今宵、役者は面を被りて、出で立ち進むは石舞台。
舞いて祝詞を唱えれば、妖降り立ち甦る。
口惜しや人間どもめ。
恨めしや人間どもめ。
我を忘れたか。我が炎を忘れたか。永き時が忘れさせたか。
ならば、今こそ思い出させてくれようぞ。
今こそ思い出させてくれようぞ。
今宵こそはその機なり。
野が燃える。
地平を染める赤い炎。
燃える燃える。踊る踊る。
放たれた火が金色の野に燃える。
人間共め、今こそ思い出させてくれようぞ。
我が名は、私の名は――
●野の火
(一)老婆
ホウエン地方の蒸し暑い夏が終わり、山々の木々の葉は、緑色の衣から赤や黄に衣替えをはじめていた。
それは地を彩る草々も例外ではなく、野も山も秋色に染まりつつあった。
夕暮れともなれば、あちらこちらから鈴の音に似た音色が耳に届く。
つい最近までこの音色を聞く度に、まだ夏だというのに気の早い虫もあったものだなどと思っていたのも束の間、今はこの音がしっくりと感じられた。
夕闇に羽の音が混じる。
オオスバメのような大きな鳥ポケモンが羽ばたく音ではなく、もっと小型のポケモンがせわしなく羽ばたく音だ。あまり長い距離を飛ぶのは得意ではないらしい。
音の主である緑色のポケモンは、村の入り口を示している石柱にとまると、自身の主である青年の顔を覗き込んだ。
青年は鳥ポケモンの頭を撫でてやる。それは目を細めて喜んでいるようだった。
落ち葉で覆われた大地にしっかりと刺さったその石柱は相当に古いものらしく、もはや石に刻まれた文字を読むことはできない。
青年は早々に解読を諦めて、緩やかな上り坂を進んでいった。
夕暮れ時、またの名を遭魔ヶ時。
日が西の空に去って、世界が夜色に染まり始める時間。
ちょうど彼が村の境界に足を踏み入れたのはそういわれる時刻だった。
緩やかな山道が一本に伸び、人々の集まる集落へと続いている。
青年は緑色の鳥ポケモンを肩に乗せ、集落に向かってやや急ぎ足で歩みを進めた。
早々に宿を確保したかった。いわゆるリーグを目指す本業ではないにしろ、トレーナーの免許を持っている青年はポケモンセンターならば無料で宿泊できる。だが、目的の施設が必ずしもこの先にあるとは限らなかった。あったにしても利用客が多かったりすれば相部屋になったり、場合によっては、他の有料宿泊施設を利用しなければならないこともある。何事も早めに越したことは無い。
そんな勘定をしながら、山道を歩いていた青年だったが、ふと、何かに誘われるように、夕闇で染まりかけた木々の間を見た。
通り過ぎていく風景の中に何かがあるのを垣間見たからだ。
いわゆる普通の、リーグを目指すような旅のトレーナーならばおそらく一瞥しただけで、通り過ぎただろう。が、あいにく彼はそういう類のトレーナーではなかった。青年の目線の先、夕闇に染まりかけた木々の間からは何かの建物の影がおぼろげに見えた。静まり返った山の一角に寂しそうに佇んでいる。
「…………」
青年は足を止めると、しばしの間、そこに見える建物を眺める。
そして進路を集落でないほうに変えたのだった。
青年の勘が彼に告げていた。宿を探す前に一度、見ておいたほうがいい、あそこには何かがある、と。
一瞬、沈んでゆく夕日に引き伸ばされた青年の影が踊ったように見えた。
人一人がやっと通れるような細い細い道を伝って、青年は目的と定めた場所へと近づいた。
近づいてみると、それは神社とおぼしき建造物だった。
いや、神社につきものの鳥居は無いし、これまたつきものの賽銭箱もなかったが何かを祀っているには違いなかった。
おそらくは雨を避けるためだろう。ご神体とおぼしきしめ縄を戴いた大きな岩。それを守るように屋根が備えられていた。
ご神体の前に立つ。様々な種類の苔に覆われたその岩はそれ相応の年月を思わせた。
しかしなぜだろうか、その岩を守るように建てられたこの屋根そのものは、青年の歳よりは長い年を経ているにしろ、比較的新しいもののように思われたのだった。
そして特に青年の興味を惹いたのは、そこに供えられていたあるものだった。
「これ、しゃもじ……だよね?」
青年は傍らの鳥ポケモンに同意を求めるように言った。
しめ縄を戴く岩の前には大量のしゃもじが供えられていた。奥にあるものはかなり古く色もくすんでいたが、前のほうにあるものは肌色に近く新しい。誰かが定期的に供えているらしいことは明らかだった。それが木製の台に立てかけるように整然と並んでいる。
「一体何の神様なんだろう」
青年はそんなことを呟いて、あたりをっ見回したが、これまた神社にありがちなありがたい神様に纏わる言い伝えを書いた立て札などは一切無く、その神の名も、ご利益も知る手段がないのだった。
ふと、青年は自身の足元がざわつくのを感じた。彼の足元の、影に入っているもの達が何者かの来訪を伝えている。
こんなところに来る物好きが自分以外にもいるとはね、そんなことを考えつつ、青年は後ろを振り向いた。
見ると、猫背の老婆がこちらへ向かって歩いてきているところだった。
小柄だが、皿のような丸い眼に、きゅっと閉じられた口元は古狸という例えがしっくり来そうだ。それでいて、よく言えば意思が強そうな、悪く言えば頑固そうな顔つきだと彼は思った。
少なくとも、足元の影の中に飼っている"彼ら"のターゲットにはなり得ないタイプだな、などと考える。
老婆は消して早くは無い、けれど確かな足取りで青年が立つ場所に近づいてくる。
ご神体の前まで彼女がやってくると、青年は電車の席を譲るように立っていた場所を明け渡した。
老婆は、当然とばかりにさっきまで青年が立っていた位置に陣取ると、ご神体に手を合わせて一礼をした。
青年はなんとなく理解する。たぶんここを定期的に訪れているのはこの老婆で、おそらく供え物をしているのも彼女なんだろうと。そんなことを考えていたら手を合わせたままの老婆と目が合った。
いや、老婆が手を合わせたまま、顔だけをこちらに向けてきたといったほうが正確か。
「………………」
彼女は目をぱっちりと開いて、青年の正体を確かめるかのように、凝視する。
もしかしたら、この老婆も大学で出会った誰かさんみたいに人には見えないものが見えてしまうタイプなんだろうか、そんな想像が働いて青年は身構える。だとすればすこしばかり面倒だ。
すると老婆が口を開いた。
「……ツクモ様じゃ」
しわがれた声でそう言った。
「はい?」
青年は少々間の抜けた声を上げる。
「お主さっきから、ここにいる神様のことを考えておったな? ここにいる神様はな、ツクモ様という」
そう老婆は言ったのだった。
「ツクモ様……ですか」
「そう、九十九と書いてツクモと読むのじゃ」
にやりと老婆は笑った。自身の薀蓄を披露できたのが嬉しいのかもしれない。
「ツクモ様は豊穣の神様じゃ。この土地でたくさんの米がとれるのも、ツクモ様が見守ってくださるお陰じゃ。今年もたくさんお米がとれました。お腹いっぱい食べさせてくれてありがとうございますという感謝の気持ちを表す為にこうしてしゃもじをお供えするんじゃよ」
そう言って老婆は整然と並ぶしゃもじを指差した。
「お主、若いのにツクモ様の参拝にくるとは感心じゃのう。今は村に一番人が集まる時期なんだが、観光客はおろか村の人間も来いやせん。それに比べてお主は、感心なことじゃ」
「観光客? ここの村には何かあるのですか」
意外な単語が飛び出して、青年は思わず聞き返した。何もなさそうなところだと思っていたのに、ここには観光ができて、人が集まるような何かがあるらしい。
「何じゃお主、収穫祭を目当てに来たんではないのか」
老婆も意外そうな表情を浮かべた。
「収穫祭があるのですか。いや、恥ずかしながらまったく知りませんでした。この村にはたまたま今日通りがかっただけで」
「じゃあ、ここに来たのは」
「がっかりさせて悪いですが、たまたまです。ちょっと寄り道をしただけ」
そう青年が答えると老婆は本当に残念そうな顔をした。
「でもねおばあさん、僕、こういうところに来るのは嫌いじゃないんですよ」
老婆の表情を見て、青年は付け加えるように言った。
「だって、こういう場所は過ぎ去った遠い時代への入り口だから。その土地にいる神様のことを知れば、かつてここに生きた人たちが何を考えていたのか、何に喜び何に悲しんだか、何を想って生きてきたか。そういうことに少しだけだけど寄り添って、想像できるんです。だから、僕は嫌いじゃないですよ。こういうところに来るの」
たまたま通りがかっただけなんて言った後じゃ、こんなこと言ってもフォローにはならないだろうなと思いながら青年はそう続けた。だが、それは老婆をフォローしたいから言ったというよりは、彼の本心から出た言葉だった。実際のところ、彼自身もこういう場所が好きなのだ。
「まぁ、今の言葉は父の請け売りなんですけどね」
少し恥ずかしそうに笑う。
「そうかい、お主の父親はなかなか大事なことをわかっているようじゃの」
たぶんフォローにはなるまいと思っていたのだが、老婆は青年の言葉で少し機嫌を直したらしく、うんうんと何度か納得したように頷いた。
「ええ、立派な父です」
青年はそう答えるとにっこりと微笑んだ。
老婆とのやりとりがひと段落したところで、彼は彼の肩に乗った小さなポケモンがつんつんと首の付け根をつついていることに気がついた。
どうやら早く行こうと言っているらしい。
青年はわかったよ、といったようにポケモンの頭を撫でてやった。
周囲を見わたせば空はほの暗く、太陽はその姿のほとんどを西の空に隠していた。
いよいよ空は青と黒の混じった色に覆われて、すぐにも夜がやってくるだろう。
「それじゃあ、僕はこれで」
青年は老婆に会釈すると、歩き出す。
が、何歩か進んだところで再び呼び止められた。
「お主、名はなんと言うんじゃ?」
別れ際に老婆はなぜか名を聞きたがった。
「ツキミヤです。ツキミヤコウスケ」
青年は振り返って、そう名乗る。
「そうか、コースケというのか。ところでコースケ、お主なかなかすごいポケモンを連れておるの」
ドキリとした。
この人にはやはり見えているのか。
「ほれ、その肩の鳥ポケモンじゃ。何も考えていなさそうで、実は悟りきっている深遠なその表情。わしの好みじゃ。そりゃなんちゅう名前のポケモンだ?」
「……ネイティです」
「そうかネイテーというのか、覚えておこう」
老婆はネイテー、ネイテーと何回か反芻しながら満足げに頷いた。
驚かすなよ、と青年は思う。よかった。どうやら見えているというのは早とちりだったらしい。
「あの、さっきはツクモ様のお話をありがとうございました。では」
そこまで言うと彼は再び老婆に背を向けて、足早にその場を去った。
もと来た細い道に差し掛かり、老婆の姿も見えなくなったあたりで、いよいよ進むスピードを上げてゆく。
話を聞けたのは悪くなかったけれど、宿を探す時間は随分ロスしてしまった気がする。
山道で見かけたときはあの場所に何かを感じたけれど、結局は変な老婆に会っただけだった。気のせいだったのかなぁ、もうほとんど青黒く染まった空を見上げそう思った。
「そういえばあのおばあさん、収穫祭があるとか言っていたよね。人もたくさん来ているっていうし早めに泊まるところを見つけないと」
独り言に近い言葉を傍らのポケモンに吐いて青年――ツキミヤコウスケは村への道を急ぐ。
村に向かう途中で一人の青年とすれ違った。
年齢は彼より少し下くらいだろうか。人懐こそうな笑みを浮かべて、ツキミヤを一瞥すると軽く頭を下げる。そして、先ほど彼がいた方向へ小走りに駆けていった。
もしかしたら、さっき出会った老婆を迎えに来たのかもしれないな。
ツキミヤはそんなことを考えながら、足を進める。
いつの間にか空はすっかりと暗くなっていて、彼の進む方向に集落の明かりが見えていた。
それは人の気配。たくさんの人があの場所に居るという証明。
にわかに太鼓の音、笛の音が聞こえてきた。