向こう側
最初、ぼくらには心がなかった。
最初、ぼくらは命ではなかった。
アミノ酸がたまった原始のスープにおいて、そのモノは分裂を始めた。
分裂が始まる前は、分裂は起こらなかった。だから、分裂することができなかったモノは、同じモノとして存続し続けることはできなかった。
分裂することができたモノだけが、命を後世に残せた。だから、命という名前が生まれた。
だから、命の定義は……?
◇
聞くところによると、巨大な移動遊園地が開園中だと言う。夏の終わり、自由な生活の終わりは遊園地で締めようと言うことで、遊園地のある海辺の町を目指して歩いていた。
8月も終わりを迎え、心なしかテッカニンの鳴き声も寂しげだ。それでも残暑と言うには暑すぎる熱波が繰り返しやってきて、歩いているとじっとり汗が浮かんでくる。
ぼくや頭の上の蜻蛉はまだしも、見るからに暑そうな毛皮に覆われた炎姫は実際かなりきつそうだ。熱中症になってくれては困るのでぼくの分の水まで分けてあげたけれども、やはり元気がない。
そんな中、道の隅っこに突然現れた井戸は、砂漠のオアシスさながら我々に歓迎された。
錆びた手漕ぎの井戸ポンプがのっかっているだけで井戸には木のふたがされており、一瞬水が入っているのか不安になったけれども、4、5回力をこめて取っ手を押すと、勢いよく冷たい水が出てきた。
真っ先に炎姫がそれを浴びた。長い毛皮に水滴が付き、日の光を浴びてキラキラと光っている。ミリスが「早くしろ」と催促してきたので、ミリスにも水をぶっかけた。ぼくも全身に浴びたかったのだけれどもさすがにはばかられる。それでも頭に水をかけただけで生き返るような心地がした。ポンプは炎姫が神通力で押してくれた。
タオルで頭をふきながら、炎姫に命の話をした。ぼくが所属する予定の機関が運営しているのがポケモン生態学会。そこと深いつながりのある「ポケモン遺伝子学会」なるものが取りまとめた書籍の内容だ。ちょっとジャンルが離れているから、よく意味がわからない。でも読めって氷室さんに言われた。有無を言わせない感じ。名前の通り冷たい人だ。なんていうか、人形みたいにきれいで冷たい。
『その話の中で重要なことは』
炎姫が万年筆ですらすらと文字を紡ぐ。インクの微かな濃淡が、彼女の息吹をぼくに伝える。
『命とは分裂するモノのことだ、という順序は間違っているということです。分裂して“残った”ものたちをこそ、私たちは命と呼んだ。その順番が、正しい。ですから、分裂する前の自己複製子は、命であってもなくてもよいわけです』
分かります? と炎姫が書く。わからないとぼくは答える。
数学以外の勉強もちょっとはしたら、とぼくをからかいながら、鼻先でぼくをつつく。そして、道の先へと顔を向ける。
「そうだね、行こうか」
『はい』と炎姫が答える。蜻蛉がまたいつもの定位置、ぼくの頭の上に飛び乗った。
そんな折、彼が現れた。
◇
「やあ」
残暑の季節に似つかわしくない爽やかな声で彼は言う。あぁこの人が……とぼくらにとっては一目でわかる。でも当人たちには区別がつかないらしい。彼らにとっては区別をする必要さえないのかもしれない。
「失礼ですがあなたって」
ぼくが尋ね終わる前に、彼が言葉を継ぐ。
「そう、ぼくは向こう側の人間さ。きみはきれいな目をしているね」
眼鏡の青年はそう答えた。
爽やかぶっているのか、本当に爽やかなのかどっちだろうと、ぼくと炎姫は顔を見合わす。
ぼくは前者に賭けるつもり。
向こう側の物や組織がたくさん流入している割には、向こうの人と会う機会は少ない。前会った竹沢さんは向こうの会社の人だけど、生まれも育ちもこっち側だ。見ればわかる。なんていうか、こう、雰囲気が違う気がする。
「ふーん。ぼくにはちょっとわからないけどね。こっちに来たらまわりに同族がいないから、見分ける必要もないんだよ」
彼はそういって、ハハハと笑った。
彼は岬と名乗った。用事はあるけど話をするくらいの余裕はあるよ、とペラペラしゃべりたてていうところには、職業はプログラマーだとのこと。っていうか、研究者を除けば、プログラマー以外の人はほとんどこっち側に来ないのだけど。
「エリート研究員には見えないのかい?」
「見えません」
炎姫も同意した。ちょっと顔がオタクっぽいし。
岬さんはわざとらしい咳払いをする。
「いやはや、噂に聞いてるのより性格がきついね」
「噂?」
「そう。噂。ぼくの周辺では、君は結構有名人なんだよ。直近ではセレビィの件、それ以前にも6,7個くらい仕事をこなしてくれてたろ。主にデータ処理だけど。ぼくたちの世界を毛嫌いしてる人たちは結構多いからね。実際かなり助かってた」
それはよかったですと、ぼくは答える。もしかすると以前に仕事したことのある会社の人なのかもしれない。
でも、ぼく程度の人材でもありがたいなんて、結構苦労しているみたいだ。
「やっぱり、嫌ってる人は多いんですね」
「そうだね、残念ながら」
そういって、わざとらしく手を上げる。
社会体制が変わった原因は向こう側。今が嫌な時代になったのも、向こう側のせい。そう思っている人は結構多いから、驚くほどのことではない。向こう側の人と実際にあったことのある者は少ないから、余計に変な想像をかきたててしまう。
ふと思って、岬さんに聞いてみた。
「あなた自身は、向こう側のことをどう思ってるんですか?」
「ぼくが、自分の世界の住人たちのことを、かい?」
大概の人たちは君たちの世界を見たことがないからね、とつぶやきながら、彼は数秒顎に手を当ててから、こういった。
「こっち側の世界をただのプログラムだと思っているんだけれど、自分たちの世界もプログラムによって動かされているだけとは気づいていない、そんな人種だね」
言った直後、また岬さんはハハハと笑う。
冗談だよ。いや、半分本当かな。そうつづけた。
◇
炎姫と会って間もないころ、ぼくは彼女にこう尋ねた。
「向こう側にはいったい何があるの?」
ぼくがそう聞くと、物知りな狐は神通力を発揮して、諭すように万年筆を走らせた。
『あなたが期待しているようなものは、何もありませんよ。向こう側には、向こう側の世界が、そこにあるだけ』
向こう側の人たちは、こちら側を虚構だという。こちら側の人たちは、向こう側を諸悪の根源だと思っている。
結局ぼくらは虚構か虚構でないかはともかくとしてふつうに生きているし、彼かは彼らでいい人もいれば悪い人もいる。それだけだ。向こう側の人と付き合っていて、そう思うようになった。
新たな仕事の誘いは、ぼくが研究機関に内定したからと伝えるとあっさり引き下がってくれた。それどころか、ぼくの内定を本当に心から喜んでいるようだったので、少し恥ずかしくなる。
「やっぱりね〜。ぼくが見込んだだけのことはあるよ」という信憑性のない言葉は無視しておいた。
「さてと、仕事も一つ済ませたし、もう一個をがんばるか」
爽やかさをかなぐり捨てたもろもろの話を終えた後、岬さんがそう言った。
「あれ、なんかやったんですか?」
仕事をしていたようには見えない。
「うん。君と話した。これがぼくの仕事の一つ目さ」
本当かウソか区別がつかない口調で彼はそう言った。
「さっきも言ったろ、君は結構有名なんだよ。さらには、変わったビブラーバを頭に乗っけ始めたしね。激レアだよ、そいつ。君のことだから、知ってると思うけど」
そういって彼はミリスに目をやる。
「激レア? ミリスが?」
「そう、激レア。あれ、知らないの? 研究機関に内定したってさっき言ってたじゃない。あそこと関係あるんだよ」
ミリスといえば、一つしか思い浮かばない。ぼくはとっさにこう聞いた。
「ことば泥棒がですか?」
ぼくが岬さんにそう尋ねると、彼は何のことかわからないという風に肩をすぼめた。
「ことば泥棒? 何? それ。」
「あ、いや、いいです」
彼に期待したぼくがバカだった。
「何のことかよくわからないけど、ぼくが言いたかったのはユラヌスのことね」
「ユラヌス? 新種のポケモンでしたっけ」
「いや、ただのニックネームだよ」
そういえば面接のときこんな会話をしたような、しなかったような。
そいつが何かミリスと関係が?
ぼくがきょとんとしていると、岬さんはちょっとわざとらしい口調でこういった。
「ミリスとユラヌス。その心は、今は亡きロケット団の遺物ってことさ。だから、両方、相当強い。大切に育てるんだね」
それはそうとして、と岬さんは続ける。
クライアントの方から先に来てくれたようだ。二つ目の仕事を済まさなくっちゃ。
岬さんが井戸の方へと目を向ける。
ぼくもそれに倣う。
地面が揺れると同時に、突然井戸のふたが音を立てて吹っ飛ぶ。噴水のように水が噴き出し、小さなポンプが紙切れのように舞い散った。
中から紫色の巨体が姿を現す。
『立派なクライアントですね』
炎姫がそう書いた。
◇
アーボックだった。全長10mは優に超えている。図鑑に載ってるやつよりも相当でかい。
「クライアントってどういう意味だっけ」
間抜けな声を出して、炎姫に聞いてみる。
『“顧客”です』
狐は答えた。
岬さんが嬉しそうに補足する。
「さすがだね。そうだよ。まぁ彼がぼくに電話してきたってわけじゃないんだけどね。仕事の対象というか、相手、だね」
『それって顧客とは言いませんよ』
狐が無表情で返事する。こいつはこいつで、意外と焦ってるのかもしれない。“顧客”という画数の多い字がちょっと歪んできた。
「ご心配なく、すぐに終わるよ」
岬さんはそういって、マスターボールを取り出す。「ポン」というあまりにも軽すぎる音とともに目の前の大蛇は一瞬にして紫の玉に吸い込まれていき、後には壊れた井戸と小さなボールを持った岬さんだけが残った。
「こいつもね、特別なんだよ。ぼくはよく知らないけど、なんせマスターボール支給だから、相当だろうね」
「また、ロケット団の遺物ですか?」
僕が尋ねる。
「こいつはギンガ団だったかな? いやロケット団か。なんかもう、どこが改造したんだったか、忘れてしまったよ」
ハハハ。岬さんは力なく笑う。
ハハハ。
◇
営利目的でやってきた向こう側が最初に手を組んだのは、ロケット団やギンガ団などの結社だった。そのせいで向こう側の評判はさらに悪くなったのだけれど、向こうの技術が一気にこちら側に広まったのは、彼らによる功績が大きい。
ロケット団などの組織が、同時多発的に表れた少年少女たち“英雄”によって一瞬で壊滅させられたのが10年ほど前。ぼくもまだ記憶に残っている。
メディアは盛んにこのことをわめきたてる。いまでもまだ特番があったりする。
でも、ぼくはもう、その話には飽きてきた。疲れたのかも、知れない。
「遺伝子組み換えなんて、ぼくの世界では日常茶飯事なんだけどね。大豆とか、サケにもやられてたかな。サケって知ってる?」
ぼくは黙って首を横に振る。岬さんはバツの悪そうな顔をした。
「怖いかい?」
岬さんがそう聞いた。
「いえ、大丈夫。ぼくをそんな人だと思わないでくださいよ」
そういって少し笑う。
「なんていうか、こう、慣れました」
岬さんも小さく笑う。
「その気持ち、痛いほどわかるよ」
そういって二人で顔を見合わせて、今度は本当に噴き出して笑った。
◇
「ミリスとユラヌスのこと、もうちょっと教えてもらっていいですか?」
岬さんとは結局次の町に行くまで一緒になった。“向こう側”に帰るための“扉”がある大都市へと向かうために岬さんはリニアに乗る。ぼくは費用節約のため夜行バスに乗って遊園地へと向かう。大して再開発の進んでいない古い駅ビルの隣、夕日を背に受けながら、岬さんに聞いてみた。
僕もよくは知らないけどね、と軽い口調で岬さんは言う
「ユラヌスは昔ロケット団が作ったポケモンさ。噂ではロケット団中、最大って言われてる。ミュウツー亡き今は最大最強に格上げされたのかな。けれどもその正体は誰も知らない。ホウエンからの輸入種って聞いたことはあるけど、その程度かな。でもって、君の所属する予定の機関は、そいつを躍起になって探してる。理由は言わなくてもわかると思うけど。でもってミリス君も改造種だね。実はそいつにも捕獲指令が出てた。だからもうすでに君の手持ちだってことを確認しなきゃいけなかったんだ。大丈夫、心配しないで。手持ちのポケモンを奪うのは法律違反だからね、そんなことはやらないよ」
ほかに知りたいことは? と岬さんは言う。今のうちに聞いておかないと損するよ。
「意外と親切なんですね」
「僕が知りたいと思ったことを、君はすでにいろいろ教えてくれたからね。ま、ちょっとした感謝の気持ちさ」
ハハハ、と笑う。
「お気持ちはありがたいですけど、特にないかな」
おいおいと岬さんは肩を落とす。
「ぼくも、岬さんからもうすでにいろいろ教わったような気がするんで」
電車のベルが鳴る。リニアが到着したようだ。やつれた顔をした男性があわてた様子で改札口の中へ消えていく。駅員が早く乗るようにと催促する声が聞こえる。
「じゃあ、ぼくはこの辺で」
岬さんは言った。
ありがとうございましたと僕は言う。炎姫も従った。
『いい人でしたね』
炎姫が書く。僕も同意した。
改札の奥、エスカレータに乗って、岬さんは“向こう側”への帰路に就く。
ぼくらは見えなくなるまで、見送った。
◇
「ロケット団か」
日はすでに落ち、あたりはLEDの白い光に照らされている。夜行バスを待つ間、頭の上の蜻蛉をつつきながら、ぼんやりつぶやいた。いろんなポケモンを傷つけて、いろんな人を傷つけて、いろんなポケモンを改造した人たち。
「炎姫、ロケット団って、どんな人たちだったんだろうね」
僕がそう聞くと、198歳の狐は諭すようにこう書いた。
『あなたが期待しているような異常な人なんか一人もいませんよ。いい人も悪い人もいて、それで皆お金がないと生きていけないから嫌々会社で働いている。そんな人たち。それが、彼らです』
そうか、と僕が言う。
そうですよ、と狐が言った。いや、書いた。
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かなり久々の続編になってしまいました。
別に放置していたわけではなくって、純粋に時間がかかってしまっただけです。。。
これからもぽつぽつ書いてくつもりなので、お暇な方は読んでやってください。