ねっとりと肌にまとわりつく夏の空気。汗を絡んだ髪が首に巻きついて鬱陶しい。
全開になった障子の向こうからはテッカニンの大合唱。ジーワジーワという暑苦しい音をBGMに片手でうちわをあおぎつつ、もう片方の手でひんやり冷たいサイコソーダの瓶を掴む。口元まで持ってきたところで、私はとがらせかけた唇から声をもらした。
「……空じゃん」
からん。閉じ込められたガラス球が乾いた音を奏でた。
未練がましく瓶を逆さにして口をつける。一滴、ぴりりと舌を焦がして熱に溶けた。揺すってみる。もう何も出ない。
買い置き、あったっけ?
“サイゴノイッポン ダイジニノモウ”。冷蔵庫から取り出したとき、確かそんな暗示をかけた気がする。ああ。考えるだけでも苦痛だ。どうしてもっとたくさん買っておかなかったんだろう。暑さが体力も気力も根こそぎ奪っていく。
「あーもうっ! 暑いっ!」
乱暴に寝返りをうつと、傍らで寝ていた紫の猫又が薄目を開けた。私は彼女の額についた真っ赤な宝石をつついてやった。
「あんたの未来予知で、こうなること先に教えときなさいよ」
猫又は迷惑そうに私を見、体をのけぞらせてまた目をつむった。よくもまあこのクソ暑い中眠れるものだ。
とにかく、何かしていないと身も心もからからの干物になってしまいそうだ。
からん。ガラス瓶を置くと、猫又の耳がぴくりと動いた。私は襖を開け、台所に納まるまあるい背中に声をかけた。
「おばあちゃん、ちょっと出かけてくる」
「おや、いってらっしゃい」
おばあちゃんは包丁を置いてのっそり振り向いた。しわだらけの顔がにんまり笑う。
「今日はもうじき、雨が降ってきそうだからねぇ。気をつけるんだよ」
「わかった。いってきます」
おばあちゃんの天気予報はよく当たる。というか、予知というか予言というか。いままで外れたところを見たことがない。命中率が百パーセントなのだから、あの猫又の未来予知よりもずっとすごい能力だと思う。
傘を掴み、サンダルを履いてがらがらと戸口を開けると、素足にふわりと流れる毛の感触。視線を落とすと紫の猫又と目が合った。
『どこに行くの?』
頭の奥に声が響く。テレパシーだ。
「別に。散歩」
猫又がゆらりと二股の尻尾を揺らす。
『駄菓子屋に行くんでしょう』
「ちょっとシオン、あんたも来る気?」
『わさび煎餅よろしくね』
それだけ伝えると、猫又は返事も待たずにすたすたと先へ行ってしまった。
わさび煎餅とか、エーフィのくせに渋すぎだろ。小さく呟いた文句は彼女の耳に届いただろうか。
家の前に広がる田んぼでは、畑仕事を終えた農家のおじさんが一人煙草をふかしていた。
たけみやと書かれた古ぼけた看板の下をくぐると、店の主がなあおと鳴いた。店内に人気はなく、一つきりの小さな電球が気まぐれぶりを発揮している。狭い通路を挟む陳列机にはありとあらゆる種類の駄菓子が並べられていて、四角く切った広告紙に「ボリボリくん 百円」とか、「チョロリチョコ 十円」、「ゆきみ熊春 二百八十円」等、黒いマジックででかでかと書かれている。
それらを全部無視してまっすぐ向かうのはガラス扉の冷蔵庫。冷たい水色の瓶を何本か掴み取り、ビニール袋にしまいこむ。がさり。足元で音がした。緑色の包装のものをくわえた猫又がこちらを見ている。
「……わかったわよ」
どれだけ欲しいんだ。
仕方なく受け取り、袋に入れた。
まあ一枚だけならまだましだろう。箱ごと念力で押し付けられたときに比べれば。
カウンターに招き猫のような格好で座っている化け猫ポケモンのとなりにお金を置くと、化け猫はごろごろと喉を鳴らして目を細め、カウンターから飛び降りた。なあお。見送りのつもりだろうか。店の出口の前で、また鳴いた。
外はすでに暁に燃えていた。雲の隙間から黄金色の夕陽が煌めいた。
足を進めたのが家とは反対の方向だったからか、シオンが怪訝そうに首を傾げた。
『どこに行くの?』
「いつものとこ」
頭上では何羽かのスバメがくるくると舞っている。左手に下げた袋ががさがさと音をたてた。
『じき雨が降ってくるのよ』
「それまでには帰る」
シオンが小さくため息をついた。
『言い出したら聞かないんだから』
もちろん私は聞かなかったふりをする。
夏の田んぼは賑やかだ。遠目から見ればまるで草原のような稲たちが、夏の日差しをたっぷり浴びて競うように空を目指す。
サイコソーダの蓋を開け、口をつけた。からん。冷たいものが一気に喉を下った。
一人と一匹、のっぽの影が畦道を行く。
やがてたどり着いたのは、木々に囲まれた石段。一段一段登っていくと、ところどころの塗装が剥げて赤茶けた古い鳥居が見えてきた。
石段の真ん中にさしかかったところで腰を下ろした。となりでシオンがそわそわと足を踏みかえた。私はビニール袋から煎餅を取り出し、ぱきりと割ってから口を開け、落ち着きのない相方に差し出した。彼女はすぐさまかけらの一つをくわえると、ボリボリと不粋な音をたて始めた。おすまし顔が台無しだ。
もう一度、ソーダを口に含んだ。ほどよい刺激が舌を包む。
遠くの空で入道雲が鉛色に垂れ込んでいるのが見えた。
ジーワジーワ。暑苦しい鳴き声も、一雨くれば少しは収まってくれるだろうか。
「ブゥ」
ふと何かおかしな声を聞きつけた。見ると、いつの間にやら足元に真っ赤なポケモンが二匹。ぶくぶくとマグマの泡のような頭をしたひょっとこ顔だ。
シオンがぱたりと尻尾を振った。
『珍しいのが来たわね』
「何? これ」
『ブビィ。炎ポケモンよ。この辺じゃあまり見ないわ。山から下りてきたのかしらね』
シオンは手短に説明を済ませると、また煎餅の袋に顔を突っ込んだ。あまり関わる気はないらしい。
それにしても。二匹とも、さっきから何か言いたげな熱い視線でこちらを見上げてくる。
何か、嫌な予感。
「ブゥ、ブゥブゥ!」
二匹のブビィが両手を伸ばした。
「は? 何」
『サイコソーダが欲しいんだって』
あぁ、やっぱりね。
石段に置いたビニール袋を引き寄せる。
見ず知らずのポケモンに餌付けするほど私はお人好しじゃない。
「あっち行きな」
しっしっと軽く手ではらった。まったく最近は甘ったれが多くて困る。
少しは怯むかと思いきや、ブビィたちは互いにぶぅぶぅ言い合って何やら相談を始めてしまった。
これ、結構粘られるパターンじゃないか?
横目でちらりとシオンを見た。相も変わらず煎餅に夢中だ。
ほほう。私には関係ない、と。いい度胸じゃん。
「ブゥ!」
片方が何かを差し出した。小さな手のひらに、小さな赤い実が握られている。
「今度は何」
『これと交換してくれ、って』
となりの猫又と、目の前のひょっとこを見比べた。ひょっとこは、そうだと言うように一際大きくぶぅと鳴いた。
ふーん、物々交換ってこと。ポケモンと。面白いじゃん。
「……はい」
木の実を受け取り、代わりに水色のガラス瓶を差し出した。ちゃんと蓋を開けておくサービス付き。ブビィたちは目をぱちぱちさせ、両手を伸ばして大事そうにそれを受け止めた。契約成立。さっそく二匹仲良く飲み始めた。ぶぉっ! 興奮した一匹が口から真っ赤な炎をもらす。よっぽどサイコソーダが気に入ったらしい。
ただ、見ているこちらとしてはかなり危なっかしい。
「ほら、用済んだんならどっか行きな」
そう言ったにもかかわらず、ブビィたちがここから立ち去る気配はない。今度は中のガラス球に興味を持ってしまったようだ。一匹が瓶を掴み、乱暴に振った。からからから。球が陽気な音を鳴らす。二匹はうれしそうに跳ね回り、上機嫌に火を吹いた。もう一匹が瓶を奪い取った。中のものを取り出そうとしているらしい、飲み口に手を突っ込もうと奮闘している。中のガラス球が抵抗するようにくるくる回った。
馬鹿か。そんなので取れるわけないだろ。
「貸してみ」
ひょっとこが驚いて目をあげた。
「別に、盗りゃしないって」
訝しそうに身をかがめていたブビィたちは、おずおずと水色の瓶を差し出した。受け取り、飲み口を覆う形で片手で掴む。き、と小さな音がして、口が外れた。ブビィたちが真剣な顔つきで私の手を見つめている。握られた手をそっと開く。透明なガラス球が転がった。たちまち歓声。
「ほら。取れた」
ブビィたちに返してやると、さっそく珍しそうに目から近づけたり遠ざけたり、珍しそうにいじり始めた。こうして見ていると人間の子供と全然変わらない。あんなものにそこまで夢中になれるなんてね。
私にも、あったっけ。あんな風に小さな宝物に夢中になった頃が。空き瓶にたくさんガラス球を貯めて、ベッドの上に並べてお店屋さんごっこをして、真っ白な服を着たお母さんが、にこにこしながら、それを見てて――
ああ、もう全部昔の話だ。何を今更、思い出してるんだろう。
ふと何かが手を濡らした。今度は顔。上を見る。真っ暗だ。
「やば」
夕立だ。
シオンがすばやく反応して石段を駆け上がる。私は散らばったごみを手当たり次第に袋につっこみ、猫又の後を追おうと立ち上がった。そこではっと気がつき振り返る。ひょっとこたちはまだのんきにガラス球をいじくっている。
「ちょっと、あんたら!」
二匹がきょとんとした顔でこちらを見た。
「こっち来な」
こいつら炎ポケモンのくせに無用心すぎるだろ。
無理矢理二匹の手を掴みあげ、引きずるようにして石段を上った。先に上まで上りきったシオンが振り返り、尻尾を揺らした。古ぼけた神社の境内に身を滑りこませたすぐあとに、激しい雨粒がけたたましい音をたて始めた。
間一髪、なんとか濡れずには済んだ。それはまあいいんだけれど。
『これじゃあ帰れそうにないわね』
シオンがぶるぶると身を振るった。
『だから言ったのに』
「うるさい」
もっと早く帰るつもりだったんだ。言おうか少し迷ったが、結局声にしても何もならないのでやめにした。
それにしてもすごい雨だ。たくさん雨が降る様子を「バケツをひっくり返したような」とか言うけれど、正直そんな安っぽいものでは収まらない。トージョウの滝もびっくりの猛烈な勢いだ。持ってきたビニール傘は、ところどころにセロテープのつぎはぎが見えるおんぼろ傘。この雨の中ではおそらく五秒ともたないだろう。
ふと足元に目をやると、ブビィたちはまだガラス球をかざしていた。小さな手のひらで転がして、不思議そうに眺めてまた次の手へ。一つきりのガラス球を、宝物のように代わる代わる手に取り遊んでいる。
「あんたら、そんなに気に入ったんだ」
ため息混じりの声も、ほとんど雨音にかき消されてしまった。一歩足を踏み出せばたちまちびしょ濡れになってしまうような僅かな空間で、ブビィたちは無邪気に笑い、くるくると踊った。
まったく、人の気も知らないで。
私は小さく息を吐いて、袋の中の飲みかけの一本を取り出した。
「あげるよ」
差し出した手のひらで、ガラス球が肌色に透き通る。ブビィたちはきょとんとして私を見た。
「いいよ。私これいらないし」
片方がそっと手を伸ばした。二、三度瞬きを繰り返し、掴んだそれをじっと見つめた。もう片方が持っていたガラス球と並べてかざした。二匹の瞳が輝いた。喜びのあまり吹いた炎が大きく膨れた。驚いたシオンが飛びのき、尻尾を荒々しく振って見せた。
『ちょっと。お行儀悪いわね』
煎餅をぼろぼろこぼしながら食べていたポケモンが言えたことか。
それでもブビィたちにはこちらの苦情はまったく耳に入らないらしい。ぶぅぶぅと楽しそうにはしゃいでいる。
「ブゥブゥ!」
ひょっとこたちが何やら詰め寄って来た。両手を一生懸命に動かして、何かを伝えようとしているらしい。
「ブゥブゥブゥ! ブゥ、ブブブブゥ!」
ごめん。さっぱり分からない。
「何て言ってるの、コレ」
私はシオンを見た。シオンは私を見た。
『……よく、分からないけど』
彼女は困ったように耳をぱたぱたさせ、ブビィたちの方を向いた。
『何か、お礼に、家まで送ってくれるって……この子たちが』
「は? 何言ってんの?」
つい声が裏返る。
今? この大雨の中を? このちっぽけな炎ポケモンたちが? 一体どうやって?
シオンも分からないと肩をすくめて見せた。ブビィたちが服の裾を引っ張ってくる。
「ちょっと、あんたら正気? 何考えてんだかさっぱり分からな――」
私の言葉は最後まで続かなかった。ブビィたちが空に向かって一声鳴いたかと思うと、一瞬にして辺り一面が白熱した。光に目をやられ、何が起こったのか分からないまま立ち尽くした。そして、ふと気がつく。雨音が止んでいる。
『なるほどね……日本晴れか』
「日本晴れ?」
先ほどとは打って変わって、じりじりと肌を刺すような強い日差し。上を見ると、手を伸ばせば届きそうなところで小さな太陽もどきが熱を発しているのが分かった。白い輝きが熱を伴って、辺り一面を照らしつけている。ふと周りを見回すと、裏手の林はまだひどい雨足に包まれているのが見えた。
はは、なるほどね。私たちの周りだけ晴れているんだ。
シオンがさんさんと光の照りつける石畳へと飛び出した。
『ずいぶん強引な方法じゃない。誰から教わったの?』
ブビィたちは得意そうに火を吹くと、太陽の下を駆け出した。
シオンの言うとおり、なんともまあ強引な方法だ。どうも手馴れたようにも見えるし、炎ポケモンっていうのはみんなこういうものなのだろうか。
私は苦い笑みを浮かべて、鳥居の下で急かすように手を振るひょっとこたちへと足を進めた。
「ねぇシオン」
『何?』
「あんたも、日本晴れ使えなかったっけ?」
『…………』
まだまだ暑い夏は続きそうだ。
―――――――――――――――――
はじめまして、サンと申します!
とりあえず夏っぽい話を書きたかったのでがりがり。
夏の夕暮れに田んぼに行くとものすごいノスタルジックで癒されます。
エーフィって猫又だよね。にゃんこかわいいよにゃんこ。
【書いてもいいのよ】
【描いてもいいのよ】
【批評していいのよ】
【でも嫁はサンダースなのよ】