あなたのこえをきかせて。
あのちいさなこもりうたをきかせて。
一
いつも考えていることがある。
どうして人は僕等を捕まえるのだろうと。
僕は人を憎んだ。僕のお母さんを奪った人を絶対許せない、許しちゃいけないと心に刻み込んだ。
僕が生まれてから数カ月経った頃、僕とお母さんは人の従えた生き物に攻撃を受けた。木の実を取ろうと森の奥から飛び出した、爽やかに降り注がれる太陽の光が眩しい日本晴れの朝のことである。お母さんは大きな身体でふかふかの毛をしていて、周囲が一目置く存在だった。怒って吠るだけで皆押し黙って、溜息を吐けば誰かが心配そうに声をかけて、笑えばその周りにあっという間に沢山の生き物が集まる。そして喧嘩になれば誰にも負けなかったし、狩りは誰よりも上手かった。強くて優しいそんなお母さんが大好きだった。けれどその日は違った。人と出逢った瞬間戦闘は始まった。赤い身体をした相手は炎を吐き、お母さんは僕を守ることで精一杯。ふかふかの毛は真っ黒に焦げ、僕は腹の下に潜り込んで攻撃を避けていた。けれど熱が蝕み呼吸が苦しくなる。苦しいけど声も出せず、ただ何もできずに震えていた。
そして急に影が無くなって太陽が照りつけた。同時に無くなった身体に触れていた温もり。お母さんが一瞬にして消えたのだ。僕は目を見開いて立ちあがった。人が笑いながら地面に転がった小さなボールを拾い、僕を思いっきり足で蹴った。生まれたてで非常に軽い僕の身体はいとも簡単に宙を飛び、痛みが身体中を襲った。ムーランドかラッキー、という言葉が遠のいていく意識の中で聞こえ、その後はもう覚えていない。疲れと混乱とが身体中を支配し、意識はひゅっと遠のいた。あっという間のことで訳が分からず涙の欠片も出てこなかった。
それは人がお母さんを捕まえたのだということだと知ったのは、僕が意識を取り戻した直後である。日光が強く照りつける真昼、僕は丸い影の下で目を覚ました。僕よりずっと大きく茸のような身体をした、知り合いのおじさんだった。よくかくれんぼをしてくれたけどバレバレで、いつも僕が圧勝していた。男なのに女みたいな口調の変なおじさんだった。
僕が森の外に倒れていたのを鳥が見つけたのよと説明は始まった。起きたばかりで頭がうまく回らない僕に、おじさんは順序良く優しく教えてくれた。何が起こってしまったのかを。終始嘆くように哀しい表情をしていたのを今でもよく覚えている。
お母さんにはもう会えないだろうとぼそりと呟いた彼の声を僕は聞き逃さなかった。耳を疑って頭の中でその言葉が木霊して、激しく彼を問い詰めて静かに出てきた答えは、お母さんは人に捕えられたということ。
数秒の沈黙をおいてから、僕はまた呼吸を始めた。
真っ暗になった僕の世界と、湧き上がる怒りと悲しみの涙。
耳が割れんばかりの強い轟音と共に雪崩れこんでくる洪水のような激しい感情。
今でもはっきりと覚えている。忘れられない。心の中の大部分に満ちているその記憶に僕は浮かんでいる。泥のように重たく冷たい記憶の海に、浮かんでいる。今も変わらない心で、だからといってどうしようもない日々が続いている。
僕は人を憎んでいる。
僕等を捕まえようとする人を絶対許せない、許しちゃいけないと心を染める。
「坊、何を見ているの」
頭上から声に撫でられて僕は顔を上げた。茸みたいなおじさんが僕を少し心配そうに見下ろしている。
僕はしばらく頭が働かず何を言われたのかよく分からなかった。ゆっくりと噛み砕いてその言葉を理解し、どう返そうかと迷ってしまう。また考えごとに浸り過ぎてしまったようだ。
「……なんでもないよ。ほら、雨が止まないなあって」
少し笑って誤魔化す。
実際雨は激しく降っていた。雨になるとこうしておじさんの傘の下にやってきて雨宿りをする。大きな傘の下では雨に濡れる事とは無縁で、おじさんも何も言わず受け入れてくれる。それに甘えている形だ。この定位置は僕が今世界で一番好きな場所。おじさんと話しながら雨の音に耳を傾ける。何てことのないこの行為が僕にはとても大きな温もりである。おじさんは優しかった。お母さんがいなくなった僕を自分の子供のように可愛がり、時に厳しくしつつ育ててくれた。この森のことを沢山教えてくれた。森のほぼ中心部にある巨大な御神木を初めとして、そこからどれだけどの方向に歩けば木の実が沢山ある場所に辿りつくか、どんなものが食べる事ができるのか、どんなものが食べる事ができないのか、季節が巡って冬の間どう生きればいいか。生命の危機になったらいざとなれば私の傘を食べる手があるわ、まあ毒があるかもしれないけど、と笑うこともあった。僕にとっておじさんは誰よりも何よりも大切な存在で家族同然だ。
雨は数十分前から降り始めて、今はピークを迎えているところだ。鉛色の重苦しい雲が少し開けた木々の隙間から見える。あの空を見ていると自然と心も沈む。そうして記憶に浸ってしまう。一番好きな場所でどんよりとした気分になる。それは矛盾しているようだけど、それもまた日常。とれることのない癖。誤魔化しても誤魔化しきれないだろう。おじさんは僕をよく知っているのだから。
「いつまで降るのかな」
「さあねえ。でも待っていればいつかは止むわよ」
「そりゃあそうだよ。おじさんいっつもそう言うね」
「レパートリーが無いのよ」
僕はおじさんに少し体重を乗せた。寄り添って感じる温かさで、おじさんは茸みたいだけど茸と違って血が流れてて呼吸をして生きてるんだと当たり前のことを実感する。きちんと僕の傍にいてくれる。
雨が止んでこの重い心を晴らしたいという思いとこのままおじさんの傘の下にいたいという思いが交錯する。晴れていても傍にいればいいじゃないかと思われるかもしれないけど、確かにその通りではあるのだけれど、雨の中というシチュエーションが僕は好きだった。晴れている時よりも雨が降っている時の方が心がおじさんの傍にいれるような気がする。寒いからなのかな。
おじさんは欠伸を一つした。それは一度目のものじゃあない。さっきから数分置きに欠伸を繰り返している。相当眠いんだろうけど何とか堪えているようだった。無理しなくてもいいのに。でも起きててもいてもほしいから何も言わない。まったく自分は矛盾ばかり。
ふぅと溜息をつく。思いっきり遠吠えでもしたい気分だ。遠吠えすると身体中の嫌なものが余ることなく絞り出て気分がすっきりする。でもそれをするとおじさんにうるさいわよとかみっともないわよとか言われて大きな丸い手で軽く叩かれるんだよなあ。それに雨だから満足にできないだろうし。
降り落ちる雨粒を呆然と見つめる。胸の奥が縮こまって、呼吸が苦しくなるような錯覚に襲われた。
「おじさん」
何となく呼んでみたけれど、返事は無い。
もう一度呼んでみた。だけどやっぱり返事は聞こえてこなくて顔を上げると、その瞼は閉じられていて小さな寝息が聞こえてくる。ああ、寝ちゃった。おじさん、一度寝ちゃうと当分起きないんだよね。
空を見上げ、僕はそっとおじさんの傘を出た。雨宿りなどしなくても本当は大丈夫だった。風邪など滅多にひかないのだから。少し雨粒が大きくて痛いけど、逆に頭が冷えて良いかもしれない。
いつの間にか走り出していた。森の中を駆ける、駆ける。草むらは雨でびしょびしょで僕の身体もまたびしょびしょで、それでも走る。何もかも忘れる忘れる忘れたい。閃光のようにちらつく記憶の断片から今は離れたい。
お母さん。
心の中で叫んだ。
お母さん、お母さん。ねえどうしていないのさ。どうして一瞬で消えちゃったのさ。森で一番強かったじゃないか。ずっと傍にいてほしかったよ。どうして今いないんだよ。おじさんは寝ちゃったよ。僕は今一人だよ、森に他に住んでいる皆の姿が見えない。見えない。
僕よりも背丈の高い草むらに無我夢中で跳び込んだ。目の前の無限に続くような草むらに気圧されることなく掻き進む。目指す場所は特に決まっていない。ただ走るだけだった。身体が動くままに。
草むらを抜けた。そうすると見慣れた場所に出る。森の中では珍しく少し開けた場所で、背がどの木々よりも高く太くそして年老いている大樹がその中心に聳えている。この森の御神木で、昔から森の神様が宿っていると言われている。おじさんとたまにだけど拝みにくることだってある。
葉が多く茂っていて、根元にやってくると大分雨粒はシャットアウトされて十分雨宿りになる。風がびゅうと吹いて肌寒さを感じる。身体を思いっきり降って少しでも濡れた身体から水分を取り、御神木の幹にすがった。御神木は他の木々と違って白い幹だ。柔らかく温かみのあるようなほっとする白。僕はこの色が好きだけど、時に恐怖を覚える。あっという間に朽ち果てていく、そんな情景が描かれることがある。御神木は一体何歳なのだろう。おじさんも知らない。おじさんが生まれる前からずっと生きている。御神木はずっと生きている。そしていつか死んでしまいそうな気がして震撼することがある。でも本気でそうは思っていない。何となくそう感じる事があるだけで。
雨は止まない。
また心が縮こまって胸が痛くなる。孤独感が僕を包み込んで離さない。
僕はそれを少しでも紛らわそうと何か考えごとを始めようと思い立つ。そうしておじさんがこの間真昼の空に黒い流星が横切った話を思い出した。昼間なのに流れ星が走るなんて聞いたことがない。僕も見たかったけどその時僕は眠っていた。なんてタイミングの悪いことだろう。その日は森のどこでもその話題で持ちきりで、僕はひどい疎外感を覚えた。
遠くから見ても分かる圧巻のスピードで空を駆け抜け、あっという間に見えなくなったという。生き物なのではという声が上がったけれど、あんなに速く飛べる大きな鳥がいるのかいとまた誰かが反論した。僕は別にどうだってよくて、ただただ見たかったと後悔するだけだった。おじさんは鳥じゃなくて絶対流星だと頑固に意見を通した。その方がロマンがあるじゃない、と。
僕の知っている流星は白く輝いていて、夜空をさっと一瞬で横切ってしまう儚いもの。去年のいつだったか、おじさんと一緒に流星群というものを見た。森を少し抜けた開けた丘に並んで、数分置きに流れる星を眺めた。雲一つない絶好の天気で、視界いっぱいに広がる星空と夜独特のひんやりとした空気が心地良く、歓喜の声をいくつも上げた。途中で寝てしまったけど、夢にもしばらく出てくるくらいに印象的だった。
それとは違うものなのだろう、皆が見た黒い流星は。黒いということは光らなかったんだろうか。物凄いといってもどれくらいのスピードで、どのくらいの大きさで駆け抜けたのか。実際に見ないと分からない。だから僕は目を閉じて頭の中でそれを描き出す。想像力を膨らませて、黒い流星を僕の中で見る。
そうしているだけで、僕は少しだけ満足することができる。
ああそうだ。黒い流星も勿論だけど、僕はまたおじさんと流星群を見たい。
この目にもう一度焼き付けたい。あれから一年ほど経った今、あの時ほどはっきりと思い出せなくなってしまった。どうして覚えていたいことを忘れちゃうんだろう。
雨は止まない。そんなことは目で見ずとも耳に入ってくる音で分かっていた。
草むらが大きく揺れる音で僕ははっと意識を取り戻した。しまった、いつの間にか眠っていたようだ。
雨は少し止みそうになっている。だけど跳び込んできた音はそれとは違う。僕は辺りを見回して様子を伺った。正面ではないようだ、僕は右を向いて誰もいないことを確認するとさっと今度は左を向いた時、息を呑んだ。どこに隠れてもバレバレなおじさんではない。そこに姿を現していたのは見た事の無い生き物である。
白っぽいふかふかそうな毛で顔が包まれていて、目のあたりや耳にはオレンジ色の毛が見える。四本足で立つ身体はすごく大きくて、おじさんの二倍、いや三倍ぐらいはありそう。ああ、胴体はほとんどオレンジ色の毛だ。佇まいがどことなく勇ましくて堂々とした雰囲気を持っている。
おじさんより三倍近く大きいのだから、僕から見れば大きすぎるくらいで恐怖が身体を走り硬直する。オレンジの生き物はゆっくりと草むらから出てくると少しふらつきながら雨の中を歩き、御神木の下に入ってきた。近づいてきたらその迫力は満点で、僕は目と口をあんぐりと開けているだけである。きっと他から見れば間の抜けた顔になっているだろう。
しかし対するオレンジの生き物は僕に気が付いていないのか僕には目もくれず、雨宿りのできるこの場所にやってくると急にその場に倒れるように足を折った。荒い呼吸が耳に入ってきて、僕はそこでようやく少し様子がおかしいことに気がついた。
恐怖心を抱えたまま、代わりに生まれた勇気と好奇心とが僕をそっと動かす。二メートル程離れたところにその生き物はいて、目の前にするとその大きさに改めて圧倒される。気がつかなかったけど白い尻尾もあって、この中に僕が飛び込んだら余裕で埋もれてしまいそうなくらい大きかった。けれど近づいてみて分かったことがある。当然雨に濡れているが、その毛並みはボロボロだった。すり傷がいくつかの箇所にわたって見え、その身体を舐めるように見回す。そして右の後ろ脚からどんどん溢れだしてきている赤い血だまりを見た瞬間、僕は震えあがり思わず声をあげて跳び上がった。
その時、オレンジの生き物の閉じていた瞳が顔を出した。さすがに気付いたようで僕に目を止める。
大きな口が動いて何かを喋ろうとするが、何も言葉は出てこない。僕は縮こまって怯えた瞳で、黒い吸い込まれるような瞳を見つめた。何故だか目を離すことができなかった。迫力に完全に気圧されているせいだろう。
オレンジの生き物はまた目を閉じる。何も言わず、何もしてはこなかった。
そのことにまず僕は安堵し、へなへなとその場に座り込んだ。緊張で喉が渇きまだ心臓が太鼓のように鼓動を荒げている。
少し例の後ろ脚を見やると水に溶けるように血はどんどん広がっており、僕は思わず目を逸らす。どうしたらいいのかよく分からなくて、でも何もせずにいるのも何だか居心地が悪くて、僕は気づいたら走り出していた。
急いで今まで来た道を引き返し、恐らくおじさんがまだ寝ているであろう場所へ向かって。
急がないとあの生き物は死んでしまうかもしれない。それは嫌だ。僕の目の前に来て御神木の真下で倒れて死ぬなんて駄目だ。あの怪我だってきっとおじさんなら治してくれるんだ。僕じゃどうしようもできないから他に頼るしかない。僕はあの頃からずっと無力だ。お母さんがいなくなってから何も変わっていない。どれだけ人を憎もうと人を実際に見返してやろうという勇気は出てこなくて、ただこうして走るしかできない。それしかできないから走る。
聞こえてくるのは変わりゆく世界の音。