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16 Pigeon Blood キトラ


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 美しい宝石だろう?
 ピジョンブラッドといってルビーの中でも最も高級品だって言われてる。
 僕が値段だけでこれを選んで来た訳じゃないよ。
 なんとこれが出来たのは三百年も前だと言われてる。
 当時にそんな加工技術があるわけじゃないのに、現代の宝石みたいだよね。
 これが出て来たのは古いお城で、政治的に不安定だったのがやっと中を片付けることになったときに出て来たらしい。
 うん、これをいつか博物館に寄贈するつもりだよ。

 
 たわいもない会話を親友と交したのが遠い日に思えた。


 突如、伝説の中にしか存在しないと思われていた妖怪が目を覚ました。最初は誰もが信じなかった。
 人の生き血を吸って生きる吸血鬼に襲われたとしか思えないような、無惨な死に方だった。皮膚は真っ白で、体中の血がなくなっていた。
 いくらクロバットでも集団で襲わないかぎりこんなことにならない。首には噛まれた傷が一カ所。明らかに成人男性の体格で、血を吸う生き物の仕業だった。
 さらに被害者は子供ばかり。ワイドショーでは不安を煽るだけ煽っていた。
「ルネシティで女児遺体」
 それを見たミクリは今でもその子を抱きしめて泣き続けた母親の姿を思い出す。夕方に友達の家から帰るはずだったのに。姿の見えない怪物相手にどうすることもできず、ミクリはジムリーダーだというのに何も出来ない無力さを嘆くばかりだった。


 よほど思い詰めたオーラを出していたのか、察知した親友が遊びに行こうと誘ってきた。乗り気にはなれなかったが誰かと話したいと思い、ミクリはルネシティを離れた。
 待ち合わせの場所に行くと、親友が誰かと話していた。ミクリも見覚えがある。病的な色白でふらっと倒れそう。なのにポケモンに指示する声ははっきりとしていた。ポケモン一匹ずつへの思いやりも忘れていなかった。近づくにつれてあの時の戦いが浮かんで来る。
「ダイゴ、それにミツル君」
 二人はミクリに気付いたようだった。ダイゴはいつもと変わらない様子だった。ミツルの方はあの時より少し大きくなったような気がした。
「やあ、ミクリ」
 ミクリが来たことを察して、ミツルは一礼すると離れていった。ダイゴは小さな頃から年齢問わず人が寄ってくる。年の離れた友人はミクリの知らないだけでもかなりの数になるはずだ。ダイゴはいつも気の合う人と付き合っているだけだと言っていた。
「元気出して」
 ダイゴはそれだけ言うと歩き出した。その後ろを黙ってついていく。繁華街の賑わいの中を男二人が無言で通り過ぎて、地下にあるバーへと入っていった。
 薄暗く、静かな雰囲気。一人でいるような、しかし決して独りではいない。ミクリの心を感じ取ったかのようにダイゴはここへ連れて来た。細やかな気遣いが男のくせにと鼻についたこともあるけれど、今はそれがミクリの心に滲みる。
 その彼は赤ワインを傾け、ミクリが話し出すのを待っているように感じた。
「ルネでも一人、子供が死んだ」
「……そうか」
「夕方、友達の家から帰る途中だった。よく笑う、いい子だったんだ」
「……」
「死んだその子を抱きしめて母親は泣いていた。悔しいと思ったのと同時にダイゴじゃなくてよかったとも思ったんだ。思ってしまってはいけないと思っても、ダイゴが死ななくてよかったと喜んでた」
「早く帰らなかったら……もしかしたら吸血鬼に会ってたのは僕の方だったのかもしれないんだ」
「最悪だろう? ジムリーダーがこんな事を思うんだ」
「ジムリーダーでも私情が先に来てしまうのはこんな状況だから仕方ない。まわりの人間の安全を確認するだけで精一杯だよ」
 ダイゴは思い詰めたように再び赤ワインを口に含む。ミクリは黙ってカクテルを飲んだ。最も美しい花、バラの香りがするものだ。こういう時くらい甘い香りで満たされたい。隣のダイゴは物凄く嫌そうな顔をしていたが、ミクリはかまわず飲み干した。
「飲み過ぎだよ。いくらショックだからってさ」
 ダイゴの言い方が少しきつくなった。このままミクリが酒に溺れかねない。そっと水の入ったグラスを差し出した。


 テレビでは不安を煽り続ける。その方が視聴率が高いのだろうけれど、怖いですねとしか言わないコメンテーターに飽き飽きしていた。しかしその中でも伝説レベルの対策を紹介している番組があった。
 それを見ていたミクリは銀のナイフを持つようになった。言い伝えでしかなく、本当に効果があるかどうかなど解らない。けれど何もないよりはマシだ。
 それをアダンに報告した時、苦笑いをされた。
「相手はポケモンではないのですよ……こんなことで優秀な弟子を失いたくありません」
 白いテーブルクロスに反射してか、アダンの顔色が少し悪いように見えた。
 しばらくアダンは肘をついたまま沈黙した。ミクリも黙ってアダンを見る。
「貴方なら解っているとは思いますが、無理してはいけません。出会ったらすぐに逃げてください」
「わかっています。無駄に死ぬことはありません」
 何人もの人間が正体を解き明かそうとしてきた。けれども誰一人としてその正体を見ていない。目撃者もいない。未知の生命にミクリだって恐怖を感じるが、それ以上に守らなければというジムリーダーとしての使命を感じていた。


 ここ一週間、新しい被害を聞かない。
 あれだけ騒がせていたニュースも今や話題は切り替わっている。全くどうしたものか。ジムリーダー間の連絡にも、新しい被害は全く聞かない。
 もしやあれが最後の犠牲者だったのだろうか。だとしたら「吸血鬼」は死んだか消えたのかもしれない。それはそれで喜ばしいことだが、いきなり現われ、いきなり姿を消した理由も不明だ。
 今日もみんなが無事に出勤するように願う。ミクリはジムの鍵を開けた。
「リーダーおはようございます」
 元気よく出勤してくるトレーナーたちに、動揺を悟られないようにいつものように接する。
「おはよう。今日も期待しているよ」
 ミクリの笑顔に女の子たちはさらに明るい笑顔で返す。みんなミクリの魅力に取り憑かれて、半ば押し掛けて来たトレーナーたちだ。その中から実力が確かな人たちだけがこうしてルネジム所属のトレーナーになっている。
「おはようございますリーダー!」
 元気な声で一番年下のトレーナーが出勤して来た。
「おばあちゃんが干物送ってくれたんですけど、あたしひとりじゃ食べきれないんでリーダーにもお裾分けです」
 ビニール袋の中にはルネ近海で獲れた魚の干物がたくさん入っている。ミクリは受け取りながら、さすがに食べきれないと思っていた。アダンに少し分け、後は最近忙しいのか連絡もしてこないダイゴにでも分けようかと考えている。他のトレーナーもたくさんの魚に少し困ったような顔をしていた。

 安全のため、日が出ている早い時間にジムを閉める。女の子が多いジムなのだからなおさらだ。いつまで警戒態勢でいるか、そろそろ大丈夫なのかミクリは鍵を閉めながら思う。
 アダンの家に魚を届けた。それでも一人暮らしには余る魚の量。ミクリはダイゴへ発信する。
「ミクリ、ひさしぶり」
 受話器から聞こえるダイゴの声は、とても具合の悪そうな顔だった。
「大丈夫か? どうした、熱でもあるのか?」
「ああ、ちょっと具合が悪くて……この後人と会うんだけど……」
「そんな時に出かけると余計に悪くするから寝てなよ」
「いや、ちょっとそれは無理……」
 一言一言が辛そうだ。ダイゴの性格からして人と約束しているとなれば這ってでも行くだろう。ミクリは気付いたらトクサネに向かっていた。

 ダイゴの家に着く。チャイムを鳴らし、玄関を引く。何の抵抗もなく開いた。こんな時なのに不用心だ。
「ダイゴ、大丈夫か?」
 家に入っていく。そんなに広くない家の奥、寝室で死んでるかのように横たわるダイゴが目に入る。顔色が蒼白に近く、ミクリは心臓が凍り付いた。
「ミ……」
「どうしたんだ!? こんなに悪いのに人と会うなんて」
「でも……」
「何か食べてるか!? 消化にいいもの作るから、今日はそれ食べて寝てて。外出はだめ」
「うん……」
 ほとんど動けないようだから、勝手に出ていくことは考えにくい。人のいいダイゴのことだろうから、断りきれなかったのだろう。
 魚を冷蔵庫に入れて、目に入った冷や飯を使って粥を作る。出来上がった料理を寝室に運ぶ。
「食べれるか?」
「まあ……なんとか……」
「心労が祟ったんだよ。昔から無茶するから……今日はチャンピオンの立場も忘れてゆっくりしてなよ。あと、ジムのトレーナーの女の子から干物もらったんだ。冷蔵庫に入れてあるから、良くなったら食べて。ルネの魚は美味しいからね」
「ありがとう……」
 話すのも辛そうだ。ミクリはまたね、と言って立ち上がった。
「ミクリ……本当に……ありがとう……」
 ミクリが出て行った後、受け取る人のいない言葉を吐き出した。目を閉じて、一呼吸すると飛び跳ねるように起き上がる。
「君のためにも、僕は……」


 ジムの休みの日はポケモンを思いっきり自由にさせている。ルネの海で楽しそうに泳ぐミロカロスは、本来の姿のようだった。優雅に美しく。それでいてミクリの側を離れようとしない。一緒に泳ごうと誘っているみたいだった。
 身一つで海に入りたいけれど、今はそんな時ではない。ミロカロスと共に泳ぐことは出来ないから、そのうちね、と声をかける。
 その直後、そうだねと言わんばかりにポケナビが鳴った。ポケモンとの時間に水を差されてしまうが、必要な連絡は取らねばならない。
「やあミクリ!」
 この前とはうってかわって元気な声が聞こえる。
「お粥おいしかったよ。ありがとう! おかげですっごい元気になれたよ」
「それはよかった。無理しないで、たまには休んで」
「うん。今日、ミクリが暇だったら来て欲しいな。魚も美味しかったし、御礼に飲もうよ」
 ミクリは了承する。ポケモンたちに声をかけて、トクサネシティへと向かった。

 家に着くと、大きな声がしていた。何事かと思い、玄関を開ける。
「絶対、絶対に許さねえ!」
 その声に聞き覚えがあった。
「なんでだよ! なんでダイゴさんは協力してくれねえんだよ!」
「僕は自由に動けるわけじゃないんだ。ごめんねユウキ君。でも動ける範囲内で全力を尽くす。約束しよう」
 ミクリがいることにも気付かず、ユウキはダイゴに殴り掛かる勢いだった。
 ホウエンの異常気象に、有り余る血の気と勇敢さで挑んだ少年だ。ダイゴがいい感じの子だと嬉しそうに言っていたのを覚えている。そしてミクリに挑戦しに来た時もジュカインと共に力押しで挑んで来た。その勢いに乗ってポケモンリーグまで行き、ついにチャンピオンを越えてしまった。
 次のチャンピオンの話をしようにも「俺にはまだ修行するところがある!」とポケモンリーグを飛び出して行った、ダイゴ以上に型破りな少年である。戻って来ていることもミクリは知らなかった。
「そんなの何の約束にもならないじゃないか! ダイゴさんは友達と連絡が取れなくて、心配にならないんですか!」
 噛み付きそうな勢いだ。ミクリはユウキの肩を叩いた。
「落ち着いて。ダイゴも私も全力で君に協力するから。私にもわかるように、教えてくれないか?」
 いきなり現れたミクリに驚いた様子だったが、ユウキの勢いは消えなかった。ミクリに敵意をこめた目を向け、ユウキは口を開く。
「俺の友達のミツルが、この前からずっと連絡とれないんです。あちこちいろんな人に聞いてるんですけど、誰も知らないって言うばっかり」
「それで心配しているんだね。わかった。こんな時期だから仕方ない。けど私も彼と戦った時に思ったけれど、ちょっとやそっとじゃやられないと思うよ」
 ユウキは黙った。ダイゴに怒りを向け過ぎて体力を使ってしまったのか、ただ黙っている。ただし目に宿った敵意は全く消えていなかった。
「ミツルに何かあったら、そいつ絶対ゆるせねえ。吸血鬼でもなんでも、絶対にぶっ殺す」
 ユウキはそのままダイゴの家を飛び出していった。ミクリが止める間もなかった。
「……彼の心配は最もだ」
 ダイゴは口を開く。
「ただ、彼もまだ子供だから……いくらユウキ君でも心配だね」
「しばらく被害を聞かないから大丈夫だとは思うんだけど、ルネ周辺のことならわかるから聞いてみよう」
 他のジムリーダーたちにも協力を要請する。バッジを八つ集めた人間はそうそういない。すぐに思い出してもらえるはずだ。



 美しくあるためには早く寝なさい。それはミクリがアダンの元で修行することになって真っ先に教えられたことである。そのためミクリが寝る時間は早い。夜の十時にはすでに一回目の夢を見ていた。
 けたたましいコールにミクリは飛び起きた。真っ暗な中、やっとのことで取った。
「ミクリさん、新たな犠牲者が出たんです!」
 トクサネシティのジムリーダーからだった。二人いるうちのどちらかであるが、電話口、ましてや寝起きでは判別できない。
「な、まさか!?」
「そうです、また来たんですよ吸血鬼。今急いでまわしてます」
「場所はどこですか!?」
「ミナモシティです。今、ナギさんが一番で向かってくれているみたいですね。私たちも……」
「わかりました。ありがとう。私も向かいます。それと貴方達は危ないので戸締まりをしっかりしててください。その時になれば来てもらいますから、今は身の安全を確保してください」
 連絡を切ると、服を急いで着替える。星明かりの空、ミナモシティへと向かう。

 ヒワマキシティのジムリーダーであるナギは、すでにその現場にいた。被害者に見覚えがあるとも。
「ミクリさん、こちらです」
 ナギに案内されてたどり着いたとこ。シートをかけられていたが、大きさからいってまた子供だ。そして隣にはパートナーらしきサーナイトが黙って立っている。
 ミクリは驚いた。顔こそ判別できないが、持っているトレーナーカードの名前は知り合いだ。この子は強くなることを目指して挑戦してきた子だ。
「ミツル……君……」
「私も正直信じられません。あの子はそこらのトレーナーとはレベルが違います。それなのにこうもあっさりやられてしまうなんて」
 やはりポケモンでは通じないというのか。守りきれなかった悔しさと知り合いが亡くなった悲しさがミクリの心に溢れる。確認のためにボールから出されたサーナイトがミクリの心を感じたのか、赤い目から涙を流していた。
「ミクリ!」
 ミクリの肩に誰かの手が触れた。ラフな格好で急いできたダイゴがいた。
「連絡があったんだ。やっぱり吸血鬼が?」
「……ミツル君が亡くなった。普通のトレーナーより強かったのに、それでもこうして被害にあってしまった」
 沈黙が流れる。強いというだけでは何も守れないことを知らしめていた。


 ミクリは彼の葬儀に出た。神が宿るという木を供えた。彼の、短かったけれど生きてきた歴史が読まれていく。本当に体が弱くて外にも出られなかった少年が、ホウエンをかけまわったことが奇跡のようだった。
 通夜振る舞いでラムの蒸留酒を口につけた。立ったまま、周囲の人間を見ている。まだ子供だったこともあって、友達は同年代の子供が主だし、後は親戚がほとんどだ。
 その中にユウキの姿を見つける。ユウキもミクリが近づいたことに気付いたのか、顔を上げた。その顔は数日前よりも怒りが鎮火したように見えた。
「なんですかね、吸血鬼ってやつ……あいつが人間食わないと死ぬってんなら、食われた方の恨みを教えてやりたいです」
「ユウキ君……」
「俺がまだ子供に見えるんなら好都合だ。返り討ちにしてやる」
「ユウキ君、無茶だけはしないで。私の師匠も同じことを言っている。危ないと思ったらすぐに逃げるんだ。いいね?」
「……森の中に持ち込めば、ジュカインに敵うやつはいない」
 ユウキの目は静かに燃えていた。鎮火したと思っていたのは見た目だけだった。友人を奪われた怒りは治まるわけがなかった。
 もしダイゴが同じ目に会えばミクリだってユウキのようになるだろう。身近な人間を奪われて冷静でいられる自信はない。ジムリーダーの役目がなかったらきっと……。そもそもダイゴがそのようになることを想像したくない。
「でも本当に危険だと思ったらすぐに逃げるんだよ。ミツル君がいなくなって悲しむ人がいるように、ユウキ君がいなくなっても悲しい人はたくさんいるんだから」
「友達の中で俺が一番強いから、俺が負けたら……みんな助けられない」
 ユウキはボールを握りしめていた。ジュカインのボールのようだった。それを見てミクリにルネジムでの戦いが浮かんだ。
 腕の鋭い葉で切り裂いて来たジュカインは、ユウキの指示を守り、ユウキを振り向くこともしなかった。ユウキを信頼していた。倒れかかった時もユウキの声で体勢を立て直した。ミロカロスもがんばったけれど、敵わなかった。タイプ相性もあったかもしれないが、敵わなかったのは信頼関係があったからこそだ。
 ユウキがそう簡単にやられるとは思えないし、あのジュカインならば吸血鬼の正体を捕らえられるかもしれない。そんな期待がミクリにはあった。
「ジムリーダーとして協力できることがあったら何でもしよう。ダイゴは、チャンピオンが忙しいみたいだから」
「ありがとうございます。ダイゴさんには迷惑かけました」
 ミクリはコップの中のわずかな酒を飲み干すと静かに出て行った。


 落ち葉や枯れ木を踏む音が駆け出す足にまとわりつく。
「まさか、まさか……裏切られた、なんで……」
 逃げようとしても森の道は走りにくい。しかしここを抜けて助けを求めない限り、生き残れない。
 目の前の状況に泣こうにも涙は出て来ない。何かの間違いだと否定する心と、これは現実だと認める心が同居している。
 森の中の戦いに持ち込んだというのに、ジュカインはその場所を当てられ、倒された。そして補食するためにユウキの方へと一歩一歩近づいてきたのだ。
「誰かに、誰かに……父さんなら信じてくれるはずだ」
 後少しでこの森を抜ける。そしたらすぐに空を飛んでトウカシティへ行けば……。
 木の根に足を取られ、ユウキの世界は回転した。石に頭を打ち、枝で頬を切る。そんな痛みを感じる間もなく、腕を掴まれた。


 最後の被害者から一ヵ月程度。こんなに間隔が開くのは人知れず解決したのかもしれない。もしかしたらユウキが仕留めたのかもしれない。それだったら一言報告があるはずだ。それにユウキはトウカシティジムリーダーの息子だというから、その筋から連絡があってもおかしくない。
 もやもやしていても始まらない。通常のジムリーダーの仕事がある。片手間に吸血鬼騒動を追いかけているだけなのだ。何も連絡がないうちに、通常の業務を放り出すことは許されない。
 コンコン、とジムをノックする音がした。挑戦者かとミクリは返事をする。
「あ、あの……」
 挑戦しに来た様子ではなかった。ここに入るのも緊張しているようで、視線が定まっていない。
「すみません……友達がいなくなってしまったんです。その子のお父さん、ジムリーダーなんですけど連絡が取れないって言ってて。連絡ないのはいつもの事だからって言うんですけど、でも今回は何か違う気がしてて、今ジムをまわって聞いてるんです」
 何かが引っかかった。
「君は……ユウキ君のお友達かな?」
「あ、はい。あたしはハルカです。ユウキ君は自分からはあまり連絡しないんですけど、こっちから連絡すればちゃんと返信してくれるんです。でも、この前からずっと返事もないんです」
 嫌な予感が走る。まさかユウキがやられてしまったとでも言うのだろうか。体の中が冷やっとした。
 泣きそうな顔のハルカをとりあえずジムへと入れる。応接間に座らせ、ユウキが慕っていたダイゴへと連絡をした。
「ユウキ君? 来てないけど」
「ユウキ君のお友達だっていうハルカちゃんが来てて、ユウキ君のこと聞いてまわっているんだって。センリさんも連絡つかないけど心配ないって言ってるみたい」
「うーん、僕も連絡がつかなくて心配してたんだ。ちょうどいいから今から僕の家来れるかな?」
 トクサネならばここからそんなに距離はない。ハルカにダイゴの存在とダイゴの家の話を簡潔にした。
「私はジムの仕事があるから後で行くけど、ハルカちゃんは一人でいけるかい?」
「はい。トクサネなら行けます」
 ハルカはミクリに頭を下げた。ジムから出て行くとすぐにオオスバメの鳴き声が聞こえた。


「なるほど、ジムリーダー全員に聞いてまわってたんだ」
 ダイゴはハルカからの話を聞いて、今までを労った。誰に聞いても空振りで、最後の綱にすがるかのようにジムリーダーを訪問していたこと。トクサネも昨日訪れたばかりだった。
 柔らかいソファに座らせて、甘いゴスジュースを出した。
「ユウキ君がいなくなって心配してるんだね。僕もユウキ君とは連絡取るんだけど全く繋がらなくて困ってたんだ。最後に連絡したのはいつ?」
 迷子を諭すような優しい言い方でダイゴは話した。ハルカもダイゴの優しさに緊張が解けたのか、来た時よりもリラックスしているような表情をしていた。
「二週間くらい前です。それまでユウキ君のお友達のミツル君の仇を討つんだって怖いくらいだったけど、心配だったからあたしも一緒に行きたいって約束したばっかりだったんです。ユウキ君はちょっと型破りなところありますけれど、無断でそういうことする人じゃないんです」
「ユウキ君は荒っぽいところがあるけど約束をすっぽかすような子じゃないね。連絡がつかないのは何かあったのかもしれない」
 どちらからともなく沈黙した。お互いに初対面で話題に富んでるわけでない。今はユウキのことが心配なので、楽しい話題というのも浮かばない。
 ハルカはユウキからダイゴのことは多少聞いていた。写真で見せてもらったけれどイメージ通りの人だった。ずっと石を探して洞窟にいるためなのだろうか、肌はハルカより白い。
 ダイゴも彼女のことを聞いていた。子供を相手にするように話した。
「ダイゴさんは、洞窟に詳しいですか?」
 一瞬、ハルカの顔が何かひらめいたように明るくなった。
「そうだね、結構行くけれど」
「ユウキ君が行きそうなところとか……わかりますか?」
「うーん、わからないなあ。ユウキ君は洞窟とかよりもジュカインと山で遊んでる方が好きみたいだから」
 そうですよね、と小さく言うとハルカは再び黙った。浮かんだ希望も消され、連絡のつかない友達の行方は何もつかめない。誰かに聞けばわかると思ったのに。そんな都合のいい事などなかった。
「ユウキ君に会いたい?」
 顔をあげ、ハルカは頷いた。
「そう。少し痛いけれどしばらく我慢してね」
 掴まれた腕は尋常の力ではなかった。動けないように抱えられ、全く抵抗が出来ないままハルカの足はフローリングを離れた。恐怖と痛みで声をあげることも出来ず、うめき声のような音しか出なかった。
「せっかくだから教えてあげるね。ユウキ君は美味しかったよ。とってもね。君の血はどれだけ美味しいんだろう。考えただけでぞくぞくするよ」
 逃げ出そうとハルカはもがく。しかしダイゴの押さえつける力は強く、子供が敵う相手ではなかった。背後の相手から逃げなければならない。それなのにぴくりとも動かなかった。


 頼って来た子供を親友に押し付けてしまった。申し訳ないと思ったが、ジムリーダーの職務を全うしなければならない。早めに閉めたジムを後にして、真っ先にトクサネシティへ向かった。
 ダイゴのことだろうから子供が相手でも平気だろうし、むしろまた友達を増やしているはずだ。そこは心配していない。気になるのはユウキのことを話せてるかどうか……。
「ダイゴ……?」
 ミクリは目を疑った。見間違いだと思った。
「もう終わったのかい? 早いね」
 ミクリを見るダイゴの目は、親友だと思って接していたダイゴの目ではなかった。獲物を喰らった捕食者の目だった。
 どさりとフローリングに何かが落ちた。それがハルカだと知るのにさほど時間はかからない。先ほどまで言葉を交し、力になると約束した子供が、力なく床に落ちた。青白い肌、光のない目。命はなかった。
「まさか……まさか……お前だったのかダイゴ!」
 首筋に特徴のある傷。吸血鬼に襲われた特徴がハルカにもあった。少し残った血液がそこからすこし溢れていた。
「そうだよ。最初はさすがに抵抗があった。けどね、子供の血って甘くて赤ワインみたいな香りもして美味しいんだよ」
 目の前にいたダイゴが姿を消した。見失ったと瞬きした瞬間、ダイゴの顔がすぐ目の前にあった。
「でも知られたからには、ミクリでも放っておけないな」
 それだけ告げて、ダイゴが消えた。直後、ミクリの右手に激痛が走った。ダイゴが背後からミクリの右手と体を動かないように締め上げていた。身動きが全く取れず、左手で払いのけようとしてもダイゴの体に当たるだけで効果的なダメージにはなっていないみたいだった。
「いつか言ったじゃない。僕が一番強いんだって。いつも鋼ポケモンを相手にしている僕に君が敵うと思う?」
 背後にいるのは親友ではなく、敵だ。
 ポケモントレーナーになることを選んだ時も、ジムリーダーになった時も、チャンピオンを祝福した時も一緒だったダイゴはいない。ミクリを口封じのために殺そうとする捕食者だ。
 強くなろうと誓った言葉も、おめでとうと祝福する言葉も、一緒に作った滝の上の秘密基地の思い出も……全てが粉々に散った。
「一人食べた後だし、大人って子供ほどおいしくないけどね。できないわけじゃない」
 大きく露出したミクリの首筋をダイゴは少しの間見つめていた。さすがのダイゴも親友を殺すことを躊躇したのか、顔を近づけて一気に手を出そうとはしなかった。
「ダイ、ゴ……」
 もしかしたら、という希望にミクリはかけた。ほとんど動けない状態でも、まだダイゴに残ってるはずの「親友」の感情に訴えた。ミクリはほとんど動けない。やろうと思えばすぐにでも出来るはずだ。しかしこうしてミクリを殺すことをためらっているかのように、首筋にそっと頬を寄せていた。
 けれどその期待も痛みに裏切られる。
「うわあっ!」
 太い針で首を刺されたようだった。激痛が走り、体がこわばる。しかし痛みから逃げることはできない。
 目の前の景色は外側から次第に白くなっていく。輪郭がぼやけ、直線が歪んだ。手足に力は入らず、冷たくなっていくのがわかる。
 力が入らなくなってきたミクリを、さらに動かないようにダイゴは力を入れた。
「くっ!」
 突然ダイゴはミクリを突き放した。そしてからん、と二人の間に何かが落ちた。
 いきなり解放され、ミクリは膝をついた。冷たい左手を床につく。首を押さえ、ダイゴを見る。彼の手は火傷したかのように腫れていた。
「そんなもの持っていたとはね」
 ミクリがもしもの為に所持していた銀で出来たナイフだった。ダイゴが力を入れたために刃の部分が露出し、触れてしまったようだった。ミクリ本人も忘れていた。景色がぼやけているが、それだけははっきりと見えていた。
 ミクリは右手を伸ばす。少し痛むが、ナイフを取ることくらいは何でもなかった。
 そしてゆっくりと立ち上がる。その刃をダイゴに向けて。
「親友だと思っていた……それも今日で終わりだ」
 ダイゴが怯んでいるのがわかる。このままダイゴの心臓に突き刺せば全てが終わる。ミクリは一歩踏み出した。
 ダイゴが消えた。悔しそうな目をミクリに向けて。

 ミクリが覚えているのはここまでだった。


 ミクリが目を開けると、白い天井だった。状況がわからず、見回すと腕には何本かのチューブがついていて、その先には薬品が入っている袋があった。
 病院らしい。しかしミクリには思い当たる節は全くない。なぜこんなところで寝ているのだろう。もしかしてアダンの家で酒を勧められて飲み過ぎてしまったのか。もしくはダイゴと深夜までワインでも飲み過ぎて……
 ミクリは飛び起きた。全てを思い出した。親友だと思っていたダイゴが吸血鬼だった。目の前で一人殺して、さらに襲いかかってきた。そして突き放され、ダイゴを刺し殺そうとした時からの記憶がない。
 頭が痛い。衝撃が走ったようだった。そこには安静にしてろと言わんばかりのハピナスが立っていた。
「気がつきましたか」
 にっこりとアダンが入って来た。
「無事で良かった」
 アダンの顔を見たときだった。吸血鬼がダイゴだったことの衝撃、死を感じた恐怖、それらの緊張感が一気に安心へと変わった。なのに涙が止まらない。小さい子供のように泣くミクリを、昔のようにアダンは頭を撫でた。
「一人でよくがんばりました。貴方は私の自慢の弟子です」
 話し方が独特だと言われるアダンだが、この時はそれがもう大丈夫だという気持ちにさせた。男が、しかも大の大人が泣くなんて。誰になんと思われようが、緊張の糸が切れて頭は冷静なのに感情は勝手にでていく。息も落ち着かないし、あったことを訴えようにも声にならない。体の中につまったものを吐き出すかのように咳き込んだ。
 記憶がたたきつけられる。楽しかった子供の頃に遊んだダイゴ、ミロカロスになったときに喜んでくれたダイゴと、子供を殺したままこちらを見て来たダイゴがぐちゃぐちゃになる。同じ人間ではない、同じ人間とは思えない。殺されかけたのに、まだ信じられなかった。話そうとしてアダンを見ても話してしまえば、認めることになりそうで整わない息だけが出て来る。
 あれは幻であって、悪い夢をみたのだ。そう思い込んでも体のあちこちに感じる痛みが現実だと教えてくる。目眩と吐き気を感じた。混乱する記憶と心が、体に現れた。

 あれから長い時間が経ったようだ。アダンに背中をさすられて、今は気分も軽くなってきた。ミクリはアダンを見上げる。
「……吸血鬼を、見ました」
 やっとのことで音声にする。心臓はやたらとドキドキしていた。アダンは何も言わなかった。
「あれが子供を殺して生きてるんです。私自身も襲われました。銀に触れないのは正しいようです」
 一つ一つ、あの時に見たことを確認するようにミクリは口にした。けれど吸血鬼がダイゴだったことを話そうとすると、喉に詰まる。そこから先が声になってくれない。
「無理をする必要はありません。いろんなことが起きたのです。しばらく仕事は休むことを伝えておきましたので、ゆっくり休んでください」
「……はい」
 大きな息を吐いた。
「あの、そういえばなぜここに?」
「あの子が前日にフウさんとランさんを訪ねていたようなので、そのことをダイゴ君に相談しようと訪問したところ、倒れているのを見つけたようです」
「あの子……」
「……残念ながら……しかもダイゴ君と連絡がつかないみたいなのです」
「そう、ですか……後で彼らには御礼をしないと。それとダイゴは吸血鬼……にさらわれました」
 それでも本当の事は言えなかった。もうあの時のダイゴではないとわかっていても、心のどこかでミクリにも親友の感情が残ってる。
「それは……」
 アダンが言葉に詰まる。ミクリになんと声をかけていいかわからなそうな顔だった。
「ダイゴを探さないと……」
「その体では、次は命がなくなります。貴方のやることは今は休むこと。いいですね?」
 アダンに強い口調で言われてしまい、ミクリは何も言えなくなる。心配されているのはわかるが、師匠にまで真実を話せない心苦しさが心臓をきりきりと締め付けるようだった。

 ジムリーダーたちにこのことを話し、協力してもらうように要請する手続きをアダンが全て行なった。全てを任せ、ミクリは退院した。
 帰ると心配するメールや留守電がたくさん入っていた。ジムリーダーたちからのものや、トレーナーたちからのものだったりしていた。まだ痛みが残る手でメールを返し、一息ついた。
 家といってもしばらくはアダンの家に世話になることにした。保護というよりは無理して抜け出さないために。それも仕方ないとミクリは万全でない体を寝床に預ける。
「お見舞いにキンセツジムリーダーのテッセンさんから頂きましたよ。夕食にいただきましょう」
 アダンが箱に詰められた美味しそうなキンセツ産の桜肉を見せて来た。入院中、食欲が湧かずあまり食べることができなかった。美味しそうだなと思ったが、ミクリは口に出さなかった。前からそんな好物ではなかったが、質素な病院食の反動だろう。
 
 食卓に呼ばれた。ゆっくりとミクリは歩く。イスに腰掛け、テーブルの上を見た。炊きたてのご飯、小魚の佃煮と刺身や海藻のみそ汁などのルネで獲れた食材中心に、先ほど言われた桜肉が乗っていた。焼いたもの、刺身のもの。調理法が違う桜肉が乗っていた。
「どうしました?」
 アダンに聞かれたが、ミクリも答えようがない。箸を持ち、食事に手を付け始めた。
 小さい時によく食べていた味なのに、なぜか美味しく感じない。佃煮を食べても、懐かしいとか嬉しいとは全く感じなかった。前と味は変わらないと思うけれど、風味が全く感じられないのだ。
 味覚まで弱ってしまったかと桜肉に箸を伸ばす。抜群のレアで焼き上げたものはとても美味だ。ほとんど生に近いけれど火が通っている。少し甘く、ほどよいフルーツの香りがした。
 刺身も果実酒のような香りがした。そういう種類なのか、全く風味を感じなかったのにこれらだけは食が進む。桜肉だけを食べるミクリをアダンはしばらくじっと見ていたが、黙って自身も食べ始めた。
「まだありますよ。出しましょうか」
 一度アダンは席を立つ。桜肉を乗せていた皿がもう空なのだ。普段はゆっくりと食事をするミクリがこんなに早く平らげるのは初めてだった。
 冷蔵庫に向かったアダンが中々帰って来ない。早くあの果実酒のような桜肉を味わいたい。今までダルかった体が嘘のように軽い。それもあの桜肉を食べてからだ。
「どうぞ」
 残りの刺身を全て持って来た。待ちきれないとミクリは箸を伸ばす。
「ところでミクリ、どんな味がしますか?」
「とてもフルーティで、ワインのような味がして……」
 ミクリはアダンを見た。見た事もないような恐ろしい顔をしてアダンが立っていたことに気付いた。
「やはり、そうでしたか。吸血鬼に噛まれた人はまた吸血鬼となる。貴方はもうすでに吸血鬼になっているのですね」
 アダンの手には銀色に光るヤスリに刃をつけたようなものがあった。照明に反射し、冷たい光を放っている。
「師匠、なにを……」
「これ以上吸血鬼を増やすわけにはいきません」
 アダンはそれで刺すつもりだ。言っていることは解らないが、やろうとしていることは解った。席を立ち、逃げなければ殺される。そう感じたが、右足はアダンのトドグラーに押さえられ、左足はナマズンに押さえられている。
「少し痛いかもしれません。でもこれを耐えなければミクリも人を殺します。私にはそれが耐えられません」
 ミクリの横にアダンは立った。そして肩を押さえた。イスに押し付けられ、ミクリにもう逃げ場はない。
「私の弟子を返しなさい!」
 右手に握った金属で、ミクリの心臓めがけて素早く突き刺した。骨の髄まで響く痛みが脈打った。声が出ず、全身をすりつぶされたように痛い。まともな呼吸をしていたのかミクリ自身にも解らない。
 頭の中は真っ白になり、火花が散る。ぱちぱちと耳に聞こえていたかもしれない。その音が次第に風が吹くような音に代わり、視界がはっきりとしてきた。その頃には痛みが全てなくなっていた。
「ミクリ? ミクリ大丈夫ですか?」
 すでに刃は引き抜かれていた。その先端から滴り落ちる赤い血。おそるおそる刺されたところに目をやった。
「……どうして……刺されたのに」
 傷はなかった。あの痛みは夢幻だとは思いにくい。
「ある国に伝わる吸血鬼を人に戻す方法です。観測的希望でしたが、効いてよかった」
 ぽたぽたと床に落ちる血はミクリのものではなかった。ミクリから見えなかったが、その刃の反対には刃があり、アダンの手の中を刺していた。
「それは……?」
「人間の血をこちらに刺し、もう一方で吸血鬼に刺して、人間の血を送り込みます。私も色々調べましてね、この方法があると知ったのです」
 ポケモンたちをボールに戻した。アダンが刃を抜くと、手のひらから血が溢れて来た。
「まさか、師匠そのために……」
「これくらいの傷、貴方を失うことに比べたら軽いものです。さ、まだ食べたりないでしょう」
 今さっき殺されかけたあの気迫はどこへ行ったのか。状況が飲み込めず、ミクリはみそ汁を口に含んだ。昔から遅くなるとごちそうになっていたアダンの料理の味がした。
「ところで、なぜ私が吸血鬼だと」
「様々な文献を漁れば何となく感じるところはありました。そこで生肉やレアステーキといつもの食事を出してみたのです。血をなめてワインのような味がすると言うなら吸血鬼になっている証拠だと。しかし今は違うようですね」
 あれだけ桜肉が美酒のように感じていたのに、別のものを食べているみたいだった。ただの肉の刺身の味しかしない。どちらかといえば、小魚の佃煮がおいしく感じた。
 アダンのシザリガーが救急箱を持って来た。簡単な消毒をして、傷がどこかに触れないように大きな絆創膏を貼った。
「師匠、頼みがあります」
 ミクリは箸を置き、アダンに向き直った。
「それを私にください。いえ貸していただけるだけで結構です」
「ダイゴ君を助けにいくためですね?」
「はい」
「今の貴方には渡すことが出来ません。まだ本調子でない貴方を向かわせて返り討ちにされては困ります。ダイゴ君の捜索は一旦任せ、きたるべきときのために備えなさい」
 正論だ。ミクリは何も言い返せなかった。
 もしかしたらダイゴが元に戻るかもしれない。その希望が生まれた。それだけで今は充分だ。


 ミクリがベッドに押し込まれている時、アダンの持ってきた文献に目を通していた。東の方にある国では唯一、吸血鬼を人間に戻す方法が書かれていたのだ。他の国では倒す方法しか書いていなかったのに。それに目をつけ、アダンはミクリを刺したのだ。
 まず人間の血を銀の刃に浸す。そして吸血鬼の心臓を刺し、人間の血で吸血鬼を浄化する。吸血鬼の時に受けた傷はなくなるので、心臓を刺されても傷にならない。
 早くダイゴを見つけないと新たな犠牲者が出る。でもミクリの体は万全というわけではなかった。もちろん、アダンからは寝てなさいと言われる。少しでも早く復帰できるように、寝ているばかりではなかった。体を慣らすためのトレーニングは欠かさない。
 他のジムリーダーから連絡が来ることがあった。人の行かないような深い山や無人島を探したが見つからないと。そして相変わらず連絡の取れないダイゴを心配する声もあった。ダイゴは生きてる、大丈夫とだけミクリは返した。まだ死んではいない。遠くにも行ってない。そんな気がしてならなかった。


 あれから一ヵ月。音沙汰は全くなかった。新たな被害者も聞かないが、発見されてないだけかもしれない。ミクリも動けるようになり、自宅に戻ることにした。
「ミクリ、これを」
 アダンはヤスリのような銀色の刃をミクリの手に乗せた。
「残酷なことを言うかもしれませんが、ダイゴ君はもう生きてないかもしれません」
「いえ、ダイゴは生きてます。だから私が行きます」
 アダンの家を出た。自宅に戻り、不要なものを全て置いた。休む間もなく、再び出て行く。もしかしたら次こそダイゴに殺されるかもしれない。それでも決着を自分が決着をつけなければいけないような気がした。
 ダイゴが誰にも見つからず、ひっそりと過ごしているならば。もしあの時にまだ親友だと思ってくれていたのなら。ミクリには思い当たる節があった。他にはよらず、まっすぐそこを目指した。


 本当は誰も殺したくなかった。
 最初は生肉を食べ、乾きを癒した。動物の血をなめ、やり過ごしていた。
 次第にそれでは足りなくなり、子供を襲った。初めて異常なほどの乾きが消えていくのを感じた。しかも高級な葡萄酒のような香りに、また食べたいと思った。
 知り合いはたくさんいた。餌となる子供は不足してなかった。もう誰を殺しても何の罪悪感も感じなかった。
 それなのにミクリに見られただけで物凄い罪悪感に襲われた。いつものミクリの目ではなかった。
 もう人を殺したくない。一ヵ月も血を口にしてない代わりに、体はとても重い。本能が血を飲めと言っているけど、このまま飲まなければ死ぬはずだ。それでいい、こんな山奥の滝の上、誰もくるはずがない。誰も……

「……ミクリ」
「……まだ生きてたかダイゴ」
 横たわっていたダイゴはミクリを見て起き上がる。その動作はとても遅鈍だ。
「よくここが解ったね」
「ジムリーダーが総力上げても見つからないところに身を隠してるとしたらここしかないと思った」
 もうほとんど跡形もないけれど、ここは二人が他の人には内緒で作った秘密基地があったところだ。
 遠足気分で菓子を持ち寄った。木の実をとって一日過ごした。叱られた時はここに避難してきたこともあって、お互いに慰め合った。泊まったこともあった。それで両親にとても怒られた。しばらく外出禁止だと言われても聞こえないフリしてここで遊んでいた。ダイゴにとって両親の目の届かない範囲で遊べることが楽しかったし、ミクリは山の中で過ごすことが珍しく楽しかった。
 本格的にポケモントレーナーになると決めてからはほとんど来なくなり、大雨や台風でもう原型はほとんど残っていなかった。けれどここへの道は全く変わらない。
「師匠から人間に戻れる方法を聞いた。私も直してもらった。確実な方法だ」
「……もっと早く知りたかったな。でもね、僕にはもう人間として生きる資格もない。たくさんの人間を殺したんだ」
 ダイゴは手を見せた。銀に触れて火傷したまま、治らない手だ。
「ミクリの血、美味しかったな。桃みたいな味がした」
「何でもいいからそこを動かないようにね」
 ミクリは右の手のひらに刺した。自分の血で銀を浸す。
「どうするの?」
「人間に戻す。人を殺したことはもう取り消せないけどこれ以上ダイゴが人を殺さないためにも」
「……もう全て遅かったんだよ……」
 ミクリは刺さった刃を握った。ダイゴは恐怖するでもなく、ただミクリを見ていた。ミクリの目をじっと見上げていた。これでダイゴの心臓を突き刺せば元に戻るはずだ。とても痛いけれど、このままだったらもっと痛いことになる。ミクリは近づき、ダイゴの肩をつかんだ。
「ごめんね」
 ダイゴが呟いた。その意味をミクリが理解したのは数秒後だった。動きが鈍いと思っていたが、襲いかかるときは俊敏だった。獲物を地面に有利な立場になったダイゴは笑った。
「ミクリなら大きいから少しくらい食べても大丈夫だよね。こんなことなんで気付かなかったんだろう。またミクリの血、食べたいな」
 ダイゴに襲いかかられた時、手から刃は離れてしまった。
 最初からダイゴはこれを狙っていたようだった。親友を心配するミクリの感情まで利用した。ミクリはダイゴのことを信じていたのに、ダイゴはすでにミクリを親友だと思っていなかった。
「僕、いまとても喉が乾いてるんだ。一ヵ月も水とか木の実しか食べてないからさ。この前より多くちょうだい」
 首の動脈を狙い、ゆっくりとダイゴはミクリに重なるように近づいた。大人は子供より解りにくい。ダイゴは口を開けた。
 突如ダイゴの体は動きを止めた。体の中心が焼けるような痛み。ミクリの体の上に落ち、苦しさにほとんど息もできない。ダイゴの心臓には、ミクリが本当にもしものときのために持っていた銀のナイフが刺さっていた。
「み……く……あり……がと……」
 目はうつろで半開きの口からは血を流していた。それでもミクリに笑いかけ、その言葉をささやいた。全てをそれでミクリは悟った。
 人を殺してまで生きていたくない。ダイゴは確かにそう言っていた。これが本音だったのだ。だから治すことよりもミクリの手にかかることを選んだ。ミクリが何の躊躇もなく銀のナイフを胸に突き立てられるように。
「……何が、何がありがとうだ! 誰がダイゴに死んで欲しいなんて言った!」
 起き上がり、ダイゴの顔を見た。手足は力が入らないようだ。ミクリはダイゴを抱えた。少しだけダイゴが微笑んだように見えた。
「お……そかっ……」
「遅くない! 人を殺したのは事実でも、こんな演技してまで死ぬことないだろう!」
 ダイゴの目から光が消えていく。ミクリは強くダイゴを抱きしめて、彼の名前を呼び続けた。


 棺には美しい顔をしたダイゴが眠っている。彼がチャンピオンで活躍したサイユウに咲いている花をたくさん添えてあった。
「火葬場ではお別れの時間がありませんので、ここでお願いします」
 ダイゴの両親は突然のことで、事態がほとんど飲み込めてなかったようだった。ミクリはダイゴの手をかたく握った。以前のように何か言うわけでもなかった。そっと手を放した。
 ダイゴは吸血鬼と相打ちになって死んだ。ミクリは皆にそう話した。誰もがそれを疑わなかった。ジムリーダーたちや四天王たちもダイゴとの別れを悲しんだ。彼は本当に年齢問わず友人が多かった。人望も厚かった。急逝が信じられず、棺の中のダイゴが冗談でやっているのかと言いに来た人もいた。
「ダイゴ……」
 ミクリが最後まで人間だったダイゴを親友として信じていたように、ダイゴもミクリを親友だと思っていた。そうでなければ最期の始末を委ね、笑って礼を言うことはなかっただろう。
 ダイゴの家で噛み付かれる前、少し躊躇していたように感じたのは気のせいではなかったはずだ。銀に触れてひるんだ瞬間、我に返ったような顔をしていたのも気のせいではなかったはずだ。そして何よりも二人の秘密基地があった場所で果てようなど思わなかったはずだ。
 子供の時から積み上げて来た思い出と信頼は何も壊れていなかった。振り返ると、ミクリに気付いてもらいたかった節がある。どこかでミクリならば止められる、止めてくれると信じていたからの行動のように思えた。
「出発します」
 蓋が閉じられた。もうダイゴの顔を直接見ることはなくなるだろう。車に乗せられ、火葬場へと動き出す。参列者もそれに続く人たちはバスに乗った。
「どうしてこうなってしまったんでしょうね」
 座席につくなり、隣のアダンに呟いた。心に抱えたものは、誰にも吐き出すことができなかった。アダンにも本当のことは言えなかった。
「かなり調べましたが、吸血鬼というものは美しいもの、特に宝石に心惹かれるようです。過去に美しい宝石にのめり込み、その美しさを日常でも求めたため、吸血鬼と呼ばれた人がいるとありました。特に赤い宝石、主にルビーを集めていたようです。赤く美しいルビーが血を連想させ、吸血鬼へと変貌するのだと思います。違う人ですが吸血鬼と恐れられたほど恐怖政治を行なった人物も、美しいルビーを大事にしていました」
「ルビー、ですか」
「迷信ですが石には神様がつくようです。しかし宝石には人を惑わす悪魔がついていると言います」
 アダンの話を聞きながら、そういえばシロガネ山に登った時に石を持ち帰ろうとして怒られたことを思い出す。アダンはそれを知っていたからミクリを止めたようだ。
「人を惑わす悪魔に取り憑かれて吸血鬼……」
 ミクリは顔を上げた。
「どうしました?」
「いえ……でもルビーなんてたくさん出回っているのに、今までそんなことなかったなあと思いました」
「ルビーはルビーでも、最上級のルビーを何と呼ぶか知っていますか?」
 ピジョンブラッド。ダイゴとアダンの声が重なったように聞こえた。
「昔はピジョンが宝石を作ると信じられていました。その為に何匹ものピジョンが切り裂かれ、血を抜かれた恨みが、ルビーの赤い理由だと言われています。ピジョンブラッドに心を奪われ、血を求めるようになってしまう。嘘か本当かは解りませんが、一つの説として納得することもあります。問題は、そのピジョンブラッドがどれなのか、ということですね」
 ミクリの心はざわついた。まだ完全に終わってはいない。
 親友の命を奪ったピジョンブラッドはまだダイゴの家にあるはずだ。それを処分しなければまた次の吸血鬼が出て来るだろう。そうなる前に決着をつける。それが親友に対して出来る最後のことだ。
「仇は必ず取る」
 ミクリは誓った。犠牲となった子供たちのためにも。