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  [No.4] 【連載】野の火 投稿者:No.017   《URL》   投稿日:2010/08/07(Sat) 00:19:50   52clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
【連載】野の火 (画像サイズ: 637×365 84kB)

 今宵、役者は面を被りて、出で立ち進むは石舞台。
 舞いて祝詞を唱えれば、妖降り立ち甦る。


 負の感情を喰らうポケモン、カゲボウズ。
 カゲボウズを飼う男、ツキミヤ。
 彼らが訪れたホウエンのさる村は収穫祭に沸いていた。
 村の青年に担がれたツキミヤは、祭の舞台である役を演じることになるのだが……。

 神と呼ばれ称えられる者、妖と呼ばれ恐れられる者、
 今この地に集いし者、遠い昔この地に生きた者、企む者、阻む者、人、ポケモン、
 もろもろを巻き込んで、ポケモン伝記小説「野の火」開幕。


■関連シリーズ

カゲボウズシリーズ
http://pijyon.schoolbus.jp/novel/index.html#kagebouzu

豊縁昔語
http://pijyon.schoolbus.jp/novel/index.html#houen



【描いてもいいのよ】
【批評していいのよ】


  [No.5] (一)老婆 投稿者:No.017   投稿日:2010/08/07(Sat) 00:22:26   46clap [■この記事に拍手する] [Tweet]





 今宵、役者は面を被りて、出で立ち進むは石舞台。
 舞いて祝詞を唱えれば、妖降り立ち甦る。

 口惜しや人間どもめ。
 恨めしや人間どもめ。

 我を忘れたか。我が炎を忘れたか。永き時が忘れさせたか。
 ならば、今こそ思い出させてくれようぞ。
 今こそ思い出させてくれようぞ。

 今宵こそはその機なり。



 野が燃える。
 地平を染める赤い炎。
 燃える燃える。踊る踊る。
 放たれた火が金色の野に燃える。


 人間共め、今こそ思い出させてくれようぞ。

 我が名は、私の名は――





●野の火






(一)老婆


 ホウエン地方の蒸し暑い夏が終わり、山々の木々の葉は、緑色の衣から赤や黄に衣替えをはじめていた。
 それは地を彩る草々も例外ではなく、野も山も秋色に染まりつつあった。
 夕暮れともなれば、あちらこちらから鈴の音に似た音色が耳に届く。
 つい最近までこの音色を聞く度に、まだ夏だというのに気の早い虫もあったものだなどと思っていたのも束の間、今はこの音がしっくりと感じられた。
 夕闇に羽の音が混じる。
 オオスバメのような大きな鳥ポケモンが羽ばたく音ではなく、もっと小型のポケモンがせわしなく羽ばたく音だ。あまり長い距離を飛ぶのは得意ではないらしい。
 音の主である緑色のポケモンは、村の入り口を示している石柱にとまると、自身の主である青年の顔を覗き込んだ。
 青年は鳥ポケモンの頭を撫でてやる。それは目を細めて喜んでいるようだった。
 落ち葉で覆われた大地にしっかりと刺さったその石柱は相当に古いものらしく、もはや石に刻まれた文字を読むことはできない。
 青年は早々に解読を諦めて、緩やかな上り坂を進んでいった。
 夕暮れ時、またの名を遭魔ヶ時。
 日が西の空に去って、世界が夜色に染まり始める時間。
 ちょうど彼が村の境界に足を踏み入れたのはそういわれる時刻だった。

 緩やかな山道が一本に伸び、人々の集まる集落へと続いている。
 青年は緑色の鳥ポケモンを肩に乗せ、集落に向かってやや急ぎ足で歩みを進めた。
 早々に宿を確保したかった。いわゆるリーグを目指す本業ではないにしろ、トレーナーの免許を持っている青年はポケモンセンターならば無料で宿泊できる。だが、目的の施設が必ずしもこの先にあるとは限らなかった。あったにしても利用客が多かったりすれば相部屋になったり、場合によっては、他の有料宿泊施設を利用しなければならないこともある。何事も早めに越したことは無い。
 そんな勘定をしながら、山道を歩いていた青年だったが、ふと、何かに誘われるように、夕闇で染まりかけた木々の間を見た。
 通り過ぎていく風景の中に何かがあるのを垣間見たからだ。
 いわゆる普通の、リーグを目指すような旅のトレーナーならばおそらく一瞥しただけで、通り過ぎただろう。が、あいにく彼はそういう類のトレーナーではなかった。青年の目線の先、夕闇に染まりかけた木々の間からは何かの建物の影がおぼろげに見えた。静まり返った山の一角に寂しそうに佇んでいる。

「…………」

 青年は足を止めると、しばしの間、そこに見える建物を眺める。
 そして進路を集落でないほうに変えたのだった。
 青年の勘が彼に告げていた。宿を探す前に一度、見ておいたほうがいい、あそこには何かがある、と。
 一瞬、沈んでゆく夕日に引き伸ばされた青年の影が踊ったように見えた。

 人一人がやっと通れるような細い細い道を伝って、青年は目的と定めた場所へと近づいた。
 近づいてみると、それは神社とおぼしき建造物だった。
 いや、神社につきものの鳥居は無いし、これまたつきものの賽銭箱もなかったが何かを祀っているには違いなかった。
 おそらくは雨を避けるためだろう。ご神体とおぼしきしめ縄を戴いた大きな岩。それを守るように屋根が備えられていた。
 ご神体の前に立つ。様々な種類の苔に覆われたその岩はそれ相応の年月を思わせた。
 しかしなぜだろうか、その岩を守るように建てられたこの屋根そのものは、青年の歳よりは長い年を経ているにしろ、比較的新しいもののように思われたのだった。
 そして特に青年の興味を惹いたのは、そこに供えられていたあるものだった。

「これ、しゃもじ……だよね?」

 青年は傍らの鳥ポケモンに同意を求めるように言った。
 しめ縄を戴く岩の前には大量のしゃもじが供えられていた。奥にあるものはかなり古く色もくすんでいたが、前のほうにあるものは肌色に近く新しい。誰かが定期的に供えているらしいことは明らかだった。それが木製の台に立てかけるように整然と並んでいる。
「一体何の神様なんだろう」
 青年はそんなことを呟いて、あたりをっ見回したが、これまた神社にありがちなありがたい神様に纏わる言い伝えを書いた立て札などは一切無く、その神の名も、ご利益も知る手段がないのだった。
 ふと、青年は自身の足元がざわつくのを感じた。彼の足元の、影に入っているもの達が何者かの来訪を伝えている。
 こんなところに来る物好きが自分以外にもいるとはね、そんなことを考えつつ、青年は後ろを振り向いた。
 見ると、猫背の老婆がこちらへ向かって歩いてきているところだった。
 小柄だが、皿のような丸い眼に、きゅっと閉じられた口元は古狸という例えがしっくり来そうだ。それでいて、よく言えば意思が強そうな、悪く言えば頑固そうな顔つきだと彼は思った。
 少なくとも、足元の影の中に飼っている"彼ら"のターゲットにはなり得ないタイプだな、などと考える。
 老婆は消して早くは無い、けれど確かな足取りで青年が立つ場所に近づいてくる。
 ご神体の前まで彼女がやってくると、青年は電車の席を譲るように立っていた場所を明け渡した。
 老婆は、当然とばかりにさっきまで青年が立っていた位置に陣取ると、ご神体に手を合わせて一礼をした。
 青年はなんとなく理解する。たぶんここを定期的に訪れているのはこの老婆で、おそらく供え物をしているのも彼女なんだろうと。そんなことを考えていたら手を合わせたままの老婆と目が合った。
 いや、老婆が手を合わせたまま、顔だけをこちらに向けてきたといったほうが正確か。

「………………」

 彼女は目をぱっちりと開いて、青年の正体を確かめるかのように、凝視する。
 もしかしたら、この老婆も大学で出会った誰かさんみたいに人には見えないものが見えてしまうタイプなんだろうか、そんな想像が働いて青年は身構える。だとすればすこしばかり面倒だ。
 すると老婆が口を開いた。

「……ツクモ様じゃ」

 しわがれた声でそう言った。

「はい?」

 青年は少々間の抜けた声を上げる。

「お主さっきから、ここにいる神様のことを考えておったな? ここにいる神様はな、ツクモ様という」

 そう老婆は言ったのだった。

「ツクモ様……ですか」
「そう、九十九と書いてツクモと読むのじゃ」

 にやりと老婆は笑った。自身の薀蓄を披露できたのが嬉しいのかもしれない。

「ツクモ様は豊穣の神様じゃ。この土地でたくさんの米がとれるのも、ツクモ様が見守ってくださるお陰じゃ。今年もたくさんお米がとれました。お腹いっぱい食べさせてくれてありがとうございますという感謝の気持ちを表す為にこうしてしゃもじをお供えするんじゃよ」

 そう言って老婆は整然と並ぶしゃもじを指差した。

「お主、若いのにツクモ様の参拝にくるとは感心じゃのう。今は村に一番人が集まる時期なんだが、観光客はおろか村の人間も来いやせん。それに比べてお主は、感心なことじゃ」
「観光客? ここの村には何かあるのですか」

 意外な単語が飛び出して、青年は思わず聞き返した。何もなさそうなところだと思っていたのに、ここには観光ができて、人が集まるような何かがあるらしい。

「何じゃお主、収穫祭を目当てに来たんではないのか」

 老婆も意外そうな表情を浮かべた。

「収穫祭があるのですか。いや、恥ずかしながらまったく知りませんでした。この村にはたまたま今日通りがかっただけで」
「じゃあ、ここに来たのは」
「がっかりさせて悪いですが、たまたまです。ちょっと寄り道をしただけ」

 そう青年が答えると老婆は本当に残念そうな顔をした。

「でもねおばあさん、僕、こういうところに来るのは嫌いじゃないんですよ」

 老婆の表情を見て、青年は付け加えるように言った。

「だって、こういう場所は過ぎ去った遠い時代への入り口だから。その土地にいる神様のことを知れば、かつてここに生きた人たちが何を考えていたのか、何に喜び何に悲しんだか、何を想って生きてきたか。そういうことに少しだけだけど寄り添って、想像できるんです。だから、僕は嫌いじゃないですよ。こういうところに来るの」

 たまたま通りがかっただけなんて言った後じゃ、こんなこと言ってもフォローにはならないだろうなと思いながら青年はそう続けた。だが、それは老婆をフォローしたいから言ったというよりは、彼の本心から出た言葉だった。実際のところ、彼自身もこういう場所が好きなのだ。

「まぁ、今の言葉は父の請け売りなんですけどね」

 少し恥ずかしそうに笑う。

「そうかい、お主の父親はなかなか大事なことをわかっているようじゃの」

 たぶんフォローにはなるまいと思っていたのだが、老婆は青年の言葉で少し機嫌を直したらしく、うんうんと何度か納得したように頷いた。

「ええ、立派な父です」

 青年はそう答えるとにっこりと微笑んだ。
 老婆とのやりとりがひと段落したところで、彼は彼の肩に乗った小さなポケモンがつんつんと首の付け根をつついていることに気がついた。
 どうやら早く行こうと言っているらしい。
 青年はわかったよ、といったようにポケモンの頭を撫でてやった。
 周囲を見わたせば空はほの暗く、太陽はその姿のほとんどを西の空に隠していた。
 いよいよ空は青と黒の混じった色に覆われて、すぐにも夜がやってくるだろう。

「それじゃあ、僕はこれで」

 青年は老婆に会釈すると、歩き出す。
 が、何歩か進んだところで再び呼び止められた。

「お主、名はなんと言うんじゃ?」

 別れ際に老婆はなぜか名を聞きたがった。

「ツキミヤです。ツキミヤコウスケ」

 青年は振り返って、そう名乗る。

「そうか、コースケというのか。ところでコースケ、お主なかなかすごいポケモンを連れておるの」

 ドキリとした。
 この人にはやはり見えているのか。

「ほれ、その肩の鳥ポケモンじゃ。何も考えていなさそうで、実は悟りきっている深遠なその表情。わしの好みじゃ。そりゃなんちゅう名前のポケモンだ?」
「……ネイティです」
「そうかネイテーというのか、覚えておこう」

 老婆はネイテー、ネイテーと何回か反芻しながら満足げに頷いた。
 驚かすなよ、と青年は思う。よかった。どうやら見えているというのは早とちりだったらしい。

「あの、さっきはツクモ様のお話をありがとうございました。では」

 そこまで言うと彼は再び老婆に背を向けて、足早にその場を去った。
 もと来た細い道に差し掛かり、老婆の姿も見えなくなったあたりで、いよいよ進むスピードを上げてゆく。
 話を聞けたのは悪くなかったけれど、宿を探す時間は随分ロスしてしまった気がする。
 山道で見かけたときはあの場所に何かを感じたけれど、結局は変な老婆に会っただけだった。気のせいだったのかなぁ、もうほとんど青黒く染まった空を見上げそう思った。

「そういえばあのおばあさん、収穫祭があるとか言っていたよね。人もたくさん来ているっていうし早めに泊まるところを見つけないと」

 独り言に近い言葉を傍らのポケモンに吐いて青年――ツキミヤコウスケは村への道を急ぐ。


 村に向かう途中で一人の青年とすれ違った。
 年齢は彼より少し下くらいだろうか。人懐こそうな笑みを浮かべて、ツキミヤを一瞥すると軽く頭を下げる。そして、先ほど彼がいた方向へ小走りに駆けていった。
 もしかしたら、さっき出会った老婆を迎えに来たのかもしれないな。
 ツキミヤはそんなことを考えながら、足を進める。
 いつの間にか空はすっかりと暗くなっていて、彼の進む方向に集落の明かりが見えていた。
 それは人の気配。たくさんの人があの場所に居るという証明。
 にわかに太鼓の音、笛の音が聞こえてきた。


  [No.6] (二)七草 投稿者:No.017   投稿日:2010/08/07(Sat) 00:23:24   40clap [■この記事に拍手する] [Tweet]





(二)七草


 収穫祭、とあの老婆は言っていたか。
 集落に到着した青年を出迎えたのは溢れんばかりの群衆だった。
 人々、そして彼らが連れるポケモン達で賑わう通りは橙や黄色の暖色の光に包まれ、活気を帯びている。
 あちらやこちらからドコドコと響いてくる太鼓の音、それに合わすように響いてくる笛の音。
 想像していた以上の規模だった。
 ここまで来る途中に二人にしか出会わなかったことをツキミヤは不思議に思ったくらいだ。
 通りには所狭しと屋台が並び、ある店からはじゅうじゅうと何かを焼く音が、またある店からはもくもくと湯気が立ち上っていた。
 ポケモンセンターはどこにあるのだろう。
 きょろきょろとあたりを見回しながら歩いていると、通りに並んで立つ屋台の店主の一人に呼び止められた。

「おにいちゃん、お餅一個どう? 今年とれたてのつきたてだよ」

 そう言われ、まだ暖かさの残る餅を一個手渡された。
 店主は通りを歩く人々に次々に声をかけると気前よく、餅を配ってゆく。
 通りの人々は当たり前のようにそれを受け取って、ありがとーなどと言うとパクつきながら通り過ぎてゆく。

「あの、いいんですかこれ」

 ツキミヤはあまり状況が飲み込めずに手渡された餅を店主を交互に見ながら尋ねた。

「あ、もしかしてお兄ちゃんここ初めてなの? 大社でしゃもじを貰ってね、それを見せればお米を使った料理はみんなタダなんだよ」

 しゃもじ? またしゃもじか。

「僕、しゃもじ貰ってませんけど……今着いたばっかりで」
「あー、いいよいいよ。実際のとこ、いちいちしゃもじの有無なんか確認しないんだ」

 はぁ、そんなもんですか。

「じゃ、遠慮なく」

 ちょうどお腹も減っていたのでパクついてみる。
 結構うまい、ツキミヤは素直にそう思った。

「はい、肩のネイティちゃんにはこれ」

 別の屋台の店主、今度は女の人がやってきて、ツキミヤに固形の物体を手渡す。

「何ですかこれは」
「うちで取れたお米で作った胚芽米ポロックよ」
「…………」

 肩にとまっているポケモンにやってみた。
 ツキミヤの手からポロックを嘴で受け取ると、足で押さえてネイティは食べ始める。

「……おいしいんだ?」

 と、ツキミヤは尋ねる。
 傍から見たら無表情に見えただろうが、なんとなく微妙なニュアンスでうまそうに食っているのが彼にはわかるのだった。ネイティが最後のひとかけらをついばんで飲み込んだ。

「米を使った料理はみんなタダねえ」

 通りをゆったりと歩きながら、屋台のメニューを注意して見てみる。
 たしかに屋台は米を材料にしたものがいやに多い。
 ストレートな白米にはじまり、山菜を使った炊き込みご飯、おこわ、おはぎ、米粉を使ったうどんにスパゲティ。あげくの果てにはポケモンフーズやポロックまで米由来。向こうの方で配っている祭りにつきものの酒らしきものも材料もおそらくは米なのだろう。
 もはや解説をされなくともわかる。この村は米の一大生産地なのだと。
 四、五件先の屋台では浴衣を着た女の子が、大社で配っているらしいしゃもじを店主に見せて、料理を貰っていた。
 会場の一角に組まれた舞台の上では、体格のいい男達が器に盛られた白米を一口二口で平らげると、口々におかわりなどと叫んでいる。祭り一番の大食いを決める競技が催されているらしかった。
 その様子を横目に見ながらツキミヤはポケモンセンターを探す。
 賑やかな通りはしばらく終わりそうにも無かった。

「こんなに貰っちゃったよ」

 案の定、一人と一羽は歩きまわっているうちにまたいろんな店主に捕まってしまうこととなった。
 シャーッという音を立ててポケモンセンターの扉が開き、受付が一人と一匹をその目に認識した頃には、鳥の主は両手にたくさんの料理とポケモンフーズを抱えていた。
 そして、

「大変申し訳ございません。本日は相部屋もいっぱいでして…………」

 重い荷物を両手に抱え、受付の前に立ったツキミヤを出迎えたのはそんな台詞だった。
 あらかじめことを予想していた彼は、ああ、やっぱりそうだろうなぁという顔をする。
 受付嬢が申し訳なさそうな眼差しを向けているが、なんだか疲れた様子だった。
 たぶん今晩は何人、何十人の宿泊を断ったのだろう。

「わかりました。でも少しロビーを借りますよ。荷物を整理したいので」

 ツキミヤは受付嬢にそう告げると、すたすたとロビーに移動し、人の少ないソファの一角に腰掛けた。
 歩き詰めだった彼はソファの背もたれに身体を預けると、ふうっと一息つく。
 ロビーでは彼のほかにもトレーナー達が座っており、傍らのポケモンと一緒に屋台で貰った食べ物を胃の中に収納していた。
 誰でも考えることはそんなに変わらない、と思う。
 向かいの席を見ると頭にアンテナを生やした丸いフォルムがネイティに似ていなくも無い緑色のポケモンが大口をあけて、トレーナーから貰った料理を次々に平らげているところだった。
 いや、むしろ食べ物が口の中に入れられる傍から、吸い込まれていっているようにすら見えた。
 そのネイティによく似たフォルムのポケモンの正体は、全身胃袋のポケモン、ゴクリンだ。
 目の前のポケモンが明らかに自分の体積以上に食べている気がしたツキミヤだが、あえてそのことは頭の隅に追いやって、こんな時はよく食べるポケモンも悪くないな、などと考えた。
 自分の肩にとまっているポケモンは色も頭のアンテナのような羽もよく似ているが、どちらかと言えば自分に似て小食だ。
 案の定、貰った料理のうち小さめのものを二、三取り出して食べただけで、一人と一羽はすぐにお腹はいっぱいになってしまった。
 ふと、腰にある二つのボールが目に留まる。一つはネイティのものだから空だが、残りの一つにはポケモンが入っている。
 まぁ、無理だとは思うけれど。そんなことを考えながらボールのポケモンを入れ物から開放する。

「やっぱり無理だよね」

 思ったとおり、ボールから出したドータクンは米の料理に大して、おおよそ食欲という名の欲望を抱いてはくれなかった。
 遠い昔の祭具に似た彼の生態はどのような形容詞で説明しても生物的であるとは言い難い。
 ツキミヤは今のところ彼がモノを食べているところを見たことが無いし、どこに口があるのかも知らなかった。
 まぁ、食欲が無いというのは金も手もかからずありがたいのだが。

「あぁ、そっか。その手があったか」

 ふと気がついてツキミヤは足元を見た。自分の足元の影を。
 何だって今まで忘れてたんだ。手のかかるのならいっぱいいるじゃないか。
 口があるポケモンで、飢えていそうなポケモンなら自分の足元にたくさんいる……。
 それに気がついた彼は、ドータクンをボールに戻すと受付嬢から宿泊所案内を兼ねた地図を受け取って、ポケモンセンターを後にした。


 センターから出たツキミヤは、とりあえずは地図を仕舞い込み、人気の無いほうへ、人気の無いほうへと移動を始めた。より静かなところに、より夜の闇が深いほうへと足を進めていく。
 彼がこのあたりでいいだろうと足を止めた場所は祭の会場からもポケモンセンターからもいくらか離れた林の中だった。
 暗い夜の色に沈んだ林の中は祭の音楽こそわずかに聞こえてくるが、熱気はなくひんやりとしている。
 明かりらしい明かりといえばわずかに夜を照らす、冷たく輝く月くらいだった。
 そこは人間の世界というよりは、"彼ら"の世界に相応しい。

「もういいよ。出ておいで」

 ツキミヤがそう言うと、足元でいくつもの目が開き、彼を見上げた。
 水色と青に囲まれた黄色。何十もの爛々と輝く三色の瞳が浮かび上がってくる。
 薄い雲に覆われた月の放つ淡い月光に照らされて、それはツノの生えたてるてる坊主のシルエットをとった。
 その数は通常、トレーナーが持ち歩くポケモンの数をはるかに凌駕している。
 暗い林に立つ青年と一羽を囲うようにふわりふわりと浮かび上がってゆくそのポケモンの名を、カゲボウズと言った。
 青年が持ってきた料理の包みを開けると、一匹が横からぱくりと食いついたのを皮切りに、次々につられるように群がった。
 両手いっぱいにあった料理はもうすでに冷めてしまっていたにも拘らず、すぐに無くなった。
 両腕を煩わせていたものがなくなって、ツキミヤはほっと一息をつく。
 すっかりものを食べ尽くしてしまったカゲボウズたちは、影から出るのが久しぶりとあってか、甘えるように擦り寄ってきた。
 ひらひらとした布地のような身体をツキミヤの腕や肢体に絡み付かせ、訴えるように三色の瞳で見つめてくる。
 ツキミヤはそれに答えるようにくすりと笑みを浮かべた。
 右手の近くに居た一匹にその細く長い指を絡めて、指の平で愛撫してやる。

「わかっているよ。負の感情が欲しいんだろ?」

 飢えを訴える彼らをなだめるように青年は言う。
 人形ポケモン、カゲボウズ。
 彼らの糧は人やポケモンの感情。それも憎悪や嫉妬などの負の感情だ。
 普通の生物が食べているものも口にはするが、それでは到底満たされない事をツキミヤは知っている。

「大丈夫。この村には人もポケモンもたくさんいるよ。君達好みの獲物もすぐに見つかるさ」

 たくさんの影に絡みつかれ、青年の身体は夜の闇に溶けてゆくかのように見えた。
 いつのまにか彼の瞳の色も彼らと同じ色を宿し、妖しい光を帯びる。
 ツキミヤの指に絡めとられたカゲボウズが気持ちよさそうに身体をくねらせた。



「……疲れた」

 荷物を片付け終わった青年は、再びカゲボウズを自身の影に収納し、明るい場所へと舞い戻る。
 眠い。
 一日中歩き、食事をし、カゲボウズ達を構ってやって、さすがにそろそろ休みたかった。
 先ほどポケモンセンターで受け取った宿泊所案内を開く。
 休めるところならどこでもいい。近いところからあたっていくことにした。

 だが、ただ休むだけの場所はなかなか見つからなかった。
 一軒目はすでに満室だった。
 次に行った二軒目も満室。
 あきらめずに行った三軒目もいっぱいで、傍にあった四軒目も断られた。
 しばらく歩いったところにある五軒目にも果敢にアタックしたが、やはり人がいっぱいで、めげずに行った六軒目でも撃沈した。
 このあたりで、ようやく彼は眠たい頭で観光客の数に見合ったベッドの数がないんじゃないかと疑い始め、地図を広げ残りの宿の数を数える。
 もう、片手で数える程度しか残っていない。
 青年が推察するにはこうだ。この村の人口が増えるのはたぶんこの祭の時くらいなのだ。かといって、全員を収容できるだけのベッド数を用意すれば、閑散期の稼働率が悪くなる……。
 七軒目で聞いたところによると、そういうあぶれた観光客の為に、村の中にいくつかの雨を凌げ、暖にあたれる程度の休憩所が用意されているらしかった。
 この時点で、たぶん残りをあたっても無駄だろうなと悟った青年は、教えてもらった休憩所とやらに行くことにする。
 ポケモンセンターのロビーのソファで寝ようかとも思ったが、ずいぶん離れてしまったので、戻るのが億劫だった。
 その場所には、ほどなくして到着した。
 大きなカヤブキの屋根を何本かの太い木の柱で支えたその建物は、柱と柱の間を申し訳程度に板を打ち付けた壁で外と内とを分けていた。
 たぶん普段は村の人々が集会所か何かに使っているのだろう。
 中心にはせめてものといった感じで、火が炊かれ、小さく炎が踊っていた。
 ツキミヤが中に入ると先に来ていた何人かが、お前もかといった眼差しを無言で向けてくる。
 宿にあぶれた旅人達は、ある者はまだ起きていてあくびをし、ある者は連れのポケモンを毛布の代わりにして、ある者は寝袋に身を包み、寝息を立てていた。
 野宿は慣れている。こういう場所はちょっとかっこ悪いけれど、屋根と暖があるだけマシというものだろう。
 青年は腰を下ろし、リュックを床に置くと、中心の暖に向き合った。
 炎がパチパチと小さな音を立て燃えている。熱気が少しだけ頬に伝わって、揺れる明かりが少しだけ青年を照らした。

「……君はボールに戻れよ」

 そう言ってツキミヤはボールをネイティの目の前に機械球を差し出したが、肩の上のネイティはボールから視線を逸らしそっぽを向いて、ツキミヤの頬に摺り寄った。
 心配をしてくれているのか、甘えたいだけなのか。
 ツキミヤは小さく息を吐くとボールを元の位置に戻した。
 リュックサックから、折り畳み傘程度の寝袋を取り出し、栓を抜く。それは成人一人が横になれる程度に膨らんだ。
 倒れこむように寝袋に身を投げ出すと、ネイティが器用に肩から背中にぴょんっと移動して、しばらく背中の上をちょこまかと動き回った後に落ち着ける場所を見つけ、うずくまると羽を膨らませた。
 腕の枕に顔を埋め、ゆっくりと目を閉じる。
 ほどなくして、青年の意識は今ある場所に別れを告げ、無意識の世界へ落ちていくだろう。

 が、どこからか声が聞こえた。

「やっと見つけた!」

 青年の意識が半分ほどこちらの世界へと引き戻されるのとほぼ同時に、背中で羽を膨らませていた小鳥ポケモンが飛び起きたという感触が背中から伝わる。
 青年は眠たい目をこすって、けだるそうに上体を起き上がらせた。

「いやぁ見つかってよかったよ。この時期人が多いからさー、探すのは骨が折れた」

 眠くてぼやけた視界の先で、誰かがしゃべっている。

「緑色の鳥ポケモンが一緒にいるって聞いたんだけど、ボールに入れてるかもしれないし……まぁとにかく見つかってよかった」

 おや、もしかして話しかけられている相手は……自分、なのか?
 おかしいな。この村に自分の知り合いなんて……ぼんやりと青年は思う。
 すると、声の発信源がこちらに近づいてきて、

「僕はナナクサ。ナナクサシュウジ」

 と、眠そうな周りの空気とは裏腹に意気揚々と自己紹介をしたのだった。
 
「君を迎えに来たんだよ、コースケ君」

 現の世界の人間というよりは夢の世界の住人のような怪しげな台詞を吐く。
 どこかで見たような人懐こそうな顔をしたその青年、眠たい頭ではよく思い出せない。
 正直言って迷惑だ。何の用事か知らないが早く終わらせて欲しい。
 自分では見えないけれど今、自分の目の前で話しているこの青年に向けてあまりいい表情はみせていないだろう。
 だが、そんなことを気にする様子もなく青年は、怪訝な、それ以上に眠そうな表情を浮かべるツキミヤの前に右手を差し出すようにして、こう続けた。

「さ、行こ。タマエさんが待ってるよ」


  [No.7] (三)二人の青年 投稿者:No.017   投稿日:2010/08/07(Sat) 08:04:36   38clap [■この記事に拍手する] [Tweet]





(三)二人の青年


「誰だい、タマエさんって」

 ナナクサに向けられたツキミヤの第一声はあからさまに不機嫌だった。
 眠りを妨害された上に、どこのドンメルの骨だかもわからない奴に下の名で馴れ馴れしく呼ばれるいわれはなかったからだ。

「だいたいなんだって君が僕の名前を知ってるんだよ」

 さきほどより少し覚醒した声でツキミヤは青年に問う。
 きょとんとしたナナクサの表情が彼の瞳に映り込んだ。

「そりゃあないよ。コースケ君。僕達もう一回会っているじゃないか」

 青年は本当にそりゃあないという感じで言葉を返した。

「どこで」
「今日、この村の外れで」
「いつ」
「夕方過ぎたあたり」
「……知らない」

 冷ややかなツキミヤの反応に、がっくりとナナクサはうなだれる。
 けれども、めげずにアタックを続けた。

「そこをなんとか思い出しておくれよ、コースケ君」
「知らない……古狸めいたおばあさんになら会ったけどね」

 目を擦りながらツキミヤが答える。
 すると、ナナクサの顔がぱあっと晴れやかになった。

「なあんだ。覚えてるじゃないか。その古狸がタマエさんだよ!」

 とっかかりができたとばかりに彼は嬉しそうに続ける。
 タマエとは夕方に会ったあの老婆の名であるらしかった。

「そこまで来たら思い出すのは簡単だ。で、君はタマエさんと別れて村へ向かう途中に別の誰かさんとすれ違ったろ?」
「…………。……ああ」

 ツキミヤはようやく肯定の意を口にした。
 眠たい頭なりに記憶の一片にナナクサの存在を認めたのだ。
 が、存在を認めはしたものの、眠りを妨げたやつに心を許したわけではない。

「で? そのすれ違っただけの君が僕に何の用だい。すれ違っただけなら祭でいやというほどすれ違っているのだけどね」

 と、嫌味を付け加えるのも忘れない。

「だから、言ったろ? タマエさんに言われて君を迎えに来たんだよ」

 ナナクサはそう答えた。
 そして、その次にものすごく彼の関心を惹く言葉を耳元で囁いた。

「旅の疲れを癒す広いお風呂に三食昼寝付……」

 ぴくっ、とツキミヤが反応するのがわかって、ナナクサはにっこりと笑みを浮かべる。

「断る理由はないと思うけど?」



 りーん、りーんと鈴に似た虫の歌声が野に響く。空に浮かぶ月にうっすらとした雲がかかっていた。淡い月明かりに照らされた野の細い道。そこをを二人の青年が歩いていく。田に水を引くためだろうか、道の横には細い水路が通っていて、虫の合唱に水路を流れる水音の伴奏が混じる。目的地へ伸びる道の端々にススキが群生して、村に訪れた秋を演出していた。
 淡く灯る提灯をぶら下げた人影に、もうひとつの人影がついてゆく。

「僕はね、タマエさんちで働かせてもらってるんだ。掃除したり、料理したり、収穫の手伝いをしたり。あそこの家には彼のお孫さんも住んでいるんだけど、彼の両親は忙しくてね、家に彼を置いたままなかなか帰ってこないんだ」

 村の青年――ナナクサは、自己紹介の続きを兼ねてそんなことをツキミヤに語った。

「家の広さの割に人が居ないからさ、君が来てくれればきっと喜ぶよ」

 結局、村にやってきた青年は、村の青年の提案を受け入れることにした。
 彼の説明を要約するとこうだ。
 これから案内する家の主が好意から青年を泊めたいと申し出た。
 滞在日数は村にいる間ずっと。この村に居る間は好きなだけ泊まっていて構わない。眠るのを十五分ほど我慢して、ついて来て貰えればその恩恵にあずかれる――……正直なところ、半野宿状態だった旅の青年にはあまり断る理由が見つからなかった。

「ねえ、コースケ君はトレーナーなんでしょ」

 ナナクサは家の主が泊めたいという旅人の素性について興味津々という様子で聞いてくる。

「……まぁね」

 ツキミヤは素っ気無く肯定の返事を返した。

「ということは、君もポケモンリーグとかを目指して旅の途中なんだ?」
「いや……、トレーナーなのは名目上だよ」

 返したのは冷めた答え。

「名目上? どういうこと?」
「この国の制度下ではトレーナー免許を持っていればいろいろ便利だからね。トレーナーの肩書きを持った兼業っていうのが結構多い。僕もその一人」
「じゃあ、コースケには本業があるんだ? 何をやっているの?」

 テンションの低いツキミヤとは対照的に、どんどんナナクサは聞いてくる。

「僕の本業はね、院生だよ」
「院生……」
「平たく言うと研究者と学生の間みたいなもだね」

 ナナクサがあまり理解していなさそうな顔をしていたので、ツキミヤはそう付け加えた。

「つまり半分は学生ってこと? でも学生って学校にいるもんじゃないのかい?」

 村の青年は不思議そうな顔をする。

「そうでもないさ。大学を目指す受験生とか実験室に篭らなきゃできないような研究をしてる人ならいざ知らず、院生を含めた大学生は結構ブラブラしてるもんだよ。大学ってのはね、ある程度単位を取った後ならレポートなり論文なり出すもの出せば卒業できてしまうから」
「へえ、そういうもんなのか」
「僕が大学で知り合った子なんか、四年の初めのほうに卒業論文を仕上げて、送り火山に行くって出て行ったままちっとも戻ってこないよ?」

 尤も僕も人のことは言えないけど、と付け加える。

「それにね、学校に篭ってやる研究ばかりが研究ではないんだ。外に飛び出して調べないとわからないことがたくさんある。僕のいるの研究室の方針として、」
「なーるほど。よくわからないけど、いい身分なのはわかったよ」

 ツキミヤの言葉を遮って、村の青年はそう結論付けた。
 たぶん、皮肉を込めた訳ではないのだろう。
 が、村の青年の一言は結構、学生にとって耳が痛いものだ。

「オーケー。そこまでわかれば上出来だよ」

 ツキミヤは苦笑いをする。
 そして、「そういえば、まだ聞いてなかったけど」と、話題を切り替えた。

「あのおばあさん……タマエさんだっけ。どうしてまた僕を泊めようなんて言い出したんだい?」
「それがタマエさんさ、夕べに話をした君の事が忘れられなかったらしくて」

 と、ナナクサが答える。

「ここの村の人達、誰もツクモ様の参拝に行かないからさ。あそこでコースケに会えたの嬉しかったみたい。家に戻ってからもコースケはちゃんと宿が取れただろうか、どこかで寒い思いをしているんじゃないかととずっと心配してたんだよ。それに……」

 ちらりとツキミヤを横目に見て、彼は続ける。

「それに?」
「ええと、その肩の緑の……」
「ネイティ?」

 肩でうとうととする鳥ポケモンの体温を感じながら、答える。

「そうそう! そのネイテーのことがえらく気に入っちゃったみたいでさ、その、なんだ、あの時コースケに頼んで触らせてもらえばよかったと何度も僕に言うわけ」
「………………」

 ああ、そういえば。と、ツキミヤは記憶の糸を手繰らせた。あの時、あの老婆に聞かれてこのポケモンの種族名を教えたのだ。そんなに気に入ったのか。

「シュージ。お前は暗くて気づかなかったかもしれないが、あのネイテーとかいうポケモン。あれはいいものだ。一見の価値がある。一緒にいるコースケもいい男だ。あれは見所がある。こう言うわけよ」

 ……ネイティが先かよ。と、声の聞こえない内心でツキミヤは呟いた。

「もうね、ご飯を食べてるときも、お風呂に入っている時も、寝て布団に潜ってからも言うのよ。愛しのネイテーとコースケのことを思うと夜も眠れないわけ」
「…………はあ」
「そこまで言われたら、お世話をしている僕はこう提案せざるをえないだろう? では、タマエさん、僕がひとっ走り村を回ってネイテーとコース……じゃない、コースケとネイテーを探してきましょう」

 淡い月明かりが少しだけ強くなる。うっすらと月を覆っていた雲が切れたのだ。
 月明かりに照らし出された野の道は、先ほどよりススキの穂がよく見えるし、前を歩くナナクサの姿をも、ツキミヤの目に鮮明に映し出した。彼の表情がよく見える。

「もしも彼らが宿にあぶれて寒い思いをしているのなら、我が家に泊まっていただくというのはどうでしょう、って」

 ナナクサの淡い色の髪が、月夜に透き通る。先ほどまで眠くてあまり関心がわかなかったが、肩まで伸びた髪をひとまとめにせず何本かに分けて、毛の先のほうで結わいているその外見はかなり特徴的だと思う。

「すると、タマエさんはこう言うんだ。さすがはシュージだ。そう言ってくれるのを待っていた、とね」

 ナナクサは無邪気に語った。

「だから嬉しいな。こうしてコースケ君を連れて家に戻れるの」

 言われなくとも顔でツキミヤにはわかった。
 きっと彼女の役に立てるということが彼にとっては喜びなのだ、と。

「ねえ、コウスケ君」

 突然、ナナクサが立ち止まり、先ほどまで呼んでいた口調よりは改まったようにして、青年のほうを向くと名を呼んだ。

「…………? 何?」

 じっと青年を観察するように見据える。

「こうやって見るとさ、コウスケ君って綺麗だよね」
「…………ハぁ?」

 ツキミヤが顔をしかめる。
 どうにもこいつは次の言動が読めない。
 ナナクサは再び背を向けて歩き出す。

「いやー、さっきは寝込みを襲ってしまったから、あまりシャンとしなかったけれど。こうやって月の光の下に立つと、なんか絵になるなぁって」
「おい、あんまり誤解を招くような発言しないでくれよ。さっきだって君が大声出すから、周りのトレーナーがじろじろ見てきて相当恥ずかしかったんだよ」

 ナナクサの後に続きながら、ツキミヤが返す。

「ごめんごめん。でも、よく言われない? 君くらいだったら、周りの女の子が放っておかないと思うけどな。君が近寄らなくても向こうから寄ってくるんじゃない?」
「何の話をしているんだよ」

 苦手なタイプだな、と直感的にそう感じた。

「コウスケ君ってさ、僕には素っ気無い反応するけど、それは本質じゃないよね。本当はもっと聞き上手で、話し相手の懐にすうっと入り込んじゃう。こっちから聞かなくても、相手が勝手に自分のことを喋ってくれる。そうだろ?」

 ツキミヤは思う。
 夕刻にすれ違って、先ほど言葉を交わしたばかりなのに、こいつはもうこいつなりにだがツキミヤコウスケという人間を掴みかけている。
 いやだな、あまり踏み込まれたくない。そう思った。

「つまり、何が言いたいんだい?」
「ああ、つまりね、コウスケ君は好青年で、気も利くからタマエさんは泊めたくなったんだろうなってこと」
「……ネイティが気に入ったからじゃなくて?」
「もちろんそれも大いにある。両方だよ」

 ナナクサはそこまで言うと、雰囲気を察したのかあまり突っ込んだことを聞くのは避けたようだった。
 舗装されていない道をざくざくと歩く音が響き、りーりーと鳴く虫の音が混じる。
 やがて、二人の青年が、他愛の無い言葉を二、三交わすうちに目的地らしい家の明かりが見えてくる。

「見えてきたよ。あそこ」

 村の青年はそう言って明かりのほうを指差した。


  [No.8] (四)穴守家 投稿者:No.017   投稿日:2010/08/07(Sat) 08:05:12   44clap [■この記事に拍手する] [Tweet]





(四)穴守家


 目的の家の門の前にたどり着く。
 「穴守」と彫られた表札がある家の旧い造り木戸の前に立ったナナクサは、「ちょっと待ってて」と言うと隣の小さな通用口から入る。
 ほどなくしてギシギシと戸が鳴って門が開き、ツキミヤを迎え入れた。
 別に通用口からでいいのになどとツキミヤは思ったが、きっと主人の意向なのだろう。客扱いというのは本当らしい。
 敷地と外とを隔てている門の段差をまたいで中に入ると、大きな石を並べて作った道が玄関へと続いていた。
 暗くてよく見えないけれど散歩ができそうな程度に庭も広そうである。
 やはりナナクサが手入れをしたりしているのだろうか。
 一方のナナクサは玄関の引き戸をがらがらと開き、ツキミヤを中へと招き入れた。
 靴を脱ぎ、軽く身なりをチェックすると、二人の青年は廊下を渡り中へと進んだ。
 相当に旧い、けれどしっかりとした造りの家である。通り過ぎた部屋に垣間見えた柱時計がぼーんぼーんと深夜の時刻を告げていた。

「ここで待ってて」

 ナナクサはツキミヤを数ある部屋の一つに通すと、背丈の高い草の素材で組ませたアジアン風の椅子に座らせて、この家のどこかにいるタマエを呼びに行った。
 しぃんと静まり返った部屋に、りりりりと虫の鳴く音が響く。青白く輝く月が窓からこちらを覗き込んでいた。
 何気なく壁に視線を移すと、ミナモデパートに売っている長いポスターを思わせる絵巻物を飾った額縁が目に留まる。
 右手には暖色系の色で描かれた人とポケモン達、左手には寒色系で同じように描かれた人とポケモン達。赤と青、二つの勢力が中心を境界にして睨み合っていた。
 両陣営の中に一際目立つポケモンが一匹ずつ在った。ほとんど虫のような大きさの人間達、他のポケモン達に対し、絵巻のほぼ下から上までをほぼ目いっぱい使われて描かれたそれは、誰が見ても特別な存在であることがわかる。実際の大きさがどうであるかはともかくとして、その意味の大きさ、存在の大きさが描かれた大きさとして表れているのだ。
 赤いほうは二本足のポケモンで、体型はサイドンなどに似ているけれど意外と体は平たい。節足動物に似た節と身体の側面に左右1列ずつに生えたとげが青年にはなんとなくムカデのように映った。一方、そのムカデと対峙する形で描かれた青い色の大きなポケモンは巨大な魚のように映る。本体と同じくらいの大きさがある幾何学模様が刻まれたその鰭は、一方で空を飛ぶ翼に見えなくも無い。

「ホウエン神話の二つ神、か……」

 青年は虫がしゃべったかのような小さな声で呟いた。
 ふと、青年の足元がざわつく。
 こんな時になんだよ、と言いたげに足元に視線を投げると、三色の瞳が一対浮かび上がっていて、窓のほうを見ろと語った。
 青年は視線を再び窓のほうへやる。だがそこには何も居なかった。
 何か、誰かが見てたのかい? と青年が視線を投げると、そうだと瞳は答える。
 すると、廊下のほうから二人分の足音が聞こえて来た。
 どうやら家の主人がこちらに来たらしい。
 まぁ、いいよ。とりあえずはね……青年がそう答えを返すと、瞳は瞼を閉じて影の中に消えた。
 瞳が引っ込むのと入れ違うようにして、タマエとナナクサがやってきて、ツキミヤは椅子から立ち上がった。

「おぉ、コースケ。夜遅く呼び出して悪かったのう」

 皿のような丸い目を見開いて、やや興奮した様子でタマエは言った。

「とんでもありません。ちょうど宿にあぶれていた所でして。ありがたいお申出、感謝します」

 そう言って、ツキミヤはお辞儀をした。
 肩にとまっていた眠いネイティはバランスを崩し落ちそうになる。

「あぁ、だからボールに入れって言ったのに……」

 ずり落ちたネイティを片手で受け止めながらツキミヤは言った。

「ははは、ネイテーも眠たいところを悪かったねえ。まぁ、今日はもう遅いから挨拶はこれくらいにしておこう。シュージに風呂を用意させるから、ゆっくり疲れを取ってから寝るといい。明日は村を案内させよう」

 とりあえずは客人の姿を確認できたことに満足したのか、タマエはそこまで言うと、じゃあ私はもう寝るよ、コースケをよろしくね……などととナナクサに伝え、去っていった。

「コウスケ君、お風呂入る? すぐに沸くよ」

 ナナクサがそう勧めるので、ツキミヤはそうさせて貰うと返事をし、浴場へ向かった。
 目的の場所に向かう前にネイティはモンスターボールに収納した。ほとんど眠っていた為か今度は抵抗しなかった。



「それにしても、まさかこれほどとはね……」

 あたりに湯気が立ち込める。
 浴槽の前にあって、服を脱いだツキミヤはしばし立ち尽くした。
 旅の疲れを癒す広いお風呂――確かナナクサはそう説明していたが、穴守家の風呂は確かに広かった。というか露天風呂だった。
 一般家庭というよりは旅館のレベルである。そして一人で入るにはあまりに広い。
 湯船から湯を掬い取り、軽く身体を流す。ナナクサから受け取った石鹸とスポンジで軽く身体を洗ってから、青年はざぶんと、湯船に浸かった。
 こんな風呂にゆっくり浸かったのはひさしぶりだった。
 身体を芯から温める湯の抱擁に身をゆだねながら、眠さに鞭を打ってここまで来た甲斐ががあったなと思う。
 あの時要らぬ寄り道をして、宿を取り損ねたが、要らぬ寄り道をしたおかげで自分はこうしている。思えば縁とは不思議なものだ。
 そんなことをツキミヤが考えていると、彼の目の前でぶくぶくと泡が立った。
 何かと思って見ていたら、一匹のカゲボウズが湯船の中に浮かび上がってきて、水面に顔を出してきたところであった。
 だが、湯船の湯をを飲んでしまったらしく、げほげほと咳き込んだ。

「……変なタイミングで出てくるからだよ」

 ツキミヤは少々呆れ気味に言った。

「で、何?」

 ツキミヤがそう尋ねると、カゲボウズがほれ向こうを見ろと言わんばかりに、青年が顔を向けている左斜め上の方向に視線を投げた。ああ、そのことかと思ってその方向を見る青年。だが、

「湯気でぜんぜん見えないね」

 カゲボウズの視線が差す方向を見つめながら青年はこぼした。
 だが、先ほど待たされた部屋といい、何かが自分あるいは自分達を視ているらしいことは確かであるらしかった。それもおそらくはこの家に入ってからだ。
 何かあるのかもしれないな、この家は。面白そうじゃないか。そんなことを考える。
 湯気の向こうから見ているらしい何者かの正体について思案していると、青年が入ってきた方向からガラガラと引き戸を引く音が聞こえてきて、こちらに近づいてきた。やってきたのは服を脱ぎ捨て腰にタオルを巻いたナナクサだった。
 ツキミヤは湯船の中でぶくぶくと泡を立てるカゲボウズの頭を急いで湯船に突っ込んだ。

「コウスケ君、僕も一緒していいかなー?」

 ナナクサは軽い調子で尋ねてくる。
 使用人が客人と一緒に入るのは、どうなんだろうなどと一瞬考えはしたものの、そんなことをうるさく言うつもりはツキミヤには無かった。第一ここは旅館ではないのだから。主人も寝付いてしまったことだし、もうプライベートな時間だと考えているのかもしれない。
 ナナクサは湯船の湯で軽く身体を流すと、そそくさと湯船の中に入り、ツキミヤの隣に並ぶ。

「いいでしょ? タマエさんちのお風呂」

 ナナクサはそう言って、青年にこの家の風呂の感想を求めた。

「ああ、どこかの旅館かと思ったよ。でも、おばあさんとお孫さんの二人暮らしにはちょっと広すぎるかな」

 ツキミヤはそう答えておいた。
 すると次の瞬間、湯の水鉄砲がツキミヤの顔にかかった。見るとさっき風呂に沈めたカゲボウズが再び浮かび上がってきてしまって、不意に飲んだ湯を吹いてからゲホゲホと咳き込んでいるところだった。どうやらうまく戻れなかったらしい。
 だから変なタイミングで出てくるなと言ったのに。青年は内心悪態をついた。

「ほえ? 風呂にカゲ、ボウズ……?」

 驚きの声を上げたのはナナクサである。
 慣れない湯船の中で姿を消す余裕もなかったのだろう。それはしっかりとナナクサの目にも捉えられていた。

「あ、ああ……ネイティの他にカゲボウズも持ってるんだ。ボールの中で待ってろって言ったんだけど、勝手についてきてしまって……」

 一方のツキミヤはとりあえず手持ちということで誤魔化すことにする。

「ふうん、そうなんだ」

 と、ナナクサは言った。
 湯船に浮かぶカゲボウズの角をつんつんと突くと、

「ネイティといい、カゲボウズといい、コウスケ君ってちまっこいポケモンが好きなの?」

 などと聞いてくる。

「……そういうわけじゃないさ。もっと大きいのだっている」

 そうツキミヤが答えると、

「へー、そうなんだ。じゃあ、明日にでも見せてよね」

 と、勝手に話を進めた。
 余計な事を話さなければよかったと思う。
 いや、手持ちを見せるくらいわけないのだが、どうにもナナクサが自分の中にずけずけと押し入ってくるようで青年はあまり気乗りがしなかった。
 すると、

「ねえコウスケ君、なんか怒ってない?」

 ナナクサは雰囲気を感じ取ったのか心配そうに聞いてきた。

「やっぱり僕が無理やり連れてきちゃったから……」
「別に……眠いだけだよ」

 素っ気無く返事をすると、

「よかった」

 と、彼は安心したように言った。

「そうだ! コウスケ君の背中流してあげようか?」
「ぶっ」

 突然の突拍子のない提案にツキミヤは噴き出した。
 そしてざばぁという音と共に湯船の中で立ち上がって、

「馬鹿か君は! 僕はもう寝るからな!」

 そう言って、湯船からあがると、すっかり風呂を満喫しているカゲボウズにいくぞと声をかける。
 湯船から上がり、胸板が顕になったツキミヤを見て、ナナクサが「おや」という表情を浮かべた。
 が、そのことについてナナクサがいつもの調子で問う前に、青年はカゲボウズを連れてすたすたと脱衣所のほうへ歩いていってしまった。

「コウスケくーん、コウスケ君の寝る部屋だけどさー、さっき待ってたとこの隣ね。もう布団は敷いてあるからー」

 湯気の向こうに消えたツキミヤに向かってナナクサはそう声をかけた。
 彼は少し複雑そうな表情で青年を見送った。
 湯船から上がった時に見えた青年の胸には、三本の痛々しい傷跡があったからだ。



 ナナクサが用意してくれた寝巻きに身を包むと、ツキミヤは寝室へ向かった。
 廊下を渡りながら、

「例のあれ、まだ見てる?」

 と、傍らにひらひらと浮かぶ人形ポケモンに目で合図する。
 カゲボウズはコクンと頷いて返事をした。

「そうか。どうしたものかな……」

 そう呟きながら、寝室の襖を開くと、部屋の中心にいかにもやわかかそうな布団と毛布が用意してあった。
 手でそれを押してみる。たぶん、チルタリスの綿毛が入っているのだ。高級布団である。
 部屋の奥に目をやると掛け軸と面がかかっていた。
 白い肌の面には細い金色のツリ目が描かれ、赤や青で何本ものひげが伸びていた、そして丈夫には大きな耳――狐面である。
 それがこちらを見るようにある種不気味に笑っていた。
 ツキミヤは面に向かってくすりと微笑み返す。
 カゲボウズが中に入ったのを確認して、寝室の戸を閉めた。
 そして、何事も無かったように部屋の中心まで進み、布団に腰を下ろす。
 しばらくの間。
 闇夜にまぎれるかすかな音をツキミヤは聞き逃さなかった。

「鬼火」

 ツキミヤがそう呟くと、先ほど彼が閉めた襖の向こうから

「うわああああっ」

 という悲鳴が聞こえたと同時にドスンと腰が床についた音がした。
 ツキミヤはゆっくりと立ち上がると襖に近づき、それを開いた。
 目の前には突然現れた鬼火を前に腰を抜かした一人の少年の姿。彼はしまったという顔でツキミヤを見上げた。

「よっ妖怪……!」
「妖怪? 僕が?」

 青年とカゲボウズがくすくすと笑う。

「だって、ひとだま……さては、お前……」

 動揺が収まらない様子で少年は言った。
 ちょっと脅かしすぎたかな、とツキミヤは鬼火を引っ込めさせ、少年を落ち着かせるように

「こんばんは。ナナクサ君から話は聞いているよ。君がタマエさんのお孫さんなんだね」

 と、言った。
 すると少年はなんだ知っていたのか、という顔をして

「タ、タイキじゃ! あの偏屈なタ、タマエ婆がめずらしく人を泊めると聞いたんで、どんなやつか一目見てやろうと思っての……」

 と、言葉を詰まらせながら必死で強がった。

「タイキ君って言うのかい。僕はコウスケだよ。ツキミヤコウスケ。コウスケって呼んでくれればいい」

 かすかに笑みを浮かべながら、ツキミヤは自己紹介した。

「こっちのは僕のカゲボウズ。鬼火を出したのはこの子」

 少年は青年の傍らでひらひらとマントをたなびかせているポケモンをまじまじと見た。

「なななんだ。そ、そいつか……。脅かすな……。その鬼火が出た時、俺はてっきりタマエ婆が泊めたのはあの妖怪なんじゃないかと焦ったわ」

 このあたりでやっと少年はやっと落ち着きを取り戻しはじめた。

「ひどいな。人を妖怪よばわりするなんて。何? その妖怪って。そんなに僕に似ているの?」

 妖怪というキーワードが気にかかり青年は探りを入れる。

「なんじゃ知らんのか。この村の昔話に出てくる炎の妖じゃ」

 炎の妖。
 少年はそう言った。

「今は祭の時期じゃからの。そいつの名前が一番口にされる時期じゃ。口にされる回数が多いとその名前の主は力を持つんだと。姿を現すんじゃと……だから」
「へえ面白そうだね」
「タマエ婆が言っとったんじゃ。なんならシュージがもっと詳しい」
「ナナクサ君が?」
「そうじゃ。あいつ村の育ちじゃないくせに、やたらと村のこととか米のことなんかに詳しくてのう」
「そうかい。じゃあ明日村を案内してもらうついでに聞いてみようかな」

 またあいつか。苦手なんだよなぁ、あのタイプ……などと考える。

「まあいいや……、今日は遅いから寝かせてもらうよ。また明日ね、タイキ君」

 青年はそう言って部屋に入り襖を閉めた。
 ほどなくして、少年がぱたぱたと廊下を戻っていく足音が聞こえた。
 野次馬なところは少年もあの青年もよく似ていると彼は思う。
 襖に背を向けるとおのずと部屋の奥に掛けられた先程の面と目が合った。それは月明かりに青白く浮かび上がって相変わらず静かに笑っている。

「妖怪を泊めた、か……言い得て妙じゃないか」

 青年は面に向かって再び微笑み返した。


  [No.9] (五)隠し事 投稿者:No.017   投稿日:2010/08/07(Sat) 08:06:15   37clap [■この記事に拍手する] [Tweet]





(五)隠し事


 季節を問わずに今でもときどき夢に見ることがある。
 それは、夏の夢。石段を上る夢。

「こっちだよ。コウスケ」

 誰かの声がする。懐かしい、愛おしい声。

「待っているよ。はやく上っておいで」

 蝉の合唱、鳥居の向こう。



 待って、と言い掛けて瞼が開いた。
 青黒い色から、白地にうっすらと染み込む青色へ。
 気がつけば窓が映す空の色が変容していた。
 再び空に太陽が戻ってきたのだ。夜が明けている。
 青年はむっくりと布団から起き上がった。

 こういう環境でみそ汁なんて一体いくらかぶりだろうと青年は思う。
 背の低い木製のテーブルにみそ汁、ご飯、浅漬けを並べて、正座をし、四人は朝食を取った。
 メンバーは一家の主である老婆、使用人のナナクサ、客人のツキミヤ、そして老婆の孫である昨晩の少年である。
 かくしてツキミヤは朝食の席でタマエから孫の紹介を受けた訳だが、二人はすでにお互いの顔を認識した間柄だった。
 昨晩客人にちょっかいを出したことがタマエにバレるのではないかとタイキはびくびくしていたが、ツキミヤが初対面の挨拶をしてきたので、彼はほっと胸を撫で下した。

「コースケはどこから来たんじゃ」

 ちょうど向かいに座っているタマエは時々客人のことについて、テーブル越しに質問してくる。

「生まれはトウカシティの端っこですけど、その後ホウエンを転々としまして。今はカイナシティの大学に籍を置いています」

 ツキミヤは感じよく丁寧に答えを返す。
 タマエの横で孫のタイキは黙々と浅漬けを口に運んでいたが、ツキミヤの言葉を聞き漏らすまいとしているように見えた。彼は彼で興味があるらしい。

「朝食が終わったら、シュージに村を案内させようねえ。まぁ田んぼ意外何も無い村だけど、シュージがいろいろ詳しいから」
「はい、ありがとうございます」

 すると、

「なぁタマエ婆、俺も行って良い?」

 と、タイキが口を出した。

「おまんは祭の手伝いがあるじゃろ。シュージに任せておけばいい」

 そうタマエは返す。
 ちえっとつまらなそうに少年は舌打ちした。

「はは、まぁ行くところはみんなタイキ君が知っているところばかりだから」

 ナナクサがなだめるようにフォローを入れる。

「ああシュージ、朝食の片付けはしなくていいから、コースケをよろしくねえ」
「はい、お任せください」

 ナナクサは嬉しそうに返事をした。



 一度門を開くとそこに広がる世界は一面の田と野であった。
 収穫期を迎えた稲は、己の背筋が曲がるほどに実をつけて頭を垂れていた。
 それが何千、何万、何十万と集まって目の前に広がる世界を構成しているのだ。
 夜の暗さと祭りの明かりに気を取られて意識しなかったが、これこそがこの時期のこの村の主なる風景である。

「すでにコウスケも知っての通り、ここの村は古くから稲作が盛んでね」

 と、ナナクサが始めた。
 もともとこの国において最初に稲作と云うものが伝来したのはホウエン地方と言われている。その技術はやがて北上して行き、ジョウト、カントーへと広がっていったのだ。

「毎年この時期になると一週間に渡る収穫祭が行われる。昨日はその前夜祭」
「前夜だって? あの規模で?」
「そう、正式な祭の日は今日から。だから村中大忙しさ。タマエさんもタイキ君も駆り出されちゃって動けない」

 ああ、そういえば先程朝食の席で、とツキミヤは思い返す。

「君は手伝わなくてもいいのかい?」
「ああ、僕はいいんだよ。元々村の人間じゃないしね」

 ツキミヤが質問すると青年はそう返した。
 むしろ使用人なら率先して手伝わされそうなものだけれどもとも思ったが、別段突っ込んで聞こうとも思わなかった。

「僕にとってはね、村の行事よりタマエさんに頼まれたことのほうが優先なの」

 ナナクサはさらっと言ってのける。

「だからね、僕が今優先すべきなのはコウスケを案内すること」

 この青年の頭の中には村の地図があるのだろう。
 ナナクサは村を囲う青い青い山々を見つめながら、幾分も待たずしてルートを決定した。

「じゃあ、東側からぐるりと回るルートで行こうか」

 ナナクサがそう言って二人の青年は昨日の夜の様に歩き出した。
 優しい風に頭を垂れた稲穂がかすかに揺れていた。

 道中、ツキミヤが驚いたのはナナクサの知識の豊富さであった。
 彼は自分達が歩く道の右と左に広がる水田で実っている米の種類をちらっと見ただけで見分けてしまうのだった。
 右の水田を差しこれはコシヒカリ、左の水田を指しこっちはササニシキと言う具合にだ。
 ツキミヤも両者を見比べてみたが同じようにしか見えない。
 大学の研究室の先生が、銅鏡の文様を見ただけで出土地を言い当てるという特技を有していたりするがそれに似ていると彼は思った。
 尤もツキミヤには米の見分けはつかないから、ナナクサが口からでまかせを言っていたとしても気付きようがないのだが、やたら米に詳しいという昨晩のタイキの言葉からして嘘ではなさそうである。

「ちなみに百メートル行ったヤマダさんちではアキタコマチ、向かいのタカダさんちではヒトメボレ、もうちょっと先に行ったサトウさんちではきらら396を育てている」

 どの農家でどの米を育てているのか、彼は知り尽くしている様子だった。
 そのほかにもコガネニシキ、ななつぼし、アケボノ、日本晴れ、まなむすめ、きぬむすめ、スバメニシキ、オニスズメノナミダ、ハトマッシグラなどツキミヤが聞いたこともない品種をナナクサは呪文のように並べ立てた。

「またずいぶんと種類が多いんだな。米所っていっても普通同じ地域で育てているのって一、二種類だと思っていた」

 そうツキミヤが感想を述べると「ずっと昔、稲の病気が流行ったんだ」と、ナナクサが答えた。

「単一の種類を育てていると全部に伝染してやられてしまう。一種の防衛だよ」

 稲穂の群落を一望する。
 多くの地域では、収穫した米は農協に納められて、どの家のだれが作ったものも品種ごとにみんな一緒くたにしてしまうけれどこの村は違う。
 皆それぞれの田んぼで取れる米の味に誇りを持っている。同じコシヒカリでも別の農家のそれと一緒にしたりはしない。
 ナナクサはそのように解説を続けた。

「コウスケも前夜祭の屋台でいろんな米の料理を貰っただろ? あれはそれぞれの農家がその米に合った料理を振舞っているんだ。農協が買い取ってくれないから自分達で売り込むんだよ」
「なるほど。祭はいわば米の品評会と言うわけだ」
「祭にはトレーナーだけじゃない、有名レストランや料亭、食品メーカーのバイヤーがたくさんやってくる。ブランドを確立して毎年高値をつける農家も少なくない。米を農協に買い取って貰えない代わりに、人気が出れば好きな値段をつけられるんだ」

 だんだんと祭の全体像が浮かび上がってくる。
 おそらくは昔、昔から伝統的に引き継がれてきたであろう村の祭。現代に至っては観光資源と言った側が強いだろう。だが、この村にとって祭とは単なる観光資源以上の意味を持っているのだ。
 古代の人々にとって祭とは今年の収穫への感謝であり、翌年の収穫への祈願だ。収穫量は何人が生き延びることができるかに直結する。そして今や祭の成功は、村の経済に直結している。
 村中駆り出される訳だ、とツキミヤは思った。
 頭を垂れる稲穂が抱く白い粒には村人の願いが詰まっている。古代も現代でも変わることが無く。

「そういえば、昨日の前夜祭で大社があるって聞いたけれど……」

 と、昨晩屋台の店主から聞いた言葉を思い出してツキミヤは尋ねた。
 大社と言うくらいだからこの村の中では相当大きく古い建造物に違いない。当然ナナクサのルートの中にも入っているだろう。それに屋台の店主の口ぶりからして、この村の収穫祭にはそこに祀られている神が大きく関わっている。そこに祀られているのは豊穣の神。とりわけ稲作に深い関係がある神と見て間違いが無い。だが、

「ああ、そんなものもあるね」

 と、ナナクサの反応はどこか冷ややかだった。
 ツキミヤは意外に思う。

「大社でしゃもじを貰えるって聞いてる」
「うん、そうだよ」
「それを見せると、祭では米の料理がタダで振舞われるとも」
「実際のところ、持っていてもいなくてもチェックなんかしないけどね」

 どうしてだろう。やはり冷めているというかはぐらかされているような気がした。

「タマエさんに聞いたよ。しゃもじって今年もたくさんお米が獲れました。お腹いっぱい食べさせてくれてありがとうございます。そういう感謝の気持ちを込めてお供えするものなんだろう?」 「まぁね。祭の最後には大社に供えていく人が多い。観光客はともかく村の人間はそうしているかな」
「……今日のルートには入っていないのかい?」

 ツキミヤは単刀直入に聞いてみる。
 すると、

「僕はあまりおすすめしないけれど」

 という答えが返ってきた。
「あんなところ、行っても面白くないよ」とまで付け加える。

「コウスケは……どうしても行きたいの?」

 と、逆に聞き返されてツキミヤは少々戸惑ってしまった。

「あ、ああ……まぁ専攻してる学問柄、伝統的な祭事には興味があってね」

 と、理由を紡いだ。

「この村にとって大社は祭の、ことに祭事的側面の重要な位置を占めているのは間違いない。そういう所なら見てみたいと思うのが普通だろう?」

 学生として、あるいは研究者としての極めて真っ当な理由をぶつけてみる。
 もちろん興味があるのも本当だった。

「わかった……コウスケがそうして欲しいならルートに加えるよ」

 ナナクサは渋々と大社行きを了承した。
 なぜナナクサがそんなに嫌がるのか、ツキミヤには皆目検討がつかなかった。

「いや……むしろ見てもらったほうがいいのかもしれないな。大社を知らずして村を知ったことにはならないもの。タマエさんの望みは村を案内すること。だったら……」
「何をぶつぶつ言ってるんだよ」
「うん、わかった。行こう。ちゃんと案内するから」

 ナナクサは自分に言い聞かせるように再び了承の言葉を口にした。

「あ、シュージお兄ちゃんだ。おはよう!」

 水田を二分して伸びる道の向こう側から歩いてきた二人組と一匹があって、その中の小さい女の子がまっさきに声を掛けてきた。短い髪を二つに結わいた元気のよさそうな女の子だ。

「やあノゾミちゃん、おはよう。ニョロすけも元気だね」

 と、ナナクサは挨拶を返した。
 女の子の後ろをちょこちょこついてゆくポケモンを見る。
 サッカーボール大ほどの大きさで、腹には渦巻きがある。それはおたまポケモンのニョロモであった。
 ニョロモは一瞬、ツキミヤと目があって、女の子の足の後ろに引っ込んだ。

「おはようございます、ナナクサさん」

 次に落ち着いたトーンの声で挨拶したのは、小さいほうの連れでノゾミと呼ばれたほうに比べるといかにも大人の女性であった。
 ツキミヤは彼らに軽く会釈をする。

「そちらの方は?」
「ああ、こちら昨晩村にいらしたポケモントレーナーのツキミヤコウスケさん。今、うちに宿泊していて」
「ツキミヤです。こちらには旅の途中で寄ったのですが、タマエさんやナナクサ君にはお世話になっています。何でも大きなお祭りがあるそうで見物して行こうかと」
「それはそれは。年に一度お祭りくらいしか見所の無い村ですけど、ぜひ楽しんでいってくださいね」

 彼女はなごやかな笑みを浮かべそう言った。

「そうするつもりです」

 と、ツキミヤも返した。

「ときにツキミヤさん」
「……? なんです?」
「ポケモントレーナーと言うことはやはり『あれ』には参加なさるんですか?」
「『あれ』?」

 ツキミヤは心当たりが無いといわんばかりに疑問符をつけた。

「あら、ナナクサさんからは聞いていないの?」

 彼女は意外そうな顔をする。するとナナクサが口を開き

「ああ、選考会のこと」

 と言った。

「何だい、選考会って」
「そのなんていうのかな、ちょっとしたバトル大会だよ。"野の火"の出演者を選ぶためのさ」
「野の、火?」
「この村に伝わる伝承を舞台にしたものなのよ。その出演者をね、お祭りのイベントをかねてポケモンバトルで選ぶっていう趣向なの。ノゾミもニョロすけと一緒に雨降(あめふらし)の部で出ることになってるわ」

 ノゾミと足元にいるニョロモを見て、説明する。

「ま、毎年負けてばっかりなんだけどね」
「うるさいなーおねえちゃんは。余計なこと言わなくて良いのに」

 ノゾミはそのように反発し、怒ったフワンテのように頬をぷうっと膨らませた。
 この人、この女の子のお姉さんだったのか。ずいぶん歳の離れた姉妹だなぁ、とツキミヤは思う。

「そりゃあ、普段から修行している旅のトレーナーさんには敵わないけど……少なくとも、タイキよりはバトル強いわよ。私」

 と、ノゾミは主張した。

「へえ、タイキ君もポケモン持っているんだ?」

 ツキミヤが尋ねる。そういえば彼とは昨晩少し脅かして言葉を交わしたくらいで、タマエの孫であること以外は何も知らなかった。

「持ってるわよ。真っ黒いぼさぼさ頭のを一匹ね。飼い主に似てイタズラばかりで手がつけられやしない。この前だってニョロすけの為に用意しといた水の石を……」
「ごめんねーノゾミちゃん。隙を見て取り返しておくからさ」

 と、ナナクサが苦笑いして言った。

「彼のポケモンね、光モノが好きなんだ」

 ツキミヤに補足説明をする。

「それで、ツキミヤさんは出場なさらないの?」

 ノゾミの姉は話題を元に戻してくる。
 するとナナクサは

「うーん、コウスケは水ポケモンも炎ポケモンも持っていないからなぁ。出れないんじゃないかな」

 と、言ってから「あ、ネイティとカゲボウズの他に大きいのがいるんだっけ?」と、付け加えたので

「いるけど……鋼タイプだね」

 と、ツキミヤは返事をした。

「違うわよナナクサさん。正確には水タイプか炎タイプの技が使えればいいの。ポケモンのタイプそのもを一致させる必要はないわ」
「あれ、そうでしたっけ」

 少しすっとぼけた様子でナナクサは言う。

「どっちにしてもコウスケはあまり興味ないと思うけど。ほら、ポケモントレーナーって言っても兼業で本業は院生だから」
「まぁ、たしかにあまり興味は無いかな」

 と、ツキミヤは同意する。

「そうですか……。出演した時の謝礼が豪華だからね、結構旅のトレーナーさん、参加したがるのよ。もっとも選ばれた後の練習は大変ですけどね。短期間でそれなりに仕上げなくちゃいけないし、お神楽も覚えなくちゃいけないから」
「正直、去年の役者は大根だったね。何より見た目がよくなかった。やはり役のイメージは大事にしなくちゃいけないよ。雨降様ともかく相手役のほうはね」

 去年の舞台を回想し、ナナクサはそのように評論した。

「あら、雨降様はいいの?」
「あの役はね、威勢がよければ何でもいいんだ」
「へえ、さすがにタマエさんの所にいらっしゃる方は言うことが違うわねぇ」

 ノゾミの姉はどこか納得したように言う。

「当然でしょう」

 と、ナナクサは答えた。
 正直、何のことを話しているのかツキミヤにはよくわからなかった。

「だったら、ナナクサさんが出演なさったらいいのに。きっとビジュアル面も問題ないわ」
「僕はだめですよ。そもそもポケモンを持っていない。それに僕が出演したらきっと村のお偉いさん方はいい顔をしない。いろいろ心配なさるでしょう」
「そうかしら?」
「たとえばそう……僕が勝手に台詞を書き換えちゃうんじゃないか、とかね、」
「書き換えるの?」
「僕はあの話、嫌いだから」

 単刀直入どころか一刀両断するかのようにナナクサは言った。
 生まれでないとはいえ、自分の住んでいる村の伝統行事をそんな風に言ってもいいものなのだろうか、と内心に思いながらもツキミヤは黙って聞いていた。

「……嫌いなのはあなたじゃなくてタマエさん、でしょう?」

 少し眉を潜ませるようにしてノゾミの姉が反論する。
 それはあなたの雇い主の考えであって、あなた自身の考えではないのだと確認するように。

「タマエさんが嫌いと言うのなら、僕も嫌いだよ。同じことさ」

 一方のナナクサはどこまでもタマエ主体であった。
 使用人とはいえ、思想にまで染まっているのも珍しいと青年は思う。
 いや、それよりあの老婆が祭で上演される舞台とやらを嫌いと言うのはどういうことなのだろうか。たしかにタマエが偏屈とか頑固とかいうイメージで通っているのはうすうすツキミヤも感じていたのだが。

「……そうね。例えば今日の天気が雨だったとしても、タマエさんが晴れているって言ったら、あなたにとっては晴れなのよね」

 もういいわ、あなたには敵わないわよ。
 という感じで首を左右に振り、彼女は半ば呆れた様子で言った。

「じゃあ私達お祭りの手伝いがあるから。ノゾミ行くよ」
「はぁい」

 二人の青年が歩いてきた道を戻るように、何かに奴当たるように彼女はすたすたと彼らの横を通り過ぎる。
 その妹とポケモンが小走りに後を追った。

「じゃあね、シュージお兄ちゃん」

 どんどん先を行く姉に代わるように道行くノゾミが振り返って、手を振った。
 ナナクサも軽く手を振って彼女に答えた。

「さっきの人、メグミさんって言うんだ。なかなか美人だろ?」
「ん……、まぁね」
「まぁねか、コウスケの基準は厳しいなァ。やっぱ君自身が綺麗だから……」
「関係ないだろう」

 それより、いつから呼び捨てになったんだ? と言いたげにツキミヤは彼を睨みつけたが、ナナクサは気がついていないか、確信犯なのか、いずれにしても意に介していない様子だった。

「この村じゃ結構モテるんだよ彼女。彼女はあんまり相手にしてないみたいだけど。米でたとえるならそう……アキタコマチだ」
「なんだそれ」
「秋田小町知らないの? その昔貴族社会でモテモテだったっていう」
「いや、それは知ってるけど」

 そうじゃなくて、なぜ米に例えるんだ? とツキミヤは聞きたかったが言っても無駄そうなのであえて言葉にはしなかった。

「ちなみにタイキ君はノゾミちゃんが好きらしい」
「……へえ」

 聞きもしないのに余計な知識を増やしてくれる。

「でも、いつもポケモンバトルで負けてばかりでさ、カッコがつかないと嘆いてる」
「ずいぶん詳しいんだね」
「使用人たるものご主人様のお孫さんの想い人くらい把握しているものさ。そしてできるならその恋のお手伝いだって。だからコウスケ、今度バトルのコツでも教えてあげてよ」
「なんで僕が」
「兼業とはいえ、コウスケも旅のトレーナーでしょ。……だめ?」
「……検討はしておくよ」

 彼があまり熱心なのでツキミヤは渋々そのように答えた。
 二人の進行方向に背を向けて、彼らも歩き出す。

 タイキから聞いた前評判の通り、ナナクサはまるで村の長老かと思えるくらいやたらと村のことには詳しかった。
 ノゾミがニョロモを捕まえたという大きな貯水池はいつできたとか、あの雑木林は誰それの所有で幽霊が出る噂があってとか、この一本道では時々マッスグマが競争しているんだとか、タイキのポケモンが駄菓子屋の菓子を盗み食いするのでいつも勘定を払っているとか、道行く過程でいろんなことを話し聞かせてくれた。
 かといって、しょうもないことばかり知っている訳ではなく、彼しか知らないような村の景色を一望できる場所や、四季折々の美しい花が見れる場所、トレーナーなら涎が出てしまうような珍しい木の実の生える場所、冷たい水がこんこんと湧き出る泉の場所を知っていたりする。
 そして道行く様々な村人と出会う度、彼は「あの人はコシヒカリで、この人はササニシキ」などといちいち彼らを米に例えた。これには呆れてしまったが、彼はこうやって村の人々を記憶しているらしい。
 さらにこれは道ゆく人がツキミヤに教えてくれたことだが、村の農家の中には米の生育について彼に相談するものさえいるという事だった。
 とにかく村の地理から、米のこと、ご近所の噂話まで何でも知っているのがナナクサなのだ。

「あそこだよコースケ。大社はあの山の中」

 黄金色の水田の海の中に島のように浮かぶ小高い山があった。

「行こうか」

 あまり気乗りのしない声でナナクサが言ったのが気にかかった。

 雨降大社。そう書かれた青く染められた旗が風にばたばたとたなびいている。
 二人の青年は石段を登って行った。
 時々観光客と思しき人々や子ども達が、大社で貰ったらしいしゃもじを手に持って、きゃっきゃと騒ぎながら石段を駆け下りて行った。
 ナナクサは終始顔色が悪そうにしていた。
 そしてツキミヤは、ほどなくしてその理由を知ることとなる――





「コウスケ、君に頼みがある」

 日の暮れかかった帰り道にナナクサは云った。

「君に解説をしながらずっと考えていた。タマエさんはあの場所が嫌いで、僕もが嫌いだ。だから、できれば君を連れてきたくはなかった。けれど君は行きたいと言い、僕は君を連れて行った……そして今気がついた」

 考え抜いた果てにナナクサが思い出したのはあの時交わした会話。
 自分自身の言葉。

「そうだったんだ。そうすればよかったんだ。どうして今まで気がつかなかったんだろう」

 彼は語った。
 自身の企ての内容を。

「……本気で言っているのか?」

 それは恐るべき内容だった。村中を敵に回しかねないような。
 赤く燃えるの空の下、ナナクサは確かに頷いた。


  [No.10] (六)鳥居の向こう 投稿者:No.017   投稿日:2010/08/07(Sat) 08:07:04   40clap [■この記事に拍手する] [Tweet]





(六)鳥居の向こう

 みぃんみぃん。じじじ。
 虫の声。あれは夏の声。秋の響きのそれとは異なる騒がしい虫の声。
 懐かしさを覚える、音。
 それは、瞼の裏に遠い遠い日を映す呪文。
 小さかった頃、鳥居を潜れば別の世界へ行ける気がしていた。

 今を盛りと青葉は揚々と茂り、木漏れ日が差していた。
 神社に続く長い石段には空を覆う葉とその隙間から差し込む光によって、奇妙で不思議な模様が刻まれていた。

「お父さん、お父さん待ってよ!」

 七、八歳くらいだろうか。一人でできることが多くなったとは言っても、その少年はまだまだ幼い。
 彼は木漏れ日に彩られた石段の遥か上を行く父親を呼んだ。
 歳の離れた彼らの体格差は大きい。歩幅の違い。体力の違い。
 日頃フィールドワークで鍛えられている父親は長い石段をものともせずすたすたと登っていってしまう。
 彼は別段急いでいる訳ではない。
 だが、幼い少年にとってそれは非常に早い速度に感じられた。

「一番上で待ってるよ。早く登っておいで」

 神社に連なる石段のはるか上から響く声。
 少年の細い足はもう疲れたと弱音を吐いていた。けれど少年は息を荒くしながらも、途中で止まることなく父親の待つ頂上へと登っていく。
 最後の一段を登りきるとそこには、神社の入り口にそびえる鳥居、そしてその下に立つ父親の姿。
 
「ずるいよ父さん! 僕を置いてどんどん登っていっちゃって」
「ははは、前に来たときよりはずっと早かったじゃないか。えらいぞコウスケ」

 そう言って父と呼ばれた人物はしゃがみこみ少年の目の高さに自分の目線を合わせると、その頭をくしゃくしゃと撫でた。
 石段の頂上で見た父親の顔には石段と同じ模様が刻みつけられていた。





「……断る」

 ナナクサの提案をツキミヤは跳ねつけた。

「いいか、僕はこの村に観光に来ただけのただの兼業トレーナー、本業院生なのは君だって知っているはずだ。村の伝統行事に引っ掻き回すつもりも、ぶっ壊すつもりも僕には無い」
「壊す訳じゃない。少し内容を変えるだけさ」
「同じことだろう」
「僕はね、何もタマエさんや君自身の信仰をとやかく言うつもりは無いよ。好きなものを信じて、想うものを供えたらいいじゃないか。だが、僕を巻き込むのはやめてもらいたい」

 ツキミヤは本当に迷惑そうに言った。
 下手をすると宿泊先を変えかねないような勢いだった。

 ナナクサの頼み事の「第一段階」はこうだ。
 選考会に出て欲しい。出て、役を勝ち取って欲しい。
 ただし君取ってもらいたいのは主役の雨降様じゃない。かといって名も無い村人でも無い。

 ――君に取って欲しい役の名は、"九十九(つくも)"だ。





 話は一刻前に遡る。
 ツキミヤの要望どおり、彼らは大社にやってきたのだ。
 小高い山にある大社への道のりは神社につき物の長い石段だった。
 石段を上った先には大きな鳥居があって、その太い日本の支柱には雨降大神命の文字が刻まれていた。

「雨降様は名前の通り雨の神様だよ。田を潤し、稲を育てる水が絶えずに在るのはこの神様のおかげだと言われている。伝承によれば彼がやってくるだけで雨が降ったそうだ」

 やってくるだけで、雨。
 おそらくこの神社はホウエン神話の"青いほう"に属しているのだ。
 研究者としてのツキミヤはそう分析した。

「稲作には水が欠かせないもの。だから彼はこの土地の豊穣の神様なんだ」

 ナナクサはそのように解説した。
 思えば、おかしな違和感はこのときからついて回っていた。
 青年はこの村に足を踏み入れて最初に出あった人物の言葉を思い出していた。

「彼は豊穣の神であると同時に、田畑の守護神でもある」

 ナナクサは付け加えるように言った。

「守護神?」
「そう、この雨降様が村にやってくる前には――」

 ナナクサがそう言い掛けた時に知らない声が会話を遮った。

「これはこれは、アナモリさんの所の方が、こちらにいらっしゃるとは珍しい」

 見れば、言葉を遮ったのは、一人の老人の声だった。
 神社の奥から今こちらに出てきたところらしい。

「……これは村長さん、ご無沙汰しています」

 ナナクサは軽くお辞儀をした。

「どういう風の吹き回しだい? タマエさんはともかくとして君もここには全く寄り付かなんじゃないか。こりゃあ明日は雪が降るかもしれんなあ」

 村長と呼ばれた老人はしわがれた声がそう言った。

「何、お客様の要望です。タマエさんのお客様が行きたいというのなら応えざるを得ないでしょう?」

 ナナクサはどこか他人行儀に答える。

「ほお、あのタマエさんにお客さんとな? それまた珍しい。明日は本当に雪が降るなぁ」
「本当に雪が降ったらお祭りは大変ですね」

 ナナクサは嫌味を込めるように言った。

「で、そのお客さんは何処に?」
「僕の隣に居ますが?」
「ほえ?」

 村長はどこかすっとぼけた感じで、視線を移す。ナナクサの隣に立っている人物――ツキミヤをまじまじと見つめた。

「うーん、見たところ普通の人間だなあ。面白くない」
「……ツキミヤです。どうぞよろしく」

 少しムカっときたのは抑えてツキミヤはあくまで和やかに挨拶をした。
 村長が続ける。

「君、タマエさんの親戚か何かかい?」
「いいえ」
「へー、それでなんでだろうねえ。見ず知らずの旅人を泊めるような人じゃないんだけどねぇ。私はね、まだタマエさんが結婚してないような頃から知ってるけど、性格のきっつい女でね、こうと決めたら曲げないというか……美人だったのに勿体無いことだった。亡くなったご主人も手を焼いていたよ」
「はあ……」
「でも、なんでだろうねえ」
「さあ、僕も村に入った直後にたまたま会っただけでなんとも……」

 すると、村長は思い当たる節があるような顔をした。

「村に入った直後に? ツキミヤ君とやら、もしかして君、北側から村に入った?」
「……そういえば北だったような気もします」
「来る途中、タマエさん以外誰にも会わなかったんじゃないかね?」
「ナナクサ君くらいですね」
「それだ!」

 村長は手を叩いた。

「ツキミヤ君、実はあそこ、村では禁域でねえ、めったに人が出入りせんのよ。君はそれと知らずにそこから入ってきたんだろうが……」

 禁域。だから誰とも会わなかったのか、とツキミヤは思う。
 あれだけ人がいる時期にナナクサくらいとしかすれ違わなかったのを不思議に思っていたからだ。

「そうか、それでタマエさんは…………」

 納得したように何度も頷く。

「君も災難だねえ。たぶん彼女、君を人間の客人としては見ていないよ」
「……? 人間以外ならなんだって言うんです?」
「さしずめ妖怪って所、かな」

 妖怪。
 その単語を聞いたのは初めてではなかった。

「村長さん、言っていいことと悪いことがあると思いますが」

 ナナクサは静かに、けれど腹から怒りを滲ませるように声を出した。

「だって……ねえ?」
「これ以上の侮辱は許しません」
「……わかった。わかったよ! だからそんな怖い顔しないでよ。村の者は君を頼りにしてるし、ね?」
「わかっていただけて嬉しいです。コウスケ、行こう」

 ツキミヤの腕を掴むとナナクサはツカツカと大社の本殿に向かって歩き出した。
 後ろから村長の声が響く。

「いいのかいナナクサ君、タマエさんのお客人にお見せするのはちと酷じゃないのかね」

 振り返って返事をする。

「僕もそう思いました。けど祭のクライマックスで"野の火"を見れば同じことです」
「そうかい。まあ、いくら君がタマエさんに雇われているとはいえ、同じ考えを持つ必要は無いのだしね」
「僕の気持ちは変わりません。ここに来たのは客人の望みですから」

 ナナクサは再び背を向けた。

「嫌いだよあの人、米に例えるならそう……汚染米だ。食えたもんじゃない。工業用のりくらいしか使い道が無い!」
「いいのか、米所でそんな発言して」
「人を妖怪よばわりしやがって!」

 吐き捨てるようにナナクサは言った。
 ナナクサもこんな風に怒るのだ。今更ながら青年はそんなことを思った。
 ……今ならいい味がするかもしれない。

「気にしてないよ。それより気になるのはタイキ君にも同じことを言われたことだ」
「タイキ君にも?」
「そう。タマエさんがついに妖怪を泊めたと思った、と」
「タイキ君もか……」

 ナナクサは苦い顔する。

「どういうことなんだい?」
「この先に行けばわかってもらえると思う」





 夏の声、蝉の合唱。
 大きな鈴がごろんごろんと鳴る。
 山の頂上、神社の境内。賽銭箱の前に立って二人は手を鳴らしお辞儀をした。
 人間という生き物はは神様に様々な願をかける。家内安全でありますように、商売繁盛しますように、愛しいあの人が振り向きますように、世界一強いトレーナーになれますように……挙げだせばキリが無い。
 少年はさほど信心深くはなかった。神社で願をかけるのだっていわば父親に付き合っている以上の意味は持たなかったのだ。が、それとは対照的に手を合わせふと見上げた願をかける自身の父はなぜか真剣だったように記憶している。
 
「コウスケ、こういう場所はね、昔むかしの世界への入り口なんだよ」

 売店で買い求めたアイスクリームをスプーンでつつきながら父親は言った。
 甘い味が染みた木のスプーンを奥歯で噛みながら、そんな父の話を聞いていたのを覚えている。

「いろんな神社にいろんな神様がいるだろう。商売の神様、縁結びの神様、安産の神様、豊穣の神様……それはそれはかつてこの土地に生きた人々の願いの結晶だよ」

 祀られている神様を知れば、かつてここに生きた人たちが何を考えていたのか、何に喜び何に悲しんだか、何を想って生きてきたか。そういうことに少しだけだけど寄り添って、想像することができるんだ。そのように父親は続けた。

「だからね、何度も何度も足を運んでいれば、ある時過去に繋がることがある。鳥居を潜るとね、そこは過去の世界だったりする」

 今考えれば、それは肉体的な意味ではなく精神的な意味で、だ。
 けれど幼く、疑うことを知らなかったあの頃、少年は鳥居を潜ると別の世界に行けるような気がしていたのだ。
 青年は時々思い出しては過去の父に問うのだ。

 ねえ、父さん。
 あの時の貴方は真剣に何を願っていたのですか。
 過去の世界に行くこと? 昔むかしを覗き見ること?
 僕の前からいなくなった貴方はその世界に居るのですか。

 青年の問いに父の応答は、無い。





 大社というだけあって大きな建物だった。
 中は参拝客で賑わっており、しゃもじを貰いに来た人々がひしめいていた。
 大きな鈴の前、人々は綱を揺らし鈴を鳴らして手を合わせる。
 宮司は参拝を終えた人々に気前よくしゃもじを配っていた。
 しゃもじに刻まれた名は、雨降大神命。

 ――今年もたくさんお米がとれました。お腹いっぱい食べさせてくれてありがとうございますという感謝の気持ちを表す為にこうしてしゃもじをお供えするんじゃよ

 タマエの言葉が思い出された。
 うっすらと感じ始めていた違和感がさらに大きなものになる。
 本来ならしゃもじはここで貰い、最終的にはここに返ってくるはず。
 それなのに何故。
 何故あの老婆は一人"禁域"でしゃもじを供えていた?
 それに。

「コウスケ、こっち」

 ナナクサがぽん、と肩を叩いた。
 本殿の横に構えているもう一つの建造物を見る。
 宝物殿と言って、村に伝わる伝承や神話なんかを絵巻物や祭具の展示で紹介しているのだと冷めた声で言った。
 二人の青年は中へ入っていく。賑わっていた外に比べると中の人々はまばらだった。
 最初に目についたのは雨降大神命図と題された掛け軸だった。髭を生やした恰幅のいい男で、幾何学模様の不思議な赤い文様が描かれた青い甲冑を着ている武人の姿をしていた。
 その横に流れるような文字で何かが書き付けられている。
 それはだいたい次ような内容だった。

 雨降大神命 豊穣の神にして田の守護者なり
 彼の行くところ必ず雨が降り 田畑を潤す

 ここまでは神社の入り口でナナクサから聞いた通りだ。
 だが、ツキミヤは別の名を探していた。それは、タマエが口にしていた神の名。さっきからずっと違和感を覚えていた。どうして先程から名前が出てこない? なぜしゃもじに刻まれた名は雨降ばかりなのだ。老婆はあの時、雨降でなく別の名前を口にしていたはず。ずっと感じていた違和感。何故名前が出てこない?
 掛け軸の周りには、昔この村で使っていた稲作の工具が並べられているばかりで、探す名はここには無いと見えた。
 ツキミヤは第一の展示室を出て、次の展示室へ、宝物殿の奥へと入っていった。

 そして、見つけた。
 探していた名前を。

 ツキミヤが見つけたのは一枚の掛け軸だった。
 九十九妖狐群図。
 そのように題された掛け軸には九の尾を持った十一匹の狐ポケモン――キュウコンが描かれていた。
 十匹目までは金色の毛皮。いわゆる標準的な毛の色だ。けれどその中で一際大きく異なる色で異彩を放つ力強く描かれた十一匹目が居た。鬼火の色にも似た薄い青を纏った白銀の毛皮。いわゆる色違いである。このような特徴的な外見を持ったポケモンは伝説に残りやすい。そして、おそらくこのキュウコンが彼らを率いる頭なのだろう。禍々しく裂けた口からは今にも炎が迸りそうである。
 その横にはあの雨降大神命図と同じように何かが書き付けられている。
 ツキミヤは流れる筆文字を目で追った。

「どうして……」

 そして、異を声にした。
 だって、彼の聞き間違えなければ、あの時あの場所で老婆はこう言っていたはずだからだ。

 ――ツクモ様は豊穣の神様じゃ。この土地でたくさんの米がとれるのも、ツクモ様が見守ってくださるお陰じゃ。今年もたくさんお米がとれました。お腹いっぱい食べさせてくれてありがとうございますという感謝の気持ちを表す為にこうしてしゃもじをお供えするんじゃよ。

 けれど九十九妖狐群図に書き付けられていたのはまったく異なる内容だった。

 雨降大神命が現れし以前、この土地を闊歩するは九十九率いる一族なり
 九十九、十の九尾と百の六尾を率いる妖狐の長、炎の妖なり
 野を焼き田を焼き払い人々を苦しめる
 九十九現れし所、たちどころに火の海となり、田畑の実り灰燼と成す
 九十九の炎"野の火"と呼び人々は恐れり

「まったく正反対じゃないか、なあ」

 ツキミヤは後に少し離れてて立っているナナクサに言った。

「だから連れてきたくなかった」

 ナナクサはそう答えただけだった。

 さらに進むと伝承を記した長い長い絵巻物がツキミヤに村の伝承を語ってくれた。
 最初にあったのは田と村の人間で、毎年の収穫を糧として人々と周辺に住むポケモン達は平和に暮らしていた。やがて九十九の一族が現れる。彼らは野に、田に獲物を求め、火を放った。やがて巻物は炎で真っ赤に染まった。逃げ惑う小さなポケモン達は捕らえられ、そして人々は収穫を失う。拡大する炎、焼かれ燃えていく野と田。踊る炎。燃える大地。
 そこに現れたのが雨降大神命だった。彼の往くところには必ず雨が降る。九十九の野の火はたちまち雨に消えてしまった。そして雨降は九十九の一族を打ち倒しにかかった。雨降の臣下達に追われ次々に捕らえられ倒されていく妖狐達。一匹、また一匹と灯火が消えてゆく。最後に残ったのは長である九十九、一匹のみだった。
 絵巻のクライマックスは雨降と九十九の一騎打ち。
 だが、雨を降らす雨降に炎を操る九十九が敵うはずも無い。雨降は持っていた矛で九十九を突き差し、妖狐は深い傷を負う。なんとか追跡の手を逃れたものの、ついに村の外れで力尽きた。
 こうして雨降大神命はこの土地の神として祀られ、田畑の守護神となる。人々は田畑を焼かれることも無く、無事に作物を収穫しお椀にいっぱいのご飯をよそることが出来るようになった。そして、雨降への感謝の印としてしゃもじを供えるようになったのだ。
 長い巻物の一番端。物語の結末。

「これが"野の火"の内容か……」

 と、ツキミヤは呟いた。
 
「そう。雨降は水の技を使えるポケモンのトレーナーの中から、そして九十九は炎の技を使うポケモンのトレーナーの中からそれぞれ選ばれる。形式的にポケモンバトルの形になるけれど待っているのは出来レースだ。炎は水に消される運命。雨降は勝ち神となり、炎の妖は滅せられる」

 ツキミヤが絵巻を見ている間中黙っていたナナクサがしばらくぶりに口を開いた。

「タマエさんはね、この村の人間でただ一人の"ツクモ様"の信者だよ。君と出会った禁域のあの場所は九十九が息絶えた場所だと言われている」

 この村の人達は変に信心深いところがあって、今でも祟られるとか呪われると言ってめったに禁域には入ってこない。入るのはタマエさんと僕くらいだとも付け加えた。

「タマエさんは……、」

 言葉を飲み込んでから、もう一度吐き出す。

「タマエさんは、どうして九十九を豊穣の神様だと……」
「わからない。僕が知っているのは、タマエさんがまだ若い頃にあった凶作が関係しているらしいことだけだ。タマエさんも詳しくは語ろうとしないから。けど凶作の時に何かがあって、その時にタマエさんの考えは変わったんだ」

 ナナクサは語った。その時から、彼女にとって今崇められている神様は偽者になった。本当の神様は、祀られるべきはツクモ様だと彼女は主張するようになったのだと。だから彼女は"野の火"も"大社"も大嫌いで、見に来ないし寄り付かない。村の人間は大社にしゃもじを納めるけれど、彼女だけはあの場所に行くのだと。
 そこまで言ってまたナナクサは黙ってしまった。ツキミヤは何も言わなかった。
 宝物殿の掛け軸や絵巻物はただ静かに今ある伝承を語るのみだ。





「コウスケ、僕は悔しい」

 夕暮れの帰り道、ナナクサはそう青年にこぼした。

「タマエさんは確かに頑固で偏屈な人かもしれない。けれど間違ったことを主張する人じゃないと思う。村のみんなはいろんなことを言って彼女を変な目で見る。たぶん孫のタイキ君でさえも。だからせめて僕だけは彼女の味方でありたいんだ」

 空が真っ赤に燃えている。
 夕暮れ、それは昼と夜の境目。
 そういえば昨日村に着いた時もこんな空だったろうか。

「祭の時の彼女を見ているのはつらい。見に行かなくとも舞台で毎年否定されてるんだ。見せ付けられるんだ。お前の信じているのは邪なものだと。祭の度に舞台の上でならツクモ様は復活するけれど、けれど必ず最後に倒される。炎は消される定めにある」

 孤立。孤独。この感覚を青年は知っていた。
 大切な者が冷たい風に晒されているのに近くに行って暖めてやることも出来ない。
 かつて居場所を追われ消えた父。消息は未だにわからない。

「君は不思議な人だな。君になら何でも話してしまえる。やっぱり僕の思った通りだ」

 泣き出しそうな顔でツキミヤを見て、言った。

「せめて一回くらい、違う結末を見せてあげたい。その舞台を見に行かせてあげたい」

 彼は夢物語を口にした。叶わない願いを。
 だが、言葉のもつ魔力だろうか。
 その叶いそうに無い願いを口にした瞬間に、彼の中である考えがひらめいた。

「そうか…………!」

 突然声のトーンを変えて、爛々と眼を輝かせてナナクサはツキミヤを見た。

「そうだったんだ。そうすればよかったんだ。どうして今まで気がつかなかったんだろう」

 遭魔ヶ時に魔物に囁かれたかのような、何かに操られたかのような眼をしていた。

「コウスケ、君に頼みがある」

 ナナクサは云った。
 それは恐るべき内容だった。村中を敵に回しかねないような。

「君に解説をしながらずっと考えていた。タマエさんはあの場所が嫌いで、僕もが嫌いだ。だから、できれば君を連れてきたくはなかった。けれど君は行きたいと言い、僕は君を連れて行った……そして今気がついた…………変えてしまえばいいんだよ。そんな結末は変えてしまえばいい」

 ツキミヤは朝に交わしたメグミとの会話を思い出していた。

 ――たとえばそう……僕が勝手に台詞を書き換えちゃうんじゃないか、とかね
 ――書き換えるの?
 ――僕はあの話、嫌いだから

 まさか。

「コウスケ、選考会に出てくれないか。出て、役を勝ち取って欲しい。ただし君取ってもらいたいのは主役の雨降様じゃない。かといって名も無い村人でも無い。取って欲しい役の名は、九十九」
「なんだって?」
「脚本なら全部頭の中に入っているから流れはわかる。僕がある時点から台詞を書き換えたものを考える。コウスケは二通りの台本を練習して、本番に僕のを採用してくれればいい」
「……本気で言っているのか?」

 赤く燃える空の下、青年は問う。ナナクサは確かに頷いた。

「当たり前じゃないか」

 さっきまでの暗さはどこ吹く風だった。
 ナナクサはいつの間にかいつものテンションを取り戻していた。

「……断る」

 大急ぎで、ツキミヤは提案を跳ねつけた。
 このままだと本当にやらされかねないと悟ったからだ。

「いいか、僕はこの村に観光に来ただけのただの兼業トレーナー、本業院生なのは君だって知っているはずだ。村の伝統行事に引っ掻き回すつもりも、ぶっ壊すつもりも僕には無い」
「壊す訳じゃない。少し内容を変えるだけさ」
「同じことだろう」

 強い調子で言った。

「僕はね、何もタマエさんや君自身の信仰をとやかく言うつもりは無いよ。好きなものを信じて、想うものを供えたらいいじゃないか。だが、僕を巻き込むのはやめてもらいたい」

 ツキミヤは本当に迷惑そうに言った。
 下手をすると宿泊先を変えかねないような勢いだった。

「僕はね、舞台上で神楽舞なんぞやる趣味はないんだ。メグミさんの言うように君がやればいい。村のことを何でも知っている君なら、舞くらいできるんだろう?」
「できるさ。コースケさえよければ徹夜でコーチできる」
「そういうことじゃない! 自分で出ろと言ってる」
「僕はポケモンを持っていない。選考会には出場できない」
「カゲボウズなら貸してやる。鬼火が使えるから選考会に出られるぞ」
「僕は……だめなんだ。君みたいな人じゃないと、いや、君じゃないとだめなんだよ」
「理由になってない」
「理由ならあるさ」
「何?」
「だってコウスケってすごく綺麗だし……僕のイメージぴったりなんだよ。やっぱりビジュアルは大事だよ」
「男の君にそんなこと言われて、僕が喜ぶと思うのかい」
「そう! 米の品種で云うなら、ヒトメボレっていうか」
「……それってうまいこと言ったつもり?」
「それに」
「それに……?」

 あまりまともな回答は期待しないで投げやりに問う。

「なんていうのかな、儚さがあるっていうか……」
「僕はそんなに、もやしっこに見えるのか」
「いやだから、もやしじゃなくて、ヒトメボレ」
「米から離れてくれ」

 こんな時でも米の話か! こいつはどれだけ米が好きなんだ、と思う。

「コウスケ、タマエさんはね。コウスケのことをツクモ様だと思っているんだと思う」
「まさか」
「使用人の僕が言うのもなんだが、タマエさんは偏屈で頑固で古狸で、そもそも旅人を家に泊めるような人じゃない。でもツクモ様なら別だ。あの人が唯一信じている神様だから」
「僕はたまたまあそこに立っていただけだ」
「けど、君は立っていた。前夜祭の日にあの場所に」
「偶然だ」
「けれどタマエさんは信じた」
「やめてくれ」

 だが、こうと決めたナナクサはそれくらいでは引き下がらない。

「お願いだよコウスケ! ツクモ様の役をやっておくれよ。この役をできるのは君しか居ない。君以外にはありえないんだ!」

 その後もずいぶんと二人は言葉の応酬を繰り返した。
 もうお互い何を言ったのかも思い出せない。思い出したくない。
 ただはっきりしているのはお互いの主張は平行線を辿ったこと、そしてツキミヤはどっと疲れて眠りについたということだ。
 最後にナナクサは言った。

「選考会は明日の午後からだ。コウスケがいい返事をくれるのを信じている」、と。

 そんなことを言われても困る。




 りーりーと秋の虫が鳴いている。
 窓の外は青暗い夜に染まっていた。
 明日ナナクサにどんな断り文句をぶつけてやろうかと考えるうちに青年の瞼は閉じた。
 真昼の呼吸が寝息を立てるそれに変わって、意識は無意識の世界に堕ちてゆく。
 すると聞こえてくる。あれは夏の歌。蝉の声、だ。
 ああ、昨日と同じだ。また同じ夢を……。

「コウスケ、コウスケ」

 懐かしい声がして青年は布団から顔を上げた。それは青年の泊まっている部屋だった。
 今の季節は秋のはずなのに外ではミンミンと蝉が鳴いている。
 なんだこれは。今朝の夢と今日見たことが混じっているじゃないか。
 その時、すうっと襖を閉める音がした。見るとちょうど自分の部屋から誰かが出て行くところだった。
 何故だろう。すごく懐かしい。
 青年は廊下に出る。
 さっき部屋を出て行った人物はちょうど廊下の端を曲がるところだった。
 青年は目を見開いた。
 その面影は彼のよく知る人物だったから。

「お父、さん……」

 急いで追いかける。玄関を開け放ち青年は田の道を走った。
 父親の背中がはるか先に見える。彼はゆったりと散歩するように歩いている。
 青年はスピードを上げる。それなのに追いつけない。
 ノゾミとメグミに会った場所を走り抜けた。
 ナナクサに案内された様々な場所を抜けて、青年は父親を追いかけた。
 追いつけない。ただ行く先々に彼の背中だけが見える。

「父さん!」

 青年は何度もその名を呼ぶが返事が無い。
 ただ黙々と歩いてゆくだけ。

「どこに行くんですか、父さん」

 収穫前の夏の稲。青々と茂りまるで海のよう。
 たどり着いた先はその水田の海に浮かぶ島のような小山だった。
 雨降大社。
 父親が石段に吸い込まれていく。
 
「父さん!」

 木漏れ日が石段に模様を刻んでいた。
 父親の背中を追って、青年は石段を駆け上る。
 けれど上がっても上がってもその背中に追いつけない。
 速い。もうあの時のように少年ではない。歩幅もあるし、体力だってそれなりについた。もうあの時のように子どもではない。それなのに。

「待って、待ってください!」

 焦りだけが募る。
 これ以上行かせてはいけない気がした。

 ――コウスケ、こういう場所はね……

 父親の言葉が思い出されたからだ。

「それ以上行っちゃだめだ、それ以上行ったら貴方は……!」

 青年は石段を登りきる。辿り着いたは鳥居の前。高くそびえる鳥居の前。
 鳥居を潜る。不安そうな面持ちでかつての少年はきょろきょろとあたりを見回した。
 どこにも居ない。
 かつて自分の頭を撫でてくれた父親は、もうどこにも居ない。
 ぬるい風が頬を撫でるだけ。

「父さん……!」

 迷子になった子どものように青年は声を張り上げた。
 面影は消えて形を成さない。虚しく声が響くだけ。
 歌う蝉、掻き消される叫び声。求める人には届かない。

「どこにいるんですか、父さん!」

 返事はない。木霊するのは夏の声ばかり。蝉の声ばかり。
 煩い、五月蝿い。
 黙れ。黙れ。

「少しくらい黙ってろ!」

 わかっている。蝉は自分の言葉を解したり、聞いたりはしない。それでも叫んだ。やり場の無い気持ちをぶつけずにはいられなかった。
 わかっている。蝉は自分の言うことを聞いてくれたりは、しない。

 だが、どうしたとこだろう。
 青年がそう叫んだのと同時に、音が静まった。
 まるで合唱の指揮者が両手を閉じたかのように突如として蝉がしぃんと歌を止めてしまったのだ。
 突然の出来事に、青年は耳を疑った。
 ぐるりとあたりを一望する。さっきまで自分が登ってきた石段の、刻み付けられ揺れる模様も、木々が風にゆすられて幽かに揺れているのも変わらない。
 それなのに、世界から蝉の音が、あらゆる音が奪い去られていた。

 ひた、ひた。

 無音の世界に密やかな足音。
 青年は自身の背後から何かが近づく気配を感じ取った。

「父さ……ん?」

 そう言って青年は振り返る。
 だが、振り返った先にいたそれは少なくとも人の形をしてはいなかった。
 はっと目を見開く。
 その姿には見覚えがあったから。夕刻にその姿を見たばかりだったから。

 それは、四つ足の獣の姿をしていた。
 その瞳は燃える夕焼け空のような紅。青白く輝く、鬼火の色にも似たその毛皮。身体よりも大きく映え、風にたなびくのは九本の長い尾。
 きつねポケモン、キュウコン。それも色違い、白銀の。

 ――コウスケ、こういう場所はね、昔むかしの世界への入り口なんだよ

 一瞬の間。
 かつての少年の耳元で父親が囁いた気がした。

「待ちわびたぞ、小僧」

 狐が、言葉を発した。

 その妖、野を焼き田を焼き払う者なり。
 村の伝承。収穫祭。躍り出るは炎の妖。

「ようこそ、我が九十九大社へ」
「つくも、大社……?」

 鳥居の前戻って刻まれた文字を確認する。
 そこにあった文字は九十九。雨降の名では無かった。
 ここは、どこだ?

 父親曰く、鳥居を潜るとたまに過去に繋がることがある。
 青白い毛皮を纏った妖狐は裂けた口をにやりと歪ませて云った。

「待っていた。ずっと待っていたぞ。私を演じられる人間を!」

 鳥居の向こう。
 再び鳴り出す夏の歌。


  [No.11] (七)九十九 投稿者:No.017   投稿日:2010/08/09(Mon) 00:45:16   44clap [■この記事に拍手する] [Tweet]





(七)九十九


 照りつける夏の日差しが二つの濃い影を作る。
 ひとつは獣で、もうひとつは人の形。
 蝉はけたたましく歌い続ける。

「……だいたい予想はつくけれどとりあえず聞いておく」

 と、ツキミヤは切り出した。
 目を合わせて目の前の青白いキュウコンに問うた。

「貴方の名は」

 すると狐は嬉しそうに、

「……久しぶりだ」

 と、云った。

「ふふ、本当に久しい。名を聞かれるのも名乗るのも」

 嬉しそうに、それは嬉しそうに云った。

「私の名はツクモ」

 赤い瞳が妖しい光を放つ。

「百の六尾と十の九尾を率いていた私をいつしか人は"九十九"と呼ぶように成った。その時から私の名はツクモだ」

 名乗った妖狐はそのように続けた。
 嬉しそうに、それは嬉しそうに続けた。

 蝉が詠っている。
 昔話が、伝承が今お前の目の前にいる。
 お前は渡った。鳥居を潜り抜けて過去に渡った、と。

 だが、

「ナナクサ君だな……」

 と青年は呟いた。

「何?」
「たぶん、ナナクサ君が夕食に変なものを入れたに違いない。でなけりゃこんな示し合わせたような夢……うん、彼ならやりかねない」

 どういう訳だか夢だという自覚だけはあって、ツキミヤは不機嫌そうに続けた。
 知り合ってから日は短いがだいたい彼という人間はわかった。こうと決めたら諦めない。ハブネークのように執念深いのがナナクサなのだ。まさか人の夢の中にまで攻勢をかけてくるとは。しかもやたらと演出が凝っている。

「そう、僕は今眠っていて、たぶん耳元でナナクサ君が舞台に出ろ出ろと囁いているに違いない」

 いやだなぁ。それってはたから見ると結構あぶない絵じゃないか。

「ナナクサ君に言っておいてくれ。そんなことしてもムダだ。明日僕の顔に隈が出来ていたら君の所為だからな、と」

 だが、

「残念だが、ここにお前を呼んだのはあの男ではないぞ」

 とはっきりと狐が言って、ツキミヤは怪しみながらもその顔を見た。
 燃えるようなその瞳。傷口からあふれ出してきたばかりの血のような目の覚める赤だった。

「お前の父親のことをあれは知らない。あれはタマエさんちの家事から、米の栽培までこなすよく出来た男だが、その反面、雰囲気が読めなくて、狡猾な手段をとることを知らないのだ」

 その赤はどうにも生々しくて、たしかにナナクサができるような演出ではない。そんな気がしてきた。

「そう、あいつにはできんよ。お前の父親の幻影を使って、ここにおびき出すような真似はな」
「…………貴様」

 狐、いや妖狐九十九はにたりと嗤う。
 それは青年の怒りと関心を買うには十分だった。
 さっきまでどこか偽者を見るような目で見ていたツキミヤの視線は、敵意をふんだんに含んだ鋭いものへと変わっていた。

「だがあれには本質を見抜く目はあるよ。あれの言うように、普段あれの前で素っ気無い態度をとっているのは本来のお前ではない。そして、人に見せる柔らかい物腰も仮初。お前はとても狡猾で残忍だ。そして今そんな目で私を睨みつけているお前こそ本来のお前だ。小僧」
「……どこまで知っている」
「お前が夢に見る程度のことはわかる。残りは勘だ」

 ツクモはそのように答えた。

「形式とはいえ今は信仰が集まる祭の時期だからな。祭の本質は日常と切り離された特別な期間。ことに夜は格別だ。今や実体を無くし信仰の薄い私でもこうして誰かの夢を覗き見たり、夢枕に立つことくらいはできるのだ」

 ツクモは続けた。
 ここは私の夢であり、お前の記憶なのだ、と。

「お前がこの村に来て二度目の夜になるが、よほど慕っていると見える。お前が私に教えてくれるのは父親のことばかりだ」

 触れたら切れてしまいそうに張っていた視線が少しだけ緩む。

「……そうかい。だが、舞台のことまで夢見たつもりは無いが」
「お前の夢を覗き見ることばかりがお前を知る手段では無いさ。お前のことならあれも教えてくれる」

 ナナクサか、と青年は呟いた。

「あれなら今自分の部屋で熟睡しているよ。夢の中でも明日にお前さんにどんな言葉をかけようか、どうやって舞台に上げようか真剣に悩んでいる。健気だとは思わんか」
「諦めが悪いだけだろう」

 切り捨てるようにツキミヤは即答した。
 すると、ツクモがくっくと笑って

「やはりお前はそれが素だな」

 と言った。

「尤も、私はそんなお前のほうが好きだが」
「貴方の好みは聞いていない。人を選ぶだけさ。人間はみんなそうだろう。いや、ポケモンですら人を選ぶよ。僕はあまり好かれていなくてね、僕に近づいてきたり呼び出したりするのは変わり者と相場が決まっている……そういえば」
「なんだ」
「ポケモンと喋ったのは初めてだ」

 ツキミヤがそう言うとツクモがフッと笑った。
 人語を解するポケモンは珍しくない。いや、ほとんどのポケモンは程度の差があれど人語を解する。だが、解すれど操れるポケモンは滅多に居ない。

「感想は?」
「感慨というほどのものはないかな。人間とさして変わらない」

 ツキミヤは冷めた感想を述べる。すると

「そうとも。喋ることくらい大した事でも、驚く事でも無い」

 という同意の返事が返ってきた。

「私の若いころは珍しいことではなかった。百を率いる一族の長なら人語くらい操れたものだ。今より昔、ポケモンと人はより近かった。始りの地の神話によればポケモンと人の間に垣根が存在せず夫婦の契りを交わすことすら自然だった時代がある」
「僕は断るけどね」
「同感だ。妻に迎えるなら美しい毛皮のある者がいい」

 青年と妖狐は同意し、そしてお互いに微かに笑みを浮かべた。

「時に小僧、お前はずいぶん物騒なものを連れて歩いているのだな」

 はっとして足元を見ると、夏の日差しで濃く刻まれた陰から何十もの目が覗いているではないか。どうやら夢の中にまで憑いてきてしまったらしい。

「飽咋(あきぐい)は一匹や二匹ならかわいいものだ。だが、よりによってその数は何だ。操り人が連れて歩くのは多くても六匹ではなかったのか? 時代は変わったものだな」
 
 ツキミヤは仕方が無いなという感じで軽く溜息をつく。

「時代のせいじゃないさ」

 と、答えた。

「昔、人が連れて歩いたポケモンの数には諸説があるけれど、そうかい、やっぱり六匹なのかい」

 どうやら六と言う数字は普遍的なものらしい。

「なんだ、となると今も相場は六匹か」
「そう、時代が移っても変わらないものってあるよね。今でも操り人が連れて歩けるのは六匹だよ。僕の飽咋――カゲボウズはね、別腹なんだ」

 蠢く影をちらりと見ながらツキミヤは言った。
 別腹とはよく言ったものだ、本当にしょっちゅうお腹をすかせて困る。

「で小僧、」
「小僧という呼び方はやめてくれないか。これでも人間としては成人している身だし、ちゃんと名前だってある……知っているだろう?」

 ナナクサの夢を覗き見ているなら知っているはずなのだ。
 すると、

「ならば、こんなのはどうだ」

 と、ツクモが言った。

「どんな?」
「鬼火を連れし者」
「少し、長いね」
「小僧よりはマシだと思うが?」
「違いない」

 ツキミヤは同意した。
 けれどそんなに本名で呼ぶのが嫌なのか、とも思う。
 すると空気を読んだのかツクモがこんなことを言った。

「……皆、個を括るために名を使おうとする」
「え?」
「たしかに一族や種に名づけられる名はそうかもしれない。けれどね、一人や一匹や一羽だけの為だけにつけられる名はそうでは無いのだ。だから、軽々しく名乗ってはいけない。お前にとって名前とは大切な者に呼ばれるためにあるのだから」
「何が言いたい?」
「私のようにはなるなということだ、鬼火を連れし者よ」

 重さを持った声でツクモは言った。
 警告めいた言葉。けれどその後ろにあるものを今のツキミヤが読み取ることはできなかった。

「それで、本題だが」
「本題?」
「私がお前を呼んだ理由だよ」
「……ああ」

 ツキミヤは理解する。そういえばもともとはそういう話の流れだったのだ。

「やる気は無いのか」
「あたり前だ」
「出演報酬は豪華だぞ。米俵十俵と……」
「そんなもの持って歩けるか」
「それだけじゃない。副賞として、一年間ホウエン中のホテルが無料になるエメラルドカードという代物があるらしい」

 ぴくり、とツキミヤの肩が動く。

「なんでもそれを副賞にした途端参加希望者が急増したとか……お前は欲しく無いのか?」
「……」

 欲しい欲しくないで言うなら欲しかった。センターに泊まれない時の宿泊料は旅の費用としてはバカにならないのだ。
 だがしかし、煩わしさがついて回ることも事実だった。ことに宿泊先の使用人はいろいろと口を出してくるだろう。それどころかそいつはストーリーの改変を企んでいるのだ。もし彼の筋書き通りにことが進んだとしたら賞品どころではないだろう。脚本を変えるとは何事だ、けしからん、責任とれ。そういうことになるのは目に見えていた。お偉いさん方に捕まる前にいかにうまく村から退散するかを考えなくてはなるまい。

「だめだな。仕事が報酬に見合わない」

 しばしの沈黙の後にツキミヤはそのように答えた。

「ナナクサ君にやらせればいいじゃないか」

 ナナクサに言ったのと同じ提案をぶつけてみた。
 話から察するに彼は舞すらもできる様子だった。何よりも自分に無い重要な要素を備えている。それこそが一番大事な事なのではないだろうかと思う。だが、

「あれではだめだ」

 とナナクサと同じようなことを妖狐は言った。

「どうして? 彼は神楽だってできると言うし、何より信仰心があるじゃないか」

 そう信仰心。自分には無くてナナクサにはあるもの。舞は神に奉納されるもの。信仰を持つものが舞ってこそ、ではないのか。尤も目の前にいるこのキュウコンは伝説上の炎の妖として恐怖の対象となる存在なのだが……。
 突然、けたたましく鳴っていた蝉が止む。途端に周囲が暗くなり、あたりは静寂の夜に包まれた。
 全く、何でもありだなこの世界は。青年は内心に溜息をついた。

「鬼火を……お前の鬼火を見せてくれないか」

 突然ツクモはそのようなことを云った。

「僕のじゃない。カゲボウズに出させているだけさ」

 一方のツキミヤにはあまりその気が無かった。
 そのような冷めた返事を返すと「結果的には同じことだ」とツクモが云った。
 あまり真剣に妖狐の瞳が懇願するので、半ば圧される形で「わかったよ」とツキミヤは答えた。
 夜の帳が降りた世界にひとつ、ふたつと青い炎が灯り数を増やしてゆく。
 青い揺らめきに照らされた妖狐の瞳は満足そうに笑みを浮かべた。

「私はね、お前にやってもらいたいんだよ。鬼火を連れし者よ」

 冷たく燃える炎を挟んで妖狐は云う。

「鬼火を見て改めて思った。やはりイメージというのは大切だ」
「ナナクサ君のようなことを云うんだな。でもそれ、僕でなくてはならないという理由にはならないよ」
「もちろん、それだけではない」
「他に理由があるって言うのかい」
「そうとも。お前でなくてはだめだ。お前みたいに今ここにある世界のことが大嫌いで、どこかで壊れてしまえばいいと思っているようなそんな人間で無くては私の役は務まらない」

 青い火がツキミヤの瞳を照らす。青色の揺らめくその瞳は妖狐を冷たく見下ろしていた。

「心外だな。つまり貴方は僕がどこかで世界の破滅を望んでいると、そう言いたいのか」
「そうとも」
「莫迦らしい」
「お前に憑いている影の数は異常だ。心にそれくらいの闇が無ければ、深くて暗い器が無ければとてもそんな数を飼うことはできない」
「嫌いと云うのならナナクサ君だって」
「別にあれはこの世界が嫌いな訳ではないよ。雇い主の……あの人の為に何かしたいと思っているだけだ。あれに悪意は無い。そういう奴なんだ、あれは」
「ずいぶんと庇うんだね」
「私のところに来てくれるのはあの人とあれだけだからな」

 妖狐は優しげに、けれど少し寂しげにそう答えた。
 そして改めて自らの希望を口にした。

「鬼火を連れし者よ。私の願いを聞いてはくれないか」
「それは、野の火で妖狐九十九を演じること? それともナナクサ君の脚本を採用すること?」
「両方だ」
「断る。ナナクサ君にも言ったが、村の伝統行事に引っ掻き回すつもりも、ぶっ壊すつもりも僕には無い」

 ツキミヤは冷たく言い放った。
 そして妖狐に背を向けると、石段を一段、また一段と下り始めた。
 鬼火がゆらりと揺れながら主に憑いて行く。

「待て」

 背後からツクモの呼ぶ声が聞こえたが、青年は無視をして、どんどん下ってゆく。

「我の声を聞け、鬼火を連れし者よ」

 一段、また一段下ってゆく。
 そもそも好かない、気に食わなかった。
 この狐は父を、自分にとって一番大切な人の幻影を使って青年をおびき出した。
 青年にはそれが許せなかった。

「お前になら分かるはずだ」

 分かる? 一体なにが分かるというのだ。

「お前にならわかるはずだ。周囲の人間達は皆雨が降っているという。けれど、お前だけは本当の天気を知っている。だから、ずっと晴れていると叫び続けなければならない、その孤独が」

 青年の脳裏に父親の姿がよぎった。
 知ったようなことを言うな。お前に僕の、父さんの何がわかるというのだ。
 青年は石段を下る足を速める。

「……私は、神だった」

 石段を下る。知るもんか。もうこれ以上僕を巻き込まないでくれ。

「雨降訪れし以前、この地を闊歩するのは九十九の一族なり。私はこの地の神だった!」

 雨降大神命が現れし以前、この土地を闊歩するは九十九率いる一族なり
 九十九、十の九尾と百の六尾を率いる妖狐の長、炎の妖なり
 野を焼き田を焼き払い人々を苦しめる

「神だって? 貴方は炎の妖だよ。貴方のいるところは火の海になって作物は皆灰になってしまった」

 九十九現れし所、たちどころに火の海となり、田畑の実り灰燼と成す
 九十九の炎"野の火"と呼び人々は恐れり

「かつて大社に刻まれた名も、しゃもじに刻まれた名も皆私の名だった。雨降ではない。皆、この九十九の名だったのに」

 ――今年もたくさんお米がとれました。お腹いっぱい食べさせてくれてありがとうございますという感謝の気持ちを表す為にこうしてしゃもじをお供えするんじゃよ

「それは恐れからだ。恐怖からだ」
「違う。私は」

 雨降大神命 豊穣の神にして田の守護者なり
 彼の行くところ必ず雨が降り 田畑を潤す

「私は神だ。雨降こそ後からやってきた偽者」

 炎は水に消される運命。雨降は勝ち神となり、炎の妖は滅せられる。

「舞台の上で雨降を倒して、そして貴方はどうするというんだい」
「私の炎を思い出させてやりたい」
「実体も無いのに?」
「皆、祭の本来の意味を忘れている。本来、野の火の上演は実体を無くしても残り続けた私の力が出てこないようにする為の儀式。神が成り代わった後に雨降の信奉者が考えた仕掛けだよ」

 時代は変わって、祀は祭に、奉は催になった。
 村人しか演じられなかった九十九は今やどこから来たかもわからない者達が務めるようになった。
 まったく軽くなったものだよ。祀も私自身もな。だが……

「だからこそ今が機なのだ」

 あれも知りはしないだろう脚本を書き換える本来の意味を。
 もし、あの場で筋書きが変わったら。
 九十九が雨降に勝ったのだとしたら。
 祭とは非日常。神を迎えるのが祭。神がいるところが祭。
 祈り、通じ、荒ぶる神とならぬよう、祈願する。日常と切り離された非日常の時間と空間。
 ありえないことが起こるのが祀。
 もし非日常の時、信仰の集まる時、特別な空間で、神話を捻じ曲げたらどうなると思う?

「どうなるって言うんだ」
「それは神話上の真実となる。私は滅びず、実体を持つ」

 たとえこの年限りだったとしても。

「そうすれば私は出て来ることが出来る。肉体は滅び、今や人の夢を飛び回る程度の存在でも。祭祀という特別な場で、神の歴史が変わったなら……! 私は」

 ぞくり、と。
 石段に刻まれた青年の影がざわついた。何十もの瞳が一斉に開き爛々と輝き出す。
 青年の背中に走ったのは戦慄と恍惚だった。
 唇がわずかに緩み、吊り上る。
 体中がゾクゾクとして、力が満ちてくる。
 嗚呼、なんて心地がいいんだろう。この感覚を青年はよく知っていた。

「私は思い出させてやりたい! 永きに渡り私を貶め、仮初の姿でしか私を知らぬ人間どもに。本来の神が誰であるかをを忘れた村人達に、私の炎を見せてやりたい!」

 妖狐が夜空に吼える。
 今この刻、抑えていた、たぶん何百年もの間溜め込んでいた何かが解き放たれた。

「見つけた」

 青年は背を向けたまま妖狐には聞こえぬくらいの声で小さく呟いた。
 それは歓喜。欲しかった玩具を与えられた時ような。
 妖狐の中に渦巻くは炎。感情と云う名の炎だ。それはきっと極上の味がするに違いない。
 影がざわめく。青年に囁いた。

 ミツケタ、ミツケタ、ホシイ、ホシイ
 タベタイ、クライタイ……アレヲクライタイ……

 ……コウスケ、アレダ、アレヲクライタイ!

「いいだろう」

 青年は答えた。今度は聞こえるように。
 妖狐と影の両方に聞こえるように。

「舞台に出てやる。物語を書き換えてやるよ」

 まるで脚本の台詞を読み上げるように青年は言った。

「……? なぜ急に」
「話を聞いて気が変わったのさ。収穫祭のクライマックスに恐怖の対象が復活する……面白そうじゃないか。水田を火の海にするなり、村人全員を焼き殺すなり好きにしたらいい。その代わり、出てきた貴方に僕の願いをひとつだけ叶えてもらう」
「願いとは」
「簡単なことだよ。そのときになればわかるさ」

 どうしてだろう。馳走が目の前にある、それ以外に青年の心はどこか高揚していた。
 妖狐は云っていた。
 お前みたいに今ここにある世界のことが大嫌いで、どこかで壊れてしまえばいいと思っているようなそんな人間で無くては私の役は務まらない、と。
 その言葉通りに、炎の海になったこの美しい村の光景を想像してなぜかそれも悪くないと、青年はそう思ってしまったのだ。
 それに好都合だ。欲望を満足させた後、混乱に乗じていつでも自分は姿を消せるだろう。
 九十九を演じた役者が誰だったかなど渦巻く炎の前に掻き消えてしまうに違いない。

「ナナクサ君には、いい返事ができるね……」

 青年の口がにたりと歪んだ。それは普段他人に見せることの無い笑み。
 深い深い暗い器の中にたくさんの影を飼う者の笑みだ。
 それを見てくっく、と妖狐が笑う。
 妖狐の、炎の化け物の裂けた口は同じように歪んでいた。

「やっと本性を見せてくれたな。それが本当のお前だ。お前こそ私を演ずるに相応しい」

 不意に誰かが、ツキミヤの手をぎゅっと掴んだ。
 驚いて見下ろしたそれは、かつての父親を追いかけて石段を上っていた自分の姿で。
 それは瞳の色を三色のそれにして、ツキミヤをじいっと見つめると云ったのだ。

 そう、僕はこの世界が嫌いだ。
 そうとも。父さんを棄てたこの世界など。
 みんなみんな燃えてしまえばいい、燃えてしまえばいいんだ。


 そして、少年はツキミヤの意思を確認するように続けたのだった。

「もちろん、君もそう思うだろ。なぁ、コウスケ……?」


  [No.12] (八)迦具土 投稿者:No.017   投稿日:2010/08/09(Mon) 12:25:03   36clap [■この記事に拍手する] [Tweet]





(八)迦具土


 選考会。ポケモンバトルという形のオーディションの舞台。
 その場所は土を盛り固めて作ったリングの上であった。
 あまり広くは無い。それは相撲の土俵によく似ていた。
 今となってはそれを知るものは少ないが、古来、相撲とは奉納相撲として神に感謝と願いを捧げる儀式であった。そこでは、二者のうちのどちらかが勝つかによって五穀豊穣や大漁を占ったのである。
 ナナクサいわく、この村でポケモンバトルで役者を決めようと言い出した者が出たときにはポケモンバトルで決めようなどととんでもない、よそ者を伝統の舞台に上げるなど何事だとずいぶんと反対の意見が出たらしいが、いざ始めてみればなんだかんだで定着してしまった。もちろん謝礼の豪華さも手伝ってのことだが、それは祭のスタイルにあっているということなのだろう。
 発案者は知っていたのだろうか。相撲という神事の名を。
 もっともその発案者とやらはもうとっくに村にはいない人であるらしく、今となってはそれもわからない。
 だがその者の意図がどうあったにせよこの方式をとるようになってから、祭がいっそう賑やかなものになった。それはかつて反対した村人すら認める事実であった。
 会場は参加するトレーナー、見物をしにきた村人や観光客で大いに賑わっている。
 ツキミヤが村に入った時に聞こえてきた笛や太鼓の音色はその雰囲気をいっそう盛り立てていた。

「勝負あり!」

 土俵の真ん中からに二、三歩下がった場所に相撲の審判、行司のような鳥帽子をかぶった和服の男が立っていて、瓜を縦から割ったような形をした軍配団扇を勝者に向けた。
 見物客がわぁっと歓声を上げ、時折拍手が混じる。
 勝負は一対一の一騎打ちで、短時間で決する場合が多い。
 土俵は狭く逃げ場が無い。お互いに技を放ち、技を喰らう。ぶつかり合う。避ける余裕が無いから短時間で決するのだ。
 公式戦で言うところの戦闘不能にするか、相手を土俵からふっ飛ばせば勝ち。
 これも相撲によく似ているとツキミヤは思った。

「次の次だよコウスケ、準備はいい?」

 付き添いのナナクサは少しばかり心配した様子で聞いてきた。
 下手をすれば勝負は一瞬で決まってしまう。
 油断をすれば望む役を手にすることは出来ないのだ。

「君が緊張してどうするんだよ」

 ツキミヤは仕方ないなという感じで笑った。
 その笑みにはなぜか余裕が垣間見れる。
 彼の肩の後ろからひゅっとカゲボウズが顔を出してくすくすと笑った。
 穴守家の湯船に沈められ、タイキを鬼火で脅かしたあのカゲボウズである。
 彼にも緊張した様子は見られなかった。

「そんなに心配するなよ。勝算がなきゃやらない」
「でも、そのカゲボウズ一匹だよ? 中には体格のいい炎ポケモン使ってくるトレーナーだっているのに」

 やはり心配そうにナナクサは言った。

「こう言っちゃうのはなんだけど、まだあのネイティのほうがエスパー技を使うだけ強そうだ」

 するとツキミヤの顔の横に浮いているカゲボウズがぷうっと頬を膨らませた。
 ずいっと前に進み出るとナナクサの結った髪の一つをくわえ、思いっきり引っ張った。

「うわっ!」

 驚いたナナクサは二、三歩後退し、髪をかばう。
 が、結いが外れ、髪を縛っていた紐はカゲボウズに奪われてしまった。
 カゲボウズが結わき紐をぺっと吐き出したかと思うと、ぼうっと紐が燃え上がる。

「ああ! 何するんだよ!」

 ナナクサが叫んだ。

「君が失礼な事言うから怒ってるんだ。だいたいネイティじゃ出れないルールだろ。あの子は炎技使えないし」

 それにネイティはタマエに貸し出し中だった。
 どういう訳だかタマエは出会った時から彼をいたくお気に召した様子だった。
 タマエときたら昨日ナナクサと村に出る前から何やら言いたげにそわそわし通しで、それを痛いほどに感じていたツキミヤは穴守家を出る前、ネイティに良い子の留守番を命じたのだ。
 やはり宿を提供してくれた恩人にはそれなりのサービスというものをしなくてはなるまい。
 そしてサービスは現在も継続中なのである。
 もちろんサービス係の小鳥ポケモンにも青年自身がそれなりのアフターサービスをしなければならないだろうが……。

「あーあ、その染めの色気に入ってたのに」

 ナナクサの髪を結わいていた憐れな紐はカゲボウズの鬼火で焼け落ちていく。

「そんなに心配しなくても僕は勝つよ。必ず決勝に進んでみせる」

 落ち着いた声でツキミヤは語った。
 頼りにしているよとでも言うように人形ポケモンの頭を撫でてやる。
 カゲボウズは機嫌を直したようで、満足そうに目を細めた。

「違うよコウスケ。進むだけじゃなくて勝ってもらわないと。君は九十九の部で優勝して、九十九を演じるんだ」

 解かれた髪をくるくると指で巻きながらナナクサは言い改めた。

「言ってくれるじゃないか」

 と、ツキミヤが返す。

「何回勝てば九十九になれる計算?」
「九十九の部の出場者が五十人くらいって聞いた。コースケはシードじゃないから六回ってところじゃないか」
「六回ね……」

 "野の火"の役者を選出する選考会は大きく二つの部門に分けられる。
 一つはこの舞台の主役である雨降大神命を選ぶ雨降の部。
 そして雨降の倒す相手、この村の人間達にとって恐怖の対象、炎の妖である妖狐九十九を選ぶ九十九の部である。
 雨降は水の技を使うポケモンのトレーナーの中から、九十九は炎の技を使うポケモンのトレーナーの中からそれぞれが選ばれる。
 選考はトーナメント形式進行し、各部門の優勝者がそれぞれ雨降と九十九となるのだ。

「勝負あり!」

 また威勢の良い声が響き渡る。それに呼応してまた聴衆が沸いた。

「それでは次の取組ぃ。出場者は三分以内に前へ」

 審判が呼んでいる。

「じゃあ行ってくる。すぐに終わらせるから」

 ツキミヤはそう言うとカゲボウズを連れ、聴衆の中を分け入っていった。
 対戦相手もすぐに来たらしく取組はすぐに始まった。

「西ぃドンメルー。東ぃカゲボウズー」

 少々間伸び気味の癖のある声。審判がポケモンの種族名を読み上げる。

「カゲボウズだってさ」
「ほとんどの出場者は炎ポケモンだってのに。珍しいな」
「あんなちびすけで勝負になんのか?」

 観客達が口々にそんなことを言ってナナクサはますます心配になる。
 そんな彼の心配をよそに審判は軍配団扇を下に下げ、そして――

「はじめぇ!」

 と言って軍配団扇を上げると、ディグダも真っ青になりそうな程の恐るべき速さで土俵際に退散した。
 まともに炎技を喰らいたくないからである。
 そして次の瞬間。
 バシュウッと言う音が彼の鼓膜を駆け抜けたかと思うと何かが土俵の外に吹っ飛ばされた。
 気がつけば土俵には砂煙が舞っているだけ。
 その中に浮かぶのはカゲボウズ一匹の影だけで他にはいない。
 審判が西側に目をやるとしりもちをついたトレーナーとそのはるか後方に吹っ飛ばされて気を失っているドンメルの姿があった。

「し……勝負ありっ」

 あっけにとられながらも審判は東に軍配団扇を掲げ勝利宣言をした。

「嘘だろ……」

 そういう言葉を口にしたのはナナクサだけでは無かった。
 間近で見ていた何人かがあんぐりと口を開けている。
 ツキミヤだけが何食わぬ顔をして、

「まずは一回目だね」

 と言った。
 砂煙が晴れる。
 舞台の中央にふよふよと浮かぶカゲボウズがくすくすと笑った。

「だから言ったろ。すぐ終わるって」

 戻ってきたツキミヤは得意げにナナクサに言った。

「コウスケ今何やったの? 何が起きたのか全然わからなかったんだけど……」
「わからなかった? じゃあ次はもう少しゆっくりやってあげるよ。相手の力量次第だけどね」

 ナナクサの疑問に対し、彼は楽しげに答えた。
 彼の背中のほうからまた行司のジャッジが響き渡る。
 やはり一対一とあって勝負は早い、次々と勝ち負けが決まっていっているようだった。
 時を待たずしてすぐに順番が回ってくるだろう。

「あまりポケモンを休ませている時間、無いね。それも選考のうちということか」

 と、雑感を述べる。
 まぁ僕のポケモンには関係ないけどね……と呟いた。



 選考会「九十九の部」、二回戦。
 相手トレーナーのガーディはただならぬ気配を感じ取った。背中にぞくりと悪寒が走る。
 土俵上で対峙しているのはたかだか一匹のカゲボウズのはずなのに。
 もっとたくさんの敵に囲まれているような、そんな感覚を覚えたのだ。
 目の前のカゲボウズがにたりと笑う。
 かわいそうに、お前は憐れな生贄だ、と。
 いつの間にかむくむくとした毛の生えた尻尾は身体の内側に巻かれすっかり密着していた。それは恐怖のサイン。好む好まざるにかかわらずに出てしまう身体の感情表現だ。
 そして気がついた。自分を見ているもう一つの視線に。
 それはカゲボウズのトレーナーだった。カゲボウズの後ろに立っているトレーナーがじっとガーディを見つめているのだ。
 彼は認識した。あいつだ、と。
 俺はあいつが怖いのだ。あの男は怖い。よくわからないけど中に怖いものをたくさん飼っている――。

 お、に、び。

 男の口はそう動いたように見えた。かと思うと青い炎が十、二十、三十と瞬く間に灯り、それらが束になって子犬ポケモンに襲い掛かった。
 単発の鬼火数十個が作る炎の塊。それは火傷を負わせる為ではなく相手にぶつける為のもの。子犬ポケモン一匹を場外に吹き飛ばすには十分過ぎた。彼はあっけなく場外に吹っ飛ばされ、地面に叩きつけられる。
 そして、ガーディはなんとなくではあるが理解した。
 目の前にいたカゲボウズは"代表"に過ぎない。自分はもっと多くの数を相手にしていたのだと。目には見えない。だがそれらは確かに居る、あそこに立っているあれの中で蠢いている、犇いているのだ。
 これは一対一などでは無く一対数十の勝負。はじめから勝ち目など無かった。
 もちろんこんな行為はルール違反である。だがそれを行司に訴える手段は子犬ポケモンにありはしなかった。野生を無くし感じる力が鈍感な人間達はこのトリックに気付けない。

「二勝目だ」

 青年が微笑を浮かべる。
 同じようにして三回戦も四回戦もすぐに決した。いずれも進化していない炎ポケモンが一匹。カゲボウズ"達"の相手にはならなかった。



「驚いたよ。コウスケってやり手のトレーナーだったんだ」

 屋台で貰ってきた餅を渡し、あらかじめ準備しておいた自家製の茶をツキミヤに注いでやりながらナナクサが言った。
 ナナクサいわくここらでだんだんとバトルがだれはじめる。主に取組をジャッジし続ける行司が疲れはじめるのが原因だ。そして、しばらく休憩をというのが毎年の流れであるらしい。だいたい夕方までは休んで、日が暮れてから準決勝、そして決勝というのが毎年のパターンだという。
 選考の場もこれまでの狭いバトルフィールドから一転、ここからは実際に役者が演じる石の舞台での取組となる。村のお偉いさんや祭の仕事を切り上げた村人達が集まり出すのもこの時間らしい。

「兼業って言うから正直バトルの腕は期待していなかった」

 そう続けると、自身も餅にかぶりついた。
 何回か咀嚼してこいつはスバメニシキだな、いい味だ、と呟く。
 こういう場でも米の話題を欠かさないのは流石である。

「人に役を勝ち取れなんて言っておいてずいぶんな言い草だな」

 大きく口を開けるカゲボウズに餅をちぎって食べさせてやりながらツキミヤは言った。

「いやぁ、その、それでもなんとか勝てるだろうとは踏んでいてだね……。でもあんなに圧倒的なんて」
「言い訳が苦しいぞ」
「いやあ、いざとなったら君を負かした優勝者以下とそのポケモンの食べるものに下剤でも仕込んで、君を繰り上げ当選させようかと思っていたんだ。裏の山に生えてるキノコにすごいのがあるんだよ」
「やめとけ。集団食中毒って話になって祭自体が中止になりかねない」
「冗談だよ?」
「いや。君の場合本当にやりかねない」
「やだなー、僕がそんなことするわけないじゃない」

 いや、お前ならやりかねない……きっとやる。青年はそう思った。
 勝てる手段があってよかった。本気でそう考える。

「僕は引き受けるといったらやるよ。とことんね」

 ツキミヤ自身も餅にかぶりついた。腹が減っては戦はできまい。
「それは頼もしいなぁ。僕さ、昨日の夜コウスケをどう説得したらいいかって夢にまで見て考えてたんだよ。それがまさか朝になって自分から引き受けるって言ってくれるなんて」

 そう言ってナナクサは別の料理の包みを開ける。

「昨日はあんなに嫌がっていたのに。一体どういう心境の変化なのさ」
「あの日は疲れていたからね。一晩休めば気が変わる事だってある」
「あいかわらず素っ気返事をするね、君は」

 そう言ってツキミヤのコップに茶を注いだ。

「まあ、引き受けてくれたのならなんでもいいけど。そうだな、きっとツクモ様が僕の願いを聞いてくれたんだ。そうに違いない」

 ナナクサは本当に嬉しそうに笑った。
 器に料理を盛りわけ、ツキミヤに差し出した。

「ありがとうコウスケ。今年の舞台はきっと面白くなる……してみせる。タマエさんの為にも」
「まだ決まったわけじゃないさ。四回戦までは相手がよかったしね」
「勝つさ。ここまで来たら勝って貰わなくちゃ」
「もちろんそのつもりだけどね」

 料理を口に運ぶ。青年は立っていただけのはずだがいやに食欲があった。

「おー、いたいたァ。探したぞコースケ、それにシュージ」

 群集を掻き分けて二人の目の前現れたのは、肩に真っ黒なポケモンを乗せた少年だった。

「あ、タイキ君来てたんだ」

 と、ナナクサが言ってタイキがしかめっ面をする。

「来てたんだはなかろうが。四回戦の時から見とったわ! 手伝いも早めに終わったしのう」
「え、そうなんだ」
「それなのにお前らときたら、俺が呼ぶのにも気がつかずにそそくさとどっかに消えやがって。人だらけで見失ってしもうたわ」
「そう、それは悪かったね。見ての通りちょっと腹ごしらえをね」

 今度はツキミヤがそう答えた。

「おう、お前が舞台に上がった時は驚いたぞコースケ。出るなんて聞いてなかったからな。水くさいのう。そうならそうと言ってくれればもっと早く切り上げて応援にきたのに」
「ごめんね。役がとれたら報告して驚かせようと思ってたんだ」
「大したもんじゃ! 雨降のほうに出たノゾミなんかいつもどおり一回戦で負けてしもうたぞ」
「そういうタイキ君はそのノゾミちゃんに負けてばっかりじゃないか」

 ナナクサがからかうように言う。

「バトルの後はいつだってびしょ濡れだ」
「うっさい! シュージは余計な事言わなくていいんじゃ!」

 タイキが顔を真っ赤にして叫ぶ。

「ふぅん、その子がタイキ君のポケモンなんだ」

 少年の肩にとまった黒い鳥ポケモン、ヤミカラスに目をやってツキミヤが尋ねる。
 なるほど。ノゾミの言うとおりこいつはたしかにボサボサ頭だ。

「おう、そういえばコースケにはまだ見せておらんかったのう。コクマルと言うんじゃ。タマエ婆が供えた握り飯をつまみ食いして御用になってのう。それ以来こいつは家族の一員じゃ」

 そう言ってタイキが鴉をむんずと掴むと、ほれ見ろと言わんばかりに前に突き出した。
 突き出された鴉は青年と目があったがすぐに目を逸らしてしまった。
 これは早速嫌われたなと、青年は苦笑いする。

「コースケのバトルすごかったろ。タイキ君もバトルのこと教えてもらったらいいじゃない」
「そうじゃのー。ニョロモ一匹にも勝てないんじゃ格好がつかんしな。なあコクマル?」

 ナナクサにそう言われて、彼は比較的前向きな返事をする。が、カラスは赤い陰気な目をやる気なさそうに上に向けて一応は聞いていますよというサインを送っただけだった。主人に反比例してテンションは相当に低い。

「おいおい、選ばれたら忙しくなるってのにそれはないだろ」

 ツキミヤが割ってはいる。

「じゃあ、負けちゃったらタイキ君の特訓ということで」
「繰り上げ当選させるんじゃなかったの? 今ならたった三人やるだけでいい。君の負担も軽いぞ」
「何のことを言っとるんじゃ」
「集団食中毒で収穫祭が中止になる話」
「なんじゃそりゃ?」

 意味が分からないという顔をタイキがして「冗談だよ」と、ツキミヤは言った。

「うん、ここまで来たら勝ってもらわなくちゃ」

 ツキミヤの皮肉がわかっているのかわかっていないのか、ナナクサはそのようにまとめた。。

「残りの相手は? 君のことだからポケモンの種類くらい把握してるだろ」
「準決勝でコウスケと当たるのがマグカルゴ。もう一組の準決勝がリザードとバクーダ。勝てばどっちかと決勝ってことになる」
「ふむ。するとバクーダってところかな」

 と、ツキミヤが言った。

「バクーダだろうね」

 ナナクサも同意見だった。
 バクーダ、ドンメルの進化系。厄介な相手だ。火山をそのものを体現したそのポケモンの体高は人間の大人より一回り大きい。体もずっしりと重く踏ん張りが利く。それだけ体格のいいポケモンならいくら鬼火を集結させようともふっ飛ばすのは無理だろう。
 それ以前に準決勝のマグカルゴも問題だった。あれは灼熱の溶岩に精神が宿り形を成したポケモンだ。そんな相手に鬼火を集めぶつけたとてそよ風が吹いたようなもの。四回戦のまでの雑魚のようには到底いくまい。
 ……何か新たな手を講じなければ。

「悪い、ちょっと出てくる」
「どこに行くんじゃ?」
「ちょっと、ね。カゲボウズと秘密の作戦会議。取組の時間までには戻るから」

 そういい残してツキミヤは姿を消した。



 ツキミヤの戻らないうちに準決勝一回戦は始まった。
 先程との狭い土俵から舞台を移して今度は広い石の舞台である。
 それは"野の火"が上演される石舞台だ。
 夜の帳の下に広がる舞台の四方には松明が灯り、二匹のにらみ合うポケモンの影をゆらゆらと揺らしている。
 西にバクーダ、東にはリザードの影。

「めずらしいのう。あのリザード、色が黄色い」

 タイキがはあぁと息を漏らしてその姿に見入っている。

「うん、色違いなんてツクモ様みたいだ」

 事前にその事実を知っていたナナクサもそんな感想を漏らす。
 一方のバクーダはブホーブホーと鼻息を荒くして石の舞台を蹄で叩いていた。
 いつでもいける、開始と同時に突進してお前をたたき出してやる、リザードにそうアピールしているようだ。
 対する色違いのリザードもいつでも来いと言うように尻尾の炎をいっそう大きく激しく燃やした。

「さあ、見合って、見合って」

 たっぷりと休憩をとり持ち直したのだろう。行司の声に張りが戻っていた。
 軍配団扇で石舞台をコンコンと叩くと行司が東西のポケモンとそのトレーナーを一瞥した。
 彼らは九十九になるかもしれないトレーナーとそのポケモン達だ。

「はじめえ!」

 威勢のよい声を張り上げる。
 軍配団扇が振り上げられた。



「コウスケ! 一体何していたのさ」
「そうじゃぞ。すごかったのに!」

 ツキミヤが戻ってくるなり、ナナクサとタイキは責めんばかりに言葉を浴びせた。

「仕方ないだろ。勝つためにはそれなりの準備ってものが必要なんだよ」

 そうツキミヤが答えると、いやいやそんなことはどうでもいいんだと口々に二人は言った。
 噴火に火炎放射、その他エトセトラ。大技のオンパレードで会場は大いに盛り上がったらしい。なんで見ておかなかったんだ。勿体無い。あんな迫力のあるバトルここ数年なかったよ。そんなことを彼らはしつこいほどに解説した。

「それで結果のほうは?」

 実際に取組を見ておらずじゃれらの興奮が伝播しないツキミヤは冷めた調子で尋ねる。

「ああ、それがのう。意外な結果になりおった」
「番狂わせだよコウスケ。勝ったのはリザードのほうだった。君と決勝で当たるのはあの色違いのリザードだ」


  [No.13] (九)灯火 投稿者:No.017   投稿日:2010/08/11(Wed) 09:38:53   60clap [■この記事に拍手する] [Tweet]





(九)灯火


 火炎ポケモン、リザード。
 ホウエンでは珍しいポケモンだが、進化前のヒトカゲは、カントー地方の初心者向けポケモンの一匹とされているらしい。
 とある図鑑の記述によれば、炎の灯るその尻尾は大人五人分を持ち上げられるという。
 彼らだって別に疑っていたわけではないのだが、やはり見ると見ないのでは実感が、納得の度合いが違う。知っているのとこの目で見るのには実際、天と地ほどの差があるのである。

 最初に攻撃に出たのはバクーダだった。
 色違いのリザードに体当たりを食らわせるべく、彼は突進する。
 が、その一撃はあっさりとかわされた。
 リザードは素早く噴火ポケモンとの距離をとり、溜めの体勢に入った。尻尾の炎が赤々と燃え大きさを増していく。カッと一瞬青白く燃え上がったように見えたその瞬間、大きく開けた口から大量の炎が迸った。
 炎ポケモンに対する火炎放射。大したダメージは望めない。だがそれは祭を楽しむ観客を沸かせるには十分なパフォーマンスだった。そして敵の関心を炎に逸らした上で再び近づくにも。どっと人々が沸く声共にガラ空きのバクーダの側面に大きな一撃が振り下ろされる。腹部への打撃を受けたバクーダは鼻息を荒くして、痛みの方向に目を向けたが、敵の姿はすでに消えうせていた。また違う方向から火炎放射。そして一撃。
 そんな攻撃が何度か繰り返されて、バクーダはいずれも当て逃げを喰らってしまう。
 何度返り討ちにあわせてやろうとトライしても軽くいなされるか、よくてもあと少しのところで交わされてしまう。受けているダメージ自体はたいしたことはなかったが、噴火ポケモンは次第にイライラした様子を見せ始めた。

 「地震はやめとけよ」

 試合前にそう言ったのは自身のトレーナーだった。
 イベントの事情というやつで、祭の最後の夜にこの舞台が使えなくなっては困るからと云うことだった。まったく面倒くさいバトルだとでもいうようにふんっとバクーダは鼻息を噴出した。普段ならとっくに一撃をお見舞いしているところなのに。
 だが幸いにも、彼は暑苦しい外見に似合わず割合冷静な性格であった。血気盛んな性格であれば、ヤケを起こしていたかもしれないが落ち着いて戦況を観察する。
 地震は使えない、無闇に突進をしてもかわされる。ならば……。
 バクーダは主の意思を確認するようにちらりと後方に目をやった。すると意図が伝わったらしく、主人が軽く頷いたのが見えた。背中の中がぐらぐらと煮え立ち始める。彼はリザードを挑発するように、鳴き声をあげた。来るなら来い。お前の攻撃など蚊にさされたようなものだ。
 機を待つ。相手だって今の攻撃を続けていてもラチがあかないのはわかっているはず。今に大きな一撃を見舞おうとするはずだ。そしてその時こそが機。
 リザードが距離をとる。雄たけびを上げると彼は再び溜めの体勢に入った。先程よりも時間が長い。尻尾の炎が大きく燃え上がった。身体の大きさほどに膨らんだかと思うと青白くなる。今度は一瞬ではなかった。言うなればギアをチャンジしたというところだろうか。火力を上げてきたのだ。来る。バクーダも試合を見守る聴衆も同じ認識を持った。

「大文字」

 リザードのトレーナーが静かに命じた。 
 牙の並ぶ大きく開かれた口から尻尾で燃え上がっているそれと同色の炎が迸る。
 それはすぐに相手には向かわず、色違いのリザードの前で渦を巻くと、五方向に脚を伸ばし「大」の字の形をとった。大きい。聴衆のどよめきが聞こえた。

「放て」

 再びトレーナーの声。大の字の炎がバクーダに向かって襲い掛かる。
 だがバクーダは逃げなかった。太い蹄の生えた脚を踏ん張って受ける体勢を取る。彼が見据えたのは襲い掛かる大の字の青い炎ではなく、それを放ったポケモンそのものだ。
 高威力の技で火力が上がっている。とはいえ、それ一撃で自身を倒すだけの力は無い。これは、自分を倒すためでなく、ある程度動きを止め、視界を遮る為のものだ。いわば囮だった火炎放射の上級版。ならば相手はより大きい直接攻撃を狙っているはず。大文字をその身で受け止めながらバクーダは高く跳ね自身の上を取ったリザードの影を見た。
 ドラゴンクロー。加速度を付け、硬質化させた太い爪を振り下ろす。この一撃で勝負を決めるつもりだ。
 取った。その影がはっきりと現れたその瞬間、バクーダの背中にある火山が噴火した。
 炎を司るポケモンに炎は大したダメージを与えられない。だが、質量を伴ったマグマであればどうだ。岩や鉱物をふんだんに含んだ熱い土砂をぶつけるのであれば。それは高威力の打撃技を当てることと同等の意味を持つ。いくら炎ポケモンとはいえこいつの直撃を食らえば無事では済まない。バクーダは勝利を確信する。
 だが、次の瞬間に、

「カグツチ、地球投げ」

 という相手のトレーナーの声が聞こえたかと思うと彼の脚が地から離れた。
 そしてその巨体がぶんと放り投げられると石舞台の外へ投げ出されたのである。
 バクーダには何が起こったのかわからなかった。そして、リザードの二本の腕と尾に身体を持ち上げられ、投げ飛ばされたのだと気付いた時、すでに取組の結果は決していた。
 彼は相手の大技を誘っていたつもりだった。だが、誘い出されたのはむしろ彼自身だったのだ。大文字、そして彼の上空に見えた"影分身"という二重の囮。噴火を狙っていたのは彼だけではなかった。なまじ噴火で身体が軽くなっていたのが災いしてしまった。巨体は軽々と持ち上げられ、そして場外へと投げ飛ばされたのだ。

 このようにして準決勝一回戦の幕は大きな盛り上がりのうちに幕を閉じた。
 その盛り上がりと異様な熱気に比べると、準決勝の二回戦ははじめから盛り上がりに欠けていた。
 それもそのはずだ。観客の誰一人として、まともに取組を見ることが出来なかったのだから。

 二回戦は開始からそもそもムードに欠けていた。取組の前からポツポツと小雨が降り始めたのである。 そして西にカゲボウズとそのトレーナー、東にマグカルゴとそのトレーナーが並んで石舞台立ち、行司が「はじめぇ」と云ったあたりから本格的に降り出した。
 マグマで出来たマグカルゴの身体に雨粒が当たるとそれはたちまちに蒸気となった。強まる雨足は緩む気配もなく、ざあざあと音を立て始めシュウシュウと音がする。マグカルゴの身体に触れた雨は蒸気となり立ちこめる。たちまちにあたりは瞬く間深い霧に覆われてしまった。

「おい、どうしたんだ」
「ぜんぜん見えねーぞ!」

 などと苦情と罵声交じりの観客達の声が聞こえてくる。
 だが聞こえてくるばかりで彼らの姿はまったく見えない。ただ舞台を囲む炎がゆらゆら霧の中で揺れ、光っているのがわかる程度である。審判である行司の姿もまともに見えなかった。
 濃霧の中で、観客達や行司はさぞかし戸惑っていることだろう。その中でカゲボウズの主人だけが一人笑みを浮かべる。

「出ておいで」

 ツキミヤは、"彼ら"にしか聞こえないよう、ひっそりと呟いた。
 彼の足元から十、二十、三十といくつもの黒い影が芽吹いて顔を出す。
 霧の発生源のほうをすうっと指差してツキミヤが言った。

「シャドーボール。熱いほうに向かって打てるだけ打ち込んで」

 湧き出した影達が黒く禍々しいオーラの玉をいくつも発生させる。
 それが霧の発生源に向かって何十発も、何十発も打ち込まれた。
 濃い霧で対象ははっきりとは見えない。が、熱をもったそれはのだいたいの位置を掴むことはできた。これだけの数を打ち込めば無傷ということはあるまい。
 雨が止む。案の定、村人や参加トレーナーが風を起こせるポケモンを総動員して霧を払ったころには地面に倒れ動かなくなったマグカルゴが姿を現した。カゲボウズ一匹だけが元の位置でひらひらと浮いて微笑んでいる。行司が戸惑いながらもカゲボウズのほうに軍配団扇を上げる。何事が起こったのかわからぬうちに準決勝第二試合は決した。

「何をやったんだよコウスケ」
「何をやったんじゃコースケ」

 石舞台から降りてきたツキミヤにナナクサとタイキが尋ねるが

「それなりの準備をしたまでさ」

 と、彼は意味深な笑みを浮かべただけだった。
 次が決勝戦か。気がつけば先程勝ったリザードのトレーナーを無意識に探していた。
 するとすぐに目的の人物が見つかった。ツキミヤが降りてきた舞台のほぼ反対側にあのリザードと座っている。
 ツキミヤの視線に気がついたのか、彼は黙って睨み返した。

「米に例えるならジャポニカ種って感じだね」

 ナナクサがそう評価する。
 エキゾチックとでもいうのだろうか。そのへんのトレーナーとは違う雰囲気を持った人物だった。肌の色はどちらかといえば褐色で、大学で出会ったあの人を思い出す。
 ツキミヤは彼と対照的にやわらかく微笑み返した。

「お二方とも、十五分後には始めるけどよろしいかな」

 舞台の上から行司がそう尋ねてきて、彼らは互いに「問題ない」「問題ありません」と答える。
 束の間の休憩をとろうと腰を下ろすと、何か飲むかとナナクサが尋ねてきたので彼は茶を一杯所望した。

「これはアナモリさんちの方々お揃いで」

 どこかで聞いたような声。茶を片手に視線を上げれば雨降大社で見た顔だった。ぺこりとタイキが頭を下げる。

「これは村長さん、その節はお世話になりました」

 と、ツキミヤも軽く会釈する。

「何をしにいらっしゃったんですか」

 あからさまに不機嫌な声で言ったのはナナクサだった。本当にこの人が嫌いらしい。

「お揃いとといっても、タマエさんはいませんよ」
「ああ、タマエさんならお家の裏のほうにいらっしゃいましたよ」

 思い返すようにツキミヤが言った。

「あれ、コウスケいつのまに家に戻ってたのさ?」
「ちょっと必要があってね」

 これも勝つための準備さ、とでも言いたげに答えた。

「で、祭で忙しい村の村長さんが僕達に何か用ですか。まさかまた人を妖怪よばわりしにきたわけじゃないでしょう?」
「いやなに、九十九の部でカゲボウズ一匹で快進撃を続けてる出場者がいるっていうからね。どんなトレーナーかと思って見に来んだよ。そうしたら、昨日会ったタマエさんのお客さんじゃないか。それは声もかけてみたくなるでしょう?」
「それはどうも」
「九十九と同じ色違いのリザード、色違いの妖狐と同じ青い炎のカゲボウズ。面白い取り合わせだ。どちらが選ばれても、いい演者になりそうですな」

 村長は短い髭をさすりながら、はっはっは、と笑った。

「村長さんは、どちらになるとお考えですか」

 突然、試すようにツキミヤが尋ねる。
 ほんの一時だが、老人が何やら意味ありげな目でツキミヤを見た。
 だが、すぐに

「何、勝ったほうが相応しいほうというだけのことです」

 と、答える。

「そうですか。それじゃあ是が非でも勝たないといけませんね」

 ツキミヤは挑戦的な台詞を吐く。だが、柔らかい笑みは崩さなかった。その顔はまるでどんな場面でも変わらない表情の能面のようでもあった。面の下の素顔がどんな表情をしているのかは誰も知らない。

「コウスケ君、と言ったかね……」

 静かに老人は問う。

「はい」
「……あんた一体何者だね?」

 あれ、結局聞きたいところはそこなんですか、とでも言いたげにくすりとツキミヤは笑う。

「村長さんッ!」

 声を荒げたのはやはりナナクサだった。

「結局それですか! そんなにコウスケを妖怪に仕立てたいのか、貴方は!」

 その様子は眉間にしわを寄せ、吠え立てる獣のポケモンのようにも見えた。

「だってねえナナクサ君、私だって最初はあのばあさんに付き合わされたたかわいそうな旅の人かと思ったけどさ、こう表舞台に立たれると怪しみたくもなるじゃないか。現に彼は九十九になる目前まできてるわけだし、これは案外ホンモ……」
「いい加減にしてください!」

 ナナクサが叫ぶ。

「僕はコウスケと風呂にだって入ったけど、耳の一対、尻尾の一本だって生えちゃいませんでしたよ! あったのは……古傷くらいです」
「古傷だって!? そりゃあ雨降様の矛の刺し傷じゃないのかね」

 動かぬ証拠を見つけたとばかりに村長は興奮気味に言った。

「違います! かなり深かったけどあれはひっかき傷でした。矛ではあの傷はつかない」

 ナナクサが負けじと反論する。

「と、とにかく! 僕が頼んだんですよ出演のことは。どこの骨ともわからないトレーナーにやらせるよりは客人である彼にやってもらうほうがタマエさんも喜ぶだろうと、そう思っただけです。とにかくこれ以上タマエさんの客人に無礼なことを言うのは、」

 ますます感情的になっていくナナクサ。だが、

「いいじゃないか、ナナクサ君」

 と、ツキミヤはなだめるように言った。

「コウスケ……?」
「祭とは日常と切り離された非日常。こんなにたくさん人もポケモンもいるんですから。その中に妖怪や魔物の一匹や二匹が混じっていてもおかしくない。泊めた客人が妖の類だったなんていうのは存分に有り得る話です」
「君まで何を言い出すんだよ」
「今年、舞台で九十九の役を演じているのが九十九そのものだと宣伝したなら、きっと話題になるでしょう。たとえ本当の中身が何であったとしてもね。さすがはこの村長さんだ。祭の盛り上げ方というのをよく心得ていらっしゃる」

 ね、あなたの狙いはそれなんでしょう? と、同意を求めるような目でツキミヤは村長を見つめた。村長はしばしキツネにつままれたような顔できょとんとしていたが、やがて、まぁそういうことにしてやってもいいというような顔をして、髭をいじった。

「村長さんはおっしゃいましたね。タマエさんは僕を人間として見ていない……と。だからご期待に応えてみようと思ったまでです。舞台の上なら人は何にでもなれる。雨を降らす神様にも村の田を火の海にしてしまう恐ろしい化け物にすらなれるんです」

 響く笛の音、胸に響いてくる太鼓の鼓動。
 赤や橙の色が灯る闇を背に、芝居がかった口調で青年は語った。

「ならば僕はなりきってみようと思う。滅びてもなお村人を恐怖させる炎の妖に」

 闇夜に灯る炎。

「もちろん僕はただの院生ですけれどね」

 青年は笑顔を崩さずに言った。

 


 小さな灯りが天井にぽつんと灯っただけの土間があった。そこに大きなダンボール一個程度の機会がガタガタと音を立てながら稼動している。機械の口からは細かな白い粒が吐き出され、機械の頭には黄金色の粒が老婆の手によって袋から注ぎ込まれていた。
 吐き出されているのは今年獲れたばかりの新米だった。籾殻が取り除かれ、研いで炊けばすぐに食べられる白い粒だ。
 タマエはもう昼間から同じ作業を繰り返していたが、ほとんど手を止めなかった。まるで珠を磨くように、精米する作業を繰り返す。
 だが、作業を繰り返しながらずっと頭から離れないことがあった。
 日が暮れてしばらく経った頃に現れた客人の言葉だ。



「ご精が出ますね、タマエさん」

 人影に気がついて、作業を繰り返すタマエの手がしばし止まる。
 つい先程から、ただ流れる米をじいっと見つめていただけのネイティが妙にそわそわし出したと思ったら、そういうことか。
 四角く切り取られた家の壁、裏口には、一昨日の晩に招いた客人が立っていた。
 傍らには一匹のカゲボウズ。ふよふよと宙に浮いている。

「なんじゃ、コースケか。シュージと一緒に祭の見物に行っとったんじゃないのか?」
「所用がありまして。しばらくネイティを貸していただきたいと思って戻ってきたんです」
「貸すも何もお主のポケモンじゃろうが。ほれ」

 戻っていいぞという風に、タマエが小鳥ポケモンに合図するとネイティはひょいっと、精米機から飛び降りた。そして、二、三回飛び跳ねながら主人の下へ戻っていった。主人の肩に跳び乗ると目を細めて頬に擦り寄る。ツキミヤが仕方ないなとでも言うように頭を撫でる。

「シュージはどうした」
「ナナクサ君でしたら、タイキ君と一緒に選考会の見物中ですよ」

 タマエの質問に青年はにこやかに答えた。

「選考会? あの大根役者を決める会のことか。くだらんものを見とるの」

 やや不機嫌そうにタマエが言うと、くくくっ、とツキミヤは笑った。

「大根とは手厳しい。それじゃあ僕はせめて人参くらいにはなるように努力することにします。タマエさんのお眼鏡に叶うかどうかはわかりませんが」
「……? どういうこっちゃ?」

 タマエが怪訝な顔をする。

「僕ね、選考会に出場しているんですよ。準決勝まで行きました。九十九様の役をとるまであと少しです」
「…………なんじゃと」
「本当は役がとれたら報告するつもりだったんですけど」
「…………」
「タイキ君にもバレちゃったし、もういいですよね? しゃべっても」

 タマエの反応を楽しむようにツキミヤは言った。
 一方のタマエは丸い目をますます丸にしてしばしツキミヤを見つめていたが、やがて

「……シュージが無理強いしたんじゃないのかね、コースケ」

 と尋ねた。

「そんなことないですよ」
「嘘をつけ」

 ツキミヤの言葉は瞬く間に否定された。

「やっぱりバレましたか」

 青年はいたって素直に負けを認める。

「あの子の言いそうなこった」
「実は相当な勧誘を受けました」
「やっぱりか」

 タマエはふうっと溜息をつく。

「シュージは空気が読めないというか言い出したら聞かない子でねぇ、とんだ迷惑をかけてしまったね」

 彼女は申し訳なさそうに言った。だが、
「いいえ」 と、ツキミヤは言った。
 僕を役に就かせるどころか脚本の改変まで企んでいますよ。心の中で反芻する。

「まあ、それでこそナナクサ君ですよ」

 青年がフォローだかイヤミだかわからない言葉を返した。
 すると、

「コースケ、お前さんはシュージをどう思う」

 やや真剣な顔つきになって老婆は言った。

「シュージはね、ある日いきなりここで働かせて欲しいと言って押しかけてきたんよ。もう三年くらい前くらいになるのかな」

 唐突にそんなことを語り出す。

「正直なところあの子の素性は私もよく知らないんだ。何か込み入った事情があるのかもしれないが詮索する気も無いしね」
「そういえば、この村の出身ではないと伺いました」
「最初の三日間は出身なんかも聞いてみたが、はぐらかすばっかりなんで四日目には諦めた」
「三日坊主ですね」

 冗談交じりでツキミヤが言った。

「でもどうしてだろうねぇ。どうにもよそから来た他人の気はしないんだよ。まるで昔から一緒に暮らしているみたいな」
「わかるような気がします」

 きっと相当努力したのだろうとツキミヤは思う。
 ナナクサはやたらと村のことに詳しい。あれだけの知識を集積するのにどれほどの犠牲を払ったのか。

「シュージには感謝しているよ。主人に先立たれて、ドラ息子はタイキを置いたままちっとも帰ってきやしない……シュージが現れたのはそんな頃だった。あの子は何をやらせてもよくできるけど、田んぼから家に戻ったときに、おかえりなさいと言ってくれるのが一番ありがたかった」
 
 天井に掛かった灯かりが弱く照らすだけで、部屋はほの暗い。
 羽虫が二、三匹そのわずかな光の周りを舞っている。

「だからこそ心配だ。あの子はなんだってやってくれるし、仕事をするのを苦にもしないけれど、恋人も友達も作らないんだ。本当に興味が無いのかもしれないが……だからコースケ、シュージがお前さんに懐いてるのを見てわたしゃホッとしたんだ」
「懐いている? ナナクサ君が僕に?」
「気が付かなかったかい。あの子は、コースケ以外を呼び捨てでは呼ばないよ」
「……それは気が付かなかったな」
「シュージは米のことに詳しいから、村の人間にも頼られている。けれど、あの子自身はどこか村の人間とは距離をとっているんだ」

 そうタマエは付け加えた。

「そういう風には見えませんでしたけど」

 目の前の老婆に異様に入れ込んでいる以外は、軽くて空気が読めない奴くらいにしか思っていなかったツキミヤにとって、彼女の発言は少し意外であった。
 ナナクサが嫌っている村長は置いておいて、村巡りであった人々とナナクサのやりとりを見ていればとてもそういう風には見えなかったのだが。

「それはコースケの本質を見る目が甘いからじゃよ」
「本質……ですか」

 誰かさんがそんなことを言っていた気がする。

「老い先短くなると、目は悪くなるし、耳も聞こえづらくなるが、そういう感覚はむしろ鋭くなるんじゃ」

 けれども老婆にそう言われると、だんだんそんな気がしてこないでもなかった。
 彼はタマエを慕っているのであって、村自体が好きなわけではないのかもしれない。タマエの為という大義名分があれば平気で伝統行事をひっくり返そうとする奴だ。

「ああ、そういえば彼、言っていました。僕のことは……ヒトメボレなんですって」
「ヒトメボレ?」
「米の品種ですよ。彼、人を米の品種に例えたがるでしょ」
「ああ、そんなクセもあった」
「メグミさんはアキタコマチで、村長さんは汚染米ですって」
「汚染米? はは、そりゃ品種じゃないだろう」

 タマエがそりゃいいわ、とでも言いたげにカッカと笑った。
 だが彼女はすぐ真剣な顔つきになって、

「コースケ、」

 と、一呼吸置いてから言った。
 
「コースケがシュージをどう思ってるかは知らん。だがこの村にいる間だけは仲良くしてやっておくれ。あの子のことだから、いろいろ変なことは言うだろうし、すでに言われてもいるだろうが……選考会の件はすまなかった」
「気にしていませんよ。それに選考会のことなら、決めたのは僕の意思ですから」

 弱々しい灯かりの周りを羽虫が舞う。
 人口の灯かりを月の輝きと勘違いした小さな命は、月を追おうとしてぶつかっては弾かれ、また弾かれて、けれど月を目指すことをやめようとしない。

「それに……それなりに楽しませてもらっていますしね」

 つうっと指を伸ばすと、青年は傍らに浮かぶカゲボウズの喉を愛撫した。
 エネコがゴロゴロと喉を鳴らすのと同じように、差し出すように、人形ポケモンが首をのけぞらせる。

「九十九の役は僕が貰います。他の大根役者共には渡しません。どんな手を使っても」
「物騒だね……どんな手を使っても、かい?」
「そうです。ナナクサ君たってのご指名ですから」

 それにこれは何より、当の九十九本人の望みでもある――。
 ほの暗い部屋の中、青年の眼はいやに光って見えた。
 闇夜に光る獣の眼のような。
 青年が瞳を伏せてふっと笑った。

「そろそろ会場に戻ります。お手を止めてすみませんでした」

 身を翻し背を向けた。

「タマエさんにいい報告ができるようがんばりますよ」

 四角く切り取られた裏口から、青年のシルエットが消える。
 外からりーりーと虫の鳴く声が聞こえた。
 遠くに笛や太鼓の音が混じっている。

「…………つかみどころの無い子じゃのう」

 タマエはしばしシルエットの消えた裏口をぼうっと眺めていたが、やがて止めていた手を再び動かし始めた。
 彼女ぱちんと電源を入れると、まるで餌をねだる雛鳥のように精米機が鳴り始めた。

「そんなに鳴らんでもすぐにくれてやるわい」

 タマエは後ろに積まれた収穫したばかりの米の袋に手をかけた。

「ねえタマエさん、」

 唐突に先ほど去ったはずの客人の声がして老婆は顔を上げる。

「なんじゃコースケ、行ったんじゃなかったんか」
「僕が選考会に出た理由、知りたくありません?」
「なんじゃ、よく聞こえんぞい」

 ガガガガ、と精米機がけたたましく鳴っている。
 袋を担ぎ上げ、開いた。今年収穫したばかりの黄金色の稲の粒が顔を覗かせる。

「やって欲しいと言われたんです」
「それは知っとる。お前さんはシュージに……」
「いいえ、本人から」
「あん? 本人?」

 音が変わる。精米機が粒を飲み始める。吐き出される白い粒。

「そう、本人です」

 青年は裏口の向こう。その姿は夜闇に紛れてよく見えない。
「ねえタマエさん、」と、再び語りかけるように青年が言った。
 機械の振動音が邪魔して、明瞭には聞こえなかった。
 だが、タマエの聞き間違い出なければ青年は確かにこう言っていた。

「ねえタマエさん、ツクモ様が夢枕に立って、僕に演じてほしいって云ったんだって言ったら信じてくれます?」
「…………、……なんじゃと?」

 青年が闇の中で笑ったように見えた。

「待て、コースケ」

 彼女は急いで袋の中身を精米機に飲み込ませると、その場を立つ。
 だが、持ち場を離れ、彼女が家の外に飛び出した時、すでに青年の姿は消え失せていた。
 置き去りにされた精米機だけがごうんごうんと物欲しそうに音を響かせていた。


  [No.14] (十)翡翠 投稿者:No.017   投稿日:2010/08/11(Wed) 13:23:31   33clap [■この記事に拍手する] [Tweet]





(十)翡翠


「おい、物見矢倉に鐘を置いたのはどいつだ」

 選考会の会場からは少しばかり離れた場所。
 そこで仕事をしていた若い衆に額に太い鉢巻を巻きつけたその現場の頭と思しき男が尋ねた。

「鐘? 俺はしらねえよ」
「考古学の教科書にでも載ってそうなごっつい銅鐸が置いてあるんだが……」
「銅鐸ぅ? そんなもの祭で使ったことあったか?」
「まぁとにかく落ちて観光客に当たったりするとまずいけん、そうだな、お前ちょっと行って降ろしといてくれんか」
「あいよー」

 頭に命じられた一番体格のよい若者は人々が賑わう会場の脇にある物見矢倉に向かう。
 丸太で出来た梯子をぎしぎしと音を立てながら上って、若者は矢倉の上へたどり着いた。
 そこにはたしかに謎の銅鐸が陣取っていた。どういう訳かその上にちょこんと緑色のポケモンがとまっている。

「本当だ。ったく、誰だよ。こんなもの置いたのは」

 ふうと、溜息をつき彼は顔をしかめた。どうやって降ろしてやろうか。考えるとなかなかめんどくさかった。どこのどいつか知らないがここに運び込むのだって大変だったろうにとも思う。
 だが、ふと先のほうで人々の喧騒が聞こえてきて、若者の関心はしばしそちらへそれた。
 見渡すと遠くのほうで燃える火が目に入る。それは選考会の舞台に迸る炎であった。

「おー、やってるやってる。今年はどいつがなるんだろうね?」

 若者は炎が舞う舞台を遠望する。
 赤い炎、そして青い炎が乱れ飛んでいた。



「カグツチ、火炎放射」
「カゲボウズ、鬼火」

 舞台の中央で二色の炎がぶつかる。
 炎のぶつかったところからカグツチと呼ばれた色違いのリザードが突っ込んできて、メタルクローを仕掛ける。カゲボウズがするりとかわし、爪の届きにくい上空へと退避した。
 リザードはカゲボウズを睨み、跳躍。再び人形ポケモンをその爪にかけようとする。再びするりとかわすカゲボウズだが、身体をくねらしたリザードの燃える尾がぶんと襲ってきて、あやうく当てられかけ、バランスを崩した。

「鬼火!」

 空中に青い炎がいくつも灯る。青年に憑いている"見えていない"カゲボウズ達のサポート。灯った鬼火はすぐさまリザードに襲い掛かった。
 リザードが鋭い爪で鬼火を引き裂いて、事ともなげに着地した。
「小賢しい」リザードの台詞を代弁するかのように相手トレーナーが呟く。

「そんなものが効くと思っているのか」

 褐色の肌に透き通るような銀髪、ある意味トレーナー版色違いともいえそうな青年が、ツキミヤを睨みつける。
 試合開始から今に至るまで、バトルの流れは堂々巡りだった。リザードが攻撃し、カゲボウズがかわす。時々、思いついたように鬼火が飛んできて、リザードが掻き消す。お互いダメージといったダメージはなく技だけが空振りする。
 だが、

「思っているさ」

 挑戦的な態度でツキミヤが答えた。

「時間の問題だよ。なんならもう一発喰らってみるかい?」
「面白い。カグツチ!」

 リザードが影分身した。数体に分かれ一斉に爪を伸ばす。再び襲い掛かかろうとした。

「全部燃やせ」

 炎が影の数の分灯った。瞬く間に仮初の影が消え、本体だけが残る。
 影を消した鬼火達が吸い寄せられるように本体へ集う。
「つかまえた」とツキミヤが呟いた。
 炎を掻き消そうと爪を振るったリザード。だが、青い炎は爪にかかる直前にぐいんと方向転換して、火炎ポケモンの身体に纏わりついた。ダメージは無い。だが次の瞬間にびたんとリザードの身体が地に叩きつけられた。まるで上から何かの力で圧力をかけたように。

「なっ……」

 リザードのトレーナーが驚きの声を上げる。

「だから言っただろう。時間の問題だと」

 ツキミヤが不敵に笑った。
 タイミングを合わせるのに時間はかかったが、予定通りだ。



 物見矢倉の若者はしばし二色の炎の応酬を見つめていた。が、もともと離れていてはっきり見えないこともあって、すぐに飽きが来てしまった。
 ふと我に返り、仕事を片付けようと思い立つ。戻りが遅くなれば頭にどやされるかもしれないからだ。
 やはり持ち上げて慎重に降ろすしかないのだろう。

「ったく、めんどくせーな」

 村人はそのようにこぼすと緑色のポケモン、ネイティに

「ほら、どけよ。危ないから降ろすんだ」

 と言った。
 銅鐸に手をかける。持つのに適当そうな取っ手ぼ部分をぐっと掴んで持ち上げようとした。
 が、その取っ手が、若者の腕を払った。

「へ?」

 何が起きたのか理解できていない若者の目の前で、手を払った取っ手が形状記憶合金のごとく元の位置に戻っていく。

「うわ、なんだこれ!」

 若者が叫んだのと同時に銅鐸がひとりでに六十度ほど回転した。とまっていたネイティも一緒に回転した。驚いて後ずさりした若者をなんだ邪魔をするなとでも言うように模様とも目ともとれる赤い文様が睨みつける。

「…………こ、」

 この銅鐸、生きてる。若者はそのように理解した。
 ポケモンだ。これは銅鐸の形をとったポケモンなのだ。
 この地方では珍しい種類なのだろう、名前まではわからなかったが、雰囲気の似た土偶のポケモンを知っていた若者はそのように理解した。
 銅鐸がもう五度ほど動いた。彼はもうひと睨みされたような気がした。

「すすす、すみませんっ」

 年経た銅鐸に気圧されて若者は矢倉からそそくさと退散していった。



 石舞台のあいちこちに青い炎が灯る。
 ひとつ、またひとつと増えてゆく。その数は五十を下らない。
 炎に照らされたツキミヤが冷たく笑う。

「もう逃げられないよ」

 予選の土俵より広いとはいえ、舞台の広さはたかが知れている。鬼火を避け場外に出ることは敗北を意味していた。

「逃げも隠れもしない。火炎放射」

 リザードが円を描くようにして、勢いよく炎を吐く。
 彼を囲うように灯る鬼火が次々に掻き消されていく。

「補充だ」

 消された傍から灯ってゆく青い炎。
 姿を見せている一匹の後ろに控えるのはおびただしい数の影達だ。まだまだ余力はある。

「さあ、あのリザードを縛り上げろ」

 青年は彼のポケモン"達"に命令を下した。
 青い炎が集結し、数珠のように連なって灯ってゆく。それはちょうどハブネークほどの長さになると、まるでキバへびポケモンそのものの動きをなぞらえるようにリザードへ向かった。もちろん当のリザードもまともに捕縛される気などさらさら無く、炎の鎖を断ち切るべくメタルクローを振るう。だが、切れた鎖はたちまちに炎が補充されて、蛇のように絡みつく。口輪をするようにリザードの口、火炎放射の出所を封じた。
 びたん。再びリザードの身体が地に伏せられる。そこだけ重力が強くなっているかのように。

「カグツチ!」

 思わず相棒の名を叫ぶ相手トレーナーをよそに青年は次の命令を下す。

「溜めてシャドーボール」

 カゲボウズの額のすぐ前で黒いエネルギー球が成長しはじめた。禍々しいオーラの塊であるそれは球を作り出したポケモンと同程度の大きさになると成長をしながらゆっくりと移動を始める。ちょうどリザードの真上までくるとぴたりと止まった。一刻一刻と球体は膨らみ大きくなっていく。それはまるで黒い太陽のようであった。

「立ち上がれ、立ち上がるんだカグツチ」

 相手トレーナーの青年が叫ぶ。リザードは必死に立ち上がるとするが、炎の蛇は地からリザードを放さない。それどころか、まるで実体を持っているかのごとく身体を締め上げる。

「もう一回り大きくなったら、落とせ」

 カゲボウズ達の総力を結集して集めた黒い塊。黒く禍々しく成長を続けてゆく。
 膨らみ続けたそれの直径はゆうにリザードの身長を超えている。
 まともに喰らえば戦闘不能は免れなかった。
 そろそろ頃合だろう。青年は落とせという指示を下そうとした。その時、

「溜めに時間をかけ過ぎだ」

 と相手トレーナーが言った。

「時間が長引けば、敵にも時間を与えることを忘れるな」

 まるで警告するかのように言う。

「わかっているさ。その為の鎖だよ」

 と、青年は答えた。
 するとまだ気がつかないのかと言わんばかりに彼は続けた。

「口を封じるのはいい作戦だ。だが、お前はひとつ見落としをしている。炎の出所はひとつではない。カグツチ!」

 地に縛られたリザードの尾が立った。
 しまった、と青年はすぐに相手の言い分を理解した。たしかにリザードの動きを封じ口輪もした。だがもう一つの炎の出所、火の燃え盛る尾までは縛り付けていなかった。尻尾の炎が爆発する。

「オーバーヒート!」
「落とせカゲボウズ!」

 石舞台に二人のトレーナーの声が木霊して、直後に二つの轟音が鳴り響いた。ひとつは成長したシャドーボールの落下音。そしてリザードの尾が放り投げた巨大な火の炸裂音だった。カゲボウズを飲み込み、舞台に落下すると、いくつもの火柱を立てる。
 爆風が吹き荒れて砂煙が舞った。相手トレーナーはその中に目を凝らす。自身のリザードもシャドーボールを喰らって無事ではいまい。だが、少なくともオーバーヒートの直撃を食らったカゲボウズは戦闘不能にできたはずである。
 煙が薄くなる。その中で火炎ポケモンの影がよろめきながらも立ち上がった。
 持ちこたえた! この勝負、自分の勝ちだ。煙が晴れゆく。
 ツキミヤの指示が下ったのはその直後だった。

「カゲボウズ、シャドーボール」
「!?」

 次の瞬間、黒いエネルギー球が二、三飛んできた。
 その球が火炎ポケモンに直撃。立ち上がったリザードが倒れた。
 褐色肌の青年は驚愕する。

「勝者、カゲボウズ!」

 行司が軍配団扇を掲げた。その先には信じられないことにカゲボウズが浮かんでいた。
 マントが焼け焦げてはいるものの、ふよふよと浮いて笑っている。何より技を出す余裕があったのだ。

「馬鹿な……」

 観衆が沸く中で、相手トレーナーは呟いた。
 オーバーヒートは確かに直撃したのだ。たかだかカゲボウズの一匹が倒せないはずがない。それなのに。
 カゲボウズが主人のほうに舞い戻ってゆくのが見える。

「よくがんばったね」

 カゲボウズのトレーナーがそう言って、その頭を撫でた。
 青年は視線に気がついて、くすりと笑みを浮かべた。


 夜が更けていく。石舞台近くに建てられた掲示板に村長が大きな和紙を広げ貼りつけた。そこには黒い筆文字で役名と役者名が記されている。
 どうやら途中で敗れた者にも、つける役と報酬が多少はあるらしく、それらは上位から割り振られているようだった。雨降の部から村人や従者、九十九の部から九十九の一族といった具合に配役されている。決勝で対戦したあのトレーナーも掲示板を覗き込んでいた。配置からして、彼の名はヒスイと言うらしかった。もっと外国人チックな名前を期待していたのだが、意外とこの国風でつまらないとツキミヤは思った。
 出演が決まったトレーナー達は舞台中央に集められると、脚本を手渡される。
 ツキミヤの手には村長自らが手渡した。

「おめでとう。今年の九十九は君だよ、ツキミヤ君」

 そう村長は祝辞の言葉を述べた。

「ありがとうございます」
「悪役とはいえ、雨降様に次ぐ重要な役ですよ。舞も台詞も多いからしっかりおやりなさい」
「心しておきます」

 台本が行き渡ると、彼らは今後のスケジュールについて説明を受ける。
 そして、手渡された資料を見てツキミヤとその他トレーナー達は多少の差はあれ後悔した。昼休みを挟んで朝から晩まで練習漬けだったからだ。

「がんばろうね、コウスケ」

 スケジュール表をげんなりした表情で眺めるツキミヤとは対照的に、ナナクサは満面の笑みを浮かべて言った。


 収穫祭を見下ろす村の夜空。太鼓の鼓動も笛の音もまだまだ眠らないが、一日中バトルづくしだったツキミヤ達は帰って休もうとと帰路に着いた。
 タマエ婆に知らせてくると言ってタイキは先に帰ってしまい、ツキミヤとナナクサの二人で田んぼのあぜ道を歩いてゆく。ナナクサが淡い光の提灯を持って先を歩いた。そういえば、ナナクサに初めて会った日もこのような夜だった。
 だんだんと祭の喧騒が遠くなり、入れ替わるように虫の音が大きくなる。
 タマエの家まであと三分の一といったところだろうか、突然ツキミヤが脚を止めた。

「どうしたの? コウスケ」

 ナナクサがそう尋ねると

「悪い、ちょっと寄る所があるんだ。ナナクサ君は先に帰っていいから」

 と、ツキミヤが答えた。
 彼の視線は少し離れた先にある棚田のほうを向いている。

「君を残して帰るわけにはいかないよ。タマエさんの言いつけだもの」
「じゃ、ついてくるかい? たぶん君はがっかりすると思うけど」

 意地悪そうな笑みを浮かべて、ツキミヤが答えた。
 二人で上る棚田の曲がりくねった道は青年が村に入った日にナナクサが教えてくれた場所の一つだった。
 上りきれば村の風景を一望できる場所だ。遠くに祭の灯かり、そしてそのすぐ近くには雨降大社の灯かりが見えた。

「こんなところでいいだろう」

 ツキミヤはそう言うと、傍らに浮かんでいたカゲボウズに鬼火を命じた。
 鬼火は高く高く上ると上空で花火のように弾け飛散した。
 二発、三発、同じように繰り返す。

「何してるのさ」

 ナナクサが尋ねると「信号だよ」と青年は答えた。
 意図が理解できていなさそうな素振りのナナクサを見てすぐにわかると付け加える。
 それから数分ほど経過しただろうか、ツキミヤが指差した先を見てナナクサは驚いた。農村の夜空に謎の飛行物体が現れてこちらに近づいてきたからだ。ゆらゆらと左右に旋回しながら近づいてくるそれは未確認飛行物体――UFOのそれに見えなくも無かった。

「なんてこった。コウスケは違う星の人間だったのか」
「んなわけないだろ。よく見ろ」

 ナナクサのボケか本気かわからない台詞にツキミヤが冷静にツッコミを入れている間に、UFO――未確認飛行物体がツキミヤの目の前に来て、そして静かに着地した。
 ナナクサが提灯の光を当てる。それは鐘のような形をしたポケモンだった。頭にはツキミヤのネイティが乗っかっていて、俺の顔になにかついているのかとでも言うようにナナクサを見た。

「おかえり。お疲れ様」

 と、ツキミヤが彼らを労う。

「そういえば君にはまだ見せていなかったね。この地方じゃあんまり知られてないけどこれはドータクンというポケモンだ。ホウエンで言うネンドールに近いポケモンって言えばわかりやすいかい? 一説にはシンオウの先住民が造った人造ポケモンじゃないかと言われている」

 そんな解説を交えながら、ツキミヤは最後にこう付け加えた。

「ちなみに得意な技は雨乞なんだ」
「雨乞? まさかコウスケ……」

 ナナクサはここでやっと青年の仕掛けた"仕掛け"を理解した。

「準決勝で降った雨はこいつの仕業かよ!」
「そうだよ」
「そうだよ、って! 思いっきり反則じゃないか」
「まさかナナクサ君、僕がカゲボウズ一匹で勝てると思ったのかい? いいんだよ。公式大会じゃあるまいし堅いこと言うなって。それに僕に役を取って欲しかったんだろう?」
「そ、そりゃそうだけどさー」

 頭をかかえてしゃがみ込むナナクサを見下ろしてニヤニヤしながら見下ろした。

「ちなみに決勝戦では、鬼火にこいつの神通力を合わせてた。縛りあげたりできたのはその所為だよ。タイミングを合わせるのが大変でさ。それにあんまり近くにいるとバレるだろ? 遠くからでも見えるようにネイティにはドータクンの目の代わりになってもらったんだ。鳥ポケモンは目がいいから助かった」
「なんていうか君って、怖いもの知らずだよ……」

 でも、選考会でそれだけのことやらかす度胸は舞台向きかもしれない。
 ナナクサはなんとかプラス思考に解釈する。

「ああ、あとね、最後にオーバーヒート喰らってもカゲボウズが倒されずにいたのは、ドータクンの特性をスキルスワップしておいたからなんだ」

 スキルスワップ。ポケモン同士の特性を入れ替えるトリッキーな技。
 いつのまにかツキミヤはナナクサとは反対方向を向いて、そう解説していた。

「"耐熱"って言って、炎に強い特性なんだ」
「どっち向いて言ってるのさ」

 くすりと笑みを浮かべるとツキミヤが言った。

「これでだいたい納得できたかい? ヒスイさん?」
「…………えっ?」

 ナナクサはツキミヤの見つめる方向に提灯の灯かりをやった。
 彼らが立っている棚だの何段か上のほうに人影が見える。
 なんだバレていたのかと言わんばかりに一人のトレーナーが二人のほうへ降りてきた。褐色の肌に映える銀髪のトレーナーにナナクサは見覚えがありすぎた。

「あーっ、お前は決勝のジャポニカ種!」

 と叫ぶ。
 トレーナーは怪訝な顔をした。

「君がすごく疑り深い顔してたからさ。この際、タネ明かしておこうと思って」

 さらりとツキミヤは言った。

「でも覚えておくといい。僕が尻尾を出すまで監視するなんてムダだ。背中に目があるんだよ。それに、誰かの秘密を知りたいと思ったら堂々と正面から行ったほうがいいこともある」

 無言の圧力。
 トレーナーはただ立ち尽くし、二人を睨みつけている。
 ナナクサはすっかり縮み上がってしまい、ツキミヤの影に隠れる始末だ。

「……でも正直なところ、あのオーバーヒートは危なかったな」

 ツキミヤはそのような感想を述べる。
 虚構だらけの選考会の中で、少なくともこれだけは本当だった。
 そう、虚構だらけだ。出る人間も。出させる人間も。仕切る人間も。
 道理を曲げ勝利して、筋書きを変えてしまおうと画策する。思ってもいないくせに祝辞を述べる。
 人は誰でも仮面を被り演じる役者なのだ。舞台から降りてもきっとそれは変わらない。


  [No.207] 遅ればせながら…… 投稿者:クーウィ   投稿日:2011/02/25(Fri) 15:37:19   41clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

本当は終わるまで待つ心算でありました。  ……しかし、刺激になるやも知れぬのであらば、聖域を汚してみるもまた一興(笑)
と、言ふ事で、ちょっと失礼させて頂きますです……


個々の部分に触れる前、一番最初に入れて置きたい事――それは、自分はこのお話が大好きだと言う事です。  ……と言うか、丁度仰ぎ見るような感覚で拝見させて頂いておりまする。

昔から自分が想起する『二次創作的妄想』と言うヤツは、8割方『歴史・伝奇』関連なのですが、この作品ほどその要素を満たしてくれている文章を、自分はまだ見た事がありませぬ。
自分が最も書きたい物語の図式―『テーマ』と『雰囲気』を、この作品は文字通り掴み出して置いて見せたようなものでして、将来的に書くかどうか迷っている幾つかの作品群に対し、今のこの瞬間も、大きな影響を与え続けてくれています。


元々自分は、『嫉妬心』と言うものに対して非常に強い嫌悪感を持っており、これまでは意識して排除してきたのもあって、特に感じる事はありませんでしたが……どうやら此処に至って、遂にその魔の手に袖を掴まれちまった感じです(苦笑) 全く……こんなもん「ポン」と書けるのは、実に羨ましい(笑)

けれども同時に、他ならぬこの作品こそが、元々目論んでいた妄想の具体化に対して、この上なく明確に道を切り開いて見せ、目に見えない形で激しく尻を叩いてくれている事も、また事実なんですよねぇ(笑)
この『野の火』から自分が得られた物は、こんな形では到底語り尽くせるもんじゃございませんが……それでも、これだけは言わせて頂きましょう。 

素晴らしい作品をお書きになって頂き、本当に有難う御座います…!  実に幸せです(笑)



>  今宵、役者は面を被りて、出で立ち進むは石舞台。
>  舞いて祝詞を唱えれば、妖降り立ち甦る。
>
>  神と呼ばれ称えられる者、妖と呼ばれ恐れられる者、
>  今この地に集いし者、遠い昔この地に生きた者、企む者、阻む者、人、ポケモン、
>  もろもろを巻き込んで、ポケモン伝記小説「野の火」開幕。

掴みの序文。 
テンポと言い語感と内容と言い、この時点でとてもクオリティは高いですが(汗)……物語を読み進め、後から返して読んで見れば、味わいもまた一入の出来。
最後まで読み終えた時はどんな色に見えるのかが、今からでも凄く待ち遠しいです。


>  ホウエン地方の蒸し暑い夏が終わり、山々の木々の葉は、緑色の衣から赤や黄に衣替えをはじめていた。
>  それは地を彩る草々も例外ではなく、野も山も秋色に染まりつつあった。
>  夕暮れともなれば、あちらこちらから鈴の音に似た音色が耳に届く。
>  つい最近までこの音色を聞く度に、まだ夏だというのに気の早い虫もあったものだなどと思っていたのも束の間、今はこの音がしっくりと感じられた。

最初の情景描写は、お定まりで王道パターン。 ……然れども、そこで作者の技量がある程度計れてしまうのも、また事実。
生活感に根ざした夕暮れ時の風景は、容易に目の当たりに出来るほどに鮮やかで、自分のレベルでは文句の付け様もありませんな。  出だしは結構注目しますけど、全く期待を裏切らないこの安心感がいいわ(笑)


>  早々に宿を確保したかった。いわゆるリーグを目指す本業ではないにしろ、トレーナーの免許を持っている青年はポケモンセンターならば無料で宿泊できる。だが、目的の施設が必ずしもこの先にあるとは限らなかった。あったにしても利用客が多かったりすれば相部屋になったり、場合によっては、他の有料宿泊施設を利用しなければならないこともある。何事も早めに越したことは無い。

こう言う細かい設定や背景は、やっぱり個々人の技量(『妄想力』とも言うか)をh(以下略)
野宿や無人施設での宿泊を旨としていた自分から見れば、彼はまだまだ未熟…!()  ……と、言っちゃいたい所なんだけど、薄汚れたおいどんと違って、ツキミヤどんに野宿は似合いませんよね(笑)

……でも管理人さんの絵にあったように、仲間達と小さな明かりの中地図を囲むツキミヤどんも、悪くはないと思うんだ。


>  小柄だが、皿のような丸い眼に、きゅっと閉じられた口元は古狸という例えがしっくり来そうだ。それでいて、よく言えば意思が強そうな、悪く言えば頑固そうな顔つきだと彼は思った。

ばっちゃん登場。 この描写好きです(笑)
『古狸』はよく使う比喩だけども、『口元』や『丸い目』と言った裏付けを添えてくれる方って、意外とおられないんですよねぇ……(汗)


> 「ほれ、その肩の鳥ポケモンじゃ。何も考えていなさそうで、実は悟りきっている深遠なその表情。わしの好みじゃ。そりゃなんちゅう名前のポケモンだ?」
> 「……ネイティです」
> 「そうかネイテーというのか、覚えておこう」
>
>  老婆はネイテー、ネイテーと何回か反芻しながら満足げに頷いた。

そして「ネイテー」発言。 
トゥートゥー一族の破壊力を存分に振るう穴守ばあちゃん。 ……無敵だ…(汗  笑)


>  いつの間にか空はすっかりと暗くなっていて、彼の進む方向に集落の明かりが見えていた。
>  それは人の気配。たくさんの人があの場所に居るという証明。
>  にわかに太鼓の音、笛の音が聞こえてきた。

地味な部分かもしれないけれど、『旅人』としての視点を明確に内包した一文。  ……ツキミヤどんならではの感性も大きいのだろうけれども、ぶらぶら経験のある人間にとっては、懐かしい感触が尽きない一コマ。
区切りの一文としても秀逸だと思う。


第一話の誤字と思われる部分

>  青年はそんなことを呟いて、あたりを 『っ』 見回したが、
>  老婆は 『消して』『早く』 は無い


ツキミヤどんの親父さんの受け売りの部分は、シリーズ通して何度か出てますが……やっぱり好きだ!(笑)


>  傍から見たら無表情に見えただろうが、なんとなく微妙なニュアンスでうまそうに食っているのが彼にはわかるのだった。ネイティが最後のひとかけらをついばんで飲み込んだ。

なんだかんだ言いつつな両者の関係。 「羨ましいまでに良好である」()


>  思ったとおり、ボールから出したドータクンは米の料理に大して、おおよそ食欲という名の欲望を抱いてはくれなかった。
>  遠い昔の祭具に似た彼の生態はどのような形容詞で説明しても生物的であるとは言い難い。
>  ツキミヤは今のところ彼がモノを食べているところを見たことが無いし、どこに口があるのかも知らなかった。

どーたくですから() ポケモンならではの光景ですよね。
こういう無機質な連中を生き生きと描ける技量には憧れます…… 586さんのモールスポリゴン見たく。


>  たぶん普段は村の人々が集会所か何かに使っているのだろう。
>  中心にはせめてものといった感じで、火が炊かれ、小さく炎が踊っていた。
>  ツキミヤが中に入ると先に来ていた何人かが、お前もかといった眼差しを無言で向けてくる。

此処は不覚にも吹いた(笑) 光景が目に見えるようだわ。
駅地下で新聞紙被って寝たことあるけど、その時も先客の方々に変な顔されたなぁ。


>  青年の意識が半分ほどこちらの世界へと引き戻されるのとほぼ同時に、背中で羽を膨らませていた小鳥ポケモンが飛び起きたという感触が背中から伝わる。

この辺りは本当に芸が細かい。 ……ここでネイティの反応にまで言及している所に、作者と物語とのシンクロの深さを感じる。


>  ツキミヤはようやく肯定の意を口にした。
>  眠たい頭なりに記憶の一片にナナクサの存在を認めたのだ。

この行も好き。 ……何気ない一文なんだけど、表現方法はそうそう真似の出来ないレベル。
ここらいは流石に、執筆経験の長さが貫禄として滲み出てるよねぇ……(汗) 自分には到底無理な芸当。


> 「名目上? どういうこと?」
> 「この国の制度下ではトレーナー免許を持っていればいろいろ便利だからね。トレーナーの肩書きを持った兼業っていうのが結構多い。僕もその一人」

しっかりとした世界観を持つ方だけが出来る表現。 
二次創作にリアリティを吹き込む為には欠かせない文面なんだけど、実際にやろうとしたらこれも難しいんだよねぇ…… さりげなく言わせてるけど(苦笑)

こういう部分は、駆け出しの人間にはすごく参考になりますです。


>  ……ネイティが先かよ。と、声の聞こえない内心でツキミヤは呟いた。

……ワロタ。 
済まん、ツキミヤどん……おいどんもネイテーが先だったよ……(爆  笑)


> 「そこまで言われたら、お世話をしている僕はこう提案せざるをえないだろう? では、タマエさん、僕がひとっ走り村を回ってネイテーとコース……じゃない、コースケとネイテーを探してきましょう」

そしてあなたもそーかシュージ君。 同志よ…!()


第三話の誤字と思われる部分

外に飛び出して調べないとわからないことがたくさんある。僕のいる『の』研究室の方針として、」

どこかで寒い思いをしているんじゃないかと『と』ずっと心配してたんだよ。 (「かとか」か「かって」辺りでしょうかね……)



>  相当に旧い、けれどしっかりとした造りの家である。通り過ぎた部屋に垣間見えた柱時計がぼーんぼーんと深夜の時刻を告げていた。

旧家だということを強調する、さりげない配置の柱時計。 ……しつこいよーだが、こう言う所にやっぱ技量が出るんだよn(以下略)


>  両陣営の中に一際目立つポケモンが一匹ずつ在った。ほとんど虫のような大きさの人間達、他のポケモン達に対し、絵巻のほぼ下から上までをほぼ目いっぱい使われて描かれたそれは、誰が見ても特別な存在であることがわかる。実際の大きさがどうであるかはともかくとして、その意味の大きさ、存在の大きさが描かれた大きさとして表れているのだ。

大きさで重要度を表現するという技法は、表現法としてはありふれたものです。 ……が、それを文章の中で説明して頂く事により、よりはっきりとした映像が、頭の中に浮かび上がってくる。
説明を用いて、間接的に『見せたい』ものを想起させる技巧が素晴らしい。 流石は絵師……(汗)


>  こんな風呂にゆっくり浸かったのはひさしぶりだった。
>  身体を芯から温める湯の抱擁に身をゆだねながら、眠さに鞭を打ってここまで来た甲斐ががあったなと思う。

漂泊の旅の最大の悩みは、兎に角風呂に入れないこと。 逆に最大の楽しみは、やっぱりゆっくり湯船に浸かること…!
温泉入りたさに5キロ寄り道なんて普通の事。 ……欲求の赴くままに歩き続けられることも、また幸せなのだと今は思える(遠い目)


>  そう呟きながら、寝室の襖を開くと、部屋の中心にいかにもやわかかそうな布団と毛布が用意してあった。
>  手でそれを押してみる。たぶん、チルタリスの綿毛が入っているのだ。高級布団である。

ポケモンのいる生活の風景。 チルタリスは見れば見るほどダウンなんだよなぁ……(苦笑)
好きな子だし、「羽を取るために密猟」なんてネタにはなって欲しくは無いなと願いつつも、やっぱり羽毛に目が行ってしまう(爆) 


> 「妖怪を泊めた、か……言い得て妙じゃないか」
>
>  青年は面に向かって再び微笑み返した。

はい、フラグ立ちました() 
穴守家の客人、またの名を妖怪変化。 抱え込んじまったからには、もう何事も無しには済みゃしませんぜ……?(黒笑)



第四話の誤字と思われる部分

眠さに鞭を打ってここまで来た甲斐が『が』あったなと

いかにもやわ『か』かそうな布団



>  季節を問わずに今でもときどき夢に見ることがある。
>  それは、夏の夢。石段を上る夢。

『少年の帰郷』でも痛感したのですが、管理人さんは本当に『夢』の表現が上手いですね…(汗)
「意識が夜の海に潜る。 記憶という名の深い深い海に潜る。夜の海に潜る。」――この表現を見たときに受けたショックの大きさは、マジで半端無かったですぜ(汗)
意識の深層という夢の性質を、此処まで上手く表した二次創作作品を、自分は未だ知りません。 ……と言うか、普通の書籍作品でもあったかどうか(畏)


> 「毎年この時期になると一週間に渡る収穫祭が行われる。昨日はその前夜祭」
> 「前夜だって? あの規模で?」
> 「そう、正式な祭の日は今日から。だから村中大忙しさ。タマエさんもタイキ君も駆り出されちゃって動けない」

意外と大きなお祭りって、前夜祭の方が地元の人達は楽しんでたりするんですよね(笑) 
本祭は観光なんかの要素もあって、忙しいんだけど……前夜祭はどちらかと言うと純粋に楽しむ為に挙行して、どんちゃん騒ぐ様を見かける感じです。


>  彼は自分達が歩く道の右と左に広がる水田で実っている米の種類をちらっと見ただけで見分けてしまうのだった。
>  右の水田を差しこれはコシヒカリ、左の水田を指しこっちはササニシキと言う具合にだ。
>  ツキミヤも両者を見比べてみたが同じようにしか見えない。

一応退職農家の孫だから、違いぐらいはなんとなく分かる。 ……だが、種類までは到底(爆)
シュージ、恐るべし……()

後、色んな架空の稲の品種が出てきたのには笑いました。 『オニスズメノナミダ』なんかは、後に出てきた云われなんかと引き比べて、「なるほどなぁ」と唸りましたが……『ハトマッシグラ』とか誰得やねん(笑)
そういや昔、鳩がコンクリの畦に三羽並んで、稲穂から直接コメ喰ってやがったな……  可愛い反面、怒りもあれば可笑しさも込み上げて……(爆  苦笑)


>  だんだんと祭の全体像が浮かび上がってくる。
>  おそらくは昔、昔から伝統的に引き継がれてきたであろう村の祭。現代に至っては観光資源と言った側が強いだろう。だが、この村にとって祭とは単なる観光資源以上の意味を持っているのだ。
>  古代の人々にとって祭とは今年の収穫への感謝であり、翌年の収穫への祈願だ。収穫量は何人が生き延びることができるかに直結する。そして今や祭の成功は、村の経済に直結している。

純粋に上手いなぁと思った行。 ……この時点でははっきりしないけれども、過去と現在に跨ったこの作品では、この手の描写が読者に与える感慨は、一際大きいもの。
後から読み返した場合は、特にひしひしとそう感じまする。 秀逸な仕掛けだわ……


>  水田を二分して伸びる道の向こう側から歩いてきた二人組と一匹があって、その中の小さい女の子がまっさきに声を掛けてきた。短い髪を二つに結わいた元気のよさそうな女の子だ。
>
> 「やあノゾミちゃん、おはよう。ニョロすけも元気だね」

友情出演のあの子。 クロスオーバーはまさに、作者の積み上げてきたものの結晶です(笑)
管理人さんもその内、手塚オールスター的な作品を書くのだろうか?←


>  ノゾミがニョロモを捕まえたという大きな貯水池はいつできたとか、あの雑木林は誰それの所有で幽霊が出る噂があってとか、この一本道では時々マッスグマが競争しているんだとか、タイキのポケモンが駄菓子屋の菓子を盗み食いするのでいつも勘定を払っているとか、道行く過程でいろんなことを話し聞かせてくれた。
>  かといって、しょうもないことばかり知っている訳ではなく、彼しか知らないような村の景色を一望できる場所や、四季折々の美しい花が見れる場所、トレーナーなら涎が出てしまうような珍しい木の実の生える場所、冷たい水がこんこんと湧き出る泉の場所を知っていたりする。

こういうシーンは好きですね〜(笑) 
作中世界に引きこまれていくというか、なんと言うか。 ……後に使われるシーンの舞台や設定なんかも、ちゃっかりアピールしちゃってるし(笑)


>  やってくるだけで、雨。
>  おそらくこの神社はホウエン神話の"青いほう"に属しているのだ。
>  研究者としてのツキミヤはそう分析した。

豊縁昔話の世界とリンクする、物語の決定的な最初の一コマ。 ……前の絵も影響はあったけど、やっぱりここでのインパクトの方がずっと強い気がします。
天候変化の予兆が空に兆し、風の香りが少し変わったような感じでしょうか。


>  吐き捨てるようにナナクサは言った。
>  ナナクサもこんな風に怒るのだ。今更ながら青年はそんなことを思った。
>  ……今ならいい味がするかもしれない。

おいこら、ちょっと待て() ……などと、思わず突っ込みたくなる彼の感想(笑)
しっかりツキミヤどんです。 はい。  安心と信頼のカゲボウズシリーズ主人公。


> 「コウスケ、こういう場所はね、昔むかしの世界への入り口なんだよ」
>
>  売店で買い求めたアイスクリームをスプーンでつつきながら父親は言った。
>  甘い味が染みた木のスプーンを奥歯で噛みながら、そんな父の話を聞いていたのを覚えている。

此処も好きだっ!  
親父さんとの大切な思い出と、彼が抱いていた純粋な職業への思い。 アイスクリームの甘い味は、今の主人公の境遇とを暗に比較させ、懐かしい中にもどこか翳りを帯びさせる――

……木のスプーンを奥歯に噛んでとか、昭和世代の郷愁を直撃するようなモン書きやがってぇ!!(笑)


>  こんな時でも米の話か! こいつはどれだけ米が好きなんだ、と思う。

不覚にも(以下略)
このタイミングでこれはヒドイ。 笑うところじゃねぇから!(笑)


>  それは、四つ足の獣の姿をしていた。
>  その瞳は燃える夕焼け空のような紅。青白く輝く、鬼火の色にも似たその毛皮。身体よりも大きく映え、風にたなびくのは九本の長い尾。
>  きつねポケモン、キュウコン。それも色違い、白銀の。
>
>  ――コウスケ、こういう場所はね、昔むかしの世界への入り口なんだよ
>
>  一瞬の間。
>  かつての少年の耳元で父親が囁いた気がした。

夢だと言うことは分かっています。 ……けれども心は呆然と佇む、幽玄な一幕。
今宵夢幻を生み出したるは白き獣。 古の昏き沼を抱く青年の耳に呟いた者は、果たしてこの日が来ることを予期していたのであろうか――


> 「そう、僕は今眠っていて、たぶん耳元でナナクサ君が舞台に出ろ出ろと囁いているに違いない」
>
>  いやだなぁ。それってはたから見ると結構あぶない絵じゃないか。

待て待て待て待て。 なんと言うシリアスブレイカー発言……(爆)
いや、むっちゃ笑ったけどよ。


> 「形式とはいえ今は信仰が集まる祭の時期だからな。祭の本質は日常と切り離された特別な期間。ことに夜は格別だ。今や実体を無くし信仰の薄い私でもこうして誰かの夢を覗き見たり、夢枕に立つことくらいはできるのだ」
>
>  ツクモは続けた。
>  ここは私の夢であり、お前の記憶なのだ、と。

民俗学系の知識が覗くワンカット。 
こう言うの大好物(嬉々)  知識と経験は物書きの最大の味方……!


> 「私の若いころは珍しいことではなかった。百を率いる一族の長なら人語くらい操れたものだ。今より昔、ポケモンと人はより近かった。始りの地の神話によればポケモンと人の間に垣根が存在せず夫婦の契りを交わすことすら自然だった時代がある」
> 「僕は断るけどね」
> 「同感だ。妻に迎えるなら美しい毛皮のある者がいい」
>
>  青年と妖狐は同意し、そしてお互いに微かに笑みを浮かべた。

意外と気が合うじゃん(笑)
突っ張りあって丁々発止と受け答えをしていると、結構こう言うシーンが出て来るんですよね。

でも、このネタ自体は物書きには非常に大事なソースなんすから、あんまり否定してはいけませんよ御二人さん()
 
 
> 「……皆、個を括るために名を使おうとする」
> 「え?」
> 「たしかに一族や種に名づけられる名はそうかもしれない。けれどね、一人や一匹や一羽だけの為だけにつけられる名はそうでは無いのだ。だから、軽々しく名乗ってはいけない。お前にとって名前とは大切な者に呼ばれるためにあるのだから」
> 「何が言いたい?」
> 「私のようにはなるなということだ、鬼火を連れし者よ」
>
>  重さを持った声でツクモは言った。
>  警告めいた言葉。けれどその後ろにあるものを今のツキミヤが読み取ることはできなかった。

このやり取りには思わず唸らされた。  今の所、全体を通しても三本指に入る位好き……!

自らが歩んだ道を仄めかす、古き産土神の静かな言葉。
過去の存在と通じ合うタイプの伝奇では、一番好みのパターンですね……
作者の世界観を垣間見るような味わいに共感を持った時ほど、読み手としては嬉しいもんも無いです(笑)


> 「出演報酬は豪華だぞ。米俵十俵と……」
> 「そんなもの持って歩けるか」
> 「それだけじゃない。副賞として、一年間ホウエン中のホテルが無料になるエメラルドカードという代物があるらしい」
>
>  ぴくり、とツキミヤの肩が動く。

釣られた!(笑)  ……結構世故に長けた神様だな。

米俵も、荷物用のモンスターボールに収納すれば大丈夫!  ツキミヤどんの場合は、同居人(?)のお陰で一ヶ月持つか分からないが(爆)


> 「お前にならわかるはずだ。周囲の人間達は皆雨が降っているという。けれど、お前だけは本当の天気を知っている。だから、ずっと晴れていると叫び続けなければならない、その孤独が」
>
>  青年の脳裏に父親の姿がよぎった。
>  知ったようなことを言うな。お前に僕の、父さんの何がわかるというのだ。

周囲がみな酔っ払っている時、自分だけが醒めているのは妙なものです。  ……それは時として、命すらも失う可能性のある危険な行為。
けれども、それでも靡かず前に踏み出す旅人の生き様は、何時も我々の心を打つものです。

目に見えるものが全てではなく、残っているものが真実とも限らない。  ……歴史や通説とは、いつも残す者が描くものですから――



> 「私は思い出させてやりたい! 永きに渡り私を貶め、仮初の姿でしか私を知らぬ人間どもに。本来の神が誰であるかをを忘れた村人達に、私の炎を見せてやりたい!」
>
>  妖狐が夜空に吼える。
>  今この刻、抑えていた、たぶん何百年もの間溜め込んでいた何かが解き放たれた。

何故か激しく共感できるワンシーン。  ……何故でしょう?()
まぁ、鬱憤が溜まってるからお話書いてるんでしょうけどね。 自分は(爆)

「『文章に飢えた活字中毒者』は執念深く、怒りと憎しみに満ちた人物ですが、抱えた不満を文字にして叩きつける、悪魔的な習性を持っています。」(原文:HoI、『権力に飢えた扇動者』より)


>  そう、僕はこの世界が嫌いだ。
>  そうとも。父さんを棄てたこの世界など。
>  みんなみんな燃えてしまえばいい、燃えてしまえばいいんだ。

具現化しとる……(汗)
なんかツキミヤどんが、Nのダークサイドみたく思えて来た今日この頃(爆)
……始まっちまったからには止められまい。 行き着くところに行き着くまでは――


>  選考会。ポケモンバトルという形のオーディションの舞台。
>  その場所は土を盛り固めて作ったリングの上であった。

バトル…! バトルじゃああああ!!()
男も女も老いも若きも猫も杓子も、総員土俵に上がって乱れ打ち合うのj(強制終了)


>  発案者は知っていたのだろうか。相撲という神事の名を。
>  もっともその発案者とやらはもうとっくに村にはいない人であるらしく、今となってはそれもわからない。

この世界では、『相撲』は神事のままなんでしょうな……この描写ですと。
個人的に相撲や柔道みたいなのは大好きです。  ……最近の不祥事が恨めしい(涙)


>  それにネイティはタマエに貸し出し中だった。
>  どういう訳だかタマエは出会った時から彼をいたくお気に召した様子だった。
>  やはり宿を提供してくれた恩人にはそれなりのサービスというものをしなくてはなるまい。
>  そしてサービスは現在も継続中なのである。
>  もちろんサービス係の小鳥ポケモンにも青年自身がそれなりのアフターサービスをしなければならないだろうが……。

コレもワロタ。  ……管理人さんと言い『プレゼント』の586さんと言い、緩急のつけ方が絶妙なんだよなぁ。
ネイテーは大事にしましょう。 アフターケアは寧ろ喜びです(笑)


>  と言って軍配団扇を上げると、ディグダも真っ青になりそうな程の恐るべき速さで土俵際に退散した。
>  まともに炎技を喰らいたくないからである。

ぬお!?  神聖なる土俵で何たる体たらく!
カエセェ!モドセェ! プロとしての誇りは無いのかぁ!?()
……とは言ってもまぁ、普通の人間は逃げますよね(笑)  丸焼きとか御免ですし。


>  もちろんこんな行為はルール違反である。だがそれを行司に訴える手段は子犬ポケモンにありはしなかった。野生を無くし感じる力が鈍感な人間達はこのトリックに気付けない。

仕方ないさガーディ君……  人は残念だけど、もう君達とは違う世界に生きているんだよ()


> 「いやあ、いざとなったら君を負かした優勝者以下とそのポケモンの食べるものに下剤でも仕込んで、君を繰り上げ当選させようかと思っていたんだ。裏の山に生えてるキノコにすごいのがあるんだよ」

いや、本気で笑えんから(汗)  
ナナクサ君は普段の態度が態度だから、こう言うことになるとやっぱり変な迫力と説得感がある(苦笑)


> 「繰り上げ当選させるんじゃなかったの? 今ならたった三人やるだけでいい。君の負担も軽いぞ」
> 「何のことを言っとるんじゃ」
> 「集団食中毒で収穫祭が中止になる話」
> 「なんじゃそりゃ?」
>
>  意味が分からないという顔をタイキがして「冗談だよ」と、ツキミヤは言った。

おみしゃんも引っ張らない(笑)
……ある意味ヒスイ君は、敗北によって毒飼いから免れたんだよなぁ……(汗)  まぁ、目的自体は同じだったけども。



第八話の誤字と思われる部分

ツキミヤの皮肉がわかっているのかわかっていないのか、ナナクサはそのようにまとめた。『。』



>  取った。その影がはっきりと現れたその瞬間、バクーダの背中にある火山が噴火した。
>  炎を司るポケモンに炎は大したダメージを与えられない。だが、質量を伴ったマグマであればどうだ。岩や鉱物をふんだんに含んだ熱い土砂をぶつけるのであれば。それは高威力の打撃技を当てることと同等の意味を持つ。いくら炎ポケモンとはいえこいつの直撃を食らえば無事では済まない。バクーダは勝利を確信する。

ここは良かったですね〜。  『噴火』と言う技の性質と模様を、きちんと目に見える形で描写なされてる。
裏付けがはっきりとしていますから、単なる技の撃ち合いなんかとは比べ物になら無いぐらいの、リアルな味わいがありました……!  

結の形も実にお見事です。 良いお手前で…!


>  湧き出した影達が黒く禍々しいオーラの玉をいくつも発生させる。
>  それが霧の発生源に向かって何十発も、何十発も打ち込まれた。
>  濃い霧で対象ははっきりとは見えない。が、熱をもったそれはのだいたいの位置を掴むことはできた。これだけの数を打ち込めば無傷ということはあるまい。

戦いは数だよ、アニキ!  
なんという民主主義戦法。  ……これが持てる者の力というヤツか(爆)

実に酷いやり方だとつくづく思う(苦笑)


>  ツキミヤは挑戦的な台詞を吐く。だが、柔らかい笑みは崩さなかった。その顔はまるでどんな場面でも変わらない表情の能面のようでもあった。面の下の素顔がどんな表情をしているのかは誰も知らない。

常人は非日常を演ずる為に面を被る。  ……しかし彼は、日常を演ずる為に面を被っている。
それを嘆くよりも、その運命を心の中で弄びながら。

けれどもその心の奥底にあるものを、誰も見ようとはしない。 そしてまた彼自身も、それを決して見せようとはしない。
ある意味九十九こそが、彼が初めて出会った共感者なのかもしれませんな。


> 「懐いている? ナナクサ君が僕に?」
> 「気が付かなかったかい。あの子は、コースケ以外を呼び捨てでは呼ばないよ」

これ好きです。  ……まぁ、今はまだ全てが見通せた訳ではありませんから、一概にこの雰囲気に飲み込まれていいのかは分かりませんけど――


>  弱々しい灯かりの周りを羽虫が舞う。
>  人口の灯かりを月の輝きと勘違いした小さな命は、月を追おうとしてぶつかっては弾かれ、また弾かれて、けれど月を目指すことをやめようとしない。

時折挟まれる、この手の小文。
必要に応じ抜かりなく挟み込むことによって、物語の完成度は飛躍的に高まるものですが……そのタイミングを見極めて適時適切に加えて行く難しさは、並大抵のものではありません。
これぞまさしく技量の賜物。  お見事にして、羨ましい限りですな……(笑)


>  彼女は急いで袋の中身を精米機に飲み込ませると、その場を立つ。
>  だが、持ち場を離れ、彼女が家の外に飛び出した時、すでに青年の姿は消え失せていた。
>  置き去りにされた精米機だけがごうんごうんと物欲しそうに音を響かせていた。

この回も終わり方は実に良く纏まってて……(汗)  
次に待つ波乱を予期させる、含みのある沈黙。  ……精米機の唸りだけが残る風景は、タマエさんの心情を良く表してて、実に良い感じです。

……ただ、実際に精米機を使ってる側としては、連続使用をしてる時に一気に中身をぶちまけると、「詰まっちまうぞ」と突っ込みたくなって困ったり(笑  爆)


>  銅鐸がもう五度ほど動いた。彼はもうひと睨みされたような気がした。
>
> 「すすす、すみませんっ」
>
>  年経た銅鐸に気圧されて若者は矢倉からそそくさと退散していった。

さすがは第四世代の対戦環境を風靡した銅鐸様。  名も無き力自慢など眼力で十分()
まぁ、実際アレに睨まれたらかなり怖そうだよね。


>  それから数分ほど経過しただろうか、ツキミヤが指差した先を見てナナクサは驚いた。農村の夜空に謎の飛行物体が現れてこちらに近づいてきたからだ。ゆらゆらと左右に旋回しながら近づいてくるそれは未確認飛行物体――UFOのそれに見えなくも無かった。
>
> 「なんてこった。コウスケは違う星の人間だったのか」

待て待て待て待て(二回目)  どーしてそーゆー結論に達する!?
思い出したように飛んで来るギャグ。  対戦での先制技見たいな割合ですが、ギャグが好物な自分にとっては何よりの馳走です(笑)


> 「ああ、あとね、最後にオーバーヒート喰らってもカゲボウズが倒されずにいたのは、ドータクンの特性をスキルスワップしておいたからなんだ」
>
>  スキルスワップ。ポケモン同士の特性を入れ替えるトリッキーな技。
>  いつのまにかツキミヤはナナクサとは反対方向を向いて、そう解説していた。

此処までの展開や仕掛けは、ある程度予測しやすかったのですが……この最後の一手はしてやられました。  こいつはハタと手を打った……(汗)
ドータクンと言うポケモンをフルに使った物語構成に、改めて敬服した一瞬ですね。  良い仕込みをやってくれたもんだよ。ったく(笑)


> 「あーっ、お前は決勝のジャポニカ種!」
>
>  と叫ぶ。
>  トレーナーは怪訝な顔をした。

突っ込まん、突っ込まんぞ…!  とか思いつつも、やっぱ上げてしまう(笑)
ナナクサさん良い仕事し過ぎ……



なんか見返してみると、結構長くなってますので……取りあえずは、一旦此処で切って置きまする。  ちょっと時間も怪しい感じですし(汗)

さて、残り半分はどうグダってやろうかしら(笑)


では。 また後編にて……  一旦失礼致しまする〜


  [No.208] なんという長さ、そしてボリューム! 投稿者:No.017   投稿日:2011/02/26(Sat) 12:07:49   43clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

No.017です!
うは! やった! 感想だ! 感想がついたぞ! ヤッホーイ!(小躍り)
「終わるまで待つ心算」だったとのことなので、なんかせかしてしまったようで悪い気もしますが(笑)
やっぱりうれしいなぁ。


>  弱々しい灯かりの周りを羽虫が舞う。
>  人口の灯かりを月の輝きと勘違いした小さな命は、月を追おうとしてぶつかっては弾かれ、また弾かれて、けれど月を目指すことをやめようとしない。

うひひ、実はこの描写は私も気に入っているのでお気に召していただいてうれしいです。
この描写はツキミヤ自身の置かれている状況を暗示しているつもり、です。
野の火ではほとんどそのことに触れていない為、そのうち別の話で語れたらいいと思っていますが、
彼はいわゆる四大の学士の過程を卒業した後、修士課程……大学院に進みます。
ですが彼の先生は「民俗学」の先生です。「考古学」ではありません。
彼自身はそっちを希望していたのにもかかわらず、です。
理由はなんとなく、おわかりですよね?



>……ただ、実際に精米機を使ってる側としては、連続使用をしてる時に一気に中身をぶちまけると、「詰まっちまうぞ」と突っ込みたくなって困ったり(笑  爆)

ぐふ!
精米機使ったことなくて、そのへんはまったくわからない。もう少し調べるべきだったか。
農家の方のツッコミお待ちしております。
穴守さんちはお金持ちなので、きっといい精米機なんですw


>「意識が夜の海に潜る。 記憶という名の深い深い海に潜る。夜の海に潜る。」――この表現を見たときに受けたショックの大きさは、マジで半端無かったですぜ(汗)

えっ


>……『ハトマッシグラ』とか誰得やねん(笑)

俺得です。きっとポケモンの飼料用の粒の大きい豆みたいな米なんじゃないですか?w
カントーやジョウトに出荷してるみたいです(遠い目
ネーミング的にはスバメニシキが気に入っています。


>友情出演のあの子

野の火は言うなれば、六尾稲荷のカゲボウズバージョンですが、
ツキミヤが絡むだけでなぜこうもひねくれた話になるのか……


>> 「コウスケ、こういう場所はね、昔むかしの世界への入り口なんだよ」
>>  売店で買い求めたアイスクリームをスプーンでつつきながら父親は言った。
>>  甘い味が染みた木のスプーンを奥歯で噛みながら、そんな父の話を聞いていたのを覚えている。
>此処も好きだっ!  
>親父さんとの大切な思い出と、彼が抱いていた純粋な職業への思い。 アイスクリームの甘い味は、今の主人公の境遇とを暗に>比較させ、懐かしい中にもどこか翳りを帯びさせる――
>……木のスプーンを奥歯に噛んでとか、昭和世代の郷愁を直撃するようなモン書きやがってぇ!!(笑)

木のスプーンは小さい頃私もやりましたので。
甘い味はうん、狙っています。
神社のお参りシーンは絶対に入れたかったので、捕食シーンの次にまっさきに書きました。


>>  いやだなぁ。それってはたから見ると結構あぶない絵じゃないか。

ツキ×ナナ いや ナナ×ツキ……?
げふんげふん、なんでもない。
そのほかに「脱げコウスケ」などの危ない台詞が散見されます。風呂に押し入ったこともありました。
マサポケはよい子も通える優良サイトです。(by586氏


>戦いは数だよ、アニキ!  
>実に酷いやり方だとつくづく思う(苦笑)

私もひどいと思います(笑)


>ある意味九十九こそが、彼が初めて出会った共感者なのかもしれませんな。

この手の感想はうれしいなあ。
たぶん九十九自身もそう感じるところがあって、ツキミヤに頼んだんだと思います。
後々の展開見ても完全になりきっちゃってるもん。九十九様の人選は間違っていないと思う(笑


>> 「たしかに一族や種に名づけられる名はそうかもしれない。けれどね、一人や一匹や一羽だけの為だけにつけられる名はそうでは無いのだ。だから、軽々しく名乗ってはいけない。お前にとって名前とは大切な者に呼ばれるためにあるのだから」
>このやり取りには思わず唸らされた。  今の所、全体を通しても三本指に入る位好き……!

うわあ、ありがとうございます。
しかし後半にちゃんと描ききれるのか今から心配でもありますw

とりあえずネイテー(笑)の名前をどうしようかという問題(





>元々自分は、『嫉妬心』と言うものに対して非常に強い嫌悪感を持っており、これまでは意識して排除してきたのもあって、特に感じる事はありませんでしたが……どうやら此処に至って、遂にその魔の手に袖を掴まれちまった感じです(苦笑) 全く……こんなもん「ポン」と書けるのは、実に羨ましい(笑)

嫉妬とするとあの人がやってくるので注意してくださいw
かなり途中であれやるこれやる、歌も作る! でサボっていますが、足かけ二年なので、「ポン」とは書いてないですw
この前のラジオで語りましたが、ルーツをたどってみるとどうも「砂漠の精霊」の影響を受けてるらしいんですよね。
ショール越しばかりを(私が)ネタにしがちですが、あれは「こういうことやってもいいんだ!」と私に多大な影響を与えた作品です。

「砂漠の精霊」…ポケモン≒精霊(ジン)

 ↓
こういうことやっていいんだ! →「六尾稲荷」……ポケモン≒神様、妖怪 

 ↓
DP発売、ミオシティ図書館の蔵書に感銘を受ける → 「遅れてきた青年」
このへんから民俗学的な領域に入っていく。

 ↓
カゲボウズシリーズで続き物をやりたい。
ネタ調達にと九州関係の本などを買い出す。 →「聖地巡礼」

 ↓
鎌倉に行く。とある稲荷神社でネタが降ってくる。 →「野の火」執筆開始

 ↓
京都に行く。三十三間堂で妄想する。
ガイドブックに乗っている伝説などに傾倒。 → 「豊縁昔語」

 ↓
買う本が民俗学系、日本の伝説系にシフト


みたいな流れをたどってますので。
つまり何が言いたいかというと「砂漠の精霊」すげえ! ショール越しすげえ! ということです。
だから私は砂漠の精霊が大好きだ(笑)。
「砂漠の精霊」のせいで神保町がどれだけ儲かったかしれない。


すべては「砂漠の精霊」からはじまったのさ……ということでここは締めておきますw

終始ニヤニヤしながら読ませていただきました。
これ後半もありとかおいしいな。
本当にありがとうございました!


  [No.18] (十壱)共犯者 投稿者:No.017   投稿日:2010/08/14(Sat) 10:09:54   47clap [■この記事に拍手する] [Tweet]


 遠くのほうではまだ祭の火が燃えている。
 村を一望できる棚田の丘の上で三人は向き合った。

「舞台の上ではお互い名乗りもしなかったからね、改めて自己紹介するよ。僕はツキミヤ。ツキミヤコウスケ。こっちに隠れているのはナナクサ」
「…………ナナクサシュウジです」

 ツキミヤの影からそっと顔を出してナナクサも続いた。

「いつまで僕の影にかくれているつもりだ。そもそもすべての元凶は君だろう」
「な、なんだよそれ!」
「君がとにかく選考会に出て、優勝しろと僕に無理強いしたんじゃないか。つまり僕が反則技を使ってまで勝利したのは、すべて君に責任がある」

 エネコの首ねっこをつかむようにナナクサを引きずり出すと褐色肌のトレーナーの前に突き出す。

「という訳で、リザードで火あぶりにするなら彼にしてください」
「薄情者!」
「だって、僕にはまだ九十九を演じるという重大な任務が残っているじゃないか。犠牲になるのは君の役目だろう」
「そんな……」

 ナナクサは褐色肌のトレーナーのほうを見る。
 あいかわらず、鋭い目つきでこちらを睨んでいた。

「…………」

 トレーナーがモンスターボールに手をかける。

「うわああああ! ごめんなさい! ごめんなさい! 僕の身体燃えやすいんだ! 火あぶりだけは勘弁してぇ!」
「燃えやすい、燃えにくいに個人差なんてないだろう。さあ」
「とにかく嫌だ!!」

 泣き叫ぶナナクサのリアクションを見て満足したのか、青年はナナクサを引っ込めた。
「あいつ怖い。本当に焼き殺されるかと思った」と、ナナクサが呟く。

「ルールを破って戦っていたことは謝罪するよ。でもどうしてもこの役に就きたかった。どうしても九十九になりたかったんだ。だからここは見逃して貰えないかな」

 さきほどの飄々した態度とは一変、あくまで相手に許しを乞う姿勢でツキミヤはトレーナーに語りかけた。
 トレーナーはしばらく黙っていたが、やがてモンスターボールを腰に戻すと、

「……ヒスイだ」

 と言った。

「え?」
「自己紹介だ。戦った相手の名を聞くのはこの国の流儀なのだろう? だから」
「……あ、ああ」

 変わったペースの持ち主だと青年は思った。
 気を取り直して本題に入る。

「こんなことを言ったら怒るかもしれないが、僕の目的はあくまで九十九を演じることだ。黙っていてくれるなら出演報酬はすべて君に譲ってもいいと思っている」

 そんな提案を持ちかけて、反応を伺う。すると、

「それは、報酬目当てで出演する輩にだけ通用する取引だな」

 と、ヒスイは答えた。
 ツキミヤとナナクサが顔を見合わせる。

「……つまり君も九十九様をやりたかったってこと?」

 ナナクサの問いにヒスイは静かに頷いた。

「こりゃあ今年は豊作だなぁ。昨年も一昨年も、報酬目当ての大根役者ばかりだったって言うのに」
「動機としては大変素晴らしい。けど困ったことになったね」

 報酬で買収できないとなると、どうやってこの事実を隠蔽すればいいのだ。
 ツキミヤはそっと足元を見る。やってしまおうか、と。この距離なら掴まえるのは容易いだろう。自分の中に蠢く影達にならそれが出来る。幸い、相手は自身に少なからず敵意を向けている。付け入るのは簡単だ。

「……提案があるのだが」

 ツキミヤが半ば本気で行為に及ぶことを考えている刹那、突如としてヒスイが言った。



「何? もう一人家に泊めたい?」

 寝巻き姿のタマエが、不機嫌そうな表情で言った。
 もう眠ろうとしていたらしく目を擦る。

「お願いします」
「僕からもお願いします」

 ナナクサとツキミヤは二人して、家の主人に頭を下げた。

「ヒスイさんって言うんですが、その一言で言うならジャポニカ種みたいな奴でですね、コウスケと共演するんです。九十九様の一族の役で」
「しかも宿にあぶれてしまったらしくてですね、ずっと野宿してたんだそうです」
「タマエさん、コウスケもめでたく九十九様の役になったことですし、ここはひとつお願いします」
「その、彼は僕と決勝戦で当たってですね」
「つまり彼が負けてくれなかったら、コウスケは九十九様になれなかった訳で」
「祭が終わるまで泊めてやってくれませんか」

 再び頭を下げる二人の青年。 

「………………勝手にせい」

 タマエは一言そう吐き捨てて、自身の寝室の襖をぴしゃっと締めた。

「……なんかタマエさん機嫌悪いね。せっかくコウスケが九十九様に決まったっていうのに」

 ナナクサがぼやく。

「そもそもタマエさんに頼まれてなった訳じゃないからね。とにかく了承は貰ったんだからいいじゃないか」

 そう答えたのはツキミヤだった。
 二人は穴守家の長い廊下をすたすたと歩きながら、そんな会話を交わした。

「ヒスイさん、お待たせ」

 ナナクサがツキミヤがはじめてこの家の敷居をまたいだ時に待たせていた部屋の襖を開く。
 まさか祭の期間中にもう一度使うことになるとは思わなかった。
 一方のヒスイといえば静かに部屋に立って一心に何かを見上げている。

「何見てるの?」

 彼は部屋に掛けてあった一枚の絵に見入っていた。
「ああ、その絵」と、ツキミヤが呟く。
 自分もタマエとナナクサを待っている間にその絵を見つめていたから。

「……ホウエン神話の二つ神」

 絵を見て、ヒスイは呟いた。
 対立する赤と青。大きな二匹のポケモンと彼らを囲む人々とポケモン達。両者は睨みあって――

「へえ、やっぱり"あんな提案"するだけあってこういうのに興味があるのか」
 
 ツキミヤがそのように尋ねると

「信仰というのは難儀なものだ。大きな神が二つもあるからこういうことになる」

 絵を睨みつけるようにして険しい表情でヒスイは答えた。
 ツキミヤは深くは追求しなかったが、彼の言葉からは何らかの決意のようなものが見て取れた。

「変なものがいろいろあるだろ。早い話が物置なんだよ。この部屋」

 そう言ったのはナナクサだった。

「亡くなったタマエさんのご主人の収集品とか、タマエさんちのあらゆる黒歴史が眠っているんだ」
「……収集品は黒歴史なのか?」

 ツキミヤが突っ込む。
 ナナクサは適当に箪笥を選別すると、引き出し一つに手をかけにやりと口を歪ます。

「たとえば、この箪笥を開いたら、村長さんがタマエさんに充てた恥ずかしい恋文の一つくらい出てくるかも」
「村長さんかよ」
「その昔、タマエさんに求婚して振られたのを今でも根に持っているんだよ。あの人は」

 彼が引っ張るとすすっと箪笥の引き出しは開いた。
 ナナクサがごそごそと中を引っ掻き回す。どこぞの家の秘密を暴く家政婦なんだろうこいつは。ツキミヤは呆れながらも別に止める気はなくただ眺めている。しばらくしてナナクサの手が止まった。

「……ねえコウスケ、すごいもの見つけちゃった」

 どういう訳か肩が震えている。
 懸命に興奮を抑えるようにナナクサは言った。

「恥ずかしい恋文か?」
「タマエさんが若い頃の写真」
「ぶっ」

 ナナクサの両肩から二人の青年がにゅっと顔を出して、ナナクサの手にある写真を覗き込む。
「ほお、」と、ヒスイが声を漏らした。
 結婚の記念にでも撮影したのだろうか。それは薄い冊子の中に閉じられていて、古さの割りに痛みは少ない。
 中には二人の男女。凛とした着物姿の長い黒髪の女性、そして和服の男が立っていた。おそらく隣の男が他界したタマエの夫なのだろう。それにしても目を引くのは顔立ちの整った黒髪の女性だ。いつだったか道で出会ったノゾミの姉だって美人なほうだろうが、とても彼女には太刀打ちできそうになかった。

「美人じゃないか……なるほど村長さんが求婚したくなるわけだ」

 ツキミヤは心底納得して言った。

「コウスケに美人だって言わせるなんて相当だよね。いやでも本当に綺麗だ。まさにオニスズメノナミダとでもいうのか……」

 目を輝かせ、誇らしげにナナクサは言った。

「オニスズメの、涙?」
「うん、すごくおいしい米なんだ」
「……へえ」
「いやぁ、いいもの見つけちゃったなぁ」

 彼はうっとりとして写真に見いる。

「風呂に案内するよ」

 穴が開くほどに写真を見つめるナナクサはしばらく使い物にならなさそうなので、ツキミヤは案内役を買って出る。約一人を放っておいて、二人は部屋を出た。ちょうど脱衣場の入り口に来たあたりでタオルを巻いた少年と鴉にばったり出会う。
「おー、コースケ帰っておったんか」と、すっかり馴染んだ様子でタイキは言ったが、ヒスイの姿を見た途端、

「あーっ! おまんは決勝戦のジャポニカ種! なんでここにおるんじゃ!」

 と、叫び声を上げた。

「ああ、こちらヒスイさん。ちょっと諸事情あって今日から彼も泊まることになったから」
「そうなんか。よくタマエ婆が許可したのう」
「ナナクサ君と二人してお願いしたからね」

 ツキミヤがにっこりと笑う。一瞬、タイキの肩に止まる鴉と目があったが、鴉はぷいっとそっぽを向いた。

「じゃあ僕は後で入るから。上がったら声かけてくれよ」

 なんとなく一人で入りたさそうな雰囲気を察して、ツキミヤはそのように伝えた。
 ナナクサが無断で入ってくるかもしれないから気をつけて、とも警告した。

「わかった。その時は焼き殺す」

 あまり冗談ではなさそうな目でヒスイが言って、伝えておくよとツキミヤは返した。
「ところで」と、ヒスイが尋ねる。

「まだ何か」
「ジャポニカシュとは何だ?」
「…………」

 たぶん外国産の米だろうとはとても言えなかった。
 


「提案があるのだが」

 あの時、祭の灯火を一望しながらヒスイはそのように言った。

「提案?」
「いまさらツキミヤが不正をしていたと騒いだところで、祭が混乱するだけだろう。それに正確に言うならば俺の目的は九十九を演じることではない」
「どういうことだい?」

 怪訝な表情をしてツキミヤは尋ねる。
 たしかに先程九十九を演じたいのかと問うた時に頷いたではないか。
 
「俺の目的は仮説を試してみること」
「仮説?」
「プロフェッサー……つまり俺の先生は、ホウエン中の伝承を研究していている。俺は先生に課題を与えられてこの村に来た。仮説を実際に試せるなら、俺自身が九十九になる必要は無い。条件を飲んでくれるなら役はくれてやる。報酬もいらない。ただあえて言うなら……」
「あえて言うなら?」

 今度はナナクサが尋ねた。

「泊まれる場所を紹介してくれないか。ここに着てからずっと野宿なんだ」



 りーりーと虫が鳴いている。
 響いていた太鼓の音もさすがに静まって、あたりを包むのは秋の虫の声ばかりだ。
 一風呂浴びたツキミヤは寝室の襖を開けた。
 寝室にはふたつの布団が敷いてある。
 そのうちの一つには先客が居て膨らんでいた。

「それにしても、君の提案を聞いた時は驚いたよ」

 隣の布団に潜り込むとツキミヤは先客――ヒスイに声をかけた。
 そう、誰が想像するだろうか。
 この村の中自分達と同じことを考えている人間がいるなどと。

「まさか君が"舞台本番に雨降を倒せ"だなんて言うとはね」





 同じ家の別の部屋。
 淡く灯った灯篭の隣で、布団に横たわり天井を見上げる老婆の姿があった。
 眠ろうとすればするほどに目が冴えていき、時間だけが過ぎてゆく。時計の秒針がざく、ざくと時を刻んだ。
 正直、二人の青年が連れてきた新しい客人のことなど今の彼女にとっては二の次だった。

 ――ねえタマエさん、ツクモ様が夢枕に立って、演じてほしいって云ったんだって言ったら信じてくれます?

 ツキミヤのその言葉がずっと彼女の胸につかえていた。
 考えまいと、忘れようとするほどにに記憶は鮮やかに蘇る。声が聞こえる。
 ああ、あれは夏の声、蝉の歌だ。
 もう何十年も前の夏の歌だ。



 女は狂気を口ずさんで道を行く。
 彼女はおそらく村で一番の美人であり、村長の息子をはじめ村の男達は皆が彼女を嫁にしたがった。
 けれど彼女は嫌いだった。この村も。この村の人間達も。

 燃えてしまえばいい、みんな燃えてしまえばいいのよ。
 そうしたら――。

 声は蝉の声に掻き消されて。村の人々には聞こえない。
 女は歌う。呪詛の歌を。
 言葉には力が宿る。それを言霊と人は呼ぶ。

「燃えろ、燃えろ、燃えてしまえ」

 その言霊を口にすると村の子ども達は大人達に殴られたものだ。
 そんなことを云ってはいけない。口にしてはいけない。
 口にすればやってくる。炎の妖がやってくる――

 夏の日の蜃気楼。
 ゆらゆら揺れる稲穂の海に彼女は炎の幻影を夢見ていた。
 もしこの稲の青が真っ赤に染まったなら。
 そんな幻想が頭に浮かんだのは去年の夏か、一昨年の夏だったか。
 それがいつしか頭から離れなくなっていた。

 燃えてしまえ。燃えてしまえ。みんなみんな灰になってしまえばいい。
 燃えてしまえばいい、みんな燃えてしまえばいいのよ。
 そうしたら――

「そうしたら私は自由になれるの」


  [No.19] (十二)緋色の追憶 投稿者:No.017   投稿日:2010/08/14(Sat) 10:12:35   58clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

(十二)緋色の追憶


 神が力を持つ為には信仰が必要だ。
 神は信仰と共に在り、信仰が在ればこそ神はある。
 例えば名前を呼ばれること。あるいは縁のある言霊を唱えること。口にされればされるほど神の力は強くなる。
 神に力を与えるのは人間の業なのだ。


 "彼"は久しく自分に縁が深い言葉と名が願いをもって口ずさまれるのを聞いた。
 繰り返し繰り返し口ずさまれるのを聞いた。

「私を呼んだか、娘」

 言霊を吐いた女はいつのまにか大社の前に立っていた。その場所は村中の信仰が集まる場所によく似ている。だが、何か空気が違う気がした。そもそも自分は先程眠りについたのではなかったのか。
 すると社の奥から何者かの声が響いて、娘を呼んだ。

「お前の思念は強力過ぎて耳に痛い。時代が時代ならいい巫女になったろうにこんな使い方しか出来ぬとは勿体無い事だ」

 その声に身体がぞくりと震える。
 娘には声の主が何者であるのか直感的に理解してしまった。
 声が続ける。

「もう一度私の名を、私の名を呼んでおくれ」
「妖狐、つく、も……」

 突如、目の前の中空に鬼火が現れる。炎は大きくなり、幾重にも枝分かれするとやがて獣の形をとり実体となって現れた。
 淡い青色に輝く毛皮。九本の尾。見開かれる血のような赤い眼。
 村娘の前に現れたのは十匹分の九尾の名を持つ炎の妖だった。

「いかにも、我が名は九十九」

 炎の妖として恐れられるキュウコンは嬉しそうに云った。

「お前の願いを叶えてやろう、娘」





 青年は大社の石段を登る。
 蝉の声がうるさいくらいに耳に届く。好みかあるいは怨念なのか。"この場所"のデフォルト設定ははいつでも夏だ。
 最後の石段を上がると九尾の妖が待ち構えていた。

「その様子だと首尾よくいったようじゃないか」

 色違いのキュウコンが青年に語りかけると

「フン、他人事だと思って」

 と、青年は悪態をついた。

「他人事などとは思っていないさ。お前が演じるのは私なのだから」
「あんなに練習があるなんて聞いていないぞ僕は」
「致し方のないことだ。素人を短期間でそれなり仕上げようというのだから密度というものは必要だろう」
「お陰でこっちは祭を楽しむ余裕も無い」
「それはお前次第だ。鬼火を連れし者よ。炎は暖を取ることも出来れば、命を奪うことも出来るように。すべては振舞い方次第だよ」

 無事に役をとった為だろうか、ツクモは上機嫌な様子だった。

「ただ、あえて苦言を呈するとすれば炎の舞台で雨を使うのは美しくない」

 どこで知ったのか妖狐は準決勝のことに言及する。
 ナナクサか、とすぐにツキミヤは理解した。夢の中の無意識とはいえ、余計な情報を与えるな彼は。そんなことを思いつつ、青年はちらりと妖狐を横目に見る。

「……やっぱり雨は嫌いかい?」

 雨。それは妖狐九十九を打ち倒した神の持つ名であり、業の名だ。
 天からもたらされた水は炎を打ち消し、妖狐の力を奪う。炎の妖に待っているのは敗北だ。
 青年は大社から見える風景に視線を映した。天気はカラリと晴れており、濁った雲は無い。風が吹いて青く背伸びした稲が海の漣のようにたなびいている。

「この土地に神の力で降らす水など必要無い」

 そのようにツクモが答えた。
 それは強い否定と拒絶を含んだ、憎しみの込もった言葉。
 その言葉が放たれると同時に、周りの空気に殺気が加わったように感じられた。弱く小さな鳥ポケモンならその空気に耐えられず飛び立ってしまいそうな。だが、むしろ青年の心は高揚していた。馳走を前に衝動は募るばかりだ。密度の濃い濃厚な負の感情を目の前にして影達も躍動せんとしている。
 けれども平静の面を被ったまま、彼は自身に取り憑いた影を精神力をもってけん制する。
 早まるな。まだ手を出してはいけない。ここは相手の土俵。存在の定義があいまいな夢の中だ。事がうまく運ぶ保証はない。奴が実体をもって現れたときに確実にしとめるのだ。それまでは手を出してはいけない。それまでは。
 もちろん、そのような駆け引きが青年の内部で行われていることなど彼は微塵も見せはしない。あくまで酔狂な協力者を演じ続ける。

「燃えよ、燃えよ、大地よ燃えよ」

 突然、ツクモは呪文のように呟いた。

「……?」

 今度は何を言い出すのだと言わんばかりに見るツキミヤ。すると、

「わからんのか。寝る前に台本くらい読んでおけ。一番最初にお前が詠う台詞だよ」

 ツクモが呆れたように言う。
 彼は詠った。炎の詩を。燃え盛る野の火の詩(うた)を。


 燃えよ、燃えよ、大地よ燃えよ
 燃えよ、燃えよ、大地よ燃えよ

 見よ、暗き空 現れし火を
 火よ我が命に答えよ

 燃え上がれ火 燃え上がれ火 燃え上がれ炎よ
 燃え上がれ火 燃え上がれ火 燃え上がれ我が炎
 我が眼前に広がるは紅き地平

 燃えよ、燃えよ、大地よ燃えよ
 恐れよ人の子 我が炎
 燃えよ、燃えよ、野の火よ燃えよ
 放たれし火 金色の大地に燃えよ


 稲穂の海にそびえる山。その上に立つ社から響く詩。
 それはかつての栄華。昔々の世界の光景。
 雨の神が現れる以前、人々はどのようにこの詩を聞いたのだろうか。
 田や畑は逃げることが出来ないから、ただ火の粉が降りかからぬようにと祈ったのだろうか。妖狐が火を放たぬように。

「かつてあの舞台の上で何十人、何百人の九十九がこの詩を詠ってきた」

 と、ツクモは語った。

「だが居ない。誰一人として居ない。神が雨降に替わってしまってから、我が炎の本質を真に解して詠ったものは誰一人居ないのだ」

 かつて妖狐は神だった。恐れの対象とはいえ、どのような形であれ、雨降の現れる以前、彼は神だったのだ。ここは彼の領土であり、九十九にとって雨降こそが侵入者。九十九に取って代わり、大社の名前を書き換えた偽者なのだ。
 後に妖狐は破れ、雨降がこの土地の神となった。神の座から降ろされ、妖怪と成り果てた九十九は収穫祭の間だけ復活する。だが炎はかならず雨に消されるのだ。幾年も幾年も、灯っては消される炎。野の火。

 けれど違う。今年は違う。
 雨は降らない。降らせはしない。炎は消えず、燃え上がる。

「私を忘れた者達に、私の炎を思い出させてやろう」

 放たれた火は祭の夜を赤く赤く染め上げることだろう。





 暑い。蝉はけたたましく鳴き続け、それだから余計に暑いと感じる。
 まだ若い村の娘は田に囲まれたあぜ道を進む。
 眼前には水を湛えた水田が広がる。どこまで歩いても水田だ。村の面積の大部分を占める水田周りを囲むのは青い山々ばかり。この光景を見ていて娘は時々ふと思うのだ。自分達は囚人なのではないかと。山里と云う監獄に閉じ込められて、ただひたすらに米を作り続ける囚人なのではないかと思うことがあるのだ。
 ただ囚人達はこの村の生活には満足しているのだと思う。幸い食べ物に困ったことがほとんどなかったからだ。ここは食べ物の豊富にある牢獄だったから。
 いつからこんなことを考えるようになってしまったのかを辿ってみれば、たぶんそれは村長の息子の家で見たテレビだった。それは村にはじめて来たテレビで、村人達は日が暮れると村長の家に集まったものだ。そこで娘は知ってしまった。山をいくつも超えた場所には別の世界があるのだと。山を越えた先に別の村や街がある。考えてみれば当たり前なのだが、百聞は一見にしかずという言葉があるように、それを視覚情報として得たことで実感してしまった。そこには泥臭い農作業とは無縁の生活を送っている人々が居る。そんな生活もあるのだということを娘は知ってしまったのだ。
 きっかけが欲しい、と彼女は思う。この村を出るきっかけが。
 蝉の声が絶えず鳴っている。彼女の前に伸びる舗装されていない道の先に一人の男がしゃがんで水田を見つめているのが見えた。歳はさほど離れていない若者だ。彼は娘が近づいてくると気がついたらしく声をかけた。

「おう、タマエか」

 娘が幼い頃から知っているその顔はどこか疲れていて、あまり景気のよい会話にはなりそうになかった。

「よくないん?」
「ああ」

 娘の質問に男は気落ちした声で答える。
 空に向かって青々と伸びる稲に目をやると彼はため息をついた。

「去年と同じだ。丈ばかりが伸びて肝心の実がつきやせん……」

 稲は瑞々しく見え、はたから見れば健康そのものだった。だが幼い頃から稲と向き合い、ずっと彼らを見つめ続けて来た彼にはそれが特異な、異常な姿に映った。風が吹き水田がざわざわと鳴っている。それは不吉な音色に聞こえた。

「むしろ状況は悪くなっとる。村全体に広がっとるわ。この分じゃあ、どこの家も収穫は望めまい。一昨年、去年以上の凶作になるだろう」
「あんたがそう言うのなら、本当なんやろうね」

 男を立てるわけでもなく、お世辞でもなくタマエが言う。彼は村のことならなんでも知っていたから。それは幼い頃に彼と駆け回っていたタマエ自身が一番良くわかっている。
 村中を駆け回った。ある時は山に登り、ある時は沢や溜め池でポケモンと戯れ魚を獲った。四季折々の花が咲くところを彼は知っていてよくタマエを連れて行った。村の大人達に言いつけを破って禁域に入り怒られたこともあった。時が経ちやがて男が家業を本格的に手伝いだしてからはなんとなく疎遠になっていたが……。
 水面に映る男の顔を見る。悔しそうな苦い顔をしていた。雨も水の量も十分、条件は整っている。それなのに。

「生き物の気配が無いと思わんか。アメンボもオタマもいやに数が少ないし、元気が無い。ポケモン達の姿もあまり見んしのう。五月蝿いんは蝉だけじゃ」
「そうかも、しれない」

 そこまで言葉を交わすと二人はしばし無言になった。
 水田に映った空の雲がゆっくり、ゆっくりと流れていく。生の気配が無い田に波紋は鳴らず、空はそのままの姿を映し、踊らなかった。

「……なあタマエ、キクイチロウとの縁談なんで断った」
「うちの勝手やろ。そんなん」
「なんで? 将来の村長の家に嫁に行けば、お前さんの両親もお前自身も安泰だろ」
「あんたに言われるこっちゃない。それにこんな時期にお嫁にいってなんになるん。去年は備蓄米があった。今年の分もなんとかあるとして、来年はどうなるか。村長の家だからって安心なわけじゃあない。……それに」
「それに?」
「そもそもキクイチロウは気に食わん。土下座されてもあいつの嫁だけはごめんだわ」

 彼女は迷い無くすっぱりと言い切った。
 ハハハ、と声を上げて男が笑う。タマエらしいな、と言った。

「ほんに昔っからお前は村の連中を手こずらせてばっかりじゃ」
「何よそれ」
「よくキクイチロウと喧嘩して泣かせてた」
「あん男が威張ってばっかりいるからよ」
「お前は天邪鬼だから喧嘩するなといえば喧嘩するし、喋るなといえば喋る、入るなといえば入る」
「そんなことなか」
「又の毛も生えんガキだった頃、呪いを試すんだ言うて、家のしゃもじ持ち出しておまんと一緒に禁域入ったことがあった。あんときは大目玉じゃった。俺は一晩納屋に閉じ込められた挙句に雨降大社の落ち葉掃きと雑巾がけ一週間やらされた」
「そうやったっけ?」
「おまんはすぐ帰されたけん、覚えてないんじゃ。言い出しっぺはそっちじゃったのに……」
「ふうん、なんでんなことやろうと思ったんかね」

 タマエがあまり覚えてなさそうに言う。けれどそれは彼にとって予想済みの反応であったらしく、仕方ないなという風に苦笑いしただけだった。

「とにかく、そんなお前が嫁に来いと言われて素直に行く訳が無い」

 若者はそのように総括した。

「けど、残念やな」
「何が?」
「てっきり俺は、お前が俺の嫁になりたいから蹴ったんだ言うてくれると期待しとったのに」

 白い歯をにかっと見せて彼は言った。

「シュウイチ、」
「なんじゃ?」
「あんたのその根拠の無い自信はどっから来るん?」

 タマエは呆れたように答えた。

「ご愁傷様。うちはこの村に留まる気ないんよ。今に出てってやるんやから」
「……そうか。寂しなるなあ」

 彼は本当に寂しそうに言った。けれども止めはしなかった。彼女が言い出したら聞かないことを誰より理解していたからだ。
 それに彼女は村一番の器量良しだ。たぶんそれは田舎の閉鎖空間にだけ通用するローカルなレベルではなく、村長の家で見たテレビに映る都会の女達にも決して見劣りしない。
 たまたま村にやってきた都会の若い紳士が見初めるなんて事は十分にありえる話だった。
 それに。
 それに、蓄えはあとわずかだった。村に残された蓄えは。
 ちびちびと遠慮するように食べているとはいっても、人がいる限りそれは確実に減っていき、いつかは底が見える時が来る。
 原因不明の稲の病。もしも来年も米がとれなかったとしたら。何人が村を出るかわからない。それはタマエの家も例外ではない。
 ここは食べ物の豊富にある牢獄というのは娘の論だ。だからこそ食うものがなくなれば脱獄者が出る。
 もう娘は村に出るきっかけをつかみ掛けているのだ。





「はーい、詠い直しー」

 雨降大社の集会場に声が響く。
 ぱんぱんと手を叩いて舞台演出は言った。

「ツキミヤさん、詠い方に怨念が込もってないわよ。そんなんじゃぜんぜん怖くないわ」
「はあ」

 メグミの指摘にツキミヤは冴えない返事を返した。

「村の外から来たあなたは知らないかもしれないけど、妖狐九十九はこの村では非常に恐れられた存在なの。いたずらばかりして言う事聞かない子には"九十九さ来てお前を焼いて食っちまうぞ!"っていうのが常套の叱り文句なくらいのよ。だから本番は小さい子が泣き出すくらいじゃないといけないわ」

 メグミはそのように妖狐九十九の恐ろしさを説明した。
 脚本の開始のト書き。早々に村人が一人焼き殺される。肉体を失っている九十九は焼き殺した村人の肉と骨を平らげて、人の形を手に入れるというのだ。それの姿が他でもない、ツキミヤ自身だというのが脚本の筋書きだ。
 おいおいツクモ、あんた人を食うことにまでなってるよ……青年は心中そんなことを思い、ほんの少しだが炎の妖に同情した。たしかにあれは野を焼き、田を焼く恐ろしい妖なのだろうが、たぶん人肉を好んで食う趣味は無いと思う。

「それと声も小さいわね。本番は仮面被ってやるのよ? ますます声が篭もるわけ。わかってる?」

 メグミはこの後にもマシンガントークを続けた。
 はじめて会った時にやたら舞台の話をされると思ったら関係者だったのか。どおりで出場規定に詳しかったわけだ。

「つまり妖狐九十九というのは――――で、――――だから――――という訳なのよ。わかった? ツキミヤさん」
「……精進します」

 言い返す言葉もなくツキミヤはやるせない返事をした。
 だから嫌だったんだ、と思う。食欲に任せてやってやるなんて本人の前で宣言してしまったが、やはりナナクサにやらせるべきではなかったのか。いやむしろ決勝戦でヒスイに負けておけばよかった。理由はよくわからないが、あいつも雨降を倒すつもりでいた訳で……。
 脚本を開き、青年の隣に座っていたヒスイは知らぬ存ぜぬを決め込んでいた。試合には勝ったが、勝負には負けたとはこのことではないだろうか。反則ワザまで使って勝ったというのに。
 それにさっきから、右斜め後ろのほうにやたらと暑苦しい視線を感じる。ぎろりと睨みつけると、集会場の縁側に腰掛けたナナクサがニヤニヤしながら稽古を見物していた。
 この野郎、覚えてろよと無言の圧力を彼に向ける。

「ツキミヤさん、余所見しない!」

 メグミが喝を入れる。

「ほー、あれが今年の九十九かいな」
「ずいぶんひょろい兄ちゃんじゃの。大丈夫か」
「さっそくメグミの尻に敷かれとるやないか」
「メグは鬼演出やからのー、ある意味九十九より怖か。かわいそうにのー」
「それにしても、綺麗な子やねー」
「なんでもタマエさんちば寝泊りしとるらしいぞ」
「へえ、あのタマエさんが人泊めるなんてめずらしかね」
「だからシュージば見に来とるのね」

 稽古を見物に来た暇な村の老人達が口々に感想を述べている。お願いだから、自分に聞こえないようにもう少し小さな声で話して欲しいと青年は思う。

「そういえば、雨降様は今年もトウイチロウなんか」
「ほんとじゃ。トウイチロウじゃ」
「すっと今年も勝ったんか。外のポケモン使いば手ごわいと聞くけんど村のもんも捨てたもんじゃなかね。さすがは村長のお孫さんじゃ。頼もしい限りじゃのー」

 村長の孫?
 その言葉に反応して、ツキミヤは雨降の役者を見た。舞台上に集められ、脚本を手渡された時に見ていたから顔だけは知っていた。そういえばどことなく似ている気がしないでもない。雨降大社の宝物殿で見た掛け軸の雨降図に似てなかなか体格のいい男だった。

「トウイチロウさんは去年もやっているもの。要領はわかってるわね。見本がてらやってみてくださらない?」

 と、メグミが言う。
「わかりました」と彼は答えた。
 彼は詠った。炎の妖を打ち倒す雨の神の詩。炎の詩と対を成す雨の祝詞を。経験者というだけあって太い声で盛大に謳い上げた。


 降らせ、降らせ、天よりの水
 降らせ、降らせ、天よりの水

 見よ、空覆う暗き雲を
 雲よ我が命に答えよ

 降らせ雨を 降らせ雨を 消え去れ炎よ
 降らせ雨を 降らせ雨を 消え去れ悪しき火
 我が眼前に広がるは豊かな田

 降らせ、降らせ、大地を濡らせ
 恐れよ妖 我が力
 降らせ、降らせ、野の火を流せ
 降らせ雨を 金色の大地を濡らせ





 じりじりと蝉の歌が鳴り響いている。
 雨降大社で宮司が杖を振るとお決まりの祝詞が捧げられた。
 収穫祭で毎年飽きるほど聞いている雨降大神命を讃える詩だ。
 だが、祈りの内容がかみ合っていないのじゃないかと彼女は思った。雨も水も十分にある。問題は稲の病気なのだから。

「雨降様、我らをお救いください」
「この村をお救いください」

 困った時の神頼みと云う。馬鹿になった稲の前に手も足も出ない村人達は連日家族ぐるみで雨降大社に押しかけた。この場に居ないのはシュウイチくらいだった。諦めをつけることもできず、田を駆け回って打開策を見つけようとしている。お手上げ状態を一番よくわかっているのは彼なのにだ。
 村人達はただ祈ることしか能がなかった。
 実がつかないのは祈りが足りないからだ。信心が足りないからだ。いつしかそのように妄執するようになっていった。
 下らない、とタマエは思う。

「収穫祭の神事を前倒しして執り行おう。稲が実をつけるように」

 息子を隣に従えて、村長が言った。
 稲が実をつけないから収穫祭の神事を前倒しか。うまいことをやるもんだ。ある意味タマエは村長の手腕に感心した。実りの無い収穫祭ほど村の首長の格好のつかないものはないからだ。

「おおそうじゃ」
「それがよい」
「そうしよう」
「野の火じゃ、舞台の準備をせい!」

 それはおかしな盛り上がりだった。
 救いの無い提案とわかっていてもそれにすがる。皆、今の現実を忘れたいからそれにすがる。
 村長の家にテレビが来て、毎日真新しい情報が入ってくる。それなのに村の人々は根本は何もかわらない。古臭い伝統とこの土地に縛られ続ける。
 娘の思いはますます強まった。ああ、こんな村早く出て行きたい。

「配役はどうする」
「そうやのう、雨降様はキクイチロウさんにやってもらうのがよかろう。この村をしょって立つ未来の村長だからのう」
「九十九はどうする」
「九十九か。こんな時期に人柱みたいなもんやな」
「誰もやりたがらないんちゃうか」
「だが、必要な役だ」

 村の人々が口々にいろんなことを言う中、キクイチロウが声を上げた。

「皆さん、それなら適役がおります」
「誰じゃ?」
「皆さんがこうして大社に集まられているというのに、一人だけどこかをほっつき歩いている男がいる……これは雨降様への我が村の守護神への冒涜だ」

 まるで演説するように彼は言った。
 まさか、とタマエは思う。

「なんてやつじゃ」
「けしからんのう」
「愚かな奴じゃ」
「だがだからこそ、妖狐九十九にはふさわしいと言えるでしょう」

 まさか。
 まさか、彼のことを言っているのか。

「彼を探し出してここへ。たぶん田んぼをほっつき歩いているはずです」

 違う。彼はそんなんじゃない。そりゃあ、多少空気の読めないし変人のきらいはあるが、彼はこの村の誰よりリアリストだ。考えも無く、神にすがるのではなく自身で解決策を見出そうとしているのだ。彼は強い。こんな状況になっても自分を見失わない。……愚か者はお前達のほうじゃないか。
 だが、娘の思いとは裏腹に群集を煽り立てるようにキクイチロウが叫ぶ。狐狩りをはじめる領主のように叫ぶ。

「シュウイチをここへ!」

 タマエの中で、何かが切れた気がした。





「……ひどい目にあった」

 空の色はとっくに暗くなっていた。
 もう散々だと言わんばかりに疲れきった顔をして青年は呟く。
 役者達はそれぞれの宿泊先に帰ってゆく。皆同じように疲れきった顔をしていた。
 集会場の壁に寄りかかるツキミヤとヒスイは、ナナクサを待っている。彼は襖の開いた大部屋の出口でメグミと何やら話し込んでいた。
 疲れていて何の話をしているのかまで耳に入らなかったが、メグミは相変わらずのマシンガントークでナナクサはやや圧されている感があった。昼間にあれだけ叫んだり、怒ったりしていたのに見た目に似合わずパワフルな女性である。もしかしたらタマエさんもあんな感じだったのかもしれないな、などとツキミヤは考えた。
 やがて集会場に彼女の妹が現れる。姉の手を引っ張ると外へと連れ出した。ナナクサに手を振って別れる。

「ごめんごめん、二人ともお待たせ」

 ナナクサが軽い足取りで歩み寄ると疲れ顔の二人を見下ろした。

「メグミさんって喋りだすと止まらなくてさー、ノゾミちゃんが来てくれて助かったよ」
「何の話をしてたんだ」
「別に。内容自体は他愛のないことだよ」

 ツキミヤが尋ねるとナナクサはそのように答えた。本当に関心の無い内容だったらしい。
"あの子自身はどこか村の人間とは距離をとっているんだ"
 青年なぜかタマエの言葉を思い出していた。

「とりあえず帰ってご飯を食べよう。そしてお風呂でさっぱり汗を流す」
「賛成だ」

 と、青年は答える。

「風呂に入ってさっぱりしたら、夜の特訓だ」
「!?」

 ツキミヤとヒスイは目配せする。
 互いに逃げ出そうとしたが、ツキミヤは右肩を、ヒスイは左肩をがっちりと肩をつかまれてあえなく御用となった。二人の両肩の間でナナクサが邪悪に笑う。

「二人とも今夜は逃がさないよ。特にコウスケはたっぷり稽古をつけてあげる」

 語尾にハートマークをつけんばかりに存分に感情を込めてナナクサは言った。
 敵はメグミにあらず。真の鬼演出はこいつだ。
 青年の耳にはナナクサの言葉が呪詛のようにしか聞こえなかった。





 タマエは田の道をゆく。
 青い稲穂の海の上に立つ社がだんだんと遠ざかってゆく。

「燃えろ、燃えろ、燃えてしまえ」

 娘は口ずさむ。呪いを込めた言霊を。
 もう嫌。もうこの村は嫌。出て行ってやる。出て行ってやるんだ。

 夏の日の蜃気楼。
 ゆらゆら揺れる稲穂の海に彼女は炎の幻影を夢見る。
 もしこの稲の青が真っ赤に染まったなら。
 彼女はついに気がついてしまった。自身の望み、自身の願いに。
 たぶん以前にも考えたことがあったのだ。けれどその時は忘れたのだ。
 そうだとも。すがるものがなくなってしまえばよい、いっそすべてが灰になってしまえば、この村から出て行ける、自由になれる。
 そうこれこそが私の望み、私の叶えたい望みなんだ。

 あれから五日ばかり経って、蝉の鳴り止んだ夜に神事は執り行われた。
 彼女が禁域に再び足を踏み入れたのはその前の晩のことだ。

 家から持ち出したしゃもじを握り締め、彼女は暗い山の道を行く。
 今ははっきりと思い出せた。あの時、自分がシュウイチと禁域に入った理由を。
 キクイチロウを呪おうとしたのだ。当時、子ども達の間でもっぱらの噂だった方法で。
 彼は舞台ごっこと称して、タマエの仲の良かった女の子のアチャモを、自分のミズゴロウで散々にいじめたのだ。炎のポケモンはみんな九十九の手下だ。俺が成敗してくれる。そう言って散々にいじめたのだ。腹を立てたタマエは妖狐九十九に頼んで、彼を懲らしめようとした。けれど一人で禁域に入るのが怖くて、シュウイチを付き合わさせたのだ。
 呪いの方法はこうだ。雨降様に供えるのと同じように九十九にしゃもじを供えるのだ。場所は禁域にある大きな岩だ。そこにしゃもじを供えて、望みを言えばよい。そこは妖狐九十九が力尽きた場所で、その岩は九十九の怨念で出来ているのだ――。
 だが、その時の呪いは失敗に終わった。岩を見つける前に大人たちに捕まってしまったから。

「……あった。本当にあったんだ」

 まるで彼女が来るのを待っていたかのように、それは月光に照らされて横たわっていた。
 苔むした岩。けれどそれは野ざらしにされていても、存在感があり、何かしらの力が込められていそうな岩だった。
 彼女はおそるおそる岩の上にしゃもじを乗せた。
 愚かだとは思う。結局自分も村人達と同じであって、神頼み――いや妖怪頼みをしようとしている。自分で火をつけることはできない。自ら手を汚す勇気が無いのだ。

「……ツクモ様」

 と彼女は呟いた。
 雨降に願うのと同じように手を合わせ、神の名を呼んだ。
 
「九十九様、九十九様、どうか田を燃やしてください。雨だけは降り、背の丈だけは伸びるから、皆希望を捨てきれないのです。皆が田から離れるにはもっと決定的な出来事が必要なのです」

 祈念も呪詛も人の願い。
 信仰のあるところに神は宿り力を持つ。

「燃えよ、燃えよ、大地よ燃えよ」

 彼女は呟いた。
 明日にシュウイチが詠うであろう炎の詩を。



 妖狐九十九よ。我が望み叶え給え。



 村に大火が起こったのは次の日の夜だった。
 巨大な炎が上がったのは、ちょうどシュウイチが野の火の舞台で詩の一行目を詠んだ時であったという。


  [No.20] (十三)二人の訪問者 投稿者:No.017   投稿日:2010/08/14(Sat) 17:51:59   58clap [■この記事に拍手する] [Tweet]



 不意に訪ねて来るものがある。
 黄金色に染まった田に風が吹く。風が吹いて吹き抜けて、それは大社へと上ってゆく。
 その来客は一陣の風を纏って、大社に舞い降りた。
 それはまだ大社の名前が九十九だった頃。

「ほう、お前が訪ねてくるとは珍しい」

 その姿を血のような赤い瞳に映して九十九が名を呼ぶ。

「白髭の翁よ」

 かの瞳に映されたのは両腕に風を起こす楓の団扇を持ったポケモンだった。
 足の先はまるで下駄の歯のように伸びており、獅子のように伸びた白い髪の間から、にょきりと耳が突き出している。妖狐の前に突き出されるは木の枝のように長く伸びた鼻。

「して、天狗の長が私に何用か」
「……別れを」
「何?」
「貴様に別れの挨拶をしに来たのだ。我が友九十九よ」

 それは気の遠くなるような遠い遠い昔のことだ。
 けれど、あの日のことを彼は今でもよく覚えている。雨の降りそうな天候の優れない日だった。
 大きな山々を隔てた隣の土地に在った歳経た樫の木。彼はこの日、妖狐に別れを告げにやってきたのだ。





 星屑が撒かれて夜空を彩っていた。
 夜が深くなり、穴守家の人間は皆眠りについている。
 とはいっても、使用人と来客二人は起きている訳だから、二対三で皆とは言えないかもしれなかった。提灯を持ったナナクサが家の玄関をそっと開けると、客人二人と共に抜け出した。
 提灯を先頭にして田のあぜ道を三人の影が歩いていく。

「どこに行くんだい?」

 と、ツキミヤが尋ねると

「穴守家の持ち物は僕達が泊まっている屋敷と田んぼだけではなくてね、この先に離れというか、別荘というか……まぁ、舞台の練習するには最適なところがあるんだ。近くに民家も無いから大声出しても大丈夫。たまに僕が掃除しに言ってる」

 提灯の反対の腕に持ったラジカセをぶらぶらと揺らしながらナナクサが答えた。

「……ここの村の農家は皆、このように豊かな生活をしているのか?」

 次に尋ねたのはヒスイだった。

「どういうこと?」
「君を雇っている家は相当に資産があるようだ。使い切れない部屋の数、二人暮らしには広すぎる浴場、離れまであるときている」
「これでも昔はもうちょっと人が居たんだよ」
「田舎の家ならあれくらいの部屋があってもおかしくはないだろう」

 そう言ったのはツキミヤだ。

「まぁ、風呂が豪勢なのは認めるけどね。ありゃどっかの旅館並だ」
「亡くなったタマエさんのご主人の意向だよ」

 ナナクサが答える。

「まぁでもそうだな。この村は収穫祭も手伝って今は潤ってるよ。だからどこの家も住む所に多少お金かけるくらいの余裕はあるんじゃないかな。その中でも穴守家は別格だと思う。……たぶん」
「別格?」
「タマエさん自身は倹約家だけど、あの家自体は結構資産家なんだよ」

 りりりり、と虫が鳴く。三人は緩やかな坂を上った。

「昔、苗の病気で不作が続いた時期があったってことコウスケには話したろ? 備蓄米はどんどんなくなるし、タネモミにする分でさえ危うくて。そんな中、いろんな種類の米を育てていた穴守家だけは無事だった。あの家がどうやって財を成したか後は想像に難くないだろ? だから、今でもこの村に植えられている苗の半分くらいは穴守家のところから出たタネモミの子孫なのさ。つまり収穫祭で振舞われる料理の半分は元を辿れば穴守家由来なの」
「ということは一昔前ならもっと……」
「そうだね。今でこそ村の外からいろんな品種が持ち込まれているけど」

 ナナクサの前で提灯の光が揺れる。
 その話を聞いてツキミヤはどこか納得していた。この村は今でこそ外からのものを受け入れるようになってはいるが、根っこのほうは閉鎖的で保守的であると思う。その中で一人だけ違う主張を通すのがどれだけ大変か。
 だが、村の人々が穴守の人間に向けている視線にさほど軽蔑や強い疎外は感じられない。せいぜいあの家には変わり者の婆さんがいるんだぜくらいの感覚である。

「なるほど、皆あの家に足を向けて眠れない」
「そう、恩があるんだよ。この村にある農家はみんな穴守家に助けられたんだもの。タマエさんの信仰が皆と違うって言ったってそうそう邪険にはできないよね」

 田の用水路で月が揺れている。木の板で橋渡しされたその場所を彼らは一人ずつ渡った。
 順番待ちの合間に青年は空に浮かぶ月を見ようと顔を上げた。村に着いた時より大きくなっている。野の火の上演ごろには満月になりそうだ。
 月は村を囲う山々を照らしている。昼間に見た紅葉も黒く鬱蒼と樹木の生い茂る山。耳を打つこの水音も元を辿れば山のほうから来ているのだろうか。

「……そんな訳で、偉大なる穴守家当主に挨拶をしていこう」

 ナナクサはラジカセを提灯を持つ手に移し変えると、空いた手で浴衣の袖に隠していた線香を取り出した。

「行く途中にお墓があるんだ」

 穴守家当主の墓があるという墓地は山に続く林と田の境目ほどの場所に寂しげにあった。
 そこには内と外をとを区切る柵など無く、実質どこからでも入っていけたが、二本の石柱が入り口となっているらしく、三人はそこを通って中へと入ってゆく。
 ナナクサが立ったのは墓地の端のほうであり、そこからは田がよく見渡せた。
「いい場所でしょ」と、彼は言った。
 ナナクサは線香に火をつけるとツキミヤとヒスイに渡す。三人はそれぞれ墓に線香を立てた。

「それでは、故アナモリシュウイチ氏に感謝を」

 三人は手を合わせ、目を閉じる。

「……ん、シュウイチ?」

 黙祷が終わってから、ツキミヤは妙な共通点に気がついた。
 たしかに墓標には「穴守周一」とある。

「そ、タマエさんのご主人で、タイキ君のおじいさんだよ」

 と、ナナクサが答える。

「そうじゃなくて、シュウイチって名前なのか。タマエさんのご主人は」
「そう、シュウイチ」
「ねえ、ナナクサ君、君の下の名前なんだっけ」
「シュウジだけど?」
「…………」

 ツキミヤはしばらく黙っていたが、やがてプライベートに突っ込む質問をした。

「ナナクサ君、君ってさ、もしかしてシュウイチさんの隠し子か何か?」
「はぁ? そんなわけないでしょ」

 ナナクサはあっさり否定する。

「僕に隠し通せると思うのかい?」
「あのね、僕はシュウイチさんに会ったことも無いんだよ。この村に来た時はすでに墓の中の人だったし」
「ははあ、つまり愛人に育てられた君は、父親の姿を一目みようとこの村にやってきた。だが、父はすでに……そして君はより父を知る為にアナモリの使用人となった訳か」

 ツキミヤがにやりと意地悪そうな笑みを浮かべる。

「違うって! だいたい何なんだよ。そのシュウイチさんの浮気前提みたいな発言は! 本人の墓の前だぞ!?」
「……資産家にはよくあることだな。万国共通だ」

 ヒスイがぼそりと言う。

「ふむ、かなり歳がいってからの子と思われる。老いても元気だったんだな」
「お前、財産を狙っているのか。穴守家は資産家だとさっき聞いたしな」

 ツキミヤが援護射撃して、ヒスイが物騒な発言をする。

「二人とも何言ってるの! シュウイチさんはタマエさん一筋だって! 小さい頃から隙あらばタマエさんを嫁にしようと虎視眈々……念願叶って結婚した後も、米のことになると目の色が変わる性質だからいつも田んぼをうろうろしててとても浮気するヒマなんか」
「なんでわかるんだよ。会ったこと無いんだろう?」
「……いや、その、勘?」
「勘かよ」
「と、とにかく! タマエさんとシュウイチさんを馬鹿にするんならたとえコウスケと言えど、許さないからね!」
「はいはい」

 おお、悪口を言われて腹を立てる範囲が一人から二人に増えたぞ。そんなことを考えながら青年は聞き流すように返事をした。

「じゃあ、彼の墓前に謝ってくれ」
「…………」

 鼻息を荒くしてナナクサが言うので、ツキミヤ仕方なく墓前で手を合わせ
「ごめんなさい、疑った僕が悪かったです」と、謝罪した。

「よろしい」

 まるでシュウイチ本人であるかのようにナナクサが言った。
 生真面目な奴……あんまり冗談を真に受けるなよ、とツキミヤは思う。
 少なくとも今の反応を見る限りでは、財産狙えるタマではないだろう。

「クワをかけたのか」

 再びヒスイがぼそりと呟いた。

「……ん、まあね。それよりヒスイさん」
「何だ?」
「それを言うならカマをかけた、だ」
「……覚えておく」

 言葉を間違えたことを恥じるでもなく、赤面して余計なお世話だと吼えるでもなく、彼は素直にそう言った。

「……それとツキミヤ、」
「なんだい」
「呼ぶときはヒスイでいい」
「…………わかった」
「ああっ、ずるい!」

 唐突にナナクサが割り込んでくる。

「ずるい?」
「コウスケ! これからは僕も呼び捨てでいいから!」
「なんだよいきなり」
「シュウジって呼んでくれ! いいだろ!?」

 彼はいかにも必死な様子で懇願してきた。

「……? 別にいいけど」

 何をムキになっているんだろうこいつは。そんなことを思ったが青年は承諾した。
 ふと故アナモリシュウイチの墓標を振り返る。五月蝿がっているだろうなと思った。

 ほどなくして二人は禁域の境界近くにまで案内される。そこにぽつりと立つ建物。穴守家の持ち物だと言う離れだった。ナナクサが定期的に掃除をしているせいか埃はさほど溜まっていない。襖という襖を開けばそこは三十畳ほどの広さとなり、練習をするには十分な広さだった。

「二人とも昼間の練習お疲れ様。けれど本番はこれからだよ。君達は昼間と違う脚本を演じなくちゃいけないんだから」

 片手に脚本を持ち、部屋の中心に立つ。

「昼は脚本通りの台詞を。夜は九十九の呪詛を」
 
 まるで昼間のメグミに取って代わったかのようにナナクサが言った。

「とりあえず二人とも声がまったく出ていない。腹式呼吸から始めよう。さあ、いつまで座ってるのさ。立った立った!」

 ナナクサにどやしつけられる形でツキミヤとヒスイが立ち上がった。

「腹から声を出す。あれにはコツがあるんだ。鼻の穴から息を吸うこと。そうすれば空気がお腹に入る。口からすうと胸に入る」

 ナナクサが鼻から息を吸うとアーと声を出した。
 アメタマ青いなアイウエオ、などと言い始めた。

「知ってたか?」

 と、ツキミヤがヒスイに尋ねる。

「中学の合唱コンクールでよく先生に腹から声を出せなんて簡単に言われたが、まったくやり方がわからなかった。なんだって教えてくれなかったんだろう」
「あいにく中学とやらに行ったことがないんだ。そういう話はわからない」
「……そうか」

 いわゆるトレーナーの十歳旅立ちコースだろうかなどと思案しながら返事をする。

「そこ! 喋ってないでさっさとやる!」
「……はいはい」

 二人は渋々とナナクサの声の後に続く。
 学校の文化祭じゃあるまいし、こういうことをやる日がくることになるとは思わなかった。
 夜の深い山里に声が木霊する。





 収穫期を迎えた田に不穏な風が吹く。
 色違いの妖狐が天狗に吼えた。

「どういうことだ、それは」
「どうもこうも無い。言葉通りの意味だ」

 天狗が重苦しい声で言う。

「去らなければならない。私はあの土地の神ではなくなったのだ」
「何を言っているのだ」
「私はもはや神では無い。さ迷う一匹のポケモンと成り果てた」
「何があった」

 妖狐は耳を張り、天狗の髪の間から覗く金色の瞳を見据えた。

「私は、我が一族は森の恵みを願い、根の下に水を蓄え、川が暴れぬようあの場所を守り続けてきた……」
「そうだとも」

 九十九は同意する。

「たとえ雨の無い年でもお前の治める土地で川が枯れることが無かった。お前は山の民の神。木を育て慈しむ森の化身がお前だ」

 睨み付けるように、けれど案ずるように目を向け問う。
 赤と金の視線が交差した。

「それが何故」
「より強大な神の使いと名乗る者達がやってきた。大勢の信奉者を連れてな」

 天狗は続ける。
 我らが土地が奴らが版図に飲み込まれた時に命運は決まった、と。
 
「我が一族の宿る神木が倒され、森の社は取り壊された。私の名が忘れ去られるのも時間の問題だろう」
「……なんということだ」

 山々を隔てているとはいえ、隣の土地。その土地の神が他所者に追い出された。
 そこで起こった異変はこの里を根城とする妖狐に大きな衝撃を与える。
 何代も何代もの間、そこに彼らは在った。森に棲み、守り、人間達に畏れられた天狗の一族が土地を追われたというのか。

「気をつけろ九十九よ。奴らは二大勢力。赤と青」
「赤と青……」

 その名前なら風の噂で聞いたことはあった。だが……それほどまでに、力のあった存在であったのか。天狗の一族が土地を追われるほどの。
 
「私の所にやってきたのは"青"だった」

 天狗は警告する。

「お前は炎の力を持って畏れられる者。"赤"が来たならうまく取り入れ。そうすれば残る道もあろう。だが"青"が来たのなら……」
「青が来たらどうしろというのだ」
「悪いことは言わない。戦ってはいけない。一族を連れて早々に土地を去れ」

 妖狐の毛が逆立つ。
 九の尾の一つがぴしゃりと地面を叩いた。

「この九十九に尻尾巻いて逃げろというのか」
「滅ぼされたくなければな」
「白髭よ、お前がそこまで腰抜けだとは思わなんだ。先祖から代々受け継いだ神聖な場所をみすみす見捨て逃げ出してくるとは」
「抵抗はしたさ。だが、あのまま戦い続ければ我が一族は壊滅しただろう」
「取り入るのも逃げ出すのも私はごめんだ」

 九十九が牙を剥き出して言った。
 くるりと向きを変えると大社の境内を見る。大社に供えられ、立てかけられた大量のしゃもじが狐と天狗の目に映った。
 稲が無事育つように、収穫できるように。願わくば多くの実りがあるように。
 しゃもじの首に刻まれているのは九十九の字。
 並べられあるいは詰まれたしゃもじの目方は彼の妖狐の力の大きさをそのままに表している。

「……そう言うだろうと思ったよ。お前は強い。炎の力をもってこの里に君臨するのがお前だ。お前ならば、あるいは……」

 天狗は無くした自身の場所を思い出していた。
 もう居ない。自分の名を呼ぶものはもう……
 改めて妖狐に警告した。

「だが、覚えておけ九十九よ。自分達こそが正しいと思っている人間共はどんな神よりも恐ろしい。奴らは何でもやるぞ。同じ色に染める為ならばなんでもやる。他の色が混じることを認めようとしないのだ」

 中津国の南に根を降ろす土地。その場所を人々は豊縁(ホウエン)と呼んだ。
 豊かな緑(みどり)と数ある縁(えん)を結ぶ場所。
 緑の地図に色が塗られる。赤い色と青い色。二つの色はぶつかり争う。緑多きこの大地により多くの色を塗ろうと。あわよくば互いの色を塗り潰そうと。緑の地図に赤と青が広がってゆく。





 こういうものは決まった型がある。僕が教えればコウスケもヒスイもすぐに出来るようになる。
 そのように論するナナクサの指導の下、特訓が続いていた。

「ふむ、声量はだいぶいい」

 ツキミヤの詠う炎の詩を繰り返し聞いて、ナナクサが言った。彼はほっと一息をつく。
 やはり彼はメグミ以上の鬼演出であった。声量が足りなければ拳で遠慮なく腹を押されるし、抑揚が違えば容赦なくどやしつけられ修正をかけられる。その様子は普段の態度からは想像できない激しさで二人を驚かせた。
 今や場を支配しているのは他でもないナナクサだった。墓地でからかわれていたあの時とは大違いである。
 思い返せば、あんまりに彼の要求が厳しいので、一度ヒスイとキレかけて、じゃあお前やってみせろなどと言ってしまったのがそもそもの間違いだったのだ。


「いいだろう、見せてやるよ」

 ナナクサはあっさりそう言った。
 土壁についたコンセントにプラグを差して、持ってきたラジカセにスイッチを入れる。そこから神楽舞の壮厳な音楽が流れ始めると、部屋の明かりをすっかり消してしまった。彼の持ってきた提灯の明かりだけが残って妖しく揺れる。部屋は一種の異空間へと変貌した。
 彼は和服の袖から扇を取り出した。扇を一振りする。鳥の翼のようにそれは開いた。音に身を委ね、ゆらりと揺れたかと思うと舞に転じた。昼間に見た雨降のトウイチロウに負けない威厳のある声が空間に響き渡る。

 燃えよ、燃えよ、大地よ燃えよ
 燃えよ、燃えよ、大地よ燃えよ

 遠い昔に雨降によって滅ぼされた炎の妖。その恐怖の対象が舞台の夜だけ蘇る。
 彼は詠う。赤く紅く大地を染め上げる炎の詩を。自身の恐怖を思い出させんと詠う。

 見よ、暗き空 現れし火を
 火よ我が命に答えよ

 燃え上がれ火 燃え上がれ火 燃え上がれ炎よ
 燃え上がれ火 燃え上がれ火 燃え上がれ我が炎
 我が眼前に広がるは紅き地平

 怨と震えるその響き。詞にこめられた念が鼓膜に届いて染み渡って、彼等はぞくりと戦慄した。
 九十九とはこの村で非常に恐れられている存在。舞台に九十九が現れたとき、村の小さな子どもが泣き出すくらいでなければならない――そうのように言ったのは昼間の演出メグミであったが、彼の演舞はまさにそれを体現しているではないか。彼のいくつにも結われ揺れる髪が九十九の尾のゆらめきのようにさえ映ったくらいだ。

 燃えよ、燃えよ、大地よ燃えよ
 恐れよ人の子 我が炎
 燃えよ、燃えよ、野の火よ燃えよ
 放たれし火 金色の大地に燃えよ

 土壁に大きく映し出された影が揺れ蠢く。
 妖狐は謳う。炎の詩、緋色の呪詛を。
 ナナクサはすべての台詞を一字一句丸暗記していたのはもちろんのこと、指先に至るまで完成された舞を披露してみせた。ここまで徹底的にやられてしまっては文句のつけようが無い。
 その手並みに呆けているうちに舞が終わって、開かれた扇の向こう側からナナクサの瞳が覗く。

「四の五は言わせない。ここにいる間だけは僕がルールだ」

 視線が二人を射抜いて云った。
 圧倒的な雰囲気に飲まれていた。彼らは異議を唱えなかった。



「やっぱり君にやらせたほうがよかったんじゃないか」

 夜の風が心地いい。猛練習から開放された帰り道にツキミヤが言う。
 後ろを歩くヒスイが無言の同意を返していた。

「言っただろ。僕じゃ選考会に出れなかった。なにより僕は君にやって欲しいんだ。コウスケ」

 ナナクサは夢枕に立った誰かと同じ台詞を吐く。
 まっすぐ行き先を見つめてツキミヤのほうは振り返らなかった。

「それにね、僕がいくら舞えて詠えても意味なんか無いんだよ」
「どういうこと?」
「僕自身は過去の人間の動きをなぞっているに過ぎないんだ。そこに思いや感情は無い。僕自身は空っぽだから」
「空っぽ?」
「そう」

 ナナクサはやはり振り返らない。
 提灯だけが行き先を儚げに照らし揺れている。

「だから中身のある人間にやってもらわないといけない。君のような人でなくちゃだめなんだ」
「君は時々おかしな理屈をこねるね」
「神楽は器だよコウスケ。神楽の中に、詩の中に感情が入るから舞は奉納となり、供物となる。だから、空の器に君自身の感情を入れて欲しいんだ。形と心の両方を得て、はじめて舞は完成する」
「……僕の入れる感情なんてロクなもんじゃないぞ」
「そんなことは無いよ」

 あいかわらず訳のわからない理由を言う奴だと思う。
 すると、

「ナナクサ、お前は野の火に出たことがあるのか?」

 と、割って入るようにヒスイが尋ねた。

「無いよ」
「それにしては、ずいぶん踊り慣れているようだったが」
「だって毎年見ているから。それこそ何十回もね」
「……何十回? ナナ……いやシュウジ、君がこの村に来たのって三年前くらいじゃなかったのか」

 タマエの発言を思い出してツキミヤが突っ込む。

「……練習を繰り返し見ていればそのくらいの数にはなるだろ?」

 と、ナナクサが返す。だが……
 それはおかしい、とツキミヤは思う。村長が言うには彼は普段雨降大社には近づかないはず。今年でこそ自分達が出演しているから出入りするようになっただけのはずなのだ。

「それよりコウスケ」

 ここに来てはじめてこちらを振り返った。

「なんだよ」
「やっと名前、呼んでくれた」
「ん? あ、ああ」
「嬉しいな」

 ナナクサはその時ばかりは本当に嬉しそうに言った。そんなことで喜ぶのも珍しいと思う。
 それよりどういうことなのか。なぜ大して見てもいないはずの舞をいともたやすく彼はやってのけたのだろうか。何十回と見る必要が無い、数回見れば覚えてしまえるのだと言われてしまえばそれまでだが、そんな特殊な能力を持った者がそうそういるとも思えなかった。
 いつのまにか天真爛漫な外ヅラに騙されて、彼という人間を見くびっていたのではないだろうか。雇い主のタマエでさえもナナクサの素性はよく知らないという。青年は認識を改めた。彼もまた面を被った演者の一人であるのだと。
 それに不可解なのは、彼だけではない。ヒスイもだ。舞台本番に雨降を倒すという条件を提示してから、彼はそれ以上を語ろうとしなかった。こちらの行動に特別異議を唱えるでもなく、黙々とついてくるその様子はある種不気味でもある。
 尤も、隠し事があるのは僕も一緒だけれどな……と青年は頭の中で呟いた。

 "舞台の筋書きを書き換える"

 その不安定な力の下に三つの分子はつかず離れず結束している。
 暗い道中に三人の足音が静かに響く。

「……あれ?」

 それから道をだいぶ進んだあたりで突如ナナクサが声を上げた。

「どうしたんだ?」
「家の灯かり、ついてる」

 彼はタマエさんもタイキ君も眠っているから消してきたはずなのに、と呟いた。
 青年は虫の鳴く暗いあぜ道の向こうを見る。その先には確かに小さな灯かりが見えていた。





 空が紅い。沈みゆく陽が大地を照らしている。
 夏が過ぎ、緑から黄金色に変わった稲穂の群れを夕日が染めている。
 その稲穂の海の中にある小高い山の頂上に立つ大鳥居。その下に伸びる二つの影の主達はその下に広がる土地を見渡した。

「見ろ白髭、ここから見降ろす景色は格別だろう」

 風が吹く。染められた稲の海がうねっている。
 少し影を落とした昼間とは違う波の色。だんだんと夜に染まりゆく合図。
 田のあぜ道を六尾の狐が二匹、三匹と走ってゆくのが見えた。

「特に夕刻はいい。私が二番目に好きなのがこの時刻の風景だ」
「二番目に?」
「そう二番目だ。一番は……お前なら尋ねずともわかっているだろう?」

 天狗は九十九にちらりと視線を移す。
 田を吹き抜ける風にたてがみが煽られたなびいている。
 赤い赤い血の色のような瞳は真っ直ぐに地平を見据えていた。

「……ああ、そうだな」

 と、一言そのように天狗は答えた。
 それは詩に詠まれた風景。炎の詩に詠まれる紅き光景だ。

「……お前の心は変わらないのだな、九十九」
「当たり前だ」
「そうだろうな。まあお前ならばそう言うとわかってはいた」

 親だろうか、あぜ道を走っていた六尾の狐たちはその先に立っていた九尾の狐の懐に飛び込んだ。ぐるぐると足の下を駆け回る。

「そうとも。ここから離れて生きるなど考えられぬ」

 静かな声で、けれども確かな意思を込めて、九十九は云った。

「お前の色がまだ白くて、尻尾が一本だったころから知っているが、生意気になったものだ」

 九十九は長。この地を駆ける六尾と九尾の長。
 天狗は知っている。彼は尾が九になる前から九十九を知る数少ないポケモンだ。尻尾が二又になり三又になった頃、彼の色の違いは他と顕著になりはじめ、六尾として落ち着いた頃にはすっかり目立つ存在になっていた。やがて石の力を受け成獣となり、九十九と云う名で呼ばれるに至るまでそう時間はかからなかった。
 百の六尾と十の九尾を率い、豊かなこの地を闊歩する、神。

「渡さぬ。たとえ滅されたとて我が炎は消えず」

 瞳の赤が揺らめく。
 ふっと天狗が笑った。

「お前には余計な忠告だったようだ」

 たんと地面を踏み鳴らす。ひゅうっと一陣の風が舞った。

「行くのか」
「ああ、皆を待たせている。長居をしたな」
「そんなことはないさ」

 風が渦を巻く。天狗の長い髪が舞い上がった。

「良き旅を。風が向いたならいつでも来るといい、我が友白髭よ」

 呼ばれたその名。
 それが天狗の内に重く重く響き渡った。

「さらばだ。我が友九十九よ」

 巨大な風が吹く。
 山の木の葉を大きく巻き上げて、風の去る音と共に天狗は消えた。
 その身体はもはや地上に無く、社のある山がどんどん小さくなっていくのが見えた。
 視界に一面に広がる黄金色の地。
 沈みゆく陽に染まる大地。
 彼はもう米粒ほどになった妖狐を見て呟いた。

「先程お前が呼んだ名が、私の名が呼ばれる最後やもしれん」

 虚空に声が木霊する。九十九よ。炎を司る六と九の尾の長よ。我が友よ、と。
 九十九も白髭も名づけられた名。名づけられた神の呼び名。

「願わくば、その名が呼ぶ者が私で最後とならぬよう」

 風を纏って友は去った。
 それが白髭と呼ばれたダーテングと九十九と呼ばれるキュウコンの今生の別れとなった。





「何かあったのかもしれない」

 そう言ってナナクサが穴守家へと駆けて行った。二人もつられる形で彼の後についてゆく。
 近づいてみて異変に気がついた。門の前に停めらている一台の車があった。この村の風景にはあまり似つかわしくないメタリックな色のスポーツカーだった。

「誰か来ているらしいな」

 と、ツキミヤが言うと

「こんな時間にこの家に上がりこむなんて、いい度胸じゃないか」

 明らかに機嫌の悪い声でナナクサが言った。
 玄関に至ると、ブランド物と思しき靴が無造作に脱ぎ捨てられており、ますますナナクサの怒りを買った。
 家の奥のほうから何やら話し声が聞こえてくる。
 ナナクサはつかつかと廊下を進み、声の漏れる襖の戸をばっと開いた。

「一体誰ですか。こんな時間に!」

 襖を開いた先に居たのはタマエと痩せた無精髭の中年の男だった。
 ちゃぶ台を中心にし、向かい合って座っている。

「……お前は」

 そうナナクサが言いかけるとタマエが口を開いた。

「ああ、シュージは会うのがはじめてだったねぇ。こいつがお前が来る前に自分の息子をほっぽって、ほっつき歩いていたうちのバカ息子さ」

 男はひじをついていた腕を降ろす、じろりとナナクサを見た。
 高級そうなスーツに目に痛い色のワイシャツ。腕に金色の時計が光る。

「…………これは、タイキ君のお父さんでしたか。失礼しました。この家で働かせてもらっているナナクサと申します」
「フン、こいつに改まった挨拶なんざ不要さ。ホントは家の敷居をまたがせる気も無かったんだけどね。こんな時間に押しかけて来よって、気がつけば座り込んでたわ。まったく昔から常識ってえのが無い子だよ」

 深夜の訪問者にすっかり目を覚まされてしまったタマエは、吐き捨てた。

「そーゆー母ちゃんもスミに置けないね。こんな若い子をたくさん雇って。やっぱり寂しいんじゃないのかい?」

 男は白い歯をにかっと見せて老婆に言った。視線を廊下側に移す。

「……? 雇っているのはシュウジ一人だが? ……ああ」

 タマエは部屋の前で立ち往生している二人の青年を見て納得した。
 やっぱり近づかないほうがよかったんじゃないかと互いに目配せしている。
 
「残り二人は客人だよ。シュージの友達さ。今は祭だからね。見物に来たのさ」
「……ツキミヤです」
「ヒスイだ」

 二人は気まずそうに名を名乗る。

「まぁ、そんなところに立っているのもなんだ。寝るか入るかするんだな」
「それならお茶でも淹れてきましょうか」

 そのようにナナクサが提案するとタマエは頼むと答えた。



「そうか。今は収穫祭の時期なんか。懐かしいの」

 そう言ってタイキの父は出された茶をずずっとすすった。

「さすがにこの時間じゃ明かりも消えとるけん、気付かなんだわ」
「…………」

 狭いちゃぶ台を五人の人間が囲っている。おかしな光景だった。
 やっぱり寝たほうがよかったろうかなどと思いつつ、茶を淹れてくると言ったナナクサがこの場に留まってくれと言っているような気がして、ツキミヤは輪の中に入ることにした。ヒスイは黙って同席した。

「へえ、にいちゃん、ツクモさやるんか。お前さんも物好きやね」
「え、ええ……」
「あれやろ、お袋の差し金やろ。お袋の九十九様好きは有名だからのー。ワシの小さいころなんかお前の母ちゃん狐憑きだとかよう言われたもんや」

 そう言って彼はタバコに火をつけた。
 ふうっと煙を吐き出す。

「まあワシはお袋の信仰どうこう言う気ないけどなあ。狭い村やし、他に話題もなかったんだと思うわ。みんな妙に信心深いというか。視野が狭いというかね。だからワシ小さいころから決めとってんねん。大きくなったらこの村の外に出てやるんだってな」

 そんな昔の思い出話を一通り語ると彼は、灰皿にタバコを押し付けた。

「でだ母ちゃん。さっきの続きやけど。ワシもようやく落ち着けそうやねん。ミナモシティに家建てるけん、一緒に暮らさへんか。お母ちゃんももういい年や」
「三年も連絡よこさんで、タイキさほっぽって、今更何を言い出すんだか」
「……タイキんこつは悪かったと思っとる。あいつにも寂しい思いばさせてきたばい。だから尚んこと」
「サナエさんばどうした」

 切り込むようにタマエは言った。
 タイキの母の名だった。

「……あいつとは今だ別居中や」
「話にならん」
「サナエかて落ち着いたら戻ってきてくれるわ。確かに今までは家をあけてばかりやった。んだとも事業も軌道にのってきた。これからは家族との時間も作れるばい。母ちゃんにも来てほしいねん」
「……お前は私を金のかからん子守くらいにしか思っておらん」
「そんなことはなか」

 タイキの父と祖母の応酬が続く。
 取り残された使用人と客人二人は黙って耳を傾けるのみだ。
 やはりさっさと寝ればよかったとツキミヤは思った。明日も舞台の稽古がある。

「おまんは私にこの土地を捨てろと言うのかい」
「そうは言うておらん。時々なら遊びに来たらええやんか」
「田が荒れる」
「お母ちゃんはもう歳や。いい加減農作業なんか引退せんと。隣の農家にでも貸しとっららええねん」
「つまりわしに死ねというんやな」
「そんでそうなるねん! いつまでも意地張ってからに!」

 タイキの父は声を荒げた。ばんとちゃぶ台を叩いた。
 だがタマエも負けてはいなかった。

「おまんはわかっとらん! 苗を植えるいうことは息するのと同じじゃ。稲を育むつうことは生きるつうこっちゃ。わしゃあん人からそれば学んだ。おまんはあん人の子のくせになぜそればわからんのじゃ!」
「わからん。こげん田舎に閉じ込められて、果てた親父の気なんか知れんわ。姉ちゃん達かて誰一人ここには残らなんだ」
「五月蝿い! わしゃ決めたんじゃ! あの時に誓ったんじゃ! ここで生きていくと決めたんじゃ!」

 悲鳴にも似た叫び声が木霊した。
 飛び交いすれ違う悲しみの入り混じった怒りの感情。それがびりびりとツキミヤの影に響いた。
 ちらりとナナクサに目をやった。正座したまま黙っているが、膝に置かれた手が震えている。相手が雇い主の息子、タイキの父親でなければとっくに食ってかかっているに違いなかった。

「……私の気持ば変わらん。ここから離れて生きていくことなど考えられん。ここにはあの人の墓だってあるんだ」

 客人たちの前で声を荒げたことを恥じているのかもしれなかった。さっきとは打って変わって落ち着いた声で、けれども確かな意思を込めて、老婆は言った。

「ここば離れん。この土地に生きて、この土地で枯れるんじゃ」

 そこに青年は地に深く根を下ろした大樹のような揺るがぬものを感じ取った。
 それは少なからずタイキの父にも伝わったらしい。彼は諦めたようにふうっとため息をついた。一言、

「もうええわ」

 と言った。

「母ちゃんが折れんことはわかったわ。これ以上は言わん。けれんども、」
「けれんどもなんじゃい」

 まだ何かあるんかと言わんばかりにタマエが尋ねた。

「タイキは連れてくで」

 老婆が凍ったように見えた。

「当たり前やん。俺の子やで」
「お前……三年もほっぽといて、今更何言っとるんや」
「母ちゃんはタイキばこの家継がせたいかもしれんけど、そうは問屋が卸さんわ。あいつかてこんな田舎にいつまでも居たいとは思っとらん」
「あん子がそう言ったわけじゃあるまい」
「聞かんでもわかるわ」
「お前はいつでも勝手に決めよる!」

 再び場が険悪な雰囲気に包まれた。言うなればこの話題はかまどに投げ込まれた真新しい薪だった。紅い光を宿すかまどの墨はまだ十分な熱を帯びていている。ひと扇ぎすれば簡単に燃え上がるだろう。

「お二方とも落ちついてください」

 そんなかまどの墨を踏みつけて砕き、熱を奪うようにしてナナクサは割って入った。

「僭越ながら僕の提案を聞いてはいただけないでしょうか」
「なんじゃ」
「なんだ」
「お二人の希望はわかりました。けど当の本人を置いてけぼりにしちゃいけないと思う」
「…………」
「……フン」

 穴守家の視線が集中している。だが彼は動じる様子も見せず淡々と続けた。

「彼はたぶんお二人が思っているよりずっと大人です。もうすぐ十歳だ。十歳といえば正式にポケモン取扱免許を受ける、ある意味大人として扱われる年齢。カントーのとある田舎町では最初のポケモンを貰って当たり前のように旅に出、三年は帰らないといいます。いかがでしょう。ここは彼に決めてもらうというのは」

 ナナクサは老婆と男を見る。対照的な反応をしているのが見て取れた。

「……シュージ」
「いいじゃないか。君は話がわかるねナナクサ君。ワシは構わへんで。なあ、お母ちゃんここはひとつそういうことにしようや。お互い恨みっこなしや」
「…………わかった」

 観念したようにタマエは承諾した。

「ではここにいる客人二人には証人になっていただきましょう」

 ナナクサはとんとん拍子に話を進めた。
 ツキミヤとヒスイがお互いの顔を見る。この為に残したのかと思った。
 だがツキミヤは思う。この条件、不利なのはタマエのほうだ。それは二人の反応を見ても明らかだった。シュウジ、君はタマエさんの味方じゃなかったのか。何を考えている。今までのあれは全部演技だったとでも言うのか。……そう思わせてきたのだとしたら大した役者だ。
 シュウジ、すべて計算しているのか。廊下に微かな足音が聞こえた事に気づいてそう言っているのか。
 青年の影は先程から察知していた。青年の影は見ていた。二人の争う声に気がついて、襖の裏で話を聞いていた当の本人――アナモリタイキに。
 ナナクサという役者の被っていた面がとられたような気がした。

「回答期限は祭が終わるまででどうでしょう。お客人の都合もありますし」
「よっしゃ。それで行こう」

 タイキの父が威勢のいい声を張り上げる。
 早足気味の小さな足音が部屋から遠ざかっていった。


  [No.21] (十四)恵 投稿者:No.017   投稿日:2010/08/14(Sat) 17:53:03   48clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

(十四)恵


 彼女にはよく声がかかった。村に住まう者に彼女が頼み事をしたのならたいてい聞き入れてもらえた。しっかりとしていて器量もよい。村中の大人たちは嫁に貰うなら彼女にしなさいと息子達に言い聞かせたものだ。
 彼女は模範的な村人で、近頃には珍しく村に留まる事を決めている数少ない若者だった。だから村人の、特に高齢の者達は彼女を可愛がったし、大事にした。
 それは彼女なりの処世術だった。彼女はたぶん本能的に知っていたのだ。村とは、共同体とは彼らに素直なものを受け入れ、手厚く比護の下に置いてくれるものだと。
 そんな彼女は五年前、村の神事である野の火の演出を異例の若さで任された。
 それはさながら、昔ならば巫女の役割とも言えた。
 以来、彼女は思うままに舞台を、神事を操ってきたといってもいいだろう。

 私は選ばれた。
 節度さえわきまえれば、やりかたさえ間違えなければ、この村で自分に出来ない事など無い。
 いつしかメグミはそう思うようになっていた。

 けれども、そんな彼女にも一つだけ思うままに出来ない事があった。





「見違えたじゃないの。ツキミヤさん」

 青年に台詞の一節を詠ませ、一通りの動きを見てメグミは感嘆の声を上げた。

「昨日はあんな調子だったから今年はどうなるかと思っていたけど、これなら大丈夫そうね」
「それはどうも。昨日は相当にしごかれましたから」

 今年の九十九である青年はにこやかに返す。
 そうね。どうやらしごいたのは私だけじゃないみたい、とメグミがちらりと部屋の隅を見た。よくお見通しで、と青年が苦笑いする。
 身体が痛い、と彼は思った。歩いているとか普通の動作をする分には問題が無いのだが、劇中のとある動作になると鈍く痛む。
 思えば研究室を飛び出して旅立った当初は一日歩いただけで翌日はこの痛みに悩まされたものだったが、身体は順応するものでやがてそれも無くなった。それなのにたった一晩でこのザマとは。この程度で筋肉痛だなんてまだまだだ。

「それでは討伐のシーンに入りましょう。出演者のみなさん、外に出てください」

 討伐のシーン。
 すなわちそれは妖狐九十九が雨降大神命に討たれるシーンのことである。舞台の出演者のほとんどが入り混じり、ダイナミックに躍動する本舞台のクライマックスにして最大の見せ場……であるらしい。
 出演者達はぞろぞろと外に出る。そこには野次馬な見物者達が待ち受けていて村長の姿もあった。どうやら主役である孫の勇士を見に来たらしい。まったく、ヤドランに噛み付いたシェルダーじゃあるまいし、楽しみは本番までとっておけばいいのに。そんなことを青年は考えたのだが、よく考えてみれば自分にもしっかり噛み付いているシェルダーがいるのだと思い出して、少しだけ今年の雨降に同情した。
 ナナクサはぐっと両手の拳を握って負けるなコウスケと言わんばかりに頷いている。勘弁して欲しいと思った。

「みなさん、モンスターボールはお持ちになりましたか」

 メグミが確認をする。

「雨降の部は上手へ、九十九の部は下手へそれぞれ分かれて。選考会で使ったポケモンを出してください」

 雨降と九十九、両陣営の役者達が次々にポケモンを出してゆく。いつの間にかツキミヤの横にもカゲボウズが現れていた。水と炎のポケモン達。青い色が多い雨降陣営。赤い色の多い九十九陣営。それぞれのタイプの体色が映えて、両陣営は対照的な色合いになり、向かい合う。
 ここで初めてトレーナーを勝ち抜かせた意味が明らかになった。このシーンでは形式的、擬似的であるにしろポケモンバトル形式がとられるのだ。ある程度のレベルにおいてポケモンを操れるものでなくては舞台が壊れてしまう。優秀なトレーナーを選んだのはこのシーンの為だった。
 主役は一番最後に来る。そう言わんばかりに相手の大将がモンスターボールに手をかけたのは雨降陣営があらかたポケモンを出し終わってからだった。見物人達がおおっと声を上げる。
 高そうなボールから繰り出されたポケモン、それは立派な甲羅を背負っていた。そしてそこから伸びるのは大量の水を噴射できる大砲。

「カメックス…………か」

 ありがたくない顔をしてツキミヤが呟いた。自分の部の決勝戦で手いっぱいだった彼はキクイチロウのポケモンまではノーマークだった。
 カメックス。この村の守護神たる雨降の名に相応しい屈強なポケモンだ。わざと負けるにはこの無く都合のよい相手。だが、勝ちを取りに行くのならば厄介な相手だった。
 甲羅の割れ目を探すようにじいっと自らのポケモンを観察するツキミヤの視線に気がついて、キクイチロウはフンと笑う。だがその視線には去年の役者とは明らかに違う意思が宿っていることにも気がついていた。

「今年のは少しは骨がありそうじゃないか。なあ?」

 同意を求めるように自らのポケモンに言った。
 水と炎。どちらが有利かなど明らかだ。そして舞台の結末は決まっている。いわばこれで出来試合。だが……

「油断するなよ」

 と言い聞かせた。
 決して足元を掬われてはならない。神は妖に完全勝利しなければならないのだから。

 メグミが説明した舞台の筋書きはこうだった。
 両陣営のポケモンバトル勝ち抜き戦のような形で、討伐シーンは進んでいく。
 固有の名前を持たぬ役者達は一対一、二、三技を繰り出しただけで、入れ替わるように退場していく。そのうちに対峙する人数が増えていき、総力戦の様相を呈してゆく。水が飛び交い、炎が舞う。
 もちろん、両者には相性の差がある。水の力を使う雨降陣営に、炎を使う九十九陣営は次第に圧されてゆくことになる。が、そこにツキミヤ演じる九十九が現れ、圧倒的な炎の技をもって雨降の臣下達を一斉に蹴散らすのだ。
 そして、トウイチロウが扮する雨降が現れる。最後は雨降と九十九の一騎打ちだ。
 激しい技の応酬、そして詩の応酬が幾度か繰り返され、最終的には雨降が勝利。妖狐九十九は舞台から崩れ落ちるように退場。
 九十九を打ち倒した雨降は勝利の舞曲を高らかに舞い謳う。彼は五穀豊穣と村の繁栄を祈り舞い踊る。音楽の盛り上がりと共に舞台は終幕を迎える――。



「疲れた?」と、ナナクサが尋ねる。
「ああ、疲れた」と、ツキミヤが答える。
「ただバトルするのとは訳が違うな」と、ヒスイが感想を述べる。
 三人は賑やかな屋台を練り歩いていた。
 あいかわらずこの通りは賑やかだった。前夜祭で見た男達が大食い大会をしていた舞台では、ゴクリンにマルノームといったいかにもよく食べそうなポケモン達が並び、あの時見た男達と同じようなことをやっていた。どうやらトレーナーがしゃもじでご飯をよそってやるというルールらしく、チームワークも試されているようだ。くだらないことをやっているなぁとツキミヤは思ったが、こういうことをやるのが祭の醍醐味と言えるかもしれなかった。
 出演者にとって唯一の楽しみは昼間に一時間与えられた休み時間だ。この間に屋台で料理を貰うなどして彼らは食事をとったり、体を休めたり、思い思いの時間を過ごすのだ。さて、今日はどこでどんな料理を貰おうか。ツキミヤはそんなことを考えながら屋台のあちらこちらから上がる湯気を見ていた。ところが三人の先頭を行くナナクサは立ち並ぶ屋台をことごとく無視してどんどん人気の無いほうに歩いていく。

「おいおい、会場を抜けてどこに行こうって言うんだい」

 ツキミヤが尋ねる。
 すると、ナナクサは

「屋台の料理も食べ飽きただろう? 今日はとっておきの所に連れて行ってあげるよ」

 と言った。

「この先に何かあるのか?」
「まあ、黙ってついてきなって」

 ナナクサは得意げにそう言うだけで詳細を話そうとはしなかった。
 会場から五分ほど歩いたその場所は村の田んぼ田を二分するように川が流れていた。村の西のほうにそびえる山々を指差してナナクサは、川のはじまりはあの山々にあるのだと説明した。鬱蒼と茂る木々は水をしっかりと蓄えていつも適量の水を村に送り込んでくれるのだと。
 ナナクサは反対側を見る。彼らの立つ少し下流のほうに川に寄り添うように長屋が立って、水車が回っていた。

「今日はここで昼食をいただくとしよう」

 赤茶色い染料で染まった暖簾を潜ると川をバックにした広い座敷にぽつぽつと客が座っておりこちらを見た。おお、あんた達も来たのかと言っているかのような暗黙の了解がそこにはあった。
 ナナクサはさあこっちこっちとせかすように真ん中の席に二人を座らせる。

「で、何を食べさせてくれるんだい」

 そのようにツキミヤが尋ねると

「ここのメニューは一つだけだ」

 とナナクサは答えた。

「ああ、ちょうど店長代理が来たからさっそく注文をとるとしよう」

 長屋の奥のほうを見る。三人の見る先になんだか見覚えのある少年が居て、近づいてきた。
 さっきから黙っていたヒスイもすぐに気がついた様子だった。

「タイキ君じゃないか」

 そのようにツキミヤが口に出す前に向こうも彼らに気がついたらしく

「なんだ。コースケにシュージ、それにヒスイもきておったのか」

 タイキが頭に手ぬぐいを巻いた姿で彼らを出迎えそう言った。

「やあ、タイキ君。朝から稽古でね、コウスケ達は腹ペコだそうだよ。例のあれ頼む」
「あれじゃな。ちょうどいい所に来たのう。今ちょうど新しいのが炊きあがったとこじゃ」

 そう言って彼はそそくさと奥の厨房のほうへ戻っていった。

「祭の手伝いってこのことだったのか」
「そうだよ」

 ナナクサが肯定する。

「ここは知る人ぞ知る穴守家の出店ブースなんだよ。といっても最近は祭で配る分とたまに自分の家で食べる分しか作らないから、ここのお米が食べられるのは本当に祭の間だけなんだ」
「タマエさんもいるのかい?」
「たぶん奥で料理してるんじゃないかな」
「なるほど、なんだか"らしい"な」

 ツキミヤは選考会の夜に精米機を動かしていたタマエの姿を思い出していた。あれはたぶんこの為の仕込だったのだ。

「ちなみに品種はオニスズメノナミダ。味は抜群だれど生産者泣かせの米でね、下手を打つとと本当に雀の涙程度の量しかとれない。六十数年前の凶作の再現さ」
「ここもあの家の持ち物なのか?」

 ヒスイが茅葺の天井に見入りながら尋ねると「まぁ、そんなところだね」とナナクサは答えた。
 金色に染まった水田を背に川の水は穏やかに流れる。高く上った太陽に水面が反射してキラキラと輝いた。その様子をなんだかナナクサは懐かしそうな面持ちで見つめている。
「何かあるのか?」と、ツキミヤが尋ねると、

「昔さ、タマエさんが物置で見つけたあの写真よりも若かった子どもの頃、シュウイチさんとよく魚を獲ったんだ」

 しみじみとまるで昔を懐かしむような言い方で彼は答えた。

「よくもまあそんな昔の事まで知ってるね、君は」
「だからいいなあと思ってさ」
「どうして?」
「だって、僕自身にはそんな思い出ないもの」

 そう言ってナナクサはテーブルにひじをついた。遊ぶ二人の姿を川の流れの中に浮かべて彼は優しく、けれど寂しそうに見つめていた。さわさわこぽこぽと流れる水の音。水面は揺れ同じ姿を留めない。

「シュウジ、君にだって、」

 ここに来る前の思い出の一つや二つあるだろう。そう言い掛けてツキミヤは口を閉じた。あまり過去を語りたがらないらしいというタマエの言葉を思い出したからだ。

「……君にとって僕らのことは単なる仕事なのか」

 話題を軌道修正しようとしたツキミヤの口から出た言葉はそんな内容だった。

「え?」
「僕らと一緒に居るのはそれがタマエさんに頼まれた仕事だからかい? 僕らは……君と僕、それにヒスイ」

 ツキミヤは黙って座っているヒスイにも目配せする。

「同じ目的の下にこうしている。事を起こそうとしている。それは君にとって思い出にはなり得ないのか。タマエさんでもシュウイチさんのものでもない、君だけの……いや」

 何を言っているんだろうな僕は、と青年は思った。この三人などたまたま集まった烏合の衆に過ぎないのに。互いに隠し事だらけで腹のうちを探り合っているに違いないのに。妖狐九十九が復活すればこの村はただでは済むまい。ひとたび目的が達せられればろくに挨拶も交わさぬまま、散り散りなるのは目に見えているのに。

「これは僕達だけが共有できる記憶……思い出だとは思わないか」

 お前は何を言っているのだと自問する。自身はここに座っている二人を欲望を満たす為利用しているに過ぎないではないか。

「僕……だけの? 僕達だけが共有できる……」
「そう、君だけの、僕達だけの、」
「共犯者同士の秘め事、とも言うがな」

 ぼそりとヒスイが呟いた。
 一番立場を自覚しているのはこいつかもしれないと青年は思った。

「待たせたの」

 聞き覚えのある声が戻ってきた。両手に膳を抱えてタイキが再びやってくる。ツキミヤとヒスイの前に白いご飯の盛られた椀と焼き魚の乗った皿の盆を置いた。彼の後ろにはエプロン姿のタマエも立っている。ぴょん、と何かがツキミヤの膝に乗った。緑色の小鳥ポケモンだった。

「あ、タマエさんこんにちは」
「おおコースケ、ネイテーが待っとったぞ。太陽が一番てっぺんに上ったあたりからそわそわしだしての。やっぱりわかるんじゃな」

 ネイティはツキミヤの背中をぽんぽんと登ると肩にとまり嬉しそうに目を細めた。

「ほれ、シュージのはこれじゃ」

 そう言って、膳をナナクサの前に置く。

「すみません。タマエさんに持ってこさせてしまって……」

 ナナクサが恐縮して言った。

「何言っとる。ここでは私がもてなす役じゃい」

 タマエはフンと鼻息を荒くした。
 ネイティの頭を撫でてやりながら、ツキミヤはその様子を見守る。なんだか微笑ましい。自身はこんな雰囲気を忘れている気がした。

「そういえば、コースケ」

 突然、タマエが思い出したように青年のほうを向いた。

「タイキから聞いたぞい。ネイテーってえのは、にっくねーむとかじゃなきに、ジグザグマみたいなポケモンの種類なんだってな」
「……? ええ、そうですが?」

 ツキミヤはきょとんとする。

「にっくねーむとやらはつけとらんのか。聞いておらなんだでな」
「ええ、だって種族名で呼べば事足りますし……」
「それはいかん。お主にとってその肩に乗っているネーテーはその程度なのか? そうではないだろう? やはり持っているポケモンにはそのポケモンだけの名前をつけてやらねばな」

 タマエは力説した。ようするに老婆はこの緑の毛玉をニックネームで呼びたいらしかった。

「きっと名前をつけてやれば喜ぶぞ。コースケ、名前はな、大切な人に呼んでもらう為にあるんじゃ」

 老婆はどこかで聞いたような台詞を吐いた。

「はあ」
「まぁいきなりは思いつかんだろうから、この村にいる間にでもゆっくり考えればいいさ」

 ツキミヤがあまり気乗りのしない返事をすると老婆はそう言った。
 そんなものをこのポケモンは期待していないだろう。そう思ってちらり、と緑の毛玉に目をやると、澄んだ瞳が明らかに何かを期待している。まじかよ、と彼は思った。傍から見れば無表情だが青年にはなんとなくわかってしまったのだった。

「……つけて欲しいのかい」

 こくんと僅かにネイティが頷いたものだから、青年は参ってしまった。

「おっと、釜を見てなくちゃいかんからもう戻るぞい。三人ともゆっくりしておいき」

 そう言って老婆はそそくさ元来たほうへ戻っていく。
 ツキミヤは頭を抱えた。そういう類のことを考えるのは苦手だった。

「まぁまぁ、冷めないうちに食べようよ」

 ナナクサがそのように号令をかける。それを聞いてツキミヤも一旦名前のことを棚上げすることにした。盆に目を映す。

「では、いただきます」

 彼らは三者三様に、手を合わすなどして、あるいは黙って箸に手をつけた。タイキがじいっと見ている。彼らはお椀を手に取り、白い粒を口に運んだ。

「!」
「……、…………」

 ツキミヤとヒスイに驚きを含んだ反応があったこと、それが明らかに見て取れた。
 ナナクサとタイキは互いに目を合わせ、してやったりとばかりににかっと笑って、

「どうじゃ。タマエ婆の田んぼでとれた米は格別じゃろう!」
「すごいだろう穴守家の米は!」

 と得意げに言った。
 ツキミヤとヒスイはうんうん同意を示すと、椀にもられた白い粒にしばしの間舌鼓を打つ。
 椀を空にしてから、ドンとテーブルに置き、「うまかった」「こんなもの初めて食べた」「ただの白米だと思って油断していた」などと感想を述べた。

「これが目当てで遠方からわざわざ来る人もおるきに」

 タイキは本当に得意げに言った。
 そして少し表情を曇らせてこう言った。

「……父ちゃんかてこん時期に帰ってきたんはこれば食いたかったからに決まっておる」
「…………、そうかもしれないね」

 ナナクサが同意する。

「……なあシュージ。俺はどうしたらいいと思う」

 たぶん、ずっと言うタイミングを模索していたのだろう。彼は堰を切ったように話し始めた。
 ここの暮らしが決して嫌いなわけではないこと。けれど父親を思う気持ちもあること、結局のところ彼は父親が帰ってきたことが嬉しかった。迎えに現れたことがうれしかった。それに母親のことが心配なこと。けれど彼は知っていた。ここを離れることはタマエは望んでいないだろうこと。父親についていったら祖母は一人残されてしまう。それによって自分が傷つくことを彼はよく知っていた。とても踏ん切りがつかない。
 どちらを選んでもどちらかが傷つく。それによって自分が傷つく。それが怖い。
 ツキミヤの読み通り、父親がやや有利である。状況は七分三分、いや八分二部か。だがそう簡単に少数をばっさり切っては捨てられない。祖母の下に留まったとて父親に永遠に会えないわけでもあるまい。父親と共に暮らす環境が今より恵まれているとも限らない――。タイキにだってそれくらいの計算は出来る。
 父を選ぶのか、祖母を選ぶのか。少年の心はアンバランスな振り子時計のように行って帰ってを繰り返していた。

「なあ、コースケはどう思う……ヒスイはどう思う」

 少年は助けを求めるように、青年達に尋ねる。だが誰一人として意見を口にはしなかった。口にしたところで、押し付けたところで余計な混乱しか招かないと知っていたから。
 幼い頃に父と別れたきりのツキミヤ。彼にだって思うところはあった。だが青年は結局何も言わずじまいだった。これはこの少年の問題なのだ。

「タイキ君、誰でもない。君が決めるんだ」

 ナナクサが三人を代表する形でタイキを諭した。
 君自身が決めるしかないんだ、と。
 僕達はただ聞き届けるだけ。決断の証人となるだけだ。



 稽古が再開される。
 日が沈むまでどっぷりと演舞は繰り返され、演出にたっぷりと絞られた出演者達は今日も疲れた面持ちで宿に帰ってゆく。
 僕らも帰りますか、夜の特訓も待っていることですし。そんなことを考えながら靴の紐を結ぶツキミヤにメグミが声をかけた。

「ツキミヤさん、ちょっと奥まで来てくれないかしら」

 ナナクサ達をしばし待たせ、稽古場の奥にある廊下を渡り後ついていくと、彼女は一番端で止まり襖を開いた。
 するとツキミヤの目の前に両手を広げるようにして待ち構えているあるものが現れた。

「これは、」
「そう、妖狐九十九の衣装よ」

 青年の目の前で両手を広げていたのは、赤地に金色の刺繍が施された羽織。その中心ににたりと笑う狐の面がかけられていた。お前を待っていたというように笑いかけている。
 メグミは歩み寄りその面を取ると、ツキミヤに手渡した。

「本番にあなたがつける面よ。雨降大社に代々伝わる年代物なの。毎年毎年その年の九十九がこの面をつけて演じてきたわ」

 白地の肌から髭が生え、目尻や口元が金、赤、青で彩られている。
 目の切れ目の延長線上に開いた穴からは血管のように赤く伸びた紐が結われていた。

「……あんまり似てないね」

 くすっと笑みを浮かべてツキミヤが呟く。

「え?」
「いえ、こっちの話ですよ」

 青年がそう言うとあらそうと一言言っただけだった。
 すたすたと部屋の奥に進むと桐の箪笥を開け、かけてある衣装を取り出した。

「さすがに本物は貸し出せないけど、稽古用のレプリカがあるから持っていって。今のうちに衣装にも慣れておいたほうがいいわ」

 ツキミヤの前に差し出すと、面と交換で押し付けた。

「でも今日の練習は終わりですよ?」

 そのように青年が答えると今度はメグミがふふっと笑った。

「あら、今夜もするんでしょう? 夜の特訓」
「バレてましたか」
「わかるわよ。それくらい。ナナクサさん燃えてるもの」

 木箱を取り出してそれも渡す。

「こっちは練習用の面。これも使って」

 ぱかりと開き、中を見せてみる。新たな狐面が顔を見せた。

「練習用って言っても、こっちも結構な年代物なのよ。くれぐれも粗末には扱わないように。付喪(つくも)って言って、古い道具には魂が宿るって言われてるの。被られる回数が多いだけ怨念みたいなものがあるとしたら案外こっちの面かもしれないわよ」
「心しておきます」

 木箱に手をかけツキミヤが返事を返す。
 だが彼女も箱を放さなかった。青年とメグミとの間で木箱がお互いに掴まれた状態になる。なんだろうと思っていると、青年の顔をじっと見上げてメグミが言った。

「で、ツキミヤさん、受け取るついでにお願いがあるの」
「なんです?」
「明日の昼休みの間だけでいいわ。ナナクサさんを貸してくださらないかしら」

 青年はその言葉を聞いてすべてを理解したらしくフッと笑う。
「もちろんいいですよ」と答えた。





「コウスケ、メグミさんから借りた衣装、さっそく着てみようよ!」

 そう言い出すだろうと予想していたから、青年は別段抵抗をしなかった。
 夜も更け、離れにたどり着いた途端こうだ。

「さあ、脱げ。コウスケ!」

 ナナクサは誤解を受けそうな発言をしてツキミヤをせかす。

「……わざわざ人前でやることもないだろう」

 ツキミヤはそう返事をして、衣装を片手に待ち上げるとぴしゃりと襖を閉めた。

「ちえ、つまんないの」

 ナナクサが綺麗な虫を捕まえそこなった少年ように口を曲げる。
 ヒスイがそりゃそうだろうとでも言いたげに横目にちらりとナナクサを見た。
 が、しばらくして襖の戸が開き、手のひらがこっちに来いとナナクサを呼んだものだから彼は飛び上がって喜んだ。

「どうしたのコースケ」

 襖の間から顔を覗かせて問うと、

「……恥ずかしながら着付け方がわからない」

 とツキミヤが答える。

「しょうがないなー。僕が教えてあげるよ」

 ナナクサがにんまりと笑みを浮かべて、少し意地悪そうに言った。
 彼はツキミヤが少し開けた襖を全開にする。

「おい! 見世物じゃないんだぞ!」

 ツキミヤが少し顔を赤らめて叫んだ。すると、

「だって、本番にヒスイだって似たようなもの着るんだよ? だったら着付けを見せておいたほうがいいんじゃないの?」

 と冷静にナナクサが言って、青年は諦めた。だったら最初からそう言えばいいではないかと悪態をつく。
 かくして彼は二人の前に上半身裸のまま立つことになってしまった。胸を隠していた衣装をナナクサに預けると、その場所に走っている三本線が二人の前に顕になる。これだから嫌だったのだという気持ちが少しだけ顔に出た。

「あ……」

 そうか、と。あの夜に風呂で見たその傷を思い出して、ナナクサは声を漏らす。
 ヒスイは一時、傷に目がいった様子だったが何も問わなかった。

「ごめん、忘れてた」
「…………気にしてないさ。だいたい君は村長さんの前でこのことを話したじゃないか。今更といえば今更だ」

 冷めた声でツキミヤが言う。

「見たところ、何かに切り裂かれた傷だな。その様子だとかなり深くやられただろう」

 気にしていない、と言った所為だろうか。ヒスイがそのように口を出した。

「昔……ちょっと、ね……」

 憂鬱そうに瞳を伏せ気味にして青年は答える。

「そういえば、九十九は雨降に矛で刺されて深手を負ったんだってね。偶然とはいえ、なんだか示し合わせたみたいじゃないか。それに……」

 自嘲気味に静かに笑った。

「それに?」
「この傷さ、雨が降ると疼くんだよ。明日は少しだけれど降るだろうね」

 


 
 ツキミヤの言った通りになった、とヒスイは思った。
 笛や太鼓の鳴る雨降大社。役者達は室内でメグミの指導を受けている。そこ違ーう! などと怒号が飛び交う中、少し早めにオーケーが出て開放された彼はしとしとと降る雨音を聞いていた。ツキミヤのおまけみたいなものとはいえ、夜の特訓の成果はあったと思われた。
 少し離れた先にはトウイチロウが腰掛けいた。彼もそうそうにオーケーを貰い引き上げた様だ。さすがは去年に引き続いての雨降。この程度は軽くこなすらしい。だが彼は台詞のチェックに余念がないらしく熱心に脚本に見入っている。熱心な奴だとヒスイは感心した。
 だがこちらにとっては都合の悪いことこの上ない。問題は奴のカメックス。どうやってあれを押さえ込むか、ツキミヤとは入念に打ち合わせをせねばなるまい。ヒスイは今年の雨降をじいっと見つめそんなことを考えていた。
 やがて雨脚が弱まって、昼の休みの頃には曇っている程度のなんだか中途半端な天気となる。

「コースケお疲れ様。今日はどこに食べに行こうか」

 いつもの調子でナナクサが先頭に立つ。だが、

「今日は三人別行動にしないか」

 そんなことをツキミヤが言って、おやとヒスイはいぶかしんだ。
 すると、ツキミヤが後方のほうにちらりと目をやる。その方向には午前中に怒号を飛ばしていたあの女演出がいた。ナナクサはなんでそんなことを言うのさという顔をしていたが、そういうことかと彼はなんとなくではあるが事の成り行きを理解する。

「一日中君に付きまとわれているんだ。僕にだって僕だけの休憩時間があっていいんじゃないか?」

 ツキミヤが冷たくいい放つ。
 早々に背中を向け、すたすたとどこかへ歩いていってしまった。

「コウスケ……」
「賛成だ。常時行動を共にする必要はないしな」

 親に取り残された幼獣のように弱々しい声を上げるナナクサを尻目にヒスイもまた背中を向ける。
 やがて一人取り残されたナナクサにメグミが歩み寄っていく。それをちらりと見、久々に一人になれる、そう思った。



「なんじゃい、今日はお前さん一人か」

 先ほど来た客の膳を片付けながらタマエがヒスイを出迎えた。
 なぜだろう。先ほど一人になれるなんて思った矢先だったのになんとなくヒスイの足はこちらに向いてしまった。

「……たまには一人になりたい時もあるんでしょう」

 そんなことを適当に答える。
 ツキミヤのネイティがどこか残念そうに部屋の窓辺に止まり、川辺のほうを眺めていた。
 見れば、川の真ん中でタイキが手を突っ込んで何やら作業をしているようだった。

「ちょいと、出す魚が足りなくなってきよったでな。少しばっかり頂くことにしたんじゃ」

 どうやら少年は網を張っているらしかった。石を乗せ、流れないように、かつ魚を誘い込むように。手際よく作業を進める。少年のヤミカラスが流れの中の石に止まってその様子を見守っていた。

「前にシュウジに教えてもらったんじゃと。ほんにあの子はなんでも知っておる」

 タマエはキラキラと輝く川辺を見つめ、懐かしむように言った。

「昔を思い出す光景じゃのう。思えばあん人も魚を捕まえるのがうまかった」

 亡くなった主人のことを言っているらしかった。
 少年がヤミカラスに水を飛ばす。鴉は飛んで跳ねて懸命にそれを避けていた。

「彼、どうするつもりなんでしょうね」

 なぜかそんな言葉が口から漏れる。

「さあの。あの子が決めることじゃきに。私にはどうにも出来んて」

 タマエは悟ったように答えた。

「タイキはタイキじゃよ。あん子がどうするにせよ私はここに残る。ここに残ってここで果てるだけじゃ」
「…………」
「……古臭い、考えだと思うか?」
「いいえ」

 老婆に問われた青年はさらりとそのように答えた。

「むしろ、羨ましいです。ここと決めた土地に生きて、その土地で死ねるなら、それはこの上なく幸せなことではないか、と。そう思うんです。俺は故郷を捨ててきたから」

 それは決して彼女を立てたから出た言葉ではなかった。
 川の湿気を含んだ涼しい風が吹く。ヒスイの銀髪をふわりとたなびかせた。

「もう戻ることは出来ない。俺にはカグツチと先生しか居ないから……」
「……、……そうかい。お主もいろいろあるんじゃな」

 タマエはそこまで言うと、それ以上を問おうとはしなかった。ただ頷いて、受け入れたように見えた。
 網を仕掛け終わったのか、タイキがこちらへ戻ってくる。ヒスイに気がついて手を振った。

「もし彼がいなくなったとしても、貴方にはナナクサがいます」

 老婆を気遣ったのか、慰めたかったのか。そんな言葉が漏れる。

「いや、シュージだっていつまでも同じじゃないよ」
「……、どういうことです?」
「ちょうど昨日の夜だよ。暇を貰いたいとシュージのほうから言ってきたんだ。ここに留まるのは祭が終わるまでだとさ」

 鴉が羽を広げ、ばっと大空に舞い上がった。





「ごめんなさいね。こんなところまで連れ出しちゃって」
「謝られるほどのことじゃないよ」

 メグミがそう言ってナナクサが答える。
 二人は人気の無い竹林を歩いていた。
 実際のところ彼はメグミに連れ出されたことなどどうでもよかった。それより先ほどツキミヤにおいていかれたことのほうがよっぽどに気になっていた。

「僕、コウスケに何か嫌われるようなことしてしまったかな」
「あら、めずらしいのね。ナナクサさんがタマエさん以外の機嫌を気にするなんて」
「だって……コウスケは僕の……ううん、タマエさんのお客様だもの」
「ご心配には及ばないわ。ツキミヤさんはたぶん、私のことを気遣ってくれたんだと思う」
「え、どういうこと?」
「昨日頼んだの。ナナクサさんを貸してくださいって」

 なんだ、そういうことか、とナナクサは安堵したような表情を見せた。
 こういうところもまたかわいいのよね、とメグミは思う。

「ねえ、ツキミヤさんを指導したの貴方でしょ」

 ナナクサの進路をふさぐように身を乗り出してメグミが顔を近づける。

「そうだよ」
「別人みたいにうまくなってるんでびっくりしちゃった。さすがナナクサさんだわ」
「……僕の手腕じゃないさ。コウスケに元々そういう資質があっただけ。適した環境を整えてやれば稲が育って実をつけるのと同じ。どちらも本質はそう変わらないよ」
「ご謙遜ね。あなたってホントなんでも出来る」

 これでもう少し乙女心に敏感だったならと切にメグミは思う。

「それもタマエさんの為かしら」
「……まあね」
「そうでしょうね。あなたの行動の基準はいつだってタマエさんだもの」
「少なくとも、タマエさんにみっともない舞台は見せられない。今年の舞台は僕にとっても特別なんだ」

 ナナクサはどこか思いつめたように答えた。
 がさりと落ち葉を踏みしめる。この場所のこともナナクサはよく知っていた。
 シュウイチは、ここで毎年竹の子をとってはタマエの家にもっていっていた。ずっと彼女が好きだったから。彼女の気を引くために彼はなんでもやった。村の事に長老並みに詳しくなったのだって、花を見に行こう、イチゴを摘みにいこうと事あるごとに誘う口実を作る為だった。

「それでナナクサさん、この間私がした話、考えてくれたかしら?」

 彼女はナナクサの気分をよそに事の本題に入る。

「…………養子縁組の話かい」
「そうよ」

 待ちに待っていた。そんな気持ちを体言するように彼女は肯定した。
 彼女にはよく声がかかった。それは道端の挨拶や行事の誘いに限らず、もっと濃い繋がり――将来にわたって――を求める形で。
 だが、彼女はずっとその気になれずにいた。彼女に声をかけた同年代の異性やその親達は無数に居たが、その度に彼女はその誘いを丁重に断ってきたのだ。
 違う。この人達じゃない。私が求めているものは違う。それが何かと問われれば彼女自身にもはっきりとは説明が出来なかった。選り好み、理想が高すぎるといえばそれまでだ。だが少なくとも、彼女の心がずっと決まらずにいたことだけは確かだった。

 転機は三年前。この村に一人の青年がやって来てからだ。

 彼はこの村にやってくると、そこでは偏屈と言われる老婆の家――穴守家で働き始めた。
 多少空気の読めないところはあるが、よく出来た青年だった。
 彼は家事も農作業も雑用もなんなくこなしてみせた。その上、どこで覚えてきたのか、米の栽培のことにも精通しており、米に関することで彼を頼ったのならたいがいの問題は解決した。
 根っこの部分では保守的であるはずの村人達がその青年、ナナクサを受け入れるまでにさほど時間はかからなかった。一部の者はまるで昔から村にいたようだとさえ語ったくらいであった。
 
「あなたならって両親も賛成してくれてるわ。ノゾミだって喜ぶと思うの」

 そして、初めてナナクサに会った時、彼女は確信したのだ。
 この人だ、と。
 私が求めていたのは、待っていたのはこの人なのだと。
 彼は今まで出会ったどの村の若者とも違うタイプだった。素性の不確かさは逆にミステリアスな魅力として感じられた。
 気がつけば彼に夢中になっていた。彼女はこれまで幾度と無くそういう素振りを見せてきたし、進んでナナクサに声をかけてきた。家の食事に招待したり、行事に行こうと誘ったりもした。
 だが、その度に彼は誘いを断り続けてきた。僕はあの家にいなければ、もうじき家の主が帰ってくると。いつもいつも同じ理由で断った。彼は決して彼女に振り向きはしなかった。視線の先にいるのは頑固で偏屈と知られるタマエのほうばかりであったのだ。彼の行動の基準はタマエであり、気にかけているのはいつも村の若い娘ではなく老婆のことであった。
 彼女はこの村で初めて思い通りにならないものに出会ったのだ。
 メグミはいらだった。模範的な村人である彼女は当然信仰の違うタマエを快く思ってはいなかった。そのことが一層彼女の想いに拍車をかけた。邪な信仰にナナクサを巻き込んでいるタマエが目障りでならならなかった。
 おまけにナナクサときたら馬鹿が付くくらい職務に忠実で、仕事中はメグミをほとんど相手にしない。仕事が終わったら終わったらで家をあけようとしない。これでは攻めようにも攻められない。メグミはずっとそのジレンマに悩まされ続けてきた。養子縁組の話をした時だってやっとの思いで時間を作り話したのだ。
 だが、今年の秋になってチャンスは巡ってきた。
 彼は夜遅くまで頻繁に家を空けるようになった。それは村にやって来たツキミヤという青年の世話を任されたからだ。そして幸いにも彼女は青年の協力を得ることが出来た。

「きっとうまくいくわ。ナナクサさんにはこれまで以上に農業の事で力を発揮して欲しいの。うちに来たら家事も雑用も一切やらなくていいのよ」

 これは好機。千載一遇の好機だ。

「……メグミさん」
「なぁに?」
「一度聞いてみたかった。僕が君の家の養子にというのは、君の親御さんが僕の能力を評価したからなのかい? それともメグミさん自身の希望なのかな」

 そう。この男はこういうことを平気で尋ねる奴なのだとメグミは思う。思わせぶりな態度を取るだけでは、ありきたりな言葉を並べるだけでは伝わりはしない。もっと直接的にこの想いをぶつけなくてはダメなのだ。

「ナナクサさん、私は」

 彼女はそこまで言いかけるとナナクサの両肩をつかまえた。メグミの黒く長い髪がふわりと舞う。気がつけば彼女の唇はナナクサのそれに触れていた。初めて触れたそれの感触は意外と冷たかった。
 突然のことだったが、ナナクサは意外に冷静だった。抱き寄せることもなければ、無理やりに引き剥がすことも無い。ただあるがままに受けたように見えた。ほどなくして彼女の唇が離れ、青年を束縛から解放した。

「わかったでしょう? 貴方が好きなのよ」

 やってしまえばあっけないものだった。もっと早くにこうすべきだったのかもしれないと彼女は思う。

「もちろん、あなた自身の能力は両親を説得するには大いに役立ったけど」
「……なるほど」

 感情を込めずにナナクサは言った。

「それにしてもひどいな。今の初めてだったのに」
「初めてだったの? けど、あなたが鈍いからいけないのよ」
「鈍いから、ね……」

 そのように答えるナナクサは何か思い至るところがある様子だった。
 メグミのほうに眼を向ければ、彼女は返事をせかすような眼差しを向けてくる。
 どうしたものかとほんの一時彼は思案をめぐらせた。が、すぐにそれはムダだと悟った。
 答えなど彼の中で最初から決まっていたからだ。

「ごめんメグミさん。僕は貴女の気持ちに応えられない」

 ナナクサは迷う様子も無くあっさりと言った。

「それはタマエさんの所為? あなたがどんなにあの人を想っていても届きやしないのに」

 もちろんメグミもその程度で引き下がるような女性ではなかった。三年もこの時を待っていたのだから。

「だってあの人が唯一愛しているのは亡くなったシュウイチさんだもの」
「わかっているよ。そんなことは」
「なによりあなととタマエさんとじゃ年齢が違いすぎる」

 彼女はわかっていないわとでも言うようにダメ押しをかけた。

「年齢……年齢ねえ」

 するとその言葉を聞いたナナクサが、何を思ったのかくっくと笑い始めた。

「? 何がおかしいの」

 少々戸惑い気味にメグミは尋ねる。その声には僅かな苛立ちが混じっていた。
 青年のそれは自嘲気味な笑い方であった。悪意とも哀しみとも取れるその表情は今まで彼女が見たことが無いものだった。

「ねえメグミさん、僕を何歳だって認識しているの? そういえばちゃんと歳を教えたことってなかったよね」

 そういえば、とメグミは思う。自分はそんなことすら知らなかったのだと。彼はあまり彼自身について語りたがらない。今更ながらにナナクサのことを何も知らないのだと思い知らされた。

「いくつって十八くらいでしょう」
「外れ」

 ナナクサは切り捨てるように否定した。

「じゃあ十九」
「違うよ。全然違う」
「じゃあいくつなのよ」

 メグミが尋ねるとナナクサは冷めた表情で答えた。

「僕の年齢はね、"三"だよ」

 しばらくの間があった。これが違う相手、違う場だったら冗談として笑っていただろうがあいにく場の空気はそのような和んだものではなかった。

「馬鹿にしてるの? それはあなたが村に来てからの年数じゃないの」

 メグミの声にさらなる苛立ちの感情が混じる。

「馬鹿になんかしてない。じゃあ考え方を変えようか。ある地点から数えると僕の年齢は六十五になるんだ。これならどうだい。だいぶ近づいただろ」
「一体何が言いたいの」
「……年齢なんて関係ないって事」
「呆れた」

 彼女はため息をついた。なんだってこんな人を好きになってしまったんだろう。けれど感情というものはそう簡単にコントロールの効くものでは無い。

「というかね……メグミさんは一つ勘違いをしている」
「勘違い?」
「僕が貴女の気持ちに応えられないのは、タマエさんの所為じゃない。もっと根本的な問題だよ」
「何よ。根本的な問題って」

 風が竹林をざわざわと揺らした。ナナクサは竹の伸びるその先を見上げる。湿気を持った曇り空であまりいい天気とは言えなかった。

「僕さ、人を好きだって感情がわからないんだ」

 長細い竹の葉が落ちてくる。ひらりひらりと舞い落ちてくる。

「なに、それ」
「好きだって感情だけじゃない。喜怒哀楽すべてが僕にとって疑わしい」
「だってあなたはタマエさんのことを……」

 ナナクサは首を横に振る。

「タマエさんのことは好きだし、大切に思っているよ。あの人のためなら僕はなんだってしてあげたい。あの人が喜んでくれるなら僕も嬉しい」
「言ってることが矛盾してるわ」
「でもそれは僕自身から湧き上がってくる感情じゃあないんだ」

 彼は寂しげに笑った。
 それは彼女に向けられたものでなく、自らを嘲る為の笑みだった。

「僕自身は空(から)なんだよ。普段僕が喜んだり悲しんだり怒ったりするのだとすればそれは――」

 ナナクサはそこまで言うと、急に黙りこくったようになり、言葉を途切れさせてしまった。
 風が再びざわりと竹やぶを揺らす。わけがわからないというように両眉を寄せる彼女の顔を彼は冷めた目で見つめていた。それこそ彼女の周りにいくらでも生えている竹林の竹をただ見るように。そこに興味関心という要素は感じられなかった。竹の葉がひらりひらりと落下してくる。

「よく言うだろ? 君の気持ちは嬉しいけど……って。だけど僕にはそんなことを言う資格すらない」

 彼は肩に舞い降りた竹の葉を払い落した。
 ざくりと落ち葉を踏んでくるりと背を向ける。

「ごめん」

 去り際に小さく呟いた。
 落ち葉を踏みしめながら、遠ざかってゆくナナクサは一度たりとも振り返らなかった。
 まともにその背中を追うことも出来ないまま竹林に立つメグミの軽く握った拳は震えていた。
 払い落とされた竹の葉のように、踏まれて散った落ち葉のように、自尊心をズタズタにされた気分だった。
 悔しい。憎らしい。恋愛の成就という形では決して報われることが無い彼の想い。自分に向かったならすべて受け止めることが出来るというのに。
 彼が憎らしい。
 あの老婆が恨めしい。
 じゅうっと赤く燃えた火鉢を押し付けたように行き場を無くした想いが胸を焦がした。
 が、背後のほうから落ち葉を踏みしめる足音が自分のほうに近づいてきたのがわかって、彼女は少なくとも外面に出るオーラを切り替えた。音のするほうを振り返る。

「誰かいるの?」

 振り返った彼女の顔はなんともなかったような、何事もなかったような顔をしていた。少なくとも今さっき振られた者の顔には見えない。
 まったく女性っていうのは怖いな。胸のうちに激しい感情を抱きながらいとも簡単に平静の仮面を被ってみせる。メグミの瞳に映った青年はそんなことを思ってうっすらと笑みを浮かべた。

「……ツキミヤさん」

 メグミの視線の先に立っていたのは数日前に村にやってきた青年。ナナクサの想い人の客人であり、今年の妖狐九十九だった。





 青年の目の前には焼き魚の皿とご飯を持った椀があった。どちらも半分程度減っている。
 だが味が抜群にも関わらず彼の食はあまり進まずにいた。
 ナナクサが自ら暇を申し出た。
 そのことがヒスイに少なからず衝撃を与えていた。

「何を考えてる……ナナクサ」

 ヒスイは魚の身をつつきながら呟いた。
 考えたとて答えは出まい。直接ナナクサを問い詰めでもしない限り。
 尤も、あいつが本当のことを言うかどうか疑わしいがな、とも思う。あいつはたぶん俺やツキミヤが思っている以上に役者なのだ。彼はさっきからずっとそんなことを考えていた。
 だが、そんな堂々巡りをしていた彼の思考をストップさせるものがあった。彼の持っていたあるものが停止させた。
 ブウンブウン、と。胸ポケットの小さな電話が鳴っていた。
 彼は黒い画面に浮かぶ文字を見て着信の相手を確認する。尤も自分に電話をかけてくる人物など一人しか居ないのだが。黒い画面に表示された名は思った通りの名前だった。
 ヒスイは急いで長屋を出ると通話ボタンを押した。

「……ヒスイです」

 受話器越しに聞こえたのはひさびさに聞く声。

「長い間、ご連絡せず申し訳ありません。……プロフェッサー」

 耳に響く声は彼の近況を確かめている様子だった。

「え、宿ですか……? 心配いただかなくても大丈夫ですよ。ちゃんと確保してますから。村の民家ですが泊めてもらえることになって……ええ」

 普段はほとんど変わらない鉄仮面の表情が、少しだけ綻んだ。

「それとごめんなさい先生……九十九の役、取り損ねてしまいました」

 彼は門限を破った日に親の顔色を伺う子どものように言った。
 もしかしたら今まで連絡をしなかったのはこの所為かもしれなかった。

「ですが、プランに支障はありません。理由が定かではありませんが、今年の九十九は勝とうとしています」

 自身の失敗を懸命に埋め合わせるように彼は説明した。
 計画に支障は無い事、自身も舞台には出る事、今年の九十九と行動を共にしている事を。
 想定していたプロセスとは違ってしまったが、むしろ事の成り行きはじっくり観察できるだろうと。

「……もし今年の九十九が失敗しても私が」

 そしてこのように締めくくった。

「舞台本番に神話は書き換わります。もうすぐです。"野の火"の復活はもうすぐ……先生の仮説の正しさは遠からず証明されるでしょう。条件が整うようならばあれも試します」





 風がざわざわと竹を揺らした。ナナクサが去った竹林に二人の男女が立っている。
 柔らかそうな前髪の向こうから射抜くような瞳がメグミを見つめている。今年の九十九を演じる青年だった。

「残念でしたね。せっかく僕から彼を引き離してあげたのに」
「……貴方にはお礼を言わないといけないわね」

 腕組みすると、ナナクサの去った方向を見、ふうっとため息をつく。

「別にいいですよ。おもしろいもの見せてもらったし。驚きました。大胆なんですね、メグミさんって」

 今年の九十九――ツキミヤは楽しげに言った。
 メグミは顔の温度が急激に上がるのを感じた。

「ナナクサ君が冷静だったのにはもっと驚いたけど」
「……やっぱりさっきから見てた訳。悪趣味ね」

 眉を顰めてメグミが言った。怒りと恥じらいを押し殺したような声だった。だがそんな彼女に青年は構わずに平然と言ってのける。

「でも今のでわかったでしょう。やめておいたほうがいいですよ、彼は。想えば想うほど貴女が傷付くだけだ」
「つい数日前にここに来たツキミヤさんに何がわかるの」

 余所者が、とメグミが睨みつける。
 だが、ツキミヤはそれに動じる様子は無かった。むしろ待っていたとばかりにくすりと笑った。

「わかるさ」

 瞳の奥を覗き込み、見透かすように言う。

「僕にも好きな人はいるからね。その人に誰も近づけたくない。誰にも渡したくない。殺してでも自分のモノにしたい。君の想い方は僕に似ているよ」

 そう、たとえ行動には出なくても、いや出ないからこそ己の内でドス黒い炎が渦巻いているものなんだ。そんなことを青年は思う。

「けれども、それは叶わないと最悪だ」

 傷口に触れて押し広げるように言った。

「いつからだい? 去年の夏から? それとも彼がここに現れてから?」
「あなたには、関係ない……」

 何の力に抗うようにメグミは答えた。メグミの中の何かが彼女に告げていた。この人は怖い。このまま話していたら、自分の中にある醜いものを全部彼の前に晒してしまうのではないだろうか。

「受け止められることの無い強い想いは刃になって君の元に戻ってくる。想えば想うほどに突き刺さって、切り裂かれて血を流すんだ。誰かへの嫉妬もそう。傷の直りを遅くして、時には広げてしまう。もうやめておきな。君は身体中血だらけだよ」

 だが、彼女は首を横に振った。

「だめよ……だって」

 ずっとずっと想ってきただもの。彼に出会ってから、ずっと……。

「そんなの無理よ」
「ところが出来るんだ。僕になら……聞こえないかい?」

 口角を吊り上げて青年は言った。

「聞こえるって、何が……」
「ほら、君の血の匂いに誘われてこんなに集まっている」

 青年が妖しい眼差しを向け、舐めるように観察している。
 メグミの背中にぞくりと悪寒が走った。
 そして聞いた。青年の声でも彼女自身の声でもない。この竹林にいる無数の何者かが笑う声を。

 くすくす、くすくす……、くすくすくす……

 姿は見えない。けれど居る。確かに居る。竹林に無数の声が響いて自分を囲っている。見られている。

「やだ、なに……なにがいるの」
「そんな顔しなくても、すぐに見えるようにしてあげるよ」
 
 温厚そうな青年の瞳の色が人でないものに変わった。
 瞬間。青年の瞳と同じ眼をしたたくさんの影が現れる。彼らはすうっと懐に侵入すると、花を咲かせるようにマントを広げ、彼女を捕らえた。
 それは一瞬の出来事で、彼女に悲鳴を上げる暇を与えない。

「メグミさん。今の貴女、すごくいいよ。シュウジとタマエさんへの憎悪でいっぱいだ。さっきのことで一気に実が熟したみたいだね」

 青年が青と黄の瞳で見据えて笑う。それは話し相手ではなく獲物を見る眼だった。

「手持ちとは別腹と言ってもね、こっちのポケモン達もしっかりお腹は減るし、面倒を見てあげなくちゃいけないんだ」

 夜色のマントを木の根のように伸ばし彼女に取り憑くのは負の感情を糧とするポケモン、カゲボウズ。
 集まった影は一体となって舐めるように彼女を縛り上げる。身体を侵し、心を冒す夜色の闇が、水田に流れ込み、染み渡る水のように彼女の中を潤していった。

「メインディッシュが来るまでもう少しだからって言ったけれど、聞かないんだよ。食べたいんだって。君の感情はとても甘そうだから」

 黒い影たちに絡め取られ、彼女は声にならない悲鳴を上げた。その感覚に触れて青年は恍惚とする。ああ、恐怖する響きのなんと心地よいことか。
 カゲボウズ達が作り出す闇。彼女は徐々に深いところへ入り込まれ、引きずり込まれてゆく。望むと望まざるにかかわらず駆け巡る弄るような感覚。それに抗えず、身体をくねらせるその度に、甘い甘い蜜を吸い上げられ、堕とされてゆく。
 影達がにいっと眼を細める。青年がぺろりと唇を舐めた。
 甘く熟した負の感情を絞り、記憶ごと絡めとって飲み干してゆく。

『やっと本性を見せてくれたな。それが本当のお前だ。お前こそ私を演ずるに相応しい』

 青年はいつの間にか九十九の言葉をリフレインさせていた。

『普段あれの前で素っ気無い態度をとっているのは本来のお前ではない。そして、人に見せる柔らかい物腰も仮初。お前はとても狡猾で残忍だ』

 その声はまるで耳元で囁かれているかの如く響き渡る。

 ――化物。

 闇に翻弄されながらも、メグミがそんな目で自分を見た気がした。

 ――それはね、今の僕にとっては褒め言葉だよ。

 満足げに微笑み返す。

「そろそろ稽古の時間だな。早めに片付けてくれよ」

 止めを刺せとばかりに影をせかした。

「尤も今日、"昼の"演出は稽古場に戻らないだろうけどね」

 象徴的じゃあないかと青年は思う。本番になれば舞台は役者のものだ。彼女の演出は意味が無くなる。今年の九十九によって昼間の台詞は書き換えられ、舞台の結末は変わるのだから。
 ああ、そういえば、午後からの練習は、あの雨降との一騎打ちだったか。彼のポケモンは強そうだったな、どうやって勝とうか、どうやって倒そうか。ああ、そうだ。早く戻らないとナナクサがうるさいかもしれないなぁ。青年の頭の中をそんな考えが一巡する。

「それにしても足りないな。この程度じゃ満たされない。またすぐに喉が乾いてしまう」

 だがもうすぐだ。倒されるは雨の神。炎の妖が復活し、村の舞台は緋色に染まる。そして――目論見通りに炎の妖を喰らったなら底の見えぬこの渇きもしばらくの間は満たされよう。
 嗚呼、早く欲しい。喰らいたい。己が何者かも思い出せないほどに喰らい尽くしてしまいたい。
 ふと青年は誰もいない筈の竹林の奥をちらりと見る。何を思ってかくすりと笑った。
 蠢く闇にに囚われたまま、哀れな獲物はびくりびくりと身体を震わせる。やがてがくりとうなだれて動かなくなった。


  [No.22] (十五)昔話 投稿者:No.017   投稿日:2010/08/14(Sat) 18:34:52   50clap [■この記事に拍手する] [Tweet]



(十五)昔話


 祈念も呪詛も人の願い。思いの形。
 祈りによって神は力を持ち、行使する。

『お前の願いを叶えてやろう、娘』

 すべて燃えてしまえばいい。
 村人達が忌み嫌う禁域。炎の妖が息絶えた場所と伝わる苔むした岩。彼女がそこにしゃもじを供えたのは六十数年前の夜だった。
 その夜、娘の夢枕に立って、妖狐は云った。願いを叶えてやろう、と。
 だが、だがたて続けにこうも云った。

『ただし、その結果がお前の望みどおりとは限らないがな』





 川の水はその場に留まらない。流れ流れて入れ替わってゆく。
 さっき目の前にあった水はほんの一瞬後には別物だ。
 すべては移ろう。移ろいゆく。

「おかしいな。コクマルの奴、どこに消えたんじゃろう」

 川辺を一望してタイキが呟く。

「ついさっきまでおったんじゃがのう」

 次いで空を仰ぐものの、鴉の影はすでに見えなかった。

「……お前のヤミカラスならさっきどこかに飛び立ったぞ」

 すぐ隣で魚の身をつついていたヒスイが言った。

「む、すると屋台の菓子でも盗みに行ったか。あいつは甘いもんには目が無くてのう。特にモモンで作ったポロックが大好きなんじゃ」
「ポロック、か……」
「おまん、あのリザードにはやらんのか?」
「自分ではめったに作らないからな」

 ぼそり、と彼は無愛想に呟く。

「そうか」
「だがポロック、モモンと聞いて一つ話を思い出した」
「なんじゃ?」

 ヒスイは椀に盛られた白米をきれいに平らげ、椀をカタンと膳に置いた。

「……桃太郎の話だ」
「桃太郎?」
「そうだ。ストーリーは知っているか?」

 ヒスイが尋ねた。
 桃太郎。それはこの国において最も読まれ語られている昔話と言っても過言ではない。

「そんなの知っとる。大きなモモンから生まれた桃太郎が、ポチエナにエイパム、オオスバメをお供にして鬼退治する話じゃろうが」
「その通りだ。ちなみに土地がカントーになるとオオスバメがピジョンになったり、ポチエナがガーディになったりする。お供になった鳥ポケモンの種類を尋ねると答えた相手のだいたいの出身地方がわかるそうだ」
「へえ……」
「先生が、そう言っていた」

 そこまで言うとなんだかヒスイは黙ってしまった。
 どうやらタイキの反応が悪いのでこれ以上はどうかと思ったらしかった。

「……それで、なんじゃ?」

 そんな雰囲気のを察したのか少年は続きを聞いてやることにした。

「彼はポロックを使いポケモン達を懐柔(かいじゅう)した。共に鬼ヶ島に乗り込み鬼を退治する。そして自身の育ての親であるおじいさんとおばあさんの待つ家に鬼の宝を持ち帰る。これがこの物語の主だった筋書きだ」
「……カイジュウってなんじゃ?」
「良くいえば仲良くなること。悪く言えば物でつって従わせることだ」
「なるほど。この場合はポロックじゃな」
「そうだ」
「で、それがどうしたっちゅうんじゃ」
「あの時、先生は俺にこう言ったんだ。ヒスイ、お前はこのありふれた昔話をどう思うかと」

 ヒスイは食べ終わった膳を横によける。稽古に戻る時間だと言って立ち上がった。
 長屋を出る前に厨房に立ち寄り、軽く覗き込むと、

「……タマエさん、お昼ご飯ごちそうさまでした」

 と言った。
 竈を覗こんでいた老婆は顔を上げて、

「ん? あ、ああ。シュージとコースケによろしくの」

 と答えると、再び顔を戻して、竹の筒でフーフーと空気を送り込んだ。
 墨が赤く燃え上がる。まるで何かを思い出したかのように。
 炎がぼうっと勢いを増した。
 


「野の火だ!」

 最初にその名を口にしたのは。最初に叫んだのは、誰だったか。



 燃えよ、燃えよ、大地よ燃えよ
 燃えよ、燃えよ、大地よ燃えよ

 蝉の鳴き止んだ雨降大社の夜。
 いつもの年より早く九十九の狐面を被ったシュウイチは詠った。九十九の声、炎の詩を。
 「火」が現れたのはちょうどその時だったと彼らは語る。

 今でも高齢の村人達はその時の光景を強く焼き付けている。
 それは火柱が立ったという表現が適切だった。
 雨降大社に集まった村人達のいくらかは直接に暗い空に現れたそれを見たし、暗い空を射るように照らした光に驚いて振り向く者も多くいた。

 見よ、暗き空現れし火よ
 火よ、我が命に答えよ

 "燃えよ"に続く文句に詠まれた通りの事象がそこには在った。
 発火地点から炎が四方に広がってゆく、舐めるように侵略するように領地を広げてゆく。

「野の火じゃあ!」
「なんちゅうことじゃ」
「野の火じゃ、九十九の呪いじゃ」
「おしまいじゃ、この村はもうおしまいじゃ」

 ある者は叫び、ある者は心底震え上がり、童子達は堰を切ったように泣き出した。
 彼らの多くがこう思った。醒めない悪夢のように続く凶作は妖狐九十九の呪いだったのだ。今まさに呪いが成就し、村が終わりを迎えるのだと。
 多くのものが混乱に陥り、舞台が中断したことは言うまでも無い。

「なんだ……? 何が起こってる……」

 泣き声や叫び声があちらこちらから上がる中、九十九の面を外したシュウイチは呆然とその光景を眺めていた。

「シュウイチ、貴様ぁ!」

 ぎゅうっと首が締め付けられる感触。
 気がつけば雨降役のキクイチロウに胸ぐらを掴まれていた。

「連日田を歩き回っておったのはこの為か! 貴様が呪いをかけおった! この村に呪いをかけおったんじゃあ!」

 キクイチロウの手はシュウイチの胸倉を掴みながらガタガタと震えている。
 そこには邪を払う戦士であり、豊穣を願う翁である雨降の仮面は無い。
 そこにいたのは妖狐九十九に恐れおののく一人の村人だった。

「いつからじゃ。いつから九十九に取り憑かれておった! 禁域に入ったあの時か!?」

 かつてタマエと二人で禁域に入ったあの時のことを蒸し返す。

「ちょっと、落ち着きなさいよ!」

 タマエは舞台に上がり、二人の間に割ってはいる。

「違うわ! シュウイチじゃない。シュウイチじゃ……」
「お前は黙っとれタマエ!」
「黙らないわよ!」
「お前はいつもそうだ! 何かあればシュウイチの味方ばかり、わしゃあいつも悪者じゃ」
「ちょっと、何よ! そんなの今は関係ないでしょう!?」

 タマエが顔を紅くして叫ぶ。

「とにかくこいつだ。こいつが……」
「違うわ」
「違うなら誰だと言うんだ」
「それは……」

 自分だ、と思った。九十九にしゃもじを供えた。この村に呪いをかけた。
 こんな村出て行きたかったから。
 すべて燃えてしまえばいいと思った。

『お前の願いを叶えてやろう、娘』

 背筋が凍った。
 九十九の声がはっきりと思い出される。
 精神が高ぶっていていた為に見た夢なのだと思っていた。
 まさか、まさか本当に現れるなんて。
 けれど現れた。詩にある通り暗き空に火は現れたのだ。
 キクイチロウを止めようと掴む手が震えていた。

「だいたいこの男は昔から信仰心が無かったんだ」
「やめて。シュウイチは違う!」
「二人とも五月蝿いぞ」

 ここに来てシュウイチがはじめて口を開く。その声は冷静だった。

「俺は稽古の通りに演じただけだ。憑かれてなんかおらんし、そもそも雨降も九十九も信じちゃいない。だが、それでお前の気が済むのなら好きに言うがいい」
「なんだと!」
「無様じゃなあキクイチロウ。タマエはともかく、おまんが慌ててどうするんだ。皆の注目する野の火の舞台じゃぞ?」

 たしなめるようにシュウイチは言った。

「これが九十九の仕業じゃと、野の火じゃと? なら雨降のおまんがなんとかしろ。次代の村長ならばこの場をまとめてみせろ」
「……」
「そげとも今年の雨降は腰抜けか? 九十九が怖くてこの場から動くことも出来ないんか」
「貴様!」

 キクイチロウはシュウイチを締め上げる手を強める。が、彼はいたって冷静だった。

「おまん、ヌマジローは連れて来ておるな?」

 目の前にいる相手がハッとしたと同時に、胸ぐらをつかんだ手が緩んだのがシュウイチにはわかった。
 彼は恋敵の前で取り乱したことを後悔していた。彼は突き放すようにシュウイチの胸ぐらから手を離すと集まった村人達に呼びかけた。

「皆落ち着くんだ! 水ポケモンをもっている者は舞台に集まれ! いや、水技が使えるポケモンならばなんでもいい!」

 村人の視線が戸惑いながらも集まった。
 何人かが舞台に上がって、ぼんぐりのボールから水ポケモンを出した。

「水ポケモンの無い者は火が回る前に、川の向こう側へ! 水ポケモンのある者はわしに続け!」

 そして今年の九十九を指指し言った。

「……それとシュウイチは拘束しておけ。憑いているかもしれん」
「キクイチロウッ!」

 タマエが叫ぶ。誰のお陰で頭を冷やせたと思っているのだこの男は、と。
 だがシュウイチは首を横に振ると、あえてそれを受け入れた。

「いいんじゃタマエ」
「でも……」
「今は村がまとまることが大事じゃ。格好つけさせてやらんと」

 雨降大社の長い石段をぞろぞろと村人達が降りていく。さきほどよりも水田がよく見渡せた。
 大地が燃えている。背丈の高い稲を次々に巻き込んで、次々に燃え移って広がっていく。炎の軍勢がこちらに向かってくるように見えて、彼らは恐れおののいた。
 石段を降りきった時、何匹かのジグザグマとマッスグマが彼らの前を走り去っていった。じぐざぐに、まっすぐに、走っていった。目指す先は明らかだ。
 集まった村人達が二手に分かれる。大きな集団はジグザグマ達と同様に川を目指す。そして、キクイチロウ率いる小さな集団が炎に立ち向かった。

「まさか本当の意味で雨降を演じることになろうとはなぁ!」

 当時はまだ珍しかった木の実で無いボールを握り締め、キクイチロウは自らを鼓舞するように言った。
 そのボールから繰り出されたのは大きなヒレとエラを持った両生類のようなポケモン、ラグラージ。小さい頃から一緒に育ってきたミズゴロウが立派に成長した姿だった。

「来るなら来い化け狐! 成敗してくれる!」

 叫ぶ主に呼応してラグラージが吼えた。

「ヌマジロー、雨乞いだ!」

 男は伝説を再現しようとするかように声を上げる。
 炎に染まった赤き地平に雨降の声が響いた。





「ナナクサがいないだと?」

 ヒスイが顔をしかめて言った。
 練習を終え、穴守家に戻ろうかというとき彼らは夜の演出の不在に気がついた。

「ああ、置手紙があった」

 ツキミヤがぴっと手紙を取り出す。

「あの野郎……よりによって人のポケモンを伝書スバメ代わりにしやがって」

 空が染まり始めた頃、稽古場の窓辺に見慣れた緑の毛玉がとまっていて、これを差し出したのだと青年は言う。
 こんなことをやる人間はこの村でナナクサしかいない。
 ツキミヤが手紙を開く。二人は手紙に走る文字を見た。しばし沈黙する。

「……すごい文字だな。筆か?」

 と、ヒスイが言った。

「ものすごいジェネレーションギャップを感じるのは僕だけだろうか……」

 同意するように、ツキミヤは漏らした。
 普段の人懐こい感じからは意外とも思える無骨な文字でそれは書かれていた。その筆跡には古本街に売っている数十年前にやりとりされた絵葉書に書かれた文字のような、そんな古めかしさがあった。

「達筆すぎて読めない」

 そんな文句をいいつつ、二人はなんとかそれを解読した。
 書かれていたはおおよそ次のような内容であった。


 コウスケとヒスイへ

 一日ほど出てくる。明日の夜までには戻る。
 稽古を空けてすまないけれど、これは僕達の目的を達するためには必要なことだから。
 あと、改変後の脚本がコウスケの部屋に置いてあるから二人とも読んでおくように。
 ヒスイはともかく、コウスケはちゃんと台詞覚えるんだよ。
 帰ったら試験するからよろしく。

 七草周二


「……余計なお世話だ」
「まったくだ」

 二人は呆れたように言った。

「でもまぁ、しかたない……台詞だけは覚えておいてやるか」
「うるさいしな」

 意見が一致した。諦めたように二人はため息をついた。





 ぼちゃん、ぼちゃんと川の中に何かが落ちる音がする。
 流れの中に足を踏み入れるその前で、九十九役の青年は立ち往生した。
 赤く染まった煙交じりの空に飛んだものが二つあった。

「こっちへ来るな! この狐憑きが!」

 両腕を拘束されたまま、自由にならない身体をくねらせやっとの思いで起き上がったシュウイチに、先に川を渡りきった村人達が投げつけたのは石の礫と、拒絶の言葉だった。
 キクイチロウは村人達にシュウイチを拘束するように命じた。おかしなことをしないように、と。シュウイチはただ黙って受け入れた。いたずらに場を混乱させたくなかったからだ。
 だが、彼らは打ち捨てた。火の手の届かない川の前でシュウイチを投げ捨てて、自分達だけが川を渡ったのだ。
 ぼちゃん、ぼちゃん、どぷん。
 投げた石が飛沫を上げ、鈍い音を立てて沈みゆく。
 川を挟んで彼らは対峙する。飛んでくるのは石の礫と言葉の矢だ。

「こっちに来るな!」
「わしらを呪い殺す気じゃ!」
「お前のせいだ。お前の所為で……!」

 青年のわずかな一挙一動に彼らは過敏に反応した。
 シュウイチが少しでも動くようならその度にわめきたてるのだ。

「来るな!」
「来るな」
「化け物が! 来るな」

 ぼちゃん、ぼちゃん、ぼちゃん。
 来るな、来るな、来るな。来るな、化け物め。
 礫が飛ぶ。ふっと耳の横を通り過ぎたかと思った次の瞬間、ごつんと別の礫が青年の額に当たった。
 川を越え、向こう岸から届いた礫がからんと川原に落ちる。
 つうっと生暖かいものが滴り落ちたのがわかった。

「シュウイチ!」

 罵倒と拒絶の嵐の中に若い村娘の声が混じった。
 対岸に立つ、血を流し呆然とする青年を見る。
「やめて!」と、彼女は叫んだ。けれどそれは狂乱の声の洪水に飲まれて誰の耳にも届かなかった。
 礫と言葉の矢は止まらない。対岸に立つ青年に向かって飛び続ける。
 いてもたってもいられなくなり、彼女は火の手の立つ対岸に飛び出さんとするが、烏合の衆の誰かが腕を掴んだ。
 どこへ行くのだ、と。

「離して!」

 と、タマエは叫んだ。

「どこに行く気だ」
「決まってるでしょ、シュウイチのとこよ!」
「なんだと!? お前はあれの肩を持つのか!」

 驚きの声が上がった。
 戸惑いと怒りの声が混じっていた。

「お前まで頭がおかしくなったか」
「近づいてはいかん!」
「焼き殺される」
「九十九が憑いておるんじゃ!」

 口々に彼らは言う。
 いいか、あれはもうわしらが知っておるシュウイチじゃあない。妖狐九十九が憑いとるんじゃ。お前も見たろう。あいつが炎の詩を詠んだ途端に火が現れたのを。九十九の呪いじゃ。シュウイチは九十九に魂を売り渡してしもうたんじゃ。
 悪いことは言わん。近づいてはならん。
 そう言って彼らはなおも石の礫を投げ続けた。
 川のあちこちから飛沫が上がる。ぼちゃん、ぼちゃん、と音がして、流れの上に飛沫が上がる。

 来るな、来るな、化け物め!
 来るな、来るな、来るな、来るな!
 ぼちゃん、ぼちゃん……

 村の娘は思う。
 青年は、シュウイチはただ、言われた通りに舞っただけ。言われた通りに詠い、踊っただけなのだ。それだけなのだ。
 対岸にたっているのは血を流しているたった一人の青年だ。では一体彼らは何を見ているというのか、ろくに焦点も定まらないまま、敵意むき出しのその目で青年の背後に九十九の影でも見ているとでもいうのだろうか。
 彼らの目は恐怖のせいでひどく乾いていて、それが対岸の青年に向け大きく大きく見開かれていた。
 その目は、異様な恐怖と狂気を併せ持った凄みを帯びている。彼女は全身に悪寒が走るのを感じた。

「…………だわ」

 言葉が漏れる。その声は震えていた。

「おかしいのはあんたらのほうだわ……!」

 そういって彼女は自分を掴む腕を振り払った、再びつかみかかったものには噛み付いて抵抗した。
 ばちゃりと川の流れを踏んで、燃え立つ対岸に向かって走り出した。
 もう一瞬だって彼らと同じ岸には立っていたくない、そう思った。
 
「シュウイチ、逃げて!」

 流れを両の脚で掻き分けながら、川の中腹に立って彼女は叫んだ。

「逃げて! こんなやつら相手にしたらいかん。早く目の届かんとこへ!」

 このまま行けば殺しかねない。そう思った。こいつらはシュウイチを殺しかねないと。
 殺したところで自分達が助かる見込みも無いのに、彼らは自分達が助かるためにシュウイチを殺しかねない、と。
 彼女は川を反対側に渡るべく進む。今彼女にとって怖いものは、シュウイチでも、野の火でも、九十九でも無かった。炎の無い対岸で吼える烏合の衆だ。
 対岸に火が燃えている。夜空を赤く染めている。野の火がすべてを飲み込もうとしている。

『お前の願いを叶えてやろう、娘』

 あの時、そう九十九は云った。だが同時にこうも言った。

『だが、その結果がお前の望み通りとは限らないがな』

 彼女は願った。こんな村出て行きたいと。すべて燃えてしまえばいいと。
 だが違う。望んだのはこんな結果ではなかった。彼女は、今、目の前で礫と言葉の矢を飛ばされているこの青年をこんな目に遭わせたいわけではなかった。
 呆然とした。ああ、なんという浅はかさであろうか。
 一番恐ろしいのは、九十九でも、野の火でも、村人達でもない。こんな願を掛けた自分自身ではないか――。

「わたし、私は、」

 脚が止まってしまった。シュウイチの元に行って自分は何と声をかけるつもりなのか。自分にそんな資格があるのか。彼をこんな目に遭わせた自分に……。
 ぼちゃん、とタマエのすぐ横に礫が落ち、飛沫が上がる。罵倒の声は止まらずガンガンと頭に響いた。
 炎は止まらない。夜の闇を赤く赤く染め上げる。

「逃げて!」

 川の中で動けないまま、彼女は叫んだ。どこへ逃げろというのだと自問しながら。

「逃げて……」

 シュウイチはタマエと村人達に背を向けた。自由にならない両手をそのままに、炎が燃える方向に向かってたどたどしく歩き出す。脚が動かない。彼女は追いかけることが出来なかった。

「あ……あ、あ…………」

 振り返らない青年の背中がまるで自分を見捨てたように見えた。
 言葉にならない言の葉。かけられない声。それは青年の姿が煙の向こうに消えた後で激しい嗚咽となって現れた。
 ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさ……
 口がたどたどしく動作だけを繰り返す。喉から出る音は荒い呼吸ばかりだった。
 苦しい、苦しい、苦しい。胸が焼けるように、締め付けられるように。これは何だろう。ここにあるのは彼をこんな目に遭わせた罪悪感だけなのだろうか。
 ……いいや、違う。
 刹那、彼女は到達に悟った。
 ああ、そうか……たぶん……嫌われたくなかったのだ、と。

 馬鹿だ、そう思った。
 こんな時になって、胸の内の本心に気が付くなんて。私は馬鹿だ。

「焼け死んでしまえ、狐憑きめ!」
「二度と姿を見せるな!」

 背中ごしに罵声が響いた。彼女ははっと我に帰る。見上げた夜空が赤く染まっている。

「……やめて」

 と声が漏れた。
 それは村人達への言葉だったのか、あるいは九十九への言葉だったのか、彼女自身にもわからなかった。たぶん両方だったのだと思う。

「……お願い……もうやめて」

 この世とは思えぬ空を見上げて、彼女は言った。
 ぽつ、と何かが頬を叩いた。

「え……」

 ぽつりぽつりと雨が降り始めていた。





 沸き立つ湯気の先に満天の星をたたえた星空が見えた。
 傍らにはなぜかカゲボウズが一匹、湯船から頭を出してぷかぷかと浮いている。ツキミヤはいろいろ言いたいことはあったのだが、いい湯だわぁとばかりにふや〜っとした人形ポケモンの顔を見て、やはりいろいろと諦めたらしい。今更湯船に沈めるようなことはしなかった。
 平和だ。広い湯船の中にぽつんと座ってそのようにツキミヤは思った。
 宿題は出たにしろ、今夜だけでもあの猛特訓が無いと思うとそれがこの上なく幸せだった。
 が、それも束の間、突然カゲボウズがぴくりと硬直したかと思うと、ぎらりと三色の瞳を光らせた。誰かがこっちを見ているという合図だった。
 なんだ、また"彼"か……。
 そんなことを思った。

「性懲りも無いコだね」

 青年はくすっと笑みを浮かべる。

「大丈夫、何もできやしないさ」

 カゲボウズを安心させるように言った。
 直後、浴場の扉をがらがらと開ける音がした。湯気の向こうから何かが青年のほうへ向かってきて、やがて小さな影が現れた。ヒノキでできたと思しき、洗面器を片手に持っている。

「なんじゃい。コウスケが先に入っておったか」
「やあ、お先に失礼らせてもらってるよ。タイキ君」

 青年は家の主の孫に挨拶をした。
 タイキは湯船から湯をくみ上げるとざあっとかぶり、ツキミヤの隣にどぷんと沈んだ。
 入った時に起こった波が湯船に浮かぶカゲボウズを一瞬おぼれさせたが二人とも知らん顔だった。

「練習はおわったんじゃな。ヒスイは一緒じゃないのか」

 そんなことを尋ねてくる。

「ああ、彼はみんなでお風呂入ろうとかそういうタイプじゃないからね」

 出会った晩に焼き殺すなどと物騒なことを言っていたのを思い出す。

「そうかー、残念じゃなぁ。昼間の桃太郎の続きでも聞いたろかと思っていたんだが」
「桃太郎?」
「そうじゃ。コクマルはどこぞほっつき歩いているかわからんし、ヒスイはおらんしつまらんのう」

 タイキは本当に残念そうに言った。
 あの時、ヒスイは何を言おうとしていたのだろうか。それが妙に気になっていた。
「つまらなくて悪かったね」と、ツキミヤが笑う。
「別にそういう意味じゃないわい」と、タイキが答えた。

「なあ、コウスケは桃太郎の話は知っとるか」
「そりゃあね、この国の男子が聞かされる昔話の定番じゃないか」
「そうじゃよな……知らんわけあるまい」
「それがどうしたんだい」
「じゃ、コウスケは桃太郎のことどう思う?」
「そりゃまたおかしな質問だな」
「やっぱりそう思うか」

 タイキはうーんとあごに手をあてた。あの時、ヒスイは何を伝えたかったのだろう。くびを捻ってみてもさっぱり想像がつかなかった。
 ツキミヤはざぶんと音を立てると、湯船の船頭にひじをつく。しばらくの沈黙ののち、こう言った。

「……そうだな、これは僕の意見じゃないんだが、ひとつおもしろい話をしてあげよう」
「なんじゃ」
「桃太郎をどう思うかだよ」

 青年はすっと腕を伸ばすと、湯船の中ですっかりのぼせているカゲボウズをつまみあげた。

「昔話はね、昔の人達が何を考えていたかを、彼らが何に喜び何に悲しんだのか。それを知るための重要な手段だよ。けれど話も時を経て話は変わっていく。場合によっては都合よく作り変えられるものなのさ」
「? 何が言いたいんじゃ」
「そのまま受け止めてはおもしろくないってこと。もっと想像力を働かせないと」
「想像力……」
「そう、たとえば鬼の立場になってごらん。違う桃太郎が見えてこないか」
「コウスケもヒスイも難しいことを言うんじゃな。桃太郎は桃太郎じゃろうが」

 少年はますますわからないという顔をした。

「桃太郎に関する一説にこんなものがある。その説を唱える学者が言うには桃太郎は征夷大将軍なんだよ」
「セーイタイショウグン?」
「すごく昔の軍隊の一番えらい人って言えばわかるかい? 後の世では、政治をも行うことにもなる役職さ。当時の征夷大将軍の仕事は周りの小さな国をまとめて一つにすることなんだ。これってまとめられる側から見れば侵略でしかないんだけどね」

 湯舟から掬い上げられたカゲボウズはぼうっとしている。
 しょうがないなという感じで、彼は湯船から上がると、蛇口をひねって冷水を洗面器に溜めた。
 タイキはしばらく黙っていたが、やがて、

「それじゃあ、お供のポケモンと鬼っていうのはなんなんじゃ」

 と言った。

「いい質問をしてくるじゃないか」

 予想以上の反応にツキミヤは少し嬉しくなる。

「ポケモンっていうのは単純に一匹を表さない。すでに統一を済ませた国の人々や彼らの持っているポケモン達だ。鬼は自分達の言うことを聞かない者をひっくるめて鬼と呼ぶんだ。従わない者はみんな鬼だ。本当に角が生えているかどうかは関係が無い」
「そんならポケモンにやったポロックってえのは」
「言うことを聞いて貰うにはそれ相応の見返りがなくちゃあね」
「……カイジュウか」

 タイキはひどく納得した様子だった。

「へえ、難しい言葉を知っているんだね」

 感心してツキミヤは続ける。そして問うた。

「タイキ君、もし君ならどうする」
「どうするって、どういうこっちゃ?」
「君がもし鬼だったら、桃太郎に従うかい。従えば見返りにポロックが貰える。けれどそのポロックが美味しいとは限らないよ。黒い色のまずいポロックかもしれないし、ちらつかせるだけで一口だってくれないかもしれない。そういうことを考えたことはあるかい」

 ツキミヤはいつになく楽しそうだった。

「桃太郎の狙いは鬼の持つ宝なんだ。じゃあ、鬼の宝って何だと思う? 君ならポロックと引き換えに宝を渡すかい?」

 溜めた冷水をカゲボウズにかける。
 ぱっちりと目を覚ましたカゲボウズは飛び上がり、ぶるぶるっと震えて飛沫を飛ばした。

「少なくとも僕にこの話をした父さんなら、渡さないだろうな。どんな上等のポロックが目の前に置かれても、宝を差し出したりはしない。たとえ鬼や化け物と呼ばれても」

 別の洗面器にいれてあった手ぬぐいをカゲボウズの頭上に落とす。
 ふわりと包み込んで抱き上げる。

「だからね、僕はそういう風にありたいんだ」
「……、…………」

 タイキは青年を見つめるばかりで何も言わなかった。
 少年の目にも入った青年の胸の傷。それが彼の決意を物語っているように見えたのだ。

「まあ、そのなんていうのかな? ノゾミちゃんと仲良くしたいなら、誘えばって話」

 先ほどのどことなく重苦しい雰囲気から一変、青年はからかうように言った。
 突然、そんな話題を振られて少年ははげしく動揺する。
 ぶわっとオクタンのように赤くなったのが見て取れた。

「たとえ、何企んでいるの変態と言われても」
「なな、ななななな何を言い出すんじゃ! 桃太郎とノゾミは関係なかろーが!」

 広すぎる風呂場にタイキの声が木霊する。

「そうだな。まずはお昼にでも誘ったらいい。君の家も出店しているんだからご馳走してあげたらどうだい?」

 青年はそこまで言うと、タオルに包まれて南瓜祭の仮装のようになったカゲボウズと共に煙の向こうに消えていった。

「鬼が島に突っ込まないと宝は手に入らないよ」





 ぽつり、ぽつりと雨が降る。

「くそ、やはり、伝説のようにはいかんか……」

 悔しそうにキクイチロウは舌打ちした。
 雨乞いは高度な技だ。水を司るポケモンといえど一度に大量の雨粒を、それも広範囲に降らせるには相当の地力を必要とする。燃え広がる野の火を消し去るのは水ポケモンといえど容易なことではない。だからこそ野の火を払うことの出来る雨降は特別であり、神と呼ばれるのだ。
 これだけの溜めと時間をかけて、小雨。これが今の彼のポケモンの限界だ。広範囲に力を行き渡らせるのは彼の考えている以上に消耗を強いるものであったのだ。

「すまんのうヌマジロー。きばっとくれ」

 彼は、汗をぬぐう。傍らにいるラグラージを励ました。
 小雨の中、他の水ポケモンとその持ち主達が少しでも進行を食い止めようと局地的な火消しにあたっているのを彼は一歩遠くから見わたす。時折、声を張り上げては、精鋭たちを鼓舞した。
 負けるわけにはいかない、そう言い聞かせた。
 俺は雨降なのだ。ゆくゆくはこの村を治めていく男なのだ。俺は。
 状況はどうだろうと、雨降は考える。気のせいかも、そう思いたいだけかしれないが、思いのほか先ほどより炎に勢いがないような気がする。

「いける……か?」

 確かめるように言葉を口にした。
 するとその声に答えるものがあった。

「いけるかじゃない。いってもらわにゃ困るんだ」

 雨降が振り返れば、四、五歩先に立っていたのは今年の九十九だった。
 
「シュウイチ…………!」
「よお、雨降」

 青年がフッと笑った。その顔には赤黒い何かが流れた跡があった。ぬぐうことも出来ず、そのままになっているのが痛々しい。

「川を渡らしてもらえなかったでな、戻ってきてしもうたわ。腕はこのとおりだし、石は投げられるし、タマエは泣くわで散々じゃった……。ところでこの雨を降らせとるんはヌマジローか? やりおるの」
「…………、……」

 キクイチロウは答えなかった。ただ無言でシュウイチを睨みつけた。
 それは内心に激しく動揺している己を悟らせまいとしての行動だった。
 何で戻ってきたのだ。そう思った。

「……なんだ。おまんはまだ疑っとるのか」

 呆れた様子で青年は云った。雨降は答えない。
 こいつは違うのだ。頭ではわかっているのに、震えが止まらなかった。
 九十九……九十九、九十九………………つくも。
 滅びてもなお、村を恐怖に陥れる炎の妖。
 倒されるべきだ。九十九ならば、九十九ならば雨降である俺が倒さなければならない。今年の九十九は……シュウイチだ。
 もしも、ここで……。
 キクイチロウはすうっと人差し指をシュウイチに向けた。

「……皆……いるぞ。九十九はここに」

 何かに操られたかのように口から濁音が響いた。
 皆ここだ。九十九はここにいる。こいつを退治すれば皆助かる。
 その声は震えていた。

 もしも今ここで…………もしも、今ここでこの男を殺してしまっても誰一人咎めはしないはずだ……。

 彼は認めた。ずっと目を逸らしていた、気付かない振りをしていたことを、認めた。
 ずっとシュウイチに嫉妬していた。シュウイチを憎んでいたことを。
 人より多くのものを持って生まれてきた。生まれながらに約束された地位。裕福な家。それなのに同じ年に生まれたこの男はどうだ。何も持たずに生まれてきたのに、気がつけばすべてを持っているじゃないか。
 皆に慕われるこの男が嫌いだった。全てを知り、何でもできるこの男が気に喰わなかった。自分がどんなに欲しくても手に入れられないものを、この男は何もするでなく。
 キクイチロウは知っている。村一番の器量よしのあの娘が、なぜ自分との縁談を断ったのか――。
 ああ、なんだって遠ざけたのに舞い戻ってきてしまったんだ。俺の前に。
 シュウイチ、俺は。

「こいつだ。こいつが……」

 その時だった。ラグラージが咆哮を上げた。ざあっと一瞬だが雨が強まった。
 キクイチロウはハッと我に返る。
 視線の先で雨に濡れた青年が、自分を指差す男を見つめていた。青年の瞳は波紋ひとつも波打たない水面のような、感情の感じられない冷めた色だった。雨粒がするりと流れて、顎から滴り落ちる。
 キクイチロウはぐっと拳を握ると青年に背を向けた。
 炎の燃えるほうに向かい黙って走り出す。決して振り返らなかった。
 どうしようもない敗北感が胸の中を吹きすさんでいた。

「皆集まれ! あの田の境界でもって食い止めるんだ」

 彼は叫んだ。
 舞台の続きを。中断した舞台の続きを演じなければいけない。
 負けるわけにはいかない。雨降は炎の妖に敗北してはならないのだ。

「皆一列に並べ! 決して炎を通すな! これ以上の侵略を許すな!」

 小さな農道を挟んだ田の境界線。一列に並び、彼らは炎を迎え撃つ。
 この境界のことを彼はよく知っていた。自分にとって目障りな輩がよくうろついている場所だからだ。
 因縁めいている、よくできた脚本ではないか。そのように彼は思った。
 記憶に間違えがなければここはちょうど"境目"のはずだ。

 ラグラージが吼える。水ポケモン達が呼応するように雄たけびを上げた。
 今宵、男は雨降となった。
 雨が降る。天よりの水が金色の大地を濡らしていく。

 降らせ 降らせ 天よりの水
 降らせ 降らせ 天よりの水

 見よ、空覆う暗き雲よ
 雲よ我が命に答えよ

 降らせ雨を 降らせ雨を 消え去れ炎よ
 降らせ雨を 降らせ雨を 消え去れ悪しき火

 炎の詩は、雨の詩によって打ち消されなければならない。



 結果として、火は消し止められた。
 雨のおかげだったのか、いつのまにか炎の勢いが落ち始めたからか。真相はよくわからない。
 ただ村人の多くは、今年の雨降を賞賛した。この男が村を救ったのだ、と。

 けれどしばらくの間、その名残は村に留まっていた。
 煙がすっかり晴れてしまうまでに数日を要したと彼らは記憶している。
 だが煙が晴れたその後も、炎を呼んだ娘、雨を降らせた男のその中で、何かがずっとくすぶり続けていた。





 野の火。
 遠い遠い昔、田畑を炎の赤で染め人々を苦しめたという妖狐九十九を豊穣の神、雨降が打ち倒す、この村の伝承(いいつたえ)。
 それはいつしかその物語は祭の儀式となり、村の石舞台で上演されるようになった。より一層の豊穣を願って。
 結末はお約束。炎は雨に打ち消されるのだ。火が水に消されるのは自然であり、村人にとってそれは約束された安心できる結末である。
 だが、二人の青年は脚本を広げる。別の結末を知るために。彼らが見るのはもう一人の青年が書き換えたもうひとつの物語。それはまだ三人だけの秘め事、共犯者達の秘密。
 その脚本の中で、妖狐九十九は雨降を打ち倒した。

「恥を知れ、偽の神め」

 そう九十九は云った。

「この土地から立ち去れ。元よりここは我ら一族の土地。ここの神は私だ。雨降ではなくこの九十九」

 そうして九十九は謳う。勝利を。毎年謳い踊る雨降の代わりに。
 彼らは詩の載る次のページを開いた。

「……!?」

 二人の手が止まった。
 どこかで見たような文字の羅列だったからだ。

「炎の詩そのままじゃないか、芸が無いな」

 手抜きもいいところだとばかりにツキミヤが言った。

「いや待て」

 そう言って脚本のある部分を指差したのはヒスイだった。

「よく見てみろツキミヤ。この文字と、この文字がオリジナルと入れ替わっている」
「……本当だ」

 炎の詩のところどころに見られる文字の入れ替え。それなのに詩の韻に変化はなく、今までの練習で十分にカバーできる内容であった。何より青年を驚かせたのは、その内容の変化だ。

「驚いたな。二つの文字を入れ替えるだけでこれだけ詩の意味が変わるとは」

 ひどく感心した様子でヒスイが唸った。

「言葉というのは興味深いな。それにこの解釈は面白い」
「ああ」
「先生にも教えたい。これは新しい九十九像だ」
「しかも、だ。収穫祭の意味を壊さない内容になっている」

 ツキミヤも納得した。ナナクサが書き換えたい内容とはこのことだったのか。これならタマエも喜ぶに違いない、そう思った。祭りを壊しさえしなければ、これは今年のサプライズだったなどと説明できる。観客の支持を得られれば予想される批判はかわせるかもしれない……。

「でも待てよ」
「なんだ」
「文字を見ている僕達はいいが、聞こえる音自体はほとんど一緒なんだぞ。イントネーションもこれといって変わらない。字幕でも出ない限り、観客は意味を理解できないんじゃないか?」

 意味が通じないのであれば、脚本を改変する意味はない。
 すると、ヒスイが冷静に言った。

「それは奴なりに考えがあるんじゃないのか? 今ここに居ないのはその準備の為だと思うがな」
「そうか。たしかにあいつのことだから、それなりの演出を考えているのかも……」

 ツキミヤはうんうんと頷いた。
 するとヒスイがすっとツキミヤに脚本を押し付けた。

「なんだい」
「そんな訳だから、せいぜいちゃんと台詞を覚えることだ。俺はほとんど台詞がないからお前にやる」
「……」
「心配するな。あのカメックスを倒す時はちゃんと手伝ってやる」

 そう言ってヒスイはすっくと立ち上がった。
 すたすた部屋の出口と歩いていき、襖を開ける。

「どこに行くんだよ」
「風呂だ。個人的にやることもある」

 そう言ってぴしゃりと襖を閉めた。
 あいかわらず無愛想というかつれないやつだ、そう思いながら青年は頭をかいた。
 再び脚本を開く。ナナクサが五月蝿いからとりあえずは脚本を覚えなければなるまい。だが……
 あの雨降とカメックスを倒すところまではともかく……

「それ以降は正直意味が無いな……」

 くっくと青年は低い笑いを吐き出した。
 九十九は云っていた。舞台上で九十九が雨降を倒したとき、歴史が変わる、と。私は滅びず実体を持つと。
 つまりその後は本物が本物の脚本を演じることになる。伝統的な脚本でも、今手元にある脚本もない、九十九自身が望む脚本を。

『私の炎を思い出させてやりたい』

 そう妖狐は云っていた。
 そこにあるのは紅い赤い炎の海だ。あの金色の海は炎に飲まれる。九十九の欲望のままに……。すべては灰に帰す。幾重の月を重ねて実った金色の粒、人々の願い。それら全て。脚本を持つ手に汗が滲んだ。
 ……いいのか? 本当に。このまま妖狐の望むままに演じてしまって本当にいいのか。
 青年の心の内に少しだけ迷いが生じていた。




 山から風が吹く。よく伸びた緑色の稲をさわさわと揺らす。稲はよく成長していたが、それが花となりやがて結実する兆しは一向に見られなかった。
 野の火は消えた。雨降によって野の火は流された。けれど村の抱える問題までが共に消え、流されたわけではなかった。
 人々は再び祈りの日常へと舞い戻っていった。祈りが届く様子は無かったが他にやることもない。

 そよぐ緑の海のその中に、黒く焦げた波の立たぬ場所があった。神事が執り行われたあの夜に起こった炎、それが舐めた傷跡だ。その場所を一望するように一人の青年が立っている。今年の九十九だった。縄はかけられておらず、もう血も流れていなかったが、その顔に生気はない。
 ざくざくと農道を通って誰かが近づいてきたのがわかったが、振り返らなかった。

「……シュウイチ」

 背後から声がかかる。

「タマエか」

 力なく青年は返事をした。
 本来ならば水面越しに二人の表情が映ったろう。しかし今は見ることが出来ない。

「いいのか、俺に近づいて。今や俺は妖怪、村じゃ腫れ物扱いだ」
「見てる人なんかおらん。みんな大社にいっちまった」
「……そうじゃな」

 黒く焦げた稲の残骸をその目に焼きつける。

「皆、誰かのせいにしたいんだ。何か悪いことがあれば九十九のせいさする。米が実らんのは九十九のせい。田が焼けたにも九十九のせい。真実を探ろうとはせん。そう考えるのは楽だからだ。だから雨降なんぞ下らないものにすがる……」

 青年は今言える精一杯の不満を焦げた田の肥やしにした。

「シュウイチはただ舞っただけだわ」
「当たり前じゃ」

 シュウイチが静かに言った。だが、タマエはびくりとした。
 私のせいだ。そう思った。

「し、シュウイチは……これから、どうするつもりなん……?」

 タマエは恐る恐る尋ねた。

「そうだな。次の田植えの次期まで出稼ぎに出よう思てんねん。村ではこんな扱いやし、何より田んぼがこんなんじゃな」
「え……?」
「なんじゃタマエ、気付いておらなんだか。今回の大火で黒焦げになった大部分は俺んちの、穴守の家の田なんだよ」

 そう言われ、タマエははっとした。
 迂闊だった。各々の家の境界くらい知っていたはずなのにそんなことにも気がつかなかったとは。
 あの時、キクイチロウ達が必死で炎を食い止めたその境界。それは穴守の家の田と他の家の田を区切る境界であったのだ。
 その心中は察するに余りあった。目の前にあるこの風景のように荒廃しているに違いなかった。
 田に水は満ちておらず、土は乾き始めている。シュウイチの目からは涙さえ出なかった。

「……わかっておった。今年の稲はもうだめだと。けど悲しいなぁ」

 ぎりりと胸を締め付けられた。よりにもよって。よりにもよって……!

「シュウイチ、ごめん。ごめんなさい……私……私……」

 タマエは手で顔を覆うとわっと泣き出した。
 私の所為だ。私の……。

「何でおまんが謝るんじゃ」

 力なくずっと黒い大地を見つめていたシュウイチだったが今のでさすがに振り返った。
 シュウイチは何も知らない。ただ思った言葉を口にしただけだ。無論、タマエを責めようなどと思って口にしたわけではなかった。

「泣くなよタマエ。俺はしばらくいなくなるけども、その間に病気に強い種もみを捜してこようと思う。来年はいろんな種類の米を育ててみよう。いくらかは成果があがるかもしれん」

 そういってシュウイチはタマエの頭を撫でた。小さかったあの時のように。それでもタマエはしばらくの間泣き続けていた。
 けれど空は青く青く晴れて、村を囲む山々の間を蝉の合唱が木霊して彼女のすすり泣く声を掻き消した。
 こんな村出て行きたかった。
 けれど待ってみようと彼女は思った。シュウイチは諦めていない。少なくとも来年の田植えの時期にシュウイチが帰ってきて、その成果を見届けるまで、彼女は待ってみようと思ったのだ。





 穴守の家は広い。ヒスイと別れたツキミヤは少し頭を冷やそうと、この家を歩き回ってみることにした。始めて訪れた時に入ったあの絵のある部屋の前を通り過ぎぐるぐると歩き回る。そのうちによく整えられた広い庭が目に入った。青年は軒先の端のほうに腰掛けると庭を見やる。そこは松や苔といった地に根を下ろす緑に彩られ、りーりーという虫の音と明かりの灯る石灯籠に演出された空間だ。
 ゆったりとした時間が流れている。夜の練習が無いだけでこんなにゆっくりしたものなのか。虫の音が心地よい。青年はしばしその世界に身を委ねた。
 ふと、羽音が聞こえた。屋根の上のほうから何者かが軒先に降り立ったのだ。
 
「どうしたの」

 と、青年は尋ねた。そこには見慣れた緑色の毛玉。そしてその少し後ろに黒いぼさぼさの麦藁帽子の姿があった。入浴中に言葉を交わした少年のポケモンだ。

「ああ、その子……友達になったんだ?」

 ツキミヤが尋ねる。タイキのポケモンであるヤミカラス。たしか名前をコクマルと言ったはずだ。緑の毛玉はほら行けよと言う様に、小さな身体で後ろから黒の麦藁を青年の前に押し出した。
 一方黒色は迷いがあるらしく、緑と青年の間で、視線を交互に投げかけるばかりでなかなか、視線が定まらない。
 すると青年はくすりと笑みを浮かべ、

「だいたい想像がつくよ。君が何をしに来たのか」

 と言った。
 すると矢で射られたかのように鴉は固まって、観念したかのように青年を見た。

「君は視える子なんだね」

 と、青年は続ける。
 人間でこれが視えるのはほんの一握り、少数だ。だが、より自然というものに近く、ゆえに神的なものに近いポケモンには視える者が多く居る。
 だから多くの場合、青年はポケモンに嫌われる。見えていないポケモンですら何かを感じるらしく、あまり近寄ろうとはしないのだ。

「僕がはじめてあの家に来た時、窓の外から、湯煙の向こうからずっと僕を観察していたのは君だろう。タイキ君はただ寝室を覗こうとしたに過ぎない」

 あの夜を思い出しながら青年は言った。

「あの時だけじゃない。君は可能な限り僕を監視していた。シュウジと村を巡っていた時、舞台の練習をしていたとき、さっきのお風呂の時…………カゲボウズ達の食事の時」

 鴉がぎくりとしたのが分かった。
 そう。ポケモン達はは知っている。感じ取っている。青年が自らの中に飼っているもの。彼らを満足させるために、どんな行為を繰り返しているのかを。

「おいで」

 そう言ってツキミヤは右手を差し出した。
 びくりと鴉が固まり、羽毛は縮まって細身になる。
 交差する一羽と一人の視線。
 僕という人間を推し量りに来たんだろう君は。青年の瞳はそう語りかけていた。
 僕の真意が知りたいんだろう。だったら実際に傍に来て僕に触れてみるといい、と。
 青年は鴉を誘う。ヤミカラスがおそるおそる青年のほうへ歩み寄った。
 青年は腕をを伸ばすと細く長い指で黒く艶のあるの羽毛に触れた。赤い瞳の黒い鳥ポケモンはぎゅうっと目を閉じる。ツキミヤは鴉の細い首に蛇のように指を絡ませてから、麦藁帽子のつばをそっと撫でる。不安げに瞳を開き青年を見る鴉は震えていた。

「僕が、怖いかい?」

 鴉の体温と拍動を感じながら、楽しげに、けれど少しだけ悲しそうに青年は笑った。

「けど、僕が君に悪意を持っていないのはわかってもらえただろう?」

 そこまで言うと指を離し、束縛から鴉を解放してやった。
 鴉が何かを訴えるように青年を真っ直ぐに見つめている。

「家族思いなんだね、とても」

 と、青年は言った。

「心配しなくていいんだよ? 僕はこの家の人達に何もしない。約束するよ。でも……そうだな」

 鴉の瞳の奥を覗き込むようにツキミヤは言った。

「その代わり君も一つ約束してくれないか」

 鴉はなんだ? とでも言いたげに首をかしげた。

「ノゾミちゃんに、水の石を返してあげて。ね?」

 すると鴉はそんなことかと少し安堵したような表情になって、やがて遠慮がちに背を向けて翼を広げると飛び去っていった。

「信用が無いね、僕って」

 闇に消えて見えなくなった鴉を見送って、青年は緑の鳥ポケモン、ネイティに語りかける。

「彼、君に相談してきたんだ?」

 ネイティがこちらを見た。
 それは無言の肯定だ。

「君が傍にいてくれるだけでポケモン達はずいぶんと安心してくれるみたいだ。僕が嫌いな事は変わらないにしろ、ね」

 青年は思う。さっきのはコミュニケーションがとれているほうだ、と。
 ネイティがぴょんぴょんと跳ねて近寄ると、ひょいっと青年の膝に乗ってきた。
 青年は手のひらで包み込むようにして膝に乗った小さなポケモンに触れる。暖かかった。

「君には感謝しているよ」

 そう言って、頭を撫でてやった。ネイティはすっかり暗い時間のせいか眠かったらしく、やがて目を閉じると、膝の上で寝息を立て始めた。鳥ポケモンのくせに無防備な子だなと思う。
 そして青年はふと思い出した。そういえば名前を考えていなかった、と。

 ――きっと名前をつけてやれば喜ぶぞ

 老婆の言葉が思い出される。

 ――コースケ、名前はな、大切な人に呼んでもらう為にあるんじゃ

 少し偏屈で頑固なところもあるけれど、自分によくしてくれたタマエ。思えば、ここに来てから彼女には世話になりっぱなしだった。好意とはいえ、本当によかったのだろうか。自分はタマエに何か少しでも返したのだろうか。
 ナナクサはタマエを喜ばせるために脚本を変えたいと言った。
 では、自分は? 自分は何の為に九十九を演じるのだ。

「ふん、何を迷っているんだ。答えなんか最初から」

 決まっているじゃないか。

 ――僕はこの家の人達に何もしない。約束するよ

 先ほどの自分の言葉が思い出された。ああ、何故あんなことを言ってしまったのだろう。迷いが生じるようなことを。
 青年は再び自問した。





 どこからか戻ってきたナナクサは禁域に立っていた。
 片手には何か丸いものを握っていた。

「ずいぶん山奥だったけど、あった。おおきな緑のぼんぐりの木。本当にシュウイチさんは何でも知っている」

 九十九が息絶えた場所と言われる苔むした大きな岩。今は雨に直に晒されることがない。そこには後に岩を囲うように立てられた祠があるかからだ。それはタマエが、村の外の職人に依頼して立てさせたものだった。
 祠近くには、まるでそこを見守るかのように大きな木があった。地面に剥き出したその根に一本に腰を下ろすと、ぼんぐりと呼ばれる木の実をかざし、見つめる。
 月光を浴びて光る、つるつるとした面に刀を突き立てる。コルク栓ほどの穴を開けると中を取り出しにかかった。
 シュウイチさんはおかしな人だ、とナナクサは思う。
 自分ではポケモンをつかまえないくせにこうしてぼんぐりでボールを作るのはやたらとうまかった。ぼんぐりならなんでもいいわけではない。選び方のコツは手ごろな大きさ、外皮の艶、帽子の付き具合、いろいろんな要素があるのだ。彼はどんなぼんぐりがより良い容れ物になるか知っていた。その昔、機械球が高価で高値の花だったころ、シュウイチはこうして作ったボールを近所の子ども達に分けてやっていた。
 穴が広がらないように中身をくりぬき、加工作業を進めるナナクサの耳に、遠くから何かが近づいてくる音が伝わった。複数の何者かが木々の間を飛んでこちらに近づいてきている。その音はナナクサが腰掛ける木のてっぺんまで来たところで止まった。

「やあ、お疲れ様。ひさしぶりだね」

 手を止めないままナナクサは言った。

「このところずっと忙しくてさ。ずっとこれずにいたんだ。……ところであっちの様子はどうだった?」

 大きな木に宿った何者かが、がさがさと音を立てた。
 それだけで彼はだいたいを察したらしかった。

「そう。あっちはあっちで……ね。どうあっても邪魔をする気なんだ。しょうがないな」

 ナナクサは予想はしていたよ、というように答えた。

「まぁいいんじゃないの。どちらにしろあの人にはおとなしくして貰うつもりだったし。この際だからちょっと脅かしてやろう。……たぶん僕にならそれが出来るしね」

 中身をすっかり出し終わった。ナナクサはくるりとぼんぐりを回転させ出来栄えを確かめる。簡易なモンスターボールの完成である。本当は中を洗ったり、乾かしたりしたかったのだが、あまり時間がない。この際、用途を達せられればいいだろうと考えた。
 彼は腰を上げ、再び立ち上がった。何者かの宿る木を見上げた。

「さて、はじめようか」

 がさがさと音がして、彼らはひょいひょいと木から降りて来る。
 身長はナナクサの半分強ほどだろうか。数は五、六いるように見えた。

「さすがに全員というわけにもいかないので、代表を決めてくれ。君達の中で一番取組に強いのは誰だい?」

 一匹が進み出た。準備がいいじゃないか、とナナクサは言った。
 ナナクサもその一匹の前に進み出て、コン、と今まで作っていた即席のボールを額に当てた。その一匹は瞬く間に吸い込まれていった。

「ではよろしく……、……」

 彼はよろしくの後に種族の名を言いかけた。だが、口をつぐんだ。そして少し考えるとこう言った。

「いや、一時的にはせよ。容れ物に入ったポケモンにはニックネームというやつが必要だな。種族の名前ではない、彼だけの名前が。できれば残った君達をも代表するような名前がいい」

 残ったポケモン達を見て云った。

「では、こうしよう。彼の名は――――」

 風が吹いて黒い森をざわっと鳴らせた。
 また会おうとでも言うように残った者たちが深い山の中へと消えて行った。
 残されたナナクサはぼんぐりをじっと見つめると、来るべき日を描いて呟く。
 なぜか、ぼんぐりを持つ手が小刻みに震えていた。

「僕に出来るだろうか。米の栽培や舞とは違う……これは僕が初めてやることだ」

 興奮か、それともこれが緊張か。
 自問する。こんなことは初めてだった。この村に来て三年だぞ。今更? ずっと演じ続けてきたじゃないか……。そう彼は自問する。
 だが、それは唐突にぴたりと止まった。思い出したのだ。

 ――……君にとって僕らのことは単なる仕事なのか

 それは青年の言葉。今年の九十九の言葉。
 そうだった、とナナクサは思い返した。

 ――僕らは……君と僕、それにヒスイ。同じ目的の下にこうしている。事を起こそうとしている。これは僕達だけが共有できる記憶……思い出だとは思わないか

「ふふ、そっか。初めてってこういうことなんだ」

 そうだ、しっかりしろシュウジ。お前はもはや一人ではないのだ。
 彼は自分自身にそのように言い聞かせた。

「そう、僕だけの……僕達だけの……シュウイチさんのじゃない、これは僕自身の……」

 夜の山は黒く黒く染まっている。青黒い空にわずかに木々の輪郭が見える。大きな何かが今まさに目を覚ます、開眼せんとするような、そんな形をした半月の晩だ。
 雨降大社の宝物殿に何者かが侵入したのはその月の下での事だった。


  [No.23] (十六)狐の子 投稿者:No.017   投稿日:2010/08/14(Sat) 18:35:39   52clap [■この記事に拍手する] [Tweet]



(十六)狐の子


 仮初の世界に仮初の月が昇っていた。
 大鳥居の下に立った白銀のキュウコンは、九十九役の青年を待っていた。
 だが相当に疲れが溜まっているのか、その気が無いだけなのか。青年は一向に現れる気配が無い。

「つまらんな。気の利かぬ小僧よ」

 と九十九は毒づいた。たとえ他愛の無い会話でも、交わされる言葉に嫌味が含まれているとしても、ここにしか存在できない彼にとってそれはある種の楽しみであったのだ。
 だが不意にぴくんと見本の耳が立った。
 ぐすん、ぐすん、と誰かがすすり泣く声がしたのだ。
 振り返ると、そこには一人の少年の姿があった。

「お前は」

 九十九の声には少しばかりの驚きが含まれていた。
 どこからか何の前触れも無く現れたのももちろん彼を驚かせたのだが、その少年が待ち人によく似ていたからだ。まるであの青年をそのまま小さくしたような。

「お父さん、お父さん……どこ」

 少年は弱々しい声で呟いた。目からぽろぽろと零れるものを懸命に腕でぬぐっていた。
 九十九はこの少年を知っていた。会ったのは初めてではない。あの時、青年と九十九がはじめて顔を合わせたあの夜、少年は不意に姿を現したことがあった。

「誰かと思えば"小さいほう"か。どこからともなく現れる奴よの」

 するとやっと少年はキュウコンの存在が目に入ったらしい。

「ねえ、僕のお父さんを見なかった?」

 と、尋ねてきた。

「いいや、ここには私しか居ない」

 と、キュウコンは答えた。

「そう……」

 少年は気落ちした声で言った。
 そう、"囮"はあの時しか使っていない。実を言うなら少し後悔していた。あの方法は青年を相当に怒らせた。九十九を睨みつけたその目は殺意と表現しても相違ない、そういった光を宿していた。

「父さんがいないんだ。どこを探しても」

 少年はうつむいて涙をぬぐう。

「いけないな。"一人"でこんなところまでくるなんて」

 青白い毛皮のキュウコンは少年に歩み寄った。
 溢れ出る涙は留まることを知らないようで、次から次へと零れ落ちる。

「それでもまだ"大きいほう"に比べれば可愛げがあるというものだ」

 キュウコンは少年の足元にどっと腰を下ろした。
 すっと九の尾の一つを伸ばす。それがそっと少年の涙をぬぐった。

「おいで。お前の父親にはなれないが」

 なぜそうしようと思ったのかはよくわからなかった。別の尾が二、三伸びて少年の体を捕まえると、抱き寄せた。少年は少し戸惑い気味だったが、触れたその感触が気に入ったようで、キュウコンの体に寄りかかるように寝かされるとやがておとなしくなった。

「あったかいね」

 そう、少年は言った。
 暖かい、か。とキュウコンは思う。自身はもうそんな感覚を忘れてしまっていたことに今更気がついた。それは懐かしい感触だった。

「……お父さん、僕のことが嫌いになってしまったのかなぁ。だからどこを探してもいないのかなぁ」

 青白い毛皮に顔を埋めて少年はキュウコンに尋ねた。
 きゅっと長く伸びた毛の束を掴む。その瞳はまだ濡れていた。
「そんなことはないさ」とキュウコンは云った。

「どうしてわかるの」
「私にも息子達がいたからね。それに……娘もいた」
「そうなんだ」

 このキュウコンもまた誰かの父親であるのだ、そのように少年は思った。

「ねえ、息子さんや娘さんはあなたに似てる?」
「どうかな。息子のほうはともかく、娘のほうはあまり似ていなかった。はねっかえりだが泣き虫な娘でな、人の前では強がっているが、私といる時はよくこうしたものだ。ちょうど今のお前のように」
「ここで待ってれば会えるのかな」
「……いいや、今はもう居ないのだ。我が息子達も……あの娘も」

 赤い瞳が夜空を見上げた。

「…………そう」

 少年はそこまで言うともう何も尋ねなかった。青白い毛皮の中に小さなその身体を預けて、目を閉じる。キュウコンはその長くふさふさとした尾で少年の身体をそっと包みこんだ。

「今は休んでいくといい。けれど少し休んだら、元いた場所へお帰り。あの小僧のところへな……」





 朝になってもナナクサは戻らなかった。
 明日の夜までには戻ると書き残したのだからまだ戻っていなくてもおかしくはない。だが、穴守の使用人として忠実に職務をこなしてきた彼の行動として、それは今までに考えられないことだった。
 しかし、朝食の席でタマエは何も言わなかった。タイキも気にかけていたがタマエが何も言わないせいか、口に出そうとしなかった。少年の父親はまだ眠っていたし、客人の二人も何も言わず、彼らは黙々と朝食を口に運んだ。
 ナナクサがいない。それだけで穴守家の朝はいやに静かだった。

 喧騒が耳に入ったのは、稽古の為に雨降大社に入ってからだ。
 やけに人が多くガヤガヤしている。
 野次馬とでもいうのか、普段稽古に出入りしていないはずの人間が大社の境内の中をかなりの数うろうろしていた。宝物殿の近くで村長が複数の老人達と話しこんでいる。表情を見る限りあまり穏やかな話ではなさそうだった。

「何があったんだろう」

 ヒスイは関心がないとばかりにさっさと稽古場に行ってしまったが、ツキミヤはいぶかしんだ。
 村長が大社にいることなど珍しくないが、トウイチロウの稽古を見に来るのはたいていお昼近くになってからだと青年は記憶している。昼食の誘いがてらやってくるのだ。

「おはよ。ツキミヤさん」

 背後から声がかかった。
 すっかり聞き鳴れた声に振り向けばそこには「昼」の演出の姿があった。

「あ、メグミさん。それにノゾミちゃんも。おはようございます」

 ツキミヤが挨拶すると、姉の後ろにいたノゾミが軽く会釈をする。

「昨日は悪かったわね。突然午後の稽古を欠席してしまって」

 と、メグミが詫びてきた。

「とんでもないです。ずっと練習練習でしたから。体調が悪くなることもあるでしょう」
「医者には貧血じゃないかって言われたんだけどね。まぁとにかく今日は大丈夫だから」
「貧血? だめですよ。食事はちゃんととらなくちゃ」

 笑顔を絶やさずにツキミヤは言った。

「ちゃんととってるつもりだったんだけどねー。おかしいわね」

 メグミが苦笑いする。

「ところで何の騒ぎです? これ」

 すかさず青年は尋ねた。

「ええ、それがね……」
「泥棒が入ったんだって」

 姉より早く答えたのは妹のほうだった。

「泥棒?」
「うん、昨日の夜に」

 ツキミヤが尋ねるとノゾミはそのように返事をした。

「昨日の夜……」

 いやな予感がした。まさか。

「大社の宝物殿よ。普段見れるとことはちょっと離れた所に一般公開されていない別殿があってね……なんでも昨晩そこの警報が鳴ったらしいわ」

 メグミがそのようにフォローを入れる。
 青年は心配げな表情の仮面の裏側で何考えてるんだ、あいつは。と呟いた。
 もっとも青年がまっさきに思い浮かべた人物――その人物が犯人と決まった訳ではなかったが。

「それで誰か捕まったんです?」
「いいえ、誰も」

 よかった。少なくとも捕まってはいないらしいと青年は胸を撫で下ろす。

「何か盗まれたんでしょうか」
「幸い何も盗まれた形跡はなかったそうよ」
「そうですか。それは幸いでしたね」
「でも何もこんな時期に盗みに入らなくたっていいのにねぇ。村長さんもピリピリしてるしお気の毒だわ」

 真剣な表情で話し合う老人達をちらりと見やってメグミは言った。

「そうですね……」

 ツキミヤが追う様に相槌を打った。

「その一般公開されていない部屋っていうのは、何か貴重なものでもあるんですか。犯人はそれを盗みに入ったのかな」

 んー、とメグミは顎に人差し指をあてた。

「私もこの目で見たわけじゃないから、詳しくは知らないのだけど……なんでも雨降伝説の実在を証明するものがあるとかって」
「伝説の実在を証明するもの?」

 青年は反復する形で聞き返す。少し興味をそそられたらしい。

「だから私も詳しくは知らないのよ。数十年前ならお祭りの期間中だけ見られたらしいのだけど、今のご時世では倫理上問題があるからやめたとかで」
「倫理上の問題、ですか」
「だから詳しくは知らないんだって。生まれる前の話だし。村長さんも話してくれないしね」
「そうですか……」

 ふーむ……、と。ツキミヤはうなった。
 伝説の実在を証明するものか。ナナクサなら知っているかもしれないなどと考えた。あいつは昔のことにもいやに詳しいから、と。まったく、どこからそんな情報を仕入れているのやら。
 すると、ふとメグミが呟いた。

「あ、でも……ツキミヤさんは今年の九十九だから……もしかしたら見れるかも」
「本当ですか」
「トウイチロウさんが言ってたのよ。雨降と九十九ならその場所に入れるのですって。舞台本番前にお清めとでもいうのかしら。お神酒を一杯いただいてから舞台に立つっていう儀式があって、非公開で別殿でやるって話だわ」
「何があるかはその時に見られる、と」
「そうらしいわ。口外無用ってことみたいだけれどね」

 そこまで言うとメグミは、ツキミヤの両肩をわしっと掴み言った。

「そういうわけだから今は練習、とにかく練習よ! 今日は通し稽古やるから覚悟するのよ。いいわね九十九さん?」
「それは怖いな」

 ツキミヤは軽い調子で返事をする。

「お姉ちゃん、そんなに張り切っちゃって大丈夫? また竹林でぶっ倒れても知らないよ」

 ノゾミが茶々を入れた。

「もう、ノゾミは余計なこと言わないの!」
「何よ。本当のことじゃない」
「あんたはいつも一言多いのよ!」
「あ、ひっどーい。心配して言ってあげてるのに」

 デリカシーがないのよと憤るメグミだが、ノゾミも負けじと言い返している。
 彼女らのやりとりからは、少なくともメグミの口からは青年が先ほど思い浮かべた人物――ナナクサシュウジの名前が出る様子は無かった。
 今年の九十九はくすりと笑う。「まぁまぁ」とメグミをなだめるように言った。

「ともかく今日はお手柔らかにお願いしますよ? メグミさんは病み上がりなんですから」





 その日は朝から暗い雲が空を覆っていた。収穫期に入った田をしとしとと雨が濡らしている。
 月日の巡りは早い。空に消えた友を見送ったあの日から、いつの間にか季節は一巡していた。
 晴れの日が続かぬは摂理だが、雨の日は憂鬱だ。起きだして来る気になれない。大社の神殿の奥の奥にどさりと身体を横たえ目を閉じる白銀のキュウコン。その毛皮は妖艶な青みを帯びている。やる気がなさそうに垂れ下がる耳にも屋根から滴り落ちる水の音が響いていた。炎の力をその身に宿す九十九は元々雨が嫌いだった。

「ツクモ様!」

 ふと雨音に混じって神殿のどこからか声が響く。
 ぴくりと、九十九の垂れ下がっていた耳の片方が上がった。

「ツクモ様、ツクモ様!!」

 木造の床をばたばたと忙しく駆けて足音が近づいてきた。重い観音開きの木戸が開かれる。

「カナエか」

 と訪問者の姿を見るまでもなく九十九は云った。

「そんなに大声を出さなくてもさっきから聞こえている」

 扉の向こうから現れたのは若い女だった。見に纏う衣こそ粗末な木綿のものだったが、束ねられた長い黒髪が美しい娘だ。

「私の元にやってくる者はいつだって騒がしい。とくにお前は声は頭に響く」
「声なんか誰だって同じでございます」

 カナエと呼ばれた娘はそのように反論した。

「いや、お前は五月蝿い。だいたい私にそういう口の利き方をする人間はお前だけだ」
「そもそもツクモ様はほとんどの村人とは言葉をお交わしにならないじゃございませんか」
「むやみやたらに語るのは性にあわない」

 九十九はそのように答えた。

「そんなだから、怖がられるんでございます」

 九十九は、娘の物言いはまったく気にしていない様子で、
「結構じゃないか」と答えた。
「神とは畏れを抱かせてなんぼのものだ」と。

「それより何をしにきたのだ。まさか暇をつぶしに来たのでもあるまい」
「昨日の晩に村長(むらおさ)様が言われました。祭の準備を始めるようにと」

 粗末な衣を纏った娘は張りのある声で答えた。

「神楽の稽古も始まります。だから衣装を借りに参りました」
「……そうか」

 思い出したかのように九十九は言った。

「だが何も雨の日に来ぬでもいいではないか。濡れるぞ」
「だって、あれを着られるのはこの時期だけなのだもの。そう思ったら私、いてもたってもいれなくて」

 娘は待ちきれなかったのだと言った。
 それは村の中で決して地位が高いとは言えず、いつも粗末な身なりの娘にとって、何よりの楽しみであったからだ。村の娘ならば誰もがそれを着られる訳ではない。九十九に選ばれた者のみがそれを纏うことを許されるのだ。

「……それにしてもそうか。もうそんな時期か」

 雨の音に耳を澄ましながら九十九が呟く。

「あら、神様がそんなことをおっしゃっていいのですか」
「雨が憂鬱でな。そのような気分では無かっただけのことだ」

 赤い瞳が答える。

「神楽の衣装なら西の殿だ。もっともほとんどお前が管理しているようなものだから、場所など言わずもがなだろうが」
「はい」
「今日は袖を通してみるだけにしておけ。ただし……」
「ただし、なんでございますか」
「通しているうちに雨が止んだなら持っていってもよい」

 さっきまで不機嫌そうだった九十九だったがにやりと笑った。

「あら、まるで雨が止むような物言いでございますね」

 娘がそのように言うと

「天候とは気まぐれなものだ」

 と、九十九は答えた。
 やがて娘は一礼すると西の殿に軽い足どりでかけていった。

「やれやれ。急がずとも衣は逃げたりしないというのに」

 九十九はしょうがないやつだとでもいいたげに娘を見送る。
 耳には愛も変わらず止まぬ雨音が響いていた。
 赤い瞳がどこか遠くを射る。視界は神殿の幾重もの壁に阻まれているはずだったが、彼にはその先が見えているかのようだった。
 横たわっていた九十九は重い腰を上げ、立ち上がる。
 赤い瞳が煌いた。先ほどまで娘に向けていた眼差しとは異質なものだった。





 朱、銀朱、鉛丹、茜、橙、緋色。
 炎の色とも言うべき何種類もの糸を複雑に織り上げた生地に黄金色の糸で文様が刺繍されている。
 その衣を纏った青年は、青白い色の面を被り赤い糸を結わく。
 ドコン、ドコン、ドコン、と不吉な出来事を予見するかのように太鼓が耳に届いた。

「ぐわあ!」

 名も無き村人役が叫び声を上げた。
 ドコドコドコ、と太鼓が打つ鼓動が早くなる。太鼓のリズムが変わる。盛上げては一瞬沈みまた盛り上げる。
 すると村人は奇妙な舞をはじめた。それは炎の熱に巻かれもがき苦しむ様だった。
 太鼓の打つリズムはまさに炎が踊るそのリズムだ。
 村人は、舞いながら身につけている衣を少しずつ剥ぎ取った。衣を剥がずその度に身を包む衣装は黒一色となってゆく。それは舞台が上演される夜であれば闇に紛れ消えるように出来ていた。

 ぽ、ぽん。

 鼓を打つ音が響いた。
 それは合図だった。多くの村人が恐れおののく炎の妖が姿を見せる。その合図。
 ぼうっと鬼火が灯った。黒い衣の物の怪が放ったものだった。
 名も無き村人が黒衣一色となり、舞台裏に消えるのと同時に面を被った青年がゆっくりと舞台へ上った。
 面から生えるのは大きな二つの尖った耳。睨みつける二つの赤い目。
 一人の村人が哀れな贄となり、その肉と骨を我が物として妖狐九十九が蘇ったのだ。
 妖狐は低い低い声で云った。

「……今宵、我、ここに戻れり」

 懐からすっと金色の扇を取り出す。
 開かぬままに聴衆に向けてそれを突き出した妖狐は扇に引かれるようにして前に前に進み出た。
 ぽぽん、とまた鼓の音が鳴って、ドロドロと地響きのように低く太鼓が鳴る。
 高い笛の音と尺八の音が、交互に絡み合って旋律を作り出した。
 ぱんと金の扇が開かれると舞が始まる。
 妖狐は詠った。

 燃えよ、燃えよ 大地よ燃えよ
 燃えよ、燃えよ 大地よ燃えよ

 地の底から響くような怨念の宿るその詩。
 ゆっくりと足を踏み出し、舞台全体を回るように妖狐は練り歩く。

 見よ 暗き空現れし火よ
 火よ 我が命に答えよ

 妖狐が舞台上手に扇をかざした。
 シャン、と鈴の音が響くと炎の妖、白い衣に赤い帯を巻きつけた妖狐の一族がぞろぞろと舞台に上がってきた。
 妖狐が同じように下手に扇をかざす。応えるように鈴の音。すると右手からも同じ一団が姿を現した。
 彼らもまた妖狐の呼びかけに応じ、その力を借りてこの世に姿を現したのだ。

 燃え上がれ火 燃え上がれ火 燃え上がれ炎よ
 燃え上がれ火 燃え上がれ火 我が炎
 我が眼前に広がるは赤き地平

 彼らを鼓舞するように妖狐は詠った。
 次の節から追う様に地唄(じうたい)が続く。

 燃えよ燃えよ 大地よ燃えよ
 恐れよ人の子 我が炎
 燃えよ燃えよ 大地よ燃えよ
 恐れよ人の子 我が炎
 燃えよ燃えよ 野の火よ燃えよ

 長の歌声に続くようにして妖達が口々に「燃えよ」と詠った。
 それは燃え広がる炎のようだった。

「放たれし火 金色の大地に 燃えよ」

 狐の面を被った青年が最後の小節を詠い終え、高らかに云った。

「我が名は九十九。十の九尾と百の六尾の長、炎の妖なり!」

 それは、戦いの狼煙を上がったかごとく、聴衆の耳に響く渡った。

「我に従え、六尾の者よ。我に従え、九尾の者よ。我に続け、炎の力宿らせし者どもよ」

 ドォンと大きな太鼓が響き渡った。
 蘇った妖達が沸きかえった。

「今年はよい仕上がりになりましたなぁ。メグミさん」

 通し稽古を間近で見、演出の横でうんうん、と深く頷きながら髭面の老人が言った。
 村長のキクイチロウだった。
「ええ、本当に」と、メグミが答える。

「ツキミヤさんは本当によく頑張ってくれました。雨降役はベテランのトウイチロウさんですし、例年に無い出来になりそうですわ。討伐のシーンも迫力のあるものになりましたし」

 彼女は満足げに言った。
 舞台に目をやる。通し稽古は次なる場に移り、稲を刈り、餅をつき、収穫を祝う村人達の踊りとなった。

「ええ、本当に今年の九十九は優秀です。優秀すぎてうちのトウイチロウが食われてしまうんじゃないかと逆に怖くなるくらいです」
「まあ! 村長さんにそこまで言わせるなんて。ツキミヤさんも役者冥利につきますわね」

 そこまでメグミが言うと、キクイチロウが鎌をかけるようにして言った。

「ツキミヤ君ももちろん優秀ですが、彼のバックにはあの男がついてますからなあ。相当仕込まれたと見えます」
「あの男?」

 メグミがきょとんとして聞き返す。

「ナナクサ君ですよ。ツキミヤ君が選考会に出たのもおそらくは彼の差し金でしょう」
「そうなんですか。だとしたら、そのナナクサさんという方、よほど舞踊に精通した方なのでしょうね。一介のトレーナーでしかないツキミヤさんをこの短期間にここまで仕上げたんですもの」

 感心したようにメグミは言った。それは見たことも無い在ったことも無い相手を想像するような言い回しで、キクイチロウに奇妙な感触を与える。

「……おや、メグミさんはご存知じゃなかったんですか」

 おかしな違和感を覚えながら老人は昼の演出に尋ねた。

「? え、ええ。ツキミヤさんがお仲間の……たしかヒスイさんといったかしら、銀髪の色の黒い方で。その方とと毎夜稽古してるのは知っていますけど……」
「けど、どうしたんです?」
「ナナクサさんって方のお名前ははじめて聞きましたわ」
「……メグミさん?」

 キクイチロウは顔のしわをよじらして、続けた。

「君、なんだね、ナナクサ君と喧嘩でもしたのかね」
「何を言ってるんです? 私、ナナクサさんなんて方、知りませんよ」
「…………」

 メグミは村長の顔をまじめじと見た。
 村長は狐につままれたような顔だった。
 そういえば。そう思って、村長はあたりをきょろきょろと見回した。
 そこではじめてナナクサの姿が見えないことに気がついた。

「おかしいな。彼はいつもツキミヤ君に付き添っているはずなのに……」

 妙な不安が彼を襲った。
 わけがわからなかった。なぜそんなことを自分は気にしているのだろうとキクイチロウは思った。
 そもそもあの男はツキミヤの付き人ではなく、穴守の使用人だ。タマエに何か別の用を言付かったのだろう。それだけのことではないか。
 収穫祭であの家も忙しい。シュウイチが死んでからというもの、今や穴守家のブースを切り盛りしているのは彼女だけ。彼はきっとそんな彼女を手伝っているに違いない。
 それなのに、それなのになんなのだろうか。胸に広がる漠然とした不安があった。
 あの男、何を考えている……。

「村長さん、そんなにナナクサさんって方の事が気になりますの?」

 メグミが尋ねた。
 
「……気にしている? 私が、彼を?」

 キクイチロウは昼の演出に聞き返した。

「ええ。でも何だか気にしているというより」
「なんだね」
「村長さんはまるでその方のことが怖いみたいだわ」
「怖い……ですって?」

 受け入いれ難かった。だがキクイチロウは真意を突かれた気がした。
 なぜだか思い出したのはシュウイチが死んだ頃の事だった。
 シュウイチがあの世に旅立ってからというもの、以前にも増してタマエは頑固で偏屈になった。彼女は頑として他人を受け入れず、ただ黙って田に手を入れる日々を過ごしていた。来る日も来る日も悲しみを紛らわすかのようにして彼女は黙々と働いた。キクイチロウには何も出来なかった。
 そして、シュウイチと入れ替わるようにして現れたのがナナクサだった。

「あっ、申し訳ありません。言葉の選び方がよくなかったですね。その、なんて言ったらいいのかしら……とても意識されているというか。あ、結局最初に戻ってしまいました」

 ナナクサシュウジ。
 キクイチロウの聞いたところによればナナクサはどこからか村にやってきて真っ先に穴守家を訪れたのだという。働き口を探している、ここで雇って欲しい、そう言って。
 どこのギャロップの骨だかもわからない。決して過去を語ろうとしない。だがあの老婆は受け入れた。余所者であるはずのナナクサシュウジを受け入れたのだ。それからだ。頑なだったあの老婆は少しずつだが人当たりが柔らかくなっていった。
 キクイチロウは悔しかったのかもしれない。またタマエをとられた気がした。シュウイチにとられた気がしたのだ。
 もちろんナナクサはシュウイチの縁者などではない。シュウイチ生前の身辺をある筋から洗った結果としてキクイチロウはそれを知っていた。ナナクサはそこに浮かび上がらなかったのだ。
 だが、シュウジの名がシュウイチからとったように映ったからかもしれない。シュウイチに似て、米に詳しかったからかもしれない。外見や声、喋り方はまったく似ていないのに、かもし出す空気が同質である気がするのだ。

「そういえば、トウイチロウさんも稽古の後に特訓をしてるのですってね」

 メグミが言った。

「聞きましたよ。村長さん自らタカダさんをひっぱって来て相手をさせてるって。三年前の九十九まで引っ張ってきて特訓なんて村長さんの入れ込みようも相当ですわね」

 そのように彼女は続けたが、キクイチロウの意識はもはや別にあった。
 老人は気がかりがもう一つあったのだと思い出していた。宝物殿で鳴った警報だ。
 何者かが侵入した昨晩の宝物殿別殿。姿を見せないナナクサ。これは単なる偶然なのだろうか。
 その時、ドォン、ドォンと太鼓が轟いて、無数の鬼火が宙を舞った。村人達が踊る収穫の舞台、そこに九十九が現れ、炎が上がったのだ。
 九十九が云った。詠うように、高笑いするように云った。
 燃えよ、燃えよ、燃えよ――

「我を忘れし愚かなる者共よ。今ここに我が炎思い出すがいい!」





 雨が降り続いていた。
 大社の奥から姿を現した九十九は不機嫌そうに空を見上げる。屋根の向こうに見える空は灰色に濁っていた。
 天から雨が降り注ぐ。境内の石畳も敷かれた玉砂利も、雨に濡れている。

「気に入らぬ」

 と、九十九は呟いた。
 ひたひたと前に進み出ると、ついに雨粒をしのぐ屋根の比護の下から抜ける。
 九十九の青白い毛皮をも濡らそうと雨粒は当然に彼に降り注いだ。
 だが、天から毛皮に落ちたそれはじゅうっと音を立てると、湯気となって立ち上った。
 九十九が一歩、また一歩を踏みしめるごとにそこから湯気が立ち昇り、乾いた。
 それは妖狐の意思の現れであった。

「出てくるがいい」

 九十九の声が響き渡った。
 その声は大社のある山全体に轟いた。
 だが、山はしんとして雨の音以外には耳に入って来ない。

「姿も見せぬか。よほどの器小さき者と見える」

 九十九は冷めた声で云う。
 そして次に、別の者にこう呼びかけた。それは同胞に対する呼びかけだった。

「ダキニ、シラヌイ」

 そのように彼は呼びかけた。

「ツクモ様、ここに」
「ここに」

 いつのまにか九十九の左と右に二匹のキュウコンが現れた。
 九十九が続ける。

「もうお前達も気がついているだろうが、朝から招かざる客が入り込んでいるようだ」

 一匹と二匹は互いの意思を確認するように目配せした。

「つまらぬ者共よ。この九十九が相手をするまでも無い」

 九十九は語った。
 晴の日あれば雨の日もあるもの。雨は好かぬが、雨あってこそ快晴が心地よく感じられるもの。故に放っておこうかと思ったが少しばかり事情が変わった、と。

「一時の炎を許そう。相手をしてやるがよい」

 すると二匹が目にもとまらぬ速さで駆け出して、軽やかに跳ねながら瞬く間に石段を駆け下りていった。
 九十九はさらに進み出ると大社の入り口である大鳥居の下に立ち、里全体を見回した。
 収穫期を控え、田はいよいよ金色に染まっていた。
 今、シラヌイが東から、ダキニが西からぐるりと里を走り回るだろう。
 彼らの後に一族達が、同胞達が続く。
 招かざる雨をもたらす客人達はさほど時を待たずしてあぶりだされるに違いない。

「問おう」

 シラヌイとダキニが去って、自分しかいないはずの場所で唐突に九十九は云った。

「これは祭の時期が近いと知ってのことか?」

 誰に向かうとでもなく九十九は問うた。
 するとちょうど妖狐の斜め後ろほどに生える大きな木の枝が鳴ったかと思うと、ぼたり、ぼたりと何かが三つほど玉砂利の上に墜落した。
 九十九はそこではじめて振り返り、

「ふん、雨虫か……」

 と、呟いた。
 雨に濡れた石畳の上で、奇妙な形の羽を僅かにバタつかせながら水色の虫ポケモンがもがいていた。

「それで気配を殺したつもりか。この九十九もバカにされたものよ」

 彼らは何か見えない力に体を押さえつけられているらしかった。
 懸命に羽根をばたつかせるが、飛び立つことが出来ない。

「この里にも雨虫は多くいる。だが、貴様らは匂いが違うな」

 そういって、九十九は一匹の羽根を踏みつけた。

「我が里の雨虫達は領分と云うものを弁えておる。むやみやたらに雨を呼んだりはせぬ」

 踏まれた羽根がじりっと焦げ付いた。
 不意にチリッと音がしたかと思うと、火の粉が踊る。
 それが残り二匹の羽根に付着するとじりじりじりと焦がしてやがて消えた。
 九十九が押さえていた一匹を蹴り飛ばすようにして二匹のほうへ払いのけた。

「居ね。消し炭にされたくなければな」

 そのように九十九が言うとふっと虫達を押さえつけていた力が消えた。
 炎に焦がされぼろぼろになった羽根をばたつかせて、彼らはその場を逃げるように去っっていった。

「そのほうらの主に伝えよ。この九十九の土地で勝手はさせぬ」

 追いかけるように九十九の声が響いた。


 雨虫達が視界から消えて、半刻ほど経った後、雨が止んだ。
 灰色の空から光が差込みはじめたのはもう半刻ほど経ってからだった。

「ツクモ様の云った通りだ。雨、本当に止んだ」

 祭の衣装を取り出し、着付けてみては愛でていたカナエは空を見て呟いた。
 自身の衣装を桐の箱に詰めると、廊下を渡り、草履を履くと境内に出る。
 水溜りがいくらか残る石畳の先、大鳥居の下に白銀のキュウコンが立っているのが見えた。
 その眼差しはじっと遠くを見つめている。

「ツクモ様、」

 そのように娘が呼びかけると

「カナエか」

 と九十九は答えた。

「……雨が止みましたね」
「ああ」
「雨が止んだから、これ、持っていっていいんですよね」

 桐の箱を見せるように差し出す。

「好きにしろ」

 そっけなく九十九は答えた。

「……ツクモ様」
「なんだ」
「何を考えておいでですか」

 そっけないその態度が気になって、娘は尋ねる。

「……友のことを考えていたのだ」
「ご友人ですか」
「ああ」

 と、九十九は反芻するように返事をした。
 見ろというように、指差すように鼻先をある方向に向けた。

「あそこに山が見えよう。そこをひとつ越えたところがかの一族の土地だった。だがあの日、友はこの空に消えたのだ。今はどの空の下にいるか……」
「今はいないのですね」
「そうだ。今は居ない。もういないのだ」

 風が吹く。一面に広がる稲穂が波打った。

「カナエ、」
「……? はい」
「お前の踊る舞には期待している。前の年以上に励め」
「…………! はい」
「今年の祭は盛大にやろう。何百何千の灯を用意して、一斉に火を灯すのだ。この里に住まう者、すべての眼前に燃え盛る野の火を見せようぞ」

 金色の大地を仰いで妖狐は云った。
 九の尾が風に合わせるように揺れた。





 祭の夜に現世に現れ、田畑を燃やし、灰に変えてゆく炎の妖、九十九。
 野の火が燃える。田を舐める。
 一方で、神の名が叫ばれる。村人達は雨を待つ、炎を流す雨を乞う。
 雨降の名が繰り返し叫ばれる。
 多くの口から、その名が呼ばれる。それは信仰の証。祈りによって神は現れる。
 それは本番ともなれば聴衆を巻き込んだコーラスとなるであろう。
 九十九を再び沈めるべく、再び退治すべく、祈りによって神は現れる。

「いかにも、我が名は雨降」

 昼の演出と村の長の背後から、太く通る声が響いて、彼らは振り返った。
 その先には青い衣装を身に纏ったトウイチロウが翁の面を被って立っている。
 赤い衣を纏った狐の面もそちらを向いた。
 主役は遅れてやってくるのだ。昔何かの舞台で誰かがそう言っていた記憶がある。
 ぽ、ぽんと鼓が鳴って、鈴の音が二つ程追った。

「我、呼ばれたり」

 舞台を仰いで翁の面が云った。

「呼びかけに応え、目覚めたり」

 翁が纏う青い衣には朱の刺繍が施されている。
 この色の組み合わせを狐面の青年は知っていた。
 ホウエン神話の二つ神の片割れ。海に在り、雨を司る神の色。穴守の家で見たあの絵巻の大きな魚の形をしたあの神の色なのだ。この村で信仰されている雨の神は、間違いなくその流れを汲んでいる。この村は「青」の版図の中にある。
 雨降はずっしりと地に足をつけながら、ゆっくりとしかし確実に舞台へと近づいてくる。
 ドロロロ、ドロロロと寄せては返すように轟く太鼓の音が盛り上げる。

「橋掛り……雨降の為の道……」

 青年は仮面の内で誰にも聞こえぬ小さな声で漏らした。
 野の火の本番に向けて、石舞台では今、着々と工事が進んでいるはずだ。
 夜の稽古の時にナナクサが言っていた。予定通りならば、今頃は橋掛り――歌舞伎で言うところの花道が設営されている頃だ。
 それは役者達が舞い踊る舞台に向かって、まっすぐに伸びる長い長い一本の道であり、そこを通るのは舞台の主役、村の守り神であり豊穣の神である雨降である。道は大社へ伸びているという設定だ。雨降はここから現れ、そして役目を終えると再びここを通って大社へ戻っていくのだ。
 ナナクサはこうも言っていた。
 九十九がその道を通ることは許されないのだと。
 炎の妖は舞台の上だけで復活し、神の力によって再び舞台に沈められるから。だから妖は決してあの橋を渡ることが出来ないのだと。
 それは神の為だけに用意された橋掛り――花道なのだと。

「我が名は雨降。悪しき火を払い、流し、今一度田に恵もたらす為、参った」

 雨降が仮の花道を渡り切って、舞台に立った。
 舞台の上手と下手で、青の衣と赤の衣、翁の面と狐の面が向かいあう。

 降らせ、降らせ 天よりの水
 降らせ、降らせ 天よりの水

 青い衣は雨の詩を詠い始めた。
 まるで空の雨雲を掬い、集めるかのよう扇を広げ、舞いしめた。
 呼びかけに応えるようにして白地に青の帯を巻きつけた役者達が次々に舞台上に現れた。
 そして翁は扇を閉じる。まるで矢で狙いを定めるようにして狐の面に向けた。
 討伐が、狐狩りが始まる合図だった。
 ドォンと三度ほど大きく太鼓が鳴った。
 赤い帯と青い帯の役者達が各々ポケモンを連れ、舞台を入り乱れるように交差していく。炎が舞い、水が踊る。青年はその流れに身を任せる。好きなようにしたらいいと思った。
 トウイチロウ扮する雨降がカメックスを繰り出した。大きな大砲が九十九陣営に向けられる。
 対する狐面の青年がすうっと腕を上げる。それに応えるようにして青い炎がいくつも生まれた。





 日が暮れかけていた。
 桐の箱を抱えて、カナエは道を急いでいた。
 日が西に隠れ、野良仕事が終わると、村の娘達が村の長の屋敷に集まることになっている。祭に向けて舞の稽古が始まるからだ。

「カナエ」

 小さな石橋を渡った時、人のもので無い声がして彼女は立ち止まる。
 ちょうど彼女の足元から声が聞こえたと思うと、橋の下からするりと金色の何かが現れて、颯爽と上に駆け上がったかとぐるりと小回りして思うとカナエの前に立った。

「あら、シラヌイさん」

 それは一匹のキュウコンだった。九十九とは違い、普通の色のキュウコンである。九十九が自分の中で普通になってしまうとむしろこっちが色違いに見えてしまうと彼女は思った。

「どこに行くのだ?」
「村長(むらおさ)様のところよ。今晩から稽古だから」

 そう言って、持っている桐の箱を見せた。すると、
「はああ、そういうことか」とシラヌイは納得したように言う。

「まったく、父上は本当にカナエに甘いのう。実の息子達は駒のように扱うというのに」

 仕方ないなぁというようなニュアンスでキュウコンは続けた。

「どういうこと?」
「なあに、少しばかり野暮用があってねえ、里をひとっ走りしただけのことさ」
「そう……それならいいけど」

 要領を得ないままにカナエは答えた。

「じゃ、俺はもう社に戻るから」

 用事は済んだとばかりにシラヌイは言ってそして、駆け出した。
 瞬く間に見送るカナエが小さくなっていった。
 だが、追う様にシラヌイの耳にカナエの声が届いた。

「あ、シラヌイさーん! サスケさんやダキニさんによろしく。それとフシミさんにも!」

 もうずいぶんと離れているのに、キュウコンはその声をはっきり聞き取ることが出来た。カナエの声は頭に響く――よく父である九十九がとそのように語っていたのが、こういう時よく理解できる。
 そういえば、彼女にはじめて出会ったのは「声」に気がついて父と共に村の境へ来たあの夕刻の時だったか……とシラヌイは思い返した。
 気がつけば、あれから十数年が経っていた。カナエは大きくなったなあ。父上もさぞかし感慨深かろう。そのようにシラヌイは思った。

 空に青みがかかってくる。
 田の道の向こうに消えたシラヌイを見送って、カナエは再び村長の屋敷の方向に目をやった。しばらく行くと、同じように村長の屋敷へと向かうらしい村の娘達と出会う。少し浮かれた様子で何かしゃべっているようだった。だが、カナエの姿に気がつくと彼女達は黙って、そしてすっと道を空けた。
 カナエは黙って通り過ぎた。いつものことだった。何を言っているのかはわからなかったが、自分の背後で彼女達が何かを囁いていることがわかった。
 くだらない、と娘は思う。どうせあの娘はまた狐と話していたとかそんな類のことなのだろう。
 九十九は完全に人の言葉を操ることが出来る。だがその息子達といえば、時々人語になったり、獣にしか理解できない言葉になったりとちぐはぐなのだ。彼らと円滑に言葉を交わせるのは里の中でもカナエ一人だけだった。
 ほとんど沈んでしまった夕日に照らされて、彼女の長く長く伸びた影が揺れている。屋敷に続く長い長い一本道を一人で歩き、いつの間にか彼女はかつて村長が云った言葉を思い出していた。
 それは、この里における彼女の立場の話だ。

「この里の人間は余所者に冷たい」

 最初、そのように村長は云った。
 そして彼女の生い立ちをこのように語ったのだ。

「カナエ、お前はこの里の境目に捨てられていたのだ」

 周囲の自分を見る目があまりよくないことを物心ついた彼女は既に知っていた。
 おなじような年の子ども達に「余所者」とはやし立てられた事は一度や二度ではなかった。

「赤子の泣き叫ぶ声を最初に耳にしたのは、お前の前に現れたは九十九様だった。九十九様はお前を私の前に連れて来てこう言われたのだ。我が里に捨て置かれたからには、その命は我が下にありと。この赤子を里に受け入れ育てよとな。それがお前だった」

 頭の中にあの時の声が響く。

「そうして、九十九様は名も無きお前に名を下さったのじゃ。カナエ、と」

 カナエを実質的に養ったのは村長だったが、彼は決してカナエに自らを父と呼ばせることはなかった。それは彼女に乳をやった乳母も同様だった。そこに義務はあっても、愛情はなかった。それを知っていた彼女は十と少しを過ぎた頃には屋敷を出て、一人で暮らすようになっていた。そうしたいと願った時に、村長はすんなりと住む場所を用意してくれた。
 村長は言った。お前には役目がある、と。だからその役目に対して、私は相応の見返りを用意しよう、と。
 その結果、与えられたのは粗末な家で、待っていたのは貧しい暮らしだったが、気は楽だった。

「お前は九十九様に選ばれたのだ」

 そのように村の長は続けた。
 お前も知っての通り、九十九様は炎の力を司りし神、荒ぶる神じゃ。九十九様がその気になればこの里を燃やし尽くすことなどいと容易きことよ、と。

「だが、お前が居る。お前は選ばれた。お前は九十九様の子、九十九様の娘。九十九様の巫女。荒ぶる神を鎮めるのがお前の役目よ。それがお前の生きる意味……お役目をしっかりとお果たしなさい」

 カナエは自らの持つ桐の箱を横目で見、再び目を離した。
 里の者達は皆、カナエを一度はこう呼んだ。
 捨て子と、余所者、狐の子、と。
 彼女は九十九の巫女として、時に九十九の言葉を村長に伝え、村長の言葉を九十九に伝えた。彼女は種族の境界に存在し、人と狐の間を行き来した。人にもなれず、だが人の形をしているが故に、狐にもなれなかった。そんな立場を割り当てられた彼女を憐れむものも少しはあった。だが、彼女は憐れみはいらないと云った。

「……私は、自分を不幸だと思ったことは無いわ」

 そのようにカナエは呟いた。
 人は冷たいけれど、彼らは違った。この里に古くから在り、君臨する神たる九十九、そしてその息子達。彼らは自分によくしてくれる。だから寂しくは無かった。自分は決して一人でも、不幸でもない。
 でも、それならば。

――いっそ私自身も尻尾を生やして生まれればよかったものを。

 そのようにもカナエは思うのだ。





「みなさん、今日までの練習お疲れ様でした」

 田が赤く染まっている。西の空には沈む夕日が見えていた。

「いよいよ明日の晩が本番です」

 出演者を一同に集めて昼の演出が言った。.

「いいですか。本番は一度きりにして祭のクライマックス。気を引き締めていきましょう。今晩は体をゆっくりと休めて本番に備えるように。明日は夕方の六時に祭会場の石舞台に集合してください。くれぐれも時間厳守でお願いします。それでは解散!」

 メグミはそこまで言うと、ぐるりと背を向けぐっと片腕を伸ばしてストレッチする。凝った肩をほぐすようにして左右に首をかしげる動作をとった。すると、出演者達も緊張が解け、彼は続々とその場を離れていった。大社と村を結ぶ長い石段を降りてそれぞれの場所へ帰ってゆく。
 ある者は屋台で晩御飯にありつくし、ある者は宿の湯で体をほぐすのだろう。連日の疲れがたまってすぐに寝るものもあるかもしれなかった。

「僕達も戻ろうか」

 人の流れてゆく様を眺めながら、そのようにツキミヤが言うと、ヒスイは黙って頷いた。
 だが、足畳を渡って大鳥居の下を潜ってちょうど大社を出ようとしたその時、声がかかって二人は立ちどまる。

「ツキミヤ君、ちょっといいかね」

 聞き覚えのある声に振り向くと、村長のキクイチロウだった。

「なんでしょうか、村長さん」

 今更何か用事があるのかとも思ったが、青年はあくまで柔らかく返事をする。

「あー、すでにメグミ君から聞いているかもしれないがね」
「はい」
「まあ、祭の決まりごとというか形式としてだね。雨降様と九十九、つまりうちのトウイチロウと君なんだが、本番の前に清めの儀式をやることになっているんだ。まあなんだ、儀式といっても少しばかりお祓いを受けてお神酒を一杯いただくだけなのだけなのだけどね」

 ああ、そういえばとツキミヤは思い出す。
 朝に挨拶を交わした時にメグミが言っていたのだ。雨降と九十九の役者は儀式の為に別殿に入れるのだと。そこで伝説の実在を証明する代物を見ることが出来るのだと。

「まあ、そういうことだから石舞台に集合する前にまたここに来てね。そうだな、五時くらいに頼むよ」
「わかりました」

 青年は老人に了解の旨を伝える。
 すると、

「そういえば……今日はナナクサ君の姿が見えないようですが」

 まるで村長はこちらが本題とばかりに青年に尋ねてきた。

「……ええ、何か用事があったみたいで」
「用事?」
「僕達もくわしくは聞いていないんですよ」
「ふうん、こんな時に用事ですか……毎日のように見にきていたのにねえ」

 髭をいじりながら村長がわざとらしく首をかしげる。

「おかげさまでこっちはリラックスして演技できましたよ。どうにも彼の視線は暑苦しいもので」

 ツキミヤがそのように応えると、村長はさぐるようにして、さらに尋ねてきた。

「それで、ナナクサ君なんだけどね。最近変わったこととかなかったかね」
「変わったこと、ですか? 彼は会った時から変わっていましたから」

 探られていることを察したのか、青年はそのようにはぐらかした。
 実際に思い当たる節もなかった。自分達の「企て」など最初からだったからだ。

「ヒスイ君、といったかね。君は何か知らないか」

 ツキミヤから情報を引き出すことを諦めたのか村長は銀髪の青年に話を振った。
 ヒスイは村長を見つめたまましばらく仏頂面で黙っていたが、やがて「そういえば」と口を開いた。

「何かあったのかね」
「ナナクサから直接聞いたわけではないが、あいつ、辞めるらしい」
「辞める? 何をだい」

 今度は青年がヒスイに問うた。

「あの家の使用人を、だ」
「……なんだって?」
「暇を貰いたいと言ったらしい。タマエさんから聞いた」

 ツキミヤは驚愕した。たとえ村長が逆立ちして村を一周したとしてもそれはないと思っていた。
 だが、タマエがそう言ったのであれば確かなのだろう。あの老婆は冗談を言うような人間ではない。
 これにはさすがに村長も驚いたようで、しばし言葉を詰まらせていた。

「……そ、そうかい。あのナナクサ君がねえ」

 そう言うと、顎にしわだらけの手をあてて、何かを考え込んでしまった。
 顔色が悪かった。まるで何か悪い予感にますます確信を深めたような。
 ずいぶんと彼を気にするのだな。前から何かと自分達に絡んでくる老人ではあったが、ここに来て青年はこの老人のナナクサへの執着のようなものを感じ取ったのだった。

「そろそろ行くぞツキミヤ。さすがに腹が減った」

 村長をいぶかしげに見つめるツキミヤにヒスイが声をかける。
 すっと背を向けて、一人、石段を降り始めた。

「あ、ああ」

 ツキミヤは歯切れの悪い返事をすると

「では、僕達はこれで。失礼します」

 村長にそう告げてヒスイの後を追った。

「いつ聞いたんだ。そんな話」

 石段にギザギザに刻まれた影が這いずるように移動する。
 淡々と石段を下るヒスイに青年は問うた。

「昨日だ」

 とヒスイは答える。

「別行動をとっただろう。お前達はどこをほっつき歩いていたのか知らないが、川辺のあそこに昼食をとりに行っていてな。その時タマエさんに聞いたんだ」
「……そうか」

 ナナクサが穴守の家を出る。青年は、未だ信じることが出来なかった。
 青年は知っている。ナナクサがあの家の人間を、特にタマエをどんなに大切にしているか。
 タイキの父親が帰ってきた時の彼の提案に疑問を持ったこともあった。だが、あれは彼なりに少年の意見を重んじとしようた結果なのだろう。またそれが使用人の精一杯だったのだろう。あの川岸の料亭でのやりとりを通し、青年はそのように納得していた。

「タマエさんは何と言ってるんだい」
「祭が終わるまで。そう言っていた」
「つまり祭が終わったら、あそこを出る。タマエさんも承知している。そういうことか」
「そういうことだろう」

 ヒスイは淡々と答え、淡々と石段を降りてゆく。

「……何だか置いていかれた気分だな」

 ヒスイの背中を追いかけながら、そのようにツキミヤは吐いた。
 それは青年にしてはめずらしい吐き出し方だった。
 
「置いていかれた? 何にだ?」

 振り向かぬままにヒスイが言った。

「あいつは当の本人だから当たり前として、それでも君とシュウジだけが知っていたわけだろう。僕は知らなかった。今のさっきまで。僕だけが知らなかった。だから」

 すると、「意外だな」と銀髪の青年は呟いた。

「意外?」
「お前はそういうことに執着が無いものと思っていた」

 そう言って、相も変わらず淡々と石段を下っていく。

「そうだろう? 俺達三人は他人だ。たまたま利害が一致して集まっているだけの」

 そうだった。
 そのように青年は思い返した。所詮、ここだけの関係なのだ。祭が終われば散々になるだけ、お互いに忘れてゆくだけ。それだけの関係なのだ。
 では、この胸にあるしこりは。今さっきから感じているこの置いていかれた感覚は。

「ヒスイ、君だって」
「なんだ」
「もし告げもせず消えてしまう人がいたら、寂しいだろう。悲しいだろう」
「…………」
「君にそういう人はいないのか?」

 何を言っているのだろう。なぜこんな小さなことにこだわっているのだろう。

「…………いるさ」

 しばしの沈黙の後にヒスイはぼそりと呟いた。

「もしもその人が目の前から消えてしまったなら、たとえ地の果てまで行ってでも探し出すだろう」

 振り向かぬ青年のその表情は見えない。
 だが、いつもぶっきらぼうなヒスイにしてはめずらしく感情の入った言葉だった。

「もっともナナクサは俺にとってのそれではないがな。やはり他人だ。俺にとってはな」

 そのように言い切ると、彼は石段を下るスピードを速め、ぐんぐんとツキミヤとの距離は離れていった。
 残された青年はどうにも気が削がれてしまって無理に追いつこうとはしなかった。





 いくつかの行灯に火を灯して、その部屋は光で満たされていた。
 部屋の隅で一人が琴を奏で、一人がぽぽんと鼓を鳴らす。
 すると障子が開かれて何人もの村娘達が入ってくる。皆、綺麗な羽織を纏っていた。
 だが、最後に入ってきた娘の衣装の前にはその色彩も単なる引き立て役になってしまった。
 真緋(あけ)、紅(くれない)、韓紅花(からくれない)、炎の色を複雑に織り上げた生地に刺繍された黄金色。その色彩がゆらゆらと揺れる行灯の光に照らされて、艶やかに燃えるように映った。
 自身の頭部を衣で覆うようにしてして入ってきたカナエがするりとそれを取った。
 昼に大社から持ってきたその衣に身を包んだカナエは美しかった。これを来ている時だけは誰も彼女を余所者呼ばわりしなかった。
 ぽぽん、と再び鼓が鳴った。



「これはこれはグンジョウ殿、毎度毎度遠いところからよくいらっしゃいますな」

 その頃、稽古が行われている部屋とは別の部屋で、神楽の音を耳にしている者がいた。
 村長と一人の男。男のほうは里の人間では無い。

「昼間はずっと雨が降っていましたから、ここまでいらっしゃるには骨が折れたことでしょう」

 窓の外に目をやりながら、村長は言った。
 音の出所からわずかばかり光が漏れている。娘達の影がゆらゆらと踊った。

「形だけの挨拶など不要……」

 別室の入り口に仁王立ちする男が言った。
 まあお座りなさいと村長は言った。先ほど男が尋ねてきたときに侍女が引いた藁の座布団は冷えたままだった。
 そう言われて、男は長の正面にあぐらを描くと一通の書簡を差し、

「我らが親方様からの書状を預かっております」

 と言った。

「あなたの親方様も懲りませぬな」

 長の口から出たのは冷めた声だった。
 書状に記された内容など読まなくとも分かっている。
 一方的な要求であり、一方的な都合の押し付け。ただ、それだけのことだ。
 これを届けるためにこの男は幾度と無くこの村を訪れているのだ。

「グンジョウ殿、何度いらしても同じことですな。我が里はどこにも属さぬ」
 
 長は男にそう告げた。
 これは長である私の意思であり、里の者の意思である、と。

「あなたがたの長の事は私もよく知っております。非常に長けたお方だ。貴方達も頼もしい限りでしょう。だが、あの方のほうにつくということは、あの方の信ずる神の神の下につくということなのです。そのようなこと、我等が神がお許しになるはずがない。この土地に君臨する九十九様はそういうお方です。我等とて意思は同じです」
「長殿、今この豊縁は大きく動いております。時代は食うか食われるか……混沌としております。弱ければ強きものに飲み込まれる。我らが殿の提案はこの里にとって悪い条件ではないはず」

 グンジョウと呼ばれた男は力説した。

「違う。あなた方は怖いのだ。あなた方の敵に我らが里が奪われるのではなかとそれが心配でならない。だから我先に手に入れようとする。同盟と云う名の服従を強いて」
「長殿、私は」
「ご心配には及びません。先ほども申し上げた筈。我々はどちらにも属さぬ。だが、今までの通り余剰になった兵糧あらば、相応の対価と引き換えにお渡ししよう。それが我らの精一杯の譲歩です」

 本当は、長は知っていた。
 この年、この里では里の人間が食うに困らない程度の米しかとれないだろう。
 それは九十九が「野の火」をそのように使い、そうなるように仕向けたから。
 九十九は気に食わない。彼らに兵糧が渡ることをよしとしていないのだ。

「早々にお帰りなさい」

 そのように長は続けた。

「本当はこうして会っているだけでもまずいのです。我らが神は機嫌が悪いようだ。今日は九尾と六尾達がやけに騒がしかったと聞いています。あなたが見つかったら何をされるか……。私は里で丸焦げの死体など見たくありません」

 そこまで長が言うと、男は諦めたように黙ってしまった。

「少なくとも祭が終わるまではいらっしゃるな。その後での"商談"ならば相談に乗りましょう」

 そのように長は締めた。もうこれ以上の話をする気はないようだった。
 曲が終わりに近づき、にわかに活気付く。
 こちらの部屋にも、あちらの部屋にも太鼓と笛の音が満ちていた。

「……わかりました。また機を見て参上することにいたしましょう」

 男は村の長に頭を下げる。

「これにて失礼致します。わが主から土産を預かっておりますのでどうぞお納めください」

 そう言い残して部屋を後にした。
 笛が奏でている曲は何度も何度も同じ旋律を追いかけて、太鼓が締めの音を響かせた。



「よろしい。今晩はここまでと致しましょう」

 座敷の隅で稽古を見守っていた女が云った。
 この里で昔から舞を指導している老婆で、彼女の稽古は厳しいことで有名だった。娘達がほっとした表情を浮かべて、力を抜くと、普段の衣に着替え、やがてぞろぞろと屋敷を出て行く。

「巫女殿」

 老婆がカナエに声をかける。

「ひさしぶりとあって少しばかり鈍っていましたが、よろしゅうございました。この調子で仕上げれば九十九様もお喜びになるでしょう。しっかりとお励みなさい」
「は、はい!」

 カナエはうれしくなって、おもわず笑みがこぼれた。
 だから祭の時期は好きだ。こういう時だけは人の輪の中にいられる。そんな気がした。
 夜は更けすっかり暗かったが、娘は上機嫌だった。
 ふんふんと鼻歌を歌いながら衣装を桐の箱にしっかりと納めて、娘は村長の屋敷を後にしようとしていた。
 その時、

「カナエ」

 と、声がした。振り向くと村長の屋敷の塀の裏手からキュウコンが姿を現した。

「……シラヌイさん? 社に帰ったんじゃなかったの?」
「父上の使いで少しな。我が父はあいかわらず狐使いが荒い」

 とシラヌイは答えた。そして村のはずれのほうに目をやって続けた。

「あの男、いやな感じだ。村長と何か話していたようだが、お前何か知っているか?」
「いいえ」
「今朝、村に入り込んでいた雨虫、あの男と同じ匂いがした」

「雨虫?」とカナエが聞き返す。
 シラヌイは険しい顔をして

「いやな奴だ。手を出すなという父上の命でなければ、俺が手を下してるところだ」

 と、悔しそうに言った。
 キュウコンは鼻腔の奥にしっかりと刻み付けている。
 あの雨虫達からは鉄と血の匂いがした。


  [No.24] (十七)証 投稿者:No.017   投稿日:2010/08/14(Sat) 18:36:27   48clap [■この記事に拍手する] [Tweet]



(十七)証(あかし)


「おかえり、コウスケ!」

 木で出来た穴守家の大きな入り口を潜って、ガラガラと玄関を開けると、バタバタと足音が聞こえてきて、「彼」はすぐに青年の前に姿を現した。

「……シュウジ、戻っていたのか」

 少しばかりあっけにとられて青年が言った。同時になんだか彼は日常に戻ったような気がしたのだった。

「ずっと留守にしていてごめんね。僕も今しがた戻ったんだ」
「まったく、どこに行ってたんだ?」

 青年は靴を脱ぐと靴箱に閉まった。その所作はすっかり慣れたものだ。

「コウスケこそちゃんと台詞は覚えてくれた?」
「あたり前だろう」
「へえ、あとでテストするからね?」
「……望むところだ」

 廊下に上がった。
 ナナクサが戻ってきただけでずいぶん賑やかなものだと思う。

「そうそう、コウスケ達にお土産があるんだ。こっちに来てよ」

 そう言ってナナクサは青年を誘導した。居間の襖を開く。するとまず最初にネイティが飛びついたのと同時に、先に戻っていたヒスイが目に入った。タイキとタマエまでちゃぶ台を囲って茶をすすっている。めずらしくヤミカラスのコクマルまでが、座布団に座って羽を膨らませていた。
 そしてもう一人、この家では見慣れない人物が青年の目に入る。

「あれ、ノゾミちゃん来てたのかい」

 ネイティを頭のてっぺんにのっけて、ツキミヤは言った。

「あ、どうもお邪魔してまーす」

 ノゾミはぺこりと軽くお辞儀するとずるずると茶を啜った。よく見るとテーブルの下で葉っぱのような形をした尻尾が揺れていて引っ込んだ。どうやらポケモン持参らしい。

「どうしたんですか? みなさんお揃いで」
「何、シュウジがご馳走してくれるっていうんでな。こうして待っとるんじゃよ」

 タマエが答えた。

「あ、いけない! 焦げるっ」

 そうナナクサは言うとあわてて台所にかけていった。

「そういえばなんだか、甘い匂いがするな」

 匂いにつられたのか姿を消していた"代表"のカゲボウズが現れて、後を追った。
 追いかけていくと、ナナクサが何かをフライパンの上でひっくり返していた。

「ホットケーキか?」

 ツキミヤが尋ねると

「ポフィンだよ」

 と、ナナクサが答える。

「ポフィン?」
「あれ、コースケはトレーナーのくせに知らないの? シンオウ地方のお菓子なんだけど、この村では結構作られてるんだよ。まあホウエンでいうポロックみたいなもんさ。本当はポケモン用なんだけど人の口にも合うようにアレンジしてあるから」
「ホウエンでいうポロックということは原材料は……」

 青年は台所の床に目をやった。
 そこにはどん、と赤ん坊を入れられるくらいの大きな籠が置いてあって、中に木の実が大量に放り込まれていた。オーソドックスなものから、少しめずらしいものまで混じっていたが、甘いものを中心に用意してあるようだった。
「なるほど、土産はこれか」と、青年は呟いた。

「で、君はこれを探しにずっと出ていたのかい?」
「そうだよ」

 ひょいっとフライパンを返してナナクサが答える。

「そうだよっ、て……」

 夜の舞台演出をほったらかしてまでやることか? と青年は思う。

「まあ他にも野暮用があったんだけどね」
「野暮用?」
「ちょっとした探し物。ちゃんと見つかったよ」

 まさかそのついでに雨降大社に忍び込んだりしていないよな? と青年は聞きかけたがやめておいた。
 冗談では済まなさそうだったからだ。

「できた!」

 ナナクサは木のしゃもじで、フライパンの型そのままのポフィンをすくいとると皿に乗せる。すでに皿の上には同じ円盤形のポフィンが六段重ねほどにしてあって、彼はさらにもう一段乗せして七段重ねとした。ベースにしている木の実が異なるのか、それぞれ違う色をしている。彼はそれを包丁を入れて八分割ほどにした。そして、あらかじめ用意しておいたブリーの実のジャムをたっぷりと上に乗せた。ジャムはとろりと溶けて、切り口から隙間に流れ込んでゆく。なりゆきを見ていたカゲボウズがごくんと唾をのみ込んだ。

「ちなみに、形を安定させる為に生地にスバメニシキの米粉を混ぜるのがこの村流なのさ」
「へえ」
「これはね、シュウイチさんが考案したんだよ。あの人は調理法の研究もしていてね。とりあえずこれ持っていってくれる?」

 ナナクサはフォークをいくつかつかみ出すと、小皿の上に乗せる。ツキミヤにほらこれだと指差して、自分はポフィンの皿を居間に運んでいった。

「みなさーん、お待たせしましたー」
「おー、まっとったぞー」

 歓声が上がって、彼らの食事は始まった。
 人間もポケモンもむしゃむしゃと食べる。
 タマエはこれじゃこれじゃと言って、自分の皿にありったけ盛りつけるとさらにジャムをかけた。ヤミカラスがテーブルに飛び乗ってきて、タイキはフォークに指したそれをヤミカラスに差し出す。ノゾミがおねえちゃんが作るのよりおいしい、と言った。ふーふーとよく冷ましてから、小皿をニョロモに差し出す。ちゃぶ台の上でカゲボウズとネイティが一つの皿から奪い合うように引っ張り合う。そのはずみでツキミヤの頬にジャムがひっかかった。ヒスイはその様子を見ながら黙って食べていたが、

「ほらほら、ヒスイもリザードを出していいんだよ。ただし畳は燃やさないように」

 そのようにナナクサが言うと、彼は小皿を持って庭の見える縁側に歩いていきリザードを繰り出し、食べさせ始めた。
 そんな彼らの様子をナナクサはにやにやしながらひとしきり見つめた後、席を立つ。

「どこに行くんだい?」

 ツキミヤが尋ねると「ちょっとね。すぐに戻るよ」と彼は言った。

「ねえ、ツキミヤさん」

 いつのまにか隣に皿を持ったノゾミが隣に移動してきていて青年に話しかけた。
「ちょっと教えて欲しいことがあるの」と、ノゾミは言う。

「そういえばなんでノゾミちゃんが来てるんだい?」

 するとノジミは「別に来たかったわけじゃないけど」と、前置きした上で、

「タイキがニョロすけの水の石返してくれるっていうじゃない。だから」

 と、答えた。
 ああ、そういうことかとツキミヤは理解する。

「いやのう、どーゆー風の吹き回しか知らんが急にコクマルが水の石を持ってきおってのー、ノゾミんちに返しにいくって電話したんじゃが、どういうわけかノゾミのほうから来ると言い出したんじゃ」

 タイキが補足した。
 そんなタイキにはお構いなしにノゾミが話題を戻す。青年に小声で尋ねてきた。

「ねえツキミヤさん、お姉ちゃん、シュージお兄ちゃんと何かあった?」
「なんでそう思うんだい」
「いや、なんていうかお姉ちゃんおかしいのよ。その、私、お姉ちゃんの隣で通し稽古見ていたんだけどね、お姉ちゃんたら村長さんに『私ナナクサさんなんて方、知らない』って言うのよ?」

 なるほど、目的はそれか。と、青年は理解した。それを探るためにわざわざ来たというわけだ。ノゾミが青年に耳打ちする。

「私が思うにね、お姉ちゃんシュウジおにいちゃんに告白したんじゃないの。それでよっぽどこっぴどく振られたんだわ」

 あたり。まったくこういう時の女の子の洞察力というのは恐ろしい、と青年は思う。

「……そして竹林で悲嘆にくれてぶっ倒れたと」

 と、そのように返した。青年にはものすごく身に覚えがありすぎた。

「どうもそうらしいのよ。まぁそれは貧血か何かなんでしょうけど。でもそれにして変なのよね」
「何がだい」
「ほら、おねえちゃんって見たまんま執念深くてハブネークのような女じゃない? こっぴどく振られたからって簡単に諦めるようなタマじゃないと思うのよ。それでいて根に持つタイプっていうか」
「……まあ、わかるよ」
「でしょう!?」

 ノゾミは話が通じたとばかりにおおいに盛り上がる。タイキは話についてゆけず、つまらなさそうに青年と少女を見ていた。青年は苦笑いする。

「それなのに、きれいさっぱり忘れちゃって、憑き物が落ちてしまった感じなのよね」
「ふうん、そうなんだ……」
「その、シュージお兄ちゃん風に表現するなら、無洗米って感じね。とるものとってしまって、そのままでもいけます! とがなくても炊けます! みたいな」
「……無洗米ね」

 なかなか面白い表現をする子だなと、青年は思った。

「そうだ、米で思い出したんだけど」
「何?」
「ノゾミちゃん、穴守さんところの出店ブースには行ったのかい」
「え、そんなのあるの?」

 まったく知らなかったとばかりにノゾミは言った。

「タイキ君も手伝ってるんだ。ねえ、店長代理さん?」

 少年に目配せする。

「そうなの?」

 と、ノゾミがタイキのほうを向いて尋ねた。

「あ、うん。ま、まあ」

 タイキは顔を赤くして歯切れの悪い返事をした。
 ツキミヤはノゾミに耳打ちする。

「ものすごくおいしいってコアなファンの間で有名なんだ」
「へえ? でも私お米の味に関してはうるさいわよ?」
「僕も食べてみたけどこれがすごかった。お米ってものの概念が変わるね。あれは」
「えー、そんなに?」

 青年の評価を聞いてノゾミは期待を膨らませる。

「ねえタイキ、明日行っていいかな」

 と、ノゾミが尋ねた。
 すると、タイキがヤミカラスをむんずと掴んで、その羽毛をいじりだし、もじもじし始めた。

「どうしたの?」
「いや、その……非常に言いにくいんじゃが」
「何?」
「祭で出す分の米、今日のお昼になくなってしもうてのう……明日はもうやらんのじゃ」
「えー」

 ノゾミは悲嘆の声をあげた。
 タイキが申し訳なさそうに

「……すまんのう」

 と、言った。
 すると、何を思ったのかタマエがすっと席を立った。台所に入りしばらくごそごそと何かを漁ると、麻の袋に何かを入れて持ってくる。
「ん」と言って、老婆は少年の前に差し出した。受け取った少年はその感触から中に入っているものを瞬時に理解したようだった。それは二合ほど入っていた。

「タマエ婆、これ……」
「なあに。ちと必要があってとっといたが、そういうことなら仕方あるまい」

 と、老婆は言う。
 
「だって、これ……」
「ええんじゃ。それでご馳走してあげんしゃい。ただし炊飯器じゃだめじゃぞ。あそこで、ちゃんと釜をつかって炊いたってな」
「……わかった」

 少年は何か神妙な面持ちになって、そしてぼそりと言った。
「タマエ婆、ありがとう」、と。

「みなさーん、こっちむいてー」

 その時、縁側の向こうから陽気な声が聞こえてきた。ナナクサであった。
 何やら足が三本ある台を持ち出し、セットしている。

「どうしたんだよ。そんなもの持ち出して」
「決まってるでしょ。記念撮影」

 ツキミヤが尋ねるとナナクサはそう答えた。彼が用意してきたもの、それは三脚だった。

「だって明日は舞台の本番じゃない。舞台が終わればもう祭も終わりになるよ。そうしたらコウスケもヒスイもまた旅に出るんだろ? だからやるなら今のうち。ノゾミちゃんもいることだしさ、ちょうどいいじゃない」

 カメラを三脚の上に置き、セットする。

「さあ集まって! ポケモンも一緒にね」

 ナナクサが号令をかける。それはどこかからげんきのように青年に映った。
 青年は知っている。祭が終わったらここを去るのがヒスイと自分だけではないことを。もう一人、場合によってはもう一人いなくなる。
 だから彼は残そうとしているのだ。自分がいた証、自分「達」がここにいた証を。

「なんじゃあ、ずいぶん騒がしいのう」

 そう言って入ってきたのは、タイキの父親だった。

「あ、やーっと起きてきた。ささ、お父様もさっさと入ってくださいな」

 ナナクサが言う。
 邪険にしているように見えちゃんとカウントには入っているらしかった。

「ん? ああっ、ずるいやんか! みんなしてポフィンさ食いおって!」

 もうジャムしか残っていない皿を見てタイキの父はいった。たぶん匂いでわかったのだろう。

「父ちゃんがいつまでも寝とるからじゃ。ハトマッシグラの米酒飲んでからに」
「はいはい、お父様用には後で食べたいだけ焼いて差し上げますから、今は並んでくださいね!」

 カメラのピントを調整しながらナナクサが言った。

「はーい、じゃあ撮りますよ!」

 住人、旅人、そのポケモン達。去るもの、残るもの。穴守の家の庭先で人とポケモンが一箇所に固まる。
 ツキミヤの隣にナナクサが並んだとき、カシャ、と自動シャッターが降ろされる音がした。





「よう、久しぶりだな。キクイチロウ」

 一面黄金色に色付いた大地に二人の青年が立っているのが見えた。
 収穫無き秋が過ぎて、村は不毛の冬に耐えた。
 春になって田植えの季節になり、夏が過ぎて、再び実りを迎える季節となった。
 黄金色に色づいてお辞儀をする稲にはずっしりとした実がたわわに実っている。
 シュウイチはまるで愛しい人の髪を撫でるようにしてそれに触れた。

「立派なもんだろ」

 シュウイチが言った。

「ああ。だが散々だ。お前の家以外はな」

 やがてこの村の長になる青年はそのように答えた。

「まともに実ったのは、穴守の家だけだ」

 目の前につきつけられた結果を確認するようにキクイチロウは続ける。
 風が吹いて金色の野をさわさわと揺らした。

「どんな手を使った?」
「……外から種を持ち込んだのがよかったのかのう」

 シュウイチはキクイチロウのほうを向かないまま淡々と言った。

「数を集めただけだ。いろいろ持ち込んだ。スバメニシキ、オニスズメノナミダ……他にもいろいろだ。下手な狩人もありったけぼんぐりを投げればジグザグマの一匹くらい捕まえられるだろ。そういった感じでだ」
「…………」

 キクイチロウは黙って耳を傾けた。
 村の者皆が皆知りたがっていた。稲に実をつける方法を知りたがっていた。
 だが、村の者達は皆、シュウイチに近づこうとしなかった。

「どれか一つでも実がつけばいい、病に強い稲が見つかればいい。そう思っていた」

 シュウイチが続ける。
 彼らが彼を見る目には二つのものが見え隠れしていた。村でただ一軒実をつけた者へのやっかみ、そしてうしろめたさだ。
 去年の少し前、この村に住まう者達がシュウイチに何をしたかはまだ記憶に新しい。

「だが困ったことに、明確な説明が出来なくなっちまった」

 と、シュウイチは言った。

「教えられんということか」
「そうじゃ、教えられん」

 彼は即座にそう答えた。キクイチロウは顔のあたりが熱を帯びた感じがした。
 わかっている。この青年の感情を考えれば、当たり前の答えなのだ。だが、この緊急事態に意地を張る青年に彼が怒りを覚えたのも確かだった。
 だがシュウイチは

「だってそうじゃろう? どれもこれも全部が全部びっしり実をつけたのでは、これを育てたら良いと教えられんじゃないか」

 と言った。

「……それは教える気があるということか」
「あるもないも、俺は結果が出たらそうするつもりじゃった」

 青年が振り向く。
 キクイチロウは昇った熱が引いていくのと同時にどうにも度量の差を見せ付けられた気がした。
 あそこまでの事をされておきながら、今なおそういう立場にありながら、なぜこうも彼は屈託無くそう答えられるのか。
 胸のあたりが苦しくなった。きっと自分には耐えられないと、そう思う。

「キクイチロウ、おまんの立場はわかっておるつもりじゃ」

 シュウイチのその言葉がキクイチロウを追い詰める。
 彼の後ろには彼の持ってくる「答え」を期待しているもの達がいるのだ。皆、顔を合わせるのがいやだから、代わりにキクイチロウがここに来ている。この男は彼らに「答え」を持っていかなければならない。それが将来、村の長となるキクイチロウに振られた役回りなのだ。

「だが、わかってくれ。俺だってどうしたらいいものか悩んどるんだ。いい加減な答えを言うわけにはいけない。だから悩んどる」

 シュウイチはたわわに実った稲を見つめてそう言った。
 ふうっとキクイチロウは静かにため息をついた。わかっている。こいつはそういう男なのだ。

「……シュウイチ」
「なんじゃ」
「おまん、わしん立場がわかっとると言ったな」
「ああ」
「そんならば、純粋に取引といこう」
「取引……」
「商売の話をするっちゅうことだ」

 シュウイチは理解した。つまりこういうことだ。この田で出来た米の種もみを売れ、とこの男はそう言っている。おそらく彼はそれを村人に配るなり、貸し付けるなどするつもりなのだろう。
 キクイチロウにはわかっていた。ある意味でもっとも卑怯な手だと。権力を使って無理やり口を割らせることもできず、かといってまともにシュウイチに頭を下げることも出来ないのだ。だから、こうして取引を持ちかけている。対等なように見せかけて、結局は面子を保ちたいだけだ。だが、

「わかった」

 と、シュウイチは言った。
「キクイチロウの立場は理解しておるつもりじゃきに」、と。
 そうして、若者二人は口頭でそろばんをはじき始めた。
 安く買うつもりはなかった。買い叩いたとあっては、その価値が疑われる。
 安く売るつもりはなかった。遠方のあちこちから苦労してかき集めた種を、孤独に耐えながら育てた。
 この田で出来た米には通常の何倍も何倍もの値段がつけられた。この田の米にはそういう価値があった。それは病気にならない種、秋には実りを約束する種なのだから。

「では、こんなものでどうだ」

 最終的な値をキクイチロウが算出し、示した。
 シュウイチは概ね了承したようだった。

「それでいい。ただ、一つ条件をつけさせてくれ」
「なんだ」
「対価はその半分でいい。そのかわりおまんに用意して欲しいものがある」
「用意して欲しいもの?」

 キクイチロウは怪訝な表情を浮かべる。

「あの時のことを気にしているのか。それなら村の者には決してあの時の話題に触れないように言うつもりだ」

 キクイチロウは己の中で自嘲する。その口でよく言えたものだ、と。あの時最もシュウイチを恐れたのは誰よりも自分自身ではないか。

「そうとも、あれは妖怪の仕業なんかじゃない。祭で大社に人が集まっている隙に何者かが火をつけた。おまんはただその時に詠っただけ、舞っただけ、だ」
「実際はそうだろう。だが、村の者はそうは思っていない。この村のもんは今だ迷信を信じつづけとる。権力はその手の信仰に勝つことはできん」
「そんなことはない。止めるさ」

 キクイチロウはそう言ったがシュウイチは首を振る。

「皆の信仰を支えるものはあそこの、別殿にあるきに」

 と、言った。

「……"あれ"か」
「そうじゃ。俺に言わせれば"あれ"も寄せ集めのインチキだが……だいたい"あれ"の中にはない。一番重要な"色"がないじゃないか」
「……あの"色"のものは大昔に焼失したと聞いている」

 苦々しく答えると「それがインチキだと言っておる」と即座に指摘した。
 少し腹が立った。あれは雨降大社で遠い昔から伝えられてきて、代々受け継いできたものだ。だが、シュウイチの感情を考えれば致し方の無いことだと、彼はそれを飲み込んだ。今、何より優先しなければならないことは、この青年から「種」を手に入れることだ。すると、

「だが、重要なのは真偽じゃあない。実際に皆が信じているかどうか、だ」

 シュウイチはそう言った。

「信じられているのなら逆に利用してしまえばいい」
「どうすると言うんだ」
「"あれ"のうちの一つを俺にくれないか」

 キクイチロウが凍りついた。

「それは……」
「何も大物をよこせとは言わん。一番小さなものでいい」
「それはできん!」

 キクイチロウは脊髄反射のごとくを返した。
 シュウイチにとってそれは予想通りの反応だった。キクイチロウが難色を示すことなどわかっていた。だが、彼はさらに続けた。

「なあ、キクイチロウ。俺はこの村の人間だろう。俺を認めてくれるんなら、九十九が憑いているのでないと認めてくれるならその『証』が欲しい。もし"あれ"をおまんの手から俺に渡したなら、雑音は一気に吹っ飛ぶだろうよ。それがたとえ、一番小さいものであってもだ」

 たしかに、有効な方法ではあるとキクイチロウは思った。人々は甘んじて狐憑き由来の米の種を受け取りたいとは思っていないはず。事をすんなり運ぶにはそういうパフォーマンスが必要かもしれない。

「俺自身は何を言われてもいい。だがうちのお父やお母、じいさんばあさんはどうなる。俺ん為にこれ以上惨めな思いをさせとうないんじゃ」

 それにキクイチロウは初めてのような気がした。

「次の村長になるおまんになら、それくらいの力はあるじゃろう。どうか俺を立てておくれ」

 初めてのような気がした。シュウイチが自分に頼みごとをし、そういった弱みを見せるなどといった事は初めてのような気がした。

「…………わかった」

 最後の最後にキクイチロウはそう答えた。





 フライパンの上、ポフィンの生地が焼き固まってゆく。ナナクサはそれをしゃもじで器用にひっくり返す。

「おー、これじゃこれじゃあ」

 その隣の部屋でそう言って、タイキの父は食べ始めた。
 タマエに負けないくらいブリーのジャムをかけると口の中に運んだ。

「うまぁい!」
「はいはい、まだありますから好きなだけ食べてくださいね」

 ナナクサが追加で焼き上げたポフィンの山を運んでくる。
 ドン、とちゃぶ台に置いた。

「こいつは昔を思い出すのう。父ちゃんもときどき山に入ってのう。木の実を見つけてきてはこうしたり、ポロック作ったりしたもんよ。ほんま懐かしい味じゃあ」
「それはよかったです。まだ足りなかったら焼きますから、声をおかけください」
「おう」

 と、タイキの父は機嫌よく返事をした。

「なるほど母ちゃんがあいつを雇った理由がよくわかったわ」

 もごもごしながら彼は息子に言った。

「ああ、俺んもはじめて食った時は驚いたわ。じいちゃんの作ったもんにそっくりなんだもの。俺もタマエ婆も散々試したけどあの味は出せんかったってーのに」

 そう言ってタイキも手を伸ばした。
 さきほど食べたばかりだというのに飽きずに鴉もそれをつつく。

「コクマル、コクマル、ちょっとこっちにおいで」

 すると、台所からナナクサの手が伸びてカラスを手招きした。
 鴉は首をかしげるとちょんちょんと飛びながら、入っていった。
 見るとナナクサがなにやら小さな籠を手に抱えていた。木の実を入れた大きな籠とは別のものだった。彼はその籠を傾けて見せる。
 するとコクマルの表情がみるみる変わったのが見て取れた。

「どうだい、なかなかのもんだろう。見つけるの大変だったんだよー」

 中にあったのは木の実だった。中にあったのはカムラの実、ブーカの実、ホズの実……いずれも上等で、めったに食べられないめずらしいものばかり。それらは甘味の強い木の実ばかりであることを鴉は知っていた。

「ねえコクマル、これでポロックを作ってあげる」

 と、ナナクサは言った。
 これらをブレンドすれば、どんなポロックが出来るか。ポフィンを食べたばかりだというのに想像しただけで鴉はよだれが出そうだった。

「もちろん全部君のものだ。全部君が食べていいんだよ。でも……代わりに一つ頼まれてくれないかな」

 そのようにナナクサが言うと、鴉は目をぱちぱちとさせて、そしてまた首をかしげた。



「シュウジは?」
「調理中だ。だが、すぐに追うと言っていた」

 脚本をぱらぱらとめくりながら内容を確認するツキミヤにヒスイが答える。

「そうか」

 と、ツキミヤが返事をした。
 彼らの姿は別荘にあった。最後の詰めの打ち合わせをする為だった。面倒だったがあの家の中でやるにはやはり物騒な相談だった。

「なあ、どう思う」
「何がだ」
「大社に侵入した人物について、だ」

 台詞を頭の中で反芻しながら、ツキミヤはそんな質問をぶつけた。
 すると「そういうお前はどう思うんだ?」とヒスイは聞き返してきた。

「可能性は高いと思っている」
「ふむ」
「あの中に神事にかかわる重要な何かがあるとすれば、彼ならやりかねないだろ」

 メグミが言うに、あそこには伝説の実在を証明する何かがあるという。明日になれば見れるとわかっていたが、ツキミヤは妙に気にかかっていた。

「だが、疑問が残るんだ。仮にシュウジがあそこに何か盗みに入ったとしてだ。あんなヘマをやらかすだろうか」
「ヘマ?」
「警報が鳴った。それで村長さんもいぶかしんでいる。それになんだろう……」
「なんだ」
「僕が思うに、シュウジだったら警報の存在を知っている気がするんだ。わざわざ鳴らすような真似をするだろうか」
「……なぜそう思う?」
「村のことなら何でも知ってるのがシュウジだからさ。同じようにあそこに警報があることも知っていると思う。あれかじめ解除してから入る方法とかさ。だから正直わからない」

 するとヒスイは「どちらだろうと構わん」と、言った。
 モンスターボールからリザードを繰り出す。同時にポケモンを出せという視線を送った。

「面倒な事はあいつに任せておけ。俺達は演技だけに集中すればいい」





 とうに日が昇った時刻だったが空はどんよりと曇っている。その下をどかどかと地を蹴りながら駆ける三ッ首の鳥の姿があった。それにまたがった男がぴしりと手綱の振動を伝えるとほどなくして、鳥はスピードを落とし始める。彼らが目指す先に矢倉のようなものが見え、旗が揺れている。何者かが陣を張っているらしかった。木組みの門をくぐった時、鳥は足を止めた。どちらにしろ夜通し走り続け、そろそろ休みたいと思っていたのだ。
 だがその主には休む暇がないようで、彼は駐屯していた兵に三ッ首を預けると陣の奥に奥に入っていった。

「ただいま戻りましてございます。親方様」
「グンジョウか」

 暗い部屋。長細いテーブルがあって奥に奥に伸びていた。
 その一番奥に一際背もたれの高い椅子があって何者かが鎮座している。
 
「はい」

 と、グンジョウは返事をした。

「誠に骨折り。その分だと一晩中走ってきたのだろう。座ってよいぞ」
「かたじけのうございます」

 グンジョウは遠慮がちに隅の粗末な椅子に腰をかけた。

「して、里の返答は?」
「……我らが里はどこにも属さぬと」
「そうか……だがお前の声の明暗からだいたいの想像はついていた」
「恐れいります」
「ふむ、やはり狐は尻尾を振らぬか」
「はい」
「だろうな。ひそかに放った雨虫が羽根を焦がして帰って参った」
「……雨虫が」

 どうやら男はグンジョウ以外も使って情報を集めているようであった。

「左様。お前と違って"遠周り"しておらぬ故、戻ってくるのは早かった」

 カツカツと足音が近づいてくる。
 陣の奥から青い衣をつけた男がグンジョウの眼前に現れた。まだ若い男だ。
 グンジョウは立ち上がり、そして跪いた。

「所詮は"赤"に近き者か。もとより相性は水と油」
「……ウコウ様にはあれだけ別格の条件をご用意いただきながらこのざまとはこのグンジョウの力不足。情けのうございます」

 男は深々と頭を垂れる。

「ふ、気に病むでないグンジョウよ」
「しかし」
「無理をしてお前が黒こげにされても困るわ。お前にはまだ働いてもらわねばならんのだからな。さあ表をあげよ。立つがよい」
「しかし」
「里に"種"は撒いたのであろう?」
「は……、里の長に渡してございます。失敗した時は土産を渡せとのご命令でしたから」
「ならばよい。お前はお前の役目を果たしたのだ」

 ウコウ、そう呼ばれた男は長いテーブルに敷かれた。一枚の大きな地図を指差した。
 それは秋津国の南、海に囲まれた南の地。

「青に塗られた部分が我等が版図、赤に塗られた部分が奴等が版図……そして今我等がいる場所がここに」

 トントンとその場所を指の先で叩いた。

「このようにして見れば瞭然よ。あの里の重要性が。奴等が版図に加わる前に早急に」

 先ほど叩いていた場所から指を少しばかり移動する。彼は里のある場所を指差した。

「あの狐は強い。土着の妖が強いと平定も一苦労よ。抵抗が激しく奴らも苦労していると聞く。……特に人の言葉を操るものは厄介……だが」

 男はグンジョウを横目に見る。

「今や地の利は我らにある。その為にまずはこの地を手中に収めたのだから」
「はい」
「ならば、水の流れこそ我らが味方」

 男は地図を線を引くようになぞって不敵に笑った。

「天狗にも手を焼いたが、得たものは大きかったな。この地に実をつけるあの奇妙な実……我等が為にあるようなものだ」
「はい。あれを安定的に供給できればさまざまなことが可能になります」
「お前がおらぬ間にも準備は着々と進んでおる。栽培のほうには課題が残るが、腕利きの職人を引き抜いたゆえ加工と細工は上々だ」

 グンジョウは答えない。ただ黙って主を見た。自分がいない間にもこの男は次々にあの手この手を用意する。先代に比べてもこのお方の才は抜きん出ている。そのように彼は思った。

「心が躍るのう。狐の地の者共が我等が神に膝をつく日も近い」

 ウコウとグンジョウが薄暗い陣の奥の奥を見た。
 ウコウが座っていた椅子のさらに奥。
 そこには大きな絵がかけられている。青い顔料で描がかれたそれは、巨大な魚のように見えた。





「いいねいいね、合格、合格」

 ナナクサは青年に向けてぱちぱちと手を叩いた。

「ちゃんと覚えてるか心配していたけど、しっかり覚えてるじゃない」
「それはどうも」

 扇を下ろすと、ツキミヤはあまりうれしくなさそうな顔で返事をした。
 正直覚えたという感じがしない。意味が違っても聞こえてくる音はほとんど同じだからだ。

「それより心配なのは、雨降のカメックスだ。あれは手ごわい」

 そのように青年が言うと「同感だな」とナナクサの隣に座っていたヒスイが言った。

「あれを倒さないことには、でっち上げた脚本も、覚えた歌詞も台詞もすべてが水の泡だ」
「……水の泡とはうまいこと言うね、コウスケ」
「おい、こっちは切実に悩んでいるんだぞ」

 正直なところ行き当たりばったりで無計画すぎたと青年は思った。舞だの台詞だのそういうことを見せられる程度に持っていくのに時間の多くを持っていかれ、肝心のところがおろそかになっている。こういうことを本末転倒というのだ。

「お得意のイカサマを使えばいいじゃない」

 と、ナナクサは言った。

「ほらなんて言うんだっけ、ドーモ君とか言う雨降らすポケモン」
「ドータクンだ」

 とツキミヤは訂正する。

「ヒスイと検証したが、ハイドロポンプの軌道を逸らしてもらうのが精一杯だろう。攻撃に回す余裕は無い。相手の主砲は二つもあるんだ」
「ネイティは?」
「彼はドータクンの眼だ。ひき続きな。増援は見込めない」
「問題はそれだけではない」

 割って入るようにヒスイが言う。

「俺のカグツチとツキミヤのカゲボウズ、敵の攻撃を防ぎながら攻撃を続ければそのうちは倒せるだろう。だがそれではだめだ。俺達の意図に気がつかれるその前に勝負をつけなければならん」
「そう。そうしないと、お偉いさん方に舞台そのものが止められる可能性があるからね」

 ツキミヤが同意した。やはり相性の壁は大きいのだ。
 できれば巨大シャドーボールのような派手な真似はしたくなかった。

「もちろん最善は尽くすが、大いに不安が残る」
「弱点をつけばいいじゃない」

 するとナナクサはいとも簡単に言った。

「馬鹿か君は。そんなことができたらとうにやっている」

 ツキミヤはあきれた声で返す。

「あ、ひどいなー。僕が何の考えもなしにそんなこと言うと思うの? なんの為に一晩も留守にしていたと思うのさ」
「手があるのか?」

 と、ヒスイが尋ねるとナナクサはふふっと笑った。

「ちゃんと考えてある。僕は君達を勝たせる為にいるんだ」

 懐に手を入れる。

「そういえばコウスケ、もうネイティの名前は決めたの?」
「まだだ……」
「そう。それはそろそろ決めなくちゃいけないねえ」

 そんなことを言いながら彼は取り出したものを見せる。
 ツキミヤとヒスイが怪訝な表情を浮かべた。





 日が暮れかけていた。里の広場では太鼓や笛の音が聞こえ始め、火が炊かれる。人々は活気付いていた。
 だが、陽気な人々とは魔逆に里の境界では緊張が支配していた。
 九十九が息子達に命を下した。
 侵入者を決して許すな。里に入れるな。神聖な祭を汚すものは排除しろ、と。
 シラヌイは大気の中にある匂いに注意を払った。
 もともと縄張り意識というものが強く、外から干渉されることを嫌う傾向が父にはあった。だが、隣接する樫の里から天狗が去ってからというもの、父はより神経質になっていることをシラヌイは知っていた。
 シラヌイとダキニは北に、サスケとフシミは南に他の兄弟達は村の要所要所に散った。
 ある意味自然の要塞たるこの里は四方のほとんどを山に囲まれている。もし父の嫌う者達が、大手を振って押しかけるなら、多少なりとも平坦な道が開けた南か北しかない。
 四つ足の旅人や行商人はほとんどそこからやってくるし、三ッ首に乗った"あの男"も南からやってきていた。

「シラヌイ、悪い知らせだ」

 西南西のほうからダキニが駆けてきて言った。

「里を飛ぶ燕からの伝令よ。奴等が動き出したぞ」
「そうか……」

 とシラヌイは答えた。あの夜、かいだあの匂いが思い出される。いやな匂いだった。

「父上の予感は当たったのだな」
「ああ」
「燕は何と言ってる。やつらはどう動いているんだ」
「三ッ首に乗った男達がかなりの数、奴等が陣を出たらしい。この里に向かっている」
「愚かな。よりによって神事の時に」

 シラヌイは上あごにしわを寄せる。
「冷静になれシラヌイ」とダキニはいさめた。

「過去百年を振り返ってもこのような事何度もあったではないか。敵は皆、豊かなこの地を欲しがっていた。だが、その度にその侵入を防いできたは我等が一族の力よ」
「そうだな。有事の際に土地を守るは我らが務め」

 ひたすら農耕の技術を磨いてきた里の人間達は武力を持たなかった。その果実を搾取せんとする者達から土地を守るのが彼ら。その分業でこの里は栄えてきた。だからこそ狐の一族の筆頭は神だった。毎年、毎年、大社に供えられるしゃもじ。それは感謝と彼らへの畏れの証なのだ。
 空気がざわついた。風が匂いを運んでくる。

「来たな」
「ああ」
「迎え撃つぞ」

 彼らの鼻をついた、それは戦の匂い。

「六尾達、体制を整えよ!」
「侵入者を許すな! この里に一頭、一人たりとも入れてはならん!」

 北からも南からも遠吠えが響いた。戦の狼煙が上がった。





 結局最後の日もナナクサに散々絞られ、ずいぶんと夜が更けてから寝込んだ覚えがある。
 だが、気がつくと黄金色の田の暗い空の下に青年は立っていた。そこが普段自分が立っている地平でないことをすでに青年は知っている。しばらく歩くとじきに石段のある小高い山が見えてきて、彼はそれを登り、大鳥居の下に立つこととなった。
 だがその奥にある大社はしいんと静まり返っている。主の姿は見えなかった。

「九十九はいないのか」

 青年は呟く。
 大鳥居の先に足を踏み入れ、きょろきょろとあたりを見回した。すると先ほど自分が潜った大鳥居のあたりから子供の声がした。

「九十九なら今は居ない」
「誰だ?」

 驚いて振り返ると、大鳥居の柱の裏から十歳くらいの少年が顔を覗かせた。

「……なんだ、君か」

 少年の姿を見た途端に、青年はそれが何者であるか理解したらしい。驚かせやがってといったようにふうっと息をついた。

「君は九十九の居場所を知ってるのかい」

 青年が問うと少年は「ううん」と答えた。

「でも、招きたいお客がいるって言ってた。だからきっとその人のところ」
「招きたい客……?」

 誰だろうかと青年は一瞬思案した。が、それを遮るようにして

「コウスケ、明日はいよいよ本番だね」

 と、幼い頃の青年の顔をした少年は言った。
 無邪気に浮かべるその笑み。それは遊んでほしくてたまらない、構って欲しいといった時のカゲボウズによく似ていた。

「ねえ、僕に見せてよ。特訓の成果をさ」

 幼いツキミヤコウスケは、青年にせがむ。

「悪いが今そんな気分じゃないんだ。鬼コーチの特訓から帰ったばかりでね……」
「ええー」

 青年がやんわりと拒否すると、少年は悲嘆の声をあげる。そして、

「そんなことないよ。コウスケはまだやりたいと思ってるだろ」

 などと訳のわからないことを言い出した。

「……疲れてるんだ。放っておいてくれ」
「疲れてるならなんでここに来たのさ。昨日は来なかったくせに」
「…………」
「コウスケはやる。やるったらやるの!」

 少年は柱の影から飛び出してきて叫んだ。
「うるさいな……」いかにも煙たがっている表情をうかべ青年は呟いた。すると、少年が

「ほら、それを証拠にコウスケはもう着替えてるじゃない」

 と、指差して少年は言った。
 
「……?」

 青年は驚いた。自分を包む衣服を見ると、それは朱の生地に金色の刺繍の布。それは舞台衣装だった。舞台上においてそれは妖狐の毛皮と云うにも等しい。

「さ、コウスケ……」

 少年が青年の前に進み出る。後ろに組んだ腕を解き、何かを取り出す。それはにたりと笑う狐の面だった。少年はすっと両腕を伸ばし青年に差し出した。

「今晩九十九はここにいない。だから今日ここでは君こそが九十九なんだ。さあ」

 少年の瞳がを覗き込む。その瞳は三色の光を帯びていた。それに呼応するように青年の目の色もまた同じ光を宿した。唐突にわかった気がした。今日ここに自分を呼んだのは――。
 彼はすうっと腕を伸ばすと面を手に取った。

 燃えよ燃えよ 大地よ燃えよ
 燃えよ燃えよ 大地よ燃えよ

 気がつくと青年は面をつけ、そして呪詛を紡いでいた。
 繰り返し繰り返し口にしたこの詩をいまや青年は息をするように口ずさんでいる。
 するとその詩に呼応するように暗き空に火が灯って、いくつもいつくも夜の闇に現れ田の中に堕ちた。ごうっと夜空が明るく燃えた。

 燃え上がれ火 燃え上がれ火 燃え上がれ炎よ
 燃え上がれ火 燃え上がれ火 燃え上がれ我が炎

 青年は謳う。夜の帳が下りた村の田に、「彼ら」は燃える地平を見た。
 黄金色の大地に、紅き火が放たれ、広がってゆく。地平線が赤く彩られていく。
 燃え落ちる稲穂、すべてが灰になってゆく。幾重の月をかけて育んだすべてを瞬く間に灰に変えてゆく炎。それは田と生きる民にとって絶望に他ならない。青年の眼前に広がるのは詩にある紅き地平だった。
 ふと、彼の耳に喉の奥から低く響く笑い声が届いた。どうやらそれは青年自身から発せられたもののようだった。青年自身が見ることができぬその口元は醜く醜く歪んでいるのだろう。

「そうだ。それでいいんだよ……コウスケ」

 満足げに少年は言った。炎に照らされたその顔は濃い影を刻み付けていた。
 
「忘れてはいけないよコウスケ。この世界が僕達に何をしたのか。あの夜に僕達は決めたんだ。恨んでやると、決して許さないと、この世界を許さないと」

 声変わりをする前の、まだ幼かった頃の声が語りかける。
 神社の石段で父の背中を追っていたあの頃の声だ。
 この声を耳にすると青年はいくらでも残酷になれる気がした。

「許さない。父さんを棄てたこの世界を許さない。僕達はそう決めた」

 石畳の上で大小二つの影が踊っている。
 炎は暴く、照らし出す。暗い暗い青年の闇。猩々緋(しょうじょうひ)の炎は赤く紅く炙り出す。揺らぎ揺らめく火が踊り歪に歪に照らし出す。
 さあ、絶望するがいい。世を恨み、憎むがいい。
 燃えろ燃えろ燃えてしまえ。すべて灰になってしまえ。
 この地に絶望の証を刻みつけよう。





 穴守の家、人の寝静まった深夜に起きだす者があった。
 その人は台所へ入っていくと、水を一杯グラスに注ぐ。ごくりごくりごくり、と三回ほどに分けてと飲み干した。
 目がひどく冴えていた。再び眠れる気が起きず、隣の居間の灯りをつける。
 灯かりは瞬く間についた。すると、ちゃぶ台の上にラップをかけて保存してあるポフィンの皿が目に入った。夕べにタイキとその父が散々に食べ散らかしたその残りだった。

「こいつはちょうどいいわい」

 彼女は台所に戻り、茶を淹れた。湯のみと急須をトンとちゃぶ台に置き、座布団を敷いて正座し、ラップのかかった皿に手を伸ばす。半分ほどそれをはがすと中のポフィンをつまんで口に運んだ。こぽこぽと湯のみに茶を注いで、ふーふーと二、三度吹いてからすすった。

「ふう」

 タマエが一息を淹れたところで、居間に足音が近づいてくるのが聞こえた。
 
「シュージか」

 と、タマエは言った。足音の伝える歩き方でそれがわかる。

「すみません、足音が聞こえたのですが戻ってこられないので、どうしたのかと思って……」

 半開きのままだった襖から顔を出してナナクサが言った。
「何、少し一服してるだけのことよ」と、タマエは答える。

「起きてきたんなら、シュージも飲むか」

 そう言って、よっこいしょっと彼女は立ち上がった。
「とんでもない。僕がやりますから」と、ナナクサは言ったが「いいんじゃ」とタマエは言い、そうして湯のみをひとつ持ってくると、それをちゃぶ台の上に置いて、茶を注ぎはじめる。

「……すみません」
「シュージにはやらしてばかりだったからの。たまにはわしがやりたいんよ」

 湯のみがいっぱいになると傾けた急須を戻し、置いた。

「今のうちだからのう。おまんをもてなそうと思ったら、な」

 静かな部屋にタマエの声が染みわたる。

「…………タマエさん」
「なんじゃ」
「僕はもてなしをうけていいような人間ではありません」
「またそれか。その手の台詞はこの三年でもう聞き飽きたわ。おまんは何だってできるくせに変なところで卑屈じゃのう」
「そうでしょうか」
「自分を人で無しだと言ったこともあったねえ」

 そうだそうだ、そんなこともあった、と彼女は思い返す。たしかあの時はそんなことは二度と言うなと言ってめずらしくナナクサを叱ったのだ。それで彼は二度とその言葉を吐かなくなったが、ごくたまに思い出したように自分はからっぽだとか、人の気持ちが理解できないなどと言い出すことがあった。
 彼はここにいた三年間、友人も恋人も決して作ろうとしなかった。決して機会がなかったわけではないのに、だ。それは彼のそういう気質に由来するのかもしれなかった。
 タマエは半分かかっていたラップをすべてはがすと、まあお食べと勧めた。

「……まあなんだ、おまんが作ったものを勧めるのもおかしな話だが」
「いえ、いただきます」

 そう言ってナナクサは皿に手を伸ばして自身の作ったポフィンをとると、端をかじる。
 だがタマエはここ最近ほっとしていた。偶然村にやってきたというツキミヤ、祭を見物しに来たというヒスイ、ナナクサは彼らとよろしくやっているようだったからだ。こそこそと夜に皆して出かけていくなど、いかにもこの年の男の子というものがやりそうなことではないか。

「言いたくないなら言わんでもいいが……、故郷(くに)に帰るのかい」
「そんなところです」

 そう答えるとナナクサは茶をすすった。
 タマエもポフィンをもう一つとる。

「タイキには昨日伝えた。寂しがっていたよ」

 ほおばった後に少しお茶も口に入れた。
 上目遣いに青年を見、この子の事は結局何ひとつわからなかった、とタマエは思った。
 だがなぜだろう。最初からどうも他人である気がしなかった。まるで昔から一緒にいたような感覚を老婆は彼に覚えるのだ。だが、その相手ももうすぐいなくなる。それはとてもとても寂しく、悲しいものだった。

「そういえばおまんがここば尋ねてきた時もこんな感じだったのう」

 と、タマエは言った。

「いきなり働かせて欲しいと押しかけてきよって、てこでも動きよらん。そうしたら台所を借してくれとおまんは言いおった。今から僕の一番得意な料理を作る。これを食べたらあなたはかならず僕を雇うだろう。おまんはそう断言した。あんまり自信たっぷりに言うもんだから、じゃあやってみろとわしは言った。結果は、」
「……雇っていただきました。タマエさんはお茶を淹れてくれました。そしてお前も食べろ、と。僕が作ったポフィンを勧めてきました」
「ああ、あのポフィンはうまかったよ。この味を出せるのをわしは二人しか知らん。シュージと……」
「シュウイチさん、ですね」
「そう、シューイチじゃ」

 タマエはふたたび茶をすする。

「……シュウイチさんは、僕の憧れです。会ったことも話したこともないけれども僕の憧れなんです」

 ナナクサはポフィンをかじる。また少し茶を口に含んだ。

「もうここにはいなくとも、皆シュウイチさんを覚えている。タマエさんにタイキ君、それにタイキ君のお父さん、みんな楽しそうにシュウイチさんの事を語ります。村長さんも口には出さないけれど、ものすごく意識していますし」
「そりゃあまぁキクイチロウとはいろいろあったからのう……因縁じゃなぁ」
「そんなシュウイチさんに僕は憧れたんです。僕も彼のように人の記憶に残る人になりたかった」
「何を言っとる。おまんが故郷(くに)帰ったって、ずっとわしは覚えとる」
「……ありがとうございます。でも、タマエさんの中にはもうシュウイチさんがいますから」

 ナナクサは湯のみを両手に抱えたまま、さみしそうに笑った。
 それは諦めたような悟ったようなそんな笑みだった。
 ふうっと息をふきかけると彼はごくごくと茶を飲んだ。タマエは空になった湯のみに再び茶を注いでやった。

「……そういえば」

 と、沸き立つ湯気の向こうでナナクサが話題を転換する。

「なんじゃい」
「こんな夜遅くに起きだしてきて何かあったんですか、タマエさん」
「おい、ちょいとばっかし聞いてくれるのが遅くないかい?」
「すいません……。でも、いつもぐっすり熟睡のタマエさんがめずらしいなと思って」

 そうだった。そもそもそれが気になってナナクサは布団から這い出てきたのだ。

「ああ、ああ。そうじゃった。夢を見ての……」
「夢?」
「ああ」

 カナエは自身の記憶を確かめるようにして言葉にした。

「夢に出おった。六十五年ぶりにじゃ」
「それはまたずいぶん昔ですね」
「ああ、じゃが六十五年ぶりに現れた。あのお方が現れおった」
「……! あのお方……?」

 ナナクサが目を見開いて老婆を見た。タマエがあのお方と呼ぶこころあたりはひとつしか無かったからだ。

「あのお方って、まさか……」
「ああ、九十九様じゃ」

 老婆の口から出たのは炎の妖の名。

「九十九様がわしの夢の中においでになったのよ。間違いない、あの白銀のお姿を見間違えるはずがない」
「……九十九様が」

 神妙な顔つきで語るタマエを見るナナクサの目は真剣だった。

「そうして九十九様はお告げを残していかれた」
「……九十九様は何と」
「今年の野の火を観に来るようにと、そう仰った。コースケの出る舞台を観に行くようにと。そこですべてを見せるとあのお方は云った」

「すべて……を」とナナクサはおうむがえしにする。
「ああ、」と、タマエは頷く。

「絵巻の上でも、口伝でもない、本当の野の火を見せようと。本当の怖れとはどういうものか見せよう、と。九十九様はそう仰った。わしゃあ夢の中で何かを言おうとしたんだが、そのまま目が覚めてしもうたのじゃ」

 その後の二人は、妙に言葉に詰まってしまって部屋はしんと静まり返った。
 先ほどタマエが茶をついだばかりのナナクサの湯のみからゆらゆらと湯気が立ち上っていた。


  [No.113] (十八)策略 投稿者:No.017   《URL》   投稿日:2010/11/15(Mon) 08:45:22   62clap [■この記事に拍手する] [Tweet]





※この回から残酷表現が出てきます。
 了承の上、お読みください。








(十八)策略


 懐かしい声が聞こえた。
 金色(こんじき)の大地の上にその青年は立っていて、タマエの名を呼んだ。
 ああ、これは夢なんだ。そうタマエは思った。
 だって彼はもうこの世にはいない。三年前に他界したのだから。

「シュウイチ、よかった」

 と、彼女は言った。
 それは年経た老女のしわがれた声では無く、若い娘の声だった。
 青年は満足げに微笑む。稲がたわわに実をつけていた。
 続く凶作、焼け焦げた田、だが黄金の大地は復活した。

「一体どんな魔法を使ったの?」

 若き日のタマエはシュウイチに問う。
 ふわりと長い黒髪をたなびかせ彼女は青年に駆け寄った。

「皆、それを知りたがっておる」

 と、青年は言った。

「キクイチロウも村のもんも、絶対に信じないし、認めようとしないだろうさ。だがタマエ、お前だけに教えてやる」
「それは?」
「それはな……」

 だが、シュウイチが言いかけた時に不意に風が吹き、声は掻き消えてしまった。
 金色の野がざわりと揺れた。
 すると娘の背後に、先ほどまでは無かった何か大きな存在の気配があった。

「こうして顔を合わせるのは久しぶりだな。娘」

 声が聞こえた途端に、一人と一匹を除いた時が止まったような気がした。
 娘はゆっくりと振り返る。
 そこにあったのは白銀に青白く輝く毛皮、たなびく九本の尾、血のように赤い瞳。
 村の伝承にある炎の妖の姿だった。

「……九十九様」

 その声色には若い娘の驚きよりは、年経た老女の落ち着きがあった。

「何十年ぶりでしょうか。もっとも毎日お会いしに行っているので久しぶりという感じがしません」
「私もだ。娘よ」
「六十年前……いえ、もっと昔だったでしょうか」
「六十五年前だ」

 娘の問いに妖狐は即座に答えを返した。

「六十五年前、私に力を与えたのはお前だった。とうの昔に肉体を失って、名前だけとなった私に力を与えたのはお前だった。懐かしい声だった」
「……懐かしい?」
「お前の声も、姿も、あの子によく似ている。お前は毎日来てくれた。あの子の声で、いつも私に語りかけてくれた。故に私は力をつけることが出来たのだ。今まさに仕込みは終わろうとしている」
「仕込み?」
「そうだ」

 赤い瞳に娘を写し、妖狐は笑う。

「娘、明日の夜は舞台があるだろう」
「? はい」
「お前は毎年嫌ってゆかぬようだが、今年は見にいくがいい。すべてを見せよう。私の炎の全てをな」
「すべてを……」
「そうだ」

 そこまで言うと九十九はくるりと向き直った。
 びゅうっと再び風が吹くと、もうどこにも九十九はいなかった。

「必ずだ。必ず……」

 九十九の声だけが耳に残って、時が再び動き出した。

「カナエ? 誰かいたのか」

 と背後でシュウイチの声がする。

「ううん、何でもない」

 と、タマエは答えた。
 だが振り返った瞬間、彼女ははっと目を見開いた。

「シュージ……?」

 なぜなら振り返った先にはナナクサシュウジの顔があったからだ。
 そこにはシュウイチの姿は無かった。
 ナナクサシュウジが、シュウイチの声でしゃべっていたのだ。
 タマエの驚く表情にナナクサの顔をしたシュウイチは怪訝な顔をする。

「どうしたんじゃ?」

 タマエはぶんぶんと頭を振った。
 再び青年を見るといつものシュウイチの顔だった。

「誰じゃシュージってえのは。俺に弟がいたんならそんな名前だったかもしれんがなぁ」

 残念ながら俺ん下は女ばっかりじゃ、とシュウイチは付け加える。

「……すまん、なんでもないわ」

 とタマエは答える。
 どうしてだろう、と思った。
 たしかにナナクサはシュウイチと被る部分がある。声も容姿も似ていないけれど、雰囲気がよく似ているのだ。
 だが違う。まるで関係の無い赤の他人であるはずなのだ。
 それなのにどうしてなのだろう。どうして昔から一緒にいるような気がするのだろう。

「なあタマエ」

 タマエが物思いにふけっていると、シュウイチは再び声をかけた。

「今から俺の家に来んか」
「家に?」
「ああ」

 タマエが意図を理解できずに尋ねるとシュウイチは短く返事をした。

「家に行ってどうするん」
「いいから」

 そう言ってシュウイチはタマエの手をぎゅっとつかんだ。
 あまり強引なことをしないシュウイチにしては珍しい行動だった。
 シュウイチに手を引っ張られる形でタマエは歩き出した。
 知っていた。老婆はこの時のこの光景を鮮明に鮮明に記憶している。
 時が経って色褪せていく思い出はたくさんあるけれど、この光景だけは幾年も繰り返される田の黄金色のようにあざやかなのだ。
 よく覚えている。この後、シュウイチに手を引かれて、導かれるままにこの青年の家に行ったのだ。シュウイチの家に。

 六十五年前にはじまった祈り。
 こうして手を引かれたのが六十四年前。

「タマエ、お前だけに教えてやる」

 あの時、シュウイチは言った。
 彼女にだけ秘密を教えた。

「お前だけに教えてやる。不毛の稲が実をつけたのは、それは――」





「参拝に行かんか。コースケ」

 穴守家の朝、朝漬けのキュウリを小皿に取りながら唐突にタマエは言った。

「……参拝ですか」

 白い粒を箸の先につまんだまま、青年は顔を上げる。
 
「そうとも。歌舞伎役者なんかは縁の神社に参拝するっちゅうじゃないか。舞台の成功を祈ってな、詣でるのよ」

 ナナクサとヒスイの視線もタマエのほうに向いたのがツキミヤには分かった。
 人数が本来の三人から四人になり、いつのまにか六人にまで増えたちゃぶ台はひどく狭かった。

「それなら行きますよ」

 と、ツキミヤは答えた。
「夕方に大社に呼ばれています」と。
 すると、

「何を言っとる。おまんが行くべきはそこじゃあなかろうが」

 と、タマエは言った。

「なるほど。あっちですか」

 ツキミヤはすぐに老婆の言わんとする事を理解したらしく、そのように切り替える。
 つまり老婆はこう言いたいのだ。青年が詣でるべきは雨降の祀られているところではない、と。

「そうとも。おまんの役は九十九様じゃ。九十九様んとこば挨拶しに行かねばな」
 
 タマエはそこまで言うと味の染みたキュウリを口に放り込み、こりこりとかんだ。
 ツキミヤもご飯粒を口の中に入れると、ミョウガの味噌汁をすすった。
 これと言って断る理由もなかった。
 なによりタマエには一泊一飯以上の恩があるのだ。
 今日はもう稽古も無い。この老婆に付き合う時間くらいはとれるだろう。


 道中はタマエとツキミヤの二人だった。
 ヒスイはともかく、ナナクサがトサキントのフンになってついてくるのかと思っていたのだが、タマエがそう望んだのかもしれない。とにかく道中は二人だった。
 タマエはその手に仏花を携えていた。誰に供えるものか、それは明白だった。
 いつもナナクサ達と通っていたその道とほぼ同じルートを通って、二人は歩いた。
 山のほうからさらさらと流れる小川にかかった木板を渡って進むと、やがて墓地が見えてくる。
 タマエは墓地に入り、花を供えると、線香に火をつけた。椀に盛り付けた飯に箸を刺し、墓前に供える。
 墓標に見えるのは穴守周一の字だ。
 ツキミヤはそっと後ろで見守っていた。

「シュウイチさん、六十五年前にあんたがやった役、後ろの子がやることになってん。どうか見守っておくんなさいね」

 タマエはしわがれた声でそう言うと、しわだらけの手を合わせる。
 ツキミヤも老婆に続くようにして手を合わせた。

「ああ、それと……いつものあれ、今年は持ってこれんかった。ちょっと必要でねえ。けれんども、あんたなら許してくれると思うて。埋め合わせはそのうちするけんねえ」

 いつものもの? と、ツキミヤは閉じた瞼をそっと開いて老婆を見つめたものの、別段尋ねることはしなかった。
 墓地を出るといよいよ二人は禁域へと入っていった。





 穴守家の台所で何かがガリガリと音を立てている。
 少年が覗くと、ナナクサが暴れるミキサーを腕で押さえているところだった。
 ミキサーの中で何かが揺れている。横に置いてあるまな板の上に木の実が転がっているところを見るとおそらくは中身もそうなのであろう。ポロックでも作るつもりに違いない。
 少年は知っていた。おそらくはそれが、青年がこの家で作るであろう最後のポロックになることを。

「シュージ」

 と、彼は声をかけた。

「なんだい?」

 と、使用人の青年は答えて振り返った。
 それはいつも通りのやりとり。いつも通りのやりとりだった。

「……、…………コクマルを見かけんかったか?」

 少年は一時考えあぐねた末、いつも通りの言葉をかける。
 適切な言葉が浮かばなかった。

「コクマル?」

 ナナクサが聞き返すと少年は頷いた。
 ミキサーが止まって青年は中身をボールに移す。

「その、昨日の晩あたりから姿が見えんのじゃが」
「いつものことじゃないの」
「まぁ、そうなんじゃが……」
「またどっかをほっつきあるいて……いや、飛び回っているんじゃないのかな。ノゾミちゃんに水の石を返しちゃったから代わりの石を探しに行ったのかも」

 木の実を包丁で手早く切って、ふたたびミキサーに入れてから、ナナクサがそのように予測を述べる。
「それはそれで困るのう」と少年は言った。
 スイッチが入る。ふたたびガリガリとミキサーの音が響く。

「まーた石の持ち主に怒られてしまうわ」
「ふふ、次は何色だろうね?」
「一番はじめに持ってきたことがあったのは赤だったかのう。次は赤か青か。あるいは黄色か緑か」
「黒か白かもわからないね?」

 そこまで言うとガリガリと音を立てていたミキサーが止まった。
 ナナクサはふたたびボールに中身を入れる。
 
「お昼はノゾミちゃんと出かけるのかい?」
「ああ、約束したしのう」

 少年は再びうなずく。

「……夕方は舞台を見に行くのかい」
「そりゃもちろん。コースケも出るしのう。コースケやヒスイが毎晩練習していたのも知っとる。タマエ婆も今年ばっかりは見に来るだろうし」
「そう」

 ナナクサは短く返事をすると途端に黙って、ボールの中身をかき混ぜた。

「……?」

 少し様子が変だと少年は思った。
 てっきり絶対見に来てよね! などとテンション高めの返事をされると思っていたからだ。

「ねえタイキくん」
「なんじゃ?」
「一回しか言わないからよく聞くんだよ」

 それは低く落ち着いた声だった。
 ナナクサがたまにまじめな話をする時はこう声色になるのだ。

「いいかいタイキ君、夕方からはタマエさんの傍を離れちゃだめだよ。もしものことがあったら君があの人を守るんだ。いいね?」
「……どういうこっちゃ?」
「約束してくれるね、タイキ君。これは君を男と見込んでの頼みだ」




 タマエのゆったりとした足取りにあわせてツキミヤはすぐ後ろを歩く。
 村の者は足を踏み入れないという禁域は、静かだった。
 青年が村に入るとき歩いてきた道。途中でナナクサと初めて対面した道。
 あの時はじきに日が沈んでほとんど見ることができなかったが、深い緑に包まれた森だ。

「この村は山に囲まれていてねえ、入るんなら北か南なんよ。もっともこっちはほとんど人通りがないがねぇ。開けた南側と違って、北はほとんど整備されておらん獣の道じゃきに」

 茂る木の葉に遮られ、それでもなんとか地表にたどり着いた光が狭い道を不思議な模様で彩っている。
 道中にそれなりに年経たと思われる太い幹の木を青年は何本も見かけた。
 樫だろうか? 植物の種類にはあまり詳しくないのだが、踏みしめた落ち葉の中にころんと転がった光沢のある小さな木の実を見て、そんなことを考える。

「小さい頃、あの人と一緒にこの中さ、入ったんじゃ」

 唐突にタマエが言った。

「だが、そん時はすぐに村のもんに捕まっての。九十九様の宿る岩を見つけることはできなかった。もちろん大目玉じゃ。あん人は大社の掃除を一週間やらされたらしい」
「……なぜ、僕にそんな話を?」

 ツキミヤが尋ねると、タマエはまあ聞きんしゃい、と言って続ける。

「二度目はそれから十年程経ってからだ。今度は一人じゃった」

 昔を語りながら、老婆はゆっくりと歩みを進める。
 さわさわという木の葉のこすれる音が耳に入った。

「コウスケ、おまんはなぜ禁域さ入った」
「どういう意味ですか?」
「なぜ北側から村に入ったんじゃ」
「……特に何か目的があったわけではないですよ。たまたま歩いてきたのが北側だっただけです」

 青年は老婆の質問の意図を捉えあぐねていた。
 するとタマエが言う。

「南側は開けた道。普通の人間の通るお天道様のまっすぐ差し込む道じゃ。北側は獣の道。お天道様の光も僅かしか届かないのよ。……人が選ぶ道はその生き様そのものじゃ。そしてお前さんは北からやってきた。今までもずいぶんと大変な道を通って来たんじゃろうなぁ」
「……、…………」
「ああ、気を悪くせんでおくれね。今のは私なり労いじゃよ。わしゃお前さんのことはこれっぽっちも知らないけども、きっと苦労してきたんだろうと、そう思っただけじゃ。それはあの黒い子も同じだがね」
「……ヒスイが?」
「ああ。あれからはお前さんと似た匂いがする」

 年を取るとなそういう感覚は鋭くなるんじゃ、とタマエは続けた。

「……少々話が逸れたの。それでだ、私が子どものころには妙な噂があってねえ」
「噂ですか」
「ああ、そうだ。大社にしゃもじを供えるようにな、九十九様にしゃもじば供えると、憎い相手を呪えるっつう噂よ。禁域に入るものはおらんかったが、皆疑いなく信じておった」

 そう言ってタマエは行く先を見た。
 老婆と青年の見るその先に雨から岩を守る小さな屋根が見えていた。
 タマエは、懐から真新しいしゃもじを取り出した。

「六十五年前じゃよ。ここにはじめてしゃもじを供えたのは。それから少しばっかり間が空いたが折を見つけちゃあ行くようになった。一本ずつ、一本ずつ積み上げてきた。とても大社の数にゃあ届かんがねえ」

 たぶんそれは晴れの日も、雨の日も。
 暖かい日も、寒い日も。
 老婆はこの道を往復したに違いない。

「尤もだれぞが持っていったのか、何年か前に一度ごっそりなくなっちまったがねえ」

 心無いことをする輩がいるものだ、と青年は思った。
 人は自分と違うものに対しかくも残酷なのだ。

「だが変わらん。私がやることは変わらんよ」

 そうして、いつもそうしているように岩の前にこしらえた神膳にしゃもじを立てかけ手を合わせた。
 亭主の墓参りの時とはうって変わって、タマエは何も言わなかった。
 しばしの静寂があたりを包む。
 
「……コースケ、私はね、かつてこの村の破滅を願ったことがあった」

 唐突にタマエは言った。
 閉じていた目を開き、あわせていた手を解いて。

「コウスケ、神様はね、何もしやしないよ。真に恐ろしいのはいつだって人間の考えだ。人間ってえのはいつだって本当の望みが見えていない」

 私もそうだった、と自嘲する。

「おまんらはあそこで何かをしようとしてるんじゃろ。私はそれを止める気はないし、止める術だって持っていない。けれどよく覚えておいで。真に恐ろしいのはいつだって人間だ。人間の心なんだ」
「……」

 ツキミヤは表情を変えず、何も語らなかった。
 今、この老婆に対し、どんな面をつけて向き合ったらいいのかわからなかった。
 いや、彼女の前ではどんな面をつけても無駄なのかもしれない。
 老婆の目に見えているのはつけた仮面のその奥。青年の素顔なのだろう。
 戻ろうかい、とタマエは言って、もと来た道を歩き出した。
 さわさわと森に葉のこすれる音が響いている。
 だが、行きのように足音がついて来ない。

「コースケ、ほれ行くぞ」

 それに気がついて老婆は振り向く。

「コースケ?」

 ツキミヤは社近くに生えた古い樫の木を見上げていた。

「どないした」
「いえ、なんでもありません」

 と青年は答える。
 鴉ではなさそうだ、と呟いた。





 三つ首の鳥が地面を蹴る音。
 それも一匹ではない。十や百の単位。
 土煙が上がって、粉塵が舞い散った。
 彼らは侵入者。
 古の神が君臨するこの里を己が色に染めんとする者達。
 その彼らの行く手を阻むようにして、目指す先から炎の礫がいくつも飛んでくる。
 礫は地面に着弾し、だがそれだけでは終わらず地面を跳ね回った。
 まるで意思を持っているかのような炎は三つ首鳥の足を捕まえる。
 炎に巻かれた鳥は暴れ、騎乗の男を振り落とした。
 三つ首の機動力を失ったただの人の喉笛に、九尾の獣が喰らいつく。
 赤い飛沫が飛び散って男は地面に倒れ伏した。
 それを見た何人かは怖気づき背走した。
 それでも果敢にむかってくる者達を再び炎が迎え撃った。

「やつらに陣を組ませるな! 散り散りにさせろ」

 九尾狐の陣営の中にある一匹が吼えた。
 それはシラヌイの声だった。
 不意に、するどく尖った羽根付の礫がいくつも地面に刺さった。
 人の歩幅で千歩弱離れた距離からパシュン、パシュンという音を立てて矢が飛んでくる。
 だがシラヌイの放った炎に焼き尽くされ、飛力を失って墜落した。

「構えよ!」

 青の陣から指揮者と思しき男の声が響き、一塊に集まった何十人もの弓矢を持つ男達が再び弦を張る。
 先陣の者達はかの一陣が準備を体勢を整えるための捨てに過ぎなかった。

「あいつは!」

 シラヌイは叫んだ。
 赤い瞳が捉えたのは、以前村長の屋敷を何度も尋ねてきた男の姿だった。

「放て!」

 グンジョウが力強く叫ぶ。
 男達が一斉に弦から手を離す。
 再び矢の雨が門番達を襲う。

「無駄と云うことがわからないのか!」

 ダキニが吼える。
 六尾達が呼応して、幾本もの火柱が立った。
 それらは竜巻のようにうねりを上げて矢の雨を燃やしてゆく。

「グンジョウ様、まるで効果がありません」
「続けろ」

 弓兵は言ったが、グンジョウは冷静にそう答えただけだった。

「私や親方様がお前達に求めるのは淡々と矢を射ることだ。それ以下でもそれ以上でも無い」

 青い鎧に身を包んだ指揮官は、鋭い眼差しをただ前へ向けている。

「お前達、よく聞くがいい! 矢を射るのを止めぬことだ。今手を止めたのなら、九尾共が我々の陣になだれ込んでこよう。手を止めたが最後、お前達の喉笛はあやつらに噛み千切られることになる!」

 その目線の先には赤と金の尾獣達。
 永きに渡ってこの地の主たり続けた旧き時代の妖達。
 親やその祖母達の世代ならば、ただただ恐れるしかなかった存在。
 出会えばこちらから道を空け、大小あらば大を譲らなければならなかった。
 だから獣を従え、操ることの出来る操り人は特別だった。
 だが今は違う。
 子は知恵をつけ、孫は力と野心を持った。
 今や獣と互角以上に渡り合い、一部の獣達を従わせることさえ出来るようになった。

「恐れるな! 我らには十分な蓄えがある。今日この日の為に布陣を整えてきたのだ!」

 指揮官は部下達を鼓舞した。

「何より我らには我等が神がついている!」

 オオッと陣の者達が掛け声を上げた。
 彼らは次々に弓を取る。
 引いては放ち、引いては放って、次の矢に手を伸ばす。
 矢は存分に用意していた。"樹"には不足しなかった。

「青共よ!」

 とシラヌイは吼える。

「この雨を生み出すためにいくつの岩を削りとった! いくつの樹を斬った! 何羽の翼をむしったというのだ!」

 火柱がうねる。風に巻かれた矢に炎が燃え移る。
 生気を失った樹と羽が燃え上がって、尖った岩の残骸が火の粉と共に地面に墜ちる。
 
「ラチが空かんぞシラヌイ。あいつらの陣に割って入るべきじゃないのかい」

 ダキニが言った。
 だがシラヌイは首を振る。

「弓矢の隊列の後ろを見ろ」

 シラヌイにそう言われ、ダキニははるか後方に目を凝らす。
 矢を持たない別の男達がそこに構えていた。
 各々一人が何匹もの灰色犬と噛付犬を鎖に繋いでいる。
 犬達はぐるると唸り声を上げて、白い牙を覗かせていた。

「なんということだ」

 と、ダキニは嘆く。
 人の中に一握りだけ、操り人と呼ばれる者達がいる。だが彼らはあくまで互いを認め合った対等の仲だった。
 だが向こうにあるあの光景はどうだ。
 拘束具をはめられて、自由を奪われて。
 あれでは弓矢と同じ単なる道具ではないか。
 それでも人の下に就く獣がいるとは聞いていた。
 だが、それは能力の無いほんの少数かと思っていた。
 だが目の前に晒されたあの数はなんだ。

「グンジョウのやつめ。弓矢隊を脅しておきながら、しっかり手を打っていやがる。俺達が割って入れば、やつらの大勢を焼き殺してグンジョウの首くらいはとれるだろうさ。だが、接近戦になればここにいる何匹がかみ殺されるか。悔しいが噛み付く力だけなら犬達のほうが上だ」

 シラヌイは歯軋りする。
 本当ならすぐにでもグンジョウの首を取りに行きたかった。
 だがここで頭数を失ってしまうことは里への入り口が開けてしまうことを意味していた。
 それだけは避けなければならない。
 "門"を護る"門番"はそこにいてこそ意味がある。
 門を開け放ってはならない。門は護られなければならない。
 門番は不在になってはならない。
 敵の指揮官の首と云う餌につられて、持ち場を離れてはならないのだ。





 柱時計の短針が四の数を指して、長針が深々とお辞儀をした。
 青年は俗世の衣を捨て、演者へと変貌を遂げる。
 金の刺繍が入った赤い布地に腕を通した。

「本当にこの格好で大社に行くのか。面倒だな」

 ナナクサに帯を巻かれながら青年は言う。
 緑の毛玉がじっとこちらを見上げている。夜色の衣を纏った幽霊がぐるぐると飛びまわりながらクスクス笑っていた。

「贅沢言わないの。これも演出の一つなんだから。衣装を来た役者が続々と集まってくる。祭りのクライマックスを感じさせるだろ。これから舞台が始まるって合図でもある」
「ヒスイは?」
「向こうの部屋で着替えてるよ。覚えの悪い誰かさんと違って人の手は借りないってさ」

 ナナクサは少し意地悪そうに青年を見て言った。
「……悪かったな」とツキミヤがぶっきらぼうに返す。

「いいんだよー別に。コースケはVIP待遇だし? なんたって主役だからね」
「いいのかいそんなこと言って。主役は村長のお孫さんだろう?」
「ふふ、まんざらでもないくせに」

 帯を結び終わったナナクサは「はい、完成」と言うと軽く身を翻す。
 そうしてそそくさと部屋を出て行った。

「せっかちな奴だなあ」

 ツキミヤは軽く彼の背中を見送ると、面や扇子の入った風呂敷包みを腕に抱えた。
 その拍子に緑の毛玉が風呂敷包みに乗ってきたかと思うと、肩に飛び上がり定位置についた。
 部屋を出るツキミヤ。その背中を夜衣の霊が追う。
 廊下を渡ると既に玄関には衣装を着たヒスイが立っていた。
 足元に何やら重そうな籠が置いてある。
 思えば、褐色肌に着物というのもなんだか不思議な組み合わせだなぁ、と青年は思う。

「何をじろじろ見ているんだ」

 とヒスイが言う。

「いや、別に」

 と、ツキミヤは答えて目をそらした。
 どうしてだろう。ヒスイの容姿が中性的なせいであろうか。
 一瞬、知った顔の着物姿を想像してしまったなどとは言えなかった。

「ごめんごめんお待たせ〜」

 廊下をぱたぱたと駆けてナナクサがやってくる。

「まったく、何をやってたんだよ」
「ちょっと、新作のポフィンを焼いててさ」
「ポフィン? これから出かけるのに?」
「まぁ食べてみてよ」

 ツキミヤは呆れていたがナナクサが満々の笑みを浮かべて皿を差し出すので仕方なく一口、口に入れた。

「うん、まあいいんじゃないか?」

 と、ツキミヤが答えるとナナクサは満足したとばかりにそそくさと台所に戻ってラップをかけるとまたすぐに戻ってきた。
 ヒスイとネイティとカゲボウズが少し食べたそうな顔をしていたが、それは華麗にスルーされたようだった。
 すぐさま戻ってきたナナクサが草履に足を通す。

「タマエさんは後から見に来るって。タイキ君はノゾミちゃんと一緒にタマエさんに合流するって言ってた」

 ガラガラという音とともに玄関の引き戸が開かれた。





 山という要塞に囲まれた里は境界線の喧騒を知らされず、淡々と準備が進んでいく。
 石舞台に向かう道には等間隔で篝火が配された。
 日が沈み暗くなった頃にそれら全てに炎が灯る算段だ。
 すると舞の催される石舞台に向かい一本の道が出現する。
 闇の中に一本の道が浮かび上がるのだ。

「巫女殿、何をぼんやりとしていらっしゃる」

 村長の屋敷で帯を巻かずに雲行きを見る娘に老婆が言った。

「静かではありませんか」

 と、彼女は答える。
 はて、と老婆は首をかしげた。

「いつもはこの里に満ちている獣達のざわめきが聞こえないのです。皆どこへ行ったのかしら」

 それは彼女にとって川岸の水音、海岸の波音と同じだった。
 当然にあるもの。だがまるで海はあるのに波音が聞こえないような違和感が里を包んでいた。
 朝からシラヌイの姿も見えず、カナエは一抹の不安を覚えていたのだった。
 九尾の一族の中では一番人の近くによってくるのがシラヌイだったからだ。
 人懐こいといえば語弊があるかもしれないが、それがかの九尾の気質であるのだ。

「余計な心配をされるな巫女殿よ。日々の糧を産するがこの里人の定めなれば、獣達はこの里の門番、防人のなのです。今宵は大切な日であります故、考えがあるのでしょう」

 顔に多くの年輪を刻んだ老婆は語る。

「貴女様は貴女様の役目をお果たしなさいませ」
「はい……」

 巫女がそうのように返事をすると、それでいいのですとばかりに頷き、帯と紐を手にとった。
 老婆の邪魔にならぬよう腕を上げてその実を任すと、彼女は再び里を包む気に耳を澄ませた。
 静かだ。獣達の声が聞こえない。
 少なくとも山で囲まれた内側にはほとんどいないのではないか、そのように思われた。
 ただ里の中心に大社にひときわ大きな存在を感ずることは出来る。
 九十九だ。
 たとえ声を上げずとも、感ぜられるその存在、熱量。
 色に例えるならばそれは緋色。一瞬、黄の表情を見せたかと思えば、時折橙。それは燃え盛る炎の色だ。

「……」

 老婆の言う通りだ、とカナエは思い直した。
 自分はその為に生きることを許された。この里で、獣と人を繋ぐ橋渡しとして。
 今は舞に集中すべきだ。
 カナエは注意を外から内へと戻す。
 だがその時に妙な違和感を彼女は覚えた。

「?」

 人では無い何かの発する音。それも複数。
 内側から何かをコツコツと叩くような。

「ちょっと待っていてくださいますか」

 帯がしっかりと巻かれたのを確認して、カナエは部屋を出る。
 耳を澄まし、音の方向を探った。

 コツコツ。コツコツ。コツコツ。

 たぶん屋敷の中だ。近い。
 屋敷の廊下を歩き回りながら音の場所を探る。
 だんだんと音が大きくなる方向に近づいて、たどり着いたのは屋敷の台所だった。
 祭の支度で出払っているのだろう。人はいなかった。
 その片隅に置かれた大きな葛篭(つづら)が目に入る。

「この中?」

 おそるおそる蓋をあける。
 中に入っていたのは大量の丸い青い木の実だった。

「何かしら、これ……」

 見たことの無い木の実だった。
 山に生える木の中には実の青いものもあって、そのうちのいくつかは食したことがある。
 だが、この木の実を見たのははじめてだった。
 ひとつ手にとってみる。

 コツコツ、コツコツ。

「どういうこと? 何で中から音が……」

 不意に青い実の表皮が黒く濁った。
 次の瞬間、表皮が突き破られて、中からぬるり、と何かが顔覗かせた。


 待ち人がなかなか戻ってこないので痺れを切らした老婆は、屋敷内を歩き回り、やがて台所でぼうぜんと立っているカナエの姿を見つけることになった。

「巫女殿、なにをなさっているのですか」

 と、声をかけた老婆に彼女はやっと我に返ったらしかった。
 だがどうも言うことが要領を得なかった。

「木の実の中から、大鰌(オオドジョウ)が……」

 彼女が老婆に語ったるにはこうだ。
 葛篭の中にあった青い木の実。その木の実の表皮が急に変色したかと思うと中から大鰌が出てきたのだという。葛篭の中に数十個納まっていた木の実すべてがそうなった……と。
 そうして大鰌は木の実の中から這い出ると、跳ねたりうねったりしながら勝手口から出て行ったのだという。
 はて面妖な、と老婆はいぶかしむ。
 嘘を吐くような娘ではないが、魚の入る木の実など聞いたことがなかった。第一、大鰌ほどの大きさのある魚が拳ほどの木の実に収まるなど不可解ではないか。
 だが、娘の言う通り、台所には鰌が通ったと思しきぬめりが残されていた。
 勝手口から外に出てみる。いくばくも離れていないところに細い用水路が流れていた。おそらくはここに飛び込んだに違いない。
 あの葛篭はたしか……と、老婆は記憶を手繰り寄せる。
 他の地方で産する木の実なのか見たこともないし、食べ方が分からない、などと使用人の一人が言っていた気がする。
 たしか、ごくたまにやってくる村長の客人が土産にと置いていったものではなかったろうか。
 客人は「グンジョウ」と名乗っていたように思う。





「ここでお別れだ」

 広場にもう少しで行き着く所。
 重そうな籠を抱えたヒスイが言った。

「オーケー。じゃあ、それ、よろしく」

 ナナクサが籠を見て返事をする。

「よし。君達はヒスイについていけ」

 肩に居座る緑の毛玉とボールから出した銅鐸にツキミヤが指示を出す。

「そんな目をしたってだめだよ」

 と青年は名残惜しそうな毛玉に引導を渡した。
 カゲボウズがケタケタと笑う。それに腹を立てたのかネイティは一瞬ギロリと睨みつけたように見えた。

「行こうか。約束の時間になる」

 小高い山が見えていた。
 ヒスイと分かれた二人組は大社へと向かう。


 夢でも登った長い石段。
 道中カゲボウズが常にきょろきょろとしていた。
 わかっている、落ち着けと言わんばかりにツキミヤは彼をなだめた。

「コウスケ、どうしたの?」
「なんでもないよ」

 さっき禁域で感じたアレと同じだと思った。
 おそらく同じモノ。山を囲む木々にうまく紛れてその姿を確認することは出来ない。
 鴉といいもの好きの多い村だと思う。
 危害を加えるという様子は無い。ただ見守っているという印象だった。
 気にしないふりをして、長い長い階段を登る。じきに三分の二は登ろうか。
 夕刻。昼と夜の境目。中腹でふと村を見下ろすと、夕日に照らされた金色の野が見えた。
 それは、まるで燃えるように。

「綺麗だよね。この時間は」

 ナナクサが言う。
「そうだね」と、ツキミヤは答えた。

「僕、夕刻は好きだ。この村で流れる時間で二番目に好き」
「二番目?」
「そう、二番目」

 二番目と云う言葉がひかっかり、青年が尋ねると彼はおうむ返しにして答える。

「それじゃあ一番目は?」
「決まってるでしょ。野の火だよ」

 さらりとナナクサは言った。
 迷う様子もなく。さも当然のごとく。

「僕達はその為にここまでやってきたんじゃないか。それともコウスケ、今更こわくなったのかい?」

 芝居がかってナナクサは言う。

「は……まさか」
「今更舞台から降りるのは許されない。わかってるね」

 それは用意された脚本のように。舞台の一幕のように。
 お前はもう逃げられない、と運命を宣告するように。

「さ、行こう。もう大社は目と鼻の先だ」

 二人の青年が石段を登る。
 夕日が二人の影を長く長く伸ばしていた。
 大鳥居が見えた。時を待たずして二人が潜る。

「こんばんは、ツキミヤ君。……それにナナクサ君」

 青の衣を身に纏った恰幅のいい男が二人を迎えた。
 村長の孫、トウイチロウだった。
 赤い衣装と青い衣装、相対する色の二人が並ぶ。
 すると大社の奥のほうからすっかり見慣れた人物が現れた。

「役者が揃いましたなぁ。それにナナクサ君も」
「これは村長さん」

 ナナクサが軽く会釈をする。
 現れたキクイチロウは神社の宮司のような正装をしていた。
 馬子にも衣装――甚だ無礼とは思ったがそのような言葉を青年は浮かべたのだった。

「ナナクサ君、ひさしぶりですねぇ。しばらく姿を見かけなかったので心配していたんですよ?」
「祭の時期ですから。僕もいろいろやることがありましてね」

 村長がさぐりを入れると、ナナクサはそのように応酬した。

「せかっく来て下さったのに悪いですねぇ。別殿に入れるのは、役者と神社の関係者だけですが……よろしいですか。ナナクサ君」
「ええ、承知しております。僕は適当なところで待っていますから」

 二人はお互いの腹を探り合うようにして、けれど表面上はにこやかな仮面を被って言葉を交わす。
 こいつら仲が悪いなぁ……そんなことをお互いに思っているのが顔に出たのがわかってトウイチロウとツキミヤは互いに苦笑いをした。

「それじゃあコウスケ、行ってらっしゃい」

 てっきりナナクサは自身が入れないことに文句のひとつでも言うのかとツキミヤは思っていた。だからなんだか拍子抜けしてしまった。
 ナナクサは相も変わらず笑顔の仮面を被ったままだった。
 カゲボウズは預かっててあげる、そう言って手で行ってらっしゃいのジェスチャーを送ると、境内のどこかへ消えていった。
「それでは別殿に案内いたしましょう」

 村長がそう言って、雨降と九十九は後に続く。

「さて、ご存知の通りこの別殿は一般未公開となっておりましす。昔はね、祭の間くらいは見せていたのですが、その、ご存知の通り昨今の事情を反映しまして、未公開になったのです。ですからここで見たことは他言無用にしていただくと非常にありがたい」
「……承知しました」

 ツキミヤが了承する。
 別殿に何があるかは知らないが、人に言いふらすような趣味は無かった。

「では、履物を脱いでお入りください」

 村長は靴を脱いで先をゆく。
 二人が靴を揃え入ったことを確認すると青い色に金をばら撒いた襖を開け放った。
 ツキミヤの前に開け放たれたのは何畳も続く長い長い大広間。
 そして、その壁に「それら」は吊るされ並べられていた。

「……、…………、……」

 青年は壁に吊り下げられた「それら」を見て、しばらくの間言葉を失った。
 小さくて赤いものが何十も並ぶ。等間隔で大きい金色のものが数える程度。
 偽物……ではなさそうだった。

「最近の若い方は免疫が無いのか、はじめて入られた方はみんなそういう反応をなさいます」

 村長が言った。

「清めの儀式の準備をしますから、しばらく待っていてください」

 そう言って、村長は奥へと消えていった。
 襖の向こうに村長が見えなくなるしばしの間、青年は無言を貫いていた。

「なるほど……そういうことかい。伝説の実在を証明するものっていうのは」

 それがやがて口を開いた時に出た言葉だった。
 吊るされていたのは毛皮だった。
 頭から吊るされてだらりと複数の尾だったものが垂れ下がっている。
 それは間違いなく六尾と九尾だった。
 かつてロコンとキュウコンだったものの、抜け殻。
 胸くそ悪い、という言葉を青年は飲み込んだ。
 同時に何か邪悪な笑いのようなものがこみ上げてきたのがわかった。
 その皮だけになったものに目玉は無い。血も通わず、体温も無い。抵抗するための爪と牙を抜かれ、炎と云う名の誇りを奪われた姿。あるのはただただ残骸だけだ。
 こんな屈辱があろうか。いっそ形など残らぬほうがどれほどによかったか。

 青年は恥じた。
 これを見るまで己は真に九十九を理解してはいなかったのだ、と。

 不意に昨晩の記憶が蘇った。幼い自分が狐面を渡して云ったあの場面を。
『お前が九十九だ』
 幼き日の自分が青年に告げた。
 もうずっと何かが己を支配している。
『そうだ。それでいいんだよ……コウスケ』
 たぶんそれは衝動。
 すべてを燃やし尽くしたい、全部が炎に包まれて燃えてしまえばいいという衝動。
 今なお燃え続ける怨恨の炎。
 
「ツキミヤ君……少し昔の話をしないか」

 と、不意にトウイチロウが言うまで、青年の意識は別の時空に飛んだままだった。

「昔の話?」

 青年は意外な話題を振られて少し驚く。
 そういえばトウイチロウとは、台詞の応酬以外の会話をまともにしたことがなかった。
 倒すべき敵、そう云う意識が働いていたからかもしれない。

「おじい様に聞いたんです。貴方が穴守さんの家に泊まってるって」
「そうですか。村長さんもおしゃべりですね」

 またか、と青年は思った。
 この村の住人、とくに村長筋の人間になるとやけに穴守家の話題に関心を持つのだ。
 その昔、村長であるキクイチロウがタマエに振られて未だ根に持っているらしいという話は聞いている。
 だが、おそらくそれだけではあるまい。
 どうやらいろいろと因縁があるらしいことはツキミヤ自身も感じ取ってはいるところだった。
 すると、

「今の反応を見た限りの様子だとあの家で見てはいないようですね」

 と、トウイチロウが言った。

「見た? 何をです?」
「毛皮です。狐の毛皮。ここに並んでいるのと同じものです」

 質問の意図が汲み取れずにツキミヤが聞き返すと、トウイチロウはそのように答えた。
 まったく意味が分からなかった。

「毛皮? どうしてそんなものが穴守の家にあるんです? あそこのご主人からしてあの家にそんなものを置いておくとは思えない」

 だから青年の主張はおのずとこういうものになった。

「たしかにそうです。タマエさんなら」
「タマエさんなら?」

 意図がわからず疑問形の返しが続く。
 するとトウイチロウが話はこれからだと言いたげに続けた。

「すごく昔なんですけれど、この村とその一帯で凶作が続いたことがあったのはご存知ですか。おじい様やタマエさんが僕達くらいだった頃のことです」
「ええ、ナナクサ君から少し聞いています。だからこの村ではいろいろな米を育てているのだと」

 凶作と云う言葉に青年は聞き覚えがあった。

「周囲が凶作にあえぐ中、唯一実りがあったのが、タマエさんのご主人である穴守シュウイチさんの家だったのです。だから皆、穴守の家の種もみを欲しがりました。けれど素直に分けてくれとは言えない事情があったらしくて」
「事情?」
「……それに関してはおじい様も口を濁すんです。とにかく皆の代表としておじい様はシュウイチさんと交渉したらしい。その対価としてシュウイチさんがここにある毛皮の一枚を所望されたというんです」
「……シュウイチさんが、ですか」
「ええ。……もちろんこれらは村が守り伝えてきた財産です。だから普通なら許されることじゃなかったけれど、とにかく背に腹は替えられない。おじい様は仕方なくこの中にあった一枚をシュウイチさんに引き渡したのです」
「……」

 意外だった。
 シュウイチの信仰がどうだったかは知らない。
 だが狐の毛皮を欲しがるような男がわざわざ九十九贔屓の嫁を貰うだろうか、と青年には思われたからだ。

「僕はね、はじめてこの広間に入った時から、ずっと疑問に思っていたことがるのです」
「なんですかそれは」
「おかしいと思いません? ここにはたくさん毛皮があるけれど一番重要な色が無いんですよ」

 ツキミヤははっとした。
 もう一度大広間を見回してみる。トウイチロウの言う通りだった。
 抜け殻は赤と金。
 色が欠けている。一番重要な色が。

「……妖狐九十九の毛皮ですか」
「そうなんです。伝承によれば九十九は色違い……白銀の九尾のはずなんです。でもその毛皮は此処に無い。だから僕はもしかしたら、と思ったのですが」

 なるほど、とツキミヤは納得した。
 ここにある毛皮の一枚を村長がシュウイチに引き渡した。
 一方で、この別殿に九十九の毛皮は無い。
 だからトウイチロウはそれが穴守の家にそれがあるのではないか、という淡い期待を抱いたのだろう。

「僕はあの家で毛皮を見ていないよ」

 と、ツキミヤは答える。

「あったとしても九十九のものでは無いと思う。村長さんの性格からしてそんな重要なものを引き渡すとは思えない。せいぜい六尾の一番小さいもの一枚がいいところじゃないかな」

 するとぷっとトウイチロウが吹き出して、
「君って結構ハッキリものを言うんだね。気に入ったよ」と言った。
「どういたしまして」と、ツキミヤが返す。

「そうだよね。おじい様の性格からしてやっぱりそれはないよなぁ。そもそも九十九が色違いと云うのも伝承であって本当にそうだったのかはわからない訳だし」

 やはり世代なのだろうか、と青年は思う。
 彼は村長の孫と言えど、村長自身や村の年配者ほど信心深くはないらしい。
 トウイチロウの考え方は良くも悪くも現代に生きる若者だった。
 おそらくは立場と義理からだが、行事に付き合っているだけ律儀というものだろう。

「特別な存在というものは大きく描かれたり、誇張されたりするものだからね」

 ツキミヤも同意する。

「でもね、僕はこう思うんだ。九十九だったら僕らの眼前に哀れな抜け殻を晒すようなマネはしないんじゃないかな。たぶん雨降は九十九を打ち倒すことには成功したけれど、証を手にすることは出来なかったんじゃないだろうか。だから気をつけないと」
「気をつける?」
「彼は当然この毛皮達がここに晒されていることを快くは思っていない。どこかから機会を伺っていて取り戻そうとしてるんじゃないかって、僕にはそう思えるんだ。だから気をつけないといけないよ。すでに一枚は狐贔屓の穴守さん家にあるわけだしね」

 調子に乗って何を言ってるのだと、ツキミヤ自身も思っている。
 けれど何か予感めいたものがあった。
 これは、何かが起こるというそういった予感から来る興奮なのだ。
 あの青白い毛皮のキュウコンならば本当にそんなことを考えている気がした。

「怖いな。君の言葉はまるで九十九に会ったことがあるような口ぶりだ」
「そうだよ。僕は今年の九十九だからね……」

 トウイチロウが言うと、ツキミヤは冗談めかして意味深に笑って見せる。
 直後、長い部屋の奥で襖が開き、村長が手招きをした。

「お待たせをしました。さ、雨降様からこちらへ」
「はい」

 青い衣装を纏ったトウイチロウが進み出た。
 奥まで行くと襖がぴしゃりと閉まって静まり返ったが、少しして、祝詞らしきものが村長の声で読み上げられたのが分かった。
 時間をかけずしてトウイチロウは戻ってきた。

「じゃ、僕は一足先に行ってますから」

 そう行ってトウイチロウは足早に別殿から去っていった。

「妖狐九十九はこちらへ」

 と、声がかかる。
 抜け殻の列に挟まれた広場を通って、中に入る。
 そこには壮麗な祭壇があって、新鮮な供物が捧げられていた。
 木造の社の中にいわゆるご神体があるのだろう。

「さ、そこに座って、杯を手にとってください」

 キクイチロウは青い文様と赤い文様が刻まれた二つのとっくりのうち赤いほうを手に取ると、ツキミヤの両手にある杯の中に透明な液体で満たした。
 米は神よりの恵み、授かり物、ならばそれから造られる酒は神の飲み物だった。
 青年は杯に口づけする。
 天を仰ぐようにして一気に飲み干した。
 強い酒だった。
 しかしそれ以上に体質に合っていない酒だ、と青年は感じた。
 一瞬ぐらりとしたような気がして、村長が菱形の紙を重ね合わせた柳の枝のような棒を振り回して祝詞を唱えている間、気分が悪かった。
 清められているというよりは祓われている感じだ。
 が、詠唱も終わる頃には次第にけだるい感じがとれてきて、本調子が戻ってきた。

「村長さん、僕の顔に何かついていますか」

 詠唱を終えてしばらくの間、村長が何やら呆けた顔でこちらを見ていたので、ツキミヤが尋ねる。

「え? ああ、いいえ。なんでもありません。清めの儀式は終わりですよ」

 村長が言った。
 
「そうですか、では」

 何か妙な雰囲気を感じたが、あまり気には留めなかった。
 むしろ舞台の集合時間が気になった。
 村長もあらかじめ準備をしておけばいいものを無駄に待ち時間をとったりするものだから思ったより時間を食ってしまったのだ。
 別殿を出るとどこからか戻ってきたナナクサとカゲボウズが待っていて、青年を出迎えた。

「お疲れ様コウスケ。何も無かった?」
「おいおい、何も無かったってどういう意味だ。何かあるような口ぶりじゃないか」

 ツキミヤは怪訝な表情を浮かべる。
 さっきから何なのだ、と思った。
 村長といい、ナナクサといい何かがおかしい。

「ううん、少し遅いなって思ったから。別に何もなかったんならいいんだ」

 ナナクサはにこりと笑顔を作って言った。

「それなら早く行ったほうがいい。十八時まであまり時間が無いからね。見送るよ」

 くるりと方向を変えて、ナナクサは歩き出す。
 ツキミヤが続いた。

「見送る? 君は舞台に行かないのか?」
「そう。ちょっとね、やることが……」

 そう言い掛けて、ナナクサの足がぴたり、と止まった。

「ん? どうし……」

 ツキミヤはナナクサの視線の先を見る。
 大社の入り口である大鳥居の下で妙な者が仁王立ちしていた。

「……ラグラージ、か?」

 大きなポケモンだった。
 青い身体を横断するように巨大なヒレが走っていた。
 大きく割かれた口の両端からオレンジ色の大きなエラが左右に伸びている。
 ラグラージ、沼魚ポケモン。
 ホウエンから旅立つ初心者トレーナーが最初の一匹として奨励される三種のうちの最終進化系の一つ。
 育て上げればなかなか強力なポケモンだ。
 今そのポケモンが、身体の奥から低い唸り声を上げてこちらを見据えている。

「なんだってラグラージがこんなところに?」

 どう好意的に解釈をしてもあまり穏やかではなさそうだった。
 大きな沼魚が一歩、こちらにじり寄ったのがわかった。

「そいつの名前はヌマジローと言います」

 背後から声が聞こえて、二人と一匹は振り向いた。
 村長だった。

「だいぶ歳はとってしまいましたけど、まだまだ現役です。トウイチロウのカメジローにもひけはとらないつもりですよ。なんなら一つ手合わせしてみますかな、ツキミヤ君?」

 村長がつかつかと二人の横を通り過ぎ、ラグラージの隣に立つ。
 大鳥居の道を塞ぐように立つ一匹のポケモンと一人のトレーナー。
 その意味は明らかだった。
 ぞわっと青年の足から伸びる影がざわついた。

「本当はもっと穏やかに行きたかったのですけど……仕方ありません。おおかたナナクサ君が何か仕込んだんでしょう。神酒でツキミヤ君は眠らなかった」

 青年ははっとナナクサのほうを見た。
 ナナクサはにこりと能面に笑みを貼り付けて、

「念は入れておくものだねぇ。来る前にカゴの実ポフィンを食べさせておいてよかった」

 と、言った。

「おい、僕はポケモンか」
「そうとも。君は九十九様で、九十九様はキュウコンだ。そしてキュウコンはもちろんポケモンだ」
「……むちゃくちゃだ」

 少し呆れてツキミヤは言う。
 しかし問題は目の前にある。倒せないことはないだろう。だが、そうしていれば時間には確実に遅れてしまう。
 だがナナクサは余裕のある表情を浮かべていた。

「舞台に立てない今年の九十九の代役はおおかたタカダさんと言ったところでしょう? 三年前の九十九の。表向きははトウイチロウさんの練習のためだったんでしょうが……」
「さすがナナクサ君だ。よくご存知で」
「ええ、調べさせましたから」

 調べさせた? その言葉にツキミヤは違和感を覚えた。

「村長さん、ひとつ確かめておきたいことがあります。あなたは僕たちの練習の内容を知っていましたか」
「いいえ。私が知っているのは貴方達が夜に何かをやっていた、ということ。それだけです。だがそれだけで私には十分だった。穴守の客人が九十九になった。そして、ナナクサ君、あなたが絡んでいるというだけで、それだけで私が行動を起こすには十分だったのです」

 今年の舞台で何かが起きようとしている。
 村を統べる一人の老人にとってそれは予感という名の確信だった。
 秩序は守られなければならない。

「この舞台に面があってよかった。外面があってさえいれば皆中身が誰かなどと気にもしないでしょうよ」

 祭をかき乱されるわけにはいかない。
 それは誰にも知られずひっそりと処理されなければならなかった。
 重要な儀式があるということで人払いしてあった。
 そうでなくとも人は石舞台のほうに集まっている。大社の周りに人影はない。

「なるほどなるほど、わざわざ人払いまでしてくださって。ご苦労様です」

 ナナクサがくすくすと笑った。

「心配しないでコウスケ。村長さんの相手は僕がする。君はここを降りて問題なく舞台に立つことになる」

 ナナクサは懐に手を入れ、丸いものを取り出した。
 緑色のぼんぐりだった。

「出番だ。シラヒゲ」

 ぼんぐりの栓を抜く。
 光が現われて、ポケモンの形を成した。
 現われたのは木の葉を生やした長い鼻の小人だった。
 たぶん、村長もツキミヤも同じことを考えていた。
 いつの間に、と。そうして同じ結論に行き着いた。
 あの時だ。ナナクサがしばらく姿を見せなかった、あの時。

「ハッ、そんな捕まえたばかりの、半端な一進化ポケモンに何が出来るっていうんですか」

 キクイチロウがいきがって言った。
 シラヒゲ。コノハナごときに大層な名前をつけたものだ。
 間の前に立っているのは毛も生えぬ痩せた子どもと同様ではないか。
 いかに苦手タイプといえどヌマジローの敵ではない。
 だが、ナナクサは余裕の笑みを貼り付けたまま、

「聞こえませんか」

 と言った。
 瞬間、大社の石段を駆け抜けるようにバササッという羽音が登ってきた。
 はっとして上を見上げる。上空を舞っていたのは一羽の鴉だった。
 キラリ、と緑色に光る何かが落下した。
 落下したそれは石畳の上で弾け、砕ける。
 エネルギーの放出。新緑の色に光り輝くそれはまるで発芽し、急成長するツタ植物のようにコノハナの腕に絡み付いて、瞬く間に全身を巻き込んだ。

「よくやったコクマル! 見つけてきてくれたんだね」

 石による進化。
 小人の身体が瞬く間に成長し、白い髪と髭が全身を包みこんだ。
 そこからにょきりと伸びる長い耳と長い鼻。
 光が拡散し、楓の形の腕が覗いた時、山を鳴らす竜巻が巻き起こった。
 気がつけばツキミヤは天狗の腕に抱えられて、大社を見下ろしていた。
 大鳥居の前で対峙するナナクサと村長。二人の姿が遠ざかっていく。
 跳躍し風に乗る一人と一匹の横を鴉がすり抜けて、舞台のほうへ飛んでいった。
 ナナクサは鴉に依頼していたのだ。
 樹葉の力が宿った緑の石を見つけてきて欲しい、と。このあたり一帯を飛び回れば、もっているトレーナーも一人くらいはいるだろう。今は祭で、この村には人が溢れているのだから、と。

「コクマルに石を盗られたトレーナーには悪いけれど、これも祭を盛り上げるためさ」

 大鳥居を飛び越えた天狗とツキミヤをナナクサは満足そうに見送って言った。

「なんてことを……」

 こうなってしまっては追いつけない。
 連れ戻すことも出来ない。
 村長はやや放心気味になって言葉を吐いた。
 企みはナナクサの策略の前にあっさりと破られたのだ。
 
「ふふ、やっと二人きりになれましたね、村長さん?」

 ナナクサがいやみったらしい台詞を述べる。
 村長は空を見つめたままだった。
 目的を失って呆けたつまらない反応だった。
 だが、次にナナクサが吐いた台詞ですべてはリセットされることになる。

「久々に二人きりになったっちゅうのにそりゃあないだろう、キクイチロウ?」

 目を見開いた村長の顔がナナクサのほうを向いた。
 聞き間違い出ないのなら、ナナクサとはまったく別人の声だった。

「…………」

 この声をキクイチロウはよく知っていた。
 皮肉なことに嫌いなものほどよく覚えているものなのだ。
 それは昔から知っている声、けれど今はもう二度と聞くことはないと思っていた声だった。

「なんだよ。せっかく会いに来てやったのに」

 ナナクサの顔をした男が、別人の声を響かせている。鼓膜に残る記憶のままに。
 まさか。まさかそんなはずはない。
 想い人を攫った憎たらしいあの男は死んだ。三年前に死んだのだ。
 けれどキクイチロウは出さずにいられなかった。
 声の主の名前を出さずにいられなかった。

「……シュウ、イチ…………」

 名前を呼んではいけなかったのかもしれない。
 けれど呼ばずにいられなかった。

「久しぶりじゃの」

 ナナクサの顔が、あの男の声で肯定した。
 言葉には魂が宿る。
 目の前にいる青年が誰であれ、呼んでしまった以上それはもうシュウイチだった。
 こうなってしまってはもう引き返せない。

「なんじゃ、つれない顔しとるの。おまんはこういう場面をずっと望んでいたじゃないのか」

 すぐに後悔した。名を呼んだことを。
 老人は奥歯がカタカタと震えているのがわかった。
 冗談ではない、そう思った。

「ずっと俺と戦いたかったんだろう、キクイチロウ? けれんども俺はポケモンばもっとらんかったから、それは叶わずじまいだった。だから今叶えてやるよ。長年の望みを今ここで果たそうじゃないか」

 後ずさる。あやうく石段を転げ落ちそうになった。
 やめてくれ。こっちに来ないでくれ。

「見ろよ。今ならポケモンもこんなにいる」

 シュウイチの声の男が周りを一望するようにジェスチャーしてみせた。
 いつの間にか山の木々の上に、大社の屋根の上に何匹も何匹も葉の生えた小人達が姿を見せている。

「知っとるかキクイチロウ。かつて村を見下ろす山のその向こうにある高地を治めていたのは天狗の一族だった。山に天狗、野に九尾。彼らはある意味二神で一つだった。その山の神のその流れを汲むのがこいつらだ。ある時に長の白髭率いる一族の多くは土地を追われたが、とどまる者達もいた。雨に耐え、息を潜め、けれども決して血を絶やさず、ずっとずっとこの日が来るのを待っておった」

 ナナクサが歩み寄る。
 その一挙一動を無視することが出来なかった。

「だからキクイチロウ、お前には邪魔させん。野の火を消させるわけにはいかんのだ。『あのとき』のように消させるわけにはいかん」

 野の火、というその響き。あのときを思い出させる音の並び。
 その音がいないはずのシュウイチのの声で奏でられた時、キクイチロウは心底震え上がった。
 やめてくれ。その声で、私に語りかけないでくれ。
 ガクガクと足が震えている。

「燃えよ燃えよ、大地よ燃えよ」
「やめろ!」

 キクイチロウは叫んだ。

「その声で、シュウイチの声で詠うな。思い出させないでくれ!」

 パチンとナナクサが指を鳴らす。
 山のあちこちから木の根とも枝ともつかぬものが目にも止まらぬ速さで、ラグラージを縛り上げた。

「……しまった」

 木々の暴走は止まらない。
 まるで大社を檻の中に隠すように枝葉が伸びて、キクイチロウの退路を断った。
 ツタ植物の弦が身体に触れ、瞬く間に絡みついたかと思うと、キクイチロウは二匹のコノハナに縛り上げられていた。
 日が落ちる。夕闇を背にナナクサの顔が冷たく笑っていた。
 ほうら、ポケモン勝負も俺の勝ちだ。
 お前は俺に勝てない。勝てやしないんだ。
 そう言いたげに。見せつけるように。

「今宵、舞台の結末は変わります。暗き空に現れるのは、野の火」

 気がつけば声がナナクサに戻っていた。
 が、それは束の間だった。
 眼光が射る様に差す。
 お前は逃げられないのだ、と。

「キクイチロウ、お前に神様の作り方を教えてやるよ」

 入れ替わるようにしてシュウイチの声が告げた。








(十八) 了


  [No.232] Re: (十八)策略 へご報告 投稿者:CoCo   投稿日:2011/03/17(Thu) 18:45:21   36clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 

 読み返して気がつきましたが、こちら、コピペの失敗でしょうか、本文が二重に投稿されております。
 やけにページが重かったので、ご報告をば。

 野の火、いつも楽しみに読ませていただいております。印刷して読んでいます(
 ついにクライマックスということで、二十話の次回更新が待ち遠しいです。
 こんな時勢ですが、ゆっくりと書いていただければと思います。軒下で飽咋を数えながらお待ちしておりますので。

 


  [No.233] 報告感謝 投稿者:No.017   投稿日:2011/03/17(Thu) 20:21:07   44clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

うわあああああ、HPで指摘されてたけどこっちもか……
報告ありがとうございます。

素で気がついていませんでした。


>  野の火、いつも楽しみに読ませていただいております。印刷して読んでいます(

いん、さつ……?

いつも楽しみだなんてうれしいこといってくれるじゃないの(


>  ついにクライマックスということで、二十話の次回更新が待ち遠しいです。
>  こんな時勢ですが、ゆっくりと書いていただければと思います。軒下で飽咋を数えながらお待ちしておりますので。

現代パートの断片断片はちょくちょく出来てるんですが、
どうやら古代パートに苦手意識があるらしく(
しかし一番の問題はやはり(ry

書いてみてはじめて「お前こういう話だったのか」とわかることがあります。
そして伸びます。
二十話いっちゃうかなーなんて言ってたら本当にいきやがったよ。どうしてくれるんだよ。
すべてが収束するのにもう少し時間かかりますが、きっと終わらせます。

メッセージありがとう


  [No.158] (十九)強襲 投稿者:No.017   投稿日:2011/01/02(Sun) 19:44:14   59clap [■この記事に拍手する] [Tweet]




(十九)強襲



 少年は道を急いでいた。
 昼間にいろいろと手間取っているうちにとっぷりと日が暮れてしまった。

「悪いのぉ、なんやえらい待たせちまった上に走らせて」

 後方に声をかける。
 短い髪を二つに結んだ少女があとから追ってくる。

「べつに、いいけど!」

 少々息を切らせ気味に少女は答えた。
 が、小高い丘を上がりきったところでさすがに息切れし、立ち止まってしまった。

「すまんすまん、ここまで来ればもういいやろ。後は歩いていこか」

 少年も足を止める。
 続く田の向こうに灯かりの集まりが見えた。
 人の気配と活気、中心にあるのは石舞台だ。
 後方に小さな山が見える。雨降大社のある山だった。
 ここからの眺めはなかなかによい。
 少年少女はしばし足を休めて、視界に広がる世界を見渡した。
 が、ふと、視界に妙なものが彼らの瞳に映った。
 大社のある山のほうから何か大きな塊がぽーんと飛んできたかと思うと、石舞台の下のほうに落ちた、ように見えた。

「なんじゃあ? 今のは」

 野の火の舞台へと向かう少年少女、タイキとノゾミはお互いの顔を見合わせた。



 風が舞って、どすんと何かが着地した。
 舞台役者達が集まる石舞台の裏、全身が白い毛に覆われた下駄のポケモンが一匹、赤装束の青年を一人担いで突如空から現われたものだから、皆なんだなんだと一斉に目を向ける。目立ちすぎだ、と青年は思った。
 お世辞にも親しみやすいとは言いがたいその容姿からか、周りの出演者達が一歩身を引いくようにして道を空けていった。
 そうして自慢の下駄を鳴らしながら、ずけずけと前に進み出た進化したてのダーテングは舞台演出の眼前に今年の九十九を差し出したのだった。

「……小さい頃から舞台を見てるけど、こういう登場の仕方をしたのはあなたがはじめてだわ。ツキミヤさん」

 メグミは呆れ顔で言った。

「すみません。ちょっと遅れそうになったものですから送って貰いました」

 青年はやっと自由になったという感じで乱れた衣装を整える。
 片腕に抱えていた風呂敷包みに目をやった。結び目はほどけておらず、こぼれてはいないようだった。
 再び風が強く吹いた。
 強風に目を覆って、再び開いたとき天狗の姿は消えていた。

「まったく、時間ぎりぎりよ。はやく持ち場について」

 メグミが言う。
 その仁王立ちする演出の向こうに銀髪が立っているのが見えた。
 何をしていたんだ、遅いぞ。そういう視線を投げるとくるりと後ろを向いた。
 持ち場への待機。あの時担いでいた重い荷物はすでに持っていなかった。
 ふと、妖狐の瞳は黒いコートのようなものを纏ったを羽織った何者かが、足早に去ってゆくのを見た。
 秩序の守護者に用意された替え玉は、本物の妖に恐れをなして、早々に退散することにしたらしかった。
 くす、と笑みがこぼれる。
 そうして、青年は役者の顔になった。
 背中にはもうひとつの強い視線を感じていた。
 すうっとツキミヤが振り向いた先には一足先に社を出た雨降の姿があった。
 獣の鋭い瞳が、青装束を射る。

「…………」

 トウイチロウと視線が交わる。村長の孫であるこの男が、彼の計画を知っていたか否か。それはわからなかった。けれどもはやどうでもよかった。
 ツキミヤはすぐにくるりと背を向けると、風呂敷包みを開き、木箱の中から狐の面を取り出した。空はすっかりと暗く、狐面の白い肌が松明の炎に照らされて、揺らぎと影を映し出していた。
 仮面のこめかみから伸びる鮮血に染めたばかりのような色をした赤い紐を結わいた。
 うっすらと笑みを浮かべる狐面に俗世の顔は覆い隠される。面を被った時、青年は妖狐九十九となった。
 ほどなくして舞台が幕をあける。太鼓が始まりを告げて、村人が一人、炎に舐められ弄られて踊り死ぬ。その骨と肉を喰らい我が物とし、炎の妖は復活するのだ。
 どくん。青年の中にある暗い臓が脈を打った。
 さあ雨の神よ、花道からでもなんでも大手をふってやってくるがいい。
 舞台の上に立ったなら、容赦はしない。
 



 薄い雲に覆われた太陽は日没の方向へと傾いている。
 里の境目で不毛な応酬が続いていた。
 青が矢を射る。
 狐が燃やす。
 幾度も幾度も同じことが繰り返され、シラヌイは嫌気が差した。
 だが、"門"を離れるわけにもいかず、"門"を破られる危険を冒すわけにもいかなかった。
 疲れが見えても尚、まだ青の信奉者達が諦める様子は無い。
 もちろん疲弊の色が見えるのは対峙している輩達だけではなかった。
 何かが、おかしい。
 過去の戦の経験からシラヌイは何かを感じ取っていた。
 本来ならばたいていの敵は無意味を悟って撤退する、そういう頃なのだ。
 むしろ計算や損得勘定に長けた将ほどそうだ。
 無駄な力を浪費する前にすばやく引き上げるのだ。
 そういう意味ではこのグンジョウという男は決断が出来ない男、深みにはまる性質(たち)の者だ、そのようにシラヌイには思われた。
 そうなれば哀れなるはその下に就く兵士達である。

「親方様、備えは十分ですがあまり待たせますな……相手も甘くは無い」

 グンジョウがぼそりと呟いた。
 だが不思議と戦況がひっ迫していることに対する焦りは見られなかった。

「グンジョウ様、ラチがあきません」

 そのように部下の男が言ったが、

「続けよ」

 と、グンジョウが返す。

「しかし」

 一向に変わらない戦況に尚も異議が唱えられる。
 だがその続きを言いかけた時、ヒュッと何かが鳴った。
 気がつけば男の喉元に大降りの剣がつきつけられていた。

「私は親方様より命を受けている。私の命は親方様の命だ。今ここで首を斬られるのと、手を休め狐に喉元を食い破られるのと、どちらがよいか」

 鋭い眼光が差した。
 普段は部屋の隅で書き物などしているが、剣を持つと人が変わる。
 並の獣なら討ち取ってしまうのがグンジョウだった。
 その気迫に屈し、男はすごすごと持ち場へ戻っていった。
 グンジョウは喧騒の中で戦場の空を見上げる。
 空を舞う弓矢の群れ。燃え上がる火柱。同時に攻め入った南側も似たようなものだろう。
 いかにも不毛である。本来ならばとっくに引き上げている。
 だが待たねばならぬ。
 なぜならばそれが自らの主の命だからだ。

「手を緩めるな! 放てぇ!」

 今一時の辛抱だ。いずれ機が熟す。そう思った。





 黒の色を纏った村の一部分に燃える何かが見える。
 それは今年の舞台の炎だった。
 大社の山の上、ここの距離からはその程度しか見えない。
 けれどまるでその場にいて状況が克明に見えているかのように、ナナクサシュウジはその光景を満足そうに眺めていた。
 傍らで膝を屈するのは村の長、そして彼のポケモン、ラグラージ。
 身体を少しでも動かすなら、樹の小人がぎりりと蔦を締め付ける。
 キクイチロウは何度目かの脱出の意志をくじかれたところだった。

「無駄なことはしないほうがいいですよ。村長さん」

 ナナクサはナナクサシュウジの声で語りかけた。
 キクイチロウはヌマジローを見る。
 おそらくはメガドレインかギガドレイン。蔦に捕まってからそれに類する技をかけられた。
 沼魚ポケモンはぐったりとして動かない。とても戦える状態ではなかった。
 結局ナナクサは村長に何もさせなかったのだ。いやでも戦意が失われていくのをキクイチロウは痛感した。
 助けなど来ない。舞台の幕は上がってしまった。皆の目は舞台にある。

「分かっていただければ結構です」

 ナナクサが静かに言った。
 コノハナの一匹がに歩み寄る。それは何事かをナナクサに語っているように見えた。

「わかってるよ。始めよう」

 彼は祭の炎に背を向けた。

「村長さんにも立ち会って貰いましょう。寒空の下に置いていくわけにもいきませんしね」

 蔦が伸びた。キクイチロウの腰からモンスターボールを奪うと、ナナクサに差し出した。
 古いつくりのボールだった。
 木の実では無い。だが機械というよりは「からくり」、そのように表現するのがしっくりする旧式のボール。
 モンスターボールの歴史として博物館に飾られているレベルの代物だ。

「ふふ、これでもあの当時は最新式だったんだけどなぁ。みんなうらやましがっておった。木の実のボールは腐ったり、痛みやすかったから」

 ナナクサは笑った。
 また声がシュウイチになっていた。

「ずっとこれ使っておったんか? 新しいのに取り替えることも出来たろうに」
「うるさい。まだ、使えるから使っておった。それだけのことだ」

 キクイチロウが答えた。声に隠し切れない震えがあった。

「そうか。でもおまんのそういうところ、俺は嫌いじゃなかったなぁ」

 そう言って螺子を回して、ボールを開く。
 力尽きたラグラージが吸い込まれていった。
 確認して螺子を締める。
 おそらくは腕利きの職人が作ったのだろう。問題なく動いた。もしかしたら、今出回っているボールより長持ちするものかもしれない、ふとそんなことを思った。
 彼はどこからか種を取り出した。
 種が芽吹いて、瞬く間にボールを緑で覆いつくした。

「何をする!」
「……単なる草結びじゃきに、大声を出すな」

 声を荒げるキクイチロウに対し、ナナクサは落ち着いた声で答える。

「肝心なときにわるあがきされても困るからなぁ。悪いが、終わるまでしばらくこうさせて貰うわ。行くぞ」

 ナナクサが歩き出した。
 あちらこちらにいたコノハナ達がぞろぞろと彼の元に集う。
 風が吹いて、ドスンと石畳に黒い影が落ちた。先ほど舞台に向かって飛んでいったダーテングが戻ってきたのだ。

「お疲れ様、コウスケは舞台に出れるんだね」

 ナナクサの声に天狗が頷いた。

「そう、よかった」

 ナナクサは満足そうに笑った。
 グイ、とキクイチロウが引っ張られた。植物の蔦による捕縛。そこにはこのままついてこい、という意思が働いていた。キクイチロウには選択権がない。

「シュウイチ、おまん何をするつもりじゃ」

 目を逸らしたかった。
 だが震えながらもキクイチロウは問うた。

「……神降ろしの儀」
「かみ…………おろし?」
「そうじゃ」

 シュウイチの声が答えた。

「さっきも言ったろう? 神様の作り方を教えてやると。別殿になら条件が整っておるからの」

 ぞくり。
 キクイチロウの背中に寒気が走った。
 この男、よくもそんなことを簡単に言ってくれる。
 別殿にあるものといえば、あれ、だ。
 シュウイチが何者を降ろそうとしているのか。それは明白だった。
 少なくとも雨をもたらす守り神などでは、無い。





 空が漆黒の衣を纏っている。
 村人や観光客が見守る舞台には 一本の松明が灯って、ドドド、ドドド、と太鼓の音が鳴り響いていた。
 一人の村人がその中心で踊り狂っている。
 衣を徐々に脱ぎ捨てて黒一色となり、闇に紛れていく。
 彼は妖の炎の犠牲者であり、その生贄だった。

「今宵、我、ここに戻れり!」

 炎に巻かれた村人が完全に闇にまぎれた時、この年の九十九の声が響いた。
 贄の肉と骨。自ら動き回れる身体を手に入れて、炎の妖が蘇ったのだ。

 燃えよ燃えよ 大地よ燃えよ

 赤い衣装の狐面の男が呪詛の歌を響かせながら、舞台を練り歩く。
 赤い松明に照らされた狐の面に炎のゆらめきが映って、妖狐の怨念を思わせた。
 村の子ども達が息をのむ。ドロドロと地響きのように響く低い太鼓が妖狐の気となり場を支配した。思わず小さな子が泣き出して、その母があわててなだめる。
 金色の扇を広げ低い声で詠う。ポンと鼓が鳴って、舞が始まる。
 ふと、青年は昔を思い出した。素顔を隠す仮面の裏側に鮮やかに記憶が蘇る。
 様々な季節や月に様々ないわれがある。どこかしらで祭があって、父は暇を見つけると連れて行ってくれた。
 コウスケ、ここの神社はね、ここの神様はね、ここの祭のはじまりはね――思えばいつも父はそんな話をしていた気がする。

「父さんそれは民俗学の仕事だよ。考古学とは違う」

 父は考古学会の人間だった。なので小さいながらに生意気にそんなことを言ったら、違うものかと大真面目な顔で言われた覚えがある。
 私は発掘現場で形あるモノを掘り出して、昔を知る。
 祭では見えない心に寄り添って、昔を想像する。
 それは方法も考え方も違うけれど、突き詰めれば同じことなんだ。
 どちらも同じ場所を目指しているのだ――かつてここに生きた人やポケモンたちが何を考えていたのか、何に喜び何に悲しんだか、何を想って生きてきたのか。我々はどこから来たのか――どこへ向かうのか。
 立っている方向が違うだけ。同じ場所を見つめているんだ。
 ふうん、と少年は言った。そのころの自分にはよくわからなかった。
 ドォン。太鼓の音が響く。青年は詩を声にする。

 燃え上がれ火 燃え上がれ火 燃え上がれ炎よ
 燃え上がれ火 燃え上がれ火 我が炎

 幸せだった。
 いつか大きくなったら、父について発掘現場に行くんだと、自分も考古学者になるのだとそう信じて疑わなかった。
 けれど、ある時に突然、信じていた世界は壊れたのだ。
 父は世間から嘘つき呼ばわりされ、指さされ、そしていなくなった。
 父さんは嘘つきなんかじゃない、そう叫んだところで誰も耳を貸さなかった。
 嘘つきの息子は嘘つき。そうして道は閉ざされた。

「我が名は九十九。十の九尾と百の六尾の長、炎の妖なり!」

 仮面の下、青年は叫ぶ。

――私はね、お前にやってもらいたいんだよ。鬼火を連れし者よ。

 なぜだろう、ふと九十九の言葉が蘇った。
 はじめて対面した夜のこと、妖狐が青年にかけた言葉が。

――お前でなくてはだめだ。お前みたいに今ここにある世界のことが大嫌いで、どこかで壊れてしまえばいいと思っているようなそんな人間で無くては。
――お前にならわかるはずだ。周囲の人間達は皆雨が降っているという。けれど、お前だけは本当の天気を知っている。だから、ずっと晴れていると叫び続けなければならない、その孤独が。
――鬼火を連れし者よ。私の願いを聞いてはくれないか。

――お前になら、わかるはずだ。

 青年にも今ならわかる気がした。
 妖狐九十九がなぜ自分という人間を指名したのか。
 遠い昔、戦に敗れた。一族を毛皮にされて、毎年出来試合を演じさせられてきた。
 どんなに憎んだことだろう。どんなに恨み呪ったろう。

――神楽は器だよコウスケ。神楽の中に、詩の中に感情が入るから舞は奉納となり、供物となる。形と心の両方を得て、はじめて舞は完成する。

 ああ、そんなことを言った男もいたな。
 仮面の裏側で思い返す。

――僕は許さない。父さんを棄てた世界を許さない。君もそう思うだろう? なぁ、コウスケ?

 幼き日の自分が語りかける。

「我に従え、六尾の者よ。我に従え、九尾の者よ。我に続け、炎の力宿らせし者どもよ」

 狐面の青年は云った。詠うように、高笑いするように云った。
 人と獣。姿かたちは違っても恨む心は変わらない。
 憎くて憎くて憎くて、すべて焼き払ってしまいたくて。
 たぶんそう、我々は同じ。同じなのだ。
 そうして青年は炎を纏った。鬼火と云う名の炎を。影と共に。
 続々と舞台に上がってくるのは無数の炎の化身たち。彼らを鼓舞し、妖狐は繰り返し唱えた。
 燃えよ、燃えよ、燃えよ!





「戦法を変えるべきだ」

 尚もこう着状態が続く、両陣営に再び同じ異が唱えられはじめた。
 だが、青のグンジョウが、里のシラヌイが、それぞれに場を抑えられなくなってきたそのころになって状況が動いた。

「シラヌイ、見ろ」

 耳をせわしなく左右に動かしながらダキニが言った。
 青の陣営のはるか後ろから二十騎ほどの三つ首鳥に乗った者達がこちらへ向かってくるのが見えたのだ。

「増援?」
「にしては、こころもとない。二十騎増えたところで変わらん」
「では、あいつらはなんだ」

 二匹の九尾は解せぬという表情を浮かべた。
 だが彼ら二十騎が来たからには来たなりの意味があるのであろうと思われた。
 油断がならなかった。
 直後だった、グンジョウがそれに気がついて、そして青の陣営に歓声が上がったのは。
 ウオオオオオッ! と、男達が声を上げた。
 それは先ほどまで青を率いていたグンジョウがずっと待ち続けていた男だった。

「親方様!」

 グンジョウが駆け寄り、跪く。
 主を見上げるその表情は明るく、声には張りがあった。

「大儀であった、グンジョウよ。私が来るまでよくぞ持ちこたえた」

 グンジョウよりはるかに若い男が三つ首の鳥にまたがったまま云った。

「そのご様子ですとうまくいったのですね」
「無論だ。今頃は隅々まで染み渡っていよう。合図を待つばかりぞ」

 若き将は、ほっと手綱で鳥を叩くと、九尾達にもよく見えるよう前に進み出た。

「矢を射るを止めよ!」

 グンジョウが叫ぶとほどなくして弓矢の雨が止んだ。

「その方らの頭は誰か」

 若き将がはるか前方に見える狐達に問う。

「私だ」

 群れの先頭に一匹のキュウコンが飛び出した。
 シラヌイがだった。

「我が名は不知火(シラヌイ)。だが私は代理に過ぎぬ。我等が筆頭は我が父、九十九である。だが、お前達がここを通り父に目通ることはなかろう。なぜならお前達は此処を通ることなど出来ないからだ」

 赤い瞳が睨みつけた。
 どうやらこの男が今回の里攻めの黒幕であるらしい、そのことがシラヌイにもわかった。
 ならば例え、刺し違えてでもこいつを焼き殺してやろう、そう思った。
 だが、

「さあ、はたしてそれはどうかな」

 そう言って将は余裕の笑みを浮かべた。

「たとえば、その方らがすぐ里へ戻らなければならないとしたら、どうだ?」
「どういう意味だ」
「フ、急かさずとも今にわかる」

 そう言って、若者は腰に下げていた丸い奇妙な木の実の栓を抜いた。
 シラヌイは驚愕した。
 それはゆうに百年以上は生きているシラヌイにとって未知のものだった。
 敵陣の若き将が栓を抜いた木の実の中から、獣が現われた。
 だが驚くべきは中から出てきた獣そのものではなかった。
 獣を収容していた木の実のほうだった。
 獣を持ち運ぶことの出来る、木の実。

「……なんだ、それは」

 冗談ではない。こんなバカなものが許されていいのだろうか。
 受け入れがたかった。
 こんなものを人間達が皆こぞって使いはじめたら、獣と人の関係は根本から変わってしまう。
 直後、放たれた黄と青の毛皮の獣、雷鳴獣が咆哮を上げた。
 ゴロロ、ゴロロと空に雷が数本、走った。
 そして、それが合図だった。
 青にとっては進撃の、狐達にとっては破滅の合図だった。
 日が沈みかけていたが、空はまだ明るさを保っていた。
 それなのに、里のほうから暗い暗い雲が急速なスピードで広がって広がって、あたりを覆いつくしたのだ。
 ぽたり、ぽたり。
 天から雫が滴り落ちた。

「雨……だと」

 生易しかったのはほんのひと時だった。
 それはすぐさま強烈な飛沫となって無数の水の矢が地面を叩いた。
 周囲はざあざあという豪雨の音に包まれたのだ。

「馬鹿な! 里から雨がやってくるわけが無い! 里には父上がいるのに!」

 九十九が許すわけが無い。
 あんなに雨を嫌っていた父がこんなことを許すはずが無い。
 第一、一介の雷鳴獣が、こんな大規模な雨を呼べるはずが無い。
 だからこそそれが出来る力を持った獣が「神」と呼ばれるのだ。
 シラヌイは混乱した。
 里の中で何が起こっている。想像もつかないとてつもない何かが。
 その時だった。
 里のほうから、金色の兄弟の一匹が血を流しながらシラヌイ陣営へ駆け寄ってきて、そしてばしゃりと泥だらけの地面に倒れこんだ。

「フシミ! お前どうしたんだ」

 倒れた兄弟の下へダキニが駆け寄る。
 そうして気がついた。フシミの尾の何本かが途中でぷっつりと千切れていた。
 後ろ足に、何か大きいものの歯型があった。
 赤い血が流れ続け、雨に流されていく、止まらない。
 最後の力を振り絞って、叫んだ。 

「ダキニ、シラヌイ、すぐに里へ戻れ……っ! 入り込んでる。あちこちに、やつらが……すでに兄弟が何匹かやられた。このままでは父上が……ちくしょう……畜生」

 そこまで云うとフシミはもう、ダキニに視線を向けたまま言葉を発さなかった。

「おい、フシミ、フシミ!」

 ダキニが吼えたが既に届いてはいなかった。
 フシミはぱたりと地面に顔つけたまま起き上がらなかった。
 牙をむき出しにして、赤い眼(まなこ)を見開いたまま、宿っていた灯火が消えていた。

「……総員……退却……! 里へ引き返せ! 今すぐに、だ!!」

 シラヌイが叫んだ。
 それはもはや人の言の葉などではなく、獣の本能からの咆哮だった。

「許せフシミ……!」

 シラヌイは弟に別れを告げるとすぐさま駆け出す。六尾達がその後に続いた。
 後方の青の一団を一瞥する。雨の蚊帳の向こうで青の将がにやりと笑ったように見えた。

「不知火とやら、冥土の土産に教えておこう。我が名はウコウ、雨を降らすと書いてウコウと読む。私は雨を呼ぶ男。これが私の戦だ」

 去りゆく金色の狐を見て、ウコウはそう言った。だが、その声がシラヌイに届いたかは定かではなかった。
 やがて狐達の姿が見えなくなり、若き将はゆっくりとした足取りで置き去りにされたフシミの亡骸へと歩み寄る。
 首の皮を掴む。目を見開いたままの狐の顔を自分の目の高さまで持ち上げた。
 そうして若き将は牙をむいた憤怒の表情と対峙したのであった。
 ざあざあと振り続ける雨は亡骸を濡らし、その雫が灯火の消えた瞳を伝って流れ落ちていった。

「ふむ、よい毛皮だ。尾が切れてしまったのは惜しかったな」

 それは惜しいという言葉とは裏腹に満足そうな口ぶりであった。

「皆の者、見るがよい!」

 そうして、若き青の将は九尾の亡骸を雫を降らす天にかざした。

「我等が神が眷属、我等が牙は妖を討ち取ったり! 我等は力をつけた。今に獣に頭を垂れる時代が終わろう。人は獣から解き放たれる。人が自ら決め、自ら定め、動かす世が訪れよう。我らはその礎を築くのだ」

 天から降り注ぐ雨は冷たい。
 だが将の弁舌には熱がこもっていた。

「我が手中を見よ。もはや、九尾と言えども恐るるに足りぬ! 天は我らが味方ぞ! 今より我らこの里へ入り、狐狩りといたそうぞ!」

 降りしきる雨の中、男達の歓声が上がった。





 人々は舞台を舞う無数の炎を見た。
 カゲボウズがいくつもの鬼火を躍らせ、リザードが眩い炎を滾らせた。
 収穫を喜んでいた人々は逃げ惑い、やがて一人の男の名を呼び始めた。
 舞台から伸びる橋掛かり――花道。
 彼らはその先に呼びかけた。

 雨降様、どうか雨を。どうか雨を。
 悪しき火を流し、田を潤す雨を。
 今一度目覚め、我らをお救いください。

 雨降様、雨降様、今一度おいでください。

 初めの一人が云い始めると、祈りはすぐに二になり、そして十になった。
 やがて、観客席のあちらこちらから同じように声が上がった。
 あらかじめそこに配置されていた役者達だった。
 彼らは観る者達を導く方法をよく心得ていた。
 祭をよく知る村の者達も同じだった。待っていたとばかりに彼らは祈りに加わった。
 合図の太鼓が鳴る。彼らは同じフレーズを繰り返す。再び太鼓が鳴る。

 雨降様、雨降様、今一度おいでください。

 太鼓が鳴る。
 何度かを繰り返すうちにそれは観る者達をも巻き込んだ、圧倒的なコーラスとなった。

 雨降様! 雨降様! 雨降様!

 コーラスが最高潮に高まったその時、一際大きく太鼓が鳴った。追うように鈴の音。それが響いた時、今まで人々を先導していた者達が一斉に扇を取り出して、花道へ向けた。

「いかにも、我が名は雨降」

 声が響いた。一斉にいくつかのライト。照らす先には翁の面。
 ぽん、ぽんと鼓の打つ音。直後に喝采の拍手が沸き起こった。
 橋掛かり――神と呼ばれる者のためだけに作られた花道。青い衣の男はそこを堂々たる風格を持って進む。
 波の音のような太鼓に導かれ、一歩、また一歩。
 石舞台に足をかけるその時まで拍手の嵐が止まなかった。それはさながら激しい雨が地面を叩く音に似ていた。
 歓迎される者、己が社を持ち、現われる為の道と喝采を約束された者。光の当たる道を歩む者。
 この時になってツキミヤは実感として理解した。
 雨降と九十九の、その差。
 道も無く、打ち倒される為に現われ沈んでいく炎の妖とは明らかに違う。
 神と妖。持つ者と持たざる者。その違い。そこにある埋めようの無い、差。

「我、呼ばれたり。呼びかけに応え、目覚めたり」

 青の衣が版図に足を踏み入れる。
 観客席を仰いで翁の面が云った。

「我が名は雨降。悪しき火を払い、流し、今一度田に恵もたらす為、参った」

 再び拍手が沸き起こる。
 それが静まる頃合を図って、雨降は雨の詩を詠い始めた。扇を広げ舞う。すると青に与する者達が次々に舞台上に現れた。
 そうして翁は扇を閉じ、射るように狐の面に向けた。客席中の視線が九十九に寄せられ、突き刺さる。
 狐の面の青年には、それがかつて父や自身に向けて突き刺さったものと重なった。
 狐狩りが始まった。





 青年と天狗、そしてたくさんの小人。彼らは聖域を侵す侵略者だった。
 別殿の戸を開くと、ナナクサはちょっと待ってと言って、天狗達を制止した。

「建物は古いんだけど、けっこうハイテクになっていてね。変に侵入すると鳴っちゃうんだ。警報が」

 そう言って玄関の脇にあった小さな電子盤を開く。

「協力して貰うぞ。キクイチロウ」

 ナナクサはまたシュウイチの声になる。有無を言わせなかった。
 電子盤の前に縛り上げたキクイチロウを引きずり出させた。
 拒否するキクイチロウの腕を掴んで、人差し指を電子盤に押し付けた。
 老人は拒否が出来なかった。指を握り締めて最後の抵抗をしたかったのに腕がしびれるようになって動かなかった。

「おまんがいて助かったわ。解除番号も知らんでは無いが、祭の前と後じゃ変えられるかもしれんし、やはりおまん自身が一番確実じゃからな」

 ピリリ、と認証の音。
 キクイチロウの指紋を「鍵」にして、警報は解除された。

「本当におまんが来てくれて、助かったわ。来てくれんかったら、解除できる人間のうちの誰かを攫わなくちゃあならんかったからの」

 最後の障壁。それすらいとも簡単に破られた。
 愕然とする老人を尻目に、ナナクサと小人達が上がりこんでいく。
 戸が開け放たれた。
 ナナクサと小人の目の前に、ずらりと並んだ狐の毛皮が姿を見せた。

「……ここに入ったのは、もう六十年以上前か」

 ナナクサが言う。
 キクイチロウも鮮明に覚えていた。
 実りを約束する種と引き換えに、毛皮を一枚、引き渡した。
 当時はまだ警報などついていなかった。

「おまんはここで俺に毛皮を一枚、引き渡した。約束どおり一番小さなものをひとつ……」
「…………」

 老人にとっては思い出したくも無い記憶だった。
 伝説を証明するもの。先祖が代々守り伝えてきた宝。たとえ一番小さなものであっても、外には出したくなかった。
 だが、折れるしかなかった。凶作から村を救う為には仕方がなかった。

「今は、後悔しとる。あれからだよ。タマエがおかしくなったのは」

 キクイチロウは精一杯の嫌味を込めていった。

「おかしく、なった?」
「そうだろう! あのすぐ後だった! タマエが禁域にしゃもじを供え始めたのは!」

 それだけではない。ちょうど同じタイミングだった。
 女として、村の誰にも興味を示さなかったタマエ。
 それがシュウイチの嫁になると言い出した。

「そうだ、お前は炎の妖に魂を売ったんじゃ!」

 突然にキクイチロウは声を荒げた。
 声が別殿をびりびりと揺さぶる。

「魂を売って、すべてを手に入れた。だから毛皮を欲しがった、違うか!? 凶作から村を救ったという栄誉、タマエ……私が欲しかったものは、みんな、みんな、お前が……!」

 ナナクサは少し驚いた。キクイチロウは根に持つことはあっても分というものを弁えている。特に村長になってからは、ことさらそうだ。それがこの男の意地であったから。

「私は、お前に」

 それは叫びだった。
 ずっと、ずっと胸の内に秘めていた、けれども村の長という対面からずっと外に出されることが無かった、叫び。
 意外だった。村長がタマエを好いていたことはナナクサも知っていた。だからタマエを手に入れたシュウイチを村長がいまいましく思っていた事はわかっていた。
 けれど、違う。これは違う。いまいましいとかそういうものではない。
 それ以上の感情が今、シュウイチという男に向けられている。

 そう、これはシュウイチへの嫉妬だ。
 けれどそれ以上の、
 それ以上の、

「知っているんだ。村の者みんなお前を狐憑きだの言っていたが、みんな、みんなお前に感謝していたよ。ただ私の前だったから、ああ言っていただけなんだ。私はただ間に入って、いいように使われただけなんだ。何が村長の息子だ、何が次期村長だ。誰も私を見てなんかいなかった。私は、…………私はお前になりたかった!」

 嫉妬。けれど以上の、憧れ。

「…………、……村長さん……僕は、」

 いつの間にか、声がナナクサに戻っていた。
 意識したのではない、自然に戻っていた。
 老人が漏らした嗚咽が聞こえた。

「シュウイチ……お前は、六十五年前のことを怒っているのだろう。許してくれ。許してくれ……もうこれ以上私から奪わないでくれ」

 ナナクサはただ立ちつくして、うなだれる老人をしばし黙って見ていた。
 事はシナリオ通りに進んだ。自分の描いたシナリオ通りに。それなのに。

「許しておくれ……」

 何をどう間違ったというのだろう。
 こんな演出を書き加えた覚えなど無いというのに。
 それなのに。どうして今目の前にいるこの老人に、共感を覚えているのだろう。
 胸を締め付ける「これ」はなんだというのだろう。

「なんで……どうして」

 青年は戸惑いを声にした。
 こんなシーンは用意していない。
 知らない。こんな「もの」、自分は知らない。

「だって、僕に『感情』は無いんですから。僕自身には感情を生む『記憶』も『思い出』も無いから。僕が喜んだり、悲しんだりするとすれば、それは…………僕の中にあるシュウイチさんの記憶がそうさせているだけ」

 シュウイチになりたかった、とキクイチロウは言った。
 ああ、そうだったのか。

 ・・・・
 それこそが自分だったのか。

「村長さん……いいえ、キクイチロウさん、ごめんなさい。僕はシュウイチさんではありません。ただちょっと驚かそうとしただけ」

 ナナクサは言った。

「演技です。全部演技なんですよ。たとえ記憶や知識をまるごと借りたって、シュウイチさんにはなれやしない……」

 膝を落とし、キクイチロウと同じ目線になって言った。

「……キクイチロウさん、僕と貴方は同じだったのだ」

 今わかった。
 自分がキクイチロウを嫌いなのは、シュウイチがそうだからだと思い込んでいた。
 だが違った。自己が持っているそれと同じものをこの男が持っていたから。
 だからこの男が嫌いだったのだと。

「キクイチロウさん、シュウイチさんは許していましたよ。あなたの事も。村のことも。何一つあの人は恨んじゃいなかった……」

 だが、そこまでだった。
 天狗が楓のような手がナナクサの腕を掴んだのだ。
 そこまでだ。お前には役目がある。そう言うように。

「わかってる」

 ナナクサが答えた。
 天狗の瞳を見ると、引き戻された。

「そうだったね。僕にはもう……」

 ナナクサが立ち上がる。
 小人達が儀式の準備を整えていた。
 敷かれた御座の上にはいくつもの白紙の札。細い筆に太い筆。そして大きなすずり。
 御座の上に座ると、小人が何かを差し出した。
 ナナクサはそれを受け取り、抜いた。
 銀色に鈍く光るそれは小太刀だった。

「待て、何をする気だ!」

 キクイチロウが叫ぶと、ナナクサは穏やかな笑みを浮かべた。

「キクイチロウさん、僕ね、ずっとシュウイチさんが羨ましかったんです。あの人の記憶や思い出はとてもとても輝いていて。だから、ずっとあの人になりたい、そう思っていました。僕のこの胸にある思い出が僕自身のものだったらどんなにいいだろうって。……でもね、もういいんです」

 天狗の瞳を見たときに思い出した事。
 それは舞台へ送り届けた青年の事だった。

「だって僕はもう、持っていますから」

 そう言って、ナナクサは自身の腕にざくりと小太刀を突き刺した。
 太刀を抜く。傷口から黒い黒い墨のような血が滴り落ちた。





 雨が降り続いている。
 シラヌイは走った。ダキニと六尾達を連れ、雨にぬかるんだ地面を蹴る。
 激しい雨が降り続いている。
 勢いが収まるどころかますます勢いを増した水の礫が彼らから熱を奪っていった。
 熱とはすなわち炎を宿す獣の力そのものだ。
 里で何か異常な事態が起こっている。駆けつけたところで戦力になるのか、不安がシラヌイを襲った。だが、考える猶予など彼らには与えられていなかった。
 里の入り口を抜ける。
 山道が終わって、彼らの視界に黄金色に色付いた田の風景が広がった。
 金色の田は雨に濡れている。
 激しい雨によって増水した田は各々の境界が曖昧となり、稲穂の首までが水に浸かっていた。

「何ということを……」

 雨にぬかるんだ農道を踏みしめてダキニが嘆いた。
 田の境界よりは高地にあり幅のある農道は浸水こそ免れていたものの、あちこちに深い水溜りが出来、茶色く濁っている。

「父上はどこにいる!?」

 シラヌイは懸命に感覚を研ぎ澄ましたが、雨の濁音に遮られて、何も聞こえなかった。
 地を流れる道は敵の匂い、味方の匂い共に流してしまい、辿ることができない。
 雨は獣の研ぎ澄まされた感覚を雫と共に流してしまったのだ。

「くそ!」

 金色の九尾は地を蹴ったが、ぐちゃりという不快な感触が足に残しただけだった。

「いそうな場所をあたるしかない。おそらくは石舞台かその周辺……遠くに行っていなければよいが」

 ダキニがぶるっと身体を震わせ、言った。
 だがはらってもはらっても激しい雨が降り続け、身体を濡らし、意味が無かった。
 滴り続ける雫が視界を奪ってゆく。

「とにかく一刻も早く父上の下へ合流せねばなるまい。ここにいるだけではいずれ六尾達の気力も尽きよう。だが、父上の近くならば、あるいは」
「ああ」

 シラヌイが同調する。

「行くぞ」

 彼らは再び地面を蹴り、走り始めた。
 だが、ぬかるんだ地面は足を重くした。
 普段であればあっという間に駆け抜けてしまうはずの道が長く長く感じられた。
 熱が身体から奪われてゆく。力が無くなってゆく。
 だが彼らはまだ知らなかった。雨という天候は彼らの戦略の一側面でしか無いことを。水浸しになったこの里の環境そのものが彼らにとっての脅威であったことを。
 彼らがその洗礼を受けたのは水に浸かって曖昧になった田の区切りを五十本ほど走り抜けた時だった。
 シラヌイとダキニの後方を走る六尾のうちの一匹が道から唐突に消えることになった。
 始まりは、ばちゃりと水が跳ねる音。
 次の瞬間、何かがドボンと水の中に落ちる音が続いた。

「どうした!?」

 ただならぬ音にシラヌイが振り返る。
 すると、右斜め下で何かがばしゃばしゃと水を掻く音が耳に入った。
 音のするほうを見る。流れ落ちる雫が邪魔をして、はっきりとは見えなかった。
 だが、増水した田の用水路に一瞬だけ、赤い毛皮をシラヌイは見た気がした。
 しかし、それきりだった。
 どぷんという水音を最後に何も聞こえなくなった。

「おい、どこにいる。返事をしろ!」

 シラヌイは叫んだが応答は無い。
 その代わりに水の中に思わぬ色が浮かび上がってきた。
 それは赤だった。
 生命の象徴ともいえる血の色。
 それが水の中に薄くなりながら広がってゆくのをシラヌイは見た。
 ごぼり、と水の中を何者かが駆る音が響いた気がした。
 次の瞬間にシラヌイは剋目した。
 濁った水の中、赤い色に向かって無数の魚影が滑る様に泳ぎ集まってくるのを彼は見た。

「畜生!」

 獣の声でシラヌイは吼えた。
 九尾は理解した。今この里で何が起こっているのかを。
 フシミは死の間際にこう言ったのだ。

――入り込んでる。あちこちに、やつらが…………




 合図の太鼓が三度響く。
 討伐が、狐狩りがはじまった。
 赤の帯を締めた者、青の帯を締めた者、それぞれが各々のポケモンを繰り出して、炎の技、水の技を交差させてゆく。
 それはポケモンバトルというよりは、観客を楽しませるために技の美しさを魅せるコンテストに近い形式だった。
 ある赤い帯のトレーナーのドンメルは等間隔に並ぶように炎の玉をいくつも噴き出した。
 またある青い帯のトレーナーのアメタマは美しい放射状の水のアーチを作り出した。
 その度に観客達が拍手をする。
 一つの技を決めると、トレーナー達は舞台の下手や上手に引っ込んでいった。
 やがてそれは二対二、三対三となって、より難易度の高い技の応酬へ発展してゆく。
 五組にまで膨れあがって赤い帯のトレーナー達が散った時、彼らの長である炎の妖は再び舞台へと躍り出た。
 一歩を踏み出し取り出した扇をパンと鳴らした時に、その背後からカゲボウズがくるりと回りながら飛び出した。
 三つ色の瞳が妖しく輝いた時に二十、三十の鬼火が生まれた。
 妖狐九十九は閉じた扇の先に攻撃の対象を定める。
 するとまるで鬼火が流星群のように青の帯の者達向かって落ちていった。
 観客が沸いた。青帯のトレーナー達がポケモン達と共に舞台袖へと退避してゆく。
 そうして青陣営の長、雨降が舞台へと登って来た。
 主役の登場。田の守護神たる翁面の男はやはり拍手を持って舞台へ迎えられた。
 雨降はボールを構える。空中高く放られたボールは、カッと開くと、その中から大砲を背負った亀のポケモンを吐き出した。
 狐面はひらりと扇を翻す。カゲボウズが再び無数の鬼火を生み出した。
 翁の面が応える。閉じた扇を狐面に向けると、カメックスが大砲を彼らに向けた。
 先に仕掛けたのは九十九だった。鬼火が再び流星となってカメックスを襲う。
 が、カメックスはしゃらくさいとばかりに片方の大砲から水を発射した。
 鬼火は瞬く間に霧散して消えて果てる。
 もう片方が九十九を補足し、水を発射した。
 が、それは織り込み済みの動きであった。九十九が一歩、二歩とステップを踏むとそれは命中することなく、夜の闇の中へと消えていった。
 再び九十九が構える。さらに数を増した鬼火がカメックスを襲う。カメックスが打ち消す。それは練習の通りの動きであった。
 打ち合わせ通りに行くとお互いの立ち位置とバリエーションを微妙に変えながら五回ほどその動きを繰り返すことになっていた。
 狐面の中で光る青年の瞳は狭い視界で注意深く対象とそのポケモンの動きを観察する。
 鬼火が飛び、残り四巡。
 鬼火が散り、残り三巡。
 水が吹き上がり、残り二巡。
 噴射がかわされて、残り一巡。
 そして、今までで最大の数の鬼火が舞った時に最期の時が訪れた。
 舞台袖に去っていた青帯のトレーナー達が一斉にポケモンの水技を仕掛けた。
 鬼火が一つ、また一つ、落とされていった。
 九十九はうろたえるような動きをしてみせる。

「機なり!」

 翁の面は大砲の亀に号令をかけた。
 左右の噴射口が妖狐九十九に向けられた。
 二つの噴射口から大量の水が発射される。
 それは直撃を避ける形で、ちょうど九十九の左右の地面に当たる形になる形で水飛沫をあげた。
 観客から見ればちょうど九十九に命中したように見える形。
 ここで妖狐の敗北が決定的となる。

「あれ口惜しや。口惜しや」

 妖狐九十九はここで退場、また次の年まで眠りにつく。
 その後には豊穣を願う翁の舞、雨降が豊穣を祈る。
 ……はずだった。
 だが、実際にシナリオ通りにいったのは噴射された水が妖狐の立ち位置の左右で水飛沫を上げたところまでであった。
 途端に水の軌道が、曲がった。
 それは観客席の方向に曲がって飛散して落ちていった。
 きゃあ。冷たい。などと様々な声が上がる。
 突然のアクシデント。トウイチロウ扮する雨降は一度噴射を止めざるおえなかった。

「どうした雨の神よ。これで終わりか」

 舞台の反対側で狐面が笑ったような声を上げる。

「こないのならこちらから行くまでよ」

 狐面がタン、と扇で石舞台を叩いた。
 松明で躍る妖狐の影から無数の鬼火が火柱となって立ち、青の陣営に襲い掛かる。
 舞台に出ていた青帯のトレーナー達はうわあと声をあげて舞台袖へ退散してしまった。
 トウイチロウは再び仕切りなおす。
 カメックスの砲台が再度、九十九に標準を合わせた。
 が、失敗だった。
 その軌道は再びそれた。
 観客の側にそれは飛んでいって、大粒の雨となって降り注いでしまうのだった。

「どうした。ほれ、どうした」

 驚きを顕にするトウイチロウを妖狐は嘲笑った。
 観客達が固唾を飲んで見守るそのはるか後方、銅鐸を模したポケモンが矢倉の上で目を光らせていた。
 その頭上には一羽の念鳥。
 遠方の映像を鋭く捉える優秀な視覚はテレパスで繋がり、今やドータクンの眼そのものとなっていた。
 カメックスが二つの砲から水を発射したら、観客側に軌道を曲げろ。
 それが彼らの主が下した命令だった。
 念鳥の瞳がポケモンの動きを捉える。それはカメックスの三度目の噴射。
 だがやはり軌道は曲がってしまった。彼らによって曲げられてしまった。

(一体何がどうなっている……!)

 トウイチロウは翁の仮面の裏で焦りと困惑の表情を浮かべた。
 すると妖狐が石舞台の中央に進み出て、扇の先で翁を指したのであった。

「雨の神を名乗りし者よ。うぬに問いたきことあり」

 狐面が言った。
 脚本には無い台詞だった。





 その血に熱は通わない。その血の色は黒。
 人の色とは思えないその血は青年の腕と指を伝って、すずりへと流れこんでいく。
 キクイチロウは眩暈を覚えた。
 青年は言った。自分はシュウイチではない。だが、自分のうちにはシュウイチの記憶があると。
 その血の色はどこまでも、どこまでも黒かった。
 ずっと疑問に思っていた。ナナクサシュウジとは何者なのか。
 血の色からするにどうやら人ではないらしい。そういう結論に至った今も実像が掴めないでいる。
 シュウイチの縁者でも無いこの男がなぜ、シュウイチの記憶を持っているのか。
 するとナナクサがキクイチロウのほうを見て言った。

「彼らの決着が着くまでまだ時間があります。少し昔話をしましょう」
「昔、話……?」
「そう、昔話です」

 キクイチロウが聞き返すとナナクサが念を押した。

「ずっとずっと昔のことです。この村に一人のガキ大将がいました。その子は村では一番偉い家の息子だった。だから彼にはほとんどの子は逆らえませんでした」

 自分のことだ、キクイチロウにはすぐにわかった。

「彼はミズゴロウを持っていました。ヌマジローという名前でそれはやんちゃだった。いつも彼はいろんなポケモンにヌマジローをけしかけました。村にいる野生のジグザグマ、アメタマ……それに村の子が持っているポケモン」

 ナナクサの腕を黒い血が尚も流れ続ける。
 すずりを黒い液体が満たしてゆく。

「彼はある時、村の女の子が持っていたアチャモを散々にいじめました。炎のポケモンは妖狐九十九の手先だ。だから雨降に退治されるのだ、そう言って。やりすぎでした。アチャモはずいぶん長い間起き上がってこれなかった。回復するのに十日はかかったでしょうか。その間中、女の子はずっと泣いていました。それを聞いた女の子の友達はたいそう腹を立てた。気の強い女の子でした。ですから彼女は男の子をとっつかまえて謝るように迫ったのです。けれど男の子は聞く耳を持ちませんでした。その子は友達に言いました」

 "泣かないで。あいつを懲らしめる方法を知ってる"、と。

 血の流れが鈍くなっていく。
 ナナクサは太刀を持ってさらに傷を広げる。
 黒い血が再び流れ始めた。

「当時の子ども達の間にはこんなウワサがありました。禁域の、妖狐九十九の殺生石にしゃもじを供えて願いを言う。そうすれば九十九が憎い相手を呪ってくれる……誰も試す者はいませんでした。ですがそのその女の子はそれを行おうとしたのです。けれど、一人で禁域に入るのは怖くて、だから幼馴染を連れて、二人で禁域に行きました」
「……、…………」

 キクイチロウは知っていた。この二人が誰であるのか。
 だが、それが自分を呪う為であったとは知らなかった。
 おそらくは幼馴染のほうが口止めをしたのだろう。

「ですが、呪いは失敗に終わりました。村の大人達に捕まえられて、二人は連れ戻されたのです」

 血が、黒い血がすずりになみなみと満たされると、ナナクサは止血をした。
 ぐるぐると布を巻きつけて口と右手とで結ぶ。
 右手が筆を取る。黒い血の池にそれを浸した。
 血が通わず動きの鈍い左腕が震えながら、札を取った。
 するすると文字を書き付けていく。古い時代の文字であろうか。キクイチロウがそれを読むことは出来なかった。だがその筆跡はシュウイチのものによく似ていた。今の若者が見れば古めかしい、とそう言うだろう。

「二度目はその七、八年後です。凶作が続いていました。彼女の幼馴染は妖狐九十九として祀り上げられました。その時です。殺生石にしゃもじが供えられたのは。彼女は願いました。燃えてしまえばいい。すべて燃えてしまえばいい、と。例年より早い祭の最中、野の火が現われたのはそのすぐ後だった」

 キクイチロウに悪寒が走った。
 真に恐ろしいのは、恋敵ではない。想い人のほうだった。そう理解したからだった。
 いや、目を逸らしていたのかもしれない。想い人の信仰が自分達と違うこと。それを恋敵のせいにしたかっただけなのかもしれない。

「その後は貴方の知っている通りです。タマエさんは禁域に入ってはしゃもじを備え続けました。晴れの日も、雨の日も、可能な限り彼女はしゃもじを持っていきました。六十五年前から、ずっと、ずっと……それは積み上げられていきました。尤も、三年くらい前にごっそり持ち去られてしまいましたがね」

 じろり、とナナクサがキクイチロウを見た。

「違う! 私ではない!」

 老人が否定する。

「わかっています。持ち去ったのはここにいるコノハナ達です」

 ナナクサが静かに応答した。

「キクイチロウさん、九十九神(つくもがみ)ってご存知ですか。古い道具には魂が宿るっていう話。そうでなくても六十年以上も積み上げられた信仰の証ならば何かの力が宿るとは思いませんか」

 ナナクサは淡々と語った。
 キクイチロウは嫌な予感に段々と確信が深まっていく感覚を覚えていた。

「……さすがにそのままだと使えなくて、炭にして砕いたのだそうです。炎は苦手だから苦労したらしいです。それでもまだまだ"依頼主"の要求に足りなくて、毛皮を一枚使いました。元は別殿にあった小さな毛皮を、一枚。それを混ぜ込んで"肉"の用意が整いました」

 老人の指先がわなわなと震えた。
 "肉"という言の葉にはこの時期特有の特別な意味があったからだった。
 収穫の祭り。そこで上演される舞台。野の火の脚本(ほん)にはこうある。

 "村人が一人、炎に巻かれて犠牲となる"
 "その『肉』と『骨』を手に入れて、妖狐九十九が蘇る"

 荒唐無稽な話だ。
 だが、それが舞台となると受け入れられる。
 祭りという非日常。そこにある空気がそれを可能にする――。

「……お前は、お前達は」

 キクイチロウの震えた声が聞こえた。
 シュウイチが死んだのは三年前だった。
 タマエが積み上げた信仰の証が持ち去られたのも三年前である。
 そして、ナナクサシュウジが現われたのも、三年前。
 意思ある何者かがこの世に実体として存在する為に必要なのは肉体。それを構成する"肉"、そして"骨"……キクイチロウの頭の中でおぞましい結論が導き出される。

「墓を暴いたのか! あの男の墓を!」

 ナナクサが皮肉に歪んだ笑みを浮かべた。
 おぞましかった。心の底からキクイチロウはおぞましい、そう思った。
 血が黒いはずだった。この男の"肉"は供えられたしゃもじを焼いたその炭なのだ。
 そして身体を支える"骨"は――。

「九十九様はね、人の形は嫌なんだそうです。だから、巫女代わりにと僕を作らせました。炎の妖が本来の姿で蘇る……その為のお膳立てをする。それが僕の役割です。奪われた一族の毛皮、それを"肉"にして、九十九様は蘇るんだ」

 キクイチロウは恐怖に震え上がった。
 妖狐九十九が蘇る。実体を持って。今度は村の田の一部が燃える程度では済むまい。そんな予感の雲が湧き立った。ああ、だから捕まえるべきだったのだ。警報が鳴ったあの時に。
 キクイチロウは確信した。やはり数日前に別殿に侵入したのはこの男なのだ。宝の毛皮、それを手にするのが目的だったに違いない。
 だが、身体の自由を奪われ、戦う力をも奪われた老人には何もなすすべが無かった。

「狂っておる……狂っておる」

 そんな言葉を吐き出すのが精一杯だった。
 ナナクサはそんな老人に構うことなく立ち上がる。
 手には無数の札、いつの間にかそれらすべてに古代文字が書き連ねられていた。

「毛皮を集めて」

 青年はコノハナ達に指示をくだした。
 小人達が散っていき、そしてまた戻ってきた。
 九尾の毛皮に六尾の毛皮それを手に携えて。
 ぞんざいな扱いはしなかった。あくまで敬意を持って、丁重にそれらは扱われた。
 ナナクサの目の前に、かつてこの地を駆けた者達の、その毛皮が折り重なって積まれていった。
 血で書いた札を見つめ、ナナクサが言った。

「僕の血は"つなぎ"なのです。あとは各々に役割を与えてやればいい」
 
 最後の一枚が積まれる。
 そっと手を触れ、感触を確かめた。

「可哀想に……ずっとずっとこんな姿で吊るされ続けていたんだね。でももう終わり。今日で全部終わるから」

 ナナクサは持っていた札の中から、一つを引き出した。
 一番上の毛皮に触れる。

「まずは君だ。君は左の前足になる」

 そう言って、裏側が見えるようにして持ち上げた。
 左の前足、それが古代の文字で記された札を貼るつもりだった。
 だが、毛皮を裏側に翻したその時に、ナナクサの顔色が変わった。

「……っ、どうして……」

 その顔は驚きの色に彩られていた。
 それに驚いたコノハナや天狗、そしてキクイチロウの視線が、毛皮に注がれた。

「なぜ、一体誰が」

 翻された毛皮の裏側。
 そこには既に別の札が貼られていた。





 九尾達は走った。もはや一刻の猶予も許されなかった。
 一箇所に留まるのは危険だった。
 血の匂いにつられてまたあの魚達が集まってくるだろう。
 農道の左右にはどこまでも水田。自分たちは自ら敵の懐に飛び込んでしまったのだ。
 田や用水路が増水して、彼らの独壇場。水の中に引き込まれればすべてが終わる。
 もはや彼らが追いつけないよう走るしか道はなかった。

(早く、早く父上の下へ。石舞台へ急がねば……)

 だが、地はぬかるみ、滑り、雨は熱を奪ってゆく。
 そうして彼らに追い討ちをかける者達が現われた。
 陸地に上がることの出来る敵だった。
 その身体は魚のようでもあり、獣のようでもあった。
 後ろ足や前足は血を駆けるようにはできていない。水を泳ぎまわる為のものだった。
 だがその顔は魚のそれというよりは、自分達に近いものがあった。顔の左右には立派な髭を蓄えている。
 その海獣達は農道にゆっくりとした動作で上がると、九尾達の進路を塞いでしまった。
 シラヌイが吼え、威嚇をする。だが、彼らが退散する様子は無い。
 九尾は炎を吐いた。
 普段もっぱらそれは威嚇に使われるものだった。力を持つ獣達とて無駄な殺生は好まない。
 しかし、この時ばかり手加減をしなかった。やらなければこちらが殺されるのだ。
 だが、激しく降る雨が射程に届く前に炎の威力を半減させる。
 さらに驚くべきは陸の海獣達が炎に当てられても涼しい顔をしていることだった。
 もともと水の力を持つ者に炎の力は通じにくい。が、それ以上の何かが海獣達に働いているように思われた。
 海獣達が攻撃に転じた。
 冷気を吐き出す。雨粒が氷の礫に変じ、九尾達を襲った。

「ぎゃう!」

 シラヌイの後方で、悲痛な叫びが聞こえた。
 足止めを喰らっているうちに先ほどの魚達が集まってきていた。
 農道に跳ねた魚が、六尾の後ろ足に喰らいついた。
 赤い口に黄色の棘。毒々しい色の怪魚だった。身を翻し跳ねる。六尾が水の中に引き込まれた。水を掻く音、最期の抵抗。その音は魚が餌に群がる水音で遮られた。
 新たなる犠牲を求め魚達が跳ね、陸上に躍り出る。火の玉が飛び炸裂した。ダキニが跳ね上がる魚を炭にして、煙が立った。
 だが、キリがなかった。
 境界線の無くなった田と用水路。次から次へと赤の黄の棘の魚が泳ぎ集まってくる。
 シラヌイの炎に圧されて、海獣の一頭が水田の中へ退却した。
 だが、一頭いなくなって道が空くわけではない。
 そうしている間にも目に見えて六尾の頭数が減っていった。
 ある者は水に引き込まれ、逃れた者でも傷を負った者から力尽きていった。降り続ける雨は熱を奪われた小さな身体が休むことを許さなかったのだ。

「おのれ。おのれ、おのれぇ……!」

 シラヌイはぎりりと歯軋りした。
 一体何がどうなっているというのだ。
 里に入るには、南か北から入るしかない。
 ならば、この大量の青の獣たちは一体どこから入ってきたというのだ。
 魚はもちろんのこと、歩くことに適さない海獣が山の急斜面を登ることなど不可能である。細い木々が生い茂る中、三つ首の鳥はその中を走ることが出来ず、分け入る者あっても里の上空を飛ぶ燕達に気づかれる。知らせはすぐに里の守護者に伝わるだろう。
 ただひとつはっきりしているのはこの豪雨が彼らの仕業だということだった。
 一介の獣が操れる気象はごく局地的、短期的なものだ。だが、侵略者達はそれを数を投入することで賄った。彼らは里全体に雨を降らせることに成功したのだ。
 そうして、考えはぐるぐると回って結局は同じところにたどり着く。
 では、この獣や魚達はどこからやってきた?
 唯一思い当たるフシがあるとすれば、ウコウと名乗った者が持っていたあの木の実の存在だ。獣を出し入れすることの出来る木の実。この戦にはそれが大きく関わっているような気がした。
 が、考えはそこで遮断されてしまった。
 尾の一本に痛みが走った。
 水面から跳ね上がった魚がシラヌイの尾に喰らいついたのである。

「俺の尾に触れるんじゃねェ!」

 金毛の九尾が咆哮すると、そこを中心に炎と熱風が吹いた。
 喰らいついた魚が、黒こげになって地面に転がった。
 シラヌイは眩暈を起こしながら、荒く息をした。
 やりたくはなかった。たしかに爆発力は相当なものがある。ひどく疲れる上に後の炎の威力が弱まってしまう。ここ一番で使うべき技だった。
 唯一幸いだったのは、海獣達が水中に退却したことだった。これで先に進める。

「走れ!」

 シラヌイとダキニは目に見えて減ってしまった六尾達を伴い走った。
 だが、その速さは先程よりも勢いの無いものだった。
 消耗していたのはシラヌイだけではなかった。
 ダキニも、生き残った六尾達も降り続ける雨と魚の猛攻に明らかに体力を削られていることがその足取りから判断できた。
 早く。早く父に、九十九に合流しなければ、いずれ全滅する。
 だが天は彼らに味方をしなかった。
 農道を塞ぐように一際大きな海獣が立ちはだかった。
 先ほどの髭の海獣の一周りも二周りも大きな身体、口には肥大した二本の牙。
 シラヌイ達はまたしても足止めを食ってしまう。
 おそらくは六尾に対する九尾と同じ。先ほどの髭の海獣の上位種にあたる獣。
 二つ牙の海獣が吼える。強力な冷気が放たれて雨が巨大な氷球に変質し、落ちてきた。
 シラヌイとダキニはそれをかわし、ありったけの炎を放つ。
 だが、海獣は動きを止めるだけで、その場を明け渡す様子は見られなかった。
 髭獣の時と同じだ、とシラヌイは思う。
 魚の息の根を止められても、海獣に決定打を与えることが出来ない。おそらくは海獣の蓄えた冷たい水にも耐える分厚い脂肪が炎からをもその身を守っているのだ。
 またしても魚達が集まってくる。六尾達との小競り合いが始まった。
 そんな彼らに追い討ちをかけるように、声が響いた。

「いたぞ! 狐共だ!」

 それは人間の声だった。だが、里の者の声ではない。
 それは青の追っ手がついに自分達に追いついてきたことを物語っていた。
 あの場を離れた時からそれは決まっていたことだった。が、シラヌイは慙愧に耐えぬ想いをかみ締めた。とうとう里の中によそ者の侵入を許してしまった。それが耐えられなかった。
 三つ首の鳥に乗った男達が幾人か、木の実から噛付犬を繰り出した。
 既に進むしか無い、引き返せぬ道ではあった。
 だが囲まれた事は彼らにこの上の無い精神的負荷を与えた。
 前方には海獣、後方には人と噛付犬。左右に逃れようにも増水した田に血に植えた怪魚達が満ちている。
 逃げ場は無い。

(畜生! ここで、こんな場所で果てるのか。こんな場所で!)

 シラヌイが死を覚悟したその時だった。
 爆音と共に猛火が道を走り抜けた。
 まず最初に巻き込まれたのは海獣だった。今まで炎の技に涼しい顔していた海獣はその熱量に悲鳴を上げた。
 運悪く、陸地に向かって跳ねていた魚の身体は焼かれ地に、あるいは水の中に落ちた。
 間を置かずに犬達が巻き込まれる。炎をまともに浴び断末魔の声を上げ絶命するもの、水に飛び込んでなんとか難を逃れた者もいた。
 その場にいた男達と三つ首鳥も同じ運命を辿った。
 無傷でその場に残ったのは炎の力を持ち、その熱から力を得ることの出来る狐達のみだった。
 化け物だ。炎が消えた後、後方にいて難を逃れた青の男はその主の姿を身、震え上がった。
 雨がその主の身体に当たると、湯気になって立ち上る。
 道のその先に銀毛の九尾が立っていた。
 血のような赤い瞳が怒りに燃えている。

「妖狐九十九……!」
「父上……!」

 各々が各々の思いと共にその者の名を口にした。








(十九) 了


  [No.159] たまには語る 投稿者:No.017   投稿日:2011/01/02(Sun) 19:46:29   33clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

No.017です。
たまには語ります。

実は九十九様復活シーンはすでに書いているのですが、
ナナクサ君の昔語りと独白がやたら長いわ、
今やすっかり九十九様より息子シラヌイのほうがでしゃばっている古代編の尺がこれまた長いわで、
入れてたら軽く50k越えやがったので、次の話に持ち越しとなりました。

思えば2年くらい前に始めて、途中大きく中断し、再開したものの、作者がものぐさな為に書いてはサボり、書いてはサボり……
あんなことしたりこんなことしたり……で、だらだら書いていた「野の火」でごさいますが、いよいよクライマックスです。
今想定している通りにことが進めば、(二壱)伸びても(二弐)で完結となる見通しです。

ツッキーことツキミヤ君と九十九様、ナナクサ君にヒスイ、タマエおばあちゃん、
そして現代や六十五年前、古代に生きている皆々様にもう少しだけお付き合いいただければ幸いです。


2010年12月31日 23時のちょっと前
おせちの食材を買出しに中華街なう の No.017


  [No.231] (二十) (冒頭部のみ) 投稿者:No.017   投稿日:2011/03/17(Thu) 08:35:53   62clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

(二十)


「一体、誰が……」

 ナナクサは困惑を口にした。
 神降ろしの儀。
 それは秘術、禁術の類である。
 一介の人間が見様見真似で出来ることでは無く、またそれを識る者が現代にいるのかも定かでは無かった。
 仮に名を識るものがいるとしよう。だが、よほどその道に通じている者でなければ。人の世の外を歩いているような蛇の道をゆく人間でなければ、儀式を実行することは出来ない。
 そんな者がこの村にいるだろうか、とナナクサは思う。

「ありえない。一体いつ入りこんで、こんな……」

 別殿はセキュリティに守られている。
 下手に侵入を試みれば警報が鳴る。だからこそキクイチロウを捕まえて鍵を開いたのだ。
 何よりナナクサを驚愕させたのは張られた札の記述の正確さと材料だった。
 自身の血に類する何かで正確に記述された神文。
 こんな芸当をやってのける者がこの村の中にいる――いるのだろうか。
 すると、キクイチロウが言った。

「お前がいなくなった前の夜、ここの警報が鳴った。あれはお前ではないのか」

 何日か前に鳴った警報。
 おそらく札を貼られたのはその時だ。
 キクイチロウはずっとナナクサを疑っていた。いや、ナナクサだろうと信じて疑わなかった。

「違う。僕じゃない。僕はずっと山にいた」

 そう弁解をするとキクイチロウが吼えた。

「お前でないなら誰だと言うんだ! お前のほかに九十九を復活させたい者がいるとでも言うのか!」
「それは、」

 ナナクサは言葉に詰まった。
 だが、すぐ次の瞬間に理解した。
 いる。いるではないか。九十九を復活させたい者――雨降の敗北を望む者が。
 ずっとずっといたではないか。
 自身が丸め込んだ今年の九十九に挑んだ、明確な目的をもって九十九になろうとした者が。

「ハハ……そうか。『あいつ』か」

 準備がいいものだ、とナナクサは苦笑した。
 そうだ、あの男は最初から誰をも頼ってはいなかったのだ。
 たまたま利害が一致しただけ。もとより一人で事を起こすつもりだったのだ。
 自身が"儀式"をこなす。ツキミヤコウスケが"舞台"をこなす。
 だが『あいつ』は儀式も舞台も一人でやろうとしていたのだ。

「やられた、やられたよ。本当に、敵に回さなくてよかった」

 目的は定かでない。あの男が何のために妖狐の復活を望むのか。
 ただひとつはっきりしていること。それは不本意ながらも手間が省けたらしい、ということだった。

「そこの畳を剥がしてくれないか」

 コノハナにナナクサは指示を下す。
 小人が二、三匹、畳に手をかけた。畳が二枚、三枚と引き剥がされてゆく。
 そこに現われたものを見て、ナナクサは困惑と喜びが混じった笑みを浮かべた。
 畳の下には札と同じ古代文字で描かれた円陣のような文様が記述されていた。
 
「完璧だ。完璧だよ、ヒスイ」

 参ったなという具合でナナクサは唸った。

「まったく、僕の立場がないじゃないか」

 そうして、すずりに残った黒い血を太い筆で吸い取り、付け足すようにして追加の記述を行った。
 しかしそれは、あえていうならば、こう記述する程度のものであった。
 余計な衝撃が外に漏れないようにする程度のもの。押さえるべきポイントは押さえられている。堰を切れば間違いなく動き出すだろう。

「ふむ。これでいい」

 彼は円陣の外側にさらさらと記述を書き足すと、木の実をひとつ、コノハナから受け取って術の中心に据えた。
 その直ぐ後だった。円陣の文字がまるで熱を宿した炭のように赤く、赤く輝きだした。
 にわかに別殿の中が熱を帯びはじめた。

「……始まった」

 赤い紅い炎の輝き。
 その光が足元からナナクサの顔を照らし、揺らめいた。




 石舞台を松明が照らし、翁の面と狐の面が対峙している。

「雨の神を名乗りし者よ。うぬに問いたきことあり」

 脚本(ほん)にはないその台詞に、舞台を知る多くの村人はざわめいた。
 どういうことだ、何かが違う、どうなっている、と。
 あるものは目配せして、隣の反応を見たが、隣の反応のまた似たようなものだった。
 今年から演出が変わったのだろうか?
 なかにはそのように考える者もいて舞台演出のほうを見たが、彼女もまた困惑の表情を浮かべていた。
 面に隠された役者の表情は伺えない。
 脚本に無い台詞を吐いた狐の面からも、またそれを受けた翁の面からもそれを読み取ることが出来ないことが彼らの困惑を一層深める一因となった。
 狐面は続ける。

「この土地の者は、何ゆえに雨を求める?」

 村人はその問いに少し安堵した。
 それは至極当たり前の問いであり、アドリブの一部であるように思われたからだ。
 
「至極当然の事。田の稲穂育くみしは、田を満たす水なり。故にこの土地にありし者、雨を求めたり」

 即座に翁面が返した。
 とっさのアドリブだったが、それは彼にとって至極当たり前の答えだった。
 だが、妖狐は嗤った。その答えを嘲笑った。

「奇しき事を申す。我、貴殿より旧き時よりこの地に在りし。しかれども、この地の田、水を得るに雨を求めたことは無し。見よ」

 狐面は扇である方向を指した。

「この地には旧くから、水湛えた河流れ、土地潤したり」

 扇の指したその方向は河だった。
 岸辺近くに穴守家が料理を振舞った長屋のある、あの河。
 かつてシュウイチやタマエが共に魚を獲ったという河。
 六十五年前、野の火が現れたその時にシュウイチが村人達に石を投げられたのもこの河だった。

「この地の者共、かの水を田に引き稲穂育みたり」

 妖狐が続ける。
 特訓の為に移動する時は決まって、ナナクサがこの土地のことを語ってきかせてきた。村を流れる河のこともその話題の一つだった。
 ナナクサは上流のほうを仰ぎ見て語っていた。
 村を囲う山々。それらが水を蓄え、この河に水を注ぎ込んでいる。特に重要なのはここから山一つ越えたところにある森だ。古の木々が根を降ろす森。この土地より高い場所に位置するその森に河の始まりがある。森から始まった小川はやがて川となり、険しい山の斜面の分け目から姿を現す頃には河となって、この土地に流れ着く。

「この地を流れし河、この地を見下ろす山々の蓄えし水なり」

 河が血管だとするならば森はその心臓部。たとえ――

「たとえ雨降らぬ年にも枯れることはなかりけり」

 妖狐の声が舞台に響き渡った。
 それは雨の神の存在意義に関わる問いだった。
 元来、水が豊かな地で雨の神にすがる必要は無い。妖狐はそう云ったのだ。
 偽物とはいえ、よく出来た脚本だ。面の内側で青年は思う。そうして狭い視界の向こう側にある翁の面の表情を伺った。

「戯言を! 豊かなるこの地に悪しき火を撒き散らす。それが貴様だ」

 翁の面はそう言ってすぐに切り替えした。
 その声は怒りであるとか動揺のようなもので震えているように聞こえた。

「我、悪しき火より田を守らん。我が雨の存在理由そこにあり」

 来た。青年は心中で呟いた。
 それこそが望んでいた台詞だった。

「雨の神よ。あいわかった」

 この年の九十九は言った。
 炎のゆらめきで、狐面が笑ったように見えた。

「ならば守ってみせよ。そなたが悪しき火というものから、見事、田を守ってみせよ。我とそなたと、真剣勝負といたそうぞ!」

 ざわりとどよめきが起こった。

「真剣、勝負……?」
「左様なり」

 雨の神に狐は即答する。

「我、祭の数だけの戯れを繰り返したり。我が炎、雨に勝てぬは脚本(ほん)故なり。我が意に背きその脚本(ほん)をなぞりたるが故なり。我が敗北、我が意に背きし結果なり」

 妖狐は云った。あえて云ってはならぬことを。
 つまり、いつも負けているのは脚本のト書きに仕方なく従っているだけだ、と云っているのだ。貴様を勝たせてやっているのだ、と。
 それは暗黙の了解。誰もが知っているが口にはしない決まりごと。

「聞け! 我が意思、我が言葉は操り人の筋を通したるが故なり! 我、炎の操り人の内より、今年の九十九となりし。ならばこそ我、水の操り人より選ばれし者と勝負欲すなり。我、操り人の筋を通したり!」

 それは悪意を持った明らかな挑発だった。
 だが……

(手遅れだ)

 翁の面のその内側でトウイチロウは歯噛みした。
 今年の九十九は何かが違う。何かを仕掛けてくる。
 そんな予感を祖父は口にしていたし、トウイチロウ自身にも何か感じるところがあった。そしてその予感は、今まさに眼前にて現実となった。
 これは脚本を無視した無茶苦茶な主張だ。そんなことは言葉を発した九十九本人も分かっているだろう。だからこそ、新たな価値観を九十九は舞台に持ち込んだ。役者という基準でなく、操り人として、ポケモントレーナーとしての価値観を持ち込んだのだ。操り人として試合をさせてくれ。結果の決まった戯れではなく、本当の勝負を、と。
 無論、こんなことは許されない。許されていいはずが無い。だが……

(手遅れだ。もはや道理を通しても、神の顔は立たぬ……!)

 言霊は放たれてしまった。言葉が放たれ耳に届いた時に、それは舞台の台詞となった。妖狐の言葉が音となって届いたその時に、そこには力が宿った。
 狭い視界の向こうで狐面の裂けた口が嗤っている。出方を伺っていた。
 脚本の記述に従えという道理。それは当然の主張と要求。
 けれどそれを口にしてしまったら、舞台は壊れる。雨の神の面目と神性は失われるだろう。
 村人のプライドとして、長の孫として、あるいは舞台の一員として、何よりも雨降として。
 それは避けなければならなかった。

「よかろう!」

 雨の神は応えた。またどよめきが起こった。

「我、数多の水の操り人より勝ち上がり、今年の神となりし。同様に貴殿、炎の操り人の内より勝ち出でて、今年の九十九となりし。ならば勝ち上がった者同士、ここで雌雄決するもまた筋なり!」

 キクイチロウは続けざまにそう言った。
 舞台の主役が応えることで、舞台の行き先は固まった。

(手遅れだが、手遅れではない。むしろ……)

 演技でない勝負を受ける。そう決意を固めた時に妙な冷静さがキクイチロウの中に戻ってきた。ようするに勝てばいい。勝てばすべてが元通りなのだ。
 いや、むしろ真剣勝負で勝利すれば、神の神性と説得力は一層強まるに違いない。お堅い村の長老達にも、すべては今年の演出だったと説明すればいい。彼は自分にそう言い聞かせると、徐々に九十九との距離をとった。九十九が呼応して、それに習った。
 それが合図だった。

「カメジロー!」
「カゲボウズ!」

 上手下手に分かれた雨降と九十九は、まるで初めから示し合わせていたかのように互いの相棒の名を呼んだ。
 舞台の中央に、二本の砲台を背負う大きな亀、そして小さな闇色の人形ポケモンが躍り出た。










(とりあえずここまで)
(現代パートのバトルまで終わりましたが、途中が埋まってないのでとりあえずここまで)

また原稿があるのでしばらく潜ります(