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  [No.388] ひとでスペース/出張版 投稿者:CoCo   《URL》   投稿日:2011/05/05(Thu) 00:27:49   46clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
ひとでスペース/出張版 (画像サイズ: 197×206 1kB)

 この際ログ消失事件に便乗して、マサポケにも今まで書いた短編を(ちょっとずつ改悪しながら)乗せていこうかと思います。
 URL欄からサイトに行けばいつでも見られますが、それもまたまどろっこしいので。

 全作品【書いてもいいのよ】【描いてもいいのよ】【批評してもいいのよ】タグをつけておきますので、お暇がありましたらどうぞ。
 他にも「思いついたけど、短編として仕上げるまでもなかった小ネタ」とか放り投げる場所にしようかと思います。
 そうとうしょうもない感じになりそうです。

 それでは ゆめとひとでと ポケットモンスターの世界へ(ry
 


  [No.389] だいすき。 投稿者:CoCo   《URL》   投稿日:2011/05/05(Thu) 00:39:49   77clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 

 彼女には人とは違うところがありました。
 しかしそれは、決してとっても美人だとか、勉強ができるとか、ポケモンバトルがうまいとか、そういう類の違いではありません。それどころか、そういう物差しで計るなら、彼女はとてもとても、平凡な人間でした。
 彼女の『違い』とは、最初に捕まえたポケモンのことです。

 彼女は幼い頃、カントーに住んでいました。
 そしてそこの草むらで、一匹のポケモンと知り合ったのでした。――決して捕まえたのではありません、お知り合いになったのです。彼女がお留守番でつまらなそうにしていたときに、ふと草むらから飛び出してきたポケモン。
 むにょーんとした紫色のそいつは、メタモンでした。
 彼女がつまらなそうに縁側で足をぶらぶらさせているとき、メタモンはいつも彼女のそばまでやってきました。彼女は自然、メタモンと仲良くなりました。そのうち、メタモンは彼女がつまらなそうにしていなくてもそこにいるようになり、気がついたら彼女の家に住み着いていました。
 そして、そのまま引っ越し先までついてきてしまったのです。

 彼女はトレーナースクールで授業を受けて、ポケモンを仲間にするためにはモンスターボールが必要だということを学びました。
 だからその日、彼女はお父さんにねだって、ボールを買ってもらいました。それで、家の庭でむにょーんとしていたメタモンを初めて、捕まえたのです。

 彼女の初めてのポケモンは、メタモンでした。



 彼女は毎日を平凡に過ごしていました。
 トレーナースクールに通っていたにも関わらず、彼女にポケモンの才能は芽生えませんでした。ポケモンは一匹も捕まらない。メタモンはバトルに強くありません。彼女は悔しくて、何度も何度も泣きました。
 そして彼女は、道をなくしてしまいました。トレーナーになんてなれない。でも、怖いポケモンは怖いから、ブリーダーもきっとなれない。あれも無理、これも無理――将来の夢については、考えることさえ少なくなっていきました。

 ある日のことです。
 彼女のクラスに、森でピカチュウを捕まえた、という男子が現れました。
 彼はクラス中、学校中に言いふらして回って、一躍大スターになり、学校にはにわかにピカチュウブームが巻き起こりました。
 ピカチュウのストラップ、ピカチュウの缶ペンケース、美術の授業でも粘土でピカチュウを作る人は多く、森まで捕まえにいく人も沢山いました。
 もちろん彼女もピカチュウが大好きでした。
「ピカチュウ、可愛いなあ。あたしも欲しいなあ」
 彼女は思いました。
 しかし、彼女にはとうてい、ピカチュウを捕まえにいくことなんてできません。
 ため息をついたそのとき、彼女はひらめきました。
「そうだわ、メタモンに”へんしん”してもらえばいいじゃない」
 さっそく彼女は、メタモンに雑誌をみせて、ピカチュウになってもらいました。
 メタモンはピカチュウになりました。……ただし、それはうすっぺらいピカチュウでした。立体感のない写真では、メタモンもうまくへんしんすることができないようです。
 彼女は落胆しました。せっかくピカチュウが手に入ると思ったのに。
 実物を見せてしまえば話は早いのですが、それではまるで自分が人気をパクったように思われてしまう、と彼女は考えていました。そうなれば、彼女は白い目で見られてしまうこと間違いなしです。
 考えて考えて、そしてふと思いつきました。
「粘土がある。粘土でピカチュウをつくって、メタモンに”へんしん”してもらえばいいんだ」
 しかし、口で言うほど上手くはいかないものです。
 彼女が粘土で作ったピカチュウは、既になんだかよくわからないものになっていて、メタモンはなんだかよくわからないものに”へんしん”していまいました。
 それが悔しくって、彼女は頑張って何度も、何度もピカチュウをつくりました。そして彼女はだんだん粘土を捏ね上げるのも上手になり、だんだん粘土はピカチュウに見え始めましたが、そのころにはピカチュウブームはとっくに過ぎ去っていたのでした。



 ある日、彼女のクラスに転校生がやってきました。かっこいい男の子です。
 転校生は、ジグザグマというとても可愛いポケモンを連れていました。
 だから、転校生の話題と合わさって、この辺りには住んでいないジグザグマは、一躍人気者になり、学校にはにわかにジグザグマブームが巻き起こりました。
 しましまのえんぴつ、しましまのペンケース、手作りのジグザグマキーホルダー、転校生の席はジグザグマを抱かせて欲しい人達の列でいっぱいになりました。
 もちろん彼女もジグザグマが大好きでした。
「ジグザグマ、可愛いなあ。あたしも欲しいなあ」
 そして今度はすぐに、粘土細工に取り掛かりました。
 けれど指で細工をするには限界があります。時にはリアリティを求めて、つまようじやボールペンに出動してもらうこともありました。彼女はだんだん粘土を捏ね上げるのも上手くなり、ジグザグマもより本物らしくなりました。
 けれど、ひとつ忘れていたことが。
 油粘土には色がありません。メタモンはより本物らしいジグザグマに”へんしん”しましたが、ひどくモノクロでした。
 しかし、いいことがありました。
 うなだれる彼女に、お父さんが、『紙粘土』と『細工用ペーパーナイフ』を買ってきてくれたのです。
「いっつもメタモンと遊んだり、ぼうっとしているだけだったお前が、こんなに真剣に粘土をやっているんだから、お父さんにも応援させてほしいな」
 彼女の目は、とたんに輝きを取り戻しました。



 それから彼女は、粘土を捏ね上げて、色を塗って、メタモンに”へんしん”してもらって、いろんなポケモンを手に入れました。
 簡単な装飾のポケモンから、高等学校に上がるころにはより複雑な細工の必要な伝説のポケモンまで、様々なポケモンをつくりあげ、メタモンはそのたびそれに”へんしん”し、嬉しそうな彼女の周りでむにょーんと踊りました。
 彼女は、美術系の専門学校へ進学しました。



 今や、彼女は有名なポケモンアーティストです。
 さまざまなポケモンのポーズサンプルやフィギュアのデザインを行い、その精密さとリアリティは評判でした。
 それもそのはずです。ポーズなら、”へんしん”したメタモンがばっちりきめてくれるのですから。

 ある日、彼女はアトリエで、今はめっきり使わなくなった油粘土を取り出して、何かを捏ね上げていました。
 それはとっても単純な形をしているのですが、彼女はそれをひどく大事そうに、ていねいに、ていねいに仕上げます。
 それは、粘土のメタモンでした。
「あのね、メタモン」
 彼女が言うと、窓際でちいさなトドグラーの姿になっていたメタモンが振り向きました。
「あたし、あなたの力でいろんなポケモンを手に入れてきたけど、それでもね」
 彼女は完成した粘土のメタモンを、トドグラーのメタモンの前にとん、と置いて、言います。
「ほんとはね、メタモンがいちばん、いちばんだいすきよ」

 メタモンはメタモンの姿に”へんしん”すると、むにょーんと笑いました。


 おわり



***
【書いてもいいのよ】
【描いてもいいのよ】
【批評していいのよ】

 ポケモン短編初作品。しんどい時に書いたんですがこいつがつけてきた感想が支えになりました
 今でも大好きな子で、拙いところも多いですが、あえて初書きから手を加えていません。むにょーん


  [No.390] 風になった悪魔 前 投稿者:CoCo   《URL》   投稿日:2011/05/05(Thu) 01:14:30   83clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 

 そこは地上の楽園であった。鬱蒼としても華やかな森、豊かなその自然と資源、澄んだ川。人が集まるには十分すぎる要素が備わっていた。
 しかし、たった一つの誤算は、時折豪雨が降り注ぎ、普段人々の暮らしを助けるはずの川を氾濫させ、とてつもない水害を引き起こすということだった。
 それでも長く暮らすうち、人々は、その水の脅威から逃れる術を得た。
 いつしか彼らは、繰り返す川の氾濫で大きく育った大木の上に家を建てるようになった、という。


 *


 一歩先さえ白に霞むような、篠突く雨。
 叩きつける雨音に足音を混ぜ込んで、疾風のように駆けるものがあった。
 真っ白い毛並みを今は泥に汚して、しなやかに足を伸ばし、刻一刻と濁流に蝕まれる川岸をひた走る、獣。その身体の純白と対に漆黒を浮かべる、不自然に途切れた形のツノを掲げて、倒れかけた木々、はみ出した根、流される丸木、むきだしの岩肌へと飛び飛び移り、大風と雨粒の弾幕の中をこともなげに渡る。
 その大きな背には、一人、男が乗っていた。
 身を低く屈めて、ただしがみついているようにも見えるが、白い獣の動きに合わせ重心を倒し、確かに乗りこなしている。
 彼らは、集中豪雨で溢れた川の周りを巡っていた。行き先があるわけではないらしい、先程から上流へ、下流へ、再び上流へ、と繰り返している。まるで何かを探しているようだった。
 不意に、低い姿勢を保っていた男が身体を上げ、身を乗り出した。白い獣の頭が少し男に反応する。男は左の岩壁を指差し、獣に向かって大声を張り上げた。とたんに獣は頷いて、濁流の中、漂流物をつたって川を飛び越え、岩肌に張り付く。
 そこの窪みに、幼い少年が一人、しがみついていた。雨の冷たさと、段々に迫り来る黒い流れの恐ろしさに震えながら。胸に、ひょろりと植物の根のようなポケモンを抱いて。
 そして、斜めに川へ立てかけられた岩壁へ降り立った白い獣を見て、
「――あ、悪魔」
 震える唇で、そう言った。
 獣は物言わず、赤い瞳を遠くへやる。
 男は獣の背から、少年へ向けて最大限に腕を伸ばし、彼の小さな身体を抱え上げ、獣の上へ乗せた。
「村まで送ってやるから。暴れるなよ。落ちたら嫌だろ?」
 言って、ずぶ濡れた少年の頭をぐしぐし撫でる。少年は胸の中に根っこを抱きしめたままぽかん、と男の笑顔を見上げていた。
 村へ戻るぞ、なんて男のやけに明るい声に、獣はぐるると返事を返し、後ろ足で岩壁を蹴って飛び出した。
 が。
 獣が向こう岸に着地した瞬間、少年はその衝撃にふっと腕を緩めてしまった。
 バランスを崩してひゃぁと濁流に落ちかけた彼の身体は男に受け止められたが、けれど少年の細い腕の間から、根っこのようなポケモンがひらり、眼下の濁流へ。
「マ、マダツボミっ」
 悲鳴のような少年の声、はっとしたような男の顔。
 しかし獣の反応は早かった。
 多くの雨粒と共に黒い流れの中へ舞い落ちる根っこを追って、獣は二人を乗せたまま、雨に染まる宙へと飛び込んだ。そして先の欠けた黒いツノで今まさに川へ落ちたそれを掬い上げ、後ろ足の端で不恰好に流木を踏んで川中の岩へと飛び移る。危ういところで前足が岩に引っかかり、獣は流されそうな後ろ足を引き上げるようにざりざりと岩を掻いてどうにかその上に収まった。
 ふう、とこちらもなんとか少年を支えきった男が息をつく。
「全く、無茶しやがるぜ、なあ」
 男は獣のツノに引っかかっている根っこをひっぺがし、今度はしっかり抱いてろ、と少年の腕の中に落とした。
「それじゃ、さっさと帰ろうかい」
 その言葉に獣は息を大きく吸って一吼え、がる、と叫んで再び後ろ足を蹴った。
 
 川の上流から平地へと、水がもう一本川を作らんとばかりに流れ込んでいる。
 平地には大きな樹が多く、獣は密集する木々の枝の上を走っていた。雨が絶え間なく葉を叩き続け水音が籠り、唸り声を上げる足元の濁流がより近く聞こえる。
 やがてふいに視界が開けた。村である。
 高く伸びた樹の上に家を建て、梯子をかけ、水害による被害から逃れたその村には、閉じ籠もった人々の家の灯が曇天にまるで灯篭のように浮かんでいた。
「悪魔に乗って走るなんて、めったな体験じゃないぜ、坊主」
 男は豪傑に笑って、少年をどこかの家の前に降ろす。
 彼はしっかりと腕に根っこのポケモンを巻きつけたまま、じいっと男を見上げて、
「ありがとう、ございました」
 たどたどしく言った。
 しかし男はちょっぴり眉を動かし、ただ顎を使って、後ろで全身の白から泥水を滴らせる獣を指した。
 少年はそれを見て、俯いて、震える指先で少しだけ根っこをいじって、
「……ありがとう」
 白い悪魔に向かって、ぼそりと呟いた。
 するとのっそりと歩きだし、獣は少年の前にやってきた。
 その透き通るような赤い瞳を見ても、なぜか少年は臆さなかった。彼はそれを見つめ返すことができた。それはもしかしたら、その目がまるで背中を支える手のひらのような、あったかいものを湛えていることに気がついたからかもしれない。
「それじゃ。俺達はまだ、助けを待ってるやつを探さなきゃなんないんだ、坊主みたいにな」
 男はさっと獣に乗り込むと、颯爽と森の中へ消えた。最後にひらひらと振った右手の残像と、それから赤い瞳の光を少年の中に残したまま。

 幸いなことに、それきり助けの必要そうな影は見つからなかった。
 帰ろう、と言った男の声に鳴き声を返して、頭を振って雨を振り切り、獣は一歩を跳んだ。
 そして、ついた前足を踏み外した。
 もしかしたら、必死に岩を登った前足を傷つけていたのかもしれない。雨が視界を遮って、着地に失敗したのかもしれない。単純にバランスを崩したのかもしれない。けれど原因が何でも、起こってしまったことは変わらない。
 彼らは、濁流の中に落ちた。
 




 真っ黒に染まる激流の中、なす術もなく流される。枯れ葉が滝に飲まれるように、あぶくに混じって浮き沈み、瓦礫に混じって打ち砕かれ、黒い悪魔の腹の中、ただ潰されるまま山を駆け下り、はるか麓の水溜まりまで。




  
 黒雲が走り去り、まるで降り注いだ豪雨を払うように、燦々と輝く太陽が現れる。
 川の遥か下流に、なぜかどんな大水の時にも埋まることはないという大岩があった。中は空洞であり、側面の岩戸から中へ入ることができる。中には祭壇のようにも見える石がひとつぽつねんと置いてあり、天辺には空を仰ぐ大穴が開いている。これらは、大昔にこの辺りに住んでいた人々が太陽を呼ぶためにつくり出し、天へ祈りを捧げたのではないか、といわれている。
 人々はこの大岩を、日照の岩戸と呼んだ。

 岩戸の中、べとりとした赤土の泥に横たわる、白かった獣と男の姿。
 二人とも満身創痍、とくに男は頭、足、至るところに傷を負い、赤い泥をさらに赤く汚している。
 獣が目を覚ました。
 彼は這い蹲ったまま足を引き摺って男に近づき、ひどくか細い声で言う。るぅ、るぅるぅ、ほんの小さな声なのに、まるで響くようだ。
 どれだけの時間が経ったのか。じりじりと泥塗れの前足を伸ばした彼が、どうにか男の身体に爪まで辿り着いたころ、男もふっと目を覚ました。
「よお、相棒、そこに居るんだな」
 起き掛けに、そんな妙に元気よさげな声を上げて。
 けれど、男に起き上がる気配はなく、その声はところどころ、擦れている。
「やっちまったなあ」
 はは、と男は言うが、顔は笑っていない。目すら開けていない。唇が僅かに言葉を吐き出している、それだけだ。
「俺はもう、いい。お前は、どこへなりとも、いけ、どこかお前のところ……」
 祠の天井に開いた大穴の淵から水滴が垂れ、赤銅色に染まった獣の上にぽたりと落ちた。
 彼はまるで男の言葉なんて聞こえなかったみたいに、るぅるぅるぅ、少しずつ少しずつその傍に寄りながら、鳴いている。
「……まあ、そりゃあ、無理な相談だよなあ。知ってるさ、お前には、俺しかいないもんなあ」
 俺にお前しかいなかったのと、同じか。
 水滴が波紋を描く音と、微かな鳴き声だけが、ただ祠に響く。その頭上には、丸く切り取られた、青空。
「転んだのは、お前、だからな」
 男は言う。
「だからお前には、俺の、仕事を、何としてでも」
 唇から息音が抜けた。
 しばらくの時間をかけ、獣はやっと、やっと横たわる男のすぐ隣までやってきた。ツノと同じ漆黒の尾がぺたりと疲れきったように、乾きはじめている白い毛に垂れる。
 どこかから風が吹き込んで、彼らの頭上の空を擦り抜けていったらしい。
 ――不意に男が立ち上がった。
 どこか、身体のどこかから固まりきらない鮮血を流しながら、まるで怪我なんてないような振る舞いで、岩戸の出口、底の見えない水面の前まで歩いてきて、そしてポケットからモンスターボールを一つ取り出すと、それを水の中へ放り込む。
 ボールは、底なし顔の水の中、深く深く、落ちた。
「空はいつも青がいいなあ、相棒」
 彼はそれから振り向いて、地べたに倒れる相棒に向かってそんなことを言って。
 それから、
 それから、猛々しく立ち上がった水音だけは、既に目を開いておくことすらままならなくなってしまった獣にも、よく聞こえた。

 獣が目を覚ましたとき、そこに男はもう、いない。


 *

  
 真っ白い身体と黒い爪、半分欠けた漆黒のツノを持った悪魔。豪雨の日は必ず、氾濫した川の周りに
、逃げ遅れたポケモンや人を助ける彼の姿がある。
 いつかは背に人を乗せていたが、今は一匹。
 欠けたツノで不器用に木々を切り開き、しなやかに森を駆るその姿は、まるで風のようだという。


 つづく


***
 ちょっと改稿。元が見たい方はサイトへどうぞ(販促)。

 そこまで長くもないのですが、かならず前後編に分かれているのは、間に三ヶ月ほど放置しt(ry休憩していた期間があったためです。
 くっつくてもいいのですが、慣習みたいなもので分かれています。
 読みづらくてごめんなさい。
 


  [No.391] 風になった悪魔 後 投稿者:CoCo   《URL》   投稿日:2011/05/05(Thu) 01:41:37   82clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 
 深緑に溶ける密林の深く、深く。
 人の足では行くに行かれぬはるか山の奥地に、彼はいる。
 被さるように茂る木々に木漏れ日さえ落ちない土の上へ寝そべり、普段は動くことさえしないが、時折ふと思い出すように目覚めて、山の麓へとそれこそかまいたちかなにかのように駆け下りていくのだ。
 そして彼の着く頃にはいつも、雨が降り始めている。

 白い身体を風雨になびかせて、水嵩増す川べりをひた走った。ぬかるみに黒い鍵爪を叩きつけ、力強く跳躍する。刺すように降りつける雨をかい潜り、泥なだれに巻き込まれてしまったちいさなポケモンを救い上げては、森のなかへ放り投げる。視界さえ霞む雷雨、彼の巨体さえ吹き飛ばさん大風、それでもしっかと地を踏みしめて、彼は荒れ狂う岸辺へと瞳を向けた。

 そんなことを続けて、いったいどれだけの時が過ぎただろう。獣である彼にとって、時という感覚は余りにも曖昧だった。
 ただ、山の四季は巡り、いつか垣間見た村の風景は様変わりした。決して短くはない時を、彼は使命とともに過ごしてきたのだった。ただ、男の最後の言葉を心に浮かべながら。
 独り。



 その日も彼は大雨を予感した。
 立ちはだかる森は度々駆け下りる彼のせいでいつの間にか獣道となり、それでも行く手を遮る蔦は漆黒のツノへ渦巻く真空に切り裂かれ、彼は吹き荒れるひとつの嵐のように、山を降りた。
 麓の天気は大荒れだった。それでも、いつかに比べれば柔らかくなったようにも感じる。そういえばこのところ、川へ向かう数が重なるほどに、ポケモンを助ける機会が減っているようにも思えた。人間がポケモンを救っている場面にも出くわしたことがある。そのときは変わり者もいるものだと姿を隠したが、このごろになってやっとこの地の変化に気がつき始めた。雨が減っている。溺れる者も減っている。
 違和感を思い返したその矢先に、彼のツノが何かを直感した。
 地下水が――何かの刺激を受け、決壊しようとしている。
 彼は上流へ足を向け、ごつごつした斜面を駆け出した。稲光に空の裂ける音がした。

 上流には道ができていた。
 この前にやってきたときには林だった場所である。土の踏み固められた幅のある坂道に、ぬかるんだタイヤ痕。見れば向こう、崖の岩壁に大きな穴が開いている。トンネルだろうか、どう考えても自然の穴ではない。その手前に置かれた、機材や重機の数々――彼にはそれが何のための何だかはわからなかったが、人間が運んできたものだということは容易に想像がついた――人工的に掘られた穴に違いなかった。
 だからきっと人間がいるはずだ。
 しかしここは危ないのだ。彼の本能が告げる、この場所は今に多くの木々を巻き込んで、濁流の藻屑と消えるのだと。
 人間が何をしているなんて、彼にはこれっぽちも関係のない話だった。そこに誰かが居るのならば、救わなくてはならない。
 それが彼の仕事なのだから。
 駆けつけると、そこには一人だけ人間が居た。突然の雨にか、きょろきょろと周囲を心配しているようだった。そしてやはり、姿を現した彼に絶句した。
「あ、……危ねえぞ、帰えれ!」
 作業着姿にヘルメットの男だった。彼の巨体を見て恐怖に顔色を変え、腕を振り回して追い払おうとしている。本当なら『彼』がしたように、まずこちらに敵意の無いことを伝え安心させ、なんてしなければならないのだが今は時間が無い。彼はさっと男に近づくと、湾曲したツノで男の胴をひっさらい、そのまま来た道を引き返した。
「ひ、ひゃああ、離せえ」
 男は声を上げて暴れたけれど、彼の身体はびくともしない。男を放り投げ、その身体が遠く林の中へ転がり落ちて行くのを見届けると、彼はすぐにまたトンネルと機械の場所へ舞い戻らんと地面を蹴る。あのトンネルの中に人がいたりなんかすれば、間違いなく溺れ死ぬだろう。
 急がなくては、とトンネルに飛び込み、機械の間をすり抜けたその瞬間。
 みしり。
 軋んだ岩壁から、崖が炸裂した音に、彼はすぐ横を振り向いた。
 濁った水がまるで宙に川を作るような勢いで噴き出し、あっというまに重機を、木々を、岩を、そして彼をも巻き込んで、再び氾濫しようとしている川へと押し流す。
 二度目の失態、彼はもがくこともせず。
 白い身体が鉄砲水の中に消えた。






 
「ウツドン、”つるのムチ”!」
 音さえ遠のく濁流の渦の中で、その勇ましい声が彼に届いたのかどうかは解らなかったが。
 彼の白い身体は、泥の底に流される運命から、伸びてきた蔓の力で確かに掬い上げられた。
 岸辺では一体の草ポケモンが、トレーナーの青年と一緒になって蔦を引っ張り、重たい彼を引き上げる。
 トレーナーは彼のぐったりした身体を横たえると、呼吸と心拍を確認して胸部をとつ、とつと力強く圧迫した。心肺蘇生である。
 トレーナーは制服を着ていた。その胸には、ポケモンレンジャーを示すバッジがその名誉を誇り雷雨に照り返している。
 彼はげぼっ、と水を吐き出して、息を吹き返した。青年はふう、と顔にしたたる泥と汗を拭う。
「こいつは野生かな」
 人間の一人二人なら軽々背中に乗せてしまいそうな獣の巨体を、まさか彼の力だけで運んで行けるはずがない。彼は無線機に声をかけ、負傷しているポケモンの発見と、応援の必要を報告した。

 彼が目覚めると、そこは湿った地面の上だった。雲の流れが速い。風にまっさらな毛がそよぐのが心地よくて、彼は再び目を閉じてみた。水の音は遠ざかり、人の足音がする。見ればそこはあの村なのだった。すぐ尻尾のほうにそびえた大木の上に、家が建っている。嵐の名残の強い風に、縄梯子ががろんがろん鳴いていた。
 周囲の人々は、みんな同じような格好をしていた。赤いレンジャーの制服か、または彼が助けたつなぎにヘルメットの作業員。飛んできた木の枝、流れてきた石ころや泥なんかを掻き出しているらしい。
「あ、目が覚めたみたいだ」
 向こうの草むらを掻き分けて、一人の青年が現れた。彼を救い出したあのトレーナーである。青年は彼のツノを撫でて、傷の様子を見た。細かい傷が多く、出血も酷かったけれど、今はしっかりと止血されている。このまま安静にしていれば、どうにか治りそうだと青年は呟いた。彼は青年を見上げた。
 そして、彼の赤い瞳と目を合わせた。
「お前は、まさか、その眼」
 言葉が続けられない。
 しばらく絶句して、それから黒いツノの欠けてしまっている先っぽを指でなぞる。
「あの時の、そうかあの時の」
 青年は笑った。白い獣は目を瞬かせる。
「すごく、すごく、良かった。ありがとう。ありがとう。お前のおかげで、俺、そうだレンジャーになったんだよ。ポケモンたちを助けるんだ、お前がやってくれたようにさ。その……友達もいっぱいいるよ。レンジャー仲間、みんなでそういうことやってるんだ」
 頬を紅潮させて、しどろもどろになりながら言う。彼はそんな青年の言葉を解っているのか解っていないのか、じっと青年を見上げていた。
「おう、こいつか、さっきの」
 ふいに青年の背後から、一人の作業員が現れた。さっき、彼に放り投げられたあの男である。
「こいつのおかげで助かったんだ。はっは、ありがとよ。ポケモンレンジャーならぬレンジャーポケモンだなあ、こりゃ」
 男は豪快に笑う。
「そうか、お前、まだそういうことを……」
 青年は彼の白い毛を撫でた。彼はきゅうと目を閉じる。
 瞼の裏に風の音。
「あのな、聞いてくれ。今度、この川の上流に、今工事しててさ、ダムができるんだ。そうすれば、水害はなくなるんだ。それに、この199番道路とヒワマキの自然は、俺、俺達レンジャーが守ってる」
 青年は獣を撫でながら言う。
「だから、お前はもう、こんな無茶をしなくってもいいんだぞ。ゆっくり休んで、平和に生きてくれ」
 彼がその言葉を飲んだのか、むしろ聞いていたのか、聞いていたとして言葉の意味を解していたのか、それは解らない。ただ、真っ直ぐに青年の目を見つめ返してくるその赤い瞳は、暖かかった。あのときと少しも変わることなく。

 
 しかし、青年が報告や雑務に勤しんでいる間に、その白い獣はさっきの場所から忽然と姿を消していた。
「まさか」
 青年は驚いた。
「あんな傷だらけで、自分で動けるわけがない、倒れてしまうよ。どうしよう姿が見えない」
 あたふたする青年の言葉を聞きながら、なぜかあの作業着の男は頷いていた。
「あのな、兄ちゃん、俺の故郷ではな」
 男は草むらの中に仁王立ちして、ほんのすこし空を仰ぎながら、言った。
「アブソルは、風に生まれて、風に帰るもんだと言われている」
 風が吹いた。
 草むらを撫で、まるで獣かなにかが走り抜けていくような跡を残して、風は遥か緑色の小波の果てへ駆け抜けていく。
 レンジャーの青年は、足元のウツドンを撫でながら、しばらく何かしら考え込んでいたが、ふいに顔をあげて、呟いた。
「そういえば、あの男の人はどこだろう、元気かな。お礼が言いたい、いつか会えたら」
 その言葉は風の背に乗って、草の海を駆る。



 *



 白い獣は、日照の岩戸へ飛び込んだ。
 草にかかって止血の包帯は裂け、走ったせいか傷口が開いて白い身体にはところどころ赤い染みが見える。しかしそんなくだらないことはおかまいなしに、彼はその一番奥で、いつかと同じ少し狭い空を見上げていた。
 風が吹き込み、頭上の青空を吹き抜ける。頭上の穴のふちから水滴が頭に滴って、彼は欠けたツノをぶるぶる振った。
 赤土の泥の上に座り込む。
 目を閉じると、水の流れる音、草の擦れる音、遠くに響く何かの声。そんなものに聞き入っているうちに、いつのまにかゆっくり、沢山の音が足をそろえて、彼の耳から離れていく。



 そして彼は、 風になる。




***
【書いてもいいのよ】
【描いてもいいのよ】
【批評していいのよ】

 なつかしいうえにきはずかしいです。
 なにか、こう、川があって天気研究所があってツリーハウスがあってひでりのいわとがあってあんなポケモンがいてレンジャーがいたらこうなるじゃないの。とかいう使命感みたいなもので書いた気がします。
 手を入れても拙い感じが抜けないのは仕様です。


  [No.397] そこに愛があるから 投稿者:CoCo   《URL》   投稿日:2011/05/05(Thu) 04:11:26   113clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 

 ぼくはね、ゆうちゃんがだいすきだよ。

 ゆうちゃんとぼくはね、大きさがほとんどかわらないぐらいのころから一緒にいるよ。
 でもゆうちゃんはあっというまに大きくなっちゃって、だけどぼくを抱えていろんなところへいったよ。
 車に乗って海にもいったよ。とっても広かったよ。でも水を吸いすぎてふくらんだり、砂がざらざらしてしまって、ゆうちゃんと一緒におかあさんにおこられた。でもせんたっきでぐるぐるされて、すぐまた同じふとんで寝られるようになったから大丈夫だったよ。
 ゆうちゃんが幼稚園に通うようになったときは、ちょっとさみしかった。ぼくをつれていこうとすると、だめよ、っていわれちゃう。さみしかったけど、かえってきたらゆうちゃんが、ただいま、っていってくれるから大丈夫だったよ。
 あーそういえば、かばんのそこにぼくをつめこんで、こっそりもっていこうとしたこともあったね。お弁当とかにつぶされてくるしかったけど、もう腕をひっぱられたり身体をねじられたりするのにはなれっこだったから、ぜんぜん大丈夫だったよ。
 幼稚園でぼくをおままごとの仲間にいれてくれたよね。ぼくは赤ちゃんの役だったよ。ゆうちゃんがおかあさんで、そうだな、おかあさんとおなじことをおなじような感じでいうから、なんだかぼくはゆうちゃんになった気持ちだったよ。たのしかった。でも色みずをこぼして、しみっちょろになっちゃって、おかあさんにばれちゃっておこられたね。そういえばいっつもふたりでおこられていたよね。たまにゆうちゃんが泣いたりするのが悲しくて、でもぼくは自分でゆうちゃんをぎゅっとすることはできないから、ぼくも泣きたかったけど、ぼくの目はボタンでできていて、なみだがなかったから、だからかわりにぼくの胸はいつでもあけておいたよ。いつでもここでないていいよ。そんなふうにね。ゆうちゃんがきてくれればいつでもぼくはいるんだよ。そんなふうにね。

 あー、でも、もうしばらくだね。
 いつのまにぼくはゆうちゃんに会わなくなってしまったのかな。もう顔をわすれちゃうよ。はやくきてくれなくちゃ。ちゃんと胸はあけてあるよ。ここだけはねー、ほこりにもダニにもやらなかったんだ。ゆうちゃんはあいつらが苦手でよく、くしゃみなんかして、あおっぱなをしてただろ、だからやらなかったよ。腕はちょっとたべられたかな。でも胸はあけておいたんだよ。ゆうちゃんがいつ顔をうずめてもいいように。泣くときだけじゃなくていいよ。たのしいときもいいよ。いつでもおいでよ。
 でも、どうしてきてくれないんだろうね。
 ずっとね、押入れの奥でね、ちゃんとおとなしくしてまってたんだけどな。いつからこうしているのかもわすれちゃった。でも待ってたよ。かびのにおいがして、このままかびにやられちゃまずいなと思ったけどもね、ちゃんと座って待ってたよ。いつもゆうちゃんはぼくを抱き上げてくれるものね。ぼくはじぶんでゆうちゃんのところへはあるいていけないけど、でも、それがゆうちゃんはわかってるから、ちゃんとぼくを、抱き上げてくれるものね。わかってるんだ。だからちゃんとしてまってたよ。

 押入れがあいた。ぼくをおしこめてたダンボールの壁がひいていく。ひかりがまぶしい。
 やった! ゆうちゃんだ! ゆうちゃん!
 ゆうちゃんにはやくあいたくて、うでをのばしたいけど、ぼくのうではうごかない。しょうがないね。
 でもゆうちゃんのてがのびてきて、ぼくからだをつかんだ。ぼくをひっぱりだした。
 ほらね、ゆうちゃんはぼくがあいたがってるのもおみとおしだから、ぼくをこうやって抱き上げてくれるんだよ。ほら! ゆうちゃん、胸、あけておいたからね、ぎゅーってしてもいいんだよ。
 あれ、ゆうちゃん、ずいぶんおおきくなったねえ。すごいね。もうまるで、おかあさんみたいだね。おとなみたいだ。
 おへや、ちらかってるね。おかたづけしないとだめだよー。ぼくもてつだいたいけど、ぼくったらよくかんがえたら、かたづけられちゃうほうなんだね。でもせっかくだしてくれたのに、すぐかたづけたりなんかしないでね。またいっしょにあそぼ。

「あー、なつかしー」

 ゆうちゃんが声をあげた。なんだか聞きなれないかんじ。ゆうちゃん、声もだいぶかわったんだね。でも、舌ったらずもすっかりなくなって、いよいよおとなのかんじ。すてきだね。
 だけどゆうちゃんはぼくをだきしめることなく、ぽいとダンボールの中にほおりこんでしまった。鼻歌なんかやりながら。
 あれ? ゆうちゃん、まだ、ちょっとしかあってないよ?
 おはなしはひとことだけ? 抱きしめてもいないよ?
 ほら、ぼくの胸があいてるよ。ほこりもダニもいないよ。カビからもまもったよ。かおをうずめてもぜんぜん大丈夫だよ。ぎゅーってしてよ。きっときもちがいいよ。ふわふわだよ。ほら
 ダンボール箱のなか、ゆうちゃんの後姿をみつめていたぼくの胸の上に、ぽいぽいとつぎつぎにがらくたがのせられていった。
 ああ ゆうちゃん。ぼくの胸、ゆうちゃんのためにあけておいたのに。
 ゆうちゃんがダンボールをとじるころには、ぼくはうもれて、右目しかゆうちゃんの顔がみられなかった。
 ああ ゆうちゃん。
 ずいぶん髪がのびたんだね……。






 *





 ゴミ捨て場で、ダンボールが動いているのを見た。

 ちょうど月曜にゴミを出し損ね、40Lの袋二つをパンパンにしてしまった燃えるゴミたちにサヨナラを告げ、アパートの居間を干物女のゴミ屋敷から脱する決意に満ち満ちた足取りでサンダルをつっかけた水曜の朝のこと。
 ダンボールが動いていた。
 めっちゃ動いていた。がったがたいってる。いまにも手足が生えて走り出しそうな感じ。超アクティブ。
 そういや海の向こうにはごみぶくろのポケモンがいるとも聞いたことがあるけど(お前の部屋に沸いてるんじゃねーのみたいな話題で)、こいつはいったい……。

 とりあえず捨て場まで行って、袋二つをぶん投げ、ダンボールを観察してみる。
 そしてわかった。こいつはダンボール自体が生を受けたのではない。中になんかいる。かなり出たがってる。きちんとガムテで止めてあるから出られないのか。
 ふっと頭の中に、よくあるニュースとかネットの話題が浮かんできた。
 ポケモンを捨てるトレーナーの話。
 まさかダンボールにポケモンをつめて、なんて、まさかそんなことは。でもそうでなければこのダンボールは、いやいやまさか。
 そう思いながらも私は気がつくと、ガムテープを破いていた。
 けれど、へんに捩れてしまって、破けない。くそっ、やめろっ、ポケモンが死んだらどーすんだ、舌打ちしてもこのクソニートな指にはガムテに対抗できる力はない。ハサミ。そうだ、ハサミがあれば。
 死ぬな! 死ぬんじゃない、ポケモンよ!
 私は心のなかでとなえながら、ばたばたと蠢くダンボールを抱えて走った。韋駄天のように走った。あの瞬間の私を見れば誰も運動オンチであることを見抜けはしなかったに違いない。
 しかし、私の考察は見当違いだった。いや、ポケモンではあったけどさ。
 呪縛を切り取った瞬間、ダンボールの中から出てきたのは、たくさんのガラクタと。
 真っ赤に目を血走らせた、一匹のジュペッタ。



 ジュペッタは、いまのところ、うちにいる。
 最初は暴れた。ものすごく暴れた。埃臭いから洗ってやろうと思ったんだけど、触ろうとしたら金切り声をあげてガラクタを投げつけてきた。どういうことなの。
 もしかしてこんな、ゴミみたいに捨てられようとしていたぐらいだから、トレーナーに乱暴されたり、虐待されていたんだろうか……そう思いながらも、暴れ終えたあと魂をなくしてしまったようにぱたと倒れて、しくしくと泣き出した彼をみたら、とても「扱えないし元の場所にもどすかー」とは言えなくなってしまった。
 どうしようかと悩み、私もなにを血迷ったか、偶然あった裁縫用の綿をそっと、皿に上にのせて差し出したら、なんと、食べた。
 それからジュペッタはうちにいる。

 でも、ポケモンのいる生活も、そこまで悪くない。
 過酷なバイト、忙しい日は数時間も立ちっぱなしの状況で、へとへとになって帰ってきて、部屋の中から声がする。ぎーぎーと口もとのチャックが擦れるような鳴き声で歌いながらジュペッタがごろごろしている。こいつめー、ともふろうとすると、最初はもうものすごく嫌がって、じゅうたんをブサブサにするまで暴れまわったのだが、しょうがないから放っておくとだんだん寂しそうな顔をするようになった。
 だけどいつのまにか、だんだんそばによってくるようになって、ある日目が覚めたら胸の上に乗っていたんだ。
 それからは家に帰ってくると、ジュペッタはソファの上でどーんと腕を広げて待っている(だいたいはテレビでバラエティを見ている)。
 だから「ただいまぁー」と隣に座ってやるのだ。
 だれかが待っている生活というのも、なかなか悪くない。
 都会に出てきて、一人で学校行きながらバイトして。帰ってくるとお母さんも弟もいなくて、もちろん料理もつくらないと出てこないし、なにより声がしない。誰もいない。寒い部屋。たまにものすごくむなしい気分になる。とくに疲れているときは、どうして私ここにいるんだろーなんて余計なことを考えてしまったりもする。
 だから、誰かがいるだけでちょっと、ほっとしたり。ポケモンだけどね。

 ジュペッタを拾ってから一月が経とうとしていた。
 その日は連休の中日で、バイト先も客足が途絶えず、新しく入った高校生が途中でダウンしたこともあってか、休みを返上して出ずっぱりだった。足はぱんぱんに張って棒のよう、腰は姿勢を保つことにすら悲鳴を上げている。家に帰ってきたとたんに崩れ落ちてしまった。
 布団も敷かずにソファになだれ込んで、ずるずる眠りの淵に滑り落ちる。
 夢を見たような気がする。ずいぶん昔、小さい頃、家族で出かけた時、後部座席で揺られてまどろんでいた、あんな感じの。車のやにと埃の匂い。ずっと薄目を開けて窓を見上げていたのか、とっくに閉じたのか、自分でもわからないまま感じる淡い陽光。走行音と規則正しい揺れの間に、気がつくとそれはガタンゴトンと鳴る電車の一両に変わっていて、私は優先席に座っている。そしてものすごく眠い。車内はがらんとしているのにドアのそばに老人が立っている。黒いガラス越しにこっちをうかがっている。空いてるんだからどこへでも座ればいいのに、青い座席に腰掛けてうつらうつらする私を咎めるような目をしている。でもあんまり眠くて席を立つこともできない。すると老人がこっちにやってきた。ずいぶん老けて見えたのにそれは母だった。母はいつのまにか小学生に巻き戻っていた私の頭に手を置いて撫で、そっと胸にかき抱いた。頬をふわと暖かいものが包む。なつかしい匂いがする。
 ふと目を覚ました。
 現実がさっと横から溶け込んできて、夢はあらかた流れた。私はソファで横になっていた。何かが私の頭をぎゅっとしている。そうっと手を伸ばしたら、自分から弾かれたように離れていった。
 暗い部屋の中、サイドテーブルの上にジュペッタがいた。
 重たい頭を持ち上げ起き上がると、テーブルの上の黒いぬいぐるみが、せつない赤目でこっちをみつめている。
 なんでこいつはいつもこんな寂しそうな顔をしてるんだろうな。
 そう思ったら、いま、触ったらまた暴れるのが分かってるのに、手を伸ばさずにはいられなかった。寝起きで固まった腕を伸ばし、薄暗闇のなかジュペッタを持ち上げて、膝元までつれてくる。しかしこいつはまるで微動だにしなかった。ただ赤い光を放つ瞳だけがぱちぱちとまばたきをしている。
 こうやってまともに触るのははじめてだった。頭を撫でるとぬいぐるみみたいにもふもふした。でも膝にどっしり重たいのは生き物の感触。腕を握るとほんのり暖かい。干したての枕のようだ。
 身体中に溜まった疲れが血に代わってどす黒い鉛のように巡っているような、ボンヤリとした眠気がまだ抜けず、もう一度ジュペッタを抱き枕にして横たわる。ぎゅーっと抱きしめると、埃っぽいような、なつかしい匂いがした。









 押入れがあいた。ぼくをおしこめてたダンボールの壁がひいていく。ひかりがまぶしい。
 やった! ゆうちゃんだ! ゆうちゃん!
 ゆうちゃんにはやくあいたくて、うでをのばしたら、うでがのびた。びろん。
 あっ、うでがうごいた。うでがのびた。
 おもいついて足をうごかしてみると、足がうごいた。
 おしりをもちあげたら、ぼくは立つことができた。
 やった! ぼくは自分のうでをみた。これで、ゆうちゃんにだきつくことができる! いつもだきしめられてばっかりだったけど、これで、ぼくもゆうちゃんをだきしめられる!
 そう思ったんだけど、ぼくはダンボールの中だったんだ。
 せっかく動けるようになったのに、ぼくはダンボールの中。ゆうちゃんのためにあけておいた胸にいっぱいのガラクタがのっかってうごけないよ。ゆうちゃんあけて。あけてー。だして。だしてよー。
 どんなにうでをばたばたさせても、ガラクタはどいてくれない。ダンボールから出られない。
 それでもゆうちゃんにあいたくて、もいっかい抱きしめてほしくて、こんどは抱きしめてあげたくて、ごみの海でうでをのばしてゆうちゃんをさがした。ゆうちゃん。どこにいるの。せっかくうごけるようになったのに、どうしてぼくをとじこめたりしたの。ぼくなにもわるいことしてないよ。みずあそびをしてどろどろになったままおうちにあがったりしないよ。ちゃんとね、おとなしく待ってたんだよ。すわってね。ゆうちゃんがまたあそんでくれるの。
 なのにどうして。ぼく、もうずっとひとりでまってたじゃない。もうひとりぼっちはあきちゃったよ。つかれちゃったよう。ゆうちゃん。あいたいよう。抱きしめてよう。ゆうちゃん。
 ちからいっぱいうでをふりまわした。でもまわりじゃゴミばっかりガサゴソいうだけで、ちっともうごけない。やだあ、だしてよ、ゆうちゃん、ぼく、あいたいだけなんだよう。たのむよ。だしてくれよう。

 そうしたら、とつぜんからだがらくになって、ぽーいとほうりだされた。
 ガラクタといっしょにころがりでたばしょは、ぼくの知らないところだった。だれのおへやだろう。ここはどこだ。
 そうだ、ゆうちゃんは? ゆうちゃんはどこにいるの?
 きょろきょろしたら、知らないひとがいた。
 知らないひとはぼくをみおろして、しばらくそのままだったけど、とつぜん手をのばしてきた。そしてぼくのうでをつかんだ。
 汗ばんだ手のひら、ゆうちゃんのつめたくてすべすべした手じゃない。
 だめだよ。ぼくはゆうちゃんのぬいぐるみなんだから。
 手をよけたら、こんどはぎゅっとぼくの胸をつかんできた。
 あっ、だめだよ、ぼくの胸はゆうちゃんのためにあけてあるんだから! やめろ!
 だけど手はぼくをそのまま持ちあげて、うでのなかに抱きこんだ。汗とかぎなれないにおい、やめろ、やめろ! はなせ!
 ぼくはからだをよじってそいつの腕を抜け出すと、へやを出ようとした。でもドアがしまってた。とじこめられたんだ。でられない! どうしてだよ、もうやめてくれよ。ぼくはゆうちゃんにあいたいんだよ、それだけなのに、どうしてみんなぼくをとじこめるの。ゆうちゃんまでとじこめるの。こんなのぜったい、おかしいよ。
 そいつがまた手をのばしてきた。
 やめろ、やめろ! ぼくはちかくにあったものを手にとってそいつに投げつけた。こっちへくるな! やめろ! さわらないで! ぼくはゆうちゃんにあいにいくの! ぼくはゆうちゃんにあいにいくの!
 ドアにかけよったけどびくともしない。だして! ここからだして、ゆうちゃんのところにいかせてよう。
 ちがうよ。こんなことのためにうでをのばしたんじゃないんだよ。ガラクタを投げるためでも、ドアをばしばしするためでもないんだよ。手のひらがいたいよ。いたいよう。ぼくはゆうちゃんを抱きしめたかったんだよ。なのにどうして。ゆうちゃん、ゆうちゃん、ぼくをガラクタにまぜてすてちゃったの。ゆうちゃん。ぼくまだいっしょにあそべるよ。あそべなくてもそばにいられるよ。まくらもとにおいてくれたらね、むかしはなにもできなかったけど、いまならゆうちゃんのあたまをなでてあげられるよ。つらいときにはぎゅーってしてあげられるよ。なのにどうして。ゆうちゃん。ぼくいらないの。ぼくにはゆうちゃんがいるよ。ゆうちゃん……

 したら、目の前に、おいしそうなわたがあらわれた。
 ゆうちゃんとやったおままごと。おりょうりは、お皿にのせてだすんだね。じゃあこれは? このわたは、ぼくが、たべてもいいのかな。
 知らないひとが、ごめんね、っていいながら、だしてくれた。
 ぼくのどこからかね、なみだがわいてきたせいで、わたがぺったんこになっちゃったんだ。おなかがすいたって、こんなことをいうのかな。
 わた、とってもおいしかった。
 きがついたらねちゃった。
 つぎの日ね、窓があいてたよ。
 知らないひとがあけてくれたんだよ。
 だからぼく、ここからゆうちゃんを探すことにしたんだよ。

 ダンボールがたくさんあるところにいったよ。
 わかるんだ、ぼく、ここに置いてけぼりにされたんだ。なんとなく、わかったんだよ。
 だからそこからね、よるになったら、ゆうちゃんを探したよ。髪がのびたゆうちゃん。おおきくなったゆうちゃん。ゆうちゃんは、どこにいるんだろう?
 きんきらきんのおでこをしたねこに聞いたけど、ゆうちゃんをしらなかったよ。
 まっくろな毛をしたいぬに聞いたけど、ねるんだからじゃまするなって、ほえられちゃったよ。
 まどのそとにぶらぶらしてたくろいやつに聞いたけど、なにそれおいしいの? っていわれちゃったよ。
 ゆうちゃん、どこを探してもいないんだ。なんでかなあ。

 だからずっと、知らないひとのおうちにいたんだけどね。
 知らないひとがいっつも、よる、みてるへんな箱ね、おもしろいよ。ひととか、ぽけもん、いっぱいうごいてるの。ぼく、あかるくてねむいうちは、ずっとそれをみてたよ。だってあんなにいっぱいひとがいるんだもん、どこかにゆうちゃんがいないかな、って。
 でもね。よる、でかけるとき、気づいたんだ。
 知らないひと、泣いちゃうんだよ。よるになると。おふとんにくるまって、ふとんをぎゅーってしてるんだけどね、なんでかな、泣いちゃうんだよ。ねてるのに、泣くなんて、おかしいね。でもぼく、どうしたのかなって、みにいったら、知らないひと、おかあさん、って言ったんだよ。
 おかあさんって、ゆうちゃんのおかあさんと、おなじおかあさん?
 でもなんだか、あったかいかんじするね。ぼくがゆうちゃん、ってよぶときとおなじかんじだね。
 ゆうちゃんいないの、さびしいよ。
 知らないひと、おかあさんがいないの、さびしいのかな。

 知らないひとったらへんなんだよ。
 知らないひとには、ぼくは知らないぽけもんなのに、知らないひとはぼくにね、わたをくれるんだよ。わた、おいしいよ。ゆうちゃんを探しにいって、きのえだにひっかけてね、おなかをやぶいちゃったことがあったの。そしたら、知らないひとがね、バンソーコーくれたよ。さわってほしくないの、わかったから、っていって、バンソーコーのはりかた、おしえてくれたよ。ぺろんってはがして、ぺたってはるよ。しっぱいしてね、まるくしちゃったのもあるけどね、ちゃんとはれたよ。知らないひと、えらいぞーって、なでるふりをしてくれたの。ぼく、うれしかったあ。
 ゆうちゃん、ごめんね。
 ぼく、ゆうちゃんを探しにいくの、さぼっちゃった。
 知らないひとといっしょにいるとね、なんだかあったかくなったよ。むかしゆうちゃんといっしょにいたときをおもいだしたよ。
 でもゆうちゃんをわすれたわけじゃないの。ほんとだよ。ずっとね、へんな箱をのぞいて探してたもん。そとは危ないもん。からすにたべられそうになっちゃうもん。いぬにかじられちゃうもん。

 知らないひと、つらいっていってたよ。
 缶ののみもののんで、かおまっかにして、つらいつらい、あしたなんてこなきゃいい、っていってた。
 そうかなあ。あしたってあしたのことだよね。あしただって、こなくちゃあしたにならないんだから、いじめちゃだめだよね。ぼくだってすてられたらかなしいのに、あしただってすてられたら、かなしいよ。
 っていおうとしたんだけど、知らないひと、そのまま寝ちゃった。

 知らないひとの夢をみたんだ。
 なんでだろう。ゆうちゃんのね、夢、みたことあるけど、知らないひとの夢みたの、はじめてだったよ。
 知らないひとがね、ぼくのゆうちゃんとおなじぐらいのちびだった。
 くるまのなかで、こわい夢をみて、こわいようって、おんなのひとに抱きついてた。
 そしたら、おんなのひとが、こわくないよっていって、知らないひとをぎゅーってしてたの。
 でね、ねすごして、もう夜だったんだけど、めがさめたら、知らないひとがぼくのすぐそばでねてたの。泣いてたの。うううってくるしそうだった。
 こわい夢をね、みたのかなって、そしたら、ぼく、知らないひとをね、ぎゅーってしてもいいかなって、おもったんだ。
 うでをのばして、知らないひとのあたま、つかんで、ぎゅーってした。
 からっぽだった胸のなかにね、知らないひとのあたまがおさまったら、なんだかあったかくて、胸がいっぱいになったよ。
 そしたら、知らないひと、おきちゃった。
 びっくりしてよけたら、知らないひとがね、ぼくをもちあげたの。知らないひとの手はね、ひんやりしてるよ。だけどなんでかな、つめたくないんだ。からだがあったかくなるよ。
 そしたらね。
 知らないひとが、抱きしめてくれた。
 ぎゅーってしてくれたんだよ。
 ぼくね、ぼく、ああ、これだったんだって、気づいたよ。
 ゆうちゃん、ごめんね。
 ぼく、いっしょに泣いちゃった。なみだって、うつるのかな。ゆうちゃん、あのとき、いっしょに泣いてあげられなくてごめんね。
 ぼくもうでをのばして、知らないひと、ぎゅーってした。うでのなかで、ぼくね。
 しあわせだったの。
 ごめんね。ゆうちゃん。ぼくゆうちゃんをさがせなかったよ。
 ごめんね。ゆうちゃん。知らないひとをすきになってごめんね。
 ずっと好きでいられなくてごめんね。
 でもぼく、いまね、しあわせなんだよ。
 ゆうちゃんも、しあわせだといいな……。










 
 淡いまどろみの中、目を覚ますと腕の中に、くたびれたうさぎのぬいぐるみがあった。
 まだ眠気を引きずった目をこすって、うさぎのほっぺたをむにゅむにゅしてみたけども、暴れ出してぶん殴ってくるようなことはなかった。
 時計を見れば、八時半。本日の出勤時刻は過ぎている。
 突然38度の熱に襲われたことにした。
 バイト先への電話を終えて、カーテンから漏れる仄かな光に照らされた、自室をみる。
 片付いていない部屋、ソファの上にうさぎが座っている。
 腕をつつくと、ほんのり湿っていた。
「もう寂しくないの」
 聞いたら、ちょうど外を車が通りかかったせいか部屋が揺れて、うさぎはぽてっと床に落ちた。
 私はそいつを抱えると、もう一度ソファに飛び込んだ。そうだ、せっかくの朝だもの、もう一度寝よう。今度はぐっすり眠れるような気がするんだ、根拠はぜんぜんないんだけど。
 横になってうとうとしていると、さっき通った車がエンジンをふかして発進していく音がした。
 あー、あれ、ごみ収集車だったか。出しそこねたな。
 散らかった部屋を薄目に見ながら、寝返りを打つ。腕の中が暖かい。抱き寄せると、埃っぽいかと思いきや、顔をうずめても息苦しくない。瞼にぬいぐるみのやわらかさを感じながら、二度寝の底に沈んでいった。




 おわり


***
【書いてもいいのよ】
【描いてもいいのよ】
【批評していいのよ】

 ポケスコに間に合わなかったので、こっちを完結させました。
 タイトルは某有名エンディングテーマへのオマージュ。
 そのうちこっそり鏡の話も載せたいです(


  [No.501] マンドリン・ギター 投稿者:CoCo   《URL》   投稿日:2011/06/05(Sun) 14:21:02   55clap [■この記事に拍手する] [Tweet]


  
 引っ越したい。
 このじめじめした四畳半一間、トイレ共同、風呂は銭湯の生活から抜け出したい。そろそろ抜け出したい。着々と食費に潰されていく貯金も、もとはといえばそのために始めたものなのだから。

 昔はなんとかなると思っていた。
 いや、むしろ「なんとかできる」と思っていた。この指先の硬くなった手で、このアコースティックギター一本で、やっていけると信じて疑うものは無かった。それが今は……。
 いや。今でも変わらないのだ。だから生活が苦しいままなんだ。賢くならないかとはよく言われる。せっかく体力があるんだから日雇いじゃなく、シフト組んでパートで入れてやってもいいと引越し業者には言われる。
 それでも賢くなれないのは何故だろう。
 ライブハウスで先輩に指がかたいんじゃないのかと言われても、路上でケースを心無い足に踏みつけられても、才能ないんじゃないと彼女にフラれても、それでも諦め切れなかったのは何でだろう。
 そうやって疑問を持つことによってさえ諦めへの第一歩を踏み出してしまう気がして、俺は考えるのをやめた。
 起き上がると朝は十時半で、布団はべたついて気持ちが悪い。顔洗ってそれから、そうだじょうろに水を汲まなければ。

 俺の日課に、水やりというのがある。
 いやに水の出の悪い蛇口を捻り、園芸用のでかいじょうろに水を溜める。しかし俺の部屋に鉢植えはない。そのかわり、西向きの窓の日陰に、ヒトデマンが転がっている。レジャーシートを敷いたその上に、水晶のような光をたたえたヒトデマンが鎮座しているのだ。
 ちょっと前までは銭湯からかっぱらってきたケロヨンの風呂桶に入れてやれたのに、少しずつ成長しているようでもうあんまり窮屈そうだったので出してやった。それからずっと、ヒトデマンに水をやるのは俺の日課なのだ。

「おはようさん」
 ヒトデマンは俺の声に返してくれているのか、もしくはただ単に水がうれしいだけなのか、朝方のかったるい日陰でコアをぴかぴか光らせた。
「今日は昼からだよな」
 ライブハウスの掃除の仕事が入っている。これも日給で、終わるのが午後十一時の予定だから、帰りにコンビニでこいつと俺の夕飯を買って、ちょっと弾いて一日が終わるだろう。

 手持ちぶさたになると、気が付くとケースを開けている。
 少し大きめな俺のギターは、高校ん時に叔父から譲り受けたものだ。
 叔父の家はカイナシティにある。小さい頃は夏休みのたび叔父の家へ行って、海で遊んだもんだ。あのサイコソーダの味は忘れられない。

 海が好きだ。
 海には潮騒があり、人の賑わいがあり、うみねこの声が響き、砂を踏む音がある。そんな音が何テイクも重なってそこに海がある。それがいい。俺はそんな海で叔父のギターを聞いたのだ。叔父が弾いたのは古い曲で、亭主関白をもって妻を愛する男にまつわる弾き語りだった。その頃はよくわからなかったものの、今聞くとなんとなく、染みる。叔父は妻を亡くして一人身だったのだ。

 いや、それ以外にも聞いた気がする。ギターを。そうだどこか、異国の言葉で。
 ああ思い出しそうだ。そういえばヒトデマン、お前を拾ったのもあの海だったな。カイナのにぎやかな海とはほど遠い、北側の紺色をした海だ。灰色の砂を覚えている。あの異邦人のでっかい麦わら帽子も。

 俺がたしか、ちょうどこのアパートに引っ越してきて間もなかった頃。
 バンド仲間との打ち上げが迫り、たとえそれがスクラッチで当てた五万円ぽっちだろうが金があるのがバレるとたかられるので、いっそ使っちまおうと思って思い切って鈍行列車に乗って向かった海。
 残暑の厳しい九月に、家族連れとアベックが一組に釣り人と散歩している親父がちらほらなんて寂しい海だった。それでも俺は磯へ入って、ちょっと泳いではくしゃみを連発したりした。一人じゃ寂しいかなんて予感は出発前からあったが、そのときはギターを鳴らしていればいいと思った。広い海なら騒音公害だとかなんとか隣人に壁を叩かれる心配もないし、うまくいけばお捻りも期待できる。

 そして磯でさ、俺の膝に張り付いてはがれなかったのがお前だよな。
 どうしたもんかってそこの釣り人に聞いたら「兄ちゃん、そりゃあいけねえわ。あんたそれヒトデマンに噛まれてるよ」だもんな。ビックリしたよ。そうだあの頃はお前もまだこんなもんだったよな。今じゃ枕にできる大きさなのにな。
 しかも逃がそうとしても手のひらから離れないんだよな。何だよお前、磯じゃいじめられてんのか? って俺が聞いたの覚えてるか。……おい、光るなよ。だってお前さ、なんか必死な感じしたもんな。わかるよ。俺もずっと学校でヘッドフォンしてたらちょっといじめられかけたもん。

 んで、どうしようもないから近場のフレンドリーショップでモンスターボールでも買って連れて帰るか、とか思いつつ膝から引っぺがしたヒトデマンを持ったまま歩いていると、木陰から弦楽器の音が聞こえたんだ。
 覗いてみるとそれはココナツみたいな形のギターで、弾き手は目の蒼い男だった。不健康に白い手で弦をはじいている、けどもそのなんともすがすがしい、真夏に感じる清流の風のような音色に俺は驚いたんだよ。間違いなく。

 異国の曲なんだろうな。そいつが何語喋ってんのか俺にはわからなかったが、俺も気が付いたらギターを下ろして一緒に適当に弾いてた。そいつは挨拶みたいなことをしてきたから、俺は挨拶みたいなことを返した。あとはギターを弾いただけだった。二、三曲か? あいつ上手かったな。あれきり会ってないけどな。

 夜になって、篝火が見えるような時間になってさ。
 ――CDだよ。俺が帰ろうとしたら、あいつがよこしてきたんだ。年季の入ったやつ。あいつの持ってたのと同じ弦楽器がジャケットに描いてあった。
 それで俺、そのままもらうわけにもいかないだろ。タダで。大切そうなもんだったし。でも俺がそのとき持ってたのは帰りの切符と、磯で拾ったヒトデマンと、ギターと、230円だけだった。
 どうしたかって? 何だよ、そんなに点滅するなよ。まだ怒ってるのか、あのときあいつにやった230円があればボールが買えたって? しょうがないだろ。じゃあお前を渡せばよかったのかよ。そこで採れた新鮮なヒトデマンですってか? あ、止んだ。

 大きなアコースティックギターを抱えるように構えて、胡坐で座って弦に触れる。なんだかこうして海を思い出しちまったからには、またあの曲が弾きたいな。あのとき230円でもらったあのCDの、異国の弦楽器の曲。

 思い出しながら弾いてみた。
 やっぱり楽器が違うから、あんなふうに細かく振るうような、綺麗な音は出ない。その代わり、流石叔父のギターだ、哀愁漂うマイナーコードが似合う。

 あの海の一瞬を思い出しながら弾くと、俺は必然、ヒトデマンをみつめていた。
 ヒトデマンはまるでギターから吐き出される波形を飲み込んでいるかのように、歌うようにぴかぴか点滅していたが、やがてちょっとずつ透明に、星型のすみずみまで輝きながら歌い始めて、どうしたんだと思ったら、突然くるくる回りだしやがった。

「おい、踊るほどじゃあないだろ。」
 笑ってやると、ずっとずっとまるで燃え尽きる前の星のように赤く輝いて、本当にどうしたんだ、なんてとうとう心配になるほどくるくる発光していると、ほどなくしてゆっくり回転が止まった。
 しかしそこにもうヒトデマンはいなかったのだ。

 なぜなら奴は、紫翠のような深い輝きを湛えた、スターミーになっていたからだ。
 俺は目をぱちくりした。

「進化……」
 それでも手は止めなかった。最後まで弦を弾いて、それからまじまじとスターミーを見た。
 スターミーはちかちか点滅した。

「……するんだなァ」
 俺は窓の外に白昼の空を感じつつも、ギターに寄りかかって欠伸をした。

 さ、仕事へ行く準備でもするか。
 今は日雇い労働者でも、いつかはこのギターと腕とで引越しをできる金を稼いでやるのさ。そして今度は風呂とトイレのある家へ住んで、ヒトデマ……スターミーをきちんと風呂へ入れてやろう。あの銭湯はポケモン禁止だからな。

「あ、そうそう」
 朝風呂しにいくのに、一度俺は相棒ふたつを振り返った。
「いつもサンキューな。つまんねー愚痴聞いてくれて。」
 ギターは相変わらず無口だが、スターミーはちょっとちかちかした。

 いつかこの潮騒で稼いだ金で、もう一度お前の生まれた海へ行きたい。お前のためじゃないぞ。俺はな今度はな、あの異邦人ともう一度会い見えてだな、あの弦楽器の名前を尋ねてやろうと思っただけなんだぜ。

***
【書いてもいいのよ】
【描いてもいいのよ】
【批評していいのよ】

 とある友人に敬意を表して。
 彼女の好きなポケモンが偶然スターミーだったとかいうまさかなこともありました。


  [No.502] 鈴がなるとき 投稿者:CoCo   《URL》   投稿日:2011/06/05(Sun) 14:24:33   53clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 

 ん、誰だ?
 
 
 ああ、驚いた。こんな霧の多い日に、上まで来る人がいるとは思わなかった。
 このあたりの山の上のほうは天気も曖昧だし、墓も古いものばかりだから、あんまり人は来ないんだけど……え? なるほど。ホウエンには観光に。それは納得だ。晴れていればここから見る景色は最高だしね。でも生憎の天気で。ごめんね。あ、いや、確かに天気は俺のせいじゃないけどさ。何か悪い気がして。

 ここらへん? 珍しいポケモンかあ、いろいろいるよ。野生の狐も出る。というか、他の地方から来た人にはどこも新鮮じゃないの? あ、そうなんだ。いわゆるグローバル化ってヤツだね。最近じゃどこでもいろんなポケモンがいるからなぁ。まあホウエンはね、けっこう他のところから遠いからね。俺なんかハジツゲ生まれでハジツゲ育ちだから、完全に井の中の蛙さ。ははは。

 ん?
 今の音?
 ああ……あれは鈴の音だよ。

 そうだ。
 せっかくだから面白い話をしてあげるよ。
 良ければ聞いていってくれないかな。

 君はハジツゲには行った?
 これからか。そうだよね。船が着くのはミナモだもんな。ここは通りがかりか。

 あそこには、たぶん君も知ってるんじゃないかと思うけど、降ってくるフエンの火山の灰から硝子の粒を取り出して、加工して硝子細工をつくる伝統工芸の店がある。
 ずいぶん昔からああいう技術があるらしくて、うん、灰から取り出して硝子をつくるのはものすごく大変な作業らしいんだけど。

 昔々、ハジツゲの硝子細工の職人の十二番目の弟子に、地味な男がいたんだと。
 人のいい男で、腕は確かなんだけど、上の弟子にいいように使われたり、細工の腕を妬まれてつくったものを粉々にされたり、それは散々な扱いを受けていたらしい。
 それでもひたすら真面目に働き続けたその男は、師匠に見込まれて、この送り火山にね、霊を慰めるための細工品を納めることを許されたのさ。

 そして初めてこの山を登った彼は、頂上あたりのここで、一人の美しい娘と出会う。

 長く艶のある黒髪に、丈の長い赤の着物を着た娘。
 彼女はこの山に住んでいて、墓参りにくる人へ茶を振舞っているのだと言って、彼も家へ上げて、茶と団子を振舞ってくれた。
 彼は一目で彼女に心を奪われた。
 声を掛けると、鈴の鳴るような麗しい声で返してくる。
 その優しげな響きは、普段彼が暮らしていてかけられることの決してないものだった。
 職人の世界は厳しく、上からの声はいつも罵声で、下からの声は失敗を責め、周りからの声は冷たかった。それでも「信じれば報われる」という亡き親の言葉を信じてやっていた彼のくたびれた心に、彼女の喉を震わせ紡がれる優しい響きはそれこそ、枯れた大地に降る慈雨のように染み渡ったんだ。

 彼は、細工を納めるのを口実に、何度も彼女に会いにここへ来た。
 細工をつくるには時間がかかったけれど、彼女を思えば彼はどんな辛い仕打ちにも耐えることができた。
 そして彼女への手土産に、綺麗な鈴をひとつ、行くたびに必ずひとつ、つくって持ってきたんだ。彼女の言葉のように凛と、彼女の声のように涼やかに、優しく響く鈴を。
 彼女はそれをとても喜んで、お返しにも私はこんなもてなししかできないけれどと言いながら、彼をいつも茶と団子をつくって待っていてくれた。
 なによりその喜ぶ顔が嬉しくて、彼のつくる鈴はどんどん細かい細工が施されるようになり、しまいにはここへ納められる細工品よりもずっと手の込んだものになっていった。

 そして幾星霜の過ぎたある日、ついに彼は、彼女へあるお願いをすることを決意した。
 それは山を降りて、自分と供に暮らしてくれないか、という願いだった。

 彼は全身全霊をかけて、ひとつ風鈴をつくった。
 何度も筆を入れる前に壊されたりしたけれど、それでもめげずにつくり続けて、遠慮の深い彼でさえ最高の出来だと胸を張れる、素晴しい風鈴をひとつ、完成させた。
 そしてそれを、普段は霊前に納める細工品を入れている桐の箱へ入れて、大切に胸に抱いて、山へ向かったんだ。

 彼女の家で、出された茶を一口だけ飲んで、彼はその話を切り出そうとした。
 実は――と切り出したところでね、けれど彼にはそれが言えなかった。
 一瞬で彼女の姿と木目の家が掻き消えて、彼は草むらの上に座っていたからだ。
 囲炉裏のように並べられた平べったい石の上に、皿に見立てた大きな葉っぱが置いてあって、その上には獣の糞を丸めた団子のようなものが置いてあった。そして彼が手の中を見ると、欠けた茶碗の中に雑草まじりのどろ水が入っていたんだ。
 彼が顔を上げると、さっきまで彼女の座っていたところに、緋色の目をした獣が居た。
 白い姿の九尾の狐が、からかうようなそぶりで尾を振って笑いながら、彼をみつめていた。

 彼はとたんに真っ青になって、げえげえ飲み込んだものを吐き出しながら去っていった。
 それを狐はあざ笑いながら見守ったそうだ。

 彼はそれきり、山へは行かなくなった。

 しばらくは仕事に没頭して、何もかも忘れ去ろうとしただろうさ。
 けれどふとしたことで、彼女の顔を思い出す。あの優しい声を。鈴を転がしたような響きを。兄弟子に灰集めを無理強いされて、集めたところでなんとも動きが遅いなど役立たずなどと怒鳴られて辛いときに、思うように細工ができず苦しいときに、彼女のことを思い出す。

 そして彼は、あの時驚いて置いてきてしまった風鈴を思い出した。
 あの風鈴はどうなったのだろうか。
 彼女はあの風鈴を、自分の想いのかたまりをどうしただろうか。

 どうしても彼女が忘れられず、彼はしばらく経ってから、ふたたび山を登った。

 あの囲炉裏のような石のそばに、桐の箱はもう無かった。
 彼はそこへ座って、ゆっくり彼女のことを思い出した。

 それから、静かに言ったんだ。だれもいない囲炉裏の向こうへ。

「わたしはどうやらずっと騙されていたらしいが、わたしはもうそんなことには慣れっこなのです。そんなことより、わたしはこんなみすぼらしいわたしを、たとい嘘まやかしだったとしても、家へあげて、茶菓子を出して、話を聞いてくれたあなたをわすれることができません。どうかお願いです、にげだしたわたしを見捨てずにいてくれたのだとしたら、まだあの鈴を持っていてくれたのだとしたら、わたしの前へ姿をあらわしてください」

 何も起こらない。
 風が吹いて、朽ちた墓石の上で蔦を揺らしただけ。

「わたしはあの日、あの風鈴をもってきて、あなたに頼むつもりでした。山を降りて、わたしと暮らしてくれないかと。わたしはあなたがたといまぼろしだったとしても、もうかまわないのです。もういちど会いたい。ともに暮らしたいとさえ思う」

 霧が濃くなってくる。
 風が淀んで、ざわめきが遠のいていくだけ。

「よい返事をくださるならば、あの風鈴を鳴らしてください。わたしはまたここへきます」

 そう言って、彼は霧をかき分けて、山を降りた。

 しかし、彼が霊山から帰るため、水辺を舟で渡る途中に、彼は嵐に遭った。
 彼はしばらく霊を慰めるために細工を持ってくることがなかった。それよりも彼女のための細工をこだわることもあった。そのための罰だったのかもしれない。

 水が増えて、静かな水面は荒れ狂う波を寄せた。
 彼の乗った舟は木の葉のように軽々と引っくり返り、彼は水の中に放り出された。
 なんとか溺れないで済んだのに、あたりは霧が濃くてどっちがどこなのか全然判らない。
 やみくもに泳いでは、岸から離れてしまわないか心配になり、彼はためらうたび雨と波に飲まれそうになる。

 そんなとき、ふいに、青白い炎が浮かんだ。
 まるで導くように彼の前に現れて、叩きつけるような雨の中、粟立つ水面に燐の火粉を写しながら、煌々と燃え上がった。一直線に霧のなかを切り裂いて。
 彼は夢中でその炎を追いかけ水を掻いた。

 腕を振り回すように泳いで、炎に導かれるまま、彼は対岸の岸へたどり着いた。
 そのころには炎はすっかり小さくなってしまっていて、いまにも燃え尽きそうだった。
 濡れ鼠の彼が震えながら良く見ると、燃えている炎の中にあるそれに見覚えがあった。
 それは彼女の着物のすそだった。
 しかしそれはみるみる、狐の尻尾の先に姿を変え、ぱっ、と一瞬大きく炎を散らしたとき、そこには伸び上がる純白の狐の尾が九つ。
 燃えて、燃えて、青白く燃え尽きた。

 雨がしだいに優しくなる。
 風があたたかくなる。

 そして炎の燃え尽きたところに、ばらばらと鈴が落ちてきた。
 それは彼が彼女に届け続けた鈴だった。
 しまいには、あの風鈴も。

 彼女はずっとそれを持っていたのだ。
 それを悟ると、彼は叩きつけていた雨のように泣いた。



 しんみりした顔するなよ。話はここからだ。

 彼女は燃え尽きてしまったから、もう風鈴を鳴らす人はなくなってしまった。彼は返事を聞けずじまいだ。
 けれどね、彼の目の前で、今度はひとりでに、誰の手も借りないまま、風鈴が鳴り出したんだ。
 彼女の声とよく似た、凛とした優しい響きでね。

 そう。そういうことだよ。
 だから今でもここで、たまに鈴の音が聞こえるのさ。


 いやいやいや、礼なんて要らないよ。たいした話じゃなかったしね。

 え、俺はここへ何をしに来たのかって?
 ああ、さっきからこの古い墓の前でずっとしゃがみ込んでたからな。

 昔、好きだった人がいてね、ここに眠っているんだよ。
 ずっと俺が鳴らす鈴の音を聞きながら。


 ちりんちりん

 
***
【書いてもいいのよ】
【描いてもいいのよ】
【批評していいのよ】

 某氏の昔語に影響されて。


  [No.503] きのこ 投稿者:CoCo   《URL》   投稿日:2011/06/05(Sun) 14:27:58   54clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 

 ――きょろきょろ。
 ねぐらから這い出してきたパラスは、あたりを見回しました。
 空気は澄んで、風はキノコを切るようにつめたいのです。退けた葉のあいだから見上げた森は赤と黄色でした。はらはらと舞い降りてくる影は、例えばひょうたんのような、例えば長い爪のような、例えば子どもの手のひらのような姿かたちをした、数々の木の葉ども。いつか地面へ敷き詰められるたくさん葉っぱをつけた枝々からのぞく、わずかな空もいちだんと白く輝いているようでした。
 また秋が山を越えてきた。パラスは身震いして、つもった葉っぱの中にごそごそ体をうずめました。降り積もった枯れ葉の底にたまっている腐葉土は、ふわふわあたたかいベッドなのです。
「さむいねえ」
 パラスは起き抜けに、背中のキノコに喋りかけました。
「そうですなあ」
 キノコはまたてきとうに相槌を打ちます。いつものとおりです。
 しかしそろそろお腹が減ってまいりましたので、つまりパラスのお腹が鳴りそうになるということは、キノコが木の根の汁を飲みたいと思うことと繋がっているわけですから、同時に(そろそろ動かなきゃならんな)と思うわけです。
 ここでものぐさをいうのはたいがいパラスでした。
「いやでも、今日は寒いし、空はたかいし、獣はだれしも踊りだしちまうような陽気だから、オドシシにでも喰われちまうのはちょっといやだねえ。だからもうあとちょっと陽が傾くまで寝よう」
 と、あとずさりして立ち枯れした木の根元にもぐっていくのを、すかさずキノコが「そういうのはいかんですよ」と諭す、そういう関係なのです。
「ちぃーっと勇気を出してですなあ、今日は"道"まで行きましょう。あのへんの木は人間が大切に育てておりますからなあ、うまいでしょうなあ」
「面倒だねえ」パラスは口もとをかちかちしました。
「メンドウでしょうとも、エンドウでしょうとも、わたしは"道"がよいのです。あそこに生える木がいただきたい」
「歩くのはぼくなんだけどねえ」
「そうでしょうなあ、わたしには足はありませんゆえ」
「だよねえ、御大臣は担がれてるだけだもの」
 パラスはため息をつきました。しょうがない、キノコにはその意思をもって筋肉を揺り動かし、足をもって大地を踏みしめ、その身をもって前へ進まんとする感覚などわからんのです。なにせ、植物ですから。歩く苦労など語るだけ無駄無駄の無理。わかってはいるのですが、どうも文句のひとつも言いたくなるものです。
 それでもどうして美食家のキノコは、どこぞで聞いた"道"の木について語りだして止まりませんし、そのいかにもおいしそうな語り口に乗せられて、パラスの空腹もなかなかずっしりと彼を重たい気分にさせましたので、パラスはキノコがまだ話し止まないうちからのそのそと歩き出していました。
「そンで、道はどっちにあるんだい」
 パラスはとりあえず、普段下るゆるい傾斜をかに歩きしながら言います。
「大きな塔を目印にして行けば着くのだとか」
 キノコはまた無責任な又聞きの言葉です。でもパラスには確かめる術もないので、信じて人間の建てた塔のあると思われる方向へえっちらおっちら歩いて行くのでした。
 やがて、獣の影を思わせる茂みのさわさわとなびくのに驚きながら、びびりやなお互いへの文句にはじまり、茸と虫ではどちらが先に生まれたのかなんて話題にまでお喋りが逸れた頃、パラスはカエデの木のふもとで、せかせかと駆けていく一匹の別なパラスを見かけます。
 しかもその素早いことといったら、走らんことには矢も盾もたまらぬといった様子です。
「おうい」
  呼びかけても止まる様子ではなかったので、パラスはその通りがかりパラスを追いかけることにしました。
「なにをそんなに急いでいるのかい」
 横を一緒になって駆けながら、パラスはせっかちなパラスに話しかけました。
「いそがなきゃー、いそがなきゃ」
「なんだい、わけありかねえ」
「わけありだって?」
 せっかちなパラスはまるで今しがた併走するパラスに気づいたとでもいわんばかりに素っ頓狂な声を上げました。
「わけありっちゃあわけありだけどな。お前このあいだ"道"の向こう側の木をみんなで飲みつくしたのを覚えているだろ。町のほうで祭りがあったっていってさ、いつも見回りにくる坊主がこなかったんで、みんなで"道"の木を一本囲んだ宴会だよ」
 パラスは大勢のパラスやパラセクトが、"道"に生えている立派な幹の木の根元にかじりついてわいわいしているのを思い描き、そのころ自分は棲家でぐっすりしていたなあと思いつつも「うん、したねえ」と言っておいた。
「あれのほうに坊主どもの目がいっちまってるもんで、けさは"道"のこっち側の木が狙い目なんだ。パラセクトたちが胞子散らしてぞろぞろいったよ。遅れを取ったら取り分が減るからな、いそがなきゃー、いそがなきゃ」
 せっかちなパラスはさらにせわしなく葉っぱの地面をふみつけて、あっというまに森の向こうへ消えてしまいました。
 パラスはすっかり走りつかれてしまって、そこらへんのクヌギの木のふもとにどてっと身体を下ろしますが、キノコは「いそがなきゃー、いそがなきゃ」とせっかちの物まねをしてみせます。
「きみはじつにばかだな」
 パラスは足を折りたたんで言いました。
「あんなむちゃなはやさで走っていったら、着くころには根っこを探る気力もなくなっちまうよ。まったくばかみたいに飛ばすんだな」
「当然でしょうな」
 キノコはぴしゃりと言います。
「よりよい木を求めるならば、木のかおりを追いかける、大きな茸の群れを追いかける、小さな茸のあとまで追いかけていかなくてはならないのです。そしてよりよい木につかないのならば、われわれはいつまでも小さな茸のまま、いつまでも弱者のままなのです。獣や鳥の影におびえて土の中に隠れるようにしてしか暮らして行けないのです」
 ちょうど、向こうのあたりを大きな茸をかついだパラセクトが三匹ほど通りかかりました。さっきのパラスと同じようにせかせかと、"道"のほうへ向かっているようです。その後ろを、十数匹のパラスが茸を揺らしながら追っかけていくのです。それは雑木林の中で餌を求める茸虫のもっともわかりやすい食欲にしたがい、彼らが身につけた習性でした。より木の根のありかに敏感なパラセクトを追う。パラセクト達はいつも寡黙で迅速でした。
 パラスはもやもやしました。
 どうしてもやもやしたのか、自分自身の胸のうちがよくわからず、パラスはむやみに胞子を散らしてみました。棒のようになった足をふんばって、キノコのかさからぶわあ、とこまかい塵のような胞子が飛び散りましたが、さらにお腹がすいただけでした。
「しょうがないねえ」
 パラスはふう、と一息つくと、枯れ葉の雨の森をかさかさと歩き出すのでした。

 彼らが"道"と呼んでいるのは、巨大な木造の塔のふもと、寺社と塔の入り口までを繋ぐ、きれいに切りそろえられた石でもってつくられた石畳のことです。
 自然のいたずらでこんな舗装が生まれるわけがありませんので、それは人間がつくったものということになりますが、彼らはそれを知りません。彼らには人間がどこぞより石を切り出してきて、こういうふうに並べて道をつくるなんて光景を思い浮かべることはできないのです。人間とは、よくわからない基準でいくつかの木を守ったり育てたり、逆に切り倒したり燃やしたり、なぜか几帳面に"道"の上の落ち葉をホウキで掃いてどかしたりするわけのわからない存在であり、なおかつ彼らにはできないさまざまなことを可能とするすごいやつらでありました。

 "道"へ来るとパラスはいつも、木がうっそうと生えるでもなくただ均等に石の並んでいる光景に、みょうな気持ちになります。
 その道はいつもさんさんと太陽に照らされていて、空は広いのです。
 それだけなのですが、それだけの場所がなんだか神聖に思えるのです。
 ふだん開けた場所を通るときは、鳥の影やなんかを気にしてなるべく木の下をくぐって行くのですが、"道"にはなんだかあまり鳥や獣は寄りつかないような気がして、パラスはぼうっとします。その代わり、"道"はべつに茸虫だけに気を許しているわけでもないようなので、パラスもあまりすすんで”道”のそばには寄りたがりませんでした。どうにも居づらいのです。そこは彼ら山のもののための場所ではありませんでした。何かべつに、通るべきものを待っているような気合いの道なのです。
「ぼくはここはあんましすきじゃないな」
 キノコは、そうですなあ、としか言いませんでした。
 みずみずしく立派に太い幹をもった一本の大木に、茸を背負ったパラスやパラセクトたちが寄ってたかって群がっていました。根っこのあたりにかぶりついて、汁をいただくのです。わらわらとおおぜいの赤い茸が道の周りを囲っていて、パラスにはなかなか根にありつけそうな場所がありませんでしたので、隣に立っていたそれなりに立派そうな木の根元を掘りました。それでもいつもの雑木林の奥のほう、斜面あたりに突き出しているひょろ木にくらべたら、段違いにあまく、濃厚でおいしいのです。パラスは夢中で白い根をちうと吸い上げました。
「ここの木はいやに元気だねえ」
「そうですなあ。人に世話をされているそうで」
「世話をするったって、どうやって木に世話をしてやるのさ。子守唄でもうたうのかい」
「さあ」
 人間の所業に関しては、なんとなくいろいろなことができるということ以外、パラスはあまり知りませんでした。
 多くのパラスが散り散りに群がっていますので、こっちの木にもたくさんほかのパラスがくっついてきて、だんだんぎゅうぎゅうづめになってまいりました。びっしり赤い茸だらけです。しかし押したり押されたり踏まれたり歩かれたりしながらも、パラスはひさびさのごちそうに必死で喰らいついていました。しかし、早くも向こうの木を飲みつくしたと思われる若いパラセクトに蹴散らされて、ぽーんと根っこから放り出されてしまいました。
「あう」
 ちょっとの悲鳴もつかの間、あれよあれよという間もなしに群がる茸虫の波に飲まれ、パラスはあっというまに根っこのあるところから弾かれてしまいました。
「ひどいもんですなあ。こちらはまだ飲み足らないというのに」
「そうだねえ」
 森の奥からはまだまだ、ぽつぽつ赤い茸を背負った虫がでてきます。
「みんな必死だからねえ」
 パラスはまた足を折りたたもうとしましたが、キノコは「今ならまだ飲めるやも知れませんぞ」とそれを止めます。パラスはそうかねえ、まだ飲めるかねえ、そんならもういっちょと気だるげに立ち上がりましたが、向かうまでは叶いませんでした。ぴんと立ち上がった姿勢のまま、凍りついたように固まってしまいました。
 なぜなら、"道"の向こう側から、一匹の獣が現れたからです。
 山の中では見たこともないような獣でした。ふさふさした秋と同じ色の毛並みをしていますが、今はまるで炎の燃え上がるように逆立っています。体躯はオドシシのそれを遥かに凌ぐ勢いで、背に人間を乗せていました。
 そして、火を噴きました。

「ウインディ、焼き払え!」

 茸狩り。
 ぱくりと開いた獣の口から飛び出したひとすじの炎は、木の根元に群がる茸虫の上を舐めるように焼いて行きました。熱波で枯れ葉が舞い上がり、そこらは木の葉のちりでいっぱいになります。数匹の茸が燃え上がりました。ぢぢぢぢぢと叫ぶような鳴き声が伝染して、蜘蛛の子を散らすようにパラスたちが逃げて行くのです。火のついたおおきなパラセクトはさながら走る松明のようでした。どんな赤よりあざやかに燃え上がる炎に、魅入られたように動けないパラスのほうへもたくさんの茸たちが逃げてきます。たまに彼を踏みつけながら、あっというまに"道"あたりを覆っていたパラスとパラセクトはいなくなりました。しぶとく木の裏に張り付いていたパラスまで、炎を吐く獣はくまなく焼き払いました。人間はその背でなにやら大声で指示をしています。獣はふんふんと熱心に地面へ鼻をつけていました。焦げ臭い香りがしました。
 そして、ふいに林の奥まったほうへ、立ち尽くしていたパラスのほうへ目を向けました。
 パラスはその真っ赤な瞳をまっすぐに見つめました。獣はちいさな茸虫をまっすぐに見据えました。
 それから初めて、パラスは弾かれたように逃げ出したのでした。

 どこかへ出かけていって、キノコと会話をせずにねぐらへ戻ってきたのは初めてでした。パラスは足を千切れんばかりに動かして、星の流れるような速さでいつもの立ち枯れの木まで戻ってきたのです。その瞳の奥には、ごうと音を立てて茸らの背に喰らいつく炎がありました。背中を火種にした茸虫がぢいぢいいいながら、行きよりもすさまじい速さで駆けて行く姿がありました。
 腐葉土の中に身体をうずめて、やっとパラスは足がびくびくしていたことに気がつきました。

「災難でしたなあ」
 キノコがぼそりと言ったころには、あれはずいぶん昔にあったことのように思えました。
 つめたい木枯らしが吹き荒んで、木はよくざわりざわりと粟立ちます。そのたび木漏れ日が揺れました。
「そうだねえ」
 パラスはてきとうでした。
「疲れましたなあ」
 キノコとパラスは切っても切れないつながりを持っています。パラスが驚けばキノコも驚き、キノコが疲れればパラスも疲れる。そこに生まれるお互いのなんともいえない感情はだんだん本能と境目をなくしていきます。
「まったくだねえ」
 そして会話がただ肯定するだけの平行線になるころには、キノコはかさを開きつくし、一匹のパラセクトが生まれるのです。
 パラスはあの炎を思い出しては、なぜか、群れを追いかけたときのもやもやした気持ちや、根元から弾き剥がされたときの心中をなぞりました。なにか、彼の語彙では言い表せないなにか、あの炎によく似たものを、自分の背にも感じました。それは致命的な熱をもって燃え上がりながらも、太陽よりあかるく輝いて、彼の握っている全てを照らしているのです。
 ぼくも燃えている。
「ねえ」
 パラスはキノコに声をかけました。
「はい、どうも」
 キノコは気だるげでした。
「ぼくたちはきっと、きみがかさを開ききってもあんまり強くならないねえ」
「それはなんと失敬な」
 パラスはちょっと笑いました。
「でも大丈夫だよ。ぼくらはねえ、燃えているからさ」
「ばかをいいますなあ、燃えていたらしにますよ」
 たとえ話さ、とパラスはお腹の下で足を組みなおします。
「どうせいつか焼けてしまうんだもの、ぼくはたからかに火を上げるよりか、やわにくすぶってるほうがいいや」
 なにより、走るのは性に合わないってねえ、今日でこりごりわかったよ。つぶやくパラスの背の上で、キノコは「そうですなあ」とただ風のままうなずいて、それっきりでした。
 高い高い秋の空を木枯らしが切り裂いていって、冬将軍の笛がぴぃぃと響きました。おおかた、森の木々がすっかり葉を落とし、灰色の雲が雪をたくわえるのを待っているのでしょう。



***
【書いてもいいのよ】
【描いてもいいのよ】
【批評していいのよ】

 きのこ/サイトとPixivのやつとはちょっと違う、改稿前のものです。


  [No.504] もりのこのぬいぐるみ 投稿者:CoCo   《URL》   投稿日:2011/06/05(Sun) 14:29:55   70clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 
 お母さんは彼女に、ポケモンに触っちゃいけません、と言いました。
 ポケモンは炎を吐いたり、電気を出したり、引っかいたり殴ったりするし、野生のポケモンにはたくさんのばい菌やきせい虫がくっついているから、撫でたり、えさをあげたりしちゃだめよ、と言いました。でも、えみちゃんちはヨーテリーを飼ってるよ。と彼女が言うと、そういう人もいるけど、そうするとアレルギーが起きたりする原因になるの。身体がわるくなっちゃうのよ。と言われました。彼女はうなづきました。

 だけどほんとうは寂しかったのです。
 草むらから街へ迷い込んだミネズミにパンの耳をやったり、人なつっこい広場のマメパトの灰色の羽毛にそっとてのひらをうずめてぎゅうぎゅう撫でたり、ヨーテリーのむく毛に顔をうずめてわしゃあと抱きしめたりするみんなが羨ましくてたまらなかったのです。
 だから彼女はある聖夜に、遠い北の国に住んでいるおじいさんへ手紙を書きました。
「わたしはぽけもんがほしいです。ぽけもんのともだちをください」
 切手がみあたらなかったので、紙をぎざぎざに切って、中にモンスターボールの絵を描き、50えんと書き添えてのりで張りました。じゅうしょとなまえと、「サンタクロースさんへ」を書きました。そしてポストに入れました。
 つぎの朝、目が覚めると、彼女はベッドの中にポケモンをみつけました。
 どきどきしながら、お母さんにみつからないように布団の中で抱きしめてみます。ふわふわでいい気持ち。
 けれどポケモンは鳴きません。まばたきもしません。葉っぱのしっぽも動きません。
 それもそのはず、ポケモンはぬいぐるみだったのです。

 それでも彼女は喜びました。喜んで、いつもぬいぐるみのポケモンをつれて遊びました。公園の砂場で遊ぶときも、ともだちと出かけるときも、いつも一緒でした。ともだちはぬいぐるみを「かわいい」と言ってくれました。彼女はぬいぐるみのしっぽにリボンを結んだり、わかば色の手のひらをぱたぱたさせたりして、この子がわたしのポケモンなんだ、と言いました。もう誰がポケモンを撫でながらわいわいいっても、自分にはこの子がいるから大丈夫。
 活発に遊びまわるようになった彼女を、お母さんはたびたび叱りました。彼女がたびたび服にどろはねをつけたり、ずぶ濡れになったりして帰ってくるからです。とくにえみちゃんのヨーテリーがぬいぐるみをおもちゃにしてしまって、しっぽが破けて綿が飛び出し、彼女が泣きながら帰ってきたときは、びっくりするほどの声で叱られました。そしてごしごし洗濯されて、縫い目がひとつ刻まれたぬいぐるみを返されたあと、しばらく会話にえみちゃんの名前を出すとお母さんは怪訝そうな顔をしていました。
 比べてお父さんはほとんど怒ることはありません。いつもはお仕事に出ていて、たまに家にいるときは部屋にこもっているか、TVと新聞をいっしょくたにながめるような器用なまねをしています。
 けれどひとつだけ、お父さんがいつも言っていることがありました。
「森へ行ったらいけないよ。森にはもりのこが住んでいて、もりのこたちはとてもおくびょうなんだ。もりのこをおどかすと森はばらばらになって崩れてしまうからね、だから森へ行ったらいけないよ。」
 ぷかぷか煙草をふかしながら、彼女に言い聞かせるのです。
 森とは、彼女の通っている学校の裏にある、木がたくさん生い茂っている場所のことです。あそこにはお化けが出るとか、子供を頭からばりぼり食べてしまうおそろしいポケモンが住んでいるとか、探検しに行って二度と帰ってこなかった人が大勢いるなんて噂されていましたが、同時にあそこにはものすごい宝物が隠されているとか、奥まで行くと湖があって、そこまで辿りついた褒美に願い事を叶えてくれるとか、そんな話も聞こえてきました。
 朝起きていってきますをするとき、夕ごはんを食べるとき、お休みの日にうちでごろごろしているとき、ことあるごとしつこいほどにお父さんが「森に行ったらいけないよ、もりのこが怖がるからね」と言うので、彼女はちょっぴり気になりました。もりのこってなんだろう。どんなすがたをしているのかな。
 ある晴れた日、彼女はついに森に行ってみることにしました。その日は光が差し込んで、やけに森があかるく、まるで中から輝いているように見えたのです。大丈夫、腕にはポケモンを抱いています。ひとりじゃないもの。大丈夫。
 きょろきょろと目撃者がいないか確かめて、彼女は木漏れ日のひかる森の中へと駆け出しました。
 太くごつごつした木の根をとび越えて、かさかさ気の早い落ち葉を踏んで、枝にひっかからないように身をかがめて。
 やがて、彼女の目の前には、こわいポケモンでも、宝物でも湖でもないものが現れました。

 それは草原でした。
 濃い緑の色をしたたくさんの葉っぱの中に、白く小さな、ぼんぼりのような花がめいっぱい咲いています。壁のようにそびえていた木がみんな開けて、そこはまるで森へ遊びにくる誰かにしつらえた広場のようでした。見上げれば青空、さんさんと太陽が降りそそいでします。彼女は、ああ、ここがひかっていたんだ、と思いました。
 彼女はせっかく来たのだし、ぬいぐるみに花輪をつくってあげようと、膝をついて花の根元をかきわけようとしました。するとその前に、草たちがかってにガサゴソと動き出したのです。
 びっくりした彼女がぱっと手を上げると、そこからひょこりと、だれかの鼻先がのぞきました。
 もぞもぞ這い出してきたのは、ぬいぐるみとそっくりなすがたをした、くさへびポケモン。
「もりのこ!」
 彼女が言うと、彼はきゅうと首をかしげます。
 もりのこさん、びっくりしないで。わたしは遊びにきただけなんです。森が崩れてしまわないように。彼女は胸がどきどきするままに微笑みながら、ちいさな彼にひとさし指を差し出しました。
 もりのこはそれをしばらくじっと眺めていましたが、ふと彼女の顔を見上げると、にぃーっと笑って、その指を握りました。
 葉っぱの手のやわらかくみずみずしい感触が、合図でした。

 それから彼女ともりのこは、日が暮れるまでそこで遊びました。草の中におなかから飛び込んで泳ぐ遊びは彼が教えてくれました。彼女はおかえしに花輪のつくりかたを教えてあげましたが、もりのこのちいさなてのひらではすこし難しすぎたらしく、彼はついにしっぽをつかんで自分が輪っかになってしまいました。彼女は笑いました。
 やがて目が霞んでしまって、なにごとかと彼女が目をぱちぱちすると、よく見ればとっぷり暮れた赤い空、振り向けばだんだんと暗くなる帰り道。かえらなきゃ! と彼女がすっくと立ち上がると、足元できゅう、と寂しげな声がしました。
 もりのこが草の中から、じっと彼女を見上げているのです。
「ごめんね、明日、またくるからね」
 彼女は背中に聞こえる鳴き声に、何度も何度も振り返りながら、森の中を戻っていきました。

 もりのこと仲良くなった彼女は、暇さえあれば森へ遊びにいくようになりました。
 森で過ごす時間が楽しくて、彼女はともだちからの誘いを断るようになりました。どうして? と聞いても「うん……」ともじもじするばかりの彼女に、ともだちはだんだん話し掛けてこなくなりました。彼女はどうしても、ほかの人にあの広場を教えるのがいやだったのです。男の子はらんぼうだから、ミネズミを木の枝でつつくようにもりのこをいじめるかもしれない、女の子たちは校庭や空き地の草むらのように、花という花を摘み取ってしまうかもしれない。けれど、ともだちと話さない学校はひどく退屈でした。やがて彼女はだんだん「行きたくないなあ」と呟くようになり、すこしづつ遅刻するようになりました。

 家にいるときは、ぬいぐるみとお話しながら、もりのこと明日なにをして遊ぶかを考えます。
 そうやってこっそり夜更かしをしていたのが悪かったのかもしれません。
 ある日彼女は、夜中とは思えぬ大声を、自分の家のリビングから聞いてしまったのです。
 お母さんの声でした。お母さんが、遅く帰ってきたお父さんを怒鳴っているのです。そういえば最近、お父さんは夕ごはんに間に合いません。休みの日も出かけるか、もしくは部屋にこもっていがちです。
「あなたって人は――――まだ夢を――――40過ぎにもなって――――ちょっとは家族のことも――――ポケモンがそんなに大事!」
 彼女は毛布をかぶってああ、これは夢だと、言いました。

 その日、お弁当と水筒を提げ、一日過ごすつもりの満々な彼女が森へいくと、もりのこは葉っぱをぎゅるんと巻き上げるイタズラをしかけてきて、それがあんまりとつぜんだったもので、彼女はすっころんで「ひぎゃあ!」と素っ頓狂な声をあげてしまいました。彼と彼女はおなかを抱えて笑いました。しかしだんだん笑いが収まると、彼女の心の中に、まるでスカートに草の汁で緑のしみが広がるように、じわじわと昨日のお母さんの声が蘇ってきました。
 なにを言っていたのかはあまり聞き取れませんでしたが、やさしいお父さんを、あんなにもおそろしい声で怒鳴りつけるお母さんを思うと、いったい何があったのか、不安で身体が震えそうで、彼女はそっともりのこを抱きしめました。もりのこはきゅう? とたずねて彼女の頬をぺちぺちします。
 もう帰りたくない。わたしももりのこになりたい。
 そう思いながらも、空を夕暮れが蝕むほどに、夜の森の恐怖が追ってきます。まっくらな森。お化け。怪物のポケモン。真っ黒に沈んでいく帰り道。
 やっぱり帰らないわけにはいかないんだ、と思っても、どうしても足が動かなくて、彼女はついに泣きそうでした。
 もりのこは腕の中。
 ふと、彼女はなにかをひらめきました。
「いっしょに来て」彼女はお弁当と水筒を入れていた手さげ袋を差し出して言います。「今夜だけでもいいの。いっしょに来て……」
 彼が何かをいうまえに、彼女はもりのこを袋に入れて胸の前に抱えると、町へと走り出しました。

 真っ赤な夕焼けに照らされて、半分ほど夜に浸った木々のあいだを走りぬけ、ぜいぜいしながら彼女は森を出ました。そして学校の前まできて、やっと自分が、手さげを抱きつぶしていたことに気がつきました。
 はっとして湿った手さげを開いてみると、もりのこはすっかりしなびていました。
 みずみずしくぴかぴかしていた身体の水気がすっかり抜けて、生気がなく、葉っぱのしっぽは葉脈がういて、しわしわでした。手はひからびた草のようにくると丸くなっています。
 ああ。胸の中につめたくにぶい色をしたものが流れ込んできて、たいへんなことをしてしまったと、彼女は思いました。もりのこは森でしか生きていけないんだ。なんてことを。わたしがすっかり自分に夢中だったせいで、この子をこんなにしぼってしまった。彼女は耳の奥で、彼と過ごした森が、がらがら崩れていくのを聞きました。
 いまにも乾きそうな彼の身体にのこったお茶を浴びせ、最後のひとくちを半開きの口へ流し込むと、彼女はもう何も思わず暗い森へ飛び込みました。お化けも怪物も、今の彼女に追いつけるものはなにもありません。ただ自分のせいで、だいすきなもりのこが動かなくなってしまうなんて、それだけはいやだ、いやだと唱えながら、数歩先さえ霞む夜の森を、走りました。
 ついに広場にたどり着くと、濃紺の夜に染まった草原の最中、彼女ともりのこを満月が迎えました。
 彼女がそっともりのこを草の上に置くと、ぐったりしていたもりのこのしっぽが、ぴくりとしました。ぱたぱた、まるでお月様を仰ぐようにしっぽが動きます。すると彼のまわりで草花がざわめきました。風もなしに、彼のしっぽへ引き寄せられるように揺れて、やがてあざやかな新芽の緑をしたひかるしずくがしたたり、もりのこのしっぽに吸い込まれていきます。彼女は、もりのこはやっぱり森の子どもなんだ、と思いました。
 やがて彼は目をぱちくりしながら立ち上がり、にぃーっ、と笑います。
 彼女は半分泣きながら、ごめんね、ごめんねともりのこを撫でました。

 家に帰ると、顔を真っ青にしたお母さんに怒られました。けれど今日は力なく、ほとんど囁くような震える声で、泣きながら怒っていました。お母さんは、ごめんなさい、とやっぱり泣きながら謝る彼女をぎゅっとしました。つぶれるほど強く抱きしめました。そのとき呟かれた言葉は、押し殺したように震えていましたが、たしかに聞き取れました。ごめんなさい。彼女は自分の言葉をそっくりお母さんに返されたのです。
「引越しをするのよ」お母さんはいいました。「ここのお家は、今日でおしまい。明日、北のほうへ行くからね」
 彼女はきょとんとしました。よく意味がわからなかったのです。
 しかし一晩ぐっすり眠って、目を覚まして、気が付きました。お母さんがスーツケースを持っている理由。彼女の手さげ袋に、もちものを詰め込んでいる理由。
「どこへ行くの」
 彼女が言うとお母さんは、自分の実家の名前をあげました。電車をいくつも乗り継いで、一度だけ行ったことがあります。あの森よりずっと深い緑と、広い畑のある遠いところです。
「もう戻らないの」
「そうよ。きっと戻らないわ」
「お父さんは?」
 彼女が胸騒ぎのままに聞いても、お母さんは「さあね……」と首をかしげるばかりです。
 ただ荷物をまとめる手を少しだけ止めて、言いました。
「友達とさよならできなくて、ごめんね」
 彼女は、はっとしました。ここを出るということは、戻らないということは。
「お願いお母さん、ひとりだけ。ひとりだけお別れを言わせて、お願い、お願いします」
 あんまり必死な彼女に、お母さんは、その子はどこに住んでいるの、と聞きました。
「森に。もりのこは……」
 口走ってから彼女ははっと口を押さえました。言ってしまった。言ってしまった。もりのこは誰にも秘密だったのに。
「もりのこですって」お母さんはとつぜん怒ったような、むしろ笑うような、だんだん泣きそうな震えに浸されていく声を押し殺して言いました。「あの人、もりのこだなんて、本当に」そして深い深い溜め息をひとつつくと、部屋の真ん中に落ちていたぬいぐるみを拾い上げ、しばらく眺めてから彼女の手にのせて。「森はだめよ。危ないし、時間がないもの」そう言いました。
 彼女はただ、ぎゅっとぬいぐるみを抱きしめました。そして顔をうずめて、バス停に向かっても、電車に揺られても、ついに顔を上げることはしませんでした。

 お母さんと彼女はその日、山のふもとにあるおばあちゃんとおじいちゃんの家について、そこで一晩過ごしました。
 彼女はぬいぐるみを放しません。
 あくる日、二人はそこからちょっと電車でいったところの、前にいた町よりすこしさびれた駅前の、古いアパートにつきました。
 彼女はぬいぐるみを放しません。
 今日からここで暮らすこと、ここから学校に通うことをお母さんが説明しました。
 彼女はぬいぐるみを放さないまま、ただ首を横に振ります。

 お母さんが出かけて行きました。知らない人がピンポン押してもぜったいに出ちゃだめよ、キッチンのものには触らないでね、さまざまに言いつけてお母さんが出て行ったあと、彼女はひとりの部屋で、そっとぬいぐるみから顔を離します。
 ぬいぐるみは口をにゅっとして、妙なかたちに微笑んだまま、それっきりです。もりのこのように、にぃーっと半月のような口で笑うことはありません。
 なにもせずに膝を抱えていると、つぎつぎにいろんなことが、なんのそぶりもなく頭の中から飛び出してきます。お父さんがふぅと煙を吐きながら、低くざらついた響きで語った森の話。朝ごはんのパンの香り。お母さんのキンキンした怒鳴り声。砂場でぬいぐるみを振り回したこと。森で遊んで、身体中に緑のしみをつけてどうしたのと怒られ、とっさに空き地でダイビングごっこをしたんだと言い訳したこと。ひとさし指を握ったもりのこの手のみずみずしさ。仕事帰りのお父さんと、あちちと言いながら鍋をはこんできたお母さんと、椅子にちょこんと乗せたぬいぐるみ、みんなで囲んだ夕ごはんのカレー。あのときつけたカレーの染みはまだぬいぐるみの頭でかすかに黒ずんでいます。
 電車の音、壁のきしむ音、どこかで鳴っている電話、知らないアパートの部屋の中は、まるで暗く沈んだ森の中でした。
 彼女は、ぬいぐるみを床にぽてんと落とすと、もうだれにもあいたくない、と言いました。

 ピンポンに出てはいけないと言われていたので、「お母さんよ!」とドアをどんどんされるまで、彼女は立ち上がりもしませんでした。
「いま両手が塞がってるの」お母さんはドアごしに言います。「鍵、開けて」
 彼女はがんばって腕を伸ばして、指先で鍵をひねりました。
 ドアを押し開けると、爽やかで甘い香りが広がります。まるであの森で作った花輪のような。
 見上げれば、お母さんの顔が花に埋もれているのです。
 お母さんはそれはおおきなバスケットブーケを抱えていました。編みこみのきれいなかごの中いっぱいに、白や赤、黄色のあざやかな花が、咲き乱れているのです。どの花もとにかくおおきくて、わたしがいちばんきれいでしょう、と競い合っているみたいでした。
「ほかにも荷物があるから、ちょっとまっててね」
 ブーケを奥の部屋に置いて、お母さんはまたぱたぱたと外へでていきます。
 彼女は輝きすぎて眩しいぐらいの花束を眺めましたが、その背景はどうやっても殺風景な部屋の中で、あの広場を吹き抜ける風は、高い高い空は、残念ながらその中にはありませんでした。
 ただ、その花と葉のすき間に、彼女はなにかカードのようなものを見つけたのです。だから彼女は、膝をついて花の根元をかきわけようとしました。
 するとその前に、花束が勝手にがさごそと動き出したのです。
 背骨に電気が走ったようでした。
 びっくりした彼女がぱっと手を上げると、そこからひょこりと、だれかの鼻先がのぞきました。
 もぞもぞ飛び出してきたのは――。

「もりのこ!」

 もりのこは、かごを蹴って彼女の胸の中に飛び込みました。かごが倒れて色とりどりの甘い香りが床いっぱいに散らばります。そして緑のちいさな手は、なんとか彼女を抱きしめようとしながらきゅうきゅう言いました。
 彼女がカードを見ると、そこには太い字で、こう書かれていました。
『ツタージャのそだてかた
1 みずとひかりをやること
2 そとへでてあそんでやること
3 ぬれたタオルでやさしくふいてやること
4 あいしてやること
 ひとつきはやいけど、たんじょうびおめでとう。 おとうさんより』
 彼女はついに、うちのこになったもりのこを抱きしめました。つやつやした彼の身体からは、新緑の香りと、ほのかになつかしい煙の匂いがしました。それだけで、もう何でもできるような気がしたのです。もうずっと一緒ね。
 ただ、こんなに素敵な花束をもらってどうして、こんなに胸がくるしいのか、涙がながれるのか、それだけはついにわかりませんでした。

 戻ってきたお母さんは、きゅうきゅうした鳴き声と娘の笑い声のする奥の部屋をちょっと覗こうとして、やっぱりやめました。
 そしてダンボールだらけの引っ越したての部屋の中に転がっていた、しっぽに縫い目のある古ぼけたツタージャを拾い上げました。使い古されてすっかり綿は固くなり、手触りはけば立って、あざやかな緑だった身体は灰色にくすんでいます。
 もはや役目を終えた彼を拾い上げながら、お母さんは、あて先不明の印を押されて自宅のポストに放り込まれていた娘の手紙を見つけたあの日、思わず売り場でぬいぐるみを手に取ってしまったあの日のことを、ゆっくり思い出していました。

 

***
【書いてもいいのよ】
【描いてもいいのよ】
【批評していいのよ】

 愛してもいいのよ。
 


  [No.505] フレアドライブ 投稿者:CoCo   《URL》   投稿日:2011/06/05(Sun) 15:23:27   58clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 

 駆け抜けた。走った。
 深い森を掻き分け走った。喉が痛い。吐き捨てた息は白く吸い込んだ風は気管支を痛めつける。足の裏に木の根の感触。冷え切っているのにどうしようもなく熱い。ジグザグ走行。太股がパンパンに張っている。道が合っているのかわからない。あーっつう、地図とか見てる暇がない。ぶん投げる腕で掻き分ける空気が冷たい。枝が痛い。
 衝動が湧き上がる。
「追いつく」
 追いつく。あれには追いつける。
 俺の口から零れ落ちた言葉をすくい、隣を走るゴウカザルが雄たけびを上げた。響き渡って夜明けに染みた。でも俺はそんな染みも超高速で踏み越えてさらに速く。まだ暗い森、併走する猿の明かりだけを頼って。
 胸を圧迫する呼吸のたび掠れる喉の奥が痛い。



 そういやいつも走れば走るほど痛かった気がする。
 馴染みのガキと遊び回れば足を切り傷だらけにし、マラソン大会ではゴールに顔面から飛び込んで顔を半分血まみれにした。ぶっちぎりの一位だった。
 勉強、球技、口喧嘩、何をやらせてもボロクソだったが足だけは速かった。駆け比べなら負け知らずだった。最速の名を欲しいままに、ナントカ大会で貰った盾だの賞状だのが家でいくつも埃を被っている。
 ところが彼女には、どうしたっても敵わなかった。
 ポケモンを貰うって日の朝、研究所まで駆けっこで行こうと言い出したのは俺だった。彼女はただ「好きだね」と言って勝ち目のないレースに乗った。俺は運動会じゃ負けなしのリレー選手、彼女は座り込んで本を読むインテリ。俺はあっというまに彼女を突き放して隣町に飛び込み、そして彼女が追いついてくるまで余裕をかまして待っていた。
 そこへ、彼女は歩いてきた。いつも通りの能面で、けれど口元にほんの少し笑みを湛えて。
「負けちゃった」、と。
 おう、としか言えなかった。いつもそうだ、彼女を相手にしたときは、俺はどうしたって胸のここらへんに小骨のつっかえたような思いをする。そんな心持ち悪さに任せて思いッきり研究所のドアを開いた瞬間に、顔面に飛び込んできたヒコザルの勢いに引っくり返ったのも今はいい思い出。
 ほとんど必然的にそいつをパートナーに選んだ俺へ、何を思ったのか彼女はナエトルを選んでおいて、「勝負しよう」と言ってきた。
 初めてのポケモンバトルは、炎タイプと草タイプ。相性は歴然。
「やれ、ヒコザル!」
 去年のポケモンリーグの中継、防戦一方のドダイトス相手に炎を纏って飛び回り、あっという間に試合に片をつけたゴウカザル。あのビジョンが頭の中に閃いた俺は颯爽とヒコザルをけしかけた。
 ひたすらひっかくを繰り出すヒコザルに、彼女はただナエトルを耐えさせた。あのとき身を屈めた亀の瞳は、そういえばじっとヒコザルを睨んでいたような気もする。
 勝てる。確信が膨れ上がって、俺は実況中継の真似事までやった。さあーヒコザルのモーレツラッシュひっかきだ! ナエトル選手、もはや手も足もでないかー!
 そして俺のヒコザルがトドメとばかりに振りかぶったところへ。
 奴は強烈な体当たりを叩き込んできたのだ。
 あの体当たりは、今や進化した彼女のドダイトスが振りかざすウッドハンマーでさえ掠れてしまうような勢いを持って俺の記憶に傷を残している。ヒコザルはオーバーなまでに吹っ飛んで地面に転がった。
 たった一撃でのされてしまったヒコザルを呆然と見つめる俺に、彼女はとびっきりの笑顔で。
「今度は勝ったよ」、と。
 白い腕を後ろに組んで、少し誇らしげに。
 あのとき何も言えなかった俺が、今もまだ彼女に追いつけない。



 サイクリングロードの草むらをぶっちぎると炭鉱の町の向こうにテンガン山が見えた。
 頭が沸いて目の前が滲んでも構わず、ぽっかり開いた洞穴へ飛び込む。



 そういえば最初にテンガン山まで着くのはどっちだろう、と彼女と賭けたこともあった。
 旅立ちの日取りも決まったある日。
 彼女が、テンガン山に着くまでにバッジをいくつゲットして、山を越える頃にはポケモンをこのぐらい強くしておきたい、などと計画性のあることを言っていたので、俺は突発的な思いつきで「なあ、テンガン山まで、どっちが先に着くか競争しようぜ」と言ってしまったのだ。
 競争なら勝てると思った。
 他の何で敵わないとしても、レースなら負けない。今までも負けたことはなかった。これからも負けるはずがない。
 彼女は一瞬目を見開いたが、すぐに俯いて、うん、いいよ、と笑った。
 その返事だけで、俺はもう満足だったのに。



 一瞬真っ暗になった視界をゴウカザルの炎が切り裂いた。驚いたズバットが酷い羽音を立てて右往左往飛び上がる。
 登れそうな壁は深い水溜りの向こうだった。勢いで走り込むと膝あたりまで水につかって足が止まった。立ち止まると振り切っていた熱が一気に身体に追いついてきて汗が噴き出す。水は凍るように冷たいはずがなんだかミネラルウォーターみたいだ。ゴウカザルは炎を吐きながら壁を走り抜けた。でも手が、手が震えてゴルダックのボールを押せない。しょうがないからジャケットを脱ぎ捨て、俺は黒い水の中へ踊り込んだ。思いっきり水を掻いた。くっそジーパン重てぇ! 思うように前に進まず息継ぎができない。ついプールのノリで足を着こうとしてしまったが水底がない。沈む。がはっ水っ溺れると思った瞬間目の前に差し伸べられた手を無我夢中で握ると、肩から腕だけ外れてどっかいくんじゃねーかって勢いで引っ張り上げられた。ゴウカザルだった。さんきゅー、ずぶぬれの声で言った途端に震えがきた。
 ほとんど持ち上げられるように壁を登って、薄暗い洞窟の中を走り出そうとしたがジーパンが重くてうまいこと足が上がらない。あッ、と思った瞬間には手遅れで、俺は蹴っ躓いて盛大に転んだ。眼前に岩! 額のド真ん中でドータクンが鳴った。痛ッてェアァッと額を押さえようとした手がものすごく重たく、視界が紫に転変し、あー、やべ



 本当にやべえ。心の底からそう思った。
 彼女はとんでもなく早かった。俺がコトブキシティで大勢のトレーナー候補に容赦なくぶちのめされ泣きながら草むらにこもっていた間に、彼女はさっさとクロガネジムを突破していた。当っては砕けるバトルの末、ヒコザルは瞬く間にモウカザルに進化したが、戦績は黒星のほうが多いくらいだった。
 ――どうして上手くいかない!
 夜中、毛布かぶって泣いた。泣いて泣いて、辿りついた結論で一つ大人になった俺は、生まれて初めて回り道をした。トレーナーズスクールに飛び込んで頭を下げポケモンの相性だの特性だの技だのを頭ン中へぶち込ませていただき、手持ちを増やせといわれてモンスターボールに散財した。
 明らかに遅れをとって猛烈に焦った。走っても走っても彼女に追いつかない。どこを走っていても、いつ電話が鳴って「テンガン山着いたよ」と彼女の声が微笑むのかと思えばいてもたってもいられなくなる。しかし走れど走れど彼女の後ろ姿には届かず、俺の行く道にはただ悠々と彼女の歩いた跡だけが続いている。どれだけ走っても追いつけない。だんだんと息切れの頻度が増えた。
 ゼエゼエしながら走り抜けた森の奥はハクタイの町で、俺は彼女と再会した。
 彼女はギャロップにまたがっていた。だんだんとそこらが影に覆われていく中、揺れる赤のたてがみに照らされてボンヤリした彼女の横顔、そこで沈む夕日を返し一瞬だけ光った彼女の目。へびにらみ。からだが しびれて うごけない。
「今度はさ」彼女は言った。「サイクリングロードに行こうと思って」
 俺は彼女を見て、彼女の向こう側、つまり彼女がやってきたほうを見上げた。
 黒く染まったテンガン山があった。
 じわじわと靴の切れ目から水が侵入してくるような感覚だった。足の先から冷たくなる。
「テンガン山に着いたら連絡するって」
 約束じゃなかったっけか、俺が尋ねると、彼女はいつもどおりの顔で目を瞬かせた。
「そうだっけ」
 それからもう一つ、思いついたように。
「ごめんね」
 俺はその時気がついた。このスニーカー、真面目に先っぽがぶっ裂けて浸水していやがったと。



 あんまりにもふらっふらで、どうやって洞穴を抜けたのか覚えていないが、気がついたら足の裏は雪を踏んでいた。
 風が吹いていた。表へ出ると一瞬にして全身にぶるるるるるると振動が走り抜け、正直死ぬかと思った。膝ががくがくしたのは疲れのせいだけじゃない。ジーパンがアホみてぇに重たい。足元は雪、上空は晴れ渡り突き抜けるような空。
 寒い。
 よく考えれば雪山で軽装でずぶ濡れだ。死ぬ気がする。つーか死ぬだろう。
 考えてもしょうがない。
 雪の中へ走り込む。一歩にして足が埋まる。胸の奥はすでにエンジン全開なのに足が進まない。一歩が重い。くそ、進まねぇんだよボケこの野郎!
 ふとゴウカザルに裾を引っ張られた。そっちを見ると、誰かの真新しい足跡が点々、向こうまで続いている。
 足跡の上に立ち上がるとずぶぬれの靴も沈まない。一歩を足跡に重ねながら少しずつ進む。
 いやいやいやダメだ、このままじゃ追いつけない。足跡なんざ追いかけている間にもここを踏んだ人間は前進している。どうしたらいい。もはやあまりの寒さに身体が感覚を失い始めた。走り出したい。指先は燃えるように熱い。どうしたらいい。
 もどかしいまま穴の前まで辿りついた。足跡は奥へと続いている。



 誰かの走った跡を追いかけるのは簡単だ。行く手を阻む雪は踏みしめられ、藪は切り開かれた後だから。
 だが、ただ足跡を追って追いかけるだけでは、決して追いつくことも追い抜かすこともできない。
 分かってるさ。分かってるよ。だからってどうすればいいんだよ。
 写真で見たときはあんなに大きく感じたテンガン山を、あの日、俺は数分で通り過ぎた。
 洞窟を抜けると雨が降っていた。冷たくて冷たくてしょうがなかった。だけども足は止まらなかった。叩きつける雨に視界は真っ白になり、それでも止まらなかった。丘を駆け上がりながら、胸の中から込み上げてくる塊を吐き出そうとしたら嗚咽が出てきた。約束なんか忘れるもんだろ、バカは振り回されてもがいてた俺のほうか! 不意に死に物狂いで挑んできた今までの記憶が追いかけてきて俺を打った。腹の底に溜まったいやな臭いのするドス黒い油を燃やし熱くて堪らないのに雨は全身を貫くように冷たい。限界のギア数で回る足を放り投げた。さもなくば追いつかれる、追いつかれたらお前は最低最悪の負け犬だ!
 どこまでも走った。その日のうちにトバリまで着いてジム戦に挑み、何をどうしたか知らないが奇跡的に勝った。覚えているのはモウカザルが相手のルカリオにかえんぐるまで突撃して火だるまになり、立ち上がったときにゴウカザルに進化していたことだけだ。
 トバリジムの碑には彼女の名が刻まれていた。
 足が止まらず、ジムを見かけては速攻で挑戦状を叩きつけたが、だいたい瞬殺された。もはや競う約束もないってのにあんまり悔しくて何度ボールを投げ損ねたか分からない。負けるたび、振り返る挑戦者の碑に刻まれた彼女の名前が俺を見下してくる。お前はもう周回遅れだと。
 彼女の足跡は俺の目の前に、毅然として、誇り高く、迷い無くただ真っ直ぐ続いていた。それをグチャグチャに蹴散らして、何としてでも追いつこうとしていたはずなのに、しかし彼女の視界に俺は居なかった。当然だ、強者は振り返らない。つんのめりながら追っかけてくる俺なんて全くもって眼中にない。それどころか俺は彼女と比べられるだけの位置にも達していなかった。という事実の切っ先を、ある日喉元に突きつけられた。極寒の町で。
 調子は万全だった。今度こそ一発で勝とうと気合を入れて、ジムに入った途端に爆音で鼓膜が引っくり返った。
 もうもうと上がった白い煙の向こうには彼女とドダイトス、そして氷の色をした小柄な犬。彼女は鋭く指令を飛ばし、亀が四つ足をついて飛び上がる。ジムリーダーが叫ぶ。氷の犬の小さな口に粒子が集まり、青白い光線を吐く。光線はドダイトスの土色の前足を抉り、そのまま背の大樹を凍らせ叩き折った。大地の嘶くような悲鳴がドダイトスの口から轟く。彼女が声を張り上げた。亀は落下し、凍った四本の足で氷の床を叩く。地震。ジムが揺れた。床がばきばきに罅割れ、ドダイトスを震源とした凄まじい衝撃で照明が落ちた。破壊音の末、そこには半分身体を氷に覆われてなお立ち上がるドダイトスと、力なく倒れた、グレイシア。
 俺は思った。
 前に進み続ける人間は、後ろを振り返ったりしない。ただひたすらに高みを目指し、脇目も振らずに昇り続ける。誰が追ってきているなんてことは関係ないのだ。張り合っていたのは俺だけだった。
 結局その日、ジムには挑戦できなかった。



 見上げたテンガン山の頂は朝焼けに輝いていた。やりのはしら、と呼ばれる古い建造物の切っ先がここからでも少しだけ見える。
 覗きこんだ洞窟の奥はさらに入り組んでいた。
 遠い天辺を見上げて、もう間に合わないだろうと思った。そもそも追いつくはずもなかったのだ。彼女にも止められた。それを振り切ってきたのは俺だ。馬鹿だった。
 冷たいを越えて感覚を失った全身が震えた。肺が痛い。もうだめだ。いや、随分前からだめだった。なんとかなると思って走っていた俺が馬鹿だっただけだ。そもそも追いついてどうするつもりだ。彼女が勝てなかった相手を、俺が、どうするってんだ。
 膝が崩れた。唾を吐こうとしたが口がカラカラに渇いていて無理だった。無理だった。無理だ。元から無理だった。こんなところでこんな格好じゃこのまま凍死するだけだろう。ついてない人生だったな。
 ゴウカザルが俺の顔を覗き込んできた。
 すまん、もうだめっぽいわ、と呟くと、ゴウカザルは首を横に振った。いやいやいや。もう無理だって。だってこんなビショビショで立ち上がれもしない身体でこれ以上山登りなんかできないでしょ。しかしゴウカザルは神妙な顔をして、頑なに首を横に振る。なんでだ。なんでだよ。
「じゃあどうしろッてんだよ!」
 予想外にまともな声が出た。ゴウカザルはぎくりとして止まった。
 どうすりゃいいんだ。もう手遅れなのにこんな無様な負け犬へこれ以上何をしろっていうんだよ。無理に決まってるじゃないかこれからやりのはしらまで登りつめるなんざ。もう追いつかない。
 岩肌に手をついているのも辛くなって倒れこむと雪の中は心地良いぐらいだった。あーここが俺の棺桶ですか。さいですか。お母さんごめんなさい俺は本当に親不孝でした。最低な息子でごめんなさい。来世では立派になれるよう頑張ります。
 突然腕を引っ張り上げられて驚いた。痛テテテテ痛い! 関節が捻り上げられて冷えた腕に鈍い痛みが走った。
 ゴウカザルに担ぎ上げられていた。
「おま、ちょ」
 抗議を聞くつもりもないようで、ゴウカザルは俺を抱えたまま斜面を物凄い勢いで駆け登りはじめた。こいつだって疲れているはずだろうに平気な顔で。引っ掛けた岩石が足元で崩れ落ちていく音が聞こえる。怖くてぴくりとも動けなかった。
 猿は吼えた。ただやりのはしらを、山の頂上を見据えて甲高く吼えた。山が震えたような気がした。
 斜面を上りきる直前でバランスを崩し、俺は右足の腿を思いッきり岩に擦った。火のついたような熱に襲われて痛ッ! 雪の大地に放り出されて肋骨に衝撃を受けたのも同時で、一瞬息ができなかった。打った足が猛烈に痺れた。あまりの痛みに歯をくいしばって耐え、雪の上に手をついて起き上がるとジーパンが擦り切れた上から血が滲み出ていた。燃え上がるように熱い! たまらず雪を押し付けたらとんでもなく染みた。
 ゴウカザルはロッククライムの勢いで横転して転がっていた。大丈夫かと声を掛けると頭の炎が揺らぎ、ふらふらと起き上がる。
「もう戻れよ」
 よくあんな無謀な長距離走に付き合ってくれたよ。腰のベルトからゴウカザルのボールを外そうとしたが、手がまともに動かない。ゴウカザルはまた首を横に振った。
「まだやんのか」
 咄嗟に言うと、こいつははじめて頷いた。
 なんつー根性。俺はもう今にも諦める気満々だってのに、お前はまだ俺に走ってほしいのか。
 ああ、そういえば彼女に再会し、約束を木っ端微塵に破り捨てられたあの日。豪雨の中をやったらめったら駆け抜けた俺の隣には、こいつが居た気がする。あの雨の中、炎を食って生きてるようなこいつが。あとでぐしょ濡れになったのを見て驚愕したようなのを思い出した。
 お前はいっつも俺の隣を走ってたよな。走ってくれていたんだよな。もしかして走りたがっているのか。俺と? この負け犬とか?
 なんてこった。
 そうだ、走るしか能のない俺が、走るのを諦めてどうするつもりだったのだろう。ついに何もかも失くすところだった。本当に馬鹿の極みだ。
 込み上げる声にならない笑いで膝の震えが相殺されてしまったようで、気がついたらゴウカザルの肩を借りて立ち上がっていた。
 猿の目は、まだ、燃えている。
 さんきゅー。
 行くか、やりのはしら。



 彼女から電話を受けて、俺は駆け出した。
 走らずにはいられなかった。電話越しの彼女の声があんまり震えていたからだ。
「今どこにいるの」コトブキ。「ソノオに来れる」いいけど。「来れたらでいいから」
 真夜中だった。無口な彼女から電話がかかってきただけでも驚いたというのに、その声のあまりの覇気のなさ、むしろ何かを押し込めているような震えに、嫌な予感がした。少なくとも彼女は寂しくなった程度の用件でこんな時間に電話をかけてくるような人間じゃあない。
 ソノオまでは十分もかからなかった。彼女を探したが、ポケモンセンターにもどこにも見当たらない。呼びつけておいてどこに居るんだよ、と思った矢先、花畑のほうから騒がしい鳥の声がした。
 それは彼女のムクホークが、無残にも地面に叩きつけられる瞬間だった。
 相手はどうってことない普通の男だった。ただポケモンがどうってことありありだっただけだ。
 真夜中より黒い、破れた翼のようなものを広げた巨大なムカデ。白金の色をした冠を抱き、赤黒い腹をうねらすそいつは、深い影の中から現れるとムクホークを思い切り叩き落した。羽と花が散ってバキボキと酷い音がした。不気味なそのポケモンは巨体を震わせながら影に飛び込んで消えた。
 男は二言三言を彼女に呼びかけると、ボールから巨大な気球のポケモンを呼び出して、ふわふわと去っていった。
 駆け寄ると彼女は泣いていた。
 顔を真っ赤に歪めて、手放しに泣いていた。言葉に詰まった。こんなとき何と言っていいのかわからなかった。とりあえず肩を叩いた。止まらない嗚咽に噎せる彼女の背をさすってみた。
 彼女はもう駄目だと言った。しきりに私のせいだ私のせいでと言った。何が私のせいだよ俺なんかお前の数倍あんな負け方してんぞ、と言ったら何を的外れなことをとでも言いたげな目をされた。
 彼女は言った。他のトレーナーに百回負けても、あの一回には勝たなくちゃならなかった。
 どういうことだと問い詰めると、ぽつぽつと言葉を漏らす。あの男は隠された泉を暴いて別の世界? に居るポケモンを呼び出し、さらにそこで手に入れた道具を使って、神に会おうとしているのだと。
 アホ臭い話だ。にわかには信じられない。
 それがどう関係あるのかと聞いて驚いた、旅の途中であの男の陰謀に出くわした彼女は、それを何度も阻止してきたのだという。そしていつの間にかあちこちであれを止めるのは君しか居ないと言われ、何としてでも神の復活? を止めようとしていたらしい。それが失敗した。
 私のせいだ。私のせいで。大変なことになってしまう。
 膝を抱えた彼女はもう顔を上げなかった。ただ自分を抱えて震えていた。あんなに必死に追いかけた背中がここにあった。こんなに小さかった。
 彼女の泣いているのを見るのは初めてだった。
「泣くなよ」
 泣きやむはずがない。
「泣くなよ!」
 さらに止まらなくなってしまった。ひっくとしゃくりあげるたび背中が悲痛ではちきれそうだ。
 正直何だか状況はよくわからなかったが、憤りを感じた。それは彼女が背負い込んじまうべきもんだったのか。そんでこんな震えながら謝らなくちゃならないようなもんなのか。部外者の俺には分からない。しかし一つ分かった、彼女だって決して振り向かなかったわけじゃなかった。俺にはただ真っ直ぐに見えた彼女の足跡も、本当は転んだり、迷ったり、立ち止まったりしていた。時には後ずさりさえしたかもしれない。俺のように。
 ああ、逃げ水相手に競争とは。俺も本当に馬鹿だな。
「なあ、」
 冷たい清水が胸に湧き上がるような感覚で喉が震えた。
「さっきの奴ってどこ行ったんだ」
 彼女はゆっくり腕だけ伸ばして指差した。黒く聳えるテンガン山。そして消え入るような声で、やりのはしら、と言った。
「さっきの奴を止めればいいのか?」
 彼女が顔を上げた。
 咄嗟の思いつきだった。翼の折れたムクホークでは飛べないし、俺も飛行タイプのポケモンは持っていなかったが、あんな紫風船よりは速く走れる自信がある。というか、それぐらいしか胸を張れる部分がないのだ。だからせいぜいこれで格好付けさせてくれ。俺が野郎を追いかける。彼女の代わりに俺が止める。
 彼女は猛反対したが、俺はさっさと伸脚してテンガン山を見据えた。後光が差していた。
「ちょっと行ってくる」
 ゴウカザルのボールを投げながら、彼女の声を振り切って駆け出す。ついさっきのような随分昔のようなスタートダッシュ。



 無理やりすぎるロッククライムでショートカットしたおかげか、次に飛び込んだ横穴をあとは登るだけだった。
 ごつごつと岩に阻まれた洞窟をただ走った。さっきまであんなに凍死を覚悟していたのにもう身体の中央がふつふつと沸いている。同時に右足の盛大な擦り傷も疼いたが、んなこたどーでもいい。もう後は地面を蹴るのみだ。時にゴウカザルの爆炎は邪魔なドータクンを焼き、俺は華麗なステップでゴローンをかわした。
 確かに俺はクソみてぇな負け犬なんだろう。張り合ってるつもりでアウトオブ眼中、頑張ってるつもりで勝率は五分五分、マジモンの馬鹿だ。それでも唯一胸を張れるのがこの足、これしかない。これしかないんだ。追いつける追いつけないなんてことは考えるな。ただ走れ。泥の地面に一歩を刻め、土くれ抉って前に進め!
 なにせ相手は彼女を負かした野郎だ。その上あの半端ねぇ威圧感のムカデ、俺の手持ちじゃ勝てる気がしない。だがあの男自身はどうだ。あのひょろい姿じゃ42.195kmも走れねぇもやしに違いない。比べて俺は、バトルも強くないし頭も悪いかもしれねえが、最速の足を持っている。ポケモンと一緒に傷だらけになって泥まみれになって走ってきた足だ。
 ポケモンバトルで勝てないなら。別のバトルで勝つだけだ。
 彼女の背中を思いだせ。
 俺は吼えた。時間がどろどろに引き延ばされたような感覚の中で頂上は果てしなく遠く、ただゴールの瞬間だけ思い描いて叫んだ。いったい今息を吸ってるんだか吐いてるんだか、呼吸のたび全身くまなく痛いがそれさえ前に進むための鞭に代え、岩を越え損ねて転ぶ、さっさ手をついて跳ね上がる、傾斜のきつい洞穴を駆け上がる。岩陰からゴーリキーが現れた。
「邪魔だァ!」
 ゴウカザルは吼えた。炎を身体に纏い突撃し、松明の頭を白く爆発させた。猿は燃え盛る一撃で筋肉ダルマをふっ飛ばし、いっそう洞穴を明るく照らし出す。
 顔を上げると眩しい出口があった。
 勢いに任せて飛び込み、冷たい空気を身体で受け止める。白く爛れた柱が空に向かって伸びる、やりのはしら。
 男は笛を吹いていた。陰気臭い曲だ。その周りを真っ黒な影が悠々と泳いでいる。陽射しを浴びてもなお濃い影が白い槍の中を漂い、鎌首をもたげると兜のような頭が現れた。やがて天上から野郎に向かって光が差し込み、それを道連れにぱたぱたと紙細工のような階段が降りてきた。夜明けの紫に染まった空のさらに彼方へと続いている。神を呼ぶ、ってこういうことか。陽光で出来た階段はあたりの影という影を吹き飛ばし、遺跡を眩く照らし出す。神々しいが、残念ながらこれはそういう話じゃない。適当に叫ぶと枯れた声が反響した。男は振り向いた。
 あいつだ。
 拳を握り締める。畜生、俺が死ぬ気で追っかけた相手をあんな軽々泣かせやがって一発ぶん殴らねぇことには気が済まねえんだよォ!
 猛火を噴き出した俺と猿は光の中に悠々と立ち竦む神に向かって腕を振り上げた。驚きのあまり笛を取り落とした、ゴールテープは目の前だ。



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【書いてもいいのよ】
【描いてもいいのよ】
【批評していいのよ】

 総字数一万字ピッタリにこだわりました。
 改稿版第三稿、とくにお気づきの点等なければ完の予定です。