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  [No.1922] 幾度とない好機を 投稿者:戯村影木   投稿日:2011/09/25(Sun) 09:39:00   87clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
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 ああ、なんということだろう、夜明け前、私の最愛の妻がこれから産卵するというのに、目の前には、野生ではほとんど見ることはない鴻鵠がいた。虫である私たちには天敵であるし、力が違いすぎる。捕食する側と、捕食される側。狩人と獲物。その明確な力関係があって、私の頭は、絶望で満たされていた。夜明け前、産卵の前ということで動揺していたのもあって、姿を晒しすぎたのだ。上空から、見つかってしまった。さらに始末が悪いのは、この鋭く長い嘴をした鳥は、私を見るなりすぐにこう言ったのだ。
「なんだお前か、随分と久しぶりだな」
 天敵に見つかってしまった、というだけでひどく焦っていた私だ。最初は何を言われているのか分からなかった。しかし次第に、彼に、どこか面影を見つけることが出来た。そう、彼は、幼い頃私と共に育った雀であったのだ。
「君……なのか」
「ああ。まさかこんなところで出会うとはな」
 私と彼は、元々は人間に飼われていた身だった。いや、飼われていたというほど、恵まれた形ではなかったかもしれない。ただ、同じ空間、同じ時間を共にしたに過ぎない。彼と私は、卵から孵ってすぐに野生に放り出された。私たちの中ではよくある、『野生帰り』のそれだ。お互い赤ん坊であったが、不思議と力は強かった。私も、圧倒的な成長差があるにも関わらず、この森で生き残り成長することが出来たし、幸いにも、蛹を経て、蝶になることが出来た。群れの中では一番強いと言われていたし、事実そうなのだろう。それから万事が上手く行き、美しい妻を娶り、もうすぐ子どもが生まれるという、そんな時期だった。
「君……どうしてこんなところに」
「別に、飯を探しに来たんだよ。腹が減ったからなあ」
 彼は羽を休めて、木の枝に留まった。私たちの家は一番背の高い木の上にあり、木の洞では、妻が寝込んでいるところだった。
「そ、そうか……良かった、来たのが君で良かった」
「ん、どうしてだ」
「それがね、もうすぐ私に子どもが生まれるんだ。初めての子でね。私には友達というような相手がいなかったから、君に祝ってもらえるならこれほど嬉しいことはないよ」
「へえ、がきが生まれるのか」
 彼は羽を少しだけ動かして、溜め息をついた。
「そのがきを食えばいいのか?」
「え?」
 私は彼の瞳に光を見出せなかった。
「だから、言っただろう、俺は飯を食いに来たんだ。まあ、食う相手は誰だっていいんだ。お前だっていいし、お前の妻だっていい。そのがきだっていいんだ。とにかく腹が減っているからさ、何かを食わなきゃ」
「ば、ばかなことを言うなよ……君は何を言ってるんだ。食べちゃだめだよ。せっかくこれから生まれるんだ」
「だけど、俺だって何かを食わなきゃ、死ぬんだ」
 私は彼を特別よく知っているというわけではない。一緒に過ごした期間は、どれくらいだろう。お互いが一人立ち出来ないような非力な頃に、少しだけ力を合わせて生き延びた。たった数週間のことだったかもしれない。彼は飛ぶことを覚え、この森を出て行ってしまった。私は空を飛べるようになっても、この森の天井を抜けるほどの大きな羽は持たなかったので、ここに留まっていた。
 再三言うが、私は彼をよく知らない。彼がとても気の良いやつであるとか、彼が愛情に満ちているとか、そういう過去があるのかどうかを知らない。だというのに、なんという愚かなことだろう、私は彼が旧友だと知った時、良かった、見逃してもらえる、などと馬鹿げた考えを浮かべた。溘焉として自分が死ぬことなど考えてもみなかった。それがどうだ、彼は鳥でしかなかった。弱い虫螻を狙う、ただの鳥でしかなかったのだ。
「だがしかし、死ぬと言っても、食べてすぐに死ぬわけじゃないだろう」
 私は話を遷延させることに決めた。そうすれば彼の気が変わるかもしれないと思ったのだ。少なくとも、すぐに取って食われることもないだろう。彼の鋭い嘴に注意しながら、私は言葉を続けた。
「君に啄まれたら、私たちはすぐに死んでしまう。でも、君は私たちをすぐに食べなくても、まだ生きていられる。ここは何とか見逃してくれないか」
「そりゃあ、お前の言うことも分かるよ。だけど、そうやって俺が全員見逃して行ったら、いつか野垂れ死ぬんだ。だったら、そんなこと深く考えずに、ぱっと食いたいもんを食った方がいい」
「でも……私と君は知り合いだろう? 見逃してくれてもいいんじゃないか」
「他にも俺みたいな鳥はたくさんいる。そいつらに食われるくらいなら、知り合いの俺が食った方が良い、って考え方もある」
 いや、こんな話をしたいわけではなかった。枢機は死なないためにはどうすればいいか、である。最終的には、彼と戦うこともあるのだろうか。しかし勝ち目があるとは思えない。虫は鳥に無力だ。一矢報いて死ぬのがせいぜいだろう。
「お前はこの森に閉じこもっていて、世界を知らないんだな」
 彼は唐突に話を変えた。まるで諭すような言い方だった。
「俺たちみたいな生物はさ、俺たちなりに世界を構築しているんだよ。人間に捕まるか捕まらないか、っていう二択で生きてるわけじゃない。俺たちには俺たちの二択がある。生きるか死ぬかだよ。なあ、お前が抵抗しないなら、俺はお前を食うよ」
「どうしてそんなに私に拘る!」
 私は思わず激昂していた。
「他にも虫は大勢いるだろう! 知り合いだからか? それとも、君はわざわざ知り合いの幸せを壊すっていう、そんなに酷薄なやつだったっていうのか?」
「逃げたっていいんだぜ、別に」
 挑発だったり、慈悲であったりするわけではなかった。彼は事実をただ事実として、私に告げた。逃げたっていいんだ、と、背中を押すように、淡々と言った。まさにその通りだった。逃げても良いのだ。野生生物同士の対峙というものは、本来、そうした逃走が許される。
「逃げるなら、俺はなんとか追いかけようとする。だけどその途中に食いやすい虫がいれば、そっちに標的を移すよ。たったそれだけの、簡単な話さ。至って単純だろう。そら、逃げろよ」
「でも、私には家族がいる」
「ああ、そうだな。お前が逃げたら、残った家族を食らうよ」
「戦わなければならないのか」
「まあ、それが普通なんだよ」
 彼は瞳に悲哀の色を浮かべていた。そこに、多少の慈悲を感じ取る。
「俺たちは死ぬんだ。いいか、俺たちは死ぬんだ。寿命が来るまでとか、病気になるまでとか、そういうことじゃなくてな、いざってときに足踏みするやつは、その時死ぬんだ。野生生物はもっとそうさ。仮にも、人間に飼われていたんだ、分かるだろう? 生きるっていうのは、勝ち続けることなんだよ。お前がここで負ければ死ぬ。逃げられなければ死ぬ。そういうことなんだよ」
「でも、そんなの理不尽じゃないか! 私だって必死に生きてきたんだ。必死に生きて、親も身よりもない野生帰りの私が、やっと幸せを掴もうとしている時に……理不尽じゃないか! どうやったって君に敵うはずがない! 相性が悪すぎる! そんなので負けることも逃げることも許されずに、どうしろって言うんだ!」
「だが、お前は一瞬でも勝者たり得たんだろう」
 彼は私を睨み付ける。
「この森の中で、一番見晴らしの良いところに住んでいる。妻もいる。それはつまり、勝者だったってことだ。お前は勝者だった。では何故勝ってきた? それは、お前が優れた素質を持って生まれた個体だったからだよ。ある程度なんでも出来た。ある程度勝ち残れた。そうだろう?」
 私は言葉を失った。私が今言った理不尽という言葉は、まさに、私にこそ相応しい言葉だった。絶句だった。彼はさらに、私の心を抉っていく。
「俺だって、努力をしてお前の天敵になったわけじゃないよ。天敵ってぐらいだ、生まれつきなのさ。俺の力が強いのも生まれつき。運良く生きてこられたんだ。でも、俺が最強ってわけじゃないんだよ。俺にだって天敵はいる。そういう、不思議な関係なんだよ、俺たち生き物ってのはさ」
「……じゃあ、私は、ここで死ぬしかないのか」
「勝てばいいんじゃないのか」
「勝ち目なんてない」
「はあ……まあ、そうだな、そう思うのも無理はないかもしれないな。じゃあ、古い馴染みのよしみだ、いいことを教えてやるよ」
 彼は大きく胸を張った。
「諦めたやつは、いつだって負け組なんだ」
「しかしっ……諦めるしかないんだ!」
「俺たちには運良く素質があった。お前がもしがむしゃらに強さを求めていたら、俺にだって勝てたかもしれない。いや、まだ負けたと決まったわけでもない。挑戦してみろよ。出来ませんとか、相手が凄すぎてとか、場違いだとか、甘ったれたこと言うんじゃねえよ。それはお前の都合だろ。それを世界のせいにするんじゃねえよ。お前が諦めた。お前が努力を怠った。お前が戦意を喪失した。全部がお前のせいだ。そのせいで、お前の夢は叶わない。お前の幸せは掴めない。お前の家族は守れない。そうして敗者になるんだ」
「でも……でもっ……」
 言い返すべき思想が私の中にはなかった。彼の言うことが全てだ。野生生物としての私には、それ以上の意見がない。弱肉強食の世界。そこで生き延びたのは、運。慢心していたのだ。私は、努力をしなかった。彼のような鳥がいつ狙ってくるか分からないと、憂慮すべきだった。怠った。怠っていたのだ。なんて悲しい。なんて愚かしい。それに気づくのが、今なんて。
「挑戦して、負けて、初めて分かることもある。例え死の間際でも、気づけることもある」
 彼はそう言って、大きく羽を広げた。
「それに、運が良ければ、全員助かる」
 それが野生生物同士の戦いだった。
 人間同士の、規律や、制約や、道具のあるようなものではなく、ただ殺し合い、生き延びるための戦いが、そこにあった。静寂の中、圧倒的な力の差の中で、鴻鵠と、虫螻は、向かい合った。
 慢心を、余裕を、希望を、尊厳を、羞恥を、憎悪を捨て、ただ純粋に、勝ちたい、勝ってみたい、己の全てを認めるために、駄目で元々などではなく、誠心誠意、勝利だけを目指し、あるいは、自分の価値を改めて認識させるために、初期衝動のまま、一縷の望みなどではなく、全身全霊の野望のままに。
 幾度とない好機を、捨てないままで。