夕焼けに燃える砂浜を、一人の少年が走っていた。
波打ち際に向けて真っ直ぐに刻まれる、一筋の足跡。ただ一心に赤い海を見つめて走り続けるその少年の胸には、一匹のポケモンが抱かれていた。
抱かれているポケモンは、抱えている少年の手元で暴れるような事も無く、ただその大きく澄んだ瞳で、自らを連れ去った人間の思い詰めた表情を、不思議そうに見上げている。
やがて少年は波打ち際に辿り着くと、蛇のような形状をしたそのポケモンを足元に下ろし、自らもしゃがみ込むと、そっと別れの言葉を告げた。
――尚も少年を見上げたまま、その場を動こうとしないポケモンに向けて、彼は更に言葉を続ける。
「早く行きな。お前は、もう自由なんだ」
それを聞いたポケモンが小さく鳴き声を上げて応じ、オレンジ色に染まる海へと泳ぎ出して行くのを、少年はその姿が見えなくなるまで、ただじっと見守っていた――
――あれを見たのは、あの赤い砂浜での別れから、丁度15年後の事だった。
あの時、嵐の海で起こった出来事。……その時に見た光景を、僕は生涯、忘れる事は無いだろう――
[竜の舞]
海は時化ていた。
既に黄昏時を過ぎた暗黒の空は、無数の稲妻によって随時切り裂かれ、絶えず目まぐるしく変転する水面は、泡立った波頭を霧の幕として宙に打ち上げ、まるで霞か靄がかかっているかの様に、視界を妨げている。
踊り狂う数知れぬ雷光は剣となって、厚い雲の幕を舞台に激しく切り結び、大波が荒れ狂う様は、まるで目に見えない巨人か何かが、思いっきりこの広い海原に手を突っ込んで、遮二無二かき回しているかが如き凄まじさだった。
そんな中、逆巻く大波が形作る起伏の合間で、壊れたドアにしがみ付いた一人の男が、己の身に降り掛かった災厄を何とか乗り切ろうと、死力を尽くしていた。
乗船を失い、海に投げ出されたらしいその人物は、襲い来る自然の猛威に打ちのめされながらも眦を決し、新たな波が襲い掛かる度に、真正面からそれに立ち向かう。
風の唸りが。奔り行く雲が。空を翔る雷鳴が冷然と見守る中、孤独な青年の生への格闘は、更にそれからもずっと、何時果てるとも無く続いた――
僕がその船に乗る事になった理由は、至極単純なものだった。……ただ暮らしの上での出費が増えて、纏まった額の生活費が、入用になっただけである。
丁度半年前、長女を授かったばかりだった僕には、経営難でリストラされた商社に代わる仕事場を、早急に見つけ出す必要があった。
職業安定所に足繁く通うそんな僕を拾ってくれたのは、偶々船員の募集案内を届けに来ていた、延縄漁船の船長であった。彼の出した労務条件を、船上作業の経験があった僕は一も二も無く呑み下し、その場で契約は成立した。
慌しく手続きを終え、見送る妻には努めて軽い口調で別れを告げて、さりげなく家を出て行った時。……その時はまだ、僕の頭の中には、これから洋上で過ごす数日間に対する不安など、何一つ生まれてはいなかった。
異変の兆候に気が付いたのは、アンテナの点検の為に、マストに登った時であった。……偶々耳に入って来た、遠い遥か上空を吹き行く風の音が、凄まじいばかりに荒れ始めていたのだ。
僕は慌ててそこから滑り降り、その容易ならざる事態を船長や同僚達に告げたが、誰も相手にしてはくれなかった。――当然だろう。全員がつい先程の朝食の時に、ラジオから天候変化の予測を、耳にしたばかりであったのだ。
それによると、観測史上でも稀な規模の巨大台風は、僕らのいる海域を大きく逸れて、西の海上を突っ走る事になっていた。上陸の可能性がある本土や母港はともかく、大洋の真ん中に位置するこの船に被害が及ぶ可能性など、その時点では全く有り得ないだろうと断言する事が出来た。
『嵐の前には、決まって豊漁となる』――それは、この辺りの漁師であれば、誰もが知っている事実でもあった。
しかし、僕の不安は去らなかった。……遥か上空を流れる気流の声を読み取り、先の天候を当てる術――それは、もう既に亡くなって久しい祖父が、僕に対して幼い頃より折に触れて、みっちりと教え込んで来たものであったからだ。
毎年海が荒れる度に、数日前よりそれをぴたりと言い当て続けてきた老人は、稲妻の音に怯える幼い孫を、タバコと潮の臭いが染み付いたその胸に抱き寄せて共に眠り、嵐が過ぎ去った朝焼けの時間に起き出しては、手を繋いで傍らに寄り添う僕に向けて、口癖の様にこう呟いたものであった。
「海の声を、何時もよく聞いておけ。……さもないと、例え何かが起こって後悔したとしても、後の祭りじゃ。後から何を考え、誰に何を問おうとも、ただそこに海があるだけなんじゃから」
――祖父がそんな言葉を使う切っ掛けとなった出来事を、僕は今でも、鮮明に覚えている。
祖母が海に出て、帰って来なかった日。孫である僕の入学式に合わせるべく、ランドセルを買う為に遠方まで素潜り漁に出かけて行った祖母は、急に勢力を拡大した熱帯低気圧の北上に巻き込まれ、夜通し待っていた家族達の祈りも虚しく、遂に戻って来る事は無かった。
夜が明けた後にはいなくなっていた、優しい祖母。いつもなら仏壇の前に座っていて、起きて来た自分に優しく声を掛けてくれた祖母の不在に、当時幼かった僕は泣きながら、どうしていなくなってしまったのかと、周囲に向けて尋ね続けていた。
誰もが曖昧な返事を返す中、最も祖母のことを愛していた祖父だけが、ただ一言答えをくれた。
『答えなんて無い』のだと―― どれだけ理由を尋ねてみても、誰にも答えられない。ただそこに、海があるだけなのだと……
そして、嵐の海で最愛の妻を失って以来――祖父は何れ海に出て行く事になるであろう自分の孫に向けて、自らの持っている限りの知識を、遺し置いてくれたのだ。
そんな祖父の薫陶を受け続けてきた僕には、他の船員達が聞き取れないような、遥か上空での風の唸りが、手に取るように分かった。
そして予想通り、夕暮れが近付くに従ってどんどん雲の流れが速まって――やがて翌日の太陽が西の水平線に沈む頃には、空には嵐の予兆が、この上も無くはっきりと、浮かび上がって来ていた。
――漸くその頃になって、ラジオの放送や港の無線基地からは、周辺海域の船舶への避難勧告が、狂ったように連発され始めはしたものの、最早既に、急速に勢力を拡大した低気圧の大渦から逃れる術は、僕らには何一つ残ってはいなかった。
それからの数時間は、文字通り地獄の様な有様であった。
小さな近海用延縄漁船は、まるで鋸の目に沿って引かれて行く様に、海と風が作り上げた急峻な山と谷に、存分に弄ばれる。
十メートル以上の落差が齎す衝撃によって、羅針盤や無線機等が次々と破壊されて行き、最後の頼みの綱であった操舵装置が故障した所で、船上に集う僕達の望みは、全て絶たれた。……最早この上は、最後に交信が繋がった、海上保安庁所属の大型巡視船の救援を信じて、身に付けたライフジャケットと手持ちのポケモン達を頼りに、嵐の海に体一つで飛び込んでいくしか、道は残されていなかった。
海に慣れたベテラン達が、この様な事態に備えて予め用意していたモンスターボールを片手に、次々と甲板から身を躍らせていく中――その後を追おうとしていた僕は、いきなり襲って来た身を切るような風圧に、思わず首をすくめる。
続いて耳を打った轟音と悲鳴に、咄嗟に振り向いた僕の目に飛び込んできたのは、暴風に遂に耐え切れず、無残に圧し折られたマストと、倒れて来た太い鉄の支柱に片足を潰された、船長の姿であった。
――もしもその時、下敷きになっていたのが別の船員だったのなら、僕はそのまま背中を向けて、海に飛び込む道を選択したに違いない。それ位に、状況は切羽詰っていた。
しかし、その時の僕には、それが出来なかった。……前の晩、恩人でもある船長が見せてくれた、一枚の写真――それが唐突に頭の中に、鮮明な形で甦って来てしまっていたから。
二人きりの当直時、偶々家族に話題が及んだ時に見せてくれたそれには、船長を真ん中に6人の家族が、仲良く寄り添って映っていた。
穏やかな表情の船長夫妻の周りには、思い思いの格好をした、4人の子供達。――その内一番小さな、まだ4歳ぐらいに見える女の子は、可愛らしいヒメグマの縫い包みを胸に抱いて、無邪気に笑っていた。
……今この瞬間、一体お父さんの身に、何が起こっているのかも知らないままに。
その写真の中に映っていた人々と、昔実家の仏壇に置かれていた、あの祖母の遺影とが瞼の裏で重なった時、僕の運命は決まった。
片手に握り締めていた一つだけのモンスターボールを、船縁の向こうではなく甲板に向けて放り投げると、中から出て来た逞しいオタマポケモンに、叫ぶように指示を飛ばす。
太い腕を鉄の支柱にかけ、渾身の力を込めるニョロボンに合わせ、僕自身も揺れ動く甲板を必死に蹴って走り寄り、微かに浮き上がったマストの下から、船長の体を引っ張り出した。次いでそのまま、歯を食い縛って痛みに耐える船長の体をニョロボンに預け、躊躇うオタマポケモンの背中を蹴飛ばすようにして、海に追いやる。
……そこで、タイムアップとなった。間髪を入れず襲い掛かってきた大波に、小型漁船は一溜まりも無く覆されて、甲板上にあった全てのものを、深海に向けてぶちまけたのだ。
僕はそのまま海に投げ出されるも、無我夢中で水を掻いて水面に浮上して、偶々身近に浮かんできた操舵室のドアを両手で抱え、何とか身を任せる物を確保する。……しかし、それは同時に、長い悪夢の始まりでもあった。
やがて、それから数時間も経った頃――僕は息も絶え絶えの状態で、奇妙に勢いを収めた暗黒の海に、亡霊の様に浮かんでいた。
空を見上げると、上空の黒雲の海がそこだけ綺麗に途切れて、朧げながらに月明かりも見える。……どうやら台風の目の中に、迷い込んだらしかった。
束の間の安堵と共に、そのままぐったりと材木に頬を付け、波のうねりに身を任せている内――ふと体を捻った拍子に、胸元のポケットから、一枚の美しい貝殻が、板切れの上に零れ落ちて来た。……それは、出漁中に一度燃料補給の為に寄港した三ノ島の砂浜で、幼い娘への土産にしようと、拾い上げたものだった。
瞼の裏に蘇って来る、家族や友達の、顔・顔・顔……
貝殻をじっと見つめている内、不意に僕の心の中に、抑え切れないほどの感情の波が、洪水の様に溢れかえった。
――死にたくない。……まだ、死にたくはなかった。
板切れにしがみ付いたまま、僕は全身で泣いた。
やり切れない寂しさと哀しみに咽びつつ、家に待つ家族の幻を掻き抱きながら、茫漠たる宵い砂漠の真っ只中で、ただ独りきり。
海水で爛れ、疲れ切った涙腺からは、最早一滴の涙も零れては来ない。……しかしそれでも、泣かずには居られなかった。
――誰かに聞いて貰いたかった。訴えたかった。こんな孤独な境遇で、たった独りで死んで行かなければならない人間の、何処にも持って行きようの無い、悲痛な胸の内を――
僕は今までずっと、全身全霊の全てを込めて、時化の海と戦い続けて来た。……もう一度。もう一度だけでも家族の元へ帰りたいと言う、その一心で。
しかし現実には、僕は既に力尽きようとしているにも拘らず、嵐はまだ全体の半分が経過したのみで、依然小さな僕をその渦中に取り込んだまま、衰えもせずに荒れ狂っている。……結局自分には、嘗て帰って来れなかった祖母と同じく、家に待つ家族の必死の祈りも届かない大洋の真ん中で、独り煙の様に消えていく運命しか、許されてはいなかったのだ。
漸く生活も軌道に乗り、待望の子宝にも恵まれたばかりだと言うのに、非情な運命は僕の手から、全てのものを奪い去ってしまった。最早限界に近付いていた僕の体では、この先に待ち構えている更なる脅威を乗り越える事なんて、出来よう筈がなかった。
「何故こんな目に――?」
「どうしてこんな事ばかり――?」
「何でこうならなければならない――?」
叫んでもすすり泣いても、何も返っては来ない。……海も風も雲も、ただただ黒々と周りを取り巻いているだけで、僕の必死の問いかけに答えをくれる様な気色は、微塵も無かった。
やがて、再び波風が唸り始めた。
既に精根尽き果てていた僕には、先程までの様に波の動きに合わせる事も最早叶わず、ただ身を任せている板切れに、全身でしがみ付いている事しか出来なかった。
波頭に擦られた両腕は徐々に感覚を失っていき、板切れに押し付けている両膝は、水圧に揺す振られる度に激痛が走る。
絶えず襲い掛かってくる衝撃に、秒刻みで消耗していきながらも、僕は最後の意地だけで、抱え込んだ板切れを、手離そうとはしなかった。――自らの運命に対する強い反発が、ボロボロになってゆく一方の僕の心と体に、激しく鞭を打ち続けていたから。
……もう、何も感じなかった。
――それから更に、どれ位の時間が経っただろうか?
全身を強張らせ、抱え込んでいる板切れと一体化していた僕は、何時の間にか体を叩き続けていた激浪の圧力が、消え去っている事に気がついた。
次いで恐る恐る顔を上げてみた僕の目に映ったのは、嘘の様に静まり返っている深夜の海原と、直ぐ鼻先の水面に反射している、朧げな月明かりだった。
咄嗟には、一体自分がどうなっているのか、さっぱり分からなかった。先程まで確かに自分は、荒れ狂う嵐の真っ只中で、木の葉の様に翻弄されていた筈だったのに――
けれども、次いで上半身を起そうとした所で、僕は全身を貫く様な凄まじい激痛に、思わず天を仰いで悲鳴を上げた。……後で分かった事だが、その時の僕の両肘と膝上の皮膚は、激しい波との摩擦によって擦り切れ、削り取られてしまっていたのだ。
しかし、次の瞬間――焦点の定まらぬ両の目の中に飛び込んで来たその光景は、僕の意識の内から苦悶と絶叫の全てを、一瞬にして奪い去ってしまった。
空が、切り取られていた。
振り仰いだ空は輝く程に晴れ渡っており、嵐の真っ只中であるにも拘らず、そこには十六夜の月光が満々ていた。煌く無限の星々は、まるで銀粉をばら撒いた様に、闇のキャンバスにクッキリと浮かび出ている。……しかし、綺麗に晴れ上がっているのは限られた範囲の中だけであり、僕が今いる位置からずっと離れた空の上には、まだしっかりと黒雲が犇き、稲光が常時そこに亀裂を生んで、厚い雲のスクリーンに、幾つもの幾何学模様を描いていた。
そして、そのフレーム状の星空の下――幾匹ものポケモンの影が、まるで星屑の海を横切って行く流星の様に、思い思いの軌道を描きながら、所狭しと飛び回っている。空を行くその大柄なポケモンを、僕は知識としては知っていたものの、実際にこの目で見るのは、初めての事であった。
『カイリュー』――ドラゴンポケモン。人間に匹敵する知能を有し、その強大な力から『破壊の神の化身』とも称される、水と風を操る竜。
極めて高い能力を持ちながらも、その性質は非常に温厚であり、嵐を切り裂いて難破船を導くその姿から、古代より船乗り達に『海の化身』として崇められた、蒼海の守り神。……反面、その生息数は極めて限られており、未だに詳しい生態や生息状況は全く知られていない、未知のポケモン。
その道の専門家達ですら、生涯に一度出会えるかどうかと言う――そんな彼らが、呆然と空を見上げている僕のその視線の先で、今数え切れない程に交錯し、飛び交っている。星空をバックに、月の光の中で輪を描きつつ、軽やかに舞い続けているドラゴン達の数は、少なくとも二十に余った。
するとその内、不意に新しく中央に躍り出てきた竜達の内一匹が、唐突に向きを変えたと見るや、一心に夜空の饗宴を見詰めていた僕の方へと、真っ直ぐに降下して来た。
そいつはゆっくりと高度を下げて、最早気力も体力も無く、動けないままでいる僕の正面に近付き、静かにそっと、僕の顔を覗き込んで来る。相手の息遣いに慄きつつも、その曇りの無い眼差しを、身じろぎも出来ぬままにじっと受け止めている内――唐突に僕の脳裏に、不思議な感覚が芽生えた。
僕は、こいつを知っている―― 遥か昔に遭遇したある出来事が、まるでぼやけた陽炎が少しずつ実体を伴って行く様に、ゆっくりと蘇って来始めた。
それは、僕がまだ小学生の頃だった。
石竹の貧しい漁師の家に生まれた僕は、将来に期待をかける両親により、地元の小学校ではなく、遠く離れた玉虫にある、名門校の附属学校に入れられていた。……自身では家業を継ぐ方が好ましいと思い、近所の友達が通う極当たり前の学校へ行きたかったが、身を削るようにして学費を準備している両親には、そんな事は口が裂けても言えなかった。
そしてその通学路―往復の際に必ず通る道には、『ロケットゲームコーナー』と言う、大きな遊戯施設があった。とやかく噂のある店舗ではあったが、最新式のゲーム機器や豪華な景品の数々から、常に活況を呈していた、市内有数の娯楽施設だった。
そいつは、初めて見かけた時からずっと、そのパチンコ店の表通りに面した、ショーウィンドウの中に入れられていた。傍目にも高級感溢れるケースの中で、そいつは何時も哀しそうな表情を浮かべて俯いており、時折物憂げに首を擡げては、行きかう人の波や車の列には目もくれず、ビルの合間から僅かに覗く、空の切れ端ばかり見上げていた。
僕は初めて見かけた時から、そいつに惹かれた。無機質なケースの中で、ただ望みも無く外の世界を見つめている、哀しげな瞳。……その生気の失せた光の中に、自分が感じているものと同じものを、見出す事になったから。
そして、そんなある日――それは前触れも無しに、突然訪れた。
唐突に暴かれた遊戯場の裏面と、それに続く一連の手入れ。……打ち続く混乱の中、ショーケースに納まっていたポケモンの姿が見えなくなっていた事に気がついた者は、誰もいなかった。
下校途中、現場の有様を目撃した僕は、まるで何かに突き動かされるようにして、現場から少し離れた所にある、小さな人工池にひた走った。
――それから、ものの三十分も経たぬ内……再び自転車を発進させた僕は、ヘドロが溜まる枯れ草の陰で見つけた相手をサドルの上に座らせ、煩雑な町中を一直線に突っ切って、青い海に面した自らの故郷へと、只管にペダルをこいでいた。
途中のゲートを突破する様に駆け抜け、サイクリングロードをトップスピードで下りながら、歓声を送ってくる暴走族やスキンヘッズ達の間を、荒々しい動きですり抜けて――漸く石竹の町に辿り着いた頃には、空は既に茜色に染まり始めており、更に足を伸ばして海岸線まで達した時には、もう太陽が沈みかけていた。
暮れなずんで行く美しい空の下、細長い体を目一杯に伸ばして、橙色に染まる海に向けて泳ぎ去り、消えて行ったそのポケモン。
……そのポケモンの名は、『ミニリュウ』。一時は幻の存在とまで噂された、希少なドラゴンポケモンにして――今僕の目の前に佇んでいる、カイリューの進化前の姿だった。
遠い思い出が蘇って来ると同時に、僕は改めて目の前に浮かんでいるドラゴンポケモンを、信じられない思いの内にも、無意識に見詰め直していた。
……姿も大きさも全く違うし、元よりこの広い海で、一度別れた者同士が再び巡り会う確率など、文字通り無きに等しい。
しかし――目の前のカイリューの、その透き通った瞳を……それを僕は、紛れも無く何処かで、見た覚えがあった。
――最後の別れを告げた時、確かに両の目に焼き付けたもの。時を越えても尚色褪せていないそれは、目の前に佇んでいる相手の双眸に、確かに宿っていた。
元より、呼ぶべき名前すら無かった。
ホンの一時だけ行動を共にした、行きずりの間柄。……それは所詮、仮初めの情の上に成り立っていた、ただの衝動的な行いによって、結ばれた関係に過ぎないのだから。
しかしそれでも、口は自然と言葉を吐いた。
「お前……」
――ただ、一言。ただ一言だけ、限界を超えていた僕の口から、相手に向けて呟きが漏れた。
『オマエ』と呼んでみた。……あの時と同じく、無機質な二人称の中にも、確かな思いを込めて。
――懐かしそうな目で、そいつは僕を見た。
疲れ切った涙腺から、とめどなく涙が零れ始める。
『独りきりではなくなった』――そんな思いが、消耗しきった僕の心を、静かな安らぎで満たしてくれた。
目の前のドラゴンの、大きく円らな、優しい瞳。それをぼやけた目で見詰めながら、僕は気が遠くなっていった。
――薄れ行く意識の中で、誰かに抱き上げられたような気がした。
当てもなく漂っていた時の不安定な感触とは違う、確かな拠り所と、その心地良さ。氷の様に冷え切った体に伝わってくる優しい温もりと、耳元に感じる、絶え間無い生命の鼓動……
自らの身をしっかりと受け止めてくれるものの存在に、僕は心の底から安堵すると共に、そのまま深い闇の底へと、吸い込まれて行った――
次に気が付いた時には、僕はベッドの中に居た。
呆然と何が起きたのか、皆目見当も付かなかった僕に対して、傍らに付き添っていた貨物船の老船医が、事の消息を告げる。……彼の話によると、僕は台風の暴風圏の外を航行していた彼らの船に、大きな流木の上に仰向けに寝転がった状態で、発見されたのだと言う。
話の内容に対し、全く現実感が伴わない中、ただ目を丸くして聞き入っている僕に対し、彼は如何にも不思議だと言う風に、こう締め括った。
「しかし、不思議な話さ…… あんたを拾い上げた場所は、あんた等のフネが沈没した海域からは、考えられない位に離れていた。幾ら嵐の中での出来事とは言え、あそこまで単身吹き流されると言うのは聞いた事が無いと、船長も話しとったぞ?」
その船医の言葉で、僕の頭の中に、最後に見た覚えのある光景が、ありありと蘇って来る。
「一体何があったんだろうな」と、呟く様にして口を閉じた彼の前で、結局僕は何も言えないまま、再び深い眠りの底へと沈んで行った。
――もしも、あれが夢ならば。 もう一度そうする事で、再びあいつに会う事が出来る……そんな気がしていたから――
夢の様に、5年の歳月が流れた。
あの大災害の記憶も既に過去の物となり、幼かった娘は、早くも庭先の闖入者であったスバメと仲良くなって、将来を見据えて入学先を模索する日々が続いている。
命を助ける事になった船長は、あの時自分の命を救ってくれたニョロボンを譲り受けて、片足を失いながらも全国を廻り、気鋭のポケモントレーナーとして名を知られている。
そして僕自身は、今でも海で働いている。
ただし、現在は船長の親戚の好意によって、漁船の雇われ船員からは身を引き、今は朽葉海洋大学の、海洋生物学科の学芸員に名を連ねている。ラプラスやホエルオー、それにカイリューと言った、生息数が限られているポケモン達の生態調査と分布状況の特定が、僕の今の仕事だ。
――あれからずっと海に出続けているけれど、カイリューにはまだ、一度も出会った事は無い。時々周りの連中が言うように、やはりあれは夢だったのかと思えるほどに、彼らの生態や生息域は、未だに謎に包まれている。
何時だって空振りに終わる調査航海に、大学側も決していい顔はしていないものの、その都度他の分野での研究発表で成果を上げて、何とか籍を保ち続けている有様だ。
しかし、それでも僕は、ずっと海(ここ)で生きていくだろう。……この広い海の何処かに、きっとあいつがいる事だけは、確かな事なのだから――
海に国境は無いし、故郷(くに)は違っても大空は一つ。――この広い空の下、僕らは確実に、同じ時間を生きている。
僕らは互いの事を、生涯忘れる事は無いだろう。道程と足跡は違えども、僕らは生きている限り永遠に、人生の喜びと悲しみを、共に分かち合うのだ。……互いが踏ませてくれた新しい地平に、誰にも恥じる事の無い、真っ直ぐな軌跡を見出す為に――
吹き抜けて行く潮風や、寄せては返す波の囁きを感じつつ……ふと僕は、昔よく耳にしたその台詞を、誰にも聞こえないような小さな声で、そっと呟いて見た。
……実はあの後、ホンの束の間の間だけ、夢を見たのだ。
波打ち際へと続く小さな靴跡と、確かに見覚えのある、鮮やかに水平線に沈み行く、美しい夕日。
そしてその沖合いの空を、真っ直ぐ彼方に向けて飛んで行く、角にあの美しい貝殻を飾った、カイリューの姿を――
『ただそこに、海があるだけ……』
――――――――――
御題:【足跡】
足跡三部作の一番手にして、第一回ポケモンストーリーコンテストへの応募作品。
コンテスト版のを微修正した奴です。