久しぶりの帰郷、母は声を震わせて、泣きそうになりながら呼んだ。
「こんなに立派になって!」
「母さん、久しぶり」
どうにも恥ずかしくて母の顔を見られないままに言った。
「ちゃんとご飯食べてる?」
「うん」
「旅はどうだった?」
「大変だったよ」
歩きながらも母はずっと質問をしてきた。久々の再開なんだから仕方ないけど、なんだかずっと家にいた頃のように口数が減っていた。でも、そういうものだと思うのだ。
そして道は昔と変わらない。そう、こんな雪道で。しばらくすると見えてくる。
大きな洞窟。
ここが僕の家だ。帰ってきたのだ。
「父さんただいま」
僕の声が響きわたる。母を見ると笑っていた。
「お父さんきっと奥で寝ているわ」
入った時は変わらないと思った洞窟も、妙に広く感じた。あの頃より体は少し大きくなったのになんでだろうと思っていたが、なんてことはない。自分の足がゆっくりとしか進んでいなかっただけだった。そしてやっと奥まで行くと、白い毛むくじゃらが寝そべっているのが見えた。
「父さんただいま」
「ああ、お前か」
大きな真っ白い身体は背を向けたままで、少しだけこちらを見たが、寝転んだまま顔を背けてしまった。
その背中には傷がある。人間に襲われた時のものだと言っていた。こんなに傷が多かったんだな、と初めて父の背中をじっと見つめた。
母は家につくとすぐに出かけてしまった。ご馳走を用意するらしい。
「強くなったのか?」
「はい」
父はこの谷でも一番大きいユキノオーだった。そして一番強いユキノオーだった。谷の長として他のポケモンや人間から仲間を守って戦っていた。気が荒く、気に入らないことは力でねじ伏せてきた。それは子どもにも同じで、僕も何度殴られたかわからない。その存在感は相変わらずで、旅で強くなった自分でも逆らえない迫力があった。
「だあれ?」
横になる父の腕の影からひょっこりと顔を出す白い物体。
雪を被ったププリンみたいな、ユキカブリのちびすけだ。
「こいつはお前のにいさんだ」
「おにいちゃん? おにいちゃんなの?」
父の体をじたばたしながらやっとよじ登り、滑り降りると嬉しそうに駆け寄ってくる。そして僕の周りグルグル駆け回り始めた。父には全然似てないな、と僕は笑いそうになる。
やがて母が大量の木の実を持ってくると、四人で昼食。何年ぶりもなる家族の団欒だ。母や弟が質問をしてきて、僕が答える。何をしていたのかは聞かず、どこにいったとか、どんなものを見たかとか、そういうことだけを聞かれる。それをずっと繰り返す。父はいつものように黙って口に木の実を放り込んでいく。当時僕は末っ子で、大人数の兄弟がいた。そして今ここにいる兄弟は弟と僕の二人。でも家族の食事のこの空気だけは当時と変わらない気がした。
父と弟が昼寝を始め、母が出かけると、僕は周りを気にしながらこっそり出かける。しばらくぶりの故郷だが、そこへは迷わず行けてすこしだけホッとした。その洞窟は、入り口の雪が解けていて、中から熱風がたまに吹き出してくる。谷には似合わない暑さで氷タイプばかりのこの辺のポケモン達はあまり近づかない。父も母も、谷の仲間は皆そこに行くことを固く禁止していた。それでも行くポケモンはいる。僕らユキカブリは好奇心が旺盛で、知らないもの、見たことないものには目がない。僕もそれに漏れず、探検と称してこっそりやってきたものだった。
「おじさん」
声は洞窟に吸い込まれる。耳を澄ますと風の流れと、水の流れる音、少し泡の弾ける音、蒸気の噴出す音が聞こえる。どれをとってもこの谷では、いや、谷の外でも聞いたことが無いここだけの音だ。洞窟の中には温泉が湧き出している。炎の石も少し岩肌から顔を覗かせていて薄明るい。慎重に入っていく。ウチの洞窟とはまた違った緊張感があった。
そしてやはりいた。洞窟に住んでいる一匹のバクーダ。
「久しぶりだな」
おじさんは控えめに言っても元気そうではなかった。声は力をあまり感じられず、動こうともしない。ただ、壁に寄りかかっているものの、入り口に体を向けていつでも動けるようにはしているようだ。
「まだ生きてたのか」
「うん」
僕の言葉を聞くとおじさんは歯をむき出しにして、くしゃっと笑う。刻まれた皺がさらに増えてすごいことになる。背中から白い煙が上がり、部屋の温度が少し上がった。
「久しぶり。おじさんに教わったこと、役に立ってるよ」
「そうか。役に立っているか」
「うん」
僕はこの人から人間のことを教わったのだ。人間がどんな風に生きているのか。どんなことをしているのか。どんな言葉で話すのか。その意味を。この洞窟も、おじさんも、人間も、何もかもが僕の知らないことで、僕は何度も何度もこの洞窟へ通ったのだ。
「面白いだろう、人間は」
「うん」
「いいトレーナーに出会えたようだな」
「そうなのかも」
僕の言葉におじさんは目を閉じて、何度も頷いた。僕が一体何から話そうか迷っていると、おじさんは悪戯っぽく笑う。
「入っていくか?」
それは僕とおじさんのお決まりのやり取りの言葉だった。考える間も無く僕は続きを口にしていた。
「僕には暑いよ」
「そうか、だが俺は入るぞ」
ハッハッハとご機嫌に笑いながら奥に行く。僕も慌ててついて行く。おじさんの体も父と同じように傷だらけだった。動きも遅い。
温泉が湧き出る音がずっと続いてるのに、おじさんが入るときに立てた水音は妙に響く。至福の一息を吐き、細い目で僕を見ていた。
「そういえば、お前の親父もここに来たことが一度あったな」
「父さんが?!」
「ああ、俺は一番奥に引っ込んで帰るのを待ったからな。顔も合わせてないが」
おじさんはたまに、身を揺する。すると水面に大きく波が立つのだ。僕は少し暑さにボーッとしながら、おじさんの声に耳を傾ける。月日は経ってしまったが、いつもの時間がここにある。
「人間に、な」
「ん?」
「人間に玉に入れられると、人間にされてしまうって話を聞いたことがあるか?」
それはポケモンの間で語り継がれる伝説だ。人間が玉を使ってポケモンを捕まえる。捕まったポケモンはどこかに連れて行かれて何か恐ろしい目にあって、人間にされてしまう。そして人間にされてしまったポケモンが「何で助けに来てくれなかったんだ」と仲間を恨んで捕まえて人間にするためにまた現れる。そういう話だ。
「ほら! 腕二つに脚二つ、こんなに人間になっちゃったよ!」
僕はおどけてみせる。洞窟の全ての音を掻き消して、二つの笑い声が大きく響いた。そしてそれが終わり、また温泉の音で空気が満ちて、一体どんな風に笑ったんだっけ、と忘れてしまうぐらいしたあとに、おじさんは言った。
「もうそろそろかもしれんな」
「そろそろ?」
「ああ」
ひどく穏やかで、まるで洞窟の音の一部のように溶け込んでしまう声だった。
「お前に最後を看取られるのだけはごめんだがな」
「僕だって、おじさんの最後を見るなんてごめんだよ」
僕はまるでいつもそうしていたかのように、脚から躊躇いも無く温泉に身を浸す。こうしておじさんに会えたのは運が良かったのかもしれない。僕のマスターがこの近くを通って、合流地点を決めて僕をボールから出した。いったいどうしてそんなことをしたのか僕には想像できないけど、それがなければ両親にも、おじさんにも会えなかったし、弟がいたことも知らなかった、と考えると不思議でたまらない。明日、あの大きな木の下でマスターが待っている。明日、僕は帰らなければいけない。
「悪くないだろ?」
初めて入る温泉というのは水を浴びるのとも、川に入るのとも全然違った。僕はくらくらして、体も少し痺れているようなピリピリした感覚に包まれていた。
「いいもんだな。温泉ってのは本当に。ずっとこうしていたくなるな。どうだ? 気持ちいいだろ?」
「僕にはよく、わかんないや」
朝食が終わると母はまた食事の用意で出かけ、弟の姿もいつの間にか無く、僕はどうしようか考えていた。時間はあまりない。
洞窟の奥に行く。父は今日もやっぱり寝そべっていた。本当に傷だらけの体だ。外の世界のどんなポケモンでも、こんなに傷だらけの体は見たことが無い。ポケモンセンターにいけば、この体の傷も消えるんだろうか。
「いたのか」
「はい」
父はこちらを向こうともしない。
「やるか?」
「何を?」
「確かめてやろうか? お前がどれぐらい強くなったのか」
僕は震えた。父がそういった後、僕はいつも怪我をした。本当にひどい怪我をしたときもあった。それを思い出すと、腕が、脚が重くなる。しばらくして答えがすぐに返ってこないことがわかると、父は鼻で笑う。
「そんなんで大丈夫なのか? そんなんで敵と戦えるのか? 人間を殺せるのか?」
日は昇り続けているはずなのに、洞窟が暗くなった気がした。もちろんそんなのは気のせいで明るさは変わっていない。父は寝そべったまま、同じ声で喋る。僕もそれを聞く。
「父さんは人間を殺したんですか?」
「ああ、数え切れないぐらいな」
その声は心なし弾んで聴こえた。父のそんな声を聞くのは初めてだった。
「それで残らず食ってやったよ。殺すってのはそういうものだ。殺したからには食う。どんなことがあっても、だ。命を奪うってのは生きるためにすることだからな。殺して食わないのはあいつら人間だけだ。そりゃあ最初は時間がかかったさ。昔は俺もちっこかったからな。それに何人も殺してやったからな。でも骨まで何まで全部食ってやった。ああ、雪に飛び散った血は別だ。さすがにそこまで徹底はしない」
「人間を、食べたんですか?」
「まぁ、人間ってのは本当にまずいもんだ。見かけ通りの味だ。あれは食うもんじゃない。木の実の方がずっとうまい。だから人間なんて食うもんじゃない」
「何で殺したんですか……?」
「仲間を、殺したからな」
大きな音が聞こえた。聞いたことが無い音だ。それは腹の虫が鳴く音に似ていた。もしくは何かの唸り声。
「お前、人間といるな?」
僕は動けなくなった。心のどこかではなんとなく父は分かっている気はしてきたが、まさかこんなにシンプルに聞かれるとは思っていなかった。そして、それに対し父がどうするかまでは考えきれていなかった。
「人間と一緒にいるな?」
「はい」
外の吹雪にかき消されてしまうんじゃないかというぐらい、信じられないほど小さな声が出た。
「じゃあ、早くこの谷を出ろ」
父は起き上がる。そして立ち上がった。天井に頭がぶつかりそうだ。体のわりに小さい目は僕をじっと見つめている。敵を撃退し、気に入らないものを打ち払い、僕をぶったときと同じ目だ。
「いいな」
僕は洞窟を出る。
「あの話な、あながち間違いでもないと思うんだな」
「何言ってるんだよおじさん。僕はこうして戻ってきたし、おじさんだってバクーダのままじゃないか」
「俺は、あれは何か歪んで伝わったんじゃないかと思うんだよな」
「違った形?」
「人間になるってのは姿じゃない。姿はポケモンのままでも、人間といるうちに、あいつらと同じ考えや行動をするようになっていくんだな。あいつらは違う、人間のままだ。でもポケモンはポケモンじゃなくて人間になっていくんだ」
「そうかな?」
「まぁ、そんな話だ」
洞窟を出るとすぐに声をかけられた。
「お兄ちゃん? どこに行くの?」
弟だ。少し多めに積もった雪から上半身を突き出している。雪に潜って遊んでいたらしい。僕はその質問には答えず、なるべく優しい声になるように気をつける。
「僕がいない間、お前が父さんや母さんを守ってくれたんだな」
「ええー?! 違うよ! ママもボクもみんなもこの谷もぜんぶぜーんぶパパが守ってるんだよ!」
僕は弟の頭を撫でてやると、その目を見ながら言った。
「僕はちょっと出かけるけど、そうすると、ウチはお前とパパとママだけになる。だから、お前はいつか強くなって、パパとママを守ってくれ」
「うん!」
「お前ならきっと父さんより強くなれるよ」
「ほんとー?! 最近パパも褒めてくれるんだよ! お前のウッドハンマーはいいぞって!」
子どもを褒める父なんて、その姿が想像できず、僕は思わず吹き出した。それを見て弟は最初がわけがわからないようで首を捻っていたが、だんだん楽しくなってきたようで、一緒になって笑い、それに飽きると自慢の技を披露してくれた。そうして少しの間だけ、弟に付き合うと、僕は言う。
「お前がここにいる間、お前が守るんだ」
「どゆことー?」
「すぐにわかるさ」
おざなりに頭を撫でると、ちびすけが高く小さい声を出した。
「お兄ちゃん、ねぇ、どこに行くの?」
「友達に会いに行ってくるだけさ」
「うん」
しばらく歩いて僕は坂を上る。その天辺からはうちの洞窟が見下ろせる。ちびすけが雪にまみれてわからなくなりそうなぐらい、小さく見えた。母には声をかけてないが、その方がきっといいだろう。
「いってきます」
遠くでちびすけが、僕が見ているのに気付いたようで手を振っていた。
目印の大木が見えてきた。根元にはいくつかの影がある。どうやら待たせていたらしい。でも約束の時間まではだいぶあったはずだった。
おかえり、とその人間は言った。僕のマスターだ。
「ただいま」
もちろん僕の言葉は人間には通じない。マスターにもだ。だけど、それでも僕は言いたかった。さっき「いってきます」と行ったばかりなのに、「ただいま」なんておかしいけれど。
「帰ってこなくてもよかったのに。仲間がいたんだろう? お前一人がいなくてもどうにでもなる」
ポッタイシが言った。人間みたいに腕を組んで僕を見下ろしていた。そのぶっきらぼうな言い方はマスターの一番の相棒、ポッチャマだろう。僕がいない間に進化したみたいだった。
「友達には会えた?」
キレイハナさんが綺麗な声で僕に笑いかけてくれた。マスターの仲間で、僕はこの人に見とれて草むらでマスターの前に飛び出したのだ。いったい何て返そうか。言葉を捜していると、どこからか大きな声が聞こえてきて、皆が振り返った。白い世界を歩く、少しおっかない顔をしている二人組だ。随分と厚着をしていて膨れ上がっている。
“おーい! そこの少年!”
“この谷は危ないからあまり近づかない方がいいぞー!”
二人の人間がマスターに近寄ってきた。
“ここには凶暴なポケモンが潜んでいるんだ。何人も犠牲になってるから。これから我々も狩りに行くんだよ。”
僕は父のことを思い出していた。そういえば前より傷が増えていたし元気もなかった。
人を食べるポケモンを、きっと人間は許さないはずだ。
“なんでも悪の組織で使われていたポケモンで、組織が壊滅したときに悪党は捕まったんだが、そのポケモンはまんまと逃げ果せたらしい。何十人も犠牲になってる凶暴な奴だ。ずっと見つからなかったんだが、最近ここら変で見つかったみたいでな。突然のことだったんで逃がしちまったらしいんだが、すぐに討伐隊を編成したってわけよ。”
“ま、手負いの炎ポケモンが吹雪の谷に居て平気なわけがないさ。仲間が結構な傷も負わせたらしくて、時間の問題だよ。君、ここらへんでバクーダなんて見てないよね?”
“はい。見てないです。でも大変ですね。怖くないんですか?”
“嘘ついても仕方ないし、かっこわるいけど、正直怖いよ。でも仲間の仇だから。それにまぁ、みんなのためだからね。もうすぐこの谷にも平和が訪れるはずだよ。”
“そうですか。気を付けてくださいね。”
“少年、君も気を付けてな。大丈夫だとは思うけど、そいつに遭遇したら絶対逃げること、いいな?”
僕は何も言わずに、マスターのボールに入る。
「おい、疲れたのか?」
「寝かせてあげましょうよ」
仲間の声が聞こえるが、僕は聞こえないふりをする。
とにかく眠ろう。目を瞑るとマスターの優しい声が聞こえた。
“安心しろよ。あの人達のおかげで、お前の谷もきっと平和になるから。”
もう少ししたら、この谷にも春が訪れるだろう。雪が溶けて、白から緑が増えていく。そうすれば、僕の体にもあの木の実が生る。ちびすけもそろそろ実が生ってもおかしくないぐらいだった。その雪みたいな氷みたいな食感に大喜びするだろう。今年は一段と甘い実がなればいいと思う。それをキレイハナさんや、仲間達、そしてマスターにあげてみんなで食べるのだ。
僕はもうこの谷には来ない。
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ゲットされたポケモンにとって自分の住処をどう考えているのか、ポケモンと人がいるということをポケモン達はどういう風に思っているのか。そんなことを考えて書いた作品です。
全くもって季節はずれのネタですが、ご容赦ください。
お読みいただきありがとうございました。
【批評してもいいのよ】