夜がすっかり更けてしまった頃のことであった。
ジョウト地方屈指の公園「自然公園」の一角で、一人の若そうな男がベンチに座り込んでいる。そのそばでは、一匹のムウマージがふよふよと浮きながら、彼の姿を心配そうに見つめている風だ。
白いベンチに程近いところに立っている電灯の光が、男とムウマージを辛うじて照らし出していた。
辺りにはほぼ人通りはなく、従って物音もほとんどしなかった。耳に入るものと言えば、ホーホーやヨルノズクの、寂しくこだましてくる鳴き声、そのくらいである。
男は前屈みになっており、顔を少し下に向けているままだ。一向に上げようとしない。ただ、タイル状になっている路面を目にしてばかりだ。目にも涙が堪っては、時折顔の輪郭を流れ伝い、静かに落ちてゆく。そして、右膝の上で作っていた右手の握り拳が、段々、きつく締まってくるみたいである。
そんな彼を見ていられなくなったのであろう、ムウマージは意を決したような表情になる。すると、閉じていた口を小さく開け、新鮮な空気を吸い込む。そうして呼吸と心の準備を整えると、何かしら気分の良くなってくるような声を出し始めた。聴く者を惹き付けるような透き通った声が、辺りに響き渡ってゆく。
その途端、青年がムウマージにゆっくりと顔を向けた後、すっかり重くなっている口を開いた。
「ムウちゃん……すまないが、今日は歌わなくて良いよ」
声を掛けられたムウマージは、思わず驚き、「歌」を止めた後、ムムゥ、と声をあげてしまう。同時に、この男のいかにも辛そうな顔を目の当たりにした。
これでは、せっかく続けようとしても、全くの無意味であるに違いない。このムウマージは、そのように悟らざるを得ず、引き続き歌おうとはしなかった。重苦しい空気を思わず読んでしまったらしい。
ムゥ、と小さく、ため息混じりに声を漏らすムウマージ。かなり不安のようである。
そんなマジカルポケモンに対し、青年はようやく言葉を続けた。
「どうしても、俺が、気になるんだろう。そうだな、俺が今、苦境にいるんだってことは、君にも嫌になるほど分かっているはずだ。だからこそ、ムウちゃん、君は歌おうとした。この俺を少しでも救おうと、幸せにしようとして、な。確かに君の歌は何度となく世話になってきた。その声によって俺がどれだけ救われてきたか、とても数え切れるものじゃない。でも、俺の今の顔を見れば分かってくれるだろ? 俺は今、君の楽しい調べを聞きたい気分なんかじゃない。今はただ、ムウちゃん、君に、そばにいて欲しい、それだけなんだ。つまり、それ以上でもなければ、それ以下でもない、ってことなんだよ。俺のことは、今日はそっとしておいてくれないか、なあ」
男の声は、歯切れが悪く、力のないものではあったが、ムウマージは何とか聞き取った。そして、これ以上は何もすまい、と思うしかなかった。
程なくして再び頭を下げた男、その様子を見つめるムウマージの視線は、何処か哀しく、儚いようであった。
その時、どこからか、重みのありそうな低い声が耳に入ってきた。
「もし、貴方たち、お困りですかな」
周りが閑静であるばかりに、男もムウマージも、その声をはっきりと聞き取った。聞こえてくる方へ両者の顔が向くと、声の主であろう、不思議な不思議な生き物が、徐々に近づいてくるではないか。
周囲に点在する電灯により、この生物の姿が眼に入ってくる。しかしながら、具体的になんなのか見当は付かない。周りが真夜中の暗さの中にある分だけ、不明瞭である。
ここで、ムウマージは怖じ気づいてしまったのか、青年の背後に慌てて逃げ込み、出来るだけ自分の身を隠そうとした。それでも、肩からひょこっと顔を出して、様子をじっと見つめている。
一方、青年は、すっかり潤んでしまっている目を向けるばかりである。悲哀あふれる表情は、まだ崩れはしないのだった。
「いや、なに、私はただ、お話を聞きたいだけなのですよ。貴方たちのその姿が、随分やり切れなさそうですからな」
再び同じ調子の声が、しっかりと耳に入ってくる。近づいてくる姿も次第に大きくなってきており、若者とムウマージはその姿を完全に認めるまでに、時間はほとんど要しなかった。
突然話しかけてきた生き物の正体。それは、隅から隅まで未知で溢れていると言うべき、「闇色の生命体」であった。