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  [No.1813] きみのいるまち 投稿者:リナ   投稿日:2011/08/29(Mon) 21:56:22   120clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
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 今日一日照り続けた太陽は西の空を橙色に焦がして、のろのろと名残惜しそうにまぶたを閉じた。夕暮れと蝉の合唱はいつしか遠退き、かわりに提灯の光と祭囃子がこの町を包み込む。
 町の中心を流れる依代川(よりしろがわ)の河川敷には昨日から人々が集い、大きな賑わいを見せていた。ヨーヨー、綿菓子、金魚すくい。特産品の豚串に、立ち昇る煙と炭火の匂い。色とりどりの出店が両岸にずらり並んで、若い売り子が声を張り、客寄せに奮闘する。
 毎年八月初旬にこの町で催される「七夕祭り」。人々は皆夏の夜の不思議な香りに酔いしれたまま、今年も祭りは幕を閉じようとしていた。

 今宵夜空を彩るは、瞬く星たち、天の川。



 ――きみのいるまち――



「すごい人混み――全然列進まないじゃん」

 伊織はわざとらしくため息をついて、盛大に文句を垂れた。片手で団扇をパタパタさせ、唇を尖らせる。雑踏に飲まれてほんの二分足らずのことだった。

「毎年こんな感じなんだ。大丈夫だよ、ちゃんと間に合う」

 携帯電話のディスプレイで時間を確認して、和彦はそう言った。彼がかけている黒縁眼鏡は、鼻の頭に浮いた汗のせいで重力に逆らえずにいるように見える。
 二人は暑苦しい喧噪に囲まれ、履物を地面に擦るようにしてゆっくりと前へ進んでいた。依代川の河川敷は町中の人々が一人残らず集まっているんじゃないかと思うほどのすし詰め状態。夜闇の中をのろのろと行進してゆくこの集団には、家族連れであったり若いカップルであったり老夫婦であったりと、実に様々な種類のグループがあった。すぐ隣りを歩いていた高校生くらいの女の子の集団が、興奮した面持ちで何かを囁きながら浴衣の袖をはためかせた。地元の学校に通う子たちだろう。クラスの好きな男子でも見つけたのかなと、伊織は思った。

「でも、確かに今年は若干多いかもな」

 和彦は、伊織とは反対方向を眺めながらそう言った。癖のある彼の黒髪がワックスでツンツン立てられているのが伊織の目に入る。彼女は声を出さずに笑った。

「――どうして『七夕祭り』なの? もう八月じゃない」

 伊織は団扇で顔を正面から仰ぐ。黙っていても汗が滴るほどの暑さで、周りの人はみんな風通しのいい服装に団扇や扇子というのが標準装備だった。伊織も大きい鞄はポケモンセンターに預け、小さいポーチにノースリーブのシャツ、七分のデニムにパンプスという出で立ちだった。ボールはちゃんと三つ、ポーチに入っている。長く伸びた黒髪は、すごく迷ったけど、結ばずに来た。

「あ、知らない? この辺りの地域では、七夕は八月七日なんだよ」

「そうなの? ――てか知らないに決まってるじゃん。あたしこの辺りには来たばっかだもん」

 唇を尖らせて、伊織は何気なく足元を見た。和彦のサンダルとロールアップしたイージーパンツの間に覗くくるぶしが、思いのほか男らしくて伊織は目が離せなかった――そりゃあサッカー部だものね、鍛えられてるんだ。
 そして自分の華奢な足と彼の足が一緒に並んでいるのを改めて確認し、伊織はちょっと照れ臭くなった。

「じゃあ豆知識として覚えときなよ。旅先でまた役に立つかも」

「――役になんて立たないよ、こんな雑学」

 和彦が「旅」のことを口にしたので、伊織は苦笑いし、顔を伏せたままにしていた。


 ◇ ◇ ◇


 この地方の小さな港町、笹舟町(ささぶねちょう)に伊織が訪れたのは、ほんの一ヶ月ほど前のこと。そしてこの町で一番最初に言葉を交わしたのが、和彦だった。
 伊織は笹舟町のポケモンセンターの掲示板で、この町での滞在費と旅費を稼げるいいアルバイトはないかと目を凝らしていた。まばらにしか人のいない夜のロビーは、旅も今年で三年目になる伊織にはもう馴染みの空間だ。どこか安らぎがあって、どこか物悲しい。そんな場所だった。
 旅先で出会った思い出がまぶたの裏に甦るのは、いつもこの夜のポケモンセンターだった。目を閉じて、思い起こす――峠から見る街の明かり。音を立てて降りしきる雨と折り畳み傘。重たい重たいジムの扉。電話越しのお母さんの声。この二年間で伊織はたくさんの景色と胸につっかえそうなほど多彩な感情に、日々触り続けた。すごく柔らかくて暖かいものもあったし、思わず手を引っ込めてしまいそうになるほど冷たいものもあった。頼みの綱であるボールの中の相棒たちと一緒に、伊織は傷だらけの足で、ここまで歩き続けてきた。ただがむしゃらに、ここまで這ってきた。
 この旅を終えるその時は、私はこの夜の静寂の中で、目を腫らして受話器を握っているのだろうか――伊織は今年に入って、そんなことを考えるようになった。振り払っても振り払っても、自分の旅の終わりは一体どんな演出で幕を閉じるんだろうと、想像してしまう。
 なんてことはない、ただのスランプ。旅先で出会った先輩トレーナ―は決まってそう笑う。誰でも経験する、「三年目の壁」なんだと。
 しかし、壁を目の前に立ちすくむ伊織には、それがいずれ越えられる壁だと割り切って考えることなど、到底出来なかった。壁は真っ黒でツルツルしていて、とても足をかけて登れるような代物ではなかった。
 次の町への期待が消えて、長い道のりの疲弊が膨らむ。最近やっと三匹になった相棒たちがこの先もっと増えていくというワクワクが消えて、彼らを失ってしまうことへの恐れに変わっていく。そんな感覚が時々伊織に悪夢を見せた。悪夢を自力で掻き消すことができないままバトルに臨めば、決まって惨敗した。惨敗は、また壁を厚く、高いものにしていく。
 まだ三年目だぞ――きゅるきゅると胸が痛むたび、伊織は涙を拭って自分に言い聞かせ、壁を引っ掻き続けた。
 伊織は目を擦り、掲示板を見上げた。財布の中身も通帳も、近頃かなり苦しそうに喘いでいる。彼らばかりはポケモンセンターに預けて全回復、というわけにはいかない。掲示板の求人広告を順に吟味していく。居酒屋のホールスタッフ――十七歳以下不可。もう少しだったのに。引っ越しの荷物運び――さすがに私には無理。ゴーリキーでも手持ちにいれば話は変わっただろう。お祭りの出店――楽しそうだけど、二日間だけのド短期だ。
 受付の真上に取り付けられた時計が二十二時を告げた。図ったように眠気がこみ上げ、伊織は大きなあくびをした。なにせ伊織は今日一日ひたすら山道を歩き続け、汗だくになりながら、つい一時間前にようやくこのポケモンセンターにたどり着いたのだ。
 どうせ今日から数日間はここの無料開放スペースで寝泊まりすることになるし、明日また新しい求人広告が入ってくる。そう思って彼女は顔を洗いに化粧室へ向おうとした。

「君、トレーナーだよね?」

 突然、後ろから誰かに呼び止められた。声のした方を振り向くと、伊織と同い年くらいの男の子が人懐っこそうな笑顔を浮かべて立っていた。灰色のスウェットと黒いロックTシャツというラフな姿で、ふわふわと癖の強い黒髪は、どうやら寝起きのままみたいだった。

「――はい、そうですけど」怪訝そうな顔つきのまま、伊織は答えた。

「やっぱり。もしかして君、仕事探してる?」彼は掲示板の求人広告を指差した。「もしよかったらさ、今うちで助手してくれる人募集してるんだけどどう? ポケモントレーナーだったら結構興味沸く仕事だと思うよ」

 七月に入ったばかりの笹舟町。伊織と和彦の出会いは、まだ虫ポケモンたちも鳴き始めない夏の夜のように、静かだった。


 ◇ ◇ ◇


「和彦さ、あの時どうしてあんな時間にセンターいたの?」

 ふと思い出して、伊織は自分の目線より高い位置にある和彦の顔を見上げて尋ねた。速度を上げる気配を見せない人の塊は、もしも空から眺めることができれば、まるで千切り絵のようにに地面に張り付いて見えるのだろう。特に若い女性は浴衣姿が大半だったので、きっと色鮮やかな作品になっているに違いない。

「ん? あの時って?」和彦は首を傾げた。

「――あたしたちが初めて会った時」

「あー。いや、別に用事はなかったんだ。テスト前でさ、勉強してたら気分転換に散歩にでも行こうと思い立って。それで何気なくポケモンセンターに寄ったら、真剣に掲示板見てる伊織が目に入ったってわけ」

「変なの。トレーナーでもないのに何気なくセンターって」

 和彦は目を細くして笑った。「実際、誰かうちでバイトしてくれる人とかいないかなーって思ってた節はあるな――でも、出会ったのが伊織で良かったよ」

 伊織の心臓がジャンプした。「……どうして?」

「どうしてって――意地悪な質問だなーそれは」

 和彦はぶつぶつと適当に誤魔化しながら、いつもの人懐っこそうな笑顔を見せた。
 この笑顔を、ずっと見つめていたい。伊織はそう思いながらも、暴れる心臓を悟られないように、また顔を伏せた。

「笑うなよ」和彦は伊織の顔を覗き込んだ。


 ◇ ◇ ◇


 防波堤から海に向かって足を投げ出し、伊織は正午になるのを待った。麦わら帽子越しに見上げた今日のお天道様は一段と強くこの町を照りつける。伊織の腕にはタンクトップシャツの日焼けの跡がくっきりと残っていた。汗が額に浮き出て、髪が濡れる。
 乱反射する水面は穏やかで、L字型に突き出した防波堤とテトラポットを優しく撫でていた。遠くに見える岬ではキャモメやペリッパーがけたたましく鳴いているので、夜勤までの貴重な睡眠時間をもらっている灯台はとても迷惑そうだった。
 伊織の傍らには彼女の一番の相棒であるニドリーナ――ハナがけだるそうに舌を出していた。伊織は自分の麦わら帽子をハナの頭にかぶせてやった。伊織が十五歳になって、勢いよく故郷を飛び出した時から一緒に旅をしてきたハナは、当時まだニドラン♀。確か出発したその日も今日みたいな真夏日で、ハナは舌を出し、耳をぱたぱたさせていた気がする。

「暑いね――もうそろそろかな」

 腕時計の長針はもうすぐてっぺんを指そうとしていた。伊織は汗を拭って立ち上がり、空に向かってボールを放つ。紫色の、大きな風船のようなポケモンが姿を現した。

「セージ、今日もお願いね」

 そう呼ばれた気球ポケモンは、ゆっくりと防波堤の高さまで降りてきて、伊織の前で止まった。

「さて始めよっか。ハナ、先に乗って」

 麦わら帽子をかぶったまま、ハナはセージの上に軽やかに飛び乗った。伊織もそれに続く。

 伊織が和彦に言い渡されたアルバイト、それはこの笹舟町の岸辺から沖合の海に分布するポケモン達の個体数調査だった。毎日、この海域の干潮と満潮の時刻である正午と二十時に、和彦から借りたフワライドで海上を遊覧しながら海面に確認できるポケモン達の数を数える。百メートル刻みのポイントで水温を計り、最後に月齢を記入してその日の作業は終了。これで日給一万円というのだから、伊織は食い付かないはずがなかった。
 海岸に研究所を持つ和彦のお父さんは「研究費は町から出てるから気にせんで」とか「海上からよく見えんかったら適当でええよ」とか、およそ研究者らしくないアバウトな性格で伊織を迎え入れてくれた。一方和彦のお母さんは、今時女の子でトレーナーの旅をしていることにひどく感心し、毎晩のように夕食に呼んでくれた。
 そして和彦はというと、遅くまでサッカー部の練習で、くたくたになって帰ってくる毎日である。和彦の通う高校はこの地域でも予選突破の有力候補で、夏のインターハイやその先の選手権に向けて相当量の練習を消化しているらしい。意外と頑張ってるんだなと、伊織はちょっと感心した。最初見た時はその風貌から勝手に帰宅部だと思っていた。

「ハナ、見て。ランターンの群れ」

 海面すれすれをふわふわと漂うセージの前方を、ランターンとチョンチーの群れが優雅に横切っていった。餌をおびき寄せたり、時には攻撃にも使う電球のような触手がいくつも目に入る。伊織はできる限り正確に数をカウントして、用紙に記入した。

「最近チョンチーとランターンの数が増えてる。こんなに浅いところを泳ぐこと自体珍しいのに。ね、ハナ?」

 ハナは、セージの頭の上のもこもこした雲――なんて呼べばいいのか伊織には分からなかったが――を枕にして、気持ちよさそうに舟を漕ぎ始めていた。午前中は野生のラッタたちと特訓していたから、無理もない。伊織はずり落ちそうになっていた麦わら帽子を直してやった。
 私が「旅を終える」なんて口にしたら、ハナならなんて言うのだろう? 「頑張った方じゃないかしら」と、労ってくれるだろうか。それとも「伊織の決意って、その程度だったの?」と、あきれられてしまうのだろうか。
 時々伊織は一日の終わりに、ベッドの脇のテーブルに置いたモンスターボールを見つめながら、涙で枕を濡らすことがある。タオルケットを身体に巻きつけて、赤ん坊みたいに縮こまりながら、声を殺して泣いた。
 辛い。夢は、思ったよりもずっとずっと遠くで伊織を嘲笑う。道は真っ直ぐではなく、右へ左へ、上へ下へ、大きく曲がりくねっている。
 どうして私はこんな道を選んだ? 問いかけても答えが出てこない。いつの間にか、この旅に理由を見つけられなくなった。足元を照らしていたはずの明かりはそんな私にあきれ果てて、さっさと先に進んでしまった。私は真っ暗闇に、ひとりぼっち。

 ――怖くて、もう歩けないよ。

 また溢れそうになる涙を堪えて、伊織は調査に集中することにした。


 ◇ ◇ ◇

 
「しかしホントに暑いな今日は。熱帯夜なんてこの辺りじゃ珍しいんだけど」

 和彦は両手でTシャツの裾をつまみ、バタバタとはためかせ、中に風を通した。

「そういえばあたしが旅に出た日も、今日みたいに蒸し暑い夏の日だったな――ほれほれっ」

 団扇で和彦の顔を扇いでやりながら、伊織は二年前の夏を思い出した。旅の話にはしたくないのに、頭に思い浮かぶ数ある返答の中から女の子らしい上目遣いが混じったものを見つけられず、結局伊織は旅に繋がる話しか持ってくることができなかった。

「あれ? トレーナーの旅って春に出発するんじゃないの?」

「最初の三ヶ月くらいは地元のトレーナーズスクールで実習してたの。だから、出発は夏」

「ふーん、意外としっかり準備するタイプなんだ。何も考えず突っ走るようなタイプだと思ってた」

 伊織は団扇で和彦の後頭部を叩いた。「ひどっ! あたしそんなドンファンみたいな女じゃないし」

 頬を膨らませる伊織を、和彦は笑いながら両手で制した。

「悪い悪い――おっ、やっとここまで来た。ほら、ここから見るんだよ」

 和彦が指差したのは、この依代川に架かる橋で、一番河口に近く、一番規模の大きな橋――かささぎ橋。

「今夜は新月だ。きっと綺麗な"天の川"が流れる」


 ◇ ◇ ◇


 レモン色のお月様は夜空に完璧な円形の窓を切り取っていた。その周りに輝く星たちは、一定の距離を保ちながらゆっくりと漆黒のスクリーンを移動していく。黒々とうねる海の上では波の音だけが静かに呼吸する。岬の灯台は五秒に一度瞬いて、遥か遠くの漁船を導くという責任を全うしていた。ポケモンの気配はない。

「今日伊織が練習見に来るからさ、他の奴に冷やかされたよ」

 夜の調査を終え、伊織と和彦は防波堤の上に寝そべって、宇宙に散らされた星たちを眺めていた。

「嫌だった?」そっけなく言うつもりはなかった。けど、可愛子ぶった言い方もできなかった。

「いや、別に。適当に無視しとけばそのうち治まるし」

「そう――てかあんなに厳しい練習、毎日してるの?」

 今日伊織が見たサッカー部の練習は、想像以上に凄まじい光景だった。最初のパス練習から一年生は先輩に相当檄を飛ばされていたし、「詰め抜き」という、ボールを奪いにくる敵をかわして味方にパスを送る練習では何人かがコーチに帰らされそうになって半べそをかいていた。全ての練習が終わる頃には、誰も口を開こうとしないくらい、皆ヘトヘトになっていた。

「三年目だし、もう慣れたよ」和彦は無表情のまま言った。

 そっか、和彦も三年目。私と同じ。

「――そんなもん?」伊織は訊き返す。

「ああ、そんなもん」

 強がってる。伊織はそう思った。一年目だって三年目だって、たとえ十年目だって、辛いものは辛いに決まっている。慣れただなんて、ただの言い訳だ。伊織はちらりと和彦の横顔を盗み見た。彼は相変わらず無表情のまま、夜空に散らかった星たちをぼんやり見つめている。 

「サッカー部――辞めたいって思ったこととかないの?」

 ほんの少しだけ沈黙があり、波の歌が耳に寄せてきた。和彦は軽く勢いを付けて起き上がり、あぐらをかいて沖を見つめた。

「何度もあるよ。あんなオコリザルみたいなコーチに毎日怒鳴られるくらいなら、それこそ帰宅部の方がまだマシって思ったのも一度や二度じゃないし。でもさ――」

 寝そべる伊織の方を振り向いた和彦の顔は、今夜の星空にだって負けやしないほど、凛とした笑顔だった。

「おれ三年間サッカーやるって決めたから。途中で辞めるなんてダサいじゃん?」

 伊織は和彦のその顔から目が離せなかった。屈託のないその表情を不思議な目で見つめたまま、伊織はゆっくりと身体を起こした。

「ん? なんかおれ変なこと言った?」

「――いや、別に。ただ、軽いなって」

 和彦は憤慨したように、唇を尖らせた。

「おい酷いなあ。男らしく固い決意で臨んだってのにさ」

「ううん、そうじゃなくて。あたし、なにかやることを決める時って大きな目標とか、夢とかがないといけないと思ってたから――」

 真面目だなあと、和彦は黒々とした海を見つめながら言った。

「そりゃあさ、プロになって将来ワールドカップに出るとか、大そうな夢を持つことも大事だと思うよ。でもとりあえずやらないと始まらないじゃん。決めないと先に進まないじゃん。そう思ってサッカー始めたら、これが結構楽しくてさ。だからおれは高校で、どんなに辛くても三年間続けるって決意した。決めてから決意ってなんか変な言い方かもしれないけど。だから、例えば『なんでサッカー始めたの?』って聞かれても、正直『楽しいから』としか答えられないんだよな。まあ、軽いヤツって思われても文句言えないか――」

 和彦の声は、伊織の中にすとんと音を立てて落ちてきた。その言葉が、伊織が次の町へ必ず持っていかなければならないと思っていたたくさんの荷物を、ひとつひとつ丁寧に降ろしてくれた気がした。
 私はどうして旅に出たんだろう? この問いには必ず答えなければならない、伊織はずっとそう思っていた。ジムバッジを八つ集めるため。ポケモンリーグを制覇するため。四天王を踏破するため。未だ発見されていない新種のポケモンを見つけるため。後世に語り継がれるようなパーティを完成させるため。ポケモンマスターになるため――
 全部、違う。違うのに、無理矢理これらのうちどれかが自分の夢なんだと思い込もうとしていた。これだもの、答えが見つからないのも、当り前。
 私はどうして旅に出たんだろう? この問いを堂々と白紙にしたまま旅を続けることができずに、私は道に迷いっぱなしだった。
 でも、少しだけ分かった気がする。旅に出るのを決めたのは私だってことは、疑いようがないんだから。
 伊織の胸に、そっと明かりが灯った。

「あと『モテるから』ってのも、ある意味正解だな」

「――馬鹿」

 笑い合う二人を、海は静かに囁きながら、見て見ぬふりをした。


 ◇ ◇ ◇


 かささぎ橋は重量オーバーで落ちてしまわないか不安になるほど、人で埋め尽くされていた。橋のちょうど半ばまで来ると、ほとんど身動きが取れないほどだった。

「こっち! ちょうど二人分空いてる」

 海側の縁にぎりぎり二人潜り込めそうな隙間を見つけ、和彦が不意に伊織を手を握った。心臓が内側からドカドカと胸を叩く。和彦に手を引かれたまま人混みをすり抜けて、その隙間に二人は収まった。
 伊織は橋の上からの景色を見た。真っ黒な依代川は、夜の中をゆったりと海へ向かって流れている。いつも調査の時に見た眩い光を放つ灯台は、本日欠勤らしい。この時間なら必ず見ることができた漁船の明かりも、今日は海岸沿いから沖合いまで、一つも確認できなかった。
 それだけではなかった。町の明かりもここから見る限りほとんど落とされている。街灯こそまだ灯っているが、商店街も住宅街も、ついさっきまで賑わっていた河川敷の出店街も、今やとっぷり暗闇に包まれていた。 

「かささぎ橋から見るのが一番綺麗なんだ。午後八時まで――あと五分」

 和彦は右手で携帯を取り出して時間を確認する。左手にはまだ、一回り小さい伊織の右手が握られていた。

「ねぇ、そろそろ教えてよ? 一体これから何が始まるの?」

 伊織は右手のぬくもりのせいで、馬鹿みたいに緊張した声しかでなかった。
 傍からすれば、恋人同士にしか見えないだろう――私、男の子と手を繋いだの、始めてだ。

「沖の方を見てれば分かるよ」

 平然とした口調で和彦は真っ黒な海を指差した――和彦は、緊張したりしてないのかな。

 私の心臓、爆発しそうなほどドキドキしてる。手なんて繋いでたら一発でバレちゃうよ。暗くて分からないけど、顔も絶対赤くなってる。
 ズルいよ。私ばっかりパニクってるじゃん――

 伊織は必死で胸を抑えつけ、黙って沖を見つめた。


 ◇ ◇ ◇


「七夕祭り?」

 和彦は、地元最大のお祭り「七夕祭り」に、部活の友達でもなく、クラスの可愛い女子でもなく、伊織を誘った。
 夜の防波堤は、半分だけの月明りと僅か星の瞬きでうっすらと照らされていた。五秒に一度の灯台ももう見なれた風景になった。調査終わりの伊織と部活帰りの和彦は、こうして毎晩防波堤に寝そべるのが日課になっていた。伊織は麦わら帽子を脇に置き、モンスターボールを帽子の中に放った。和彦は自分の泥だらけの靴に顔をしかめ、エナメルのバッグを枕に「疲れたーっ!」と叫びながらごろんと身体を倒した。

「ああ――伊織にぜひ見せたいものがあってさ。しかも今年は祭りの二日目と新月が重なってるから、例年以上にすごいのが見れるんだ」

「何があるの? 花火とか?」

 伊織は夜空に輝く夏の大三角を見つけた。アルタイルの光が、伊織の目には一際明るく映った。

「いいや――何かは当日のお楽しみにしといてよ」

「えーなにそれ。気になるじゃんか」

 そう言いながら、伊織はそれよりも自分が誘われたことに驚いていた。

「――でも、私なんかでいいの? 仲良い友達とか、その――ガールフレンド、とかは?」

「だって、伊織はさ――」和彦は決まるが悪そうに、その癖っ毛を撫でつけた。「いや、なんでもないよ。友達とは毎年来てるし、おれ彼女はいないから」

 和彦が言葉に詰まらせたのは気になったが、伊織は特に深掘りせず、星空を見上げた。
 しばらく、沈黙が流れた。波の音が次の言葉を急かしているような気がした。

 だめだよ。言葉にしたら、この穏やかで心地よい時間が壊れてちゃうから。月も星たちも、輝きを失ってしまうから。
 ――もう少しだけ、このまま。

 ちゃぷりとテトラポットを洗った最後の波が「いずれ、その時は訪れるんだよ。上ばかり見てないで、前を見なくちゃ」と、知ったような口調で囁く。

「ありがとう、誘ってくれて。楽しみにしてる」


 ◇ ◇ ◇


「パパ! ひかってる!」お父さんに抱きかかえられた小さな女の子が沖を指さした。

 真っ暗だった海に、ポツリ、またポツリと、明かりが灯り始めた。街灯でも灯台の光でもない、レモン色の輝きだった。かささぎ橋からどよめきと歓声が上がる。

「綺麗――あれ、何?」みるみるうちに増えていく光に、伊織はため息をこぼした。

「伊織が調査でいつも会ってた、あいつらだよ」

 蛍の群が集まっていくように、その光は沖から海岸沿い、港の中、そして依代川の下流を順に照らしてゆく。その光は、街灯の明かりや車のヘッドライトなんかよりずっと力強く、それでいて優しい輝きを放っていた。

「すごい数だあ――こんなの数十年に一度じゃあないか」

 近くにいたおじさんが感嘆の声を漏らした。家族連れもカップルも、浴衣姿の女子高生たちも皆、光がひとつ灯るたびに湧き立ち、歓喜する。

 町中が、光で溢れてゆく。

「あの子たちがあの光の正体? でもなんで川の中にまで?」

 海に住む彼らは、真水を嫌い、決して川を上ることはないはずだった。しかし今、眩い光がこのかささぎ橋の目前まで迫ってきている。

「良い質問だ。川の水面を見てごらんよ」

 伊織は言われたとおりに橋の上から川を覗き込んだ。最初は何もおかしなところはないと思ったが、すぐに異変に気付いた。

「えっ? 流れが――逆になってる!」

 あろうことか依代川は、緩やかながらも川の上流に向かって流れていた。川は時々ざぶりと白波を立てながら、ゆっくりと上っていく。

「どうして――」

「海嘯(かいしょう)って言うんだよ。海が満潮になった時、川の水位より海の水位が上回る場合がある。そうなると海水が重力に従って移動して、流れが海から川、つまりいつもと逆になるんだ。あいつらはこの潮の流れに乗って、この時期川を上ってくる」

「――信じらんない。毎年起こるの?」

「ああ。特に新月と満月のときは潮汐力が最大になるから、海嘯の規模も大きくなる」

 午後八時は、この辺りの海域の満潮時刻。今日は新月。今年は祭りの二日目と新月が重なってるから、例年以上にすごいのが見れるんだ――と、和彦が言っていたのを思い出した。

「伊織にやってもらってた個体数の調査も、実はうちの親父がこの現象を研究してるからなんだ。まあそれでさ、その研究でもまだ分かってないことがあって――」

 気付けば、光の群はかささぎ橋のすぐ下まで到達していた。まるでスポットライトを浴びせられているかのように、橋が煌々と照らし出される。

「この夏の時期、特に新月の日は、ランターン達が爆発的に増えるんだ」

 条件が全て今日に当てはまる。町の人々が集い、毎年大きな賑わいを見せる「七夕祭り」のクライマックスは、ランターンとチョンチーによる壮大な芸術作品のお披露目の場。自然が織りなす光の流れは、眩しくて見つめていられないほどだった。 

「どう? 感想は?」

 明るく照らし出された和彦の顔。鼻筋が通っていて、男の子にしてはまつ毛が長い。伊織は思わず顔がほころび、繋いでいた手を強く握り返した。

「すっごく綺麗――ホントに! ありがとう」

 和彦はにっこりと笑い、そしてなぜかモンスターボールを取り出した。

「一昨年気付いちゃったんだけどさ、もっと良いロケーションのスポットがあるんだよね」

 そう言って和彦はモンスターボールを川に向かって放る。

「ちょっと――何してるの?」

 フワライドのセージが飛び出し、ふわふわと和彦のもとに舞い戻った。かささぎ橋のギャラリーは、一体何事かとこちらにギロリと視線を浴びせる。小さい男の子が「ふーせん!」と叫びながらセージを指さした。
 戸惑う伊織の右手を離し、和彦は柵に登って手すりに足をかけ、勢いをつけてセージに飛び移った。紫色の気球は少しだけ沈んで、まだ元の高さに戻る。

「ほら、伊織も跳んで!」和彦がセージの上で左手を伸ばす。

「えっ? でも――」

 一部始終を見ていた周りの人たちがニヤニヤとし始めた。「若いなあーしかし」と、さっきのおじさんが二人を冷やかす。

「早くこっち来いよ、恥ずかしいだろ」

 恥ずかしいこと始めたのは自分のくせに。伊織はそう思いながら、柵に足をかけてよじ登り、下を見ないようにして気球ポケモンの頭上に跳んだ――

「きゃっ!」

 案の定、伊織は思いっきり和彦の胸に飛び込むかたちになってしまい、二人はセージの上でドサリと横に倒れた。かささぎ橋から嫌らしい音程の口笛が聴こえた。

「痛っー! 伊織お前もうちょっと上手く着地しろよ」

「こんなに狭いのに無理だっての! もう、馬鹿――」

 和彦に覆いかぶさるようになってしまっていた伊織は慌てて身体を起こした。二人を乗せたセージは身体を膨らませ、ふわりふわりと夜空の中を上昇してゆく。かささぎ橋の雑踏が次第に遠退いていき、風の音だけが二人を包み込んだ。
 突然ポケモンで空を飛ぶなんて一体を何考えてるんだと思ったけど、暑苦しかった人混みから逃げ出して上空に来てみれば、ビックリするほど空気がおいしくて、自然と顔がほころんだ。伊織の長い髪を、夜の風が通り抜ける。

「いいだろ? こいつの上」

 したり顔の和彦はそう言って夜空を見上げた。

「うん――最初からこうすればよかったのに」冗談交じりに伊織は言った。 

「そう言うなって。ああやって列の中を女の子と歩くの、地味に憧れてたんだよ」

「そうなの?」

 伊織は声を上げて笑った。そんなロマンチックで乙女な憧れを和彦が持っていたなんて、ギャップ。

「伊織、お前時々酷いよなー」

「ごめんごめん。全然いいと思うよ、そういうの」

「ホントに思ってるのかよ――おっ、この辺りが良いかな。セージ、止まってくれ」

 二人を乗せた気球が星空と町の間で停止した。
 海岸線の輪郭と依代川の緩やかなカーブが、ランターン達の灯りによってくっきりと浮かび上がっていた。まるで影絵のような、光と影で切り取られた笹舟町の、この夏だけの姿。間違いなく、伊織がこのたびの中で見た景色の中で一番の絶景だった。

「空も見てみろよ。ヤバいから」

 町ばかりを鳥瞰していた伊織は、和彦に促されて空を見上げた。
 月のない夜空は、今夜幾千もの星たちが所狭しとばら撒かれ、小さいながらも力強く瞬くその光は伊織の瞳の奥まで届いた。夏の大三角は〇等星の一際明るい命を輝かせ、ベガとアルタイルを分かつように流れる天の川は、まるで霧吹きで夜空に魔法をかけたみたいに、銀河をぐるり一周していた。

「――すごい。宇宙にいるみたい」

「光害が少ないから、いつも見えない星も見えるだろ?」

「うん」

 二人は顔に夜風を受けながら、しばらくの間無言で世界を眺めた。町と夜空、二つの天の川が放つ光に包まれて。

「和彦――背中、借りてもいいかな?」

「――ああ」

 伊織は和彦の背中に右耳をつけた。さっきまで繋いでいた右手も、和彦の左手に重ねる。
 自分がこんなに大胆になれるのがすごく不思議だった。思えば今朝目覚めてからずっと胸の中がざわざわして、午前中のハナの特訓はほとんど見が入らなかったし、いつもなら気にもならない右頬のにきびも、どうにかならないものかと何度も鏡を見た。
 和彦と会う前に銭湯に入った。昼過ぎにのれんをくぐる自分が馬鹿らしく感じながら、どうしてもシャンプーだけはしておきたかった。銭湯の鏡で自分の身体を見て、その薄っぺらい胸に落胆した。
 少しだけど、化粧もした。慣れない手つきでマスカラを入れながら、たった一人の男の子とお祭りに出かけるだけなのにどうしてこんなことしてるんだろうと、やはり自分が不思議になった。

「明日、行くんだろ? 次の町」

 和彦が、自分中で特別な人になっていくのを、伊織は静かに感じていた。その特別な人とこの町で出会って、言葉を交わして、ポケモンを見せ合って、防波堤で寝そべって、一緒に歩いて、お祭りを見て回って、笑い合って、こうして今、一緒に星を見ていた。
 満たされていた。

「うん」

 このまま、ずっと一緒にセージの上で二人っきりでいたい。伊織の一番わがままな部分は、確かに大声でそう叫んでいた。ほとんど、それしか聴こえなかった。このまま和彦の体温に触れて、光に包まれていたかった。
 でも、このままこの町にいれないことは、伊織自身が一番分かっていた。

「あたし、もう歩けないと本気で思ってた。こんな足じゃ次の町にさえたどり着けない――そう思ってたの。でも、和彦と話して、そういう考え方もあるんだなって思った。ちょっと、楽になったんだ」

「おれ、そんな大したこと言ってないだろ」

 伊織はちょっとだけ笑って、ゆっくりと顔を横に振る。そして重ねた右手の指を和彦の左手に絡めた。

「あたし、和彦のおかげで答えが見つかった。どうして旅に出たのか――その答え」

 伊織は左手で、モンスターボールの入ったポーチにそっと触れた。

「ポケモン、大好きなんだ。誰にも負けないくらい。ただそれだけ」

「――良いじゃん。シンプルで、伊織らしいよ」

 気のせいだろうか。和彦の声は、少しだけ割れているような感じがした。伊織も目が熱くなる。

「あたし、もっと旅を楽しみたい。ずっと、大きすぎる目標に押しつぶされそうになってたから、もっと笑って旅したいの。そう思えたのは、和彦のおかげなんだよ」

 みるみるうちに伊織の目から大粒の涙がこぼれ落ちて、夜風に飛ばされていく。

「――うん」
 
「そのうち、絶対あたし、自分らしい夢を見つける。そしたらまた――この町に戻ってきていいかな? 和彦に会いに来ていいかな?」

「いいに決まってるだろ。絶対戻ってこい――おれ、手紙送るよ。セージに頼んでさ。こいつ見た目は間抜けだけど、伊織がどこにいても必ず届けてくれるから」

 和彦がセージの頭をぽんぽんと叩いてそう言うと、紫の気球は「間抜けは余計だよ」と憤慨した様子で軽い横揺れを起こした。二人は涙を目に浮かべたまま、顔を見合わせて笑った。

「――嬉しい。あたしも手紙書くよ。これからの旅のこと、和彦に伝えたいから」

 気付けば、町を明るく照らし出していたランターン達はゆっくりと沖へ帰っていく。街灯の明かりが少しずつ灯り始め、笹舟町はいつもの夜に戻る。

 七夕伝説では、織姫と彦星が出会えるのは年に一度だという。年に一度だけ、天の川に橋がかかり、二人は互いに触れることができる。二人が短冊に込めるのは、まず間違いなく、お互いに会いたいという願いであろう。なぜなら、彼らはポケモントレーナーの旅をしているわけでもなければ、毎日泥だらけになってサッカーの練習をしているわけでもないのだから。

 伊織と和彦は、夢を見つけるその日まで、たとえ天の川に橋がかかろうとも、再び出会うことはない。
 そのかわり、ちょっと間抜けな顔をした紫色の気球が、二人を繋ぐ。その腕に封筒を括りつけて、雨の中を歩く少女を探し、少年の声を送り届ける。
 少女の笑顔を見届け、返事を足に結んでもらい、気球はまた笹舟町へ帰っていく。


 ◇ ◇ ◇


 伊織のニドクインは、相手のヘラクロスにとどめの一撃をヒットさせ、バトルはあっさりと終了した。対戦相手の、まだ旅も駆け出しという感じの少年は、ヘラクロスをボールに戻しながら感嘆の声を漏らした。

「いやー参りました! 今まで戦ってきた人の中で一番強いかもしれません! ――何年くらい旅されてるんですか?」

「うーんと、今年で七年目かな。でも、あたしより若くてもっと強い人、たくさんいるよ」

 海沿いの山道で出会ったトレーナーとの一戦を終え、伊織は行き先が同じだというこの少年と一緒に峠を下った。

「この峠を下ったところにある町、パンフによると明日『七夕祭り』っていうのがあるらしいですよ――でも変ですよね? もう八月なのに」

 このやりとり、どこかでしたことがあるなと思いながら、伊織は照りつける夏の太陽を仰いだ。

「この地域ではね、七夕は八月七日なの」

 木々の間から、L字型の防波堤と灯台が見えた。


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 14009文字

 チャットでちらっと呟いた、ストコンの字数アウト作品。

 【何してもいいのよ】