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  [No.1927] 山岳の報酬 投稿者:戯村影木   投稿日:2011/09/26(Mon) 02:02:10   66clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
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 人間と他生物の間に友情が芽生えることは別段珍しいことではないだろう。何かの気まぐれで野生の姫熊を窮地から救ったことで、私は姫熊と仲良くなった。


 私は山男だ。とは言え、身体が特別大きいというわけでもなく、平均より少し背が高いが体型は普通だ。それに、本当に普通の人間である。山を登ることだけに興味がある人間だった。他生物との関わり合いは基本的には避けている。だから、姫熊を助けたのはまったくの気まぐれだったのだ。落石の多い地帯にいた姫熊を、ほとんど脊髄反射で助けていた。熊に恩を感じているわけでもないし、優しい人間というわけではない。たったそれだけのシンプルで明確な行為。姫熊は無事だった。おかげで私は足に怪我を負った。
 姫熊を助けたあと、私はその場で呆然と座り込んでいた。どうやら足首を捻挫したようだ。それに、外傷もあった。皮膚が破け、血が滲んでいる。姫熊は私を心配してくれていたのか、おろおろと私の周りを回っていた。しかしそんなことをしても怪我は治らない。
「もう、行っていいよ。私は自分で何とかするから」
 私の言葉を理解したかどうかは分からないが、姫熊は私の元から去って行った。さて、どうしよう。一応救急用具は持っていたが、捻挫はどうにもならないだろう。人間用の傷薬を傷口に当て、ガーゼと包帯で簡単な手当をした。あとは木の棒を松葉杖代わりにして歩けばいいだろうか。そう考えていると、地面にさっと影が落ちた。見上げると、輪熊がいた。
 大きな図体。私はそこで死を悟った。比較的治安の良い山であり、登山者に襲いかかる野生生物は少ないと聞いていた。しかし、例外もあるだろう。私の人生はここで終わるのだ。大きな熊の影に潜み、私は人生の終わりを見た。不思議なことだが、その時の私の胸中は穏やかだった。
 輪熊の手が振り上げられた。それは非常にゆっくりに見えた。これが死の間際なのかと思った。死ぬ寸前は動きがゆっくりに見えるのだ。私はきっ、と目を瞑った。しかし、衝撃は来なかった。代わりに、優しく力強い抱擁があった。私は輪熊に抱きかかえられていたのだ。
 そしてそのまま、私は輪熊の肩に担がれた。ああ、このままどこかへ連れて行かれて、そこで死ぬのだと思った。子どもたちの待つ巣に連れて行かれて、食料にされるのだと。しかし、私が連れて行かれた先にいたのは、さっき助けた姫熊だった。


 私はそれから輪熊たちと過ごすことになった。
 捻挫はなかなか治らなかったが、悪い環境というわけではなかった。私を助けてくれた輪熊は、姫熊の父親であるようだった。母親らしき、おっとりした熊もいた。私が助けた姫熊の他にも兄弟がたくさんいた。彼らは私と遊ぶのを喜んだ。そして、動けない私の代わりに、魚を捕ったり、果物を持って来てくれたりした。
「いつも悪いね」
 通じないとは思っていても、つい言葉でお礼を言っていた。そのうちに、私の表情と口調で、言葉を認識し始めた。ありがとう、と言えば、姫熊は喜んだ。私の世話をしてくれるのはまさに私が助けた姫熊だった。雌であるようだったので、私は彼女を、特に『姫』と呼んで可愛がった。
 捻挫はあまり良くならなかった。むしろ、痛みが増すこともあった。あるいは骨折かもしれないと思ったが、私は時間の経過に身を任せた。医療の知識もないし、下手に調べて悪化するのも恐ろしかった。
 それに、自然の中で暮らしていると、なるようになる、と思えるから不思議だった。姫熊たちもよく怪我をしていたが、二日も経てばけろっとしていた。人間の身体は弱い。それを自然に適応させるために、私はそこでの暮らしを続けた。


 怪我をしてから一週間ほど経った頃、私の足の痛みは完全に引いていた。やはり捻挫だったのだろう。ほとんど動かず、食品としては好ましくない匂いを放つ草木を患部に塗り込んだりしたおかげかもしれない。立ち上がっても、歩いても、痛みを感じることはなかった。これで歩けると分かった私は、助けてくれた父親の輪熊に会いに行った。
「長い間ありがとう。世話になった」
 私が言うと、輪熊は大きな手を振り上げ、私の肩に置いた。それは少し痛みを伴う表現だったが、肩の骨が外れるほどではなかった。私も同じように輪熊の肩に手を置いた。それはきっとお互いを認め合う表現方法だったのだろう。
 母親の輪熊や姫熊たちにも挨拶をして、同じような表現を取った。そして、私は彼らの巣から出て行くことにした。少し奥まった場所にある巣だった。人気のない場所で、他の登山家と会うことは滅多にないであろう場所だった。
 健康的になった足で山道を歩いて、巣を離れ、ようやく見覚えのある場所まで来た時、ふと、背後に気配を感じた。まさかと思い振り返ると、そこにいたのは姫だった。
「なんだ、ついてきたのか」
 私が言うと、彼女は恥ずかしそうに近寄ってきて、身を寄せてきた。困ったな、というのが正直な気持ちだった。彼女を連れて行くつもりはないし、私はただの人間として生きていくつもりだったので、飼う気もなかった。
「ついてきちゃいけないよ」
 私がそう言っても、姫はその場を動こうとはしなかった。まったく、困った話だ。何が困るって、姫のそのわがままに、私の心が揺らいでいることだった。
「ちゃんと巣に帰るんだ」
 少し強い口調で言ったが、姫は人間がするように、いやいやと首を振った。私との生活の中で、そうした仕草を覚えたのかもしれない。こうなったら、無視しかないか。すぐに彼女から距離を置くように歩き出す。姫は案の定、私のあとをついてきた。
 結局、下山するまで、姫は私のあとをついてきた。人気の多くなった場所で、姫熊を放し飼いにするのは危ないだろう。私はすぐに近くの店に向かった。そこで生まれて初めてモンスターボールというものを買った。思っていたよりも安価だった。私はそれをぽんと姫に投げてみた。姫は全く抵抗するそぶりもなく捕まった。


 家に帰ると、大騒ぎになっていた。妻は私の捜索願を出していたという。会社に電話を掛けて事情を説明した。日頃真面目に働いていた甲斐があって、クビにはならずに済んだ。
 荷物をひっくり返していると、妻がモンスターボールに気づいて、それを拾い上げた。
「何これ?」
「ああ、飼うことにした」
「あなたが? 山登りくらいしか趣味がないのに?」
「まあ、気まぐれだよ」
 ころんとボールを転がすと、姫が現れた。妻は、まあ可愛い、と嬉しそうな声を上げながら、姫を風呂場へと連れて行った。
 捻挫していた足を見ながら、有名な諺を思い出していた。まあ、悪くない休暇だった。
 新しいことに手を出すタイミングなんて、案外簡単なことなんだな。転がったモンスターボールを見つめながら、そう思った。頑なに拒否していた自分がバカみたいだと、姫の鳴き声を聞いて感じていた。