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22 去る者、残る者 クーウィ


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『スパーン!』と言う乾いた音がして、対戦相手が吹き飛んだ。
 傍から見ていても気持ちが良い程見事に決まった、身を捻り様のバックキック。ミートさせる足先部分に力を集約し、全身のバネをフルに利用したその一撃は、十分加減して放ったにもかかわらず、使用者よりも一回り以上大きな青年の体を、まるで冗談か何かの様に持ち上げて、試合場であるリングの隅へと放り投げる。
『ドシャッ』と言う音を立てて背中から落っこちた道着姿の対戦者に向け、日頃から共に汗を流している稽古仲間達がワラワラと群がって行く中、バランス一つ崩さずに体勢を旧に復していた少女は、きびきびと構えを解いて一歩引き、勝利宣告がなされると共に、目を回している対戦相手と審判役に向けて、丁寧に一礼する。
「勝者、東方(ひがしがた)! 一本勝ち!」 
 審判の凛とした声音がまだ余韻を残す内に、早くも意識を取り戻したらしい対戦相手の青年が、仲間達の呼びかけに反応して呻き声を上げつつ、差し出された手を取ってのっそりと起き上がる。――まだ試合の場に立ったまま、息も乱さず鋭い光を湛えていた少女の瞳が、その光景を目にしたところで、初めて険を収めて柔らかくなった。  


「あーあ……結局何も出来なかったよなぁ」
 道場からの帰り道。先頭を行くがっちりとした体格の青年が、疲れ切った口調でぼやく。
 零しているのは、一行の中でも最年長の空手王・イチロウ。盆入りを前にして行われた先ほどの奉納試合で、ずっと年下の少女を相手に、一撃K.Oを喰らった男だ。本人自体が頑健なのは勿論の事、あの折は蹴った相手の方もしっかり急所を外してくれていた為、あれだけ派手に吹っ飛んだにもかかわらず、こうして歩きながら愚痴れるほどにピンピンしている。
「まぁ仕方ないって兄貴。大体俺達がまともにスモモに打ち込めたのって、それこそ何年前の話だよって……」
『兄貴』と声を掛けたのは、その直ぐ斜め後ろに雁行している、一つ年下の弟のジロウ。自らも情け無い調子で言葉尻を濁し、溜息一つ漏らしたTシャツ姿の彼は、次いで足を止めないままその角刈り頭を後ろに向けて、残り二人の弟達と歩いている、件の少女を振り返る。
 視線を受けた少女の側は、不意に向けられた矛先に戸惑ったらしく、咄嗟には言葉を返せない。その間に、両隣に居た二人の空手王が、それぞれ苦笑しながら相槌を打つ。
「二年前だったかな? 最後に俺が一本取ったのは」
「スモモにゃ敵わないよ。ここ何十年かじゃ、最年少で目録だしな。免許も無事に済んじまったし、もう後はジムリーダーとしても師範代としても、指名をされるのを待つだけってところだし。今じゃ俺達じゃなくてポケモンと練習した方が釣り合うんだから、正直何処まで行くか見当も付かないよ」
 先を歩く両者の弟、サブロウとシロウが口々に述べたところで、漸く彼女は口を開くと、周囲を取り巻く年上の同門生達に反論する。
「そんな事……! 第一、皆さんが色々と教えてくれなかったら、今の私だってありませんよ」
 彼女の性分的に、こうやって持ち上げられるのはあまり好きではない。同じ門下に属し、ずっと一緒に汗を流して来た間柄なのだから、互いに励まし合い切磋琢磨していく仲間として、等分に扱って欲しかった。
 しかし彼らには、彼女のそう言った気持ちが分からない。いや、分からない訳ではなかったのかも知れないが、現実として横たわっている力量の違い――到底及びも付かない程の器の差には、同じ世界に生きる者として、どうしても拘泥せざるを得ないのだ。
 無論、彼らには一欠けらの悪意も無い。けれどもそれ故に、結果として彼女が抱え込む心理的な負担や負い目を見抜く事は、何時まで経っても叶わないままだった。
「そう言われたって、俺達が教えたのって初歩の初歩だしなぁ……」
「教えた技でそのまま畳まれ続けてんじゃ、先輩として立つ瀬も無いよ。何時かは一本入れ返してやろうと思ってたのに、こうも毎日負け続けてちゃ話にならん」
 案の定、前を行く二人は苦笑いを浮かべつつ、肩を竦めて言葉を返す。そのまま行けば、何時もの気まずい雰囲気に傾く所であったが、幸い今日は隣に位置する三男坊が、その流れを断ち切った。
「まぁでも、そう言われりゃ少しは救いになるかもな? 今は盆入りでレイも稽古に出られない訳だし、不足でも俺達が相手を努めないと始まらないしな」
「そうだぜ兄貴。こう言う時こそ俺達が気張らないと、可愛い妹弟子が伸び悩んじまうだろ? それにこの辺で、改めて兄弟子の有難味ってものを理解して貰わないと、俺達本気でスモモのオマケになっちまうぜ!」
 シロウが調子を合わせた所で、漸く年嵩の二人も路線を切り替え、「それもそうだな」とニヤリと笑う。そんな彼らの盛り上がりを受け、彼女は人知れず安堵すると、誰にも気取られぬ様な微かな溜息を一つ、横一文字に絆創膏の張ってある、小さな鼻梁の先から吐き出すのだった。


 午後からの日程に備えて一度家に立ち寄ったスモモは、荷物を置きに行ったその場所で、思いも掛けぬ人物に出会った。
 普段は夜中まで遊び歩いていて、昼間は滅多に家に居ない筈の彼女の父親が、茶の間にのんびりと寝転がって、ポケスロンの試合に見入っていたのだ。
 一瞬珍しい事もあったものだと思ったが、直ぐに今日から盆の期間に入っていた事を思い出す。取りあえず「ただ今」と声を掛けた娘に対し、毎年この時期だけは神妙に(と言っても、別に何か生産的な事をやる訳でもないのだが)自宅警備をこなしている父親は、「ん?」と気の無さそうなリアクションを見せた後、「ああ、お帰り」と適当に言葉を返して、テレビの画面に視線を戻す。そんな父親の態度にも慣れ切っている娘の方は、先程とは違って溜息一つ吐くでもなく、上がり口で素足の泥を拭うと台所に立ち、手早く一人分の夕食を準備し始める。
 先ず食卓の上に散らばっているコンビニ弁当や即席麺の容器を検分し、必要の無い物を分別しつつ片付ける。次に蓋を開けたままの炊飯器に近付くと、カラカラに乾いている釜の内側を丁寧に拭って綺麗にしてから、慎重に分量を測った米を入れて、手早く研いでタイマーをセットした。
 主食の準備が出来ると、続いておかずの作成に取り掛かる。コンビニ弁当の容器に溜まっていた煮汁や、カップラーメンの汁(つゆ)等を上手く利用しつつ、冷蔵庫に入っているものを用いて、簡単に調理していく。即席麺の汁はフライパンの上で半額引きのうどんや野菜類と合わさって焼きうどんとなり、煮しめの出汁は溶き卵に加えられて、出汁巻き卵に姿を変えた。
 焦げ目の付いた卵焼きから香ばしい匂いが漂ってくると、育ち盛りの身の上としては、ついつい一つ摘まんで見たくなる。……しかし残念ながら、彼女自身は食事の回数を、一日一食と決めていた。代わりに鼻から小さく息を吐くと、形が整ったところで火を止め、余熱が中まで通るのを待つ。
 やがて夕飯の支度を整え終わった彼女は、皿に盛ったおかずを冷蔵庫に放り込むと、自らは水の入ったペットボトルだけを下げて、再び外に出るべく玄関に向かう。途中でバラエティ番組を堪能しつつ団扇を使う父親に夕食のありかを伝えると、彼はその時だけはこちらを振り向き、嬉しそうに礼を言って来た。
「お、有難う。何時も済まんなぁ」
 ……これである。普段からずっとぶらぶらしているだけで、家計にも娘にも負担ばかり掛けているにも拘らず、こうやって笑顔で礼を言われてしまうと、当の彼女としては、何も言えなくなってしまうのだ。一応曲がりなりにも、彼女が一人で周りの事をやれるようになるまでは、男手一つで家庭を切り盛りしていた事もあり、彼女は今一つ、父親に対しては締まりが利かない。
 取りあえず外に出る事を告げ、ひょっとすると帰りは遅くなるかもしれないと続けると、父親は「そうか」とだけ答えて、それ以上詮索しようとはしない。しかし、いざ会話を切り上げて出発しようとした所で、もう一度彼女は父親に呼び止められて、今度は思い出したと言う感じの口調で質問を受ける。
「そう言えば、お前これから稽古に行くんだろ? 盆の間は外に出しちゃいけないポケモンもいるが覚えてるかい?」
「分かってる。レイはちゃんとボールに入れて、部屋で留守番して貰ってるから大丈夫。連れていくのはコウだけだよ」
「それなら良いけど……でも、それだとあんまり遠くに行かない方がいいぞ。野生のポケモンに襲われたりした時、手持ちが一匹だと心細いからな」
「心配ないよ。お父さんが思ってるほどに、この辺りには気の荒い野生ポケモンは居ないし。それより、ひょっとしたら野宿する事になって今夜中には帰って来れないかも知れないから、その場合は明日の朝は自分でご飯炊いてね? インスタントの味噌汁なら、食卓の上にある筈だから」
 話題が自炊に及んだ途端反応が鈍くなり、生返事を返したのみの父親の変化に内心苦笑しつつ、彼女は改めて出立を告げると、真夏の空の下へと踏み出した。

 家を出た彼女が真っ先に向かったのは、近所に住んでいる、知り合いのトラック運転手の所であった。暑熱の道中はセミの声が喧しく、お盆休みの真っ最中だと言うのに道行く人の姿も疎らだったが、焼けたアスファルトの上を素足で踏み締める彼女自身は、照り付ける直射日光も陽炎に揺らぐコンクリートジャングルも眼中に無いといった調子で、悠々と足を運んでいく。
 やがて目的の家まで辿り着くと、件のトラッカーは既に出発準備を整えており、敷地内に停めている大型自動車の陰で、汗を拭き拭きサイコソーダを呷っていた。堪えられないと言わんばかりの表情で大きく息を吐き、「くあ〜っ!」と雄叫びを上げる髭男を驚かせぬよう、彼女はゆっくりと歩み寄ると、タイミングを見計らって声を掛ける。
「遅くなって済みません」と挨拶した彼女に対し、トバリ百貨店への荷降ろしを主な生業としているタンクトップの運転手は、「お、来たか!」と応じた後、ビンに残っていたサイダーを空けてから、「じゃ、早速行くか」と言葉を返す。「お願いします!」と元気良く答えた彼女は、窓を全開に開け放った大型トラックにひょいと乗り込む壮年の男に合わせ、自らも助手席のドアを開いて、身軽に座席の中に納まった。
 日差しで存分に焼かれた車内は蒸し暑い事この上なかったが、動き出した車が郊外へと続く直線道路に入ってスピードを上げると、流れ込む風が熱気を押し流して、幾分かは楽になる。首に巻いたタオルで顔を拭う運転手の隣で、彼女もまた額に浮いた汗の玉を指で払うと、窓から軽く身を乗り出し、吹きつける風に身を晒す。顔や腕に感じる風圧が、心地良い感触と共に体に溜まった熱を奪い、新たな活力を与えてくれた。
「そういや今日は、確かトバリジムで奉納試合があったんだろ? ……で、どうだったんだ? 勝ったかい?」
「あ……はい。お陰様で、無事にポケモン達共々勝ち抜く事が出来ました! 有難う御座います」
「お! やったじゃないか。流石次期ジムリーダー候補は違うなぁ。ポケモンの腕も確かだし、俺にもそれ位やれる才能がありゃ面白かったんだが」
 郊外に差し掛かって単調な路程を残すのみになると、何時もの如く世間話が始まる。自らも故郷のジムに通っていた事があると言う運転手は、軽い気持ちで隣に座っている少女の才を褒め称えるが、それを聞いた相手が微かに肩を落としたのには、全く気が付かない様子であった。

 トラックの行き先はノモセシティだったが、彼女の目的地はその途上にあった。
 トバリの南に伸びる、214番道路。著名な観光地でもあるリッシ湖周辺へと続くその末端で、彼女はトラックを止めて貰うと、周囲に人影も施設も一切見当たらない、殺風景な道路脇へと飛び降りる。
「今日は帰りはどうする?」 
 そう聞いてくれる相手に対し、彼女は礼を言うと同時に首を振って、丁重に迎えの便を断る。偶々トバリの町中で立ち往生している所に行き会い、荷物の積み替えを手伝った時以来の付き合いであるこの人物は、ただの便乗者に過ぎない彼女に対しても、折に触れて便宜を図ってくれる、良心的な人柄の持ち主だった。
「いえ、今日は構いません。何時も有難う御座います!」
「そうか。まぁでも、必要なら気軽に公衆電話ででも呼び出して貰って構わんからな? ここからトバリまでは結構あるし、幾ら修行だからって無理は禁物だぞ」
 諭すようにそう言った彼は、一度は助手席側に伸ばしていた首を引っ込めたものの、次いで何かを思い出したように、再び車外に向けて身を乗り出す。
「そう言えば、今日はあの細っこいのは連れて来てないのかい? ……なんか、モンスターボールが何時もより少ないみたいだが」
「あ、はい。レイは、今日はうちで留守番しています。お盆に入りましたので」
「ああ、そうだったなぁ。そう言えば、今日から八月だったか。うっかりしてたよ。確かこの辺りは、盆の期間は犬のポケモンは駄目だったな」
「はい。……レイはリオルですから、残念ですが半月ぐらいは外に出してあげられないんです」
「そいつは可哀想に。俺は元々キッサキの出だから、この辺りの風習や謂れにはちょっと疎いんだが……何で犬のポケモンは盆の期間は外に出せないんだろうな?」
 彼女の答えに、日焼けした壮年の男は首を捻る。リオルのレイは彼女が道場に於いて免許取りとなった時、その証として受け取ったポケモンだが、残念ながら彼女自身も、今では最良のパートナーとなっている彼を置いて行かねばならない理由については、詳しい知識がなかった。
 自分も良くは知らないのだと答えると、トラック運転手は「そうか」と頷き、次いで肩を竦めて苦笑すると、最後に自らの見解を簡単に披露してから、車内に身を引っ込めて発進する。
「まぁ、何処にでもタブーはあるもんさ。俺の故郷でも、町の外れにはでっかい神殿があって、そこには四六時中キッサキジムから派遣されて来た巫女さん達が、難しい顔して張り番してたもんだよ。俺も昔はよく隙を突いて中を覗こうとしては、彼女達の手持ちに雪達磨にされたもんだ」
 一頻り笑い声を響かせて、上機嫌で仕事に戻って行く車上の男に向け軽く頭を下げた後、少女はゆっくりと踵を返して、道路脇の森の中に続く、草深い小道に分け入っていった。

 トバリとノモセの間には、大小二つの湖がある。一つは周辺住民は愚か他の地方の人間にすら広く知れ渡っているが、もう一つの湖は様々な謂れもあって、普通は一般人の目に触れる事も無いし、話題に上る事も無い。
 良く知られた存在とは、言うまでもなくリッシ湖である。意志の神・『アグノム』が住んでいるとされるこの湖は、古くから信仰の対象とされると同時に景勝地としても有名で、此処十数年の間に様々な施設が整備され、シンオウでも有数の観光地となっていた。
 そしてもう一方の湖と言うのが、今彼女が向かっている場所――通称『送りの泉』である。年中深い霧が立ち込めて視界が悪く、昼尚暗い森の奥深くに位置する其処は、遥か昔から『死』にまつわる神話や言い伝えが無数に纏わり付いており、好んで近付こうとする人間はほぼ皆無であった。
 湖は大きな山の噴火口に位置するいわゆるカルデラと呼ばれるタイプで、例え険しい山の斜面を登り切っても、濃霧に遮られて湖面は全く見えない。更にその霧を掻き分け進んで行くと、火口の内側には洞窟が口を開けており、『戻りの洞窟』と呼ばれているそこには、死者の世界に繋がっていると言う気味の悪い伝承が、長らく語り継がれて来ていた。
 そんな逸話を裏付けるかのように、付近にはその環境もあってかゴーストポケモンがよく姿を見せ、慣れない旅のトレーナーが不用意に足を踏み入れれば、そのまま道に迷う事も珍しくない。また、その捜索に動員されたポケモンレンジャーや警察官が、見た事も無いような生き物の影を確かに見たと報告した事も幾度かあり、その証言を下に専門家による調査団が派遣された事もあったが、二三のゴーストタイプや限定種を発見出来たのみで、生息している種自体は非常に平凡なものであると言う結論に至っている。
 ――ただでさえ人里離れた、敬遠されがちな深い森。人目を避けて鍛錬を積むには、持って来いの場所である。

 薄暗い森の中は、何時も通りひんやりと涼しく、湿っぽかった。
 正午過ぎの直射日光が盛んに猛威を振るい、陽炎を放ちつつ焼け爛れている自動車道とは違い、木々の葉が幾重にも重なり合って日の光を遮る森中の小道は、常日頃から素足で歩く彼女にも、とても優しい。また、奥に行くに連れて濃くなっていく霧は、外部からの温度変化を大幅に和らげると同時に、蚊や虻と言った吸血昆虫の活動を抑制する為、夏季冬季共に比較的過ごし易く、常に軽装で行動する彼女にとっては、願ってもない修行場であった。
 彼女がまだ小学生にもなっていなかった頃、道場に入門して初めて受けた教えが、『他人に見られていない所で鍛錬せよ』と言うものだった。それを口にした年配の先達は、慣れぬ姿勢で座らされ、懸命に足の痛みを堪えている幼い彼女に対し、次のように語った。
「強くなりたければ、誰も見ていない所に隠れて、一生懸命稽古しなさい。他人が見ている場所での努力だけでは駄目だ。どんなに強い人でも、稽古無しには絶対に強くはなれない。才能を生かすものは努力だけだよ」
 動乱の時代を生き抜き、それによって大勢の朋友が失われた事を嘆きながらも、古木の様に揺ぎ無く。腕自慢の若い門人が四人がかりで掛かっても苦も無く制し切り、ポケモントレーナーとしても出色の実力者だったその人物は、生真面目に耳を傾けている彼女に対し、こうも言う。後に彼女の才能を一番に見抜き、終始アドバイスし続けてくれた老人は、「これはポケモンについても言える事だが」と前置きし、ことあるごとに繰り返す事となるその言葉を、幼い少女に言って聞かせた。
「最近の若者は技の心得さえあれば稽古も鍛錬も必要ないと思っているらしいが、断じてそんな事は無い。普段から人目に付かない所で黙々と鍛錬を積み重ねていてこそ技も生きるし、また自然と身に付いていくものだ。基礎鍛錬無しには、どんな天才だろうとも所詮は猿真似以上の事は出来ないし、成長もしない。例えその技自体が全く力を使わないものであったとしても、ただの型をそれ以上のものにする為には、相応の覚悟と地力が必要なのだ」
 話して聞かせてくれた当の本人はそれから数年で他界してしまったが、彼の教えはしっかりと彼女の中に根を据え、その才能を誇らかに開花させる、最良の原動力となっていた。

 ただ、この森には何度も来ているとは言え、やはり視界の悪さから来る方向感覚の乱れだけには、注意して置かねばならなかった。自分の位置を見失わない為にも、彼女は途中の曲がり角の数を慎重に数えつつ、目印になるようなものの目星を付けて、ゆっくりと足を運ぶ。
 時折途中に転がっている、出所すらはっきりしない古いごみやガラクタ、特徴的な立ち木や根っこの形などに注意を払い、奥へ奥へ。普段ならリオルのレイが一緒である為、態々このような事に気を使わなくとも道に迷う心配は全く無いのだが、彼が外に出られない盆の間は、何とか自分で気を付けて置くしか方法は無さそうだった。
 やがて十分に距離を稼ぎ、人が分け入って来る可能性がほぼゼロに等しい辺りに差し掛かった所で、彼女はゆっくりと歩みを止めて腰に付けたボールを手に取ると、軽く呼吸を整えてから、開閉スイッチを操作する。
 ボールの中から姿を現したワンリキーに向けて元気良く声を掛けると、彼女は早速きんにくポケモンと共に、立ち込める霧をものともせず、激しいトレーニングを開始した。

 そしてそれから、数時間も経った頃――持って来ていたペットボトルの中身が空になったところで、漸く彼女は稽古を切り上げ、ワンリキーと共に帰途に着いていた。
 夢中になって汗を流している内に、どうやら少々長居をし過ぎてしまったらしい。何時しか周囲は薄暗くなり始めており、元より視界の悪い森の中の小道は、立ち込める霧と迫り来る闇によって、最早十歩先の様子ですら見通せない有様である。
「うーん……やっぱり、今日中には帰れそうも無いなぁ」
 真新しい擦り傷が付いた肩を落とし、彼女はポツリとそう呟く。傍らを歩くワンリキーのコウが、溜息交じりの主人に向けて慰めるように鳴くも、常日頃行動を共にしている同輩と違って特別な感覚や能力に恵まれている訳でも無い彼では、残念ながら現状に対する打開策にはなれそうも無い。
 来る時記憶に刻み込んでいた筈の目印も、殆ど役には立たず。やがて完全に方向を見失ってしまったところで、不意に彼女は夜の気配が漂い始めた森の中に、奇妙な違和感を感じて立ち止まった。次いでゆっくりと気配を探り、それとなく身構えようとしたところで、足元に何者かの影を見たような気がして、ハッと振り返る。

 其処に居たのは、彼女の想像していた相手とは大きくかけ離れたものであった。当初彼女が疑っていたのは、無論野生ポケモンの襲撃である。
 今の時刻は黄昏時。古くは『逢魔ヶ刻』と呼び習わされたこの時間帯は、昔からゴーストポケモンによる被害が最も多い刻限だった。ゴーストポケモンの生息地として知られているこの森で、よりにもよってこの時間帯――その襲撃を疑うのは、ポケモントレーナーならずとも当然の反応であっただろう。
 しかし、彼女の予想は見事に外れた。振り向いた先に佇んでいたのは、存在不確かなガス体のポケモンとは、似ても似つかぬ存在。二本の足でしっかりと佇立している、一人の青年であった。
「今晩は。……珍しいな。こんな時間に他の人と出会うなんて久し振りだよ」
 呆気に取られて固まっている彼女に対し、青年は興味深げな感情を言外に込めつつ話し掛けて来る。服装は着古されたと見えるシャツに、質素ながら丈夫そうな枯れ草色の長ズボン。日に焼けた精悍な風貌ながらも、口元を微かに綻ばせているその表情は、黄昏時の深い霧の中でさえ、一種独特の安心感を伴わせる何かがあった。
 声を掛けられて漸く我に帰った彼女は、慌てて自らも言葉を返しつつ、目の前に立っている人物に向けて頭を下げた。
「あっ……こ、今晩は。……済みません。ついビックリしちゃって。確かに私も、ここで他の人に出会ったのは初めてです」
「だろうね。僕もこの季節ぐらいにしか顔は出さないんだけど、こうして誰かに出会った事なんて、それこそ数えるぐらいしか無いよ」
 思わずしどろもどろになりかけた彼女の様子を、別段に気にする風も無く。軽い苦笑を浮かべた青年は、頷きながら相槌を打った後、次いで目の前に立っている年下の少女に向けて、穏やかな口調で質問する。
「ところで今時分、こんな辺鄙な所で何をしてるんだい? 見たところ、当てがあって歩いている訳じゃなさそうだけど」
「……はい。実は暗くなって来たせいで、道が分からなくなってたんです。214番道路の方に向かおうとしていたのですが、霧も深くて……」
 隠しても仕方が無いと判断した彼女は、質問を受けると正直に、道に迷っている事を打ち明けた。
 すると青年の方は、すぐさま「それなら」と応じると、自ら案内役を買って出るや、そのまま先に立って歩き始めた。相手方の返答も待たずに踵を返した青年の背中を、慌てて追いかける彼女とワンリキーを尻目に、突然現れたその人物は、まるでこの闇の中でも全く支障が無いかのように、スタスタと足早に歩を進めていく。

 やがて幾度か道を折れ、木の根や枯れ枝を避けて歩き続けた後。ふと気が付いてみれば、何時の間にか周囲に生い茂っていた木々も疎らになっており、彼女達一行は無事に森の出口まで、辿り着く事が出来ていた。
「ここまで来れば、後は真っ直ぐ行けば道に出られる」
 道の脇によけて振り向き、静かにそう告げる青年に対し、彼女は精一杯の感謝を込めて、深々と頭を下げる。何か返礼をせねばと気は急くも、生憎何の持ち合わせも無い身の上では、如何ともし難かった。
 すると彼は――そんな彼女の思いを知ってか知らずか――唐突に、思いも寄らぬ事を口にする。次の言葉を捜して悩む目の前の少女に対し、彼は無造作にこう看破した。
「君、何か武道の心得があるみたいだね。良ければ、また此処に来て貰えないかな? 僕も些か腕に覚えがあるから、どんなものか興味があるんだよ」
 この言葉が、それからの両者の関係を決定付ける、直接の原因となったのだった。


 彼らが初めて立ち合ったのは、別れてからまだ丸一日も経っていない、翌日の八つ時の事である。
 結局これと言った礼物を思いつく事が出来なかった彼女は、取りあえず幾つかの木の実を手土産に、再びこの森を訪れたのであるが――首尾良く再会した相手は、御礼だと言って手渡そうとする食べ頃のそれには目もくれず、「早速一つ手合わせして見たい」と、彼女を森の奥へと誘っていく。
 昨日と同じく、例によって何時の間にか傍らに現れた恩人の挙動に、些か戸惑い気味ながらも付き添っていった彼女は、やがて今まで分け入った事もないほどの森の奥に於いて、不意に視界が開けた事に驚いた。そこでは、突如として生い茂っていた樹木の海が切れており、更にその先には、丈の低い熊笹に覆われた、急な斜面が続いている。
「うわぁ……」
「此処が、送りの泉だよ。この辺は霧は深いけれど、広いから動き回るには持って来いだ」
 思わず息を呑み、感嘆の声を上げる彼女に向けて簡潔に説明を終えた青年は、続いて「じゃあ、早速始めようか」と言葉を添えると、慌てて向き直る彼女に対し、無造作に構えを作る。
 体勢を半身にとって動きを止めた青年の、まるで猛禽の様に鋭い眼差し。それを向けられる事によって、本能的に心の揺らぎを制される事となった彼女は、直ぐに表情を引き締めて正対した後、次いで自らも臨戦態勢に入るべく、下腹に力を込めて握り拳を固めると、思いっきり体を伸ばして気合を入れた。
 腰を落として両足を踏ん張り、両腕を腰の辺りまで振り下ろして高めた戦意を全身に行き渡らせると、彼女の双眸に宿る光も、相対する相手を打ち貫くような、針の如き険しさを帯びる。じっと構えを固めたまま対戦相手を睨(ね)め付けている内、全身に蓄えられた力は弾けんばかりに膨張し、目の前に佇む人影を、粉々に打ち砕ける様な意識が沸き立って来た。
 其処に及んで、ずっと動かずに佇立していた目の前の対戦相手の体が、不意に沈み込む様に前に滑った。彼女の気が満ちて来るのを態々見計らい、敢えて真正面から仕掛けて来た対戦相手のその傲岸に対し、彼女は闘争本能の赴くままに、万全の体勢で技を繰り出す。
 地を砕く勢いで軸足を踏み出し、裂帛の気合と共に繰り出されたのは、十八番としている後ろ蹴り。切れ味鋭いその一撃を受けられる者は、例え年長の大人達を合わせたとしても、同じ門下に三人といない。
 しかし、存分に踏み込んだにも拘らず――彼女の足先は全く手応えを掴む事無く、何も存在していない空間に、鮮やかに閃いただけであった。渾身の一撃をすかされ、信じられない思いで目を見張る彼女の視線の先には、鳩尾に届く寸前で止められた対戦相手の正拳が、まるで凍り付いたように動きを止めて、音も無く静止している。
「思ったとおりだ。君、今まで見てきた人の中では、一番才能があると思うよ」
 ゆっくりと突き付けていた拳を収め、息も乱さず語り掛けてくる青年に対し、彼女は目礼を送る事すら忘れたまま、生まれて初めて心の底から、得体の知れない畏怖を覚えていた。

 間合いの内に入った相手を、外した事は一度も無い。幼い頃ならともかく、最近は避けられる事は愚か、反応される事すら稀となっている自慢の一撃を苦も無く制されたのは、彼女の経験上、未だ嘗て無かった事だった。
 反応されたとしても、それは間合いが遠かった時の話。しかも、例え相手が防御の態勢に入ったとしても、何時も彼女はその俄かで半端な守備を打ち破って、対戦相手に有効な一撃を与え続けて来ていたのだ。十分に引き付けた末に放った一撃を見切られるなど、まさに幼少期以来の体験である。
 ところがしかし、この新たに知己となった若者には、彼女が長年磨き続けてきた技前のほどが、全く通用しなかった。それから毎日顔を合わせ、その度に幾度と無く試合を重ねていく内に、彼はあの初顔合わせの試合が決してまぐれなどではなかった事を、存分に証明して見せる。
 どんな間合いからどんな形で仕掛けても、彼女の技は何時だって、相手の体に届かなかった。青年は彼女のあらゆる攻めを尽く無為に帰し、常に寸止めの一撃を持って、試合の行方に決着を付ける。……そもそも相手に向けて繰り出した技を寸前で止める事自体が、相当の技量差を伴わなければ叶わない事だった。
「良い勘はしてるのだけれど、まだ間積りがしっかりと磨き切れてないね。だから、最後の最後で踏み込みが甘くなってるんだよ」
 青年はそう言って慰めてくれるが、何をやっても全く通用しない相手と相対すると言うのは、ずっと格闘技一筋に打ち込んできた彼女にとって、並大抵の事ではなかった。寧ろ、なまじその実力差が把握出来る分だけ、心の負担は大きかったと言っても良いだろう。
 青年は更に、自らの心得ているものを全く包み隠そうとせず、苦心している彼女に対して丁寧に、手取り足取り教示してくれたが、それでも両者の実力の溝は、数日ぐらいではなかなか埋まらなかった。遂には互いに構えをとって対峙すると、相手のプレッシャーによって萎縮させられてしまう始末である。

 けれども一方で、彼女は毎日散々に実力の違いを見せ付けられながらも、今ぶつかっている分厚く高い壁の存在を、心の何処かで喜んでいた。突然露わとなった自らの実力不足に苦悩し、親切に教えてくれる相手の好意に応えられない己自身を恥じながらも、間違いなくこれまでの人生の中で最悪のその挫折を、意識の奥底で愛していた。
 天才の呼び声高かった彼女にとって、これまで対戦相手とは全て、吹けば自ずから崩れ去る、砂礫の彫像に過ぎなかった。彼らは何れも彼女と手合わせするや、簡単に持ち前の自尊心を放棄して、相対している土俵の上から飛び降りてしまう。彼らは口々に彼女の才や器を誉めそやし、その実力に一目置いてくれるが、彼女が本当に願っている事に気付く者は、残念ながら皆無であった。
 彼女は何時も、『天才児』と言う名の御立ち台の上で独りっきりであった。同じ場所に立って接してくれる相手は一人も居らず、周囲の人間は彼女を目標どころか嫉妬の対象にすらせず、まるで珍しい生き物を見て喜ぶかのように、賞賛の言葉を投げ掛け続ける。……其処には確かに好意はあったが、親身になって悩みを共有してくれたり、互いに切磋琢磨して励み合える様な、温か味や親密さに欠けていた。
 元々彼女の実力にしても、才能だけで育ったのではない。常に人に隠れて、地道な努力で精魂をすり減らし続けて来たからこそ、年上の相手を圧倒出来るような、確かな地力が身に付いているのである。そんな事情を知らない周囲は、ますます加速的に力を付けて行く彼女に対しいよいよ以って隔意を強め、一方の彼女は打ち明けようにも、その鍛錬の性質からそれは叶わず、結局抱いた空虚な思いをトレーニングにぶつけると言う、悪循環に陥っていた。

 ところが今回抱く事となったこの『無力感』と言う挫折は、結果的に彼女に対し、ずっと続いていた空虚な孤独感からの、確かな解放を齎してくれたのだった。
 自分より圧倒的に優れている相手の存在と、それを目標に出来ると言う事実の明確さ。まだ至っていない段階についての教示を受けられる充足感と、自らの力量の変化が手に取るように分かる、その充実感。当初は新鮮な驚きに満ちていたその感覚が、徐々に当たり前の存在となって行くまで、そう長くは掛からなかった。
 やがて少しずつ相手の動きや論理が理解出来てくると、到底手の届かない曖昧な存在であるかのように思えたその姿が、今度は急速にはっきりした形を伴って、伸ばした手の先に向け近付き始める。連日家に帰る間も惜しんで稽古をつけて貰っていた彼女は、気付けば寝ても覚めても相手の一挙手一動を反芻し、知らず知らずの内に、それを打ち破る為の方策を考えられるようになっていた。


 そんなある日――既に知り合ってから、十日目が過ぎようとしていた頃――彼女は一通り組み手を終わった所で、不意に抗いようもないほどの激しい疲労感に襲われて、思わずよろけて膝を突いた。
 突然の事に、何時も傍らで両者の試合を見守っているワンリキーのコウは飛び上がり、稽古相手である青年の方も、心配そうな口調で彼女に休息を促す。疲労の原因が、新たに日課として加えた家でのフィジカルトレーニングと、一日一回と言う食事制限のせいだと明確に悟っていた彼女は、彼の勧めに素直に従い、近場にあると言う木の洞に向かって、ゆっくりと移動し始める。
 コウが付き添ってくれるものの、身長がせいぜい80cm程度のワンリキーでは、彼女に肩を貸すには丈が足りない。ならばと彼女を抱え上げようとしたワンリキーだったが、これには主人自身が首を振った。
 そうして更によろけつつ、主従が歩いていく内。不意に行く手に何かが割り込んで来たと見るや、次いで慌てて止まろうとする彼女の反応を尻目に、その細い体を担ぎ上げるように持ち上げて、地面の上から軽々と掻っ攫ってしまった。咄嗟に身を離したワンリキーの目に映ったのは、自分の主人を背中に背負い込んだ、がっしりとした人物の影。うろたえて声を上げる背中の少女にも頓着せず、青年は見上げるワンリキーに目で促すと、先に立って歩き始める。
 おぶわれた当の彼女は、尚も束の間居心地悪げに視線を彷徨わせていたが、やがて青年の方に聞く耳はなさそうだと諦めが付くと、小さな溜息と共に身じろぎを止めた。……身を預けた相手の筋骨の発達した背中からは、絶えず振動と息遣いとが伝わって来て、不思議な安心感と幾許かの戸惑いとを、綿の様に疲れ切った彼女の脳裏に呼び覚ます。
 目的地に辿り着くと、彼は背負っていた相手をそっと木の根元に下ろし、ゆっくり休むよう言い添えて去ってゆく。一方彼女の方はと言うと、青年に礼を述べるまでは意識がしっかりしていたものの、そこから唐突に強い睡魔に襲われて、相手の背中を見送って直ぐ、まるで何かに誘われる様に、深い眠りの底へと沈んでいった。

 音も無く呑まれた暗がりの中で、自覚したのは何時だったのか……? 綿の様に疲れていたにも拘わらず、程無く彼女は自分の意識が遊離して、あのあやふやで境目のはっきりしない、夢の世界へと迷い込んでしまったのを感じていた。
 時間を引き延ばして体感している様な、長い彷徨と感情の起伏とを繰り返した後。ふと気が付くと、彼女は狭くて暗い穴倉の様な場所で、息を殺して立ち竦んでいた。何処からともなく湧き起こり、突き上げて来る強烈な焦燥感に戸惑いながらも、慎重に周囲に広がる闇を透かし見る内。彼女はその空間に、もう一人別の人間がいるのに気付く。
 特殊な技術や知識も持たないままに土を掘り、急ごしらえに作り上げられたと見える横穴の中で、その人物は胸に何かを掻き抱き、土壁に自分の背中を預けたまま、身じろぎもせず蹲っていた。暗がりの向こうにいる相手の表情は読み取れなかったが、どうやらまだ若い男が小柄なポケモンを抱えているので間違いなさそうだった。
 と、その時不意に目の前の光景がぼやけ始め、同時に驚くほど鮮明な危機感が、怖気となって彼女の背筋を震わせた。覚醒を間近に控え、急速に狭まりゆく視界の内で、視線をポケモンに向けていた男がハッと顔を上げ、膝の上のポケモンが真っ黒な耳と尻尾を欹てて、入口と思しき方角に向けて唸り出す。
 最後に彼女が認識したものは、次の瞬間全てを包みこんだ紅蓮の炎と、その渦中に向けて放たれた、自分自身の絶叫だった。

 空を掴む様にして、汗びっしょりで目を覚ました時。一瞬彼女は自分が何処にいるのか理解出来ず、荒い息を吐きながら、周囲に視線を巡らせた。
 目の内に入って来たのは、長い年月を掛けて黒ずんだ木肌の天井と、その先に覗く淡い夕暮れ。ぐるりと一通り見渡して行く内、不意に視界の隅に何か動くものが映り込んだ気がしたが、それは瞬き一つする間に、影すら残さず消え失せていた。
 先程まで見ていた夢のせいか頭の中は依然重苦しく、鼻の絆創膏は寝汗で剥がれ、深呼吸の合間に指先をやった目元付近には、涙の滴の名残がある。悪夢の残滓は他にもそこかしこに見受けられたが、肝心のその内容については模糊として思い出せず、最後のあのシーンを除けば全く不鮮明なままだった。
 やがて彼女は適当に己の思索に見切りをつける事にすると、狭い洞の中から外へ出た。すると、まるで彼女が目を覚ますのが分かっていたかの様なタイミングで、此処まで運んで来てくれた当の本人が、ワンリキーを引き連れ姿を現す。
 彼女が目を覚ますまではコウに腕前の程を見せて貰っていたと言う青年は、改めて礼を言おうとしていた彼女の機先を制し、気にしないよう手で合図して見せると共に、目の前のきんにくポケモンについて、よく鍛えられていると称賛する。
「まだまだ成長途上なのに、既にそこいらで見られるような力量じゃない。動きも実にのびのびとしていて、心の底から君の事を信頼しているのが分かったよ」
 そう感想を述べた彼は、続いてそのまま、彼女の手持ちについても質問して来る。この子がパートナーなのかと尋ねる相手に対し、彼女はそうだと頷きつつも、更にもう一匹自宅に置いて来ているポケモンがいる事を打ち明けた。リオルのレイに話が及ぶと、相手はどうやらそれを予期していたらしく、『やっぱり』と言う風に笑って見せる。
 出来れば連れて来たいのだが、今は訳あって外に出せないのだと説明すると、青年の方はどうやらそれも心得ているらしく、「盆の内は無理だろうね」と相槌を打った。
「一度会って見たいものだけど、僕もそろそろ此処を離れる時期が近付いて来てるからね。盆の終りには帰らないといけないし、残念だけど顔を合わせられるのは後五日くらいのものだと思う」
 唐突に伝えられる事となったそれは、嘗て出会った時と同じく余りにも唐突な、別れの兆しを告げるものであった。

 青年から残りの日数を告げられた翌日。彼女は日課としている朝のトレーニングもそこそこに切り上げ、既に疎らとなり始めた蝉の声も耳に入らないままに、ただぼんやりと庭に座り込んで、空を眺めていた。
 まだ明けて間もない蒼穹はあくまで澄んでおり、日差しも数週間前のそれとは打って変わって、涼やかな朝風を圧倒する程の勢いはない。雨の気配も全くなく、何時もなら深呼吸一つでスイッチが切り替わる事間違いなしの上天気だったのに、自身でも不思議なぐらい気持ちが落ち込んでいて、何も手に付かない有り様だった。
 やがて此方は一年の内でも今だけは生活リズムが改まっている世帯主が、大きな欠伸と共に顔を覗かせた時。漸く彼女は我に返ると、寝惚け眼で肩を回している父親に向け、「お早う」と声を掛ける。と同時に、ふと何気なく浮かんで来た年来の疑問を、一つこの機会にぶつけて見る事にした。
「ねぇお父さん。どうしてこの辺では、お盆の時期に犬のポケモンが外に出せないの?」
「ん……? ああ、そう言えば、お前には話した事なかったっけ? このトバリには、昔からそういう言い伝えがあるんだよ」
 再び家の中に引っ込み掛けていた父親は、不意の質問を受けて思い直したように腰を下ろすと、次いで彼女に向け、「お前も剣を持った男の昔話は聞いた事あるだろ?」と問いかけて来る。
 無論、彼女は即座に肯定する。凡そトバリジムに籍を置く人間なら、入門当初に必ず聞かされる事になるこの物語を、知らない筈はないのである。
 すると彼は、「あれにはもう一つ後日談があるんだよ」と前置きし、自らの話に耳を傾ける娘に対し、事の起こりを説明し始めた。

 その昔、まだ人とポケモンが同じ言葉で意思表示が出来ていた頃。この地に住んでいた人々は、戻りの洞窟から彷徨い出てくる亡霊に悩まされていた。彼らはこの世に未練を残して死んだ者達の魂で、村に住んでいる人間達に様々な災厄を振りまいたり、時にはあちらの側に連れて行こうとしたりした為、人々はほとほと困り果てていた。
 そこで村人達は、ある決断をした。村一番の勇者だった若者が旅立ち、ずっと遠くの森に住んでいる獣人達に自分達の境遇を訴え、助力を請うたのだ。彼ら蒼き狗人の眷属達は、このシンオウの地で最も敏い生き物として知られており、またその実力の程も、四方に聞こえ渡っていた。
 若者の雄弁と誠意、そしてその苦悩と切実な願いに心打たれた狗人の族長は、嘗て彼らが犯した過ちを許し、一族からえり抜きの勇士達をすぐって、彼らの村に送る事を承諾する。若者と共に村に入った獣人達は、その持ち前の能力で亡者の存在を敏感に察知し、鍛え抜かれた力量で彼らを下して村を守った為、以降このトバリの村は、死者の魂によって悩まされる事は無くなった。ただ、年に一度地獄の釜の蓋が開くと言われ、祖霊を迎える事となる盆の間は、先祖に失礼の無い様彼ら狗族も地に伏して、休息を取る事となったのである。
 後に若者が村の長になると、今まで客人として篤く遇されていた獣人達は、正式に村の守人として、この地に根を下ろす事を選ぶ。以後、この村の長は代々彼ら狗人達の子孫と共に暮らす事となり、互いの言葉が通じなくなって、両者の立場が隣人から主従の関係へと移り変わっていった後も、その仕来たりは長く絶える事は無かった。
 やがて更に時が流れ、本土からの流入人口が激増する開拓期に入ると、先住民であった彼ら元の村人達は少数派となり、この伝統ある関係も、一度は歴史の狭間に埋もれかける。しかし、偶々この地を訪れた旅の武芸家によって、再びその仕来たりは、日の目を見る事となったのだ。
 高名な武芸家であったその人物は、町の外れに住んでいた古老の家に宿を求めた時、そこで共に暮らしていた波導ポケモンに触発され、自らの術技を未知の領域にまで高める切っ掛けを得る。後にそのポケモンとの修行によって新たな境地を切り開く事に成功した男は、家の主から件の言い伝えを聞くと強く感化され、自らの技芸を伝える為の道場をこの地に開く際、彼ら波導ポケモン――嘗ての蒼き狗人の末裔達を、流派のシンボルとして用いる事にしたのである。
 ポケモン達を相手に深奥を悟った男の術技は並ぶ者も無く、向かう所敵無しと謳われた彼の教えは大変な評判となって、ここトバリの町にしっかりと根を据える事となったのだった。

「それでその道場と言うのが、今お前が世話になってる、トバリジムの前身だよ。あそこは元々古武術の道場だったのを、後継者が絶えちまったのを受けて、ポケモンジム兼総合格闘技の道場に改装した場所なんだ。免許の証がポケモンのリオルなのも、昔の仕来たりがまだ残ってるからだよ」
「へぇ……」
 珍しくきちんとした父親の話を受け、彼女は今まで抱いていた疑問が氷解した事以上に、自分の父親の意外な一面を知った事に対する驚きで、文字通り開いた口が塞がらなかった。
 正直にそれを述べてみると、目の前の肉親は渋い顔をして、娘にまでそう言われちゃかなわんなとぼやく。
「まぁこの話はこれで置いとくとして、お前ももう直ぐ盂蘭盆会だろ? ジムリーダーの内定も噂されてるんだし、しっかりやらにゃあ駄目だぞ」
 盂蘭盆会とは彼女の道場で毎年行われる供養行事で、元旦の稽古始と並び、一年で最も重要なイベントである。当然休む事など出来ないその行事を考慮すれば、あの森で教えを請う事が出来る日々はもう後僅かであった。
(後四日、か……)
 改めて意識し直せば、それがどれほど身近に迫っているのかが、ひしひしと感じられる。うじうじしている場合ではない――そう思い直す事で、彼女は漸く自分が何をするべきか、明確に悟る事が出来たのであった。

 それからの数日間、彼女は今まで以上に集中して、青年との組み稽古に没頭した。
 既に出会ってから、二週間近く。漸く動きは拮抗し始め、互いに数手を出し合う内に、相手に攻口を見出す事も出来る様になっていた。結局最後まで一本取る事は叶わなかったものの、ここまでずっと稽古をつけてくれた相手の期待を、大きく上回る事が出来たのは間違いないようだった。
「もしもう一週間相対していれば、間違い無く何処かで取られてたと思う」
 別れ際、彼はしみじみとそう述懐し、同じく名残惜しさから何を言って良いのか分からなかった彼女に向けて、ゆっくりと頷いて見せた。次いで尚も言葉を探して視線を彷徨わせている彼女の肩にポンと手を置くと、「これからも精進して欲しい」と言い添えて、あっさりと背を向けて去っていく。
 霧の向こうに青年が歩み去っていく間、彼女は精一杯の謝辞と共に、深々と頭を下げ続けていた。

 明けてその翌日。彼女は同門の仲間達と共に、盂蘭盆会に使う様々な品々を、道場の奥にある安置場所から運び出す作業に追われていた。
 歴代の門人達の賞詞や写真が並べてあるそこには、彼女自身が獲得した地方大会のトロフィーもあり、眩い金の楯やクリスタルガラスの杯等が、比較的新しい作りの保管ケースの中で、静かに眠っていた。それに対し部屋の更に奥の方には、打って変って古色蒼然とした物品が所狭しと犇いており、そこから必要なものを引っ張り出すのは、中々の難事であった。
 やがて、漸く作業の目途も立った頃。セピア色の写真の群れの中から、初代道場主の肖像画を持ち上げた彼女は、その拍子に一枚の埃塗れの額縁を、角に引っ掛けて倒してしまう。それを見ていた監督役の老人がゆっくりと歩みよって来た時、彼女は雷が落ちる事を覚悟して、思わず首を竦めて振り返った。
 しかし思いがけない事に、流派創始者を知る最後の古老として敬われ、謹厳剛直で恐れられているその老人は、伸ばした手で少女の頭を小突く代わりにヒョイと額縁を立て直すと、表面に付いた埃を払い、拳ダコの目立つ節くれ立った指先で、その一点を指し示して見せた。
「これが儂だ」
 そう胸を張るその指先には、一昔前の兵隊が被っていた帽子を頂き、筋骨逞しい体に白いシャツを纏った、精悍な顔付きの若者が写っていた。片手は立てられた国旗に添えられ、周りに居並ぶ他の人々と同じく、口元は真一文字に引き結ばれて、文字通り一片の隙もない。
 次いで一つ二つと続け様に思い出話が飛び出し、声にも張りが出て来た老人の隣で、しかし彼女は、その相手が指し示しているのとは違う肖像に目を奪われていた。老人も遅ればせながらそれに気が付いたらしく、彼女の目線を辿っていくと、そこに写り込んでいる人物について言及する。
「ああ、キイハラか。キイハラシゲハルと言うんじゃよ、その男は」
 微かに震えだした彼女の様子に気が付かぬまま、彼は何処か懐かしむ様な声音で言葉を続ける。
「キイハラは……そうじゃな、丁度お前さんみたいな奴じゃったな。わしらの代でも飛び切り才能があった奴で、当時誰もキイハラには敵わなかったもんじゃ。トバリ道場の麒麟児と言えば、近場では知らん者はおらなんだ。儂と、それにお前さんを可愛がっていた佐五郎の奴も一緒に『三羽烏』などと呼ばれておったが、結局最後まであいつに肩を並べる事は出来なんだ。あの頃は誰もが、この道場を継ぐのはキイハラの奴じゃと信じて疑わなんだな」
 軍装に刀を突き、足元に小さな狐を従えた若者の目が、額縁の向こうから彼女を射る。一点の温もりも見出せぬ冷めた視線は、彼女が知っているようで全く違う、まるで別人のそれであった。
「しかし、惜しいもんじゃよ。あいつは軍隊に取られてな……。確かホウエン地方に送られて、サイユウで行方不明になったんじゃ。恐らく、戦死したので間違いないじゃろう」
 話を締め括り、老人が記憶を手繰り寄せるように手に取った国旗には、確かにあの夜耳にした、青年の名が記されていた。

 道場を飛び出した彼女が真っ先に向かったのは、他ならぬ自分の家であった。道行く隣人を稲妻のような軌道ですり抜け、勝手口を突き破るような勢いで玄関口に飛び込むと、そのまま自分の部屋に走り込み、机の上のモンスターボールをぐわりとばかりに引っ掴む。更に折り返す途上で台所に立ち寄ると、飯台の上に用意していた父親の夕食に手を伸ばし、握り飯一つを掻っ攫って、無理矢理口の中にねじ込んだ。眦を決して走り去る際、呆気に取られた育ての親が何事か口走ったが、既に土埃だけを残して外へと駆け出していた彼女の頭の中からは、そんな記憶はとうの昔に抜け落ちている。
 焼け焦げたアスファルトを踏みしめつつ、父親の自転車に飛び乗った彼女は、そのまま一散にペダルを踏み込み、街の郊外に向けて進路を取る。鋼の様な決意を滲ますその視線は、正しく進行方向である、遥か南の空へと向けられていた。普段は知り合いのトラックに便乗させて貰って行く道程は、彼女の足を持ってしても丸一昼夜はゆうに掛かる。その時間を少しでも縮めようと、普段は使わぬ自転車を踏み壊さんばかりにこぎ立てる足裏は、ペダルから伝わる過剰な圧力に悲鳴を上げ続けていたものの、それとて殆ど真っ白になっている、彼女の意識を刺激する事は出来なかった。
 やがてトバリ郊外の小高い丘を突っ切り、飛ばしに飛ばして漸く214番道路を走破した頃には、西日は大方水平線の向こうに沈んで、夜の気配が近付き始めていた。森の入口に自転車を放り出した彼女は、次いで荒い息の合間にも地面を踏みしめ、足の裏から伝わって来る焼けるような感覚にも耐えて、腰に据えたモンスターボールから、一匹のポケモンを解き放つ。揺蕩い始めた霧の波頭にも動じる事なく、黄昏の森にすっくと立ち上がったそのポケモンは、彼方に過ぎ去った夕焼けを思い起こさせる赤い瞳と、真夏の空の色を写し取ったかの様な青い毛皮を持っていた。
 ボールから飛び出したリオルのレイは、呼び出された当初こそパートナーである彼女の様子に気遣わしげな表情をして見せたものの、直ぐにそこに張り詰めている激情に感化されたと見えて、彼女の指示に力一杯頷く。片時目を閉じて精神を集中した彼は、間を置かずに閉じていた両の目を見開くと、闇に塗り潰されつつある霧の奥へと分け入って行き、後に続く主人に対し、行くべき道を指し示す。一晩で複数の山野を越えると言うそんな波紋ポケモンに遅れを取るまいと、彼女もまた霧の立ち込める黄昏の森を、跳ね跳ぶ様にして突き進んでいく。
 この衝動が何処から来るのか、彼女自身にも分からない。けれども自分が決して足を止めない事と、何があっても今宵の内にあそこに行かねばならない事だけは、何処かではっきりと理解していた。
 藪を掻い潜り、木の根を飛び越え。前を行く小柄な獣人の姿を追い続けて、一体どれぐらい経っただろうか? 辺りが完全に闇に包まれた頃、明りも持たず夜目だけを頼りに、遂に彼女は目指す場所へと辿り着いていた。
 前方のパートナーが足を止めると、彼女は伸ばした手先も定かではない暗黒の世界で、静かに呼吸を整えた。腹式呼吸を繰り返し、暫し瞑目して手足の震えを押し鎮めると、両手を振り上げ身体を伸ばし、何時ものやり方で気合いを入れる。振り下ろした拳が中空でビシリと止まり、下半身に全体重が圧し掛かり終えると、呼吸音だけで存在している相棒に向けて一つ頷き、ゆっくりと前に踏み出していく。
 直ぐ頭上で交差している、一組の老木。その下を潜り抜けた先が、送りの泉の入り口だった。

 数歩進んで立ち止まった時。彼女が最初に感じたのは、一陣の風であった。不意に辺りを薙ぎ払う様に吹き荒んだその突風は、顔を庇って片腕を上げる彼女を尻目にまるで意思を持っているかの如く渦を巻き、周囲に立ちこめる霧をあっと言う間に吹き飛ばして、三歩先も見えなかった深夜の森に、明るい月の光を招き入れた。
 墨を溶かした様な暗がりの底から現れたのは、泉へと続く急な斜面と、辺り一面を隈なく覆っている、種も様々な野花の数々。開けた中天に浮かんでいるのは、盆の祭りで毎年馴染の、白く輝く大きな望月。……そして見やった先に佇んでいたのは、此処二週間毎日の様に隣にいた、あの青年の姿だった。
「まさか今日訪ねて来るとは思わなかったよ」
 視線を合わせたまま言葉もない彼女に向け、果たしてその人物は、何もかも悟った様な表情に、静かな調子で言葉を紡いだ。
「僕が誰だか分かったみたいだね」と問われたのに対し、小さな声で「はい」と答えたその刹那。今まで淡々としていた相手の痩身から、全く違う雰囲気が溢れ始める。目付きはスッと細くなって、昼間写真で見たのと同じあの刺し貫く様なそれに変貌し、一旦は落ち付けた筈の彼女の総身を、鳥肌と共に一撫でする。
 更にその直後、青年の直ぐ近くの叢から一匹のポケモンが躍り出て、彼女に向けて一瞥をくれる。漆黒の毛並みに朱の交じった房毛を頂く狐の姿をしたそのポケモンは、彼女を守る様に前に出たリオルのレイを目にすると、まるで悪戯を楽しむ悪童の如く、ニヤリと不敵に笑ってみせる。勝ち気な性格を思わせるピンと立てられた大きな尻尾に、彼女は数日前の起き立ちに目にしたものが何であったか、明確に覚った。
「なら、決着をつけようか。折角年に一度の機会なんだ。無為に終わらせるのも勿体無いしな」
 腰を落とし、無意識の内に半身に構えた彼女に対し、キイハラは自身も無造作に構えを作り、低いが良く通る声で宣言した。

 滑る様に踏み込まれ襲って来た最初の突きを、身を捻ってかわした時――彼女は相手の仕掛けて来たそれが、全く加減の加えられてないものである事を、はっきりと覚った。
 技の切れやスピードは何時もと変わらないものであったが、踏み込みの勢いと言い伝わって来る気配と言い、常に寸前で止められていた今までのものとは、全く別次元の一撃である。未だ嘗て破った事の無い相手の力量と照らし合わせれば、それは彼女の心胆を寒からしめるのに十分過ぎる事実であった。
 しかしその一方で、身体はきちんと反応していた。間髪を入れず身体を捻る相手の動きに合わせ、迅速に退き足を出した彼女の上半身は、続いて突き出された相手の右足を寸前で留めて、僅かな力の余白を生む。流れも見せずに体位を戻しにかかる敵の動きに付け入る様に、今度は此方から一歩踏み出して反撃に転ずるも、突き出した拳は大きく逸れて、身に届く気配は微塵もない。
 逆に伸び切った右腕を狙って来た手刀を、彼女は間一髪、文字通りすれすれで外した。……攻防一体となった誘いの攻めを、二週間前なら凌ぎきる事は難しかっただろう。
 焼けた足裏で夜露を跳ね飛ばしながら、次の交錯に備え花弁を散らして引き退く中。彼女は同時に、今まで静まり返っていた湖の周囲から、何者のものとも知れぬ無数のざわめきを感じ始めていた。それらは全く目には入らないものの、まるで何かに引き付けられるかのようにどんどん数を増し、目まぐるしく動く両者の姿を、ひしひしと幾重にも取り巻いている。
 更に激しく攻め掛けて来た相手の動きに対応し切れず、彼女は大きくバランスを崩すと、地面に片手を突きつつも必死に身をかわした。からからに乾いた喉を喘がせ、如何にか距離を取ろうともがく目の前の獲物に向け、無言の対戦相手は引きも切らず、猫の様な身のこなしで追い打ちをかけて来る。

 野花を蹴散らし凌ぎ合っている両者の傍で、ポケモン達もまた自分達の戦いを続けていた。波導を感じ取れるレイには、相手の得意とする幻影を用いた霍乱戦術が通用しなかった為、此方も専ら主人達と同じく、体技や術技を中心に鬩ぎ合う状況が続いている。
 漆黒の狐が闇色の波導でリオルの体を包みこめば、不屈の闘志で戦意を燃え立たせた波紋ポケモンが、先程に倍するスピードを以て走り寄り、相手の急所を狙い打つ。はっけいを横腹に決められた子狐は声も無く吹き飛び倒れ伏すも、直後ぐったりと横倒しになったその体は溶け消えて、全く思いもかけない方向から、牙を閃かせ飛び掛かかって来る。素早く首を廻らせた小柄な蒼身が躍る様に反転し、宙を薙いだ片足が焔を散らすと、今度はまともに技が決まって、ブレイズキックを叩き込まれた黒狐は煙を引きつつ、頭から地面に突っ込んだ。

 起き上った子狐が忌々しげにレイを睨みつけている頃、立ち合っていた両者の間にも、漸く新しい動きが見え始めていた。激しい攻めを見せていた相手が、急に攻勢を中断して距離を取った時。彼女は、どうやらキイハラが一気に勝負を付ける腹積もりであるらしい事を理解した。
 行きに手を出した塩握りの御蔭か如何にか此処まで持ち堪える事は出来ていたものの、既に疲労と消耗は覆うべくもなく、流れる汗は引きも切らずに、眉を乗り越え目に流れ込む。大きく内に窪んだ脇腹は息を吸うごとに鋭く痛み、かわし切れずに受け流す羽目になった一撃のせいで、左の腕は思う様に力が入らない。片腕を垂れ乱れた呼吸を何とか整えようとする彼女に対し、冷たい目付きで此方を凝視している相手の方は、その身の上故かは定かでないにしろ、殆ど消耗している気配はなかった。
 端的に言うと、最早勝敗は決しようとしていた。彼女の負けである。後は文字通り決着を付ける段階が残っているだけで、仮に勝機を見出すとしたら、もうそこにしか残ってはいないだろう。……それを察している彼女は、既に無駄に足掻くのをピタリと止めて、次に訪れるであろう一連の交錯に向け、全神経を集中していた。
 相手の仕掛けを警戒しつつ、『踵で呼吸を為せ』と言う古老の教えに、必死に縋り付こうとしていたその刹那。腹式呼吸を繰り返す彼女の耳に、突如として横合いから鋭い叱咤が突き刺さる。改めてそちらを見やるまでもなく、常日頃から馴染深いその鳴き声は、多少何時もより低めで力強く聞こえたものの、確かに彼女のパートナーが放ったものに間違いはなかった。聞き慣れた声音に滲む思いは、音ではなく直接意識の底に染み渡る力強い感情の波となって、萎縮しかけていた彼女の心に、火の様な戦意を呼び覚ます。
 同じ咆哮に心を傾けていた対戦相手が再び視線を戻した時。彼女は素早く右手を閃かせると、汗で浮かび上がっていた鼻絆を一挙動に毟り取り、半身に構えた足元を踏み直して、鋭く一つ気合いを発した。吐き出された諸々は余韻と共に空に消え、押し出された感情の代わりに座を占めたものが噴き出す様な激情となって、彼女の背中を後押しする。
 勢い良く踏み出した彼女の動きに誘われるように、青年の方もにじる様に前に出る。小刻みな摺り足で向かい合った数呼吸を経て疾駆する影は激突し、両者は再び打ち合った。互いに短く矢声を発し、均衡を破り死命を制する、二撃目に移ろうとしたその瞬間――彼女は今までずっと追い求めて来たものが、意識の底に触れて来たのを感じ取った。幾度もイメージしていた動き、その流れに身を任せていた彼女の瞳に、盤石の力を漲らせ、今まさに業を打ち出さんとする、青年の利き足が飛び込んでくる。
(これだ――)
 自らのこめかみを刈り取ろうとするその一撃が、風を巻いて一閃するより僅かに速く。彼女は力一杯最後の一歩を踏み込むと、間合いの内に入り込まれて身動き出来ず、驚愕に目を見開いた相手の胸板目掛け、真っ直ぐ右の拳を突き入れた。

 目まぐるしく移り変わった攻防が、終わりを告げたその刹那――『パン!』と言う破砕音が周囲の静寂を打ち崩し、夜空に向けて響き渡った。
 拳固の先から伝わって来たのは、生き物の体を打った時のあの独特の感触ではなく、何か硬いものを打ち割った時のような、無機質で乾き切った手応え。ハッとした表情で見上げる彼女の視線の先にあったのは、これまでで最も近くに位置する、見慣れた相手の儚げな微笑だった。
「遂に取られたな」
 そう口にする相手の気色は、先程までとは到底似ても似つかない、常に隣にあったもの。まるで過ぎ去ったものを懐かしむかのようなその口調に、彼女は張り詰めていた糸が切れたかの如く力尽き、握り締めていた拳をほどくと、両手を落として前へとのめる。平衡を失い崩折れようとするその体を、青年は己の全身で、しっかりと抱き止めた。 
 二つの影が一つに重なった時、今までずっと静まり返っていた湖の周囲一面に、ざぁっと何かが湧き立った。慌てて視線を彷徨わせた彼女の眼に映ったのは、風に乗って舞い散る幾千とも知れぬ花弁と、煌々と輝く月の光をも霞ませる、無数の淡い光の帯。茫然とその光景を見やる少女に向け、青年はそのすぐ耳元で、「あれは死者の魂だよ」と囁いた。
 彼は言う。許された時間が終わったのだと。本来此の世にあるべき存在ではない彼らは、一年の内この期間だけ外に出て、嘗ての故郷に帰り着くのだ。
 だがしかし、それはもう既に、彼女にも察しがついていた。自分を支えてくれている、がっしりとした相手の身体――そこから感じられる温もりが、どんどん失われ始めていたのだから。当初はあんなに力強く、嘗て背負われた時にはあれ程までに心強かった感触が、今では曖昧模糊としてただ薄れ、掴み難くなる一方だった。
 湧き上がる思いに言葉もなく、目線を落として必死に耐え忍ぼうとする彼女に向け、青年はあくまでゆっくりと、静かな調子で言葉を紡ぐ。綴られ始めた身の上話の内容を、彼女は既に知っていた。淡々と語られるその情景は、あの日古木の洞に横たわった時、夢の中で見た光景と同じものだった。
 彼女は思い出していた。止む事なく続く爆発と、島を覆っていく炎。逃れられ得ぬ定めと受け入れ、敵の重圧が迫るサイユウの地を守り抜くべく、決意と覚悟を胸にやって来た彼らが目の当たりにしたのは、自分達が存在するが故に戦火に呑まれゆく人々と、ただ道具としてのみ扱われ、傷付き追い立てられていくポケモン達。――そしてそんな現実に対して全く為す術もない、非力な己自身への絶望だった。
『剣(つるぎ)を 手に入れた 若者が居た それで 食べ物となる ぽけもんを 無闇矢鱈と 捕らえまくった――』 物語中で剣を振るい、数多の命を奪ったその男は、最終的に彼の行いを咎めたあるポケモンによって己の過ちを悟り、二度と同じ事を繰り返さないと誓って、その剣を叩き折る。力に溺れて他者を傷付け、命と絆を蔑ろにした先祖の業を恥じる余り、トバリの人々は代々武器を取る事を禁忌と位置づけ、もしその掟を破った者があれば、容赦なく村から追放した。
 物心付いた時から繰り返し教え聞かされて、決して手にしないと誓ったもの。武器を携え敵意を抱き、行き倒れていく戦友達や、飢えと寒さに苦しむ老人達、果ては砲弾が降り注ぐ中母親の躯に取り縋る、道端の幼い子供にさえも手を差し伸べられぬまま、ただ敗兵として敵の攻撃に追い立てられ、山野を彷徨するだけの日々。
 強くなりたいと望んでいた。なれる筈だと信じていた。一心不乱に修練を積み、自分の選んだ道を奉じて、十年ただ一拳を磨いて来た。……だが一体、それが何になったと言うのだろう?
 彼には何も出来なかった。敵を支えるには小さ過ぎ、誰かを守るには余りに無力。泥の海を這いつくばい、一叢の焔となって消え去った後、果たして自分の歩んだ道に、どれ程の価値が残ったと言うのか。
 自分の求めていたものは何か。自分の人生に意味はあったのか。誓いを破り前途を絶たれ、心の拠りも帰るべき場所をも失った時、彼は自らの渇望と意思が、二度と休息を取れなくなった事を悟っていた。

「でも――」と、青年は言った。弱まり続ける感触とは裏腹に、背中に回された相手の腕に力が籠もる。思わず顔を上げる彼女の目に向け、彼は誇らしげに微笑んだ。「もう良いのだ」と。徐々に淡く色褪せていくその瞳に、長い夢から覚めた者の、透明で寂しげな光が宿っていた。
 何時の間にか歩み寄って来ていた子狐が、青年の傍らに腰を下ろす。あの苦渋に満ちた数時間、狭く森閑とした暗闇に悪夢を運んで来た張本人は、佇立した相方と同じく既に時期を悟ったのであろう。焦げた尻尾を草の上に横たえ、主人と同じ寂寥感を滲ませて、静かに両者を見守っている。
 飾り気の無い一言に万感を込め、青年は締め括った。
「君がいてくれたから」
 意志の力が及ばなくなった事を自覚しつつ、彼女はただ声もなく、目の前の相手を見詰めていた。霞み始めた視界が限界までぼやけると、負荷に堪え切れず瞬きする度、溢れた感情が滴となって零れ落ちていく。
 声が波打つ事を恐れ、何一つ口にする事が出来ないそんな少女に対し、青年は静かにその背を叩くと、音も無く持ち上げた左手の甲で、頬の涙を優しく拭った。半月に及ぶ荒稽古に多少の窶れは見えるものの、月の光に照らされたその双眸はあくまで澄んでおり、出会った時から寸分変わらぬ眼差しが、薄れゆく彼を見上げていた。
 嘗て自分が通った道。何の光明も見出せず、失意と絶望に歪んだ遥かな通い路のその先に、彼女はいた。自分と同じ道程を選び、同じ志を抱いた少女は、やがて先を行く自分を見据え、果ては全てを受け止めて見せた。自らの意志で前へ踏み出し、避けられた筈の壁に挑んで、真正面から突き抜いて見せた。
 そしてそんな彼女が目指す先に、自分がいた。呪詛に塗れ苦悶に沈み、悔恨以外何一つ残らなかった彼の生涯は、彼女が存在していた事により、初めて意味を持つ事が出来たのである。
「ありがとう」
 ゆっくりと付け加えられた謝辞に、少女の体が小さく震えた。既に夜気に溶けかかっている目の前の相手に向け、彼女は最後の勇を奮い起こして言葉を返す。
「私の、方こそ……本当に、ありがとうございます」
 痞えながらも伝えた感謝の気持ちに、束の間の師は静かに微笑み、そして砂礫が夜風に流れるように、淡い光に紛れて消えた。
 支えを失って膝を突く彼女に、別の誰かがサッと手を伸ばす。揺らいだ身体を捉まえてくれた相手の腕には、見覚えの無い大きな棘が覗いていた。
「レイ……?」
 そう呟いた彼女に向け、ルカリオが頷いて見せたその刹那。不意に強い風が吹いて、湖に巨大な影を映しだした。咄嗟に夜空を見上げた彼らの目に飛び込んで来たのは、中天を行き過ぎつつある大きな月と、水面を割って飛び出した巨大な何かが宙を舞い、周囲に立ち昇る光の帯を、自らの周囲に取り纏めていく光景だった。
 ムカデに似た異形のそれが身をくねらせ、水飛沫一つ上げる事なく再び湖の底へと消えていった時。まるで引き込まれる様に目を落とした彼女は、先程まで青年が立っていたその場所に、何かの破片が散らばっているのに気が付いた。


 丘を掠めて飛び去る影が、遠い空へと駆け上っていく。小さく縮むムクホークの背中を見送りながら、少女は一歩また一歩と、頂上に向けて歩き続ける。
 トバリ郊外に広がった、緑野の丘の九十九道。急な勾配をひたすら登り、外界と街との境界線を間近に控える境目に、それはあった。
 最近置かれたばかりと見える、小ぢんまりとした御影石。死者の行く先が明確に定義されているトバリでは、墓所は通常旅立った者達が容易に戻って来れぬよう街の外へと設けるものだが、今回は彼女自身の強い要望によって、この場所に据える事が許されたのだ。

 あの夜、彼女はレイに支えられて一頻り泣き抜いた後、残されていた木片を拾い集めて、送りの泉を後にした。森の中をどう歩いたかは覚えておらず、翌朝ルカリオに付き添われ、森の入口で力無く座り込んでいた所を件のトラック運転手に見つかって、トバリの自宅まで送り届けられた。
 恐らく、半月分の無理が祟ったのだろう。家に着いて直ぐ熱を出し、それから二日間は、床に就いたまま動けなかった。その間の記憶は曖昧だが、例年なら盆の終りに合わせて再び遊び歩いている筈の父親が、慣れぬ手付きで食事を作り、枕元で何時になく熱心に世話を焼いてくれたのを覚えている。
 やがて体調が回復すると、彼女は真っ先にシンオウポケモンリーグの本部へと連絡を取った。既に連絡が行っていたらしく、快復を祝う言葉に次いですぐさま事務的な手続きに入ろうとする相手方に対し、彼女はその話題を一先ず押し留めると、自らの要望を辛抱強く、電話口の担当者に向けて伝え続ける。困惑に次いで難色を示され、幾度も担当者が入れ替わった後。漸く取り次いで貰った相手に対し、彼女は自らが見たその内容を出来る限り詳しく話し、協力して貰えるよう頭を下げた。
 連絡が入ったのは、その五日後。電話口に出た彼女に対し、ホウエンリーグの四天王でもあるらしいフヨウと言う女性から、事態の経過が告げられた。彼女の言葉をもとに捜索した結果、サイユウ南部の土手際で今まで見落とされていた小さな防空壕が発見され、焼け土の中からまだ若い男性と、小型のポケモンの遺骨が見つかったと言う。二つの亡き骸は重なり合うようにして倒れており、鉄兜の内側に托し込まれ、焼け残っていた手紙によって、遺体の身元が判明した。
「あなたの御蔭で、彼らは故郷に帰れるんだよ」
 そう慰めてくれた相手の言葉が、街に伝わるあの仕来たりと重なった時。彼女は青年の辿った足跡を、もう一度思い返していた。

 何処までも澄んだ蒼い空の下、彼女は独り佇んでいた。
 足元にある、ちっぽけな石。本式のものには程遠い、粗末な造りの墓碑の下には、あの時湖の畔で拾った木片と、数日前にサイユウの地から送られて来た、一組の遺骨が納められている。木っ端の正体は『狙いの的』、そして青年の傍らに写っていた子狐が、幻影を操る能力で有名なゾロアと言うポケモンである事を、彼女は葬儀の責任者だった、地区の纏め役から聞かされていた。
 羽音を響かせ纏わり付いて来た虻を、彼女の右手がはっしと掴む。掌の中で驚き騒ぐその虫を、彼女はしかし殺す事なく、固めた指を静かに開いて、元の空へと返してやった。吹き過ぎる微風に乗って低い羽音が遠ざかる中、彼女は己の空白を確かめるように、嘗ての記憶をなぞり始める。
『強さとは何か』。そう尋ねられた時の光景が、不意に頭の奥に蘇った。まだ反撃の端緒も掴めなかった頃、相手の実力に対して率直に感想を述べた時に、青年は苦笑しながら首を振って、逆に彼女に問いを発した。
「強さって、一体何なのだろうね……?」
 繰り返される激しい組み手の繋ぎ目に、ごく軽い調子で織り交ぜられたその言葉。一言二言やり取りした後、さり気無い笑いと共に有耶無耶にされた言葉の意味を、彼女も今なら理解出来る。
 彼はずっと探していたのだ。無力でしかなかった自分が失った、たった一つの拠り所。嘗て一心に求め続けたその答えこそが、彼が自分自身を取り戻す、唯一つの鍵だったのだから。
 そして最後に、彼はこう言った。「もう良いのだ」、と。「君がいてくれたから」――そう結んだ彼の微笑みは、長い彷徨の時を経て、どんな答えを見出したのか。
 流れ行く雲が日差しを遮り、俯き加減に頭を垂れた、彼女の背中に影を落とす。自分が齎したその結末は、故郷を失い寄る辺を無くした魂に、相応しいものであっただろうか。
 無意識の内に沈み込み、止め処無く湧いて来る感情に、押し流されそうになった時。さわさわと草叢を揺らしていた微風が、唐突に一陣の疾風に置き換わった。反射的に腕を持ち上げ、横風から顔を庇った彼女は、突然耳朶を打った囁きに、驚愕の余り目を見開く。声音の主を探すべく、咄嗟に顔を上げた彼女の頬を、走り抜けていく最後の気流が、まるで撫で上げるように掠めていった。
 葉擦れとざわめきが静まった後、茫然と周囲を見渡す彼女の瞳に、墓石の上へと飛ばされて来た、幾つかの花弁が映り込む。まるで今しがた吹き散らされたばかりの様に見えるそれらは、風の中に響いた声と同じく、本来ならばこの街の中で、決して見る筈の無いものだった。
 ――そう。彼女が危惧した、その限りならば。

 絆創膏の張られた鼻から小さく息を吐き出すと、彼女は彼方の空を見上げ、微かに苦みの入り混じる、恥ずかしそうな笑みを浮かべた。
 未だに自力で前を向き、進むべき道を選べない自分。そんな未熟に過ぎる求道者に対し、同じ道程の彼方に立った恩人は、この期に及んで今も尚、師としての役を演じ続けている。遥かな時と彷徨を経て、辿り着いたその答え――曲がりなりにもそれを見出して貰った彼女にとり、何時まで経っても相手の背中を追い掛ける事しか出来ないと言うのは、同じ世界に生きる者として、到底許容出来る事柄ではない。

 淡い親しみと寂しさが綯い交ぜになった追憶が、静かに過去のものとなった時。彼女は意識して姿勢を正すと、沈毅な光を湛えた両の瞳を、改めて目の前に佇む石の標(しるべ)に向け直した。背筋を伸ばして佇立したまま、ぐっと下腹に力を込めつつ、軽く握った両の拳を腰に取り、静かに呼吸を整える。
 遠い白雲に翳っていた日の光が、再び季夏の大地を照らし始める中――トバリの新しいジムリーダー・スモモは、朔の月が満ちるまでの間教えを請い、長き出征の果てに漸く故郷へと帰って来た、この同門の若き先達に向け一礼した。