戻る
------------

135 鯨波(とき)を上げる者 クーウィ


PDFバージョン  フォルクローレに採用されると見開きの片側に絵がつきます。


 ホウエン地方に近年開通したカナシダトンネルは、我が国の環境問題史に於ける新たなモデルケースとして知られている。このトンネルは当初自然の洞窟だったのを、カナズミ・シダケ間を結ぶ交通の要として整備しようと計画されたもので、周囲の生態系に対する悪影響やそれに対する地元住民の強い反発などによって一時工事が中断、最終的には一握りの関係者による地道な掘削によって開通にまで漕ぎ付けた、と言うものである。
 最新の機材を用いて始まった掘削作業は周辺に生息するポケモン達に多大な影響を及ぼす事となり、特にシダケタウン側の住民からは非常に強い反発が寄せられた。これは同地がホウエン地方でも特に環境意識の強い地域であった為でもあるが、同時に古くから伝わっている、ある言い伝えの存在も大きかったようだ。この物語はこの地に代々語り継がれて来たものであり、長らく洞窟とそこに住んでいるポケモン達への干渉を、戒めて来たものでもある。
 土地の古老達から聞き取り調査を行った所、それは次の様な物語であった。


 昔々、まだホウエンの地が千々に乱れ、一つの国として纏まっていなかった頃。果てもなく続く泥沼の様な戦の最中(さなか)、傷付いた一人の落ち武者が、このシダケの里に迷い込んで来た。
 槍に縋ってよろめきつつ、彼は集落の家々を訪ねては戸を叩き、助けを求め彷徨うが、どこの住居も門戸を閉ざして、何の反応も示さない。当時このシダケの里は、丁度幾つかの勢力の境界線に位置しており、特定の相手に手を貸したり味方したりするのは、非常に危険な事だったからだ。
 歩けど歩けど応答はなく、人っ子一人見当たらず。止む無く村を離れる事にした落ち武者は、降り頻る雨の中何とか追手をかわそうと足を引きずり続ける内、やがて村から程近い山中に、大きな洞窟が口を開けているのに出くわした。岩棚の下にぽっかりと口を開けたそれは身を隠すのに都合が良く、どんどん酷くなって来ていた豪雨をやり過ごすにも、格好の場所であった。
 既に疲れ果て、行き倒れる寸前にまで追い詰められていた彼は、残された力を振り絞って穴の中へと這い込むと、岩壁に身を持たせかけ、大きく安堵の息を吐いた。
「此処ならば雨露も凌げ、追手の目にも触れはすまい」そう判断した落ち武者は、そのまま具足を解く間も無く目を閉じて、深い眠りに落ちた。
 ところがその夜、武者が前後不覚に眠り込んでいる間に天候はどんどん悪化して、何時しか烈風が吹き荒ぶ、大嵐となった。そして不意に大きな音と共に岩棚が崩れ落ちて、落ち武者が身を寄せていた洞窟の入り口を塞いでしまったのだ。
 突如襲って来た振動と大音響に飛び起きた彼は、「誰だ!?」と誰何すると共に腰の刀を引き抜き、即座に身を固めて周囲の様子を窺うが、一寸先も分からぬ闇が広がるばかりで、何の気配も感じ取れない。やがてそろそろと動き始めた落ち武者は、程無く何処にも入口が無く、自分がこの岩穴に、完全に閉じ込められてしまった事を理解した。
 やがて夜が明けると、状況は更にはっきりとした。前日彼が槍を杖突乗り越えた入口は大小の岩で埋め尽くされ、僅かに空いた隙間から、外の光が差し込んでいる。特に洞窟の入り口一杯に嵌り込んでいる大岩は彼の背丈の数倍以上あり、物言わぬ威圧感を四方に放って、近付く一切のものを拒んでいるかのようだった。
 無論落ち武者の方とて、このまま此処で朽ち果てる気は毛頭無かった。彼は死に物狂いで岩をどけ、土を掻いた。刀で抉(こじ)り槍を梃にして、両手の爪が割れるまで掘り返し続けた。
 やがてどうにか砂礫の山は片が付いたが、件の大岩だけは頑として根を据え、押しても引いてもビクともしない。渾身の力で押し揺るがし、果ては鎧諸共体当りを仕掛け、腰刀が折れ飛ぶまで叩き付けてみたものの、如何に豪強の荒武者とて、彼一人の力では如何する事も出来なかった。
「誰か、手を貸してくれ!」
 遂に万策尽きた落ち武者は、隠れ潜む事を諦め、外に向かって助けを求めた。要請は直に懇願へと変わり、遂には悲痛で取り留めの無い哀訴を繰り返すまでになったが、依然目の前の岩は微動だにせず、彼の呼び掛けに応じてくれる人間も、姿を見せる事はなかった。

 一方村に住んでいた人々も、落ち武者が山の奥へと身を隠し、不幸にも洞窟に生き埋めになってしまった事に、とうに気が付いていた。
 彼らはほぼ例外なく中から聞こえる叫びに表情を曇らせ、不運な身の上に心から同情していたものの、さりとて実際に手を貸すかどうかとなると、一様に顔を俯け押し黙ってしまう。落ち武者が敗走して来た戦の結果、村の支配権は新たに進出して来た敵側の国が握るようになっており、既に立場を異にしていた村人達には、彼を救う手立てを講じる事は許されていなかった。乱世の統制は厳しく、匿ったり介抱したりするのは勿論の事、例え水の一杯・握り飯一つ施しただけでも情け容赦無く打ち首にされる。下手をすれば家族は愚か村中がただでは済まぬともなれば、手を差し伸べる者が全くいないのも仕方の無い事であった。
 けれども実は、そんな村の住人の中で、たった一人だけ思いを異にする者がいた。村の外れに住む一人の娘がそれで、彼女は事あるごとに山の方を見詰め、周囲の噂話に耳を澄ませては、そわそわと落ち着きの無い日々を送っていた。娘の父親は数年前に戦に駆り出されて討ち死にしており、実のところこの娘は、出来る事なら自分の手で武者を討ち取って、親の仇を奉じてやりたいと願っていたのだ。
 やがて日が経つに連れ、徐々に村人の意識が山手の方から遠ざかり始めると、娘は密かに山に分け入って、武者が閉じ込められていると言う洞窟目指して登り始めた。手には吹き矢筒、御供には父親が可愛がっていた小さな火を吹くひよこを連れて、漸く洞窟の前まで辿り着いた時。娘はそこで、周囲が驚くほど静まり返っている事に当惑する。既に武者が閉じ込められてからかなりの日時が過ぎており、娘は敵と見据えたその相手が、ひょっとするともう死んでしまった後ではないかと危ぶんだ。
 そこで彼女は、早速ひよこを崩れ落ちた大岩の上へ登らせると、丈夫な蹴爪で岩を削って、小さな隙間を開けて貰った。自分も岩の上へとよじ登った娘は、腹這いになって中を覗き込むと、思わず息を呑む。なんと件の落ち武者はまだ生きており、暗い穴倉の中から真っ直ぐ此方に視線を向けて、彼女の方を凝視していたのだ。
 咄嗟の事に娘は本来の目的も忘れ、悲鳴を上げて逃げ出そうとしたものの、直ぐに追いかけて来た男の声に引き止められた。
「待ってくれ! 頼むから行かないでくれ……!」
 そう叫んだ相手の声が余りに悲痛で、思わず振り返った彼女に対し、閉じ込められた落ち武者は終始間をおかず、言葉を尽くして助力を乞うた。本来の目的からすれば捨て置く以外に考えられない筈であったが、相手の必死の嘆願を断り切れず、結局娘は不本意ながらも、武者が外に出る手助けをしてやる事になる。

 落ち武者に手を貸してやるようになってからも暫くは、娘の思いに変わりはなかった。男が体力を取り戻さぬよう差し入れも水と未熟な木の実だけにし、情が移らぬよう言葉も殆ど交わさなかったが、それでも落ち武者は不平一つ言わず、ひたすら援助を有り難がった。
 そんな両者の関係に変化が訪れたのは、とある日の事。何時も通りひよこと共に人目を忍んでやって来た娘は、洞窟の直ぐ傍に於いて、一匹の噛み付き犬に出くわしてしまう。大柄で気性の荒い黒犬は、小さなひよこをものともせずに牙を剥き、威嚇しながら詰め寄って来たが、震えるばかりで逃げる事すら出来ない娘に飛び掛かろうとした所で、不意に襲い掛かって来た大音声に打ちのめされる。見ると背後の大岩の向こうから、殺気に満ちた錆び声が辺りを震わせ轟いており、更に彼の背丈より遥かに大きなその岩に、怒り狂った何者かがぶつかる鈍い音が響いて来るのだ。相手の姿こそ見えなかったものの、岩壁の向こうから聞こえて来る怒声はこの世のものとは思えぬほどに恐ろしく、大岩に加えられている圧力の強さも相まって、噛み付き犬は忽ち尻尾を股の間に押し込むと、一目散に逃げ出してしまった。
 何とか我に返った娘が恐る恐る洞窟の中に向けて呼び掛けると、辺りを鳴動させていた鬨の声はピタリと止み、代わりに冷たい岩壁の向こうから、安堵の声が聞こえて来る。「無事であったか」と返事を寄越した落ち武者は、次いで磊落な口調に親しみを込め、荒れたので腹が空いたと零しつつ、明るい笑いを響かせた。
 ひよこの蹴爪によって広げられる穴が、だんだん大きくなっていく中、娘は落ち武者から沢山の事を聞いた。家族の事、これまでの事、そしてこれからの事。「故郷で待っている家族の為にもまだ死ねぬ」と、男はしんみりとした口調に決意を滲ませ呟いた。あれから娘の対応も変化し、持ち込む食物も以前より格段に良くなった為、痩せ衰えていた落ち武者の体調も多少は復し、言葉や意思表示にも、希望が見えるようになっていた。
「全てそなたの御蔭だ」そう口にする相手に対する憎しみは、既に娘の心の内からは消え失せていた。

 ところが、もう直ぐ外に出られるだろうと言う頃。村で朝餉を取っていた娘は、不意に踏み込んで来た領主の兵に絡め取られ、その場で縄を打たれた。密かに落人を匿っていた罪で、彼女は即刻村の外れに引き出され、見せしめの為に処断される事となる。
 一方今日明日にでも洞窟の中から抜け出して、故国へ落ち延びようと計っていた落ち武者は、傷付き泥だらけになって飛び込んで来たひよこの様子に、何が起こったのかを悟る。眦を決して錆びの浮かんだ槍を手にした男は、娘とひよこが長い刻を掛けて作ってくれた岩の隙間から這い出ると、そのまま槍を片手に脇目もふらず、急な山道を駆け下った。
 武者にも家族がいた。家で項垂れているであろう妻の姿や、懐かしい子供らの顔が頭を過ぎる。けれども彼もまた、恩人でもある娘に対し、深く情が移っていた。『恩死はせねども情死は拒まず』――それが、裏切りや背信渦巻く乱世に生きる、侍達の生き方だった。
 今まさに処刑が始まろうとしていた頃、落ち武者は漸く、村外れの刑場に辿り着いた。走り込んで来た彼は、慌てて脇に逃げる村人達を尻目に竹矢来を槍で一薙ぎし、そのまま踏み倒した勢いで執行人と介添えの足軽達とを蹴散らすと、娘を小脇に抱えて荒れ狂う。向かって来る雑兵は片手の槍で薙ぎ倒し、嗾けられた噛み付き犬や赤犬は、雷のような鬨で一喝して追い散らす。火の粉や征矢が雨のように注がれるも、娘を庇って体中に突き立ったそれを抜きもせず、穴だらけになった鎧を打ち鳴らしながら奮闘した末に、繋いであった三つ子鳥を奪い取り、息絶え絶えになりつつも如何にか追手を振り切った。
 追手の者等が目にしたのは、山際の畑に乗り捨てられた三つ子鳥と、山奥に続く一筋の足跡。血の跡と共に連なるそれは犬達によって追われたものの、途中で川の流れに遮られ、結局追跡が実を結ぶ事はなかった。村人達も山狩りに駆り出されたが、言葉には出さずとも等しく同情の念を抱いていた彼らは巧みに捜索を切り上げ、あの洞窟に関しては互いに避けあって、誰も見に行こうとはしなかった。

 それから長い年月が過ぎた。山中に分け入った二人の行方は杳として知れず、村人達も領主の手勢もとうに捜索を打ち切り、彼らの存在が口の端に上る事も無くなった。
 ただ、あれから数年が経った頃、長らく避けられていたあの洞窟に近付いた狩人が、今まで見た事の無い獣を目にしたと、他の村人達に伝えた事があった。偶々獲物を深追いして洞窟に至った彼は、穴の入口に桃色の小柄な獣が蹲っているのに気付く。
 見慣れぬ相手の姿に好奇心をそそられ、もっとよく見ようとにじり寄った彼は、不意に洞窟の奥から現れた影に、思わず息を呑む。巨大な口を開け、全身に無数の穴が開いたその大柄な怪物は、怯える小柄な獣を後ろに庇うと、突然すさまじい咆哮を上げて、周りの空気を打ち震わせた。余りの轟音に気絶していた猟師が目を覚ました時には、もう二匹の獣の姿は無く、ただ罅割れて小さくなった岩の欠片が、洞窟の入口に転がっているきりだった。
 話を聞いた村人達は、その二匹の獣こそ、あの時姿を消した娘と落ち武者の二人に相違いないと噂し合った。――それからだ。この地に住まう人々があの洞窟を憚って、山を荒らしたり騒音を立てたりしなくなったのは。