04 大文字 穂風湊
くおぉん――。
午後八時。鈴のように透き通った声が夜の森に木霊する。それを合図に、松明を掲げた人々が各火床に炎を灯した。エンジュの山に浮かび上がるのは赤い『大』の文字。
これがエンジュの大文字と呼ばれる祭事だ。
大文字は五山送り火とも呼ばれる。五種の記号が山々に表わされることが由来だが、何を送るのか。それは死者や先祖の魂である。盆に迎え入れた霊を大規模な炎の文様で天に送り返す。
その文様の一つ、『大』の中心に一匹の獣が静かに座っていた。金の艶やかな毛並みに九つの尾、深紅の瞳に炎を写すのはキュウコンだ。彼女は今回の祭事で最も重要な役を担っていた。山全体に合図を送るのと、最も大きな火床「金尾」に火を放つこと。何故彼女がこの仕事を受け持ったのか。それにはある理由があった。
キュウコンは長年彼女の主人とエンジュで暮らしてきた。一人と一匹だけの家庭だったが、つつがなく暮らしていたそうだ。しかし今年の夏の始め、その主人が病気で亡くなってしまった。あっという間のことだったらしい。別れの挨拶も出来ないまま、キュウコンと主人は会うことも、言葉を交わすことも叶わなくなってしまった。
キュウコンは途方に暮れた。数十年来共に過ごした大切な人を突然失ってしまったのだ。独り取り残された自分は一体どうしたらいいのか。孤独感と喪失感に苛まれていた折思い出したのが、この大文字だった。現世にある死者の魂を、大文字で天へ送る。きっと主人も運ばれるのだろう。ならば最後の手向けとして先導したい。そうキュウコンは考えると、駆け出していった。
もちろん今日に至るまでの道は決して楽ではない。言葉の伝わらない人間を相手に身振りで必死に訴え、漸く役を得ることが出来たのだった。
「準備中にいきなり現れたときは驚いたよ。はじめは邪魔だからと追い返していたが、何度も頼みに来るんで、終いにはそいつの熱意に負けちまってな」と祭りの責任者は語る。それからは彼の積極的な教授により、祭りの手順から、炎の加減、タイミングなどを修得していった。
金の体毛が焔に照らされ優美に反射する。
送り火はエンジュの夜を照らし、焔は星の瞬く空へ手を伸ばす。これだけの大文字ならばキュウコンの主人も迷うことなく空へ逝けるだろう。
くおぉん――。
もう一度キュウコンが空に向かって声を上げる。
伝えるのは別れの挨拶か感謝の意か。それとももっと特別な想いだろうか。
声が彼方へ届くように。
キュウコンはそっと目を閉じ空に祈った。
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