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  [No.1524] カゲボウズシリーズ1「赤い花と黒い影」 投稿者:No.017   投稿日:2016/03/05(Sat) 19:23:51   32clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
タグ:カゲボウズ

2012年発行の同人誌、赤い花と黒い影を公開します。


収録作品

鬼火
聖地巡礼
赤い花と黒い影
ぼんぐりの割れるとき
喉が渇く


  [No.1525] 1 鬼火 投稿者:No.017   投稿日:2016/03/05(Sat) 19:25:59   25clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
タグ:カゲボウズ

「知ってるかい? 感情って甘い味がするんだよ」
 身体が動かない。かといってまともに声を上げる事も出来ない。薄れていく意識の中で彼の言葉だけがはっきりと耳に響いていた。


 ポケナビの上部がスライドして、画面が現れ、立ち上がる。手紙の形をしたアイコンを押すと、受信が始まった。
 <新着メールはありません>
 無機質に文字が告げて私は溜息をつく。これが私の日課だった。
 こうやって毎日確認しているのだ。今日こそは、今日こそはって。
 メールは今日も届いていなかった。
『旅に出る事にしたんだ』
 と、カナタは言った。
『ジムリーダーに勧められたんだよ』
『でもね、前から決めていたんだ。リーダーに勝つ事が出来たら旅に出るって。ポケモンリーグは僕の幼い頃からの夢だった。だから――』
 カナタが旅立ってもう何日になるだろう。メールが途絶えてもう何日になっただろう。
 私が彼と出会ったのはそんな頃だった。


「キャンキャンキャン! ギャウン!」
 ポケモンセンターでポチエナのビンゴが激しく吠え立てたものだから、そのトレーナーである私は慌ててしまった。
 何事かとビンゴのもとに駆けつけると、男の人が一人、少し困った顔をして吠え立てるビンゴを見下ろしていた。
 ビンゴを急いでモンスターボールに戻し、私が謝ると彼は恥ずかしそうに笑って、よくあるんだよ。だから気にしないで欲しいと言った。
 綺麗な人だった。淡い色の髪と瞳、整った顔立ち。そしてどこか憂いを含んだ表情……たぶん、私は一目見て彼を気に入ってしまったんだと思う。
 お詫びにお茶でも、と思い切って私は彼を誘った。

 ツキミヤコウスケ、と彼は名乗った。大学生だと語る彼は今、研究の為にホウエン中を回る旅を始めたばかりなのだという。
 優しい笑顔、柔らかい物腰、何よりとても聞き上手な人だった。
 だから、知らず知らずのうちに私はいろんな事を彼に喋っていた。
 自分がこの街、カナズミシティでスクールに通いながらトレーナーをしている事。でもあまり強くない事。好きなテレビドラマやカナズミでお勧めのお店の事、友達の事。
 そして、ポケモンリーグ目指して旅立ったカナタの事を。
 意外にも、彼が興味を示したのはカナタの事のようだった。だから私も調子に乗ってずいぶん色々喋ってしまった。いや、正確には誰かに聞いてもらいたかったのだと思う。ここのところ彼とうまくいっていなかったから……。
 カナタは優秀なポケモントレーナーで、その上かっこよくて、彼の持ってるポケモンはどの子もすごく強かった。彼はスクールのみんなの、特に女の子達の憧れの的だった。私達はいつも影からこっそり彼の事を見てた。でも、正直レベル高過ぎっていうか、手の届かない人だと思ってた。
 だからまさか、彼のほうから声をかけてくれるなんて思わなかった。
 だから私、すごく嬉しくて。
 たぶん表情に出たのだと思う。私の話すのを見て「そうなんだ。それならみんな羨ましがったんだろうね」と、ツキミヤ君は言った。
「ええ」と、私は答える。
 一体どんな手を使ったのってみんなに聞かれたわ。別に何したって訳でもないんだけど。でも、とても誇らしかった。
 それからは毎日が楽しかったわ。一緒にスクールに通って、休日はデートして。
「でも」
 カナタがカナズミのジムリーダーに勝ってから状況が変わったの。
 その人はスクールの講師も兼任してるんだけど、カナタに言ったわ。
「あなたはもっと上を目指せる人だって」
 旅に出て、各地のジムバッジを集めて、ポケモンリーグを目指したらどうかって勧められたの。彼も乗り気で、とうとうカナズミから旅立つ事になった。
「それで?」
 私はずっと彼といたかったけど、彼言ったわ。
 半年経ったら一度は帰ってくるから心配しないで欲しいって。連絡も定期的に入れるからって。彼って思い立ったら一直線というか。
「確かに男の子ってそういうところがあるよね。僕を含めてだけど」
 と、ツキミヤ君は苦笑いした。
「なのにね」と私は続ける。
 カナタったら全然連絡よこさないの。それに約束の半年を過ぎても一向に帰ってこなくて。だから私、心配で心配で。
「ねぇ、どう思う?」と、私は聞いた。
「どうって?」とツキミヤ君が返す。
「もしかしたらカナタ、旅先で好きな女の子でも出来ちゃったんじゃないかな」
「そんな事、」
「そうじゃなくても、私の事なんて忘れちゃったのかも……。たまに実家に一方的に葉書は寄越しているらしいから元気にはしているみたいなんだけど」
「そっか、心配なんだね。彼の事」
 ツキミヤ君は私の話に真摯に耳を傾けてくれた。
 嬉しかった。だって友達に相談したところでその話は聞き飽きたなんて言ってろくに聞いてくれないんだもの。
「大好きなんだね、彼の事が」
「ええ、大好きよ」
 私は顔を赤らめて答えた。
 でも、どうしてずっと連絡をくれないの? やっぱり私の事なんてどうでもよくなってしまったのだろうか。他に好きな子が出来たんだろうか。
 私がまたそんな考えのループに陥っていると唐突に、ツキミヤ君が言った。
「だったら君も旅に出ればいい。彼を探しに」
「旅に?」
 突然の彼の提案に私は驚く。
「そうだよ。君はポケモンだって持っているし、その気になれば各地を巡って旅する事が出来るじゃないか。彼は強いトレーナーなんだろう? 各地を渡り歩いていればきっと彼の居場所だって」
 旅に出る。
 そんな事考えもしなかった。
「けど……」
「好きなんでしょ。彼の事」
「……そうだけど。でも……、見つからなかったら?」
「それでも信じて探すよ。僕もね、人を探しているんだ」
「あなたも?」
「そう、表向きは研究が目的だけれど、どこで道が交わるか分からないからね」
「もし、もし見つかったとして拒絶されたらどうするの」
「そんな事しないよ」
 彼は事もなげに言った。
 どうして? どうしてそんなに信じられるの?
「なんか……ツキミヤ君って自信家なのね」
「そんな事無いよ。そうだなぁ、そうなったらそうなったでどうにか方法を考えるよ。というか僕の場合、何かしていないと落ち着かないだけ。それに」
「それに?」
「何も出来ずに時間だけが過ぎていくのはもっと怖いと思わないかい」
 やっぱりすごい、と私は思った。
 彼が誰を探しているのか、何を為そうとしているのか私の知るところではなかったけれど、私とはなんて違いだろう。
「でも、旅に出るなんて私……バトルだって強くない。強いポケモンだって持ってない。いるのはビンゴだけだし。体力も無いし」
「そんなの、旅先で増やしていけばいいんだよ」と、彼は笑った。
「捕獲も苦手なの。いつも逃げられてばかり」と私は答える。
「だからって待っているだけはつらくないの? もうずっと連絡がとれないんでしょ」
「待つのはつらいですよ。でも私にはこれくらいしか出来ないから」
 私は諦め気味に言った。
「彼が好き、彼が心配、もうずっと帰ってこない。かといって旅に出る事も出来ない。なるほどね…………」
 彼は頬杖をつくと何か納得したように、呟くように言った。
 そして、
「そうだよね。待つのはつらいよね、苦しいよね」
 今度は私の目を見て、はっきりとした声で言った。
「ええ、苦しいです」
「分かるよ」
「どうして?」
「言ったでしょ。人を探しているって」
 遠くに思いを馳せるようにツキミヤ君は言葉を紡ぐ。私達の間をしばしの沈黙が支配した。
 彼はティーカップに手を伸ばすと、紅茶を啜る。そしてカップを口から離すと、
「ねぇ、」と、切り出した。
 カチャン、とカップがソーサーに当たる音が響く。
「…………楽になりたい?」
 カップを元の場所に収め、彼は聞いた。
「え?」
「待つのは苦しいんでしょ? 抜け出せないよね。この状況から」
 と、彼は続けた。少し憂鬱そうな顔つきだった。
 さっきまでの彼が日の光に満ちた柔らかい感じだとすれば、今は冷く暗い日陰のような。でも、彼の言葉のほうに気が行って、私はそんな事すぐに気にならなくなってしまった。
 だってツキミヤ君はこう続けたのだ。
「でもね、無い訳じゃないんだ、抜け出す方法が。旅に出なくてもいいし、何の準備も要らないよ。すぐに終わる」
「なに……それ? どうやって?」
 縋るような思いで私は尋ねる。
「君さえよければ……」
 でも、そこまで言うと「ただし、」と、付け加えた。
「やっぱり旅に出る事が最良の選択だと僕は思う。だからこの方法をとる前にもう一度よく考えてみるんだよ。いいね?」
 そう言って連絡先を教えてくれた。
「教授からたくさん課題を出されてしまってね、しばらくはカナズミシティにいるから。その気になったらメールするといい」


 その夜。私はまたポケナビの画面を覗いた。
 カナタからの返事は今日も無かった。
 ベッドに顔を埋めて今日も答えの出ない問いを続ける。
 どこにいるの? 今何しているの? もう私の事なんて忘れちゃったのかな。
 いくら考えても答えなんか出なかった。
 カナタはいない。帰ってこない。連絡も途絶えたままで。気持ちを聞き出す事も出来ない。
『旅に出る事にしたんだ』
 と、カナタは言った。
『ジムリーダーに勧められたんだよ』
『でもね、前から決めていたんだ。リーダーに勝つ事が出来たら旅に出るって。ポケモンリーグは僕の幼い頃からの夢だった。だから――』
 だから――――
『だから、君ともお別れだ』
 え……?
『要らないんだよ。だって君、ポケモンバトル弱いだろ? 一緒に来ても足手まといだしさ』
 カナタどうして?
 じゃあ付き合って欲しい言ったのは何だったの?
『決まってるだろ。ジムリーダーに勝つまでの暇つぶし』
 ひどい! 私ずっとカナタの事が好きだったのに。
『それじゃあ僕はもう行くから』
 待って! 行かないでカナタ!
 私とずっとここにいてよ。帰ってきて、帰ってきてよ!

 あまりの息苦しさに目を覚ました。
 呼吸が乱れて、パジャマが汗でぐっしょりと濡れている。
 窓の外を見るともう朝だった。もう何度この悪夢を見て目を覚ましただろうか。
 違うよ。カナタはそんな事言っていない。
 だって約束したもの。必ず帰ってくるって。連絡だって入れるって。
 でも、実際どうなの?
 事実、カナタは帰ってこない。連絡もよこさない――

 もう嫌だ。
 いつまでこんな事続ければいいの?
 苦しい。苦しいよ。
 もう、限界よ。
 ――でもね、無い訳じゃないんだ、抜け出す方法が。
 ふとツキミヤ君の声が頭の中に響いた。それが甘く甘く脳髄に染み込んで。
 私はベッドから飛び起きて、ごそごそとポーチからポケナビを探り出していた。縋るような気持ちだった。
 ――その気になったらメールするといい。
 気が付くともうメールを送信していた。
 彼なら、私の話を聞いてくれた彼なら、きっと何とかしてくれる。彼なら、ツキミヤ君ならきっと私を助けてくれる……。
 ポケナビが新着メールを受信したのは午後になってからの事。
 メールには待ち合わせの場所と時刻が記載されていた。


 日が暮れかけていた。空が赤く染まっている。夕闇を宿した雲は青。もうすぐ昼の時間が終わって夜が始まる。太陽は西の空の果てにその身体を沈めかけていた。
 彼に呼び出されたのはカナズミシティのはずれで、あまり人気の無い所だった。何かの倉庫が並んでいた。いくつものコンテナが積まれている。コンテナにはデボンのロゴ。モンスターボールやポケナビをはじめとしたトレーナー向け商品を扱うホウエン地方有数の企業だ。本社がここ、カナズミにある。
「やあ、来たんだね」
 私より一足早くツキミヤ君は待っていた。
「僕に連絡してきたって事は、やっぱりその気は無いって事?」
「え?」
「旅に出るって事さ」
 私が分からなさそうな顔をしていたのだろう。確認するように言った。
 私の前に彼の影が長く伸びている。
「……ええ、ここには家族も友人もいるし…………それに私、そんなに強くないもの」
「そう」
 ツキミヤ君は少し落胆したように短く返事をした。
「それに、あなたが教えてくれるんでしょう? 助けてくれるんでしょう?」
「ああ……そうだね」
 どこか彼の表情は、影が濃くなっているように見えた。夕日のせいだろうか。
 彼は私に背を向けて赤と青の交わった空を見上げる。
「少し歩こうか」
 と、言った。
 夕日の差す海沿いの道を私達は歩いていく。
 西日に引き伸ばされた私達の影は長く長く伸びていた。
「綺麗な夕焼けだね。けれどじきに暗くなる」
 ツキミヤ君が言った。
「ねぇ、こういう時間の事を何て言うか知ってる?」
「……いいえ」
 私は答える。
「遭魔ヶ時(おう ま が どき)って言うんだ。夕方の、黄昏の頃の事をそう呼ぶんだよ。日が沈んで、周囲が闇に浸かりはじめる時間をね。この時間帯は奇妙な感覚を覚えたり幻覚を見たりしやすいと言われているんだ。事故が多いのもこの時間」
 ツキミヤ君は続けた。
 どうしてだろう。なんだか雰囲気がさっきまでの彼とは違っているような気がした。
 あれは確か、方法が無い訳じゃないと語ったあの時のような。けれど、ツキミヤ君の声はあの時よりももっと深い暗闇から響いてくるようで。いつのまにか心臓が高鳴っていた。ドクン、ドクン、と私に何かを報せるように。
「着いたよ」
 と、ツキミヤ君が言った。
 連れて行かれた先は神社だった。海沿いの道の脇にひっそりとした小さな林があって、そこに口を開けるみたいに鳥居が立っていた。知らなかった。こんな所に神社なんてあったんだ。
 ツキミヤ君は神社に入る。お願い事でもするのかと思ったら、鈴を鳴らすメインの場所は無視して絵馬の奉納堂に入っていった。奉納堂といっても、四つの柱に屋根がついただけのものだったけれど。
「ツキミヤ君、ここで何をするの?」
 私は問うた。まさかカナタが帰ってくるように絵馬奉納をしようとでも言うのだろうか。
「いや、特に何も」
 彼は答える。
「何も?」
 訳が分からなくなって、私は聞き返した。
「正確には、君自身は何もしない。する必要も無い」
 彼は目の前にあった一枚の絵馬をめくるとそう言った。
「見てこれ。<同僚が出世できませんように>だって。ご丁寧に同僚の本名まで書いちゃって。デボンの人だったりするのかな」
 くすくすと彼は笑った。
「僕はよく神社に行くんだけどね、こういう人の不幸を願う絵馬が必ず一定割合で混ざってるんだよ。人間って罪だよね。こんな事するくらいだったら自分の幸福を願えばいいのにさ」
 さも楽しそうに、歌うように彼は続けた。
「こういうのトレーナーでも多いんだ。誰々が負けますように、とかさ。本当に多いんだ」
「そうなんだ……」
 私はなんとなく返事をしたけれど正直戸惑っていた。結局、彼は何がしたいのだろう。ここに私を連れてきて何をどうするつもりなのだろう。
「でもね、こうして絵馬にでも何でも吐き出せる人はまだいいんじゃないかなって、思うんだよ」
 赤い西日の差し込む奉納堂。ツキミヤ君の影は一層長く伸ばされて、私の身体に覆いかぶさってくる。
「こういう鬱屈した気持ちを溜め込む人はね、独特の匂いがするんだ」
 どうしてだろう。ツキミヤ君の視線が刺さった。
「遭魔ヶ時に話を戻そうか」
 ツキミヤ君が言った。
」「あらぬものを見る、事故が起きる……一番「魔」に遭遇しやすい時刻、それが遭魔ヶ時なんだ。まさに今の時間みたいな、ね」
「…………何が、言いたいの?」
 私は身構えるように尋ねる。
 なんだか怖いと思った。ざわざわとした。私の中の何かがここに居たらいけないと言っている気がした。それなのにどうしてだろう。私はツキミヤ君から目を反らす事が出来なかった。まるで魅入られてしまったみたいに。
「ねえ、もう一度だけ聞くよ。旅に出る気は無いんだね?」
 ツキミヤ君が聞いた。それはまるで最後通牒みたいに私の耳に響いたのだった。
 私はそれでしばし黙ってしまった。彼が期待しているであろう答えが、イエスのほうだと感じていたから。
 けれどやっぱり、だめだった。私の口から出る結論は決まってた。
「……無いよ。だって私弱いもの、旅のトレーナーなんて無理だもの」
 だって、自信無いもの。
「そっか、残念だよ」
 私が答えた瞬間、ツキミヤ君が言った。まるで突き放すみたいに言った。
 その言葉の放たれた瞬間、ざわりと私の足元で何かが動いたのが分かった。
 それは夕日で長く伸びた彼の影だった。
「!?」
 私は凍りついた。背筋にぞわりと何かが走って、そして動けなくなった。
 その影からたくさんの眼が私を覗き込んでいたからだった。
「な、に……これ」
 影から覗いた眼、三色に光るその眼が怪しい輝きを放っている。
 影が蠢く。覗いていた眼のうちの一対が影の中から少しずつ顔を出す。ふわりと私の目の前に浮かび上がった。
 これは。
 てるてるぼうずのようなフォルムに角が生えている。
 てるてるぼうずは白いけれど、この色は深い青、夜の色。
 このポケモンは――
「カゲボウズ。図鑑でくらいなら見た事があるだろう?」
 くすくすと笑いながらツキミヤ君が言った。再び私を射抜いたその瞳は影の中のそれと同じ色を宿していた。
 私は驚愕し、その場から逃れようとした。それなのに、足がちっとも動かなかった。逃げなくちゃ。それなのに足が動かなかった。
「遅いよ」と、声がした。「君はもう僕の影に囚われた。足元を見てごらん」
 ひっと短く声を上げた。まるで地面から手が伸びたみたいに影が足首をがっちりと掴んでいた。私の足は彼の影を踏んでいたのだ。それどころか体の半分くらいは西日で伸びた影が掛かっていて。それに気付いた瞬間にぎちりと何かが巻きついて両の腕を後ろに締め上げた。持っていたポーチが地面に落ちる。身体が後ろに引っ張られて、硬いものが背中に当たった。奉納堂の柱だった。
「あ、あ…………あ……」
 足首を掴んだ影がずるりずるりと登ってくる。柱ごと巻きついて縛りつけてくる。
 助けを呼ぼうにもうまく声が出なかった。
 嫌だ、やめて! 誰か助けて……!
 その時だった。地面に落ちたポーチから赤い光が飛び出した。赤い光は獣の形を形成する。出てきたのは小さな灰色のポケモン、ポチエナのビンゴだった。ポーチの中のボールから、自力で出てきたらしかった。
「ギャウ!」ビンゴがツキミヤ君に飛びかかった。
 けれど次の瞬間、何匹ものカゲボウズが影から飛び出し群がって、ビンゴの動きを封じてしまった。地に伏せられたビンゴはカゲボウズに揉まれながら足をバタバタと動かし抵抗する。だが、
「カゲボウズ、鬼火」
 冷たい声が響き渡った。青い炎が立ってビンゴとカゲボウズの塊がボウッと燃え上がる。
「ギャワウ!」悲痛な叫び声が上がった。
 役目を終えたカゲボウズ達が離れて、力尽きたビンゴの姿が顕わになる。
「心配しなくていいよ。気を失っているだけだから」
 ツキミヤ君が顔色一つ変えずに言った。擦り寄るカゲボウズの頭を撫でる。そうして
「この子も可哀想に。こんなに君の事を思っているのに、君からはちっとも信頼されていない」
 と、続けたのだった。
「ポケモンセンターでの事にしたって、せっかく教えてくれてたのにね」
 ちょっと待って。どういう意味? 私はビンゴとツキミヤ君を交互に見る。
「分からない? この子は気付いていたんだよ、僕の正体に。僕が影の中に何を飼っているかという事に。カゲボウズ達が君を欲していた事にもね。君が決心さえしていれば全身全霊を懸けてでも君の旅を助けてくれただろうに」
 そうか。そうだったの。ポケモンセンターでビンゴが吠えかかっていたのは……。
「ポケモンセンターで君を見かけた時から、カゲボウズ達は君を食べたがっていたよ。君の内から湧き上がる感情を。この子達は負の感情が大好きなんだ。特に恨みの感情がね。まさか君のほうから声をかけてくるとは思わなかったけれど」
 恨みの……感情。
「覚えがあるだろう?」
 彼のその言葉に私はぎくり、とした。
「本当は恨んでいたんだろう? 好きだけれど憎んでいたんだろう? いつまでも帰ってこない、連絡もくれない君の彼氏をさ」
「……違う」
 私は弱々しく言った。けれど、否定の言葉と裏腹に声が震えた。
「違う……違う」
 私は言葉を繰り返す。それなのに、違うと言えば言うほどに、首を横に振れば振るほどに、塗り込めた塗装が剥がされていく気がした。だって影が登ってくるのだ。抗うたびに、否定の言葉を繰り返すたびに、じわりじわりと登ってくるのだ。
 下半身は既に侵され、上半身の掌握も時間の問題だった。
「ほら、もう肩まで上がってきたよ」
 ツキミヤ君が言った。黒く黒く染まった私の身体、そうやって染まった足や胴、胸のあちこちでぱちり、ぱちりと光る眼がいくつも開いた。
「いやあ!」
 私は思わず悲鳴を上げた。その恐怖に呼応するみたいに影が成長する。首を伝って頬にまで根を張っていく。
「怖い?」さも楽しげな声が耳に届いた。
「でも君の恐怖もね、この子達にとっては心地のいいものなんだ」
 くすくすとツキミヤ君が笑う。目の前の光景に目を細めている。
「見てごらん。すごく悦んでいるよ」
 内で何かが蠢く感覚があった。侵された身体のあちこちがぼこり、ぼこりと盛り上がる。そこから顔を出したのはカゲボウズの頭だった。楕円形の、角を生やしたカゲボウズの頭。何匹ものカゲボウズが顔を覗かせて、彼と同じように目を細める。どんどん頭数が増えていく。カゲボウズが包んで、包み込んで、私はその中に埋ずもれていく。
「大丈夫、怖いって記憶も残らないように喰らい尽くしてあげるから」
 言われた瞬間、ドクンと影が脈を打った。舐め上げられるような感覚が全身に走った。
「…………ッ!」
 感覚が繰り返される。寄せては返す波のように、何度も何度も繰り返される。
 侵食した無数の影が身体の中で蠢いて、その感覚に何度も身をよじった。繰り返される。足先から全身をスキャンするように登っていくそれは理性を麻痺させて、認めたくなかった感情を浮き上がらせていく。様々な記憶が頭の中でフラッシュバックを始めていた。
 まるで映画のフィルムを早送りするみたいに見覚えのある映像が高速で再生されていく。思い出したくない、忘れていたい記憶。それを目の前にまざまざと見せつけられた。
 カナタと出会って、カナタと付き合う事になって、毎日が楽しくて、毎日が幸せで、それなのに変わってしまって、カナタは旅立ってしまって、私はカナタの帰りを待ち続けて、でも連絡も一向に来なくて、カナタも全然帰ってこなくて。
 けれど悲鳴を上げる心とは反対に、影に侵された身体が舞い上がった。まるですべてを預けていいのだと言うように、入り込んだ影が脈動を繰り返すのだ。ドクンと脈を打つそのたびに痺れるような感覚が全身を駆け巡る。そして、
「そうよ……」と、私は呟いた。
 屈してしまった。認めてしまった。本当はずっと憎んでいたの、と。
 そう、私はカナタを恨んでた。
 もうずっと帰ってこない。メールを送っても無しの礫で。それなのにカナタを探しに行く勇気も無くて。行ったところで見つかるかどうかも分からない。見つかったところで拒絶されるかもしれない。でもこれは私が悪いんじゃない。全部カナタのせいだって。
 だってそうじゃない、カナタが悪いのよ。
 カナタが返事をしないから悪いんだ。カナタが帰ってこないから。私がこんなに苦しんでいるのだって、こんな目に遭っているのだってみんなみんなカナタのせいよ。
 びくり、びくりと身体が痙攣を繰り返した。ひとたび恨みの感情を認めてしまうと、繰り返される感覚がもっと強くなったように感じられた。
「知っているかい? 感情って甘い味がするんだよ」
 ツキミヤ君の声が響く。
 再現されていく記憶、再現されていく私の感情。
 恨むようになったのだ。私はカナタを憎むようになった。
「特に負の感情が甘いんだ。恨みともなれば格別にね」
 全身が強張って、短く息を吐き出すたびに、侵されていく。
 全部カナタのせい。私が苦しんでいるのだって、こんな目に遭っているのだって全部カナタのせい。
「僕とこの子達は繋がってるから。だから、分かるよ。君の感情がどんな味なのかも」
 繰り返し再生されるあの時の映像。見せつけられる。何度も。何度も。
 カナタ、大好きだよ。でも、同じくらいにあなたを憎んでる。それ以上に恨んでる。
 そう、カナタを恨んでる……恨んで、恨んで、恨んでやる……恨んでやる。恨んでやる!
 身体の内側で無数の影が蠢いた。内側から中身を吸われていく感覚が支配した。
「…………甘いよ。すごく甘い」
 冷たい瞳で私を見下ろしていた彼は恍惚の表情を浮かべ、ぺろりと上唇を舐めた。びくんと私の身体が仰け反った。
 そうして暫くその余韻を楽しんだ後に、影の主は自嘲気味に笑ったのだった。
「この子達の最初の獲物はね、僕の母だったんだ。あの人はずっと父を恨んでた。いつも愚痴ばかりこぼしてて、精神的にも不安定でね。でもこうしてあげた後はずいぶん元気になったよ。父の事はすっかり忘れちゃったけどね?」
 影が蠢く。血を啜り、肉を削るように少しずつ、少しずつ喰らっていく。熱だ、と私は思った。熱が私の内から急速に奪われていくのだ。
「じきに君もそうなるよ」
 熱を失った肉、その体積が増えてゆく。ああ、これが。これが喰われるという事なのか。寒い。指先まで冷たくなって、だんだん意識が細くなっていく。
「もう苦しまなくていいんだよ。待っているだけなんてつらいだろ? すぐに楽にしてあげるから」
 身体が動かない。かといってまともに声を上げる事も出来ない。薄れていく意識の中で彼の言葉だけがはっきりと耳に響いていた。

 カナタを、恨んでた。
 もうずっと帰ってこない。メールを送っても無しの礫で。
 それなのに彼を探しに行く勇気も無くて。行ったところで見つかるかどうかも分からない。見つかったところで拒絶されるかもしれない。
 ――だったら、君も旅に出ればいい。
 私はその言葉を受け止める事が出来なかった。
 たぶん……本当は、失いたくなかったんだと思う。今の生活を。ここには家族も友達もいて、都合がよくて、居心地がよくて。
 その上カナタまで欲しがって、彼をここに縛り付けておきたくて。
 邪な願いだった。受け入れられるはずのない願い。
 だって、全部嘘だったんだもの。自分にそう思い込ませようとしただけだったの。
 半年経ったら帰ってくる。定期的に連絡を入れる。全部嘘だもの。
 本当は……本当は、

『前から決めていたんだ。リーダーに勝つ事が出来たら旅に出るって。ポケモンリーグは僕の幼い頃からの夢だった。でも、そうしたら君には寂しい思いをさせてしまうと思うんだ。だから――』
『だから――――君にも一緒に来て欲しい』

 そうなんだ。カナタは一緒に行こうって言ってくれたの。
 それなのに私は、居心地のいい場所もカナタの事も両方手に入れたくて。それが平行して決して交わらない事にも目をつぶって。
 だって自信が無かった。私、バトルも全然強くなくて、いつかカナタがそんな自分を見捨ててしまうんじゃないかって。だから、行かないで欲しいって言った。カナズミに残ってずっと自分といて欲しいって。そうしたら彼言ったわ。
『ポケモンリーグに挑戦するのは僕の幼い頃からの夢だった。たとえ君の頼みでも諦めるつもりはない』って。
 半年経ったら帰ってくる。定期的に連絡を入れる。全部、嘘。全部自分についた嘘。
 だって、あの時に私達は終わったんだもの。
『それじゃあ僕はもう行くから』
 そう言ってカナタはカナズミからも、私からも旅立ったの。
 メールアドレスなんかとっくに変わってる。届くはずのないメール。来ない返事。
 それでも私は待ち続けた。嘘を吐いて、決して報われない待ち人を演じ続けた。
「もう忘れていいんだ。忘れていいんだよ」
 耳元で甘い声が響いた。抗えなかった。
「そうだよ。溜め込んで、吐き出す事も出来ない。何も出来ずにくすぶらせているのなら、」
 ……ああ、そうか、結局私は自分の事しか考えていなくって。臆病で。追いかけていく勇気も無くて。それなのに、思い通りにいかないのを全部カナタのせいにしてたんだ……。
「それは忘れているのと同じだよね?」
 …………。

 そこで私の思考は真っ白になって、途切れた。


「キャンキャンキャン! ギャウン!」
 ポケモンセンターでポチエナのビンゴが激しく吠え立てたものだから、そのトレーナーである私は慌ててしまった。
 何事かとビンゴのもとに駆けつけると、男の人が一人、少し困った顔をして吠え立てるビンゴを見下ろしていた。
「ご、ごめんなさい!」
 ビンゴを急いでモンスターボールに戻し、私は彼に謝った。すると彼は、
「気にしないで。そのポチエナはね、君の事が大好きなんだよ。だから君に悪い虫がつかないように危険を知らせてるんだ」
 なんて言ったものだから私は拍子抜けしてしまった。
「だから叱らないであげて。ね?」
「は、はぁ」
「ああ、それと……この前は火傷させてごめんって伝えておいてくれる?」
「え?」
「それじゃあ僕はもう行くから」
 ピクリと何かが反応した。その言葉に聞き覚えがある気がした。
「行く? どうして?」
 どうしてだろう。反射的に聞いてしまった。
「人をね、探しているんだ」
 人を…………。
「あ、あの!」
 思わず私は彼を引き留めた。何でかは分からないけれど。
「何?」
「そ、その……見つかるといい……ですね」
「ああ、ありがとう。君もどうか元気で。ビンゴを大切にね」
 彼はそう言ってにっこりと笑うと、去っていった。センターの自動扉が開いて、閉まって。それでもう二度と戻って来なかった。
 あれ? 私は彼の姿が見えなくなって気が付いた。
 どうして彼は私のポケモンの名前なんて知っていたのだろう。
 それに……
 それにどうして私は泣いているの?
 なんだか胸にぽっかり穴が空いたみたいで、でもその原因が分からない。
 ――それじゃあ僕はもう行くから。
 その言葉が、私を見捨てたように聞こえて。私は訳も分からないまま涙を流し続けていた。


 何か大切な事を忘れている気がするのに、

 今はそれが何だったのか、
 もう思い出せない。





鬼火「了」


  [No.1526] 2 聖地巡礼 投稿者:No.017   投稿日:2016/03/06(Sun) 14:01:23   44clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
タグ:カゲボウズ

 最も親しい友人。それを私達は親友という風に呼ぶ。
 私と彼は、物心付いた頃からいつも傍に居た。
 一緒に走り回り、ふざけ合い、共に笑い、ある時は共に泣いて、一緒に、ずっと一緒に過ごしてきた。私と彼は好む事もよく似ていたから、同じポケモンを手に入れたし、おのずと選ぶ進路は一緒だった。
 彼は唯一無二の親友だ。それは彼も認めているし、周りもそう言うだろう。私だってそう思う。その事に何の疑いも無い。彼は私の、大事な大事な友人だ。
 そんな彼であるからして、私がしばらくの間、一人旅に出ると告げたら、俺もついていく、一緒に行っていいだろ? そんな面白そうな事一人でやるなんてずるいなどと言って聞かなかった。説得するにはだいぶ骨を折った。というか、結局行き先は告げずにそっと私は旅立ったのだった。
 だって私は一人きりになりたかった。いや、一人でなくてはならなかった。きっと彼は私の事を誰よりも理解しているし、私もそれは認めるところだ。けれども彼は、私の事を最も理解しており、同時に最も理解していない、と思う。
 たぶんあいつは気付いていないのだ。
 私が最も大事に思っているのが彼ならば、最も憎んでいるのも彼だという事に。


 一人でどこか遠くに行きたい。どうせなら寒い所よりは暖かい所がいい。私が行き先にホウエン地方を選んだのはそういった理由からだった。ただ、問題は一口にホウエンと言っても狭くないという事だ。全部巡っていたらいくら何でも時間が足りない。ポイントを絞るというか、旅のコンセプトが必要だ。
 私は本屋に寄る機会があるたびに、ホウエンの旅行ガイドをチェックするようになった。何冊かは実際に買って読んでみたりもした。だが今ひとつポイントが定まらない。けれどある日、仕事の合間に寄った大きな書店の国内旅行コーナーで、求めていた旅のプランに出会ったのだ。


「三十三霊場巡礼?」
 旅先でたまたま出会った女性トレーナーは、両眉をハの字にして、知らないなーという表情をしてみせた。
 南の土地の気風なのだろうか。気のせいかもしれないけれど、ここの地方の人は皆おおらかでオープンだ。私が山一つ越えた五番目の霊場を目指しているのだと言ったら、私もそこの近くにあるジムを目指しているからと途中まで一緒に行く事になった。
 笑顔の素敵なその女性トレーナーはユウギリさんと言う。一念発起して旅に出て半年ほどだそうだ。彼女の故郷ではトレーナーとして旅立つという行為が珍しいらしく、かなり反対されと語っていた。けれど今や野宿すら慣れたもので。どうやら旅人暮らしというのは人をワイルドにするらしい。
「それでこの前ね、やっとバッジを一個貰ったんですよ!」
 彼女はとても嬉しそうに語ると、バッジケースに収められた真新しいジムバッジを見せてくれた。それはよく磨かれており、ピカピカと輝いている。彼女は自分の事も一生懸命話したけれど、私の話もうんうんと聞いてくれた。
「霊場って言っても、幽霊が出る所って意味じゃないよ。まぁそれはゴーストポケモンの一匹や二匹ならいるかも分からないけれど。この場合の霊場っていうのは寺院……つまりお寺の事を言うんだ」
 カツンと、金剛杖(こんごうつえ)で地面を突いて鳴らし、歩みを進める。この右手に握る金剛杖は巡礼に欠く事の出来ないアイテムだ。疲れた時、登り坂の時、そのありがたみを理解する。古来より巡礼の旅の途中で亡くなった人々の墓標にもなった。それが金剛杖だ。
「僕が巡る三十三のお寺にはそれぞれ観音様がいるんだ。どうして、巡礼の数が三十三なのか分かるかい?」
 彼女が知るはずもないと思ったけれど、私はあえて問いかけてみる。案の定、分からない、どうして? という返事が返ってきた。
「三十三という数はね、観音様の変化身の数なんだよ。観音様は、教えを説く相手に応じて自由自在にその姿を変えて現れるんだ。ある時はお坊さん、ある時は操り人(トレーナー)、またある時はポケモンの姿でという具合にだ。その人に一番ふさわしい形で現れて、教えを授けてくれるんだそうだよ」
 ――巡礼のうちにきっとそういう人に出会う時が来る。
 そうガイドブックの書き出しにはあった。その一節が心を捉えたからこそ今、私はこうしてる訳だ。
 別に本気で信じた訳じゃない。けれど、三十三の霊場を巡るうちに何かが掴めればと思って、私は旅立ったのだ。内緒で置いてきた親友とは違うに場所に立って、一人で息をし、歩いてみたかった。
「へえ〜、メタモンみたいなんだね、観音様って」
 ユウギリさんはそんな感想をくれた。なるほど、変幻自在に姿を変えるところは確かにメタモンらしい。
 ――三十三の霊場を巡る中で、きっと貴方は様々な人に出会うだろう。そして様々な考えに触れるだろう。そのうちにきっと時が訪れる。「ああ、もしかしたらこの人が観音様なのかもしれない」そう思う時が。
 ガイドブックの書き出しはそのように締められて、次ページにホウエンの地図、そして道順が示されていた。スタートはどの寺からでもよい。逆に回っても、ランダムでもよいとの事だった。
 私達の進む山道の中腹に、寂しげに伸びる人気の無い石段があった。朽ちた落ち葉に覆われた長い石段だ。私はポケットから地図を取り出して確認する。ふむ、どうやらここらしい。
「あれっ、もしかしてここもおにいさんの言ってた霊場の一つだったりするの?」
「いや、ここは三十三には数えられていないけれど、寄ってみたいと思ってたんだ。なんでも変わった趣向の観音像があるんだって」
「変わった趣向の?」
「さっき、変化身の話をしたろう。観音様の頭には変化身を表す顔がいくつもついている事が多いのだけど、なんでもここの観音像の顔は皆ポケモンなんだとか」
「へえ、まさにメタモンって訳ね!」
 その話を聞いて、ユウギリさんも興味を持ったようだ。いいよ、付き合ってあげる。私も見てみたいもの。と言ってくれた。それにしても驚いたのはユウギリさんの石段を登るのの早い事だ。さすがに毎日歩きどおしのトレーナーは違う。にわか行客の私はあっという間に引き離されてしまった。
「もー、何してるのー? ホウエン中のお寺を回ろうって人が情けないなー」
 遥か上のほうから声が聞こえる。
「ごめーん、先に行ってて! すぐ追いつくからさ!」
「分かったー、待ってるー」
 私が叫ぶと、さっきより小さく声が響いた。どうやら更に上に行ってしまったらしい。金剛杖で身体を支えながら、私はゆっくり登る事にした。
 ここの話を聞いたのは、さる寺院で出会った高僧からだ。
 遠い昔、ホウエンは様々な自然神が織り成す八百万(やおよろず)の神の国だったらしい。いたる所に、それこそ村々に小さな神様が居てそこに住む人々と共にあった。
 だがある時、地の神と海の神、それぞれを信仰する民がこの地方の覇権争いを始めた。結果、地の民が支配した土地の民は地の神を、海の民が支配した土地の民は海の神を、それぞれ信仰する事を強制されたのだ。
 そうして本来その土地を守っていた小さな神様達はどんどんその姿を消していった。行き場所を無くした小さな神様達を憐れに思った旅の僧侶は、神様達に居場所をと観音様に祈ったという。すると、僧侶の夢枕に立った観音様はここに寺院を立て、神様達を受け入れるようにと仰ったのだそうだ。それがここにある寺院の興りという。
 こんなに長い石段を登らせるのも、こんな所に寂しくあるのも、欲深き者達を寄り付かせずにもう二度と土地を追われないようにするためであるらしい。
 私はさる寺院で出会った高僧のように徳の高い人物ではないから、歩いているといろんな雑念が頭をよぎる。
 たとえば、置いてきた親友の事だ。
 あいつ今頃、何だよ俺を置いて勝手に出て行きやがって! などと言って怒っているのだろうな。そんな彼の表情が容易に想像できて、私は苦笑いをする。
 けれど、仕方なかったんだ。と私は呟いた。私は限界だった。
 傍に居る傍ら、ずっと親友に嫉妬し続けていたからだ。
 一言で言うなら彼は非常に出来がいい奴だった。
 まず、あいつのほうが背が高い。これは小さい頃からのコンプレックスだ。
 走っても、泳いでも、山を登っても、ゴールに着くのはいつもあいつが先。釣りをすれば必ずあいつが私より大物を釣り上げる。勉強しても、絵を描いても、あいつは何だって私よりうまくやってのけるのだ。
 例外は無い。あらゆる事において、彼は私の上なのだった。私はずっとずっと見せつけられてきたのだ。そしてずっと恨めしく思っていた。
 ずっと彼と自分とを比較して生きてきた。自分は何をやっても格下なのだと。
 それでも私はあいつが好きだった。あいつといるのは楽しいし、あいつは私の事をよく分かってくれる。人並みの幸せなら手に入れているほうだと思う。それなのに……どうしてこんなに苦しいのだろう。
 今までなんとか押さえつけてきた親友への嫉妬。けれどそれはもう理性という名の箱に押し込めても、反動で中身が溢れてくるようになってしまった。原因は分かっている。たぶん「あれ」がきっかけだ。
 私は、親友にどう向き合ったらいいのか、分からなくなった。
 だから一人になりたかった。旅に出て答えを出そうとした。少し距離をとったなら何かが変わるかもしれないと。三十三の巡礼で出会う事が出来るという観音様なら、きっとどうすればいいか教えてくれる。私を救ってくれるような気がしたのだ。
 そうこう色々な煩悩に弄ばれているうちに私は石段を登りきった。さすがに疲れたので、金剛杖に体重を預け一呼吸を置く。静かだ。さわさわ鳴る風に揺れる木の葉の音、自分の息遣い以外は聞こえてこない。あの高僧はあまり知られていない穴場だから人はほとんどいないような事を言っていたが、本当に人の気が無かった。周りをきょろきょろと見回すが、ユウギリさんの姿は無い。たぶん奥にあるという本尊を先に見に行ったのだろう。
 気が付けば空は赤くなっているし、あまり待たせたら悪いと思って、再びカツリと金剛杖を前に出して私は奥へと進んでいった。朽ち葉に満たされた道を少し歩いたところで、石を敷き詰めた、屋根で雨をしのげる道が出現する。それが観音像が安置されているというお堂に続いていた。
 お堂の中に入る。いくつもの木柱が立って、夕日が差し、光と影のコントラストを刻んでいる。神秘的な光景だった。吸い込まれるように中へ入ってゆく。中に入って、柱の林の向こうに彼女を見つける事が出来た。
 だが、少し様子がおかしいような気がする。どうしたんだろう?
 私は近づいていき、
「ユウギリさ……」
 と、言いかけて、言葉を失った。
 私の目の前に異様な光景が広がっていたからだった。
 赤い夕日の差し込むそのお堂の中には、私とユウギリさんの他にもう一人の人物が立っていた。それは二十代と思われる青年だった。
 青年とユウギリさんは手を合わせる観音像を背景に対峙していた。すらりと立つ青年の物腰は美しく、淡い色の髪が輝く夕日に染められている。そして、青年の足元から長く伸びた影。それが絡みつくように彼女を捕らえていたのだ。信じられない光景に目が釘付けになった。
 決して夕日で伸ばされた青年の影が彼女にかかっているのではない。それは彼女の影が青年と同じ方向に伸びていない事からも明らかだった。彼の影は明確な意思を持って彼女を捕らえているのだ。
 青年はうっすらと笑みを浮かべ、すうっと手を上げると人差し指を彼女のほうへと伸ばす。すると彼女に絡みつく青年の影に二色の青と黄の模様がいくつも浮かび上がった。
 だが、模様であるという私の考えはすぐに否定された。黄の部分がぎょろぎょろと動いていたからだ。
 あれは、眼だ。何かの眼。青年の影の中で無数の瞳が蠢いているのだ。
 彼女はいやだと言うように拒否の、恐怖の表情を浮かべた。けれど声がうまく出ないらしい。悲鳴は悲鳴となって響く事が無かった。無駄だよ、と言うように青年の口元が笑っている。
 ぎょろぎょろと動いていた瞳の主達がその形を顕わにしていく。大地から顔を出す新芽のようにむっくりと顔を上げたそのポケモンには、彼らの肌と同じ色の一本の角が生えていた。
 知っている。あれはカゲボウズだ。
 その多くはホウエン地方に生息が報告されており、負の感情を糧とすると言われるゴーストポケモン。それが影という名の苗床に所狭しと芽吹いている。それにしてもなんて数なんだと私は思った。
 宙に浮いていたならひらひらと揺れていたであろう彼らのマントは、今や植物のように彼女の身体に根を張って侵食していた。まるでその身体からすべての血液を吸い出そうとしているかのようにだ。影の根に縛られた彼女の身体が、びくんと震えた。
 青年が伸ばしていた人差し指の手を返すと招くように指を動かす。それはそこにある何かを愛撫しているようにも見えた。人差し指から中指へ、薬指から小指へ。青年の四本の指が一定のリズムを刻むそのたびに、影に捕らえられた身体に緊張が走る。そのたびにカゲボウズの伸ばす根が彼女のより深い所へ食い込んでゆくように見えた。
 奥深くに侵入を許すたび、彼女の身体はびくんびくんと痙攣し、息を吐く間隔が短くなってゆく。最後に身体を大きく仰け反らせてから、黒の苗床に力なく崩れ落ちた。
 取り憑いていたカゲボウズ達が、そっと彼女を横たわらせるようにして、ゆっくりと青年のほうへ引いてゆく。
 そうしてすっかりと影達を自身の内に収めた青年は恍惚とした表情を浮かべ、伸ばした手を引き寄せると中の指をぺろりと舐めたのだった。
 背筋にぞくりと悪寒が走った。
 何だこれは。私は何を見ているんだ?
 それが何なのか、結論は出なかったけれど、私の中にある生物的な勘があれはおぞましい、恐ろしいものだと告げていた。
 そういえば、あいつからこんな話を聞かされた事がある。昼と夜の中間である夕刻は事故が起こりやすく、「魔」に遭遇しやすい時刻なのだと。あらぬものを見る、事故を起こす、その時刻の事を遭魔ヶ時と言うのだと。空の色は赤。昼が夜に溶け出す時間。時刻はまさに遭魔ヶ時であった。
 ……見てしまった。きっと見られていた事に気付かれたら、何をされるか分からない。離れなくては。早くこの場から離れなくては。
 だが、驚いた事に私の中にある正義感のようなものが、それを拒否したのだった。
「ユウギリさん!」
 無謀というか、自分の中にこんな勇気があったなんて知らなかった。気が付くと私は彼女の元へと走り寄っていた。その場を逃げ出したい恐怖以上に、冷たい床に横たわった彼女の安否が気にかかった。私の中にある良心がその確認を優先させたらしいのだ。
 彼女の前で屈むと、恐る恐る抱き上げる。身体は少し冷たくなっているけれど、きちんと呼吸はしていた。素人判断ではあるけれど命に関わる事はなさそうに見えて、ほっと一息をつく。
「大丈夫ですよ。気を失っているだけですから」
 観音像を挟んだ反対側から声が聞こえて、私は背筋が凍るのを感じた。彼女を抱き上げたまま顔を上げると、青年が幽かに微笑んで私を見下ろしていた。目の色がカゲボウズのそれと同じ色に染まっていた。
 ああ、そうだった。私は今更に自分の立場を認識した。無防備な状態でこの青年の前に出てきてしまったのだと。ぎゅっと金剛杖を握る。何をされてもいい覚悟をした。すると、青年は、
「そんなに警戒しなくても何もしやしません。少なくとも……今はね」
 と、言ったのだった。彼は瞬きをする。再び青年が目を開いた時、彼の瞳は人間の本来の色に戻っていた。
「それにね、少し感心しているんですよ。僕のこれを目にしたら、たいていの人は逃げてしまいますから」
 青年は微笑んで言った。
「貴方は変わった人だな。貴方みたいにわざわざ飛び込んでくる人は珍しい」
 青年の口の両端が少しばかり吊り上がったのが分かった。
「尤も逃げたところで逃がしたりはしませんけれどね?」
 私の背後でくすくすと何かが笑った。すうっと一匹のカゲボウズが私の横を通り過ぎて、主の下へ戻ってゆく。気付かれていたのだ、と私は悟った。いつから? たぶん最初からだ。
「彼女に何をしたんですか」
 精一杯の睨みを利かせて、私は言った。
「感情を食べさせてもらいました」
 青年が何食わぬ顔で答えた。戻ってきたカゲボウズが青年に擦り寄る。彼はその頭を撫でてやった。
 感情を食べた、青年は確かにそう言った。
「食べた……? 負の、感情……を?」
「そう、カゲボウズの日々の糧は負の感情です。俗説って言われてるけど有名な話でしょう。でもそれは本当の話。僕の影に憑いているこの子達は負の感情がエネルギー源なんです」
 そう言ってカゲボウズの喉に指を滑り込ませる。エネコにそうするように、人形ポケモンの喉を愛撫した。カゲボウズが嬉しそうに目を細める。その様子を満足そうに見つめながら青年は続けた。
「彼女、ユウギリさん……でしたっけ。こう見えてとても嫉妬深い人なんですよ」
 嫉妬。青年は嫉妬と言った。その言葉に私はドキリとする。
 嫉妬、だって? 彼女が嫉妬深いってどういう事なんだ?
「彼女ね、故郷の町に小さい頃からの親友を残して旅に出たんですよ」
 青年は語り出した。
「同じ町で幼い時から共に育った親友が居たんです。何でも出来てまるで彼女のお姉さんみたいな存在。小さい頃からいつも出来のいい親友の影に隠れて、けれどそのたびに自分と比較して。彼女はずっと嫉妬していたんです」
 動悸が、した。私はすべてを見透かされ、心の臓を掴まれた気がした。
「そしてとうとう思い余って、トレーナーとして旅立つ事で親友から離れる事にしたのです」
 青年はにこやかな表情を崩さずに語る。ばくん、ばくんと心臓が高鳴っていくのが分かった。
 誰の事だ。それは。彼は今、彼女の、ユウギリさんの事を語っているはず。それなのに自分の事を言われている気がするのはどうしてなんだ。
「けれど、彼女は逃れられなかった」
 畳み掛けるように青年は言った。
「……逃れられなかった?」
「過去がね、追いかけてきたんです」
 青年はそう続けた。
「きっと彼女に影響されたんでしょうね。最近その親友が追いかけるようにトレーナーになってしまったんですよ。もうバッジを二つも持ってる。彼女は最近ようやく一つ取ったばかりだっていうのにね」
 私はハッとした。
 ――この前ね、やっとバッジを一個貰ったんですよ!
 彼女は確か、そう嬉しそうに話していた。
 その瞬間に、いつも自分の前を走っていた幼い頃の友人の笑い声を、私は聞いたような気がしたのだった。
「かわいそうに。離れたはずの友人が追いかけてきた上に、また力の差を見せつけられて。彼女、ずいぶんとくすぶらせていましたよ。親友に嫉妬する気持ちを無理やり押さえつけて、溜め込んで、それなのに誰にも吐き出せなくてね」
 焦っていた? 追い越された分を取り返そうと? 彼女はあの笑顔の裏でそんな事を思っていたっていうのか……? そんな様子、微塵も見せなかったのに。
「いつもならね、もっと獲物になる子の話も聞いてあげるんです。ゆっくりと機を待ってから一番いい時に喰らう。そういうのが僕は好きでね。でも今日は渇きが酷くて。今すぐに食べるんだってこの子達が聞かないから」
 そう言って青年はちらりと足元を見た。彼の足元から伸びる影が不気味に蠢いている。再びぞくりと悪寒が走った。
 この青年は、この影達の欲望のままにこの様な行為を繰り返しているというのだろうか。あまつさえ、つい今しがた出会った彼女を手にかけてしまうなんて……。
 が、ちょっと待てよ、と私は考える。
「今、話も聞かずにと言いましたか? だったら、何故そんな事を知っているんです? 貴方と彼女は今日、いや今さっき出会ったばかりでしょう」
 私は湧き出た疑問を言葉にした。少なくとも私のほうが、私のほうが彼女と話していた時間は長かったはずなのだ。それなのに何故彼は知っている? 私が知らない事を何故こんなにも知っているのだ。すると青年がくすっと笑った。
「感情を喰らった相手なら分かるんですよ。影を媒体に彼女と繋がって嫉妬の記憶ごと奪ったんですから。ユウギリさんの感情はとても甘かったですよ」
 行為の余韻に浸るように、楽しげに青年は言った。
「知ってますか? 感情って甘い味がするんです。負の力が強いほどに甘い甘い味になるんですよ。彼女、すごくよかったです。この子達も喜んでる」
 青年の台詞に呼応するように、ぞわぞわと影がうねる。それに誘われるようにして先ほどのカゲボウズが青年の影の中に戻っていった。
 ユウギリさんをかばう腕が、抑えながらも微かに震えていた。青年がその気になったなら、今すぐにでも喰われてしまう。それが分かったからだ。
 青年との会話。私は自覚せざるを得なかった。私自身が彼らの獲物足りえる事を。知らなかった。けれど気付かされてしまった。彼女と私は似すぎているという事に。
 嗚呼、なんという一致だろうか。いや、だからこそ気が合ったのかもしれない。彼女と私は同じ。同じだったのだ。
 もし彼女より先に私がこの場所に立っていたならば、今ここに倒れていたのは、喰われ、奪われていたのはこの私だったに違いない。
「怖がる事はありませんよ。少し記憶を無くしてしまうだけ。彼女の場合は嫉妬の対象の記憶。でも奪われた事すら思い出せないですよ。だって無くしているんですから」
 まるで私の考えを読んだかのように、青年はそう言った。そうしてついに話題が本来のものに戻される時が来た。
「さて、どうしようかな。貴方には食事を見られてしまったし」
 青年がにこりと笑った。カツン、カツンと石の床を歩いてくる。ああ、やはり喰われるのか。けれど、私には対抗する手段が無い。手持ちのポケモンでも居れば戦えたかもしれなかったが、今は実家に預けていた。私はすべてを覚悟し、ぎゅっと目を閉じた。
 だが、青年は私の二、三歩前で立ち止まるとこう言ったのだった。
「やめた」
 え……?
 私はあっけにとられて青年の顔を見上げる。
「だって彼女、良かったから。お腹いっぱいなんです。食べ過ぎは良くないですよ。ここで貴方を喰らっても楽しめなさそうだ」
 渇きが収まっちゃって、と青年は続けた。
「ですから代替案を用意しましょう」
 代替、案?
「貴方の持っているその金剛杖、それは三十三の霊場巡りをするためのものですよね?」
「……知っていたのですか」
 意外な単語が出て、驚いた。この若い青年が霊場巡りを知っていたなんて。すると、結構こういうのには詳しいんですよ、と青年は付け足した。
「だからこうしましょう。貴方が三十三の巡礼の間に再び僕に出会ったのなら、僕の勝ち。貴方を獲物にする事にします。けれどもし、僕に出会わずに巡礼を終えたなら貴方の勝ち。その時は見逃してあげますよ」
 彼は愉しげにくすくすと笑う。なんだか、不公平な条件のような気がしたのは私だけだろうか。
 けれど、少なくとも、今この場で喰われてしまうよりは遙かにマシな提案である事も確かだった。
「三十三の霊場は赤と青、どちらにも染まらずに守られてきた信仰、巡礼の道です。僕はそれにある種の敬意を持っているつもりですよ」
 青年が続ける。
 赤と青。彼はかつてホウエンで信仰を巡る争いを繰り広げた二大勢力をそのような名で語った。私は年老いた高僧の説法でその事を知ったけれど、彼はどのような経緯で知ったのだろうか。それはともかく、どうやらこの手の事に詳しいと言ったのは本当らしい。
「それにね、僕も訳あってホウエンを巡っているのです」
「……君も?」
「そう。探しているものがあるのです。貴方の巡礼に近しいものがあるとは思いませんか?」
「…………」
 意外だった。私が三十三の道筋に菩薩の変化身を探すように、こんなに多くの影を引き連れたこの恐ろしい青年にも探しているものがあるというのだ。例えるならそれは彼だけの観音様、と言えなくも無いかもしれない。
「ん……」
 私の膝元で何かが動き、私の腕を掴んだ。それはユウギリさんだった。眉をぴくぴくと動かして意識を取り戻そうとしている。
「ああ、気が付いたみたいですね。しばらくは意識が朦朧としているかもしれませんが、すぐに元に戻りますよ」
 と、青年は言った。
「尤も、さっき話した友人の事はすっかり忘れてしまっているでしょうけどね」
 忘れる……。そういえばさっきもそんな事を言っていた。忘れる? 負の感情を向けていた対象を? 何故だろう。私はもう少しその話を聞いてみたくなった。
 けれど青年は足の向きを変え、くるりと背を向ける。
「それじゃあ僕はこれで失礼します。どうか彼女を、ユウギリさんをよろしく」
 そう告げて、最後にちらりと横目で私を見据えた。おそらくは記憶するため。私という活餌を忘れぬようにであろう。
「縁があったらまたお会いしましょう。お互い探しているものが見つかると良いですね」
 淡い色の髪がふわりと揺れる。口元がわずかに微笑んでいた。
 縁があったら。
 仏と縁を結ぶ仏縁という言葉があるけれど、この場合はカゲボウズが結ぶ縁だ。それが巡礼の最中なら、私は喰われてしまう。おそらく逃れる術は無い。それはカゲボウズの結ぶ闇色の繋がりだ。
 とんでもないものに目をつけられてしまった。私は再び背筋が寒くなるのを感じた。
 気が付けば空は山の向こう側がわずかに赤い光を放っているだけとなっていた。そうして、青年がこの場を去ったのを数刻と待たずして夜がやって来た。昼と夜の境、遭魔ヶ時という時間が終わったのだった。

 翌朝、山の麓にあるポケモンセンターの前で私とユウギリさんはお別れをした。ユウギリさんは昨日の夕刻起きた事を何も覚えてはいなかった。きっと旅の疲れが溜まっていたのだ。どうやらそういう事で彼女の中では決着したようだった。あの場所で倒れた事、特別それを怪しんだり、くよくよ悩んだりはしなかった。
「なんだか色々と急ぎ過ぎていたみたい。ゆっくり行くわ」
 そのように彼女は言っていた。笑顔だけは出会った時と変わっていなかった。
 けれど彼女の中では劇的に何かが変わってしまったはずなのだ。青年の言っていた事が本当なら、彼女の中のある部分がごっそりと抜け落ちてしまっているはずなのだ。もちろん彼女自身はそれに気付くはずも無いのだが……。
 私は、彼女の友人の事を聞いてみようと思ったけれど、結局口には出せなかった。
「よい旅を!」
 旅の別れ道。遠くのほうで手を振ったのを最後に彼女の姿は見えなくなった。
「私も、行きますか」
 頭のどこかであの青年の事を考えながら、私も旅の空の下へ戻ってゆくのだった。


 それから。
 それからも私の旅は続いた。
 ある時は海沿いの道を、ある時は霧の深い山道を私は歩いた。ある時は温泉に癒され、雨に降られる。森の中で大きな野生のポケモンに遭遇し、焦った事もあった。お寺の入り口にある仁王像に睨みつけられ、有名な遺跡を通ったりもした。出会った人々は皆暖かかった。暖かく私を迎え入れてくれた。
 歩きにも慣れたものだ。身体とは順応するもので、最初はすぐに足がパンパンになりへばったものだったが、今は出会うトレーナーと同じ程度の体力はついてきたようだ。訪問した寺院は十五を超え、やがて二十近くに達する。
 けれど残念な事に、観音様の変化身には今のところ会えずじまいだ。素敵だなという人物に出会っても、この人こそが観音様という風に思えた事は今のところ無い。いつになったら会えるだろう。いつになったら教えを授けてもらえるのだろうか。私の友人に再び向き合える時はやってくるのだろうか。
 旅に出て三ヶ月あまり、訪問した寺院数が二十を超えた。
 今のところ、あの青年には出会っていない。
 あの時は、あの約束は不公平だなんて思った。けれど、よくよく考えてみれば、彼が言葉通りにこの広いホウエンを巡っているとすれば、同じ巡礼ルートでもない限りはもう一度鉢合わせになる確率は低いのだ。
 もしかして最初から彼は見逃すつもりだったのか? あるいは私の中にある親友への嫉妬心には気付かなかったのだろうか? そんな事を思う。
 二度と会う事もなく終わるのかな……。いや、むしろそうあって欲しいのだけど。たまに思い出してはそんな事を考える。
 出会った時はとても恐ろしかったけれど、いつしか恐怖は薄れて、過去のものになりつつあった。旅の途中には色々な事がありすぎて、あれは遭魔ヶ時が見せた悪い夢だったのではないのか、そんな事すら私は考えるようになっていた。
 感覚というのは麻痺するもので、記憶というのは褪せるものだ。
 まさか、この先にもっと恐ろしいものが待ち構えているなんて、この時の私は考えもしなかったのだ。
 災難というものは、いつも本人が忘れた頃にやってくる。

 二十七番目の寺院。
 私は本尊の荘厳な観音像を拝み、宝物殿を見物すると、その寺の誇る自慢の庭の解説を聞いていた。
「この枯山水(かれさんすい)は、この寺院を建立した常安和尚が山でグラエナに囲まれているところを表現していて、いいですか、中心に見えるのが若き日の常安、その周りを囲うように横たわっている三つの岩がグラエナなんです。緊迫感が伝わってくるでしょう?」
 はっきり言って解説を聞かないと小さな石の敷き詰められた空間にただの大きな岩が転がっているだけにしか見えない。やや癖のある語り口の解説員の声を聞きながらそんな風に私は思った。しかし、解説を聞いた後だとなんとなくそういう風に見えてくるから不思議である。
「常安が金剛杖を地面に突き刺すと、そこに雷が落ちたのです。グラエナ達は驚いて退散していったと言われます。それ以来この寺で配る金剛杖には……」
 庭を作った人がその意味を文書に書き残したのかどうかは分からないけれど、もし想像で解説しているとすれば、その類まれなる想像力には敬意を評さざるを得ない。いや、後世まで庭師の意図が正確に伝わったとしたら、それはそれですごいと思う。
「それでは次に、常安和尚が修行時代に見たと言われる伝説のポケモンの雄大な姿を表現した庭をご覧に入れましょう。みなさん、こちらへどうぞ」
 観光客に混じってぞろぞろと渡り廊下を移動する。
「ご覧ください。これが常安和尚が見た天空雲竜と伝えられています」
 本堂から少しばかり離れた場所にあるその庭。庭を見るために私達が移動した廊下のその隅のほうで法衣に身を包んだ住職らしき人物が誰かと話し込んでいた。
「そうか、そういう事ならこれをあげよう。信者の方にお配りしている金剛杖だよ。これはこの寺院を建立した常安和尚が地面に突き刺してだね、」
 話し声が聞こえてくる。誰かが、住職に相談をしているらしかった。
「この杖はね、巡礼に欠かせないものなんだ。山道を歩くのに便利だし、凶暴な野生のポケモンに出くわした時はこれで身を守るのさ。私の若い頃なんか山道にね……」
 住職は若き日のエピソードを交えながら楽しげに話している。襖に隠れていて姿が見えないが、どうやら巡礼の志願者があるらしい。
「まだお若いのに、巡礼なんて感心だねえ。いやいや、悪い事じゃないさ。むしろ若いうちにやっておくべきだよ。君の人生にとって意味のある旅になるだろう。いやあ、感心な事だ」
 すると、話し相手は住職の褒め言葉に謙遜した答えを返したのだった。
「そんな、情けない理由ですよ。実は友人に置いていかれてしまいまして」
 ドクンと心臓が脈を打った。瞬間に、凍える風を吹きつけられたみたいに背筋が凍ったのが分かった。
 まさか。
 その声にものすごく聞き覚えがあって私は硬直した。
 まさか……。
「小さい頃から仲の良かった友人がいましてね、あいつ、俺には何も告げずにどこかへ行ってしまったんです。今まではそんな事無かったのに……」
 まさか。まさか。
 まさか、そんな。
「きっとよっぽどの事なんだ。俺には一人で行きたいと言ったあいつの気持ち、分かってやれなかった」
 そうかい、そうかいと相槌を打つご住職。
「だから、俺も旅に出る事にしました。あいつと同じ旅の空の下に立って、場所は違っても同じように呼吸をして。そうしたら少しは分かってやれるんじゃないかって。あいつの気持ちに近づけるんじゃないかって」
 分かってしまった。私には分かってしまった。姿を見ずともその声と口調、発言で分かってしまった。
 なんで。なんでここにいるんだ。なんで君がここに。
「だからこの旅で、この巡礼で答えを見つけたいのです。俺があいつに何をしてやれるのか」
 すると住職は答えた。
 貴方はこの旅で様々な人に出会うだろうと、その中には菩薩様がお姿を変えた変化身が混じっていて、貴方にそれとなく教えを授けてくださるだろうと。
 それから住職と「彼」は二言、三言言葉を交わしたけれど、内容は頭に入らなかった。
 ただ、彼が最後にそっと呟いた一言を私は聞き逃さなかった。
「あいつ、今どこで何してるのかなあ……」
 私が慌ててその場を後にした事は言うまでも無い。
 なんて事だ……!
 なんだってこんな事になってしまったんだ。なんで、置いてきたはずの君がここに居るのだ。
 嗚呼、君は馬鹿だ! なんて馬鹿野郎なんだ!
 世界で最も好きで、一番大嫌い。嫉妬に歪んでまともに君の顔を見れなくなって、勝手に飛び出した私の事を心配するなんて! 廊下を早足で移動しながら私はぼろぼろと涙を流していた。
 それは彼の言葉が嬉しかったから。
 同時に、その言葉をとても憎んだから。
 どうして。どうしていつも君はそうなんだ。何故いつも私がやる事の上をいってしまう。
 三十三の巡礼。私は自分の事しか考えていなかった。自分が救われる事しか考えていなかったのに……! どうして君は自分以外の心配が出来るのだ。自分以外の者のために祈れるのだ。
 どうして。どうして君は思い知らせる。私が君より格下だと。君が私より格上だと。
 なんだっていつもいつも君は見せつけるんだ。
 今改めて認識した。君は私の親友だと。誰より私を理解し、分かっている。
 だが同時に何も理解していない、何も分かっていない!
 どうして。
 どうしてよりにもよってホウエン地方を、あまつさえ私と同じ道を選んでしまったんだ。
 どうして巡礼の間くらい私を放っておいてくれなかったんだ!

 動悸がした。
 食べたものを戻してしまうみたいに、記憶が、逆流を始めていた。
 私は実家に置いてきた自分のポケモンを思い出していた。

 手を出したのはほんの軽い気持ちからだった。
 きっかけはラジオだったか、あるいはテレビだったか。最近流行っているからという理由でポケスロンというポケモン競技に手を出した。幸いポケモンは持っていたし、運動不足気味だったから、いいと思ったのだ。相棒のブースターがハードルを飛び越えたり、フリスビーをキャッチする様は見ていて楽しいものだった。
 でも今思えば、あれは巡礼の代替だったのかもしれなかった。
 私は癒されていたのだ。休日の競技の楽しさ以上に、あいつのいない自分の時間というものに癒されていたのだ。そこで、ポケモンとの競技に集中する時、私は私でいられたのだ。
 だが、その時間はある日突如、終わりを迎えた。
「今日はルーキーが入ったんだ」
 そう言われてハードルコースを見た時にそこで走っていたのはあいつのサンダースだった。あいつは私の姿を見つけると無邪気に手を振ってきた。
 ブースターを実家に預けたのは、次の週の休日だったと記憶している。

 旅に出たいと思った。一人で旅に出たいと。
 だって、そうしなければ、私は。
 そうして、巡礼が始まった。

 飛び出した。逃げるように。私は逃げるようにその寺院を飛び出した。いや、正真正銘逃げ出したのだ。尻尾を巻いて。早く行かなくては。彼の目の届かない所に。
 今、ここでこうしている姿を見られてしまったら、この惨めな姿を見られてしまったら、私はもう――!
 行き先も確かめずに乗り物に飛び乗った。山道を走るバスだった。あいつは乗っていないはずなのに、震えが止まらない。いつか乗り込んでくるんじゃないかと怖くなる。
 あいつはどういう順番で回るつもりなのだろう?
 逆順? ランダム? それとも、同じ?
 いや、待て。どうせ残りの寺院はわずかなんだ。出会う確率は低いはずだ。それなのにこの胸に広がる不安は何だ。
 もし、あいつに出会ってしまったら? そう思うと怖くて怖くて堪らない。私はどんな顔をして彼に向き合えば良いのだ?
 私はまだ掴めていない。三十近くの道筋を辿っても何も掴めていない。私に教えを授けてくれる観音様は、いつになったら現れるというのだ?
 ああ、なんで、なんで私の前に現れたんだ。せめて旅をしている間だけなら君を忘れられると思ったのに、憎まずにいられると思ったのに! 一人で旅している間なら、私は誰でもなく、誰と比べる事もなく心穏やかでいられたのに! 何故ここまで来て尚、思い知らされなければならないのだ。
 いやだ、いやだ、いやだ。どうして。
 どうか私を、僕を追い回さないでくれ。苦しめないでくれ。
 ――彼女は逃れられなかった。
 かつて山寺で出会った恐ろしい青年の台詞がリフレインする。
 ――過去が追いかけてきたんです。
 ああ、今まさに残してきた過去が追いかけてきている。
 分かっているさ、昔からそうだった。昔も今も君に悪意なんてない。たぶん三十三の巡礼を選んでしまった事は純粋な君の好みなのだろう。私達は好みもよく似ていたから。ちょうど、ユウギリさんの友人がトレーナーになったように。きっと彼女にも悪意は無かったに違いない。
 だが、悪意が無いからこそ恐ろしい。だからこそ私は恐れ、そして彼女も恐れたのだ。
 君に会ったら、君を目の前にしたら、きっと私は、きっと僕は――負の感情を仕舞い込んでいた理性の箱をひっくり返して、すべてを晒してしまうだろう。すべての醜態を君の目の前に広げてしまうだろう。それだけは出来ない。それだけは。
 いやだ、いやだ、いやだ。
 君には知られたくないんだ。君だけには知られたくないんだ。
 ずっと君への嫉妬をひた隠しにしてきた私を、醜い僕を。
 それでもきっと、君はしょうがないと笑うのだろう。それでも私を受け入れてくれるに違いない。
 そして私はまた思い知るのだ!
 君の腕の中で、君が好きだと、同時にそんな優しい君が誰より憎いと。
 より深く認識し、確認するのだ。
 それだけはいやだ。それだけは。
 もう打ちのめされるのは、いやだ。

 それからもいくつかの寺院を回った。だって他に行く所が無かったから。予定していたルートを順に、順に回った。けれど、出会う観音像も、行きかう人々もポケモン達も、言葉を交わした人達でさえ、すべてが空虚に見える。偽者に見える。
 それは私にとって何の意味を為すでもなく、無感動に通り過ぎて行くだけだった。観音様は見つからない。私の観音様はまだ、見つからない。みんな偽者に見える。
 もうどうしていいか、分からない。
 ただ、ここから繋がるどこかの道でばったりとあいつに会ってしまうのではないかと、恐怖におののきながら道を進む。頭からあいつが離れない。
 ああ、いっそ、いっそ、すべてを忘れる事が出来たなら――私は心の底で声にならない声で叫び続けていた。

 助けてくれ。
 誰か私を、誰か、僕を。

 たすけ、て、くれ。

 旅に出てどれくらいの日数が経ったのだろう。赤い夕日がきれいな夕刻、いつの間にか私は一つの寺院の前に立っていた。無感動に石段を登り、観音像の安置される場所に向かった。別に見たかった訳じゃない。他にやる事が無かったからだ。
 途中に同じように金剛杖を持った人々とすれ違ったけど、どうでもよかった。言葉を交わすでもなく、ただ無関心に通り過ぎる。きっとあの中にも観音様はいない。
「今日はもう少しで閉まりますから、参拝はお早めにお願いしますね」
 寺院の管理職のような人が言っていた気がするけど、耳に入らなかった。生気の抜けた顔をして、私は本堂へと向かう。どうでもいい。何もかもどうでもいい。ただ、やる事が無かったから。
 人がどんどん捌けていく、私の進行方向とは反対に。まるで波が引くように人の気配が無くなっていく。その流れに逆らうように、私は一人、厳かな雰囲気に包まれた本堂へと入っていった。
 そこにあったのは目を閉じ、ただ沈黙する観音像。私はそれを無関心に眺める。そこには何の感情も、感慨もありはしなかった。
 だが、しばらく眺めているうちに気が付いた。この造りに、この顔には見覚えがある。
 ああ、思い出した。この観音像、ガイドブックの一番最後のカラー写真じゃないか……。
 そうか、ここ、三十三番目なんだ。最後の霊場。三十三番目。
「くく、はは、あははは」
 そう認識した途端、笑いがこみ上げてきた。乾いた笑いが。
「ハハハ、なんてザマだ。逃げ出して、迷走してなんとなく着いた先が三十三番目なんて! なんて結末だ! なんて喜劇だ!」
 ずうっと踊っていたんだ。躍らされていたんだ。旅先でたくさんの人に出会う? その中に観音様が居て、教えを授けてくれる? いいや、僕が知ったのはよく出来た僕の親友と嫉妬に歪んだ惨めな自分だけだ。
「変化身なんて居なかった。僕には見つけられなかった。いいや、最初から居やしなかったんだ!」
 憎んだ。長い旅を経験しても何も変わっていない自分を。憎んだ。浅はかな自身の信仰を。
 もう、何も考えたくない。もう疲れたよ。歩き疲れた。
 観音像は何も言わない。ただ、黙って目を閉じているだけ。僕に教えを授けてはくれない。
 赤い夕日が本堂に差し込んでいる。真っ赤だった。血のように真っ赤だ。ああ、夜になるなあと私は思った。泊まる場所を考えないといけないけれど、何もかもがどうでもよく思えていた。
 どうでもいい。もう、どうでもいい。何もかもどうでもいい。
 刹那、背後から音が聞こえてきたのはそんな時だった。
 カツン、カツン、とそれは聞こえてきた。近づいてくる。
 どこかで聞いた、聞き覚えのある靴の音だった。
 私は音のするほうを振り返る。
 カツン、と音がして立ち止まった。
「あ、ああ、……あああ…………!」
 私は音の主を認識して感嘆の声を上げた。石の床に刻み付けられた黒い影が映った。靴から伸びる黒い影が。影が蠢く。無数の眼が開いて、嗤った。
「ふふ、やっぱり貴方は変わった人だ。また僕の目の前に飛び込んでくるなんて」
 淡い色の前髪から青と黄に輝く瞳が覗いた。
「こんにちは。お久しぶりですね」
 私の目の前で立ち止まった青年がくすくすと笑う。
「またお会い出来て嬉しいですよ」
 青年が言った。影を見る。波打つように蠢いている。
 私は問うた。久しぶりに出会ったその青年に。
「ねえ、三十三番目で出会った時、約束はどうなるのかな? そういえば巡礼の終わりの定義、はっきりとは決めていなかったね」
 そう質問すると、青年はにっこりと笑って、
「実は今日、とてもお腹が空いているのです」
 と、言った。
 ああ、今私のして欲しい事を、望でいる事を、彼はちゃんと心得ている。
「前にも言ったでしょう。本来僕はゆっくりと機を見て、一番いい時に喰らうのが好きなのですよ」
 それはどんな説法より、誰のどんな言葉より、私には救いに聞こえたのだった。
 私はその時、心から安堵している自分に気が付いたのだ。
 ――その人に合わせ、自由自在に姿を変え、現れる。
 ああ、そうか。今分かった。
 そうか、そうだったんだ。
 この青年こそが私の探していた……三十三番目でやっと気付けたんだ。
 やっと見つけた。やっと私は出会えたんだ。
「いいですよ貴方。すごくいい。初めて出会った時よりずっといい。あの時、貴方を喰らわずにおいてよかった。今の貴方の感情ならきっととろけるように甘いに違いない」
 青年が妖艶な笑みを浮かべる。その表情は今まで出会った誰よりも慈愛に満ちていて。
 青年はそっと舌先で自らの唇に触れた。影が躍った。時が来た。影がぐにゃりと勢いをつけ、しなったかと思うと、次の瞬間には私の身体を絡み取っていた。
 影が弦(つる)のように僕の指の先まで巻きついて、絡み付いて、お前は喰われるのだと告げていた。もう逃れられない。元から逃げる気もない。黒い苗床から新芽が一斉に頭を出す。芽吹いた者達が三色の瞳を開いて目を細めた。私の内側に向かって闇色の触手が伸ばされる。
 カゲボウズが結ぶ縁、闇色の繋がり。
 伸ばされた闇の根は、まるで初めから私の身体を走る血管だったかのように、張り巡らされた毛細血管だったかのように、すんなりと溶け込んで私の一部となった。
 ドクン、とそれは脈動する。私の中身が暖かい闇に少しずつ、少しずつ吸い上げられてゆく。青年が見守るように、満足げに微笑んでいる。
「驚いたな。こんなにも素直に僕の影を受け入れてしまうなんて」
 身体中の力が抜けて、抵抗できない。けれどこの感覚は悪くなかった。むしろ、私は私の身体中を蝕んでいた毒素がすべて抜かれていくようにさえ感じたのだった。その感覚はとても、とても、心地よくて。喰われるのってもっと苦しいと思っていたのに。
「それはね、貴方がそういう風に喰われたいと望んだからですよ」
 青年は云った。
 いいですよ。優しく優しく、じっくりと味わいながら貴方を喰らい尽くしてあげましょう、と。
 なんだか瞼が重くなってきた……眠い。急速な眠気を覚えながら、私は思う。きっと眠りについたのなら、すべてを忘れてしまうのだろう、と。
 それは終わり。長い長い巡礼の旅の終わり。からん、と金剛杖が右手から滑り落ちて、床に転がった。影の抱擁に浸りながら、私は囁くように言葉を口にする。
「ねえ、最後に聞いてもいいかな」
 なんです? と、青年が返した。
「私に再会するまでの間、君はずっとホウエンを巡っていたんだよね」
 ええ、そうですよ。と、青年は答える。
 色々な人やポケモンに出会った。様々な負の感情を喰らいました。そう青年は答える。
 私は青年に問いかけた。
「それで、君の探しものは見つかったのかい?」
 するとどうだろう。饒舌な青年がうつむいて、この時ばかりは押し黙ったのだ。だが、しばしの沈黙の後に顔を上げると、私の問いに答えてくれた。
「いいえ。まだなんです」
 青年は悲しそうに、本当に悲しそうにそう言った。
 彼はまだ探しているらしい。彼の観音様を。彼だけの観音様を。
「そうか、君の巡礼はまだ続くんだね……」
 私は最後にそう言うと、少し寂しそうに笑った青年の顔を、たぶん目覚めた時には忘れてしまっているだろうその顔を、
 そっと網膜に焼き付けた。





聖地巡礼「了」