうするべきか図りかねている富田をよそに、真琴と森田はテレビに目を向けた。
『今朝方から、064事務所所属のエリートトレーナー、羽沢泰生選手と同じく064事務所所属、岬涼子選手の不倫疑惑が話題となっておりますが……』画面に映ったニュースキャスターが、楽しそうな調子で原稿を読み上げる。「やってますねー」「どこも早いわねぇ」のんきなコメントをする二人に泰生が呻き声を上げた。気まずくなった悠斗が、テレビを消してくれないかと言おうと息を吸う。



『そして今しがた入ってきたニュースですが……羽沢泰生選手はさらに、064事務所の若手イケメンホープこと相生翼選手との熱愛も……』



「……………………」

「……………………」

「……………………」

「…………………………」

真琴が、森田が、富田が、そして悠斗が言葉を失った羽沢家ダイニング。ニュースキャスターがますます楽しそうに報じたそれに、「悠斗ッッッ!!!!!!」と泰生が激昂したのは言うまでも無い。





「さっき森田さんが言ってた……『アイツ』って、誰のことですか?」

どうにか泰生をなだめすかし(森田が)、その場をやり過ごした悠斗と森田は064トレーナー事務所へと向かった。

森田の言う通り、064を運営する黒澤孝治社長は羽沢泰生のスキャンダルをまったく咎めることが無いばかりか、そんなに笑っては腹がよじれるのではないかというほどに笑い倒し、「よくやった」と謎の褒めコメントまで残したほどであった。ビリリダマとオコリザル、オニドリルを足したような顔つきとゴーリキーの如き身体つき――要するに街で会ったら関わり合いになりたくない感じ――をした黒澤だが、その器はホエルオーよりも大きいらしい。正義感に溢れ、義理と人情を重んじるという黒澤は過去、泰生の心意気に突き動かされて共に前プロダクションを辞め、そしてこの064事務所を立ち上げたという経歴の持ち主である。上等な黒いスーツに身を包んだその格好は誰がどう見てもロのつく組織の幹部か何かにしか思えないだろうが、その素敵なガタイの奥のハートはブースターよりも熱く、ウルガモスよりも強い光を持ち、そしてハピナスよりも優しいのだ。
そんな黒澤を前にし、悠斗は内心怖くて仕方なかったのだが、黒澤は終始笑い飛ばしただけだった。彼は随分と羽沢泰生を買っているようで「お前はそのくらいでヘコむタマタマじゃない」と言い切るのみならず、「ハクがついた」などと喜んでいるみたいですらある。その意気や好し、とばかりに泰生の無鉄砲に乗った男なのだから、それくらい当然なのかもしれない。
ともかく、悠斗が心配していたみたいなことにはならずに済んだようである。事務所にいる他のトレーナーも、「ずいぶん賑わってるな!」「羽沢さんにもそういうとこがあるなんて……」と驚きはしているものの、今の今まで一度もそういった弱みを見せなかった泰生がここにきてお騒がせしたことに、むしろ親近感を覚えているらしい。それに対する悠斗の受け答えがどうにもたどたどしいものであったため、結果的にトレーナー達は「羽沢さんって意外と危なっかしい面があるんだな」という感想を抱き、微笑ましい顔まで浮かべていたほどである。それを横目で見ていた森田は、意外と危なっかしい、というところはあながち間違ってもないな、などと思っていた。

岬はトレーナーマガジンの取材、相生はイッシュのバトルフェスへの巡業ということで、肝心な相手はいなかったものの――とりあえず、肩の荷が少しは下りたような気がして、悠斗は幾分軽くなった声で森田に尋ねた。

「アイツ? あ、ああ、さっきの……アイツってのはアイツですよ、この前ミツキさんと会った時にもお伝えした……」
「ああ、ライバルとか言ってた人のことですか?」

森田の答えに少し考えたあと、悠斗がまた尋ね返す。「そうですよ」苦い顔で頷いた森田が、ポケットから取り出した車のキーを力を込めて握り締めた。何かあまりよろしくない感情がそこに集約されたことをなんとなく察した悠斗は、自分の背中が少しばかり冷たくなるのを感じる。
「根元信明……さんは、泰さんが昔の事務所にいた頃から、泰さんを一方的に目の敵にしてきた人ですよ。そりゃあもうネチネチネチネチ、本当嫌なヤツでして」あからさまな恨み節に若干ヒキつつも、悠斗は森田の話を黙って聞く。「この人です」と彼が携帯の画面に表示してくれた、その根元とやらの写真を覗き込むと、そこにはそこそこにハンサムなダンディ風の男が映っていた。事情を知らない悠斗は、俳優の誰かに似ているな、などとマイペースな感想を抱く。
「特に泰さんに対してのアレがすごいんですけど、うちの事務所にいるトレーナー全員とも色々因縁持ってて」忌々しげに森田が言う。何なんだか知りませんけどね、本当、迷惑極まりないですよ。そう続けた森田に、悠斗は冷や汗を流しつつ頷いた。


「で、悠斗くん」
「何ですか?」

唐突に呼ばれた名前に聞き返した悠斗に、森田がわざと勿体つけた調子で言う。064ビルの地下駐車場、反響の激しいそこに森田の声がやたらとうるさく響き渡った。白い車のドアを開け、悠斗に乗車を促しながら、彼は観念したような口調で言う。

「今から行くのが、その根元のとこへのバトル申し込みです」

助手席に乗りかかった悠斗が、「やだなぁ…………」と力無い声を漏らす。羽沢泰生とはかけ離れたその様子に、この事態を知らない者、それこそ根元あたりが見たら相当面白いことになるだろうなと思いつつ、森田は「諦めましょう」と肩をすくめた。
自身も運転席に乗り込んで、シートベルトを締めている森田に悠斗は尋ねる。「でも、あいつや森田さんだけじゃなく……064の皆さんにまで嫌われてるだなんて、一体どんな方なんですか、根元さんは」先ほど見せてもらった外見から抱くイメージは、どちらかと言えば悪くない。いけ好かない感じはあるといえど、それに関しては愛想や親しみやすさの欠片も無い、泰生の方が悪印象というものであろう。しかしそこまで言われ、挙げ句の果てに先日は森田にこの一件の疑いまでかけられていたけれど、そこまで思われるとは一体どんなことをしでかしたのか。

「説明するのもアホくさいですよ」

が、それが気になった悠斗の期待に反し、森田の答えはそっけないものだった。別に、悠斗に対して意地悪をしているとかでななく、彼は本気で説明する気もないらしい。その態度にやや気圧されて、息をぐっと止めた悠斗にも気づかず森田は、ハンドルに置いた指を苛立ち紛れにトントンと動かして、吐き捨てるような短い溜息を一つついた。

「話すほどのこともないです、あんなヤツ…………」





「話す気にもならん。あんな男のことなど」

一方その頃、タマムシ大学構内である。
講義を終え、部室へと移動する最中に悠斗と同じことを尋ねた富田に対し、泰生もまた森田と全く同じ答えを返していた。

「そう言われると余計気になるんですけど。そこまで言われるって何したんですか」
「うるさい。何度も聞くな、だから話す価値も無いんだ、あんな奴には」

部室がある棟へ向かうべく、キャンパス内を歩く二人はそんな会話を交わす。五限終了後の秋空はほぼほぼ暮れかけており、顔に当たる風はやや冷たい。フワンテの細い手を掴んで通り過ぎていく女子学生の長い髪が、その風に揺れて広がった。
広大な敷地を持つタマ大キャンパス、イチョウ並木に挟まれた道を歩く富田は、泰生の態度に嘆息する。薄暗い視界に目を凝らし、銀杏を踏み潰さないよう注意しながら進む彼はギターケースを持ち直した。「どんな酷いことされたんですか」サークルに行く学生達の声にヤミカラスの声が被さり出し、ポッポとピジョンの群れがオレンジと紫の混ざった空を帰っていく。「森田さんもあんな顔してましたし」

「そんなに気になるなら自分で調べろ。あんな奴のために、なんで俺が話さないといけないんだ」
「なんでそこまで……どれだけ馬鹿らしいんですか、その人」
「相当だね。こいつが怪しい、って森田さんに言われたからちょっと探りを入れてみたけど、本当に、本当に、本当に馬鹿だった」
「だから言ってるだろう、馬鹿だ、って……」

重い声でそう同意した泰生は、しかしそこで言葉を止めた。
彼の視線がゆっくりと横を向く。それと同じタイミングで、富田も視線を動かした。「まさか……」内心で感じた嫌な確信に、彼は軽度の頭痛を覚えた。


「どうもお世話になっております! こんバンギラス、あなたの街の便利屋さん、いつもご贔屓ありがとう真夜中屋ですどうも!! 補足として言っておきますと本日のトリックはもりののろいで……」


「声が大きい目立ちすぎ!!」

いきなりかつ自然な感じに割り込んできた声の主――黄金色のイチョウ並木の中で明らかに浮いている深緑のオーロット――を、通して騒いでいるミツキ――に勢いよく体当たりをかまし、富田が小声でそう叫んだ。その衝撃によって発された、ぐえ、という呻き声がミツキによるものなのか、それともオーロット本人(木?)によるものなのかは定かではないが、それどころではない富田は、通行する学生達から隠すようにオーロットを木々の間へ押し込める。「ちょっと! 潰れる、枝が折れる! 折れちゃう!」「静かにしてくださいよ、見た目は暗いからまだ隠せても喋ってるのバレたら面倒ですから」「わかったから! わかったから折らないで!」「もともと枯れてる老木なら折れてもいいでしょう」などと言い合う富田とミツキに、燈り始めた外灯へ向かおうとするモルフォンが不審なものを見る目をした。
そんな彼らに胡乱な目を向けていた泰生が、ハッと気がついたような顔をしてオーロットに近づいていく。ようやく泰生の存在を思い出した富田は、喋る上に人並み以上にうるさいこのオーロットをどう説明したものか悩んだが、彼の心配などまったく他所に、泰生はオーロット(ミツキ)に抱きついていた。「ずっと前、旅先で懐かれて以来オーロットを見るとこうしたくなるんだ」言い訳するように彼がぼそぼそと呟く。

「別に、誰も聞いてませんけどそんなこと。まああなたの勝手ですからいいですけど、あ、ちなみにそれは真夜中屋さんらしいので」

オーロットを両腕で抱き締めている泰生――勿論のこと見た目は悠斗――という愉快な光景を、なんとなく携帯で撮影しつつ富田はそう言い添える。それを聞いているのかいないのだか、わかっているんだかいないんだか知らないが、泰生は「ああ、真夜中屋な」などと適当な答えを返した。幹に顔を埋められて枝を撫で回されているミツキは、「どうせこうされるならミニスカ女子大生にされたかった……」と、馬鹿正直な願望を垂れ流している。
いつまでもこのカオスを放っておくわけにもいかないので、富田は本題に入るべく「で、そのトレーナーとやらがどうしたんです?」とミツキに尋ねた。「なんか調べてくれたみたいですけど」

「ああ、そうだそうだ。森田さんがせっかく教えてくれた情報だからね、無駄にしちゃいけないから調べてみたんだ」

どうやら仕事は必要以上にしっかりやるらしい、と富田は密かにミツキを見直した。が、そんなことを口に出した日には間違いなく調子に乗るため内心のものに留めておくことにする。
「根元信明、53歳。マックスアッププロダクション所属、独身……」オーロットのどこから出ているのかわからない声が、その調査結果とやらを読み上げる。「バトルはトリッキーな戦法中心でなかなかのツワモノ、特にダブルバトルではかなり強い…………けど!」
そこで、言葉を切ったミツキはウロの中の紅い眼をぎらりと光らせた。「なにせ、こいつ……」

「女癖がヤバすぎる!! 隠す気も無いのか隠しててこれなのか知らないけれど、出てくる噂出てくる話女性問題ばかりじゃん!? バトルと同じくらいスキャンダル起こしてんじゃないの、っていうか絶対バトルしたトレーナーよりも問題起こした女の数の方が多いでしょ!?」
「そういう奴なんだ。相手がトレーナーだろうが、そうじゃなかろうが、ポケモンセンターの職員でもフレンドリィショップの店員でもジムリーダーでも四天王でもコンテスト出場者でもミュージカルバフォーマーでもフレア団とやらでも……女を見て、あいつが声をかけなかったところを、少なくとも俺は見たことがない」
「ミニスカートでもパラソルおねえさんでもポケモンごっこでもオカルトマニアでも、なんとたつじんでも……あ、なんかセンパイとコウハイは駄目だったっぽいですけど……とにかく、良く言えば恋多き男、悪く言えば浮気性というかスケコマシというかクズというか……某世界線のニビシティジムリーダーの断られないバージョンというか……どういうテクを使えばそんなことが出来るのかは謎ですが」
「暇さえあれば女の尻を追いかけてるような奴だからな。マンタインにくっつくテッポウオの方が、まだ離れてる時間が長いだろう」
「で、いろんな人に調子いいこと言うもんだから問題になるし、有名トレーナーや女優、パフォーマー、サイホーンレーサーにもホイホイ手を出すからスキャンダルにもなると……そういえば、羽沢さんの064事務所の女の人、岬さん、とかいう方とも何かあったみたいですよね。あれは遊ばれただけっぽいけど。おっと、これは羽沢さんも同じでしたっけ? だから気をつけないといけないって言ったじゃないですか、記者だけじゃなくて僕みたいなヤツとかも、いつ何時どこで誰を見てるかわかったもんじゃない輩は山ほどいるんですからね。壁に耳あり障子にメリープですよ」
「やかましい、そんなことは悠斗に言え、気配に気づかずのこのこ撮られる方も悪いんだ……岬はむしろ、根元を引っかけてからかっただけだから構わん。勝手にすればいい。それより問題なのは、相生を女と見間違えてしつこく口説いて身体に触っていたところで勘違いに気づいたという一件だ」

怒涛のように繰り広げられた話を、一通り聞いた富田は深く頷く。「バカですね」「バカなんだよ」「だからバカだって言っただろう」あんまりな言われようだが、この場に森田や064事務所のメンバーがいたら賛同の嵐だったに違いない。トラウマを刺激された相生に至っては、下手をすればまたしても泣きたくなるだろう。
「もうさぁ、やってる途中で嫌んなったよね」呆れ返ったように言い、ミツキが両腕の位置にある枝をガサガサと揺らす。やっと気が済んだのか、そこから離れた泰生は苦フシデを噛み潰したような顔で「そういう奴なんだ。あいつは」と吐き捨てた。対外的にライバルトレーナーとして位置付けられる彼は、根元の引き起こす騒ぎに巻き込まれ、何がしかの形で迷惑を被ったことがあるのかもしれない。
それにしても、と富田は思う。森田は根元のことを今回の事件の犯人として若干疑ったようだけれども、そこまでする頭がある奴にはどうにも思えない。別に本当に頭が悪いわけでもないのだろうが、こんな事態を引き起こし、起こり得るであろう泰生の悲劇を想定し、ミツキ曰く『強い感情が必要な面倒臭い呪い』を果たして彼がするだろうか。確かに、歳も近く実力が拮抗している相手を少しでも不利に立たせようという意味ではあり得なくもない話だが……そんなことをしている暇があったら、そこらのポケモンセンターでジョーイさんの一人や二人をナンパしていそうだというものだ、この、根元という男は。
そんなこまを考える富田の隣で、ミツキも葉ずれの音を鳴らし鳴らし悪態をつく。「そもそも、それを許されてるってのもアレだよね」赤の瞳がきゅっと細まった。「メンタルハーブ知らずのMr.メロメロとか言ってる週刊誌もあってさ」

「だけど、一個だけ、この男の…………」


と、そこまで言いかけたところで、急にミツキが黙り込んだ。それまでは目立つのも構わず、おしゃべりオーロットとして騒いでいたにも関わらず、木々の一本を装うかのようにじっとしだした彼の様子に富田は訝しむ。オーロットの腹部に当たる幹を撫でていた泰生も、ミツキの沈黙に気づいたらしく富田に視線を送った。
「あ」そんな泰生の二の腕を、ほんの僅かな動きでオーロットの枝先がつつく。別の枝が指す方を振り向いた富田と泰生は、同時に小さく声をあげた。


「羽沢! 富田!」


薄暗い道を、学生達の間を縫って駆けてきたのは二足歩行のバッフロン……ではなく、キドアイラクの誇るドラマーこと二ノ宮の姿だった。生まれつきの天然パーマと髪量の多さ故、トレードマークのアフロ頭を揺らして走り寄ってきた二ノ宮は、「今から第二練習室だよな?」と、息を弾ませて泰生達のところでストップした。

「俺も五限あってさ、でも延びたから急いじゃったんだわ。お前ら何してたの? イチョウ狩り? それともマツタケとかでもあった?」

謎にズレたことを聞いてくる二ノ宮に、富田は「そんなわけないだろ、ちょっと話してただけだって」と取り繕う。「マツタケなんか大学にあるわけないし。パラスがいたらいいレベルだ、ここは」彼のもっともな言葉に二ノ宮は、そうか、そうだよなー、と暢気な頷きを返した。
おおきなキノコでもあればいいんだけどなー、などと言っている二ノ宮に適当な相槌を返しつつ、その二ノ宮のアフロをガン見しまくっている泰生の脛に蹴りを入れつつ、富田はさりげなく歩き出した。行き先である部室棟の上に、雲に覆われた半月が昇っている。そういえばあの人の名前は月から取ってるんだよな、と思いながら富田がミツキの方を振り向くと、先程までオーロットが鎮座していたそこには既に誰もおらず、イチョウの幹がひたすら並んでいるだけだった。逃げ足の速い人だ、というのが、富田がミツキに抱いた印象である。






「この前の歌! 羽沢、超やばかったって!!」

練習室に到着し、ドラムセットの調整をしながら二ノ宮が興奮したように言う。丸めのガーディ顔を輝かせ、彼は先日のステージを思い出して溜息をついた。

「なんか、超大人っぽかったっていうか大人の色気? 哀愁? 切なさと心強さ? よくわかんねぇけど、そんな感じのが超出てた! 芦田さんのピアノともぴったりだったし、あの人のピアノもヤバいから、俺とか途中泣いちゃったって!」
「ああ、いや…………」
「いつもの、明るくて速い感じのも羽沢に合ってていいと思うけど、ああいうのも歌えるんだってすごいビックリした! キドアイラクにもああいうの作ってよ、絶対最高だって、何なら俺ウィンドチャイムとか買っちゃうよ!?」

頬を上気させてそんなことを言い出した二ノ宮に、富田が慌てて「いや。とりあえず今のスタイルでいこう」と口を挟む。あのステージを作り上げたのは悠斗であって悠斗ではない、悠斗の声と泰生の精神なのだ。そりゃあ確かに、同じ声帯を持っている悠斗だってバラードを歌いこなせるだろうし、実際何曲か歌ってはいるけれど、あそこまでのものを悠斗が成し遂げるのはほぼ百パーセント無理な話だろう。不本意ながらも、富田はそれを認めざるを得ない。
ともかく、そうわかっている以上、わざわざ不利な状況を自分達から作る道理もない。「とりあえず、オーディション乗り切ってから考えないか」適当に言葉を濁す富田に、二ノ宮は「そうだな」と頷いた。彼がケースから取り出したスティックの束がガチャガチャと音を立てる。

「でも、富田の! あのときのお前の、ほら最後に弾いてたフレーズあんじゃん? アレすごい好きなんだけど」
「ああ、これか?」

一足先に準備を済ませていた富田が、アンプに繋いだギターを弾く。「それそれ!」と嬉しそうに言い、二ノ宮はドラムの向こうから身を乗り出した。

「それめっちゃかっこいいからさ、それなら入れられるだろ? 『夕立雲』にもさー」
「そうだな、コード進行も同じでいけそうだし、キーを変えれば……」

まぁ、有原にも聞いてからにするか。まだ姿を見せていない、キドアイラクのベーシストの名前を富田は口にする。その富田のアイコンタクトを受け、泰生も首を縦に振った。
「だなー」楽しそうにそう言って、夕立雲――数週間後に控えたオーディションで演奏する予定の曲――のリズムを刻み始めた二ノ宮のドラムに旋律を乗せながら、富田は前髪の奥にある目を細くする。「お前も、相変わらずすごかったけど」言われた二ノ宮は照れくさそうに笑いつつ、そうかな、と手を動かしたままはにかんだ。

「そうだったら良かったけど。でも、二ヶ所失敗しちゃったからな、オーディションではそんなこと絶対無いようにしないと」
「ん。それはお互い様だけど……俺もまだやりたいことあるし……」

「でも、やっぱ二ノ宮はすごいよ」そう付け加えた富田の言葉に、二ノ宮は「サンキュ」と照れ笑いを浮かべた。
その後、数分ほどスティックを操り様々なフレーズを打っていた二ノ宮だが、「あ」思い出したようにその手を止めた。「飲み物買いにいくの忘れてた、今から行って大丈夫かな」ドラム椅子から立ち上がり、時計の方を見遣った彼に富田が、いいんじゃない、と答える。

「有原まだ来てないし。後から、やっぱりほしいって思って行くよりも」
「そうかな、ごめん。羽沢と富田も、何かあったら買ってくるけどどうする? そこの自販にありそうなのなら」
「あ。じゃ、ブラッキーの紅茶頼む。ミルクティーで」
「ミックスオレの冬季限定ショートケーキ味ペロリーム風を……」

富田に続き、好きな飲み物をリクエストした泰生の言葉に二ノ宮は目を剥いた。「何!? そのすごい甘そうなの!?」心底驚いたという顔をした彼は、富田から百円玉と五十円玉を受け取りながら叫び声を出す。「ただでさえ甘いところに甘いもの重ねて、さらに甘さって感じだけど、考えるだけで喉痛いんだけど」

「っていうか、羽沢いつから甘党になったわけ? 前はミックスオレどころかコーラもジュースもブラック以外のコーヒーすら飲まなかったのに……」
「あー、いや、ほら、最近? 好みが変わったらしくて、ほら、甘い歌詞を書いてたら甘いものが好きになってきた的な? なぁ、悠斗?」
「は? …………ああ、まあ、そんなところだ」

富田による無理のある誤魔化しと、泰生のワンテンポもツーテンポも遅れた返しはあまりにも怪しかったが、二ノ宮は別段気に留めた様子も無く「そっかー」とへらりとした笑顔になった。のうてんきなせいかくである。
じゃあちょっと行ってくるわ、と言いながら二ノ宮が練習室を出ていくのを見送って、「気をつけてくださいよ」と富田が泰生にクギを刺す。「そういうところで、おかしいって思われるんですから」本来甘いものが苦手であるはずの悠斗を頭に浮かべつつ、富田は泰生による先ほどの発言に溜息をついた。

「バッフロン……」
「人の話を聞け」

が、肝心の泰生は意識の全てを二ノ宮の頭部に持っていかれているらしい。彼が去った扉の方を見送りながらそう呟いた泰生に、富田は限界まで刺々しくなった声で言う。殴りたくもなったが、そこはギリのところで我慢した。
「あと、あまりバッフロンとか言わないようにしてくださいよ」一応本人気にしてるっぽいですから、とも付け加えておく。実際のところ、あの、パーマのみならず中身もバッチリ天然な二ノ宮がどこまでそこに固執しているのかは不明であったが、とりあえず言っておくことにしたのだ。
「しかし、あの学生は言ってたではないか……あの、もう一人の……」それを受けて、泰生が言う。「バッフロンだとかアフロブレイクだとか、それが当たり前だとお前も言っていたし」

「ああ、有原か……有原はいいんですよ。あいつにだけは二ノ宮も言い返すし、冗談だってわかりきってるらしいですから。同じ高校の出身ですしね」
「そうなのか?」
「ええ、有原は一年浪人してるので、実質、先輩と後輩の関係になりますけど。どこだっけな……ホウエンの田舎だって言ってました」

富田はそこで、壁にかかった時計をちらりと見遣る。二ノ宮が戻ってくる様子も、有原が扉を開ける気配も未だない。今後会話が噛み合わなくならないよう、少し喋っておくかと富田は泰生に視線を戻した。

「二ノ宮はああ見えて……なんかふわふわしてるしもこもこしてますけど……ああ見えて、ドラムの天才なんですよ。本当は、いくらタマ大とはいえ音楽科でもない普通の学校に来るのもおかしいって言われるくらい。実際、イッシュの音大から声がかかってたらしいですから」

ふぅん、と泰生は頷いた。音楽のことなど泰生にはよくわからなかったが、富田がそう言うのであればそうなのだろう、と考えて聞いておく。
「前、有原に昔の動画……あ、二ノ宮と有原は高校時代吹奏楽部で知り合って、二ノ宮がパーカスで有原はコンバス兼ベースだったんですけど……その時のを見せてもらったことがあって」アイツ本当にすごいんだよ、という言葉と共に見せられた、吹奏楽コンクールだか文化祭だかの映像を思い出して富田は息を吐く。「本当、天才とは、あいつのような人を指す言葉なんでしょうね」

「お前や、悠斗はそうじゃないのか?」

泰生の素朴、かつストレートな質問に、富田は若干眉根にシワを作った。が、言葉以外の意は泰生にないことがわかりきっているため、すぐに気を取り直して答える。「悠斗の声にはとてつもない求心力がありますし、俺だって人並み以上に練習はしてますが」大きな頭部を揺らして、ドラムを叩く彼の姿を脳裏に描く。「二ノ宮は、次元が違うんですよ」
有原曰く『百年に一度の逸材』で、しかもそれがあながち間違っていないような二ノ宮が、なぜ「羽沢悠斗とバンドがやりたい!」などと入学早々言ってきたのか、富田ら当初理解出来なかった。その理由はなんてことはない、高校生バンドフェスの生放送を見ていた二ノ宮が悠斗の歌に惚れ込んで、絶対にこのボーカルのドラマーになると決めたらしい。その時のインタビューで悠斗がタマ大を目指していると発言したことにより、二ノ宮の進路はそこで確定してしまったようである。サークル勧誘の猛攻を振り払い、真っ先に悠斗の姿を見つけて飛びついてきた時の彼の姿は、正直言ってバッフロンそのままだったと富田は記憶していた。
「羽沢悠斗の最初のファン」を自称する二ノ宮と、そんな彼に連れられてきた(地元の予備校で再会し、同じ学校を目指すのならば一緒のバンドも目指そうと、悠斗の動画と共に説得されたらしい)有原が、キドアイラクのメンツである。高校生の頃に組んでいたバンドが受験を理由に解散してしまったこともあり、悠斗と富田にとっても渡りに船とばかりに結成したというわけだ。

「二ノ宮は俺や悠斗、有原の音楽をとても好きだと言ってくれるのですが、二ノ宮の音楽を潰さないよう、俺たちも……」
「その、有原っていう奴はどうなんだ?」

言いかけた富田に、泰生がそう尋ねる。
他意のない、彼にとってはただ単に気になっただけのことだろう。が、聞かれた富田は一瞬戸惑い、「有原は、」言葉を選ぶように呟いた。


「有原は……有原も、相当なテクニシャンなんですけど……」
「低威力のわざが強くなるのか?」
「違います。そうではなくて、……かなりの腕前なんですが、でも……」

富田が少し悩み、声を途切れさせたところでちょうど、「ただいまー、ちょうどそこでセンパイに会ったから一緒来たわ」「すまん遅くなった、便所が混んでて」防音製のドアが開き、二ノ宮と有原が顔を覗かせる。あーおかえり、などと富田が何でもない風な表情を作って出迎えた。
「ごめん羽沢、ショートケーキ味とか無かったわ、代わりにこっち買ってきた」ミックスオレチョコナナ味、と書かれた茶色い缶を放りながら二ノ宮が言う。ん、と応えた泰生がそれを受け取った。自動販売機から出てきたばかりでまだ冷たいそれに泰生が軽く奮闘する横で、有原が「富田さ、髪染め直したほうが良くね?」と聞く。

「上の方黒くなってるからさ。茶髪でいくんならちゃんとしたほうがいいだろ」
「もうそんなに伸びたのか……ま、一回切りにいく予定だったからそうするか」
「別に俺は黒でもいいと思うけど……とりあえず俺たちも一回、切っといたほうがいいだろうな。なぁ二ノ宮」
「うるせー、誰がトリミアンにも真似出来ないアフロカットですか」
「言ってねぇよ」

いつものやり取りを繰り広げる二人に、毛先を無為にいじりながら富田は嘆息する。「じゃ、始めるか」と言った彼の横で、泰生は甘ったるいチョコレート味に人知れず、呑気に目を細めて味わっていた。





トレーナープロダクションマックスアップ、つまり根元の所属する事務所は、ヤマブキの港に面した街並みにある、小洒落た建物の一つだった。当然のことではあるけれど、新設プロダクションである064事務所――タマムシ都内とはいえ割合家賃の安い、色々とガタの来ている古ビルを借りている――とは違って全体的に綺麗かつ新しい感じである。歴史もあり、規模も大きなプロダクションだけあって、古参の威厳を保ちつつも新しいシステムの導入も怠らない方針なのだ。
そんな立派な事務所の、ガラス張りのエレベーターに乗りこみながら、悠斗と森田は憮然とした顔をしている。無理もないだろう。高速道路を走り、わざわざヤマブキくんだりまでやって来たのは根元にバトルを申し込むためである。にも関わらず、その根元本人が不在だというのだ。こんなにもやりきれない、みがわりを使ったら相手もみがわりを使ってきてみがわり人形パーリナイになったレベルのやりきれなさは、そうそう感じることが無いだろう。

「ホンット信じられませんよ……だから行くのがイヤだったんです」

面倒にも受付が設けられているのは最上階で、上り下りもひと苦労な上に無駄足甚だしい。エレベーターの窓の向こうに見える港と、そこで出航待ちをしているサントアンヌ号を睨みつけ、森田がイライラと悪態をつく。
『根元は只今留守にしておりますが』そう言った受付嬢は、胸元につけたタブンネのバッジを光らせ、あからさまに同情する目を二人に向けた。根元にしつこく言い寄られているのか、それともこういった行いが常日頃繰り広げられているのか、あるいはその両方か。悠斗が抱いたその疑問は、そうですか、と答えた森田のこめかみに浮かべられた青筋に掻き消えた。

「……アイツに対して、いつもこんな感じなんですか」

膜にも思える、薄い灰色の雲に覆われた空の下では海が若干凪いでいる。羽沢泰生の視力は相当良いらしい、悠斗の眼は、波立つ海に浮かぶドククラゲの頭を一つ見つけた。
「アイツ? ……ああ、泰さんですね」閉まるボタンを押しながら、未だ怒りが収まってない声で森田が答える。「ま、泰さんだけじゃなくて、ですけど」

「ホント自分勝手なんですよ。どうでもいい相手……要するに男にはこうやって、自分の気が乗らないとすぐドタキャンするんです。逆に女だと、それはそれで相手の都合なんてお構いなしにグイグイアポ破ってきますよ」
「そんなトレーナーがいるんですね……」

呆れたように言った悠斗に、「064事務所の方々は、新設に飛び込んでくるだけあって熱心な人ばかりですから」森田が片耳を押さえながらそう答えた。どうやら急降下に耐えられなかったらしい。「プロのトレーナーだからといっても、みんながみんなきまじめというわけじゃ無いんですよ」不愉快さを隠せていない森田の横顔に、きまじめの具現化たる泰生を脳裏に描いた悠斗は、なんとも言えぬ気持ちになって頭を軽く振った。
ポーン、というマヌケな音がして、エレベーターが一階に到着する。エントランスを抜けて建物外に出ると、自動ドアの前をマリルが二、三匹走っていった。それに視線を送り、森田は「不思議なことに、それでいて憎まれないんですよねぇ」と肩をすくめる。

「それも一つの才能なんでしょうね。お偉いさんにはどういうわけか好かれるし、問題起こした女にも何故だか知りませんけどなんだかんだ嫌われませんし」
「はぁ……で、その人がなんで、アイツをライバル視してるんです?」
「あー、それね。歳が近いのと強さも拮抗してんのと……ま、一番の理由は二十年くらい前に、根元さんが目つけてた女の子が泰さんに惚れちゃって。で、そこで取り合いみたいになればまだ良かったのかもしれないけど、泰さんあんな調子でしょ? それは昔からそうみたいで、相手にもしなかったっていうか、そもそも気づかなかったっていうか……で、根元さんは勝手に、自分が格下に見られたって思い続けてるらしくて」

あまりのくだらなさに閉口した悠斗に、「でも、まぁ、あの人バトル『は』強いからね。対策はきちんと練っとかないとね」と、森田がやけに一部助詞を強調して言う。「バトル『は』強いんだよ。だからこそモテてる部分はあるしね」不快感をあらわにした声を出しながら、森田は車の上で寝転がっていたニャースの首根っこを慣れた手つきでヒョイと掴む。驚きと共に目覚めたニャースは、鋭い鳴き声をあげたかと思うと身体をひねり、森田の手から抜けて走り去っていった。
タマノスケにもあんな頃があったんですよ、束の間の癒しに和んでいる森田に、「そんな人が、こんな面倒なことをするんでしょうか」と悠斗は尋ねてみる。「なんていうか、呪いとか出来そうな脳味噌してなさそうじゃないですかね……」

「いや、あの野郎はやりかねませんよ。僕たちの知らないところで、また泰さんに惚れ込んだ女の子がいたとしたら……泰さんのバトルを失敗させて恥をかかせようとか、スキャンダルを起こさせて騒ぎにしようとか、威厳を失わせて魅力を無くそうとか。そういうことを考えても、決して不自然ではありませんからね」

割と失礼なことを言った悠斗に、森田はきっぱりと言い切った。その確信した口調に悠斗も「そんなものですか」と答え、すっかり慣れてしまった助手席へと乗り込む。
これからまたタマムシまで戻って、ポケモンセンターでポケモン達の健康チェックである。064事務所との行き来を考えるとこの時ばかりは、ポケセンやらどうぐメーカーやらバトルにまつわるサービスを同じ建物内に集めているプロダクションマックスアップを羨まずにはいられなかった。





「やっぱりさぁ、『夕立雲』がいいと思うんだよね。イメージ的にも、俺らに一番近いと思うし」
「だな。歌詞的には高校生なのがちょっと『近い』っていうのはどうかと思うけど、悠斗も自信作だって言ってたし」
「だよなー、まっすぐな青春! 初恋! 制服の白シャツ白ブラウス! 壁ドン! って感じで俺好きだよこの…………ん? 言ってた?」

興奮したように話していた二ノ宮だが、はたと気がついた風に言葉を止める。「あ、いや」富田は慌てて首と片手を振り、「何でもない」としらを切った。余計なことを言わないよう釘を刺されている泰生は、知らぬ存ぜぬを突き通すべく、頭の中で歌詞の反芻に努めている。
第二練習室に先ほどまで響いていたのは、キドアイラクオリジナル曲がいくつか。学内ライブの練習により、それなりに久々の合わせとなっていたため、オーディションで何の曲をやろうか改めて検討しているというわけだ。ファンやサークル員からの人気が高かったり、メンバー自身が好みだったりという基準で選んだ数曲を一通りやってみたものの、結局は当初からの本命であった『夕立雲』――恋に落ちていく高校生二人を描いた爽やか青春ソング――がベストだという認識に落ち着いている。「定番中の定番って感じもしなくはないけど」スティックを持った腕を組み、二ノ宮がうんうんと頷いた。「王道を突き進む、っていうのが一番いいかもしれない」

「いや、ちょっと待ってほしいんだが」

が、そこで有原が異を唱えた。「確かに、『夕立雲』はいいと思うし、俺たちに合ってるとも思うんだけど」膝に乗せたベースを軽く撫でながら、有原はやや遠慮がちな声で言う。

「なんか、もっといい演奏が出来る曲があると思うんだ。いや、勿論『夕立雲』でも良いものは作れるけど、でも、それ以上に……」
「もっと合う曲がある、ってことですか?」
「そう、そうだ。二ノ宮。王道もいいんだけど、今の俺たちなら……この前の羽沢のバラードはすごい良かったし、あんな感じでも……」

そんなことを言い出した有原に、富田は焦り声で「いや、それは」と止めに入る。有原の言う通り、学内ライブでの羽沢悠斗の歌をオーディションでも再現出来れば望ましい結果は確実だろうが、あれは泰生だからこそ出来たとも言えるのだ。もしもオーディションにまで二人が元に戻らなかったらそれも無理な話ではないが――そっちの方が、よほどごめんこうむりたい話である。
「今からイメージ変えるのも、なんか、あんまりよくないだろ」富田が適当に誤魔化しを図る。「それに、この前のは芦田さんのピアノだったからってのもあるかもだし……俺たちバンドじゃ、あまりいい感じにならないかもしれないし……」どうにか話を逸らそうとする富田に、二ノ宮が「まぁ、そうだな」と首肯した。

「アレは特別なステージだったし、うん。ここで路線変更するのは微妙かもな。『夕立雲』にするかどうかは、置いとくとしても」

二ノ宮の言葉に、富田はほっとしたように頷いた。が、有原はまだ納得いかないところがあるらしく、「曲の感じは変えないにしても」と、難しい顔を崩さない。「今ある曲ってさ」

「なんか、歌詞が、こう……別に悪いわけじゃないけど、あまり強くないっていうか……」
「個性の問題ってことスか?」
「うん。そう、個性。せっかく俺たちポケモン使わない、今時っつーか音楽史全体的に少数派のバンドなのに、そこがあまり出てないっていうか。なんでポケモンと一緒に音楽やってないのかとか、なんで俺たちなのかとか、そういうの出したほうがいいんじゃないかって思うんだけど」
「歌詞にはポケモンの名前出てこないし、わざやとくせいにも触れてない。ポケモンに関係する単語は使われてない、それだけで結構個性的だと思うけど、それじゃダメなのか?」
「駄目、ってわけじゃないけど、富田……でも、もっとさ、他のバンドよりも目立てるようにっていうか心に残るっていうか……それこそ、この前の学内ライブみたいな」

太い眉をぎゅっとさせる有原に、「『夕立雲』じゃ足りないっスかねぇ」二ノ宮が考え込むポーズをとる。「作った羽沢的にはどうなの、その辺」そのままの流れで彼は、泰生へと話を振った。泰生の視界の端で、富田の顔がほんの僅かに苦々しいものへと変わる。
「俺は、変える必要は無いと思う」が、聞かれた以上は仕方ないので泰生は正直な感想を述べる。「無理な挑戦をするよりも、今出来ているものを改善していく方がいいんじゃないか」それは今歌ってみての率直な思いと、トレーナーとしての経験則に重ね合わせてのものだった。当然ながら、泰生からしてみれば、羽沢悠斗としての発言ではない。

「…………そうか」

しかし、有原がそれをどう受け取ったのかはわからない。
「ま、まだ時間はあるから。もう少し考えてみましょ」「そうだな、『夕立雲』にしても詰めなきゃいけないし」小さな声で言われたその返事に被せるようにして、二ノ宮と富田がコメントする。二ノ宮が踏んだキックの音が、四者の下っ腹へと重く響いた。ギターの弦をはじいた富田の「どっちにしても、今以上にしなきゃいけないのは変わんないし」という言葉に、有原はどこか安堵したように「ああ」と笑った。
じゃー別の曲も合わせてみますかー、とスネアを打ち始めた二ノ宮の声に、それぞれ姿勢を正して楽器の位置を整える。有原の奏でる低音を響かせるアンプの方をちらりと見遣って、泰生は歌い出しに備えて息を吸った。


  [No.1425] 幕間「人物紹介」 投稿者:GPS   投稿日:2015/11/27(Fri) 19:18:08   39clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

主要人物
羽沢泰生
トレーナー歴40年超のエリートトレーナー。強い。50歳くらい。外見イメージは松/重豊。
常に仏頂面で無口無表情であり、本人その気が無くても不機嫌に見えるため、オニゴーリ呼ばわりされたりこわいかお呼ばわりされたり相生に怖がられたりと、何かと誤解を生みやすい男。
旅トレーナーの期間が長かったため、俗世間や学には疎い。
実直にして質実剛健な性格だが、それ故子どもっぽい頑固さもあるため、森田や真琴にはいいようにあしらわれることもある。
ポケモンが大好き。甘党。
手持ちはシャンデラ♂のミタマ、ボーマンダ♀のヒノキ、マリルリ♂のキリサメ。

羽沢悠斗
タマムシ大学法学部(確か)2年生。20歳。外見イメージは典型的な文系男子大学生。
人当たりがよく裏表があまり無い、それでいて世渡り上手なため人気者だが、自分の意志が強いためまっすぐすぎることもある(高校時代はマッスグマ呼ばわりされていた)。
父である泰生への嫌悪・反抗からポケモンやトレーナー全般をものすごく嫌っているが、同時にポケモン関連の知識はからっきしである。洗濯物畳みながら子どもの横でアニポケを見ていた日本全国のお母さんの方がまだマシというレベルで酷い。
キドアイラクのボーカルを務めている。よく通りよく伸び、不思議な求心性のある声。
富田とは中学生以来の仲で、親友兼バンドメンバー。
辛党。甘いものは苦手で、コーヒーはブラック以外飲めない。

森田良介
泰生のマネージャー。30代前半。イメージは爆笑問/題の田中。
苦労性だが小回りが利き、結果的に何事も上手く片付けていく要領の良さを持つ。
普段はエネコを被っており丁寧な姿勢を崩さないが、実は口が悪く割と粗っぽい性格でもある。
自身も昔はエリートトレーナー志望であったこともあり、バトルもそこそこに強い。
気難しい泰生をいい感じにコントロールして助力している、結構稀有な才能の持主と言える。
ペルシアン♂のタマノスケが相棒。

富田瑞樹
タマムシ大学法学部2年生。20歳。
曽祖父がブラッキーであり、16分の1だけポケモン。両目が赤く、時折「シンクロ」の能力として相手の心理が多少わかってしまう弊害がある。
そのことをコンプレックスに思っているらしく、黒髪は茶色に染め、また目を隠すために前髪を伸ばしているが、結果的に元々の見た目より近寄りがたい雰囲気になっている(有原・二ノ宮談)。
子どもの頃はそのせいで厭世的で孤立していたが、中学生の時に悠斗と出会ってからは色々変わって比較的普通の人間関係を築いている。
性格は、コンプレックスによる歪みを除けば良識的かつ冷静で、時には悠斗のブレーキ役にもなるが、基本的に悠斗を盲信しているためあまり役に立たない。
キドアイラクのギター担当。プレイスタイルは静かなくせに演奏は激しい。


064トレーナー事務所
割と歴史の新しいトレーナープロダクション。
タマムシ某所にあり、規模はそこまで大きくないものの所属トレーナーの質の高さはかなりのレベルを誇っている。社長の黒澤は暴力団幹部のような見た目だが、情に厚く懐は深い。

相生翼
中性的なイケメン。20代前半。イメージは高/杉真/宙。
メンタル的に問題があり、かなりのおくびょう・緊張癖持ち。バトル本番に弱い。
手持ちはニンフィア♂のクラリス、サーナイト♂のダニエル、ウソッキー♂のジャッキー。

岬涼子
気の強い感じの美人。ミロカロスと赤いギャラドスを足して2で割った感じ。30くらい?
見た目通りに強かでかなりのやり手だが、感情的な一面もある。
手持ちはカビゴン♂のオダンゴ、ケッキング♂のヒノマル、ガルーラ♀のヤマト。


キドアイラク
悠斗、富田、有原、二ノ宮によるバンド。結成2年目。
事務所にも所属しており、インディーズながら期待の新星とされる、ヒットの期待を集めて現在鋭意活動中。
曲調は爽やか系のポップスとかロックをイメージしてた。
4人の見た目が微妙に独特で微妙に怖くて微妙に情けなくて微妙に近寄りにくいため、町中で会ったらスルーしたい感じのビジュアルであることは否定できない。

有原一弥
タマムシ大学2年生(1浪)。21歳。ガタイが良く、黒髪に入れた金のメッシュもあいまって、ちょっとガラの悪い人に見える。
ベースの腕前は、巧みなテクニックを駆使したトリッキーな奏法が得意。
口や態度がガサツなため第一印象は乱暴だと思われがちだが、本当のところは熱い男である。
二ノ宮をよくいじる。どくタイプカフェでバイトしている。

二ノ宮守
タマムシ大学2年生。19歳。天然パーマの上に剛毛の上に髪の量が多く、結構すごいアフロ頭である。そのため、有原には何かにつけてバッフロン呼ばわりされる。
ドラマの腕前はかなりのもので、イッシュの音大からも声がかかるほど。だが、高校の時に悠斗の歌を聴き、一緒にバンドを組むと(勝手に)決めてタマ大に入ってきた。
育ちがよく、心優しく穏やか。ちょっと情けない部分もある。バッフロンとは真逆と言える。
よく食べる。


タマムシ大学第二軽音サークル
悠斗たちが所属しているサークル。ポケモンと一緒にはやらない音楽をやる人たちの集まり(ポケモンと一緒にやるのは第一軽音サークル)。
男所帯。部室は狭い。

芦田樂
キーボードの3年生(1浪)。世話好きがする性格で皆から慕われているが、邪険に扱われてしまうこともある。
自他ともに認める雨男であり、手持ちのポワルン♂のアメダスは、彼の近くにいるせいでいつも雨天フォルム。

守屋巡
キーボードの2年生。ふわふわしている。芦田にアタリが厳しい。
手持ちはマグマラシ♀のコンゴウ。

紅井さん
キーボードの3年生。部長。


真夜中屋
タマムシのとある路地裏にある便利屋。
屋根の塗り替えとかポケモン探しとか浮気調査とか、普通の仕事や探偵業みたいなこともしてくれるが、肝は霊能力を使った、あまり表沙汰には出来ないような依頼(呪い代行など)も受け付けてくれることにある。
事務所兼移住スペースは常に汚さの極みをいっている。ゴーストポケモンの溜まり場でもある。

ミツキ
真夜中屋店主の男。サイキッカー。本名は謎。
年齢不詳で、見た目も10代後半と言われればそう見えるし、50代だと言われても、まぁ……という感じ。cv宮野。
生まれつきの霊能力者で、その力はかなりのものだが頭はちょっとバカ。うるさい。テンションが高い。鬱陶しい。
ボサボサの黒い髪と、どこで買ってくるのかわからないレベルでダサいTシャツが特徴。生活力はなく、ムラクモやゴーストポケモンに頼っている。

ムラクモ
ミツキの相棒のゲンガー♂。
iPadを念力で操作し、電子音声によって人間とコミュニケーションを取る技術を身につけている。
だらしないミツキに手を焼く日々を送る。意外とフェチが深い。


その他
羽沢真琴
泰生の妻であり悠斗の母。のんきなせいかく、きもったま。
若い頃はジョーイさんをやっていて、今もポケモンセンターで働いている。

根元信明
大御所トレーナープロダクションである、マックスアッププロダクション所属のエリートトレーナー。
ダンディな見た目と性格で女性ファンが多く、また女遊びの激しいお騒がせキャラでもある。
戦法は割と粘っこい。泰生をライバル視している。
手持ちはミロカロス♀のアケミ、ニャオニクス♀のキャシー、ミミロップ♀のユミコ。


  [No.1426] 第九話「前虎後狼」 投稿者:GPS   投稿日:2015/11/28(Sat) 18:35:33   36clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

根元不在の申込みから数日後。悠斗は、根元との練習試合のため森田と共にマックスアッププロダクションビルへ訪れていた。

「またこれですよ、呼びつけておいて人を待たせやがって」

バトルコートが設けられたビルの地下、そこにしつらえられた控え室の一つで、森田はイライラした様子で文句を吐いている。その理由は単純なもので、バトルを約束した定刻になったにも関わらず根元が未だ姿を見せていないということだ。控え室に通されてはや数十分、「根元はもうすぐ戻りますので」マックスアップの職員達は口を揃えて悠斗と森田にそんなことを言った。
今日もヤマブキまで車を飛ばし、高速道路を走らされた森田は、ビルに入る時点ですでに疲労を滲ませていた。そしてただでさえ気が立っていたところに加えてこれである。「絶対、どっか女のとこにいるんですよ」ソファ(控え室だというのに064事務所の来客用のそれより質がいい)に深く沈み込み、森田があまり長くはない足を組んでぶつくさと不平を漏らす。

「……森田さんって、いつもそんな感じなんですか、その……他所の人がいないと」

待たされるだけの空気に耐えられなくなってきたのと、時間の経過に比例して口と態度が悪くなっていく森田のどこを見て良いのかわからなくなり、悠斗は遠慮がちにそんなことを尋ねる。
問われた森田は「そんなはずないでしょう」と、崩していた足を元に戻し、姿勢も少しばかり正しながら否定した。数秒前より背筋が伸びているのは、悠斗の悪気ない指摘に恥ずかしくなったからだろう。

「いくらなんでも、泰さんの前でこんなこと出来ませんよ。いや、泰さんは怒ったりとかはしないと思いますけど、僕が気まずいんで」
「そうですよね、なんか……今まで知ってた森田さんとは違いすぎるのを、最近よく見てる気がするんで……」
「やだなぁ悠斗くん、そりゃあ僕だって今は丸くなりましたけど、旅やってた頃はですね、ロケット団のしたっぱとかやってたりしたときもあったんですから」

単なるバイトでしたけど、あの頃はやんちゃなせいかくでしたから、と、少なくとも顔と身体は丸くなった森田が言う。割と衝撃的な告白に言葉を失った悠斗を見て、彼は楽しそうにけらけら笑った。多少なりとも、ささくれだっていた気は収まったらしい。
「ま、悠斗くんに一つ言っておきますけど」無防備にソファにもたれ、森田は大人ぶった口調で悠斗に話す。「トレーナーは見た目で判断しちゃダメですよ。どんな旅をしてきたのかとか、どんなバトルをしてきたかとか、過去のトレーナー種がなんだったのか、とか。そういうの何も、わからないものですから」

「それはさ、トレーナーに限った話でもないんじゃないの?」

と、そんな声が会話に割り込んできた。「何か言いましたか、悠斗くん」「いえ……」「じゃあひょっとして」うんざりした口調で言い合う二人の傍ら、ソファの前に置かれたテーブルに乗せた森田の携帯が、突如着信音を響かせる。と思いきやアラーム音、緊急速報音、デフォルトで入っているチルットの鳴き声のSEなど、様々な音声がめちゃくちゃに流れ出した。
「え、何?」音だけではなく、画面の調子もおかしくなる。「もしかして壊れた!? こんなときに」慌てる森田が携帯を掴み、ホームボタンを押してみるが不調の直る兆しはない。不規則な明滅が繰り返され、色調が気持ちの悪いものになり、上半分だけになったり下半分だけになったり、カメラ画面が勝手に起動したりして、森田と悠斗を散々君悪がらせたところで、最後に、画面いっぱいにマヌケな顔が大写しになる。
無機質なようでイタズラっぽい、真ん中に線が一本走った大きな眼。 シンプルな白をしていた携帯が瞬く間に朱色に染まり、仕上げとばかりに実体のない紫電に全体が覆われる。

「ロト、ム…………」


「その通り、御慧眼恐れ入りますどうも――」


力の抜けた声でそのポケモンの名を口にした森田の手の中で、携帯が高らかに正解を宣言する。聞き覚えのあるその声は、電話口を通しているようにくぐもっていて、芸の細かい聞きとりにくさを演出していた。


「毎度お世話になっております、あなたの町の便利屋さん、真夜中屋ただいま参・上! 本日は携帯越しに出張サービスに伺っておりますどうも」


「リカバリーサービスとかに連絡したら、これって消えてくれたりするんですかね、どう思いますか悠斗くん?」
「あまりそういうこと言わない方がいいよ、今の僕なら少なくとも、この携帯に入ってるペルシアンの画像全フォーマットするくらい簡単なんだから」

ミツキのノリに付き合うのがいい加減面倒になってきたらしく、森田が恐ろしく爽やかな口調で酷いことを言った。が、「サイキッカーなめないでよ」ミツキによる脅迫であっさり黙り込む。これはサイキッカーではなく、どちらかとぼうそうぞくやこわいおじさんの役割なのではないか、と森田は心中だけで考えた。
「せっかく来ていただいて申し訳ないんですけど」半ば置いてきぼりを食らっていた悠斗が遠慮がちに言う。「いい加減、そろそろ根元さんも戻ってくると思うんで……僕たち、もうすぐ行かなきゃいけないんですよ」

「ああ、それなら問題無い……っていうより、そのために来たんだよ。僕は」
「え?」
「あの、根元っていう奴。ちょっと調べてみたんだけど。今回の件で使われた呪術の性質が、あの人の気質と同じだった」
「………………」
「つまり、あいつが犯人だって可能性が高い……というか、よほど気質の似た人間がいない限り、でもそんなのほぼいないようなものだから、九十九パーセントは」

根元がクロ、ってことですか。険しい顔をして森田が言う。
「そういうこと」まるで電話越しにいるような声でミツキが返し、「呪術っていうのは、その人ごとに気質による違いがどうしても生まれちゃうんだ」捕捉するように言い添える。「もちろん誰にでも見えるわけじゃないけど、僕みたいにわかる人もいる。でも、一人ずつ片っ端から調べてくのはあまりにも非効率だから、普通やらないんだよ」

「それで、たまたま調べた根元がってことか……あー、くっそ、根元の野郎……」

ミツキの話を聞き、森田が顔を怒りに歪める。落ち着いて、とそれをたしなめて、ミツキはさらに説明を加えた。「まだ確定したわけじゃない。証拠があるわけでもないから、どこかに突き出すことも出来ない。だから今はまだ、何かが進展したって言える状況でもないんだ」
ただ、一つだけ言えるのは。そこまで言ったところでミツキの声が途切れた。次の瞬間、控え室の扉がノックされ、「お待たせいたしました! 根元が参りましたので、コートの方に」マックスアッププロダクションのスタッフが顔を覗かせる。突然の催促に森田と悠斗はしばし固まったが、慌ててバトルの準備を整えた。

「相手は、この事件の犯人かもしれない奴なんだ。何をしてくるかわからないから、くれぐれも気をつけて」

部屋と廊下を隔てる敷居を超える瞬間、携帯のスピーカーからそんな警告が小さく鳴り響く。先程から黙って聞いていた悠斗は、ベルトにつけた三つのボールの重みを妙に感じながら、緊張に片手を握りしめた。





「そんじゃ、今日も頑張ってきますかー」

同時刻――タマムシ大学部室棟地下、第三練習室。刻一刻と迫るオーディションに向けて、キドアイラクは合わせのために集まっていた。
「本番まであまり悠長なこと言ってられなくなってきたからさ、」ケースの中を漁り、スティックを選んでいる二ノ宮がどちらかといえば緩めの表情をきゅっと引き締める。「とりあえずはみんな健康管理、風邪はもちろんインフルとか気をつけなきゃだよな。まだ秋だけど、もう出てるらしいし」

「だな。巷ではひこうインフルエンザに続いて、バッフロンインフルエンザが流行ってるらしいからしっかり予防しておかないと」
「うるせー、誰がタミフル摂取副作用でもないのに大暴れして大変ですか」
「言ってねーよ」

おなじみのやり取りを繰り広げる両者に、よくもまあこいつらは飽きもせず、と呆れながら富田はギターの調子を確かめる。弦を一つずつはじき、音程を合わせていると、その横では泰生が歌詞の読み込みに励んでいた。
普通ならば、ここで悠斗が二ノ宮と有原をたしなめるなり、いさめるなり、それか混ぜっ返すなりするのだろうが、泰生にそこまでは求められまい。明らかに口数の減った羽沢悠斗に関し、富田は二人に「俺もよく知らないけど、親父さんのポケモンの何かの影響であまり喋れなくなってしまったらしい、でも歌は気合でなんとかするって言ってたから俺たちでサポートしよう」などと伝えてある。どう考えても穴だらけどころか、イベルタルも真っ青レベルの崩壊まっしぐらの言い訳だが、どういうわけか有原も、二ノ宮も素直に信じたのだから驚きである。「オーディションまでには治さないとな」「それまでは、俺らが頑張るからさ」そう頷いた彼らを前にして、富田は二人の行く末が少し心配になった。

ミミロルにもサイホーンにも――今のところ、どうにかなっているのだからこれ以上を望むのは贅沢だろう。オーディションまでに元に戻らなければならないという一番の大問題は残っているが、それ以外はなんとかいっている。泰生が歌い続けておけば、羽沢悠斗の声帯もなまらないだろう。
富田はそう結論付け、膝のギターに手を置いて人知れず気を引き締める。

「今日、根元とのバトルだったよな」

と、益体の無い言い合いを続けている二ノ宮と有原には聞こえないような小声で、泰生が富田に耳打ちする。「ああ」そういえば悠斗がそんなことを言っていた、確かちょうど今頃向こうにいるのではないだろうか。
そう考えながら、富田は同じくトーンを落とした声で返す。「そうでしたね」 少しばかり神妙に見える悠斗の顔に、彼はギターをはじく手を止めて尋ねた。

「心配でもしてるんですか」
「そりゃあ、な。なんだかんだ言っても、根元は強いから……」
「大丈夫でしょう。悠斗もトレーニング積んだっぽいですし、森田さんの話ですと」

あなたのポケモンもいるんですから。富田がそう言い添えると、泰生は表情を僅かに緩めて「そうだな」と頷いた。その横顔、無二の親友のものであるそれを――富田は無性に――が、それよりも先に二ノ宮が再び「じゃー始めようぜ!」と明るく宣言する。どうやら、有原との言い争いはいつの間にか終わっていたらしい。
「りょーかい」富田はそっけなく(彼にとってはデフォルトだが)返すにとどめ、いつも通りの面々に目を向ける。ベースストラップを調整している有原が「ん? どうした、富田」と声をかけてきたが、彼は黙って首を横に振るだけにした。





「やぁ、羽沢くん。久方ぶりだね」

コートに向かった悠斗達を待っていたのは、堂々と遅刻をかましてきた根元と、バトルの準備をしているマックスアップのスタッフ達、そして練習試合と聞いて集まってきた根元のファンだった。十代と思しき少女から、老齢の婦人までが十人弱、目を輝かせて根元を見ているその全員が女性である。今日のバトルは原則非公開のものだったが、マックスアップが展開している根元のファンクラブ、その会員から抽選で選ばれた者は特別に入れるというわけだ。各トレーナーごとに同じシステムを作って集客性を高める、資本力のある大手プロダクションならではのやり方である。
それはさておき、そんなファン達に囲まれた根元はあまり悪びれる様子も無く「待たせたみたいで申し訳ない、道が混んでいて」などと軽く頭を下げて詫びてみせる。ちなみにここ数時間、ヤマブキ周辺の道路には渋滞のかけらもなく、それを知っている森田は内心で根元に中指を五百本ほど立てた。

「いえ、こちらこそ今日は、バトルをお受けいただきありがとうございます」

その森田を後ろに従え、悠斗は根元以上に深く礼をした。「お互い良い時間になればと思います、よろしくお願いします」という挨拶は当たり前のものではあったが、『羽沢泰生』らしからぬものであるのも確かである。案の定、根元はピジョンがタネマシンガンを喰ったような顔になり、「どうしたんだ羽沢くん、君と僕の仲だろう、そんな今更かしこまる必要はないよ」と戸惑い混じりの笑みを浮かべた。「それに最近、羽沢くんも色々と楽しそうじゃないか」件の報道のことを示し、意地の悪い笑顔になる根元から言葉以上の意思は見出せない。ふん、と鼻を鳴らして不都合な話題を受け流した悠斗は、彼が特別何かを隠しているようには思えなかった。
だが――先程のミツキの話を聞いた以上、それを馬鹿正直に受け取ることは出来かねる。もしも彼が黒幕なのだと仮定すれば、羽沢泰生に似つかわしくない態度に驚く様子も演技であると考えられるのだ。今もこうして悠斗を、珍しく弱みを持っている羽沢泰生をただからかっているように見せかけて、腹の内にもっと邪悪な魂胆がないとも限らない。あえてらしくない態度をとってみた悠斗は、目の前の根元をじっと睨みつける。
実際に対峙した根元は、写真や映像で見るよりもずっと男前であり、年嵩の色気とでも言うべき洒落た雰囲気を纏っていた。いつまでも遊んでいられるのも、それでいて人を引き付けるのもむべなるかな、といった様子である。ラフでありながらも垢抜けたトレーニングウェアやツルの細い眼鏡、キザったらしい立ち居振る舞いはどこか嫌味を感じさせはするものの、反面確かな魅力があった。泰生の肩を持ちたくはない悠斗からすればより一層、素直に認めたくなるところである。

「じゃあ、始めようか。二対二のダブルバトル、どうぐの使用は禁止だったよね」

しかし、この男が全てを仕組んだ張本人かもしれないのだ。もしそうだとしたら、今彼は何を考えているのだろうか。品の良い紳士と呼べる笑みを浮かべた根元の、細い腰の中に渦巻いているやもしれぬ思いに、悠斗はごくりと唾を飲み込む。自分も根元もただ立っているだけのはずなのに、ひどく追い詰められた心地にならずにはいられなかった。

「ああ」

その恐怖を飲み込んで、今度は泰生のような返事をした悠斗とそれに頷いた根元は、それぞれの持ち場へ向かっていく。それに合わせてコート外に移動したファン達に、笑顔のサインを送ることを根元はもちろん忘れない。
今まで散々彼に苦い思いをさせられてきた森田は、それを見てあからさまに不機嫌な顔になる。それに関しては特に触れず、森田の手に収められた朱色の携帯から様子を伺うミツキは、「気をつけてよ……」と悠斗に向けて呟いた。






「やっぱり『夕立雲』だなぁ。俺は」

先日同様、何曲かの演奏を終えて二ノ宮が唸るように言う。「確かに、ストレートで物足りないっていうのはあるかもしれないけれど、それは演奏面でカバー出来ればさ」

「ずいぶん言うな、そんな簡単に言ってくれんなよ」

割と大きな口を叩いた二ノ宮に、ギターを一度スタンドに戻しながら富田が笑った。もっとも、二ノ宮が口だけでないのは承知の上ではあるから、今のはどちらかというと自戒の意味を込めたようなものではあったが。笑いついでに彼は椅子から立ち上がり、「暑いな」壁に設置された冷房のスイッチを入れた。送風音が狭い部屋に鳴り響き、冷たい風が流れて一気に室内を満たす。演奏中はつけられないから困ったものだ、と思いつつ、富田はTシャツの襟元から風を送り込んだ。
「そうだな、ごめん」二ノ宮も苦笑いを浮かべ、スティックを軽く振って照れたように目を伏せる。「でもまぁ、何にしても演奏ありきだよ」そう言ってみせた二ノ宮のまっすぐな目に、富田は、ああこれが二ノ宮守という人間なのかと内心で思った。音楽の才能に恵まれたからこそ、迷うことなくどこまでも高みを目指せるのだろう。きっと二ノ宮自身は何てことのない、当たり前の話なのだろうが――それでも、時々、彼の天性の才をこうして感じさせられる。

「富田的にはどうよ? 『夕立雲』か、他のか……俺は『始発電車を待ちながら』もいいと思うんだけど」
「…………ああ、そうだな。……始発電車も確かに……俺としては『ハンドメイドハート』も推したい、かも……」
「あー、ハンドメイドね。うん、確かに。俺らの見た目的にはアレが一番かも」

二ノ宮の問いに、意識を現実へ引き戻された富田がそう答えると、彼はアフロ頭を揺らして頷いた。「でも、始発電車は『ポケモン使わないで電車を待つ』ってとこがキドアイラクならではかもしれない」選曲に集中しだした富田は考え込む。『始発電車を待ちながら』は、終電を逃した男女が、始発の電車が動き出すまで駅のベンチでしゃべり明かすという歌詞だ。普通だったらタクシーを使うなりポケモンに乗って帰るなり、そういったポケモンの出張サービスを利用するなりするだろうが、あえてそうしない、あえて電車を使うというところが、ポケモンの力を借りないバンドならではの曲だということである。

「ハンドメイドは、ちょっと抽象的な部分もあるし。俺ららしさを追求するなら、そこかなと思う」
「それはあるなー。でも、俺たちのさ、この微妙にチグハグで微妙に人畜無害で微妙に弱っちな見た目が似合うのは、やっぱハンドメイドかなって思うんだよなー」

典型的な男子大学生ビジュアルの悠人、茶色に染めた前髪がやたらと長い富田、金のメッシュが目立つ若干ゴツめの顔立ちである有原、大きく広がったアフロとこころもちふくよかな体型が特徴の二ノ宮。『ハンドメイドハート』の、誰にも勝てない弱さだけど一生懸命心を作っていく、という少し頼りなげでもどかしげな歌詞は、確かに二ノ宮の言う通り、キドアイラクのなんとも言えない見た目に似合っていると言えた。
うーん、と二ノ宮が腕を組む。どうにも行き詰まってきたこの議論に、「羽沢はどうよ、作った身としては」彼が泰生に意見を求めた。問われた泰生は正直に「俺はこの、『あさっての天気予報』っていうのが……」とりあえず自分が一番良いと思った曲を答える。っていうのが、の部分を都合良く聞き流してくれた二ノ宮が、第三勢力かー、とドラムに突っ伏すポーズをとった。

「まとまんないよなぁ……やっぱ、初心に帰って『夕立雲』にすべきか……」
「……いや、あのさ」

眉間をきゅうとさせて悩む二ノ宮に、それまで黙っていた有原が声をかけた。「うお、センパイ」二ノ宮は大袈裟に驚いてみせて、身体を起こして有原の方へ顔を向ける。「どうしたんスか」
が、対する有原は真面目な表情を崩さない。「やっぱり、俺はさ……」遠慮するような沈黙がややあって、しかし彼はもそもそと口を動かす。

「この前も言ったけど、……この路線じゃなくて、変えてみてもいいと思うんだ」

彼の話を聞きながらペットボトルの中身を口に含んでいた富田が、前髪に隠れた眼を訝しむように細くした。





「それでは只今より、マックスアッププロダクション所属根元信明と、064事務所所属の羽沢泰生のダブルバトル練習試合を始めます!」

審判を務める、マックスアップのスタッフによる試合開始の宣言が、コート全体に響き渡る。その余韻が消えるよりも先に、悠斗は二つのボールを天井に向かって放り投げた。

「ミタマ! キリサメ! よろしく頼む!」

悠斗の声に合わせ、赤い閃光が空中と床上、それぞれに彼らのシルエットを描く。次の瞬間には二匹のポケモンがコートに現れていて、シャンデラは蒼い炎を大きく広げて旋回し、マリルリは丸い腹をどんと見せつけるように背中を反らせて得意げな顔をした。
「ふむ、その組み合わせで来るか」二匹の姿を見た根元は、口元に挑戦的な笑みを浮かべる。「最近の君はどうもおかしいと聞いてはいたけれど、どうぐも使えないこのバトルでそうするなんて、ちょうはつされてるとしか思えないが……」

「遠慮容赦はお互い抜きにしていこうか、さあ、ショータイムだ! アケミ! キャシー!」

相変わらず気取った調子で言った根元は、長い指に収めたボールを振り投げる。流れるような手つきの中から現れたのは、この世で最も美しいと言われることでおなじみのミロカロスと、大きな耳をたたんだ姿が特徴的なニャオニクスだった。ミロカロスが優美に尾びれを振りながら、長い肢体を床へと降ろす。純白の毛並みをコートの空気にさらりと揺らし、ニャオニクスが軽い足取りで何回かのステップを踏んだ。
「流石、ポケモンのチョイスもエレガントなんだね」壁にもたれて見学している森田の掌で、携帯の中のミツキがコメントする。「あの子たちの名前は、ゲット当時に付き合ってた女の名前らしいですけどね」他の者に聞こえないような小声で、かつ軽蔑しきった口調で森田が返した。ホントどうなのそれ、とミツキが呆れ混じりに溜息を吐く。

「ミタマ、ミロカロスにエナジーボール! キリサメはニャオニクスにじゃれつくんだ!」

そんな二人の会話など知る由もない、悠斗が先手必勝とばかりに二匹へ指示を出す。間髪置かずに彼らは反応し、シャンデラの腕先からは緑色の弾幕が発せられ、マリルリは丸っこい身体をゴムまりの如く跳ねさせニャオニクスへと肉薄する。

「受け流してやりなさい!」

が、対する根元のポケモン達も負けてはいない。シャンデラ達のわざが発動すると同時に発された根元の声がしたときにはもう、ミロカロスとニャオニクスはすでに動き出していた。流麗な弧を描いたミロカロスの身体の間をエナジーボールが通り抜け、あえなく壁へと吸い込まれていく。細い両脚で跳躍したニャオニクスの下方で、飛びかかろうとしたもののその到着点を失ったマリルリが床に衝突した。
「もう一度だ!」「よけろ!」休む間もなく悠斗と根元の声が交差する。両眼を光らせ再びエナジーボールをシャンデラが放ち、ぶつかった痛みも何のそのとマリルリが再度ニャオニクスへ突進した。しかしミロカロスもニャオニクスもこなれた動作でそれを避け、無駄に力を使った二匹を安全地帯で嘲笑するようにそれぞれの尻尾を振ってみせる。天井付近を浮遊するシャンデラと床に転がったマリルリが、各々顔を悔しげに歪めた。

「くさってるな! 今度こそ当ててやれ、エナジーボールとじゃれつくだ、」
「二度あることは何度あるか知らないのかい、アケミ、キャシー! 教えてやれ、次もまた――」

「ただし今度のターゲットは逆だ!」


根元の声に被せるようにして、悠斗は二匹へ向かって叫んだ。それに素早く反応し、シャンデラとマリルリは身体の向きを転換させる。一方、根元の指示にはいち早く応じたものの、先程と同じように動こうとした二匹はそれぞれ、つい先ぞ自分を狙っていた相手のことしかマークしていなかった。自分の長い首筋目掛けて進撃してくる丸々とした肉体に、上空から睨みつけてくる自分と同じ色をした黄金色の瞳に、ミロカロスとニャオニクスは動揺のため動きを止めてしまう。

「アケミ! キャシー!」

戯れる、というにはあまりにも強烈な腕力に首をあらぬ方向に曲げられたミロカロスと、緑の弾に全身を撃ち抜かれたニャオニクスが甲高い悲鳴をあげる。コートに響くその声は可憐だとも呼べるものであったけれど、悠斗は容赦することなく次の一手をすかさず叩き込んだ。根元のファン達が、ブーイングのような叫び声を響かせる。
「そのままシャドーボールとたきのぼり!」彼の声に応じて、シャンデラとマリルリも間を空けることなく攻撃を続ける。シャンデラの身体を纏った影と同じ紫の弾幕が、ニャオニクスの白毛を抉って黒く染め上げる。マリルリの皮膚から噴き出た冷水を伴う至近距離からの突進に、ミロカロスは下顎から殴りつけられる。こうかはいまひとつ、などということを感じさせない威力を持ったその衝撃に姿勢を崩したミロカロスの、優雅な緋色をしたヒレが大きく床を叩いて跳ねた。

「なるほどね……してやられたよ」

ふらつきながらも、すぐに体勢を立て直す二匹の後ろで、根元はそんなことを呟く。腕を組むその顔の笑顔はまだ失われてはいないものの、確かな悔しさが滲み出ているのを鋭く見破った森田は内心でガッツポーズを作った。「まだまだこれからー!」「がんばってノブさん!」ファンの何人かが言い立てる。
そんな声に笑みを返しつつ、根元の目が少し細まる。「今度はこちらからいかせてもらおうか」渋い低音がコートの空気を震わせ、悠斗の肌を危機感がぴりりと走った。ミロカロスと、ニャオニクスの瞳が攻撃的な戦意を帯びる。

「アケミ、れいとうビーム! ニャオニクス、サイコキネシスだ!」





「え、それってやっぱり、こないだみたいなバラードがいいってこと?」

有原の言葉に、二ノ宮が戸惑ったように言う。「そりゃあ俺だって、あの感じのをオーディションでやれればそれは最強かなとは思うスけど」
だからといって、無理だろう。富田も二ノ宮を援護した。「アレは特別で、あの場だから出来たことだし」それは勿論、泰生と悠斗が元に戻ったときに困らないよう仕向けているのもあったが、この時ばかりはそれ以上に、キドアイラクのためにもその選択は良くないと思ってのことだった。

「それに、あの曲……『追憶』は確かに良かったよ。でも、それって『追憶』が良いからってのもでかいだろ、あの曲自体が何年経っても人気なくらい、いい曲だからあそこまで出来たわけだし。でも、俺たちの持ち曲ってあそこまでのバラードないから」
「そうッスよ。芦田さんのピアノ一本で独唱だったのもあるし、俺らの曲だとどれにしたって『追憶』ほどにバラードバラードしてないスからね」
「元々俺たちバラード指向じゃ無いんだから、急にやるってのは難しいだろ。この前からどうしたんだよ、個性をもっと出した方がいいとかバラードにしようとか、いきなりそんなこと言い出して……」
「そりゃあ、日も近くなってきたし色々考えるのはわかるスけど。でも、センパイだって『夕立雲』に乗り気だったじゃないスか、それがどうして突然、確かにあの日の羽沢はすごかったけど」

頷く二ノ宮と首を捻る富田に、「でも…………」と有原は食い下がる。彼はしばらく、言葉を選んでいるかのように黙り込んでいたが、「あのさ」重い調子で口を開いた。
「オーディションに出る、他のバンドって俺たちに知らされないじゃん」有原の言葉に二ノ宮は首肯する。「そうスけど……事務所にも知らされないんスよね、同じ事務所内にいればそこだけわかるらしいけど、俺らはいないから、俺ら以外に誰が出るのかサッパリで」

「そうだ。当日全バンドの選考が終わるまで、……いや、結果が出て初めてわかるんだ。公平性とか不正防止とかなんだか知らんが……とにかく、わからないんだよな。基本的には」

最後の言葉をやけに強調した有原は、「でも」と言い添える。「実際は、知ろうと思えば知れるんだよ。ネットがあるから、いくらでも知る手立てはあるんだ」
有原の発言に、二ノ宮は「そうなんスか!?」と驚いてみせる。彼は本気でびっくりしているらしいが、富田は内心で、まぁそうだろうなと思っていた。キドアイラクも他人事では無い、練習の都合で伝える必要があったサークル員達には一応、他言無用を敷いておいてはいるものの、そういう情報は必ずどこからか漏れるものなのだ。応援メッセージはすでに複数のファンから届いているらしく、リーダーの悠人は事務所から注意を受けたようである。
「SNSとか通して、ファンとか、出場しない他のバンドとか。あと、身内がうっかり流してることもある」ある種防ぎようの無い問題に、有原も難しい顔をする。「とにかく」膝の上のベースに視線を落とし、彼は苦々しい口調で言った。「それで、出るって噂になってる、他のバンドを一通り調べてみたんだ」

「客観的に見て、俺たちは劣ってないと思う。思う、けど……勝ってるか、って言われたら微妙。少なくともナマじゃない、映像の演奏じゃそれくらいしか言えない。早い話が……同じ感じ、なんだ」
「……………………」
「正直なとこ、似てるんだ。他のバンドも、俺たちも……そりゃ当然、それぞれ違うとこはある。けど、知らない人が聴いたら、あるいは、続けて聴かされたら、多分」

あまり変わらないって、思われる。狭苦しい防音室の、壁に開いた無数の穴に、有原の声が吸い込まれる。すぐには肯定出来るわけでもないが、否定しろと言われても困る話に、富田と二ノ宮は次の言葉を選びかねた。
「だから『夕立雲』だと弱いって話スか」重い沈黙の後、二ノ宮が絞り出したような声で言う。深く頷き、有原は「多分、今のままだと厳しいかなとも思う」伏せていた顔を上げ、壁の穴を見つめた。

「でも、弱いたって……それを言ったら、他の曲にしても同じだよな。仮にバラードやるにしたって、俺たちの曲じゃ一番それっぽくてあまり……」
「だからさ、」

富田の言葉を遮るようにして、有原が声を出す。僅かに焦りの滲んだ声で、有原は言った。

「だから、新しく曲を作ったほうがいいと思うんだよ」





ミロカロスが、触れれば血液まで凍りつくであろうほどに冷たい氷の息吹を放つ。ニャオニクスの全身が光り輝き、二つの眼球がより一層怪しい光源として浮かび上がる。
その様子に、マリルリとシャンデラは二匹から慌てて距離を置こうとしたがもう間に合わない。マリルリの下腹部を凍った光線が貫通し、彼は痛みすらも超越した鋭い感覚に断末魔の叫びをあげた。「キリサメ!」その声にシャンデラが狼狽える、その一瞬を見逃さず、早くもニャオニクスは可愛らしい片手を動かしていた。サイコパワーを操るそれが一振りされて、シャンデラの身体が不自然な動きでがくんと揺れる。ニャオニクスの意のままに空中をあちらこちらへ振り回された彼は、最後に壁に向かって叩きつけられた。

「ミタマ! 大丈夫か!?」

悠斗が叫ぶ。が、根元の言葉は止まらず次なるものが発される。「アケミ」ミロカロスの名前を呼んだ彼の口角が、不敵な感じに吊り上がった。

「シャンデラに向けて……メロメロだ!」

主の声を聞き、ミロカロスの瞳がキュッと細くなる。その時ちょうど、壁に埋まってしまった身体を引き抜き、炎を不安定に揺らしながらも戦いを再開しようとしたシャンデラがそちらを向いた。
長い睫毛を湛えたミロカロスの目と、ぽっかり空いたシャンデラの目が合って視線が交差する。たっぷり二秒間、その状態が続き、二匹はお互い見つめ合っていた。
まるでそこだけ時間が止まってしまったかのような光景に、悠斗が「何やってるんだミタマ!」と叫ぶ。「休んでる場合じゃない、エナジーボールだ!」

しかし――その声は、シャンデラには届いていない。
ミロカロスのことを見つめていたシャンデラは、悠斗の言葉をまったく無視してふらりふらりと床へ近づく。ミロカロスの前まで下降した彼は、それでも何か攻撃を仕掛けることもなく、ただ惚けたように敵のことを眺めてはばからない。はたから見れば無様なその顔面を、ミロカロスが馬鹿にしたような動作で尾びれを使ってばちんと叩く、しかしシャンデラは怒る様子も微塵も見せず、懲りずにミロカロスの周りを浮遊するのだった。

「メロメロかぁ……普通だったらもう少し、ウィンクするなりスキンシップとるなりしてアピールしないと成功しないだろうけど。たったアレだけで落としちゃうなんて、流石はミロカロスってことかな」

しっかりしろミタマ! と叫ぶ悠斗の後ろで、ミツキがそんなコメントをする。「それとも、あのミロカロスが特別なのか」感心したように言った彼に、だからヒノキを出せば良かったんですよ、と森田が苦々しい顔をした。「メロメロを使った戦術は、アイツの得意技なんです」
すっかり我を忘れたらしく、ミロカロスに熱い視線を送るだけになってしまったシャンデラに、根元はさらなる追い討ちをかける。「れいとうビームだ、何発でも撃ち込んでやれ!」そして発動される氷点下の暴力に、シャンデラの身体があちこちへ跳ねた。根元に傾きかけた軍配に、ファン達が嬉しそうな声を出す。

「キリサメ、ミタマを止め――」
「キャシーも! マリルリにメロメロだ!」

ミロカロスに弄ばれているシャンデラを助けるべく、悠斗はマリルリに声をかける。が、その言葉が終わるよりも前に根元がニャオニクスに叫んでいた。
シャンデラの元へ駆けつけようとしたマリルリの片腕を、ニャオニクスの柔い手が掴んで引き留める。思わず足を止めてしまったマリルリに、ニャオニクスは妖艶な笑みを浮かべたかと思うと、純白の四肢をマリルリの身体に絡ませた。小さな口が、青色の長耳に近づけられる。

「ちょ、キリサメ――」

湿った肌に吸い寄せられる唇。それが触れた瞬間、大きく見開かれたマリルリの目に、悠斗が今後の悪展開を悟って息を飲む。
しかし、もうどうすることも出来ない。すっかり骨抜きにされたマリルリは、ニャオニクスの前にぺたりと座り込んでしまった。細っこい脚が、彼のぷよぷよした腹を蹴り上げる。床に転がったマリルリに、ニャオニクスはさらなる蹴りを入れ続けた。
「さすがのポケモン達も、色仕掛けにはかたなしかな」根元は笑い、眼の中に光を走らせる。「れいとうビームとサイコキネシス」

「ミタマ! キリサメ! 戻ってきてくれ!」

悠斗の悲痛な叫びがコートに響く。だが、シャンデラもマリルリもその声に応えない。シャンデラは度重なるれいとうビームに何度も凍傷を負い続け、マリルリは超能力により浮遊させられた身体をコートのあちこちに飛ばされる。それでも反撃することなく、しようという意思すら見せず、彼らは幾度傷ついても、虚ろな目をして敵の姿を追い求めていた。
一方的に打ちこまれる猛攻に、悠斗は必死に打開策を考える。「ミタマ、キリサメ――」どんなに呼びかけても無為になってしまうこの状況、どうにかしなくては、と思うものの何の解決案も見出せない。それどころか、考えれば考えるほど、奇妙な圧迫感が足から胸へと昇ってくるようで、ますます頭が真っ白になっていくとさえ思える。

「ミタマ、」何を言っても通じない。
「キリサメ、」自分の気持ちが届かない。
その状況は真っ黒な影となり、悠斗の足元から上へ上へと這い上がってくる。


「森田さん! 今、悠斗くんに、呪いが――――」


言葉を失い、青い顔でバトルを見ていた森田の手の中でミツキが叫ぶ。「え!?」信じられない、という面持ちで返した森田に、ミツキは焦燥した声で言った。

「記憶を操って、悠斗くんにとって嫌なものを思い出させるような――わかんない、今追い払ってくる、追い払えるかわからないけど、――くそ、アイツ!」

混乱したようにまくし立てたミツキはそう言い残し、それきり黙り込んでしまう。弱い光を一度放ち、朱色から白に変わった携帯から考えるに、そこから一旦いなくなったらしい。何を考えれば良いのかわからず、森田は酷い寒気を覚えながら悠斗と根元の方を見る。
その悠斗は、ミツキの言葉を借りるならば『嫌なものを思い出させ』られて動きを止めてしまっていた。泰生と入れ替わり、初めてのバトルで何も出来なかったこと。路上でふっかけられた戦いで、醜態を晒してしまったこと。今思い出すべきではない、不快な記憶が蘇っては次々と悠斗の心を指していく。

しかし、問題はそれだけではなかった。それ以上に、悠斗にとって嫌な過去――ずっと見ないようにしまい込んできた記憶が、強引な力で引き揚げられる。


「ミタマ、キリサメ……」


力の無いその声が、彼らの耳へ入ることはない。
その事実を認識した悠斗の、両の目から光が消えていく。一方的な暴力に抵抗もせず、シャンデラとマリルリはされるがままに痛めつけられているだけだ。彼らを嘲笑うかのように攻撃を続けるミロカロスとニャオニクスの後方、根元が微笑を湛えて立っている。

その微笑みを捉えたのを最後に、悠斗は心の奥から湧き上がってくるいつかの記憶に絡み取られ、バトルに向けるべき意識を奪われたのだった。





「今から曲を!? 新しくってことッスか!?」

二ノ宮が無意識にあげた大きな声が、防音室に木霊する。しかしそれに驚く様子も無く、有原は「ああ」と頷いた。吊り上がった形をした目が、薄汚れた床へと向けられている。

「今ある曲じゃ、他のバンドに差をつけられない。キドアイラクっていうものを、頭に残してもらえないと思う。俺たちがどんなバンドなのかとか、なんでポケモンと音楽をやらないのかとか、俺たちはどんな音楽をやるのかとかそういうことを、覚えてもらわないと」
「それは確かに……そうしてもらわないと危ないのは確かッスけど……でも、今から新しい曲っていうのは難しくないスかね? だってそれだと、今から曲作って、手直しして編曲して、練習して……それって、すごい時間がかかるスよね。出来なくはないかもしれないけど……でも、厳しくないスか」
「そうだけど、でも、出来るんならやったほうがいいと俺は思う。出来なくはないんなら、出来るなら、少しでもよく見てもらうためにやったほうがいい」
「センパイの言ってることはよくわかるッスよ。俺だって、多分他のバンドの聞いたら同じこと思うと思うし……」
「だろ? 『夕立雲』とか他の曲を頑張って出来るだけよくするのも、新しい曲をやるのも、どっちも難しいなら、少しでもメリットの大きい方に、」

「ちょっと待てよ、そうは言っても今から新しい曲なんて無理だろ」

二ノ宮と有原の会話に富田が口を挟む。「オーディションまで二十日も無いんだ」ペットボトルを床に置き、彼はきっぱりと言い切った。「そんな短期間で、納得いくだけの曲を作ることだって出来るかわからないだろ」
が、対する有原も譲れないようで、富田の言葉に被せるようにして主張する。「納得なら、俺は今ある曲にだっていってない」有原は膝の上の拳を握り締めて、うつむいたままの声で言った。床に向かう彼の声が、ややくぐもって練習室に響く。「出来るかどうかは、羽沢に聞かないとわからないじゃないか。曲を作るのは羽沢なんだし」そう言いながら顔を上げ、泰生に視線を移した有原に富田は慌てて首を横に振った。「無茶を言うな」いくら悠斗を演じさせているとはいえ泰生に曲作りは頼めないし、かといって泰生の代わりをするのに精一杯の悠斗にこれ以上の重荷を背負わせるわけにもいかない。「悠斗一人の負担がでかすぎる」ミックスオレの缶を持ったままの泰生を庇うように富田は言う。

「『マーメイド』は二日で完成したって言ってたじゃないか。なあ、羽沢、駄目かな。今からもっと、個性を出せるような曲を作ってもらえないか」
「あの曲は短いし、全部が全部そうやって出来るわけじゃない。俺たちが手伝うったって、結局のところいつも悠斗に頼ってるし、編曲にかかる時間だってあるんだ。『マーメイド』だって編曲入れたらもっとかかっただろ」
「俺は羽沢に聞いてるんだよ。どうだろう、羽沢。お前に頼って悪いっていうのはわかってるけど、この前みたいな曲をさ。お前ピアノ弾けるって言ってたし、入れたりして」

聞かれた泰生は、少し考えた後「わからない」と答えた。曲を作るなんて想像したこともないから、どれだけ大変なのかとか、どの程度の時間がかかるのかなどわかるはずもなかった。だから、泰生にはそう答えるしかなかったのである。
「わからないが、出来たとしても、変えない方がいいと思う」続けて言ったこれは、泰生自身の考えだ。「慣れないことを短時間でというのは、いくらやり込んだところで、自分がしたいようには出来ないものだからな」過去に何度かやらかした失敗や、周囲のトレーナーのことを思い出しながら泰生は有原を見てそう伝える。下を向いた有原の表情は影になっていて見えないが、拳に込められた力が強くなったように見えた。

「ほら、悠斗もこう言ってるし――曲を変えるのはやめるべきだ。大体、いくらなんでも現実的じゃないだろう。変に気張りすぎるよりもいつもの曲でいったほうが、俺たちらしさなら出せるんじゃないか」
「そうッスよ。それに、この前のステージは、羽沢のための……羽沢と芦田さんのためのステージだったから。俺ら、キドアイラクのステージじゃなくて。あのステージがすごかったのって、羽沢っぽいって思えたのは『羽沢と芦田さん』らしさなんじゃないスか。俺ららしさが、ああいう曲で出せるとは限らないッス」
「あと、今度のオーディションの趣旨は若者らしさを求めてるっぽいからな。この前みたいな、積み重ねてきた時間みたいなのを感じさせる歌は確かに圧巻されるけど、そこからはちょっとズレてると思う。あれに若さは無いし……」
「やっぱり、いつも通りがベストじゃないッスかね。いつもやってるものこそ俺ららしいって言えるし、実際そうだと思うし……そんな、無理に個性を出そうとしなくても、」
「………………無理に、じゃないけど」

頷き合う富田と二ノ宮に、有原が呻くような声を出す。

「あ、いや、センパイが間違ってるってワケじゃなくて」二ノ宮は焦ったようにそう言い添えた。「そういうワケじゃないんスけど」

「でも、俺以外は、富田も、羽沢も、みんな変えないほうがいいって思ってるんだよな? バラードはやめたほうがいい、とも」
「それはそうだけど……でも、お前が言ってることも正しいし、そう思わないわけじゃない、ただ、どちらか選ばなきゃいけない以上選んでるだけで」
「そうッス。センパイの気持ちはわかるし、時間があったり、もっと考えられる余裕があればそうしたいスよ、でもそれが無理っていうだけなんス。言ってることは、十分わかります」

富田と二ノ宮が口々に返す。が、有原は「…………そうか」と掻き消えそうな声量で言ったきり黙り込んでしまい、その次の言葉を発してくれない。彼がどんな顔をしているのかもわからず、練習室に気まずい雰囲気が漂っていく。泰生はただ無言を貫き通す以外の手立ては無く、有原の伏せられた頭を見るほかにすることが見当たらなかった。
息苦しい沈黙が数刻続き、しかし富田が「いったん、やめにしないか」と口にする。「大体こんな話してたら、悠斗に悪いだろ」
その言葉は、単に彼が沈黙に耐えかねたという理由の元に発されたものであり、深い意味などそこには無かった。それにこの場に悠斗はいないのだから、諫める必要だってそれほどはなく、ただ場の空気を変えたかった故の発言にすぎない。

しかし、それが有原に伝わるはずもないというのもまた事実だった。
伏せていた顔を上げた有原は、富田のことをじっと見る。


「――――また、それか」





今からもう十年以上も前――自分が八歳だった頃のことを、悠斗は思い出していた。

その頃はまだ、悠斗は泰生のことを憎んでもいなかったし、ポケモンを嫌いだと考えてはいなかった。泰生は多忙で家にいる時間も少なく、一緒に遊んだこともほとんど無かったが、それでも彼が帰ってくると嬉しいと感じたし、彼のポケモン達のこともカッコいいなどと思っていた。
ただ、泰生は『危険だから』という理由で、悠斗にポケモンを触らせたり、近づけたりということをしなかった。だからこそ、その事件が起こったのかもしれない。

その日、泰生は珍しく家にいて、ポケモン達の世話をしていた。悠斗はその様子を見ていたのだが、泰生が忙しそうにしていたため、声をかけるのを迷っていたのである。
そうしている間に、泰生が何かを取りにいったらしく部屋を出た。その隙に悠斗は泰生の部屋に忍び込み、そこにいたシャンデラ、ミタマと顔を合わせていたのだ。
その時のミタマは、数時間前のバトルで右腕部分(彼の見た目から考えるなら右の燭台)に怪我を負い、そのケアを受けていた。だが、その事実を悠斗は知らない。悠斗はただ、いつも泰生の声に合わせて俊敏に動き強烈な技を駆使する、魅力的なポケモンに今まで無いほど接近出来て興奮していただけなのだ。
あの素敵なポケモンに、少し触ってみたかっただけなのだ。

悠斗の叫び声を聞き、泰生が部屋に駆けつけたとき、悠斗は片手に火傷を負って泣いていた。怪我した部分を触られたために驚き、炎を放ってしまったシャンデラがその隣で困ったように漂っていた。幸いにも火傷は軽く、眼など粘膜部分でも無かったため、すぐに冷やせば治りそうなものだった。
しかし、問題なのはその後だった。自分のところに駆け寄ってきた泰生に悠斗は安心し、涙ながらに状況を説明しようとした――のだが。

その時、泰生がどうしたか。
彼の放った言葉は今でも消えることなく、悠斗の奥底で響き続けている。


『どうして余計なことをするんだ、コイツの気持ちもわからないのに!』


悠斗は、その言葉を、自分よりも先にポケモンのことを心配した父の言葉を聞いて、確信してしまったのだ。
ただ遊ぼうと言っただけなのにそれを突っぱねる、ポケモンには自分の気持ちが通じないと。
それと同じように、父親であるはずの泰生も、自分の言葉を聞いてくれないのだと。

ポケモンも父も、何を言っても無駄である、自分を理解してくれない存在なのだということを。





『悠斗くん!』


――――と、蘇った記憶に割り込むようにして、悠斗の頭の中に響く声があった。
過去の記憶に取り憑かれたように、意識を失っていた悠斗はその声によって引っ張りあげられる。『落ち着いて、バトルに集中して!』悠斗の回想を破壊したその声、ミツキの声は早口でそれだけ言うと、悠斗の中から消えていった。

「ミタマ……キリサメ……」

虚ろな口調で、どうにかそれだけ言った悠斗に、シャンデラとマリルリが振り返る。悠斗が我を失っていた間に、メロメロの効果は切れていたらしい。シャンデラの焔は美しい蒼を失い弱くなり、マリルリの腹や肩からは赤い血が流れていたが、二匹とも先程とは違って悠斗の声に反応した。
しかし、肝心の悠斗がまだ戦意喪失の状態にある。表情が引きつり、膝を不安定に曲げた彼は、胸の中で酷く脈打つ心臓を服の上から抑えつけた。荒い呼吸を繰り返す彼の姿に、根元のファン達が何事かと視線を交わし合う。
「悠斗くん、は」白から再び朱へと変わった携帯に、ミツキが戻ってきたことを察した森田は霞んだ声でそう尋ねる。「悠斗くんは大丈夫なんですか」

「一応、仕掛けられてた呪いは解けたけど――でも、思い出しちゃったこと自体が消えるってわけじゃないんだ。悠斗くんが、思い出したことは、今もまだ……」

重い声でミツキが返して、「きっと狙いはそこなんだ」と言い添える。森田は絶句し、携帯を握り締めて根元を睨みつけた。あいつの仕業か、そこまでして羽沢泰生を貶めたいのか、お前はそんな奴だったのか。そんな思いが森田の胸中に渦巻く。
悠斗は自分の体が、指先まで冷たくなっていくのを他人事のように感じていた。記憶の中から溢れた恐怖がつい先程の不安と重なって、彼の意識を侵食していく。何を言っても駄目だという無力感、虚無感、諦め、辛さ、怒り、哀しみ、――そんなものがない交ぜになった感情が、枷か鎖のように悠斗を縛って逃さなかった。

「アケミ、ハイドロポンプ! キャシー、十万ボルト!!」

ミロカロスが放った怒濤のような水流と、ニャオニクスによる電撃が、悠斗の視界を満たしていく。しかしそれでも、彼は自らを覆う暗い影を振り払い、言葉を発することが出来なかった。





ずっと伏せられていた、有原の顔は普段と別段大きな違いは無かった。が、そこにある表情に富田は、そして二ノ宮も見覚えがあった。
最後に彼がこうなったのはいつだっただろうか、と富田は場違いなことをぼんやり考える。あれも確か、今キドアイラクの在籍している事務所への入所を賭けた面接兼オーディションを目前とした時だった。曲こそ決まっていたものの、ギターソロとベースの見せ場をどうするかで意見が分かれ、悠斗含め皆で揉めていたのである。その時も同じだった。最終的に有原と他三人、一対三のような構図になってしまい、そのことに全員が気づいたときにはどうしようもなく気まずい空気になっていた。

その時に、彼が言っていたことを富田は思い出した。
俺が間違っているのか、と。そして、俺が駄目なのだろうか、とも。

その言葉は、今の有原の中にもあるのだろう、と富田はどこか他人事のように思った。
「センパイ」オロオロと二ノ宮が立ち上がる。彼も何かを察したらしく、ドラムセットを越えて有原を止めようか止めまいか迷うように片手をさまよわせた。「あの、ちょっと」

「富田、お前はいつもそうなんだ。羽沢がどうしたとか、羽沢がどうだからとか。いつも、羽沢を理由にしてばかりで、お前が何を思ってんのか全然言わないもんな。羽沢以外に、お前が動く理由がわかんないし」
「センパイ、あの……」
「さっきだって、羽沢に聞いてるのにお前が答えるし。いつものことだけど、お前がそうなのは」

二ノ宮が遠慮がちに口を挟むのも無視して、有原は富田に言葉を投げ続ける。そんなこと言われても仕方ないだろ、今は悠斗じゃないから答えられないんだから、そう答えたくなるのを抑えつけて、富田は口内の唾を一度飲み込む。ひとたびこうなった有原はなかなかおさまらないことも、その矛先が自分に向けられていることも、それを面倒だと思ってしまった自分も、何もかもが富田を苛立たせていた。
「悪いかよ」単刀直入に返したその声が、意図せず刺々しかったことも富田の嫌悪の材料となる。落ち着け、という、頭の中に浮かんだ言葉が、自分に対するものか有原に対するものか、もうわからなかった。

「別に、悪いとは言ってない……」
「じゃあなんだよ。ならいいだろ、これ以上続けんのも悠斗に悪いから、もう……」

言ってから、富田は自分のことを思いきり殴ってやりたい衝動に駆られた。しかし既にしてしまった発言はもう、取り消すことが出来ない。
前髪の間から見える、有原がこんなことを言う。「やっぱり、それだ」練習室に反響したその声は、乾ききっているようで湿っているようで、淡々としているようで震えているようで、今の有原の目とよく似ていた。

「いつもお前は、羽沢のことばっか考えてるっぽいけど。それこそ宗教みたいだよ、どんなときでも、お前の判断基準は羽沢じゃん」

「…………悪いかよ」

「悪くはない。でも、いいわけじゃない」


今度は、有原ははっきりとそう言った。「良くない。だって、お前羽沢のことしか考えてないだろ」有原の眼が、富田の眼を睨みつける。「お前が何をするのも、羽沢がどうかって理由でしかないんだから」


「俺が何を考えようと別にいいだろ。普通のことだし、それでお前が困るってわけでもないし」

「良くないから言ってるんだよ。羽沢のことばっかで、お前、本当にこのバンドのこと考えてるのかって聞いてるんだ」

「考えてるに決まってるだろ、大体、悠斗だってメンバーなんだから、そのことは」

「…………あー、だからさ、」

「何なんだよ……」


片手で頭を抱え、舌打ちする有原に、富田はイライラと言い返す。無意識のうちに動かしていた靴の底がリノリウム張りの床を打ち、耳障りな音を立てた。会話を止めるタイミングを見失った二ノ宮が、途方に暮れたような顔をして自分と有原を見ていることは富田にもわかったが、だからといってどうすれば良いのかもわからない。
「じゃあ、聞くけど」膝に乗せたベースに指を這わせ、有原がくぐもった声で聞く。「お前、なんでこのバンドやってるわけ」


「それは、……」

「お前がギター始めた理由は? 音楽やってんのはなんで? ポケモン使わないバンドで、そこにこだわる理由は何なわけ?」

「……………………」


黙り込んだ、というよりも、答えることが出来なかった富田に、有原が畳み掛けるように質問する。尚も言葉に詰まる富田は奥歯を噛み締め俯いた。一緒に噛まれた内頬から血が滲み、不快な味が口の中に広がる。
「だから、そうなんだよ」聞こえる声が、それと同じくらいに不快に思えるのを、富田はどこか冷静に感じ取った。「お前は全部そうなんだ」ネックに添えた指を、とん、と動かして富田は言葉を続ける。「キドアイラクやってんのは羽沢がいるからで、ギターも羽沢に言われて始めて、音楽もそう。ポケモン使わないのも、羽沢が、嫌いだからってだけなんだ」
お前は、いつも。富田の、低く呻くような声が、富田の鼓膜を震わせた。お前はいつも、羽沢を理由にしてばかりで。


「そうやって、羽沢のために、羽沢を助けてるみたいなことをして――――実際、お前は羽沢を助けてるつもりで、羽沢に縋りついてるんだよ」


「………………っ、」

途端、富田の頭に、一気に血が昇った。
どうしてお前にそんなことを言われなきゃいけないんだ、とか、なんの資格があってお前がそんなことを言うんだ、とか、俺のことを分析したみたいなことを言って何様なんだ、とか。言いたいことと叫びたいことと吼えたいことが怒涛のように押し寄せてくる。自分の目の前で、自分のことを睨んでいるこの男のことを、殴りつけてやりたい衝動が指先まで走り抜けた。
しかし富田がとった行動は、有原を殴ることなどではなかった。「じゃあ、」ある意味では、殴るよりもずっと、有原にとっての残酷なことかもしれなかった。「じゃあ、お前は」一周回ってむしろ冷え切ったような身体は、無意識のうちに口を動かしていた。


「じゃあお前は、何なんだよ。 何のためにやってるって言うんだ」


よりにもよって、こんな時に現れなくてもいいだろう。富田の思考の端っこで、ひどく冷静な自分がそんなことを呟いた。
しかしその思いに反して、富田の紅い瞳が前髪の奥で鋭く輝く。極度の興奮状態によって引き起こされた、富田に流れる、ブラッキーとしての血――そのとくせいによって、相手の心の奥底を感じ取る力が、富田の意に背いて行使された。そういえば今頃、ちょうど月が昇る頃だったんじゃないか、などと精神の冷静な部分は考える。
富田は、自分の頭の中に情報の波が流れ込んでくるのを感じた。そしてそれが何たるかを理解した。その時にはもう、すでに、彼は乾いた口を開けて最初の音を発していた。



「家でも旅でも部活でも受験でも思うようにいかなくて、またそうなるのが怖いからって――――ムキになるなんて、馬鹿らしい」



そう富田が言い切った瞬間、有原の表情から一切が掻き消えた。
「……自分だってポケモンのくせに」有原の口の端からそんな言葉が漏れる。「なのに羽沢といて、人間になったつもりかよ」それを聞いた富田の片頬が、痙攣したように鋭く動く。しかしそれも気に留めず有原は無表情のまま、顔を上気させて肩で息をしている富田を殴り飛ばそうとしたようだった――が、それは果たして実現しなかった。
その理由の一つは、膝に置いたベースが、彼が立ち上がりかけたことによって落ちそうになったこと。
もう一つは、少し戻った意識でそれを有原が慌てて押さえた途端、練習室に響いた声だった。


「今、それは関係無いだろう」


その声は泰生のものだった。それまで黙っていた彼は、硬直している有原を睨み返して言う。「歌を選ぶことに、そのことは関係無い。歌を決める話をしないなら、練習した方がいいんじゃないか」
泰生の言葉、つまり悠斗の口から告げられたそれを聞き、有原はしばらく動かなかった。視線が床に落ち、僅かに開いた口から息が漏れている。その状態が数秒か、数分か、あるいはそれ以上か続いて、彼は「そう、だな」と独り言のような声で言った。
悪い、少し頭冷やしてくる。言うが早いか、有原はベースをスタンドに置いて立ち上がった。「センパイ、ッ……」ようやく声が出せたらしい、二ノ宮が舌をもつれさせながら慌てて呼び止める。彼が手を震わせたせいで、その掌から二本のスティックが滑り落ちた。高速で床が打ち叩かれる、乾燥した音がうるさく響く。


「待ってください、もう少し話して、そしたら……」

「やめてくれ、二ノ宮」


顔はドアの方に向けたまま、二ノ宮に背を見せたまま、有原はそう牽制する。なんで、と二ノ宮が食い下がった。「ちゃんと話さないと、変なまま終わるの嫌ッスよ」
それに答えず、有原がドアを開ける。一気に練習室へと流れ込んできた、廊下を歩く学生達の騒ぎ声、学内でポケモンを放しているバカ共のポケモンが鳴いたのが反響したもの、無数の足音、何かが落ちたりぶつかる音。防音壁により、それまで外界から遮断されていたかのような練習室に、時間と世界が戻ってくる。
その喧騒の向こうに行こうと足を踏み出した有原を、「センパイ」と二ノ宮がもう一度引きとめる。ややあって、足を止めた有原は、振り向かないで「二ノ宮」と短く言った。


「お前には、わからねぇよ」


そのまま廊下へと出てしまった有原に、二ノ宮は息を飲み込んだ。数秒、彼は両手を握り締めてドアの方を見ていたが、すぐにしゃがみ込んで、床に落ちたスティックを拾い集めて椅子に置いた。頭部にハイハットの縁が引っかかり、気の抜けた音が空気を揺らす。
「ごめん、ちょっと言ってくる」そう言い残して部屋を出ていった二ノ宮が、それ以外の何かに言及することは無かった。誰のことも責めなかったし、誰のこともフォローしなかった。ただ二人置いてきぼりとなった、富田と泰生だけが練習室の床にそれぞれ立っている。



「……俺は、何か間違ったことを言ったか」

二ノ宮が閉めたドアにより、再び外界から隔絶された第三練習室に泰生の声が響く。学生の声もポケモン達の足音も、何も聞こえなくなって、時計の秒針が動く音だけがやたらと激しく主張していた。
「いえ、」まるでこの場所だけが世界から取り残されたかのような錯覚に陥りそうな静寂に、富田の声が満ちては消える。お見苦しいところをお見せして申し訳ございません、と答えた彼の声は、彼自身も驚くほどに落ち着いていた。「誰も、多分……間違ったことなんて、言ってません」有原が去った扉の方を見つめたまま、無二の親友の姿をした泰生から視線を外したまま、富田は冷静な声のままで言う。


「有原は、俺たちの中で一番、このバンドのことを考えてくれてるんです。どうすれば良くなるか、少しでもいい演奏が出来るのか、誰よりも真剣に、シビアに、細かく。…………ただ、」

「………………」

「ただ、言わなくてもいいことを、言ってしまっただけです」


その言葉において、誰が、ということを富田は限定しなかった。
主語をどう受け取ったか、泰生は「だから俺は、人間が苦手なんだ」と呟いた。富田はその発言に、腹を立てるよりも悲しくなるよりも息苦しくなるよりも早く、悠斗がもしあの場にいたらどうしただろうか、ということを考えた。その次には、そんな自分に驚いて、どうしようもなく嫌気がさした。

それでも、思わずにはいられなかった。悠斗だったらあの状況を乗り越えて、自分達を前へ前へと引っ張ってくれるのに、と。以前のように、また、富田を狭く暗い世界から連れ出してくれたときのように、彼は必ず助けてくれるのだ。
有原に言われたこと自体を否定したり、怒ったり拒絶したりする気は毛頭無い。ただ、彼にそんなことを言われる筋合いはないと感じただけである。助けているつもりで縋りついてる、何も間違ってはいない。強いて言うならば、そんなつもりもなく、ハナから彼にしがみついているのが自分ということくらいだ。

お前がその眼なのはしょうがない。
でも、大事なのは、お前が何が嫌なのかってことと、嫌なら嫌だって言うことだ。
好きなことも、嫌なことも、伝えなきゃわかんねぇよ。

あの日、閉ざされていた富田の世界をどこまでも広げてくれたその言葉。それを悠斗から受け取った瞬間、富田はこの先自分がずっと、彼を見続けるのだろうと確信した。そのことを後悔したことは一度も無い。これまで少しも変わっていないそれが今後変わることも多分に無く、富田は今でも羽沢悠斗に生かされている。
縋っているなんて当たり前だ。彼に手を伸ばさない日など来るはずが無いし、彼の背中を追い続けるのは当然のことだ。むしろそうでない方が不自然だとさえ思ってしまう。


富田にとっての羽沢悠斗は、それくらいの存在なのだ。
言う必要の無いことを言葉にしてしまうこと、言わなくていいことを口にしてしまうこと。言ったって、どうせ伝わりはしないということ。それをおそれずに、彼は自分の気持ちを伝えることが出来る。
だからこそ、相手の心を動かせる。
そんな彼に、自分は、縋らずにはいられないのだろう。


泰生は険しい顔のまま無言を貫き、練習室には再度沈黙が訪れた。富田は立ち上がり、ギターを片付けるためケースのジッパーを降ろして開ける。
「帰るのか」「ええ。もう今日は、何にもならないでしょうから」そんな会話が交わされた後、泰生は数秒富田を見ていたが、それもやめてミックスオレの残りをあおるように飲み干した。彼の喉が鳴る音が、富田の鼓膜を僅かに振動させる。ギターをしまいながら、有原に何と言うべきかを富田は考えてみたけれど、明確な答えは何一つ出なかった。ただ、悠斗に相談する気にもならなかったし、二ノ宮に何か言うことも出来そうになかった。

ケースに収まったギターを眺め、富田はそこに映った自分の姿を見て思う。助けているつもりで縋りついてる、そんな有原の言葉が頭の中にこびりついていた。
自分はどこが気にかかっているのだろう、ということを富田はわからずにいる。縋りついてる、の部分をどうこう言う気は無いのだから、だとすれば、どこが。
ちらりと視線をやった先では、泰生が黙って腕を組み、何するでもなく壁を睨みつけていた。視線の行き先を戻し、再びギターの中の自分を見る。赤いボディに映った富田自身は、髪も肌も服も何もかもが真っ赤に染まっていて、今も昔も悪目立ちする紅い瞳のことなどは少しもわかりはしない。
何度も誰かを傷つけて、それ故に自分は疎外されてきて、見たくないのにわかってしまう。つい先ほどにも富田を襲ったそんな『特別』の不幸、その象徴がこの紅い両眼だ。それが『特別』じゃなくなっている。ギターに映し出される、何度も望んでやまない自分の姿に、富田は頭の奥が重く鋭い痛みを訴えるのを感じた。





どうにかしなければ。落ち着け。冷静になれ。あの時のことは関係無い、今はただ単にメロメロのせいでそうなっていただけ、大丈夫、本当に自分の言うことが通じないわけじゃない、そうではない、そうじゃない――――


悠斗は必死に、自分にそう言い聞かせる。しかし胸の鼓動は少しも収まらず、全身からは嫌な汗が噴き出し続けていた。「よけろ、」そう言った声ががくがくと震えているのに気がついた、悠斗の視界が不規則な明滅を繰り返す。
シャンデラとマリルリは、その攻撃こそかわしたものの、明らかに弱った様子で身体をぐらつかせた。ミロカロスの放った水流が壁を叩き、耳を壊すほどの轟音が鳴り響く。次にアレがまた来て、もしも当たってしまえばもうおしまいだ、その確信が悠斗をさらに焦らせた。

「ミタマ、シャドーボール、キリサメはばかぢから……」
「ミラーコートだアケミ! キャシーはリフレクター!」

その焦りは悠斗に、根元の声を聞くという行為を失わせた。ミロカロスとニャオニクスがそれぞれ目の前に作った、透明に光り輝く壁すらも悠斗の目には入らない。
シャンデラが紫色の弾幕を放ち、マリルリが両腕を振り上げ殴りかかる。シャドーボールはミロカロスの次なる攻撃の糧となり、ばかぢからは当たっているように見えてその威力を軽減させられているのに、そのことに思い当たる余裕は悠斗に残されていなかった。ただ、シャンデラとマリルリが自分の言葉を聞いてくれている、そのことが奇妙な安堵を生み出し、同時に彼を崖っぷちへと追い詰めているのである。

「シャドーボール、エナジーボール! オーバーヒート! とにかく打ち込め、キリサメもばかぢからを繰り返すんだ!」

叫ぶような彼の声に、シャンデラとマリルリも滅茶苦茶に攻撃を重ねていく。彼らも先程の負い目があるのだろう、少しでも自分のトレーナーの意に添えようとするあまり、相手の様子に気づいていない。シャンデラの技を受けるたびにミロカロスの眼光は強くなり、マリルリの激しい暴力をニャオニクスは半ば受け流すように喰らい尽くす。一見痛みを涙ながらに耐えているかのような彼女達の口元が、確かに笑みを形作っていることを、彼らは見つけられないのだ。
大丈夫だ、あの時のことは今は忘れろ、今は関係無いんだから――悠斗は心の中でそう叫ぶ。忘れろ、忘れろ、それで良いと決めたはずなのだから、今更悲しむ必要も恐れる必要も無いのだから、もう気にすることなんか、と。どうにか震えの落ち着いてきた両足で、悠斗は次の一手を考える。

「アケミ、キャシー……」

根元の声がコートに響いた。途端、それまで黙って攻撃を受けていた、ミロカロスとニャオニクスの姿勢が変わる。反撃しない、いたいけな弱さを装っていた姿は一変し、ミロカロスは長い尾でシャンデラの顔を叩き打ち、ニャオニクスは自分を殴っていたマリルリを一蹴する。ちっとも堪えていない彼女達の姿に、床に転がされたシャンデラとマリルリはハッとしたように顔を上げた。
「ミラーコートとサイコキネシス」根元の声に、悠斗はそこで初めて自分が窮地に立っていることに気がついた。それは二匹のポケモン達も同じだったが、どちらにしてももう遅い。拳を白くなるほど強く握り締めていた、森田が声にならない叫びをあげる。

ミロカロスの身体が強く輝き、その身に受けたダメージを膨らませていく。ニャオニクスの耳がぶわりと広がり、抑えられていた力が溢れ出していく。圧倒的なそのパワーを感じ取り、悠斗はやっと意識を取り戻したものの手遅れだ。

ミロカロスの巨躯の影となり、床スレスレを浮かんだシャンデラが凍りつく。
ニャオニクスから流れる殺気と戦意に、逃げようとしたマリルリが足をもつれさせてへたり込む。
抜け出ることの出来ない、確約された敗北と苦痛が今まさに振り下ろされようとして、恐ろしい静寂がコートの全てを包み込んだ。



しかし――――


「アケミ、キャシー。やめ」

根元の声がコートに響いた。
刹那、白線の中に渦巻いていた激動の全てが一瞬にして霧散する。ミロカロスは尾びれを振り上げたままの姿勢で、ニャオニクスは耳を広げて飛び上がったままの体勢で、それぞれピタリと動きを止めた。

「なん、っ……」

悠斗の口から、そんな叫びが漏れる。目を瞑り、これから来るはずだったであろう猛攻に耐えようとしていたマリルリと、弱々しくなった炎を揺らして低空飛行するシャンデラも、急な停止に呆然と根元を見た。マリルリが、気の抜けた声で短く鳴く。周りで見ていたギャラリー達が、何事かと口々に囁き合った。森田とミツキは言葉も交わせず、状況を見守る以外に出来ることが無い。
ミロカロスが、優雅な所作で長い尾をゆったりと頭の後ろへ戻して常時のポーズをとる。ニャオニクスの耳が収束し、冷たい床へと音も無く降り立った。そんな彼女達の後方から、根元がコートを突っ切って歩いてくる。至極落ち着いた、余裕を失わない、というより当たり前かのような足取りに、マリルリとシャンデラは止めることも出来ずにただ眺めるだけだった。

「羽沢くん」

悠斗の前まで来た根元が、足取り同様落ち着いた声で言う。渋みのある顔は穏やかで、たった今バトルを中断した者のそれとは思えない。

「今日はもう、これで終わりにしよう」

そう言われて、悠斗は一瞬、その言葉の意味がわからなかった。
次の瞬間に襲ってきたのは、激しい疑問と混乱だった。終わりにする? 何を。いや、それは決まっている、バトルだ、なぜ? 無様な戦いをしたからか? でもそれなら、根元にとっては喜ばしいことのはずだ。それなのにどうして、そもそも自分が仕向けたことなのに、なんでそんなことを言いだすんだ?
押し寄せる思いに言葉を失った悠斗を見て、根元がどう考えたのかはわからない。しかし少なくとも表面上は、同情するような笑みを浮かべて、「羽沢くん」と根元は悠斗の肩を軽く叩いた。


「残念だけどね。これ以上続けたら、失礼、だから」


その手つきは、不得手なバトルをした者を馬鹿にしているようでもなく、せっかくの機会を無駄にしたトレーナーに憤っているようでもなく、また、あえてそう仕掛けたなどという裏が感じられるようなものでもない。ただ、本当に『残念』だと思っているかのようなものだった。
動くことの出来ない悠斗の肩から手を放し、根元は悠斗に背を向ける。疲れきったらしく、床にへたり込んでいたマリルリと力無く漂っていたシャンデラが、それでも、自分のそばを通ろうとする彼に戦意を向けた。
が、根元はそんな二匹に「お疲れ様」とだけ言い添えて、微笑と共に通り過ぎてしまう。肩透かしを食らったように、次の行動を図りかねたマリルリとシャンデラは、その背中を見送るしか無かった。「ありがとうね、今日も強くて美しかったよ、アケミ」「やっぱり君ほど賢い女は他にいないよ、キャシー」ミロカロスの首を抱き寄せ、ニャオニクスの頭に手を添え、根元は自分のポケモン達にそう囁く。はたから見れば奇妙かつ陳腐に思えなくもないその光景は、しかし、二匹のポケモンは心から嬉しそうに根元に身体を擦り寄せた。お疲れ、最後に片腕ずつで抱き締めてから、根元は二匹をボールに戻す。

「皆さん、申し訳ありません。羽沢くんの体調が優れないようですから、今日は一旦、これでおしまいにさせていただけませんか」

そう、コートにいる者達へと言った根元に、最初こそみんな戸惑ったように視線を交わし合っていたものの、すぐに各々頷き出す。「それならしょうがない」「マスコミが入ってない日で良かった、もしそうだったら面倒だからな」「リーグ前だからな、今後こういうのも増えてくよなぁ」トレーナーの体調不良によるバトル中断は、練習試合ならば別段珍しくも無いらしく、皆慣れた調子で片付けを開始した。マックスアッププロダクションの方はこの後も予定が詰まっているらしく、スタッフ達は忙しなく動き出す。
「ノブさんが勝つところ楽しみにしてたのにー」「アケミちゃんの決め技見たかったー」根元のファンが口々に不満を漏らす。そのひとりひとりに笑顔を返しながら、根元は「ゴメンね、せっかく来てくれたのに」「次は絶対ちゃんと勝つからね」「そういえば髪型変えた? 似合ってるよ、ドレディアみたい」などとそれぞれに言葉をかけていった。年齢問わず集まったファン達が揃って頬を赤らめ、幸せそうにしているのを見て、マックスアッププロダクションの者は苦笑いを浮かべつつもどこか喜ぶような顔をする。根元に向けられた視線は全て、この場では熱く優しいものであった。

「じゃあ、羽沢くん。またの機会を楽しみにしてるよ」

気をつけて帰ってね、と、一足先にコートを去ろうとする根元が片手を上げて悠斗に言った。ぱちん、と指を鳴らす仕草は年甲斐も無くキザだったが、不思議と嫌味にならないそれにファン達が黄色い声をあげた。
その中の一人、悠斗とそう歳の変わらないだろう、高校生か大学生くらいの少女が、根元と親しげに言葉を交わして歩いていく。黒い長髪が翻り、僅かに振り向いた彼女が悠斗をちらりと見遣っていった。突き刺すようなその視線に、悠斗は自分の足が、瞬く間に冷え切っていったように思えてならなかった。
「僕らも帰りましょう」森田が悠斗に声をかける。近くの病院に連絡しましょうか、というマックスアップ側の気遣いを丁重に断った彼は、慌てて二匹をボールに戻した悠斗を促してコートを出る。すでに根元達は上に戻ってしまったらしく、地下のエレベーターホールはしんとしていた。





「わかってるかもしれないけれど……」

地上に戻り、車に乗り込んだところで、それまで黙っていたミツキが言った。運転席と助手席の間に置かれた森田の携帯が、不整脈のような明滅を繰り返して言葉を吐く。

「バトル中に羽沢くんが嫌な気分になったり、何か悪いことを考えてしまったときがあったりしたら、それは呪術のせいだよ」
「根元の、ってことですか」
「そこは確証無いから、はっきりとは言えない。思ったより手強くて、深入り出来ないようガードまで張りやがってたから詳しくはこれから調べてくしかない。……けど、呪いの質に関してはさっきも言った通り、あの男が使ってるってことで道理が通るね」
「人それぞれで、その……呪いの質? というものが異なるのなら、どうしてそこまでわかっているのに確定出来ないんですか? 今それがわかっているのなら、根元で決まりということにはならないんですか?」
「親子とか、兄弟姉妹とか。あと、いるかどうかは別としてクローンとか? 遺伝子が近い人っていうのは、呪いも同じか近い質になりやすいんだよ」

とはいえ、あの人ご両親亡くなってるみたいだし、遊んでるだけあってずっと独身、家族もいないってことだから。ほぼ本人なんだけど。でも一応ね。
携帯から流れてくる、考え込むような調子の音声は、悠斗の耳にほとんど入ってこなかった。先ほどのバトルで、二匹が自分の言うことを聞いてくれなくなったときの衝撃と、困惑が、今も尚激しく胸中で渦を巻いている。
割り切ることは出来る。別に、泰生のポケモンと意思疎通を図れないことに対して悠斗が被る損害など無いし、そもそも本来、見てくれこそは羽沢泰生とはいえ悠斗の言葉に彼らが従う必要など存在しないのだ。当たり前のこと、何らおかしくないことだと、そう納得することも出来るはずだ。
それでも、と、悠斗はあのとき蘇った記憶に押し潰されそうになる。ずっと目を背けてきた、あのことを思い出してしまったのは何も呪いのせいだけではなく、きっと、あのとき自分が感じた想いがバトル中に抱いた恐怖と似通っていたからでは、ないだろうか。


何を言っても、通じやしない。
言うだけ無駄だから、もう何も言いたくない。

それは、ポケモンに対して思ったことだったのか、それとも――――


「とにかく、根元の野郎が怪しいのは間違いないんですね。さっさとシッポ掴んで影踏んで、黒い目で見てやってくださいよ」
「わかってるけど……森田さん荒れてない? 安全運転で頼むよ、ホント……」

赤信号が青になるなり、アクセルを強く踏んだ森田にミツキが若干震えた声で言う。
猛スピードで動き出した車窓の向こう側、ヒトモシを抱き締めてとても楽しそうに駆けていく小さな少年の姿が流れていくのがちらりと見えて、悠斗は別段重くもない瞼を閉じた。





やや危ない運転を繰り広げた森田に送られて帰宅した後、悠斗は自分の部屋で一人、何をするでもなく座り込んでいた。腰掛けたベッドの上には手直ししたい曲の楽譜が散らばっているし、パソコンに表示されたテキストソフトはやるべきレポートの未完成ファイルを表示している。机に置かれた数冊の本は森田に借りたポケモンバトル専門書で、読み込んでおかなくてはならないとわかっているのに読む気になれなかった。何をやる気持ちにもなれず、それでいて寝てしまえるようなわけでもなく、ただ無意味に天井を見たりして時間だけが過ぎていく。
あまり気にしないで、今日はゆっくり休んでおいて。そう言った森田と、彼の携帯から抜け出てロトムの姿を表したミツキは気づいただろうか。もしも自分が浮かない顔をしていたのならそれは、根元に実質負けたからでも、駄目なバトルをしてしまったからでも、彼が犯人だろうとわかったからでもないことを。勿論、根元に勝てなかったことに悔しさはある。羽沢泰生として活動する手前、もっとまともなバトルをしなければと自分を責めてもいる。黒幕の可能性が大きい根元に、恐怖と憤怒と憎悪を感じざるを得ないのも本当だ。

だけど、今はそれよりも、別のことが悠斗の頭を占めていた。
バトルの最中、蘇ったあの記憶。忘れるはずはない、いつだって自分の行動指針に根差すものとして、常に自分を突き動かしている一因であるのは間違い無い。でも、見たくないから目を逸らし続けて、見えないふりをしていたのも確かである。見ないように感じないように、地雷を避けて通るかのごとく、悠斗はあの日の記憶をしまい込んでいたのだ。
それなのに、無理矢理引き上げられるようにして、(ミツキ曰く『呪い』によって)あの記憶が意識の外側へと戻ってきてしまった。これが事実なんだと叩きつけるように、抗えない過去なのだと断言するように、悠斗の意識に張り付いて離れない。考えたいわけでもないのに頭が勝手にそのことを思い、悠斗の行動を奪っていた。

ポケモンが嫌い。
泰生が憎い。
そう思い続けてきた自分と、あの日を境に立ち止まったままの自分と、向き合いそうになってしまう。


「おい、悠斗」


間が悪いことに、ドアを開けて部屋に入ってきたのは泰生だった。「ノックくらいしろよ」親に言うにはごく当たり前のそのセリフを口にしてから、悠斗は自分がそれを初めて泰生に言ったということに気がつく。何しろ今の今まで、泰生が自室を訪ねてくることなど一度も無かったのだ。それを認識したことで、悠斗の苛立ちはますます募る。
そんなことは露知らず、泰生は一人で喋りだす。「ミタマ達のことだが、あんなケアでは駄目だ、もっと丁寧に……」それは先程、悠斗が帰宅後にシャンデラ達に施したケアのことを言っているらしい。バトルで負った怪我は、応急処置くらいならポケモンセンターでやってくれるものの、軽度なものや長期的なものはトレーナー自身が担うか、センターではない個別の病院や診療所に頼むのが一般的である。羽沢家では地下の一室をポケモンの部屋として割り振っており、泰生は今しがたそこに行ってシャンデラらの様子を見てきたようだ。
「お前が怪我したとき、あんな雑にされたら嫌だろう。薬や湿布も使い分けて、もっと細かく見て……」泰生の言葉に、悠斗は適当な頷きを返す。見た目が悠斗である今の泰生がケアをするわけにはいかない以上、それは悠斗の役目だとは悠斗自身も自覚している。泰生と話すのは気乗りしないが、言っていることはもっともだからと悠斗は嫌々ながらも聞くことにした。黙って聞いておけばいずれ終わる、今の自分のすべきことはそれだけなのだから、と思ったのである。

そのはずだった、のだが。


「……だから心配なんだ、ポケモンに慣れてないお前に世話をさせるのは、ポケモンのことをわかってないような素人に……」



本気で、頭にきた。

泰生の発言に、悠斗の瞳孔が大きくなる。頭の中が急速に冷え切ったように感じられた。自分の心臓が脈打つ速度を上げているのに、同じ胸の中はどんどん冷静になっていくようだった。喉の奥から口の中へ、不味い何かがせり上がってくる。
「…………お前は、」そう言った声が驚くほどにはっきりしていた。


「じゃあ、お前は! お前は、何がわかってるっていうんだよ!?」


それは悠斗が今まで、ずっと抑えつけてきた気持ちだった。

いや、抑えつけていたわけではないかもしれない。暗に示してはいた。あの日を境にポケモンに近づかず、泰生と口を聞くことすらやめた。十歳の誕生日を迎えても旅になんか行かなかったし、ポケモンだってもらわなかった。それどころか、学校で取得させられたトレーナー免許を自力で役所に返還したくらいだ。少しでもポケモンと関わらないような生活を選び、ポケモンの要素が無い音楽に浸かり、ポケモンからもトレーナーからも自分を遠ざけるようにし続けた。これがお前の息子なんだ、お前が引き起こした結果がこの有様なんだと、そう、見せつけるように。

しかし、直接言ったことは一度も無かった。言う気がしなかった? 言っても無駄だと思った? 口を聞くのも嫌だった? それとも、別の理由?わからない。いずれにしても、悠斗は今まで一度だって、泰生本人にこんな気持ちを打ち明けたことは無かったのだ。


「お前がポケモンのことをわかってるってのはわかる! 嫌なくらいわかってるよ! でも、お前はポケモンばっかりなんだ、ポケモンのことわかっても、お前は人間のこと何もわかってないんだよ!」


悠斗の声が、廊下を伝って家の中に響き渡る。二階にいる彼らの声を聞き、階下のドアから真琴が姿を現した。険悪な雰囲気をいち早く感じ取った彼女は階段に足をかけたが、悠斗の叫びによってその歩を止める。
「いつもそうだ、昔からそうなんだ……」拳を握り締め、悠斗は呼吸を荒くする。「ポケモン、ポケモンってそれだけで……他のことは何一つ、なんにも考えてねぇんだもんな!」


「ポケモンの気持ちがわかるってなら、その十分の一でも百分の一でもいいから、人の気持ちも考えてみろよ! 人間のことも! まあ、無理だろうけどな、お前には一生、出来るわけないんだ!!」


違う。そんなことはない。悠斗の心の中で、そんな声が響き渡る。

森田に聞いた、八年前の泰生。彼は何のために前の事務所をやめたって? 相生がどうして今もポケモンバトルを続けてるんだって? 森田が泰生のことを、どう思ってるんだって?
考えろ。思いとどまれ。それ以上言うな。声は必死に叫び声をあげ、悠斗を止めようと啼き続ける。しかし、いったん蓋を開けてしまった瓶の中身を戻すことは出来ないのと同じで、いちど口をついて出てしまった言葉の波は、もはや絶ちようの無いものなのだ。

「そうやって、ポケモンのことしか考えられないなら、」血の昇った頭で、自分が何を言ってるのかもわからず悠斗は言う。「いつまでも変わんないで、ポケモンと生きてくって言うんなら、」何を言うでもなく、ただただ黙って聞いている、無表情の泰生に向かって。「俺は、お前を、」


「一生理解なんか出来やしない! お前のことなんかわかんねぇし、どうせお前だって俺のこと何もわかれないんだよ! ずっと思ってた、お前見てると気持ち悪いんだ! ポケモンもそうだ、全部全部、キモいし怖いし嫌なんだよ! わけわかんない、意味不明すぎ、絶対理解出来ないししたくないって、ずっと思ってたんだよ!」

「……………………」

「お前がポケモンといたいってのはどうでもいい、俺には関係無い。でも、俺に関わるな! 理解出来ない伝わらないわからない話聞かないそんな奴らなんか一緒にいたくねぇんだよ!」


滅茶苦茶だ。何もかも。
心の中の自分が、真っ暗な闇の中でそう、へたり込んだ。

あの日の俺が言いたかったのは、そんなことでは無いだろうに。



それでも、言葉は少しも止まってくれなかった。
「お前なんか、」黙ったままの泰生の瞳を睨みつけ、悠斗は唸る。そこに映った自分の姿が泰生の形をしていることがあまりにも呪わしくてあまりにも腹立たしくて、そして、あまりにも悲しかった。「お前なんか」



「ポケモンのことしかわからないお前なんか、旅でもなんでもどこにでも行って、ポケモンとだけ生きていればいいんだよ!!」




「悠斗」


そこで、割り込んできた声があった。
真琴だった。

「悠斗、もうやめなさい」

一段ずつ階段を上りながら、静かにそう言った真琴は泰生から悠斗を引き離し、二人の間に距離を作る。「これ以上はやめて」
泰生は黙りこくったまま突っ立っているし、真琴はそれ以上何も言わない。悠斗はどうして良いかわからず、二人の親の顔を交互に見遣り、成り行きを見守る他無かった。悠斗にとって、息苦しいほど気まずい沈黙が三人を包み込む。
そんな時、泰生のポケットの中で携帯の着信音が鳴り響いた。出かけた時のまま持っていたものだから、実際は悠斗の携帯である。こんなタイミングで、その場にいた三人全員がそう思ったが、「はい」泰生が応答のアイコンをタップして電話に出る。

「ああ、……そうだが……ん、そうか……ああ、わかった」

「今そっちに向かう」そう言って電話を切った泰生は、先程と変わらぬ仏頂面のまま「少し出かけてくる」と悠斗達に告げた。

「お前のバンドの、二ノ宮……って奴に呼ばれた。何か話があるらしい、すぐそこのファミレスにいるから、と」
「は!? この流れで、しかもお前がそんな、……何あったんだよ今日学校で!」
「呼ばれたものは行くべきだろう、お前なら行ってるに違いないんだから、今の俺は行かなきゃいけない。真琴、十二時までには戻る」

狼狽と怒りが入り混じった声で騒ぐ悠斗を他所に、一人で話を進める泰生は壁にかかっていた上着を羽織り、階段を降りていってしまう。身勝手な足早さで玄関に向かった彼は、じゃあ行ってくる、と言い残して外に出た。
家の中に取り残された悠斗と真琴は、泰生が閉めた扉を眺めて呆然と立ち尽くす。奇妙な沈黙がしばらく二人を取り囲んでいたが、「なんだよ、本当」悠斗がやがてそれを破った。「どんだけ自分勝手なんだよ」語気が荒いくせに、どうしようもないほど掠れた声で、悠斗はいなくなってしまった泰生に悪態を吐く。「マジで、意味、わかんねぇ……」


「…………ごめんね」


それに言葉を返したのは、悠斗の言葉を黙って聞いていた真琴だった。予想外かつ望まない謝罪に、「母さんのせいじゃないよ」悠斗は慌てて否定する。母さんが悪いってわけじゃないから、と取り繕ったように笑った悠斗に、真琴は静かに首を横に振った。

「そうじゃなくて、悠斗と……いうも悠斗の味方みたいなことを言っときながら、悠斗と、あの人の……どっちの味方でもいたいって思うこと。悠斗も、泰生も」

どっちも選べなくて、ごめんね。
そう言った真琴に、悠斗は苦笑したまま手を振ってみせる。「そんなの、選ぶとかさ」軽い調子で悠斗が言う。「比べるもんじゃないでしょ、そういうのって」
しかし真琴は「ううん」尚も首を振り、丸い形をした目を伏せた。「そうじゃなくて」


「さっきみたいに、もしも悠斗と泰生、どっちかにつかないといけないってなったら……私はきっと、泰生を選んでしまうから」


それでも悠斗の母親を名乗る、私はずるくて、ごめん。きっぱりと言い切った真琴に、悠斗は返す言葉を無くす。
二人が立っている階段の下、地下室の扉の隙間からはシャンデラ達三匹がいつの間にか顔を覗かせていた。階上の騒ぎを聞きつけたのか、何事かと心配するような表情をそれぞれ浮かべて悠斗達を見上げている。それに「大丈夫よ」と手を振ってから、真琴は悠斗の目へと視線を戻した。


「ずっと昔、約束したの」

「え?」

「私は、何があってもあんたのことを離さないって」


真琴が実年齢よりも若く見えるのは元々のことであるが、そう言って少し、切なげな微笑みを浮かべた彼女はいつも以上に歳若い風に思えてならなかった。それこそ、『ずっと昔』、今の悠斗の姿たる羽沢泰生と出会った頃の彼女のように。
「絶対に破らないから、いつもあんたの味方だから、って」懐かしむような、慈しむような、それでいて哀しむような声で真琴が言う。「そう、約束したのよ」


「旅をするしか道のない、帰る場所がなかった頃の、あの人に」


  [No.1427] 第十話「恍然大悟」 投稿者:GPS   投稿日:2015/11/30(Mon) 18:57:52   29clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

「私は昔、カイナのポケモンセンターで働いてて……あの人とは、そこで出会ったの」


悠斗が生まれるよりもずっと前のこと。
ポケモンセンターのジョーイさんの一人として働いていた真琴は、旅の途中でカイナを訪れた泰生と出会った。当時の泰生はまだ若かったが、すでにポケモントレーナーの才覚を十分に発揮しており、バトルに通じている者達の間でちらほら名前が挙がるようにもなっていたほどである。そんな彼がカイナにしばらく滞在することになったのも、その腕に目をつけたカイナ民達が、来月開催されるバトルフェスに是非とも参加してくれないかと頼み込んだからだった。
真琴が泰生を初めて見たとき、彼女は彼にどうしようもないほどの鋭さを感じ取った。それは真琴が職務上の会話を泰生と交わすようになり、少しずつ世間話や他の話題を持ちかけるようになり、フェスが終わった後も泰生を説き伏せてその隣を歩くことを決意し――やがて結婚に至ったときにまで変わらなかった。泰生は強く、頑固で、決して曲がることのない信念を持ち合わせていたが、しかしその剥き出しの信念は、時にとても脆いものであるかのように思えてならなかった。

『抜き身の刀』。真琴は、それが泰生にぴったりの言葉だと思った。鋭くて、強いけれど、それを納めるところが無い。だからいつでも、刃を他者に向け続け、自分を守っていく他無いのだと。


「でもね、その理由はわからなかったの……実力があるせいで、金目当ての人に利用されたり、妬まれたり、疎まれたりしてひどいことをされたり言われたりして、そうなったトレーナーなら沢山いるけれど」

勿論、泰生にもそういった一因はあった。
旅の途中、彼が強くなればなるほどに、彼の力を賞賛する者の数と反比例するようにして彼を呪う者も増えていたし、彼を自分の都合の良いように使ってやろうとする輩もいた。心無い言葉を投げる者も際限なく存在したし、嫌がらせや誹謗中傷の類も数え切れないほどあっただろう。それらが、泰生の厭世や人間不信に繋がったのは確かだ。
しかしそれだけではない。というよりも、泰生にはそういった、怒涛のような負の感情に対して少しも屈することが無かったのだが、それほどまでに彼が強くなってしまったのは果たして喜ばしいことなのだろうか、と真琴は常々思うようになっていた。精神力の強さというものはトレーナーとして、ある意味バトルの腕前以上に必要だと言えるけれど、泰生のそれは年齢の割に激しすぎていたのだ。何を言われても、どんなことをされてもビクともしない、自分を疎む者のことなど歯牙にもかけずにただひたすら前だけに進む泰生は、一見すれば最高のヒーローであるように思える反面、ひどく切ない姿をしていた。

真琴はずっと、そのことが気になっていたが聞くにも聞けず、タイミングを見計らうばかりの日々が続いていた。が、あるとき、それはとうとう真琴の知るところとなる。

「結婚することになったときに……あの人が、自分から、話してもいいか、って言ってきたの」





『俺は、どこにも帰れない人間だ』
そう切り出された、泰生の口から語られるその話は、彼の強さの所以となった、絶対に果てることのない深い闇のような話だった。


泰生の父親は、冒険家だった。
バトルはかなりの腕前で、各地を回っては多くの勝利を収めて栄光を受けていたトレーナーだった。それ故家にいることは少なかったが、たまに帰ってきては旅の話をしてくれて、強くてかっこいいポケモン達も一緒に遊んでくれる父のことが、泰生は大好きだった。
彼はいつも、泰生にバトルを教えてくれて、そしてその時には必ずこう言うのだ。

『ポケモンリーグっていう、一番バトルが強くて、一番素敵なトレーナーを決めるお祭りがあるんだ』

『リーグに出るといつだって、すごい楽しくて、ドキドキして、このために生きてる、って思うんだよ』


『なぁ、泰生。お前が大きくなったら、あのコートで、俺と闘ってくれよな』


しかし、それが実現するよりもずっと前、泰生のトレーナー免許取得すら待たずして、彼は命を落とすことになる。
旅先での事故だった。急な天候の変化により山の中で迷う羽目になり、重い疲労の蓄積で判断能力が鈍ったところで崖から転落したということだった。
不幸中の幸いと呼ぶべきか、彼のポケモンが入ったボールだけは無事であり、救助隊によって後日ポケモン共々彼の家に帰された。遺された泰生と、母親にとって唯一父親の影を感じられるのがそのポケモン達で、泰生はもういない父に代わって、彼らの世話を懸命に見ていた。母子二人は際限の無い哀しみに暮れていたが、父の愛情を受けて育ったポケモンと共に過ごすことによって、少しずつそれは薄れていったように思えた。
そしてやがて訪れた、泰生の十回目の誕生日。コガネシティにある近くの池で出会ったルリリを連れて旅に発った泰生を、今は亡き父のポケモン達と、彼のただ一人の母親は、笑顔で見送っていた。

泰生には父親譲りの、バトルの才能があった。それは旅を初めてすぐに顕著になり、彼は順調に腕を磨き、力を増し、その証であるバッジを集めていった。
ジョウト地方を歩き続け、その数が六に達した時のこと。十五になった泰生は、一度家に帰ることにした。特別な意味は無かった。ただ、タンバに行くためにコガネの近くを通るからということと、数年前に母から再婚したという報せがあったがその相手に挨拶をまだ出来ていなかったこと、というそれだけの理由だった。
久しぶりに足を踏み入れた、うるさいほどの騒がしさと眩しすぎるほどの賑わしさを通って家への道を行く泰生は、他の町にはない喧噪に懐かしさを感じてもいた。暮れかけた空の下、夜に向かう街並みが派手派手しいネオンに満ちていく中、ゲームコーナーの窓ガラスから外を覗いている商品のケーシィやミニリュウに視線を向けながら、彼は家がある住宅地へと急ぐ。

「泰ちゃんやないの! もう、ずっと帰って来へんから、母ちゃん心配しよっとったで!」

自宅のすぐ近くまで来たところで、泰生に大きな声をかける者がいた。「よーこちゃん」泰生は笑顔で振り向き、近所に住んでいる三つほど上の少女に返す。「しゃーないわ、俺やてずぅっと忙しかったんやもん。バトルも、旅も、みんな楽しゅうて」ジョウトの言葉で、泰生は朗らかに笑って言った。「せやから、遅くなってもうた。やっと父ちゃんに挨拶出来るわ」
送ってったる、という少女と久々の会話を交わしつつ、泰生は家を眼前にする。「ああ、ひっさしぶりや……」が、そこで泰生の、明るく喋っていた声が消えていった。なした? 少女が不思議そうに首を捻る。

「なぁ、よーこちゃん」

五年ぶりに見た家は、何も変わっていないように思えた。外見も庭の様子もそこに生えたキーの木もそのままだ。
だけど、泰生にとっては大きな違いがあった。旅立つ前、いつも庭にいた父のポケモン達。「ルイはどないしたん」自分を軽々抱き上げる、頼もしいカイリューの名前を呼ぶ。「ハヤブサはどこ行きおったんや」大人になったら背中に乗せてくれると約束した、ウォーグルの名前を呼ぶ。「ミライは、キースケは、マリマリは、チュータは」いるはずなのにそこにいない、影も形も見せない父のポケモン、彼にとっての大切な存在の名前を。「みんな、どこにいるん?」


「はぁ? 泰ちゃん何言っとるん、母ちゃんから聞いてないんか? 赤ちゃん生まれるっちゅーて、みんな施設に引き取ってもろたねん」


「あ?」


「へ…………? あ、なんや……? …………聞いてたん、違う……?」


全く予想だにしていなかった、少女の言葉に泰生は耳を疑った。
自分がまずいことを言ったのだと気づいたらしい少女が、「いやな、違くて」と顔を青くする。「施設ちゅーても保健所とかやなくて、もっと別な、そう聞いとるし」彼女は慌てて言葉を取り繕ったが、泰生には届いていないようだった。彼はただ、自分の家をじっと見つめて、本格的に暗くなってきた道に立ち竦んでいた。

「よーこちゃん。俺、行くわ」

「え!? ちょ、泰ちゃ……」

少しの沈黙の後、泰生の口から発されたその言葉に少女は狼狽える。日焼け気味の、健康的な色をした手が反射で泰生に伸ばされる。
しかしもう、泰生は家に背を向けて歩き出していた。その背中を追いかけることも足を動かすことも出来ず、ただ漠然と何かを感じ取った少女は「泰ちゃん」ともう一度名前を呼ぶ。
そんな少女をくるりと振り返り、泰生は少しだけ笑顔を浮かべ、「母ちゃんに、……」言い淀んで、こう告げた。


「母さんには、言わないでおいてください」




ポケモン達がいなくなった庭。窓の向こう側に見えるベビーベッド。遊び場だった車庫に停まるのは、家族用のワンボックスカー。漏れる光に浮かび上がる、二人の男女が小さな赤ん坊を抱き上げているシルエット。
うっすらと聞こえてくる楽しげな話し声には、ポケモンのそれなど混ざらない。



ああ、母は今度は、いなくならない人を選んだのだ。



泰生が一番に思ったのは、そんなことだった。


そして母の世界に、父はもはやいないのだ。


次に思ったのは、そんなことだった。
だから父の面影が残るポケモン達はいなくなって、今の彼女はきっと幸せで、あの家の中はきっとと終わることの無い幸福に満ちていて、あの時自分がいたような空気はもう流れていなくて、素敵な時間がそこにはあって…………。
色んな考えがめまぐるしく頭を駆け巡った末、彼は最後にこう思った。

もう、あそこには帰れない。
父の面影を残した自分は、あの家に帰ることが出来ないんだ。


少女はもう、それ以上追いかけてはこなかった。出来なかったのだろう、言葉だけでなく、あの瞬間に顔つきまでもが変わったような泰生のことを追いかけるのは。
そして泰生はコガネシティを後にし、ジョウトから外へと出ていった。他の地方でさらに多くの勝ち星を挙げて、その実力をより確かなものにして、たくさんの人の羨望を浴びてそれと同じだけの憎悪を向けられて、それでも尚――――彼は、一度も振り返らなかった。一度たりとも、足を止めてうつむくことなどしなかった。
それは彼がどれだけ名声を手にするようになっても変わらなくて、真琴と出会ってからもずっと、同じだった。泰生は何があっても前を向くことをやめなかったし、誰かの手を借りて自分を支えるということもしなかった。世界の全てに背を向けたように、彼は人間の言葉に耳を傾けるのをやめて、まるでその分を埋めるようにしてポケモン達との絆を深め、ポケモンと信じ合うことでさらに強さを増していった。


それが、羽沢泰生という人間だった。
自分の帰るべき場所がその姿を変えてしまってから、彼はいつも、そうやって生きてきたのだ。




「そんな、泰生の家に行こうって言い出したのは私なの。悠斗も生まれるから、報告くらいはしなきゃいけないから、って言って……本当は、それよりも、泰生が帰れなくなった家に『この人の居場所はもう私が作るから!』って、見せつけたかったって方が大きかったけど……」


どちらにせよ、真琴はその選択をしてしまったことを、ずっと悔やみ続けることになる。
帰郷を渋りながらも、お前がそういうんならと根負けしたように言った泰生を連れ、二人はよく晴れた冬空の下、ジョウト地方を訪れた。真琴にとっては初めてのジョウトで、電車の窓から見える景色などに歓声をあげる彼女と、それを「うるさい」などと言い捨てつつも止めない泰生は、確かに穏やかな幸福に包まれていたといえよう。泰生がその時何を考えていたのかは定かではないが、あれ以来彼がずっと足を踏み入れていなかったジョウトの地を、少なくともごく当たり前のように歩いていたのだから。
そうして寒風の吹きすさぶ中を抜け、ようやくコガネシティの一角、彼の実家がある場所に二人は辿り着く。泰生の家族に何と言ってやろうか、などと意気込んでいた真琴は、そこで――――自分の目を疑った。

いや、……『あった』場所、と言った方が正しいのかもしれない。
そこには家など、家どころか物と呼べるものは何も無くて、雑に均された土が地面を覆うだけの土地と化していた。気の抜けた緑をした雑草に埋もれるようにして立っている『売地』の看板は所々が煤けて汚れていて、此処がこうなってから結構な時間が経過していることを如実に表している。

「ああ、その家なぁ」

近所の住民と思しき老人が、無言で立ち尽くす二人を見かねたのか声をかけてきた。散歩帰りだろうか、クルマユを両手で抱きかかえるようにしているその男は、「気の毒になぁ」と声と顔を翳らせた。


「私も越してきた身分だから深くは知らないんだが、五年くらい前かな、ポケモン連れた強盗に遭ったって……ご家族みんな家にいたらしくて、みんな…………、」


「…………………………」


「家も、もうまともに住める有様じゃ無いからって、旦那さんのご家族のご意向で、……ただ、やっぱりなぁ、こういうことがあるとなかなか買い手も……犯人もまだ捕まってないみたいだし、本当にやりきれないだろうなぁ」


「もしかしてお知り合いか、そうだったら……」口を噤んだ老人の言葉に返事をする余裕は真琴に無い。頭の中が真っ白になったようで、胸の鼓動が他人の物のようにやたらめったらに早まっていた。どういうことなんだ、何が起きたんだ。理解能力がキャパシティの限界を訴える。
その中で唯一はっきりと思ったのが、隣にいる、泰生のことだった。彼は今、何を考えているんだ? これを前にして、何を思ってるんだ? 出来ることならば彼を、今すぐに、この場から引き剥がしてしまいたい。その目を抉ってこれ以上、こんな世界を見ないでいいようにしたい。強く殴れば全て忘れられるのか? 馬鹿げた、しかし真剣に、そんな考えが頭をよぎっては流れていく。

「一瞬だった、と聞いたよ」老人がまた喋る。泰生の顔はうかがい知れない。やめて。それ以上もう、何も言わないでください。彼の耳にそれ以上、くだらぬことを吹き込まないでください。そんな思いが喉の奥だけで渦巻く真琴が何も言えないままでいて、「本当に、なぁ」老人は最後の言葉を口にした。



「せめて、ポケモンがいれば助かったかもしれないのに……」



真琴はそこで、ようやく事態を理解した。

泰生はまた、自分の帰る場所を失ったのだ。
一度目は、精神的な意味合いで。
そして今度は、言葉通りの意味合いで。

泰生自身が真琴にそう語った通り、彼はもう、どこにも帰ることが出来ないのだ。


それもこれ以上無いほどに、皮肉な経緯によって。
真琴が何一つも言えないでいる間、泰生はただただ冷静で、老人と二言三言を交わして彼を見送っていた。その彼が、真琴の頭のあたりにあるその胸で、何を感じているのか真琴には計り知れようもなかった。
足を震わせることすら出来ず、突っ立ったままの真琴の肩を泰生が叩く。「おい」無愛想な声は普段の泰生と少しも変わらない、まるで何事も無かったかのようなものだった。




「行くぞ。いつまでも外にいたら風邪をひく」


泰生はそれだけ言って、荒地としか呼べないそこに背を向けた。
「昔よく行った飯屋がある。コガネ焼きが美味いんだ」飾らない言葉も素っ気ない態度も無表情も広い背中もいつも通りで、いつも通りの泰生だったが、真琴は、確かに、


「早く行こう、真琴」


彼の心臓のどこか一部分が、握り潰される音を聞いたのだ。








「その後も何度か、旅に行きたいなら行った方がいいって私は言ったの。家のことなら大丈夫だし、悠斗は私が育てるから心配しないで、って。そりゃあ寂しいけど、それならたまに帰ってきてくれれば、私はいつでも待ってるから、それでいいから、って……すでに大きなものを失ってた泰生に、これ以上、何かを我慢したり耐えたりしてもらいたくなかったから。これから先、あの人にはもう、何も無くしてほしくなかったから」

「………………」

「でも、一度も。泰生は一回も、そうしなかった。そうしたいとも、言わなかった。だから私は、泰生を絶対に、……」


真琴は、そこで我に返ったように言葉を切った。上気した頬を片手で押さえ、彼女は「ごめん」と小さな声で呟くように言う。「こんなこと、言って」
お風呂沸かしてくるわね、と階段を降りていった真琴に、悠斗は何も答えなかった。
ただ、先程自分が泰生に言ってしまったことと――――彼がどうして家にいるのか、本当であればしたいであろうはずの、ポケモンとずっと一緒にいられてポケモンのことをより考えていられる旅に、なんで行かないのかということを考える他、無かった。





「あ、羽沢! こっちこっち」

同時刻――電話で言われた通りのファミレスに到着した泰生が、ガラス戸を開けて入店してきたのを見つけた二ノ宮が手を振って示す。夜の十時過ぎ、居酒屋に行くまでの金が無い学生や仕事帰りの会社員などでそこそこ賑わう店内でも、アフロの二ノ宮は見つけやすい。先に店にいたらしい彼に片手を上げ返し、「いらっしゃいませ一名様ですかー?」「いえ、あのテーブルに」出迎えた店員にそういった泰生は、二ノ宮の元へと歩き出した。かしこまりましたー、と明るい営業ボイスで一礼した店員は、オレンジのミニスカートの裾を翻してバックヤードへ引っ込んでいく。

「…………いや、俺さ。考え事とかすると腹減っちゃう体質なんだ」

泰生がテーブルに着くなり、二ノ宮が言い訳がましい声を出す。「いや、まだ何も言ってない」大真面目にそう返しつつ、泰生は彼の前に並べられた皿の数々を一瞥した。人気ナンバーワンメニューのハンバーグカレー、山盛りフライドポテト、期間限定シャラ風ピラフ……。「まあ俺がめっちゃ食うのはいつものことだけどさ」別に言わなくても良いことを言いながら、顔を少し赤くした二ノ宮は、テーブルに据えられたメニューを取る。
「呼びつけたの俺だし、好きなの頼んでよ」サラダを頬張りながら二ノ宮が言う。メニューを受け取った泰生はぱらぱらと一通りめくってはみたが、「ドリンクバー」とだけ希望を述べた。夕飯は食べていたため腹は減ってない。最後のページ、デザートコーナーのメインを飾っている『秋季限定マスターランクホズサンデー』とかいうメニューが気にならなかったといえば嘘になるが、今の腹の空き具合で完食出来る自信はなかったし、何よりそんな気分じゃなかった。

「それだけ? 悪いな、……こんな時間だもんな。マジごめん、こんな遅く」
「そういうわけじゃない。気にするな」

スプーンを握ったまま、しょげたような顔になる二ノ宮にそう言って、泰生は脱いだ上着を空いた座席に置く。注文を取りにきた店員と「ドリンクバー」「ただいまカロスフェア開催中でしてオススメが」「ドリンクバー」「かしこまりましたー! コーナーはあちらになりますー!」会話をした後、泰生は二ノ宮へと向き直った。「で、どうしたっていうんだ」
問われた二ノ宮は、動かしていたフォークを皿へと戻す。ごくん、とハンバーグを飲み込んだ彼は一度水を口に含み、泰生に目線を合わせてはっきり答えた。

「わかってると思うけど。センパイのこと」

『センパイ』、つまり有原についての用件だということは、流石の泰生も予想がついていた。「そうか」軽く頷き、泰生は先を促す。「で、有原がどうかしたのか」

「いや、どうかしたっていうか、まぁ今日のことなんだけどさ。あの、今日のセンパイのこと。もし、羽沢がなんか、嫌な思いしてたら悪いんだけど。俺が謝るのも変な話だけど」

ぽつぽつと喋り出した二ノ宮の前置きを、泰生は「いや、そんなことはない」と否定する。仕方ないとはいえ黙っていた自分にも責任があるし、嫌な思いならば恐らく自分もさせていただろう。「俺の方こそ、悪かったと思う」素直にそう言うと、二ノ宮はほっとした顔になった。
ううん、俺も何も出来なくてごめん、と彼は申し訳無さそうに笑う。

「でも、そりゃあ俺なんかが言わなくたって羽沢は、それに富田も、わかってるだろうけど……あのさ、センパイは、センパイも本当は、あんなこと言いたいわけじゃないんだ」
「ああ。それはわかる」

そのことは何となく、富田と揉めたときの有原の様子から察していた泰生は頷いた。富田の言葉もあったし、彼がただ悪意や衝動、苛立ちだけであのセリフを吐いていたとは思いがたかった。
泰生の返事を聞き、二ノ宮は僅かに表情の緊張を解く。「よかった」口角を少しだけ緩め、彼は「羽沢に話すことにしてよかった」と繰り返した。

「いつかは羽沢たちに、このこと話さないといけないのかなって思ってたんだけど、なかなかタイミング掴めなくて。……でも、富田も、わざとじゃないんだろうけど、知っちゃったっぽいし。俺たち、これからも長くやってく気がしてるし、そうなりたいって思うし」

話すって何を、目でそう尋ねた泰生の疑問に応えるように「センパイなんだけどさ」と二ノ宮が切り出す。
が、切り出すだけ切り出しておいて、そこから先がどうにも出てこないらしい。最初にそれだけ言って押し黙ってしまった彼は、しばらく考え込むようにうつむいた。二ノ宮と泰生の間にある、カロス風ピラフが香ばしい薫りを漂わせる。
「いや、どの順番で話せばいいかわかんなくて」困ったように指先で頬などを掻く二ノ宮が、視線をテーブルの上にさまよわせた。「俺が実際あったこととか、センパイ本人に聞いたこととか、他の人から聞いたこととか混ざってて、悪いんだけど」


「俺さ。センパイは高校で俺と知り合ったって言ってるんだけど、ホントはもっと前にセンパイと会ってるんだよ」


センパイは忘れてるみたいだけどな。
そう前置きして、二ノ宮はようやく話し出す。

「小学校に入ってすぐの頃だったかな、トレーナーズスクールみたいなとこ。ソノオのちっちゃい教室だから全員顔見知りみたいなものでさ、年齢とかレベルとか一応分かれてるんだけど、普通にみんな知ってるっていうか」

当時、八歳だった二ノ宮は生まれつき身体があまり丈夫な方ではなかった。今でこそ毎日元気に過ごしてはいるものの、幼少期はことあるごとに熱を出したり炎症を起こしたり体調を崩したりと、色々と大変な日々を送ってきたのである。
そんな彼に十分な体力があるはずもなく、健康促進のためにと両親が入れたトレーナーズスクールでもしょっちゅう具合を悪くしていたし、満足なバトルが出来ない状況だった。なにせ、ナエトルに触れれば植物アレルギーを起こしてくしゃみを連発し、ヒコザルをだっこすれば人一倍弱い皮膚を火傷させ、ポッチャマと遊べば濡れて風邪をひくという有様である。バトルどころか、ポケモンとロクに接することの出来ない子どもだったのだ。
通っていた他の子に比べ、ずいぶん遅れをとっていた二ノ宮はいまいち溶け込むことが出来なかった。それを理由に排斥されたりということは無かったが、事あるごとに欠席し、一緒に遊ぶということも無い彼と他の子どもの間には常に一定の壁があったように思われる。そのことは二ノ宮の負い目、なぜ自分は他の子のように元気にポケモンと遊んだりバトルをしたり出来ないのか、というものに繋がっていた。

「そんなとき、助けてくれてたのがセンパイだったんだよ。一個上で、センパイはスクールで一番強くて優しくて、みんなに人気で、俺のこともいつも助けてくれたんだ。ポケモンと一緒にいるの手伝ってくれたり、バトル教えてくれたり。結局俺は旅に行けなかったし、自分だけのポケモン持つってことも未だにないんだけど、でも、それでもいいって教えてくれたのはセンパイなんだ」
「ふうん」
「ほら、トレーナーズスクールって『強い奴が正義!』ってとこあるじゃん? だから、俺、ちっちゃいながらも形見狭かったんだよね。バトルどころか俺が弱いじゃん、ってさ。でも、センパイはいつもそれを違うって言ってくれてさ、『二ノ宮はポケモンに優しいじゃん、二ノ宮といるとポケモン安心してるもん、こいつらリラックスすんの二ノ宮だけだよ』って。だからさ、別に、バトルが全部じゃないんだって思えたんだよね」

それはやがて、有原がスクールを出て旅に出た後の二ノ宮が『ポケモンバトル以外のこともやってみたい』と、自分に出来ることを探すきっかけとなり、音楽教室に通い、ドラムの才を芽生えさせることにも繋がった。
「だからさぁ」それはこうして、今、彼がキドアイラクのメンバーとして泰生と顔を合わせている要因でもある。「センパイが旅に行っちゃった時はすっげぇ悲しかったし」懐かしむような口調で、二ノ宮は言った。「高校でまた会えたときは、めっちゃ嬉しかったんだよな」

「部活で、コンバスとベース兼任してたセンパイは俺のこと覚えてないっぽかったけど。でも俺のドラム褒めてくれたんだ。嬉しかったな。今ドラムやってんの昔、センパイがああ言ってくれたからなんですとか、恥ずくて言えなかったけど。でも嬉しかった」

ところどころで相槌を打ちながら、泰生は二ノ宮の話を聞いていたが「待ってくれ」とそこで声を発した。「お前が、有原を昔から知ってたってのはわかった。が、それがどうして今日のことに繋がるんだ」
「それは……」問われた二ノ宮は一瞬、明らかに口ごもった。が、すこしの逡巡の後、彼は覚悟を決めた風に話を再開する。


「センパイの家って、センパイが中学生の頃、バラバラになってるんだ」


俺もこれは後から別の人に聞いたんだけど、と言い添えてから二ノ宮は話し出す。

「センパイの家、父親が元アクア団で母親が元マグマ団っていう家なんだけど。あ、これはセンパイ本人に聞いたことで、結婚当初も駆け落ち同然だったらしくて、あとああいう組織ってあんま印象悪いこと多いから、前から色々大変だったらしいんだよ。それでもセンパイが小さい頃は、大変ながらもみんなで楽しくやってたみたいだし、多分そうだと俺も思うんだけど」

「でもさ、」二ノ宮は顔を曇らせる。

「何があったのかまでは詳しく知らないけど、なんかお父さんの仕事のこととか色々あって、センパイが旅に出てる間にご両親がすごい揉めたらしいんだ。センパイは弟がいて、その弟は家に居たんだけど、弟からそのこと聞いて、旅をやめて帰ってきてどうにかしようとしたらしいんだけど、結局、出来なかったみたいで……」

今はセンパイとお父さんが一緒に、弟とお母さんが一緒に住んでるらしいんだ。センパイはそのこと、すごい後悔してるらしくて。
二ノ宮はそう続けて、「だからさ」と呟いた。


「センパイは、怖いんだと思う……いや、俺が思うんじゃなくて、実際言ってたんだ。酔ったとき、怖い、って」

「怖い? 何が」

「また、自分の場所が無くなるのが、だって。だから、今の居場所、キドアイラクとかをものすごく大事にしようとしてるんだ。だから時々ああやって、だからああいうこと言っちゃったりカッとなっちゃったりするんだけど、それはキドアイラクをすごい大切に、壊れないようにしてるから、っていうか……」


そこまで言って一度言葉を切り、二ノ宮は「だから」と泰生の瞳をまっすぐに見据える。「だから、センパイに言ってほしいんだ。そんな心配する必要無いって、大丈夫だから、って」両手を膝の上で握り締め、彼ははっきりとそう言った。

「……あいつのことは、わかった。お前の話を聞いて。でも、なんで俺なんだ?」

話を聞き終えて、泰生は表情を変えないままゆっくりと頷き、そして疑問を口にした。
え、と二ノ宮の表情が止まる。「もちろん、同じバンドのメンバーとして、俺だって出来る限りは努力するが」その二ノ宮に容赦することなく、泰生は続けた。「それは、羽沢がこういうこと向いてるっていうか羽沢が人のこと元気づけるの上手だからっていうか」「それだけで、そんな理由だけか」しどろもどろになり、言葉を並べる二ノ宮は目を伏せようとしたが、それを逃すことなく泰生は二ノ宮の目を見て問いを重ねる。「もしも、俺がそうだったとしても」


「お前じゃ、駄目なのか。有原のことをよく知ってるのは、俺よりもお前の方だろう? なんでそこで、お前じゃいけないんだ」


泰生の言葉に、二ノ宮は数秒、ぽかんと口を開けて固まっていた。
そのまま少しの沈黙があり、二人の間の空気が止まったようになる。それはしばらく続いていたが、やがて「そ、れは」二ノ宮の声によって遮られた。「だってさ、それは、」


「俺じゃだめなんだよ、センパイは」


「何故だ? 俺は、お前の方がずっといいと思うが」


「だって! だって、センパイは、俺にはわからないって言うから!!」


思わず大声を出した二ノ宮は、そう言ってからハッとしたように言葉を切った。慌てて周りをキョロキョロと見回してから、二ノ宮は「そうなんだよ」と声を落として再び喋り出す。


「センパイの言う通りなんだ。俺はわからないよ、センパイがどれだけ苦しいとか、辛いとか、嫌だと思ってるとか、俺にはなんもわかんねぇもん」

「………………」

「俺はさ、羽沢。自分で言うのもどうかと思うけど、超恵まれてるヤツだと思うよ。家族みんな元気で仲いいし、バトルとかコンテストとかやるわけじゃないけど家のポケモンもかわいいし、ドラムも勉強も学校も全部今のとこうまくいってるし。なにかすっごい苦労したってこともないし、特に困ってることもないし。身体が弱かったって、そう言っても別にそんな大げさなものじゃないし、髪型だけはどうにかならないかって思うけど、まあ、それは抜きにしてさ。センパイみたいに、挫折したわけじゃない。羽沢みたいに、家族と何かあったりポケモンに思うとこあるわけじゃない。富田みたいに、どうしようもない自分の問題と向き合わなきゃいけないわけじゃない。ただ、毎日楽しくて、ドラムやって、みんなと音楽やってるのが好きなだけの人間が、俺なんだ」


俺、何も辛いことないんだよ。苦しいことも、嫌なことも。そんな思い、今までしたことないんだよ。俺は幸せなんだよ。幸せでしか、ないんだよ。
泣き声にも似た口調でそんなことを言う二ノ宮は、本当に辛い思いをしてる人、あるいは彼のような才能などに恵まれなかった人にとっては、確かに嫌味に聞こえるものかもしれない。そうでなくとも、拭いきれない妬ましさや疎ましさに囚われてしまうものかもしれない。しかし、泰生は彼の声の奥にある、彼にとっての辛さや苦しさを見出したような気がした。

「そんな俺が、センパイに『大丈夫ッスよ』とか言ったって、無責任なバカでしかないじゃん。ぺらっぺらじゃん。俺みたいなヤツに言われても、多分むかつくだけなんだよ。実際そうだよ、さっきも言われたけど、こういうこと言うたびに、センパイ言うんだ、お前にはわからないよって」

「そしたら、意味無いじゃん。俺が言っても無意味じゃん」諦めた風な声で二ノ宮が言う。「だから羽沢がぴったりなんだ。そうでなくても、富田とか」泰生を見る彼の目は、幸福な人生を送ってきた証拠の輝きを宿しているのに、そのくせ、深い寂しさを持っていた。「とにかく、俺じゃない、誰かにさ」
そんな二ノ宮に、泰生は冷静なままの口調で返す。「そんなの、言わせておけばいいだろう。言う方がわからないだけだ、そんなことを言ってくる相手に、わかってもらう必要なんか無いのだから」それは泰生の経験則上言ったことで、彼のポケモントレーナーとしての才を敬遠したり嫉妬したりあるいは憎悪したりした者から、同じことを山ほど言われてきた泰生が身につけた考えだった。お前にはどうせわからない、など、今も昔も常に言われることだったが、その逐一を気にする意味も道理もないのだと、泰生はよくわかっていた。言いたければ言えばいいし、自分がそいつのことをわかる努力をする義務も一切無いのだと、それは泰生だけでなく多くの者に共通する考え方である。

しかし、二ノ宮は、泰生が予想していなかった答えを返した。
「そうじゃない」揺るぎのない、しかし震えた声で、二ノ宮は言う。「そうじゃ、ないんだよ」


「お前にはわからない、って、他の人にも言われた。何人にも言われたことある。無神経だからさ、俺……でも、それは別にいいんだ。ああそうか、わからないよ俺は、だってお前じゃないもん。それで終わりなんだよ、終わりに出来るんだよ、普通は。他の奴らなら」

「でも」テーブルの縁を握る、二ノ宮の手が力を入れたせいで白くなる。「そう、出来ないヤツもいるんだ。父ちゃんとか母ちゃんとか、ドラムの先生とか。羽沢も、富田もそう。終わりに出来ない、割り切れないヤツらもいるの」彼の声が響くのに合わせて、彼の手元に置かれたコップの中の、氷が溶けきってしまったコーラが揺れた。


「センパイだってそうなんだ。お前にはわからない、なんて言われたくない。言われたら悲しいし、言ってほしくない。わかれないってわかってるけど、わかりたいって思う。俺はセンパイのことわかって、そんで、センパイに、大丈夫だって言いたいんだ。センパイにこれ以上苦しんでほしくも悲しんでほしくも辛くなってほしくも無いから、俺、は」


どう言えばよいのかわからない、というように、彼の手がもどかしげな動きで自分の頭をかきむしる。


「こんなこと言ったってしょうがないんだろうけど。でも、センパイは、俺はセンパイに『お前にはわからない』なんて言ってほしくないんだ。本当にわからないのに何言ってんだって感じだよな、でも嫌なんだ、センパイには。だって、センパイがいたから今の俺がいるんだ、そりゃあ、センパイ一人だけのおかげじゃないけど、でも」


有原が褒めたドラムを続けてるのも、自分にも出来るからと音楽を始めたのも、ポケモンの強さだけが全てじゃないと思えたのも。全部、有原のおかげなのだ。二ノ宮はそう信じていて、だからこそ、有原に『お前にはわからない』などという言葉で、立ち止まってほしくないと思っているのだ。
「センパイが、そういうのが嫌だっていうのは俺なりにわかってる」二ノ宮の声が、絞り出すようなものに変わる。「俺のそういうところが、『わからない』って言われる理由だってのも」


「それでも、俺は嫌なんだ。センパイがそこで終わりにしちゃうのも、それに……俺のワガママだってわかってるけど、そうやって、突き放すっていうか、線引かれるっていうか、離れられるっていうか。俺は本当にセンパイにそうされるのが悲しいし、センパイがいないと多分ダメだし、センパイと一緒にバンドやれないと嫌だし」

「……………………」

「それだけなんだ、俺が言いたいことなんてそれだけなんだよ。でも、センパイに言うとダメなんだ、俺がセンパイにそういうこと言うとセンパイは嫌な思いするから、だから、」


「なら、伝わるまで言えばいいじゃないか」


そこで、泰生が二ノ宮の言葉を遮った。
二ノ宮は一瞬驚いた顔をしたが、「そう出来ればいいけど」すぐにそれを曇らせ、無理に作ったような笑顔を浮かべる。「でも、出来なかったから。センパイに嫌な思いさせただけだし」


「出来なかったなら、出来るまでやるんだ。あいつがわかるまで、嫌だと思わなくなるまで、本当にお前があいつに言いたいことが全部伝わるまで、どんなだって」


怒濤のような言葉の濁流に、二ノ宮は気圧されたように黙り込む。それは羽沢悠斗らしからぬその様子に呆気にとられたものであり、降りかかる声の勢いに圧倒されたからでもあり、また反論の余地など何も無いと感じていたからでもあったが――彼は、もっと別の理由で、泰生に言葉を返せないでいた。


「いくらでも言ってやればいいだろう! 本当にお前のことが必要なんだと、お前に嫌われるのは悲しいんだと、お前がいなければ駄目なんだと! 本当にそうなのならば、伝わるまで、いくらでも!」


「羽沢、…………」


「わかるまで伝えればいいんだ! 遠くに行く前に! 離れられる前に! 失って困るなら、それを悲しいって思うなら、ちゃんと言えばいいだろう、わかってくれるまで、何度だって、何度だって!」


それは間違いなく、泰生が二ノ宮に向けた言葉だった。
しかし、二ノ宮は言ったのだ。机を挟み、泰生と向かい合った彼が見開いた丸い瞳、その中に映し出された泰生へと。


「…………なあ、羽沢」





「なんで、お前が、泣いてるんだよ?」





「あ、いや……これは、…………」

二ノ宮の言葉に、泰生は虚を突かれたような顔をする。反射で頬に触れた指先が確かに水気を感じ取ったことで、泰生はようやく自分の目から涙が溢れていたことに気がついた。
「何だよぉ」一人焦っている二ノ宮が、どうしたら良いかわからないといった調子で狼狽える。ただならぬ雰囲気を感じ取り、店内にいた客達が何事かと彼らを振り返った。「俺、なんかダメなこと言っちゃった? 羽沢の嫌なこと言った?」アフロ頭をユサユサさせ、テーブル脇の紙ナプキンを何枚も抜き取っている彼ははたから見ると面白いくらいの慌てぶりだったが、泰生の目にその姿は入っていない。ただ、自分の頬を濡らす水滴の正体が、理由が、意味が。一つだってわからなかったのだ。
いや、それかあるいは――目から流れた涙が頬を伝い、テーブルに落ちていく。微弱に震えているその水溜りを見て、泰生はひどく熱くなった頭で考えた。あるいは、ずっとわかっていたのに、なのに――――


「どうしちゃったんだよ、羽沢ぁ……」


強く握りすぎて、くしゃくしゃになってしまったナプキンを泰生に差し出しかけた姿勢のまま、行動を図りかねた二ノ宮が、困り果てたような声を出す。違う、とか、お前のせいではない、とか、気遣う必要はない、とか言いたいのに、泰生は何一つ言葉を発することが出来なかった。
涙を流すことなんていつ以来だろうか、などという有りがちなフレーズと、きっと悠斗の身体の涙腺が緩いせいだろう、などという場違いな言い訳が頭の中を交差する。そのどちらもどうでもいいはずで、今は二ノ宮に何かを言ってやらないといけないとわかっているのに、泰生はただ、抑えることの出来ない熱に両頬を濡らすしかない。「どうしよう」あたふたと二ノ宮が両手を無為に動かすが何にもならず、その様子がさらに、他の客や店員の胡乱げな視線を集める原因となる。それに混乱をより一層重ねた彼は結局、逃げるようにして店を出る段階になっても、泰生の涙を止めることもその訳を聞くことも叶わなかった。





「森田さん」

「何ですか?」


また、同時刻――羽沢家の近隣、タマムシの住宅地で、富田と森田は冷たい風に吹かれながら歩いていた。
富田は自分の考え事、森田は溜まった事務仕事の処理で両者とも親子を早く家に帰したものの、それぞれ泰生と悠斗の様子が気がかりで、家まで訪ねてきたというわけだ。奇遇にも同じタイミングで現れたお互いの姿を見つけた時にはおかしさと情けなさに思わず笑いが漏れそうになったが、その感情もすぐに消え失せた。
家の中から聞こえてきた怒鳴り声と、何かを言い合うような気配。少し遅れて、足早に家を出ていく泰生の姿。自分達には気がつかなかったその背中を追うことも、灯りがついたままの家に入ることも出来ず、二人は暗い路地に落ちた電信柱の影にしばらく立っていた。数分くらいだろうか、時間が経過して、「富田くん、送ってきますよ。一応僕はポケモンもいますから、夜は色々危ないですからね」と森田がよくやく口を開いたのである。

「車はいいんですか」
「近くの駐車場停めてるから。あとで取りに行きますよ」
「夕飯は召し上がりました?」
「事務所で弁当食べました。海苔弁。安いんで」
「森田さんのポケモンって何ですか」
「ペルシアンの、タマノスケ。かっこいいんだよ、今度見せてあげます」
「……今日、寒いですね」
「…………うん」

段々とペースが落ちていく会話に、先に根負けしたのはやはり森田だった。「富田くん、他に聞きたいことあるんでしょう」困ったように笑って彼は言う。「そんなことじゃなくて」

「ええ、…………悠斗、大丈夫ですか」

申し訳無さそうにそう言った富田に、森田は数回瞬きをしてから「聞きたいことって、それ」と失笑気味の声を出した。「やだなぁ。同じじゃないですか、そんなの」
森田の言葉に、富田は「ああ」頷いて、「羽沢さんですか」と合点がいったように森田のことを見た。同じことを尋ねようとしてたのか、しかも同じように言い淀んで。「まあ、それなりに」「じゃあ、こっちもそういうことで」ならば、本当に聞きたいこともきっと同じであろう。森田と二人で歩くことを了承した理由を、富田は何気無い風に口にする。

「森田さんは、悠斗たちがあのままでいいと思ってます?」
「………………」

富田の問いに、森田は言葉を返さない。当たり前だ、彼だって全く同じ内容を、名前だけを変えて言おうとしたのだから。
しかし先に聞いたものの特権と、責任として、富田はさらに言葉を重ねた。

「今みたいに、ああやって、お互いああしてるだけでも、……別に害は無いし特にはっきり問題があるわけじゃないからいいのかもしれませんが、ものすごく困ってる人がいるわけでもないし本人たちがそれでいいってんならまぁ、俺が何か言う意味なんてないです、けど」
「……………………」
「でも、もしも、……本人たちがいい、って思ってなかったとしたら、それは……悠斗と、羽沢さんが何か思ってるんだとしたら、そのときはどうしたらいいんでしょう、か」

「……僕さ、シオンタウンの出身なんだ」


富田の言葉に何かを答えることなく、森田は唐突にそんなことを言い出す。
急な自己紹介に、富田は片眉をぴくりとさせたが黙って先を聞くことにした。冷たい風が吹いて、彼の長い前髪を揺らしていく。夜の冷えた空気に晒された赤い眼球がどうにも痛い気がして、富田は思わず目を細めた。
そんな風に臆することもなく、森田の話は続く。「ポケモンタワーって、富田くんくらいの子はまだ知ってる年代かな」懐かしむような、それでいて特段なんの感傷も無いような声だ。「僕が中学生くらいの頃に取り壊されちゃってさ、なんか、よくわからないうちにラジオ局になってたんですけど」

「ポケモンタワーって、お墓じゃないですか。ポケモンのが、タワー中にびっしりあるわけ。だから、幽霊が出るとかおばけが出るとか呪われるとか、好き勝手言われてたわけですよ。大人にとっても好都合だったんだろね、墓場で子どもが遊ばないようにするためには、体のいい口実ですし。遺してきちゃった子どもが心配で成仏出来ないガラガラの霊とか、旅の途中で殺されて未だにトレーナーを探してるラッタの霊とか、身体が弱くてポケモンが持てなくて、そのまま死んじゃった女の子の霊が、一緒に旅をしてくれる子を探してるとか。そんな噂。その辺、富田くん的にはどう思います?」
「……まぁ、墓地なんですから全然あり得る話ですね。ポケモンの墓地なのに人間の女の子の霊がいるのはちょっとよくわかりませんが、引き寄せられたりとかの可能性もあるのであながち否定も出来ません」

冷静な分析を淡々と言ってのけた富田に、「富田くんらしいよ」と苦笑して、森田は一つ息を吐く。

「でも、僕も人のことは言えないかもしれませんね。子どもの頃、幽霊の話を聞くたびに……お墓が多いせいで、ポケモンタワー絡み以外の噂も多かったんだけど。そういう、怖い話を聞くたびにみんな怖がってたんだけど、僕は怖くなかったんです。それよりも、ただ、不思議でした」
「不思議……」
「なんで、幽霊になんのか、って。よくあるじゃないですか、自殺した人がこの世に未練残してたせいで地縛霊になるとか、恨みを抱えたまま死んで怨霊になって復讐するとか、逆にさっきのガラガラじゃないけど、愛情とかそういうのが強すぎて成仏出来なかったとか。そういうの、僕は全然わからなかったんです。だって生きてたんだよ? なんで生きてるうちにちゃんと伝えておかなかったの? って。恨みだろうが未練だろうが愛情だろうがなんでもいいよ、何にしても、生きてる間にやっときゃよかったじゃん、なんで死んでから後悔してるんだ、って、思ってましたから」

「だから、幽霊は怖い、っていうよりも『わからない』でした」そこまで言って、森田は富田を振り返る。同時に足を止めた彼に、富田も歩くのを中断した。

「でもさぁ」鈍い白をした街灯の光を背にして森田が言う。モルフォンもヤミカラスもいないその電柱は、寒空の下でひどく寂しげに思えた。そこで一度言葉を切って、「ちょっとすみません」森田はスーツの胸ポケットから小さな箱とライターを取り出し、箱の中の一本に火を点ける。「タバコ吸われるんですか」「禁煙してんですよ、泰さんが嫌いなんで」白い煙を吐きながら、森田は苦笑いを浮かべた。「悠斗くんにも悪いからさ、煙吸わせるの申し訳ないし」

「でも、ちょっと限界。ごめん、富田くん、風上にいてくれると助かります」
「いいですよ別に。俺ギターなんで。親父も吸うし、あと少しだけどベースの奴も」

それにちょっと、わかりますから。平坦な声のままそう言った富田に、森田は「はは」と短く笑う。「やっぱり似てるかもしれないですね、僕たち」そんな言葉と共に、煙が空へ消えていく。薄い靄のようなそれを見上げ、富田は無言を返事に代えた。
それで、なんの話だっけ、そうか幽霊ね。おどけたように一人で言いながら、森田はゆるゆるとした口調で話す。「タワーが取り壊されたあたりで、わかるようになってきたんです」

「幽霊のことがわかる、っていうのも変な話だけど。でも……多分、その頃に、僕は『幽霊になる』人間になってしまったんです。生きてる間にやっとけない、生きてるうちに伝えられない、この世に、未練を残して死んでくしかない人間に。好きな人に好きって言えなくなったし、嫌なことを嫌だとも言えなくなった。自分が言いたいことを全部、伝えることが出来なくなった。そんな人間になった瞬間、僕も、死ねば幽霊になるような存在になっちゃったんでしょうね」

咄嗟に言葉を返しかねた富田が黙り込む。そんな富田から視線を外し、森田は、何もいない街灯を見上げて言った。「でも、僕は思うんだけど」白の光を放つそこからは、ぶおんぶおんという、低い唸り声のようなノイズが響いてくる。煙草の先から昇っていく、細い煙が風になびく。そこで燃える小さな炎は、えんとつやまの天辺よりも強い明るさを持っているのかもしれない。

「死んだところで、幽霊になったところで。生きてるうちに言えなかったことを、死んでから言えるわけは無いんでしょうね。死んだら、結局そこで終わりなんですよ。だから結局、僕たちはみんな、生きてる間にじゃんじゃん気持ちを溜め込んで、その重さに負けて死んじゃうんだと、僕は、そう思うんですよね」



「そうだよ。だから、ちゃんと言いたいことは言わないといけないんだよ!」


森田の話を粉々にぶち砕くような感じで割り込んできたその声に、富田は至極落ち着いたまま、素早く辺りを見回した。数秒して彼の視線が捉えたその先、近くの民家の小さな窓(曇りガラス越しに瓶がたくさん並んでいるのが見えるため台所だと思われる)の軒下に宙ぶらりんになっている、てるてる坊主のような物が「いつもご贔屓ありがとうございます!!」と鬱陶しいレベルでハイテンションな声を出す。


「毎度お世話になっております、あなたの街の便利屋さん、ニャース探しから呪い代行まで何でもござれ、真夜中屋、見、ざギャーーーーーッ!?」


「だからいつもいつもうるさいんですよあんたは」


しかし本職のてるてる坊主とは違い、秋の夜空に騒ぎ声を響かせているその物体は、空と同じような深い紺色をしていた。両腕に収まるくらいのサイズの体躯は布のような質感で、浮遊に合わせてぴらぴらと揺れる裾(?)は切りっぱなしの生地によく似ている。
ちまっこさとそれに反する大きな瞳はなかなかかわいさ高めだが、その正体は恨みの感情を食らうため、よなよな人家の軒先に集まるという恐ろしいアヤカシである――人はこれを、カゲボウズと呼んでいるのだ。

「やめてやめて! 裂けちゃう! 痛い! 無理! 死んじゃうよ!!」
「大丈夫でしょう。元はぬいぐるみなんだし、ゴーストポケモンなんだから死ぬわけないですよ……中身なんてどうせ綿でしょうから」
「勘弁してよ!! 仮に綿だったとしても嫌だよそんなの出してんの! 人で言うとこのハラワタだよ、どんなロッカー精神だよ!?」

…………別に言うまでも無いだろうが、富田の両手によって力任せに引っ張られて意味不明なことを叫んでいるそのカゲボウズは、今日も懲りずに不思議パワーでゴーストポケモンに憑依的なことをしているミツキである。「ぎゃー!! 無理無理無理!! もうひんしだよ!!」と断末魔をあげるミツキの姿に憐れみを覚え(本物なら放っておいただろうが一応見た目はカゲボウズであるため)、森田は「富田くん、やめたげなよ……」と半分どうでもよさそうに言った。
「やべぇ、何か魂とかそういうのが抜けるかと思った……」ゲホゲホとえずきながら呻いているミツキに、「で、何しに来たんですか。空気も読まずに」どこか爽やかさすら醸し出している富田が尋ねる。完全にストレス解消サンドバッグS扱いされていることに、ミツキは内心で冷や汗をかいた。「まさか昼間と違うお姿を見せにきてくれたわけでもないでしょうに」

「あー、……えっと、ね。違ったんだ」
「何が?」
「だから、……その、犯人。根本さんじゃないんだよ」

言い淀むような間を空けてからそう答えたミツキに、富田と森田が口を揃えて「え?」と呆然とした声を出す。

「いや、だってあいつだって言ってたじゃないですか。その、なんでしたっけ? ナントカの性質、とかが……」
「完全にそうだとは言ってないよ。強いゴーストポケモン達に協力してもらって、アイツのことを洗ってみたんだけどシロ。真っ白。今回どころか、アイツは生まれてこのかた呪いを使ったことなんかないよ。呪われたことは何度かあるっぽいけどね、惚れ薬的な呪いが、何度か」

「最後の情報は要りませんでした」そう言い含めておいて、森田はがっくりと肩を落とす。彼の中では完全に、犯人は根本ということになっていたのだ。それなのにこの展開、これは森田にとって振り出しに戻らされたようなものであった。
「でも、質はほぼ一致してるんですよね?」「だからもう一つの可能性。アカの他人だけど、そっくりさん、っていうのをこれから探すよ。ドッペルゲンガーみたいなモノかな」「はぁ……」力無い声で、富田とミツキが会話を交わす。そしてミツキが付け加えるように、「それに、さ」とため息まじりに言う。

「やっぱり、これは……犯人見つけるだけじゃ解けないよ。そういう呪いなんだ、あの二人にかかってるのは。泰生さんも悠斗くんも、呪いに対する耐性はかなりのものだけど、そんな二人がああなっちゃったのは『呪いにかかる』条件を満たしちゃったからなんだ」
「条件、…………」
「それを二人が、自力でどうにかしない限り多分、無理。僕が犯人を探し当ててとっちめることが出来たとしても、完全に解けるかどうかわからない。もしかしたら逆に、犯人が見つからなくてもそれさえ解決すればどうにかなるかもだけど……」

ミツキはそこで押し黙った。恐らく彼は、「それは出来そう?」と尋ねたかったのだろう。しかしその答えは、少なくとも今の段階では、どうであるかということは富田も、森田も、そしてミツキにも見当がついた。
三者は揃って無言を続ける。先ほどミツキがぶら下がってた軒下がある家の中から、親子が楽しそうに話している声が聞こえてくる。学校で教えてもらったのだと、つりざおの使い方をたどたどしいながらも懸命に説明する少年の声と、それに応える父親の声。中途半端な時間のせいだろうか、ヤミカラスもホーホーも鳴かない夜に、その二つの声は本当以上に響いているようだ。


「……で、何の話してたの? 困りごとならこの真夜中屋さんに任せんしゃい! 落し物探しから夜のお悩みまで、何でもござれ!」


わざとらしい明るい声で話を切り上げたミツキに、森田は苦笑混じりに煙草をくわえた。「大したことは話してないですよ」だいぶ短くなったそれを無為に見遣って富田も言う。「それにミツキさん、ずっと聞いてたんでしょうが」
ミツキは朗らかな笑い声をあげる。「まーね」底無しに無邪気で、それでいて終わりの見えない夜のようなその声で、彼は「もう一回言うけどさ」と言い添えた。

「言わない方がいいことも、言っちゃいけないこともあるけど。でもとりあえず、言った方がいいことだけは、言っといた方がいいよ」

「……………そうですね」

「そうだよ。死んだからって何が変わるわけじゃないから、生きてるうちに、さ」

そうですね。今度は森田が、富田と同じ言葉を繰り返した。
一際強く、冷たい風が夜の道を走っていく。ミツキの濃厚に染まった裾を揺らし、富田の前髪を捲ったそれは、最後に森田の指に挟まれた煙草の火を掻き消して、暗闇の向こう側へといってしまった。
赤い炎が無くなって、路地に残されたのは街灯の光だけ。背後から聞こえる、バサバサという音に振り返るといつの間に飛んできたのか、モルフォンが紫の羽をばたつかせて街灯へ体当たりを繰り返していた。モルフォンは月を目指しているつもりらしいが、実際は遥か低空の人工灯。そんなつもりは毛頭無いであろうに、まるで行き場を見失ってしまったかのようなその動きは、ひどく滑稽でひどく哀しげで、そしてひどく、近しさを感じるものだった。
「帰りましょう」携帯灰皿に吸い殻を押し込んで、森田がそれだけ言う。富田は黙ってそれに続く。ミツキの影がゆれて揺れて、彼らの歩を追うようにして消えていった。


  [No.1432] 第十一話「雷陳膠漆」 投稿者:GPS   投稿日:2015/12/02(Wed) 19:46:27   44clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

『みんなー、今日は来てくれてありがとうー!!』
『はじめましての人もそうじゃない人もー、はじめましてのポケモンもそうじゃないポケモンもー! 楽しんでってねー!!』

『それじゃーいくよー! Music S.T.A.R.T!!』


きゃぴきゃぴのボイスと共に湧き上がる歓声。サイリウムで彩られた満杯の客席の前方に位置するステージには、華やかな衣装に身を包んだ九人のアイドルと、同じモチーフを使ったアクセサリーで飾られたイーブイ族。同じ数、九匹のポケモン達が、流れた曲に合わせてアイドルと一緒にキュートなジャンプを決めると、客達はより一層幸せそうな声をあげる。
人間とポケモンが共に作り上げるライブステージ――そんなコンセプトの元開催された、多くのアーティスト達が集まるこのフェスに、


「あれか、この人たちって最近流行ったアニメだかゲームの……」
「みたいだな、声優とは違うのか……? アイドルが声優務めてるとかそういう感じなのか、俺はよくわかんないけど」
「あのサンダース……身のこなしにキレがあるな。跳躍力も高そうだ」
「泰さんよくそこまで見えますね……僕は九色が忙しく動いてるのしかわかんないですよ……」


どういうわけか、悠斗と富田、泰生と森田は遊びにきていた。





事の発端は今日の朝――この頃習慣化しているように、羽沢家を訪れた富田と森田の言葉だった。

「泰さん、悠斗くん。ライブとか行ってみたりしませんか?」
「最近、色々立て込んでたし。気分転換もかねて、たまには」

昨日の今日で、口論こそしないものの気まずい雰囲気をめっちゃくちゃに溢れさせ、口の一つも聞けない悠斗・泰生は、それぞれ頬張っていた朝食を飲み込んで「はぁ?」と揃って首を傾げた。
「今夜のなんですけど、知人が行けなくなっちゃったみたいでくれたんですよ、チケット。家族分だから、ちょうど四枚」鞄から取り出した封筒の中身を示しつつ森田が言う。「今日は練習室取ってないし有原がバイトだから何もありません。悠斗の方も、夜なら平気だろ? チケット無駄にするのもよくないしな」もはや行くことが決定しているような富田の口ぶりに、悠斗と泰生は自然と顔を見合わせかけたが、すぐ気がついたみたいにパッと視線を背け合う。食べ終わったフーズの皿を台所に返しに来たらしい、長い耳を揺らしながら食堂に入ってきたマリルリが辟易した様子の顔で通り過ぎていった。

「いや、瑞樹……急に言われても、さ」
「そんなものに行ってる暇あったら、もっと他に……」
「いいじゃないの。楽しそうだし、行ってきなさいよ」

いい歳こいてギクシャクといじっぱりをかまし、情けない感じになっている二人に横槍を入れたのは、一口サイズに切ったロメを運んできた真琴だった。「せっかくの機会なんだし、もったいないじゃない」夫と息子を同時に黙り込ませた彼女は、彼らの顔を交互に見遣る。
「羽沢さんも一緒にいかがですか」「私はいいわよ、悠斗たちをよろしくね」富田に笑ってそう返し、真琴の目が悠斗と泰生に再び向いた。

「楽しんでらっしゃい。お土産はケーキでよろしく」

流れるように話を誘導し、もはや嫌とは言えない雰囲気をあっという間に作り上げてしまった真琴に何も言えることはなく、まんまと丸め込まれた羽沢親子はだんまりを決め込むしかない。富田と森田は若干呆れを感じつつも、どうやらうまくいったらしいことを察して机の下でガッツポーズを決めたのだった。





そんなこんなでライブに連れ出された二人と連れ出した二人は、タマムシ某所の野外ステージにやってきている。今日のライブはいわゆるフェス、様々なアーティストが入れ替わり立ち替わりでステージを披露するという形式のもので、現在会場を沸かせているアイドルグループも何組目かの出演者だ。
「それにしてもすごい客入りだな」来るのが遅かったこともあり、ほぼ最後列に立っている悠斗が気の抜けた声で言う。羽沢泰生という有名トレーナーの見かけをしている以上一応は、という森田の至言があったため、今の彼は帽子と伊達眼鏡による簡易的な変装スタイルだ。あまり、というかほとんど全然隠せていない気もするがいいのか、と富田は思ったが、それは口に出さないでおいた。「フェスってこんなデカい規模なのかよ」

「出る人たちの種類が多いからな。ファンの母数がまず違うせいだろ」
「ああ、なるほどな。人気すごいやつばっか出てるもんな、今日の」
「あと、会場内でポケモン出せるってのもあるだろうけど。珍しいよな、いくら今日のコンセプトがそれだからって言っても」

普通はライブだとボール必須だろ。人間と同じくらいにポケモンの客で溢れている客席を見渡す富田の言葉に、森田も感心したように頷いた。「ポケモンバトル見せる大会ですら、大きさやタイプとかで制限ありますからね」そう考えると自由ってのはすごいですよ、と、彼は驚き混じりの口調で呟く。
せっかくここまで自由なのに、羽沢泰生だと特定されると面倒だからという理由でシャンデラ達を出せないことがただただ残念であった。暮れた空を天井にした会場内は人とポケモンが連れ添う様子で溢れている。ジャニーズ系グループのツアーTシャツをお揃いで着ている女性とカメール、物販で売られたタオルを一枚ずつ振り回している合計数二十を超えた人間とミルホッグ・ミネズミの家族連れ、アイドルソングなのに全力でヘドバンをかましている、ヘビメタ風の男とフェイスペイントが目立つクイタラン、飛んだり跳ねたり騒ぎつつも、連れたプラスルとマイナン同様片時も手を離さない制服姿のカップル……。そんな者達から少し離れ、のんびりとライブを楽しんでいるのは、ニドキングとニドクインに並んでビールを飲んでいる中年の夫婦だ。

『それでは次の曲、聴いてください……いつものアレ、よろしく!』
『オッケー、任せて! お願いジョルノ、……こなゆき!!』

響いた歓声に、悠斗達はステージへと視線を戻す。メンバーの一人、水色の衣装を着たアイドルが足元のグレイシアに指示を出したらしく、ステージ一面が白銀の雪で輝いていた。ピアノ音によるイントロが流れ出し、客席のサイリウムが白へと変わる。
雪をモチーフにした曲が始まったステージを、泰生は先程から真剣に見つめていた。それに気がついた森田は彼に声をかける。「まさか泰さんがここまで楽しそうになさるとは思いませんでしたよ」

「さっきの、グラエナの被り物してるバンドもすごい集中して見てましたし。音楽とか結構聴いてるんですか?」
「いや、森田……アレを見てみろ、エーフィの動きだ、回避に優れてそうだと思わないか」

……完全にポケモンしか見ていない泰生に、森田は呆れ半分、通常運転ぶりへの安心半分で「はぁそうですね」と適当な言葉を返した。その横で悠斗と富田が、あの仏頂面で『楽しそう』なのか、などと内心で首を捻る。
そんな彼らのことなど気にも留めないで、泰生の隣にいた客が「うっちー!!」とメンバーの名前を叫ぶ。ニンフィアの缶バッジをいっぱいにつけた上着を羽織った彼が、白のタオルを頭に巻いたユンゲラーの念力で浮いているのを目ざとく見つけた係員が「お客様! ステージ見たいからって浮遊するのはおやめください!」と飛んできた。えらく気の抜ける光景に、悠斗と富田は微妙な笑いをするしかない。


「喉が渇いた。何か買ってくる」

と、数分後、曲が終わったタイミングで泰生が言った。ステージでは、これで出番が終了したらしいアイドル達がそれぞれのカラーリングに応じたイーブイ族を抱き上げ、『ここから先も、楽しんでねー!』などと締めの挨拶をしている。オレンジ色の衣装に身を包んだリーダーと見えるアイドルが、イーブイの前足を掴んで手を振るポーズをとらせて歓声を浴びた。
舞っていた雪が消えると同時に白から九色へと光を変えた、目が痛いほどに鮮やかなサイリウムが輝く中、笑顔を振りまきつつステージから去っていく彼女らから視線を外し、「あ、僕も行きますよ」と森田が泰生に返事をする。

「実はさっきから小腹がすいてて……ちょうど入れ替えですから出やすいでしょう、僕もご一緒します」
「あ、ここで買うと高いし混んでますから、もし焦らないなら外行った方がいいですよ。五分くらいのとこにコンビニありますし、チケット見せれば再入場出来るんで」

幕間にガヤガヤ騒がしくなるアリーナで、富田がそうコメントした。「それもそうか、……泰さんどうします? 僕はどちらでも構いませんが」「空いてる方がいいだろう。森田、俺の分のチケットは」「ちゃんと持ってますよ。じゃあ、僕たちちょっと行ってきます」それを受け、ライブにそこまで執着の無い二人は客達の間を縫って出口へ向かう。見た目の年齢差からすれば奇妙であるやり取りに、泰生と森田の近くにいた客が何人か振り返ったが、そこまで追求する者もいなかった。
残された悠斗、富田は特に意味もなくセット中のステージを眺める。前の客が頭に乗せたヤンチャムと共に食べているポップコーンの匂いが、二人の鼻腔をくすぐった。食べるものもすることもなく、何となく手持ち無沙汰さを感じた富田は隣にいる、彼らと同い年くらいの若者が連れのエビワラーと額を寄せ合って見ているパンフレットを覗き見た。

「次、アレだ。多分あの曲やるだろ、タイトル忘れちゃったけど今やってる映画、『週刊少年とびはねる』でやってた漫画原作の、その主題歌になってる」
「あー、MV話題になってるアレか。『新幻島』ね」
「そうそれそれ、五人の周りにエモンガがばーって出てくるヤツ」
「アレ、なんかいいよな。ちょっとレトロっぽくて俺好きだわ」

見てて楽しいんだよな。そう笑った悠斗に、富田は少し驚いたように言う。「悠斗、あのMV見たのか」

「なんだよ、見ちゃ悪いってか」
「だって、ポケモン出てるから」
「それはさぁ、あんだけ話題になってりゃ、ネットの広告でも出てくるし音楽は好きだし、それに、……」

苦笑いと共にそう言った悠斗の言葉が途切れる。彼の視線の先、入れ替え準備がほとんど終わったステージでは、スタッフの腕章をつけた人達と一緒に数匹のゴーリキーがあくせくと働いていた。その近くに陣取ったカメラマンが、カメラを数台首から下げたフライゴンに上空からの撮影を指示している。広い客席のあちこちで、人とポケモンが隣り合って笑顔を浮かべていた。
ステージのライトと、数箇所の人工灯による半端な明るさの中、悠斗の表情はちょうど影になっていて見えない。準備が済んだように見えたステージだが未だ何か調整中らしく始まる気配が無く、どうやら今は休憩時間のようである。だらだらと交わされる与太話で満ちた客席で、富田は「あのさ」と口を開いた。

「悠斗、お前さ。俺のこと初めて助けてくれた時のこと、覚えてるか?」

唐突な問いに、悠斗は何度か目を瞬かせた。が、すぐ「あー、お前がポケモン使っていじめられてたときね」苦々しさの混じる声で返事をする。「あれは胸糞悪かったな。今思っても腹立つわ、あいつら今頃何してんだろ」
苛立った口調に鼻で笑い、「さーな」と富田は軽く返した。「タマムシにはもういないらしいけど」そう言ってから、「いや、あいつらのことはどうでもいいんだよ」と富田はステージに目を向けたまま言う。

「あの時さ、悠斗が偶然いて、俺はよかったって思ってるわけ」
「なんだよ、恥ずかしいからやめろそういうの。それに、それは俺だってそうだよ、あの日放送委員の仕事無かったらあそこ通ることも無かったんだからさ。そしたら、お前みたいなギタリストずっと捕まえられなかったかも」
「そうか? お前のことだから、いくらでも見つけられんじゃないのかよ」
「違うって。俺の歌にそこまで合わしてくれんのは瑞樹くらい」

そうまで言って、悠斗は「なんでいきなりそんなこと言うんだよ」と笑い混じりに尋ねた。「まさか解散しようとか言わないよな、絶対元に戻るから勘弁してくれ」ふざけ半分、本気の心配半分で言われたそれに思わず吹き出してしまいながら、富田は少しの間だけ、あの日の記憶に意識を向けた。




中学に上がったあたりからのことだ。それまでも富田の、ポケモンの血が混じっていること、不気味な赤をした両眼、歓迎しがたい能力故に彼を遠ざけたがる者は多く、彼が必然的に独りだったのも昔からのことだった。が、彼や周囲が年を重ねるにつれ、そこには次第に暴力や悪意が付与するようになり、富田を苦しませるようになっていた。
特に酷かったのが彼が中学二年生の頃で、四月から同じクラスになった数人の男子生徒がポケモンを使って富田に暴行を加えるようになっていった。別に富田が何か実害を加えたりしたわけでは勿論無いが、彼が持っていた『違う』ということ、その特異性はやり場のない苛立ちや衝動をぶつけてしまうのに、格好の標的だったのである。彼らはバトルもそれなりに強く、どれくらいの加減をすればバレないくらいに抑えられるかをよく心得ていた。富田が一人になる隙を見極めて彼を連れ出し、人気の無い場所でこんなことを言い、酷な仕打ちをするのだった。

「なんでお前みたいなさぁ、ポケモン混じりがここにいるわけ」

侮蔑と嘲笑の混じった声が響く中、ブーピッグの重い足が背中を踏む。逃げられないよう突きつけられたキリキザンの刃が額を掠って血が滲む。シャツを引っ張られ、服の上からでは見えない背筋に突き刺さったニドリーノのツノから、死なない程度に弱くて、数日苦しむ程度に激しい毒が身体中に回っていくのがわかった。

「どく状態になってやんの! はは、口の中に土入ってるし、キモいなマジ」
「つーかお前さ、ポケモンならバトルやれないの? いっつもやられてばっかじゃん、俺たちもつまんないんだけど。なきごえとか、はねるとか、そんくらいできるっしょいくらなんでも」
「あー、無理でしょそんなん! せいぜい、がまんくらいだって、出来るの。発動は無理だけどな」

毎日のように行われる、富田に対するこの仕打ちは一応人目につかぬ場所で起きていたことだけれど、勘付いている者や気づいている者も少なからずいた。が、自分の身を同じ危険に晒してまで富田を庇おうとする人はいなかったし、また、富田の態度がそうさせていた面もある。関わるな。自分に寄るな。そんなオーラを終始出している富田にあえて近づこうとする者なんて、彼をストレスのはけ口にしているこの生徒くらいしかいなかったのだ。
事実、富田自身もまた、余計な煩わしさになるくらいなら誰にも関わってほしくなどなかった。彼にとってはこの、直接痛めつけてくる輩どもも、黙って見ているだけのクラスメイト達も、そしてそれ以外の人間も全部、全員同じようなものだった。『お前は違う』その言葉の通り、みんな、自分とは違う存在だったのだ。自分のことなどわかってくれない、別の世界に生きている、そんな存在しかいなかった。

「ポケモンはポケモンらしく、トキワのもりにでも帰ってくれりゃいいのに」
「お前みたいなキモいヤツが、人間の学校にいていいわけないんだよな!」
「でもさ、コイツみたいに弱くてバカなヤツ、ポケモンに囲まれたらすぐひんしだろ? たった三匹にも何もできねーもん、このバカ」
「言えてるなそれ! ポケモンセンターに相手してもらえるかもわかんねぇし、どこ行ってもすぐダメになるって!」

世界なんて、わかってもらえないものだった。わかってやる意味も感じなかった。
痛みの程度の多少はあれど、人間なんて皆等しく、異端な自分を責め立てる存在でしかないのだと、そう思うほか無かったのだ。

その日までは。



「何やってんだよお前ら」


悠斗が現れたのは、その日、いつものように富田が数人の同級生達に、手酷い暴力を受けていた時だった。
後で聞いた話によると、悠斗は放送委員の仕事(とは本人が言っているだけで実際は機材を触らせてもらっていただけっぽいが)があったようで、帰宅部の彼の日頃の下校時間よりも少し遅い、しかし大抵の生徒達は部活中という、中途半端な時間に学校にいたらしい。校内のほぼ全てから死角になる、中庭の日陰で行われていた暴行に悠斗が気がついたのも、機材がしまわれている放送準備室の窓などという誰も開けないような場所を気紛れにいじったからである。そこから垣間見えた不自然な光景、同じ制服を着たものが数人と数匹のポケモンに何やら取り囲まれている様子を不審に思い、部屋を出て見にきたということだった。

「それ、何? ポケモン使っていじめでもしてるわけ?」

身体のあちこちに傷を作り、地面に倒れている富田を見た悠斗は、ごくごく当たり前のような、かつ不機嫌な口調で尋ねた。当時の悠斗と富田の関係は、名前と顔だけは知っている同学年の男子生徒同士という、ただそれだけのものだった。大のポケモン嫌いと、ブラッキーの混血という、やや目立つプロフィールをお互い持ち合わせていたため知ってはいたが、面識は無いし喋ったことも無い程度である。
だから、悠斗がこの状況に物申すというのはいささか妙なことともいえた。「なんだよ」闖入者に一瞬怯んだものの、数の利に気を持ち直したニドリーノのトレーナーが挑発気味に言い返す。「お前、なんか文句あるわけ?」粘ついた、その不快な声を頭上に聞きながら、富田もそれに関してだけは同感だった。どうせこの羽沢悠斗とやらも、自分と違う存在なのだ。ただ興味本位で引っ掻き回すくらいなら、余計な首を突っ込まないで欲しかった。

「あ、お前も混ざりたい感じ? ポケモン嫌いなんだもんな、こいつもポケモン入ってっからそういうことか? そんなら羽沢も、……」
「いや、無理なんだわ」

ブーピッグのトレーナーのセリフを遮り、きっぱり言い切った悠斗に加害者生徒達も、そのポケモン達も、そして富田も言葉を失った。「お前らがそうやってんの。俺、すげぇ嫌なんだよね」淡々と、だけど確固たる意志を持ったその声は、目には見えない圧力で反論を何一つも許さない強さがあった。

「俺、ポケモン嫌いだからさ。そうやって、ポケモンが人傷つけてんのみると単純に腹立つんだわ。は? 何してんの? って感じなわけ。フツーにムカつくし死んでほしい。ポケモンに」

かなり酷い上に直球すぎる言葉だったが、いっそ清々しいレベルの直球ぶりだったため、その場の誰も言い返すことは出来なかった。
黙り込むしかない皆の中、悠斗だけが何のためらいもない。「だから、こういうのやめろよな」極めて一方的なその言葉の答えを聞かないうちに、悠斗は力の抜けている富田を抱え起こして立ち上がらせ、立ち尽くしているポケモン達に冷たい視線を向けた。「絶対すんなよ」そこまで語調が強いわけでも荒いわけでもないのに不思議と逆らいがたい重さを孕んだその声に、男子生徒達は各々のポケモンをボールに戻し、決まり悪そうな舌打ちを残して立ち去っていったのだった。



「なんでお前、やられっぱなしでいるわけ」

その同級生達と別れた後、なし崩し的に帰り道を共にすることとなった悠斗は富田にそう尋ねた。余談だが、結果的に富田への暴行を咎める形になった悠斗がその後反感を買ったり新たな標的になったり、ということは起こらなかった。もちろん悠斗とて、人並みの正義感は持ち合わせていただろうし、彼が富田の事情をもっと早く知っていれば別の止め方をしたのだろうが、あの場で彼が平然と言った、『俺ポケモン嫌いだから』たとえそれがトレーナーの命令であっても『そうやってポケモンが人間傷つけてんの見ると単純に腹立つんだわ』という、あまりにまっすぐな理由故に加害者生徒達も呆れ返ったらしい。まさか彼らだってそんな、ある種自分勝手極まりない言い分で、自分達の行為に口を出されるとは思いもよらなかっただろう。彼らはそれを機に興が冷めたらしく、それ以来富田に何かをしてくることもなくなった。
そんなことになるとはまだ知らない、富田は無愛想な声で返す。「別にお前には関係無いだろ」いつも通り、全てを拒絶し、突っぱねるように。「どうせ、お前だって俺のことキモいとか意味不明とか、わけのわかんないヤツとか言うんだ」だって、俺は。何度も繰り返した、何度も繰り返された、あの言葉が口をつく。「だって、俺は違うから」


「はぁ? 何言ってんのお前」


しかし、悠斗はぽかん、とした顔で言った。
富田が何を言ってるのか、心底不思議だという顔をして、彼はあっけからんとした調子で言ったのだ。
「違うものは違うんだから、しょうがないじゃん」あまりにも軽く言われたそれは、しかし富田にとっては、初めてのものだった。今まで一度だってそんなことを言われたことなどないし、自分で思うこともなかった。それを、目の前にいる、大して知りもしない親しくもないこの同級生は軽々と言ってのけたのだ。「俺が聞きたいのは、お前がそれをどう思ってんのかだよ」何の迷いも無い、直実な瞳が富田の赤い両眼を射抜く。

「嫌なら、嫌だって言やいいんだ。もしそうなら、お前がちゃんと教えてくれんなら、」


日の暮れかけた、タマムシシティの住宅地。
忘れもしないあの日の光景で、悠斗は富田に笑いかけた。


「俺は、お前のことをわかんないなんて、絶対言わねえよ」



彼がそう言った瞬間に、自分の世界が広がった。それまで閉じていた、閉ざしていた世界が一気に広くなったようだった。忌々しい、赤い両眼から見る何もかもが、その瞬間に変わったと思ったのだ。
彼の言葉がは光となって、道標となって、何より勝る希望となったあの瞬間に。恐らくずっと色褪せない絶対が現れた世界は、そこから遠く遠くに広がっていった。

それと同時に、自分の世界の広さはもう、そこで決まってしまったのも事実である。悠斗の言葉は富田の閉ざされた世界を広げた反面、彼の世界の限界をも決めたのだ。
それは富田自身の選択であった。自分の世界は悠斗を起点として、悠斗を終点とすることを決めたのは富田本人だった。無限の宇宙よりも広くモンスターボールよりも狭いような世界を、その場で、悠斗にそう言われた瞬間に決めたのは。

だから、わかったのだろう。
自分の『世界』である、彼の抱えた確かな歪みに。


「悠斗さ、お前がポケモン嫌いな理由、前に教えてくれたよな。高一ぐらいの時だっけ、俺が聞いたら、思ってたよりあっさり言われてちょっとびびったけど」

自分の質問には答えてくれず、新たな思い出話を始めた富田に悠斗は怪訝な顔をする。が、それについては特に触れず、「高一の夏くらいだな、部活の帰りにアイス食ってた時だと思う」富田の言葉に返事をする。「別に隠す理由もなかったし、まあ流石に付き合い無いヤツにはあまり言いたかないけどお前だしさ」
その返しに富田は少し笑って、さらなる問いを重ねた。その時の理由、今も変わってないんだろ。そう言った彼に、悠斗は「そりゃあな」と頷き返す。こういった話をする時の、いつも通りの悠斗そのままだ。どんな時の彼よりも、落ち着き払った声色と表情。

「ポケモンなんて、何考えてるかわからないし、こっちの気持ちだってわかりゃしないからな。関わるだけ無駄なんだ、だから――――」


「悠斗さ、それ、マジで百パーそうだと思ってる?」


その声色と表情に、富田は問うた。

「え、………………?」
「マジで、ポケモンはみんなそうで、何も通じないヤツだと思ってるわけ?」

唐突にそんなことを尋ねた富田に、悠斗は「瑞樹……?」と呆けたような声を出す。二人の斜め前で携帯をいじっていた若い男の客とその肩に乗ったスピアーが、揉め事だろうか勘弁してくれ、という疑惑を含んだ目で振り返った。
が、それを気にすることもなく富田は続ける。「わからないっていうのは」握った拳の上、袖口の隙間から入り込んだ秋風のせいで、彼の皮膚に冷たさが走った。


「俺もそう思ってた時あるよ。相手はポケモンじゃなくて人間だったけど。ポケモンはどっちでも良かったからな、そこまでかかわることもなかったし。……人間はどいつもこいつも、家族以外は全部、俺のことわかってくれないしその気もないんだなって本気で思ってたよ。目が赤くて、ポケモンの血が入ってる俺なんてさ。…………だけど違ったじゃん。お前がいたんだよ」

「……………………」

「俺のこと、わかってくれるって言ってくれたお前がいたから。人間は全員、俺をわからないなんて嘘だって、お前が証明したんだよ。ただ、俺がそれに気づかなかっただけで、わかってもらおうとしてなかっただけで、……わかろうとしなかっただけで。俺がポケモン混じりだっていう理由だけで、俺のこと好き勝手言ったり好き勝手したりした奴らのことを許す気は微塵も無いけど、…………そうじゃないヤツも、本当は山ほどいたんだ、って」


教えてくれたのは、悠斗なのだ。
富田を取り巻く問題が消えゆくに従って声をかけてくるようになった同級生達、高校に入ってて出来た友人、バンドを組んでいた仲間、有原や二ノ宮……富田に流れる血がどうであれ、そんなことは関係無しに、わかりあえる人間はたくさんいたのだ。ただ、富田が変わるだけで。わかってほしい、と伝えるだけでよかったのだ。

だから、それと同じことではないのだろうか。
富田は、悠斗に、そんなことを思ってしまった。


「そりゃあ勿論、わかれないポケモンだっているだろうよ。わかりあえない奴はわかりあえないんだから、それはどうしようもないから。でも全員がそうだって、お前は本気で思うか? バトルしたんだろ、羽沢さんのポケモンで。お前のこと、あのシャンデラ達が無視したり裏切ったり攻撃したりしたか? いくらお前の見た目がそうだからっていっても、奴らはお前にとっての分からず屋だったわけか?」

「……おい、…………」

「本当に、羽沢さんのポケモン達はお前をわかんない奴だったか? あいつらだけじゃない、森田さんのポケモンはどうだ? ミツキさんのとこにたむろしてる、ミツキさんの手伝いしてるゴーストポケモン達は? 芦田さんのポワルンとか、守屋のマグマラシは? ついさっき踊ったりしてた、イーブイ達はどうなんだよ?」

「だから、………………」

「さっきお前が見てるって言ってた、あのMVに出てるエモンガたちもみんな、話の通じない相手だと、悠斗はそう、本気で思ってるのか?」


畳み掛けるようにしてそう尋ねた富田に、それまで気圧されたように聞いていた悠斗は、「っ、だよ……」と苛立った声を出す。


「なんだよ、……なんでそんな、嫌味なこと言うんだよっ、……」


「嫌味じゃねぇよ!!」


お前はアイツの信者だよなとか、神か何かだと思ってんのかよとか、何度も言われたことがある。
それは否定するつもりも無い、あの日から彼は自分の、ただ一人きりの神様なのだから。
彼は、あの日まではこの世に神なんていないと思っていた自分が、何よりも信じて疑わない存在なのだ。


「そうじゃねぇよ、そんなわけないだろ、俺はお前にそんなこと言えるわけ無いんだから、……」


だって彼は神様なのだ。
そして自分は彼の信者なのだ。
何があっても、どんなときでも、彼という唯一神を信じて生きる、それがあの日からの自分の姿なのだから。


「だってお前は、悠斗は、俺の、……」


だからこそ、彼が神で、自分が彼の信者だからこそ――



――――自分の神様には、幸せであってほしいと思うのだ。


「だから言うんだよ! だから、言ってんだよ! お前には、お前だけには、そんな風な顔してほしくないんだよ!!」



彼に助けられた自分は、それ以来ずっと彼のことを助けたいと思っている。
彼のためになれたら、彼の救いになるようなことが出来たら、自分がそうだったように、彼の世界を少しでも明るくすることが出来たなら……。そう思って、あの日からの自分は生きてきたのだ。
助けてるつもりで縋ってるだなんて重々承知で、彼のために何かをすることを自分の存在意義に置き換えているのも確かなこと。それは構わない。ハナからそのつもりなのだ。自分を導いてくれる彼が幸せでいてほしい、その彼に自分はついていく、その図式は表裏一体なのだから。


「俺は、悠斗に何かを出来ればいいって思ってた。お前が悲しいとか、そういうこと思わないように、助けたいって思ってるんだ、……お前が辛くならないよう、俺に出来ることなら、って」


だから、ずっと彼を助けようとしてきたのだ。
父親に、ポケモンに背を向けて――世界の半分を見ないと決めてしまった彼の、その深い穴を埋めるように。

でも、それは。


「だけどそれは、俺には出来ないんだよ!!」


ずっと感じていたのは歯がゆさともどかしさと無力感、そして僅かな優越感だった。
悠斗が抱く、父親やポケモンとの橋を絶ってしまったことへのどうしようもない虚無感は自分には埋められないとわかってはいる一方で、それほどまでの虚無を抱えた彼がその分だけ自分と過ごしていることを、喜んでいなかったといえば嘘になる。だから自分とて、ずっとわからないフリをして、埋められもしない悠斗の欠落を支えたいという大義名分を掲げて、彼に不足があるのをいいことに隣を確保し続けてきたのだ。
それでも良いと思ってた。別にこのままでも今の状態が続くだけであれば、悠斗と泰生の関係が決定的に崩壊するわけじゃない。ただ険悪かつ冷たい関係性のまま、時間が流れていくだけで、時の経過と共に段々と二人の距離は開いていずれはそのまま終わりが訪れるだけだろう。それでも構わなかったのだ。富田個人の望みとしても、客観的に見て最も合理的かつ平和的な選択であるという意味でも。

それでも。悠斗が時折見せる、父の話題を避けたがる顔に隠れた寂寥や、ポケモンに向ける優しくも冷たい視線、ポケモンとトレーナーが共にいる姿に浮かべる何かを求めるような表情を目にするたびに、それでは駄目なのだと思わずにはいられなかった。
今のままでは、悠斗は結局、辛いだけなのだとわかってしまったのだ。


「俺じゃ無理なんだよ、俺じゃ、お前の、……お前の中の羽沢さんにもポケモンにもなれないんだよ!!」

それは悠斗と泰生が入れ替わってから、彼らの歪みを今まで以上に目の当たりにしてから、より一層感じることだった。
悠斗が何を考えているのかも、それが自分にはどうすることも出来ないのも、今まで漠然と思っていたそれはここ数週間でよりはっきりとした形をとって、自分に訴えてくるのだ。お前には無理だと。お前は何も出来ないと。
助けてるつもりも何も無く、それすらにもなれないのだと。


「こんなの俺の勝手な我儘だって思うかもしれないけど、実際そうだけど、俺はお前にこれ以上苦しんでほしくも悲しんでほしくも自分を責めてほしくもない。お前が羽沢さんのことを本当に嫌いで、ポケモンともポケモントレーナーとも絶対関わりたくないって本気で思ってんなら、それでいい。それならそうで、お前がマジでそうなら、俺は何も言わないし、言うつもりもない」


準備のために点けられていたステージのライトが一斉に落とされる。始まりを告げるその合図に、黄色い悲鳴が会場に走っていく。


「でも、そうじゃないんだろ、本当は」


泰生に対しても。ポケモンに対しても。
「お前は、」メンバー五人に当たった白いスポットライトが五つ。MVの様子を再現するらしい、何十匹ものエモンガに囲まれた五人が即席の階段から一歩、一歩と降りるたび、観客席は怒濤のような声に満ちた。
明るくなったステージの光を浴びて、逆光になってしまったその顔で、富田は言う。溢れる歓声とエモンガ達の羽ばたく音と、流れ出した演奏に乗せるように、その中に溶け込むことがないように、悠斗にやっと、その思いを告げる。「わかってほしいし、わかりたいって、思ってるんだろう」




「なんでお前が、そんな、……」



「わかるっての!!」




奥歯を噛み締めた顔で悠斗が苦々しげに言った言葉はしかし、富田の怒鳴り声に掻き消された。



「なんで俺がこんなこと言えるのかって? なんで俺にこんなことわかるのかって? 当たり前だろ、だって俺は、この六年間ずっと、お前の一番近くにいたんだぞ!?」



親友。ギタリスト。同級生。信者。
関係性を呼び表す言葉がどれであったとして、自分は彼の隣に立ち続けてきたのだ。それくらいのこと、わからないはずもない。当たり前だ。「ふざけんなよ」自分を誰だと思っているのか。自分がどれほど近い場所にいたのか、わからないとでもいうのだろうか。
わからずにはいられない。気づかずにいるなど、無理な話なのだ。それはもしかするときっと、この前髪の奥で彼を見る、この瞳が紅い所以なのかもしれないが……だとしても、もしそうだったとしても。
彼の、一番奥深くにあるものを知ってしまったそのときから、自分はずっと願い続けてきたのだ。


「俺じゃ不満か!? 俺の言うことじゃ、俺が考えてることじゃ、足りないっていうのかよ! 俺じゃあお前のことをわかってないってか!? 俺じゃ、わかれないとでも思ってんのか!?」


言葉をきらした悠斗に、富田は叫ぶ。
観客席は沸き上がり、誰もその声を咎めることは無い。ステージで舞うたくさんのエモンガが発した電気の光が、照明と混じり合ってキラキラと輝いた。


「俺は俺なりに、……違う、誰よりも! どんなヤツよりもお前のことをわかってるし、どんなヤツよりもお前をわかりたいと思ってるし、そうしてきたつもりだよ! それは違うか!? もし違ったら悪い、でも俺は、…………お前を一番知ってると思ってんだよ」


テレビや広告などで散々耳にしてきたフレーズが鳴り響く。静かな海にそれだけが聞こえる、一隻の船が奏でる汽笛のような、そんな声。マイクを通して拡散するそれに、客席の皆がときの声をあげる。


「それとも何だ、俺の中の、十六分の一のポケモンが悪いのか!? そうだったらどうしようもねぇな、でも、俺は俺の全部をかけてお前と一緒にいたつもりだよ! 俺は俺の人間もポケモンも全部使って、お前のこと見てきたんだよ! その俺が言ってるんだよ!!」



――このまま、君を連れていくよ……


白く輝いたステージから、そんな歌声が響き渡る。悠斗はそちらに目を向けて、ただ何を言うわけでもなく、少しの間その輝きを見つめていた。絶え間なく動く光の粒子が彼の顔を照らし、奇妙な斑点を描き出す。
荒くなっていた息を整えながら、富田はそのマダラ模様をじっと眺めた。ステージライトがぐるりと回った瞬間に、赤く染まった口が開く。「お前、それはずるいよ」観念したように言った、富田の方に向き直ったその顔は、羽沢泰生のものではあったけれども――そこにいたのは、紛れもなく、富田にとっての羽沢悠斗だった。
彼は、力が抜けたように笑う。お前にはかなわねぇよ、と呟いた悠斗は、会場中を満たす人とポケモン全てが作る、歌声と演奏とSEと歓声のどれにも消えることのない声で、富田にこの言葉を告げた。


「ありがとう、瑞樹」





「あ、悠斗くん達どうしたんですか? 今戻ろうと思ってたとこなんですよ」

会場を一旦抜け出た悠斗と富田に、ちょうど帰ってきたらしい森田が、近くのコンビニのものと思われるビニール袋を片手に下げてもう片方の手を振った。「ちょっと人波に酔ってしまって」「ぎゅうぎゅうですからね、あの中……僕も正直キツかったです」などと富田は彼と言葉を交わす。「だからですね、実は、ちょっと休んでから戻ろうかなって泰さんと話してたんです」
なら、ちょうどよかったですよ。そんなことを言いながら、富田は森田の少し後ろにいる泰生へと視線を向ける。イベント真っ最中の会場外はひどく閑散としていて、係員も入り口付近にしかいないらしく姿が無い。大通りに面していない裏側だという理由もあるだろうが、人通りは皆無でホーホー一匹、イトマル一匹いやしない。会場の中から見るよりも暗く、重い色をした夜空にヤミカラスの声が響いてはいるものの、その姿はどこにも見えなかった。

「じゃあ、少し休んでいきますか。いや、泰さんが……ミタマ達にも聞かせたいっていうから出してみたんですけど、何分まだあの子たちはわかってないですから。微妙な空気になってたとこなんです」

今は無人であるものの、昼間は何かの補強中の工事現場らしい会場裏で、シャンデラとマリルリ、ボーマンダの近くに泰生は立っている。しかしその姿は悠斗なのだ、まさか中身が入れ替わっているなどと思いもしないであろう三匹は、未だ状況を理解していないため、泰生から少し距離を置いている。
シャンデラは浮遊し、ボーマンダは着地の姿勢で、マリルリは落ち着きなく二本の足でうろつきながら、それぞれ泰生の動向を伺うような視線を向ける。その様子に泰生は流石に慣れたようだったが、やはり自分のポケモンにそんな態度を取られるのはなかなか堪えるらしく、仏頂面に僅かなシワを刻んでいた。「どうにかしてあげたいんですけどねぇ」森田が溜息混じりに言って肩を竦めた。

そうだ、確かに今の泰生と、ポケモン達のことはどうにかしたい。富田だって鬼でも悪魔でもギラティナでもないんだから、そうしたいと思っていないわけじゃない。
でも、今は、シャンデラ達には悪いけれども、それより先に――――


「行ってこいよ、悠斗」


そう言って自分の背中を押してきた富田に、悠斗は何か言いたげな顔をして振り返る。しかし富田の、前髪に隠れた二つの目があまりに強い色をしていたものだから、彼は黙って頷きを返すだけだった。
「おい」言いながら、悠斗は泰生へと一歩を踏み出す。富田が手で合図したのを受けて、森田が泰生から離れて悠斗に道を開けた。主人の姿に喜色を帯びたシャンデラ、ボーマンダ、マリルリも、何かを察したらしく親子から遠ざかる。中途半端に欠けた月の浮かんだ曇り空に、ボーマンダの不思議そうに鳴いた声が消えていった。

「なんだ」

ただ一人、泰生だけがいつも通りで、憮然としたまま問いかけた。「何の用だ」彼は不機嫌そうな声で言う。いつもと同じ、悠斗が彼に背を向けてから何も変わっていない、その声で。
悠斗の腹の底で嫌な感情がぐるぐると回る。やっぱりこんな奴に自分が何を言う必要も意味もないんじゃないか、そんな思いが悠斗の胸に渦巻いた。しかし、さっきの富田の言葉が頭をよぎり、続いて駆け巡ったいくつもの記憶に、彼は拳を握り締める。「おい」もう一度その言葉を繰り返し、悠斗は短く息を吸う。


「俺、は…………」








その、時だった。






「――――――――悠斗ッ!!」



悠斗の頭上、『工事中』『立ち入り禁止』の看板が設置された、組まれた鉄骨。

そこから悠斗目掛けて、積んであった支柱が落ちてきたのは。



富田の叫び声が空気を切り裂く。
瞳孔を極限に開いた森田が言葉を失う。
ミタマが、ヒノキが、キリサメが、揃って身体を凍りつかせる。




「え?」




ほんの僅か遅れて、上を見た悠斗がそう言ったか言わないかの、
刹那、彼の視界いっぱいに広がったのは、
濃紺の空から降ってくる灰色の鉄柱たちと、

自分に猛然と覆い被さる泰生の姿で、




「え?」



まるでスローモーションになったかのような時間の中。
富田の腕が伸ばされるが届かない、森田が悲鳴をあげようと口を開ける、ミタマの炎が広がって、ヒノキが全身を震わせて、キリサメが地面にへたり込んで、

悠斗と泰生の目が合って、



勢いよく降り注いだ鉄骨が、泰生の身体を滅茶苦茶に突き刺――――――――



























「あなたの街の便利屋さん――――」



さなかった。
落下してきた鉄柱が、泰生にぶつかる寸前で、一時停止ボタンを押された動画のように、空中に浮いたままピタリと止まったのだ。

皆が揃って硬直する中、ただ一つだけ動く影。
重なり合った悠斗と泰生の少し後ろで、赤い両眼を輝かせているゲンガーは、大きく裂けた口を歪ませた。



「いつもお世話になっております、真夜中屋ですどうもこんばんは!!」



お決まりのセリフが、空に向かって響き渡る。
「毎度ご贔屓にありがとうございます!」身体を固まらせたままの皆の鼓膜を、いつも通りのハイテンションボイスが震わせた。富田の口がどうにかこうにか、『ミツキさん』の形に動いたが声は出ていない。そんな彼にゲンガーは、ばちん、とウィンクを決めてから「いやぁ、いやぁ」とわざとらしい調子で言う。

「空気読めなくってごめんね? こういうときってさ、身を呈して守って救急車ピーポーピーポーで心電図がゼロになって叫んでお前が大好きなんだー! ってのが筋書きでしょ? 生きても死んでも。邪魔してごめんね? でも一回邪魔したから最後まで邪魔するよ、なんてったって僕は街の便――」

『俺の身体で無駄口叩いてるな。ふざけんなよクソ野郎、あと、そろそろいくぞ』

ミツキの長ゼリフを叩っ斬るように響いた電子音声、ムラクモことゲンガーの操るタブレットが読み上げたその言葉に、ミツキは「クソ野郎って……」と割と本気で哀しそうな声を出してから「ま、オッケー」と返事をする。

『ったく、曇ってるし満月じゃねーし、オマケに相性悪いっぽいし、時間かかっちまったな。そのせいで逃がしちまった、最悪』
「しょうがないよ、おかげでわかったこともあったじゃん?」
『まーな、間に合っただけで上等か』

「そうだよ!」交錯する二つの声が、真面目な色に切り替わる。
「いくよムラクモ――」『任せろミツキ――』先程までのやり取りからは想像出来ないほどの剣呑さを帯びたそれと共に、紫の指先が目映い光を纏い出した。天高く突き上げられたそれは、その真ん中に位置する月の輝きを集めているかのように眩しくなって、場違いな美しさをこれ以上無いくらいに解き放って、


「ムーンフォース!!』


その声と共に光を散らして、鉄骨達を木っ端微塵という言葉でも足りないくらいに、吹き飛ばして消してしまった。






「あ、あの…………どういう、ことなんですか……」

数分後。ミツキの誘導により、とりあえず工事現場から離れて安全な場所に移動した一行は、しばらく呆然と立ち尽くし、今この現実、自分が地面に立っていること(シャンデラは浮いているが)を理解するくらいしか出来ることがなかった。
開いたまま塞がっていなかった口からようやく言葉を発した森田の横では、富田が魂の抜けたような顔をして虚空を見つめている。危機一髪を乗り越えた羽沢父子は、未だにその実感が今ひとつ無いらしく、ふわふわした面持ちで立っていた。シャンデラが心ここに在らずといった風に、両腕の燭台から無意識に炎を吐き出している。地面にぺたりと身を投げ出したボーマンダの隣で、動く気力も湧かないとでもいうようにマリルリが丸腹を仰向けにして転がった。
救出の礼も言えずに呆けている一同の中、真夜中屋両者だけがただ楽しげだ。「ん? あー、そうね」などと軽い調子で森田の声に応えたミツキが、ケラケラと笑い混じりの言葉を発する。

「そうだよねー、ゲンガーはムーンフォースなんて使わないもんね。いや、さ。実はこれ話すと長くなるんだけど、ムラクモには秘密が」
「今はそんなことどうでもいいんですよ! なんで、……なんで真夜中屋さんがここに!? 間に合った、って、知ってた、……アレが降ってくるってこと知ってたみたいじゃないですか!」

混乱を抑えきれない様子の森田に、ミツキはようやくふざけるのをやめて「あーね」と笑った。『ま、俺たちだって依頼人に死なれちゃ困るからなぁ』「そうそう、ある程度の警備をつけとくのは当然だよね」そう言った彼らの言葉に合わせ、何もない暗闇から数匹のヨマワルが浮かび上がる。
確かに警備だろうが、これは言い方を変えれば監視とか盗撮の類ではないだろうか……しかも、今回は違うとしてもそういう使い方も全然出来るのでは……そんな思いが、ミツキ・ムラクモ以外の頭をよぎっていった。が、「でも、今回はさ」と、やや声のトーンを落としたミツキに、そのことを口にはしないことにする。ミツキはヨマワルのうちの一匹を紫色の腕で指し示し、「この子が教えてくれたんだ」と言った。

「君たちを狙ってる、呪術師の気配があるってね。だから心配で僕たち自ら来たんだよ、もっとも僕の『本体』が来ると時間かかるから、飛んでこれるムラクモにくっついてだけど」
「え!? じゃあ、さっきのは事故じゃなくて……わざと、なんですか……!?」
「あんな、良くも悪くもあんなタイミングで事故起きるなんてそうそうないよ。マンガじゃあるまいし、現場の人たちの安全管理だってそんな雑なわけないじゃん。アレは事故じゃなくて、呪術で起こした、れっきとした故意の事件だよ」
『あのレベルのピンポイントなんぞ、サファリゾーンで色違いラッキー捕まえるより無理な話だからな。全く無いとは言えないけど、とりあえず今回は違う』

口々にそう言ってのけたミツキたちに、悠斗は短く身震いした。先程、視界にスローで流れた鉄骨の落下が頭の中で蘇る。あれが自分に向けられた、明確な殺意の顕在したものだと思うと、助かったのに生きている心地がしなかった。
その隣で、それまで黙っていた富田がぽつりと呟くように言う。「それって、……悠斗を殺そうと、ってことだよな」静かでいつも通りの平坦さを持ったその声はしかし、そこに孕んだ怒気が抑えきれずに溢れ出していて、森田と泰生、ポケモン達は微妙に顔を引きつらせた。「いいって、瑞樹……」慌てたように声をかけた悠斗に、「そうだよ。下手にこっちから手を出すと共倒れになるかもしれないからね」『不用意に動くより泳がせとこうぜ』などと、ミツキ達が若干ずれたフォローをする。

「まぁ、思わぬ収獲もあったしね。今日は何も無かっただけでいいってことにしよう」
「収獲?」
『さっきの呪いをやらかした奴、多分本人なんだ。似てるとかそういうんじゃない、お前らにかかってるのと、バッチリ一致』
「悠斗くんたちに変化があって、焦っちゃったんだろうね。馬鹿だよねー、大将自らノコノコ出てくるなんてさ、まぁそれ以外どうしようも無かったんだろうけど、おかげで僕たちは直接、奴さんの質を掴めたわけだし。流石に今は取り逃がしちゃったけど、使ったポケモンも大方予想がついたし、ね」

思わぬ進展に、え、そうなんですか、と森田が期待の混じった声を出す。
「そうそう! ムラクモのムーンフォースの効きが悪かったからさ、それでゴーストポケモンで今回のに合致するようなっていうと、それは、…………」が、ミツキはそこまで言って言葉を切った。赤い瞳が、その場に居合わせた者達をぐるりと見渡す。「ま、それはちょっと、置いとくとしてさ」言いながら歩き出した彼は、森田と富田を自分の方に来るように手の動きで示しながら、まるで小さい子どもを見守るような、温かく優しい溜息をついた。


「アレが降ってくる前にしようとしてたこと。ちゃんと、やっちゃいなよ」





「何の用なんだ」

会場外に取り残される形になり、泰生はイライラした口調でそう尋ねた。フェスの真っ最中であるため相変わらず人の気配はなく、ポケモンすら姿を見せないほどの静けさである。ニャースやコンパンらしき声が、小さく響いてくる歌声や歓声に混じって時折聞こえるからいるにはいるのだろうけれど、動く影は見えなかった。少し離れたところで悠斗達をうかがう、シャンデラ達三匹をおそれて隠れているのかもしれないが。
ともかく、そんな静寂で――泰生は、何も言わずに突っ立っている悠斗に苛立っているようだった。「用があるなら早くしろ」そもそも昨日の今日で、悠斗と二人でいることだって避けたい状況なのだ。「何も無いなら、俺はミタマ達と戻ってるからな」シャンデラらの方をちらりと見て、泰生は不遜な声で言う。

が、悠斗の方はその苛立ちなどかまっていられなかった。
またそれか、そんな思いが腹の底で唸る。泰生は何気無く言っただけなのであろうけれど、その何気無さも自然さも無意識も全て、悠斗は苦しくてならなかったのだ。

そう、今まで、ずっと。


「…………っで、助けたんだよ」


絞り出すような声で言った悠斗に、泰生が視線をそちらへ戻して首をかしげる。「は?」彼が何を言ったのかわからず、聞き返した泰生に、悠斗は今度こそ我慢がならずに叫んでしまった。


「じゃあなんで、どうして俺のこと助けたのかって聞いてるんだよ!!」


抑えられなかった。
今まで長いこと、あの日を境に溜め込んできた感情は、あまりに力任せな言葉となって喉奥と口をこじ開けた。


「俺なんか助けなくていいだろだってお前はポケモンの方が大切なんだから!! ポケモンがいればいいなら俺を助ける必要なんてないだろ!? むしろよかったじゃないか、そりゃ結果的にミツキさん達が来たけど来なかったら、俺が死んだ方がお前はもっと長い間ポケモンといられたんだからそっちの方がいいに決まってんだろ!? だってお前は俺なんて必要無いんだから!!」


違う。言いたいのはそんなことじゃない。そうじゃない、自分はこんなことが言いたくてここに残されたんじゃないんだ、富田に背中を押してもらったんじゃないんだ、今の今まで気持ちを抑えつけてきたんじゃないんだ。そんな焦りだけが頭の奥をぐるぐると駆け巡った。だけど口から溢れ出ていくのは馬鹿みたいにつたなく不格好な言葉ばかりで、蓄積した想いはいつの間にやら不器用に屈折して形を歪ませてしまったのだと思い知らされた。
こんなの。こんなの違う。そう何度も叫びたいのに、自分を止めたいのに、そう出来ないでいる悠斗の吐き続ける言葉を、泰生は黙った聞いていた。



「お前はポケモンといれればいいんだ、わかってるよ!!」



そうなんだよ。わかってるんだよ。

悠斗は、心の中で絶叫する。
俺は全部、わかってたんだ。




「ポケモンだけいれば、それだけでお前が満足だって!!」





自分が本当は、父にどうしてほしかったのかも。
ポケモンとどうありたかったのかも。

どれくらい、彼らに自分を見てもらいたかったのかも。




「俺のことなんか、嫌だけど俺はお前の子どもだけど、それでも俺のことなんかいらないんだよなわかってんだよ!!」




普通の親子みたいに、父に笑ってほしくて、叱ってほしくて、当たり前のような顔で一緒にいたかった。
普通のポケモンとトレーナーのように、力を合わせて、楽しくすごして、色々なところに行ってみたかった。

羽沢さんのおかげで今の僕があるんです、なんて相生がためらいの欠片もなく言ったとき、それがどれほど羨ましかったか。
泰さんの姿を見てこの人についてこうって思ったんですよ、なんて森田が心の底から出ているような声で言ったとき、それがどれほど眩しかったか。
相生や森田だけじゃない、世界中の無数のトレーナー達が、羽沢泰生という人間に希望を見出し、夢を求め、素直に憧れていくそのことが、どれほど羨ましくて眩しくて妬ましくて苦しくて――どれほど、そうなりたいと望んだか。


どれほど、自分だって、泰生から、ポケモンから。
何かをもらいたいと思っていたのか。




「わかってるよ、そんくらい!!」




そんなこと、全部、自分はわかってた。



「違う」



そうだ。
そのことだって、知ってるんだ。





「それは違う、悠斗」





本当は、とっくの昔からわかってた。

父の、自分を見る目のことも。
至る所で見かけるポケモンとトレーナーの並ぶ姿が、どんなものであるのかも。

自分が捨てたと思い込もうとした世界なんて、本当はそんなに悪いものじゃないことくらい、全然、理解出来てたんだ。


「俺は、そんなことを考えたことなど、今まで一度だってない」


泰生がただ、自分の気持ちを伝えるのが人並み外れて下手なだけだということも。
ポケモンは自分と一緒にいることの出来る、一緒にいてくれる存在だということも。

あの日のシャンデラが自分に炎を発したのは単に怪我した部位を触られて驚いただけだということも、駆けつけた泰生は怒っていただけでなくむしろ悠斗が再度危険な目に遭わないよう注意喚起したにすぎないことも、彼らに拒絶などこれっぽっちもされてないことも。


本当は、わかろうとしないのは泰生でもポケモンでもなくて、自分だけだということも。


「もしもお前が、俺がポケモンだけいればいいと思ってるのならば、……それは、悠斗。お前の勘違いだ」





全部、全部、わかってたんだ。

そのくらい。





「…………わからなかった、のか?」


「わからねぇ、よ…………、」


悲痛な色を帯びた、悠斗の張り裂けるような声が口から逃げていく。
だってずっと不安だったのだ。
怖くてならなかったのだ。

もしもそうじゃなかったとしたら、と考えるたび、もしも本当に泰生が自分のことを嫌いだとしたら、ポケモンは皆自分のわからない存在だったとしたら。
そう考えるだけで、世界は本当に半分しかないと思うだけで、深い闇の底に叩き落とされるような気持ちになったのだ。


「わかりたかったけど、無理だったんだよ……! 俺はそれが出来なかったんだ、出来ないまま、そのまま、ここまできちゃったんだよ……俺は、ずっと、お前に、」


周りの人達には恵まれていた。
音楽を始めてからはファンもついて、自分を必要としてくれる人も現れた。
何があっても自分から離れない富田に、不安で空いた穴の分を埋めてもらおうとして、彼が自分を求めてくるのをよいことに自分も彼に求めていた。

だけど、結局、無理だったのだ。
富田の言うように、泰生に拒絶される恐怖もポケモンとわかり合えない絶望も、それ以外で消し去ることは出来なかったのだ。

自他共に見せつけるため、ポケモンから離れても。
トレーナーの泰生へ言外の抗議をするように、旅にも出ず、ポケモンを伴わない音楽を選んでも。

どれだけ他のことに意識を向けて、世界は半分で十分なんだと言い聞かせた、ところで。


「悪かった」


結局のところ、自分はずっと、その言葉か聞きたかっただけなのだ。

ずっとずっと、泰生に、そう言ってもらえればよかったのだ。


「俺は、お前が何よりも大切だ。今の俺はきっと、お前がいなければ何も出来なくなるししたいとも思わなくなる、お前が生まれてからずっとそうだ。お前がいない世界なんて考えられないし、お前に嫌われたくない、お前といられなくなるのはきっと無理なんだ。俺は」


喉の奥から目にかけて、熱が急速に昇ってくるような感覚に悠斗は声を出せなくなる。何も言えない悠斗へと、泰生は言葉をさらに続けた。


「お前や、お前の友人が言うように、俺は真琴に会うまでポケモンとだけ生きてきた人間だし、それを選んだ人間だ。だから人間と生きてきてこなかった。だからお前に何かを伝えたくてもうまく出来ないし、伝えてるつもりで伝えられてないというのもあるに違いない。それに俺はポケモントレーナーだから、ポケモンのことも大切だ。それは譲れないし、プロの選手として生きてく以上そうしなくてはいけないから、ポケモンに対して気を抜いたりぞんざいにしたりというのは出来ない。何よりポケモンは、真琴やお前と会うまでの俺にとっては唯一だったんだ。そこを比べて、お前とどっちが大事とかそういうことは、考えられない」


それでも、と強く言って、泰生は悠斗の眼を見据える。




「俺は、悠斗が大事なんだ」





わかってくれ。熱を持った声でそんなことを言った泰生に、悠斗は「おせぇ、よ……」と震える息で返事をした。「遅えんだよ…………!」その怒りともどかしさと、抑えられないほどの激情が、果たして父と自分のどちらに向けられているのか、悠斗自身にもわからなかった。
「すまなかった」泰生は静かに呟いた。「悪かったな、悠斗」言いながら泰生は悠斗へと歩を進め、悠斗の首にそっと手を回した。自分を抱きしめているのは他でも無い、今の自分よりもいささか小さく細身な悠斗の身体だったけれども、それでも、父の身体をそう出来るくらいに自分が大きくなっていたことに、悠斗はとても驚いた。

いつの間にそれほどの時間が経っていたのかと思ってしまうくらいには、久方ぶりのことだった。
それくらい、自分達は先延ばしにしていたのだ。
こうして言葉をぶつけ合うのも、お互いのことを見るのも自分を見るのも、相手のことを抱きしめるのも。

何もかも。



「遅いんだよ…………」



自分の目よりも若干下にあるつむじを右手で引き寄せ、そこに顔を埋めるようにして悠斗は声を揺らした。「ずっと、こうしたかったのに」背中に回された泰生の手が、温かな動きでそこを撫でる。「ずっと、こうされたかったのに」十何年前に戻ってしまったように、悠斗は途切れ途切れの言葉を吐く。どうしようもない我儘を言っていると頭の片隅で理解はしたけれど、もはや抑えられるものではなくなっていた。「ずっと……、!」
「悠斗、ごめん。悠斗」そんな、小さい子どもみたいな悠斗を、泰生はただただ抱きしめていた。最後にこんなことをしたのが一体どれほど昔のことなのか、わからなくなってしまったのがひどく悲しかった。今自分がこうしていられること、自分の息子が、父である自分を腕に収めることが出来るほど育っていたのだと、今更知ったことが、底無しに不甲斐なかった。


「悠斗、悪かった、すまなかった、本当に……今まで、ずっと」


埋めることも取り戻すことも出来ないくらい長い時間に、泰生はその言葉を繰り返す。肩に預けられた悠斗の頭がふるふると横に振られて、「俺だって」と消え入りそうな声がした。「俺だって、ごめん」


「ずっと何もしなくて、ごめん」


肩を掴み、そんなことを言った悠斗に、泰生は「遅かったな」と少しだけ笑った。自分の肩のところで、悠斗が頷いたのかわかった。
しばらくそのまま顔を埋めていた悠斗が、ゆっくりと泰生から離れて照れ臭そうに視線をさまよわせる。「これでいいなら、」少しだけ高いところにあるその目に向けて、泰生は迷いのない口調で言いきった。


「今までの分も今からやる。いくらでもやる。お前がわかってくれるまで、何度でも言う。何度でもこうする。毎日、何回でも、俺はお前が大事だって言ってやる」


真剣な顔で、小さな子どもみたいなことを言い出した泰生に、悠斗は思わず苦笑した。
「いいよ、もう」笑い混じりの声で悠斗は返す。「もう言わないでも」即答で断られた泰生は、何を、とあからさまにムッとした顔をした。「お前は本当に、こんな時に……」

泰生が呻くように文句を吐く。その、どうしようもないほど不器用で口下手で、しかし何よりまっすぐな姿を見ているのが苦しくて、悠斗は俯いて視線を逸らした。これ以上直視していたら、さらなる何かがもっと溢れ出してきて、きっと立っていられないと思った。
「もう、いいから」目を伏せたまま、悠斗は言う。怪訝そうな顔で首を傾けた泰生にだけ聞こえる声で。「もう言わなくていい」




「もう、わかったから」




だから、もういい。
それだけ言った悠斗のことを、泰生は二、三秒黙って見つめていたが、それから数歩近づいて、今の自分のそれよりも少し高いところにある頭を数度、優しく叩いて頷いた。

と、彼らの様子を遠巻きに見守っていた三匹が、何やら落ち着いたらしい雰囲気を察して遠慮がちに距離を詰めてきた。ボーマンダの羽ばたく音と、マリルリのぴちゃぴちゃという足音が、会場の方からうっすら響いてくるノイズ混じりの歌声と絡み合う。
すう、と空中を滑るようにして、シャンデラが悠斗と泰生の顔の真横まで飛んでくる。やや無機質ともいえる、ぽっかり空いた金色の瞳を丸く開いた彼は、二人のことを交互に見遣った。自身のトレーナーの形をした悠斗と、十二年間自身を疎み続けてきた者の形をした泰生。そのことがシャンデラにわかったかどうかは計り知れない。魂を燃やしているという蒼い炎が宿ったその頭の中で、彼が何を考えたのかは他の誰の知るところでもない。
ただ、彼がそこで、二人の間で何かが進んだということを理解したのは確からしい。


「…………ミタマ?」


しばらく二人を見ていたシャンデラだったが、少ししたところで、すぅと悠斗の方へ身体を寄せた。泰生が若干面白く無さそうな顔になり、悠斗は困ったような笑みを浮かべる。やはりそういう認識なのか、と二人が思ったその時、だった。
シャンデラは悠斗の両目をじっと見つめて、自分の身体の右側、右腕にあたる燭台を悠斗へと差し出した。金色の瞳は穏やかで、あの日から何一つ変わっていない、そもそもあの時だって本当はきっとそうだったのだろう、彼がずっと、悠斗に向けていたものだ。ただ、悠斗が見ていなかっただけで、本当はずっとこの眼をしていたのだ、彼は。

悠斗がその場所に手を伸ばすと、シャンデラは嬉しそうにその瞳を細めた。きゅう、と緩んだ彼の笑顔が、悠斗に向けられたものか泰生に向けているものかはわからない。それでも、彼があの時触らせなかったその場所に、悠斗のことを受け入れたのは紛れもない事実だった。
柔らかに揺れる蒼の炎が燃える、丸い身体を両手で抱き寄せて、悠斗はシャンデラの顔に自分のそれを押し当てた。「そうだよなぁ」そう呟いた悠斗に、シャンデラは軽く身体を揺らす。
二人を包むようにボーマンダが大きな翼を広げて、マリルリがそれぞれの足に一本ずつ腕を伸ばした。顔の見えない悠斗の背中に、泰生は再度手を回す。かける言葉はそれ以上、お互い持ち合わせていなかったけれど、今まで顔を突き合せるたびに陥っていたそれとはまるで違う、居心地の悪くない沈黙だった。




「いやー、生のぬめりんステージは最高だったね! あのバカっぽさというか微妙に出来てないMCとか、ぬめりんにしか出来ないもんね!」
『うるせぇアホミツキ、ぬめりんよりもサナ様だろ! 女子アナ並の知的美人なんだからな、サナ様こそ至高だって』
「ムラクモ脚フェチだもんねー、自分が昔無かったからってさ! 確かにサナ様も綺麗だけどー、それだったらろっぷたんの方がさー」
『ろっぷたん美脚だけどちょっと毛深いからな。俺は女の子は、いや、アイドルだけでいい、アイドルには毛が生えてないで欲しい派なんだよ』
「お二方とも詳しいですね……人間のアイドルもポケモンアイドルも全然わからなくてすみません、っていうかムラクモさん、ろっぷたんさんは毛深いとかそういう次元ではないのでは……?」

賑やかな話し声に二人が振り向くと、フェスをちゃっかり楽しんできたらしい真夜中屋両氏、および若干取り残され気味の森田、「悠斗!」と駆けてくる富田が会場の方から向かってくるところだった。


「悠斗、…………」


富田は悠斗の横まで走ってきて止まり、もう一度名前を呼ぶ。次いで彼は、何か聞こうとしたようだったが、その必要が無いのだと感じ取ったらしかった。
悠斗と視線を合わせ、富田は表情をふにゃりと緩めた。安堵と、喜びと、ほんの僅かな寂寥と、確かな嬉しさが入り混じったその顔は、悠斗が初めて見るものだった。ふわ、と浮かび上がったシャンデラの炎が二人の頭に光を落とす。手のかかる子どもを見守る大人のように笑った森田の横で、ミツキとムラクモが紅い目を細くした。ごほん、と咳払いをした泰生はしかし、その口元を確かに緩ませる。

「あー、……あのさ、真夜中屋さん」

そんな雰囲気が恥ずかしくなったらしく、少し経ってから悠斗が遠慮がちな声を出した。「さっき、アレが落ちてきたのが呪いのせいって言ってて、それはわかったんですけど」

「犯人の気配を直接……みたいなこと言ってたじゃないですか」
「ああ、うん。言ったね?」
「根元さんじゃないんですか? 犯人、って」

そう尋ねた悠斗に、先に発声したのはムラクモだった。ただし、それは『おい、お前言ってなかったのかよ』というミツキへの呆れ声ではあったけれど。
ダメ出しされたミツキは、「あぁー」と情けないような呻き声を上げる。瑞樹くんたちには言ったんだけど、タイミング掴めなくってさ、などと言い訳をしつつ悠斗に説明する。

「実は調べてみた結果さ。あの人じゃなかったんだよね、あの人今まで一度も呪いなんかやったことないっぽくて」
「え、そうだったんですか!? 俺完全に、あの人だってつもりでいたんですけど」
「だよね、悠斗くん! 僕もそう思って……」


「何言ってるんだ、お前達」


驚く悠斗と、それに頷いた森田の声に、突如泰生が口を挟んだ。え、と皆が同時に首を捻る。不思議そうな顔をする面々の中、泰生は当たり前のような声で言った。

「あいつがそんなこと、するはず無いだろう。あの男は本当に馬鹿でどうしようも無いが、そんなやり口で、お互いのバトルが不十分なものになるような真似は絶対にしない」
「え、泰さん、……?」
「そこだけは真剣なんだ、あいつもポケモントレーナーだからな。いくら阿呆でも、戦法がねちねちと汚くても、バトルコートに立つことだけは、……認めがたいが、俺の知ってる中では一番、……真剣な奴だから」

もー羽沢さん、それならそうと早く言ってくださいよ。ミツキはプリプリと怒ったように言い、富田はがっくりと脱力する。悠斗は泰生が珍しく、曲がりなりにも人を褒めているということに内心驚いた。
その脇で、森田は黙って頭の中だけで考えを巡らす。どれだけスキャンダルを重ねても、不思議と落ちない根元の評判。いつだって一定数から減ることの無い、彼が抱えるファンの数々。コートの彼を困り顔になりつつも見守っていた、マックスアッププロダクションのスタッフ達。

「そうだったんですか」

なんとなく答えへの道が見えた気がして、森田は泰生に、どこか独り言のような声でそう言った。


「あっ」

不意に泰生が声をあげる。何事か、と皆の視線が泰生に集まり、そして彼が見ている先に移動した。
そこにいたのは、一匹の小さなコラッタだった。丸い耳をぴくぴくさせ、会場案内の看板に隠れている様子は、泰生達のことを伺っているものと見える。

「珍しいですね、一匹だけなんて」
「街中だと少なくないよ、群れで動くのはどちらかっていうと草とか木とかあるとこだし」

そんな言葉を交わす森田とミツキの横で、泰生がコラッタに一歩を踏み出す。が、そこで彼は足を止めた。数週間前のタマムシ大学構内で、同じように近づこうとして逃げられたのを思い出したのだ。
しばし考えて、泰生はその場にしゃがみ込む。「泰さん?」森田が不思議そうに尋ねた。それには答えず、泰生はコラッタと目を合わす。


「おいで」


コラッタに向けて手を伸ばし、泰生が言った。


「お前と、一緒に遊びたいんだ」


その声を聞き、コラッタがおそるおそる、しかし一歩ずつ泰生の方へ近づいていく。やがて鼻先で手に触れてきたコラッタを泰生が抱き上げると、紫の小鼠は嬉しそうに目を細めた。
「こうすれば、良かったのか」その背中を撫でてやりながら、泰生が独り言のように呟いた。「これだけのことだったのか」顔を埋めるようにして俯き、少しだけ震えた声でそう言った泰生に、森田が言葉を伴わない笑みを向ける。富田がやれやれというように溜息をつき、ミツキとムラクモの両者の総意で裂けた口許がニッと歪んだ。シャンデラが炎を優しく揺らして、ボーマンダが楽しげな咆哮をあげて、マリルリが青い拳を天高く突き上げる。
そして、悠斗が泰生の隣に立ってそっと告げた。「そうだよ」彼は言う。


「そうだったんだよ」


空に浮かぶ月は相変わらず中途半端に欠けていたけど、いつの間にか雲は晴れていた。イベントが終わった余韻と寂しさと、満ち足りた幸せに浸りながら会場から出てきた客達の声が響き出す。
冷たくも穏やかな風が走っていく秋の夜は、ちょうど心地の良い柔らかさを以て、皆を包んでいるようだった。


  [No.1433] 第十二話「七転八起」 投稿者:GPS   投稿日:2015/12/04(Fri) 17:27:48   35clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

「先日は、ご迷惑をおかけしました」

翌日、クチバシティのマックスアッププロダクション。そこに訪れている悠斗は、港町が一望出来る高層階に設けられた根元の控え室で、深く頭を下げた。
謝罪の理由は、一昨日行われた練習試合での悠斗の失態――表向きには体調不良でも真実は呪術による精神錯乱だが、どちらにしてもせっかく時間を割いてやっていたバトルを中断したことに変わりはない。その分の時間を無駄にした根元にも、バトルコートを空けてくれたマックスアッププロダクションにも申し訳無いことをしたのは事実である。そう考えた悠斗は、根元に挨拶をしに行きたいということを森田に頼んだのだ。

それにしても――と、悠斗の少し後ろで一緒に頭を下げながら森田は思う。こうして、スケジュールの合間を縫ってまで、足を運びたいと彼が言い出したのはどこからくる気持ちなのだろう。悠斗が元々持ち合わせていた、社交的にして世渡り上手、それでいて情に熱いところもあって一度抱いた信念は良くも悪くもなかなか覆せない頑固者、というところが多かれ少なかれそうさせているのは確かだとは思う。
しかしそれ以外にも、と森田は期待せずにいられない。たった数週間のことだけど、その数週間を通して、悠斗が少しでもポケモントレーナーというものの片鱗に触れることが出来たなら。長らく目を背け続けてきた存在がどんなものかを、父親が生きる世界はどんな感情に溢れているのかを、清濁共に垣間見れたなら。決して短いとは言えない間、泰生と悠斗の関係を見ていた森田は、そんなある種のお節介な願いを持たずにはいられなかった。

ところで泰生だったら同じことをするだろうか、とまで考えて、そもそも泰生は謝るべき状況など引き起こさないに違いない、という結論に思い至った。もっとも今回の件だって悠斗だけが悪いのでは無いけれど、もしも同様に呪いをかけられたとしても、泰生はあそこまで……バトルが出来なくなるくらい、取り乱すことも混乱することも無いだろう。だって彼は、そういう人間なのだ。
バトルコートを生き場所とした、そういう類の人間なのだから。

「…………迷惑、ねぇ」

そして、それはおそらく、この男だって同じなのだ。
膝に乗せたニャオニクスの白い毛並みを撫でながら悠斗の言葉を聞いていた、根元は気障ったらしい笑みを浮かべて片頬を掻く。カーペットの敷かれた床めくつろぐようにしていた、ミロカロスの流麗な瞳が悠斗と根元を交互に見た。根元の隣、ソファを一人分陣取っているミミロップが長い足を組み、興味無さげに欠伸をする。
「わざわざ此処までご足労してくれたのは悪いんだけどさ」顎に指を置き、根元は考え込むような顔を作る。

「でも、それってちょっと違うと思んだよね。僕は」

そうでしょ、羽沢君? 問われた悠斗は、根元の返答に言葉を詰まらせる。どういうべきかわからず、黙ってしまった悠斗をどう取ったかは定かで無いけれど、根元は穏やかな手つきでニャオニクスを膝から降ろして立ち上がった。「だからね」渋い声が部屋の空気を揺らす。悠斗の目の前に立った根元が、悠斗の顔をじっと見た。
バトルを生き様にするという、覚悟を決めた者の眼で。


「今度はさ、ちゃんと、ポケモンに報いるだけのバトルをしよう」


お互いに。
そう言った根元に、数秒遅れて悠斗は慌てて頷いた。気取った笑みを浮かべたまま、根元が悠斗の背中を二、三回軽く叩き、楽しそうな息を吐く。仕切り直しとなる練習試合の日取りを決めるためにスケジュール帳を鞄から取り出して、森田は二人には見えないところで苦笑した。
根元にもう一度礼をしながら、悠斗はわかったような気がした。あの時彼が言った『失礼だから』という言葉が、誰に向いていたのか、ということを。





同じ頃――泰生はまだ家で、自分が歌うことになるかもしれない、キドアイラクの曲を色々と聴き込んでいた。

「大学には行かなくていいの?」

声をかけた真琴に、泰生は耳にはめていたイヤホンを外しながら答える。「今日は午後からだと言われたからな」ちなみにこの携帯プレイヤーは以前悠斗が使っていたもので、富田は口頭でのレクチャーに加えてA4のコピー用紙に使い方を懇切丁寧に書いて渡してきた。つくづく細かい、まるでポケモンの能力を分析する『ジャッジ』と呼ばれる職に就いているような男だ、というのが泰生の率直な感想である。「学校なんて何十年も行ってないし大学は行ったことすらなかったから、勝手がよくわからん」読めない楽譜を必死に睨みつけながら、泰生は憮然とした声で言った。
それを聞きながら、真琴は泰生の隣の椅子に腰掛ける。「悠斗とは大丈夫なの?」真琴はそう尋ねこそしたものの、その声と目は泰生の答えをわかっていそうな色をしていた。それを感じ取った泰生は、少々気恥ずかしさを覚えて「まあ、な」と口をモゴモゴさせる。

「本当は、もっと前から、どうにか出来たと思うのだが」

そう付け加えた泰生に、真琴は頷く。「わかってたわよ」穏やかなその声に、泰生は少しムッとしたような顔になって、「じゃあ、教えてくれても良かったじゃないか」と唸るように言った。

「何言ってんの。あなたと悠斗のことなのに、私がどうこう出来るわけがないじゃない」
「………………そりゃあ、」

きっぱりと言い切られ、泰生は返す言葉を無くしたように黙り込む。確かにそれはそうだけど、という思いを口の中だけで転がしていると、真琴が「まあ、私も」と申し訳なさの混じった声を出した。「悠斗の味方にもなりたくて、それにやっぱり悠斗の気持ちもわかるから」久々に聞く穏やかなその声が、羽沢家のリビングに響く。「あなたに、あんな態度を取り続けてたわけだし」
それを聞き、泰生はぽつりと呟く。「お前もやはり、俺の態度じゃわからないか」昨夜、悠斗に言われたことが頭の中に蘇る。自分が度が過ぎた口下手なことも人付き合いがひどく苦手なことも、どうしようもないレベルで不器用なことも、そのつもりはなくても与える威圧感が特性:いかくのポケモン以上であることも少なからず承知の上だけど、それでも不安になってしまったのだ。「俺のことがわからないと、そう、思うこともあるのか」悠斗の言葉を思い出しながら言った自分の声は、少しばかり震えを持っていた。

「一昨日、悠斗に『お前にはどうせわからない』って言われた時……本当に悲しかったんだ。自分でも驚いた。別に何ともない言葉なのに、聞き流すようなものなのに、信じられないくらい辛かったんだ」

トレーナーとしての才が極まるに比例して、散々言われてきたその言葉は、どれだけ言われても構わなかった。どんなに多くの者が自分を妬み、嫉み、憎み、才能だの実力だのを理由にして勝手に嫌って勝手に怒っても、泰生の気に留めるところでは無かった。自分に関係無い有象無象が外野で何を絶望しようとも、そんなのしったことでは無かったのだ。
だけど、例外があった。センパイにはそんなこと言われたくないんだ、という二ノ宮の声が頭をよぎる。自分も彼と同じだ、どれだけ浴びせられてもどうってことないはずの言葉が、全く同じ響きであっても、悠斗に言われるというだけでどうしようもなく重く悲しいものに変わる。
お前には、お前にだけは。そんなこと言ってほしくないのだと、必死に叫びたくなってしまうのだ。

「それは、お前……真琴も、そうだ。お前にも言ってほしくないし、思ってもほしくない。そんなことは……思わないで、ずっと。お前と、悠斗と、そしてミタマとヒノキ、キリサメには、そう思われないでいたいんだ」

全てを失ったと思っていた泰生に、残された数少ない存在。それが真琴であり、シャンデラ達であり、悠斗だった。
もう無くしたくない、せめてこの、自分に残されたものだけはもう失うようなことになってほしくない。それが泰生の、心の奥深くに根付いた願いだった。泰生自身すら気づかないほどの、奥にしっかりと根を張っている望みだったのだ。

「言われなくても」テーブルに乗せた拳を握りしめた泰生に、真琴はゆっくり笑みを浮かべる。「私は、約束を破ったりしないから」底無しの不安を埋める、天井知らずの安堵を与えるような声だった。

「あの子達だって、多分同じことを思ってるわよ」

「うむ…………」

ほんの僅かに顔を赤くして、小さく頷いた泰生は「そりゃあ確かに、もうちょっと、わかりやすくしてくれれば良いとは思うけど」という真琴の言葉に、う、と詰まる。「努力する」と呻くように言った彼は悠斗の見た目もあいまって、しかし悠斗本人よりもずっと幼い子どもにしか見えず、張った意地をどうにか解こうとしている様子に真琴は思わず吹き出した。
そんな真琴に少々不満を抱きつつ、泰生は「それにしても」と未だ不安そうな声で言う。まだ何かあるの、と問うた真琴に、彼は「いや、」とぼそぼそした口調で言った。


「お前も、ミタマ達も……本当は俺みたいな、バトル以外はロクに出来ないような、こんな奴のところにいるのは、勿体無いんじゃないかと思って……」

「当たり前じゃない」


自信なさげに言われたそれに、間髪置かず頷いた真琴に泰生は絶句した。
当たり前。今の流れでそれはないだろ。しかもそんなにハッキリと……。などとツッこむことも出来ず、ショックの大きさに口を震わせる泰生の顔をじっと見て、真琴はごくごく当然のように告げた。


「私は私が愛した人の妻で、あの子達はあの子達が愛したトレーナーのポケモンだもの」


惜しげも無くそう言ってのけた真琴に、泰生は数秒無言になる。「そうだな」ゆっくりと首を縦に振って、泰生は真琴へ笑顔を向けた。「どんなものだって、勝てないな」
真琴は楽譜を持つ泰生の手に、自分の手をそっと重ねた。久しぶりに見たような気がする、そのくせずっとそばにあったのだとも思えるその笑顔は、帰る場所を失った泰生に新しい居場所を作ってくれた、どんなときでも離れないと約束してくれたときの真琴と――――


「これからも、俺のそばにいてくれ。真琴」


同じように、美しかった。






「この前は悪かった、有原」

その頃、タマムシ大学部室棟地下一階第二練習室――お互いに若干なんとも言えない顔をして集まったキドアイラクだったが、ガヤガヤとうるさい廊下と部屋とを隔てる扉を閉めるなり、富田がそう言って頭を下げた。無言で、しかし無条件にセッションの準備をしていた、アンプ脇の有原と、そして泰生と二ノ宮の顔が一斉にそちらに向く。
「言っていいことと、駄目なことがあるってわかってんのに、お前の嫌なこと言ったよな」ベースケースに手をかけたままの姿勢で、面食らったように目を丸くしている有原に、富田は迷いの無い口調で告げた。「本当に、ごめん」

「いや、いいって、別に……大体アレは、仕方ないことだろ? お前だって、好きであの、『シンクロ』だっけ? しちゃったわけじゃないんだし……」
「そうだけど。わかったからって、それを口に出していいわけじゃないから。だから、すまなかった」

きっぱりと言い切った富田に、有原はしばし逡巡するように視線をさまよわせる。数秒の間、彼はそうして言葉を選びあぐねていたらしいが、やがて「それは、俺も」と観念したように息と言葉を同時に吐いた。

「悪かったってのは、俺も同じだ。お前にひどいこと言ったのは俺が先だし、あんなの……言っちゃいけないよな」
「いや、俺もあんなに怒ってごめん、でも……俺は多分、お前の言った通りにしかなれないから。悠斗を理由にしてしか動けないから、これまでもだけど、これからも。それが俺なんだ。だから、」

富田がそこまで言ったところで、「うん」有原が片手を前に出してそれを止めた。「そうだな」そう言って少し笑った、有原の表情は穏やかだった。「わかってるよ」
それに富田が頷くと、有原は富田から視線を外して二ノ宮の方を見た。「お前にも。ごめんな」ドラムセットのネジを調整していた彼は、「えっ」と声を裏がらせて振り返る。「お前にはわかんないとか、……今回に限った話じゃないけど、あんなこと言って、ごめん」

「あ、それは俺も……」

「いや、違うんだ」

二ノ宮の言葉を遮り、有原は首を横に振る。「お前が思ってるようなものじゃないんだよ」ぽかんと口を開けた二ノ宮に、身体ごと向き直った有原が続けた。

「お前が思ってるようなのじゃなくて、勿論それもあるけれど、それより……俺は、お前見てると、焦るんだ」

「………………?」

「ほら、わかんねぇだろ……いや、すまん。俺は、お前のそういうとこがいいと思ってるし、それでいいっても思うけど。でも、さ……俺はお前が思ってるような人間じゃないから。もっと汚くて、馬鹿だし、カッコ悪いから」


「……センパイ?」と言葉尻を上げた二ノ宮に、有原は少し苦笑して、「お前のそういうとこが、お前と一緒にやれてて嬉しいって思うと同時にさ」複雑な感情が混じり合った声で言う。
彼らの会話を聞きながら、泰生は先日の一件で、富田が言ってしまったことを思い出した。『ベースのことも家族のことも勉強もうまくいってないからって』――ファミレスで聞いた二ノ宮の話に感じた違和感というか、どこか足りない感覚がピタリとハマって腑に落ちる。今まで自分に向けられてきた多くの言葉、そこに少なからず含まれていた成分。泰生はそれに覚えがある。
それは簡単なことで、しかし二ノ宮にはおそらくわからない、そして他に別のものを見続けている悠斗や富田、また泰生にも本当の意味での理解は出来ないかもしれない、『劣等感』という感情だったのだ。

「不安になるんだ。あと、嫉妬もする。嫌にもなる。自分にも、あと、ひどいと思うけど、お前にも。俺だって頑張ってるのに、なんでこうも、とかさ。才能とかそういうのでどうこう思うの、勝手に嫌いになったり憎んだりするの、したくないんだけど、でも、どうしても」

馬鹿みたいだろ? けらけらと笑って、しかしそのくせ、有原はつり目がちの瞳を床へと伏せた。「お前のドラムはすごい。俺はそう思う。お前の音楽が好きで、一緒にやれて嬉しいって思う」ジーンズの生地を握る手が震える。「でも、時々、消えたくなるし、消したくもなるんだよ」


「お前と意見が分かれたときとか。俺だけ違うこと言ってるときとか。俺は間違ってるのか、やっぱり俺は駄目なのか、とか、そういうこと考えるわけ。で、行き着く先はいつも一緒。俺なんかいなくなればいいのに、と、俺より上手い奴がみんないなくなればいいのに、って」

「……………………」

「だっさいだろ? でも、俺はその程度なんだよ。そんな器なんだ。だから思っちゃうんだ、お前にはわからない、ってさ。こんな汚くて、馬鹿みたいで、カッコ悪い奴のことなんか、お前には一生わかってほしくないし……わかろうとしたとこで、絶対、わかんないんだろうって思うから。……ごめんな、こんなこと言って」

「そんなこと、……俺だって、すい…………」


すいません、といつもの調子で言いかけて、しかし二ノ宮が口をつぐむ。黙って話を聞いていた富田が、おや、とま首を傾けた。二ノ宮はそれきり黙り込み、第二練習室には静寂が訪れる。時計の秒針が時を刻む音だけが響く中、有原は静かに二ノ宮の次の言葉を待っていた。
「センパイ」長い沈黙の後に、二ノ宮が言った。その目は何も迷っていなかったし、少しの躊躇の色もない。「俺は、それには謝りません」


「謝ったら、それを認めることになっちゃうんで。だから謝らないッス、ごめんなさいもすいませんも言わないッス。俺はセンパイが、どんなことを考えてたって汚いとか馬鹿みたいとかカッコ悪いとか、そんなの無いッスから」


「…………二ノ宮、」


「だから、俺が言えるのはこれだけです。センパイ、頑張りましょう。一緒に、俺らのバンドで。キドアイラク、で」


まっすぐな声で言われた二ノ宮の言葉に、有原は数刻、目を見開いたまま立ち竦んでいた。
その顔が、ふっと緩んで柔らかくなる。「そうかぁ」力の抜けた声で有原は言った。「そうだよ、お前はそういうヤツだもんなぁ」その時の有原が浮かべた笑みは、何かがほどけたような印象だった。「そうだったよ」

「そうスよ。俺はこんなんッス。センパイが何考えたって、俺はこんなままなんスから」
「そうだよな……うん。そうだよな、お前に焦るとか不安になるとか、そんなこと言っても始まらないもんな。それにほら、言っても聞こえないし」
「ちょっと! 特性ぼうおんでアフロのおかげでバツグンの吸音性ッスか!」
「言ってねーよ」

いつものやり取りをして、いつもの調子に戻った二人に、富田が前髪に隠れた両目を安堵に細めた。もう大丈夫だ、そう彼は思って、それも違うかと思い直す。もう、じゃなくて、初めから大丈夫なのだ。あるいは、これからも大丈夫というわけではないのだ。ただ、今よりも前に進んだというだけで、進むことが出来たというだけで。
「それと、羽沢」一通り軽口を叩き合って、有原が最後に泰生を見た。呼ばれた泰生は、悠斗らしいことも気の利いたことも言えないがどうすべきか、などと内心で場違いな、しかし真剣な不安を抱く。そもそも何を言われるか見当もつかないのだ、とりあえずあの時黙りこくるしかなかったのは謝るべきだろうか。泰生の脳内で、そんな考えがグルグルと回る。
が、そんな泰生を気にも留めず――「あのさ、羽沢」有原は、泰生の前に立って、少し微笑んだ。


「ありがとな。俺が、いや……二ノ宮と富田も、……俺たちが、ここで一緒にいるの、お前のおかげだから。本当にありがとう」


彼の言葉に、泰生はたっぷり五秒の間を置いて「ああ」、「ありがとう」と返した。
さっきの発言に対する返事としてはいささかビミョーとも言えるそれに、有原と二ノ宮は少しばかり不思議そうな顔をしたが、富田だけは口許だけでクスリと微笑む。泰生のありがとう、が誰に向けたものなのか――この場にはいないけれど、確かにキドアイラクを支えてくれている彼の息子に――それを、富田は何とはなしにわかったのだ。
「よーし、じゃあ始めますかぁ!」腕の関節を鳴らしながら、二ノ宮が威勢の良い声を出す。慌てて楽器を出しながら、「おう!」「おっけ」有原と富田もそれに応じる。間もなく響き出した三つの楽器と一つの声による四重奏は、音を隔てるはずの重い扉すらも超えて、どこまでも鳴り響けそうだった。





地下の駐車場に車を入れてくる、という森田に事務所があるビルの前で降ろしてもらい、コートへ練習しにいこうと足を踏み出した悠斗はしかし、そこでその歩を止めた。
入り口の自動ドアを塞ぐようにして立っているのは、064事務所きっての美女トレーナー、岬だった。一つに結わえた長髪を冷たい秋風に揺らし、黒のトレーニングウェアに身を包んだ彼女は腕を組み、自分の存在に気がついた悠斗を睨みつける。怒っている、そう判断した悠斗は心当たり――先日でっち上げられたハタ迷惑極まりない熱愛スキャンダル――のことだと思い、内心がっくりしつつも覚悟を決めて岬の前まで進んだ。

「この前は、俺のせいで本当に迷惑を――――」
「何言ってるのよ」

が、誠心誠意で謝罪をしようとした悠斗の意に反し、岬の返事は予想だにしないものだった。きっぱりと言い切られた否定の言葉が何に向けられたのかわからず、悠斗は虚を突かれたように押し黙る。
「私が今更、スキャンダルごときで迷惑被るわけないじゃない」そんな悠斗の様子をどうとったか、呆れたような口調で彼女は言った。ルカリオにも似た、意志の強い瞳が悠斗を見上げる。「自分から散々やってきたの、羽沢さんだって知ってるでしょ?」溜息をつくような口調で話す岬に、「それは、まあ……」と悠斗は歯切れの悪い返事をする。それにまた息を吐いて、岬は「そんなことより」と、悠斗へ人差し指をびし、と突きつける。

「聞いたわよ。根元のヤツとのバトル、ボロボロだったって。具合悪かったらしいけど、もし、私とのアレを気にしてただなんて理由だったら承知しないからね」
「いや、え……それは、……」
「羽沢さん、アンタはいつでもいいバトルをしてくれないと困るわけ。勝ち負けとかじゃなくて、ステキな闘いをしてくれないと。私の初恋なんだから、羽沢さんは」

鼻先スレスレの、真っ赤なマニキュアに彩られた爪は悠斗が少しでも動けば刺さりそうだが、そうでなくとも悠斗は動くことが出来なかった。
耳が痛いお言葉に付け加えられるようにして、サラリと告げられた二つ目のセリフに、悠斗は超弩級の衝撃を受ける。別に自分に言われたことではないのだが、いや、むしろ自分ではなく泰生に対する言葉である分、彼の驚愕レベルはさながら、レックウザが住む天上よりも高いところまで突破した。「…………は?」どうにかそれだけ口にして、悠斗は硬直した身体に冷たい汗を浮かべる。


「だから言ったじゃない。羽沢さんは、私の初恋の人なのよ」


驚きで手先が震えていさえする悠斗とは対照的に、あっけからんとした様子で岬は言う。

「五歳とか、六歳の時に……ヨスガシティの大会で、あ、私はヨスガ生まれなんだけど。羽沢さんのバトルを初めて見て、それで、一目惚れよ?」
「はぁ………………」
「後ろなんか絶対向かない、馬鹿なくらいに前しか見てないようなバトルで、そこで私は決めたの。あなたみたいな強いトレーナーになって、必ずあなたに追いつくって。私は何があっても、アンタに並ぶ存在になるんだ、って」
「………………」
「それでその夢叶って、いざアンタと同じ事務所に入って、さぁやっと! これから! って思ったら……羽沢さん、昔みたいな戦い方しなくなっちゃってたけどね。もちろん強いのは変わりない、っていうかもっと強くなってたけど、あの時みたいな勢いっていうか向こう見ずっぷり? そういうのは、なくなっちゃってて。もう、冷めちゃったわよ。ニンフィアだってグレイシアになるレベル」

結婚したって聞いて、なるほどって思ったけど。冗談めかして口を尖らせ、悠斗の鼻先から指を離して岬は言う。「私が口出すことでもないって、わかってるけどね」

「でもね、もう流石にアンタに恋とか愛とかそんなのは無いけれど……でも、アンタのせいで、私は人生変わっちゃったのよ。ポケモントレーナーになるって決めて。もっといい人生あったかもしれないのに、トレーナーだけになっちゃったの」

「だから、責任取って」一方的に言葉を続け、岬はちょっとイジワルな笑みを浮かべた。「アンタは、いつでも、ずっと『強くてステキなトレーナー』でいてくれないと困るわけ」鮮やかな紅をした唇が綺麗な弧を描き、焼きつくような美しさがそこに現れる。
強くてステキな、トレーナーの笑顔だった。

「私だけじゃなくて、結構たくさんいるのよ、アンタに惚れてトレーナー志望したヤツ。成功してようがしてまいが。どうせアンタは全然気づかないんでしょうけど、アンタは、色んな人の人生を変えて……たくさんの人の、きっかけになってるの。だから、さぁ…………それだけのトレーナーで、いてほしいわけよ」

私はね、と付け足した岬は、少しだけ自嘲したように笑う。「言ってやるつもりはなかったんだけど、最近の羽沢さん見てると、言っとこうかなって思って。なんでかわかんないけど」風に流れて僅かにほどけた髪を耳にかけて、彼女は悠斗から一瞬視線を外し、事務所のあるビルの上方に目を向けた。


「あっ、……もしかして、」

しどろもどろになる中で、悠斗の頭の中の冷静な部分が、一つのことに思い至る。いつか森田が言っていた、『岬さんは自分からスキャンダル起こして相手の評判を下げてる』という情報から考えるに、もしかすると先日の一件も岬が誘発したものなのではないか――。先程の言葉が本気だとすると、彼女が羽沢泰生との熱愛報道をされたところで受けるデメリットも重くない。あの写真を撮ったカメラマンも岬が雇った者で、望ましくない今の羽沢泰生を陥れるためにあんなことをしたのではないだろうか?
そんな、悠斗の抱く疑念を察したらしく、岬は「何よ」と綺麗に走る眉をひそめる。「まさか私が、いつもみたいにスキャンダル仕組んだとか思ってるのかしら」

「あ、いや……そんなことは……」
「流石に、同じ事務所のトレーナーにまでそんなことしないわよ。アレは私じゃないわ、私も知らない別の誰か」

どうせ余所の事務所の差し金でしょ、マックスアップあたりが怪しいんじゃない? と溜息をついた岬があまりにはっきりとした物言いをするものだから、悠斗は肩透かしを食らったように返す言葉を無くした。「ああ、はい……」気の抜けた声が彼の口から漏れる。そう言われてみればそうか、という思いが今更頭に浮かんできて、悠斗は顔が熱くなった。「そう、だな……失礼……」

「あ、でも」

が、悠斗が謝りかけたところで岬が思い出したような声を出す。え、と彼女の顔を見た悠斗に、岬は顎を片手で撫でながら首を傾けた。

「一つ、気になることがあって」
「気になること?」
「いつも私がタレコミしてる編集部からね、連絡があって……私が持ち込んだわけじゃないのに、私のスキャンダルが入ってきたけどいいのか、って」

一瞬、岬の言っている意味がわからず黙った悠斗に、「出版社とコネがあればその辺ごまかしてくれたりもするのよ」とさらりと岬は言う。そこでやっと、彼女の言葉の何たるかが若干わかったような気がしたが、それ以上詮索するのはやめておいた。世の中には知らない方がいいことがたくさんあるのだ。そだてやにあげてしまったタマゴの行方とか、インドぞうとは何たるかとか、真夏の観覧車で何が起きたかとか。
それよりも今は、その先だ。「まあ、だからそこは一応やめておいてもらったんだけど、結局いろんな場所に持ち込まれてたから無駄だったけどね」と肩を竦め、彼女は続ける。「ただ、そのタレ込んできた奴っていうのが」

「ハタチ前後くらいの女の子だったっていうのよね」
「ふぅん……?」
「それも、全然そういうことに疎そうな……スキャンダルとか週刊誌とかそういうのと縁の無さそうな、よく言えば箱入り娘のお嬢さん風、マッスグマ直球に言えば地味めで垢抜けない感じ、らしいわよ」

「そんな子がタレコミしてるなんて不自然だって、その編集部も首ひねってたんだけど……」複雑そうな表情をして、岬は言う。

「もっとヤバいネタならともかく、されどトレーナー、たかがトレーナーの熱愛報道程度に運び屋使う意味も無いし。なんでそんな人がわざわざ……」

「羽沢さんっ!!」

思案するように岬が口ごもったタイミングで、二人の間に飛び込んでくる声があった。「あら、相生君じゃないの」片手を上げて岬が言う。「イッシュに巡業行ってたんだっけ? お疲れ様」

「はい、ありがとうございます……あっ、あの、羽沢さん!」
「え!? あー、うむ……なんだ」
「あの、先日の、その……ニュースのアレのことなんですけど!」

微妙に裏返った声で言われたそれに、悠斗は数秒遅れて思い至る。岬のことに気を取られて忘れていたけれど、そういえば相生とも厄介な報道がされていたのだ。
「あー、それは、本当に……」迷惑をかけた、と言うため、悠斗はかなり気まずくなりながら口を開く。が、


「いえ! いいんです!!」

「…………え?」


勢いよく言葉を発した相生の声に、悠斗のセリフは掻き消された。口を開けたまま呆然と相生を見据える悠斗に、相生はその呆然さに気づかず話し続ける。


「今回は、トレーナーとして大切なことを教えていただき、本当にありがとうございました!! こういうアクシデントが起こっても、平常心を失わずにバトル出来てこそエリートトレーナーですものね……! 何も無くても緊張してすぐ固まっちゃう僕に、羽沢さんが、身を以て伝えてくれたんだって!」

「はい…………?」

「正直、あのニュースが流れて、そのことでいっぱい突っ込まれて……ただでさえイッシュとかいう遠くにいて、僕、もう駄目かと思ったんですけど……でも、羽沢さんがご自分さえ犠牲にしてまで、教えてくれたことですから! なんとか、頑張れたと思います!」


ヨーテリーのような目を輝かせてくる相生に、悠斗は絶句するしかない。そんなつもりはどこにも無かったし、その悠斗だってスキャンダルのせいではないにしろ、根元とのバトルに負けているのだ。
多大な勘違いをしていることを悠斗はどうにか伝えたかったが、顔を上気させた彼を止めるタイミングは掴めそうにない。「羽沢さんが応援してくれてるんだって思ったら、バトルにも勝てました」とても嬉しそうにそんなことを言う相生に、なんでこんなことになってしまったのか、と悠斗は思わずにいられなかった。


「羽沢さんのおかげで強くなれたんです。今回のことで、羽沢さんみたいに強いトレーナーに一歩、近づけたような気がします! もちろん、そんなの僕の思い上がりだと思いますが……でも、少しずつ! 少しずつ、羽沢さんのようになりたいです、僕!!」


一人で突っ走っている上によくわからない方向へこうそくいどうしていく相生に何か言おうとした悠斗の肩に手を置いて、「ほっときましょ」と岬は軽く言った。え、でも、と戸惑う悠斗に彼女は首を横に振り、「本人がいいって言ってるんだし、別に悪いことでもなさそうだし」と肩を竦める。
何と返すべきかわからず、人知れず冷や汗を流した悠斗の顔を、「それに、私もだけど」岬はじっと覗き込んだ。



「なんだかんだ、みんな羽沢さんのこと好きだから。ウソでもアンタと話題になって、嫌がる人は少なくとも、ウチの事務所にはいないと思うわよ」



どうせ気づいてないんでしょうけどね。ちょっとだけバカにするようにそう言って、岬はくるりと背を向ける。「そろそろ戻りましょ」と悠斗に声をかけ、「相生君も」相生に視線だけを向けて彼女は伝えた。
はい! と相変わらず緊張感の拭えない声で答えた相生は、ビルに向かって進み始めた岬を小走りで追いかける。「羽沢さんも、早く」と促した岬の声と、自分を待つような相生の目に悠斗は刹那表情を止めて、

「ああ」

浅く頷き、二人の間を歩き出した。





その夜――公園脇に車を停めて、森田はエンジンを切った。悠斗を送るついでにタマムシ大学に寄って拾ってきた、助手席の泰生に「着きましたよ」と声をかける。後部座席の悠斗と富田にも、シートベルトを外しながら「少し待っててください」と振り返った。
鞄から取り出した三つのボールを手に、森田と泰生は車外に降りる。

「あー、やっぱり天井の無いとこはいいですね。広々してて」

いつものように、半端な時間の公園に人気は無い。ポケモンに関してもそれは同様で、昼間なんやかんやと騒がしいポッポやオニスズメ、むしポケモン達がいなくなるため大分静かだ。植林の根元などを漁ればマダツボミなどが見つかるのだろうけれど、とりあえず今目視出来る範囲で、動く影は見当たらない。
黒く染まった空に、ボールから放たれたシャンデラが浮かび上がっていく。それを追うように飛び立ったボーマンダの、翼を広げたシルエットが薄く地面に落とされた。マリルリはマイペースに、時間帯のせいかどこか哀愁を漂わせていたブランコなどに乗って遊んでいる。

「どうです? ミタマ達の調子は。僕だとわからない部分もありますから、チェックしといてくださいね」

冷えた土の上に立ち、そんな彼らを見ている泰生に森田はそう言った。仏頂面のまま視線を三匹全員に、そして森田にスライドさせた泰生は「……ヒノキの明日の食事に肉を少し増やす。ミタマは良好。キリサメは、……ちょっと痩せてもらいたいかも、しれん」と返す。的確かつ迅速、そして冷たさすら感じるほど客観的なコメントに、森田はいつも通りの泰生を感じて内心で安心感を覚える。了解です、と慣れた調子で答えた彼は、胸ポケットに入っていた手帳に二言三言を書き付けた。

「…………が、」

と、そこで泰生がまだ何か言葉を続けるようだった。なんだ、と思って森田は泰生の方を見る。

「コンディションはかなりいい、と思う。バトルでしたケガのケアもちゃんと出来てるし、それに、皆この前よりも元気だ。だから、……よくやってる、と思う」

オコリザルもびっくりの仏頂面(もっとも今の見た目は悠斗であるため多少緩和されてるようにも見えるが)はそのままだったが、その奥に確かに内在しているものがあった。今までに一度も見たことのない、初めて目にするそれに森田は丸い瞳をさらに丸くする。
しかしその驚きをすぐにどかして、森田は不思議なまでの安堵と喜びを自分が感じていることに気がついた。「それはそれは、ありがとうございます」

「でもですね。泰さん。それは、悠斗くんにも言った方がいいと僕は思いますよ」
「…………む」

唸り声にもならないくらい短く答えた泰生に、森田は思わず吹き出しそうになる。一回りも離れた泰生が(そりゃあ、何度もいうようだけど、見た目は悠斗だが)いじっぱりな子どものような仕草をしたことに、彼は内心こみ上げる笑いを必死に噛み殺した。
それでも、自分は多分、嬉しいのだ。平静を装う森田は思う。泰生の頑なさというものが、今まで何度も目にしたそれが、確実に柔らかさを持っていることが。彼がやっと、何かを手にすることが出来たのが。
「あのですね、泰さん」微妙に視線を外してしまった泰生に、森田が穏やかな声で言った。なんだ、と泰生は不機嫌そうに答えたが、慣れに慣れを重ねた森田は何もためらうことなく声を続ける。

「悠斗くん、バトルやったことないらしいですけど。でも、ちゃんと言ってたんですよ。自然な感じで、ちゃんと」
「…………?」
「ありがとう、って、バトル終わった後のミタマ達に。当たり前のことなんですけど、意外と出来ない人、多いんですよね。本職のトレーナーでも。だけど悠斗くんが普通に出来てたのっていうのは、多分」

多分、泰さんがそうしてるのを、どこかでわかってたからだと思うんです。
そう言って笑った森田に、泰生は一瞬だけ目を大きく開いたがすぐに、ふい、とそれを逸らしてしまう。「俺がいたからじゃない」ぼそぼそと、自嘲を滲ませた声で彼は言う。「真琴の育て方が良かったんだ。それに、富田とかみたいに、悠斗の近くにいてくれた奴らのおかげで」森田から背けられた顔が、薄い雲の浮かぶ夜空を飛んでいるシャンデラを見上げて息を吐く。冷えた空気に溶けるそれは、うっすらと白い色をしていた。「俺じゃない」

「そんなもんですかねぇ」

その息を目で追って、森田は穏やかな声のままで答える。「そうだったとしても、今からでもいいんじゃないですかね」気の抜けた声で、森田は泰生の顔を覗き込んだ。

「それにですね……やっぱり、泰さんは、悠斗くんの中にいますよ。あの無鉄砲さというか直進加減というか。泰さんを嫌いだって思うあまりああなったのかもしれませんけど、それはそれで、泰さんがいてこその、今音楽に打ち込める悠斗くんがいるわけじゃないですかね」

「少なくとも、僕はそう思ってますよ」そう言い、笑みを浮かべた森田に泰生は目を向ける。空を飛んでいるボーマンダの影が、年の割に幼く見える童顔を横切った。
その顔に、泰生は口を開く。「森田、」喉の奥、そのまたもっと奥から、言葉はひとりでに出てくるようだった。

「俺は、な。森田……昔、自分と、ミタマ達さえいれば、他に誰もいなくて良いと思ってたことがあったんだ」

呟くようにして話し出した泰生に、森田が「泰さん……?」と怪訝そうに声をかける。泰生がこんな、自分のことについて話すなど初めてだった。
「今度、お前にも話す」心配そうな顔になった森田を手で制し、彼は森田の目を前から見る。「話したいと思ったんだ」

「誰もいなくていいと思った時があった、が……真琴がいて、悠斗がいて、そう思えなくなったんだ。いなくていいなどと、少しも思えなかった。俺は、ずっと……そうだったんだ」
「はい、…………」
「それは、多分。……お前も、そうなんだと思う」

静かに告げられたそれに、森田は返事をなくした。
「いらないなどと思ったくせに、俺はすごい勝手な奴だ」自責するように泰生は言って、深くて白い息を吐いた。「だけど」

「俺は、お前がマネージャーでいてくれて、……嬉しいと、思う」

言葉を一つ一つ選ぶようにして、それだけ言い終えた泰生に、森田はずっと昔のことを思い出した。

まだ若かった頃、自分はいつかポケモンリーグの頂点に立てるのだと、疑いもせず思ってた頃。そんな甘くて青臭い考えを残さず消し去ったのは、気まぐれで出場したバトルフェスの一回戦で当たった対戦相手の、泰生だった。
瞬く間に技を叩き込まれ、地に倒されたペルシアンを前に立ち尽くしたあの時に、その向こうで勝利宣告を受ける泰生に抱いた思いは、どうしようもないほどの嫉妬と憎悪と、決して自分には越えられないのだという絶望。そして、それを上回るくらいの、希望。
こんな強いトレーナーがいるなんて、こんなすごい人がいるなんて、自分が生きるこの場所は、どれほど素敵なところなのかと思い知ったのだ。そして次に抱いたのは一つの願いで、そんな人の力になれたなら、この輝きを支えられたなら、どんなに――


「当たり前じゃないですか」


震えそうな、しかし堂々とした声で森田は言う。「言われなくても、そうしてますって」いつもの、人懐こい笑顔になった森田に、泰生もつられたように口元を緩めた。
その表情に、森田はつくづく思いふける。この人の近くにいれて、本当に良かった、と。
「任せといてくださいよ」おちゃらけた調子で、ガッツポーズを決めた森田に、泰生が「調子に乗るな」と平素の様子に戻って苦々しげに言った。しかし森田はちっともめげることはなく、嬉しげな顔を少しも曇らせない。力にモノを言わせ、ブランコをめちゃめちゃに揺らしていたマリルリがそんな彼を遠目に見る。
あの日の思いは、何も間違っていなかった。そんなことを頭に浮かべ、森田は一際明るい声を出す。


「僕は、泰さんのマネージャーなんですから!」





「調子どんな感じ」
「まあ、それなり。この調子でいければ」
「俺も早く戻りたいなぁ」
「早く戻ってくれよ、ホント」
「やっぱバレそう? 気づかれてる感じ?」
「気づかれてるってわけじゃないけど、イメチェンってことにしてるから。でも守屋に超不評で、そのイメチェンキモいから元の羽沢の方がいいからやめて、って」
「また意外なとこから……あいつ言うときは言うからな」
「あ、でも有原と二ノ宮には割と。そのルックスで硬派、いや硬派通り越していぶし銀? キッサキ男子って感じでいいんじゃないかって」
「キッサキとか言ったことすらないし、そもそもあいつだって別にシンオウ出身じゃないし意味わかんねぇよ……」

泰生と森田がシャンデラ達を放しに外に出てる間、車内に残された悠斗と富田は取り留めもない会話を交わしていた。微妙にくすんだ色をした、窓ガラスの向こうの視界は暗く、シャンデラが発する青白い炎と、断続的な明滅を繰り返す街灯だけが光源となっていた。
「あいつらはそれでいいのかよ」ぐったりした調子で悠斗は言う。シートに背中をもたれさせ、彼は想像上のバンドメンバーに文句を吐いた。「気づかれないのは助かるけど、流石に傷つくわ」

「完全にアリって流れだけど。二ノ宮なんか、『俺もイメチェンしようかな』ってそわそわしだしちゃってるし」
「あー、それでどうせアレだろ? 『お、フォルムチェンジか? それともメガシンカ?』だろ? わかるよ」
「ま、大体そんな感じ。で、『うっせー、誰がしゅくもうきょうせい使用でストレートフォルムッスか!』」
「『言ってねーよ』な。毎度毎度、よく飽きないよマジ……久しぶりに聞きたいな、アレも。なんだかんだ、無きゃ無いで懐かしい」
「あー、そうだ。有原が今度、バイト先みんなで来てって言ってた」
「あいつのバイトってどくタイプカフェだっけ? 行くか、サークルのみんなも誘って、売り上げに貢献しよう」

ごくごく自然に返ってきたその答えに、富田は前髪の向こうにある目を数度瞬かせる。「そうだけど」低めの、どちらかといえば平坦な声はいつも通りの彼のものであったけれど、僅かな動揺を含んでいることが富田自身にもわかった。「合ってるけど、そこで」
本当に行くって言ったのか、という富田の問いは言葉にならなかったが、悠斗はその沈黙の意味するところを悟ったらしい。「行こうよ」当たり前のようにそう言って、彼は少し照れたみたいに笑う。「みんなでさ」

「うん、…………」
「富田」
「うん」
「ありがとな」

その言葉に、富田は少し俯いて、「俺は何もしてない」と呟いた。自分では悠斗を助けられないことを、前からわかっていたにも関わらず、己のわがままで先延ばしにし続けていただけなのだ。それを、やっと諦められただけの話にすぎない。シートに置いた左手を、悠斗には見えないように握り締める。
「そうじゃないって」が、悠斗はそんな富田の言葉を否定した。


「お前は、俺の力になれないとかあいつやポケモンの代わりにはなれないとか言ってたけど、……確かに、お前はあいつやポケモンの代わりにはならないけど。でも、俺はずっと、お前が助けてくれてたんだけど」

「……………………」

「あいつとか、ポケモンとかから逃げてて、多分俺は、お前がいなきゃ駄目になってたと思う……お前のおかげなんだ、今、俺が何か出来てるの」


だから、ありがとなっつってんだよ、と少しだけ語調を強めた悠斗に、富田はしばらく黙ったままだった。しかし少しの間を置いた後、彼は呼吸の続きのような声で、小さく「うん」とだけ返事をした。

「なあ、悠斗」富田が静かに口を開く。「もし、俺がもっと……半分ぐらいブラッキーだったら、今どうなってたと思う」
問われた悠斗は、数秒言葉と動きを止めて富田の方を見ていたが、やがて苦笑と共に「お前、それはずるいよ」と答えた。すまん、と謝る富田に彼は、何の飾り気もない声で言う。

「そんなのわかるわけないだろ。大体、ハーフだったらタマムシの公立なんかいないだろ、だってカントーだと色々大変だからあまりいないらしいし。そしたら俺ら、そもそも知りもしないんだから」
「そういう正論が聞きたいんじゃねぇよ。マジで返してこないでいいから、たとえ話だから」

機嫌を若干損ねたような口調で富田が言うと、悠斗は「わかってるよ」と口を尖らせた。「んなこと、わかった上でのボケだって」などとぶつくさ呟いている悠斗を、じゃあ真剣に答えてみろよという念を視線に込めて富田はじっと睨みつける。
その視線に怯むことも臆することもぼうぎょを下げることもなく、悠斗はどこかあっけからんとした笑みを形作る。「変わんないんじゃねぇの」狭い車内に響く声は羽沢泰生のものだけれども、富田が初めて話した時の悠斗と同じ、前だけに通るような色をしていた。

「お前があの時みたいに、俺の前に現れてくれたら、たとえ百パーブラッキーだったとしたって今と変わってないと俺は思うよ」
「……………………」
「瑞樹は、俺がお前を見つけたみたいな感じで思ってるんだろうけど。実際逆だから。あの時、ダメになってたかもしんない俺を見つけたのがお前なんだよ」

そう言った悠斗に、富田は何かを反論しようとして口を開きかけ――たが、やめた。
その代わり、彼は前髪に隠れている、夜の暗さで影になった赤い瞳を細く細く、瞼が触れる限界まで細めた。「うん」それだけ答えて、力の抜けていく身体をシートに預ける。「よかった、見つけといて」冗談っぽさが混じった、しかし安らかな口調で、富田は悠斗にそれだけを告げた。

「そうだ悠斗、あの歌うたってくれよ」

富田の申し出に、悠斗は「え、アレ?」と少し戸惑った様子を見せる。「この喉じゃ上手く歌えねーし、ピアノもアコギも無いんだけど。まさかお前がそれ弾くってわけにもいかないし」富田が脇に置いたエレキギターの収まっているケースを横目で見ながら、悠斗は渋るような声で答えた。
「いいじゃん。頼むよ」それでも、富田は淡々とした口調のままで食い下がる。俺がハモるからさ、という、代替案になっているのかいないのかよくわからないコメントを添えた彼は、両眼で悠斗の目を真っ向から見据えた。

「な、悠斗」
「……わかったよ」

鼻を鳴らして了承した悠斗が、すぅ、と息を大きく吸う。続いて車内に響き出したのは、七年前に流行った歌謡曲だ。
出会えたことの奇跡と、その幸福を歌ったそれは富田が悠斗と初めて言葉を交わしたあの日、悠斗が帰り道で歌っていたものだった。あの時と同じように、何の伴奏も効果も無い歌だったけれど。あの時と違って、悠斗の声は低くて通らないし富田の声が重なっているけれど。だけどその歌は、確かにあの日の延長線上にあった。





「ちょっとちょっとちょっと!! 何、なんかいい感じに終わらようとしてるわけ!? その、いつもより長めのエンドロールとスタッフロールとフルバージョンのエンディング流れそうな感じの雰囲気は!!」


突如、車内にやかましい声が響き渡る。
いつかもあったその登場に、正直なところ『そろそろ来るだろう』と頭の片隅で考えていた悠斗と富田は揃って歌をやめ、揃ってうんざりした顔をした。そんな二人の様子に構うことなく、声の発生源である黒い影――森田がいない運転席に勝手に腰掛け(足が無い者に腰掛けるという表現を使うのは正しいのか不明だが)て、赤い一つ目で振り向いているヨノワールは、でかい図体に似合わぬ仕草でぷんぷんと怒ってみせる。魂を霊界に運ぶなどという逸話と、縁起のよろしく無さそうな見た目からは結構な恐怖心を与えるそのポケモンはしかし、決して大型車とは言えないこの車に詰め込まれている今、窮屈な座席にもどかしさを覚えるマヌケ者にしか見えなかった。

「そんなところで、なあなあなハッピーエンド適当に迎えられちゃったら、この僕の存在意義がなくなっちゃうでしょう! この僕、そう! あなたの街の便利屋さん、落とした財布探しから、堕としたい人への呪い代行までなんでもござれ、毎度ご贔屓にありがとうございます〜……の、真夜中屋のいる価値がないじゃん!? ゲームコーナーでわざわざケーシィもらう方がまだ意味あるよ! 厳選しやすいからね!」

もはや説明する気も失せるところだが、このヨノワールは単なるてづかみポケモンではなく、ミツキが何らかのサイコパワーによって一部憑依し、媒介とすることで遠隔的にコミュニケーションをとったり感覚を働かせたりすることが可能になっている、という状態のヨノワールなのだ。悠斗達にはよく、というかまったくわからない話だが、本人が直接行動するというのはサイキッカー界隈ではあまり褒められた行為ではないらしい。自分の気を隠せないだとか、力をわざわざ知らしめてしまうだとか色々と面倒なのだという話だが、とりあえずはサイキッカーも大変なのだということだ。
それは置いておいて、至極ストレートに会話を邪魔されることになった富田は、あからさまに不機嫌な声で問う。「何の用ですか」「えっ痛い痛い!? 目が大きいからって指五本使って目潰しするのやめてくれない!?」それなりの巨体を狭い車内でバタバタさせたミツキの、身体の右四分の一くらいが運転席にのめり込んだ。実体が無いから当然とはいえ、正直気持ち悪い。

「痛い……なんで……? なんで実体無いのに目潰しは効くわけ? おかしくない……? かぎわける? かぎわけるなの? ブラッキーってかぎわける覚えるんだっけ……?」
「つべこべ言ってないでとっとと要件言ってくれませんかポケダンでちょっと優遇されたからって調子乗んないでください輝石で人気下がったくせして」

割と多くの人を敵に回す発言をした富田に、ミツキが「うう」と情けない声を出す。泰生の用が済んだか、それとも話し声を聞きつけたか、車に戻ってきた森田が、シートに身体の三分の二ほどをめり込ませているミツキを見つけて「うわっきもっ」と率直な感想を述べた。受けたショックに比例して、ミツキののめり込み度がさらに上がる。
「もういいですから、何なのか早く教えてくださいよ」丁寧なのか酷いのかわからない頼み方を悠斗がする。三匹を連れた泰生が戻ってきて、あまり状況を把握していない顔で「ヨノワール……」と呟いた。車の室内灯の薄暗さでもわかる、目の奥の密やかな、しかし確かなときめきを帯びた輝きはその場の皆に無視された。

「ったく、サイキッカー遣いが荒いんだから……わかったよ。そもそも悠長にしてる意味も無いし、ね」

諦めたように、口調を真面目なものに変えてミツキは言う。後部座席に並んで腰掛けた悠斗と富田、半分開けた運転席のドアに手をかけている森田、助手席の窓から車内を覗く泰生が、黙ってミツキの言葉を待った。
「要件なんだけど、簡潔にいくね」それはいつものように飄々とした声だったが、夜の公園に響くそれは不思議なことに、どこか奇妙な色を帯びている。「まあ、ここまで待たせて申し訳なかったんだけど」


「この事件の犯人、見つかったよ」


九割の驚きと、一割の想定内に、返事を選びあぐねた四人は一斉に口ごもる。
よかった。やっとか。じゃあ元に戻れるのか。どこのどいつが。どうやってやったんだ。いつ戻るのか。なんでこんなことをした。彼らの頭の中に様々な考えが浮かんでは新たな思いに流されていく。怒涛のような思考に脳裏が一時停止をしたらしく、黙ってしまった四人にミツキはさらなる言葉を投げかけた。

「そう、見つかったんだけどさ――」

あくまで軽く、自然な口調で彼は問う。



「誰だか、知りたいと思う?」


  [No.1442] 第十三話「捲土重来」 投稿者:GPS   投稿日:2015/12/07(Mon) 21:45:15   43clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

「あれ、森田さんどこ行っちゃったんだ」

064事務所のロッカールームを出た悠斗は、今着替えたばかりのトレーニングウェアの裾を直しながら辺りを見回して呟いた。
貴重品を入れたロッカーの鍵を首から下げてTシャツの中に隠し、同じく首に下げたパスケースに収まったトレーナーカードを確認する……ここ最近ですっかり身についた、『羽沢泰生』としての生活に悠斗は無意識で苦笑する。「おはようございます、羽沢さん!」女性用のロッカールームから出てきた064所属トレーナーが声をかけてきた。特注のゴム手袋を嵌めたその手に、どくどくだまとかえんだまが握られているのに内心少しビビりつつ、「おはよう」と返事をする。慣れてしまったのは悠斗だけでは無いらしい、以前よりも随分と態度の柔らかくなった『彼』の様子に別段驚くこともなく、もう一度会釈をした彼女は早足で事務室へと戻っていった。

「トイレでも行ってんのか」

意味の無いことをまた呟いて、悠斗はそこまで広くもない廊下に立ち尽くす。先に階下のコートへ行っても良いのだけれど、ロッカールームに入る前に「ここで待ってますから」と言われたことを考えると、勝手に行動するのは気が引けた。
どうしたものか、と思いながら手持ち無沙汰に窓の外へと視線を向ける。タマムシの街並みを一望出来る……とはとても言えない六階からの視界は、昨日の深夜から降り続いている雨のせいで一様に灰色をしていた。雨がビルのひさしに打ち付けられる、硬く濡れた音が耳にうるさく鳴り響いている。いつもはピジョンやオニドリル、運が良ければ遠目にハクリュウなどが見える空は、重苦しい雲に覆われていてどうにも圧迫感と寂しさを覚えざるを得ない。

外に出れば、たとえばビルの庭などに行けばニョロモやニョロゾくらいいるのだろうか。ごく自然にそんなことを考えている自分がいて、悠斗はちょっと驚いた。以前は、少したりとも見たくないなどとばかり考えていたその存在を、知らず知らずに受け入れているなど昔の自分は思いもしないに決まっている。この一件によって、確実に自分は変わったのだと悠斗は思った。
そうであるならば、きっとこれには何かしらの意味があったに違いないだろう。

「あ、いたいた! 悠斗く……えー、泰さーん! すいません、パソコンの電源切り忘れてたんでちょっと向こう行ってました!」

事務室から出てきた森田が声を張り上げ、騒がしく自分に向かって走ってくる。それに片手を上げて応えた悠斗は、その手を下ろしたところで腰につけたボール三つにそっと指で触れた。
金属特有の冷たさと無機質さ、そして僅かに感じられる存在感。そこにいる彼らのことを確認する。

「じゃあ行きますか! 今日はマルチの練習でしたよねー、誰と当たることやら、また相生くんですかね、タイプ相性的にはまずまずなんでそうなるといいですけど」
「いやー、……それは…………」

いいのか悪いのか、変わってしまった相生のことを考えながら言葉を濁らせて、森田と共にエレベーターに乗り込む。重いドアがゆるゆると閉まって、廊下に響いていた雨音はすっかり聞こえなくなった。





「ひどい雨ですね。どなたさんのせいなのかはわかりませんけど、ひどい雨ですね」
「二回言わなくてよくない? あと俺を見る必要もなくない?」
「流石はタマ大のカイオーガと名高い樂さんですよね……自分が仕切るイベントとか飲み会とか合同練の日には必ず雨を降らすだなんて、本当真似出来ないですよ! 恐れ多くてかみなり撃って差し上げたい気分です」
「まあね。巡君なんて所詮、よくてニョロトノレベルだもんね。自分がコンビニ行く時に限って雨が降るとかその程度だから、スケールが小さい人の言うことは一味違うね」

水滴に濡れた窓ガラスに映るお互いに向かって、パイプ椅子の背もたれに肘をついた守屋と芦田がテッシードみたいな声で悪態をつく。「お前らジメジメした日にジメジメすること言わないでくれよ」その様子に呆れたらしいサークル員が延長コードを解きながら言ったが、二人の放つ傍迷惑な険悪さは拭えないままだった。

「……カイオーガがどうかしたのか?」

そんな会話を聞いていたらしい泰生が、歌詞をプリントした紙から顔を上げて言う。聞かれた富田はギターの弦をはじきつつ、「どうもしません」などとおざなりな返事をした。芦田と守屋のコレは特段珍しいことでも何も無いため、部室にいるサークル員達は富田を含め完全に無視を決め込んでいる。二人のポケモンであるポワルンとマグマラシすら我関せずという顔でそれぞれの膝の上で寝ており、唯一言及したのは、さっき諫めようとした三年生くらいのものだ。
「ほっといていいんですよアレは。二人とも暇つぶししてるだけですから」まだ何か言い合っている芦田らに聞こえないよう、富田は一応声を落として言う。

「別に羽沢さんが気にすることないです、先に笑った方が負けとか先に言い返せなくなった方が負けとかそんな感じですから、特に意味は無いんですアレに」
「そうか……あの学生が本当はカイオーガだということではないのか……」

真顔でそんなことをのたまい、心なしかしゅんとしている泰生に、富田は『ピュアか?』と突っ込みたくなった。が、言っても無駄だとわかっているため彼は口を開けないでおく。タマゴから孵ったばかりのピィか何かかお前は、などと言いたくなる気持ちを抑えつつ、泰生相手にツッコミを放棄するのも何度目かと彼は内心で溜息をついた。

「また人前で歌うのか」

富田をよそに、勝手に話を終わらせそう尋ねてきた泰生に、富田は「はい」と首を縦に振る。ギターの音程を合わせながら、「嫌ですか」という質問も付け加えた。
泰生は少し考えるような間を置いて、「いいや」とゆっくり返事をした。「嫌ではないな」半分ほど独り言のようなその言葉に、富田は前髪の下の瞳を丸くしてギターから顔を上げて泰生を見る。が、その驚きもすぐに消えて、彼は変化に乏しい顔を僅かに緩めて短い息を吐いた。「そうですか」という富田の相槌は、未だに無為な言い争いを続けている芦田達の声と、音量調節を間違えた一年サークル員のマイクテストの爆音と、学校の中庭を叩く雨の音にかき消された。





「……うん。今のとこ何も無いね。あ、店見えてきた……うん、うん……特に異常無しってヤツ? うん、大丈夫大丈夫」

骨が数本曲がったビニール傘を片手に、ミツキは雨のタマムシを歩いていた。
空いたもう片手に持った携帯に向かって話す彼はゴーストポケモンの姿を借りた状態ではない、ミツキ本人の、人間の姿のままだ。一応外出ということで気を遣っているのか、ヨレヨレとはいえジャケットを羽織ってはいるものの、その下に着たTシャツが、無駄にリアルなニャスパーのイラストと『SHARP EYE』の文字列(創英角ポップ)などという、壊滅的なダサさを誇っているせいで色々台無しである。ダメージ加工なのか本当にボロいのか見分けのつかないズボンも哀愁を誘っているのに加え、ただでさえくしゃくしゃの癖っ毛は湿気でますます酷い有様となり、そこらで雨宿りしているズバットの方が百倍身なりがいいという感じだ。行き交うタマムシボーイ・タマムシガールはそんな彼をチラーミィみたいに見遣り、揃って不審そうな顔をした。

「だからさー、そんな心配しなくていいって、こういうのは直々に行くのが礼儀ってものだし……そうだけどさ、大体アレだよ? 僕が来るかそりゃわかんないけど、うん、何も用意してないようなヤツなんだから……そんなのさ、大したことないって」

が、ミツキ本人はそれを全く気にすることもなく、のんきに喋り続けている。「わかったって、油断はしてないよ、ホントホント」軽い調子で話す彼はそこで、雨のせいで水の溜まった側溝に流れていくベトベターに気づいたらしい。視線を下げると共に携帯をポケットにしまい、ぼけっとしている生きたヘドロにミツキはヒラヒラと手を振った。

「うん、だからいいって。……店着いた。マジで何も無かったなぁ、うん、それね。むしろこんなシャレオッティな店に入る方が普通に不安だよね。ま、引き続き頼むよ……はいじゃーねー、また後で」

携帯をしまったにも関わらず話し続けるミツキは、ふう、と息をついて一軒の店の前で立ち止まる。それもそのはず、電話しているかのような様子は単なるポーズで、別の場所で待機しているムラクモとの念動力による会話、つまりはテレパシーをするにあたり、何も無いところにブツブツ話しかけている怪しい人扱いされないようにするための対策だったのだ。実際は彼の外見が絶妙に微妙だったせいで、結局不審がられてはいたけれど。
それはさておき、傘を閉じたミツキは店の看板を見て名前を確認し、若干気合の入った表情をする。店先にヒメリの花などを飾ってある、その小洒落たカフェの屋根を――彼の仲間であり、見張りをしているゴーストポケモン達が姿を隠している場所に視線を送り、彼は任務開始の合図を送った。

くっちゃりした前髪に隠れた、細い両眼が雨の薄暗さの中で一瞬だけ怪しい光を放つ。

『そういうのいいから早く行けそして真面目にやれ』

そんな自分にかっこよさを感じて、ガラス戸の前で無駄に立ち止まっていたミツキの頭にムラクモの声が響き渡る。死ぬほどどうでもいい思考をいち早く察知してツッコミを入れてきたその声に、ミツキは「はいはーい」などと答えてから、カランコロン、というチャイムを鳴らして扉を開けた。





「みんな揃ってるの? 出る奴でまだきてないのいる? いない?」
「おい! やばい蒸し暑いんだけど、人多いんだから換気しろ換気! 窓開けろよ!」
「これから演奏すんのになんでわざわざうるさい外の音流れ込ませんだよ! 開けられるわけないだろ、こおりタイプじゃないんだから少し我慢しろ!」
「なー、赤井さん!? 一軽の奴らが見たいって言ってんだけど入れていい!? 二十人くらいなんだけど!」
「え? あー、大丈夫っちゃあ大丈夫! でもマジで狭いから覚悟してって言って!」

その言葉が聞こえるなり、一軽――第一軽音サークルの部員達が、「失礼しまーす」「あっつ! 暖房入ってんの!?」「めっちゃ楽しみだわ」ぞろぞろと部室に入ってくる。彼らと並んで、当然のような顔をして入室してきたバンギラスだのバシャーモだのシビルドンだの、一軽部員のポケモン達に、赤井と呼ばれたキーボードの三年生が「おい! 二十人じゃなくてプラス十人分のスペース必要じゃねぇか!」と誰かを怒鳴りつけた。

「いいだろ、別に。こいつらはただのポケモンじゃなくて大切なバンドメンバーでもあんだよ」
「ダメだとは言ってねぇよ、ただ狭いって……おい! 流石にハガネールは入らないからそれは無理!」

パンクなアクセサリーや血飛沫のボディペイントで全身を飾ったファンキーなハガネールが廊下から入り込もうとするのを見て、赤井が叫び声をあげた。
今日はタマ大第二軽音サークル主催で、急遽部室でライブをすることになっている。希望したチームも何組か出演するが、メインはキドアイラクの演奏だ。オーディションも目前ということで、リハーサルも兼ねてとサークル員達が企画したのである。いつもよりも片付けられている部室には二軽のメンバーは元より、一軽の部員およびそのポケモン達、話を聞きつけた騒ぎ好きの学生、そしてどこから入り込んだのかわからないが、大学に住み着いているコラッタだのパラスだのが隅っこに集まっていた。

「あー! もう始まっちゃうじゃん、めっちゃ緊張するんだけど!」

即興で取り付けられた暗幕によって隔てられたスペースに、二ノ宮の小声が響く。「こういう本番前の雰囲気、好きって奴もいるけど俺苦手だわ」アフロ頭を抱えて呻く二ノ宮は、自分を囲むように置かれたドラムセットに額をくっつけた。
キドアイラクは今日のメインにしてトップバッターであり、あと数分が経てば出番となる。本番直前になるといつもこうして騒ぎ出す二ノ宮に、有原がアンプの最終確認をしつつ「お前なぁ」と振り返った。

「いい加減慣れろって。大体これで緊張してたら次どうすんだよ」
「そうは言ってもセンパイ、緊張するもんは緊張するんスよ。あー、もう! ヤバいッスよマジで!!」
「いいから落ち着けって。いいじゃないか、そのおかげでとりあえずねむり状態にはならなくて済むぞ」
「うるせー、大丈夫ッスよラムのみ食べるから!!」
「ツッコめてねぇよ……ホントに落ち着け二ノ宮、あとカゴのみじゃないんだなそこ」

いつも通りなんだかそうじゃないんだかわからない会話を交わす二人のことは放っておくことにして、富田は隣に立つ、歌詞を小さく口ずさんでいる泰生へと視線を向けた。

「どうですか、調子は」

その問いに声を止め、泰生は「ん」と僅かに頷く。歌詞も声の出し方も、リズムの取り方も本物の悠斗に劣らないくらいまでになってきたし、体調も問題無い。ただ一つ、ノリだけはどうしても埋めようのないことだったが、そこには富田は目を瞑ることに決めていた。変に強制して違和感が生じるのもコトであるし、あまり多くを望む意義も見出せなかったためだ。
「今頃、ミツキさんが話をつけに行ってるはずです」肩に掛けたギターに指を添え、富田は目を伏せた。「悠斗と羽沢さんの件、この状態を引き起こした奴と」そこまで言って一度言葉を切り、彼は短く息を吸う。

「なんであの時、犯人のことわからないままでいい、って言ったんですか?」

そんな質問も全く聞こえていないのであろう、有原達はまだくだらない会話をしている。しかしそれで二ノ宮の緊張も大分ほぐれただろう、などと考えながら、富田は尋ねた。
「誰だか、気にならなかったんですか」あの日の夜、犯人がわかったのだと伝えにきたミツキに、泰生と悠斗は、犯人のことは知らないままで構わないと答えたのだ。富田にはそれが理解出来なかった。これほど大変な目に遭わされておいて、どうしてそんなことが出来るのか、まるで許してしまったような顔になれるのか。「直接怒ったりとか、しないんですか」なんで、それで済ませてしまえるのか。

「あえて知る必要も無いだろう」

泰生は、何も迷うことなくそう答えた。「元に戻れるようには、あのサイキッカーが話をつけてくれると聞いてる」強い意志を持った瞳が富田を見る。「なら、それで十分だ」
「俺と悠斗がそれ以上、そいつをどうこう言う意味は無い」
「………………」
「いつか、どうにかしなきゃならんことだったんだ。それをこのタイミングでしただけで、だから、呪いとやらをかけた奴は関係無い」

そうだろう、と富田のことを覗き込んだ泰生に、富田は少し時間を置いてから微かな笑みを浮かべる。「そうなんでしょうね」あんたと悠斗がそう言うなら、という言葉は喉の奥底へしまっておくことにした。
「えー、じゃあそろそろ始めにしましょうか!」暗幕の向こうから、司会進行を務める芦田の声が聞こえてきた。開始を告げるそれに、二ノ宮がぴくりと身体を震わせて会話を途切れさせた。「そろそろか」富田もギターを構え直し、両手を閉じたり開いたりして最後の準備にかかる。「今日も最高なの決めような」本番には強い有原がニッと笑って、三人に向けてガッツポーズした。

「では、早速登場していただきましょう! キドアイラクの皆さんです!」

マイクを通した雑音の混ざった口上が響き、暗幕が雑な感じで下ろされる。
黒の布が落ちて目の前が客席に変わるほんの刹那、富田と有原と二ノ宮は同時に、彼らがボーカルの方を見て頷いた。





「いやぁ、申し訳ございません。遅くなりました」

身体についた水を払い落としながらミツキが入ったそのカフェは、外から抱くイメージ同様小洒落た印象に満ちていた。バケッチャやコータスを象った関節照明が輝く店内はちょうどよい薄暗さで、流れている音楽もシンオウの夜を思わせる感じでいい雰囲気である。「いらっしゃいませ」という店員の声も落ち着いていて品があり、思い思いに食事やお茶を楽しんでいる客の声もうるさすぎず静かすぎず、なかなかに素敵な空間だ。
そんな店で若めの男女が二人向き合ってコーヒーなどを飲む――そこだけ取り出してみれば、十人中九人はデートだと思うに違いない。(残りの一人はポケモン売買の現場だと捉える、考えすぎのジュンサーさんだ)。しかしミツキと、彼が迷わず歩いていったテーブルにいた女性を見てみても全くそんなことは思えず、むしろその対局、デートなどという浮かれた現場からは最もかけ離れた光景にしか考えられないだろう。それはミツキの服装が残念であることにも起因するが、それ以上に、彼の姿を見つけるなり険悪さを一気に醸し出した女性のオーラにあると言える。

「あ、先に頼んでらしたんですね。それはなんですか、オリジナルブレンドコーヒー? いいですねー、僕もそれにしようかな、ああでも、せっかくだし……すみませーん! キャラメルマキアートナナのみスペシャルチョコシロップがけLサイズでお願いします!」

テーブルに置かれた、湯気の立つコーヒーを見てミツキはペラペラと一人喋りまくる。かしこまりました、と店員が丁寧な礼を残してカウンターへ去っていくのを見送って、「せっかくだからすごいの飲みたいじゃないですか?」と、彼は無意味なことを底無しに明るい笑顔で言った。

「そんなこわいかおしないでくださいよ、何か下がるわけでもないんですから」

からかうような口調で言うミツキの視線の先、向かいに座る女性の表情が、ミツキの笑顔と同じくらいの底無しさで険しいのは、きっとミツキが前髪からテーブルに雨粒を落としまくっていることへの不快さからだけではあるまい。清楚系と揶揄されそうな服装に、ストレートの黒髪ロング、伸びた背筋からは育ちの良さが窺い知れるけれど、せっかくの『おじょうさま』然とした様子も憎悪の滲む顔のせいで台無しだ。ナチュラルメイクに彩られた目元はミツキを睨みつけ、グラエナよりも鋭い気迫で威嚇しているように見える。
「やっぱり、もうちょっとオシャレしてくるべきでしたか?」そんな彼女に向かって、何も気にしていないかのような明るさでミツキが続ける。「申し訳ないです、こういうの慣れてないんですよ、まあ見りゃわかるって感じでしょーけど」センスゼロのTシャツをわざと見せつけるようにジャケットの前をはだけ、彼はへらりとだらしなく笑った。「これでも頑張った方なんですよ、靴だってちゃんと洗いましたし」

「こんな可愛いお嬢さんと茶ーしばけるなんて、もう楽しみで楽しみで、三日前からなんと――」
「いい加減にしてください!!」

ダンッ、と机を叩いた彼女が、ミツキに向かって怒鳴りつける。机の上のコーヒーが波打って、他の客達が一斉に彼女の方を見た。
「あんなわけわかんないメール送ってきて、バラされたくなければここに来いとか……」が、それに気づかない様子で、彼女は声を震わせる。「本当わけわからないんですけど、何の用で、私を、こんな――」

「え? 本当にわかんないわけ?」

が、ミツキは彼女の苛立ちをぶつけられても全く動じることはなく、むしろ声と表情の明るさを増してさえいるようだった。
恐ろしいほどに楽しげに、愉快そうに、嬉しそうに、彼はキラキラした声で言う。

「まさか僕が、本気で君をデートに誘っただなんて思ってるの? 違うでしょ? それに『バラされたくなければここに来い』なんて、無視してもいいっていうか無視するべきメールだよ? だって危ないじゃん。そういうの学校で習わない? 僕は学校行ったことないから知らないけど。それなのに来るってことは、そこまで考えられないレベルで 、バレたくないことがあるんじゃないの? 君には、何としてでも隠し通さないといけないことがあるんでしょ?」

流れるように投げつけられる問いの連続に、彼女は言葉を失って黙り込んだ。俯いた目からは険しさが消え、怯えたみたいに視線をあちこちへさまよわせている。先ほどまで赤かった顔はみるみるうちに青に変わり、白い頬は小刻みに震えていた。
「まぁ、カマかけるようなこと言って悪かったよ」そんな彼女をなだめるようにして、ミツキはやや穏やかな声を出す。ただ、前髪の奥の目はちっとも優しさなど持っておらず、「君が何と言おうとしたとこで、もう全部調べ終わってるからさ。だから君を呼んだわけだけど」店内に響く音楽の如き落ち着いた声色で、彼女にとっての死刑宣告を言い渡した。

「そこにいるんでしょ? 『王者』にふさわしくない奴に、呪いをかけることが出来るコが」

言いながら、ミツキは何気ない仕草で彼女の鞄を指差した。それに彼女は一層強く震え上がって、声にならない叫びを飲み込むように呼吸を止めた。青を通り越して白くなってしまった顔の彼女に、ミツキは苦笑を浮かべて「落ち着いて」と優しく言った。
「時間はたっぷり……とまではちょっと言えないけど、ま、お互いゆるく話そうよ」テーブルの端に置いてある、オムナイトとカブトの形をした塩胡椒の入れ物を指先で弄びつつ、彼は言い聞かせるように続ける。あくまで穏やかで、静かで、しかし明るいその声に、客や店員達の注目はすっかり失われて各々の会話や仕事に戻っていた。当たり前の日常そのものの店内で、ミツキの正面の彼女一人だけが、この世の終わりのような顔をしている。「申し遅れたね。僕はサイキッカーのミツキ。普段は便利屋稼業とか、拝み屋とか言われるようなことやってる感じかな」

「じゃあ、今日はよろしく。お会い出来て光栄だよ」

湿った頭を片手で掻いて、彼は前髪越しに彼女をじっと見据える。


「羽沢泰生・悠斗の両人を呪った真犯人さん――――松崎春奈さん」


ごめんね、名前調べちゃって。
ちっとも悪びれていない声でそう言って、ミツキは絶句したままの彼女、松崎に向かってにっこりと笑いかけた。







「また相生くんとペアらしいですよ。クジ引きってわかりませんよね、確率論的にどんな数値だろうと明らかに偏ったり、何度も同じ結果になったり」

まあそんなこと言ったらバトル学における二分の一なんてあてにならないの極みですが。などと森田は苦笑して、悠斗にボールを手渡した。

「対戦相手は……とりあえず初回は、岬さんと山内さんですね。岬さんはノーマルのプロなんで誰を出してもタイプは安定してます、山内さんは……シュバルゴかジャローダか、それかコジョンドでくると思います。リーグはそれで出るって話ですから」
「岬さんがノーマルタイプって決まってるなら、ミタマはやめた方がいい感じでしょうか?」
「うーん、シャドーボール以外の技もありますし、山内の出すのがシュバルゴとジャローダかもしれませんし……一概によくないとも言えませんよ、先発はある種の賭けですからね」

064事務所のコートでは、至る所でトレーナー達がバトルの準備に勤しんでいる。自分が直接戦うわけでなくともポケモンバトルは体力を使うのだ、ストレッチをしたり水分補給をしたり体調を整えている者が多い。もちろんポケモンの最終チェックに余念の無いトレーナーもあちこちにいて、練習前特有の、小さなざわめきが響いていた。
リーグまでの日も刻一刻と迫り、064事務所でもほぼ全ての時間をバトルトレーニングに割いている。そんな様子を報道したがるマスコミも多く、マックスアッププロダクションのような大手ほどでは無いにしろ、テレビや雑誌など数社のマスコミがコートの各所で撮影の支度に忙しい。撮られ慣れているトレーナー達は良いものの、悠斗はその非日常に若干そわそわせずにはいられなかった。

「今頃、ミツキさんがお話しに行ってる頃でしょうかね」

その悠斗を見かねてか、森田が何気ない調子で声をかける。「気になります?」冷えたスポーツドリンクのペットボトルにタオルを巻きながら、彼は悠斗の方を向く。

「僕は正直気になってるんですよね。いえ、気になってるというか気に障るというか気を確かに持てないくらいイライラするというか? どこのどいつがこんな馬鹿なことしやがったんだって感じで、まったく、泰さんと悠斗くんが『知らなくていい』とか言わなかったらそのアホンダラをぶっ飛ばせたかもしれないのに」

他のトレーナーには聞こえないように声を落としつつ、森田が早口で暴言を吐く。体中から毒素を分泌するベトベトンもドン引きであろう舌の悪さに、悠斗は「すみません」とつい謝った。
あの夜、ミツキに『犯人を知りたいか』と問われて断った自分を思い出す。どうしてそうしたのか、自分でもよくわからない。知りたいに決まっているだろう、そんなこと聞くまでもないのに、直接殴ってでもやらないと気が済まないと思う自分だって、頭の中にはいたはずなのだ。それなのに、ああ答えた自分は何を思っていたのだろうか。

「正直、よくわからないんですよね」

悠斗は気の抜けた声で言う。「ただ、そうしなきゃいけないって思った、っていうか」

「もし誰のせいかを知っちゃったら、多分この先、もしもまたアイツと何かあったとしたら、その時その、犯人のせいにしちゃいそうだと思ったんです。あの時にあんなこと言わないで、ずっと嫌ってやってればよかったのに、余計なことしなきゃよかったって思った時、じゃあそうなったのは誰のせいだって、あの状況を作ったヤツのせいだ。と、思ってしまわないかって」
「なるほど、…………」
「それはあまり、良くないことだと思うんですよね。俺らがロクに口聞いてなかったのは俺らのせいだし、それをやめようとしたのも俺らが決めたことだし、もしこれから何かがあったとしたら、それも俺らのことですから。そりゃあ、そうは思っててもそいつのせいにはしそうですけど……でも、少しでもそうしないように、誰だかはわからないようにしといた方がいいかな、と」

悠斗の言葉を聞いていた森田は、「真面目ですねぇ」と一言添えて、なんだか嬉しそうな笑みを浮かべた。
「羽沢さん! 今日は、よろしくお願いします!」森田の後ろから走ってきた相生が、やはり少しばかり裏返った声で言う。それに片手を上げて応えた悠斗の視界の端で、髪を結わえている岬が宣戦布告をするみたいに微笑んだ。「よし、じゃあそろそろ始めるぞー」所長の声がコートに響き、皆が慌ただしくそれぞれの持ち場につく。カメラマンが各々カメラをいそいそと構え、マネージャー達が壁のキレイハナと化していく。嬉しさと緊張が入り混じったような顔をしている相生の隣に立ち、悠斗はボールを一つ、手に取った。

「では、マルチバトル練習を始めます! 岬・山内ペア対相生・羽沢ペア、バトルスタート!」

「頼んだ、ヒノキ!」
「クラリス! 頑張って!」
「いってきなさい、シャウト!!」
「勝ちにいくぞ、リー!」

四つの声が木霊して、四つのボールが天に浮かぶ。
そこから飛び出した影が形をはっきり作るまでの刹那、四人は一斉に息を吸った。





松崎春奈と呼ばれたその女は、しばらく唇を噛むようにして黙っていたが、やがて観念したように「そうですね」と失笑混じりに言った。

「まさか、そこまで調べ上げるものだとは思いませんでした。悪いことは出来ないってよく言ったもんですよね」
「まー、こっちはそれでご飯食べてる身分だからね。探偵稼業なんて便利屋の基本みたいなものだし、別に珍しいものじゃない。君が悪いことをしたとかしないとかじゃなくて、普通に生きてりゃ誰だって、いつ調査対象にされるかわかったものじゃないよ。僕みたいなのは特に、お金さえもらえればどんな目的だって調べるような商売だしさ」

肩を竦めたミツキに、松崎は口を歪めるようにして笑う。知性と皮肉っぽさが同居したようなその笑みが、彼女の目の前にあるブレンドコーヒーに移り込んだ。 この店のモチーフらしい、タネボーのシルエットが二、三描かれた白いカップに注がれた茶色い液体はなみなみと注がれたままで、どうやら手付かずの状態らしい。まだゆらゆらと湯気の立っているそれの香ばしい匂いを吸い上げつつ、ミツキは「とにかく」とやや真面目な声を出す。

「どうしてこんなことをしたのか、それを聞きたいんだよね。だって面倒くさかったでしょ? 呪いって。僕も仕事めんどいってよく思うし、君は生まれつき、なんか力があるわけでもないのにやったわけだから尚更だったんじゃないの?」
「面倒だったら初めからやりませんよ。そりゃあ手間は相当かかりましたけど……っていうか、理由なんてどうでもよくないですか? どうせアンタの目的なんて、私にあいつらを元に戻せっていうことなんでしょうし」
「そりゃあそうだけどさ」

ミツキが口をむにゃむにゃさせたところで、「お待たせいたしました」とウェイトレスが二人の会話に割り込んできた。タマ大生のアルバイトだろうか、栗色の髪をサイドテールにした女性店員は、「キャラメルマキアートナナのみスペシャルチョコシロップがけLサイズでございます」と流暢に言いながら大きなコップをミツキの前に置く。ヤドキングの頭の形のようなてんこもりの生クリームにかかったチョコレートよりも強烈な、キャラメルとナナの甘ったるい香りが鼻腔を突き、松崎は露骨に深いそうな顔をした。「ごゆっくりどうぞ」そんなことには目もくれず、ダーテングのシルエットが躍るモスグリーンのエプロンを翻し、店員はカウンターへと去っていった。
甘さの塊のようなそれにストローを突き刺し、美味しそうに一口啜ったミツキは「そりゃあそうだけどさ」と仕切り直す。「聞いておきたいわけ、一応ね」

「調べた中で大体それもわかっちゃってるけど。やっぱ、本人に確認とるの大切だし、それに松崎さん? どうせ素直にやめてくれるわけじゃないんでしょ」

ミツキの言葉に、松崎は馬鹿にするような笑みを浮かべたまま何も言わない。それをどう受け取ったか、ミツキはストローの先を噛み潰して「僕から言えってことなの」と前髪に隠れた眼をわずかに細めた。「別にいいけどさ」随分と悪趣味だよね、という言葉を続けそうになって、ミツキはそれをキャラメルマキアートと共に喉の奥底へ流し込んだ。

「じゃあ言うけど。まず、君はマックスアッププロダクション所属のエリートトレーナー、根本信明の娘だ。もっとも彼のプロフィールは生涯独身で子どももいないことになってるし、それは彼の身内だって疑ってないことだ。君以外に彼の血をひくヤツは存在していないしね。つまり君は、彼の隠し子っていうわけ」

言ってから、ミツキは「それはちょっと違うか」と首を傾げる。白い生クリームをスプーンですくい取り、「正しくは、」それを口に含んで言い直した。

「根本自身も知らなかったんだ。つい、一年前までは」
「一年と二ヶ月です」
「そうだね。そう、根本さん本人も、一年と二ヶ月前までは、君がいることなんて、自分の子どもがこの世に存在してるだなんて思ってなかったんだ。彼はそういうとこはちゃんとした上で遊んでるっぽいし、事実今まで、彼に妊娠を告げた女もいないから、それは無理もない。君のお母さんは言わなかったんだ、根本さんに。根本さんの子どもが出来たってことを言わないで、彼の前から消えてずっと君を育ててたんだ。父親の存在は全然出さないで、親からも離れて。一人で」

そうするくらいには、根本さんのこと好きだったんだろうね。ミツキは言い、机の上で組んだ指を無意味に組み替えたり動かしたりして息をつく。「そんで、君のこともね」ミツキにじっと見つめられた松崎は、平然とした表情のまま座っていた。

「ここから君の話だ。じゃあなんで、そのことを君が知ったのか。まー、この件に関してはホント、同業者として心底申し訳無いと思うけどね」

苦々しく鼻を鳴らし、ミツキは舌打ち混じりに続ける。

「お母さんとの喧嘩がきっかけで、君が半ば家出みたいな感じで旅に出たのが三年前。で、そいつに出会ったのが二年前。旅先で会った占い師……つーか、サイキッカーに自分の出自を見てもらった君はそこで、自分の父親のことを知ったんだ。そのサイキッカーの言うことは、まぁ本物のサイキッカーだけあって、そいつが知らないはずの君の思い出とかも言い当てられたから信じたんだろうね。で、君はそこでまずそいつに、よりにもよって弟子入りなんぞして、呪術のやり方をかじったと」
「先生は、才能があるって言ってくれましたよ」
「確かにね、たった一年の修行でここまでのレベルになれたんだからそれは否定しないよ。それはともかく……その後、サイキッカーと別れた君は根本さんのとこに向かうことを選んだ。深い意味なんて無かっただろうけどね、ただ飛び出してきた手前帰る気にもなれず、バトルの道にも限界が見えてきた からってだけで。あとは、まあ、父親は死んだって君に言い聞かせてきたお母さんに対する不信感? とにかくその辺の諸々で、軽い気持ちで君はお父さんのとこに行った」

銀のスプーンでナナを一つすくい上げたミツキの手元を、シシコがじっと見上げている。それに気づいたミツキは、シシコのトレーナーがパソコンとにらめっこをしてる隙をついてナナの欠片を小さな口に向かって放った。 喜んでそれに飛びつくシシコを横目で見て、ミツキは代わりに生クリームを舐める。

「いきなり尋ねてきた上に、自分の娘だと名乗った君に根本さんはびっくりしたけど……でも、君のお母さんの名前を聞いて、すぐに信じた。心当たりがあったのと、その上、急に音信不通になったものだから気にしてたんだろうね。で、自分の子どもがいたことを知った彼は責任を感じ、君のことを匿うことにしたんだ。姪だかなんだか、適当な理由つけて」

問題はここから。ミツキは言って、テーブルの下の足をぶらつかせる。雨に濡れた靴から飛沫が散った。

「生まれて初めて会った親子なんだから、ギクシャクするのは当たり前だろうに。というか根本さんは実際、かなり素晴らしい部類だと思うよ。ぎこちないながらも、ぎこちないなりに君の父親であろうとしてるんだから、僕、正直見直しちゃったよ。調べててさ。相当大変だろうに、表向きのキャラだって壊さずバトルもしっかりやって、あの人はすごいよ」
「わかりきったことを言わないでください」
「うん、だから、問題は君なんだ。君も、転がり込んだはいいものの、初めての父親との生活が楽しくて嬉しいものの、いまひとつわからなかった、どうしたらいいか。どんな娘であればいいか。自分がこの、根本さんっていうお父さんが好きなことはわかってるし、彼が自分を大切にしてくれてるのもはっきりわかってる。でもまぁ、時間ってのはなんだかんだ必要だから、その分はどうしても埋められなかったんだよね」
「……………………」
「オマケに、外に出れば根本信明としての父親を見なきゃいけない。家と違って自分だけを見てるわけじゃない、無数の女に愛想を振りまく、そしてポケモンに執心する父親を。それが許せないわけじゃないけど、君はどこかで嫌だったんだ。今まで一緒にいなかった分、そうしてる間にも、自分と話してくれればいいのに、って、思ってたんだ」

松崎は肯定も否定もせず、黙ったままミツキを見据えている。その目を見返して、ミツキはコップの表面の結露を無為になぞって指を濡らして遊んでみた。 「そこで止まってりゃよかったのに」軽く言って、彼は水で机に絵などを描く。

「そしたら、あとは時間が解決ってやつ、そうなれただろうにさ」

つり上がった大きな目と裂けた口に並ぶ歯、どうやらムラクモの顔らしいそれはテーブルに揺れるキャンドルでぬらぬらと光った。「君はそこで、他の奴を羨ましがることにしたんだよ」

「根本さんのトレーナー業を見てるうちに知った、一組の親子。生まれた時から一緒にいれて、ずっとお互い近くにいたのに、まともに会話出来ないレベルで仲が悪い。なんて馬鹿なんだ、なんて阿呆な親子なんだ。私だったらそんなことはしないのに。なんでこんな奴らが、こんな幸せの価値もわかってないような奴らが、私に無いものを持ってるんだ。君はそう思ったんだよね」

「それが間違ってるかどうかは問題にしない」水の落書きを手で拭い取り、ミツキは言う。「どんな気持ちになろうが、そりゃその人の勝手だし」

「ただね。実際に行動するっていうのが……そう思った君は羽沢さんと悠斗くんに呪いをかけたんだ。不届者を懲らしめる、みたいな名目でさ。心が入れ替わるだなんて、ある意味中途半端な呪いにしたのはアレでしょ? 下手に殺したり怪我させたり、意識失わせたり記憶喪失にさせたりなんかしたら足がつくかもしれないからでしょ。パッと見ではわからない、けど確実に困るし、他人にも言えないし。地味だけどかなりキッツいよね、しかもリーグだのオーディションだのの時期だから余計に」
「お父さんのリーグ制覇も狙ってたから、この時期にやるのは当たり前です。子どもの方にも何かあったっていうのは予想してなかった副産物ですよ。まあ、途中で私も焦って、直接手を出しちゃったんですけど」

きっと、あのフェスの夜に起きた事故のことを言っているのだろうとミツキはアタリをつける。「そうだね、アレはよくないよ」わざとふざけた調子でコメントして、「ああいう隙を見せるのは危ないからね」と、スプーンでコップを軽く打ち鳴らしながら場違いな助言をした。

「とにかくそういうことだ。羽沢親子への羨望、嫉妬、呆れ、苛立ち、怒り……そういうものが、君の呪いの原動力だった。別に珍しいことじゃないよ、むしろ僕みたいな、商売にでもしてない限りは個人的な感情とか事情から個人的にやるものだからね、呪いなんて。松崎さん。君は君個人の感情として、それこそ根本信明なんて何も関係無い領域の、君だけの思いから、あの二人を困らせて、苦しめてやろうと…………」
「それだけだと思います?」

そこで松崎が声を発した。 「どうだろう」ミツキは動じることなく答え、薄茶色の液体をストローでかき回しながら足を組み替える。

「それは、君の――そこにいるポケモンが知ってるんじゃないの」
「ああ、やっぱり全部わかってんじゃないですか。今までのも、怖いくらい当たってましたよ。サイキッカーってみんなそんなにすごい力があるんですね」

やや声を明るくした松崎にはあえてコメントせず、ミツキは彼女の隣の椅子に置かれた鞄を見続ける。「そうです、そうです」繰り返して、松崎はそこから一つのハイパーボールを取り出した。壊れものを扱うような手つきで彼女はそれを持ち、そこに向かって薄く微笑む。

「そうなんです。私のギルガルド――ナポレオンがやってくれたんですよ。王者にふさわしいかどうか、それを見極める力がこの子にはあるんです」 口許を歪め、黒と黄色に鈍く輝くボールをゆっくりと手で撫ぜた松崎に、ミツキは「やっぱりね」とだけ返事をする。
何百年も前のカロスで起きた、悪の王政をこらしめ市民社会をもたらした革命の英雄の名を冠したその『この子』とやらを思い描く。その名をつけることが適当かどうかは置いておくとして、嫌な名前だねなどと悪態の一つでも吐きたいところだったが、ミツキは再度キャラメルマキアートと一緒にそれを飲み込んだ。ナナの果肉がストローに詰まる。

「ギルガルドの力、アンタならわかってるでしょう」

奇妙な自信に満ちた声で松崎は言う。「普通なら、私レベルじゃ人の心を入れ替えるだなんて呪いはまだ出来ないのに、それが出来た理由」湯気が立たなくなってきたコーヒーに、彼女は弧を描く唇を映し出した。「ギルガルドというポケモンの力が、アイツらにうまいこと合ったんだって」

「そうだね。ギルガルド……ゴーストタイプとはがねタイプ併用のおうけんポケモン。その分類の『おうけん』のもう一つの意味。王の剣じゃなくって、『王の権利』。ギルガルドにはそれを見抜くことが出来る。王者になるにふさわしいかどうか、それを知ることが出来るんだ」

ミツキの答えに、松崎は満足気に目を細めた。「その通りです」白い指を胸元で組み、彼女は歌うようにして喋る。「だから、通じたんですよ。まだまだ未熟な私の霊能力でも、あの、二人に」 彼女の言葉に、ミツキは以前富田にした問いを思い出した。
オーディションに勝ち残る可能性はあるかどうか、という問いだ。泰生がポケモンリーグの頂点に立つ確率が高いというのは知っていたが、もう一人の被害者である悠斗にもその要素があるのかを知ろうとしたのだ。富田の答えはいまいち曖昧だったが、しかし呪いが通じたということはきっと、彼もまたそこにおいて、頂点……王者の座に立てる可能性があるということだろう。
実力面からみた場合には。

「羽沢泰生も羽沢悠斗も、王者になるにはふさわしくない。少なくとも、君のギルガルドはそう判断したわけだ。だから呪いが有効になれたんだ、あの、ただでさえ霊感がなくって下手すりゃゴーストポケモンの気配すら掴めないようなあの二人に、呪いが通じたのは、その条件を満たしてたからだ。呪術は通じないときは本当に通じないけど、その人やポケモンにある得意領域と条件さえ合致すれば、すさまじい威力に膨れ上がれさすことが出来るからね。そのことがわかった時は正直言って、恐れ入ったよ」
「ありがとうございます、って、素直に言っておいた方がいいんですか?」
「まぁとりあえず。どういたしまして……で、心が入れ替わったっていうのはギルガルドのもう片方の能力だよね。いや、正確には……『記憶が入れ替わった』って言うべきか。生き物の精神とか心とか気持ちとか考えとか人格なんて、そのほぼ全部が記憶から出来てるんだから。記憶喪失になったときに人格が変わるってのもその理由だよ。ギルガルドの、記憶を操る能力を使って、君は羽沢さんと悠斗くんの記憶を入れ替えた。その結果が、アレだ。王者にふさわしくない二人は、君の思惑通り呪いにかかった、そういうわけだ」

それで合ってるかな、と聞いたミツキに、松崎は小さく頷いた。細められた眼が、ミツキの頬を刺すように見る。
「その通りですよ」楽しそうに、松崎がそんなことを言う。「だって、あの人たちは頂点に立つにふさわしくないですもん」

「探偵さん。ポケモンリーグの頂点、……バトルの王様になるのにふさわしい、『品格』って、なんだと思います?」

唐突にそう尋ねた松崎に、ミツキは少々驚いた顔をした。「なんだろう」足を組み替えながら、彼は考え込むような間を置いてから答える。

「バトルが強いっていうのは当然で、あとはポケモンのことを考えてるとか、ポケモンとの信頼関係とか? そんなもんじゃないのかな」

尋ね返したミツキに松崎は笑う。「それはそうですけど、もっと他にありますよ」やや嘲るようなその口調に、へえ、なんだろう、などとミツキは首を捻った。
「それはですね」子どもに言い聞かせるみたいにして、松崎はゆっくりと話す。

「人の、夢になること。希望になること。背中を押してくれる、勇気を与えてくれる、そんな存在になることです。自分のバトルを通して、誰かの光になって力をあげること。それが、ポケモンリーグの王様に求められることなんですよ」
「…………羽沢さんには、それが無いと?」

ストローの先を奥歯で噛みながらミツキが聞く。「そうですよ。当たり前じゃないですか」 わざとらしさすらある、嘆かわしげな声で松崎が答える。

「自分の子どもにだってそれが出来ない人が、全てのトレーナーのためにいられるわけがないんですよ」

ミツキは、それに同意も反対もしなかった。ただ、甘い液体の付着した唇を一度舐めて、「なるほどね」と短い返事だけをする。「君の考えてたことはわかったよ」彼は頷き、ガラスのコップを指で弾く。ミツキの作った少しの間、二人の鼓膜を外の雨音と客の話し声と、あちこちで鳴り響く皿のぶつかる音が揺らした。
「確認したいことは確認出来た」数秒置いてそう言ったミツキが緩く息を吐く。

「とにかく、話はここでおしまい。時間とってもらっちゃって、悪いね。その埋め合わせは、必要だったら別にするから」

だから、とりあえず、そういうことで。 ミツキは直接的には何も告げなかったけれど、言外に含めた意味は前髪に隠れた眼の光となって松崎にも届いた。が、当の彼女はピクリと眉を動かして、「待ってくださいよ」と冷たい声を出す。

「え?」

残り少なくなってきたコップの中身を吸い上げていたミツキが、その言葉に語尾を上げた。隣のテーブル下で主人の食事を大人しく待っている、シシコがきょとんとした顔で二人を見る。

「おかしいんじゃないですか? なんで、そんな流れに……私が、呪いをやめるみたいな流れになってるんですか?」

色素の薄い唇を曲げて、松崎が淡々と問いかけた。窓の外、ガラスを叩く雨がいつの間にかより一層強くなっていた。 ミツキは何も言わず、松崎を見つめて次の言葉を待つ。テーブルで組まれた手も、その下にある足も、前髪の奥の瞳も動かないままだ。
「馬鹿にしてるんですか」そんな彼に、松崎は続けて言葉を放ち続ける。「こっちだって事情があって、そんなでもなけりゃあんなことしませんよ。それなりに色々あるってんのに」冷静で落ち着いたその早口は、しかし、確かな苛立ちと嘲笑を内在させていた。

「さっきから好き勝手言ってるみたいてすけど、私が大人しくやめるなんてわからないでしょう? あなたは私があなたに従って呪いを解くみたいな前提で話してるみたいだけど、そんな保障どこにあるんですか?」
「……………………」
「おかしいじゃないですか。そんな簡単に解くくらいなら、初めからこんなことしませんよ? こっちだってそれなりのリスクは覚悟の上ですよ、こんな、ちょっと説教されたくらいでやめると思います? やめさせたいなら、力ずくでやってください。こんな話すだけじゃなくて、ちゃんとお互い、闘って――」


「――――――いいよ。君が言うなら、そうしようか」


矢継ぎ早に発される松崎の言葉を不意に遮って、ミツキがそっと口を挟む。

「お互い闘って、ね。君が、それがいいって言うんなら、僕は喜んでお受けするよ」
「…………え?」
「シマ争いとか、仇打ちとか。あとは、腕試とかいう迷惑な道場破りとか。慣れてるからさ。お望みとあればいくらでも、僕でよければ相手になるよ」

そう言ったミツキの声は変わらず明るいものだったが、「でもさぁ」先ほどまで含まれていたようなふざけた調子は掻き消えていて、「ちょっと考えれば、わかんないかな」代わりに、氷すら及ばないほどに冷えきった色へと変わっていた。
そこで松崎は、自分達を取り巻く全てがおかしいことに気がついた。店にいる客も、店員も、キャンドルに灯った炎も、窓の外を歩く人やポケモンの姿も、ガラスに打ち付けられる雨粒も、その全部が刹那を切り取られたかのように動かない。自分とミツキを残して世界が時間を止めたという異常に、松崎は全身の血が一気に冷たくなるのをどこか他人事のように感じた。


「君が僕に――――生まれてこの方呪術で生きるしか道が無くて、普通の社会生活も出来なくて、まともに人間としていられなくて、名前も人生も権利も未来も一回全部捨てて、サイキッカー以外の可能性なんてゼロの僕に、勝てるとでも思ってるの?」


そう言ったミツキの表情は笑顔のままだったが、彼の後ろ、時間が止まったカフェの情景があるだけのそこには、禍々しい何かが渦巻いているようだ。目には見えないけれど、そこには確かに、いる。かじった程度とはいえ呪術に触れた松崎には、それが嫌でもわかってしまった。
「君はちゃんと家族がいて、普通に生活してきたんだよね」黒い前髪の陰の奥で、二つの瞳が鋭い光を放つ。「それを悪く言う気は毛頭無いけど、」暗闇の中に浮かび上がるそれは、酷く恐ろしい力を持っていた。「そんな人に見くびられるのは、ちょっと僕は我慢出来ない」

「あんなメールもらって丸腰で来ちゃうような、何の罠も仕掛けも策も用意しないような、のうのうと首謀者自ら顔見せちゃうような、そんなツメの甘さなのに、僕に喧嘩売るっていうの? 自分で言うのもなんだけど、僕はプロだ。プロのサイキッカーだ。個人的な恨みだの何だので動くようなものじゃなくて、他人のそれを生業にしてるようなヤツだ。そうするほかないから、呪いと魔術でこの世に縋り付いてきたようなヤツなんだよ。わかるよね? 君も、少しくらいは」

淡々とした、特段怒りも悲しみも滲まない、どちらかと言えば楽しそうにさえ聞こえる声にしかし、松崎は深い深い闇の底のような気迫を感じざるを得なかった。
この人は、まともな存在では無い。根拠はどこにも無いし何の証拠も無い考えだったが、それは確信に他ならなかった。

「それでも、君がそれでも僕と闘うんだって言うなら僕は何も言わない。何度だって相手してやるよ、君が何も出来なくなるまで、いくらでも返り討ちにしてやるよ。君が全部捨ててサイキッカーになって、僕を負かすまで何度でもやってやるよ! それくらい、君が考えてるっていうんなら!!」

周囲の空気が生温かく歪む。押し広げられるような、それでいて潰されるような不快感に、松崎は息をすることすら出来なくなってしまった。
止まるのではないかと思うほどに速くなった鼓動に見開いた目は、ミツキを見ることしかかなわない。「それが嫌なら、諦めなよ」残酷なまでにまっすぐな声が耳を撃つ。「だって、君は」彼の口許がゆっくりと動くのに、松崎は自分が意識を保てているのかわからないくらいに頭の中が白くなっているのを感じた。


「君はさ、きっと……サイキッカーなんかにならなくたって、もっといい選択肢がいくらでもある人間だから」


ふっ、と、ミツキが声を柔らかいものにする。途端、二人の周りの世界は動き出し、雨日のカフェは何事も無かったかのように音を取り戻していた。
「君がサイキッカーになりたい、って思うならそれでもいいけどさ」全身の力が抜けてしまったらしく、椅子にもたれたまま動けなくなった松崎にミツキは言う。「誰かのことを恨んだり羨ましかったりっていう理由だけで、なるもんじゃないと思うからさ」

「じゃあ、今日のところはとりあえずこれで。ギルガルドちゃんにもよろしくね」

もう会わないかもしれないけど、と付け足して、ミツキはコップの残りを吸い上げる。チョコの粉末が沈殿してまっ茶色になった液体と、側面にこびりついたクリームを若干未練たらしそうに見遣り、彼は椅子を後ろにずらして立ち上がった。

「あ、そうだ。一個言っときたいことがあったんだ」

ジャケットの前を軽く正したミツキが去り際、不意に思い出したように言う。
うなだれていた頭を僅かに上げて、松崎が彼の方を見た。その、光を失った目に向かって、ミツキはこの店に入ってきた時のような、軽い調子の声を出す。


「根元信明選手が、ここ最近とんと女性問題起こさなくなってるけど、その時期と君があの人のとこに来た時期が重なってるっていうのは、流石に君も気がついてるよね?」

「……………………」

「もしも、……根元さんが、今まで女の人にかけていたお金を使わなくなった分、貯めてる理由がさ。次のリーグでトレーナー引退して、君といる時間を作ろうとしてるっていうんだったら、君はどう思うかな」


それだけ言い残し、ミツキは片手を振りながらくるりと背を向け歩き出した。
ごく自然な動作で店を出てしまった彼に取り残され、松崎は一人、冷めきったコーヒーを前に座り込んだままである。窓ガラスを濡らす雨の音が頭の奥まで鳴り響く中、彼女はただ、穏やかな時間の流れる店内で俯いていた。





「ヒノマル、ニンフィアにギガインパクト!」
「追い詰めてやるぞチャーム、ギガドレインだ!」

悠斗と相生、岬と山内のマルチバトルが始まって数十分ほど。良く言えば盛り上がるギリギリの戦い、悪く言えば泥試合となったこのバトルは、四者全てが残すとこら一匹という状況となった。
最初に沈んだのは岬のガルーラで、数度に渡るマリルリのばかぢからやじゃれつく、アクアジェットに押し切られて倒れてしまった。しかしマリルリもその間受けた、グロウパンチやけたぐりのダメージが蓄積していたところに山内のコジョンドによるとびひざげりを喰らってあえなく戦闘不能。交代で出てきたシャンデラのエナジーボールと、相生のサーナイトのサイコキネシスによってコジョンドは退けられたのだが、次に出てきたジャローダのリーフストームでサーナイトはぐったりと力尽きた。

「かわしてオーバーヒートだミタマ!」

悠斗が叫び、シャンデラが蒼い炎を勢いよく放つ。それは見事にジャローダを包み込んで燃やし尽くそうとしたが、しかし「うちのチャームは一発じゃ落ちん!」細い眼を輝かせ、炎の中から這い出たジャローダに、シャンデラは気圧されたようにして天井へと一時避難した。

「クラリス、ムーンフォースッ!」
「リーフストームだ、チャーム!」

相生のニンフィアが、神々しい光を頭上に集めて一気に放射する。しかしそれを凌駕する勢いで、ジャローダの放った葉々の奔流が聖霊の光線を打ち破った。撃ち込む度に威力を上げるその技に、ニンフィアが唖然と立ち竦む。
「シャドーボールで押し退けろ!」悠斗の声に応えたシャンデラが、ニンフィアの前に立ち塞がって紫の弾を高速で放つ。全身を黒い影に射抜かれたジャローダは長い体勢を崩しかけたが、「もう一度リーフストーム!」すぐにまた、威力をさらに増した十八番をシャンデラ目掛けて解き放つ。たまらず喰らったシャンデラの下で、「今よヒノマル、ニンフィアにギガインパクト!」岬が叫んで、ケッキングが力の限りを尽くした光の塊をぶん投げる勢いで放った。ぶっ飛ばされたニンフィアは、「ハイパーボイスだクラリス!」よろめきながらも大口を開けて大音量の声を喉からぶっぱなつ。

技と技が交錯する戦場で、誰が最初に力尽き、誰が最後に残るかわからない。互いの戦意と闘志と気勢だけが渾然一体となって、それ以外のものは何もかも、十六の瞳からは消え去っていた。


そして、それが、唐突にやってきた。

自分が飛ばす指示と、ポケモン達の鳴き声と、わざとわざがぶつかり合う音に紛れて聞こえてくる、今この場に存在しないはずのものが確かに耳に届く。

「ミタマ、よけろ! シャドーボールだ!」

巧妙なテクニックには人一倍自信があるという、有原のベースが細かく音を刻んでいる。自分の口から発された声に合わせて、シャンデラが闇の底から這い出るような音と共に深い紫をした魔弾を生み出していく。

「こっちには通じない、ヒノマル! ニンフィアにアームハンマーよ!」

耳をつんざくようなほどの鋭さと激しさを持った、しかし吹き抜ける一陣の風のような爽快さでもある、富田のギターソロが耳の奥を駆け抜けていく。岬の強かな声に弾かれて、ケッキングのぶっとい腕がニンフィアめがけて振り下ろされる。

「チャーム、こっちもいくぞ! 相性なんかもう気にするな、最大レベルのリーフストームッ!」

怒涛のように押し寄せるドラムの音、それは、楽器に隠れてあまり見えないが、こうしている時にはアフロ頭が物凄いことになる二ノ宮の得意技だ。畳み掛けるようなその音達に割り込んで、山内の大声とジャローダの美麗な葉音が交差する。

「ハイパーボイスだ、クラリス!」

隣に立つ相生が、芯の通った声をまっすぐに飛ばしていった。ケッキングの、暴力的な攻撃を跳躍して避けたニンフィアが四つの脚で着地すると共に大きく、大きく口を開ける。
その小さな身体のどこから生まれているのだと思うほどの、何もかもを揺るがしそうな叫声にコート中が震わされた。そのせいか、それとも違うのか、悠斗の視界がガクンとぶれてノイズが走る。痛みに似た衝撃が頭で弾ける中、それでも悠斗は戦場に向かって声を出した。

「今だミタマ、一気に終わらせてやれ、全力で――――」

そんな叫びが終わるよりも前に、悠斗は自分の意識がどこかへ引っ張られるのを感じた。
何より激しい戦いが繰り広げられるコートではなく、自分が本来立たなければならない場所へ、立ちたいのだと強く願ってやまない場所へ、誰かが自分を引っ張っているようだった。

長いこと聞き慣れた、ギターの音が聞こえてくる。
それに身を委ねるようにして、悠斗は真っ白に染まった視界を瞼で覆った。

ほんの僅かな刹那、全てが見えなくなって聞こえなくなって、そして、


「――――終わりに近づく、一駅分の二人旅を……」


次に目を開けた時、悠斗はキドアイラクのバンドメンバーが奏でる音の中、最後のサビを歌い上げていた。

高らかに、軽快に、優しく、それでいて少しだけの切なさを以て、そして愛おしく。マイクスタンドを越えて、目の前の客席すらも部室の壁すらも超えて、どこまでも自分の歌声を響かせるように、彼は歌う。富田のギターと、有原のベースと、二ノ宮のドラムと混じり合うように歌詞を追い、リズムを刻み、メロディーラインを駆けていく。
最後の言葉が口から溢れ、後奏は曲の終息へと向かっていく。背中に一筋の汗が伝い、落ちていくのを感じながら、悠斗は長い長い息を吐いた。

「悠斗、っ……」

無意識に振り向いた悠斗の視線の先で、富田が口の動きだけでそう言った。悠斗はそれに笑顔を返し、マイクスタンドから離した片手の親指を立てた。
富田が目を丸くして、それから笑う。続いて、悠斗のサインをどう受け取ったか、有原と二ノ宮も満面の笑みを顔中に浮かべてそれぞれガッツポーズを決めた。四つの笑顔が交差した中心、ギターの余韻が消えるその瞬間に、互いの視線が混じり合う。

「最高!!」
「キドアイラク最高!」
「絶対いける!!」

途端、部室中に割れるほどの拍手と歓声、口笛や足音などが反響した。演奏を聴いていた全ての者が、口々に賞賛の声を発して輝かんばかりの笑みを湛えている。人もポケモンも同じようにして、たった今披露されたステージに魅了され、夢のような時を送った顔をそこに浮かべていた。
上がった息を整えながら、悠斗は潤む視界でそれを見渡す。見知った顔も、知らない顔も、紫色の顔も毛深い顔も長い牙が突き出た顔も――皆が、自分達の音楽に拍手を送り続けていた。惜しむことのない、大きな拍手を。

悠斗は、喉の奥から溢れ出しそうな熱をぐっと抑えて息を吸う。
その、夢に見た、そしてこれからも夢見続ける、ここで生きていきたいのだと願ってやまないこの場所で、

「――――ありがとうございました!!」


彼はそう、声をいっぱいに響かせた。





「えー、今日はお集まりいただき、ありがとうございます……」

少しの距離で仕切られた客席を見渡して、泰生はマイク越しに挨拶する。可能な限り物を取っ払った部室に押し込められているのはサークル員達のみならず、一軽の者が連れてきたポケモンも確実にスペースを取っている(一軽の部員曰く、彼らもバンドメンバーらしいが)。しかもそれに感化されたのか、二軽のサークル員までもがポケモンを出しているせいで、狭い部室は飽和状態を通り越して廊下に溢れかえっている者が出る始末だった。
「一曲だけの演奏ですが、聴いてください」シンプルな口上に、それでも皆は歓声や拍手などで盛り上がる。一軽のメンバーたるバシャーモが、首から下げたギターを長い爪で掻き鳴らして(フォークギターだけど)さらに場を沸かせた。彼らに一度軽く礼をして、泰生はマイクを握って言う。

「それでは、どうぞ……『始発電車を待ちながら』」

その言葉が終わると共に、二ノ宮がスティックを四度、打ち鳴らす。そして有原と富田がそれに乗るようにして両指を動かし始めて、部屋中に曲の始まりが告げられた。
勢いのあるスタートを切った前奏に、泰生はすっと息を吸う。あの後皆で話した結果、曲は結局変えなかったのだけれども、悠斗がかけ合って『始発電車』の歌詞の一部を変更した。ただ単にポケモンを登場させないのではなく、それに触れた上で、それでも自分達の足で駅一つ分の距離を歩いていく、という歌詞に変わったのだ。
その言葉を追いながら、泰生は歌う。歌詞を語り、リズムを刻み、音階に身を寄せているとどうにも、自分が何かと一体化しているかのような錯覚に陥った。富田のギターが低音から高音を一気に移動する。有原のベースが低く重い音で空気を震わせる。二ノ宮のドラムが軽快かつ着実なテンポで鳴り響いた。そこに音を載せていきながら、泰生は不思議な高揚感を覚え、首筋に汗を伝わせた。

それは、その時、急に訪れた。

富田達の演奏と、そこに乗せる自分の声と、サークル員達の手拍子と、少しばかり混じる機材のノイズ。
そこに見え隠れするようにして、ここには無いはずの声が聞こえてきた。

『ミタマ、よけろ! シャドーボールだ!』

凛と重く通った声に続いた、肌が粟立つ影の音。それを掻き消すようにして奏でられる、スラップベースのテクニカルな音の波。

『こっちには通じない、ヒノマル! ニンフィアにアームハンマーよ!』

空気を切り裂く女声と、空間全てをぶっ壊すような鈍い音。そこに被さるのは六つの弦を目にも留まらぬ速さで行き来する、派手な旋律のギターソロだ。

『チャーム、こっちもいくぞ! 相性なんかもう気にするな、最大レベルのリーフストームッ!』

勢いづいた男の声と、夏風のような涼しさを持った、しかし底知れぬ力を兼ね備えた葉擦れの音。それと競い合うように、また溶け合うようにして、両腕を限界まで動かすドラムセットの音達が耳に飛び込んでいく。

『ハイパーボイスだ、クラリス!』

爽やかな叫び声を押し退けたのは、どんなスピーカーを使ってもここまでの大音量は出せないのではないかと思われるほどの、鼓膜が破れそうになるくらいのとてつもない嬌声だった。
間奏が終わり、最後のサビに続くメロディーを泰生は歌う。視界がぼやけ、マイクに置いた自分の手も、少し前方にいる皆のことも、まともに見えなくなってきた。それでも口と喉は自然に動いて、彼をどこに連れていくように歌い続けた。ギターとベースとドラムの音に引っ張られ、引っ張るようにして、泰生の歌声が響いていく。
まるで、誰かと共にそうしているみたいに。

ギターの音と飛び交う指示と手拍子の波と轟音とドラムのリズムと誰かの悲鳴とベースの低音と高らかな咆哮と自分の歌声と、
そして彼の意志が大きく耳に響いて、

『今だミタマ、一気に終わらせてやれ、全力で――――』

一瞬だけ視界が真っ白に弾け、あまりの眩しさに刹那目を閉じて、泰生は大きく開いたその口で、


「――――オーバーヒート!!」

ポケモントレーナーとしての言葉を、064事務所のコートいっぱいに響かせた。

最後の最後とばかりに奮い立ったように、シャンデラが全身の炎を強めて高く舞う。恐ろしいほど大きなシルエットとなるまで膨れ上がった蒼い炎は、彼を包み込んでもまだ余りあるほどで、その標的となったケッキングとジャローダは、呆然として見上げるしかなかった。
「チャーム、よけ――」慌てた口調で山内が叫ぶが、「でんこうせっか!」間髪置かずに指示を飛ばした相生と、すかさず飛び出したニンフィアがそれを許さない。軽やかな体当たりをモロに喰らったジャローダは回避をすること敵わず、彼女が再び目を開けた時には既に、ケッキング共々自分達を覆い尽くす、視界いっぱいの蒼の炎が燃え盛って迫ってくるところだった。

「……………………」

その炎も収束し、煙を残して消えた中、コートには全身を焦がして倒れているケッキングとジャローダ、そして得意げに胸を張るニンフィアと、満足そうに宙を漂うシャンデラが残されていた。それに一度頷いて、泰生は後ろを、壁に沿ってバトルを見ていた森田がいる方を振り返った。

「泰さん……!?」

裏返った声で森田が言う。丸い目をいっぱいに見開いて、彼は口をぱくぱくさせた。
それに片手を上げて返し、泰生は深い頷きを返す。それから視線を移した先、自分の元にゆっくりと漂ってくるシャンデラに、彼はそっと手を伸ばした。
ふわりふわりと揺れる、不気味にして幻想的、そして美しさを持った蒼い焔。ある種恐ろしくも見える黄金の瞳にはしかし、泰生に向けるいくつもの感情が見え隠れする。言葉の代わりに炎を揺らした相棒の身体に泰生の手が触れて、抱きかかえるように腕を回した。

「羽沢さん! ありがとうございました、勝ちましたよ!」
「負けちゃったかぁ……お疲れ、チャーム」
「オーバーヒートには敵わないわね、流石だわ」

相生が、コートで喜びに踊っているニンフィア同様、飛び跳ねんばかりの勢いで泰生に笑いかける。山内が苦笑を浮かべながらしゃがみこんで、床に伸びたジャローダの背筋を優しく撫でた。岬は肩を竦め、目を回して倒れているケッキングの片腕をぽん、と軽く叩き「お疲れ」と告げた。
「ケッキング、ジャローダ、戦闘不能! よってこの勝負、相生・羽沢ペアの勝利!」ジャッジ役の職員が声を張り上げる。コートのあちこちでは未だバトルが続いていて、誰もが勝星を獲るべく前を見据えて闘っている。人もポケモンも一緒になって、ただひたすらに、より高いところを目指して進み続けている。

泰生は、頭の中に駆け巡る様々な記憶から意識を戻して息を吸う。
その、ここしか無かった、自分の唯一無二であった、ここで生きていくのだと決めてから一度も揺らぐことのないこの場所で、

「――――ありがとう」

彼はそう、心の底から生まれた言葉を口にした。





「あームラクモ? 僕だよ、うん、終わったよ。え? 聞いてたでしょ、特に何も無かったよ、うん。まあ、わかってたけどね、アマの呪いにしてはいい方だって」

店を出たミツキは傘を持っていない方の手で携帯電話を取り出し、耳に当てるなり話し出す。勿論それはカモフラージュにすぎない、ムラクモとのテレパシーを隠すための手段だ。
『ひとまずお疲れ』携帯のスピーカーなどではない、ミツキの頭にムラクモの声が直接鳴り響く。『で、肝心の解除はしてくれそうなのか?』仕事にはいつでも真面目な相棒の言葉に、結論を急ぐその顔を想像しながらミツキは「まーね」と気の抜けた答えを返した。

「結構キツい感じで言ってやったし。アレだけ言われてそれでもやめないとか、それはバカでしょ。流石にあの子がそこまでの駄目な奴だとは思いたくないよ」

『それはなぁ。お前にあそこまでされて、まだ食い下がったらそれはマジモンの阿呆だよな。つーかお前大人気なさすぎだろ、腹立つのはわかるけど色々ぶちまけすぎ』

「ゴメンゴメン。一応、半分は脅しの演技だったんだけどね、ついいらっときちゃってやりすぎちゃった……とりあえず万が一、ホントに何もしなかったら本当に力ずくでいくけどね」

そこは心配いらんでしょ。軽い調子でそう呟いて、ミツキはビニール越しの雨空を見上げる。あの、それなりに恵まれててそれなりに恵まれなかった少女は今も、手つかずのコーヒーを前に俯いているのだろうか。水滴で滲んだ鈍色の視界に、そんなことを考える。
『それより、ミツキ』ムラクモの声が思考を遮って、ミツキは前方へと視線を戻した。黄色いお揃いのレインコートを着て、少年とジグザグマが水溜りの水を跳ねさせながら走っていく。その飛沫が数滴高く飛び、ミツキの頬をピシャリと濡らした。

「うん? なにかな、ムラクモ」

それを傘の柄を持った指先で拭いつつ、ミツキはタマムシのどこかにいるムラクモへ尋ね返す。『なんで、最後余計なこと言ったんだよ』返ってきたのはそんな疑問だった。『あのガキにあんなこと、教える必要も義理も無いだろ、俺らには』

「そうだけどさ。確かに、言わなくて良かったなって思うし」
『だろ? つーか、お前行く前は言わない気満々だったじゃねーか。絶対教えてやるもんかってくらいでさ』

その言葉に苦笑して、ミツキは「そうだね」と照れたように言う。「でもさ、あの子見てたら気が変わって」雨音に溶けるような声で、彼はそこに笑みを滲ませた。

『なんだよ。かわいかったからか? お前のタイプじゃないだろ、『おじょうさま』は』
「まぁ、僕はOLとかおねえさん系列属性だからね……それは違くて。――なんかさ、あの子にも、ちゃんと進んでほしいって思ってさ」

ミツキの返事に、ムラクモが黙る気配がした。「呪いって体力とか結構削るし、慣れてないなら尚更。その代償分はあの子だってもらっていいでしょ」前髪の奥に隠れた両眼を少し補足して、彼は半分独り言のように言う。「あとさ、」

「羽沢さんと悠斗くんが前に進めたんだから、あの子だって、まだ遅くなんかないし。せっかく生きてるんだから、後悔はなるべくしないように、してほしいなって思ったんだよね」

しばらく間を置いて、ムラクモは『なるほどな』と溜息と共に答えた。『お前はそういうヤツだよ』観念するような語調で、ミツキの相棒たるゲンガーは、ミツキに向かって言葉を送る。


『本当に優しい奴だよな、ミツキは』

「まーね!」


明るくそう言ったミツキに、間髪置かず『調子乗んじゃねえぞ』とツッコミが入る。すっかりトゲトゲしさと苛立ちを取り戻したそのセリフは、ミツキの頭にガンガンと響き渡った。

『優しい分の一億倍はお前、ただのクズでしか無いからな!? 俺知ってっからな、お前最後アイツが放心してんのいいことに、自分が飲んだ分の金払わないで出てきただろ!? 何ナチュラルにおごられてんだお前は!!』
「あ、バレた? いや〜人の金で食べる美味いものは本当においしい!!」

ぎゃあぎゃあと頭の中に響くムラクモの小言を慣れた調子でスルーして、ミツキは「あっ」と声を上げる。
鼓膜を揺らす雨音が聞こえなくなったと思ったら、いつの間にか空の隙間から綺麗な青が覗いていた。タマムシの道を歩く人々と同じようにビニール傘を閉じて、彼は大きく伸びをする。

「ムラクモー」

間抜けな声で呼びかけたミツキに、『んだよ』とムラクモが不機嫌に返す。「部屋の洗濯物干しといてー、あと今日の夕飯ラーメン食べに行こう」
至極どうでもいいその内容にムラクモは一瞬、呆れたように絶句したが、『わかったよ』と溜息混じりに答えた。それに満足げな相槌をして、ミツキは雨の匂いに満ちた空気を大きく吸う。そんな彼の横を、どこからともなく現れたバタフリーが五、六匹、雨の終了を喜ぶみたいに飛んでいった。

「これで虹でも出ればいい感じに綺麗な終わり方なんだけどなぁ。そこまで求めるのも贅沢かな」

益体の無いことを呟いたミツキに、ムラクモが『なんか言ったか?』と問いかける。なんでもないよー、とそれに声を返し、ミツキは携帯から響いた本物の通知音――森田と富田の名前が表示されたそれに少しだけ微笑んで、晴れていく町並みを仲間の待つ家へと向かい、上機嫌で歩いていった。


  [No.1443] 最終話「嚆矢濫觴」 投稿者:GPS   投稿日:2015/12/08(Tue) 20:43:20   40clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

「あ〜、ありがとうホント〜!! これで年が越せるよ〜!!」

気持ち良い秋晴れのタマムシ某所――とある路地裏の複合ビル二階、真夜中屋の事務所(兼自宅)にミツキの声が響き渡った。

「いや、そんな……こちらこそ本当にお世話になりまして……」

一連の問題が解決したということで、悠斗達はミツキに謝礼を払いに真夜中屋へおとずている。富田が示した『相場』から割り出したその金額が安いのか高いのかは、悠斗や泰生、森谷はよくわからなかったが、ミツキや彼の相棒であるムラクモは、「今日はご馳走だよ! 鍋やろう鍋!」『やったぜみんな! 久々にちゃんとしたものが食えるぞここで!』と大袈裟なほどに喜んでいた。その様子に少々ヒキながら、悠斗はひきつり気味の苦笑を浮かべる。
「ホント助かるよ、あとちょっとで電気止められるとこだったからさ」あまりシャレにならないことを平然とのたまうミツキは、悠斗達からすれば久しぶりに見る、人間つまり本人の姿だ。くしゃくしゃの髪は今日も好き勝手に癖がついていて、寝間着か部屋着が区別のつかないスウェットの上は『NO FIRE NO LIFE』などというフォントとヒトカゲのイラストが躍るTシャツである。「ま、もし止められてもロトムとかに頼めばいいんだけど」全然困ってなさそうな彼の言葉を適当に聞き流しつつ、悠斗は、逆にこんなのどこで買えるのだろうか、という疑問を抱いていた。

「でも、大変だったでしょ。お疲れ様だったねぇ」

労うようなミツキの声に我に返って、「はい、そりゃ、まぁ……」と悠斗は正直な溜息をついた。大変じゃないなどといえば嘘になる、というか、大変だったどころの騒ぎではない。ミツキの姿同様久々に見る真夜中屋の中は相変わらず散らかり放題ゴーストポケモン溜まり放題の酷い有様で、ゴミ以外よりもゴミの占める割合の方が多いという空間だったが、それも気にせず富田と森田はゴミに埋もれるようにして寝こけている。片やパンプジンの腹に突っ伏すようにして、片やゴミ袋とヒトモシが積み上がったソファーに転がって、完全に意識を失っている二人を見て「緊張のあかいいとがほどけた、ってヤツだね」とミツキが楽しそうに笑って言った。あかいはいらないでしょう、とツッこんだ悠斗が横目で見た先では、泰生がシンクに腰掛けるプルンゲルを興味津々といった感じでつついている。一人だけ随分元気だが、プロのトレーナーはこのくらい肝が据わってなければ務まらないのだろう、と悠斗は勝手に結論づけた。
「でも、ま、とりあえずは一件落着ってことで」報酬の入った封筒をポケットにしまいつつ、ミツキは気の抜けた笑みと仕草で肩を竦める。「これからはこんな、僕に世話になるよーなことに巻き込まれないことを祈ってるよ」

「これで君たちは、僕とのアレコレは終わりになるけれど……悠斗くん。これからもさ、瑞樹のこと、よろしくね」

はっきり違うってわかることを、悪いことする理由にする馬鹿って結構いるからさ。力無い、だらけた声のまま、そんな言葉を続けたミツキに、悠斗は『何を急に』とか、『そりゃあ勿論そのつもりですけど』とか、そのあたりの答えを返そうとしたが、やめた。
へらへらした、服装同様だらしない彼の笑顔の奥に見えたもの。ゴーストポケモンを媒介にして要所要所で割り込んできた彼が、やりすぎなレベルで明るくぶっ飛んでいたことを思い出す。それは単に、ミツキの性格のせいだとばかり思っていたけれど、――――

「当たり前ですよ」

悠斗は言う。そして、安心したように頷くミツキに向かって、次の言葉を付け足した。

「ミツキさんも。また、瑞樹とか連れて遊びに来ます。ライブにも来てください、学祭もありますから、是非、」

そう告げた悠斗の、意志のぶれないまっすぐな瞳にミツキは数秒、ぽかんとしたまま固まった。それからようやく自分の言われたことを理解したらしく、彼は血色の悪い顔を一気に緩めて笑みを浮かべる。
「ありがと」苦笑と照れと、それ以上の喜びが滲んだ声で彼は言う。いえいえ、と笑顔で返した悠斗に、生来人智を超えた力に否応無く恵まれてきたタマムシの便利屋は、「悠斗くん」と不思議に穏やかな口調で、正面に立つ者の名前を呼んだ。


「君は、ポケモントレーナーに向いてるのかもしれないね」

「え?」


唐突に向けられたその言葉に、悠斗は無意識にそう返した。「あの子の言う『ふさわしい』が正しいとしたら――――」そんなことを呟くミツキの真意が掴めなくて、悠斗は口を開いて息を吸う。

『おいミツキ! 鍋やるなら多い方がいいだろ、みんな呼ぼうぜ!』

そこで横から飛んできたムラクモの言葉に、ミツキは「いいねぇー!」と大きな声で返す。「悠斗くんたちも食べてくでしょ」という、嬉しそうなその笑顔に悠斗はそれ以上問いかけることが思い浮かばず、「はい」と深く頷いた。
そうと決まればみんなに連絡だー、と、ミツキは携帯の連絡帳を開いてあちこちにメッセージを打ち始める。知り合いを集めてくるようムラクモに言われたヨマワルやカゲボウズなどが、窓からふよふよと出ていった。『みんな』の範囲がふと気になった悠斗は、おそるおそるといった感じでミツキに尋ねる。

「あの、ミツキさん……どんな人……いえ、方が来るんですか?」
「うん? いつもここに溜まってるゴーストポケモン達とー、ここの一階のラーメン屋の人とか、そこにある古本屋の人とか? あと僕の同業者仲間が来れれば何人か、かな。いろんなのが来るよ、真夜中屋特製たべのこし鍋はおいしいからね」
「たべのこし鍋…………?」
「うん。いろんなきのみの、普通だったら廃棄する部分を集めた鍋。果物屋さんとか八百屋さんからもらってくるんだけど、まとめて煮込んじゃえば意外においしいんだよコレが! カイスの皮とかー、チイラの蔓とかー……」

目を輝かせて『たべのこし鍋』とやらの説明を始めてしまったミツキに、それは金が入ったからするものでは無いのでは、というツッコミを悠斗は出来なかった。
ゴーストポケモン達が好き勝手にだらけていて、妙ちきりんを極めたような家主がいる、散らかり放題の部屋。今夜ここに集まるというのはどんなツワモノ揃いなんだろう、と悠斗は不安にならずにいられない。

「ベリブのヘタとか食べたことある!? 無いでしょ、見た目的に悪いんだけど、あれが本体と逆で甘いんだよ、多分本体にいかない甘みがあそこに……」
「わかりましたよ、もういいですから……」

それでも、少なからず楽しみにしている自分がいるというのは、きっと悪いことではないのだろう。
ゴミにまみれつつ未だ寝こけている富田と森田、デスカーンの腹部をしげしげと眺めている泰生、棚から鍋だのコンロだのをいそいそと出しているムラクモに視線を向けて、悠斗はそんなことを考える。そして熱弁をふるい続けるミツキに目を戻し、適当な相槌を打つことに戻ったのだった。





「おはようございます、羽沢さん!」
「あっ羽沢さん! 今日のダブルバトル練お願いしますね」
「うっす羽沢、調子はどうだ? この前眩暈とか言ってたのはもう治ったか?」
「泰生さんはよーっす!」

朝の064事務所は次々と出勤してきたトレーナーやマネージャー、事務員達の行き来で賑やかである。着替えにいく者や自分の席に向かう者、一旦荷物だけ置きにきて早々にコートへ行ってしまう者などが慌ただしく動き回る廊下の壁にかかったカレンダーが、人の移動で生じた風で少し揺れた。
その、バケッチャの写真が躍る十月の日程を横目に見つつ、泰生は若干複雑そうな顔をして廊下を歩いている。その半歩後ろの森田が手元の資料をパラ見しながら、「どうかしましたか」と首を傾けた。

「いや、……なんか元に戻ってからというもの、皆がやたらと声をかけてくるようになったというか、笑ってくれるようになったというか……」

少しばかりソワソワした感じで言った泰生は、「特に岬や相生など、何故か知らんがかなり近づいてくるし」と腑に落ちないような口調で手を顎に当てる。それを聞いた森田は、「なんだ、そんなことですか」と軽い調子で返した。

「そりゃあそうですよ、しばらくの間、泰さんの中には悠斗くんが入ってたんですからね。最初こそ驚いてましたけど、みんな『そっちの泰さん』に慣れたもので、今じゃ多分、ちょっと怖いけど話してみたら案外そうでもないよね〜、くらいにしか思われてませんよ。岬さんは知りませんけど、相生くんは相談まで持ちかけてたみたいですし」
「なるほど、まあ悠斗なら、そうなるだろうな……だが、そんなに変わるものか? たった数週間だし、悠斗だって俺っぽく振舞ってただろうし」
「え? いやー、それはどうですかね。同じオニゴーリでも、中身がサザンドラとヌメルゴンじゃ大きな差が」

割と失礼なことを言った森田に、それはどういう意味だという意味を込めた睨みを利かせて泰生は鼻を鳴らした。このマネージャーは前からちょいちょい口先どくタイプの片鱗を見せていたが、あの一件以降どうにも隠さなくなってきているように思える。
「サザンドラだって、皆が皆、凶悪な性悪というわけではない」とりあえずそこは譲れないので提言しておく。森田は「ご自分がサザンドラっていうのはわかってるんですね」と呆れ気味に呟いた後、「あれ、泰さん」と片眉をぴくりとさせて尋ねた。

「悠斗くんだとそうなるって、わかってたみたいな言い方じゃないですか」
「当たり前だろう。あいつの方が、ある意味では俺よりここでよくやってけるとは、俺も……思ってしまう、こともある」
「よくやってけるって……悠斗くんはトレーナーじゃないですよ」

だいぶ頑張ってましたけどバトルもまだまだ初心者ですし。そう続けて苦笑した森田に、泰生は「そうじゃない」と首を横に振った。

「俺よりも、悠斗の方が、世間でいうところの『ポケモントレーナー』に向いてるのだろう、と思ったんだ」

今回のことだけじゃなく、以前にも何度かそう思ったことがある、と泰生は付け加える。森田は僅かだけの間を置いて、「そうですね」と頷いた。泰生の言葉、きっと彼自身の考えというよりは客観的、一般的な意見であるそれを否定する気にはならなかった。
「だけど、だからって決まるわけじゃないですよ」手に持ったファイルに込める力を強め、森田は言う。それに「当然だ」泰生は首を縦に振って、ベルトにつけた三つのボールに手を添えた。

「トレーナーになるかならないか、それを決めるのは自分自身だ。誰かに何か言われてそうなるものじゃない……そうはわかっているが、それでも、ポケモンにも人間にも好かれて、必要とされるような人間というのはいるんだ。悠斗は、そういうやつだ。あいつがもしもトレーナーの道を志せば、きっとかなり上へ行けると思わないといえば嘘になる」

「トレーナーになってほしくない、というのも」泰生は一度目を伏せて、「でも」と再び前を見た。

「あいつになってみて、わかった。あいつにはあいつの見つけた場所があるし、そこはあいつのことを必要としてるんだ」

迷いのない瞳で、そう言い切った泰生に、森田は再度「そうですね」と深い頷きを返す。

「泰さんと同じですよ。泰さんも悠斗くんもそれぞれ、違う場所で、自分の知らないうちに必要だと思われてるってことです」

その言葉に泰生は何かを言いたそうに口を開いたが、すれ違った別のトレーナーの挨拶でそれは発されないまま消えてしまう。まあ、聞かずともなんとなくわかるだろう。森田はそんなことを思いながら、空の胸ポケットにそっと手を当てる。
泰生がいるべき場所に戻った今、自分にそれは、もう必要無いのだ。





「…………っし、いい感じじゃないか?」

いよいよオーディションに向けた練習も大詰めである。曲の終わりに鳴り響くギターの余韻を富田が消した数秒後、マイクから口を離した悠斗は後ろの演奏陣を振り返ってそう言った。
「なんかノってきたよなぁ、羽沢」ベースを一度スタンドに戻し、有原がニヤニヤしながら言う。「この頃イメチェンとかそういう感じで、歌う時もクール気取ってたのに。前のキャラに戻っちゃってるじゃねーか」その言葉に引き続き、ドラムセットの向こうの二ノ宮も頷いた。「っていうか、前よりノリ上がってないスかね?」

「あー、いや……ちょっと風邪ひいてたから、……」
「でもよかったよな、治ったってことはマジで風邪だったみたいだし。実はここだけの話さぁ、二ノ宮と話してたんだけど、お前性病でももらったんじゃないかって心配してたんだよ」
「は?」

慌てて言い訳を口にするもつかの間、悠斗は手に持ったペットボトルを落としそうになった。
「ちょっと待てよ、なんでそんな話になってんだよ」狼狽えた声で悠斗がわめく。

「いや、だってお前ここ最近すげぇ噂になってんぞ。大のポケモン嫌いで有名な羽沢悠斗は実はポケモン大好きっつーかポケモン性愛者だって、しかも自分でそう言ったんだってな、告ってきた女の子に」
「それなりにモテんのに彼女作んないのはポケモンが対象だからって話ッスよね。めっちゃ広がってるよ、運いいことに誰も拡散とかはしてないから問題にはなってねーけど」
「うん、だからさ……俺たち思ったわけよ、羽沢は多分ポケモンとやっててなんか、病気でももらったんじゃねぇかって、ほらポケモンって人間より丈夫だから人間だと負ける菌持ってたりするし、対策とか難いみたいだし」
「そういうのって、言いにくいだろうから、だから俺らには隠してるんじゃないかって思ってて……多分富田にだけ話してて、だって明らか風邪じゃなさそうなのに何か隠してるっぽくて、何だろうって思ってたところにこの噂だから、なんか病気なったのきっかけにオープンにでもなったのかと……」
「どこから突っ込んでいいかわかんねぇよ! 大体、待てよ、なんでそんなやすやすと信じてんのお前ら!? 前の、俺と富田が云々みたいな噂には『いやそれはないわー』みたいに全然疑惑のかけらもなかったのに、なんでそっちだけストレートで信じるんだよ!?」
「それは、なぁ……? 富田とお前のそれは、普通に距離近すぎて逆に、って感じ? だよな?」
「そうッス。いつも嫌い嫌い言ってたのは、カモフラのためだったのかと……」
「違う! 俺にそんな趣味はない、しかもそんなことを言った覚え……はあるかもしれないけど、とにかく違う! あとそうだったとしてもそんなカモフラはしない!!」

自分の知らぬ間に泰生がしでかした何かに呪詛の言葉を吐きたい一心で叫ぶ悠斗に、しかし有原と二ノ宮は彼をよそにホッとした顔になる。

「でも安心だわ、どんな趣味でもお前の勝手だけど、深刻な事態だったらどうしようと思ってたからな」
「そうだよ羽沢。だってポケモンとのアレって気をつけないとめちゃめちゃ危険なんだろ、ブーバーの中とか何千度もあるらしいし、マルノームに口でさせて溶かされたみたいなイッシュのバカ変態がニュースになってたし。あと、バチュル何十匹と一緒にやってあやうく感電死とか、ホント、怖いって」

好き勝手なことを言う二人に、悠斗は何を言う気力もなくしてマイクスタンドに突っ伏す。その横で、それはもう性病の範疇ではなく頭の悪い事故なのではないか、と、黙って聞いていた富田は思ったが、その噂を流した泰生を見張っていなかった責任を背負わされるのではないかとも思ったため引き続き黙っておくことにした。

「ま、とりあえず――」

強引に話を打ち切り、有原が悠斗に向き直る。「理由は知らんけど、お前が元気になったみたいでよかったよ」

「やっぱ、羽沢いてこそのキドアイラクだからな。お前の調子がおかしいとこっちもしまらないっぽい」
「何言ってんだよ……別に俺だけじゃないし、お前ら三人ともそうじゃないのかよ。俺があってとか、そういうんじゃないだろ」
「そういうことなんだよ。別に誰がどうってわけじゃないけど、でも、やっぱ俺たちはお前あってこそなんだよ」

悠斗の言葉を遮ってそう言った有原に、富田と二ノ宮も頷いた。「結局のところ全部お前に繋がってんだよ、俺らは」「もーちょっとその辺わかってくれてもいいんじゃねぇの?」冗談めかした笑みを浮かべて口々に言う二人に、悠斗は「なんだよ」と鼻白む。自分が泰生の身体にいる間に、こう言わせるだけの何かがあったのだろうか、と考えてもわかるはずはない。
「わかったよ」仕方がないので、フィーリングで頷いておく。「ま、一応俺もリーダーだからな、俺あってっていうのはあながち間違ってもないかもな」やはり少しばかりズレていることを言った悠斗に三者は苦く笑ったが、悠斗はそれに気づかず笑顔になった。

「でもな、俺だってそれは同じだから。お前らみんないてこそだと思うし、お前ら誰が欠けても、俺は嫌だからな。四人でずっと、……」
「当たり前だろ。そのための練習なんだ」
「富田の言う通り、絶対勝つぞ。俺らが続けるために」
「キドアイラクやめんのなんて、ごめんスからね。絶対受かって、まだまだやんないと」

自分の言葉に割り込んだ、力強くてかけがえのない三つの声に、悠斗は一瞬だけ目を丸くして、それから浮かべた笑みをさらに深くした。
「そうだよな」三人に向けて悠斗は言う。頷いたバンドメンバー達が同時に楽器を構え直すのに合わせ、彼はマイクスタンドにかけた手の力を強くした。





雲ひとつないという表現そのままに、澄み切った青空が広がっている。秋にしてはやや珍しくもあるその下、そこまで大きくも小さくもない神社に悠斗と泰生は訪れていた。

「森田さんは一緒じゃないんだな」
「俺は今は休憩時間なんだ。あいつは事務所で色々やることをやってる」
「ふぅん」

適当に答えた悠斗に、「お前も一人じゃないか」と泰生が尋ねる。石で出来た階段を登りながら、悠斗は「みんな何かしら授業とかあんだよ」と言った。視界の上半分を覆った赤い鳥居を、そこに止まったポッポの眼球達に見下ろされながらくぐって境内に入る。「有原と二ノ宮は学部違うし、富田も、違う授業があるから」
お互い一人で来たところ偶然に居合わせた手前、悠斗と泰生は何とも言い難い空気に包まれる。親子二人で出かけているなどいつぶりのことか双方わからず、どちらが先にそうしたわけでもないが、互いに微妙な距離を保ちつつ歩いていた。「ミタマとか外に出さないの」「うっかり攻撃でもされて怪我したら危険だし、感染症予防もあるし、普段は外に出さないトレーナーは結構いる」「へぇ」適当な会話を若干ぎこちなく交わしつつ、彼らは境内へ入る。
敷き詰められた砂利を踏みながら本殿へ進んでいくさなか、「ここはよく来るのか」と泰生が聞いた。境内を囲うように植えられた広葉樹の間から、モンジャラやウツドンが覗いている。それを横目で見つつ、「ああ」と悠斗は呼吸の延長のような声を出した。

「大学からも近いし、……そういえば、064の皆さんもよく来るらしいな。この前絵馬を書いたって岬さんから聞いた」
「歩いて来れる範囲だとここが一番近い。他にもあるんだが、祀られてるのが旅行先の安全だの健康祈願だので、バトルとはあまり関係無いからな」
「俺たちもこの前来た時、絵馬書いたんだよな。ちゃんと飾ってっかな」

本殿の脇にある絵馬所に向かって歩きながら悠斗が呟く。
大量の絵馬が掛けられているその場所で、悠斗はしばらくそれを覗き込んでいたが、やがて「あれ?」と怪訝そうな声を上げた。隣で同じように眺めていた泰生が、どうした、と尋ねる。

「いや、……俺の書いた絵馬が無い」
「片付けられたんじゃないのか? 結構みんな書いてるみたいだし、入れ替えくらいするだろう」
「そりゃそうだけど……違う、富田のはあるんだ。有原のも、二ノ宮のも。同じときに書いたのに俺だけ無い」

悠斗の言葉に泰生も眉をひそめる。確かに彼の視線の先、いくつかの絵馬に重なるようにして並ぶ三つには各々の字で『オーディション通過! ライブ出場!』などと書かれているが、そこに悠斗のものは無い。
「俺もだ」と、今度は泰生が低く言った。「俺のも、事務所の他の奴らのはあるのに、……俺のだけが無い。リーグでいい戦いが出来るように書いた時のが」

「悪いイタズラか? でもなぜ、よりによって俺と悠斗が……わざと俺達を狙ったみたいじゃないか」

ピンポイントに親子のものが無くなったことに、泰生が目を細めて首を捻る。はっきり言って不快な状況に、しばらく二人はムッとした表情で黙り込んだ。

「あ、絵馬、…………!」

と、そこで悠斗が思い至ったようにそう叫んだ。何のことかわかっていないらしく眉をひそめた泰生に、悠斗は「ミツキさんが言ってたじゃん、気持ちとかがこもってるモノを使うって!」と切羽詰まった口調で説明する。
思いや感情が篭ったもの。望ましいのは憎悪や怨念、嫉妬など負の要素を孕んだものだけど、プラスの気持ちでも出来なくはない――。そんなことをミツキに言われたその時には全く思い浮かばなかったが、『願い』という思いを込めたという点において、絵馬というのはその条件をばっちり満たしていると言えた。

「……そういうことだったのか」

悠斗の話を聞き、泰生は深く溜息をつく。苛立ったように彼は絵馬所に視線を向けたが、そこにはもう、二つの絵馬は無いのだろう。今どこにあるのかもわからないし、元の形を保ったまま存在しているのかすら不明だった。
「まったく、何が何に使われるかわかったもんじゃない」忌々しげに言って、泰生は絵馬所を睨んでいた目を社務所の方へ向ける。「けど、そんなことを言っても今更仕方ないな」

「書き直すか。書いたことの結果はまだ出てないから、今でも間に合う」

「いいよ別に」と悠斗はそっけなく言ったが、泰生はそれを他所に首を横に振った。「他の奴らのだけあるのも変な話だし、また書き直した方がいいだろう」そう言った彼は悠斗の返事も聞かず、さっさと社務所へ歩いていって数分後、二つの絵馬を買って戻ってきた。
今年の干支のモチーフということで、モココだのメリープだのが積み重なっているイラストを手渡された悠斗は、突っ返すことも出来ず憮然とした顔で受け取る。本殿から少し離れたあたりにある、湿った木板で出来た台に置かれていた油性ペンを早くも手に取り、泰生は絵馬の裏面に何事かを書き始めていた。それに倣って悠斗もペンを持ち、願い事を刻んでいく。

「お前は、……俺に、トレーナーになってほしいとか、思ったことあったりすんの」

揃って文字を書くだけの沈黙に耐えきれなかったらしく、不意にそんなことを尋ねた悠斗に、泰生は質問には答えず「どうした」とだけ聞き返した。
世間だったら、ごくありふれた問いなのかもしれない。親がトレーナーだろうがそうじゃなかろうが、旅の経験があろうが無かろうが、一度はそういうことを聞くものだろう。しかし泰生は今まで一度だってこんな質問をされたことはないし、悠斗だってしようと思ったことも無かった。そんなことを、気にしたことすら皆無だったのかもしれないというほどだ。
「ミツキさんに言われた」足元の砂利に靴底を無為に擦り付けながら悠斗は答える。「俺がトレーナーに向いてるかもって」なんとなく泰生の顔を見たくなくて、彼は俯いたまま、ジャンパーの襟元に顔を埋めてモゴモゴと言った。「だから、ちょっと、気になった」

「知らん」

そんな悠斗に、泰生はきっぱりと言い切る。「そんなのは、俺の知ることじゃない」
少しは予想していたとはいえ、あまりにもシンプルかつぶった斬りなその答えに、悠斗は思わず絶句した。「そうか、よ……」と虚しく呟いた彼に、しかし、泰生は迷いの無い口調のまま続ける。

「トレーナーになるかならないかなど、他人が決めてどうなることじゃないだろう。なる奴はなるし、ならない奴はならない。それだけだ」

「俺だって、自分は仕方無しにトレーナーになったのだと思ってた頃もあった。でも、ならない選択肢だっていくらでもあったんだ、あのまま旅に出ないでいれば、……」彼はそこで言葉を切る。ペンを持つ手が少し震えていた。何を考えているのかは悠斗にはわからなかったが、あえて声を挟むことはしなかった。
それでも、と、少しの沈黙を置いて泰生が再び話し出す。「トレーナーになること、旅をすることを選んだのは俺だったんだ。誰にも頼まれてないのに、俺がそうしただけだ」握り締めていた拳の力をふっと解き、泰生は視線を上げて空の方を見た。嘘くさいほどに青く綺麗な空が、彼の、悠斗によく似た瞳に映り込む。

「向いてるとか向いてないっていうのも、実際どうするかには何も関係無い。あの探偵は不思議な力があるらしいから、そういうのがわかるのかもしれんが、……だとしても、だ」

「……………………」

「向いててもトレーナーにならない奴はいる。向いてなくても、なる奴もいる。お前が決めろ。なりたきゃなりたいときになればいいし、なりたくないんなら、なるな。お前にも、ポケモンにも、お前以外の他の奴にも、何もいいことが無いからな」

わかったか、と尋ねた泰生に、悠斗は「ん」と短く頷く。特に反論する要素も無い。もっともなその言葉を、彼は素直に受け入れた。
そこで泰生は青空から視線を移し、隣に立つ悠斗に目を向ける。

「ただ、悠斗……お前は、」

いつの間にか大きくなってしまった息子に、彼は無意識に笑いかけた。

「きっと俺がもっと良い父親だったとしても、ちゃんとお前と向き合えるような人間だったとしても、…………お前は今みたいに、誰かと音楽をやっていたのだろうと、俺は思う」

その言葉の、何を否定して何を肯定すればよいのかもうわからなくなって、悠斗は「バカなこと言うな」と小さく呻いた。そのセリフに泰生は、誰がバカだと大真面目にムキになりかけたが、しかし彼の文句は途中で掻き消えて聞こえなくなってしまう。
急に黙ってしまった彼を不審に思い、悠斗は泰生の顔を覗き込んだ。固まったその表情からは答えを見出せず、何だよ、と口を尖らせた悠斗は泰生の視線の先、自分達の手元に視線を向け――――そして、同じように言葉を失った。


話しているうちに両者とも手がずれたらしく、冷たい空気に晒された絵馬の裏面。
そこに書かれた願い事の文言が、絵馬所から消えた二つをお互いそっくりそのまま書き合った結果となっていた。


かける言葉もかけられる言葉も何も探せず、二人は揃って絶句する。表情も動きも止めたまま、ただ彼らを残したそれ以外だけが何事も無いかのように時を刻んで行った。
やがて、先にそうしたのはどちらだったかはわからないが――どちらからともなく、顔を見合わせた親子はあまりのことに思わず吹き出した。次いで響き出した笑い声が重なっていくのを、彼らの手元の影になった、二つの絵馬に描かれたメリープとモココ達は静かに聞いていた。





数多の大物アーティストを輩出してきた、ヒットへの登竜門とも呼ばれるライブへの出演をかけたオーディション、二次審査。タマムシ某所で行われているそれに、新進気鋭のバンドの一つであるキドアイラクは挑んでいた。
すでに演奏審査は終了し、いくつかの質疑応答を行う面接に移っている。これが評価のうちに入るのか入らないのか、それともこの時点で結果を伝えるためのものなのか、それは出場者には知らされていない。会議室を貸し切った面接会場で、キドアイラクの四人は緊張した面持ちをしてパイプ椅子に腰掛ける。

「君たちはまだ全員、大学生だったよね。もしもバンドがうまくいってきたとしたら、学校の方は続けるつもり?」

主催企業の担当者や、ライブのゲストでもあるアーティスト、スポンサーの社員などから成る面接官らの質問に、一応リーダーである悠斗は「はい」と返事をする。
「出来る限り両立させていきたいです。途中でやめることはしたくないですし、それにタマムシ大学は僕たちがお互いを知った場所ですから、きちんと卒業したいなと」答えた悠斗に、質問した担当者は「そうだね」と深く頷いた。「せっかくタマ大だし、中退は勿体無いし……両立は大変だけど、やってきた人も沢山いるしね」彼の言葉に、悠斗達四人は首を縦に振る。

「あそこには去年からいるのか。なんでそこを選んだの?」
「人間だけでやってる方々が多く所属してるのと、系列の事務所に僕らの好きな方がいらっしゃるので……」
「それ、いいギターだけど結構旧い型だよね。すごい小さい頃からやってたとか? それとも趣味?」
「始めたのは中学の頃なんですけど、これは父にもらったものです。父も昔、ギターやってましたから」
「君さ、何年か前ドラムのコンテスト……もっとカタめのとこが主催してるので優勝してたよね? そっちの、音大とか、そっちには行こうと思わなかったの?」
「は、えっと、……その! その時くらいに羽沢のこと知って、それでこの人とやりたいって思いまして、だからです!」
「ビジュアル的には個性的なんだか没個性的なんだかちょっとコメントしづらい感じなんだけど、なんかコンセプトとかあるわけ? いや、別にいいんだけど個人的に気になって」
「いえ、特に無いです……富田は諸事情で目を隠したがってるだけで、俺と羽沢は単に好きで染めてて、二ノ宮は生まれつきこうなんで……はい……」

いくつかの質問が重ねられて、時間的にそろそろ終わりかと四人が内心思ったところだった。
面接官の一人、イベントの出演者であるアーティストが口を開いた。「君たちは、ポケモンの力を借りない音楽をやっているけれど」泰生よりも少し下くらいだろうか、もう何十年も音楽界を支えてきた彼は静かな声でそう尋ねた。

「それは僕もそうで、ギター一本でここまで突っ走ってるわけだけど……君たちは、なんでその道を選んだのかな。はっきり言って邪道とも呼べる、ポケモンとやらない音楽を、なんでやろうとしているのか。その理由を、教えてくれるかな?」
「はい……」

返事だけをした悠斗に、富田と有原、二ノ宮の視線が一斉に集まる。この問いに直接答える理由を持っているのは悠斗だけなのだ、自分達には助け舟を出したくとも出せない。そんな思いをそれぞれ持って、三人は悠斗のことをただ見ていた。
その悠斗は、すう、と息を吸って一瞬だけ考え込む。以前だったら、答えなんて決まりきっていた。ポケモンの力など借りなくても自分達は人間だけでやってやる、ポケモンなんかいなくても音楽が出来るのだと証明してやるということを言うだけだったのだ。所属事務所にはその意気を買われて入ったわけだし、それは紛れもなく本当だった。本気でそう、思っていたのだ。

しかし、今は。
今、同じことを言ったとしても、それは嘘にしかならないのだと悠斗は感じていた。


「僕たちは、人間です。ポケモンではない存在として、今、生きてます」

でも、と言葉を切って、悠斗は質問者である歌手を真正面からじっと見据える。

「人間か、ポケモンか、という以前に。僕たちはひとつひとつ別のもので、それぞれの身体と、それぞれの心と、それぞれの考えとか思いとか言いたいことや伝えたいことや聞いてほしいこととかがあって、別々に生きてます。そこに人間とかポケモンとかはなくて、……ないのだと、僕は感じます。感じさせられたんです。だからこそ、僕たちは僕たちの音と言葉で、僕たちの方法で、人にも、ポケモンにも、伝えていきたいんです」

そう答えた悠斗に、面接官の一人が資料をめくりつつ、「君のお父さんは確か有名なトレーナーだったよね」とコメントする。「そっちの道を目指そうとか、そういうことは考えたことはないの?」
その問いに、悠斗はゆっくりと首を横に振って、前を見た。

「父は、ポケモンバトルで。僕は、音楽で。誰かの………………誰かの、何かになることが出来ればと。そう、思っています」


「君も君の父親も、どうにもまっすぐな目をするね」


悠斗の答えを聞いた歌手が、腕を組んでそんなことを言う。「僕は昔、羽沢泰生が君くらいの歳の時のバトルを見たことがあるんだよ」唐突に言われたそのセリフに、悠斗始めキドアイラクの四人は真意を測りかねて無言になった。
その様子を気にすることなく、彼は半ば独り言のような口調で続ける。

「でも、あの時の羽沢泰生のまっすぐさは、どうにも、後ろに何もないことが理由のまっすぐさに思えたんだよ」

その時のことを懐かしむような、同時に少し哀しんでいるような声だった。当時の彼が自分の父を見て、何を思ったのかは悠斗にはわからない。しかし彼が言っていることはなんとなくわかるような気がして、悠斗は自分の胸の中が少しばかり痛んだような気がした。何か言わなければ、と自分を奮い立たせ、どうにか口を開ける。
「けど、」だが、悠斗が声を発するよりも先に、歌手の方の口調が変わった。「君の目は、違うまっすぐさをしてるね」柔らかな声で言い、彼はシワの刻まれた顔をふっと緩ませて笑みを浮かべる。

「君のそれは、前にいきたい、何かをしたいと思うが故のまっすぐだ。あの時、あの目をしていた彼の子供が、……君が、そんな目を今していることが、僕はとても嬉しい」

そう言って、彼は椅子から立ち上がる。移動式の机をずらした彼は、そのまま悠斗の前まで歩いてきた。

「君たちと一緒にイベントを作れること、本当に幸せに思う。最高のものに、しよう」

そして手を伸ばし、握手を求めるように笑った彼に悠斗は慌てて席を立ち、「あ、っ……ありがとうございます!」と叫ぶようにして言った。その声は大きく震えていたけれど、それを指摘する者は誰もいなかった。富田とと有原、二ノ宮も立ち上がり、深く頭を下げて礼をする。
ゆっくりと手を取った悠斗は、音楽の大先輩であると同時に昔の父を知る者でもあった歌手の瞳をじっと見つめた。そこに映っている自分の目がどんなものであるかなど、自分自身では知ることが出来ないが、自分も、そして泰生も、彼の言うような目であり続けられたらよいと思った。

他の審査員達が、肩の力を抜いてそれぞれ笑う。次いで彼らは誰からともなく手を叩き出して、会議室の中には拍手が響き出した。





『本日は、ポケモンリーグセキエイ大会にお越しいただき、誠にありがとうございます……選手入場は十九時、開会式は十九時三十分からとなります……また、セレモニーの花火は……』
「いよいよ始まりましたね」

カントー地方セキエイ高原、ポケモンリーグ会場。施設内に設けられた選手控え室では、もう何もすることのないトレーナー達が刻一刻と近づく開会の時をただ待っている。
「長かったような、短かったような気がしますよね」泰生用のペットボトルに巻いたタオルを無意味に動かしながら、森田がありがちなことを言う。「いざ始まってみると、びっくりするくらいすぐ終わっちゃうんですけど」064事務所のトレーナーと、そのマネージャーで満ちた部屋を見渡しながら、彼はしみじみと呟いた。

「どうですか、泰さん。緊張してます?」
「俺が緊張してると思うか。俺はバトルで緊張したことなど、一度も無い」
「えー、でも、悠斗くん見にきてるんでしょう? なんかそれで違ったりしないんですか」
「悠斗が見にくるのは別に初めてじゃない、ずっといなかっただけで……あいつが七歳になるまでは見にきてたから……」
「いや、それはほぼ初めてに近いんじゃないですか? 辛うじて記憶があるかないかのレベルですよそれは……」
「あら、羽沢さん、息子さんが来てるの?」

森田のツッコミに泰生は何かを反論したかったようだが、それよりも先に横から割り込む声があった。「そういえば、今年は優待チケット何枚も取ってたって聞いたわよ」トイレから戻ってきたらしい、二人の脇を通りがかった岬がレパルダス柄のタオルを首にかけながら言う。「いつもは、奥さんの分一枚だけだっていうのに」
「え、羽沢さんってお子さんいらっしゃるんですか」朝に会場入りしてからずっとやってた緊張が一周回って緩んできたらしく、意外にリラックスしている相生も話に入ってくる。握り締めすぎて白くなった拳と血色の悪い頬という、よく言えばエルレイド悪く言えばプルリルみたいになった彼は、整った顔をかしげるようにして尋ねた。「そうよ」と泰生より先に岬が答える。

「相生くんと同い年くらいじゃなかったっけ? 昔一回だけ見たことがあるけど、ねえ、羽沢さん」
「うむ……今年二十になったから、君より少し下くらいだ」
「へぇ、そうなんですか! 会ってみたいなぁ……」

引きつり気味の表情を緩ませた相生に、『会いまくってるよ』と森田は心の中だけで彼に言った。会っているどころか、相生が泰生に話しかけたりするなどということのきっかけとなったのはその悠斗であるが、無論相生の知るところではない。ちょっとだけモヤモヤするような気持ちもあったが、森田は特に何も言わず黙っておくことにした。
「それにしても」挑発的な笑みを浮かべて岬が言う。「いつも以上に頑張らないといけないわね、羽沢さん」

「カッコ悪いとこ、見せられないじゃない。息子さんのためにも」
「……当然だ」

微塵も動じずそう返した泰生に、岬は満足そうに笑う。そうこなくちゃ、とでも言いたげな、大きな瞳が泰生を半ば睨むような風に見た。それを見ていた相生が気圧されたようにごくりと喉を鳴らしたため、森田は彼の背中を軽く叩く。

『出場者の皆様にご連絡致します、あと十分ほどで、選手入場が開始致します。出場者の皆様は、指定されたゲートにお集まりいただくようお願い致します、繰り返しご連絡致します、あと十分ほどで……』

と、控え室に備え付けられたスピーカーからアナウンスの音声が流れた。その言葉に室内が、いや、他の控え室も含め建物全体が一気にざわめきを増す。

「そろそろ、ね。ここで悠長にしててもしょうがないし、行っちゃいましょ」

じゃあ、また後で。岬はそう言い残し、髪を揺らして自分のマネージャーの方へと歩いていった。「あ、僕も……もし当たったらお願いします!」相生もそれに続き、一礼をしてから慌ただしく泰生達の前から去っていく。
残された泰生と森田も、「行きますか」「ん」とそれぞれ短く息をつく。軽く伸びをする泰生を待ってから、森田は三つのボールを彼へと渡した。

「さて! 始まりますよ、泰さん!」
「わかってる」

いつもの調子で言葉を交わし、二人は064事務所の面々と共に控え室を出る。
数多のトレーナーで溢れた廊下の続くその先は、彼らの登場を今か今かと待っている、何より輝かしい祭典の会場なのだ。





「……えーっと、じゃあ、ポケモンリーグ開催を祝って、そんで学祭成功を祈って? 乾杯の音頭を取らせていただきま」
「西野さん、もうみんな勝手に飲んでますけど……誰も乾杯とか待ってませんけど……」
「あ、店員さーん! ポテト盛り合わせと唐揚げと海鮮サラダとー、おい! あと何か頼むヤツいる!?」
「プレミアムモルフォンピッチャーで」
「この『怪利鬼殺し』ってのください!」
「あっ俺もそれ! あとチーズ餅!」
「なー芦田どこ行ったの? 学校出るときはいただろ、俺馬刺しのポニータで」
「あー、なんか守屋が教室に鞄忘れたらしくて取りにいったのについてった、俺それのシママ」
「ついてったっていうか連行されてたって感じじゃん? そこまで嫌がってもなかったからいいけど、お前ら柔らかい方が好きなん? 俺その隣にあるやつ、メブキジカ」
「カシブオレンくださーい、それとこの石窯プリンアイスってヤツ」
「女子か? つーかよくカシオレの後にほんなゲロ吐くほど甘そうなの食えるな?」
「すいませんテーブルに灰皿ないんですけどいただけます?」
「お前ら勝手すぎんだろ!! なんで普通に始まって数十分みたいな雰囲気出してんだよ待つだろ普通!!」

タマムシ大学近くの、学生御用達の小さな居酒屋である。店の天井に備え付けられたテレビには今に始まるポケモンリーグの様子を中継する番組が映し出されており、集まった客たちは皆、飲んだり食べたりしながら画面に視線を向けている。リーグが始まるとあちこちの飲食店でこのような光景が見られるようになるため、店側にしてはある種のかき入れどきでもあるのだ。
第二軽音サークルの面々も、店内の一角に集って盛り上がっている。乾杯の音頭も待たずに、既に出来上がった雰囲気に向かって「なんで待てないんだよマンキーの群れがお前らは!」と、西野と呼ばれた男が叫んだが、好き勝手に飲み食いしているサークル員達には少しも届いていないようだった。

「センパイ〜! やりましたよセンパイ、俺は今最高に嬉しいッスよ〜!!」

そんな、話を聞いていない部員の一人、二ノ宮が早くも真っ赤になった顔で何事かを言う。「もう嬉しさマックスッスよ、ピーピーマックスッスよ〜」無色透明の液体が揺れるコップを両手で握り締め、ヘラヘラと笑っている彼は隣に座る有原に絡んでいる。ちなみに今日、悠斗と富田はリーグ会場に行っているため不在だ。
絡まれた有原は自分のコップを机に置き、「お前飲みすぎだよ」と二ノ宮を諌める。さらにその横にいる別の部員が、「いやそいつ一杯も飲んでないだろ、弱いんだよかなり」と口を挟んだ。その言葉に頭を抱えた有原の襟首を掴むようにして、二ノ宮が「センパイ〜」とうっとうしい感じで叫んでいる。

「つーか二ノ宮に酒飲ませたの誰だよ、アイツまだ十九だろ、一応やめとけよ何か言われたら面倒だから」
「大丈夫だって。この世界は十歳が成人だろ? 酒とタバコだって二十いってなくてもイケるって」
「メタなこと言うのやめない?」
「あ、店員さん! 日本酒のー、雷神と風神と豊穣お願いしまーす」
「なあ紅井は? 来てなくね? 芦田たちと一緒とか?」
「え、紅井さんなら彼女とリーグ行ってるよ、言ってたじゃん? チケット取れたって」
「は!? マジで!? あのクソ倍率のリーグチケ取れたの!? あの裏ルート使わないと取れないとか転売ヤーのオークションで万積まないと買えないとかでお馴染みなのに!?」
「そこうるせぇな! 俺真剣にテレビ観てるんだからもうちょっと静かにしろ!」
「しかも紅井のヤツ、ラープラスで取れたっつってたぞ! あの、チケットがご用意できないのは当たり前! のラープラスで!」
「あ、赤ワインください、それと冷やしマトマと枝豆」
「ふざけんなよ! 俺十口は応募したけど全滅だぞ!? クソ〜紅井め〜なんで彼女もチケットも手に入るヤツは全部手に入るんだ〜」
「なぁモツ鍋頼もうと思うんだけどどう思う? こっちのキムチの方がいいかな? あと粉物何にする?」
「芦田さんとかまだ来てないのにそんな頼んでいいか? まー別にいいか、俺海鮮もんじゃで、あ、この店ポケモン出していい感じ?」
「禁止ってそこに書いてあんじゃん。お前のデデンネならいいかもだけど、この狭さじゃ無理なのもいるからだろ」
「なんだよンネちゃん出せなくて寂しいのか〜!? しょうがねーなぁー、特別に今だけ俺がお前のポケモンになってやるよ!」
「だから静かにしろって! 今リーグ会場映してるんだからいいとこなんだよ!」
「マジで? 羽沢たち映るかな?」

結局のところ自分達のことなどほぼほぼ気にしていない喧騒の中、二ノ宮は「嬉しいんスよ〜俺は〜」と破顔する。

「わかったよ、嬉しいのは……それにしても酔いすぎなんだよ、顔真っ赤じゃねーか、カロスの闘牛かよ」
「うっせ〜ッスよ、誰が色違いバッフロンッスか、もう〜」
「言ってねぇし、色違いバッフロンは顔は赤くないだろ別に。いいから水飲め、ちょっと落ち着け頼むから」

そう言って水を差し出した有原にしかし、二ノ宮は「なんスかセンパイ」と不満そうに口を尖らせた。「キドアイラクがオーディション残ったんスよ〜ライブ出れるんスよ〜嬉しくないんスかセンパイは〜」と、オーディション後から何度目かわからないことを言い出す二ノ宮に、「わかったって」と有原は半ば聞き流すような態度をとる。
それが不満だったらしい二ノ宮は、「何度喜んだっていいじゃないッスかぁ」と、酔いで涙ぐんだ声で食い下がる。「だって嬉しいモンは嬉しいッスよ」


「だってこれで、キドアイラク続けてけるってことじゃないスか、別にダメだったらやめるつもりじゃそりゃもちろんなかったッスけど、これで続けるっていうのがはっきり出来たと思うんスよ、俺は」

「………………」

「それが嬉しいんスよ! また四人でステージに立てるんだっていうのが〜」


言いながら、えへへと気の抜けた笑みを浮かべた二ノ宮に、有原は短く溜息をついた。「そうだな」それから大きく頷いて、彼は一瞬だけ目を閉閉じた。

「センパイ〜俺は嬉しいッスよ〜」
「あー、はいはい、俺も嬉しいよ……つーか嬉しいどころじゃねーって」
「そうッスよね!! もう最高ッスよね!!」
「二ノ宮うるさい! 静かにしろ、テレビ聞こえないんだよ!!」

響いた誰かの怒鳴り声も聞いていないらしい、二ノ宮は心底幸せそうな笑顔でアフロ頭ごと机に突っ伏してむにゃむにゃ嬉しみを語っている。その背中を叩いて一応は落ち着かせているっぽい有原も、コップにつけた口元には隠しきれない笑みがこぼれていた。
そんな二人をよそに、サークル員達はまだまだ失われない勢いで騒ぎに騒ぎを重ねていく。ある者は注文を叫び、ある者は一発芸を披露し、ある者は景気付けだのなんだのと歌をうたいだし、またある者はポケモンになりきって雄叫びをあげている。「ここがタマムシのやぶれたせかいだー!!」などとわけのわからないことを絶叫した輩に、別の部員が激昂する。


「だからうるさいんだってばお前ら全員!!」


窓の外はいつの間にか暗くなり、店の灯りが夜道に浮かび上がっていたけれど、もはやそれに気がつく者は誰もいない。賑やかに騒ぎつつ、テレビの中のリーグ中継を競うようにして見つつ、彼らのポケモンリーグの夜は更けていく。




「なんでこういう時に限ってこうなるかなぁ」

サークルの面々が、自分達を差し置いて居酒屋で大騒ぎしてるとも知らず――タマムシ大学の廊下を小走りで進み、芦田は辟易したような声を出す。その隣を走る守屋が、「僕のせいだとでもお考えですか」と不機嫌な口調で返した。芦田の横を漂うポワルンと、守屋に並走するマグマラシが、また始まったというように視線を空中で交差させる。

「君のせい以外に何があるの。なんでよりによって今日のさ、みんなでリーグ中継見ようとか言ってた日に限って、学校に鞄忘れたりするわけ? あったから良かったようなものだけど、財布とかも入ってるんでしょコレ、気を付けてよ、ホント」
「じゃあついてこなきゃよかったじゃないですか。そうやって後からアレコレ言うのはズルいですよ、耐久高い自慢ですか」
「探すの手伝わせたのは君でしょ? しかも見つけたの俺だし」

ポケモンリーグの開会式が行われるというのに、夜の大学に残ってる物好きもそういない。いつもは騒がしさを極めている廊下はしんと暗く静まり返っていて、芦田が携帯のランプで照らす光とマグマラシの炎だけが眩しかった。早足の足音が三つ分、薄闇の廊下に響いては消える。
「そういえばさ」いつまでも文句をぶつけ合っていても虚しいだけだと思ったらしく、芦田が強引に話を切り替える。天井に張り付いていたイトマルが、近づいてくる光に怯えて逃げていった。「この前聞いたんだけど、羽沢君、旅に出たことあるんだって」

「え? 樂さん旅出られるんですか? 今更? お土産買ってきてくださいね」
「僕の話聞いてなかったの? 僕じゃなくて羽沢君だよ。あとお土産って君さ、旅行じゃないんだから」
「だって樂さんの旅とか絶対トレーナー修行とかならないじゃないですか、絶対諸国漫遊的な何かになりますよ。で、何ですか? 羽沢が? 何かの間違いじゃないですかね、聞き間違いとか」
「僕もそう思ったんだけど、でも旅の話とかしてたんだよね、僕に似た人に会ったとかなんとか。びっくりだよね、誰がどんな過去あるかわかったもんじゃないよホント」
「マジなんですか……僕ここ最近で一番びっくりしてます、高校の時の友達がケッキング似の彼女と付き合いだしたって聞いたら実際はふくよなナゲキと付き合ってた時並にびっくりしてます」
「俺はその話の方がびっくりだよ……何それ…………」

呆然と言った芦田に、「僕だってよくわかりません」と守屋は雑な返事をする。巡君のせいで何話そうとしたか忘れちゃったじゃん、などとぼやき、芦田は携帯のライトを切った。釈然としないまま校舎の外に出ると、空は既に濃紺に染まり、少しばかりの雲に覆われた月が浮かんでいた。
今頃選手入場が始まった頃かな、と言おうとして芦田は口を開く。が、それよりも前に守屋が「でも、樂さん」と声を発した。


「今、旅してないってことはここにいたい理由があるからなんじゃありませんかね」

「…………奇遇だね。俺もそう思ったよ」


その言葉に守屋は露骨に不愉快そうな顔になり、「樂さんと同じとか勘弁していただきたいですね」と清々しいほどハッキリ言い放った。「君ね……」芦田が声にトゲをにじませる。またもや始まりそうな応酬に、ポワルンとマグマラシは付き合ってられないとばかりに、皆の待つ居酒屋へと続く夜の道を先にいってしまった。





「いよいよだねー、今年はどうなるかなぁ」
『まあ、言うて毎年予想外のことも起きないけどな。初出場の少年が圧勝しまくってそのまま優勝した1996年伝説くらいだろ、色々覆されたのなんて。それだっていつの話だって感じなのに』
「ま、それはそうだけどさ。でも知り合いが優勝候補ってだけで大分違うじゃん?」

ゴミとゴーストポケモンで充満した、とある複合ビルの二階に位置する真夜中屋。ラジオから流れるリーグ中継を聞きながら、ミツキはムラクモはじめ、ゴーストポケモン達とダラダラしている。
『それは言えてるな。あのオッサン、優勝出来るかね』今はミツキしかいないためにタブレットの電子音声など使う必要のない、ムラクモが思念を直接ミツキに飛ばす。「んー、どうだろ」それに対し特に意味も無く肉声で答えながら、穴が開いたソファに寝転がるミツキはだらしなく寝返りをうって転がった。「強い人もいっぱいいるからねぇ。勝つかもしれないし、負けるかもしれない、ってとこじゃない」

「でも、優勝する道は拓けてるよ」

曖昧な言葉の後にそう続け、何かを確信しているみたいな笑みを浮かべたミツキをムラクモが赤い瞳で見遣る。『なんかイミシンな言い方だな』床に広げたスナック菓子を貪る手を止めて、紫色の腕を伸ばしてミツキの足をつついた。
「ぜんぜん深くないよ、むしろそのまんま」くすぐったそうに身をよじり、横たえていた身体を起こしたミツキはソファに座る。汚いとしか言いようのない、しかし不思議と穏やかな空気の漂う部屋を眺め、彼は力の抜けた笑みを浮かべた。

「あの女の子が正しいことをしたとは絶対言わないけど、でも、結局は羽沢さんも、あの呪いが通じちゃうような人だったんだ。王にふさわしいかどうかを見抜く、ギルガルドの呪いがね」
『…………でも、それは解けただろ?』
「そうだよ。だから、大丈夫なんだ」

あの人は、きっと王様になれるよ。
「そう思うでしょ? ムラクモ」笑いかけたミツキに、ムラクモは大きく裂けた口をにっと歪ませて答える。『たりめーだろ』彼の返事に被さるようにして、ラジオの実況中継が、選手入場の開始を告げた。





リーグ会場の女子トイレで、松崎は化粧を直している。
父親のバトルを見るために訪れたわけだが、実のところ彼女がポケモンリーグを生で観戦するのは初めてだった。

実際目にしてわかったことは、沢山のトレーナーがいるということと、その全てを応援している人がいるということだった。何百といる出場者に、それでも皆に力を与え、与えられる人がついていた。大勢の観客達は、皆、誰かという光を心待ちにして開会を今か今かと焦がれている。
どんなトレーナーでも、誰かに夢を与えて誰かの希望になっていた。
結局一口も飲めなかった、コーヒーの匂いが意識の中だけで蘇る。便利屋と名乗るサイキッカーと交わした会話、降り続く雨の音、止まった時間に感じたものは恐ろしさと、後悔だ。

リップグロスの蓋を閉め、松崎は思う。
呪ってしまったあのトレーナーも、きっと自分の父親と同じ、さして変わらない、誰かにとっての道となった存在なのだろう、と。

「はるなちゃーん! もう、始まっちゃうわよ選手入場! ノブさん出てきちゃう早く早く!」

外で待っていた、ファンクラブのメンバーが松崎に声をかける。
楽しそうな、嬉しそうなその声に松崎は少しだけ笑みを浮かべ、「今行く!」と化粧道具をポーチにしまって足を踏み出した。





「あと五分で選手入場ね。まだ席に戻ってきてない人も多いけど」

ポケモンリーグセキエイ高原大会、会場客席。人もポケモンも入り混じり、大勢の客で溢れかえったその場所にはリーグ開始を待ち焦がれる者達の立てる声や音でひしめき合っている。
その客の一人、真琴が膝に抱えたポップコーンをつまみながらスタジアムの時計を見て言う。「ここからでも見分けってつくのかしら、全体が見えるっていうのはいいけど、ちょっと遠すぎる気もするからねぇ」

「大丈夫だろ、母さんオペラグラス持ってきてるって言ってたじゃん。あと、スクリーンもあるし」
「かなりいい席ですよ、ここ。まさかこんな席でリーグが観れる日が来るなんて……ホントにありがとうございます」
「なんか、すみません。私達まで誘っていただいて……」

真琴の言葉に答えた悠斗に続き、富田と、彼の両親が頭を下げる。「いいのよ、いつもお世話になっているし、ご近所さんなんだから」笑ってそう言った真琴に、富田の母親が黒の尖った耳を揺らしてもう一度礼をした。出場者である泰生の口利きである程度のチケットは取れるため、悠斗が来るのに合わせて真琴が富田一家の分も確保しておいたのだ。富田の母の、尖り気味の鼻の頭が嬉しさによって赤くなる。
「羽沢さんは何番目くらいに入場されるんですか?」「所属の五十音順だから最後の方だと思うんだけど……」そのまま親同士が会話に入ってしまったため、必然的に悠斗と富田が残される形となる。斜め前にいる、ププリンを頭に乗せながらリーグ賭博に余念のない老人を横目で見つつ、富田は悠斗に声をかけた。

「俺、リーグ来るの初めてだわ。こんな盛り上がってるもんなんだな、思ってたよりすごいな」
「俺も十何年ぶりだから、毎年母さんだけ行ってたからな……っていうか、テレビとかで見てないわけ? 客席の様子も映んだろ、こういうの」
「んー……そうだけど、見る必要もなかったし」

そう答えた富田に、悠斗は「そうか」と頷いた。それきり黙って、微妙に視線を逸らしてしまった悠斗に富田は「何考えてるか知らんけど」と声をかける。

「別に、……自分がどうするかとか、何するかっていうのを、悠斗を理由に決めたことは一回も無いよ、俺は」
「………………」
「ただ、俺がそうしたいから、俺が決めただけでさ」

茶色に染められた、長い前髪の向こうの赤い瞳が悠斗を見る。思えばこれを怖いとか、不安であるとか異質であるとか、そうやって考えたことは一度も無い。そんなことをふと思った悠斗に、無二の親友は微かに笑った。

「今だって、別に自分が来たくなかったら来てねぇよ。それだけ」
「…………うん」
「お前だって、別に、羽沢さんを理由にここ来たわけじゃないだろ」
「うん」

その返事に続け、悠斗は富田に何かを言おうと口を開く。しかしそれよりも先に、会場中にアナウンスが響き渡った。


『間もなく、選手入場です! ご着席がまだのお客様は、速やかに席にお戻りください!』


「おお、いよいよだな」
「始まるわねぇ」
「今年はどんなリーグになるかしら」

歓喜と待望にざわめく客席の上空、晴れた夜空に丸い月が浮かぶ。祭の夜に更けていくその下で、悠斗と富田はスタジアムの中心へ、それぞれ二つの目を向けた。






スタジアムに続く通路の中、沢山のトレーナーが開会を待つ。闘いの始まりに武者震いする者、緊張で息苦しさを覚える者、現実感を持てずに落ち着けぬ者。それぞれの思惑とそれぞれの野望、そしてそれぞれの闘志が交差するまで、残された時間はあと僅かだ。
その一人である泰生に、森田はそっと声をかける。「泰さん」マネージャーである彼はここで一旦泰生と別れることになる、自分がここから先に行く側であった日のことを思い出しながら、森田は泰生の目を見て言った。「行ってらっしゃい」


『――――それでは、二千十五年度ポケモンリーグセキエイ大会、』


泰生が大きく頷く。森田が力強い笑みを浮かべる。岬が唇で弧を描き、相生が両手を握り締める。064事務所の皆が、各々目の光を強くする。少し離れた場所に立っていた根元が、泰生をちらりと見て含み笑いをする。
コートと通路を隔てていたゲートが、音を立てて開く。眩しいほどの光に満ちたそこは、今から自分達が向かうその場所は、王者を決める闘技場である。



『選手一同、入場です!!』



「頑張れよ――――――」


コート全体に響いたよく通る声――若きシンガーのそれを耳に受け、泰生は闘技場への一歩を踏み出す。




誰かの希望となり、夢を見せるような。

誰かの光となり、輝きを放つような。

誰かの道となり、前へ前へと導くような。


そんな、王者を決める祭典が――――――――




「父さん!!」




今、幕を上げる。