当り前のように、今日もこの病院にやってきた。
当り前のように、今日もエレベーターで三階に上がった。
当り前のように、今日も一番手前の部屋から順に回っていく――そのはずだった。
でも僕を連れたポケモンセラピー協会の人は一つ目の部屋を素通りした。
『セラピスト』
僕とあいちゃんが初めて出会ったのは五年前。あいちゃんがまだ九歳の頃だった。
あの時もあいちゃんはこの病院のこの病室のこのベッドで本を読んでいた。
ポケモンセラピー協会の人に連れられて初めてこの病室に入った時、僕は思った。
あいちゃんは多分、ここ何年も笑い方を忘れている。
当然のように僕は無視された。
「アイ。ほら、そんなに本ばっかり読んでないで。調子のいい日はお散歩した方が身体に良いってお医者さんも言ってたでしょう?」
あいちゃんのお母さんがそう言っても、あいちゃんはただ黙々と本を読み続けるだけ。
「今日はね、一緒に散歩してくれるお友達を連れてきたのよ。ほら、アイもご挨拶して」
あいちゃんはほんの一瞬だけ僕を見た。そしてすぐに本に視線を戻した。
ポケモンセラピー協会の人は僕を抱きかかえてあいちゃんの寝ているベッドの足元の方に乗せると、僕の両前足を持ってド下手な演技をした。
「こんにちは! あいちゃん。僕はポチエナのペロだよ。いっつも舌を出してるからペロって言うんだ。これからよろしくね!」
「出てって」
あいちゃんは一蹴した。
スベってるじゃんか、僕。しかもこんな恥ずかしい格好でさ。
「こらアイ! せっかくペロが散歩しに来てくれたのにどうしてそんなこと言うの?」
「そんなこと頼んでない」
なるほど、それはもっともだ。
結局、僕らの初めての出会いはそんな感じで終わった。
病室を出た後、あいちゃんのお母さんは協会の人に何度も頭を下げて謝っていた。
「ほんと無愛想な子でして――」
お母さん、それは違うでしょうに。
僕は施設で殺処分寸前のところをこの「ポケモンセラピー協会」に助けられ、今はこうして難病と闘っている子供たちや、ケアホームで暮らしている御老人を訪問し、人間の言うところの「心のケア」を行っている。
人ってのは不思議なもので、普段気持ちの沈んでる人もポケモン相手になら心を開き、びっくりするほど元気になるのだそうだ。
この病院にも、月に一度の僕の訪問を心待ちにしてくれている子供たちがいる。
僕はちゃんと訓練を受けた「プロ」だから、子供たちにもみくちゃにされたり、散歩中に手加減なく紐を引っ張られたりしても決して怒ったりしない。もちろん噛みついたり、技を出したりするなんて言語道断だ。
「プロ意識」ってやつを僕はちゃんと持ってこの仕事をしているのさ。
だからあいちゃんのあの態度には僕のプロとしてのプライドが反応してしまう。
僕が人間なら言ってやりたい。「とっても綺麗な顔をしてるね。でもあいちゃん、そんな暗い顔してちゃ全然可愛くないよ」と。
あいちゃんの笑顔を取り戻せなければ、「セラピスト」として失格というものだ。
この日から僕はなんとかあいちゃんを笑わせることができないか、必死に頭をひねった。
と言っても、月に一回しか会うことができないからなかなか思うように打ち解けることができないし、人間のように面白い話をしたりすることも不可能だ。
ポチエナの僕にはせいぜい、しっぽを振って「ペロ」の名のごとく舌を出してあいちゃんを見つめることしかできなかった。
半年ほどたったある日のこと。たまたま僕とあいちゃんは二人きりになった。
そこで初めてあいちゃんの方から話しかけてくれたんだ。
「あなた、ポチエナでしょ?」
人間の問いには、僕はただ見つめ返せばよい。まあ、それしかできないのだが。
「噛みつきポケモン、悪タイプ。進化系はグラエナ――」
あいちゃんは手に持った本を閉じて、相変わらずの暗い目で外の景色を見ながら、淡々と僕の基本情報を述べた。
「せいかくはしつこくて、獲物が疲れ果てるまで追いかけ回す――正解?」
概ね正解。人間と生活を共にしている僕は「エモノ」なんて追いかけ回すような日々を送っているわけではないが、君の笑顔を見るためにしつこく毎月お邪魔している所存である。
「噛みつきポケモンなのに、あなたはあたしに噛みつかないの?」
噛みついたらまた殺処分になるからね――僕は「ウォン!」とひと吠えした。
「そうなんだ――悪タイプなのに優しいんだね」
僕はあいちゃんの口元が少し緩んだのを見逃さなかった。
これはチャンスだと思い、僕はドアの方へ駆けていき、いかにも外に出たそうな仕草をした。
「――散歩、行きたいの?」
僕はあえてけたたましく、何度も吠えた。
「ちょ、ちょっと! 静かにして! ここは病院なんだから――もう、分かった! 連れてってあげるったら!」
この日は僕、ホントに生きてて良かったと思った。
外に出て、僕の手綱を引くあいちゃんはウソみたいに笑顔を取り戻した。
なんだ、結構可愛いじゃん。
ちなみに、僕がなにかすごいことしたから彼女が笑顔を取り戻すことができたというわけではない。
誰だって思いっきり笑って人生を過ごしたい――けど時々、何か特別理由があるわけでもなく、「笑うのが怖い」という子がいるのは事実だ。
彼女もそうだった。
僕はただきっかけを与える。彼女はほんのちょっとの勇気を出して、ほんのちょっとでも笑えたら、あとはドミノ倒しのように次々笑えてくる。「笑いの波」に乗ってしまえばいい。別に怖くない。
その日から僕たちは「親友」になった。
さっきまで「仕事」だとか「プロ意識」だとか散々ぬかしたあとであっさりと「親友」と言ってしまうのはなんだか弱っちい感じもするが、でもやっぱり僕たちの関係は「親友」以外の何物でもなかった。
あいちゃんとの散歩は本当に楽しかった。なにか理由があって楽しいわけではない。多分、彼女が楽しんでくれているから僕も楽しい。
なんでも彼女の将来の夢は「ポケモントレーナー」になることなんだって。
あいちゃんが読んでいる本はポケモンの生態学の本やポケモンバトルの戦術本がほとんど。どおりでポチエナのことも詳しいはずだよ。
昔僕のことを捨てたポケモントレーナーは、クソみたいなやつだった。
最初は意気揚々とショップで僕を購入し、いろんな大会に出てそこそこ勝ち抜いて、それなりに実力があった。しかし、いつからか僕に飽きはじめ、飼うこと自体を面倒くさがり、最後には施設の入口の前に僕を捨てた。
以来、「ポケモントレーナー」というものにはあまり良いイメージがないから、あいちゃんには是非僕の中のトレーナー像を塗り替えてほしい。
協会の人の話だと、あいちゃんの健康状態はかなり良くなってるらしい。これは僕にとって嬉しいニュースだ。もうすぐあいちゃんも中学校に進学する歳だから、早く元気になって他の子供たちのように学校に通えるようになってほしい。
そうそう、あいちゃんが一度僕に言ったことがある。
「ねぇペロ。あたしが退院して自由になったら、あたしのパートナーにならない?」
昔のあいちゃんからは想像もつかないほど、明るい笑顔で彼女は僕に言った。
「あーでもダメだよね。ペロは協会さんのポケモンで、他の患者さんを元気にする使命があるんだもんね……」
彼女がトレーナーなら、もう一度、パートナーとしてポケモンバトルに出てみるのも悪くはないかもな。彼女が後ろで見守ってくれるなら、根拠はないけどどんなやつが相手でも勝てそうな気がしてくる。
でも僕の一存で「セラピスト」を辞めることはできない。
嬉しいことに、僕が来ないとがっかりする子供たちやおじいちゃん、おばあちゃんが大勢いるのだ。
あいちゃんはいつか、そう遠くない未来、元気になってきっと良いパートナーを見つけるだろう。
僕はそう思っていた。
そう思って、疑わなかった。
協会の人が通り過ぎたドアの前で、僕は立ち止まった。
部屋の中は真っ暗で、ネームプレートも取り去られていた。
「ああ、ペロ」協会の人は僕を抱きかかえ、言った。「あいちゃんはね、その――先週退院したんだよ。今はお友達と一緒に元気に中学校に通っているよ」
長い付き合いだから知っている。
この人は、ポケモンにさえ優しい嘘をつく、根っからの良いやつなんだ。
――あいちゃんが「親友」の僕に一言もなしに退院するはずがないじゃないか。
他の「セラピスト」のポケモンたちからは嫌というほど聞かされていた。
(あんまり患者さんに入れ込むと、後々のショックが大きいから)
なんだよ。ポケモントレーナーになるって言ってたじゃないか。
あいちゃんのパートナーになるポケモンはきっと幸せだろうなと思っていたのに。
あいちゃんにはきっと人やポケモンを笑顔にする力があると思っていたのに。
なんで「親友」を泣かせるんだよ。
「――さあ、ショウヘイくんのところへ行こう」
ここで僕が取り乱して闇雲に走り出したとしても、あまり叱責をくらうことはないと思う。
でもそんなガキみたいなこと、僕はしたくない。
僕は「セラピスト」として、今、目の前の人の笑顔を考えなければならないんだから。
――こんな大粒の涙を流したところで、誰も笑顔にすることはできないのだ。
僕は自慢の舌で目の周りの水滴を舐め取ってから、ショウヘイくんのいる病室へ入った。