「知ってるかい? 感情って甘い味がするんだよ」
身体が動かない。かといってまともに声を上げる事も出来ない。薄れていく意識の中で彼の言葉だけがはっきりと耳に響いていた。
ポケナビの上部がスライドして、画面が現れ、立ち上がる。手紙の形をしたアイコンを押すと、受信が始まった。
<新着メールはありません>
無機質に文字が告げて私は溜息をつく。これが私の日課だった。
こうやって毎日確認しているのだ。今日こそは、今日こそはって。
メールは今日も届いていなかった。
『旅に出る事にしたんだ』
と、カナタは言った。
『ジムリーダーに勧められたんだよ』
『でもね、前から決めていたんだ。リーダーに勝つ事が出来たら旅に出るって。ポケモンリーグは僕の幼い頃からの夢だった。だから――』
カナタが旅立ってもう何日になるだろう。メールが途絶えてもう何日になっただろう。
私が彼と出会ったのはそんな頃だった。
「キャンキャンキャン! ギャウン!」
ポケモンセンターでポチエナのビンゴが激しく吠え立てたものだから、そのトレーナーである私は慌ててしまった。
何事かとビンゴのもとに駆けつけると、男の人が一人、少し困った顔をして吠え立てるビンゴを見下ろしていた。
ビンゴを急いでモンスターボールに戻し、私が謝ると彼は恥ずかしそうに笑って、よくあるんだよ。だから気にしないで欲しいと言った。
綺麗な人だった。淡い色の髪と瞳、整った顔立ち。そしてどこか憂いを含んだ表情……たぶん、私は一目見て彼を気に入ってしまったんだと思う。
お詫びにお茶でも、と思い切って私は彼を誘った。
ツキミヤコウスケ、と彼は名乗った。大学生だと語る彼は今、研究の為にホウエン中を回る旅を始めたばかりなのだという。
優しい笑顔、柔らかい物腰、何よりとても聞き上手な人だった。
だから、知らず知らずのうちに私はいろんな事を彼に喋っていた。
自分がこの街、カナズミシティでスクールに通いながらトレーナーをしている事。でもあまり強くない事。好きなテレビドラマやカナズミでお勧めのお店の事、友達の事。
そして、ポケモンリーグ目指して旅立ったカナタの事を。
意外にも、彼が興味を示したのはカナタの事のようだった。だから私も調子に乗ってずいぶん色々喋ってしまった。いや、正確には誰かに聞いてもらいたかったのだと思う。ここのところ彼とうまくいっていなかったから……。
カナタは優秀なポケモントレーナーで、その上かっこよくて、彼の持ってるポケモンはどの子もすごく強かった。彼はスクールのみんなの、特に女の子達の憧れの的だった。私達はいつも影からこっそり彼の事を見てた。でも、正直レベル高過ぎっていうか、手の届かない人だと思ってた。
だからまさか、彼のほうから声をかけてくれるなんて思わなかった。
だから私、すごく嬉しくて。
たぶん表情に出たのだと思う。私の話すのを見て「そうなんだ。それならみんな羨ましがったんだろうね」と、ツキミヤ君は言った。
「ええ」と、私は答える。
一体どんな手を使ったのってみんなに聞かれたわ。別に何したって訳でもないんだけど。でも、とても誇らしかった。
それからは毎日が楽しかったわ。一緒にスクールに通って、休日はデートして。
「でも」
カナタがカナズミのジムリーダーに勝ってから状況が変わったの。
その人はスクールの講師も兼任してるんだけど、カナタに言ったわ。
「あなたはもっと上を目指せる人だって」
旅に出て、各地のジムバッジを集めて、ポケモンリーグを目指したらどうかって勧められたの。彼も乗り気で、とうとうカナズミから旅立つ事になった。
「それで?」
私はずっと彼といたかったけど、彼言ったわ。
半年経ったら一度は帰ってくるから心配しないで欲しいって。連絡も定期的に入れるからって。彼って思い立ったら一直線というか。
「確かに男の子ってそういうところがあるよね。僕を含めてだけど」
と、ツキミヤ君は苦笑いした。
「なのにね」と私は続ける。
カナタったら全然連絡よこさないの。それに約束の半年を過ぎても一向に帰ってこなくて。だから私、心配で心配で。
「ねぇ、どう思う?」と、私は聞いた。
「どうって?」とツキミヤ君が返す。
「もしかしたらカナタ、旅先で好きな女の子でも出来ちゃったんじゃないかな」
「そんな事、」
「そうじゃなくても、私の事なんて忘れちゃったのかも……。たまに実家に一方的に葉書は寄越しているらしいから元気にはしているみたいなんだけど」
「そっか、心配なんだね。彼の事」
ツキミヤ君は私の話に真摯に耳を傾けてくれた。
嬉しかった。だって友達に相談したところでその話は聞き飽きたなんて言ってろくに聞いてくれないんだもの。
「大好きなんだね、彼の事が」
「ええ、大好きよ」
私は顔を赤らめて答えた。
でも、どうしてずっと連絡をくれないの? やっぱり私の事なんてどうでもよくなってしまったのだろうか。他に好きな子が出来たんだろうか。
私がまたそんな考えのループに陥っていると唐突に、ツキミヤ君が言った。
「だったら君も旅に出ればいい。彼を探しに」
「旅に?」
突然の彼の提案に私は驚く。
「そうだよ。君はポケモンだって持っているし、その気になれば各地を巡って旅する事が出来るじゃないか。彼は強いトレーナーなんだろう? 各地を渡り歩いていればきっと彼の居場所だって」
旅に出る。
そんな事考えもしなかった。
「けど……」
「好きなんでしょ。彼の事」
「……そうだけど。でも……、見つからなかったら?」
「それでも信じて探すよ。僕もね、人を探しているんだ」
「あなたも?」
「そう、表向きは研究が目的だけれど、どこで道が交わるか分からないからね」
「もし、もし見つかったとして拒絶されたらどうするの」
「そんな事しないよ」
彼は事もなげに言った。
どうして? どうしてそんなに信じられるの?
「なんか……ツキミヤ君って自信家なのね」
「そんな事無いよ。そうだなぁ、そうなったらそうなったでどうにか方法を考えるよ。というか僕の場合、何かしていないと落ち着かないだけ。それに」
「それに?」
「何も出来ずに時間だけが過ぎていくのはもっと怖いと思わないかい」
やっぱりすごい、と私は思った。
彼が誰を探しているのか、何を為そうとしているのか私の知るところではなかったけれど、私とはなんて違いだろう。
「でも、旅に出るなんて私……バトルだって強くない。強いポケモンだって持ってない。いるのはビンゴだけだし。体力も無いし」
「そんなの、旅先で増やしていけばいいんだよ」と、彼は笑った。
「捕獲も苦手なの。いつも逃げられてばかり」と私は答える。
「だからって待っているだけはつらくないの? もうずっと連絡がとれないんでしょ」
「待つのはつらいですよ。でも私にはこれくらいしか出来ないから」
私は諦め気味に言った。
「彼が好き、彼が心配、もうずっと帰ってこない。かといって旅に出る事も出来ない。なるほどね…………」
彼は頬杖をつくと何か納得したように、呟くように言った。
そして、
「そうだよね。待つのはつらいよね、苦しいよね」
今度は私の目を見て、はっきりとした声で言った。
「ええ、苦しいです」
「分かるよ」
「どうして?」
「言ったでしょ。人を探しているって」
遠くに思いを馳せるようにツキミヤ君は言葉を紡ぐ。私達の間をしばしの沈黙が支配した。
彼はティーカップに手を伸ばすと、紅茶を啜る。そしてカップを口から離すと、
「ねぇ、」と、切り出した。
カチャン、とカップがソーサーに当たる音が響く。
「…………楽になりたい?」
カップを元の場所に収め、彼は聞いた。
「え?」
「待つのは苦しいんでしょ? 抜け出せないよね。この状況から」
と、彼は続けた。少し憂鬱そうな顔つきだった。
さっきまでの彼が日の光に満ちた柔らかい感じだとすれば、今は冷く暗い日陰のような。でも、彼の言葉のほうに気が行って、私はそんな事すぐに気にならなくなってしまった。
だってツキミヤ君はこう続けたのだ。
「でもね、無い訳じゃないんだ、抜け出す方法が。旅に出なくてもいいし、何の準備も要らないよ。すぐに終わる」
「なに……それ? どうやって?」
縋るような思いで私は尋ねる。
「君さえよければ……」
でも、そこまで言うと「ただし、」と、付け加えた。
「やっぱり旅に出る事が最良の選択だと僕は思う。だからこの方法をとる前にもう一度よく考えてみるんだよ。いいね?」
そう言って連絡先を教えてくれた。
「教授からたくさん課題を出されてしまってね、しばらくはカナズミシティにいるから。その気になったらメールするといい」
その夜。私はまたポケナビの画面を覗いた。
カナタからの返事は今日も無かった。
ベッドに顔を埋めて今日も答えの出ない問いを続ける。
どこにいるの? 今何しているの? もう私の事なんて忘れちゃったのかな。
いくら考えても答えなんか出なかった。
カナタはいない。帰ってこない。連絡も途絶えたままで。気持ちを聞き出す事も出来ない。
『旅に出る事にしたんだ』
と、カナタは言った。
『ジムリーダーに勧められたんだよ』
『でもね、前から決めていたんだ。リーダーに勝つ事が出来たら旅に出るって。ポケモンリーグは僕の幼い頃からの夢だった。だから――』
だから――――
『だから、君ともお別れだ』
え……?
『要らないんだよ。だって君、ポケモンバトル弱いだろ? 一緒に来ても足手まといだしさ』
カナタどうして?
じゃあ付き合って欲しい言ったのは何だったの?
『決まってるだろ。ジムリーダーに勝つまでの暇つぶし』
ひどい! 私ずっとカナタの事が好きだったのに。
『それじゃあ僕はもう行くから』
待って! 行かないでカナタ!
私とずっとここにいてよ。帰ってきて、帰ってきてよ!
あまりの息苦しさに目を覚ました。
呼吸が乱れて、パジャマが汗でぐっしょりと濡れている。
窓の外を見るともう朝だった。もう何度この悪夢を見て目を覚ましただろうか。
違うよ。カナタはそんな事言っていない。
だって約束したもの。必ず帰ってくるって。連絡だって入れるって。
でも、実際どうなの?
事実、カナタは帰ってこない。連絡もよこさない――
もう嫌だ。
いつまでこんな事続ければいいの?
苦しい。苦しいよ。
もう、限界よ。
――でもね、無い訳じゃないんだ、抜け出す方法が。
ふとツキミヤ君の声が頭の中に響いた。それが甘く甘く脳髄に染み込んで。
私はベッドから飛び起きて、ごそごそとポーチからポケナビを探り出していた。縋るような気持ちだった。
――その気になったらメールするといい。
気が付くともうメールを送信していた。
彼なら、私の話を聞いてくれた彼なら、きっと何とかしてくれる。彼なら、ツキミヤ君ならきっと私を助けてくれる……。
ポケナビが新着メールを受信したのは午後になってからの事。
メールには待ち合わせの場所と時刻が記載されていた。
日が暮れかけていた。空が赤く染まっている。夕闇を宿した雲は青。もうすぐ昼の時間が終わって夜が始まる。太陽は西の空の果てにその身体を沈めかけていた。
彼に呼び出されたのはカナズミシティのはずれで、あまり人気の無い所だった。何かの倉庫が並んでいた。いくつものコンテナが積まれている。コンテナにはデボンのロゴ。モンスターボールやポケナビをはじめとしたトレーナー向け商品を扱うホウエン地方有数の企業だ。本社がここ、カナズミにある。
「やあ、来たんだね」
私より一足早くツキミヤ君は待っていた。
「僕に連絡してきたって事は、やっぱりその気は無いって事?」
「え?」
「旅に出るって事さ」
私が分からなさそうな顔をしていたのだろう。確認するように言った。
私の前に彼の影が長く伸びている。
「……ええ、ここには家族も友人もいるし…………それに私、そんなに強くないもの」
「そう」
ツキミヤ君は少し落胆したように短く返事をした。
「それに、あなたが教えてくれるんでしょう? 助けてくれるんでしょう?」
「ああ……そうだね」
どこか彼の表情は、影が濃くなっているように見えた。夕日のせいだろうか。
彼は私に背を向けて赤と青の交わった空を見上げる。
「少し歩こうか」
と、言った。
夕日の差す海沿いの道を私達は歩いていく。
西日に引き伸ばされた私達の影は長く長く伸びていた。
「綺麗な夕焼けだね。けれどじきに暗くなる」
ツキミヤ君が言った。
「ねぇ、こういう時間の事を何て言うか知ってる?」
「……いいえ」
私は答える。
「遭魔ヶ時(おう ま が どき)って言うんだ。夕方の、黄昏の頃の事をそう呼ぶんだよ。日が沈んで、周囲が闇に浸かりはじめる時間をね。この時間帯は奇妙な感覚を覚えたり幻覚を見たりしやすいと言われているんだ。事故が多いのもこの時間」
ツキミヤ君は続けた。
どうしてだろう。なんだか雰囲気がさっきまでの彼とは違っているような気がした。
あれは確か、方法が無い訳じゃないと語ったあの時のような。けれど、ツキミヤ君の声はあの時よりももっと深い暗闇から響いてくるようで。いつのまにか心臓が高鳴っていた。ドクン、ドクン、と私に何かを報せるように。
「着いたよ」
と、ツキミヤ君が言った。
連れて行かれた先は神社だった。海沿いの道の脇にひっそりとした小さな林があって、そこに口を開けるみたいに鳥居が立っていた。知らなかった。こんな所に神社なんてあったんだ。
ツキミヤ君は神社に入る。お願い事でもするのかと思ったら、鈴を鳴らすメインの場所は無視して絵馬の奉納堂に入っていった。奉納堂といっても、四つの柱に屋根がついただけのものだったけれど。
「ツキミヤ君、ここで何をするの?」
私は問うた。まさかカナタが帰ってくるように絵馬奉納をしようとでも言うのだろうか。
「いや、特に何も」
彼は答える。
「何も?」
訳が分からなくなって、私は聞き返した。
「正確には、君自身は何もしない。する必要も無い」
彼は目の前にあった一枚の絵馬をめくるとそう言った。
「見てこれ。<同僚が出世できませんように>だって。ご丁寧に同僚の本名まで書いちゃって。デボンの人だったりするのかな」
くすくすと彼は笑った。
「僕はよく神社に行くんだけどね、こういう人の不幸を願う絵馬が必ず一定割合で混ざってるんだよ。人間って罪だよね。こんな事するくらいだったら自分の幸福を願えばいいのにさ」
さも楽しそうに、歌うように彼は続けた。
「こういうのトレーナーでも多いんだ。誰々が負けますように、とかさ。本当に多いんだ」
「そうなんだ……」
私はなんとなく返事をしたけれど正直戸惑っていた。結局、彼は何がしたいのだろう。ここに私を連れてきて何をどうするつもりなのだろう。
「でもね、こうして絵馬にでも何でも吐き出せる人はまだいいんじゃないかなって、思うんだよ」
赤い西日の差し込む奉納堂。ツキミヤ君の影は一層長く伸ばされて、私の身体に覆いかぶさってくる。
「こういう鬱屈した気持ちを溜め込む人はね、独特の匂いがするんだ」
どうしてだろう。ツキミヤ君の視線が刺さった。
「遭魔ヶ時に話を戻そうか」
ツキミヤ君が言った。
」「あらぬものを見る、事故が起きる……一番「魔」に遭遇しやすい時刻、それが遭魔ヶ時なんだ。まさに今の時間みたいな、ね」
「…………何が、言いたいの?」
私は身構えるように尋ねる。
なんだか怖いと思った。ざわざわとした。私の中の何かがここに居たらいけないと言っている気がした。それなのにどうしてだろう。私はツキミヤ君から目を反らす事が出来なかった。まるで魅入られてしまったみたいに。
「ねえ、もう一度だけ聞くよ。旅に出る気は無いんだね?」
ツキミヤ君が聞いた。それはまるで最後通牒みたいに私の耳に響いたのだった。
私はそれでしばし黙ってしまった。彼が期待しているであろう答えが、イエスのほうだと感じていたから。
けれどやっぱり、だめだった。私の口から出る結論は決まってた。
「……無いよ。だって私弱いもの、旅のトレーナーなんて無理だもの」
だって、自信無いもの。
「そっか、残念だよ」
私が答えた瞬間、ツキミヤ君が言った。まるで突き放すみたいに言った。
その言葉の放たれた瞬間、ざわりと私の足元で何かが動いたのが分かった。
それは夕日で長く伸びた彼の影だった。
「!?」
私は凍りついた。背筋にぞわりと何かが走って、そして動けなくなった。
その影からたくさんの眼が私を覗き込んでいたからだった。
「な、に……これ」
影から覗いた眼、三色に光るその眼が怪しい輝きを放っている。
影が蠢く。覗いていた眼のうちの一対が影の中から少しずつ顔を出す。ふわりと私の目の前に浮かび上がった。
これは。
てるてるぼうずのようなフォルムに角が生えている。
てるてるぼうずは白いけれど、この色は深い青、夜の色。
このポケモンは――
「カゲボウズ。図鑑でくらいなら見た事があるだろう?」
くすくすと笑いながらツキミヤ君が言った。再び私を射抜いたその瞳は影の中のそれと同じ色を宿していた。
私は驚愕し、その場から逃れようとした。それなのに、足がちっとも動かなかった。逃げなくちゃ。それなのに足が動かなかった。
「遅いよ」と、声がした。「君はもう僕の影に囚われた。足元を見てごらん」
ひっと短く声を上げた。まるで地面から手が伸びたみたいに影が足首をがっちりと掴んでいた。私の足は彼の影を踏んでいたのだ。それどころか体の半分くらいは西日で伸びた影が掛かっていて。それに気付いた瞬間にぎちりと何かが巻きついて両の腕を後ろに締め上げた。持っていたポーチが地面に落ちる。身体が後ろに引っ張られて、硬いものが背中に当たった。奉納堂の柱だった。
「あ、あ…………あ……」
足首を掴んだ影がずるりずるりと登ってくる。柱ごと巻きついて縛りつけてくる。
助けを呼ぼうにもうまく声が出なかった。
嫌だ、やめて! 誰か助けて……!
その時だった。地面に落ちたポーチから赤い光が飛び出した。赤い光は獣の形を形成する。出てきたのは小さな灰色のポケモン、ポチエナのビンゴだった。ポーチの中のボールから、自力で出てきたらしかった。
「ギャウ!」ビンゴがツキミヤ君に飛びかかった。
けれど次の瞬間、何匹ものカゲボウズが影から飛び出し群がって、ビンゴの動きを封じてしまった。地に伏せられたビンゴはカゲボウズに揉まれながら足をバタバタと動かし抵抗する。だが、
「カゲボウズ、鬼火」
冷たい声が響き渡った。青い炎が立ってビンゴとカゲボウズの塊がボウッと燃え上がる。
「ギャワウ!」悲痛な叫び声が上がった。
役目を終えたカゲボウズ達が離れて、力尽きたビンゴの姿が顕わになる。
「心配しなくていいよ。気を失っているだけだから」
ツキミヤ君が顔色一つ変えずに言った。擦り寄るカゲボウズの頭を撫でる。そうして
「この子も可哀想に。こんなに君の事を思っているのに、君からはちっとも信頼されていない」
と、続けたのだった。
「ポケモンセンターでの事にしたって、せっかく教えてくれてたのにね」
ちょっと待って。どういう意味? 私はビンゴとツキミヤ君を交互に見る。
「分からない? この子は気付いていたんだよ、僕の正体に。僕が影の中に何を飼っているかという事に。カゲボウズ達が君を欲していた事にもね。君が決心さえしていれば全身全霊を懸けてでも君の旅を助けてくれただろうに」
そうか。そうだったの。ポケモンセンターでビンゴが吠えかかっていたのは……。
「ポケモンセンターで君を見かけた時から、カゲボウズ達は君を食べたがっていたよ。君の内から湧き上がる感情を。この子達は負の感情が大好きなんだ。特に恨みの感情がね。まさか君のほうから声をかけてくるとは思わなかったけれど」
恨みの……感情。
「覚えがあるだろう?」
彼のその言葉に私はぎくり、とした。
「本当は恨んでいたんだろう? 好きだけれど憎んでいたんだろう? いつまでも帰ってこない、連絡もくれない君の彼氏をさ」
「……違う」
私は弱々しく言った。けれど、否定の言葉と裏腹に声が震えた。
「違う……違う」
私は言葉を繰り返す。それなのに、違うと言えば言うほどに、首を横に振れば振るほどに、塗り込めた塗装が剥がされていく気がした。だって影が登ってくるのだ。抗うたびに、否定の言葉を繰り返すたびに、じわりじわりと登ってくるのだ。
下半身は既に侵され、上半身の掌握も時間の問題だった。
「ほら、もう肩まで上がってきたよ」
ツキミヤ君が言った。黒く黒く染まった私の身体、そうやって染まった足や胴、胸のあちこちでぱちり、ぱちりと光る眼がいくつも開いた。
「いやあ!」
私は思わず悲鳴を上げた。その恐怖に呼応するみたいに影が成長する。首を伝って頬にまで根を張っていく。
「怖い?」さも楽しげな声が耳に届いた。
「でも君の恐怖もね、この子達にとっては心地のいいものなんだ」
くすくすとツキミヤ君が笑う。目の前の光景に目を細めている。
「見てごらん。すごく悦んでいるよ」
内で何かが蠢く感覚があった。侵された身体のあちこちがぼこり、ぼこりと盛り上がる。そこから顔を出したのはカゲボウズの頭だった。楕円形の、角を生やしたカゲボウズの頭。何匹ものカゲボウズが顔を覗かせて、彼と同じように目を細める。どんどん頭数が増えていく。カゲボウズが包んで、包み込んで、私はその中に埋ずもれていく。
「大丈夫、怖いって記憶も残らないように喰らい尽くしてあげるから」
言われた瞬間、ドクンと影が脈を打った。舐め上げられるような感覚が全身に走った。
「…………ッ!」
感覚が繰り返される。寄せては返す波のように、何度も何度も繰り返される。
侵食した無数の影が身体の中で蠢いて、その感覚に何度も身をよじった。繰り返される。足先から全身をスキャンするように登っていくそれは理性を麻痺させて、認めたくなかった感情を浮き上がらせていく。様々な記憶が頭の中でフラッシュバックを始めていた。
まるで映画のフィルムを早送りするみたいに見覚えのある映像が高速で再生されていく。思い出したくない、忘れていたい記憶。それを目の前にまざまざと見せつけられた。
カナタと出会って、カナタと付き合う事になって、毎日が楽しくて、毎日が幸せで、それなのに変わってしまって、カナタは旅立ってしまって、私はカナタの帰りを待ち続けて、でも連絡も一向に来なくて、カナタも全然帰ってこなくて。
けれど悲鳴を上げる心とは反対に、影に侵された身体が舞い上がった。まるですべてを預けていいのだと言うように、入り込んだ影が脈動を繰り返すのだ。ドクンと脈を打つそのたびに痺れるような感覚が全身を駆け巡る。そして、
「そうよ……」と、私は呟いた。
屈してしまった。認めてしまった。本当はずっと憎んでいたの、と。
そう、私はカナタを恨んでた。
もうずっと帰ってこない。メールを送っても無しの礫で。それなのにカナタを探しに行く勇気も無くて。行ったところで見つかるかどうかも分からない。見つかったところで拒絶されるかもしれない。でもこれは私が悪いんじゃない。全部カナタのせいだって。
だってそうじゃない、カナタが悪いのよ。
カナタが返事をしないから悪いんだ。カナタが帰ってこないから。私がこんなに苦しんでいるのだって、こんな目に遭っているのだってみんなみんなカナタのせいよ。
びくり、びくりと身体が痙攣を繰り返した。ひとたび恨みの感情を認めてしまうと、繰り返される感覚がもっと強くなったように感じられた。
「知っているかい? 感情って甘い味がするんだよ」
ツキミヤ君の声が響く。
再現されていく記憶、再現されていく私の感情。
恨むようになったのだ。私はカナタを憎むようになった。
「特に負の感情が甘いんだ。恨みともなれば格別にね」
全身が強張って、短く息を吐き出すたびに、侵されていく。
全部カナタのせい。私が苦しんでいるのだって、こんな目に遭っているのだって全部カナタのせい。
「僕とこの子達は繋がってるから。だから、分かるよ。君の感情がどんな味なのかも」
繰り返し再生されるあの時の映像。見せつけられる。何度も。何度も。
カナタ、大好きだよ。でも、同じくらいにあなたを憎んでる。それ以上に恨んでる。
そう、カナタを恨んでる……恨んで、恨んで、恨んでやる……恨んでやる。恨んでやる!
身体の内側で無数の影が蠢いた。内側から中身を吸われていく感覚が支配した。
「…………甘いよ。すごく甘い」
冷たい瞳で私を見下ろしていた彼は恍惚の表情を浮かべ、ぺろりと上唇を舐めた。びくんと私の身体が仰け反った。
そうして暫くその余韻を楽しんだ後に、影の主は自嘲気味に笑ったのだった。
「この子達の最初の獲物はね、僕の母だったんだ。あの人はずっと父を恨んでた。いつも愚痴ばかりこぼしてて、精神的にも不安定でね。でもこうしてあげた後はずいぶん元気になったよ。父の事はすっかり忘れちゃったけどね?」
影が蠢く。血を啜り、肉を削るように少しずつ、少しずつ喰らっていく。熱だ、と私は思った。熱が私の内から急速に奪われていくのだ。
「じきに君もそうなるよ」
熱を失った肉、その体積が増えてゆく。ああ、これが。これが喰われるという事なのか。寒い。指先まで冷たくなって、だんだん意識が細くなっていく。
「もう苦しまなくていいんだよ。待っているだけなんてつらいだろ? すぐに楽にしてあげるから」
身体が動かない。かといってまともに声を上げる事も出来ない。薄れていく意識の中で彼の言葉だけがはっきりと耳に響いていた。
カナタを、恨んでた。
もうずっと帰ってこない。メールを送っても無しの礫で。
それなのに彼を探しに行く勇気も無くて。行ったところで見つかるかどうかも分からない。見つかったところで拒絶されるかもしれない。
――だったら、君も旅に出ればいい。
私はその言葉を受け止める事が出来なかった。
たぶん……本当は、失いたくなかったんだと思う。今の生活を。ここには家族も友達もいて、都合がよくて、居心地がよくて。
その上カナタまで欲しがって、彼をここに縛り付けておきたくて。
邪な願いだった。受け入れられるはずのない願い。
だって、全部嘘だったんだもの。自分にそう思い込ませようとしただけだったの。
半年経ったら帰ってくる。定期的に連絡を入れる。全部嘘だもの。
本当は……本当は、
『前から決めていたんだ。リーダーに勝つ事が出来たら旅に出るって。ポケモンリーグは僕の幼い頃からの夢だった。でも、そうしたら君には寂しい思いをさせてしまうと思うんだ。だから――』
『だから――――君にも一緒に来て欲しい』
そうなんだ。カナタは一緒に行こうって言ってくれたの。
それなのに私は、居心地のいい場所もカナタの事も両方手に入れたくて。それが平行して決して交わらない事にも目をつぶって。
だって自信が無かった。私、バトルも全然強くなくて、いつかカナタがそんな自分を見捨ててしまうんじゃないかって。だから、行かないで欲しいって言った。カナズミに残ってずっと自分といて欲しいって。そうしたら彼言ったわ。
『ポケモンリーグに挑戦するのは僕の幼い頃からの夢だった。たとえ君の頼みでも諦めるつもりはない』って。
半年経ったら帰ってくる。定期的に連絡を入れる。全部、嘘。全部自分についた嘘。
だって、あの時に私達は終わったんだもの。
『それじゃあ僕はもう行くから』
そう言ってカナタはカナズミからも、私からも旅立ったの。
メールアドレスなんかとっくに変わってる。届くはずのないメール。来ない返事。
それでも私は待ち続けた。嘘を吐いて、決して報われない待ち人を演じ続けた。
「もう忘れていいんだ。忘れていいんだよ」
耳元で甘い声が響いた。抗えなかった。
「そうだよ。溜め込んで、吐き出す事も出来ない。何も出来ずにくすぶらせているのなら、」
……ああ、そうか、結局私は自分の事しか考えていなくって。臆病で。追いかけていく勇気も無くて。それなのに、思い通りにいかないのを全部カナタのせいにしてたんだ……。
「それは忘れているのと同じだよね?」
…………。
そこで私の思考は真っ白になって、途切れた。
「キャンキャンキャン! ギャウン!」
ポケモンセンターでポチエナのビンゴが激しく吠え立てたものだから、そのトレーナーである私は慌ててしまった。
何事かとビンゴのもとに駆けつけると、男の人が一人、少し困った顔をして吠え立てるビンゴを見下ろしていた。
「ご、ごめんなさい!」
ビンゴを急いでモンスターボールに戻し、私は彼に謝った。すると彼は、
「気にしないで。そのポチエナはね、君の事が大好きなんだよ。だから君に悪い虫がつかないように危険を知らせてるんだ」
なんて言ったものだから私は拍子抜けしてしまった。
「だから叱らないであげて。ね?」
「は、はぁ」
「ああ、それと……この前は火傷させてごめんって伝えておいてくれる?」
「え?」
「それじゃあ僕はもう行くから」
ピクリと何かが反応した。その言葉に聞き覚えがある気がした。
「行く? どうして?」
どうしてだろう。反射的に聞いてしまった。
「人をね、探しているんだ」
人を…………。
「あ、あの!」
思わず私は彼を引き留めた。何でかは分からないけれど。
「何?」
「そ、その……見つかるといい……ですね」
「ああ、ありがとう。君もどうか元気で。ビンゴを大切にね」
彼はそう言ってにっこりと笑うと、去っていった。センターの自動扉が開いて、閉まって。それでもう二度と戻って来なかった。
あれ? 私は彼の姿が見えなくなって気が付いた。
どうして彼は私のポケモンの名前なんて知っていたのだろう。
それに……
それにどうして私は泣いているの?
なんだか胸にぽっかり穴が空いたみたいで、でもその原因が分からない。
――それじゃあ僕はもう行くから。
その言葉が、私を見捨てたように聞こえて。私は訳も分からないまま涙を流し続けていた。
何か大切な事を忘れている気がするのに、
今はそれが何だったのか、
もう思い出せない。
鬼火「了」