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  [No.873] 雲の行方 投稿者:コト   投稿日:2012/02/22(Wed) 17:46:39   65clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 
 優しげな音色が水面上に響き渡る。
 夕凪(ゆうなぎ)を迎えたばかりの海を、ぼくはじっと眺めている。
 
 静かで、心地よかった。潮のにおいも薄い。肌をさする風はまだ少しだけ冷たくて、それでも緑に小さく彩られた森林をかき分けていく。さらさらと、どこかはかなげな風景なのに、夕日を包もうかとしている海の茫洋さはいつも通りだった。

 ゆっくりと深呼吸を重ねる。そうだよなぁ、とあいつの顔を空に思い描きながら、顔をほころばせる。耳に淀(よど)む音色のひとつひとつを、できるだけはっきりと聞き分けていく。胸の中が少しだけ落ち着いた。海を見ていたつもりなのに、いつの間にか視線は空に送っている。ぼくの真上を通り過ぎる雲はひたむきに東を進んでいく。目を閉じれば、このまま眠りにつけるような気がする。

 サメハダ岩の岬で振り子のように体を揺り動かしながら、何かを待っていた。
 だれかを待っているという言い方でも当てはまるだろうし、もしくは時間が過ぎるのをただ肌を伝って、感じているだけなのかもしれない。それでも、待っているという意識が身に沁みついていた。その意識すらもが、今では曖昧になっている。

 せわしく立ち上がった。おいおい、と自分に言い聞かせながら、額を一度、二度と強く叩いてみる。じんわりと痛みが頭の中に響いてくる。白く薄れていった音の余韻を、何とか耳に蘇(よみがえ)らせた。
 さらさらとしていた。静かで、心地よかった。
 これで最後だと言わんばかりに一息落として、夕日の沈んでいく海を眺める格好に戻す。


 
 ※

 コト、と言います。はじめまして。今作「雲の行方(ゆくえ)」はポケモン不思議のダンジョン(時、闇、空の探検隊)の世界を舞台と定め、その中での四季を取り入れた作品となっております。
 なお、一季ごとに四話を収録するつもりですので、つまりは全一六話の構成となります。基本的にこの形式を筋として、話を展開するようにしますので、ご理解よろしくお願いします。何らかの事情で変更があった場合は、投稿した一話の中にその内容を明記することとなりますので、あしからず。


  [No.883] 春の街  第一話 小路 投稿者:コト   投稿日:2012/02/27(Mon) 23:29:58   50clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 春の街

 第一話 小路

     1

 四月初旬になってからか、春の陽光は記録的な温かさを誇っていた。天気予報では今月の中旬から十五度あたりを上下に行き来するようで、その上、一週間ほど晴れた日が続くらしい。飲み物も良く喉を通りやすくなる。
 病院の玄関を抜けてから、しばらく歩いた。陽光を浴びながらだと、妙に足元がぐらついてくる。病院から帰宅するさい、いつもこうしてあちらこちらを散策している。リハビリの一類として、自分の心の中の何かを鍛えていた。噴水のある公園、さくらに彩られた並木道、トレジャータウンと銘々横目にしながら通り過ぎるだけだが、胸の中に空白感が募ってくる理由を、近辺の風景に目を配らせながら、探していた。時折立ち止まって、ふと空を見上げてしまうこともある。それでも、春の空の下を歩きたい、という専念は固いはずだ、と思っている。
 カクレオンの店で買い溜めていたきいろグミを一個だけ口に運んで、舌に乗ってくる甘酸っぱさを噛み締めた。味はある。ふーう、と深い息を吐いて、もう一個きいろグミを口に入れる。少しばかり優しくなれたような気がする。
 買い溜めのきいろグミを袋の中に戻す。
 春になった、と息を詰めて、心の中だけでつぶやいた。
 さくらの下にあるベンチへ腰を掛けた。もう一匹がベンチに座れるように両脚の幅を狭(せば)めて、小さく顔を伏せた。
 懐から処方箋(しょほうせん)を取り出して、中身を覗いた。タネを用いるだけでは治療の施しようもない。二粒のタネと水薬の原料である粉をひとつずつ取り出すなり、こんなややこしかったかな、と頬を緩ませる。気に留めず、自然と笑ってしまった。
 ぼくの担当であるレント先生は、数ヶ月以上の休養が必須だと言っていた。臓器の損傷がそれなりに激しいらしく、その数ヶ月の期間内は定期的な診察が必要不可欠となる。定期的な薬品の服用もそうだ。定期的、という部分がどうにもややこしい。今度からの診察には、その部類の中にCT検査が組み入るようで、病院からの家路をたどるのが酷く億劫(おっくう)になるであろう。
 何なんだろうね、まったく。
 頬の凹みを均(なら)してから、さくらの木の梢(こずえ)から覗く、青い空を眺める。
 最近になって、空を見上げることが多くなった。ユキにもロマンチストだね、と常々言われたことがあったような、そんな記憶がある。空を見上げたときの感傷を単に好んでいただけなのかもしれない。あるいは、海だとか、空だとか、茫洋とした風景に目を凝らして、胸の中に募る空白感を、ただ払拭したかっただけなのかもしれない。
 会話に疎かった。吐血、心身に響いてくる耳鳴や頭痛のせいか、誰かとまともな会話を交わしたことが、ここ近日皆無に近い。だからこそ、誰かのそばにいたいと強く願ってしまう。ユキは、症状が出てきたときに、無言でぼくの背中を撫でてくれる。優しく、大きく撫でてくれる。それでも、咳がひっきりなしに出始めると、ユキから身を離して、ひとり床に臥(ふ)せるしかなかった。ユキもぼくの気持ちを見据えているのか、いつもぼくの布団を敷いてくれたり、おかゆを作ってくれたりする。けれど、そこに会話はない。
 胸の空白感というのは自己嫌悪から溢れる情けなさや、寂しさなのだろう、とおおむねの見当はついていたりする。気遣われてばかりだ、と腑(ふ)に落ちないものを噛み締めることもできず、ぼくはただ、歩いたり、時々空を見上げたり、と自分勝手な行動の繰り返しに明け暮れている。
 そんな自分が、酷くもどかしかった。

 十分程度か不動のままだった重い腰を、ベンチから持ち上げた。午後三時から、旧友と再会する約束を交わしている。会おうと言ったのは、ぼくだ。ギルド前の交差点付近にある喫茶店で、ぼくらは小さな団欒(だんらん)を築く。
 桜並木の道を歩きながら、春になった、と自分に言い聞かせるように、再度心の中でつぶやいてみた。思いのほか、気が楽になった。

     2

 こうして久しぶりに旧友と面を合わせると、やはり気まずくなるものだ。
 左腕に包帯を巻いている上に、おそらく目を暗くしているぼくの顔を覗かせると、案の定、彼は心配の混じった目を浮かべた。
 「……探検隊って、大変だなぁ」
 彼は独り言なのか、ぼくに言っているのか、はっきりとしない声を出した。
 「大変だよ、うん、ただ楽しかった」
 「楽しかった?」
 彼は首を傾げるなり、まあ、いっか、と今度はつぶやくように言う。
 「語りたくないんなら、いいよ。お前は昔から無理をする奴だったからな。今は稼ぐよりも休め、的なことを神様が告げてんだよ、きっと」
 「……そうかな」
 「そうだって。探検隊だから、他にも隊員いるんだろう? 今は任せて、後になってから少し無理をして追い越せばいい。事務でも経営でも、同じことだと思うよ、俺は」
 「……まあ、ね」
 口元を歪ませる彼の顔に目を側めながら、ぼくは曖昧にうなずいた。
 「……どうした? 何か気に障ったか?」
 ぼくの顔を覗き込むなり、心配の混じったその目をこちらに向けてくる。
 コウは、昔から顔色を良くうかがう奴だった。ぼくが風邪をこじらせて、深く寝込んでいたときには、差し入れに何冊かの小説を持ち込んできた、それなりに優しい奴だった。
 「いや、なんでもない」
 ぼくはかぶりを振る。
 「そうか?」
 「うん……ごめん」
 「いや、別に謝られることなんて……」
 彼は頭を下げたぼくに少し困惑したのか、次の言葉に迷っていた。まあ飲めよ、と手元のグラスを指で軽く叩く。グラスの中は、レモネードが店内のランプの光に照らされており、彼がこつこつとグラスを叩くたびにグラスの底へと沈んだレモンが揺れ動く。
 「コウは、確か飲食店を開業するのが夢だったよね……どこかで指導されてるの?」
 ゆらゆらと浮かんだり沈んだりするレモンを見つめながら、ぼくは尋ねる。
 「うん? ああ……師匠なら一応、いるぞ」
 「ほう」
 「ロクさんっていうんだけど、このロクさん、おいしいミツを使った料理が絶品なんだよ。俺は一度しか食べたことないから、曖昧にしか調理法がわからないけど、多分、ミツを煮込んだ後に、りんごとかそういう果物をねっとりと、そこに混ぜていくんだと思う。それからは……まあ、こういっても、良くわからないよな」
 「うん、わからない」
 のんびりと首を縦に振ってみる。
 彼は顔に笑みを浸らせながら、ふふん、と鼻をうごめかし始めた。
 「今度もしここに訪れることがあったら、ロクさんに無理頼んで、持ってきてやるよ。美味いぞー、あれは。肌が落ちるほどの、そんな感じの美味さだぞ、あれ」
 そう言うと、彼はぼくから目を逸らして、メニューに手を伸ばした。
 ほっ、とため息を吐(つ)いた。レモネードを口に運んだ。きいろグミを食べた名残がいまだ舌にこびり付いていて、思う味がしない。それでも甘酸っぱい味である、ということは判然としている。
 沈黙が流れる。財布を取り出して、中身の空き具合を確認した。思わず苦笑いを浮かべてしまった。傷を負ったばかりのころに、ぼくは確か、財布の中のほとんどの金銭をユキに渡したのだ。その理由は、ぼく自身もあまり明確に表現できない、不安定な何かが作用したのだと思う。
 彼はコーヒーを注文すると、少し真面目な顔になって、ぼくを見る。目には、いまだ心配の色が混じっている。
 謝らなくちゃならないことなんて、結構あるよ。
 財布を片手に握ったまま、レモネードをちびちびと飲み進めた。
 「……俺だって、探検隊に憧れた時期も、あったよ」
 コウは昔から探検隊というものに憧れを抱いていた。有名な探検隊になってやるんだ、と意気込みを強く張りながら、公園やら岩場やら、と毎日をそこらの平和的な探検に費やしてきた。そのころにはもう、多分、コウの勢いも虚勢になっていたはずだ。
 「お前らがすごい探検隊になったのは、知ってる」
 ――そうなってまで、続けたい仕事か。
 ――楽しいか、探検なんて。
 コウの目が醒(さ)めていく。
 ごめん、と一言付け加えた。

     *

 彼と割り勘で会計を済ませて、喫茶店から外に出る。夕日が遠くの山の稜線に掛かっていて、斜陽も次第に冷たさを増してきている。彼の尻尾の炎に近寄るなり、心の中でじわじわと何かが解けていくような感覚に陥(おちい)る。お前は誰かにすがりたがって、お前は誰かのそばにいたいと強く願って――馬鹿馬鹿しいよ、と目を細くした。
 彼から身を離して、交差点の中央に立つ。ここからまっすぐ歩を進ませて、小さな勾配を縫うと、プクリンの容姿を模(かたど)った建物が覗き込んでくる。あそこに、ぼくはいたんだ。そうつぶやいてみる。背後から、ため息を漏らす音が聞こえる。
 「これからどうするの? 帰るんだったら、交通費、工面するけど……」
 踵(きびす)を返して、彼に訊いた。
 「いや、うん、いいよ。俺より、自分の心配のほうが優先だろう?」
 「……自分の心配、ねぇ」
 「おう。さしでがましいまねはよせ、ってこと」
 彼はそう言って、静かな笑みを浮かべる。
 彼は、彼自身のことと、ぼく自身のことと、ぼくと別れてから今に至るまでのその経緯を、ゆっくりと語ってくれた。そのときの彼の表情はどこか寂しげで、もっと的を射る言い方をするなら、微笑んでいた。
 そんな彼と再会して先駆けてきたのは、やはり懐かしさだった。彼の言葉の数々を耳で拾いながら、多分、ぼくはコウの目と彼の目を重ねていたのだ、と思う。同じだった、とは言わない。九年ほども会わないと、鮮明に覚えているのは、コウの笑顔と性格だけだ。
 「コウ」
 「何だ?」
 「……ちょっと、一緒にきてくれ」
 トレジャータウンの方角に目を向けて、ぼくは言った。

 無機質な輝きを放つ病院や、静かな風にざわめく桜並木を通り抜けて、ぼくらは西の方向を進んでいく。夕闇を背負ったトレジャータウンは蛍光灯の硬い光に照らされているだけで、思っている以上に道が見えにくい。薄暗かった。いつもの夕暮れの街の寂しさが、今日はみだりに重く感じられた。
 この風景こそがあたかも幻のような、そんな不思議な認識が湧いてくる。トレジャータウンの昼はそれなりに騒々しい。家々の窓から溢れてくる柔らかい光も、昼間は陽光を帯びて、その知覚をなくしている。胸中に浮き立ってくる空白感も、この閑散とした道を渡るときが一番に沈んでくる。
 なだらかな坂を上った。途中で道端に血痰を飛ばしてしまった。咳もひっきりなしに出始めた。咳の音が響く。夕日の半分は山の稜線を追い越している。もうじき夜が更けてくるであろう、そんな予感を漂(ただよ)わせている。
 「大丈夫か?」
 彼が背後で心配そうな声を上げた。
 これでも走っているつもりなんだ。必死なんだよ、俺は――こんなときに、声が響かない。言葉にならない言葉が喉の奥でまとい付いていて、何度か咳き込んでしまった。
 「無理するな、ってさっき言ったろ」
 「……うん」
 声が妙に枯れている。
 ぼくの背中に、懐かしげな感触があった。
 「……やめるか」
 「やめないよ」
 見せたい場所がある、と付け加えて、背中に置かれていた彼の手を解く。
 いつも歩いている坂道が今日に限って、やけに長かった。登り切ってからもしばらくは息が荒れた。脈が速い。それでも一歩、一歩と前へ進むことによって、ぼくの心の中の何かが落ち着かせられるような、一途の期待があった。

     3

 俺が探検隊に憧れていた理由は、多分、紛れもない好奇心からだと思う。何かを探すために色んなポケモンを連れて、現場に向かう。それだけのことなのに、俺にはさ、酷く羨ましかったんだよ、それが。

 レーク。俺のおじさんは探検家だったんだよ。お前らのような探検隊とは違って、一匹であらゆるところを探索するポケモンだったんだ。まあ、死んだんだけどね。その探検の途中で経済的にも肉体的にも路頭に迷って、あえなくぽっくりだ。
 おじさんが死んだのは、お前が故郷を出た数日後のことだ。親父から聞かされた。洞窟の中層あたりで倒れ臥せていて、見つけたときにはもう腐っていたよ。おじさんの死に顔を見て、俺もこう死んでいくんだ、っていう意識が湧いたのが最初。それから探検家と探検隊に対しての復讐心に駆られて、いや、そうだなぁ、復讐って言葉は似合わないな。
 まあ、恨んでいた訳です、うん。傷を負うほどの仕事をして、何が楽しいのか、わからなかったんです。レークだって、今や探検隊のトップなんだろう。そんなお前が死に直面して、何を思ったんだ? これは俺にとって憧れ的な意味も含んだ質問だし、もちろんお前がそうなったのを悲しんでいる意味での質問でもある。
 答えなくてもいい。答えなんて、最初(はな)っから求めてないんだ。そのまま探検を続けたいってお前が言うんなら、俺も否定はしない。探検隊であるもう一匹の、そのユキっていう彼女にも悪いからな。
 ただ、俺はおじさんが探検のせいでどんどんと生気が抜けていく様子を知ってる。目が暗くなっていくんだよ。色を失う、って言うのかな。眼球全体が黒に塗り潰されていく感じだ。レーク。お前はなるな。なっていたとしても、それを信じるべきじゃないんだ。わかるか。俺はなぁ、まともに生きて、まともに死んで、そんな道をなぞってほしいだけなんだよ。そうだろう? 俺だって、お前の誘いを受けるまでの間、ずっとこいつを隠してきた。おふくろにはもちろん言えなかったし、親父にも言い出せるきっかけが作れなかった。探検隊への憧れも薄れて。次第に周囲の空気が嫌いになって。自分でも白々しくなってくるくらい、その、何だろうな、毒のような? そんなもやもやとしたものを溜め込んで。今じゃ、その全てが、馬鹿だよなぁ、の一言で終わる。

 一方で、飲食店の夢を抱いたのにも、一応の理由はあるんだ。もちろん誰かに食べてもらうためとか、元々調理が得意だったとか、そんなんもあるけど、俺は探検隊のように、団欒を色んなポケモンで囲むことにも憧れていた。そのきっかけを作りたかったんだ。単純な話かもしれないけど、本気。んで、俺の頭の中で、その団欒の言葉が食卓とイコールの関係にあたる、みたいな可能性を生み出した訳よ。言ったよなぁ。探検隊のような、親しいポケモンと何かを探すことが、酷く羨ましいって。まあ、言わなくてもいいかもしれないけど、一応言っとくと、これが理由だ。

 レーク。俺は、まだ夢が遠いよ。どんどん置いてけぼりにされたような気がする。そりゃ、夢が叶わないことだってあるかもしれないけどな、そこからまた新たな妄想に明け暮れるなんて、あまりにも空(むな)しい。
 どうして、こんな姿になったんだろう? 自分で思ったこと、あるか。俺はお前になれないから、どうかは知らないけど、もし一生付き合っていかなければならない傷を負っているなら、思うだろうな。失明とか、複雑骨折とか、精神的な障害とか、病とか、そういったものを支えるもとになるのは、やっぱり親しいポケモンとの関わりだよ。だからか、おじさんのその生涯を、俺はもっと広げられたんじゃないか、って思ってしまう。歴史上で言うのなら、戦場の中、身勝手な指揮官の命令でどんどんと死んでいく兵の命だ。
 やっぱり腑に落ちないよ、うん。俺もお前も誰かの命をつなぐ仕事をしているけど、背負う代償があまりにも違いすぎる。別の方法で、たとえば、誰もが傷付かないような方法で仕事を完遂することはできなかったか? そりゃ、できないかもしれないけどさ。それを覚悟した上で、補えることのできる保険は作れたのか?
 仕事を理由にして死んでほしくないんだ、とにかく。スリルとか、ストレスとか、復讐とか、悪循環しか生まないものを賄(まかな)い続けるよりは、平凡に仕事をこなして、のんびりとした生涯を送るのが一番幸せなんだと思うんだよ。

     *

 彼を港まで見送ってから、サメハダ岩まで歩いて帰った。以前は綽々(しゃくしゃく)と歩いていた道も、今となっては怖く感じられてしまう。夜の帳(とばり)が下りてからの空は、空気が澄んでいるのか、星の光沢が覗かず、家々の窓辺から溢れてくる柔らかな光のような、そんな色をした月だけが取り残されていた。
 このごろ、やはり海を眺めるのを避けているような気がする。仕方がないか、とは思いながらも、昔からのしきたりのようなものが自然と乖離(かいり)していくのは、切なかった。彼は気付いているのか、気付いていないのか、ぼくと一緒にここを眺めたとき、感慨深げな目で遠くの水平線を見つめていた。ぼくは、その少し上の薄い雲の流れを見つめていた。さすがに、つらかった。
 何をしてるんだ、と自分に言い聞かせた。岬に立ち止まって、夜の風がつむじを描いたときの音に耳を澄ませた。目を瞑(つむ)れば、このまま落ちてしまいそうだ。黒に塗り潰された視界は、途方もないほどの空白に広がっている。
 深呼吸をしてから、サメハダ岩の洞穴に入る。ギルドの遠征のミーティングが長く続いているのか、他の事情があるのか、ユキは帰らない。深呼吸を重ねる。もう一度、時計に目を向ける。何を焦ったのか、九時と意識していた短針の先は、八時を示していた。これには、ちょっと頬を緩ませてしまった。
 久しぶりにまともな会話をしたからか、喉を軽く痛めてしまった。水をコップに注ぐなり、一気に呷(あお)る。二杯目も呷る。落ち着かない。落ち着けない。手足は震えもしないのに、胸が冷える。
 「ユキって、死にそうになったことある?」
 多分、一年前――傷を負う前、ユキに一度尋ねたことがある。そりゃ、何年か生きてるとね、とユキは顔をほころばせていた。あの笑顔が印象的になっている理由は、もう知っている。笑顔だという事実が、悲しいだけだ。
 ぼくの体は回復期を迎えている。
 大丈夫です。そうつぶやきながら、テーブルをコップで弱く叩く。
 想像以上に響いた。