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  [No.2097] 延寿今昔物語集 ― 蓮夢 投稿者:わたぬけ   投稿日:2011/12/04(Sun) 19:35:23   58clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
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 むかしむかし、それはそれは千もの年月よりも遥かにむかし、延寿(エンジュ)の京(みやこ)に平雅信(たいらのまさのぶ)という貴族がいた。
 先の帝、陽浄帝と女房で前関白葛原元経の娘、園子との間にもうけられた男子であった。しかしながら春宮には既に長子である昌明王が立太子されていたため、元服の後は臣籍降下され平氏の名を賜り、左京の五条四坊に屋敷を授かることとなった。
 この平雅信、顔立ちは大変彫りが深く、また背丈も五尺と半という稀なる高身長であったにも関わらず、哀しいかなそのような容貌の男は当時としては受け入れがたいものだったため、あまり女にもてるというものでもなかった。
 しかしながら楽を深く愛しその腕前も大変巧みなるものだった。いずれの時か鈴の塔にて楽献納に参加した折、それはそれはまるで天人の奏でるが如き美しい横笛を披露したため、主上から「雅信の笛声、まさに飛天のごとし」と讃えられ以降内裏で催し事が行われる際は必ずと言って良いほど呼ばれることとなった。もちろん奏でる楽器は横笛(おうてき)だけでなく琵琶、箏、笙、篳篥(ひちりき)などなど雅信公に奏でられぬ楽器はこの世に无しと囁かれるほどであった。
 さて、そんな平雅信公であるが、これは後の世に伝えられた寓話の一つ。

 ある日内裏での公務を終え、屋敷へと大隻牛(ケンタロス)の引く牛車に揺られて帰っていた。空は鮮やかな茜色に染まり、間もなく夜の帳が落ちようとしている。雅信は早く屋敷に戻り、月を眺めながら一曲奏でたいものだと思っていた。
 そんな折、雅信の耳を楽の音色がくすぐった。延寿京でこの雅信を他にして楽への愛の勝るものはなし、背筋をピンと伸ばし公務の疲れはどこへやらか吹き飛んでしまったかのよう。そして一音たりとも聞き漏らすまいと耳をすました。それはそれは甘美なる笛の音色。
 そこで雅信は是非ともこの稀有なる調べを奏でている奏者に是非とも会ってみたいものだと考え、牛車から顔を出して牛を引く童にこの調べが聞こえる方向へ向かえと指示した。ところが童はよしましょう、もう屋敷へ戻りましょうと反対する。それもそのはず、空を見るともう日は西の山の向こうへ姿を消し、西空が名残惜しく朱を交えたように赤く染まり、その手からこぼれたほとんどはもう真っ暗に近い藍色に支配されていたのだから。
 なにせ夜の灯など朱雀大路に燃やされる篝火くらいしか他に無い時代のこと。少し通りから外れて小路へと入り込むと一寸先は闇という言葉がそのままに表されるほど暗闇に覆われてしまう。それだけならまだしも、夜は物の怪の領分。特に実態が見えなかったり、人を化かしたりする霊鬼“たまおに”“りょうき”と呼ばれる物の怪が跋扈すると言われている。霊鬼にあてられた人間は魂を吸い取られたかのように無気力になったり、重い病気を患って死に至ると信じられていた。他にも喰われて喰い残しの死体は羅成門に捨てられるだとか、霊鬼絡みで死んでしまった魂は摺鉢山(すりばちやま)にあるとされる地獄への門の奥へ連れられるだとかいう話もまことしやかに語られていたのである。それらのことを鑑みるに、童の言い分も至極まっとうなことであった。
 しかし楽のこととなれば寝食も忘れてしまうこの平雅信。嫌がる童に食い下がり、命令だからこの笛の聞こえる方へ牛を走らせよと声をいからせる。しかし童は地に頭を付けてお願いですからどうかご勘弁をと遂には泣き出してしまう始末。楽のこととなると見境のなくなる雅信であるが、元来はとても慈悲深い気概。笛の音色の方へ牛車を走らせるのは諦めることとした。
 しかし笛の音色を求めることを諦めたわけではなし。雅信公は車副(くるまぞ)いの一人から松明を受け取ると家来たちに先に帰っても良いぞと言い、彼らが止めるのも聞かず笛の声の聞こえる方へと一人で歩き始めてしまった。

 さて、雅信は笛の音色の主を求め歩く。音のする方向へ音のする方向へと足を向ける。大路を横切り真っ暗な小路に入り込んだと思ったらまた大路に戻り、そうするうちについに空は完全なる夜に覆われ、まるで壮大な浄土図でも描くが如き星の輝きがそっと降りてきた。
 笛の音は少しずつであるが確実に近づいている。そして近づくに連れてその妙なる響の仔細が表れてきた。それは妖艶にしてこの世のものとは思えぬ微妙音(みみょうおん)。
――嗚呼、私の耳に狂いはなかった。主上から飛天の如き笛声と讃えられた私だが、この音色こそ天界の楽と呼ぶにふさわしいではないか。
 雅信ははしたないと知りつつも次第に小走りになる。やがてそれまで通っていた小路道を抜けると壮健たる塔の前へと出た。ここは大内裏より戌亥(北西)の方角に佇む鐘の塔。今の主上より六代前の高武帝が都をここ延寿に移す折、姥女大社より授かった託宣により同じく大内裏より艮(北東)の方角にある鈴の塔と共に建てたという九重の塔。
 その塔からこの天界の楽と呼ぶが如き笛の音色が聞こえてくる。空はもはや完全たる闇に染まり、摺鉢山の向こうから折しも昇った半月が鐘の塔を青白く照らしていた。
――まるで冥府に迷い込んだかのようだ。
 雅信は自分が手に持って掲げている松明がどうにもこの場にとって些か場違いであるかのように思え、さりとてもしこれを手放して霊鬼に当てられるようなことになったらという考えも浮かび、その二つが堂々巡りとなっていた。するとその時、塔の側に誰か人影がちらつくのを目にした。雅信の松明の明かりにぼんやりと照らされ、彼の人物の足元では影がゆらゆらと波のように揺れていた。しっかりと明かりに対して影が映るのを見るにどうやら人であるらしい。
 するとその人影も雅信に気づき、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。そのうちにどうやらこの者は笛の主とは違うらしいと気づいた。その者は草色の僧衣、あずき色の袈裟を身に纏っている。どうやらどこかの寺の僧であるらしい。齢は四十、あるいは五十くらいと見受けられた。柔和でありながらどこか厳しそうな皺を顔に刻み、背丈は五尺ほどと雅信に比べれば大分小さい。尤も、雅信のほうが大きすぎるという話でもあるのだが。両者は互いに深々と頭を下げると、雅信の方から切り出した。
「おぬしもこの笛の声に誘われてやってきたのであるか?」
「ええ。拙僧は摺鉢山延妙寺の浄厳(じょうがん)と申す」
「浄厳殿とな。お噂はかねがね伺っておる。市井に出て名も無き人々のために念仏を唱えたり、田畑を焼く炎狐(えんこ)を退治したりと」
「いえいえ、そのようなこと世の人々の誇張でしょうに」
 それから雅信は次に己の身分をこの浄厳に明かした。浄厳はほうほうと頷きながら興味深げに雅信の足元から烏帽子の先までを反芻するように眺めた。
「こちらこそ雅信殿の噂は耳にしておりますぞ。その楽の才は世極まるところにて主上からも深く気に入られているらしいではありませぬか」
「ハハハ、楽しか取り柄がないだけであるさ。一応官位も頂戴しているものの、政(まつりごと)のような難しきことはとんと分からぬ」
「そしてその楽が、雅信殿をここへ連れてきたというわけでありますな」
 雅信は笑いながら頷き、そして二人は今一度鐘の塔を見上げた。笛の音色は二人が話している間も鳴り止むこと無く流れ、どこまでも響きわたっていくかのようだった。
「そういえばなぜ摺鉢山の僧侶たるおぬしがここへ?」
 雅信はかねてより抱いていた疑問を浄厳へ投げかけた。
 延妙寺とは摺鉢山に建つ寺院である。摺鉢山は延寿京より艮の方角にそびえる山で、成杜国(じょうとのくに)の霊山の一つであった。広大な洞窟が走り東方の伏戸(ふすべ)などの地方へ行くための重要な交通路であるのだが、都から艮すなわち鬼門に位置するためそれを抑えるべく、山には壮麗なる伽藍を持つ寺宇が建造された。それが延妙寺であった。
 浄厳は塔を見上げる視線を揺らがさぬまま、少し躊躇するように間を置くと、やがて語り始めた。
「実はですな。今より十日程前のこと、延妙寺の宝物蔵が何者かに荒らされたのでございます。結構な騒ぎになりましてな、すぐさま蔵を整理し所蔵目録と照らしあわせたのですが、奇妙なことにたった一つの物を除いて何も盗まれても壊されてもいない。どうやらその一つの物だけが目的であったようでな」
「その盗まれた一つとは?」
「龍笛です」
 言葉を強調するように浄厳は言った。雅信はゴクリと唾を飲み込む。
「蓮夢(はすゆめ)というそれは見事な笛でして、西方の唐土よりもたらされた名器でございまする。笛が吹き手を選ぶと言われるほど気難しい楽器であるが、ひとたび手懐けるとその音聲その名のごとく夢を見ているような心地にいたすと言われております。そしてその名器が何者かに盗まれた。私は数日前より市井に降りてみ仏の教えを民に説くとともに、盗まれた蓮夢を探しておりました。するとさきほどこの先にあります庵に戻る折り、どこからか笛の音が聞こえる。もしやと思い音を辿ってみるとこの鐘の塔にたどり着き、雅信殿に会ったという次第。いやはや、盗まれた龍笛を求めて雅信殿にかの有名たる雅信殿に会おうとは、これも必然と申しますかもしくはみ仏のご縁というものでございましょう」
 浄厳はそっと手を合わせると鐘の塔に向かって頭を下げ、小さく念仏を唱えた。
「ではこの笛の音が盗まれた蓮夢かもしれぬということか」
「決まったわけではありませぬがおそらくは……。なにせずっと蔵に収められていた故、拙僧もまだ一度も蓮夢が奏でられているところを見たことがなかったので」
「なるほど。となるとますますにこのまま奏者も分からぬままただ聴いて帰るだけというわけにはいきますまい」
 浄厳は低く笑った。つられて雅信も笑う。改めて二人は鐘の塔を見上げた。そして何も言葉を交わさぬにも関わらず、申し合わせたように歩き始めた。ザッザッと白洲の砂を踏みしめる音が鳴る。塔の入り口の前に差し掛かった時二人は同時に気づいた。
「これは……錠が壊されておるな」
 中に誰かがいるのはどうやら間違いない。そこで雅信はもしうっかり塔を焼くようなこととなると笑えぬということで松明の灯りを消した。唯一の光がなくなり、あたりに墨をかぶせたように暗闇が覆った。そうなるとさすがの二人もこの暗闇を前にしては多少の恐怖を感じないでは居られない。しかしそれでも笛の音はこの場を離れたくないという欲求を起こさせるに十分であった。
 二人は暗がりの中で塔の扉を開く。幸いにも塔を上まで登る必要はないようだった。なぜならこの笛の音は明らかにこの第一層から聞こえてくるからだ。雅信と浄厳は顔を見合わせるとやがて両者意を決して音を立てぬように塔中へと足を踏み入れた。




 中は真闇にして己の手足さえ目に映すには容易ではない。木の格子からわずかに月明かりが漏れ入っているものの、その申し訳程度たるや気休めという他ない。
 二人はゆっくりとだが奥へと入っていく。
 雅信は震えていた。物の怪とも知れぬ得体のしれない笛の主や己を飲み込むように包みこむ暗闇に恐怖したのではない。それは感動の震え、興奮の震え、魂の底より体全体へと伝わる震えだった。それを起こさせているのは他でもない、この龍笛の音色だった。外で聴いている時も十分すぎるほどの感動を味わったはずだったが、塔の中へと入るとまた一味も二味も違う。笛の音が発する波紋が塔を形作る木材一本一本に伝わり、それが跳ね返って大気に木霊し、その跳ね返った音がまた元の笛の音とぶつかり合い絶妙なる調和を描いている。まるでこの鐘の塔全体が龍笛そのものになったかのよう。自分が主上から飛天の如しと讃えられた鈴の塔での楽献納の時でさえ、このような音は決して鳴らなかった。これは奏者のなせる技なのか、はたまた楽器のなせる技なのか。
 雅信は感極まるあまり、ついに涙を流さんばかりとなった。
「嗚呼、いとめでたし」
 感情の昂ぶりのあまり、ついに雅信はつぐんでいた口より声を漏らした。そのときだった。帰り道の牛車の中で初めて耳にしてから今までずっと絶えることのなかった笛の音が、まるで水を打ったようにピタリと止んだのだ。雅信はハッと息を飲んだ。しまったと思い、慌てて足を踏み出そうとしたが、しかし同時に暗闇の奥から声が聞こえた。それはか細い今にも消え入りそうな女の声だった。
「そこにいらっしゃるはどなたでございますか?」
 胸が高なった。しかし今度は感動や驚嘆によるものではなく、緊張によるもの。思わず頼るように浄厳へと目を向けた。しかし浄厳はじっと闇の奥へと顔を向けたままじっと動かない。しかもこの暗がりのせいでその表情も全く読めなかった。暗闇の奥は女の声が聞こえたっきりやはり何も物音がしない。このまま黙りを通すわけにも行かず、ええい儘よという気持ちで雅信は口を開いた。
「私は平雅信という者なり。宮中から帰る折、この世のものとは思えぬ美しき笛の音を聴き、是非とも奏者にお目にかかりたいと思い、ここまで来た。さきほどまで笛を奏でていたのはおぬしであるか?」
「はい」
 女の声はやはり枯枝のようにか細い。
「実に見事であった。この延寿京……いやこの世のあらゆる笛の名手であってもそなたの調べにはきっと敵わぬであろう」
「有難き御言葉を。しかしながらそれは私の成した技ではございませぬ。この蓮夢が成した妙技……」
「やはりそれは蓮夢であったか?」
 浄厳が壮年らしい乾いた声で張り上げた。女の声は横から入ってきた浄厳の声に驚いてしまったかのようにぷっつりと途絶える。しかし居なくなってはいない。雅信も浄厳も暗闇の奥にまだ何かが居るという気配を感じ取っていた。
 浄厳はつい声を荒らげてしまったことを気恥ずかしく感じ、こほんと咳払いをすると同じ人物とは思えぬほど声を穏やかに落とし言った。
「いや、失礼した。拙僧、摺鉢山延妙寺の坊主で浄厳と申す。何を隠そう、今より十日前に寺の宝物蔵から盗まれた蓮夢を探すためにここへやって来た」
 そこで一旦言葉を切るが、女からの返事はない。浄厳は続けた。
「只今の汝の調べ拝聴いたすところ、さぞかし名のある龍笛の名手とお見受けする。これほどまでの名手に奏でられるとは蓮夢もさぞかし喜んでおろう。しかしながら、その蓮夢は延妙寺の大切な宝物。今なら先ほどの素晴らしき調べに免じて手荒な真似は控えよう。どうか蓮夢を返してはくださらぬか」
 暗がりのせいで雅信は浄厳がどのような顔をしているのか見定めることができない。しかしその声の調子で自ずと想像されるようだった。穏やかに語りかけているようで、腹の深い所、奥底ではしっかりと相手を逃すまいと、声でもって睨んでいるようだった。
 そんな浄厳を知ってか知らずか、女の声は依然として聞こえない。あまりに続く静寂に雅信はまさか相手に逃げられたのではないかと、自ずと自分たちの入ってきた出入り口に振り返ろうとした。しかしそのときになってようやく暗闇の向こうから女の声が戻ってくる。
「分かりました。お返ししましょう」
 その言葉に雅信がほっと胸をなでおろしかけるが、そこで女の声が「しかし」と続いた。
「お返しする前に、どうしても叶えていただきたいことがございます」
「申してみよ」
 浄厳が返す。
「まず一つ、お二方にこの蓮夢の謂れを聞いていただきたいのです」
「ほう、蓮夢の謂れか」
 こう返すは雅信。雅信はちらりと浄厳に目をやるが、やはり暗がりのせいでよく分らない。しかし彼が何も言ってこないので、雅信はこれを恙なしという意向に汲み取り、女に言った。
「ぜひ聞かせていただきたい。これほどの音色を生み出す楽器。よほど腕の立つ職人の技であろう」
 雅信の返事に、女は「おお」と歓喜とも感動ともつかぬ声を上げ、その声はあるいはすすり泣いているようにすら聞こえた。やがて疼いていた痛みが治まるかのように声も止むと、女はポツリポツリと語り始めた。
「この蓮夢、今より百年(ももとせ)もの昔、ここより西方の大陸にある国の職人の手によって生み出されました。職人の名は高榮(こうえい)と言い、数々の名器を生み出した天才的な楽器工でありました。特に笛に関しては百年に一人となしと呼ばれるほどで、その音色は何人もの諸侯、果ては皇帝に至るまで魅了しました。やがて彼国の都に呼ばれ、いくつもの名器を献上する身分となったのです。そして高榮には一人の妹がいました。この女もまた楽器、特に笛を鳴らすことに関しては類い稀なる才を持っており、高榮が作った名器を妹が鳴らして世に広めるという図式が成り立っていたのです。世の人はこれを『高之二楽才』と讃えられました」
「その妹というのは……もしや?」
「はい……何を隠そう私でございます。私たち兄妹はまだ年端もいかぬ内に身寄りを流行病で亡くし、二人で互いに支えあい生きてきました。幸いにも一族は楽師、楽器工を代々輩出しており、私たち兄妹も幼き頃より兄は楽器工、私は楽師としての手ほどきを受けており、それを職になんとか食べることは困らずに済みました。
 そのうち、先ほども申し上げましたように都に呼ばれ、宮廷の宴にて皇帝の御前で演奏するという誉をいただき、その宴のために兄はそれまでの経験の粋を結集した一品を紆余曲折を経つつ完成させました。それがこの蓮夢。そして申し遅れましたが、私は名を高蓮(こうれん)と言い、蓮夢というのも兄が私のために付けた名なのです」
「なるほど。元々蓮夢はそなたの兄がそなたのために作ったものであったのか。しかし、それがどうしてかような土地にまで?」
「はい。それで件の宴は大変な成功をおさめ、私ども兄妹は皇帝のご寵愛を受けることとなりました。しかしわずか数年でもとよりご高齢だった天子様は崩御あそばされ、そこから悲劇が始まりました。後継者をめぐって内乱が起こり、その混乱の中で兄は死罪に……そればかりか兄が作り上げてきた数々の名器も焼き捨てられてしまったのです」
 高蓮と名乗る声の主はそこでいったん言葉を切り、その頃の事を思い出したのか泣いているように呻いた。
「私は兄や先帝の側近だった方々の計らいでどうにか都を脱し、各地を放浪しました。しかし生き延びたものの先の希望も見いだせず、死ぬことさえ考えました。そんな折り兄の楽器の内、蓮夢だけがどういう因果か焼亡の難を逃れ、はるか東のこの成杜に渡ったという噂を耳にしました。全ての希望を失っていた私がこの報にどれだけ救われたことか……。せめてもう一度だけ蓮夢を奏でたいという思いで、港から貿易船に潜り込み、さらにいくつもの歳月を経てようやく成杜へとやってきたのです。しかし……」
 高蓮は語調を落とす。
「それまででした。成杜の地を踏んで間もなく病に伏しそのまま果てました。しかしそれでも蓮夢だけはもう一度……と願う心が成仏を許さなかったのでしょう。私の魂は現世に留まり、なおも百年に近い歳月をかけて蓮夢を探し続けました。そしてつい先日、ついに延妙寺の蔵にて悲願だった蓮夢との再会を果たしたのです」
 そこでようやく高蓮は話を終えた。
 雅信はただいまの話にいたく感銘を覚え、気が付けば両の目よりはらはらと涙を流している。直衣の袖で目元を拭い、今一度暗闇の奥に目を凝らした。依然として何も見えないがそこには唐土衣装に身を飾り龍笛を手に持ち、麗しくたたずむ女の姿が幻視されるようであった。
 この高蓮という女はどのような思いをして病の地で果てたのだろうかと雅信は思いを馳せる。過去に偲んでは涙を流し、兄を偲んでは顔を埋める。
「さてもうら悲しき物語よ。かように美しき音色の裏にそのような謂れがあったとは。品のほとんどを焼き捨てられるとは、さぞ高榮殿も高蓮殿も無念であったろう」
 袖を涙に濡らしつつ、雅信は今の我が身がいかに幸福であるかを思う。今の主上の御代は安寧を持し、政争の種は転がっていないとは言えぬが、好きな管弦を鳴らし暮らしている。いつかこの平穏も崩れてしまうのだろうかとぼんやりと考え、にわかに寒気が襲った。
「蓮夢の謂れにつきましてはこれで終わりにございます。そしてこれから申し上げるのがもう一つの願い。
 蓮夢を再び取り戻した翌日から十日かけて、かつて天子様に献納した十の曲を一日一曲ずつ奏でてきました。そして今日が九日目。明日の最後の一曲で今度こそ私の未練も尽くでしょう。ですので、どうかお願いです。蓮夢の返却を一日だけ待って頂けませぬか。明日の晩の最後の一曲が終わりましたら、必ずやお返しすると約束いたします」
 そのとき雅信は何か奇妙な物音を耳にした気がした。縄のような太い何かが床を擦るような乾いた音。しかし音はその一度だけで以降は何も聞こえなかったので、すぐに意識の外へと追いやられた。
「どういたしますかな、雅信殿?」
 浄厳が殊勝に身を低くして尋ねる。
「どうするも、やはり明日まで待とう。高蓮殿がそれで未練が晴れるというのなら」
「私も賛成にございます」
 浄厳の口調はなにか自分と違う意味が込められているような響きを感じ、雅信は少し眉を寄せた。しかし雅信はすぐに思い直して高蓮の声のする暗闇の奥へと向き直った。
「分かった。約束いたそう。明日の晩、同じ時刻にまたここへ来よう」
「おお、有難き幸せ。出来ることならあなた方のために今一度楽を奏でたいところでございますが、故あって叶わぬところ。どうかまた明日お越しくださいませ」
 その言葉が終わるとともに、なにかと板が外れたようなガタンという音が鳴り渡り、雅信は夢から叩き起こされたようにビクリと体を震わせた。
 それっきり高蓮の声も、龍笛の音色も何も聞こえず、鐘の塔は夜の静寂が再び支配することとなった。浄厳は雅信に塔を出ることを促し、彼もそれに続いた。
 外に出てから再びこの九重塔を見上げる。夜空の星々その陰で黒々と隠す様はまるで巨人のようだと雅信は思った。
 今一度耳を凝らすがやはり笛の音は聴こえてこない。
「浄厳殿、蓮夢は延妙寺の宝物であるということを忘れて勝手に決めてしまって申し訳ない」
 雅信は今しがた高蓮と交わした約束事を、浄厳の前で軽はずみだった己を恥じる。しかし浄厳は大らかに笑いを返した。そういえば塔の中ではずっと暗がりの中で浄厳の表情がわからなかったが、今外に出ると月明かりに照らされてようやくその顔が見えるようになっている。
「なあに、構いませぬ。もう一度あの笛の音を耳にすることができると考えれば」
 顔がようやく見えたことによって雅信は得も言われぬ安心感を感じた。
「それより雅信殿、私めは明晩は少々野暮な用事を済ませてから参上する故、少々遅れるかもしれぬことをお許しください」
「ほう、いったい何用で?」
「鈴の塔へ」
「鈴の塔?」
 ここ鐘の塔と真反対に位置する鈴の塔まで何しに行くのかと雅信は気になったが、それ以上問いただすのもさすがに野暮だと思い直し、そこで問答は終わりにした。
 雅信と浄厳は同時に東の方角へと目を向ける。摺鉢山の山肌から十五夜の月が昇り、青白く淡い光を降らせていた。その光を背後に背負って鐘の塔に相対するもう一つの塔、鈴の九重塔が高々とそびえていた。




 翌日、ゆうべと同じように平雅信は内裏での公務を終えると、牛車を屋敷の方向ではなくまっすぐ鐘の塔へと向かわせた。幸い方違(かたたが)えの方角も問題ない。しかし家来たちには直接鐘の塔という目的地の名を告げるのではなく、乾(いぬい・北西)の方角に向かえとだけ命令した。昨夜のことを話すようなこととなれば、怪異だの霊鬼だのと騒がれかねないと思ったからである。雅信ももちろん物の怪や鬼に関わって恐ろしい目に遭うようなことはごめんだが、あの蓮夢を自在に奏でる高蓮はそういった存在ではないだろうと安心していた。
 鐘の塔への道中、車の中で雅信は様々な思案をめぐらす。
 今晩、高蓮どのが奏でる皇帝に献上したという最後の秘曲はいかほどのものなのだろうか。もし出来ることなら譜を伝授していただきたいものだが、さすがにそれは無理というものだろう。
 雅信は今晩鐘の塔へ赴くに当たり屋敷より持参したものがあった。両の手に抱えているのは木綿と麻で出来た袋に入った小岩ほどの大きさのもの。本体と思われるふくらみからまるで馬の首のように伸びている部分がある。彼はおもむろに袋を開けて取り出すと、それは一面の琵琶。この琵琶は「藍水」という名を与えられており、雅信が父親である陽浄前帝より臣籍降下する際に譲り受けたものだった。彼は楽器においては金銀よりも大事に扱っていたが、この藍水はとりわけどの楽器よりも丁重に扱い、内裏で楽の宴が開かれるなど特別な時にしか持ち出さなかった。
 雅信は藍水を恭しく構えると、牛車が揺れるのに合わせて昨夜耳にした蓮夢の奏でた音色を思い出し口ずさみつつ、撥を弾いた。
 牛車はギリギリと車輪を軋ませながら都路をゆっくりと進んでいく。折しも東の山巓からは昨夜より若干切れ目の膨らんだ弓張り月が昇り始めている。日の落ちた延寿の大気に琵琶の幽玄なる音が揺らめく。
 さて、やがて車が調度良いあたりに差し掛かったので、適当な小路の影に止めさせた。そして家来たちにここで待つよう命令すると、気づかれないように若干大回りしながら藍水持参のもと、鐘の塔へと向かった。一方で家来たちは主人があれほど特別な扱いをしている藍水を持ち出してどこへ行こうとしているのだろうかと怪訝に思うのだった。
 塔に着いたとき、昨夜の言葉通り浄厳の姿はまだそこには無かった。さてどうしたものかと雅信は佇む。先に入っていようか、それとも浄厳どのが現れるまで待とうか。鈴の塔の方角を見通しながら、一刻ほど手持無沙汰にうろうろとした後、やはり浄厳が現れなかったので仕方なく先に入ることとした。
 錠の破れた扉を開くと、その向こうには昨夜と同じ深く、冥府へと繋がっているかのような闇がぽっかりと口を開けていた。昨夜は浄厳と一緒にいたおかげであったのか、一人でこの闇を前にするとさすがに少々怖い。歩幅を狭めて恐る恐る足を忍びいれると、闇に向かって声をかけた。
「蓮どの、いらっしゃるか? 雅信だ」
 雅信が呼び掛けると間を少々置いた後、高蓮の声が帰ってきた。
「嬉しや。来てくださったのですね」
「さっそくお聴かせ願いたい、と言いたいところであるが、昨日一緒に居た浄厳どのは後で遅れて来る故、秘曲の演奏については少し待ってはもらえないだろうか」
「分かりました。待ちます」
「その代わりと言っては難であるが」
 そう言いつつ雅信は琵琶の藍水を取り出し、構えた。
「拙き腕故、生前高名なる奏者であった蓮どのの前で弾くのは躊躇われるが」
 雅信は琵琶の弦を弾いた。怪しくも玄妙なる楽器の声が響き渡る。空気が張り詰めていく。まるで放たれる音一つ一つが声を持っているかのよう。曲目は「秦稜王」という小曲、短いながらも起伏にとんだ名曲として知られていた。緊張感のある間を挟みつつ静かに始まった音楽はやがて嵐が近づくかのように渦巻いていく。
 ああ、やはり藍水を奏でると心が落ち着く。藍水を奏でるとき、いつも雅信は楽器以外他の一切の音が遮断されるような感覚に陥っていた。そして此度もまたその例に漏れない。一種の昂揚感に捉われ、放たれている音が自分の声なのか、それとも琵琶の音なのか区別がつかなくなる。それだからであろう。そのとき闇の奥で高蓮が呻くような、あるいは喘ぐような声を出しながら縄を引きずるような音を立てていることに気付かなかったのは。
 やがて曲はひとつの頂点を築くとひっそりと静まり返り、そのまま底知れぬ海の深潭へと消えゆくように終わる。
 最後の一音を最高に張りつめさせた神経を持って鳴らし終えた後、静寂が場を呑みこんだ。
 雅信は琵琶の弦の振えが遂に止むと、構えていた楽器を降ろし、そのまま闇に向かって頭を深々と下げた。
「終わりにございまする。拙なる演奏を聴いていただき、誠にかたじけない」
「いえ、とても素晴らしい演奏にございました。かような演奏は大陸の方でもこれまで耳にしたことがございませぬ。未練を果たす前に雅信さまのような方に出会えて、蓮は幸せにございます」
 雅信は押し黙った。
「どうなさいました?」
「いや、そんなに褒めて頂くと……その、照れるでな」
「まあ」高蓮は闇の奥で小さく笑った。
 そのとき扉が開き、浄厳が到着した。浄厳は昨日と同じように布袍に質素な五条袈裟を着ていたが、雅信が見るとその手に卵ほどの大きさの何かを巾着袋に入れて持っていた。
「おお、浄厳どの。待ちかねたぞ」
「遅くなって申し訳ない。あちらでの用事が思った以上に立て込んだ故。お許し願いたい」
「構わぬさ」
 浄厳の言う「あちら」というのは鈴の塔のことであろうと雅信は容易に想像がついた。何をしに鈴の塔へと向かったのか気になるところではあったが、それはここでの件が終わってからゆっくり尋ねることとしようと考えた。浄厳はゆっくりと塔の中へと足を踏み入れると、心柱に向かって軽く頭を下げ雅信の横に腰かけた。
 雅信と浄厳と揃ったところで、改めて二人は高蓮の声のする方へと向き直った。
「さあ、高蓮どの。どうか始めてはくださらぬか」
「願ってもないこと……」
 雅信は固唾をのむ。空気はしんと静まり返り、まるで見えない何かが塔全体を包み込んでいるようだった。
 そして何もない空間からまるで天から一本の糸が垂らされるかのように真っ白な笛の音が下りてきた。壱越(いちこつ・レ)だ。天から降りてきた糸は地上に向かってするすると降ろされていくように、伸ばしが続く。まるでこのまま音が変わらぬまま、世界の終焉まで至ってしまうかのよう。そのとき壱越の音が乙から甲へと移る※のを皮切りに俄かに糸の白さがまるで扉の狭間だったかのように観音開きに世界が開ける。
 夢見心地とはまさにこのことだった。龍笛、蓮夢の他には一つの楽器も無い。笙もなければ篳篥も鉦鼓も無い。だというのに、雅信は蓮夢の音の奥に様々な楽器の音を感じ取った。まるで一つの笛にしてあらゆる楽器の音を出しているような。目に移りゆくは天の池、霧がようよう晴れゆけば、水面に芙蓉現れて、笛音とともに咲き乱る。笛の音はもちろんさることながら、この音曲もまた息が詰まるほどの心地にさせる。
 これが蓮夢の声であるか、これが高蓮の笛なのか。榮が楽器を生み出し、蓮がそれを鳴らす。雅信は生前の二人の兄妹がどれほどに仲睦まじい関係であったものかと思いを馳せた。
 音の波はやがて遠ざかっていく。笛ひとつで描かれた世界はやがて暗く沈んでいき、最後にはまた一本の糸へと収斂するとそのまま闇の奥へと消えていくように閉じていった。
 五感を失ってしまったかのように、雅信はしばらくの間、動くことができなかった。まるで金縛りにでも見舞われたかのように体が膠着してしまってる。
 そのとき、高蓮の声が闇の奥から聞こえるとともに雅信はハッと我に返った。
「終わりにございます」
 世界が元に戻ったような気がした。
「いや、見事……。すまぬ、あまりに見事すぎて他に言うべき言葉が見つからない」
「拙僧も同じにござります」
「そなたが龍笛を奏でている間、まるで夢を見ていたようだった。このような経験は……初めてだ」
 雅信は興奮が冷めることなく、手探りで言葉を探すように声はたどたどしく振えていた。
「天子様にささげた十の秘曲、ここに全て終えることができました。もはや未練もございませぬ。さあ、約束の通り蓮夢をお返ししましょう。どうか……前に」
 雅信と浄厳は同時に立ち上がった。しかし立ち上がった時雅信の表情には何か怪訝な色が浮かんでいた。そうというのも、今の高蓮の言葉、終わりの方が何か苦しそうに詰まるように響いたからだ。
「蓮どの、どうなされたのか?」
「なんでも……ございませぬ。早く、蓮夢を……」
 そういいながらもやはり高蓮の声は次第に息が詰まるようになっていく。さらに奇妙なことが起こった。何か縄のように太いものが床を擦っているかと思われる音がし始めた。この音は昨夜雅信も耳にしていたが、一瞬だけの事だった故、気にも留めていなかった。
「雅信どの、何か嫌な予感がします。一旦外へ出なされ」
「しかし……。蓮どの! 聞こえておいでか?」
 その言葉に対する高蓮の返事はない。代わりにまるで恍惚とするような声が返ってきた。
「美しい笛……蓮夢……なんて綺麗な音であるか。ああ……」
「いかん!」
 そのとき浄厳は持参した巾着袋を取出し、中に入っているものを出そうとした。しかし瞬間浄厳の手に何かが当たり、袋が飛んでしまう。浄厳はその場でしりもちをつき、どすんと音がする。雅信は何が起きているのか分からない。
 刹那、暗闇の向こうから怪鳥のごとき金切声が鳴り響いた。
「ハ……ハ……ハスユメハワタシノモノ……ワタシダケノモノ……!」
 闇に隠れて何かが床を這っている。それも恐ろしい速さで。身の危険を感じ雅信は藍水を手に、入ってきた扉を目指した。しかしようやく差し掛かろうとしたその時、扉の前にある左右の闇から恐ろしい速さで縄のようなものが集まり、お互いに絡まりあうと壁のように彼の前に立ちはだかった。そのとき縄のようなものの一部が月明かりに照らされ、ようやく雅信はそれが何なのかを悟る。それはやはり縄のように太い植物の蔓だった。何本もの何十本もの蔓が瞬く間に腕を伸ばしていく。鐘の塔の第一層のそこかしこから蔓が床を擦る音が鳴り響き、轟轟とまるで地ならしをしているかのようだった。
 やはり高蓮どのは物の怪の類いだったのか。このままでは喰われてしまう。どうしてこのような物の怪が鐘の塔に? わずかの間に種々な考えが心によぎり、頭がガンガンと鳴る。
 そのとき数多の蔓が這う音の狭間に声が聞こえた。
「お逃げ……お逃げください」
 雅信はハッと我に返る。そして思わず声を上げた。「蓮どの!?」
 さらに別の声が聞こえた。浄厳だった。
「雅信どの。こうなっては仕方ない。心柱のそばに拙僧が持ってきたものが落ちてしまった。それを手に取って鳴らしなされ」
「浄厳どの、ご無事であるか!?」
「面目ない。物の怪の蔓に足と腕をつかまれ、動くことができませぬ。どうか早く!」
 手に取る? 鳴らす? いったいどういうことなのかと考えたが、それよりも早く雅信は体が動いていた。どうして鐘の塔といい鈴の塔といい、こんなに一つの層が広いのか。雅信はそれを恨めしく思った。藍水を抱きかかえるように走る。そのとき目の前に蔓がまるで先端をトゲのようにして雅信の顔をめがけ迫った。寸でのところで頭を下げ、頭の上五寸ばかりのところを蔓が貫いた。烏帽子が飛んだような気がしたが、もはや気にしていられない。
 ようやく心柱の近くまで差し掛かった時、陰に何かが転がってることに気付いた。浄厳が持ってきていた袋だ。それに手を伸ばした刹那、がたんと常態が転んでしまう。ついに足に蔓が絡み付き、それ以上の行く手を阻んでいた。
 雅信は袋の方へと向き直る。そのとき袋に向かって何本かの蔓が迫っているのを目にした。ああ取られてしまう。そう思ったとき奇妙な光景を目にした。物の怪の蔓は確かに袋を奪おうと腕を伸ばすのだが、袋まであと一寸というところでまるで弾かれたように蔓が引っ込む。それからも蔓はどうにかして袋を奪おうとするのだが、やはり近づくこともままならなかった。
「いったいなにが入っているのか?」
 雅信は満身の力で腕を伸ばした。そして遂に手が届いた。急いで引き寄せると、袋を開け中に入っているものを取り出した。そしてそれが何であるのかを確かめることもなく、浄厳の言われた通りそれを思いっきり振った。
 周りの喧騒に静寂を求めるかのような澄み切った鈴の音が木霊した。途端に、暗闇から先ほどと同じような怪鳥のような金切声が響いた。
 ギイイィィィャアア――
 雅信も今しがた自分が鳴らしたものの正体に気付く。
「これは鈴の塔の宝具、透明な鈴ではないか?」
 物の怪の苦しみ呻く声が静まると、塔の一層中に跋扈していた蔓がまるで湯をかけられた蜘蛛のごとく急激な速さで収束し始めた。やがて雅信や浄厳に巻きついていた蔓も離れ、二人は自由の身となる。自由の身となった浄厳は懐の奥から何やら丸い球状の物を取出し、「焔丸(ほむらまる)!」という掛け声とともに宙に投げた。
「あれは、……ボングリの実?」
 雅信がそう思った瞬間、ボングリはぼわんと白い煙を吐きながら破裂した。そしてそこに現れた者を目にし、雅信はぞっとする。眩くばかりの金色の体毛に覆われた獣。四本の足で細身の体を支え、目は青く輝いている。そして最も特徴的な九つの尾。
「九尾の炎狐……」
 雅信は先ごろとは違った意味で夢を見ているかのようだった。
「焔丸、火炎じゃ!」
 その言葉に雅信がぎょっとした。
「ま、待たれよ、そんなことをすれば――」
 言葉を言い終えぬうちに、炎狐は九つの尾をまっすにのばし、蔓が収束していった闇に向かって赤々とした火炎を放った。炎は焔丸の口よりはなたれむくむくと空気を膨らませながら闇に向かった。そのとき雅信は炎に照らされた物の怪の正体を目にした。それは体中が蔓そのもので出来ていて、その中心には二つの目が光る化物。蔓が集まっている部分の下から二本の足が覗いていたが、獣の足なのか人間の足なのか判然としない。
 やがて炎は物の怪を呑みこむ。今度こそ断末魔の叫びをあげ、蔓の物の怪は体中を焼き尽くされた。
「やはり長藤之怪(モンジャラ)であったか……」
 浄厳が燃え行く物の怪を固唾をのんで見守りつつ、呟いた。
「な、なんとしたことを。このままでは塔が」
「心配なさるな」
 なにを、と言おうとしたところで雅信の目に再び信じられないものが映った。焔丸から放たれた炎は確かに蔓の物の怪、長藤之怪を燃やし尽くしたが、物の怪だけ燃やしてしまうとまるで水でもかけられたかのように消えてしまった。壁にも床にも燃え移ることはおろか、焦げ跡ひとつ付かなかった。
「これはいったい、どうしたことか」
「お忘れであるかな、ここがどこであるかを?」
 何のことであるかと言おうとしたが、そのとき長藤之怪の焼け跡から淡く白い光を放った影が現れた。それは煙のように渦巻くと、人の形をとり、やがて髪を丸く結い唐装束をまとった一人の女性の形へと変わった。
 言われるまでもなく、雅信も浄厳もそれが高蓮であると分かった。
「図らずもお二人を危ない目に遭わせてしまい、申し訳ありませぬ」
「良い。そなたの成仏しきれぬ未練に物の怪が付け入っただけじゃ。蓮どのに罪はない」
 浄厳が布袍についた埃を払いながら言った。
「……蓮夢を見つけたものの、未練ゆえ成仏しそこねた霊にすぎぬ己が身では蓮夢に触れることすらままなりませんでした。ところがある野に弱っている長藤之怪を見つけました。私はこの物の怪に取り憑くことでこの世の身を再び取り戻したのですが、時間がたつにつれ我ならざる時が次第に多くなってございました」
「取り憑いたはずが、逆に物の怪の方に意識を奪われたのであるな」
「はい。昨夜、あなたがたを早くに帰したのもそのためにございます。あれ以上場に留まれていてはやがて物の怪に意識を奪われる時に至り、あなた方に危害を加えると思ったからです」
 雅信は昨夜、高蓮の「故あって」という言葉を思い出した。それはこういうことだったのかと合点がいく。そのとき高蓮が「雅信さま」と呼んだ。雅信が霊の前に立った。今まで声だけはさんざん耳にしていたが、姿を目にするのはこれが初めてのこと。雅信は高蓮の姿を美しいなと思った。心だけでなく姿かたちも美しいとは、もはや非の打ちどころがない。
 蓮の霊は長藤之怪の遺灰の一点を指さした。そこだけ、何かが埋まっているかのようにこんもりと盛り上がっている。もしやと思い、手を入れると、つるりとした感触が触れる。
「蓮夢です」
 なんとも不可思議なことだった。あれだけの炎に包まれていたにもかかわらず、蓮夢は少しも焼けた様子がない。そしてこのとき初めて雅信は伝説の名器、蓮夢の造形をこの目で見たのだった。質素な黒塗りの竹筒。稀代の名器というからにはもっと華やかな装飾が施されているのかと考えていたが、これはその全くの逆だった。
「本当に。あなた方にはどんなに礼を言っても言い切れませぬ。雅信どの、浄厳どの、本当にありがとうございます。今度こそすべての未練は晴れました。これで兄のもとへ……」
 高蓮は言い終え、蓮夢が無事であったことぉ見届けると、目をつむり、そのままちょうど煙が空気に溶け込んで消えていくように、音もなく姿を消した。
「行ってしまわれたな……」
 宙に舞った物の怪の灰が、格子から差し込んだ月の明かりに照らされて、さながら絹布のごとくゆらめいていた。




 翌日、雅信の屋敷に浄厳が訪ねてきた。雅信が彼を呼んだのだった。屋敷に上がった浄厳を雅信の家来たちが主人のもとへと案内した。雅信は庭の見える縁に腰かけ、藍水を構えていた。
 雅信と浄厳は適当な挨拶を交わした。そして浄厳が隣に腰かけると、雅信が呟くように言う。
「昨夜の事は私からも礼を言いたい。浄厳どのが居なかったなら、きっと私も高蓮どのの魂も物の怪に喰われていたことだろう」
「何を言いまする。透明の鈴を鳴らし、隙を作ったのは雅信どのではありませぬか」
「そこが分からぬ。いや、昨夜の事は分からぬことだらけだ。なぜ透明の鈴を鳴らしたら長藤之怪が急に苦しみ始めたのか? なぜ浄厳どのは九尾の炎狐を連れていたのか? なぜ炎に包まれたにもかかわらず、鐘の塔は燃えなかったのか? 他にもあるが、とにかく今気になっていることはこの三つよ」
 空に灰色の雲が覆い始めていた。つい先ごろまで空は青かったはずなのに、今やそのような部分は雲に隠されてしまっている。空気も湿っており、もうすぐ雨が降ることは容易に想像できた。
「さて、どう説明すればよいやら。そもそもなぜ延寿には鈴と鐘、二つの塔が立ち並んでいるかをご存知ですかな?」
「知っておる。この地に都を築いた高武帝が遷都の折、姥女の森にある八幡宮の社から託宣を受けた。この延寿の地は古来より空の神、水の神に守られておりその神々を祀るための塔を建てよという内容だった。それで帝は空の神を祀る鈴の塔、水の神を祀る鐘の塔をそれぞれ建てたのだろう」
「左様で。それで少々話が逸れるかもお思いかもしれぬがな、なぜ長藤之怪が鐘の塔の地下を根城としたかお分かりかな?」
「いや、分からぬな。そういえばなぜ鐘の塔だったんだろうな」
「それはこういうワケにございまする。鐘の塔は今も話に合ったように水神さまを祀る塔で、高武帝は建塔にあたり、ありとあらゆる水の気(け)に関する呪(しゅ)を塔に施しました。その結果、塔そのものが水の気を放つ存在となり草の気を持つ長藤之怪にとってはいささか居心地のよろしい空間となったのでしょう。草の気は水の気を剋する関係にありますからな。だから長藤之怪は鐘の塔に留まることで水の気を吸収し、やがて高蓮どのの意識を喰らうまでに力を回復させたというわけです。
 怖がらせてしまうと思って黙っておりましたが、実は荒らされた宝物蔵には植物の種やら葉やらがあちこちに落ちていて、長藤之怪と分からずとも少なくとも草の物の怪の仕業であろうという目星は既についていたのです」
「ならば、最初から炎狐に任せていればよかったのではないか。そうすればあんな危ない目にも遭わなかったものを」
「いいえ、それはなりませんでした。ではここで本題に戻しましょう。透明な鈴の音に長藤之怪が苦しんだわけですが、透明な鈴というのはご存じのとおり鈴の塔に伝わる宝具にございます」
「ああ、それでもう一つ疑問であるが、どうして浄厳どのが鈴の塔から宝具である鈴を持ち出せたのであるか?」
「なに、今鈴の塔の住職をしている男には昔借りを作りましてな。拙僧の頼みには頭が上がらんのですよ。尤も、透明な鈴ほどの宝物を持ち出す頼みとなると少々骨も折れましたがね」
 浄厳はからからと笑った。そのとき、ぽつぽつと遂に雨が降り始めた。砂粒が当たるかのようなぱらぱらという音がしたと思ったら、それは次第に全体へと広がり始め、世界を呑みこんでいく。
「先ほど鐘の塔には水神様の水の気の呪が施してあると申しましたな。鈴の塔はその逆で空神は炎の神でもあらせられます。なので塔には水と対する火の呪が施してあるのです。そしてそれらの呪の権現たる存在がこの透明な鈴。霊鬼となりかけた長藤之怪にとってはこの音を聞くだけで炎を浴びせられたかのような苦痛を味わったということなのです」
「なるほど、分かったような分からぬような……」
「透明な鈴には同時に魂を浄化する働きもある。この鈴を先に鳴らしたからこそ、高蓮どのの魂も長藤之怪より解放され、そこでやっと焔丸の出番となったわけでござります」
「そういうことだったのか」
 雅信はようやく合点がいった。彼は己が鳴らした透明な鈴の音を思い出した。あのときはゆっくり鈴の音を聴いているような場合ではなかったので、ついほとんど気に留めるようなこともなかったが、今から考えるとあの鈴のなんと澄みわたるような音だったことだろう。長藤之怪が苦しんだのは火の呪を食らったことだけではなく、糧としていた高蓮の魂が己が身から引き離されてしまったことにもよるのかもしれない。
「さて、塔が燃えなかったのもやはり塔に施された呪によるもの。鐘の塔は水の呪の塊のような存在。ちょっと激しい炎を起こしたくらいでは焦げひとつ付きませぬ。海に向かって火を放つようなものですからね」
「なるほど、それで炎狐が放った炎をもってしても塔に燃え移らなかったのであるな」
「左様。なのでもし鐘の塔が燃えるとするならば何らかの理由で水の呪が弱まるか壊されるかしたときでしょうね」
「なんと物騒な」
 雨脚が次第に強くなってきた。庭に植えられているクチナシの花がむせ返るように香ってくる。
 雅信は藍水の弦を一つかき鳴らす。音は空へと登り、虚空の彼方へ消えていく。
「蓮夢はもう宝物庫へ戻されたか」
「ええ」
「寺の事情であるが故とやかく言える身ではないことは承知の上だが、やはりただ蔵の奥に納めておくだけでは勿体ないな。このまま誰にも演奏されることがなければ、高榮どのも高蓮どのも浮かばれぬというものよ」
 浄厳は何も言わなかった。
「今から思い出しても、昨夜の演奏は夢幻かと紛えそうになる」
「拙僧も、できればもう一度聴いてみたいものです」
「そういえば、まだ疑問が一つ残っておったな。九尾の炎狐、焔丸どのをいったい如何様にして手懐けたのですかな?」
「ああ……それは」
 浄厳は禿げた頭をぽりぽりと掻き、昔の事を思い出すように口元に懐かしみを帯びた笑みを浮かべた。
「長い話になる故、また次の機会ということによろしいですかな?」
「ははは、ではまたその時にゆっくりとお聞かせ願おう」




 それからさらにひと月の後、延妙寺から使者が現れ、雅信にあてて蓮夢奪還の礼ということで宝物が送られてきた。
 送られてきた唐箱のひとつを開けると雅信は己の目を疑った。そこに入っているのはひと月前、確かに自分が長藤之怪の灰の中より取り戻した蓮夢そのものではないか。いったいどういうことなのだろうかと首をかしげていたところ、同じ箱の中に紙が二枚手入っていることに気付いた。ひとつは手紙で浄厳からだった。それには達筆な筆の運びで形式的な挨拶の後にこのようなことが書かれてあった。
「さて、おそらく此度送られてきた宝物の中にあの蓮夢が含まれていたことにきっと驚いておられることでしょう。
 ひと月前、雅信どのが拙僧に『蔵に納めておくだけでは勿体ない』とおっしゃられましたが、まさしく拙僧めも同じ考えでございました。
 そこで信頼のおける伝手にてある楽器工を訪ね、蓮夢によく似た贋作を作っていただきました。
 今延妙寺の宝物蔵にある笛はその贋作にて、雅信どのの手に送られたこれが本物にございます。
 心配にはおよびませぬ。その伝手は本当に拙僧にとって信頼のおける人間でありますし、第一長い間蔵に押し込まれていた故、今延妙寺にいる坊主のなかで本物の蓮夢の音を聴いたことのある者などおりませぬ。
 良い楽器はしかるべき腕を持つ者の許に。いつか機会あらば殿の屋敷にまたお訪ねしようと考えております。
 また同封しておりますもう一つの紙は譜になっておりまする」
 そこまで読んだところで、雅信はあわてて箱の中を検め、もう一つの紙面を広げた。それは確かに龍笛の譜だった。しかも雅信がこれまで見たこともない内容の譜だった。しかし書かれている音を追っていくうちになんの音曲であるか、やがて悟った。再び手紙の方へと目を移す。
「その譜は他でもない高蓮どのが最後の晩に奏でられた音曲にございます。
 実はあの後鐘の塔の地下を調べたところ、壁面に譜が彫られておりました。拙僧も雅信どのには遠く及ばぬものの楽の嗜み持っていますので、これがあの晩の調べであるとすぐに分かりました。
 残念ながら譜はこれ以外には書かれておりませんでした。
 拙い考えでおもんみるに、これは雅信どのへの高蓮どのの礼ではないでしょうか。
 そう考えるとやはり高蓮どのは蓮夢をきっとあなた様に託したいと願っていたのだと思います。
 やはり楽器は奏でられてこそが花。無駄に大切に扱われても埃をかぶる以外に何もなりませぬ。
 蓮夢とこの譜と、どうかお受け取りくださいませ。
 そして機会あらばまたお屋敷の方へ訪ねます故、そのときには是非とも蓮夢の音をお聞かせ願いたいものです」
 残りはやはり形式的な結びの句で終わっており、最後に「釈浄厳」と添えられていた。
 



 さて、平雅信はこの蓮夢を手にしたのであるが、雅信と蓮夢にまつわる話はその後いくつも残されている。
 ある公家の日記には、ある年に内裏で歌合が開かれた際、雅信は終わりの宴で龍笛を演奏したのであるが、その音怪しくもうら悲しき響きであったため、参内した殿上人や女房、果ては主上に至るまで一人と漏らすことなくさめざめと涙を流したという話が記されている。
 後世に編纂された今昔を伝える物語には、「雅信公さながら蓮夢と契りを結んでいるが如し」とも伝えられた。
 他にも雅信が奏でる蓮夢の調べに感動した当時の文化人たちが、蓮夢を絡めた和歌や漢詩をいくつも残している。
 その一人はときの主上である。先述の歌合の席が終わったあと、主上は雅信をたたえてこのような今様をひとつ残したのだった。

 涙落とすは 宵の席 
 その故なるは 龍の声
 平の朝臣の 調べにて
 わびしきこころぞ 満ちたまふ

 

※乙から甲へ移る……一オクターブ高くなること。



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ポケスト初投稿でえらく長いのを落としてしまってすみません。
ポケノベで始めた延寿今昔物語集の第一話「蓮夢」がようやく終わりましたのでポケストにもマルc……お邪魔されて頂こうかなあと。
これを書くにあたって手持ちのハートゴールドを今一度最初からプレイしてみたのですが、いやはやジョウト地方というのはおもしろい二次創作ネタがごろごろ転がってますね。もちろん他の地方もおもしろいのですが、ジョウトは特に自分好み。
既に察しがついている方もいるかもわかりませんが、平雅信のモデルは平安中期に活躍した楽の達人、源博雅。
今回を機にこれからポケストの方にも投稿していこうかなと思ってますので、どうぞよろしくお願いします。

【何をしてもいいのよ】

タグをつけるってなんか小恥ずかしい気が(ry