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  [No.2661] 【テスト投稿】遅れてきた青年 投稿者:No.017   投稿日:2012/10/15(Mon) 23:23:43   40clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
【テスト投稿】遅れてきた青年 (画像サイズ: 750×558 142kB)

第一話「まつりの はじまり」 自分は何者かと問う青年に「あなたはポケモントレーナーだ」と、シロナは告げるのだった。
第二話「うけつけとっぱと ポケモンたち」 シロナの助力で受付を突破したアオバ。自分のポケモン達と対面するのだが……
第三話「はじまりの はなし」 何も思い出せないというアオバに、シロナはある神話を語って聞かせる。
第四話「やくそく」 リーグ会場周辺に並ぶ屋台には様々な者が訪れる。予選の勝者、敗者、そして――
第五話「せんぼうと しっと」 アオバに執心する運営スタッフのノガミ。彼は青年によくない感情を抱いていた。
第六話「おそろしい しんわ」 決勝トーナメント開始。だが、一回戦からアオバは苦戦を強いられる。
第七話「とおい はなび」 すべてを思い出した。青年はノガミにバトル調整の立会いを依頼する。
第八話「きたるべき とき」 準決勝で対峙するシロナとアオバ。勝負の行方は。果たして軍配はどちらにあがるのか。
第九話「くらい ろうか」 暗い廊下。青年がその先で知った事とは、そこでノガミが見たものとは。
最終話「はじまりの つづき」 ゆっくりと廻る観覧車の中、青年は「はじまりのつづき」を語り始める。


  [No.2662] 第一話「まつりの はじまり」 投稿者:No.017   投稿日:2012/10/15(Mon) 23:29:58   63clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
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「遅い!」
 周囲の視線が一斉に声の主に注がれる。視線の先には一人の女性トレーナーが立っていた。彼女は待ち合わせ相手がこないらしくイライラしている。傍らには、一匹の獣人型のポケモンが立っていた。青と黒の体毛。黒がまるで素顔を隠すマスクのような模様を描き、耳の下に二対の黒い突起があった。その突起が何かを探るアンテナように、地面と水平方向にピンと伸びている。
「リオ、見つかった?」
 彼女が尋ねると、ルカリオが首を横に振った。彼女はいよいよ辛抱が利かなくなってきた様子で、さらなるイライラのオーラを周囲に放つ。波導ポケモンの力をもってしてもあいつの気配を察知できない。会場に人が密集しているせいだろうか。
「リオ、探しに行くよ」
 彼女はとうとう痺れを切らし、ルカリオと共に探索に繰り出した。





もりのなかで くらす ポケモンが いた
もりのなかで ポケモンは かわをぬぎ ひとにもどっては ねむり
また ポケモンの かわをまとい むらに やってくるのだった

「シンオウの むかしばなし」より






●第一話「まつりの はじまり」





 「頭の中が真っ白」という状態は、こういう状況のことを言うのではないだろうか。
 いわゆる西洋にある中世の城を模った建造物を見上げて、青年はただ立ち尽くしていた。
 彼はにわかに握っていた拳を広げた。開いて握って、また開いて感触を確認する。
 不意に寒気を感じた。妙に身体が冷たく、自分のものではないようだった。思わず両手でその対となる反対側の腕をぎゅっと掴んだ。確かめるように。
 次に感じたのは視線。彼が立つ道にはあらゆる老若男女、多くの人々が行き来しており、時折ポケモンを連れた人もあった。ある人は青年にいぶかしげな視線を投げ、ある人は知らないふりをして素通りし、またある人は彼の存在を気に留めることなく歩いていった。
(……ここは?)
 真っ白な頭の中にそんな疑念が生まれた。その疑念が浮かぶと同時に、彼は群集の行き先を見たのだった。群集のほとんどは目の前にそびえる西洋の城のような建物を目指しているようだった。青年はその流れに従ってフラフラと歩き出した。
(ここは何処だ? この人たちはどこへ向かっている? それに……)
 彼は群集について、城内へと足を進める。人々はなんだか興奮したおももちで、ああでもないこうでもないと、とりとめのない話をしていた。やがて、城内に放送がかかる。それを聞いて、彼はようやくここがどこであるかがつかめてきた。
 どおりで人が多いわけだ。にぎやかなわけだ。人々が興奮しているわけだ、と。
「ポケモンシンオウリーグ予選Aチケットをお買い求めのお客様は南窓口へ、すでにチケットをお持ちのお客様は、北2番ゲートにて整列してお待ちくださいませ」
 城内にはそんな放送がかかっていた。
 ここは祭が開かれる場。一年に一度の祭が。シンオウ中がこの祭に注目している。ある人は開催期間中ずっとテレビに釘付けになり、ある人は稼ぎ時だとこの場に乗り込み商売をする。ある人はこれを見に行くために仕事の有給のほとんどを注ぎ込むのだ。
 ポケモンシンオウリーグ――古の神話が息づく北の大地、シンオウ地方で最も強いポケモントレーナーを決する、ポケモンバトルの祭典だ。
 とりあえず彼は、自分が立っている場所を理解した。しかし、そのおかげで次の大きな問題に気がつくことになる。
(ここがどこなのかはわかった。……けれど、そもそも僕は誰だ?)
 青年は再び自身に問いかけた。第一試合の時間が一刻一刻と迫っている。会場を取り巻く空気はいよいよ熱を帯びてきていた。
「アオバ! あなたこんなところで何やっているのよ!!」
 不意にそんな声を聞こえてきたのは、青年が真っ白な頭の中に再び問いかけはじめたその直後だった。彼が驚いて声の方を見ると、目の前にトレーナーとおぼしき女性が立っていた。
「待ち合わせの時間、何分すぎたと思っているの!」
 なぜ彼女をトレーナーであると判断したかと言えば、傍らに獣人型のポケモンがいたからだ。青と黒の体毛。胸と腕にツノのような突起物が生えていた。青年のおぼろげな頭の中にふとその名前が浮かんで、ぼそりとそれを口にする。
「思い出した。ルカリオだ」
「ちょっとアオバ! あなた私の話を聞いているの!」
 さっきよりも大きな声で女性トレーナーが吼えた。無理もない。やっとの思いで見つけた待ち合わせ相手は、こともあろうに観戦者の列に加わってぼうっとしていたのだ。彼女はぐっと青年の腕を掴む。
 すると青年がまるで他人でも見るかのように、彼女の顔を見た。そして、
「……アオバ? アオバって言うのか僕の名前は」
 と、言った。
「…………は?」
 女性トレーナーはなんとも複雑な表情を浮かべた。それは怒りを含んでいたが、それ以上に困惑の表情であり、勘ぐるようでもあった。こいつは私をからかっているのか、それともバカにしているのか。だが、それにしてはなんだか様子がおかしい。
 なんというか、青年はそれなりにきめた服装(人によってはキザと言うだろう)をしているというのに、言動が妙に子どもっぽいというか頼りないのだ。彼が放つ雰囲気が、彼女の知る青年本来のものとはずいぶん違うのである。
 ……本当に演技ではない?
「君は誰? 僕を知っている人?」
 彼女がそんなことを考えているのをよそに、青年はさらなる質問を投げかける。さらには、
「よかった。気がついたらここにいたんだけどさ、自分が誰で何しにきたのかもわからないし、正直困っていたところなんだ」
 と、のたまった。
 女性トレーナーは顔を引きつらせた。今目の前にいるこいつが、本気でこのセリフを吐いているならばこれは俗に言うあれだった。まさか自分がこの目で見る機会が巡ってこようとは。
 あれとはもちろんあれである――――記憶喪失である。


「あなたはアオバ。ポケモントレーナーのミモリアオバ。今から三時間後シンオウリーグの予選にBグループで参加する選手よ」
 と、女性トレーナーは告げた。
 彼女は半信半疑で根掘り葉掘り質問を投げかけまくった結果、やはり青年の記憶が喪失しているとうのは本当らしいとの結論に至った。
 ポケモンとトレーナーに関する諸々の知識は一般人レベルかやや下くらいか。コミュニケーションはとれるものの、青年からは様々な記憶がごっそりと抜け落ちていた。
 アオバという自分の名前にはじまり、自分の出身地、自分の所持ポケモンとそのニックネーム、自分はどんな人間で、どんな家族がおり、いままでどんなことをして生きてきたのか……。  
 そして彼は、目の前にいる女性トレーナーについてまったく答えることが出来なかった。正直、重症である。
 その結果、彼女が導き出した結論は、自分が先導してやらねば、トレーナーとしては何も出来ないのが今の彼である、ということであった。記憶の戻し方はおいおい考えることにしよう。何かやっているうちに思い出すかもしれない、と彼女は考えた。
「私はシロナよ。シンオウリーグ予選にCグループで参加する」
 まさか今日ここで「自己紹介」をしなくてはならなくなるとは、彼女も予想だにしなかっただろう。青年もといアオバの手をとり、人ごみを掻き分けながら、彼女は名乗った。金髪の長い髪がたなびく。この状況で動くにはちょっと邪魔そうだった。
「私は今日、あなたと待ち合わせて、予選前にバトルの調整をする予定だったわ。それなのに約束の時間を過ぎてもあなたはやってこなかった。電話をかけても、メールを送っても何の反応も無い。会場にいるのかもわからない。リオにあなたの気配を探らせてみたけど、人が密集し過ぎているせいか、ちっとも見つからないんだもの。結局、目で探すしかなかった。やっと見つけてみれば、あなたはこんな状態。一体今日はどうなっているのかしら!」
 そこまで一気にしゃべると、ちらりと青年の様子を見る。アオバと呼ばれた青年の反応は手ごたえなし。シロナは「はぁ」と溜息をつく。
「……その様子だと、まだ何も思い出さないみたいね。ということは、出場前の本人確認はまだよね。それならトレーナーカード出しておいて」
「トレーナーカード?」
 青年がきょとんとした顔で聞き返す。
「ポケモントレーナーの身分証明書よ。受付でそれを提示して最終確認ってことになるわ。いくら記憶喪失っていったって持ち物にそれくらいは……」
 彼女がそう言うので、青年はズボンのポケットと胸ポケットを漁ってみた。
 しかし、
「…………………………」
「え…………、もしかして……ないの?」
「………………」
 こくん、と青年は頷いた。
「え、それってさ、ヤバくない? ……ていうかヤバいよね?」
「………………」
「意味がわからないのはわかってる。わかってるけど、同意くらいしてよ」
 トレーナーカード、トレーナーの身分を保証する証明書である。なくしたなんてことになれば、トレーナー生活に大きな支障をきたすことになる。すぐに届けないといけない。それくらいの公的な効力をもつものである。
「まずいことになったわ」
 と、シロナは言った。
「このままだと、あなたはリーグに出場できない」
 すぐさま、あごに手を当てて考え込む。深刻そうな表情だった。再発行してもらうにしたって、とても時間には間に合わないだろう。
 それでは困る。目の前にいるこの青年が出場できないのなら、私は今まで何のために……。
 だが、しばらくして彼女は何か決心したかのように、手をあごから放すと、
「……悩んでいてもしょうがないわ」
 と、決心したように言った。
 お、何か策でもあるのだろうか? という顔をする青年に、彼女はにっこりと微笑むと、
「こうなったら強行突破よ」
 という作戦の内容を伝えた。


  [No.2663] 第二話「うけつけとっぱと ポケモンたち」 投稿者:No.017   投稿日:2012/10/15(Mon) 23:31:15   76clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
タグ:遅れてきた青年

むかし シンオウが できたとき
ポケモンと ひとは おたがいに ものを おくり
ものを おくられ ささえあっていた
そこで ある ポケモンは いつも ひとを たすけてやるため
ひとの まえに あらわれるよう ほかの ポケモンに はなした
それからだ
ひとが くさむらに はいると ポケモンが とびだすようになったのは

「シンオウちほうの しんわ」より





●第二話「うけつけとっぱと ポケモンたち」





「だーかーら!! 本人だって言っているでしょう!!」
 受付カウンターの前でシロナが吼えていた。
「……こ、困ります」
 今日、彼女の次に困惑の表情を浮かべることになったのは、エントリーの最終確認をする受付をしていた眼鏡の男であった。
 いきなり男を引きずった女性トレーナーがずかずかと乗り込んできて、私の連れは身分証明ができないが、これは本人に間違いがないからとにかく出場させろ、などと訳の判らないことを強要してきたのだ。それに気のせいだろうか、出場する本人はあまり積極的という風には見えず、連れである女のほうが熱心なのである。
「とにかくですね、ポケモン図鑑もない、トレーナーカードもない身分証明ができない方の参加を受け付けることは出来ません」
 と、眼鏡の男は答えた。
「身分証明ができないですって! 馬鹿言わないでよ! アオバはね、去年だってシンオウ大会に出ているんだから!」
 シロナがまた吼える。無茶苦茶な要求だということくらい彼女にだってわかっていた。だが、ここで引っ込む訳にはいかない事情が彼女にはあった。押し切ってやる。必ず彼を出場させてやる。
「ベスト4まで残ったのよ! あなたが覚えてないはずないでしょう!」
 そこまで言うと、シロナは青年を受付の前に突き出した。
「男のくせに髪の伸ばして結わいてるわ、妙に気取った服装しているわ、こんなヤツなかなかいないでしょ。加えて去年のベスト4! 忘れたとは言わせないわよ」
 スーツのような衣服に身を包み、少し古ぼけた紐で長い髪を結わいたその姿に、受付は確かに見覚えがあった。
「……それは」
 と、受付が濁った返事を返したその隙をシロナは見逃さない。
「ほら、見なさい。覚えているじゃないのよ」
 と、押しの一言を放った。
「いえ、しかし規則は規則でして……」
「ちょっとアオバ! あんたも何か言ってやりなさいよ!」
「いや、何かって言われても……」
 青年は困った顔をする。右を見れば困った顔の受付、左を見ればシロナが怖い顔をしていた。その空気に耐えられず、
「もう、いいですよ。ほら、受付の方も困っていますよ。これ以上お二人に迷惑をかけたくないです」
 と、彼は答えた。すると、
「だめよ!!!」
 とシロナは叫んだ。
 ぐっと腕を掴むと、きっと青年を睨みつける。彼は少し驚いた。彼女は
「そんなこと絶対に許さないから」
と、言った。
「でも……」
「あなたは出るんだから! ポケモンリーグに出場するの!」
 と、続ける。なんでそんなこと言うの、とでも言いたげに青年を見つめた。
 怒っていた。けれど、それ以上に悲しそうで、その眼には明らかな意志の光が宿っていた。それを見て、青年はそれ以上言うのをやめた。どうしてなのか理由はわからないけれど、彼女が本気なのだということだけはわかったからだ。
「ほら、当の本人もそう言っていますし……」
 受付がすかさずそう言ったが
「もういい。あなたじゃ話にならない。上の人を呼んできて」
 と、彼女は切り返した。
「は?」
「あなたじゃ話にならないって言っているのよ。去年の入賞者って言ったら今年の優勝候補じゃないのよ。それを出場させないっていうのはどういう了見なの。だから、あなたじゃダメ。もっと話がわかる人、呼んできて」
「な……っ」
「それとも何? あなたの身内が出場しているから、有望な芽は今のうちに摘み取っておこうっていう魂胆かしら? そうなったら問題よね。アオバが出場できなかったらそういう噂を流してやるから」
「ちょっと! 妙な言いがかりはやめてくださいよ。私はあくまで規則に従って……」
 受付がお決まりの文句を返す。だが、彼女は
「ハッ! 規則ですって!」
 と、切り捨てた。
「……しょうがないわね、これだけはアオバから口止めされているから言うまいと思っていたのだけど……。あなた四天王のキクノさんは知っているわよね?」
 突然、シロナはそんな話題を持ち出した。
 四天王。リーグ優勝者を待ち構えるトレーナー集団。ポケモンバトルのエリート達である。優勝すれば彼らに挑戦することができる。その中の一人、キクノは老練のトレーナーで、地面タイプのエキスパートとして広くその名を知られている。
「そ、そりゃあ」
「アオバはね。キクノさんのご姉妹の孫にあたるのよ。つまり親戚よ。四天王の親戚!」
 受付はぴくっと眉を動かした。同時に驚いたのは青年自身である。思わず
「え、そうなの?」
 などと、聞いてしまった。瞬間、
「記憶喪失はすっこんでなさいッ!」
 と、シロナが渇を入れる。
「……はい」
 青年はすぐに身を引いた。また余計な発言をして変に話をこじらせると、シロナがまた吼えそうだったからだ。それを確かめてシロナが続ける。
「つまり、今あなたは四天王の親戚の出場を断ろうとしているわけ。私が一言キクノさんに告げ口すれば、どうなるかわかる? 規則を守るのと、こっちの要求を呑むのとどっちがお利口かしらねぇ?」
 あんたが規則を持ち出すのならこっちにはこれがあるのだ、どうだまいったか! とでも言いたげに、シロナはふふんと笑った。
 四天王、彼らがポケモンリーグに持つ影響力は大きい。つまるところ権力が彼らにはある。当然、一般の運営スタッフなど相手にならないだろう。
 チェックメイト、後はキングを取るだけ。ポケモンゲットで言うなら、影踏みか黒い眼差しで逃げられなくした上でマスターボールを投げるだけ、といったところだろうか。
 この一押しで受付にうんと言わせてやる。シロナはバン、とカウンターを叩いた。
「いいこと! わかったなら、とにかくアオバを出場させなさい!」
 受付はさすがに「うん」とまでは言わなかったものの、彼女の気迫に押され、それ以上言い返せなくなってしまった。
 いや、半分くらい呆れも入っていたかもしれない。お前、そこまでしてコイツを出場させたいのか! お前は一体何なんだ! とひきつった彼の顔に書いてあって、それを横目に見ていた青年はちょっとばかり苦笑いをした。
 そして、いつのまにか大声を聞きつけてやってきた受付の上司らしき人物が、ここはとりあえず受付して事後確認したほうがいいようなことを彼に助言した。
 かくして青年の、ミモリアオバの出場手続きは整ったのだった。


「次はポケモンよ」
 受付を済まし、パソコンの前に立ったシロナは続ける。
「まさかあなた、手持ちのポケモンまで落としたとは言わないわよね。とりあえずボックスを確認しましょう。仮パスワードも発行してもらったわ。正式な確認がとれるまでは試合後にすぐに戻す条件付だけどね」
 そうしてシロナは青年のボックスを開いてみる。画面が切り替わり、彼の所持ポケモンが標示される。彼女はほうっと一息をついた。
「居た……。カードみたいにどこかに落としたってことはなかったみたい。安心したわ」
 パソコン画面を覗き込みながら、マウスを左右に忙しく動かしていく。
「予選で使用できるポケモンは三体よ。グループ中でとにかく試合をしまくって、勝ち点の多い者から抜けて行くトリプルビート方式。ポケモンは私が適当に見繕うわよ。いいわね?」
「ええ、いいですけど……いや、お任せします」
 青年は戸惑い気味に答えた。しかし、何も思い出せない今、彼は自分のことを一番知っているらしい彼女にすべてを委ねるしか選択肢がなかった。パソコン画面を真剣な眼差しで見つめるシロナを、横目にちらちらと、やや不安げに観察する。
 やはり、彼女はどうあっても自分を出場させるつもりらしかった。彼女をそこまで駆り立てるものは一体なんなのか、青年はそんなことを考える。
 やがてパソコンの隣に併設された転送装置、そこに三つの機械球が転送されてきた。シロナはそれを取り出すと、青年に手渡す。
「さあ、投げてみて。何かやったら思い出すかもしれないわ」
 青年は言われるがまま三つのボールを投げる。ボールは赤い光を放ち、光はポケモンのシルエットを形成する。光が消えると同時にポケモン達が姿を現した。
 出てきたのは四足の黄色い獣型ポケモン、そして赤色のメタリックな虫ポケモン、そして、紺色の怪獣のようなポケモンの三匹だった。その中でも一際大きい怪獣型は、頭の左右に妙な形の突起をつけており、腕と背中には飛行機の翼のようなヒレを生やしていた。
 すぐさま黄色と紺色が、青年に近づいてきて取り囲むと、身体全体を観察するようにフンフンと匂いを嗅いだ。赤色は出てきた場所に立ったまま、何やらするどい眼でことの成り行きを観察している。
 次の瞬間、青年の悲鳴が響き渡った。寄ってきた二匹のうち、紺色のほうが青年を押さえつけた。すぐさま彼の頭に大きな口をセットすると、カジカジと甘噛みしはじめたのだ。
「…………いででででっ!!!」
 激しく動揺する青年。だが、一本しかない爪ががっしりと捕らえて離さない。
「ちょ、なんなんだよ、このガブリアス!」
 青年のそんな台詞も紺色はお構いなしだ。青年と対面できたことがよほど嬉しいのか、頭にかぶりつきながらも、魚の尾ビレのような尻尾を激しく上下に振っている。
「あ、ヤメ……いだい、いたいって……っ!」
 青年は懸命に自分の頭から牙を引き離そうともがく。が、ドラゴンポケモンに力で敵うはずもなく、それはむなしい抵抗に終わった。その様子を見ていたシロナは腹を抱えて爆笑する。
「どう!? 何か思い出した?」
 などと聞いてくる始末だった。
「何も思い出さないよ! それよりこいつをどうにかしてくれ!」
 と、青年は訴えたが、彼女は「愛情表現よ」と、まったく相手にしなかった。むしろ、その様子を見て楽しんでいるフシがあった。
 シロナは気が付いていなかったが、青年には、その様子を目にした赤色の虫ポケモン、ハッサムの眼がふっと優しくなったように見えた。さっきまでずいぶん警戒しているように見えたのに。そして、今の今まで探るように匂いを嗅いでいたサンダースも、急に安心したように足に顔を擦り寄らせてきた。
 こいつら、急に懐いてきたなぁ。さっきまでのは一体、なんだったのだろう? ガブリアスに頭をかじられながら、青年は疑問に思った。
「ガブちゃんのその癖、去年から変わってないのね。それにしても久しぶりに会ったみたいに興奮しちゃって!」
 そう言ってシロナはまた笑う。頭にかぶりついたこのガブリアスは、ニックネームをガブリエルと言うのだと説明した。
 ガブリエルとは、さる宗教の教典の中に登場し、聖女に受胎告知をする天使らしいが、響きがそれっぽいからという安易な理由でアオバがそこから命名したのだと彼女は言う。実際、こんないかつい顔のポケモンが「あなたは神様の子を授かりましたよ」と、庭先に現れたら聖女が悲鳴を上げて飛び上がってしまうだろう。「おまえは魔王の子を孕んだんだぜ。グヒヒヒヒ」と説明したほうが納得していただけるに違いない。
 そして、魔王の使いガブリエルが行為に満足し始めた頃、シロナは一転、まじめな顔になって彼のポケモン達に
「いいことあなた達、今、ご主人様は人生最大のピンチを迎えているわ」
 と、切り出した。
「ご主人様はね、大事な試合の前だって言うのに自分が誰で、何しにきたのか忘れてしまったのですって。困ったことにあなた達のことも忘れちゃっているし、バトルのやりかたも忘れちゃってる。だから、ご主人様の指示がなくてもあなた達が判断して、戦って、勝たなくちゃいけないの」
 青年はガブリエルの爪に捕まったまま、参ったなという感じで、ぽりぽりと頭を掻いた。
 サンダースとハッサムが互いに目配せして、不安げな表情を浮かべる。青年の頭に夢中だったガブリエルは、あまり状況が飲み込めていないらしく、首を傾げた。
 そんな彼のポケモン達の表情を読み取ったシロナは、
「大丈夫、いつもやっていたようにやればいいのよ。あなたたちならできるわ」
 などと助言した。そして、
「必ずよ。必ずアオバを決勝トーナメントまで連れて行ってね」
 と、付け加えたのだった。
 予選Aが佳境に入ろうとしていた。ある者は基準の勝ち点を取って早くも決勝トーナメントへの切符を手にしていた。またある者は残り少なくなった時間と懸命に戦っている。
 そう、彼にはちゃんと勝ち進んでもらわなくては。こんなところでつまずかせるわけにはいかない。本来の彼はこんなものじゃない。記憶が戻るまでの辛抱よ、とシロナは思った。
 予選Bの開始時間が一刻一刻と迫っていた。


  [No.2669] 第三話「はじまりの はなし」 投稿者:No.017   投稿日:2012/10/16(Tue) 19:56:29   52clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
タグ:遅れてきた青年

はじめに あったのは こんとんの うねり だけだった
すべてが まざりあい ちゅうしん に タマゴが あらわれた
こぼれおちた タマゴより さいしょの ものが うまれでた
さいしょの ものは ふたつの ぶんしんを つくった
じかんが まわりはじめた
くうかんが ひろがりはじめた
さらに じぶんの からだから みっつの いのちを うみだした――

「はじまりの はなし」より





●第三話「はじまりの はなし」





 スタジアムに咆哮が響き渡る。迫力のバトルに聴衆の歓声が上がった。
 いざ始まってみれば心配などまるで不要だった。バトル場の地面を踏んだガブリアスは、まるで鬱憤を晴らすかのように、ここぞとばかりに暴れまくった。
 地震にはじまり、ドラゴンダイブ、仕上げにギガインパクト、数々の大技を繰り出し、並み居るポケモン達を次々とノックアウトしていく。
「ハガネール戦闘不能! よって勝者、青コーナーアオバ選手!」
 不幸にも、そんな暴れ竜の餌食になってしまった鉄蛇を踏んづけて、アオバのガブリアス――ニックネーム、ガブリエル――は、ガッツポーズのような、バンザイのような姿勢をとって勝利の雄たけびを上げた。
「なんとアオバ選手、指示も出さずにストレート勝ちです。さすがは前回のベスト4といったところでしょうか。今大会の優勝候補の一人と目されているだけはありますね」
 何の事情も知らない実況は、音符ポケモンのペラップみたいな声で、そんなことをペラペラとしゃべっていた。
 実際のところ、青年はただ立っていただけだったのだが。
「もどれ。ガブリエル」
 そ知らぬ振りを決め込んで、彼はボールにガブリアスを戻し、やれやれといった感じで控え室に続く廊下に引っ込んでいった。
 ――試合に出て何も思い出さなかったら、最悪あなたは立っているだけでいい。
 ――大丈夫よ。あなたのポケモン、特にガブちゃんは大抵の相手には勝てるから。
 そう助言したのは他でもないシロナであったが、本当にその通りになってしまった。
 強いんだな、僕のポケモンは。
 そんなことを考えながら、青年はガブリエルの入ったモンスターボールを見つめる。もっとも、まだ何も思い出せなかったが。
 けれど、助言をしてくれた彼女のためにも、頑張っているコイツのためにも、少しでも早く思い出してやりたい。青年は自分の中にそんな気持ちが芽生え始めているのを感じていた。
 廊下に引っ込むと、すぐに階段があり、そこを下ると長い廊下が選手控え室に向かって続いていた。彼は階段を降りると、シロナが待つ控え室に向かって歩き出した。
 観客達が熱狂している外に比べると、ずいぶん静かだった。聞こえてくるものといえば自分の足音くらいで、外からの余計な音はシャットダウンされているようだ。ずいぶんと防音が行き届いていると見える。きっと、出場前のトレーナーが落ち着けるようにとの配慮なのだろう。
「…………」
 ……そういえば。
 降って沸いたように彼の頭の中に何かが浮かんだ。
 ここに来る前、自分はこんな場所を歩いてはいなかったろうか? ふと、彼はそんなことを思った。そこは静かな、静かな場所で、ちょうどこんな所だった。そんな気がしたのだ。
(あれは、どこだっただろうか……?)
 何かを考えるしぐさで、彼は下のほうに視線を注ぎながら、足を進める。何かが思い出せそうな気がした。
「アオバさん、お疲れ様です。モンスターボールをここに」
 不意に声がかかった。青年は顔を上げると思考をストップさせる。
 見るとポケモンセンターで使うモンスターボールを搬送するトレーを持った眼鏡の係員が、青年の前に立っていた。
 彼は内心、何か思い出せそうだったのにタイミングが悪いな、などとも思ったものの
「ああ、ありがとう。試合と関係者の目の届く時以外は……そういう約束でしたよね」
 と、返事をした。
「て、あれ? あなたはさっきの受付の人じゃ」
 眼鏡の係員を見て青年は続ける。トレーを持っている係員、それは先程シロナとやりあったあの受付だったのだ。
「ご紹介が遅れました。私、ノガミと申します」
 と、眼鏡は自己紹介した。少しシャレた感じの縁がきらりと光る。彼は青年を観察するような眼差しを向けて
「あなたの出場を許可した先輩から、私の責任であなたの様子を確認するように言われまして」
 と、彼は続ける。先輩とはきっと、あのとき彼に助言した上司らしき人物のことを言っているのだろう。
「言うなれば、貴方はまだ仮のアオバさんなのです。正式な確認がとれるまでは、ね。前回のベスト4だろうが、四天王の親戚だろうが規則ではそうなのです」
「なるほど、監視付き……という訳ですか」
 さっき散々シロナにやられた腹いせなのかなんなのか、ノガミのやけに挑戦的な物言いに、青年は少々むっとしてそんな言葉を返した。
「まぁ、そんな顔をしないでください。ポケモンを回収するのは、回復ももちろんのこと健康状態チェックなどの意味もあるのです。私が責任を持って行いますから」
 と、ノガミが返して、
「……それに、リーグ運営サイドは貴方の活躍に期待しているんですよ。さっきのストレート勝ちは見事でした。基準点をとったことによる予選通過、おめでとうございます」
 青年の表情を読んだのか、そんな言葉を付け足した。
「ご覧になっていたのですか」
 と、青年が尋ねる。彼は「ええ」と肯定し、
「ですが、あまりらしくないバトルでした。去年は違った。常に戦況を把握して、冷静に指示を加えておられた。今のあなたはやはり仮のアオバさんだ」
 などと評価した。
「……」
 この人、やけに詳しいじゃないかと青年は思った。もっとも今、自分は記憶喪失中であり、自分のバトルスタイルもへったくれもないわけなのだが……。そうか、本来の自分はそんな戦い方をしていたのか、などとも考えた。
「……こっちもいろいろ事情がありましてね。まぁ、僕のポケモンをよろしくお願いします」
 僕の、という単語に若干の違和感を覚えながら、青年はそんな答えを返す。
 それにしてもこいつ、どうしてこんなに挑戦的なんだろう? そんな疑問を抱きつつも、彼はノガミが持つトレーにモンスターボールを丁寧に置いた。


「やったわね、アオバ! ストレート勝ちじゃないの」
 控え室の扉を開けるとシロナが待っていて、開口一番にそう言った。
「それにしてもガブちゃんずいぶん強くなっちゃって……。去年敗退してから、相当努力したんだね。私のポケモンだってこの一年ずいぶん修行したつもりだけど油断できないわ」
 そう彼女は続けたが、青年が少し難しそうな表情をしているのを見て、話を止めた。
「そっか。まだ記憶が戻ってないのよね。修行の話なんかしたってわからないか……去年この大会に出ていたことも、私と対戦したことも全部忘れちゃっているんだものね」
「対戦……したのですか。僕はここでシロナさんと」
 と、青年は尋ねる。
「やだ、シロナでいいわよ。あなたずっとそう呼んでいたじゃない」
「そうか、僕は君をそう呼んでいたのか…………じゃあ、シロナ」
 本当に実感がないらしく、青年はいいのかなといったおももちで彼女の名前を呼んで
「やっぱりこういう場合、礼を言わなくちゃいけないよな。君のおかげでなんとか予選通過できたよ。ありがとうシロナ」
 と、礼を言った。
「い、いいわよ。そんなの……」
 するとどういう訳か、少しばかり頬を赤らめて、彼女は短く返事をする。
「いや、きっと記憶のある僕だったら君に礼を言うのだと思う。だから……」
 さっきまでとはずいぶん違う感じの彼女を目の当たりにして、青年は少し戸惑ってフォローするように付け加えた。
「でも、僕が本当に優勝候補なら、ライバルを潰すいいチャンスだったわけだろ。シロナが僕の出場にこだわる理由は何?」
 そうして、さらに青年は続けた。ここの部分こそ彼の一番聞きたい部分だったからだ。
「だ……だって、約束したじゃない」
 さっきと同じ調子でシロナは返事をする。
「約束?」
 と、青年が尋ねると、はぁ、と彼女はため息をついた。
「あなた本当に何も覚えていないのね。去年の決勝トーナメントで私、アオバに負けたのよ。あんまり悔しかったから私、来年も絶対シンオウ大会に来い、そのときこそあんたを倒してやるって言ったわ。そうしたらアオバ、わかった来年も絶対に行くからと言ってくれて」
 そこまで言うと、彼女は聞かなくても勝手に語りはじめる。
 その後の試合も一緒に見ていたこと、その間にいろいろな話をした事。自分のポケモンの話、旅の中で遭遇した出来事……そのほかにも沢山の話をして過ごした事。大会が終わって別れた後もときどき連絡取り合っていた事。
 それを語る彼女はどこか恥ずかしそうで、けれどとても嬉しそうで、先ほど出会ってから発破をかけられてきたばかりだった青年は、こんな一面もあるのだと意外に思った。
「でもね、私が一番好きだったのは、あなたが話してくれたシンオウの神話や昔話」
「昔話……?」
 意外な話題が出て、青年はそう聞き返す。
「初めにあったのは混沌のうねりだけだった。すべてが混ざり合い中心にタマゴが現れた。零れ落ちたタマゴより最初のものが生まれ出た」
 シロナは唱えるように言った。
 それは「はじまりのはなし」と呼ばれるものだ。シンオウが、この世界がはじまるときの話だ。遠い、遠い日の昔話――――神の時代の話。
「最初のものは二つの分身を創った。時間が廻りはじめた。空間が拡がりはじめた。さらに自分の身体から三つの命を生み出した」
 と、彼女は続きを唱える。
「二つの分身と三つの命……?」
「二つの分身は、それぞれ時間と空間を司るポケモンとされているわ。ハクタイシティにある銅像のポケモンはその姿を今に伝えている。三つの分身は心を。それぞれ感情、知識、意志を司っているのですって。それらしい壁画が私の故郷、カンナギタウンにあるの」
「詳しいんだね」
「……全部あなたが教えてくれたことよ。あなたの故郷ミオシティにはシンオウ一大きな図書館があって、旅立つ前はいつもそこに通っていたとあなたは言っていたわ。たくさんの神話と昔話に触れて、あなたは育った」
「ミオシティ? ……そこが、僕の故郷なのか」
 ミオシティ、海辺の町である。町のシンボルとも言える跳ね橋の下をいくつもの船が行き来している。そして、もう一つのシンボルがシンオウ地方最大規模の大きさと蔵書数を誇るミオ市立図書館。特にシンオウの民俗学の蔵書収集には力を入れている。
 青年は頭の中で知識としてはそんな情報を探し当てた。だが……自分がそこで生活し、図書館に通って、本を読んでいたという実感。それが伴わなかった。
「もしかして、何か思い出した?」
 少しばかり考え込む青年を見て、シロナが尋ねる。
「いや」と、彼は答えた。
「でもわかったことがある。どうやら僕の中にはシンオウの地理だとかポケモンの名前とか、そういうものはある程度知識としてあるらしい。現に対戦相手のポケモンやタイプが何かくらいは見ればわかるんだ。けれど、その後が続かない。知識と行動が結びつかない。実感が沸かないんだ。僕が僕たる実感が」
 そう言って青年はじっと手を見た。本当ならその手に握っていたであろうモンスターボール。今は手元にない。今の自分にはその資格がない。
 ――あなたは仮のアオバさんなのです。
 ふとノガミが放ったあの台詞が頭をよぎった。
 不安なものだ。自分がないというものは。せめてカードを持っていたなら少しは安心できたのだろうか。
「大丈夫、あなたは思い出すわよ。だって記憶がなくなってこの場所に、約束の場所にやってきたじゃない。それは身体が覚えているからよ。少し思い出すのに手間取っているだけ」
 言い聞かせるようにシロナが言った。
「ああ、そうだね」
 あまりそう思ってはいない顔で青年は答える。
 控え室のテレビ画面に予選Bのバトル中継がずっと流れていた。トレーナーが指示を出すとポケモンがそれに応える。勝利した者達は互いに喜びをわかちあい、敗れた者達は悔しさを噛み締めあっていた。
「そろそろ予選Bが終わるわ。じきに予選Cが始まる。私、行くわ」
と、シロナが言う。
「さあ、勝つわよ。あんなバトル見せ付けられた後で、負けていられない」
 バトルがはじまるのを待ちきれないといった様子でシロナは言った。
 ああ、彼女は本当にポケモンバトルが好きなんだな。そういう風に青年は思った。
「待っているよ。決勝トーナメントで君と当たるのをね」
 と、気まぐれに言ってみせた。それは記憶喪失以前の青年に似て、少し驚いたような顔をするシロナに
「……と、記憶のある僕ならこういうのかな?」
 と、付け加える。
「ふふ、そうね。言うかもしれないわね」
 彼女は少しはにかんで、でも少し残念そうに笑う。
「それじゃあ決勝トーナメントでね!」
 と、身を翻し控え室を出て行った。自動扉が閉まる音だけが控え室に残る。ふう、と青年は肩の力を抜いた。近くにあったソファーに腰掛けると
「さて、どうしたものか」
 と、言葉を漏らす。何気なしに、天井を見た。やっと一息つけるためか、その天井に今日の出来事が走馬灯のように巡っていた。そして、
「ポケモンリーグ……予選……決勝トーナメント、」
 などと今日の出来事を時系列でブツブツ口に出し始めた。
 何かが思い出せそうな気がしたのだ。
「ミオシティ……図書館…………そして、昔話と神話、か」
 いつのまにか彼は暗い廊下のことを頭に描いていた。控え室に戻るときふと浮かんだあのイメージを。下へ、下へと下っていた気がする。
 何も聞こえない。暗い、暗い場所。
 ……いや。何かが聞こえる。あれはなんだろう?
 あれは、……水の音?
「初めにあったのは混沌のうねりだけだった」
 どれくらいの時間そうやって過ごしていただろうか。ふと、彼の口からそんなワンレーズが漏れる。シロナがついさきほど彼に聞かせた「はじまりのはなし」だった。
「すべてが混ざり合い中心にタマゴが現れた。零れ落ちたタマゴより最初のものが生まれ出た」
 と、続ける。さきほど一回聞いただけにしてはずいぶんと流暢な語り口だった。
「最初のものは二つの分身を創った。時間が廻りはじめた。空間が拡がりはじめた。さらに自分の身体から三つの命を生み出した……」
 宙を見つめ、虚ろな表情で青年は呟いた。
 そして、続けた。彼女が話さなかった神話のその続きを。
「二つの分身が祈ると物というものが生まれた。三つの命が祈ると心というものが生まれた。世界が創り出されたので、最初のものは眠りについた……」
 彼の横で光が点滅していた。控え室のテレビがリーグの実況を淡々と映し出しているのだ。
 Cグループの予選が始まるらしかった。審判の旗があがって画面が動き出す。彼の眼にもそれは映ったが、いらぬ情報としてすり抜けていく。
 何を思ったのか、青年はリモコンを手にとって、次々にチャンネルを変えていく。トレーナー用品のCMが映ったり、時折、砂嵐が映ったりしてめまぐるしく変化する。
 チャンネルがニュース番組に切り替わる。最近、シンオウ地方を通過した季節外れ台風と、その爪痕について報じていた。幸いにも台風はポケモンリーグの開催場所に達する前に、東側に反れてじきに消滅してしまったらしい。そこでプツっと画面が消える。青年がテレビを切ったのだ。
「……だが、このはなしには続きがある。はじまりのはなしには、続きがある。忘れ去られたのか、あるいは削除されたのか、今は誰も知るものがいない」
 どこで聞いたのか、青年は無意識にそんなことを呟いていた。


  [No.2670] 第四話「やくそく」 投稿者:No.017   投稿日:2012/10/16(Tue) 19:57:53   64clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

ひとと けっこんした ポケモンがいた
ポケモンと けっこんした ひとがいた
むかしは ひとも ポケモンも おなじだったから ふつうのことだった

「シンオウの むかしばなし」より





●第四話「やくそく」





 もはや勝利を確信していた。
 相手の手持ちは残り一体、彼女の手持ちは残り四体。スタジアムの聴衆のほとんどは彼女の勝利を疑わなかった。だが、対戦相手が最後の一匹を放って、その状況は一変した。
 スタジアムを縦横無尽に駆け回り暴れまわるそれは、彼女のポケモン達を蹂躙していった。
 「それ」につけられた名前を、ガブリエルと云った。

「ねえ、あなた来年の予定は?」
 少々敵意を含んだ声が聞こえて、自分のポケモンをねぎらおうとスタジアムに下りてきていた青年は顔を上げる。声をかけたのは同じく、ポケモンに声をかけるべく下りてきた対戦相手のトレーナーだった。そして、対戦相手は短刀直入に言った。
「来年もシンオウ大会に来て!」
 金髪の長い髪がたなびく。動くにはちょっと邪魔そうだった。
「私はその時こそあんたを倒す。いいわね! 絶対よ! 逃げるんじゃないわよ!」
 ……逃げるなんて言いがかりもいいところである。いやそれ以前に、いきなりな上に、相手の都合も考えないむちゃくちゃな要求である。
 だいたい、青年に来年もシンオウ大会の出場予定があるかもわからない。別の地方にだってポケモンリーグはあるのだから。彼女が前置きで予定を聞くだけ聞いたのはそのためだ。もっとも予定が入っていたら変更させる腹づもりだったのだろうが。
 だが、青年は、彼女の要求をあっさりと受け入れた。
「わかった」
「……………………へ?」
 一瞬で要求が通り、鼻息を荒くしていた彼女は拍子抜けする。
「いいよ。来年の予定とかないし」
「え、いいの。そんな簡単に決めちゃって」
 思わず彼女はそんな言葉を返してしまった。
「だって君がそう言ったんじゃないか」
 と、青年が言う。
「そりゃそうだけど、なんで? あなたくらいのトレーナーなら他の地方の大会で実績作るって選択肢だって」
「うーん、そうだなぁ。トレーナーやってると、来年こそは負かすとか、今度会う時は負けないとか、挨拶代わりによく言うけどさ、時と場所まで指定してくるのって珍しいじゃない? だから」
「……それってよくわからない」
「有言実行、思い立ったが吉日ってことだよ。これも何かの、」
 がぶり。
 縁だよ、と言う前に、青年の後ろにいたガブリアスが彼の頭にかぶりついた。
「いででででで!」
 と青年が声を上げる。
「ちょっと! 大丈夫なの!?」
 突然のことにシロナは慌ててしまう。
「あ、大丈夫、大丈夫」
 彼女に言わせればあまり大丈夫そうに見えなかったが、青年はいつものことだと説明した。
「ガブはいつもこうなんだ。これでも俺の頭が割れない程度には加減してくれているんだよ。彼女なりの愛情表現だと俺は理解している」
「え、彼女………?」
 女性トレーナーは青年の頭に夢中のいかついガブリアスの顔を見る。どうみても乙女には見えなかった。何? あんた誰? とう感じで、お世辞にも人相がいいとは言えない顔が彼女を見下ろす。
「よく誤解されるけれど、ガブリエルはメスなんだ。フカマルとその進化系の雌雄の見分け方は背中のヒレ。切れ込みがあるのがオスで、ないのがメス」
 ガブリエルのよだれまみれの頭で青年は説明した。
「まぁ、対戦表で見ていると思うけど、俺はアオバ。君はたしかシロナさんだったよね?」
「……シ、シロナでいいわ」
 どういうわけか、青年から目線を逸らして彼女は答えた。
 長髪のキザな格好したスカした奴、どうせなんだかんだで理由をつけて、クールに断るのかと思っていたけど……。なんだ、わりといい奴じゃない、などと彼女は考える。
「……? そうかい、じゃあそう呼ぶよ。よろしくシロナ」
 と、青年が言った。


「来るわよ、リオ!」
 シロナが叫ぶ。ポケモンが軽やかに攻撃をかわした。獣のそれの形をした掌を合わせると中から球体が現れる。エネルギーがその中で渦を巻いていた。それが宙を舞う相手に放たれ、炸裂する。ルカリオの波導弾が決まった。
「ムクホーク戦闘不能! 勝者、赤コーナーシロナ選手!」
 歓声が上がった。リオと呼ばれたルカリオと
そのトレーナーはパチンと互いの掌を合わせ、鳴らす。手にしたのは決勝トーナメントへの切符だ。
 もう少しだ。もう少しで彼に手が届く。もう
去年のような負け方はしない、とシロナは心に誓う。
 その足で立ちたい場所があった。
 だから、超えなければならないものがある。
 青年を、ミモリアオバを超えなければ、前に進めない。彼は、彼女にとって超えるべき対象。
彼女が青年と再会を約束したのはそのためだ。あの頃も、今もそれは変わっていない。
 けれど――その先にもうひとつ、彼女には決めていることがあった。


「それでは私達の決勝トーナメント進出を祝って、カンパーイ!」
 夕刻、会場の周りに立ち並ぶ屋台の一角で彼らは祝杯を挙げた。
 祝杯と言っても別に酒を飲むわけではない。彼らは未成年なので、酒みたいなジュースで代用した。モモンなんとかとか、モーモーミルクなんとかいろいろ種類がある。出された飲み物
をぐっと飲み干すと、
「ぷはー! やっぱりバトルの後はこれに限るわね!」
 と、シロナが言った。青年はその様子を見て、仕事帰りの会社員に似ていると思った。
 ポケモンリーグ、それは祭である。
 観客は何もバトルだけを見に来ているわけではない。飲み、食べ、歌い、買い物をしてこの祭を満喫するのである。客を満足させるため、あらゆるアミューズメント施設が準備してある。
 その中でもさいたるものがイベント会場全体を見渡せる観覧車だ。今二人がいる屋台からもそれが見える。商売とはいえよくやるなぁ、と青年は思う。
「へい! ポケモンリーグ盛り合わせ二人前お待ち!」
 店主がドンと二人の前に皿を置いた。「ポケモンリーグ盛り合わせ」なんて大層な名前がついているが別になんてことはない。串焼きだの、なんとかだの、飲み会に出るような盛り合わせである。とりあえず、二人ともお腹が空いていたので、青年の頭にかぶりつくガブリエルのように、串にかぶりついた。
「おう、姉ちゃん、いい食べっぷりだねぇ。今日は彼氏とバトル観戦だったのかい?」
 と、ドータクンの顔に似た店主が尋ねる。
「いいえー、今日はポケモンリーグの予選に出ていたんです。あ、別に横のは彼氏とかそんなんじゃないですよー。むしろライバルですよ、ライバル」
 口をもごもごさせながら、シロナが答えた。ちょっと顔が赤くなっていた。青年は、おかしいなぁ、ノンアルコールのはずなのに、などと考えながら、自身も口にせっせと食べ物を運ぶ。
「ふーん、隣のにいちゃんもポケモントレーナーかい」
「ええ、まぁ」
 と、青年は答える。つっこんだ質問をされたらいやだなぁという顔をした。
「よし、俺が結果を当ててやろう!」
 と、店主が言う。
「ずばり、二人とも予選通過だ。そうだろ!」
「あたりー」
「そうだろうとも、私はこれを外したことがないのが自慢なんだ」
「でも、おじさん、私達の話聞いていただけでしょー?」
 と、シロナが言う。すると店主は、
「話なんてきかなくてもな、顔を見ればだいたいわかるんだ。俺は毎年ここに屋台出しているんだけどな、いろんなのが来るよ。勝ったやつも負けた奴も、あとポケモンリーグの職員なんかもな。毎年出場トレーナーとか観客のマナーが悪いとこぼしているよ」
「なるほどー、じゃあ、あの木箱みたいのを被って、飲んでいる人はー?」
 シロナはグラスの尻のほうで、左のほうに座っている酒を飲んでいるらしい人物を指した。
 ちょうど屋根になる一枚の板を二枚の板が壁になって支えていて、人が一人座ると周りからも顔が見えないし、中の人も周りの顔が見えなくなる。孤独を愛する人用の簡易版プライベートルームである。
「おい、シロナ、」と、青年は制止したが、店主は「いいんだ、いいんだ」と言う。
「でも……」
「大丈夫だ。そろそろ人恋しくなる頃だから」
 すると、木箱みたいな簡易版プライベートルームを外し、中からどよーんとした顔の男が姿を現した。表情から察するには予選落ちだろう。
「ひどいなぁ〜、そりゃあ、ぼかぁたしかに予選落ちですけどー」
 と、言った。しかし別に怒っている風ではなさそうだった。
 ほらな、という感じで店主が青年に目配せする。彼はほっと息を吐いた。
「お前さんの場合、リーグの挑戦といってもほとんど道楽みたいなもんだろ」
「あ、それを言っちゃーおしまいですよぉ。僕だって出るからには勝ちたいし、優勝したいに決まってる」
 男がそう言って、店主は「毎年こうなんだ」と付け加えた。
「その顔だとおたくらは予選通過かな」
「まーね。でもそれ、聞いてたんでしょ」
 と、シロナがツッコミを入れる。
「あ、やっぱりばれたかぁ」
「だってあなた、さっきからそれかぶっていたじゃない。私達の顔なんかみえないでしょー」
 と、シロナは言った。やっぱりシロナの顔は赤かった。おかしいなーノンアルコールのはずなのに、と青年はいぶかしげに自分の握るグラスを見る。
「けど、いいなぁ」
 と、男は言った。
「君達はまだ戦えるんだ。僕は来年までおあずけだよ」
 その言葉に青年は少しドキリとした。
 ……そうだ、自分が勝ったからには負けた者がいるのだ。シロナに言われるままに、ポケモン達に全部丸投げして、なんとなく参加してしまったが、本当にこれでよかったのだろうか。自分が思っていた以上に、予選突破とは重いものなのではないだろうか? そんなことを考える。
「あれー、彼女の隣にいるの、もしかしてアオバ君?」
 突然、男は青年の名前を口にする。え? といった表情で青年は顔を上げた。
「ガブリアス使いのアオバ、去年のベスト4、今年の優勝候補の一人だ」
「……よく、ご存知なんですね」
 と、青年が言うと
「シンオウリーグに出るトレーナーならチェックはしてるさ」
 と、男は答える。
「シンオウリーグに出るトレーナーならチェックはしてる、かぁ。いいわね、私もそんな風に言われてみたい」
 続けてシロナが赤い顔で彼を見て言った。
「君のポケモンはどれも強いけど、ガブリアスは別格だ。君のガブリアスのようなポケモンを持っていたら僕も、決勝トーナメントに行けるのかなぁ」
「強いポケモンは手に入れるものじゃないわ。自分で育てるものよぉ」
 と、シロナが反論する。
「私は自分で育てたポケモンでガブちゃんを倒してみせる」
 と、続けた。
「ごめんごめん、言い方が悪かったよ。でもね、僕のような決勝トーナメントに届かないようなトレーナーにはさ、やっぱりアオバ君のガブリアスは憧れだよ、なんていうかさ……」
「なんていうか、なんですか?」
 青年は思わず聞いてしまう。
「嫉妬をかきたてるんだ。君のガブリアス、その強さがトレーナーの嫉妬をかきたてる」
「………………」
「そういうものなんだ」
 青年はそれ以上何も言わなかった。まだ思い出せない自分自身の存在、それがずいぶんと重い様に感じた。
 自分は何をやっているのだろう。何も思い出せないまま、流れに身を任せるだけじゃないか。手に握るグラスに顔がおぼろげに映りこんでいた。焦りの色が見える。
「あーもう、辛気くさい話はやめにしましょうよー。そうだ、何かおもしろい話でもしましょ」
「そうだよねー、そうしようか」
「そうだ、ガブちゃんで思い出したんだけどねー、去年、屋台で飲んだ時にアオバが変なこと言ったのよ」
「え、なんですか、なんですかー」
「もし、ポケモンと結婚できるなら、俺はガブリエルと結婚したい」
 ぶっ。飲んで落ち着こうとコップに口をつけていた青年が吹き出す。
「まてよ! シロナ、君は僕が記憶喪失だからってからかっているのか。いくらなんでも僕はそんなこと言わないと思うぞ!」
 口の周りを急いでぬぐうと、青年が主張する。ポケモンリーグの前で、自身というものを意識してから、はじめて声を荒げた気がした。
「アオバ、怒ってるの?」
「……いや、なんでもない。ごめん。気にしないで話進めていいから。それで?」
 取り乱しすぎた、と反省し、仕切りなす。
「ほら、シンオウの昔話にあるじゃない。昔は人もポケモンも同じだったから、ポケモンと人が結婚していたって話、あなたそれを引き合いに出して、そんな冗談を言ったのよ」
「そうかい。冗談ならよかった」
「結婚して、毎朝、頭かじられて起されたんじゃたまらないものね」
 神話か、と青年は思い直した。彼女からはじまりのはなしを聞いて、反芻したとき、何かを思い出せたような気がした。最も、意識がもうろうとしていて、何を思い出したのかは忘れてしまったのだが……。
 でも、それならば。
「その話なら僕も知っていますよ。友達はそれができるならミミロップと結婚したいって言ってた」
「ミミロップ? ホント、男の人ってミミロップが好きよねー」
「いやぁ、だってかわいいじゃないですか。ね、君もそう思うだろ、アオバ君」
「いや、僕は別に……」
「やだー、顔赤いわよー。アオバー」
「ミミロップには興味がない、僕はサーナイト派だ。……それより、シロナ」
 と、青年は切り出す。もちろんサーナイト派というのは冗談である。
「記憶を戻す手立てになるかもしれない。もっと神話や昔話の話をして欲しい」
「……わかった、いいわよ」
 と、シロナが答えた。
「今のあなたにおあつらえむきの神話を思い出した。それはね――」
 グラスを片手にシロナは語りだした。夜が更けていく。


 そんな感じでだらだらと三人はしゃべり続けて、すっかり酔いつぶれたシロナを抱えながら、青年は宿泊施設に戻ることになった。おかしいなーノンアルコールだったはずなのに、などと思いながら。
「今日は楽しかった……。アオバがまだ思い出してくれないのは癪だけど……でも、今日は楽しかった」
 青年に寄りかかったシロナが言う。
「……そうかい」
 と、彼は返事をした。
「去年あなたに会って、短い間だったけど一緒にいるのは楽しかった。だから、私が来年も来るように言ったのは……最初は勝負するためだったけど、たぶんそれだけじゃなかったのよ」
「そうかい」
「ずっと、大会が開いていればいい。こんな時間がずっと続けばいいのに」
 シロナはそこまで呟くと、あとの言葉はしどろもどろになって、やがて眠ってしまった。
 青年がふと、後ろを振り返ると祭に賑わう夜の光景が見える。まだ明かりを消す屋台は少なく、夜はまだまだ続くようだった。その光景の少し外れに、あの観覧車も見えた。骨格につけられたイルミネーションが夜の空で点滅を繰り返している。

 ――シロナ、知ってるか? 昔、人はポケモンと結婚できたんだぜ。
 ――なにそれ?
 ――人と結婚したポケモンがいた。ポケモンと結婚した人がいた。昔は人もポケモンも同じだから普通のことだった。つまり、俺とガブも時代が時代なら結婚していたかもしれないわけだ。
 ――そうやって毎朝、頭にかぶりつかれて起される結婚生活を送るわけ?
 ――それはちょっといやだな、やっぱり今の関係がいいや。

 その足で立ちたい場所があった。
 だから、超えなければならないものがある。
 あの日、彼女は青年に約束を取り付けた。
 青年を超えなければ、次に進めない。彼女にとって、ミモリアオバは超えるべき対象。
 だから約束した。来年も必ず――と。あの頃も、今もそれは変わっていない。
 けれど、それは単純に青年を倒すための約束ではなくなっていたのだ。


「やあ、いらっしゃい。今夜は残業かい?」
「まぁ、そんなところです」
 シロナ達三人がいなくなった後の屋台、ドータクンに似た顔の屋台の店主に聞かれ、客はそう答える。
「その顔は何かあったね」
「……わかりますか。やっぱりあなたには敵わないな。実は今日、」
 受付に男女の二人組が乗り込んできて――、客はそんな話をはじめた。
 夜はまだまだ長い。愚痴をこぼす時間はいくらでもあった。リーグの観客のマナーが悪い、出場トレーナーのマナーが悪い。話のネタはいくらでもある。
「そういえば、君と初めて会ったのもこんな夜だったなぁ。もうほとんどのトレーナーがお腹を満たして、宿舎に帰ったころ君がやってきて、もうトレーナーは引退すると言った」
「その話はしないでくださいよ」
「あの顔は、予選で負けた顔だったね」
 そう、店主は言って、グラスを差し出した。
 客はそれを掴むと、一思いにぐいっと飲み干した。


  [No.2671] 第五話「せんぼうと しっと」 投稿者:No.017   投稿日:2012/10/16(Tue) 19:58:44   44clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
タグ:遅れてきた青年

3びきの ポケモンが いた
いきを とめたまま みずうみを ふかく ふかく もぐり
くるしいのに ふかく ふかく もぐり
みずうみの そこから だいじなものを とってくる
それが だいちを つくるための ちからと なっている という

「シンオウの しんわ」より





●第五話「せんぼうと しっと」






 ポケモン協会は様々なものをその手に担っている。
 地方ごとに支部が存在し、ジムリーダーや四天王などの任命を行う。ポケモンリーグの開催やトレーナー用施設の管理なども協会の仕事だ。
 そして最も重要な役割が、ポケモントレーナーの統括である。ポケモンを取り扱うものは、そのほとんどが協会の発行したトレーナーカードを持ち、その情報は協会で保存・管理されている。無論、その情報がみだりに覗き見られることはない。……特別な場合を除いては。
「ミモリアオバ、IDナンバー××××‐××××‐××××、最後にポケモンセンターを利用したのは一週間前、リッシ湖の上流に位置するこの場所です。そして、ここに現れるまでポケモンセンターの利用等の痕跡は残していない」
 薄暗い部屋にパソコン画面の無機質な光が漏れている。パソコンの画面を二人の男が覗き込んでいた。一人が画面を指差す。それは、シロナとやりあった受付のノガミであった。隣にはその上司の姿がある。上司の名前はカワハラと言って、とりあえず受付するようにとアドバイスしたのがこの男である。
「ノガミ、お前って結構しつこい性格だったんだな。いや、わかっちゃいたんだけど」
 パソコンを操作するノガミの傍らでカワハラは呆れたように言った。
「本人に間違いないじゃないか。さっさと彼にカードを再発行して仕事終わり、だろ?」
 カワハラはどちらかと言えば大雑把な性格だ。仕事は適当に、さっさと終わらせたいタイプである。
「それはできません。年間に何件、他人のカードの流用や本人のなりすまし行為が起こっていると思いますか? 対応を間違えれば責任問題です。事には慎重にあたらねばなりません」
 一方のノガミはどちらかといえば几帳面で神経質なきらいがあった。
「……お前ってさ、変なとこ几帳面だよな。少なくとも彼は本物だろ? ポケモンだってちゃんと言うこと聞いていたじゃない」
「あれは暴れていただけです。なにせ一週間も預けっぱなしだったのだし、溜まっていたのでしょう」
「へえ、なんでそう思うの」
 カワハラの質問に「昔リーグ出場した経験からですよ」と、ノガミは不機嫌そうに答えた。
「それに変じゃありませんか。リーグ挑戦前に一週間近くポケモンを預けっぱなしなんて。普通は実戦さながらバトルさせて調整するとか。身体を休ませるにしたって、一週間は長すぎる」
「人それぞれ……なんじゃないのか? そういうのって」
 カワハラはそう言ったが、ノガミはいいや絶対におかしいと言い張った。
 ミモリアオバの監視、ノガミはそれを青年に上司からの命令だと説明していたが、実際のところその役を進んで買って出たのは彼自身だった。
 気に食わなかった。ポケモンを一週間預けっぱなしにした挙句に、トレーナーカードも持たずやってきた。おまけにあんな綺麗な女の子に出場交渉までさせて。なんであんな情けないヤツが去年のベスト4なのだろう。
「とにかく、トレーナーカードの紛失や拾得の情報があったら僕に回してくださいよ」
 と、ノガミが言う。「はいはい」と、カワハラが返事をした。
 正直、あんなやつ予選で負けてしまえばよかったのに、とノガミは思っていた。
 いや、案外彼は強いトレーナー全般に対してもそういう類の考えを持っているのかもしれなかった。強いトレーナーを見ると無性にイライラするのだ。特にそいつがぼうっとしていたり、どこか抜けていたりすると、そのイライラが一層強いものになる。つまり、ミモリアオバみたいなポケモントレーナーがまさにそれであった。
 だが、今日まで彼がそれをあまり表に出すことはなかった。自分がそうなる原因はおそらく自分の過去に起因しているのはわかっている。何より、そういった態度を表に出すのは、お世辞にも大人な対応とは言えないだろう。ましてや、ポケモン協会の職員として、いかがなものかと思う。
 だがあの時、受付でシロナとやりあって反泣きにされたあたりから、彼は湧き上がってくるその気持ちに抑制が利かなくなってしまった気がした。「四天王」という一種の権力を振り回されたことで、自分は協会職員だからとか、大人な対応をとるべきだとか、急にどうでもよくなってしまったのかもしれない。
「だがな、あまり深くは首を突っ込むなよ。以前、一目惚れしたトレーナーの行方これで調べて、追い掛け回して、クビになった職員がいただろう」
 カワハラがそんな忠告をした。
「ああ、ありましたねぇ、そんなこと。気を付けます」
 ノガミは素っ気無く返事を返す。
 そうだ、こんなことを調べてどうする? 身分がはっきりしないことをネタに嫌味の一つや二つ言ってみたところで、彼を舞台から引きずり降ろすことなどできないだろうに。一週間の空白が何だ。今に何らかの形で本人確認がとれて、カードが再発行されて終わりなんじゃないのか。実際のところノガミはそう思っていた。
 思っていたが、彼は調べることをやめることができなかった。

 シンオウリーグ、そこで優勝するのはこの地方のトレーナーの夢である。
 シンオウ中から腕に覚えのあるトレーナー達が集まり、強さを競い合う。それに加えて、他の地方からの参戦者もある。それだけに参加者の数は膨大だ。その人数を捌くために二日目、三日目と予選が続く。
 そして、予選の後に続くのが決勝トーナメントだ。シロナや青年のように予選程度なら軽々と抜けてトーナメントに行く者がいる一方で、多くのトレーナー達が予選でふるい落とされるのもまた事実だった。
 表彰台を夢見ても届かない。決勝トーナメントの進出さえ叶わない。ポケモンリーグはそんなトレーナーたちを毎年のように吐き出しているのだ。勝ち残る者達がいる。それ以上に消え行く者達がいる。決勝トーナメントのメンバーはそうして出揃うのである。
 選別されたトレーナー達。彼らはランダムに振り分けられ、対戦相手が決定される。
 作成されたトーナメント表の頂点を目指し、選ばれた者達の戦いが始まる。


「よお、アオバ。アオバじゃないか」
 トレーナー宿舎のロビーで青年は呼び止められる。
 見ると、傍らにエンペルトを連れたトレーナーが立っていた。男性のトレーナーだ。少しばかり小太りしていて、体型が彼の連れているエンペルトに似ていなくもなかった。
 きょとんとする青年に男性トレーナーが続ける。
「俺だよ。決勝トーナメントで去年対戦した」
 と、言った。トレーナーは当然、青年が自分を覚えていると思っているらしかった。
 弱ったな、と青年は思った。きっと自分が特殊な状況下に置かれているのでなかったら、覚えていたのかもしれないが。
「…………」
 青年は無言のまま申し訳なさそうに彼を見た。
 少ししてトレーナーは、事態を、少なくとも今、青年の頭の中に自分という存在がないらしきことを悟ったらしい。青年の目にトレーナーの表情が険しくなるのが見えた。
「そうかい。少なくとも俺はアンタの眼中にはないってことかい」
 と、トレーナーが言う。
 違う、そうじゃない。だが、青年は反論ができなかった。いや、今事情を説明したって、相手はバカにされただけと思うだろう。
「……ごめん」
 と、青年は答える。相手が固まったのが見えた。エンペルトが横目に主人の様子を伺う。鉄仮面の表情は動かないが、目の動きが気まずい雰囲気を察している。
「……さすがは去年のベスト4、今年の優勝候補は違うよな?」
 ショックを隠すように、精一杯の皮肉を込めてトレーナーは言った。
 シンオウリーグに出るトレーナーならチェックはしてるさ――昨晩屋台で男が言った言葉が思い出された。
「アオバー! トーナメント表できたって!」
 後ろから、いかにも興奮した感じのシロナの声が響いてきた。後ろからとことことルカリオがついて走ってくる。
 だが彼女も、貰ってきたわよ、と意気揚々と言う前に、目の前にいる二人のトレーナーの気まずい雰囲気に気がついて黙った。あららー、やっちゃったわねー、といった感じで気まずそうな表情を浮かべた。記憶が戻らない限りいつかはこうなると思っていたようだ。
 おいおいしっかりしろよ、といった感じで彼女のルカリオが青年を見つめる。
「君、シロナだろ」
 と、トレーナーは言った。
 ええ、とシロナが肯定の返事をする。
「彼ね、俺のこと覚えていないんだって。ショックだよなー。シロナ、君はどうだった?」
 彼はそんな質問を投げかけた。すると彼女は少し困った顔をして笑うと、
「私もね、忘れられちゃったの」
 と、答えた。
 青年はドキリ、とする。
「初日に声をかけたけど、ぜんぜん私のこと覚えていなくて」
「そうか、君もか。俺より上のほうまで進んだ君まで忘れられているんじゃ、俺を覚えているわけないな」
「まったくひどい男よね。だから私、初日に改めて覚えてもらったわ」
「それはひどい、な」
 シロナの意見にトレーナーが同意する。
「でもね、今度はきっと勝ってみせる。そうしたらきっと彼は忘れないわ」
 彼女はそう付け足した。
 胸のあたりが重い。大きな重りを心臓に乗せているようだと青年は思った。
「そうそう、トーナメント表出たわよ。あなたも貰ってきたらどうかしら?」
 と、シロナが続ける。そうするよ、とトレーナーは答えた。
「イワトビ、行くぞ」
 鉄仮面のエンペルトに声をかけると、自然に去る口実ができたとばかりにトレーナーは足早にその場を動き出す。ぺたぺたとエンペルトが後を追った。一人と一匹の後姿がだんだんと遠ざかっていく。
 ああ……、と青年は思った。なにか取り返しのつかないことをしてしまった。見限られたような気がした。このままではいけない、とも。
「待ってくれ!」
 気がつくと、彼は叫んでいた。
 もう表情は見えなかったがトレーナーが立ち止まる。
「忘れていてごめん! でも覚えるから! シロナがそうだったように君のことも覚えるから! 君の名前は!?」
 すると、トレーナーが振り返るのが見えた。
「カイトだ!」
 トレーナーは答えた。
「いいか、忘れたなら今覚えとけ! お前を倒すかもしれない男の名前だ! いいか、忘れるんじゃないぞ。お前を倒したいと思っているのはそこの女だけじゃないからな!」
 そう言うとトレーナーとポケモンは去って行った。
 彼らを見送って青年はほっと胸を撫で下ろした。唐突にあんなことを口走ってしまったが、今の自分としては最良の選択だったように思えたのだ。
 ふと視線に気がついて、そちらの方向を見ると、シロナがニヤニヤしながら腕組みをして立っていて
「これぞ、青春よね」
 と、言った。
「別にそういうわけじゃない」
 青年はぶっきらぼうに答える。
「でも、いい心掛けだわ。記憶喪失なりにトレーナーの自覚が出てきた感じ」
 シロナは本当に感心した様子でそう言った。
「でも、彼には負けちゃだめよ? 私と当たるまで負けちゃだめだからね」
 だが、しっかりと釘は刺すことは忘れない。
 青年を倒し、さらなる高みと進む。それこそが彼女の目的なのだから。
「…………最大限、努力はしてみるよ」
 あまり自信がなさそうに青年は答えた。


「見てみろよノガミ、あのかわいい子とカード無しの彼、準決勝で当たるぜ」
 トーナメント表を入手した見たカワハラは、後輩の元へそれを持ち込むと、興奮気味に語った。いつのまにか二人の事は彼らの話題の中心になっていた。
 ノガミはカワハラから表を受け取る。見ると、二人の名前に赤丸が付き、一回戦のところまで赤線が延びていた。それを見てノガミは、
「準決勝で当たるって、それは勝ち上がればの話でしょう。それまでには五回勝たなくてはならない。女のほうはともかく、ポケモン任せの彼はどうでしょう? 決勝トーナメントは予選ほど甘くない」
 などと、冷めた意見を述べた。
「それよりカワハラさん、頼んでおいたものいただけますか」
 と、彼は続けた。
「はいはい、まったく仕事人間だねぇ、君は」
 カワハラは呆れたように、諦めたように頼まれていたものを差し出す。
「職務に忠実だと言ってもらいましょうか」
 と、ノガミが答え、受け取る。受け取った書類を手にして、くるりと椅子を回し、デスクに向き直ると、ざらっと内容を確認する。数字がいくつも並んでいる書類だった。
「決勝トーナメント……か」
 ひととおりの数字に目を通した後、彼はそんなことを呟く。
 決勝トーナメント。表彰台へと続く一本道。だが、その道に必ずしも出場したいものが立てるわけではない。選ばれた者のみが出場できる。それが決勝トーナメントなのだ。
 それはかつて、自分のたどり着くことのできなかった場所。それを青年は軽々と乗り越えて行った。それを可能にしたのは青年の主力、ガブリアスだ。
 ガブリアス。そもそもポケモンの種類からして因縁めいているのだ……と、ノガミは思う。眼球がせわしなく左右に動き、数字の羅列を追っている。
「そうさ、決勝トーナメントは甘くない」
 と、彼は再び呟いた。
 あれから少しばかりの日数が過ぎたが、青年のカードは未だ行方不明のままだ。


 青年はシロナからトーナメント表を受け取る。
 頂点の下に大樹が根を張るように線が伸び、その下にいくつもの名前が書き込まれている。その中から彼らは自分達の名前を探す。
 ふとその横で、ルカリオが彼の主人をつっついた。こんな時になんなのよ、とシロナが言う。ルカリオが二人の背後のほうを指差したが、トーナメント表の根っこを目で追うのに夢中な彼女はそちらを見ることもせず、ほとんど相手にしなかった。
 一方、ルカリオの示す方向をちらりと見た青年は、何かの影がふっとロビーのガラス窓の角に消えるのを見た。
 それは、彼の目に二本の触手のように見えた。先端が平たく、その真ん中がきらりと光ったような気がした。
(なんだ、あれ……)
 青年は怪訝な表情を浮かべる。
「あ! あったわよ、アオバの名前」
 青年が影の正体について思案している間に、シロナは樹形図の中に青年の名前を発見したようだ。青年の関心がそっちに移ったのを見て、その場所を指差す。次に自分の名前と青年との距離を見て、さっそく何回戦で当たるかの見当をつけ始めた。
 影のことはいったん忘れて、青年もトーナメント表に目を通す。まずは自分の場所を確認する。次におのずと、目線はその隣に、彼の対戦相手の名前のほうに注がれることになった。
 青年の名前の隣に記された一回戦の対戦相手、そこにあった名前は、先ほど青年に名乗ったあのトレーナーの名前だった。
 ――いいか、忘れるんじゃないぞ。お前を倒したいと思っているのはそこの女だけじゃないからな!
 トレーナーの台詞がリフレインする。
 予選のようにあっさりとはいかない――そんな予感がした。
 そして、青年の予感、ひいてはノガミの予想は当たってしまった。
 ポケモンに指示を出すことのできない彼は、トーナメント一回戦から苦戦を強いられることになったのだ。


  [No.2672] 第六話「おそろしい しんわ」 投稿者:No.017   投稿日:2012/10/16(Tue) 19:59:45   92clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

その ポケモンの めを みたもの
いっしゅんにして きおくが なくなり かえることが できなくなる
その ポケモンに ふれたもの
みっかにして かんじょうが なくなる
その ポケモンに きずをつけたもの
なのかにして うごけなくなり なにも できなくなる

「おそろしい しんわ」より




●第六話「おそろしい しんわ」





 今のあなたにおあつらえむきの神話を思い出した。それはね――
 予選が終わった夜、神話をもっと聞かせて欲しいと願う自分に、彼女はそう前置きし、その神話を語りだした。どうして今、自分はそんなことを思い返しているのだろう。
 水音が聞こえる。
 彼の目の前に、巨大な質量を伴った水流が迫っている。
 すべてを飲み込むために、水は集った。


「もどれ、ラミエル」
 青年がラミエルと呼ばれたサンダースを戻す。シロナによればラミエルは青年が町を旅立つとき、最初に貰ったイーブイなのだと言う。試合中終始、ラミエルは青年の指示を欲しそうにしていたのに彼にはどうすることもできなかった。
「おい、アオバ!!」
 たくさんの聴衆が試合に注目している。その視線が注がれるその場所で一回戦の相手、カイトは叫んだ。
「さっきから見ていればなんだその戦い方は!」
 彼の憤慨も尤もだった。的確な指示を出されずに戦う青年のポケモン達、優勝候補と目されるトレーナーの所有だけあって個々の能力は高いのだが、いまひとつ動きが芳しくない。戦況を客観的に見極め、的確な指示で動くカイトのポケモンに比べるとその差は明らかだった。
 カイトの手持ちが残り四体なのに対し、青年の残りは一体のみ。
「お前、俺をバカにしているのか?」
「違う」
「だったらなんでポケモンに指示を出さない?」
 カイトの言うことは正論だ。青年だって、やれるものならとっくにやっている。だが、技を指示するにしてもうまくタイミングがとれないし、何よりどういう状況でどんな技を指示したらいいのかも彼には皆目見当がつかないのだ。
「言っとくが、そんなんじゃ俺は倒せないぜ!」
 カイトが挑発するように言う。
「そんなことはわかっている!」
 青年はイライラした様子で叫んだ。
「この野郎、わかっているんなら、本気を出しやがれ!」
「黙れ! やれるものならとっくにやっているんだよ。僕だって好き好んで記憶喪失やっている訳じゃない!」
「何を言っているんだお前! 言ってることが全然わからねぇぞ!」
「ああ、そうだろうな!」
 売り言葉に買い言葉である。ポケモンバトルそっちのけで、トレーナー同士のバトルが勃発した。おいおい、あんたたち何やっているんだよ? という感じでカイトのジバコイルがその行方を見守っていた。
 もっともこんなことはポケモンリーグの試合でもよくあることらしく、審判は冷静である。タイミングを見計らって、
「アオバさん、次のポケモンを出してください。それとも棄権なさいますか?」
 と、言った。
「いや、それは」
 棄権……そんなことやったら、僕はシロナに殺されてしまうと青年は思った。
 最後のモンスターボールを手に取る。
「頼むぞ、ガブリエル!」
 祈るような気持ちでボールを投げる。ボールから赤い光が放たれ、ガブリアスが姿を現した。タイプが不利だと見て、カイトはポケモンを引っこめて交代する。青年のパーティ中最強と知っているだけに、さすがに警戒しているらしい。
 青年は、ガブリエルには期待していた。予選の時も一番張り切ってバトルをしていたのは彼女であり、その強さは自身の手持ちの中でも飛びぬけている。記憶を失っているとはいえ、今までのバトルからも、またシロナや他のトレーナーの言動からもそれが容易に想像できた。
「マキヒゲ、おまえに決めた」
 対ガブリエル用にカイトが繰り出してきたのは巨体を幾重にも絡まるツルで覆い隠したモジャンボだった。
「畳み掛けるぞ、パワーウィップだ!」
 先端が赤く染まった両手のようなツルが伸び、しなる。叩きつけて、ふっ飛ばすつもりらしい。だが、ガブリエルのことだ、ひきつけて攻撃をかわし、反撃に出るだろう……青年はそう思っていたし、相手だってそれくらいの腹積もりでいた。
 だが、ガブリエルは動かなかった。むしろ甘んじて攻撃を受け入れた。ムチ打つように音が響く。
「え?」というカイトの声が聞こえた。
「ガブリエル?」
 意外な展開に、青年も訝しげな声を上げる。
「どうして反撃しない……?」
「よくわからないがチャンスだ、今のうちに少しでもダメージを与えておくんだ!」
 カイトが叫ぶだが、ガブリエルは突っ立ったままだ。微動だにしない。モジャンボが連続攻撃をしかけて、ビシィ、ビシィとツルの音だけが響いている。
「反撃するんだ。ガブリエル!」
 だが、ガブリエルは動かない。それは自分の主人の指示ではない。本当のミモリアオバはそんなことは言わないとでも言うかのようだった。
「ガブリエル!」
 青年は何度も呼びかけたが状況は変わらない。ガブリエルはモジャンボの執拗な攻撃に耐えながら、睨みつけて、少し低い唸り声を上げるだけだった。待つものさえくればすぐさまお前を引き裂いてやる、と言うように。
「あまり不用意には近づくなよ。距離をとってダメージを与えるんだ」
 と、カイトが指示を出す。
「ガブリエル、どうしたんだ。せめて、かわすか防御くらいしてくれ!」
 そう言ったが、彼女は聞き入れなかった。執拗に命令を無視するガブリエルに、青年はある種の意地のようなものを見た。
「一体どういうことでしょうか!? アオバ選手のガブリアス、動きませーん」
 実況がそんなことを叫んでいる。観客達がどうしたどうしたとざわめいている。
 そんな中、ガブリエルは平然として、なんともなさそうな顔を装っている。だが、ダメージは確実に蓄積しているはずだ。
「反撃するんだ。ガブリエル!」
 だが、彼女は動かない。
「ガブリエル!」
 動かない。
「もういい、あんたには失望したよ」
 痺れを切らしたようにカイトが言った。
「こうしてりゃ少しは本気になると思ったが、無理だな。シロナにゃ悪いが俺がとどめを差してやる。お前を倒して俺は上に行く!」
「うそつけ、はじめからそのつもりだったくせに!」
 思わず、青年は突っ込みを入れた。
「フン、わかっているじゃねぇか。だったら遠慮はいらないな!」
 カイトがモンスターボールに手をかける。
「交代だ、イワトビ!」
 彼はモジャンボを引っ込めて、ポケモンを交代してきた。
 繰り出したポケモンはエンペルト。くちばしから伸びた王冠のようなツノが光る。ロビーで出会ったとき傍らにいたあのポケモンだ。おそらく、このポケモンが彼の一番のパートナーなのだろう。一気に勝負を決めるつもりだ。
「なみのりだ!」
 戦線で大砲を撃つ命令をするように彼は言った。
 エンペルトの頭上で水流が渦を巻きはじめた。瞬く間に大きくなってゆく。
「理由は知らないが、ヤツは動く気がないらしい。いいか、焦らずに大きいのをぶっぱなせ。めいいっぱい水が溜まったら、一気に叩き込んでやるんだ」
 鉄化面の皇帝の頭上で水塊が大きくなっていき、膨れ上がる。今にも零れ落ちそうだ。あんな量が決壊すればスタジアムは洪水に飲まれるだろう。ガブリアスは地面タイプ、ドラゴン属性もあるから効果抜群にはならないが、まともに食らえば戦闘不能は免れないように思えた。
 だが、その様子を目の前にしてもガブリアスが動く様子はない。ただすべてを受け入れるがごとくスタジアムに立ち尽くす。
「逃げてくれガブリエル! そんなもの食らったら……!」
「逃げ場なんてあるものか!」
 カイトが言うのと同時に水泡が決壊する。水流がガブリエルを飲み込もうと襲い掛かった。
 うねる水流、迫る波。水、水、水。
 青年はその様子をスローモーションでも見るかのように眺めていた。
(ごめんシロナ。もう約束、守れそうにないよ)
 そう青年は心の中でそう呟いた。
(頼みのガブリエルも戦ってくれないんだ。どうやら僕はここまでみたいだ)
 だが、そのとき、
『だめよ!!!』
 どこからかシロナの声が響いた。彼女が客席で見ていて叫んだのか、あなたを倒すのは私だと聞かされ続けたことによる幻聴だったのか、それは彼にはわからなかった。だが、それは確かに聞こえていた。
『ガブちゃんは待っているのよ。今でも諦めていない。あなたを待っている』
 どこからか声が響いている。
 待っているのか。君は本来の「僕」を待っているのか。
 こんなときになっても、待っているのか。
 ならば、指示を出さなくては。
(だが、何と声をかけたらいい?)
(本来の僕ならガブリエルに何と言うんだ?)
 水が迫る。
 次の瞬間、水流がその爪をガブルエルの肩に掛けたと同時に、青年は声を張り上げていた。

 世界がブラックアウトした。声を張り上げるそのほんの一瞬前のことだ。
 「それ」は、後々青年が語ったところによると、長い回想のようで、雷が走るような一瞬の出来事だったらしい。

 まず最初に青年の脳裏を横切ったもの。
 それは初日の予選の晩、屋台の席でシロナが語った神話だった。

 ――そのポケモンの眼を見た者、一瞬にして記憶が無くなり、還ることができなくなる。
 ――そのポケモンに触れた者、三日にして感情がなくなる。
 ――そのポケモンを傷つけた者、七日にして動けなくなり、何も出来なくなる。

 その伝承の名を『おそろしいしんわ』と言った。
 ――ね、記憶喪失のあなたにはぴったりでしょう?
 と、シロナが言った。なるほど、それは恐いな、と答えた気がする。
 水の流れる轟音が耳元に響いていた。乾いた大地が水を吸うように、青年の中を何かが満たしてゆく。
 ああ、そうだ。ミオシティの図書館で僕はこのはなしに出会ったのだ、と彼は思い起こした。
 まだ幼かった旅立ち前の自分は、内容を見て恐れおののいた。
 だが、同時に想像していた。
 この恐ろしいポケモンは、いったいどんな姿をしているのだろうと。

『チガウ、それは私ではない』

 不意に、青年が知っている誰でもない声が頭に響く。
 同時に彼は暗い廊下を幻視した。頭の中におぼろげに描いていたあの場所を。
 下って、奥底に下って、その先で青年は見た。そして知った。
『ハジメにあったのは混沌のうねりだけだった――』
 聞きなれぬ声がまた響く。
『……はじまりのはなしには続きが在る。誰も知らない、忘れ去られた続きが』
『ワタシは……――』

 刹那、二本の触手を持った影が脳裏を横切った。いや違う。あれは尾だ。あれは、たなびく二本の尾だ――――そうだ、僕は、俺は、あの時――――
 轟く水音が眠っていた記憶を呼び起こしていく。
 瞬間、すべてが繋がって、弾けた。

 暗いあの場所から視界が開け、彼の意識は明るい場所に在った。ゆらゆらとのどかに揺れている。月の光が眩しかった。天井では月光がキラキラと反射し、ワルツを踊っていた。光が、揺れている。
 不意に、行かなければと思った。
 もういかなきゃ、と。
 この場所はまるで生まれる前にいたようで、居心地がいいけれど。
 自分には、行かなければいけない場所がある。
 俺には、成さなければならないことがある――――だから!
 光の射す場所に向かって、彼は上り始める。光が揺れるその外に顔を出す。
 世界に飛び出す音が聞こえた。
 飛沫が、上がる。

 ――ああ、そうか。君なんだね。彼女の声を届けてくれたのは。

「飛べ、ガブリエル!」
 待っていた。ずっと待っていた。青年の口から突然飛び出したその指示を、ガブリエルは聞き逃さなかった。水流が自分のすべてを飲み込む前に、弾丸のように空へと飛び出した。
 腕から生えるヒレのような翼が長く伸びる。ちょうど何かを抱えるように腕を身体に密着させると、彼女はジェット機のような形になった。
 聴衆と対戦相手、エンペルトの視線が空に吸い込まれていく。
「そうだ……! それでこそミモリアオバだ!」
 と、対戦相手は呟いた。
 目の前で起こっている出来事は自分の敗北を意味するかもしれないのに、その顔はやっと会いたかった者に出会えた喜びに満たされていた。
「来いよアオバ。見せてみろ。本来のお前を」
 まるでその瞬間のために自分はあったとでも言うようにトレーナーは云った。
「剣の舞からドラゴンダイブ!!」
 迷いのない、澄んだ声が響き渡る。
 ガブリエルは空中で身体を回転させ加速し、エンペルトに突っ込む。スタジアムに轟音が鳴り響いた。審判が青年の側に旗を揚げる事になるまで、さほどの時間はかからなかった。


「ガブ!」
 びしょ濡れのスタジアムに降り立って、青年は竜の元にかけ寄る。
 ノモセのサファリゾーンみたいにぬかるんだ地面で靴が泥だらけになったけれど、構わなかった。
「ごめん、君達のことをずっと忘れていてごめん。全部思い出したんだ。もう忘れない。もう忘れたりしないから……」
 そう言って、傷だらけのガブリエルを愛しげに抱きしめる。
 がぶり。
 ガブリエルが、青年の肩を掴むと頭にかぶりついた。
「いでででででっ!」
 と青年は声を上げる。


 暗い廊下を一人の男が歩いていた。モンスターボールの搬送トレーをもって、そこに乗せるボールの回収へと向かう。
 やれやれ、とノガミは思った。第一戦、もう逆転不能だと思って、もうこの監視も終わりかとせいせいしていたら、一体どういうことか。 対戦相手の残りポケモン四体を蹴散らして、逆転勝利――あれだけの力があるのなら、なぜ初めから……。
「まったく、人をバカにしていますね」
 と、彼は呟いた。
 ふと、向こうのほうから足音が聞こえてきた。本人のご登場のようだ。
「第一回戦突破、おめでとうございます」
 あまりおめでたくない顔でノガミはそう言った。
「ありがとうございます」
 と、青年が答える。おや、とノガミは思った。
 なんというか青年の受け答えにどこか余裕というか貫禄のようなものがあったのだ。
 それは予選後の彼の雰囲気とはずいぶん違っているように思えた。
「ポケモンの回復、よろしくお願いします」
 と、青年が続ける。ノガミの持つトレーに丁寧にボールを置いていく。
「え、ええ……」
 訝しげな視線を投げるノガミ。それに気がついて、
「どうかなさったんですか」
 と青年が尋ねてきた。
「…………、……第一回戦、どうして最初からあの調子でいかなかったのですか」
 少し慌ててしまったのを悟られまいと、彼はとっさに先ほど浮かんだ疑問を投げかける。
「そうですよね。どうして最初からああしなかったんだろう」
 ホント、危ないところでした、と付け加えて青年は笑った。
 ラミエル達には悪いことをしてしまった。なんでガブだけって怒っているかもしれないとも言った。結局、一番の核心部分はうまくはぐらかされてしまった。
(まったく、人をバカにしていますよね……)
 と、ノガミは思う。
「ところで、ノガミさん」
 突然、声のトーンを変えて青年は言った。
「…………? なんです?」
「ガブ達の回復が済んだら俺の部屋に連絡して欲しいんです」
「どうして?」
「だって、今はリーグ中でしょ。いろいろポケモン達と調整したいことや確認しておきたいこともあるんです。……それにね、ガブ達をかまってやりたいんですよ」
 と、青年は答える。
「アオバさん、試合の時以外あなたのポケモンはこちらの管轄になるのを忘れたんですか? あなたの正式な身分証明はまだとれていないんですよ」
 これだから、常識のないトレーナーっていうのは。ノガミは不機嫌そうに返事をした。
「ああ、それなら問題ないです」
「……問題ない?」
「ええ、そうです。問題ない」
「理由がわかりませんね。あなたのカードはまだ見つかっていない」
 ノガミがそこまで言うと、青年はわかっていないなぁという顔をした。
「ノガミさんに付き合って貰います。スタッフ立会いの下でしたらいいんでしょう?」
「………………」
 ノガミはしばらく何も言わずに突っ立っていたが、戦意を喪失したようで、たしかに規則ではそうなっています、と答えた。
(まったく、人をバカにしていますよね……)
 と、ノガミは改めて思ったのだった。


  [No.2673] 第七話「とおい はなび」 投稿者:No.017   投稿日:2012/10/16(Tue) 20:01:22   104clap [■この記事に拍手する] [Tweet]


おこるな ?? が くるぞ
かなしむな ?? が ちかづいてくるぞ
よろこぶこと たのしむこと あたりまえの せいかつ
それが しあわせ
そうすれば ???サマ の しゅくふくがある

「シンオウしんわ」より





●第七話「とおい はなび」





 思い出した。すべてを。
 この場所が何処であるのか。自分が何者であるのか。
 自分がポケモントレーナーであること。どんなポケモン達がいっしょにいて、どのように彼らと共に呼吸をし、どうやって戦ってきたのかを。傍らにいる女性トレーナーが誰なのかを。
 そして、自分が成さなくてはならないことを。

 青年が記憶の回復を伝えるとシロナは大いに喜んだ。
 最も、試合の流れが変わったあたりからそうではないかと思っていたらしいが。


「いきますよ!」
 ノガミが六つのモンスターボールを一斉に投げる。次々と赤い光が立って、様々な形のポケモンの姿が形成されてゆく。そして、そのポケモン達はスタジアムの中央で構えているある一匹のポケモンに向かって突進していく。
「リーフストームから、噛み砕く!」
 先鋒はハヤシガメ。背中を守る鎧の上から生えた樹木から無数の葉が刃となって舞い散り、ターゲットの方向に吸い込まれるように飛んでいく。その先にいるのは両腕にヒレの刃を持ったドラゴンポケモン。彼女はキッとハヤシガメを睨みつけた。
 嵐の日の豪雨のように葉が身体を叩く。走りこんできたハヤシガメが彼女の腕に噛み付いた。が、軽々と彼女はそれを払ってみせる。ハヤシガメの身体が吹っ飛んだ。
「次!」
 とノガミが叫ぶ。スタジアムに複数映る影の一つが大きな影に向かって飛び掛る。だが、その影もすぐに吹っ飛んだ。チッ、とノガミが舌打ちする。


「ノガミさん、ポケモンは持っていらっしゃらないんですか」
 立会いを依頼してきた青年が、次にノガミにぶつけてきた質問はそんな内容だった。
「……持っていたら、なんなんですか」
 不機嫌そうに答えた後、ノガミはしまったと思った。わざわざ答える必要もなかっただろうに。気がつけば、すっかり青年のペースに乗せられていたのだ。答えを聞いた瞬間、青年がにんまりと笑ったのが見えた。
「それなら決まりだ。立会いの時はノガミさんのポケモンみんな連れて」
「アオバさん、」
 思わずノガミは青年の言葉を遮る。
「なんです?」
「それって、もはや立会いとは言いませんよね?」
「似たようなものじゃないですか」
「全然違いますよ! あなた、私のポケモン相手にバトルの予行をするつもりでしょ!」
「……だめ、ですか?」
 と、青年はこの世の終わりのような残念そうな顔をして聞いてきた。
「う……っ」
 と、ノガミは一瞬動揺するが、
「そ、そんな顔に騙されませんよ! だいたいポケモンリーグで上位の人のポケモンの相手が、私のポケモンに務まるわけがないでしょ! シロナさんかカイトさんに頼めばいいじゃないですか」
「シロナはだめです」
「なんでです?」
「これから当たる相手なんですよ。わざわざ今から手のうち明かすわけにはいかないでしょ」
「カイトさんは?」
「ああ、カイトもだめです」
「なぜ」
「去年負けた後、自分のポケモンと一緒に会場の屋台のメニュー全制覇だと言って、食べ歩きツアーを敢行していました。バトルを見る以外は閉幕までそうやっていました。たぶん今年もそうなるでしょう」
「………………」
「そういう訳だからノガミさん、俺にはあなたしか頼る人がいないのです……」
 ぽん、ノガミの両肩をつかんで青年は、デパートの屋上でトレーナーに飲み物をねだるポケモンのような眼差しを向けてきた。
「自分のポケモン同士でやってもいいけど、パターンが知れていて。どうしてもそうじゃないポケモンとやっておきたいんですよ」
「ですから、相手になりませんよ。僕のポケモンなんて……」
 気持ち悪い人だな、と思いながらノガミは目線を逸らし、そう答えた。
「そりゃ、普通に勝負したらそうかもしれませんが」
 と、青年が言う。キラリとノガミの眼鏡が光った。この野郎、自分で言いやがった。
「でも、たとえば、ノガミさんのポケモン六匹でガブリエルを袋叩きとかだったらどうです? 予行の方法は何も正規の対戦方法によらなくてもいいんだし」
 やはりこいつは人をバカにしている、とノガミは思う。
 しかしまぁ、モノは考えようだ。たしかに六匹でかかればいかにリーグ上位トレーナーのポケモンと言えど、一匹くらい戦闘不能にできるかもしれない。不本意な形式ではあるが実力者と一戦交えてみるのも一興ではないか。
「…………、…………わかりました。では回復が終わったら連絡しますから」
 渋々とノガミは了承した。
 けれど内心、自分の心の動きに少し驚いていた。現役を退いてからほとんどバトルをしたがらなかった彼にとって、それは思わぬ心境の変化だった。もしかしたら、試合を見て元現役トレーナーの血が騒いだのかもしれなかった。
 ……最も、単純に青年の挑発に乗ってしまったとも言えるのだが。
「それよりアオバさん、早く手を放してください」
「どうしてです?」
「後ろに立っているシロナさんが、さっきからずっと変な目で見ているからです」
「…………」


 ガブリエルに、三匹の影が同時に飛び掛かった。一匹が技でガブリエルの動きを止め、残りの二匹が挟み撃ちにする。
 小賢しい! とばかりに彼女は咆哮を上げた。
「砂嵐」
 と、青年が唱えると、彼女を中心にして砂を伴った竜巻が沸き起こり、ポケモン達を弾き飛ばす。残りは一匹。
 青年はノガミの方向を見る。ノガミの足元には六つのボールが落ちている。うち五つはすでに殻で、中身がなくなったパールルみたいにパカッと口をあけて転がっている。その中に一つ。まだ開いていないボールがあった。半球が青い色のボールだった。通常のモンスターボールの捕獲性能を一段階向上させたその機械球の名は、スーパーボール。
 突然そのボールのボタンが赤く点滅したかと思うと、形を形成しきる前に砂嵐にむかって一直線に飛び出した。ずっと息を殺して、この機を待っていたようだった。
 青年とそのポケモンが、最後のポケモンが飛び込んだ先に目を凝らすが姿が見えない。
「コクヨウ、ドラゴンクロー」
 ノガミが指示を出す。
 突然、ガブリエルの背後からノガミのポケモンが現れ、彼女の背中を切り裂いた。
 すながくれ。砂嵐の中で姿を隠し、回避率を上げるポケモンの特性の一つ。ガブリエルと同じ特性を持つポケモンの一撃。
「特性が同じなら小さいほうが捕捉するのは困難となる」
 ガブリエルが振り向いたとき、ポケモンの姿はすでになかった。すると今度は横から一撃が放たれる。
「嵐を止めろ、ガブリエル!」
 青年がそう指示して、彼女は嵐を止める。
 が、砂が収まりきらないうちに別の所から竜巻が巻き起こった。
「そちらが止めたならこちらで、起こせばいいだけのことです。コクヨウ!」
 また一撃が入る。
 一方的な相手の攻撃に、ガブリエルはイライラした様子を見せる。
「熱くなるな、ガブ」
 青年が冷静に彼女をなだめる。
「雨乞いだ」
 ガブリエルの表情がすっと軽くなる。落ち着きを取り戻したのが見てとれた。ガブリエルが空に向かって咆哮する。
「くそ、そんな技まで!」
「すながくれ同士になったら、体格のいいほうが不利。以前、これにしてやられたことがありましてね。もっとも相手が水ポケモンなんかを隠し持っていると墓穴を掘りますが」
 雲が現れる。空気中の水分を吸ってみるみるうちに成長していく。ほどなくして、雨粒がスタジアムを濡らしはじめた。さきほどまで舞っていた砂は、雨に吸収され、みるみる視界が開けていく。雨で濡らされた地面はもう砂を巻き上げない。ポケモンの姿があらわになる。
 それはガブリアスによく似た、デフォルメして縮めたようなポケモンだった。爪が一本しかなく、両腕に鎌のようなヒレのようなものを生やしている。頭に生えた妙な形の突起もそっくりだ。
「ガバイトか」
 と、青年が呟いた。
 ガバイト。それはガブリアスの一段階前の姿だ。ノガミの持つそれは通常のガバイトよりは少し黒っぽい色をしている。おそらくコクヨウと言う名前はそこからきているのだろう。
 ガバイトはその姿があらわになっても戦意を失わなかった。低く唸り声を上げ、その目には確かな闘志が宿っていた。
 相手が自分の進化系だろうが構わない。むしろ、最後まで姿を見せなかったのは、邪魔者がいなくなった後、自分の同族とサシで勝負する気だったからのように思えた。
 たいしたヤツだ、と青年は感心した。すぐさまガブリエルに攻撃の指示を出す。経験上知っていた。こういうやつは力をもって戦闘不能にすることでしか止まらない。
「逆鱗」
 青年がその単語を口にすると、ガブリエルの眼がカッと燃えた。そうかと思うと、瞬く間にガバイトまで距離を詰める。
 何かが発火するような音がスタジアムに響き渡って、勝負は決した。


「バッジを集めて回っていた頃、たまたまテレビのリーグで見たガブリアスに憧れましてね、なんとか生息地を調べ出してフカマルを捕まえに行ったんです。けど、なかなか見つからなくて」
「なかなか会えないんですよね」
「もう諦めて帰ろうかなというときに、洞窟のもう一つの入り口を見つけまして」
「フカマルのトレーナーなら誰でも通る道ですよね、それ」
「そうなんですよね、誰も本当の生息地を教えてくれないんですよ」
「この種を持つための通過儀式、なんですよね」
 自動販売機で買ったサイコソーダがやけにうまく感じる。こんな感覚はひさしぶりだとノガミは思った。彼が座っているベンチの隣には青年が腰掛け、うまそうにミックスオレをすすっていた。
「ねぇ、ノガミさん、なんでトレーナーやめちゃったんです?」
 すっかりリラックスしきっていたところで、彼は青年の奇襲を食らった。
「……なんで、そんなことを聞きたがるんです?」
 こいつ空気が読めないんじゃないか、と思いつつ、ノガミが問い返す。
「どうしてって、聞いてみたかったからですよ」
 と、青年が答えた。
 やはり空気が読めないようだ、とノガミは思う。
「……限界を、感じたからですよ。バッジを八つ集めたはいいけど毎年予選を通過できなくてね」
 けして気分のよい問いではなかった。彼はさも平静そうに、不機嫌さを隠すようにそう答えた。
「それで、ポケモン協会の職員になった?」
「そう、トレーナーには見切りをつけて、ね。それが何か?」
 表情を出さないようにしながら、彼は続けた。目の前の青年といい、上司といい、どうして皆そのことにばかり触れたがるのだ? もう、たくさんなのに。
「うーん……なんていうかノガミさん、まだまだ行ける気がするんですよね。発展途上っていうか。特にコクヨウなんか」
 やっぱりこいつとはソリが合わないらしい、とノガミは思った。
「たとえば、ノガミさんがポケモンを厳しくあしらって、他の手持ちに見放されたとしても、彼だけは文句言わないでついてきてくれますよ」
「私、そんなにスパルタに見えますか」
「例え、ですよ」
 と、青年は言った。悪気がないのはわかっていた。だが。
 ノガミはぐっと奥歯を噛んだ。お前みたいに、自分が欲しかったものをみんな持っているお前なんかに、何がわかるというのだ。
「私達の成長は、バッジを八つとった時点で止まったんです。決して、次のリーグが巡ってくるまで遊んでいたわけじゃない。次こそは予選を通過するんだって賢明に努力した。けれど、何度やっても結果は同じ。成績が上がることは決してなかった。それどころか、一般に時期だろうと言われる段階に来ても、それを過ぎても、ついにコクヨウ達が進化することはなかったんです」
 そういえば、という表情を青年が浮かべた。ノガミの使ってくるポケモンの中で二段階の進化をするポケモン達、ハヤシガメもガバイトも最初の進化を経験しているだけなのだ。
「それで見切りをつけたと?」
「越えられない壁があるんです。ポケモン不孝なトレーナーだと思っているんでしょう? 僕はあなたのようにご立派なトレーナーにはなれなかった」
 投げ捨てるように彼は言った。それは青年へのあてつけを含んでいたが、けしてそれだけの言葉でもなかった。
「そんなことありませんよ。世の中にはもっとポケモン不孝なトレーナーがたくさんいる。自分の手持ちのことを忘れちゃったり、手放したりするトレーナーがね。それはポケモンを強くしてやれれば理想なのかもしれない。でも一番重要なのは一緒にいてやることだと俺は思います。あなたは現役を退いた今だって、ずっと一緒にいるじゃないですか」
「どうですかね。今日みたいな機会がなかったらボックスに預けっぱなしだったかもしれませんよ」
「それは嘘ですね。ハヤシガメの葉のみずみずしさも、ガバイトの鱗の輝きも、ボックスに預けているだけじゃ維持できやしない」
 青年がすぐさま切り返してきて、ノガミはそれ以上悪態をつけなくなる。
「喜ぶこと、楽しむこと、当たり前の生活。それが幸せ」
「なんですか、それ?」
「シンオウ神話の一節です。なかなか深いと思いませんか? 本当に大切なものはきっと身近なところにある。リーグの成績なんておまけみたいなものです」
 青年は言った。彼は膝に乗せたサンダースを撫でてやる。その足元や傍らに、彼のガブリアスや他のポケモン達が寝そべり、寝息を立てていた。
「あなたに言われても説得力ありませんよ。御託はたくさんです」
 と、ノガミは答えた。
 ……嫌いだ、お前なんか。
 ああ、どうして。どうして自分のとなりにいるのが、ミモリアオバという青年ではなく僕自身でないのだろうか。
 不意に、青年の膝の上のサンダースが片耳をぴくっと上げた。そして、立ち上がると、ノガミに向かって吠え立て始めた。そのあまりの剣幕に怖気づいて、彼は後ずさりする。気持ちを読まれたのか。それにしたってそんなに怒らなくてもいいじゃないか。
 さらに、サンダースにつられて青年の他のポケモン達までもが騒ぎ始めた。あるものは同じように吠え立て、あるものはバサバサと落ち着きなく飛び回り、あるものは鼻息を荒くして地面を蹴る。ガブリアスの咆哮がスタジアムに響き渡り、ハッサムがものすごい形相で睨みつけてきて、ノガミは心底震え上がった。
「落ち着いてください! ノガミさんにじゃないですよ」
 サンダースをなだめながら青年が言った。
「その、野生のポケモンがこっちを見ていたみたいで……」
「え、野生ポケモン!?」
「おいラミエル、そんなに毛を逆立てると痛いじゃないか! お前たちもいい加減鎮まれ。これ以上吼えるならボールに戻すからな!」
 青年がそう言うと、キュウンとサンダースが鳴いて、耳を垂れると悲しそうな顔をした。彼らは不満そうだったが、渋々と騒ぐのをやめていき、そこでやっと落ち着きを取り戻したノガミはポケモン達の吠え立てた方向を見た。が、すでに野生ポケモンの姿は見当たらなかった。
「これだけ訓練の入ったポケモンがあんなに吼えるなんて……。一体何がいたんですか」
 と、ノガミが尋ねたが、すぐに姿を隠してしまってよくわからなかったようなことを青年は言った。彼は、よしよしいい子だ、怒鳴ったりしてごめんよ、などとと言って、自分の周りに集まったポケモン達を撫でてやる。ガブリアスが青年にかぶりつくのが見えた。
「ノガミさん、お騒がせしてすみませんでした」
 ガブリアスに噛み付かれながら、青年が謝罪する。
 きっと、これが信頼関係なのだと思う。
 だが、一方でノガミはこうも思った。こいつは自分の欲しいものをすべて手に入れているのだと。こんなにも持つ者は持たぬ者を惨めにする。強者のポケモンはそれを持たぬトレーナーの嫉妬を掻き立てる、と。
 そしてタイミング悪く、青年はさきほどまで話していたことについて話題を軌道修正してきた。
「そうだ。さっきの続きなんですがね、ノガミさんにぜひ聞いて欲しい話があるんですよ。俺の祖母の昔話なんですけど」
 こいつは本当に空気が読めないらしい、とノガミは思う。
 一方、青年もノガミがあまりに不機嫌そうな顔をしているので、一瞬躊躇した様子を見せた。が、結局彼は構わずに話を始めてしまった。
「初日にシロナが言ったと思うけれど、俺の祖母は四天王キクノの姉妹にあたるのです」
 と、前置きする。
「俺はこういう髪型でしょう。よく男のくせにと言われるし、シロナにもキザだと言われるんですけどね、俺の髪を結んでいるこれ、祖母から貰ったものなんですよ。幸運をもたらすお守りだと言っていました」


「ヒマそうだな、シロナ」
 屋台の並ぶ通りを彷徨うシロナに、声をかけたのはカイトだった。口のまわりをソースらしきもので汚して、手にはイカ焼きを持っていた。 傍らのエンペルトも同じようにイカを持って、嘴を汚している。皇帝ポケモンの威厳も何もあったものではない。
「そういうあなたも相当ヒマそうだけど」
 と、シロナが言うと、一回戦でアオバに負けちまったからな、とカイトが答えた。
「おまえさんは勝ったんだろう?」
「ええ、お陰様で。というかアオバと当たるまでは負けられないのよ」
「当たるまで、じゃなくてアオバに勝つまで、だろ?」
「そうね、そうとも言うわ。あわよくば、そのまま優勝といきたいわね」
 ふふっ、とシロナが笑う。
「ところで、アオバは? 一緒じゃないのか」
「調整中よ。今までの遅れを取り戻すんだって。記憶が戻った途端、これよ」
「記憶が戻った? 記憶喪失ってマジだったの?」
「そうよ、大変だったんだから。だから、あなたにはお礼を言わなくちゃいけないわね。あなたとの試合中に戻ったのよ」
「おいおい、俺ってそういう役回りなのか?」
 と、カイトは損したなぁといった感じをあらわにした。
「そうだ、ちょうどよかったわ。ちょっと付き合って欲しいんだけど」
 突然、シロナが思いついたように言った。
「付き合う? あんたが付き合っているのはアオバじゃなかったのか」
「ちょっと! そういう意味の付き合うじゃないわよ! だいたいアオバとはそういう関係じゃないんだからね!」
 カイトがちょっとつっつくとシロナは簡単に予想通りの反応をしてくる。わかりやすいなぁと、彼は思った。
「そうじゃなくて……もう少しで、リオ達の回復が済むのよ。あなたにはバトルの練習相手になって欲しいの。アオバが調整しているっていうのにこっちも負けてられないじゃない」
「まぁな、でも俺でいいわけ?」
「あなたアオバに負けて悔しくないの? ここで私の相手になって、それで私がアオバに勝ったなら間接的にしろ勝ったってことになるわ」
「……なんかその理屈、無理やりじゃない?」
「いいじゃない。食べ歩きもたいがいにして少しは運動したほうがいいわよ。そのほうが後の食事がおいしくなるわ」
「…………ふーむ、それもそうかぁ」
 そう言うと、イカ焼きを一気に平らげる。一緒になってエンペルトもそれを平らげた。どうやらその気になったらしい。
「わかった、その話乗るよ。イワトビもリベンジ決めたいってさ」
「ありがと。さっそく、スタジアム使用の手続きしをないとね、一緒にきてくれる?」
「ああ」
 そうして、おそらくは利害が一致した二人はスタジアムに向けて歩き出した。
「でもさぁ、シロナ。お前、本当にアオバと付き合う気ないわけ?」
 道中、カイトはそんな質問をぶつけてくる。
「ちょっと、なんでさっきからその話題ばっかりなのよ!」
「だって、お前アオバのことさ、」
「それ以上は言わないで」
「素直じゃないな」
「うるさいわね。私だって、その時がきたら、ちゃんと……」
「その時?」
「アオバに勝った時よ」
 顔を真っ赤にして彼女は答えた。そして、こう言った。
 ――私ね、決めているの。その時までは勝負に集中する。でも準決勝で勝ったら、準決勝で彼に勝てたら、気持ちを伝えるの。
 それを聞いたカイトは「そっか」と言って、それ以上は何も言わなかった。


「彼女は、遅咲きのトレーナーだった」
 と、青年は語った。
「若い頃の祖母は姉のキクノに比べると極端に出来が悪くてね、顔はそっくりなのに、バトルの成績はてんで正反対。とうとう比べられるのに耐えかねて、シンオウを出て行っちゃったんです」
「……それはまた思い切りましたね。シンオウを出てどこに行かれたんですか」
 と、ノガミが冷めた調子で言った。そっけない反応ではあったが、まったく話を聞く気がないわけでもないらしかった。
「カントーです」
 と、青年が答える。
「自分を誰も知らない土地にいって、ようやく彼女は姉妹の呪縛から解放された。カントーの大学に通い、結婚して出産もした。その間も細々とトレーナーを続けながら、ね。そうして、子どもも大きくなって旅立っていって」
「それで?」
「それからです。手隙になって、彼女はさらに本格的なトレーナー修行をはじめた。そして、おおよそ若いとはいえない年齢から急に強くなったんです。彼女は勝ちに勝ちまくり、ついにカントーの四天王に上り詰めた」
「……つまり、姉妹そろって四天王になっちゃった訳ですか。あなたのお婆様がそこまで変わった理由はなんだったのでしょう?」
 そうノガミが問うと、青年は待っていたとばかりに続ける。
「祖母が言うには、ある日突然、自分が四天王になっているのをはっきりとイメージしたのだそうです」
「イメージした……?」
 彼にとっては意外な回答だったらしく、ノガミは詳細を尋ねる。
「そう、それはもうリアルに」
 と、青年は答えた。
「彼女が好んで使用するのはゴーストタイプでね、もしかしたら、祖母の見た『それ』は彼女のゲンガーが見せた幻か何かだったのかもしれない。ほら、あいつらってそういうものを見せるのが得意でしょう」
「ゴーストポケモンでその手の話をしたらきりがありませんね」
「でも祖母は、それを本気にした」
 青年は言った。今までのどんな語りよりも強調して答えた。
「……それで、四天王になったと?」
「そうです」
 青年が肯定する。確信を持って。
「全部とは言いませんが、ゴーストが使う技は精神的に来るものなんじゃないでしょうか。ダメージを受けた相手がダメージを受けたと思うから、ダメージを受けるのです」
「受けたと思うから……ですか」
「たとえば、幻覚。見えている本人には、たしかに見えているんです。脳がそう自覚しているんです。となると、ノーマル属性にゴースト技がほとんど効かないのはこのあたりに関係があるのかもしれない。ノーマルという属性が精神に作用しているとすれば……」
 すると、はぁ、とノガミがため息をつく。
「それはまた大胆な仮説ですね。研究者の道に進まれたほうがよかったのでは?」
 と、嫌味を言った。
「俺が思うに、あなたは早い段階で負けすぎたのです。だから勝つ自分を、自分のポケモン本来の強さをイメージできないでいる」
 と、青年も負けずに答える。が、
「……その話が本当だとしても、私とあなたのお婆様は違いますよ」
 と、ノガミは言った。
「想像するんですよ、ノガミさん。スタジアムに続く階段を。長い長い廊下を渡り終えて、そこを一歩、また一歩登っていく。扉を開くと、歓声が聞こえてくる――――俺はこう思うのです。表彰台に立つ自分を最後までイメージし続けることができた者、信じ続けられる者がチャンピオンになれるのだと」
「…………」
 ノガミはしばらく青年を見つめて黙っていたが、最後に一言、ぼそりと言った。
 そんな人、いるんでしょうか、と。
「これで俺の話は終わりです。長々と変な話をしてすみませんでした。別に忘れても構わないけれど、心の片隅にでも置いておいてくれるなら嬉しいです」
「…………考えておきますよ」
 青年がしんみりした口調で言うので、ノガミは思わずそんな答えを返す。それに対して青年は、
「ありがとう」
 と、礼を述べた。


 トーナメントは二回戦へと移行する。一人の勝者と一人の敗者を出して。上に一段上がるごとに半分のトレーナーが消えていく。その中で青年は、上へと上がっていく。
 彼の持つガブリエルを筆頭とした強靭なポケモン達、そこに冷静な青年の指示が加われば、鬼に金棒だった。そうそう勝てるものなどいはしない。
 二回戦を終えて三回戦進出。彼は確実に駒を進める。そこにはもう、かつての頼りない青年の姿はなくなっていた。

 試合が終わる。その日はすでに夜になっていた。勝者を祝福するかのように花火が夜空に咲き誇る。
「アオバさん、僕は花火が嫌いです」
 夜の調整中、夜空に咲く花火を見ながら、ノガミはそんなことを言った。
「どうして?」
 と青年が尋ねると、
「儚いじゃないですか。まるで敗れ去っていくトレーナーの夢のようだ。僕はこの仕事についてチャンピオンになれないトレーナー達をたくさん見てきました。かつての僕がそうだったように。花火が一つ消えるたびに夢が一つ消える。僕にはそんな風に見えるんです」
 彼は損な性格だな、と青年は思う。けれど、そんなセリフを吐くノガミの気持ちを否定できずにいる自分に気がついた。いつからだろう、と回想する。
 だがすぐに、ああ、あの時だと青年は目星をつけた。初日の屋台で、予選落ちしたトレーナーの言葉を聞いたあの時。
 パン、と花火が上がる。花火の下にあの時屋台から見えた観覧車が見えた。
「でも、どんなに強いチャンピオンだっていつかは誰かに負けるんですよ。観覧車が上に登ってもいつかは降りてくるみたいに。誰だっていつか観覧車から降りなくちゃいけない。それって、他のチャンピオンになれなかったトレーナーとどう違うのでしょうか」
 いつのまにか青年はそんな言葉を呟いていた。
「だったら、なんでみんなチャンピオンなんかになりたがるんでしょうか。いつか誰かに負けるためだとしたら空しすぎやしませんか」
 と、ノガミが問う。
「それには二通りの答え方ができます。夢っていうのはそういうものなんです、と答えることもできるし、いつか誰かに負けるためという風に答えることも出来る。どう考えるかは……」
「アオバさん、それって、負けたいんですか。勝ちたいんですか?」
「そりゃあ勝ちたいに決まってるじゃないですか」
 と青年は言った。
「そういえば、」
 急に思いついたようにノガミが話題を振る。
「勝つの負けるのって言ったら、シロナさんはどうなんです。最近見かけませんけど」
「ああ、あいつはあいつでトレーニングしているんでしょう」
「そんなもんなんですか」
「そんなもんですよ。今頃ガブリエル対策でも立てているんじゃないですか」
 そう言って、青年はハハハ、と笑った。ノガミはその答えにあまり満足しなかったらしく、
「シロナさんってアオバさんの何なんです? どう思っているのですか、彼女のこと」
 と、少々突っ込んだ質問をしてみる。
「なに、って」
 青年が少々言葉を詰まらせる。そして、しばらく考え込んで、
「あいつはライバルです。今大会で最もてこずる相手だと思っています」
 と、答えた。
「……それだけ、ですか?」
「それだけですよ。他に何があるって言うんです?」
「……そんなこと言ってると、そのうちカイトさんあたりに取られちゃいますよ」
 と、ノガミが言うと、ああそれが聞きたかったのね、と察したらしく
「大丈夫、それはない」
 と答えてみせた。
「あなたのそういう自信過剰なところが嫌いだ」
 ノガミは呆れたように言った。

 三回戦、青年はさらに駒を進めた。シロナも負けてはいなかった。的確な指示で、対戦相手のポケモン達を次々に攻略していった。去年よりずいぶんキレが増したように思える。
 カワハラがトーナメント表に書き込んだ赤い線が、伸びて近づいていった。

「ねぇ、ノガミさん、ガブリエル使ってみません?」
 そんな頃、青年が突然、そんな提案をしてきた。
「なんなんですか、今度は」
「僕が残りのメンバーで挑む。ノガミさんとガブリエルでそれを迎え撃つ。ガバイトを持っているあなたなら、勝手はわかるでしょ」
「今度は何を企んでいるんですか」
「いや、実際にガブリアスを使ったらその、いいイメージが沸くんじゃないかと……」
「まさかあなた、私がガブリアスを使ったら、コクヨウが進化すると思っているんじゃ」
 あ、ばれた? という表情を青年が浮かべ、やっぱりという感じでノガミがため息をつく。
「でも、やるだけならタダでしょう。僕としても相手がガブリエルをどう見るかというところを試す目的があるんです。対戦相手の目線で見てみたいんですよ。言うなればシロナの目線でね」
 と青年は切り返した。
「そういえば、さっき結果が出たみたいです」
 ノガミは思い出したように告げた。
「勝ちましたよ、彼女」

 四回戦が終わる。二人の線はさらに近づいた。
 ステージは五回戦へと移ってゆく。

 ポケモン達をボールに収め、シロナは控え室のソファーに座っていた。さすがに、試合数が少なくなってきているためか控え室のテレビは、リーグに関係でない番組も映し出すようになった。今やっているのはシンオウ旅紀行なる旅行番組だ。
 心は静かだった。そう、テレビ画面に映る湖の水面のように静かだ。
『えー、私は今リッシ湖のほとりのホテルに来ております。ここに新しくできたレストランは、なんとポケモンバトルが楽しめるレストランで、湖の風景と食事を楽しみながら――』
 そこまでアナウンサーが言うと、突然テレビがぷっつりと切れた。
 彼女が何事かと思って振り返ると、そこにテレビのリモコンを持ったアオバが立っている。
「よお、ひさしぶり」
 と、青年は言った。
 いきなりテレビの電源を切られて、シロナは少々むっとしたが、それはひさびさに見た青年の姿の前に掻き消えてしまった。
 一回戦が終わってからろくに会っていなかった。もちろんお互いがそのようにしていたのもあるのだが、たまに見かける青年はいつも何かを考え込んでいて、話しかけようとしたら、決まってノガミがやってきて、さっさと調整に向かってしまい、タイミングを逃しっぱなしだった。これが本来あるべき関係なのかもしれない、と彼女は思ったが、避けられているようにも感じて少し不安になっていた。だから、
 ――五回戦もとい準々決勝が終わったら、外でゆっくり話さないか。
 そんな誘いがその場で青年のほうからあって、シロナの胸は躍った。

 ポケモンリーグ、それは祭である。
 観客はずっとバトルばかりを観戦しているわけではない。食べ、飲み、歌い、買い物をし、祭を満喫する。それを満足させるため屋台はもちろんのこと様々な店が並び、花火が打ちあがり、アミューズメント施設が建造され、フル稼働する。
 五回戦に勝利し、待ち合わせの場所についたシロナを、少し前に勝ち上がった青年は待っていた。
「勝ったな」
 と、開口一番に彼が言って
「うん」
 と、シロナが返事をする。二人は歩き出した。
 屋台で適当に腹ごしらえをすると、今度は様々なグッズの並ぶ露店を見て回る。あるときはフカマルのぬいぐるみを見つけ、ガブちゃんだ、似てねぇよなどと言い合い、通行人が連れているリオルを見つけてはしゃいだりした。
 次に見つけたのはアクセサリーの店、ポケモンの耳や尻尾、模様をモチーフにした髪飾りなどが並んでいた。その中に黒いかんざしのようなものを青年が発見する。
「なぁこれ、ルカリオの耳の下の突起に似てないか」
 と、青年が尋ねると、
「でもラインが入っているじゃない、きっとブラッキーがモデルよ」
 と、シロナが答えた。
「でもこれを二対にして使うと……」
「………………」
 そう言って今度は、それを重ねてみせる。
 彼がずいぶんムキになって頑張るので、彼女は、ハイハイそうね、ルカリオね、と同意した。
 するとどういうわけか、青年はルカリオだと主張するそれをレジに持っていき、会計を済ませる。そんなものを買ってどうするのよ、と言うシロナに
「はい」
 と、手渡した。
「……いらないわよ」
「いいじゃん、準決勝進出祝い」
 紙袋を押し付ける。
「誰も頼んでない」
 ちょっと、頬を赤く染めながらシロナが言う。
「どういう風の吹き回し? ……今日のあなた、ヘンよ」
「そうか? だって、連日のバトルで賞金もずいぶん入ったし……とにかく、渡したからな」
 そういって、青年は方向転換すると早足ですたすたと歩いて行ってしまった。返品を受け付けるつもりはないようだ。
「…………」
 押し付けられた紙袋をしばし見つめた後、シロナは青年の後を追う。いくつもの露店と灯りが作るトンネルを抜け、二人は歩いていく。夜空にはパン、パンと花火の上がる音が響いていた。突然、青年の足が止まる。
「今度はなんなのよ」
 と、シロナが尋ねると、
「ねぇシロナ、あれ乗らない?」
 と夜空を指差して青年が言った。 
 花火が上がる夜空を仰いで彼が提案したのは、初日の夜に屋台から見た観覧車だった。

「しばらくぶりだな、こうしてゆっくり話すのは」
 彼らは窓に映るガラス張りの夜空を背景に、対になってゴンドラの椅子に腰掛けている。
「予選ではずいぶん世話になったのに、何の礼もせず悪かった」
 改まって青年はそう言った。でもガブ達をちゃんとかまってやりたくてと、続ける。
 ああ、もしかしてさっきの謎のプレゼントはそういう意味だったのかしら、などとシロナは思案した。
「仕方ないわよ。あんな状態だったんだもの。それに今はトーナメント中、調整は必要よ」
 と、答えた。
「ああ、そうだな」
 と、青年が返す。
 そんな会話をする二人を乗せて、ゆっくりゆっくりとゴンドラが登っていく。
「いよいよ準決勝だな。俺かシロナ、どちらか勝ったほうが夜の決勝に進む」
「そ、そうだね」
 夜空に花が咲く。青年がいつになく真剣な表情で話すので、彼女は少し緊張した様子だった。
「……言っとくが、手加減はしないからな」
「あ、当たり前じゃない、そんなの!」
 顔を赤く染めてシロナが叫ぶ。
 夜空に花が咲いては消え、また打ちあがる。その後に続いて音が響いてくる。
「ここまで来るのに長いようで短かったような気がするな。いずれにせよ、表彰台に足を掛けられるところまでは来たわけだ。あとはどの位置に立てるか、それが問題だ」
 冷たいガラスの壁に触れて、夜空を覗き込むように青年は言った。
「ねえ、どうしたの、アオバ。やっぱり今日のあなたヘンよ」
 と、シロナは言う。
 すると青年はシロナのほうに向き直って、
「なぁシロナ、お前はどうしてチャンピオンになりたいんだ?」
 と、問うた。
「え、どうしてって…………」
「どんなに強いチャンピオンでも、いつかは負けるときが来る。その座を誰かに譲るときが来る。観覧車に乗って高いところに行ってみても、いつかは下り始める。いつかは観覧車から降りなくちゃいけないのに」
「たしかに、それは……そうだけど」
「いつか誰かに負けるためにチャンピオンが存在するのだとしたら、空しすぎると思わないか? だったら、どうして皆チャンピオンなんかになりたがるんだろう?」
 突然、青年がそんなことを言い出すので、彼女は驚いた。おおよそ彼らしくない発言だと思った。いや、倒すべきライバルにそんなことを言って欲しくはなかったのかもしれない。
「やっぱり今日のあなたヘンよ。記憶が戻って、知恵熱でも起こしたんじゃないの?」
「……そうかもしれないな」
「ちょっとは否定しなさいよ」
 シロナが突っ込む。
「実は、これと同じことをある人が言ってきてね」
 と、青年が答えた。
「それ、ノガミさんでしょ」
「よくわかったな」
「あなたこの数日、ノガミさんくらいにしか会ってないもの。あの人なら言いそうだわ」
「おいおい、それはノガミさん傷つくんじゃないかな……」
 だが、完全否定もできず、青年は苦笑いする。それから彼は、ノガミのポケモンとバトルをしたこと、どんなことを話して、何を思ったのかそんなことのもろもろを彼女に語った。彼女はそれを黙って聞いていた。
 観覧車が上がっていく。もうすぐ頂上が近かった。
「………………イメージしたからよ」
 突然、シロナは言った。
「え?」
「私がチャンピオンになりたい理由。幼いころ、おばあちゃんに連れていってもらってポケモンリーグを見たの。それで、いつか私も自分のポケモンを連れて、この舞台に立つんだって、表彰台に上がるんだって想像したわ。その後に、いつか自分がどうなるかなんて知らない。けれど、そのとき確信したの。私のあるべき場所はここだって」
「…………それだけ?」
「それだけよ」
「……そうか」
 青年は夜空を仰ぐ。また一つ、花火が上がって消えた。
 花火が一つ消えるたびに、誰かの夢が消えていくと言った者がいた。誰もが望んだとおりに生きられるわけじゃない。望んだとおりになれるわけじゃない、勝ち残れるわけじゃない。
 けれど、もし――
「それじゃあ、」と、青年は言いかけて、一度止める。
 次に自分が彼女に問うであろう、その問いの答え。青年にはもうわかっていたからだ。
 だが、だからこそ、はっきりと聞きたいと彼は思った。もう一度口に出す。
「それじゃあ、その時のイメージは今でも変わっていないんだね?」
 青年は問うた。
 そして、彼女はただ一言、こう答えた。
「当たり前じゃない」と。
 それを聞いた青年の口元がフッと笑う。
 観覧車は頂上に達し、瞬間、下りに入った。花火の音が耳に響いている。
「なぁシロナ、大事な話があるんだ」
 突然、青年はそんなことを切り出した。
「えっ……?」
「シロナに聞きたいことがあるんだ。どう思っているか」
 真剣な顔で青年は尋ねる。
「どう思っているって……?」
 どうって、どういうことだろう。突然の彼の言葉に彼女は激しく動揺した。
「ちょ、ちょっと待って!」
 まだ心の準備ができてない、と言うようにシロナが青年を制止する。だが、青年はそれを受け入れる様子もなく
「やはりこういうのは君の気持ちをちゃんと汲んで、その上で……だな」
 などと言うので、彼女はさらに動揺する。
「ちょ、ちょっと待ってアオバ、そういうことは準決勝が終わってから……!」
「その、どう思うよ? 俺の………………ポケモンのことなんだけどさ」
「……………………は?」
「いや、だからその、ガブとかラミエルとかさ、お前、ああいうポケモン好みか?」
「………………、……」
 一瞬後、青年は選ぶ言葉を間違えたと後悔した。
 係員によると、廻る観覧車のゴンドラの一つが激しく揺れた気がしたという。
 問題のゴンドラが下に戻ってきた時、男女が何やら言い争っていたらしい。特に女のほうがおかんむりで「バカ! アオバのバカ! バカバカバカ!」などと喚いていた。そして
「私はあんたなんかに絶対負けないんだからッ!!」
 というようなことを叫んで、止める男をふりほどいて走り去っていったのだという。

「じゃあお前はさ、俺にどうしろって言うんだよ」
 一人残された青年が呟いた。記憶が戻ってからもうずっと考え続けていたことがあった。

 夜空に花が咲く。花火の音が耳に響いている。ばらばらと響いてやがて消える。花が咲いて、咲いては散っていく。


  [No.2674] 第八話「きたるべき とき」 投稿者:No.017   投稿日:2012/10/16(Tue) 20:10:40   51clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
タグ:遅れてきた青年

うみや かわで つかまえた ポケモンを たべたあとの
ホネを きれいに きれいにして ていねいに みずのなかに おくる
そうすると ポケモンは ふたたび にくたいを つけて
この せかいに もどってくるのだ

「シンオウの むかしばなし」より





●第八話「きたるべき とき」





 無機質なデザインの時計が朝を告げて、ノガミは目を覚ました。
 旅をしていた頃は、こんなものを使わなくてもひとりでに眼が覚めたものだった。それに、彼のポケモン達が早起きだから、その声がやかましくていやでも起されてしまうのだ。ポケモンがのしかかってきたり、べろんと顔をなめてきたりして、起されることもしばしばだったように思う。
 眠たい目をこすりながら、ベッドから身体を起すと、横にあるテーブルの上に置かれている六つのモンスターボールが目に入る。いけない、連日の疲れが出たらしいなと彼は思った。昨日の夕方に青年と分かれた後、ポケモンを預けないまま眠りこけてしまったのだ。
 ノガミはベッドから起き上がると、服を着替え、部屋を出る。ボールを持って転送装置の前に立った。ボールをひとつ、またひとつボックスへと送っていく。
 が、最後の、半球の青いボールを手にかけた時、ボールの振動が手に伝わってきた。
「今日は忙しいんだから、相手なんかできないよ」
「…………」
 ボールはしばらく沈黙していたが、それでも構わないからとでも言いたげに、揺れて自己主張してくる。
「……わかったよ」
 珍しく自己主張をするスーパーボールを無理やりボックスに戻すのもなんだか気が引けて、彼はそれを腰のベルトに装着した。ボールはなんだか満足そうに見えた。
「さて、今日のスケジュールは……」
 頭の中におぼろげにタイムテーブルを浮かべながら、ノガミは歩き出した。
 今日は、自分が連日付き合わされた青年の六回戦、準決勝だ。彼の出る試合は準決勝第二試合だから午後からとなる。さっきは忙しいから相手できないなんて言ってしまったが、それまでは割りと手隙であることがわかった。
 とりあえず腰にぶら下がっているのと朝食でも食べますか、と彼は考えた。


「さあ、大変お待たせいたしました。準決勝も第二試合!」
 スタジアムが熱気に満ちていた。観客席を埋め尽くす彼らは、いずれ会場に姿を現すであろう二人のトレーナーを待ちわびている。その二人のトレーナーが投げる球体から現れるのは、携帯獣。獣達が繰り広げるバトルがはじまるのを、彼らは心待ちにしている。
 その熱気に沸く観客席とはまた別の場所、室内にあるスタッフ席で、ポップコーンを食しながら選手の入場を待つ男がいた。協会職員のカワハラである。遅れてノガミがやってきた。
「おお、お見送りご苦労さん。どうだい? カード無しのにいちゃんの様子は」
 白いカスと塩を口の周りにくっつけながら尋ねる。
「落ち着いていますよ」
 と、答えるノガミに「そうか」と、カワハラが言った。ポップコーンを一粒摘んで口に入れる。
「さっき負けたトレーナーに会ったんですけど、その嫌味も軽くいなしていましたよ。変わりましたよね、彼。一回戦途中から目が覚めたみたいに」
 今度は一気にたくさん掴んで口に放りこむ。カワハラは口をもごもごとさせた。
「あの後にね、ポケモンのトレーニングをしたいから立ち会って欲しいと言われまして、ずいぶんと夜遅くまでつき合わされたんですよ。それから連日そんな感じで。昨日は出かけるからと言って夕方には終わりましたけど」
 存外、ノガミが楽しそうに話すのでカワハラは意外に思った。こいつあのにいちゃんを嫌っていたんじゃなかったのか、と。なので、塩まみれの手で何かの書類を取り出すと、
「じゃあ、これはもう必要ないか」
 と、尋ねてみた。それはトレーナーカードの拾得情報を書き出したリストだった。するとノガミが
「それはできません。ちゃんと責任を持って調べます」
 と答えたので、律儀な奴だなぁ、と思いながらカワハラは手渡した。ノガミがぱらぱらそれをめくり、ざっと書き出された番号の数を確認している。彼が二、三日前に調べたばかりなのにまたずいぶんとカードがなくなったり、拾われたりしているようだった。
 書類に目を通しているノガミを横目で観察しながら、おや、とカワハラは思った。ノガミの腰に見慣れないものがついていたからだ。
 青と白の色の機械球がひとつ、彼の腰のベルトに装着されていた。自分の過去に触れたがらないノガミ。その過去の象徴とも言えるボールを持って現れるなんて、どういう心境の変化なんのだろうとカワハラは思案した。
 直後、彼の背後で、わあっと会場が歓声に沸く。どうやら主役の二人が登場したらしい。
「出てきたか」
 カワハラとノガミはスタジアムのほうに視線を向けた。


 約束の時がきた。
 東側にシロナ、西側に青年、太陽が南に昇ってわずかに西に傾き始めた頃、彼らはスタジアムを挟んで対峙する。
 昨晩、あんな分かれ方をしたが、シロナといえば完全にバトルモードに入っており、ケロっとして落ち着いている。特に昨日あったことが試合に影響するとも思えなかった。青年の心も同じように静かだった。
「どうしてお前はそう冷静でいられる?」
 試合前、たまたま出会った準決勝第一試合の敗者はそんなことを青年に聞いた。
「ずっと震えが止まらなかったんだ。あんたは相当ずぶといんだね」
 と、残して去っていった。
 イメージしているからだ、と青年は思う。
 シロナには悪いが、この試合は勝たせてもらう。もちろん、彼女も甘くはない。おそらく後半中盤くらいまでは彼女のポケモンが押してくる。
 だが、負けはしない。どんなに残りの数に差をつけられようとも、最後にスタジアムに立っているのはガブリエルだ。青年にはそんな確信があった。彼は、スタジアムの中央で咆哮を上げる竜の姿を描いていた。
 試合の始まりを告げる旗が揚がる。繰り出されるポケモンの姿を、我先にその目に捉えようと聴衆が身を乗り出す。
 対峙した二人は静かにモンスターボールを手にとると、空に向かい投げた。

 赤い閃光が目にも留まらぬスピードで、相手に向った。ガキッという音が響く。そこで聴衆は、初めてポケモンの姿を捉える。赤い身体のハッサムの攻撃を、海蛇のような姿をしたミロカロスがその長い尾で受け止めているところであった。
「ゼルエル!」
 青年がその名を叫ぶと赤色が素早く退避する。
 瞬間、ミロカロスの冷凍ビームが襲い、水晶の結晶のような氷の柱がいくつも立った。が、次の瞬間、結晶が砕け真正面からハッサムのシザークロスが海蛇を襲う。
「アクアリング!」
 と、シロナが叫ぶ。
 ミロカロスの周りにいくつもの水輪が生まれ、シザークロスの威力を半減させた。ミロカロスが再び反撃に出ようとする。がその時にはもう、ハッサムは赤い光となってモンスターボールに吸い込まれていた。蜻蛉返り、攻撃と同時に味方に交代する技だ。次の瞬間、スタジアムにいくつもの電撃波が走り、ミロカロスの身体を痺れさせた。
「雷」
 と冷徹に指示が下る。水輪で回復する余裕もなくミロカロスはその場に倒れた。シロナが次のポケモンを繰り出す。ハッサムに代わって出てきた青年のポケモンが、再び電気技で先制する。しかし、シロナのポケモンは微動だにせず、泥混じりの濁流が襲ってきた。間髪を入れず地震が続く。濁流が去った後には、力なく地面に横たわるサンダースと微動だにしないトリトドンが残された。

 カワハラが口に入れる前のポップコーンをぽろりと落とした。ノガミは呆然とそれを見ていた。
 これが……これが準決勝。かつて自分が至ることのできなかったバトルの高み。
 ただ淡々と試合が運んでいるようにも見えるが、高いレベルにあるポケモン達の力が拮抗しているからこそ、だ。そこらの道端で行われるダラダラとした試合運びのそれとは、まったく異なるものだ、これは。
 いつのまにか、彼はリストをぎゅっと握っていた。
 強者の戦いが、強者のポケモンが、トレーナーの嫉妬を掻き立てる。

「行け、ルシファー」
 光と共にクロバットが現れる。高速で飛びながら、空気の刃を撒き散らす。あやしい光が無数に現れて会場を飛び舞った。
「化かしあいならこっちも負けない」
 シロナがトリトドンを引っ込め、新たにボールを投げる。要石から紫と緑の光が漏れ、ミカルゲが顔を覗かせる。奇怪なポケモンだ。その正体はポケモンの魂の集合体だと言うものがいる。魂は全部で百と八、人間の煩悩の数を表しているのだという。

 気がつくと、ノガミはリストを見つめていた。こんなことをしたって意味はない。それなのに。だが、ノガミは見つけた。彼の目は偶然にもリストの中のある数字を捉えていた。
「おい、どこに行くんだ!? ノガミ!」
 カワハラが叫ぶ声が響く。扉の閉まる音が響いていた。

 スタジアムを煙が覆う。ミカルゲが煙幕で身を隠し、騙し討ちを仕掛ける。生温い風が吹きクロバットの翼を捕らえた。妖しい風である。

 ノガミは急ぎ足で階段を下っていた。手にはリストを握っている。また確かめる。
 彼の目に留まった数字の羅列の中の一行、それは青年のトレーナーカードIDだった。横には「拾得」の文字が見える。
 彼は階段を駆け下り、スタジアムを出ると、別の棟の情報を管理するあの部屋へと入っていった。パソコンに数字を入力し、情報を引き出す。
 カードが届けられた場所、それは彼が二週間前、ポケモンを預けたセンターであった。トレーナーカードの記録が最後に残っていたあの場所である。
「なんだこんな結末か、あっけないな」
 と、ノガミはこぼした。そうだ、最初からわかっていたことじゃないか。何を期待していたんだ自分は。彼は自嘲気味に笑った。
 しかしカードが見つかった以上は本人に返却しなくてはなるまい。彼は試合見物に戻る前にカードが届けられたというポケモンセンターに連絡を入れることにした。番号を調べると、部屋の隅にある受話器を取る。
「お忙しいところ大変失礼いたします。私、ポケモン協会リーグ運営部のノガミと申します」
 と、挨拶した。
「実は今ポケモンリーグ準決勝に出場しているIDナンバー××××‐××××‐××××のミモリアオバ様のトレーナーカードがそちらに届けられたという情報が入りまして、お電話させていただきました」

 審判が旗を揚げた。クロバットが戦闘不能になったのだ。
 青年は蝙蝠ポケモンを回収し、再び赤色の鋼ポケモン、ハッサムを繰り出した。

「ええ、ですからミモリアオバ様です。至急、シンオウリーグに送っていただきたいのですが」
 と、ノガミは用件を伝える。
 だがどうも相手の反応が芳しくない。彼の名前を出した途端、担当の声は暗くなった。
 そして、相手から返ってきたのは意外な返答だった。
「え!? もう本人は見つかった? 昨日ですか? ああ、もしかしてテレビの準々決勝をご覧になりましたか。でしたら……」
 すると、勘ぐるような声色が電話越しに伝わってきた。
 ――お前、何を言っているのだ、と。
「だからそれは今試合に出ているアオバさんでしょう? は? ふざけてなんかいませんよ。こちらはずっと彼のカードを探して……、でしたらテレビをつけてください。今準決勝に」

 ハッサムが鋏を振り上げる。要石に直撃したそれはミカルゲにとって致命傷となる。ミカルゲが赤い光になってモンスターボールに退散していった。シロナが睨みつける。アオバがフッと笑う。表情がテレビ画面いっぱいに映る。

 電話の向こう側から明らかな動揺が伝わってきて、ノガミは驚いた。向こうで何が起こっているというのだ。しばしの沈黙の後に相手は震えた声でノガミに尋ねきた。
 ――ノガミさん、あそこで戦っているのは誰ですか、あそこに立っているのは誰ですか。
「は……?」
 ノガミはわけがわからずに、ただ一言そう聞いた。
 すると相手がまだ動揺を隠せない声で続ける。
 二週間前、ポケモンをセンターに預けたまま行方不明になったトレーナーがいた。私達は彼を必死で捜索した、と。

 ――二日前、トレーナーカードが見つかった。昨日、やっと本人が見つかった。

 ――…………リッシ湖の底で見つかったんだ。

 シロナのロズレイドが天候を晴らし、炎のウェザーボールをいくつも放った。弱点の攻撃をまともに受けてハッサムが倒れる。強かった。
 次の青年が繰り出したのは、燃え上がる鬣と尾を持ったポケモン、ギャロップ。
 タイプ上では有利だが、地面から襲い掛かった棘の弦に足を絡めとられ、ヘドロ爆弾の洗礼を受ける。 
 負けじと障害物を焼ききってギャロップは反撃に出る。ロズレイドをメガホーンが襲って、花びらが戦いの舞台を舞った。
 だが、散ったのは青い花びらのみであった。角が貫いたのは右手のブーケのみだったのだ。にやりとロズレイドが笑う。残る左腕のブーケをギャロップに向けた。
 青年は空を見た。いつのまにか空が雨雲に覆われているではないか。なんという切り替えの早さだ。ギャロップが弦とヘドロから抜け出す時間を、ロズレイドは無駄にしていなかった。
 水属性のウェザーボールが至近距離で炸裂した。

 ――センターの近くに河があって、リッシ湖へと流れ込んでいる。あの日は季節外れの台風で河が増水していた。
 ――女の子が駆け込んできたよ。男の人が自分を助けて流されたと言って。

 電話ごしに聞こえた言葉が頭の中をぐらぐらと揺らす。
 ノガミはふらふらとスタジアムへと戻っていた。

 アクアジェット。フローゼルがロズレイドの距離を一気につめた。彼の機動力は雨で通常の倍になる。すぐさま日本晴れに切り替えたが、雨が止んだ時には、もう氷の牙が食らいついていた。ロズレイドの身体がみるみる凍りついていく。だが、最後の力を振り絞って、彼女はソーラービームを放つ。ロズレイドを道ずれに、青年の五匹目が倒れた。

 彼にはもう何がなんだかわからなかった。だが、この目で確かめなければならなかった。一体これはどういうことなのか。自分が調べていたことは、一体何だったのか。
 ぐっ、と拳を握り締めると、スタジアムに向かい駆け出した。

 ――ポケモンを持っていれば二人とも助かったかもしれないのに。たまたまセンターにポケモンを預けていた彼は運が悪かったんだ……。

 青年は最後のモンスターボールをすっと取り出し、投げる。
 ボールが地についたその一瞬、会場が静まり返ったように思えた。
 赤い光が迸る。
「さあ、お前の力を示せ。ガブリエル」
 青年が、言った。

 なまった身体に鞭を打ち、息を切らせながらノガミは階段を駆け登る。
 いつ以来だろう、こんなに走ったのは。
 苦しい。だが、それでも走る。彼は階段を駆け上がる。
 バタンと扉を開け放つ音がした。


 スタジアムに竜の咆哮が響き渡った。凶竜が放たれたのだ。
 どんなに試合を有利に進めてもこのポケモンを倒すことができなければシロナの勝利はない。
 先方として彼女が繰り出したのは先ほど引っ込めたトリトドンだった。彼女は即座に地震を指示する。
 が、ガブリエルの動きは速かった。迫り来る攻撃を軽やかにかわし、ジャンプ。腕の翼を硬質化させドラゴンクローを叩きつけた。続いてアイアンテール。トリトドンは吹っ飛ばされ壁に叩きつけられ、力尽きた。
「出番よ、リオ!」
 シロナが叫ぶとルカリオが走り出した。獣の形をした拳から、エネルギー球、波動弾をいくつも放つ。注意をとられるガブリエルに今度は貯めて大きい一撃。今度はガブリエルが地震を発生させる。が、上に横にすばやく跳ねリオは軽やかにそれをかわした。両腕のツノのように突き出た突起を擦り合わせる。するとそれが共振し、強烈な金属音となってガブリエルの耳に届いた。苦しむ竜との距離を一気に縮め、腹のあたりに一発。
「竜の波動!」
 指示と共に二発目のパンチが入った。瞬間、波動が激しい衝撃となって襲う。効果は抜群。断末魔とも取れる竜の悲鳴が響く。が、一瞬獣人が見せた隙を竜は見逃さない。つかみかかり、アイアンヘッド。次にはもう竜の牙が彼を捕えていた。
「炎の牙」
 竜の牙を発火点にして、紅蓮の炎が燃え上がる。劫火が、鋼を溶かしにかかる。
「もどって!」
 ここまでと判断したシロナがルカリオを戻す。
 即座に最後のボールを投げる。落下するボールが空中で口を開き、赤い光が巨大な質量を形成する。スタジアムにポケモンが姿を現す。短かくもがっしりとした四肢が、巨大な甲羅とその上に根を下ろす大樹を支えていた。
「私がはじめて貰ったポケモンよ。最後はこの子で勝負するわ!」
 中から現れたのは樹を背負うポケモン、ドダイトスだった。

「何をしていたんだ」というカワハラの台詞は、ノガミの耳を素通りした。
 スタジアムが一望できるガラス張りの窓の前、手すりに倒れ込むように手をかけると、彼はただスタジアムに立つ青年を、見た。

「いいだろう! 全力で来い、シロナ!」
 青年が好敵手を見る笑みを浮かべ、応える。
 カードの持ち主であるトレーナーは、湖の底で見つかった。
 それならば、あそこに立っているのは。


「あそこに立っているのは誰なんだ…………!」


 スタジアムの中央で二匹のポケモンがぶつかり合った。
 激しい押し合い。互いに大地の力を持つポケモンは、双方地震を発生させ、スタジアムの地面が二匹を中心に崩壊していく。
 組み合った状態でドダイトスがリーフストームを放つ。対するガブリアスは炎の牙を持って噛み付く。お互いに小細工は通用しない。必要なのは純粋なる力だ。
 戦況を観察しながら青年は思う。
 シロナ、たしかに君のドダイトスは強力だ。だが、力の勝負ではけしてガブリエルに敵わない。たとえ、竜の波動を食らっていたとしても、だ。ここまでの試合運び、俺のイメージの通りだ。
「ガブリエル、逆鱗だ!」
 竜の瞳が燃え上がる。逆鱗は危険な技だ。強大な威力を誇るが、使用すれば我を失う。だが、この一匹を倒せばすべては終わる。立ち上るオーラ、次第にドダイトスは押され後ろに下がり始める。
「踏ん張って! もう少しよ!」
 と、シロナが叫ぶ。ドダイトスが歯を食いしばり、力を振り絞る。
 もう少し? いや、すぐに終わる。すぐに、ガブリエルがドダイトスを吹っ飛ばして、この試合は終わる。そうさ、イメージ通りだ。青年は冷徹に戦況を見守る。
 二匹の押し合いが続く。シロナが声を張り上げる。彼女にも彼女なりのビジョンがあるのだろう。だが、負けはしない。青年にはそういう確信があった。
 押し合いは続く。踏ん張りを見せたドダイトスだったが、再び後退が始まる。
 決まった。もう盛り返せはしない。そう、青年が確信した時、
 ぐらり。
 二匹のうちの一匹が足をふらつかせた。
「ガブリエル!?」
 予想に反して、自分のポケモンを呼ぶことになったのは青年のほうだった。信じられなかった。だが、確かに足をふらつかせたのは、ドダイトスではなくガブリアスのほうだった。
 次の瞬間、ドダイトスのウッドハンマーがガブリアスを吹っ飛ばした。
 壁に叩きつけられたガブリアスは歯を食いしばり、ドダイトスを睨みつけ、立ち上がる……が、すぐに身体が傾いて――――倒れた。
「ガブリアス、戦闘不能! よって勝者、赤コーナーシロナ選手!!」
 大きな歓声が上がる。
 審判が彼女の側に旗を揚げ、その勝利を高らかに宣言する。
「勝っ、た……」
 少し現実感がない様子で言葉を口にするシロナ。一方、呆然とする青年の姿があった。
 が、すぐに彼は冷静に今の試合を分析しはじめていた。そしてすぐに、ハハハ、と笑う。
 そうか、あの時だ、と思った。
「シロナのやつ、ガブに毒を仕込みやがった。竜の波動前の突き、あれは『毒突き』だったか」
 まいったな、と青年は言った。
 そして、彼はトレーナーの待機位置から、地震ですっかりめちゃくちゃになってしまったスタジアムに降り立って、ガブリエルのもとへと駆け寄った。
「ありがとう。そしてお疲れ様、ガブ。それと………………ごめんな」
 彼女の頭を抱き上げて、青年は言った。うっすらとガブリエルが目を開けて、力なく鳴くと、すぐに閉じた。彼が竜の額にモンスターボールを軽く押し当てると、彼女は光となって吸い込まれていった。
 それからふと、シロナのほうを見上げる。報道陣に取り囲まれ、インタービュー攻めにあっていた。彼女だって自分のポケモンをねぎらいに行きたいだろうに、と思いつつ、青年はスタジアムを後にする。控え室に続く廊下へ向かい歩き始めた。
 想像以上だシロナ、俺の想像以上だよ。そんなことを思いながら。
 いや違う。お前は俺の想像を、イメージを超えたんだ――。
 もう一度だけスタジアムのほうを振り返って彼女のほうを見て、感慨深そうに笑った。
 階段を下る。歓声が遠ざかっていった。

 青年は廊下に入る。すると、そこではいつものように人影が待ち構えていた。ノガミだ。
「アオバさん、お疲れ様です」
 と、彼は言った。
 それに対して、負けちゃいましたよ、と青年は言おうとしたが
「準決勝は残念な結果でした」
 と、ノガミは続けざまに言ったのだった。
 そんなノガミの態度を見て、青年はいつもと様子が違うように感じた。この違和感はなんだろうと怪訝な表情を浮かべる青年にノガミが続ける。
「見つかりましたよ。トレーナーカード」
 すると青年は、一瞬驚いたような顔をして固まった。だが、すぐにすべてを察したらしく、ゆっくりとした動作でガブリエルの入ったボールをベルトに装着して
「そうですか……」
 と、言った。
「それじゃあ一緒に見つかったのでしょうね。俺の死体も」
 青年は、安堵とも悲しみともとれる笑みを浮かべた。ノガミが表情を伺っている。
「……アオバさん、あなたは誰ですか?」
 震えた声が聞こえてきた。
「あなたは本物のアオバさんを…………」
「違いますよ」
 青年は即答する。
「俺はミモリアオバです。ですがこうなった以上、あなたに俺のポケモンを預ける訳にはいかない。ここを通して貰います」
「僕が通すとでも……」
 ノガミが身構えた。青年のポケモンは皆、戦闘不能状態だ。そして偶然にも今日、自分には彼に対抗する手段がある。そっとボールに手をかけた。だが、青年は動じる様子もなかった。
「通りますよ。力ずくでもね」
 そう青年が口にした瞬間、暗い廊下にぼうっと青い炎が、立った。
 ノガミは目を見張った。自身の見間違いでないのなら、この炎の名を人はこう呼んでいる――――鬼火、と。


 うみや かわで つかまえた ポケモンを たべたあとの
 ホネを きれいに きれいにして ていねいに みずのなかに おくる

 そうすると ポケモンは ふたたび にくたいを つけて
 この せかいに もどってくるのだ


  [No.2675] 第九話「くらい ろうか」 投稿者:No.017   投稿日:2012/10/16(Tue) 20:11:46   72clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

ぽけもんは しずかにこたえた
おまえが つるぎをふるい なかまを きずつけるなら
わたしたちは つめときばで おまえのなかまを きずつけよう
ゆるせよ わたしのなかまたちを まもるために だいじなことだ

「トバリの しんわ」より





●第九話「くらい ろうか」





 ――ガブリエルを使ってみませんか。
 あの時、青年はそう提案してきた。
 その提案には大きく二つの思惑があったようだ。ひとつめは来たるべきバトルへの準備のため、そしてもうひとつは彼のいらぬおせっかいのため。
 提案を受けたノガミにはいろいろ思うところがあったが、それが訓練のメニューならば、と承諾する。
 青年が目の前にいたこともあったろうが、自分の主人でもないのに「彼女」はよく言うことを聞いてくれた。
 それは、ガバイトの力を大きく超えたものだ。比較にならない。ああ、ガブリアスとはこういうものか、と彼は実感する。この強さに憧れて自分はフカマルを探し出し、捕らえて、育て始めたのだ。
 だが、同時に少し惨めにもなった。知るべきではなかったかもしれない、と思った。きっとこの先、自分がこの力を手にすることはないのだから。
 諦めろ。いつかなんて期待なんかしていても傷つくだけだ。


 暗い廊下で青い炎が燃え上がっている。
 見間違いでないのなら、この冷たく燃える炎は鬼火だ。
 ゴーストポケモンや、一部の炎ポケモンが得意とする炎の技。
 彼のギャロップ……か? 一瞬ノガミはそんなことを考えたが、すぐに否定された。青年のポケモンはシロナとのバトルで、皆戦闘不能のはずなのだ。
「ノガミさん、ポケモンの皮を被った人間の話を知っていますか?」
 と、青年が問うた。

『もりのなかで くらす ポケモンが いた』
 青年の頭の中で何者かの声が再生された。
 彼は回想する。暗い廊下の先での出来事を。今ならばはっきりと思い出せる。
『もりのなかで ポケモンは かわをぬぎ ひとにもどっては ねむり また ポケモンの かわをまとい むらに やってくるのだった』
 廊下の先にいたものが語ったのは、シンオウの昔話の一節だった。

「彼は、森の中で皮を脱いでは人間に戻り、村を訪れるときは、ポケモンの皮をまとってやってきた。一体どちらが本当の彼なのでしょう? 誰も人間である彼を知らない。もしかしたら、彼だって自分が本当にポケモンだと思っているのかもしれない」

『今からお前は、その逆をやる』と、声の主は言った。

「だから、俺はこう考えたのです。昔は人もポケモンも同じものだったのなら、ポケモンにも人間にもなれるのではないかと」
 鬼火が燃え上がる。青年の周りにいくつも灯って、数を増やしていく。

『だからイメージするがいい。お前は誰だ? 何者になりたい? どうありたい?』
 深遠の者の問いに青年は答えた。

「俺はアオバだ」
 鬼火が揺らめく。影が躍りだす。ノガミのボールにかける手が震えているのは恐怖からなのか。無知からなのか。うまく掴むことができない。
「俺はポケモントレーナーの、ミモリアオバだ」
「コクヨウッ!」
 ノガミの声が暗い廊下に響き渡った。腰のボールが赤い光を放って、ガバイトが現れる。
 彼は何が起こっているのかはわからなった。だが、ここは通さないと思った。規則に準じるのが自身の仕事だからだ。
「けれど、必要ならばイメージしよう。俺はポケモンだ。技だって使える。あなたのガバイトと一戦交えて勝ってみせる。やらなくちゃならないことが残っているんだ」
 ガバイトが青年に向かって飛び掛った。
 もはや彼は青年を人間としては見ていなかった。目の前にいるのは一匹のポケモンだ。
「ドラゴンクローッ!」
 硬質化させたヒレを、青年に向かって振り下ろす。
 青い炎が廊下に影を映し出す。竜の爪を太い腕のシルエットが受け止めていた。目の前でそれをやっているのは人間の姿をしているというのに。その影の名をノガミは知らなかったが、ゴーストポケモンの一種、サマヨールによく似ていたと思う。

 ぽけもんは しずかにこたえた
 おまえが つるぎをふるい なかまを きずつけるなら
 わたしたちは つめときばで おまえのなかまを きずつけよう

 ゆるせよ わたしのなかまたちを まもるために だいじなことだ

「俺は負けない。ネガティブなイメージしか抱けないあなた達に、俺は決して負けない」
「黙れ! お前に何がわかる! 私達の欲しいものすべて持っているお前なんかに!」
 ガバイトとノガミの叫びが闇に木霊した。
 次の瞬間、数を増やした鬼火が一気に膨れて、溢れ出した。
 青が迸る。輝く鬼火が廊下を侵食していく。眩しい。眩しくて、目が眩む。
 ノガミは思う。
 ああ、僕はどうして、操り人が竜を駆るのを遠目に見るだけで、満足できなかったのだろう、と。欲しがりさえしなければ、こんな思いをくすぶらせずに済んだのに。
 そうさ、いつかなんて期待なんかしているから傷つくんだ。僕はもう、夢は見ないと決めたんだ――
 影が躍る。青い炎がすべてを焼き尽くしていく。


「シロナさん、決勝進出おめでとうございます!」
「一言コメントをお願いできますか!?」
 報道陣がシロナの周りに詰め掛けた。だが、彼女は適当にそれをやりすごすと、押しかける人の波をなんとか押し分けて、ドダイトスを回収し、逃げるように去っていった。まったく、せっかく念願叶ってアオバに勝ったというのに、自分のポケモンをねぎらうヒマもありはしない、と彼女は思った。
 彼女は、スタジアムと廊下との間にある扉をしっかりと閉めると、廊下を渡って控え室へと向かう。
 昨日のことが気になっていた。思えば、つい頭に血が上ってずいぶんひどいことを言ってしまった気がする。早く控え室に戻ろう。そして彼に会おう。
 彼が自分をどう思っているかは知らない。けれどずっと心に決めていたことがある。
 伝えるんだ。彼に。
 彼女は階段を駆け下りて、廊下を走っていく。
 そんな彼女が、廊下に倒れたノガミとガバイトを見つけるのにそう時間はかからなかった。
「ノガミさん!?」
 駆け寄ったって声をかける彼女に、ノガミが弱々しく目を開ける。
「ちょっと、何があったのよ」と、問う彼女に、
「ハハ、情けないな、トレーナーにも勝てないなんて」
 そうノガミは言った。
「なに? 何を言っているのよ」
 彼女はわけがわからなさそうに尋ねる。ノガミは一瞬、言ってもいいものかどうか悩んだが、
「アオバさんにやられたんですよ」
と答えた。そして、こう続けた。
「笑ってくれていいんですよ。僕達はこんなにも弱い。アオバさん本人にすら勝てなかった」

 それからノガミはシロナに語った。ことの顛末を。
 だが、荒唐無稽というかとても信じられるものではなかった。
 この人は彼が嫌いなあまり、とうとう気がおかしくなってしまって、変な作り話をはじめたのではないかと、そう彼女は思った。
「あなたは、鬼火に焼かれたっていうけれど、あなたもガバイトも火傷ひとつ負っていないわ」
 そう、彼女は指摘する。
 すると、ノガミはそんなはずはないと自分の身体とポケモンを見る。火傷はおろか、衣服さえ焦げてはいない。それでは廊下は? 彼はあたりを見回す。だが焼け焦げた後などどこにもありはしなかった。
「焦げていない……じゃあ、あれはなんだったんだ」
「ノガミさん、いい加減にしてよ。アオバはどこ?」
 いらいらした様子でシロナが言う。
「アオバさんの居場所……」
 ノガミははっと思い返した。そうだ、自分は知っているではないか。「本当の」ミモリアオバの居場所を……。
「シロナさん、ついてきてください」
 と、ノガミは言った。
 今自分は、とても残酷なことをしようとしている。こんなに彼のことを思っている彼女に、重い事実を伝えねばならない。


 受話器を持つシロナの頭の中は、真っ白になった。
 電話の受話器を下ろして彼女は呆然とする。受話器を持つ手がカチャカチャと震えていた。
 この人達は何を言っているのだろう? そんなことを自分に信じろというのか。
 だが、ノガミから教えられた電話番号、彼の言うままに電話をかけて、知った真実はノガミと同じものだった。
「まったく、ノガミさんも手の込んだいたずらするのね? これは何? 決勝進出のドッキリか何か?」
「シロナさん……」
 ノガミは悲しそうに、首を振る。
「だって、いたじゃない。アオバずっといたじゃない。じゃあ、私達と一緒に過ごしていたのは誰だったのよ」
「僕だって、悪い冗談だと思いたいですよ。でもあれはアオバさんじゃないんだ」
「だって、アオバずっと記憶喪失で、やっと記憶が戻って、それで」
「それこそが、別人の証だったんじゃないですか? あなたからアオバさんの情報を聞き出すのが目的だとしたら?」
 ノガミがたたみかけるように言った。それを聞いているのか聞いていないのかシロナはしばらく黙っていたが、やがて呟くように
「本当……今回の大会はおかしいわね。来てみれば倒すべき相手が記憶喪失、勝ってみれば彼は死んでいた? 本物じゃない? 本当にどうなっているのかしら」
 と、言った。それは呆れたようにも、涙声のようにも聞こえた。
「シロナさん、残念ですが彼はもう…………」
「もうよして! 冗談は、記憶喪失だけで十分なのよ」
「シロナさん」
「……私、行ってくる」
「行く? どこに?」
「アオバのところよ。きっとまだ遠くには行ってないわ」
「シロナさん!」
「だって、あれがアオバじゃないなら誰だって言うの!」
「現実を見てください。アオバさんは二週間前に亡くなったんだ」
「私は、まだ信じちゃいないわ」
「シロナさん!」
「私が信じなかったら誰が彼を信じるの!」
「信じるだけじゃどうにもならないことがあります」
「どうして! どうしてあなたはそう信じられないのよ! トレーナー業に挫折するはずだわ! そんなんだからバトルに勝てないのよ!」
「……! 言っていいことと、悪いことがあります!」
 ノガミがカッとなって叫んだ。話したのか、あの人は!
「そこにいるガバイトの進化だってそう。あなたが信じなくて誰が信じるっていうの?」
 シロナが指差す。彼の隣できょとんとしている黒色のガバイトを。
「それとこれとは関係ない!」
「関係あるわよ!」
「ありませんよ! あなたはどうして、そうムチャクチャな論理を展開するんだ! 受付の時もそうだった」
「ムチャクチャで悪かったわね。あいにくそういう性分なのよ!」
 シロナは叫んだ。止めるノガミに目もくれず、スタジアムの外へと飛び出した。
 探さなくては。彼を探さなくては。だって、まだ彼に言っていない。――伝えていない。

 スタジアムの外は相変わらずにぎやかだった。商売どきとばかりに屋台に照明が灯りはじめる。昨晩、青年と歩いたその道を彼女は彷徨っていた。
 何も考えずに飛び出してきてしまったが、どこを探したらいいのだろう?
 もうすぐ日が落ちる。焦りばかりが、募っていく。
 シロナの頭の中では、二つの意見が対立していた。
 ――あれはアオバさんじゃないだ。
 ノガミの言葉が、シロナの頭に響く。彼女はその言葉を必死で振り払った。
 だって、みんな青年の言うことを聞いていたではないか。ガブちゃんも、ラミエルもゼルエルだって、と思い直す。彼らが自分の主人以外の言うことを聞くとは思えなかった。
 けれど、大会初日のあのとき、手持ちの波導ポケモンは青年の気配を感じることができなかった。最初は人が多すぎるからだと思っていた。でも、それは青年が別人ならすべて説明がつく……。
 議論は終わらない。行ったり来たり同じ道筋を繰り返す。
 それでも彼女は走った。
 今を逃してしまったらもう二度と会えない――――そんな気がしたからだ。
 それにだ、本当に今までの青年が偽者だとすれば、彼から彼の持ち逃げしたポケモンを取り戻さなければならないではないか。結局、躊躇している暇などないのだ。
 彼は、ミモリアオバはどこに居る?


「お前は行かないのか、ノガミ」
 カワハラの声が聞こえた。いつの間にか、ノガミの後ろに立っていた。
「いらっしゃったんですか」
 ノガミが機嫌悪そうに言った。
「お前さんと可愛い子ちゃんが連れ立って歩いていくのが見えて、な。こっそりついてって断片的にだが、話は聞かせてもらった。にわかには信じがたい内容だが」
「私だって信じたくないですよ」
「そうだな。唯一確かなのは、手続き上のこととはいえ、協会管轄下のポケモンが持ち去られたって事だけだ」
「……痛いところをついてきますね」
「だから、取り戻しにいかないのかと聞いている」
「…………無理ですよ」
 シロナの出て行った方向を見つめながらノガミは言った。
「僕は、シロナさんみたいにまっすぐじゃない。あんなに信じることはできないし、強くない。行ったところで返り討ちです」
「問題発言だな。お前の一番嫌いな職務怠慢だぞ、それ」
「僕は想像できないのです。僕達が勝つところも。コクヨウの進化も。結局のところ、あのアオバさんが何者なのか僕にはわかりません。けれど言っていることは的を得ていた。頭にくるくらいに。ネガティブなイメージしか抱けない僕達は、決して彼に勝つことはできない」
「お前は、それでいいのか」
「どうにもできないことが、あります」
「ノガミ、」
「なんです」
「見るんだ、お前のポケモンを。そして想像しろ」
「は?」
 カワハラの突然の提案に彼は驚いた。どうして僕の周りの人たちは、むちゃくちゃで、ぽんぽんと思いついたことを口にして、僕を振り回すのだろう。
「いいから見ろ!」
「わかりましたよ」
 ノガミは渋々と、自分のガバイトに、コクヨウに視線を投げる。コクヨウがきょとんとして首をかしげた。
「そいつをよーく見て、想像する。こいつの未来を。まず全体的に図体がでかくなる。背が伸びて、ヒレが伸びて、ついでに顔つきがますます凶悪になる」
「…………」
 カワハラの珍妙な言い回しに少々呆れながらも、ノガミはコクヨウを見た。変わらない。トレーナーを引退すると言ったときと同じ姿だ。が……

 青い炎が、灯った。
 眼前に映るその光景が信じられずに彼は瞬きをする。
 だが炎は消えるどころか、いくつにも増えて、ガバイトを照らしている。
そうして、それがガバイトの身体に次々に吸収されていった。
 青が迸る。青い光がみるみる竜の身体を成長させていく。はじめに背が伸びる。ヒレが伸びる。最後に尾が伸びて――このシルエットを彼は知っていた。
 眩しい。眩しくて、目が眩む。
 これはあの時の続きなのだろうか。青色の炎に網膜を焼かれて自分の目はどうかしてしまったのだろうか。幻視の中で、青年の言葉が思い出される。

 ――ゴーストが使う技は精神的に来るものなんじゃないでしょうか。ダメージを受けた相手がダメージを受けたと思うから、ダメージを受ける。
 ――たとえば、幻覚。見えている本人には、たしかに見えているんです。
 ――もしかしたら、祖母の見たそれは彼女のゲンガーが見せた幻か何かだったのかもしれない。でも祖母はそれを本気にした。

 ポケモントレーナーを引退したあの日、もう夢は見ないと決めた。想像しないと決めた。
 それからほどなくしてポケモン協会に入った。安定した生活、悪くはなかった。旅をしていたころほどではないけれど、週末にだって仕事から戻った後だって、ポケモン達をかまってやることはできる。
 それなのに、どうして僕はこんな気持ちになるのだろう?
 なんだか胸の中がかゆいようで、けれどそれをどうにもできなくて。
 毎年開催されるリーグ、敗れていくもの、勝ち上がっていくもの。僕はそのどちらにもいない。ただ平静を装って静観しているだけ。
 消したつもりでいた。けれど、消えてはいなかった。

「何か見えたのか?」と、カワハラが尋ねてくる。
「炎が……」
「え?」
 ここにいたんだ。ずっと、ずっとくすぶり続けていたんだ。
「ノガミ、お前、なんで泣いているんだ」
「なんでもありません。ただ、眩しくて」
 ずっと歩いていた暗い廊下、炎を灯したなら扉はすぐそこに見えたのに。
 今までごめんよ。
 もう見ないふりはしないから。


 夕闇の下、彼女はぜえぜえと息を切らしていた。
 足を止め、懸命に息を整えながらあたりを見回す。
 もうじき暗くなってしまう。シロナは顔を上げ、空を見る。夕日が西の空に沈みかけ、あたりが闇に浸かり始めていた。
 どこに、どこにいるのだろう。
 ふとそこで、あるものが彼女の目に留まる。
「……あそこ、だ」
 夕日の逆光でシルエットになる風景の一角に、光が廻る場所を見つけ、彼女は確信した。
 鉄骨でくみ上げられた巨大な影がある。
 それは静かに音を立てながら、ゆっくりゆっくり回っていた。


  [No.2676] 最終話「はじまりの つづき」 投稿者:No.017   投稿日:2012/10/16(Tue) 20:12:54   75clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
タグ:遅れてきた青年

ふたつの ぶんしんが いのると もの というものが うまれた
 みっつの いのちが いのると こころ というものが うまれた
 せかいが つくりだされたので さいしょのものは ねむりについた

 ひろがった くうかんに ものが みち
 ものに こころが やどり じかんが めぐったとき――





●最終話「はじまりの つづき」





 静かに音を立てて、観覧車が回っていた。ゴンドラを支える鉄筋につけられたいくつものライトがついたり消えたりして、ときに青く、ときに赤く輝き、円の形をした観覧車のシルエットの中で波紋のように広がったり、花が咲くように点灯していた。
 乗り場の前に青年は立っていた。シロナに気がついたらしく、振り返る。
 しばらくお互いの顔を見たまま、何と言っていいか、悩んだ。
「どうして来たんだ、シロナ。もう知っているんだろ、聞いたんだろ、全部」
 青年は苦笑いしながら切り出した。彼女は困ったような顔をする。よかった。いつものアオバだと思った。
「いや、言ってみただけだよ。来てくれると思っていた。だからここで待っていたんだ」
 と、青年は続ける。
「乗ろうか」という青年の言葉に彼女は黙ってうなずいた。


「さて、どこから、話したらいいかな」
「まずは質問させて」
 ゴンドラに乗り込んだ青年が本題を切り出すと、シロナが早口で言った。
 会話が始まる。
 手始めに「あなたは誰なの」と聞く彼女に「ミモリアオバだ」と、彼は答えた。
 じゃあ、湖の底で見つかったのは? ――あれもミモリアオバだ。
 矛盾しているわよ――そうだな。説明するのには少し時間がかかる。
 青年は淡々と答えていく。
「今の俺はたぶん人間とは言い難い。あえていうならゴーストポケモンに近い。さっきノガミさんのポケモンとやりあってね。生まれて初めてポケモンバトルってものを経験したよ」
 ガブ達はいつもああいうことをしているんだな、とも言った。
「その話なら聞いた。ノガミさん、怪我のひとつもしていなかったけど」
「そう、鬼火といっても、コケ脅しの幻のやつだからね」
 青年は少し申し訳なさそうに言った。彼にはちょっと悪いことをした、と。
「何があったの」
 と、彼女は問う。
 今までの会話からもう想像はついていたのだ。けれど、やはり本人の口から確かめなければ納得できなかった。
 受話器越しに聞かされた事実は、彼女にとってあまりにも残酷なものだ。
 それが本当ならば、二週間前に彼はもう……。
「シロナ、俺は二週間前に、」
 いやだ、やっぱり聞きたくない。
「いい! やっぱり言わなくていい」
 と、彼女は遮った。
 できることなら、聞きたくなかった。否定して欲しかった。
「聞くんだシロナ、君は知らなくちゃいけない。俺はお前に、この事実を受け入れてもらわないといけない」
 青年はシロナの腕を掴む。強い調子で言った。
「シロナ、俺は死んだ。二週間前に」
 観覧車が昇っていく。

 河で流されたんだ。季節はずれのひどい台風の日だった。
 あの日俺は、ポケモンセンターにガブ達をあずけて、やることもなくて、ずっと嵐の空ばかり見ていた。
 その時、俺は見たんだ。一匹の白い小さな鳥ポケモンが、さっきから同じところをぐるぐると旋回している。こんなにひどい嵐なのに……。次の瞬間、悟った。あの下にそのポケモンの主人がいるのだと。
 無謀だった。ポケモンも持たずに俺はそこへ向かってしまった。ポケモンのいないトレーナーなんて、一人じゃ何もできないただの弱い生き物なのに。

 あとは君の知っている通りだ、と青年は付け加える。
 淡々と彼は語っていた。それは自分の死を受け入れた者の口調だ。
「気がつくと俺は、長い廊下を歩いていた。古代の遺跡のようなところで、音のない暗い場所だった。俺はその場所を下に、下に、下っていって。その一番奥底で会ったんだ」
「会ったって……何に?」
 シロナが聞き返す。青年が答える。
「竜だよ」

 六本足の竜だった。ぼろぼろの布のような不気味な翼を生やしていて、長い首を縁取る金色の輪は人の肋骨を思わせた。それが赤い眼を光らせて、暗闇の底に立っていたんだ。
 それを見たとき、「おそろしいしんわ」が頭をよぎったよ。
 そのポケモンの眼を見た者、一瞬にして記憶がなくなる。触れた者、三日にして感情がなくなる。傷つけた者、七日にして何もできなくなる……俺は神話に記されたポケモンの姿を知らなかったけれど、この神話をあてはめるのならば、この竜にこそ、それは相応しいと思った。
 けれど竜は、違うと否定した。それは私ではない。そう云ったんだ。

『オマエはまず、ひとつ勘違いをしている。おそろしいしんわの者は一匹のポケモンにあらず』
「一匹ではない……?」
『記憶を失わせる者、感情を消す者、意志を奪う者。これらはそれぞれ別のポケモンなのだ。シンオウには三大湖がある。そこには普段人の目には見つけられぬ祠があって、そこに一体ずつが眠っている』
「湖に、そんなものが……?」
『オマエはよく知っているのではないか? やつらははじまりのはなしにも出てくるぞ』
「……三つの、命か」
『そうだ。知識、感情、意志をそれぞれ司る三つの命。そのうちのひとつ、「意志」がお前の魂をここに運んだ』

 青年は自分の髪を結わくものを解いた。
「竜が言うには、俺は通行証を持っていたらしい」
 彼女に前に差し出して、見せる。
「この紐はね、ゴースト使いの祖母からお守りに貰ったものなんだ。この紐を作る糸の一本一本に強力な霊力が宿っていて、これを織ったものは、霊界の布と呼ばれているそうだ」

「では、あなたは? あなたはどこに記されたポケモンだ? 二つの分身か、それとも最初のものなのか」
『ワタシは……――私はどの書物にも記されてはいない。神話に我が名は存在しない。いや、太古の昔にはあったと言うべきか。まだポケモンと人との間に垣根がなかったころの話だ』
 竜は云った。私は『はじまり』の続きに現われる者だと。
『ハジメにあったのは混沌のうねりだけだった――』

 すべてが まざりあい ちゅうしん に タマゴが あらわれた
 こぼれおちた タマゴより さいしょの ものが うまれでた

『最初のものは、二つの分身を生み出した。時間が廻りはじめた。空間が拡がりはじめた。さらに自分の身体から三つの命を生み出した。二つの分身が祈ると物というものが生まれた。三つの命が祈ると心というものが生まれた』

「はじまりのはなし……」
「そう。だがこのはなしには削除された続きが存在する」

『はじまりのはなしには続きが在る。誰も知らない、忘れ去られた続きが』
 竜は語る。はじまりのつづきを。
『最初のものが眠りについたのち、私は目を覚ました。拡がった空間には物が満ち、物には心が宿った。そこに時間が巡った時、私は生まれた。「死」が目を覚ましたのだ。心宿るものの時間の先にあるもの、それが死だ』
 神話から外れた者。忘れられたのか、忌み嫌われ、消されたのか。
 今では誰も知るものがない。
『ワタシは死。死そのもの。たとえ、神話から名前が消してしまっても、死は掻き消せない。死はいつも隣に居る。私は今でも世界のすぐ裏側に存在している』
 同時に生の理に叛骨する者。この世には死にながらに生きる矛盾した者達がいる。ゴーストポケモン達がそれだ。竜はその主。死にながらに生き、生きながらに死んでいる。

「俺は竜に願った。今一度、生の理に叛骨し、約束を果たす為の時間を与えて欲しいと。一年前にした約束、その舞台に立たせて欲しいと」

 神話にいない竜は、願いを聞き入れた。生の理に叛骨し、死にながらにして生きるゴーストポケモンの身体を貸し与えてやろう。昔、人とポケモンはおなじものだったのだから、ポケモンが人になることもできるだろう、と。
『オマエは、ポケモンの皮を被った人間の話を知っているか?』
 六本足の竜が問う。
 その昔話を青年はよく知っていた。

もりのなかで くらす ポケモンが いた
もりのなかで ポケモンは かわをぬぎ ひとにもどっては ねむり
また ポケモンの かわをまとい むらに やってくるのだった

『今からお前は、その逆をやる』
「逆を?」
『オマエは今より一匹のゴーストポケモンだ』
 竜が云った。青い炎が灯る。
『見るがいい』
 青年の目の前で、鬼火が変容し、ゴーストポケモンの形を成す。それには、魂を掴み取る太い腕があった。この姿は霊界の布が生んだものだ、と竜が付け加える。
 それは、霊界の布がサマヨールに与えた新たなる器だ。
『この姿が恐ろしいか? だが、ゴーストは曖昧なものだ。夢とも現ともわからぬ幻を見せ、自らの存在も曖昧。しかしそれ故に何にでもなれる』
 見たことの無い種類だった。サマヨールのそれと同じ色をした一つ目。赤い色が揺らめく。
『だからイメージするがいい』
 竜は云った。唱えるように言葉を紡ぐ。
『オマエに問おう。お前は誰だ? 何者になりたい? どうありたい?』
「俺は……アオバだ。ポケモントレーナーの、ミモリアオバだ」
 青年が心にその姿を描くと、ゆらりと影が揺らめいた。ポケモンはみるみるうちに姿を変容させ、青年のそれとなっていく。
『さあ、行くがいい。第四の湖を出た所で、意志の神が待っている。約束の地に送り届けてくれるだろう。お前の意志を遂げよ』
 青年の望み、青年の意志、意志の神の導き。
『……いや、遺志の、と云うべきか』
 青年の形を成したそれがゆっくりと眼を開き、こちらを見た。

 気がつくと、彼の意識は明るい場所に在った。ゆらゆらとのどかに揺れている。月の光が眩しかった。天井では月光がキラキラと反射し、ワルツを踊っていた。光が、揺れている。
 不意に、行かなければと思った。
 もういかなきゃ、と。
 この場所はまるで生まれる前にいたようで、居心地がいいけれど。
 自分には、行かなければいけない場所がある。
 俺には、成さなければならないことがある――――だから!
 光の射す場所に向かって、彼は上り始める。光が揺れるその外に向かって。
 隠された第四の湖。もどりの洞窟の入り口にあるその湖の名を、おくりの泉という。
 水面に顔を出す。世界に飛び出す音が聞こえた。
 飛沫が、上がる。

 月が揺れる水面の上で、金色の目をした青い頭巾のポケモンが待っていた。先端が楓の葉のような形の二本の尾が、風に揺れている。
 青年は、意志の神の手をとった。

 でも、これは賭けだったのだ、と青年は言う。
 なぜなら、記憶は実感として肉体に刻まれるものだから。生まれ持ったものでない器に宿った自分が、記憶の実感を伴わない身体が、約束を思い出して果たせるかどうか、竜にもわからなかった、と。
 案の定、約束の地に降り立った時、彼は記憶を失っていた。
「でも、君は思い出させてくれた」
 青年が髪を束ね直す。そして今にも泣きそうなシロナの顔を見て、言った。
「だから、ありがとう。シロナ」

 観覧車が回っていた。
 日が沈み、夜空にイルミネーションが輝く。ゴンドラが回る。上まで上がって、また下がる。まるで太陽が昇っては沈むように、物質が、生と死の循環を繰り返すように。うつむいたシロナの目からぽたぽたと涙が滴り落ちた。
「泣くなよ、シロナ。今、俺は満足しているんだぜ? それにこんなの早いか遅いかじゃないか。誰だっていつかは観覧車から降りなくちゃいけないんだ」
 そう言うと、モンスターボールを六つ。両手に抱えてシロナに差し出した。
「だから、昨日の続きだ。俺は先に降りなきゃいけないから、もう好みかどうかに関わらず受け取ってもらうぜ。俺を負かしたお前の言うことだったら、ガブ達だって聞くだろう」
 彼女にも今ならわかる。どうして昨晩、青年はあんなことを尋ねたのか。冷たい手が触れてボールを握らせたのがわかった。
 必死だったに違いない。後悔した。昨晩のことを。
「ごめんアオバ。私、アオバの気持ちも考えずに昨日……」
「いいよ、そのことはいい。もういいんだ」
 もうすっかり夜だった。花火が打ちあがる。夜空にいくつも咲いて、そして消えていく。
「俺のガブリアスはトレーナーの嫉妬をかきたてるらしい。すなわちガブを持つということは敗れたトレーナーたちの怨念を背負うに等しい。けれど君なら、ガブリエルを倒した君なら、そんなもの全部跳ね除けると信じている。だから俺は……シロナ、君に俺のポケモンを託す」
 けれど本当は、昨日シロナの言葉を聞いたときから彼は決めていたのだ。勝ち負けにかかわらず、彼女にポケモンを託そうと。
 だが、彼女は勝ってみせた。彼女は青年の想像のはるか上をいってみせた。
 予定では、自分がしっかり勝って勝ち逃げするつもりだったんだけどな、と彼は思う。
 だって、最後の自分とのバトルくらいポケモン達に花を持たせてやりたいじゃないか。
 彼らは、自分の匂いが変わってしまっても、わかってくれた。主人を見極め、すべてを受け入れてついてきてくれた。……意志の神に、自分を渡すまいともした。
 怒っていないだろうか。自分達を置いて、手放して、先にいってしまうポケモン不孝なトレーナーを怒ってはいないだろうか。けれど、こんな自分をどうか許して欲しい。
「押し付けておいてなんだが、決勝進出祝いだとでも思ってくれ。強いぜ? 俺のポケモンは」
「……そんなのわかってる。戦った相手なのよ?」
 シロナが涙声で答えた。
「ああ、そうだったな」
 花火が咲く夜空を仰いで青年は言った。それはどこか遠くを見るようで、
「もう、行くの? 行かなきゃいけないの?」
 シロナは尋ねた。聞きたくはなかった。
「……行かなくちゃ、いけないらしいな。ずっとなりゆきを影から見ていたけれど、もう時間だと言っている。俺をここに連れてきたものが、じきに俺を連れて行く」
 だって、もう約束は果たされたから。ロスタイムは終わったのだから。
「でも、行かなきゃいけないのはお前も一緒じゃないか。出るんだろ、決勝戦」
「……こんな場面でもバトルの話なの? あなたって本当に空気が読めないのね」
 シロナが悪態をつく。ふと、彼女の背後に映る夜景の一角に新たな明かりが灯った。
「見ろよ、スタジアムに照明が入った。お前が来るのを待っているんだ」
 夜景に浮かぶスタジアムを仰いで、青年は言う。
 シロナは黙って、訴えるようにアオバの顔を見た。違う、私の言って欲しいのはそんな言葉じゃない、と。
 いやだめだ、待ってなんかいずに伝えなければ。今伝えなかったら彼は……。
「アオバ、私は」と、シロナは言いかけた。が、「シロナ、」と青年が遮る。
「君にとって俺は、ただの超えるべき対象。そうだろ?」
「違う!」
 彼女は否定したが、青年は首を横に振る。
「決勝に行くんだシロナ。お前のあるべき場所に。あの舞台はお前の夢だったはずだ。あの場所を夢見てたどり着けなかった者達が何人いるか、夢を追いかけて掴めずに去っていった者達がどれだけいたか、お前だってわかっていないわけじゃないだろう?」
 ぐっ、とシロナは言葉を飲み込んだ。ずるい。そんなことを言われたらタイミングを見失ってしまう。
「俺もその中の一人になったんだ。だが君は進む。進まなくちゃいけないんだ」
 伝えたい事があるのに、うまく言葉にできない。
「君は行け。君だったらたどり着ける。四天王にだってチャンピオンにだってなれる」
 夜景を背に青年は言った。確信を持って。
「言っただろ。俺はもうタイムリミットなんだ。……見ろ」
 青年が自分の腕をかざした。指が、腕が、身体全体が透けはじめていた。
「目的外のところで、力を使いすぎたんだな」
 先ほどの出来事を思い浮かべながら青年は言う。けれど後悔はしていなかった。
 身体を構成する色が薄くなっていくのがわかった。淡く発光した身体から、光の粒子が舞い散って、だんだんと輪郭が崩れていく。彼は少し寂しそうに笑った。そうしている間にもどんどん身体が消えていって。
「待ってアオバ! 私まだ……」
 そうシロナが言いかけると、
「最後くらいさ、俺にしゃべらせてくれよ」
 と、青年は遮った。
 そして、もう半透明になった腕で彼女の上半身を抱くと、
 耳元で何かを囁いた。

 するりと青年の髪を結んでいたものが落ちる。
シロナは思わずそれを手にとるが、すぐに青白く燃え上がって、消えた。
 そうして、青年はいなくなった。


 それからのことはよく覚えていない。
 ただ彼女は、廻る観覧車のゴンドラの中で、話し相手のいないゴンドラの中で、六つのモンスターボールを両手に抱えたまま、声を上げて泣いていた。
 涙が落ちてモンスターボールを濡らす。遺されたボール達も泣いているように見えた。
 目の前には誰もいない。もう、いない。
 二本の尾を持った影が、暗い空に昇って、溶けて消える。
 こうして、乗客はひとりになった。





 ――なあシロナ、お前はどうしてチャンピオンになりたいんだ?
 あの時、青年はそう尋ねてきた。
 ――どんなに強いチャンピオンでも、いつかは負けるときが来る。その座を誰かに譲るときが来る。観覧車に乗って高いところに行ってみても、いつかは下り始める。いつか観覧車からは降りなくちゃいけないのに。
 ――………………イメージしたからよ。
 と、彼女は答える。
 ――いつか私も自分のポケモンを連れて、この舞台に立つんだって、表彰台に上がるんだって想像したわ。その後に、いつか自分がどうなるかなんて知らない。けれど、そのとき確信したの。私のあるべき場所はここだって。
 ――それだけ?
 ――それだけよ。
 頭の中に声が響いている。
 あの時、青年は安堵したように笑っていた。
 ――それじゃあ、その時のイメージは今でも変わっていないんだね?
 青年は問うた。
 そして、彼女は再び、こう答えていた。

「…………あたり、まえじゃない……」



 花火が上がって、そして消えていく。
 それは、誰かの夢が消え行く様なのか、それとも誰かの行く先を祝福しているのか。
 観覧車だけが黙って回り続けていた。





「シロナさん、どこに行っていたんですか」
 スタジアム控え室に戻ったシロナをノガミが待ち構えていて、開口一番にそう言った。
「一体何をしていたんですか。心配いたんですよ……」
 そう続けるノガミに、彼女は黙って両手に抱えた六つのモンスターボールを見せる。
「それって……」
 言葉を濁らせるノガミに彼女はただ頷いた。そして、今のボールの所有権の解除、新たな持ち主への登録を依頼した。こういうのは規則上どうなのかとシロナが尋ねると、審査には時間がかかるでしょうが、やりましょうとノガミは答えた。
 ふと、ノガミは彼女の頬をつたう一筋の涙を、見た。
 長い前髪に隠れて表情は見えない。何と声をかけるべきなのか悩んでいる彼に「ノガミさん、」とシロナが切り出す。

「ノガミさん、私ね………………振られちゃったの……」


 スタジアムが熱気に沸いていた。祭が最も熱気に満ちるとき、その主役である二人のトレーナーを、聴衆は今か今かと待ち構えていた。
 ポケモンを回復に出すと、彼女は宿舎の自室へと赴く。取りにいきたいものがあった。スタジアムの照明に照らされたテーブルに、その紙袋は置いてあった。

「見てください! スタジアムは超満員です。今宵、シンオウ最強のトレーナーが決まる瞬間をこの目で見ようと、大勢の人々がつめかけています」
 テレビ局のレポーターが、そんなお決まりの文句をカメラの前で叫んでいた。
 すっかりと身なりを整え、決勝用のモンスターボールを持って、シロナがスタジアムに続く廊下に立つ。その長い髪が伸びる頭にはポケモンの耳を模ったらしいかんざしのようなものが二つずつ、対になる形で飾られていた。
「それ、ブラッキーですか」
 と、ノガミが尋ねると
「ルカリオよ」
 と、シロナが答える。
「でもラインが入っていますよ」
「いいのよ。四つで二対にすればルカリオなのよ」

 戦いの舞台に進む道を、彼女は一人、歩き始める。
『――よ、シロナ』
 青年が散る間際に残した言葉がリフレインして彼女は嗚咽を噛み殺した。
 ポケモントレーナーとはかくも非情なものだ、と彼女は思う。
 悲しくて、悲しくて、泣きたくて仕方のないはずなのに、もう頭の片隅ではバトルのことを考え始めている。心の準備を始めているのだ。
 勝とうとしている自分がいる。勝ちたい。勝って前に進みたい。
 これは性、戦う者の性。
 私は行く、前に進む。
 欲しかった言葉は、もう聞けない。


 初めにあったのは混沌のうねりだけだった。
 すべてが混ざり合い中心にタマゴが現れた。
 零れ落ちたタマゴより最初のものが生まれ出た。
 最初のものは二つの分身を創った。
 時間が廻りはじめた。空間が拡がりはじめた。
 さらに自分の身体から三つの命を生み出した。
 二つの分身が祈ると物というものが生まれた。
 三つの命が祈ると心というものが生まれた。
 世界が創り出されたので、最初のものは眠りについた。

 拡がった空間に物が満ち、物に心が宿り、時間が巡った時、死が目を覚ました。
 死が生まれたとき、別れが生まれた。
 去るものがいた、残されるものがいた。
 それでも、世界は廻り続けた――


 その足で立ちたい場所がある。
 そのために、越えていかなければならないものが、ある。


 君は行け。
 たとえ負けてしまう時がくるとしても、いつか終わりがやってくるとしても。
 ひと時でも長く夢を見ていられるように。
 一刻も早くその場所へ。
 だから――


『勝てよ、シロナ』


 最後の言の葉、それは約束という名の呪文。
 そんな台詞を聞きたいんじゃなかった。
 けれどそれは違和感なく耳に響いて、彼女を突き動かすのだ。
 長い廊下を渡り、階段を一歩、また一歩、彼女は登っていく。


 ――それは続き。はじまりの続き。
 出会いと別れを繰り返して、世界は今も廻り続けている。


 扉を、開いた。
 まばゆい光が差し込んで、うねるような歓声が彼女を包み込んだ。
















遅れてきた青年「了」