少しくすんだ色のワイシャツに袖を通し、襟元を軽く掴んで整えてから彼は食卓に着いた。思わず大きく伸びをしたくなるような朝の日差しに照らされた純白のディッシュからは、芳しい香りを帯びたほんわりとした湯気が立ち上っている。
「今日はあなたの大好きなハムエッグよ」、彼の奥さんはそう言って、「ありがとう」と返す旦那さんのディッシュの脇に銀色のフォークをそっと置いた。
トーストが焼けたことを告げる快音に続いて、トースターがこんがり焼けた小麦色を吐き出す。旦那さんがそれをキャッチするよりも早く、脇で食卓を眺めていたチルタリスが首を伸ばしてそれをくちばしにくわえてしまった。「こら、食べるんじゃない」と彼はチルタリスの頭をわしゃわしゃと撫でる。叱るような言葉に反して、すっかり惚気きった満面の笑顔を浮かべながら。一方の綿鳥はそんなことには少しも頓着せず、さくさくさくと物凄いスピードでトーストをかじっては嚥下していく。
「ちるりも早く朝ごはんにしたかったのよ。それに今朝も今朝とてパン争いに負けるあなたが悪いわ」
洗ってあったフライパンの上にふきんを滑らせつつ、奥さんは上半身を旦那さんの方へと振り向けて笑った。肩の辺りまでこぼれた髪が甘い香りを振りまきながら舞い躍る。ティーカップの湯気の向こう、彼は奥さん以上に「やられたなぁ」とからから笑っていた。チルタリスのちるりはといえば相変わらず頓着もせず、パンカスを散らしながらさくさくさくさくとトーストにかじりついている。
今朝は目覚めがよかった。彼はふと思いつつ、愛妻のお手製ハムエッグをフォークに刺しては口に運ぶ。つんとした塩コショウの程よい風味が口の中に広がり、半熟に焼かれた卵の黄身がとろりと舌の上へこぼれ落ちる。彼は「目玉焼きには塩コショウ派」だ。愛しの妻はそれをよく分かってくれていた。ほくほく顔で朝食をほおばる旦那さんに、彼の様子を黙って見つめていた奥さんの表情もほころぶ。ちるりは首を伸ばして、自分には与えられていないハムエッグ――ちるりの朝食は普段はもう少し遅いのである――を羨ましそうに眺めていた。
「……ねぇ、ところで今日のお仕事だけど、電車とバスで行ったほうがいいんじゃないかしら?」
唐突に、首をかすかに傾げつつ奥さんは切り出した。流れ落ちシンクを打っていた水流の音が掻き消えた。
何で、と彼は左手で口元を覆いながら返す。右手にしていたフォークをディッシュの上に横たわらせてから。
「今日は風が強いって、天気予報で言ってたの。進みづらいだろうし、服も髪もぐしゃぐしゃになっちゃうだろうし……」
「いや、それなら構わないな。予定通りに出かけるよ」
パン争いの話題を口にしていたときとは打って変わって、どことなく不安げな表情の奥さん。明らかに旦那さんを気遣っている雰囲気が見て取れた。しかし一方の旦那さんはと言えば、飲み干したティーカップに新たなお湯を注いでティーバッグを浸しつつそっけなく返した。立ち上る湯気の向こう側に互いの表情がかすむ。
奥さんは無言でもう一度水を出した。
かちゃん。洗い終わりしずくの拭き取ってあるものが次々と彼女の手で積み重ねられていく。リビングダイニングの朝にはさまざまな音が入り混じっていた。奥さんの流す水の音、食器同士の触れ合う音、そして二枚目のトーストを強奪したちるりの立てる快音。しかしそこには先ほどまでの夫婦の睦まじい会話はない。
と、気まずい沈黙を破り捨てる突然な喚き声。ちるりであった。
先ほどまで加えていたはずのトーストはディッシュの上へと放棄されていて、旦那さんと奥さんがちるりに目をやったときには、ちるりは電源の消えたテレビの前に翼を広げて直立していた。
瞳をまんまるにして見つめる奥さんと旦那さん。ふと、顔を見合わせる。そこだけ朝の時計の針が止まっていた。
ちるりは咳払いをするような仕草をしてみせると、真綿の翼で薄い液晶テレビの上面をなぞっていく。すうっ、とちるりがその翼を上げると、――その真綿には灰色のほこりが。あっ、彼は声を上げた。
「あなた、もしかしたら頼んでおいた掃除忘れた?」
旦那さんを見つめる、「典型的な姑」のような不愉快そうな視線。眉間にしわを寄せて、綺麗好きの綿鳥は激しい抗議の鳴き声を上げる。
「いけね。ゴメンちるり、掃除忘れてた」彼がそう頭をかいて苦笑いすると、奥さんのクスクスという笑いの中でちるりはついに目すら細めていた。
チルタリスは総じてチルットのころから綺麗好きで、汚れを見かけると自らの翼で拭き取る習性があるという。ゆえにちるりにはこの汚れは放ってはおけないらしい。もしかすると、掃除を忘れてそのままにしておいた精神すら許せないのかもしれない。
「綺麗好き」というくらいだから自分の翼の汚れなどは到底許すはずもなく、ちるりはきゃあきゃあと叫びながら翼をばたつかせて風呂場へと向かってしまった。
「ごめん、やっちゃった」と彼は申し訳なさそうに苦笑しながら、椅子の背もたれに掛けてあったゼブライカ色のネクタイを手に取る。薄い黒の地にそれよりも薄い灰色の稲妻模様が入ったそれを襟元に巻きつけ、手際よくそれを喉元で締めると、「さっきのことだけれど」と彼は言った。
「――向かい風が吹いてるからって、そのたびに自分の進む道を変えるのかい」
えっ、と、奥さんは聞き返した。何を言われたのか、よく分からなくて。シンクからは水音がこぼれたままだった。
「風ぐるまだって、向かい風を味方に付けて回るんだ。
――俺だって、風当たりが強いからって自分の信念を曲げるわけにはいかないよ」
奥さんがきっちりとアイロンを当てたワイシャツの襟をしっかりと直しながら、彼は朝の日差しのあふれ出した空を窓越しに見つめていた。風呂場の方からはちるりの満足げなハミングが響いてくる。
ああ、そういうことだったのね。いつも家ではこうしてにっこり笑っているけど、きっとひとたびスーツに実を通したら、この人はこうやっていろんな逆境を乗り越えているんだろうな。――愛する人の背中を見つめて、それからちょっと恥ずかしそうにうつむいて瞳を伏せてから、もう一度彼女は顔を上げて、答えた。
「あなたも、大変なのね」
手にしていた食器がことりと置かれて音を立てた。そうね、あなたもいろいろあるものね、家のことも仕事のことも。やさしい笑顔を浮かべたまま奥さんは愛しい旦那さんに歩み寄る。「ネクタイ、曲がってるわ」――白い両手が首元へ、喉元へと回された。よれたワイシャツを、乱れたネクタイを正す小さな手。旦那さんはよそを向きながら、ひそかに頬を赤らめていた。
「だから俺も、ちるりと風に乗って出かけるよ。向かい風でさえも味方につけられるように、な」
ハミングがこぼれ出す部屋の外の方を見つめて、彼は穏やかな笑顔で言った。まだ櫛を通していない乱れ髪がいとおしい。
今すぐにでも抱きついてしまいたい衝動を抑えながら、それでも彼の両肩に手のひらをポンと置くと、こぼした。
「――でも、格好いいこと言ったけれど、何よりちるりと一緒に仕事に出かけたいだけでしょ?」
ばれた? 彼は相変わらずの笑顔で微笑んだ。
◆ ◆ ◆
開け放った純白のカーテンの向こう側、降り立ったテラスには予報通りの風が唸りを上げて吹いていた。空は心地のよい朝の光にからりと晴れ渡っている。ちるりの翼のような雲がちらほら、その空の青の中にやわらかな白を添えていた。髪を奪い行こうとする風に、「やっぱりね」と奥さんは呟いた。
これくらいの風のほうがちるりと出かけるにはちょうどいいさ。そんな問答をしていると、ちるりが心地よさそうに歌声を奏でながら、真綿の翼をぱたぱたとはためかせて庭へと降りてきた。手入れを欠かさないその四肢は朝のしずくを浴びてよりいっそう美しく見えた。
チルタリスの美しい歌声に、空を飛び交うスズメたちも上機嫌のようだった。到底チルタリスのような歌声には及ばないものの、自らの声でハミングに重ねて思い思いの歌を紡いでいる。ちるりもまた、その歌に自らの歌を絡ませるのがとても楽しそうだった。
「それじゃあ、行こうかな。ちるり、よろしく頼むよ」
黒の背広を直して、彼はちるりのおおらかな背に跨った。ちるりの胴体にくくりつけておいた手綱のような紐にカバンをしっかりと固定し、両手でその感触を確かめる。今日も今日とて変わり映えのない、しかしながら楽しみで仕方のない感触だった。
「あなた、お弁当忘れてるわ。……そんなので大丈夫なの?」
ああ、しまった。旦那さんはきっちりと握り締めたばかりの紐から手を離し頭を掻いた。奥さんはちょっぴり意地悪く笑って、バンダナで包まれた愛妻の弁当をそっと手渡した。自らの手のひらのぬくもりをそっと重ねながら。
どちらからともなく、絡めあった視線を外す。そして互いにほっぺたを赤らめて、それからくすくすと笑いをこぼして。
「今度こそ行ってくる。――それにしてもいい朝だな。仕事に出かける気合いも湧いてくるよ」
ちるりの首元に提げられたカバンに、手際よく彼は愛する妻のぬくもりの篭もった、まだあたたかいお弁当を丁寧にしまいこむ。愛妻の笑顔と精一杯の感謝の念を篭めながら、しばしの別れを惜しむかのように、ゆっくりと。
「気をつけてね」、奥さんは年を経て少しよれ始めたようにも見える背広の背中を叩いてみせた。「ああ、気をつける」と、彼は相変わらずの、それはそれはこの朝の世界を照らし出す太陽のような、やわらかで和やかな笑顔を浮かべて、愛妻に誓ってみせた。
「ちるり、“そらをとぶ”!!」
彼女の瞳に映るのは、見上げた太陽の光の中でまっくろなシルエットになった、上昇していく翼を持った影とその背に跨る人間の雄雄しい背中。
風はただ、ひょおひょおと唸っていた。
◇ ◇ ◇
【テーマ】自由題(風、サラリーマン)
おとといは風が異様に強かったので、自転車通勤だと絶対に風に煽られるだろうなぁなどと思考をめぐらせつつこんな小説を思いつきました。
ふと思う、ヒウンシティなんかに出てくる会社員もこんな生活を送ってるんじゃないかなぁ、と。
あと、ああいうごく普通の会社員の中には、こうやって「そらをとぶ通勤」をしている人も結構いたりしてw と思ったり。
そういうわけで、「そらをとぶ」で通勤をするサラリーマン男性、というテーマの小説が生まれましたw
あと、当方チルタリス大好きです! サファイアでは二匹Lv.100まで育てました(笑)
ずかんでもおなじみの綺麗好き(ただしチルットのずかん)なのですから、姑チックに「あーた、ここちゃんと掃除できていませんわよ? それでウチの息子の奥さんになろうと思ってらしたんですの?」とかやってもおかしくなさそうだなぁw と勝手な想像をしていました。