24 クロ No.017(HP)
彼の種族はブラッキーである。
得意な技は「どろぼう」。
いつの頃からかネットで囁かれ始めた都市伝説。
始まりはそんな口上で語られる。
通常覚えないその技を覚える彼はただのポケモンではない。
その証拠にタマゴからは生まれなかったし、生まれた時からブラッキーだった。
彼はグローバルリンクを彷徨うポケモンだ。
何度も何度も交換されて、持ち主を転々としているという。
百貨店の屋上は少しばかり風が強かった。風にばたばたと赤い旗が棚引いている。訪れたのは平日のせいなのか、人の姿はさほどなかった。
ずいぶん小さな社なんだな……。
あらかじめネットで写真だって見ていたけれど、実際に目の前にしたらやっぱりそこは小さかった。けれど百貨店のビルの屋上にひっそり建っているこの稲荷には参拝者が絶えない。祭壇には油揚げが供えられ、拝殿横の掛け所には絵馬がびっしりと掛けられている。俺は知っている。そこに書かれた願いを。それはバリエーションはあれど皆同じものだ。
「離れ離れになったあの子が帰ってきますように」
「いなくなったあの子が戻ってきますように」
「また会えますように」
彼らが探しているのは行方知れずになってしまったポケモン達だ。例えば人に奪われたり、災害で離れ離れになってしまったり、あるいはふらりと出たまま帰ってこなかったり……いなくなった理由は様々だが、諦めきれない人々がここに訪れるのだ。もしも願いが聞き届けられ、再会を果たした暁にはお礼として揚げや絵馬が再び供えられる。それがこの空中稲荷――三光稲荷の信仰だ。
昔、まだここが畑ばかりだった頃、この社は地上にあった。けれどビルが建てられた時、稲荷は屋上へと移転された。失せものが見つかると言われるようになったのは、社が「空中」に移ってからだという。空中に移った事で高い所からより遠くを見れるようになったからだとか。
そして、この空中稲荷はまたの名を猫稲荷と言うのだという。なぜ猫稲荷かと言えば、ふらりといなくなってしまうのは猫型のポケモン達に多いからだという。彼らは主人に自らの死体を見せないと言われている。もちろん言われているだけであって、主人に看取られる者も多くいるのだが、稲荷が空中に移ってからそういう願を掛けた人が居たのだろう。いなくなったエネコだかニャースが見つかりますように、と。
とにかくそうやっていなくなったポケモンとの再会を願って始まった信仰は今やあらゆる種類に拡大されている。海で離れた水ポケモンに、飛んだまま帰らない鳥ポケモン、ネットの海に消えてしまったポリゴンにロトム……。あるいは死別したあの子の生まれ変わりに会えますようになんて願いもあるくらいだ。
次々に絵馬をめくる。祭神のロコンが描かれた絵馬のその裏には細かい文字でぎっしりと字が書かれている。ポケモンの種類、身体的特徴、それにいなくなった時のシチュエーション……。神社側からそう書けという指導があった訳でもないのに、いつしかそれは彼らの暗黙のルールとなっている。俺はひとしきりをそれらを眺めると併設のギフトショップへと足を運んだ。絵馬を選ぶ為だった。
「あのう……失礼ですが」
声を掛けられたのはショップへ入り、一番安い数百円の絵馬に手を掛けたその時だった。
振り向くと高校生くらいの女の子が隣に立っていた。
「なんです?」
ぶっきらぼうに尋ねると、女の子はもじもじとした様子で、
「あ、あの! もしかして月光Pさんですか?」
と、言った。
月光P。それは俺の通り名だった。Pとはプロデューサーという意味で、某動画サイトにおける俺のニックネームみたいなものだ。俺の正式な投稿者名はSkar198。だが、とある曲をきっかけに月光Pという名前が付いたのだ。
『欲しいものは何だ?』
あの日、黒のポケモンは俺に問うた。赤い眼が真っ直ぐに俺を見つめていた。黒いビロードのような毛皮、額には輝く金環が浮かんでいた。
『お前は何が欲しいんだ?』
狭い部屋に声が響く。それは若い男のような声で。
『才能か? 再生数か? それとも――』
黒のポケモンは再び問うた。
1
*
某月某日、グローバルリンク。
ユリ(仮名)は交換に出されたポケモンリストの中に〔Umbreon〕という種族名を発見した。
条件を見れば交換主の在住する地域にいないポケモンであれば何でもいいという。彼女は地元でよく見かける野生ポケモン〔ジグザグマ〕を提示した。二時間後には交渉成立のメールがあった。
破格の取引だった。〔Umbreon〕すなわちブラッキー。人気ポケモンイーブイの進化系でイーブイ同様人気があった。
彼女はさっそくポケモンセンターの転送装置にジグザグマの入ったボールをセットし、転送した。その代わりに送られてきたのは黒いボールだった。重いポケモンの捕獲に優れたヘビーボールに似ていたが、金色に光る輪のような模様が二つ描かれていた。さっそくボールを開くと、中から一匹のブラッキーが現れた。黒色のシルエットはすらりと美しく、長い耳は輝く金輪を戴いている。赤い大きな瞳が彼女を見上げていた。
「わあ……!」
ユリは感嘆の声を上げ、黒い獣を抱き上げる。
これでクラスのみんなにも自慢できるわ。彼女はほくそ笑んだ。
そして彼女の思惑通り、クラスの友人達の反応は上々だった。珍しいイーブイの進化系はクラスの話題を独占した。休み時間になると皆が見せて見せてと寄ってきた。そうして写真を撮ったり、その美しいビロードのような毛皮やすらりとしたシルエットを褒め称えた。彼女は満足だった。
けれど人は慣れるもので、一ヶ月も経てば彼女の周りには誰もいなくなってしまった。今は校内のバトル大会で優勝した同級の男子のピジョットが人気で、皆の視線はそっちへいってしまったのだ。
「つまらないの」
放課後、中庭で群れる彼らを恨めしそうに教室の窓から見下ろしてユリは言った。
すると、途端に背後から声がした。
『盗んでやろうか?』
びっくりして振り返ると机に無造作に置かれた鞄から黒いボールがころころと転がった。それがひとりでに放たれ、机の上にブラッキーが現れた。
『ご主人、あなたが望むのであれば、あの強さを盗んできてやる』
口を開いて黒い獣は言った。
*
俺はシートに揺られながら、スマートフォンの画面を眺めていた。これは最近になって増えた件(くだん)のブラッキーのエピソードだ。
ブラッキーに関する都市伝説をネット上で見かけたのはかれこれ五、六年ほど前だっただろうか。ちょうどスマイル動画というサイトが実験的に立ち上がった頃で、ぽつぽつと動画が上がり始めた。それらは今見れば技巧的に稚拙なものが多いのだが、初期独特の野生味を宿していたように思う。その中には文字を読む動画という、淡々と文字情報ばかりを映し出し、BGMを流すだけという簡易なものがあった。巨大掲示板群を有す151ちゃんねる上の名言をまとめたものもあったし、怖い話をまとめたものもあった。その中の都市伝説を扱った動画にそれはあった。
盗まれた才能。そんなタイトルだったと記憶している。
グローバルリンクを彷徨い、人から人の手へと渡るブラッキーがいる、というものだった。
ブラッキーには不思議な能力があった。得意技は「どろぼう」で、どんなものでも盗んできてくれるという。
そう、どんなものでも。盗むものは形あるものに限られない。
*
ユリはブラッキーに「どろぼう」を命じた。
あのピジョットの強さを盗んできて、そして手持ちのキャモメにつけて、と。
その日からユリの快進撃が始まった。彼女のキャモメは、次々とクラスメイトとのバトルに勝利した。小さな翼からは想像も出来ない竜巻を起こし、強烈なゴッドバードをお見舞いした。それはさながらあのピジョットのようであった。逆にピジョットはまったく振るわなくなり、持ち主はバトルをやめてしまったという。
だがキャモメにはどうにもならない弱点があった。電気技だ。水と飛行の複合タイプであるキャモメは雷ポケモンに先手を取られるとどうしても勝てなかった。
「あのサンドから、電気タイプへの抵抗力を盗んできて」
クラスメイトのねずみポケモンを指し、ユリは言った。その日からキャモメに電気の攻撃は効かなくなった。
ユリは次々にブラッキーに命じた。あのポケモンのあれを盗んできて。あのポケモンのあれが欲しい。あのポケモンのこれが欲しい。ブラッキーはその度に盗んでみせた。もはやキャモメの敵はいなくなった。ありえない技を繰り出し、あらゆる技は効果が無かった。
けれど。
気が付くと誰もがユリを避けるようになっていた。バトルを申し込んでも、ていよく断られてしまうし、登校してもどこかみんなよそよそしかった。そうして少し離れた場所でひそひそと何かを話しているのだ。
よく分からないが、あの子に目をつけられるとロクな事がないらしい。
それにあのキャモメ、なんかおかしいよ……。
いつの間にかそんな噂が広がっていた。ユリは次第に学校に行かなくなり、そしてブラッキーを手放した。破格の条件で交換に出したのだ。
*
「兼(かな)澄(ずみ)天神(てんじん)、兼澄天神」
スマホ画面のスクロールの果てに広告が見えた頃、電車のアナウンスが次の停車駅を告げた。出てくるポケモンからして、きっとこの話はホウエン地方だろうなぁ。俺はそんな事を思いながら、スマホを鞄に入れ席を立つ。どこの町なのだろう。ホウエンの話なら俺の住んでいる所に近いかもしれないとも思った。だが交換に出されてしまったなら、今はもう遠い所にいるのだろうとも思った。カントーかもしれない。シンオウかもしれない。あるいはイッシュやカロスといった外国かもしれなと思った。今や国境をまたいだ交換はトレーナー達の常識だった。デリバードがプリントされたICカードをかざして改札を出ると、俺は目的地へと歩きだした。
*
某月某日、グローバルリンク。
イッシュ地方に住むリチャード(仮名)は破格の交換案件を見つけ、その取引によりブラッキーを手に入れた。ミネズミとの交換だった。
彼はストリートミュージシャンだった。毎週金曜日になると、ヒウンシティの公園で演奏をしていたが、立ち止まる聴衆はまばらだった。もっと自分の歌を聴いて欲しい。リチャードは常々そう思っていた。すぐ向こうではイカしたダンサーを伴ったロックバンドに人が群がっている。ギターがかき鳴らされ、ダンサーの三人組が華麗なステップを踏み、技を決める。歓声が上がる。毎週毎週それがリチャードは恨めしかった。
すると退屈そうに歌を聴いていたブラッキーが口を開いて言ったのだった。
『あのダンサー、盗んでやろうか』
次の日からリチャードの歌に合わせ、ダンサーが踊るようになった。
だが、それだけでは足りなかった。リチャードがクラシックギターで奏でる歌はおおよそダンスとはマッチしなかったし、ダンサーのいなくなったロックバンドには相変わらず人が群がっていた。ドラマーが華麗なテクニックを見せ、ベーシストが低音で曲を支える。ギターとボーカルを兼ねるリーダーは意気揚々と歌っていた。
「あのドラマーを盗んでくれ」
リチャードは言った。次の日にはベーシストも盗ませた。だが、欲望は留まる事を知らず加速していった。
「あのボーカルの声が欲しい」
リチャードは言った。同時に盗ったのはギターテクニックと高級なギターだった。そうして毎週の金曜日、彼は意気揚々と歌った。一週間もしないうちに彼はすべてを盗み取ってしまった。今やたくさんの聴衆も彼のものであった。彼はロックバンドのリーダーに完全にとって替わったのだ。
が、何週間か経った金曜日の事だ。演奏をしようとアパートから公園に向かっている最中、後ろから彼は刺された。彼を刺したはかつてのロックバンドのリーダーであった。
幸いにも目撃者がおり、ブラッキーが犯人にでんこうせっかをお見舞いして守った事もあって、それ以上の攻撃は受けなかった。すぐにパトカーと救急車が駆けつけ、リチャードは病院に運ばれ、かつてのロックバンドリーダーは拘置所に入れられた。
退院後、彼は音楽を辞め、実家のある田舎に引き上げてしまった。ベーシストやドラマー、ダンサー達は引退を惜しんだが、彼を引き止める事はついに出来なかった。
彼はブラッキーを手放した。その代わりに以前交換したポケモンと同種のミネズミがやってきた。
*
この二人は身近な人間から盗って破滅したパターンだ。スマホの画面に指を滑らせながら俺は思った。待ち合わせの西洋料理レストラン、一番最初に着いたのは俺だった。やる事もないのでさっきのスレの続きを読んでいる。
【都市伝説】どろぼうブラッキーのあしあと【108】。それがスレッドのタイトルだ。ネット上にある巨大掲示板群、151ちゃんねるで件のブラッキーの都市伝説に惹かれた人々が集うスレッドだ。そこで彼らはどろぼうブラッキーの事を語り合う。投稿されるのはグローバルリンクで件の依頼を見かけたという目撃証言から、ブラッキーのどろぼう能力に関する考察、自分だったら何を盗ませる、ブラッキーのAA(アスキーアート)という具合に多岐に渡る。【 】内にある数字はスレッドの本数だ。都市伝説が流布を始めてから十年近く、スレッドはついに煩悩の数へと到達した。その中でも俺が好んで読んでいるのは実際にブラッキーを交換で手に入れた人々のエピソードだ。まあほぼほぼスレ住人の創作、つまり作り話だろうが、中には本人の証言風に投稿されたものがあったりとなかなか手が込んでいる。それにもしかしたら、この中に本物があるかもしれない。そんな事を考えるとわくわくするのだ。151ちゃんねるの書き込みはえてしてあてにならないと言われ、嘘と本当の区別がつかない者には向いていない。だが嘘か本当かも判らず、証明する手立てもないからこそ楽しめる事もあるのではないか。俺はそう思うのだ。
指を滑らせる。本日三回か四回目になるチェックが終わると、VOCALOID本スレを見ようと画面をタッチした。が、スレに到達するその前に車のライトが近づいてくるのが分かって顔を上げた。兼澄国際タクシーというどこが国際なのかよく分からないタクシーが店の前に停車した。
「あら、早かったのね」
出てきたのは母で、俺を見るなりそう言った。続いて下車してきたのは白いドレスを纏ったようなポケモンだった。人間で言えば髪にあたる緑の部分はショートカットのようで、前髪にあたる部分が中世騎士の兜のように顔の真ん中を隠している。その左右からは大きな赤い瞳が覗いていた。そして、その伸ばされた白い手に導かれる形で弟が降りてきたのだった。ゆっくりと慣れない足取りで一歩を踏み出す。最後に下車してきたのは父だった。ドライバーに料金を払う。助手席のドアが開き、ひょいっと足が飛び出した。
「よ、カズキ。元気だったか?」
俺を見て父が言った。まあまあと答えた。
通された予約の席。そこには家族団らんの食事を描いた一枚の絵があった。凝った模様が編みこまれたレースの掛かったテーブルを中心に、俺と父、母と弟は向かい合うように座る。そして弟の傍らに共に下車してきたエスパーポケモンのサーナイトがどこか遠慮がちに腰を下ろした。彼女は普通のポケモンとは違い、弟のあらゆる生活場面に寄り添う。普通のポケモンならモンスターボールに入れられてしまうような場面であっても、常に一緒だ。彼女にはその権利があるし、その為にここにいる訳だが、この家族であって家族でないような距離感に俺は未だ慣れる事が出来ないでいる。
ウェイターがコースの前菜を運んでくる。豪勢なテーブルクロスの上に美しく盛り付けた料理の皿を丁寧に置いた。皆がフォークとナイフを動かし始め、料理を口にした。サーナイトにも特別の皿が出され、彼女はナイフとフォークで上品に口にする。前菜が運ばれ、スープが運ばれ、ぽつぽつと会話が始まった。
「一人暮らしはどうだ?」父が聞いて、「まあまあ」と答えた。
「勉強はしっかりやってるか?」再び父は尋ね「問題ないよ」と俺は答える。
他愛のないやりとりは何回か続いた。
母と弟は黙って聞いていた。が、そのうちに母がちらりと父を見たのが分かった。
めんどくさいな。俺は思った。母は昔からこうなのだ。
弟は相変わらず黙って聞いている。自己主張のない奴め。頭の中だけで声に出す。不意にその隣のサーナイトの赤い瞳と目があって俺は視線を逸らしてしまった。そうこうしているうちにメインディッシュが運ばれてくる。
「前のお店もよかったけれど、ここのお肉も美味しいわね」
母が言った。
「今度はどこにしようかしら。和食もいいかもしれないわね」
間髪を入れず、母は父に続ける。ちらりと弟にも視線を投げた。
「そうだね」
弟がやっと口を開き、答えた。
その後、父と母のやりとりがしばらく続いた。母の視線は父と弟の間を行ったり来たりしたけれど、ついに俺を見る事はなかった。弟の隣で白いドレスのポケモンはただ静かに佇んでいた。
介助ポケモン。彼女の役割を一言で表すならそうなる。彼女は歩けない俺の弟――フタキの為に半年前に実家に迎えられた。彼女の持つ特性「シンクロ」は自分の状態をそのままバトル相手の状態とする事が出来る。つまり自分が毒になれば相手も毒に、麻痺すれば相手も麻痺するといった具合にだ。そしてそれを応用したものがサーナイトの介助だった。彼女はフタキと手を繋ぐ事で自らの動きを弟にシンクロさせる事が出来る。例えば彼女が歩いたなら、弟の足も同じようにシンクロし動く、といった具合にだ。
介助ポケモンの導入に当初、母は懐疑的だったと聞いている。だが訓練施設で下半身不随の子供達が車椅子を脇に置き、常人と変わらず歩いているのを見るに、見解はひっくり返る。フタキ自身の強い希望もあって希望者登録をしたのが一年前の事。そして半年前、何度かの面談、研修を経て、彼女は実家に迎えられた。
以上が俺が父から聞いた話で、下宿を始めてから実家であった主だった事だ。
介助ポケモンの導入は、フタキの外出ハードルを劇的に下げた。同時に家族揃って出掛けるという行為のハードルをも劇的に下げたのだった。だから母が月に一度の「食事会」などと馬鹿げた事を言い出したのもこれが原因だった。今までろくに家族揃って、出掛けた事がなかったから、と。
赤みを帯びたミディアムレアの肉が皿の上に乗っている。適当に切り分けるとフォークで刺し、口の中へと押し込んだ。
*
もう手放しちゃったけど、書くぜ。
数ヶ月前にグローバルリンクの交換リストの中にブラッキーを見つけたんだ。
すごくゆるい条件でさ、
イーブイ系なら家で飼えそうだし、悪くないなって思って交換した。
で、しばらく飼ってたんだけど、ある日突然喋りだしてびっくりしたよ。
チルッターしてたらさ、後ろから声がしたんだよ。『盗んできてやろうか』って。
話を聞いたら、そいつ何でも盗ってこれるんだと。
それで俺、同じ趣味やってる人気アカウントからフォロワー数を百くらい盗ませたんだ。
まあ最初はフォロワーさん達と好きな話題いっぱい話せて楽しかった。
リツイートも初めてもらって、チルッターが一気に面白くなった。
でもそのうちにそういうのの数が気になりだしちゃってさ。
気が付けば発言の度にブラッキーにリツイート数盗ませてた。
そうしなきゃ安心できなくなってしまったんだな。
けどある時、何気ない発言をいつものようにリツイートさせたら炎上してしまった。
あっちこっちから脅迫めいたリプライが飛んできて、嫌になった。
だからアカウント消したし、ブラッキーも交換に出した。
厄払いカキコって事で。
*
月に一度の「食事会」を終えて、俺は帰路についていた。電車に乗り込み、スマホでVOCALOID本スレをチェックした後、もう一度ブラッキースレに戻るとそんな書き込みが増えていた。スマイル動画やP・TUBEの動画再生数、チルッターのフォロワー数、イラスト交流サイトdowbler(ドーブラー)のブクマーク数――ネットに関わる数字をブラッキーに盗ませる話は、このスレの定番だ。盗ませすぎて工作疑惑を掛けられ自爆したり、うまく少しずつやってもつまらなくなって投稿をやめてしまう。どろぼうブラッキーを手にしたご主人様達は大抵この二パターンに大別される。そして最終的にブラッキーを手放してしまうのだ。あまりにも頻繁に出るものだから、もう誰も既出だとは突っ込まない。むしろ投稿者ごとに微妙に違うシチュエーションを楽しんでいるフシがある。
俺は重い瞼を必死に持ち上げながらスマホの画面を見つめていた。「食事会」の食事は豪華で高価だし、すべて父のおごりだ。だがあの空間は息が詰まる。読み終わると俺は瞼を閉じ、下宿のある駅が連呼されるまでうとうととして過ごした。
が、あんなに俺を支配していた睡魔は歩いて下宿に戻った頃には眠気はすっかり吹き飛んでしまっていた。せっかくなので歯を磨いた後にパソコンをつけ、「ミミ」を起動させた。VOCALOID、飛跳音(とびはね)ミミ。シンオウ地方にオフィスのあるトリデプトン社が売り出した音楽ソフトだ。サンプリングしたアニメ声優の声をメロディに乗せて出力できるソフトで、要するに歌わせる事が出来る。パッケージには近未来的なデザインのヘッドフォンとマイクをつけたうさぎポケモン、ミミロップがプリントされている。このミミロップはカラーリングも特徴的で、本来の茶色い毛皮の部分が白く、耳の大部分をしめるふさふさのクリーム色部分はライトブルーだった。人型に近く、セクシャルかつ未来的なこのミミのキャラ付けは大当たりし、DTM――デスクトップミュージックの製作者に留まらずイラスト描き達の心を掴んだ。彼らは競うようにミミに歌わせ、絵に起こした。聴覚と視覚、両方に訴えるこのキャラクターの動画はスマイル動画を席巻、ボカロブームを牽引した。
だが、その実体は味気ないものだ。ミミを起動してもエディターに映るのは灰色と白の大学ノートみたいな画面と青い太線ばかり。これが歌唱のデータにあたる部分なのだが、パッケージであれだけ色気を撒き散らすミミはサービスも何もしてくれない。俺はヘッドフォンを付け、再生ボタンを押すと、一通り歌わせて歌唱を確認した。灰画面で細い縦線が横スクロールを始め歌は進んでいく。うーん、ここはもう少し高めに。ここは強く切る感じで。ミミが歌い終わると一音一音のパラメーターをいじっていく。一通りの修正を終えた後、保存。俺は机を離れ、ベッドに潜り込んだ。
*
既出かもだけど、チルッターの話に似てる話
友人の友人なんだけどスマイル動画の再生数とマイリストを盗ませたらしい
でもやりすぎた
クオリティの割りに過剰に盗みすぎたんだな
次の日には工作認定された
ミミのプロデューサーだったらしいけど、投稿はやめたみたい
動画も消して今は無いって
*
ひさびさの三連休だった。昨晩にミミの調声をほぼ終えていた俺は一気に曲を仕上げる事にした。作曲ソフトの楽器の中からギターを選択し、おおまかな前奏のメロディラインを打ち込んだ。メロディを確認するとその下に五線譜を新たに作成し、今度はベースラインを打ち込んでいく。夕方までかけて、曲全体にギターとベース、ピアノの音をちりばめると、ドラムを入れ始めた。
友人のボカロPに言わせると、俺のやり方は少し変わっているらしい。通常、歌というのはまず曲を作り、そこに歌詞を乗せていくのが一般的だが、俺は歌詞から作成する。歌詞にメロディをつけ、メロディに伴奏をつけて完成させるのがスタイルだ。ミミを手に入れて一年と半年程、元々音楽の素養なんてなかった俺は最初は和音も分からなかった。だから伴奏をつけるのにも苦労したが、今はずいぶんと慣れ、一曲を作るのにそこまで時間を要さなくなっていた。これなら連休中にスマイルに投稿できるかもしれない。
一通り作り終えると耳休めも兼ねて、CGMサイトのピカプロでイメージにあったイラストを探す。おおよそ1曲中に使うイラストは四、五枚。一枚は自分で描くとして、残りは探す……というのがいつものパターンだった。ここに投稿されているミミのイラストはたいがい好きに使っていいので、俺のような底辺ボカロPの強い味方だ。が、ボカロPといってもPとしての名前はまだなかった。当初からSkar198というアーティスト名を名乗っている影響もあるだろうが、まだP名を貰えるような曲が作れていないのが大きい。スマイル動画には十五ほど曲を投稿しているけれど、再生数が一万に届いたのは一曲だけだ。
けれど俺は満足していた。投稿すれば少しだけれど何らかの反応があった。本当に少ない人数だけれど固定ファンもついた。
「2げと」「まってました」「よかったよ」「今回はいまいちだったかな」
画面がコメントでいっぱいになる弾幕には程遠いし、画面のスクロールもわずかのコメント数だ。それに必ずしも褒められるわけじゃない。けれどそれが嬉しかった。反応があるのは嬉しい事だ。もちろんマイリストと再生数が増えたら、もっと嬉しいだろうとも思う。曲のイメージイラストなんて描いて貰った日には踊りだすだろう。
二時間ほどかけてイラストを選んだ俺は、夕方までに大方の打ち込みを終えるとコンビニでパスタを買った。パスタを腹に収めると曲を構成する音をまとめるミックスを行う。気が付けば曲をかけたままパソコンデスクに突っ伏して眠っていた。次の日の昼遅くに目を覚ました俺はいそいそとお絵かきソフト「Saiホーン」を立ち上げて、曲用イラストの最後の一枚を描き始めた。集中して創作をやると時間の経つのはあっと言う間で、もう窓の外が赤みを帯びていた。すっかり暗くなった頃にもう一度ミックスを確認、調整し、歌詞を載せた動画作成、スマイル動画にアップロードして、キャプションをつけた。
〔どうも、Skar198です。〕
いつもの調子で始まるキャプションの中に、自分の楽曲リストとイラストの作者名を並べると投稿ボタンを押した。VOCALOID本スレにも宣伝を兼ねてアドレスを貼り付ける。
次の日の伸びは……というと、まあいつもの感じだった。期待なんてしていなかった……いや、少しはしていたけれど、こんなもんだろうという具合だ。スマイル動画め、たまには新着ピックアップに載せてくれたっていいのに。
〔お前はいいよなー〕
我らがホウエンを代表するドラゴンポケモン、ボーマンダのアイコンをクリックし、ボマイプを立ち上げるとキーボードを叩いた。。
〔なんだよ急に〕
〔俺もP名欲しい〕
友人で同じホウエン出身のドゴームPにそう愚痴を言った。ドゴームP。彼はミミをデスヴォイスで歌わせるのを得意とし、作り出すサウンドは爆音という言葉が相応しい。そのあまりの音圧にスマイルユーザー達はおおごえポケモン、ドゴームの称号を贈った。当初なんでよりによってドゴームなんだせめてバクオングにしろなどと愚痴っていたドゴームPだったが、今では結構気に入っているらしい。
〔P名欲しい〕俺が再びそう愚痴ると〔わかったわかった〕と、返事が返ってきた。
くそう、余裕だな。やっぱ殿堂入り曲があって、絵師や動画師の友達がいるPは違う。
一通りドゴームPに愚痴ると俺はブラウザで新しいタブを開き、151ちゃんねるにアクセスする。108本目のブラッキースレが開かれた。ネットでこの都市伝説を見つけて以来、月光ポケモンを巡る一連のストーリーは今尚俺を魅了し続けている。
やっぱり盗ませるなら、再生数だろうか。それとも有名Pの才能だろうか。しかし、そんな事で満たされるのか。盗ませた再生数で、盗まれた才能で。
ある訳がないと理解しつつ、ぼんやりとそんな事を考えた。
ブラッキーは今日もまた交換に出されていた。何を盗んでも、どんなに主人に応えてもストーリーの結末は決まっている。途切れる事のない新着動画に埋もれていく俺の楽曲のように。
両耳にセットしたヘッドフォンからは昨日投稿したミミの歌が流れ込んでくる。
〔結果なんて見えている けれど今日も積み上げる〕
近未来のミミロップが囁いている。曲は一回目のサビを終え、間奏に入った。
*
ミチル(仮名)はネット上のイラスト交流サイトdowblerのユーザーだった。
ある時、何気なくグローバルリンク上の交換リストを覗いていると、ブラッキーが交換に出されている事に気が付いた。元々イーブイ系のポケモンが好きだったミチルはさっそく交渉を開始した。話はあっさりとまとまり、さっそくセンターに出向いて転送マシンからブラッキーを迎えたのだった。家に辿りつき、部屋でボールを放った時、さっそくブラッキーが喋った。
『ご主人、私は貴方の願いを叶える為に来ました。貴方は画力が欲しいんでしょう?』
ミチルは驚いた。彼女の絵はdowbler上でなかなかブクマ数が伸びなかった。私の絵が伸びないのは絵が下手なせいだ、彼女は常々そう思っていたのだ。
「あの人みたいな画力があれば、私も人気が出ると思うの」
ミチルは自らの欲望を正直に語った。
そうしてミチルは憧れの絵師の画力を盗んでしまった。彼女の絵は次第に人気が出たけれど、元の才能の持ち主は不調を理由に引退してしまった。彼女の絵のブクマ数は増え、念願のランキング入りも果たした。けれどそのうちに151ちゃんねるのヲチスレでこう言われだした。
「ミッチーの絵ってさあ ○○っぽいっていうか そのままだよなぁ」
○○とはもちろん元の才能の持つ主だ。同じようなコメントはイラスト感想欄にもしばしば寄せられるようになった。そうしてマイドーブルの友人の一言が彼女に止めを刺した。
「ミチルってすっごいうまくなったよね でも私、昔の絵のほうが好きだったな」
途端に激しい罪悪感が彼女を襲った。
ミチルはdowblerを退会し、ブラッキーを交換に出した。
*
朝起きる。顔を洗ってパソコンを起動するとお気に入りのミミ曲を再生する。ブラウザの別タブで開いた巨大掲示板は、今日も新たなストーリーを映し出していた。
高校を出て、大学進学を果たした時に下宿を始めて一年と少し。講義の出席と課題を消化しながら、時々ミミに歌を歌わせ、ネットサーフィンをして過ごす。多くはミミの曲を聴き、dowbler(ドーブラー)、chirutter(チルツター)、151ちゃんねるを見る事に費やす。友達は少ない。彼女もいないし、ポケモンも飼っていない。人はそれを非リアというかもしれないけど、月一の食事会を除いては束縛されない一人の生活に俺は満足していた。
一人暮らしは俺自身が選んだ事だ。そして正解だった。こうしていれば母と顔を合わせる事もなく、主張のない弟にイライラする事もない。むしろ遅すぎた。早くこうすべきだったとさえ思っている。
が、その心の平穏は突如として脅かされる事になった。
「ポケモンを引き取って欲しいの」
唐突に母がそう言ったのは新曲投稿から三週間が経った「食事会」の席だった。
2
「……ポケモン……?」
そういう言葉が出るのにしばらくの時間を要した。
ポケモン。引き取る。おおよそ母が使うには似つかわしくない単語の組み合わせだった。
珍しい事だった。母が俺に自ら話を振るとは。それは同時に振られる話題がろくでもない事であるという事を示してもいた。
すると母が珍しくフタキの隣に座るサーナイトを見たかと思うと、こう言った。
「ラルトスなの。介助ポケモンの試験に適合しなかった子なのよ」
ノルマなのだ、と母は言った。弟のフタキに割り振られた介助ポケモンのサーナイトは希望者が多い。が、シンクロサーナイトの介助というのは近年確立されたものであって、盲導ポケモンやその他の介助ポケモンなどに比べれば育成が進んでいないのが現状だ。そしてこれは盲導ポケモンなどでも同様だが、訓練を施していく段階で不適合とされる個体も出てくるわけだ。
待ちの多いシンクロのサーナイト。より早く希望のポケモンをあてがって貰う為にはどうすべきか――その答え、からくりの一つが今、俺の目の前にあった。一体母は何匹のラルトスを「引き取った」のであろうか。
「そっちで引き取ればいいじゃないか」
俺は当然に反論をする。だが、
「それが、同種族のポケモンを置いておくのは駄目だって。普通に飼育するのと介助ポケモンで扱いが違ってしまうとよくないらしくて」
と、母が言った。
「そもそも事前の相談も無しに」
「それは悪かったと思ってる。本当は別の人にお願いする事になってたの。事情が変わったのよ」
母が淡々と言う。料理をついばむ箸はとうに動きを止めていた。庭に生える立派な松の木の見える料亭の一室。本来なら和やかに風景を楽しみながら食事をするその場所の空気は険悪だ。
「お願いよ。協力して。介助用に訓練されていた子だからしつけは出来てるし」
そういう問題ではない、俺は言った。
「下宿で飼えないなら、引越しの費用は出すから」
そういう問題でもない、と俺は答えた。下宿でポケモンを飼っている同級生なら山ほどいた。
誰か飼いたい人がいたらその人に譲っても構わないわ。続けざまにそう母が言ったような気がしたが右から左に通り抜けていった。母の隣、フタキがにわかに目を伏せた。横に正座するサーナイトは微動だにしなかった。介助以外には興味がないというように彼女は自らの仕事のみに忠実だった。その事が余計に俺を苛立たせた。
次の瞬間、まるでスマイル動画のボカロ実写PVみたいに遠い日の映像が脳裏に再生された。
「追憶」と題されたその動画の投稿日は俺の十歳の誕生日の十日前で、動画の始まりは家の電話がけたたましく鳴り響くシーンからだった。受話器を取った母は血相を変えて家から飛び出し、夜に時計の短針が一番上を指しても帰ってこなかった。朝、お腹をすかせたままリビングのソファで眠りについていた俺を起こしたのは父だった。
――カズキ、落ち着いて聞きなさい。
響いたのは父の意を決したような声だ。
「今更ポケモン? 引き取れって? 冗談じゃない」
俺はゴネた。耳にはおおよそ大学生らしくない調子の俺自身の声が響いていたが、自分でも制御が利かなかった。だって許せなかった。ようやく手に入れた心の平穏、今の環境。それがこの人の介入によってそれを乱される事がどうしても許せなかった。それに、今更……。
この人は覚えていないのだろうか。かつて自身の長男が十歳になってポケモンを持てる年齢に達した時、自分が何を言ったのかを。毎月毎月茶番に付き合ってきたのは、最低限の付き合いをし、それ以上の干渉はさせないという俺なりの意思表示だった。だが、付き合った挙句がこの仕打ちか。
けれど、母は淡々と自らと弟の事情を述べた。そこに俺の感情は入り込む余地がなかった。歩けない弟の為――それが理由であれば俺に何でも要求できる。それが母の論理だった。この人は昔からこうなのだ。だから高校を卒業して家を出た。親から経済的な援助があるとはいえ家から出た俺をこの人は未だ振り回すのだろうか。俺は断固拒否の構えをとった。
だが結局、父が間に割って入り、「特典」を付加した上で一週間後に地元のセンターで引き取る事に落ち着いた。ポケモンを飼うならフード代がいるから、保険や各種の手続きも必要だから、他にもいろいろ入用だから。もろもろの理由をつけて、仕送り増額の上での合意だった。さすがに一人暮らしの資金を出してくれている父が相手では文句が言えるはずもなく、俺はしぶしぶ了承した。
だが悪くなった部屋の空気はもう元には戻らなかった。あなたはカズキを甘やかしすぎる。母は父に苦言を呈し、俺はデザートを前に部屋を飛び出した。石の敷かれた玄関で靴を履くと、ガラガラと引き戸を開き、そして閉めた。いくつかの石灯篭の横を通り過ぎ、敷地から出ていった。脳裏で、一次停止していた動画の続きが再開されていた。
――フタキが大怪我をして入院した。
あの時、父は俺に言った。フタキがゴローンの落石事故に巻き込まれた、と。
それは放課後、小学校の裏山での事だったらしい。突如山道から転がり落ちてきた岩石ポケモンの重い身体がフタキの身体を吹っ飛ばした。普段そのような事は考えられない場所での不運な事故。吹っ飛ばされて叩きつけられた弟は重体となり、三日間目覚めなかった。幸いにも押しつぶされる事を免れたフタキは、手足が潰れたり、千切れるような事はなかったが、目覚めた時に痛みの中、異常事態に気が付いた。
足が動かない。
フタキは下半身不随の状態になり、歩けなくなっていた。
*
渡まぐろ(仮名)はネットの小説書きだった。二次創作作家にして腐女子だった渡は「進撃の巨大ポケモン」というバトルアクションセカイ系マンガに大ハマリした。
キャラB×キャラAのカップリングがお気に入りだった渡はせっせと小説を量産した。渡の文章力とストーリーテリングには定評があり、それなりにファンもついた。だが渡には不満な点があった。それは進撃の巨大ポケモンで最もメジャーなカップリングはB×Aではなく、A×Bだった点だ。
腐っていない諸君には理解できないかもしれないが、ABの順番の違い、この違いはめちゃくちゃでかい。少なくともパンとご飯、男女くらいには違う。いやそんな生易しいものではないかもしれない。とにかくそれくらい違う。
そこで渡は行動に出た。先日、グローバルリンク経由でカロスからやってきたブラッキーにこう命じたのだ。
「A×Bの人気を盗んできて」
そうして人気は盗まれ、B×Aのほうに人が流れた。
渡の小説のブクマ数は瞬く間に伸び、ついにランキングの一位に躍り出た。だが同時に、何人かの人間から脅迫めいたメッセージが届くようになった。
「あなたはA×Bを書くべきです」
「B×Cを書いてください!」
「なんでB×Aなんですか! 貴女が書くべきはC×Aなんです!」
彼女はカップリング論争の渦中に引きずりこまれてしまった。
年の二回カントーで開かれる腐女子の決戦にも参戦した渡の薄い本はよく売れたが、大量に貰ったファンレターのいくつかにカミソリが仕込まれていた。
彼女はジャンルから撤退すると、ブラッキーを手放した。
*
〔腐女子こえー〕
俺は親指を動かしてレスをした。
一週間はあっと言う間で、ラルトスの引き取りの日がやってきた。地元のポケモンセンターへと足を進める俺の右手にはスマホが握られていて、画面に小さな文字が並んでいる。今日もブラッキースレに新たな一話が加わっていた。
この町のセンターに来るのは初めてだった。自動ドアが開くと、すぐ先にはロビーがあり、種々のポケモンを連れたトレーナー達が集っていた。まっさきに目に入ったのは短パンのトレーナーが連れた黄色い鳥人、ワカシャモだった。ホウエンで貰える最初のポケモン、その一種の進化系だ。俺はしばしそれを見つめていたが、彼らの横を通り過ぎ受付に声を掛けた。
「ポケモンの引き取りに来ました、スズハラと申します」
そう言ってトレーナーカードを見せる。十歳になる少し前に講習を受け発行され、十歳になって有効になったものの結局は使う事のなかったカードだ。身分証としては便利なので毎年更新だけはしていたが、まさか今になって本来の使い方をする時が来るとは思わなかった。受付嬢はカードを受け取ってスキャンすると、パソコンの画面を確認する。
「はい、確かに」
彼女はそう言うと奥の部屋の装置にはめられたいくつかのボールの中から、一つを取り出して俺に渡した。
「念のため、ポケモンを確認ください」
受付嬢がそう言って、俺は不慣れにボールを放った。赤い光が漏れて、ロビーに緑色のキノコの傘をかぶったみたいな白い肌のポケモンが現れた。
「はい、間違いありません」
俺はそう言うと早々にラルトスをボールに戻した。そうしてセンター内の二階へ足を運び、さる手続きを行った。考えがあった。
そうして俺はその日をセンター最寄りのカフェや本屋など、ショッピング街を回りながら過ごした。もしかしたら今日中に結果は出ないかもしれない。むしろ明日にでも見に来たほうがいいだろうと思う一方、早く済ませてしまいたいという気持ちがあった。そうなったほうが俺とラルトス、お互いにとっていいだろうという風にも考えた。スマホにイヤホンを刺し、ミミの曲を聴きながらマンガを立ち読みし、時々ブラッキーのスレを覗きながら、その時を待った。
あの食事会の後、駅を目指しながら夜風にあたっていると熱を帯びていた頭も少しずつ冷えてきた。俺はいつものようにスマホに映る151ちゃんのスレをスライドさせながらある事に気が付いた。
そうだ。嫌ならば手放せばいい、と。あのスレのブラッキーのようにグローバルリンクを使って誰かと交換してしまえばいいと気が付いたのだ。その事に気が付いた時、みるみる気持ちが楽になった。
無論、ラルトスに罪はなかったが、俺にはラルトスを飼う気が起きなかった。大きさもシルエットも違うとはいえ、あのカラーリングはどうしてもサーナイトを連想させた。サーナイトは同時に母と弟を起想させ、俺を憂鬱な気分にさせるのだ。せめてラルトスでなければ、気持ちに踏ん切りもつくのではないか。俺はそう考え、ラルトスを引き取り早々に交換に出す事を決めた。
事前の下調べによれば、このポケモンはそれなりに人気があるようだった。よほど厳しい条件を提示しない限り交換の相手はすぐに見つかるだろうと期待できた。早ければ数時間でトレードは成立する。もちろん条件は出来る限り緩くした。ポケモン種族は同族でない事意外の条件はつけなかったし、性別にも指定は入れなかった。俺はラルトスをGTS――グローバルトレードステーションに預け、交換が成立した場合、スマホにメールが届くよう設定した。
スマホをいじる。ブックマークからスマイル動画を開く。自分の最新曲を見たが伸びはよろしくない。再生をする。自分では気に入っているのだが。
*
私の知り合いの知り合いの話なんだけどネットアイドルやってた子がいたのよ
でも正直顔が微妙でさ
写真加工ソフトでお化粧はしてたけどぜんぜんダメだったんだって
でもある時に珍しいポケモンを交換して貰ってからどんどん人気が出てきたらしい
急に綺麗になりだしたらしくて、その子の友達もびっくりしたみたい
でもね、一ヶ月くらい経って突然やめちゃったんだって
なんでやめちゃったのって友達が聞いたら、気持ち悪いメールがいっぱい届くようになったからだって
で、このスレ見て思ったんだけど、たぶんその子、例のブラッキーを交換して貰ったんじゃないかなって
ブラッキー使って人気アイドルの「顔」盗んじゃったんじゃないのかな
他にも体型とか胸の大きさとか盗んだのかもしれない
でもさ、人気アイドルに近づけば近づくほどその子の負の部分もくっついてくるんだと思うんだ
たぶん気持ち悪いメールって元の顔の持ち主の過激なファンか何かでしょ
そういう部分も全部引き受けちゃったんじゃないのかな
*
スマホが鳴った。それは俺がちょうどパスタ屋でアボガドバジルソースをすすり上げている時だった。新着メール欄を見るとポケモンセンターからで「交換が成立しました」と、あった。残り三分の一ほどになったパスタを急いで腹に収めると、ポケモンセンターに引き返す。自動扉が開くのと同時に二回へと駆け上がり、転送マシンの前に立った。
一度息を大きく吸って、トレーナーカードを通しスキャンする。インターネットカフェのコーヒーマシンに似た転送装置は銀色に鈍く光っていて上と下から電気ショックに似た光を放った。上下から来る光は瞬く間に丸い形を形成して、それはポトリと落ち、底にはまった。
黒いボールだった。モンスターボールの赤の部分がそのまま黒になっている。
一体どんなポケモンが。心なしか胸が高鳴る。マシンからボールを取り上げると、放った。光がシルエットを形成する。四足が見えた。よかった。そこまで巨大なポケモンではなさそうだ。が、光が弾けたその瞬間、俺は目を見開いた。
「そんな。まさか……」
それはある意味、俺が最もよく知っているポケモンだった。
毎日毎日、名前を見ているあのポケモンだった。
それは黒いポケモンだった。すうっと伸びた大きな耳、すらりとした体型のその獣の瞳は大きく赤く、額には金色の輪っかがあった。
「……ブラッキー!?」
それはイーブイの進化系。何種類かいる進化の分岐の、その一つ。
まさか。俺は思った。
まっさきに浮かんだのは件の噂。でも、まさか。
俺の脳内は今までに読んだスレの数々を走馬灯のように思い出していた。
そんなはずはない。あれはただの都市伝説だ。
だが、抑えれば抑えようとするほどに心臓は鼓動を早めていく。すると、
『にゃあ』
ブラッキーが俺を見上げて鳴いた。一気に身体の力が抜けていくのを感じた。俺はそのままへたりとしゃがみこんで、そして言った。
「はは……、そうだよな。これからよろしくな」
月光ポケモンの頭に触れる。暖かい感触が伝わってきた。初対面の主人にも関わらず、ブラッキーは目を細めて顔をこすりあわせてきた。
よかった。こいつとならうまくやれそうだ。
帰りにもう一度、ショッピング街へ寄り、フードとポケモン用のベッド、トイレを買った。ブラッキーを交換で貰ったのだと言ったら、皆羨ましがった。店員さんはフードについてくわしく話してくれたし、ブラッキーの身体の大きさに合うベッドも選んでくれた。大きな荷物を抱えて下宿に戻る。ベッドとトイレの梱包を解き、ポケモン用の赤い皿にウェットのフード缶を開けると、モンスターボールからブラッキーを出した。
黒のポケモンはきょろきょろとあたりを見回すと、ひとしきり俺の部屋をふんふんと嗅ぎまわった後、フードに口をつけた。さすがにアドバイスして貰って購入した品だけあって食いつきはいい。
「狭い部屋だけどよろしくな」
俺は言った。二十代に近くなっての初めてのポケモン。こんなにわくわくするのは久しぶりかもしれない。そういえばセンターでプロフィールを貰ったっけ。そんな事を思い出してバッグから紙を取り出した。ベッドに横になり、ひとしきり眺める。おやの名前欄にはアンドリューとあった。外国産か。
「ふうん、ニックネームはついてないんだな」
すっかりフードを食べ終わった月光ポケモンを見て言う。
「なら、俺がつけてもいいよな?」
おやがつけたニックネームは原則変えられないが、これならよさそうだ。
ブラッキーは再び俺の部屋を嗅ぎまわると、机に飛び乗った。パソコンを覗き込む。電源の切られたパソコンに、ブラッキーの赤い瞳がおぼろげに映る。
「そうだな。クロなんてどうだ?」
しばらく考えた後にそう言った。さすがに安直だろうか。
ブラッキーから返事はない。まあ、そりゃそうか。俺はプロフィールの紙を畳むと、ごろんと寝返りを打つ。今日は早めに寝ようなどと考えた。
事が起こったのは、その数秒後の事だった。
『……ひどいネーミングセンスだ』
突然、男の声が聞こえた。
「えっ?」
俺は思わず身体を起こした。声の発生源は机の方向だ。机には一匹の黒いポケモンが乗ったまま本棚を見つめている。
『ふーん、お前、ボカロPなのか』
また男の声がした。
「…………」
本棚に目をやればインストール済みの飛跳音ミミのパッケージがあった。それを見つめるブラッキー、その口は間違いなく動いていた。本棚に向けられた視線が俺のほうへと動く。赤い瞳と目があった。
真っ白になる頭の中、動画の再生が始まった。何年か前、スマイル動画の黎明期に見つけたあの文字を読む動画が。タイトルは確か、盗まれた才能。
『欲しいものは何だ?』
クロと名付けたブラッキーは言った。
彼の種族はブラッキーである。
得意な技は「どろぼう」。
彼はグローバルリンクを彷徨うポケモンだ。
何度も何度も交換されて、持ち主を転々としているという。
『お前は何が欲しいんだ?』
狭い部屋に声が響く。それは若い男のような声で。
『才能か? 再生数か? それとも――』
黒のポケモンは再び問うた。
3
ポケモンセンター近くにあるショッピング街は大学の帰りに寄る事も出来、便利だ。時々自炊の材料を買って帰るし、歯磨き等の生活用品も買っていく。だが最近はそれに加えて買うものが一つ増えた。
俺はショッピング街の入り口に立つと、鞄から黒いボールを取り出して中身を放った。中からは月光ポケモンが飛び出す。俺はひょいっと月光ポケモンを抱き上げるととあるショップへと入っていった。
「あら、いらっっしゃい」
もうすっかり顔馴染みになった女性店員が出迎え、言った。
俺は軽く会釈をすると、カゴを手にし、片手でクロを抱きかかえたまま獣型のポケモンフーズを扱う売り場へと足を伸ばした。ここはポケモンのフードを扱う専門店で、ゴーストタイプやら鉱物型のポケモンやら様々なポケモンに対応した種々のフードが取り揃えてある。俺の腕に抱きかかえられた月光ポケモンは売り場に着くと、棚に並べられた種々のフードを眺め、吟味し始めた。
「早くしろ。腕が重い」
俺はクロにそう言った。
――缶詰よりカリカリがいい。
出会って早々にニックネームにケチをつけたブラッキーが次にケチをつけたのは俺が買ってきたフードだった。それで次の日にビタポケを買ってきたのだが、今度は安物は口に合わんと罵られた。毎度毎度文句を言われるのも面倒なので、こうして時々来ては選ばせている。
クロはしばらく熱心に棚を見つめた後にいくつかを前足で差した。俺は指示されるままにカゴに入れていく。高いものばかり選びやがってと、文句をつけるのも忘れなかった。だが、反論は返ってこない。こいつは人語を操る稀有なブラッキーだが、俺と二人きり以外の時は絶対に口を開かなかった。買い物を終えて家に帰ると、さっそくそのうちの一つを開けた。
赤い皿に盛られたエレガントニャルマーなる固形高級ポケモンフーズ。クロは満足げにカリカリと食べ始めた。
「美味い?」俺が尋ねると『まあまあ』と返ってきた。こんな生活が始まって二ヶ月になる。
――スピーカーじゃ……ないんだよな。
それが話しかけられて最初に出た言葉だった。どろぼうのブラッキーは人語を話す。それはスレッドではお決まりの設定だったが、最初は喋れるポケモンに恐れおののいた。
――ミミロップに歌わせているくせに何を驚く。
クロはそう言ったが、だめなものはだめだった。ポケモンが喋れる。人と会話をする。それはある意味トレーナーの夢であり、多くの小説やゲームにも登場するが、目の前にしてみると違和感や不気味さしかないものだった。だが、慣れとは恐ろしいもので、一ヶ月が経ち、二ヶ月が経ち、それは日常の一部と化していった。
俺はパソコンの電源を入れる。一週間前にスマイルに投稿したミミの新曲を開いた。
再生数は二千と少し。一週間が経過した動画の伸びは鈍化傾向にあった。動画投稿者、Skar198は相変わらず底辺ボカロPのまま。俺は溜息をつく。そろそろスライドショーはやめて、もう少し凝るべきだろうか。
『俺がどろぼうしてやれば、動画師も殿堂入りもあっと言う間だぞ』
後ろから声が聞こえた。俺は背もたれによりかかる。
「言っただろ。俺が欲しいのは再生数じゃない」
『ならマイリストか』
「いらない」
『有名Pの知名度だっていいし、有名動画師のテクニックだっていいんだぜ』
「自分でなんとかする」
『嘘をつけ。俺のいくつか前の主人はどれも欲しがっていたぞ』
「いらないって言ってるだろ」
半ば意地になりながらそう返すと再び背後でカリカリという音が響いた。
嘘か。俺は頭の中で呟く。それは半分本当で、半分が嘘だ。実際、再生数やマイリスト数はもっと欲しいし、コメントだってもっともっと欲しい。いつかランキングにも載りたいと思っているのは本当だ。だが、それはあくまで俺自身で成し遂げなければならないものだと思っている。PVだって、つけて貰うなら曲に惚れ込んでくれた人に付けて欲しいのだ。底辺ボカロPである俺にだって創作者の矜持のようなものはある。
ただ、仮にもう一万でも再生があればそれによって聴いてくれる人が出るのではないかと考えない事もない。実際俺が聴く曲を選ぶ時だって、再生数は一つの基準になるからだ。だから百万再生レベルの動画から一万を「どろぼう」してくる事を考えないわけじゃない。
けれど一方で五千の動画に一万をプラスして一万五千とする事はひどく恐ろしい事のように思えた。三分のニは俺が稼いだ数じゃない。それは虚構、ニセモノだ。俺はいつしか一万の再生数に飲まれるようになるのか。いつか151ちゃんねるで見たストーリーのようになるのはごめんだった。それは俺の中の小さなプライド、あるいは恐怖だ。
『もしかしてまだ疑ってるのか』再び後ろから声が聞こえる。
「そうじゃない」俺は返した。
こいつが、クロが本物なのはもう分かっている。なぜなら検証したからだ。俺は既に二回、クロに再生数を盗ませている。一回目は千、二回目もまた千だ。俺は自分の動画から千を盗ませ、自分の違う動画に千を移した。そしてその千をまた盗んで元に戻したのだ。合計二回、それに気付いた人間はおそらく誰もいない。
「どろぼう」を行う時、クロは窓から部屋を出て、そしてしばらくして戻ってくる。どこに行っていたんだと尋ねたが企業秘密だと返されて教えて貰えなかった。ただ確かに動画の再生数は千移動し、そしてもう一度千移動して、なかった事になった。
『動画をやってる奴は最初にだいたい同じ事をやる』
どろぼうブラッキーは言った。俺はどうやら見事にストーリーの初期段階を踏んだらしい。そういえば昔、ブラッキースレで同じような話を読んだ気がする。
クロは散歩が好きだった。俺がネットサーフィンや曲作りに興じている時はしばしば半開き窓から出ていき、しばらくして戻ってくる。が、どろぼうのそれとの区別が俺にはつかない。
今までいろいろ盗んできたのだが、その多くが「数字」だったともクロは言った。そしてそんな人間の多くが絵を描く人間である、話を書く人間であり、曲を作り、奏でる人間、歌う人間であるとも語った。だからなのか何かを創る事、その事全般に関してクロは否定的な意見の持ち主だった。
『人の願いってのは結局ちやほやされたいって結論に行きつくものさ』
と、クロは言う。
『絵、文字、音。そのどれもそれを叶える手段に過ぎない』
「そうかな」俺が疑問符をつけると、
『そうとも』とクロは答えた。『俺もまたその一つだ』と。
『好きだから』なんて詭弁だとも言った。
『媒体そのものが好きだから、やっている奴ってのは極めて少ないさ。人はなぜ絵を描く? 文字を書く? 音を奏でる? それは自分を特別と思いたいからだ。自分は他とは違うのだと思いたい。特別だと思いたい。実にくだらない事だ』
「でも、その欲を叶えるのがお前なんだろ?」
『そうだ』
俺はクロに様々な事を尋ねた。多くはブラッキースレで考察されている設定についてだった。
自らをオスであるとクロは言った。身体的特徴からもどうやら間違いない。そしてポケモンセンターから貰った紙に書いてあるおやのアンドリューはでたらめだとも教えてくれた。『ないと困るので適当に名義を盗んできた』らしい。誰が最初のおやであるかクロ自身もよく分かっていないという。だいたいの人間には生まれて間もない頃の記憶は残っていないが、それと似たような感じなのだろう。気が付いたらグローバルリンクを介してトレーナーを転々としていたという。
『物心ついた時、俺は既にブラッキーだった。誰かに懐いた覚えはない』
『おそらく最初からブラッキーだったんだろう』それがクロの弁だった。
クロが本当な事を言っているのか、はたまた嘘でたらめを言ってるのかは判断が付かない。だが、害はないのでそのまま信じる事にしている。
『俺には役割がある』
と、クロは語った。
『お前の主人の欲望を叶えろ。それが俺にプログラミングされた命令であり、存在意義だ』
プログラミング、という単語が出てくるあたりさすがインターネットを介した都市伝説のその本人だと思う。
「あのスレッドに本当の話はあるのか?」
『さあな。でも近い話ならあるんじゃないか』
「実際、何人くらいの主人がいたんだ?」
『数なんて忘れた』
「人気曲ばっかり歌う歌い手ってどう思うよ」
『あれは俺の代替手段だ』
「イーブイの進化系ってどれが一番好み?」
『よく喋るやつだなぁ……』
一人と一匹の質疑応答は続いていく。今日も高級カリカリを皿に山盛りにして、俺はブラッキーの機嫌を取った。それは興味だった。スレで追い続けた都市伝説が今俺の部屋に居座っているのだ。話を聞かない手はない。
「今までにニックネームをつけられた事は?」
『いろいろあったが、忘れた』
「一個も?」
『名前なんて記憶しておく価値の無いものだ』
「俺の所ではクロでいい?」
『勝手にしろ』
そしてある日、俺は一番気になっている質問をした。
「主人達が短期間でお前を手放してしまう事はどう思う?」
するとクロはしばし黙った後、
『知らん』と、言った。
『俺は欲望を叶える為にいる。そう生まれついた。終わったら次へ行くのは摂理だ』
即答だった。そういうものなのか。俺は少しがっかりした。
気にはしていないのか。都市伝説のようにあれ。そういうプログラムがこいつには組み込まれているという事だろうか? クロがカリカリを平らげる。前足で顔をぬぐい始めた。
『で、お前は何が欲しいんだ?』
ペロペロと前足を舐めると、クロが問う。
「分からない」
俺は答える。すると、
『そんな事はないはずだ。俺はいつだって呼ばれるんだ』
と、月光ポケモンはここに来て何十回目かになる台詞を言った。
『俺の存在を求める奴らがいる。だから俺は交換されてくる。俺はそういう渇望から生まれて、そういう風に出来ているんだよ。そういう人間の所に行くようになっている。だからお前には盗みたいものがあるはずなんだ』
「そう言われてもな……」
俺は頭をぽりぽりと掻いた。確かに再生数は欲しい。もっと人気が出たらと思う。けれどそれは魂の叫び、渇望と言えるほどのものではないと思う。
『お前は特別になりたくはないのか?』
「どうだろう。今より曲を聴いて欲しいけど」
そう言うと、クロは煮え切らんやつめ、とでも言いたげな視線を投げてきた。
『まあいいさ。そのうちにはっきりする』
そう言ってクロは机横に置いてあるベッドに入り、丸まった。フードには文句をつけたクロだったが『これはなかなかいい』らしい。金の輪っか模様の黒い塊、それは寝息を立て始めた。呼吸で腹が上下している。これだけ見ていれば普通のポケモンと変わらない。
俺は机の席についた。ヘッドフォンして、ミミの曲を聴ける。それは今週の週刊一位のボカロ曲でアップテンポの曲に凝ったPVが付けられていた。動画制作者の名前にポリゴンβの名前。よく有名Pとコラボしている動画師だった。別タブで151ちゃんねるを覗く。今日もブラッキースレは新たな物語を生み出し続けている。スレは【109】に移り、ガイドラインが投稿され、現在の進度は20レスほど。だが少なくとも今ここに投稿されている物語は作り話だ。投稿を続ける皆はその存在を信じているのだろうか? おもむろにポケモンベッドを見る。
どろぼうブラッキーはいた。都市伝説は実在した。スレ上のブラッキーは今日も交換に出されたが、そいつなら今、俺の横で寝てる。
4
久しぶりにスマホに届いたメールは父からだった。それは今月の「食事会」の告知で「ぜひ来て欲しい」旨が書き記してあった。というのもポケモンを押し付けられた腹いせに先月はさぼってしまっていたからだ。今月はという催促のメール。父が針の筵(むしろ)に座らせられるのも悪い気がして、了承の返事を送った。
『誰からだ?』
ショッピング街からの帰り道、隣を歩く月光ポケモンが尋ねてきた。寂しい路地、周りには誰もいない。
「親父から」と答える。すると、
『ほう……』
とても関心がある風に声を発した。最近クロはよく俺と行動したがった。出来る限りボールから出てきて、出来る限りの場所へついてくる。それは俺の欲望を叶えるという自らの命題の為だった。その為には俺、スズハラカズキを知る必要があると考えるようになったようだ。
大学の授業はポケモンがおとなしくしている限りにおいてポケモン同伴も可能だった。ブラッキーの同伴は心なしか女子達に好評でよく休み時間に触りにくるようになった。このシチュエーションもスレのどこかで見た気がする。
『そういえばお前の家族にはまだ会った事がなかったな』
月光ポケモンはいかにも欲望の糸口を掴めそうだという期待を口調に込め、言った。
「え、だめだぞ」
俺は慌てて答えた。母にも父にも弟にも、クロを見せるつもりは毛頭なかった。俺が引き取り早々にラルトスを交換してしまった事は家族の誰も知らない。欲しい人がいれば譲っていいと言われたとはいえ、まだ二ヶ月だ。心証が悪くなる事は明らかだった。何よりそれによって「特典」が終了になる事が俺には痛手だった。クロは食にうるさく、最近のお気に入りはエレガントニャルマーだ。高級カリカリは高いのだ。
「お前、毎日ビタポケ食わされるのは嫌だろ?」
俺がフードを理由に説得にかかると『ならボールでいい』と返事があった。いわく、ボールに入った状態でも近くにいれば会話は聞こえるし、だいたいの様子も分かるから、という事らしい。
「分かった。ボールなら」
俺は了承した。
食事会の会場はやはりカナズミ市だった。ホウエン有数の企業、デボンコーポレーションのお膝元であり歴史もあるこの町には老舗が多い。母がとっかえひっかえ店を変えても選べる所はたくさんあるという訳だ。最寄り駅は偶然にも前に使った兼澄天神だった。父から貰った住所をスマホで地図検索し、俺は歩いて目的地へと向かう。徒歩で三十分程度かかる場所だったが、歩くのは嫌いじゃなかった。それに新曲のアイディアは移動中に浮かぶ事が多いのだ。
ふと、鞄がもごもごと動いて赤い光がファスナーの間から漏れた。クロがモンスターボールから出てきたところだった。
『どうにも退屈でな。食事会とやらまではまだ時間があるんだろう?』
すっかり暗くなった夜の道、額と足、耳にかかった金の輪と赤い目を光らせたクロはそう言った。暗闇の中の月光ポケモンは美しく、悪くないと俺は思った。
『そういえばお前、なんでボカロPになったんだ?』
人通りの少ない道中、クロは遠慮なく話しかけてきた。この質問は初めてだな、俺は思った。今まで再生数が欲しいか、マイリストが欲しいか、それとも弾幕を盗ろうかなどとは散々に聞いてきたクロだったが、方向性を変える事にしたと見える。そういえば理由、誰にも話した事がなかった。積極的に話すような機会がなかっただけで、隠すような事でもなかったから、アスファルトを踏みしめながら語り始めた。
「好きな曲があったんだよ」
俺は言った。
『好きな曲?』
月光ポケモンが聞き返す。
「そう。高二の時だった。たまたまスマイル動画で見つけたんだ」
俺は頷き、続きを語った。マイリストも再生数もすごく少ない埋没動画だったけど、好きだった、と。そうして続けざまにこうも言った。
「大げさかもしれないが、あれは俺の人生を変えた曲だ」と。
するとクロは訝しげに『初耳だな』と言った。そして、
『お前のマイリストはだいたいチェックしたが、そこまでヘビロテしてる曲なんてあったか?』
と質問した。
「いや、マイリストにはないんだ」
『ない?』
「ああ、もうない」俺は答えた。
削除された。投稿者削除ってやつさ、と。
『……いわゆる引退か』
「たぶん……」
そこまで会話してから、しばし俺達は無言で歩いた。何個かの街灯の下を通り過ぎ、自動車が二、三度、横を走り抜けていった。横断歩道の前に立った時に再び会話が再開された。
「はがねのつばさって曲なんだ」
俺は横断歩道のボタンを押して、言った。
「他の動画サイトに転載がないか探したんだけど、どこにも見つからなくてそれっきり。再生数も少なくてマイナーな曲だったからね」
突然に動画が消えてしまった時はショックだった。投稿者の名前はヨロイドリと言った。ヨロイドリ氏は自分の投稿した動画をすべて消して、姿を消してしまった。今でも後悔している。どうして曲をダウンロードしておかなかったんだろう、どうしていつでも聴けるなんて思い込んでしまったんだろう、と。せめてコメントをしていれば。今でも時々考える。
「俺のアーティスト名、Skar198だろ。ぶっちゃけそれ」
はがねのつばさ――ヨロイドリ――すなわちエアームド。198はエアームドの全国図鑑ナンバーで、Skarはエアームドの英語名Skarmoryからだ。ミミが歌うボカロ曲「はがねのつばさ」無しに今日のSkar198は存在しない。
信号は青に変わった。俺達は歩きだした。
「だから、あえて言うならそれが理由。いつか「はがねのつばさ」みたいな曲を作りたい。それが俺がボカロPをやってる理由」
まあ、作曲センスからしてぜんぜん違うんだけどな、と付け加えた。
「それに続けてればいつかどっかで会うかもしれないじゃないか。確率は低そうだけど」
気まぐれに「はがねのつばさの作者を探せないか」と聞いてみた。だがクロは首を振った。自分の能力は「どろぼう」だ。「どろぼう」は盗む対象がはっきりしていないなければ使えない、と。
俺達は道を進んでいく。しばらくして、明かりの強い場所に出る。
「あ、ここ、ジムがあるんだ」
約束の場所に向かう途中にはやや大きめのポケモンセンターがあった。そのすぐ隣にはポケモンジムとスクールが並んでいる。看板を見るとカナズミジム、と刻印されていた。とうに日は沈んでいたが、中にはまだ人がいるらしく屋内の運動場からドタドタと音が漏れている。ポケモンの技だろうか? そこから漏れる明かりでシルエットになった人影、ポケモン達の影が行ったり来たりする。あそこで互いに手を振っているのはスクールの学生達だろうか。十二、三歳くらいだろうか。彼らは自分のポケモンと共に家路についていく。
『どうかしたか?』
しばし足を止めていた俺にクロが尋ね、ふと我に返った。
「なんでもない」俺は言った。
「……そろそろ時間だ」
そう言ってクロをボールに戻す。鞄の中に仕舞い込んだ。
スクールを過ぎて何十メートルか歩く。約束の店の明かりが見えた。
今月の食事会の会場はカロス料理店だった。
ゴーゴートのミルクで作った特性のバターをパンにぬりつけ、俺達はメインディッシュを待った。
「ラルトスは元気か?」
父が聞いてきて元気だと嘘をついた。そのうちに人に譲ったと言うつもりだが、今はまだ時期ではない。まるで俺の嘘を見破っているみたいにフタキのサーナイトの赤い瞳がじっと見つめてきたが無視をした。それどころかサーナイトは俺が連れてきたものに気が付いている風だった。テーブル横の籠に俺達は持ってきた鞄を入れたが、時々視線がそこへ移動する。こんな落ち着きのない素振りを見せる彼女は初めてだった。
「どうしたの? ミドリ」
もう一匹のポケモン、その存在に気付いていない弟がそう言うと、ミドリと名付けられたサーナイトはなんでないです、というリアクションを取った。ふうん、こいつミドリって言うのか。名前は初めて聞いた気がする。
そんなやりとりの一方、母は父に「ねえ、あなた」と声をかける。聞けばフタキの進学の相談だった。そうか来年はフタキも受験生になるのか。
多忙な父は食事会の時こそ時間を作ってくるものの、昔から仕事の帰りが遅かった。だから母は込み入った相談をこういう場で母は始めてしまう事がよくあった。ポケモン引き取りの件しかり。食事くらいゆっくり楽しめばいいのにと思う。
やっぱりカナズミ大がいいかしらね、などと母は言った。あそこは家から近いし、校舎も建て替えて配慮した設計だから、と。フタキは何も言わない。ただ黙って聞いている。まだ歩ける頃からあまり主張のない奴だったけど、歩けなくなって母がつきっきりになってからはますますそうだ。介助ポケモンの導入で、母のやるべき事は激減しているはずだが、精神的にはどうなのだろうか。
フタキはどうするつもりなのだろう。やはり母の言うままにカナズミ大を目指すのだろうか。いつの間にかそんな事ばかり考えている事に気が付いた。料理を楽しめばいいのに。俺も人の事は言えない。不意にフタキが俺を見た。俺に何か言いたそうにしたが、食事に戻ってしまった。なんなんだよ。まったく。
「予備校もいくつか回っているのよ。個別指導の所はちょっと遠いのが悩みどころで……」
母は尚も話し続けている。予備校か。俺の時は一人で見学に行ったっけ。母は任せると言った。何校か回って、父に了承を得た事を思い出す。
フォークを持つ手が止まる。次第にイライラし始めている自分に気が付いた。
関係ない事じゃないか。俺には関係ない。そう念じた。
関係ない。関係ない。俺はもう家を出たのだ。今更母が弟をどうしたいだとか、フタキ自身がどうしたいだとか、俺の知った事ではない。それなのになぜこんなにイライラするのだろう。
「ねえ、あなた。どうかしら」
母が言う。その視線は俺には向けられない。最低限必要な時にしか。食事会に呼ぶのだって、家族を揃えるのだってフタキの為という名目だ。母は父に話しかける。フタキの為に。
フタキが、フタキが、フタキが。母の口から弟の名前が出る度に俺はイラついていた。
――お前は何が欲しい?
唐突にクロの声が聞こえた気がした。
思わず鞄のほうを見る。目線を戻す時、向かいのほうようポケモンと目があった。彼女の赤い瞳はクロのそれと重なった。
違う! 俺は念じた。違う。これは違うんだと。
もう乗り越えたんだ。もう関係ない。もうそんな年齢(とし)でもない。もう俺は何も期待しない。
だから嫌だったんだ。こんな茶番に付き合うのは。
「お待たせ致しました」
ウェイターの声が響いた。メインディッシュの魚料理が運ばれてきた。皆が一斉にナイフとフォークを入れたけれど、味はよく覚えていない。ただ、頭の中で動画が再生されていた。遠い日に撮影したあの動画が。投稿日は俺の十歳の誕生日の、その十日後だった。
「追憶02」。動画タイトルはそう題されていた。再生されるのは少々ノイズが入った映像。あまり画質はよくないし、音質もよくないけれど、あの頃の感情というものを思い出すには十分なものだった。
――なんでだよ! 約束したじゃないか!
動画に映る十歳の俺はひたすらにそう叫んでいた。
十歳。それは特別な歳だ。ポケモンの所持を正式に許され、子供でありながらにしてある種の大人と扱われる年齢。例えばカントーのある田舎町では子供達は最初のポケモンを貰い、全員がトレーナー修行の旅に出るという。俺の住む町ではそこまではやる家庭はめったにいなかったけれど、これを機にポケモンを与えられる子供は多く、地元ジムをクリアするくらいにはトレーナー修行もする。
俺もずっとその時を待っていた。あらかじめこれと決めていたのはアチャモ。ポケモンセンターでのお見合いは日に日に迫っていて、カレンダーにバッテンをつけながらその時を待っていた。もう少しでお誕生日ケーキ、そこからもう少し経ったらアチャモ。
けれど、弟が落石に遭い、誕生日祝いは流れてしまった。そして。
――カズキ、ちょっと来なさい。
あの日、学校から帰った時に珍しく病院から戻ってきた母いて、そして言った。ちょっとここに座りなさい、と。そしてフタキが歩けなくなった事、これからは車椅子生活を余儀なくされる事、だからいろいろ協力して欲しい事などを告げた。
俺は頷いた。けれど、次の言葉はすぐには受け入れがたいものだった。
――カズキ、ごめんね。ポケモンは諦めて欲しいの。
母は言った。
その弁はこうだ。フタキはもう歩けない。十歳になってもポケモンを持つのは難しいだろう。お兄ちゃんのあなただけがそれを持っていたら、あの子があまりにも不憫だから、と。
俺はゴネた。なんで? 約束したじゃないか。もうポケモンだって決めているのに。なんで。
けれど最終的には受け入れた。受け入れざるをえなかった。数ヵ月後にフタキは退院し、車椅子姿で戻ってきた。その姿を見てとてもポケモンが欲しいとは言えなくなった。
俺はポケモントレーナーにはなれなかった。手元には登録済みのトレーナーカードだけが身分証としてだけ残された。
5
ガリ勉。あるいは点取り虫。そんな風に言われていた時期が俺にはある。しかしそれは仕方のない事ではあるまいか。俺は家庭の事情によりポケモンを持てなかった。同級生はみんなポケモンバトルに興じているのに、俺はそこへは入っていけないのだ。仕方ないではないか。
俺は外に出なくなった。多くの時間を学校の図書館で過ごした。家に帰ったって、母と弟がいるだけだ。母は弟を送迎に来るが、俺はそこには入らない。小学校の三歳差は大きく、そもそも授業が終わる時間が違う。
俺は図書館に入り浸り本を読んで、飽きたら自由帳に絵を描いた。お陰でクラスの誰より漢字が読めたし、図工の時間に絵を描かせればクラスで一番だった。音楽のリコーダー試験も褒められた。ポケモンを持っていない俺は誰よりも練習をする暇があった。暇にかこつけて教科書に載っている曲はだいたい吹いた。好きなアニメの曲を音を探して耳コピした事もある。俺はピアノを習った事もないし、音楽の専門教育を受けた事もない。それにも関わらずボカロPをやろうなんて思ったのもこういう体験に根ざしているのかもしれない。
店の前にタクシーが停まり、父と母、弟とサーナイトが乗り込んでいく。駅まで乗っていくかと父は尋ねてきたが、寄る所があるからと断った。タクシーが去っていく。遠ざかってこぶし大の大きさになり、道路を曲がった頃、肩に掛けたバッグがごもごもと揺れ動く感触があった。光が放たれる。それは俺の隣でブラッキーの形を為す。
「勝手に出てくるなよ」不機嫌に俺が言うと、
『いつ出るかは俺が決める事だ』とクロは返してきた。
俺達は再び夜の街を駅に向かって歩きだす。
『あのシンクロ女、俺に気が付いてやがったな。ずっとこっちを牽制していた』
クロは言った。
「すごいな。ボール内でも分かるって本当だったんだ」
俺は素直に関心し、そう返した。
『お前の弟、フタキだったか、足が悪いのか』
「……そんな事まで分かるのか」
『足音が少し、な』
末恐ろしい奴だ。
「昔、事故で。つい最近までは歩けなかった。サーナイトは介助ポケモンだよ」
俺は言った。こいつには何を隠しても無駄そうだから白状した。
だが、次を聞いた時に少し後悔した。
『事前言った通りだ。だいたい分かる。お前が終始イライラしてたのも伝わってきた』
と、クロが言ったからだった。
『もうお前さん自身、気が付いているんだろ』
そうクロは続けた。
「……そういうんじゃない」
俺は返した。
帰り道、再びポケモンジムとスクールの前に到達するのに時間はかからなかった。こんな時間になってもまだ明かりはこうこうと灯っている。さすがに小学生達は帰っている時間帯だから、社会人あたりが使っているのだろうか。
『言っていなかったが、あの女と同じで俺の特性もシンクロでな。波長を合わせればご主人の状態というのはだいたい分かってしまう訳だ』
明かりがクロと俺を照らす。多方面の角度から照射される光はいくつもの影を生み出した。俺の影は何方向にも伸び、同時にクロの幻影も多方面に伸び、交差した。
『前にお前の言った通りだ。確かにお前が欲しいのは動画の再生数でもマイリスト数でもなかった。いや、正確にはその欲がない訳ではないが、本当に欲しいものには遠く及ばない。今日ついていってそれがよく分かった』
「分かったような事を言うんじゃない」
俺は言った。もうこのブラッキーには事の本質が見えかけている。俺が見ないようにしてきた問題をこのポケモンは嗅ぎ付けた。ひどく不快だった。
明かりの先を俺は見た。思った通りポケモンスクールには屋内バトルフィールドがあり、社会人と思しき人々が、ポケモンバトルに興じていた。会社帰りだろうか、スーツのビジネスマンの姿も見えた。
『お前、弟が妬ましいんだろ』
横に立つ黒い獣は言の葉を突き刺してくる。
「違う」
反射的に俺は言った。だがそれは、ひどく自信のない否定だった。本当は自信でも分かっているのだ。
『……そうじゃなくても、嫌いなのは確かだ』
言葉を変えてクロは言い、今度は「そうだな」と答えた。
屋内バトルは活気を増していく。スーツのビジネスマンが繰り出すヌマクローに中年らしき男のコドラが突っ込んでいく。それを華麗にかわしたヌマクローは口から泥を吐きかけ、マッドショットをお見舞いした。昔、こういう風景に憧れていた事があった。
「お前、なんでも盗めるんだよな」
俺は言った。
『ああ、望むなら、なんでも』
クロは答える。
「でも俺、お前が盗めないもの、知ってる」
『ほう?』
「お前は無くなった過去は盗んでこれない。そうだろ?」
『そうだな。過去はもう存在しない。今ここに存在しないものまで俺は盗ってこられない』
だんだん、分かってきたじゃないかと、クロは続けた。スレの考察は当たっていた。151ちゃんねるの情報もたまにはあてになる。
「小さい頃、ポケモントレーナーになり損なってね」
と、俺は語り始めた。トレーナーへの未練があるか、と聞かれればもう無いように思う。今更旅立ちたいとかジムに挑戦したいとか、そういう風には思わない。時期はもう、過ぎ去ってしまった。
「けれど、あの時、そうさせて貰えなかったそれに対する憤りのようなものだけが胸に残っているんだ」
あの時、母はフタキの事情でポケモンを持つなと言いながら、今度はフタキの事情でポケモンを持てと言ってきた。それが俺には許せなかった。だから腹いせにグローバルリンクを使った。
「その結果、引いたのがクロ、お前だ」
だとすればそれは必然なのかもしれない。
「追憶03」。俺の頭の中でそう題された動画の再生が始まっていた。母はフタキにつきっきりになった。行動が不自由な事を鑑みればそれは仕方のない事だったが、一方で俺は放置された。それで少しでも母の関心を買おうとあの頃の俺は躍起になっていた。
今考えてみればフタキが歩けなくなって以降、母は常に俺に持たない事、平凡である事を求めていたのだ。それが母の考える平等な子育てであり、不憫な弟を気遣うという事だった。フタキは不憫な子供だ。この先、フタキは多くを望めない。そのように母は考えたに違いない。だから見せてはいけなかった。あんな事がしたい、こんな事が出来るようになりたい。兄によって為された事を弟が同じように望む事を母はひどく恐れたのだ。
「けれど、俺にはそれが分かっていなかった」
――ねえ、お母さん、100点取ったんだよ。
――ねえ、漢字のテスト、クラスで一番だったんだ。
テストで100点が取れれば見せにいき、描いた絵がコンクールに入賞すれば賞状をもっていった。お兄ちゃんはすごいや、無邪気にフタキは言った。だが、母はいつだって無反応だった。
「俺にポケモンを与えないって采配は、ある意味正解だった」
お陰で俺はインドア派になった。運動はどちらかと言えば苦手だ。もしかけっこで一番になったなどと母に言っていたら、平手打ちの一発では済まなかったかもしれない。
幼すぎた俺は決して省みられない努力をしていた。母は俺に振り向かなかった。そして馬鹿な俺は思い込んだ。もっともっと上を目指さなければいけないのだと。これでは足りない。もっともっと結果を出さないとダメなんだ。もっと完璧にやらないと母は褒めてはくれないのだと。
「本当に馬鹿な話だ」
中学生になり、母に成績の話はやめた。ただ、意地を張り続けるかのごとく、高成績を維持し続けた。それはある意味あてつけだった。母への。いや、母とフタキへの。
一方のフタキはマイペースを維持していた。それだけで無条件に愛された。俺は弟が大嫌いだった。
プツンと糸が切れたのは高校の時、カナズミ市内有数の進学校に入ってからだ。
例え底辺ボカロPであっても、作曲を続けるのは少しでも反応があるからだろう。たとえその正体が構って貰えなかった事に対する代償行為だったとしても、あの頃に比べればよほど健全だ。
「……乗り越えたと、思ってたんだけどな」
クロはしばし黙っていたが、やがて確信めいた風に言った。
『カズキ。俺に……』
が、不意に声がかかった。
「ねえ君! 見てるんなら混ざらない?」
ピンとクロの耳が片方上がった。声のほうに振り向けば、先ほどバトルをしていたスーツの男性だった。
「え? お、俺?」
驚いて自分を指差せば、そうだそうだとスーツの男性は頷いた。
「一人あぶれちゃってさー。よかったら相手してやってよ!」
でも俺、バトルなんて、学校の授業くらいでしかやった事ないけど。
だが、俺が返事に詰まっているのを他所にクロが動いた。
『にゃあ!』
月光ポケモンはそう一言鳴くと、たたっと駆け出して、建物の中に入っていってしまった。
「お、珍しいポケモン持ってるじゃない!」
スーツの男性はそう言うと、さ、早く早くといった具合に俺を建物の中に招き入れた。
妙な事になってしまったものだと思ったが、クロの赤い瞳がいいから早く来いとサインを送った。バトルフィールドの片側、顔も知らない相手に向かい合う。
「ポケモンの数は?」レフェリーが聞いてきて、一体で、と答えた。
にわかにクロが足元に近づいてきたかと思うと、耳を貸せと言いたげにズボンを引っ掻いた。
『いいか、俺が合図したら――』
クロはしゃがんだ俺に小声で耳打ちする。バトルフィールドへ躍り出た。
「準備はいい?」
スーツの人が尋ねる。
「は、はい……」
俺がそう言うと、レフェリーのフラッグが上がり、クロの黒い身体がフィールドを駆けた。
最初の技はたぶん、電光石火。クロが身体は相手に猛スピードに突進して、そして距離を取った。にわかに身体が熱くなり、鼓動が早くなったのを感じた。それはたぶん、生まれてから十年と十日以来、お預けになっていた何かだった。
相手のポケモンはマッスグマ。電光石火を喰らい一瞬よろけたが、すぐさま体勢を立て直し、一直線に向かっていく。ものすごい加速だった。標的に迫ったとっしんポケモンは両の前足の爪でクロを切り裂いた。
が、その姿は幻影のように掻き消えてしまった。マッスグマの下で不気味に影が動いたかと思うと、クロは背後をとっていた。瞬間、赤い瞳と目が合った。
「悪の波動!」俺は叫んだ。
炸裂音が響く。フィールド全体を轟かす炸裂音だった。砂が巻き上がり、視界を遮る。耳に残る余波が収まった頃、のびたマッスグマと後ろ足で頭を掻くクロの姿が現れた。見物していたトレーナー達が歓声を上げる。
「飛び入りさんの勝ちだ!」
スーツの男性が叫んだ。
*
ミアレシティに住むジャンヌ(仮名)は恋多き女性だった。ある時、ある男性に恋をした。
けれど、美しいドレスを纏っても、人気の舞台に誘っても彼は相手にしてくれなかった。
彼には清楚な恋人があったのだ。
ある時、偶然にも件のブラッキーを手に入れた彼女は命じた。
「彼の心を盗んできて」
男性の心は彼女のものになった。
*
『盗りたいものを言え。カズキ』
最寄りの駅から下宿までの道、クロは言った。
欲望が明らかになった、今こそ命令を下す時だ、と。
街灯の下で輝くのは赤い瞳と金の輪。それは鮮やかさを増していた。
『今からでもバトルがしたいなら、トレーナーになりたいなら叶えてやる。だがお前はそれで満足しないはずだ。お前の欲しいものは別にあるのだから』
月光ポケモンは辿りついた。核心に。
俺が欲しいもの。フタキが持っていて、俺に無いもの。
『本来なら二等分するものだった。お前の弟が独占していた』
過去は取り戻す事が出来ない。なら今もあるものを盗れ。
クロはそう言っている。
『俺になら出来る。お前の欲しいもの、盗ってきてやれる。その為に来た』
闇の中にはただ、赤と金だけが浮かんでいる。
けれどそれは月光ポケモンの輪郭を想像させた。
「今更欲しがる年齢じゃないさ」
俺は言った。
『じゃあ、なぜお前はイライラしてるんだ? お前はイラついてる。弟の名前が出る度に』
「うるさい」
語尾を払うように遮った。
だが月光ポケモンはめげなかった。
『なら言い換えよう。お前は奪いたいんだよ。弟からおふくろの関心を奪いたい』
「奪いたい?」
にわかに声のトーンが変わった。
『そうだ。お前の弟は特別だ。お前の母にとっての特別だ』
特別。それはクロが使うよく使う言葉だった。
人は特別になりたがっている。
それを叶える手段の一つが描く事であり、書く事であり、奏でるという事――創る、という事であると。
『お前はその特別を剥ぎ取りたい。そうなった時に何が起こるか、その先を見たいんだ』
「その先を……」
その言葉は少しだけ俺の心を捉えた。
『「どろぼう」は対象を手にする為だけにやるものじゃない』
「フタキから奪えと?」
『そうだ』
俺はしばし沈黙する。それなら少し興味があった。あの主張の少ない弟が母の特別を失ったらどうなるのか。
その時あいつはどうするだろうか。どんな行動に出るのだろうか。
どんな顔をするだろうか?
『興味深いだろ?』
そうしたら少しは気が晴れるだろうか。
腹に溜まったイラつきがとれるだろうか。
闇の中、一対の赤い目は爛々と輝いている。
主人の欲望を叶える。それがこの黒い獣の存在意義だ。
『お前が一言、命じさえすれば……』
だが、クロが言葉を紡ぎかけた時にバッグの中でスマートフォンが揺れた。取り出して画面を見る。表示される見知らぬ番号。それは着信だった。
「もしもし?」
こんな時間にかけてくるような友人なんていただろうか? だが、
「……兄貴?」
聞こえたのは知った声だった。
それはまぎれもなく俺の弟、スズハラフタキのそれだった。
思わず闇の中の赤い瞳と目を合わせる。噂をすればとはよく言ったものである。
一瞬の間の後、「そうだけど」と、返事をした。
「よかった! 番号変わってたらどうしようかと思ってたんだ」
何も知らない弟の声が明るくなる。そういえば契約した時に教えた気がする。けれど俺から電話した事はないし、番号も登録していなかった。
「ごめん、こんな時間に。本当は会った時に言うつもりだったんだけど、タイミングを逃してしまって」
「……で、何?」
「あのさ、来週の土曜日空いてない?」
「土曜日?」
俺は怪訝な表情を浮かべる。
「ライブのチケット余ってるんだ。約束してた友達が行けなくなって……興味なかったら悪いんだけど、どうかな」
「……ライブ」
意外な提案に驚いた。あいつ、ライブとか行く趣味あるのか。
だがすぐにそうか、と合点した。フタキには今、介助ポケモンがいるのだ。昔なら母同伴の上での外出だ。けれど今はその気になれば。
そうだな。二人で会うのも一興か。
再び暗闇に目線を投げた。
グローバルリンクを巡る都市伝説。
人から人へ渡るブラッキー。
そのポケモンは何でも盗ってこれる。「どろぼう」を使って。
黒い獣は俺の手に。
「わかった。行くよ」
俺はそう返事をすると、場所と時間をフタキに尋ねた。
特別を、奪う。
殺生与奪権は俺が握っている。
6
「兼澄本町(かなずみほんちよう)、兼澄本町」
電車のアナウンスが約束の駅名を告げた。カナズミシティの中心地でデボンコーポレーション本社も近い場所だ。フタキが指定してきたのはカナズミ市の中心地にある百貨店、DOGO前の広場だった。ぶわっと水が吹き上がる。噴水に住むコンクリートのホエルオーは半身だけを見せ、威勢よく潮吹きをした。広場にはデートを楽しむカップル、友達同士で歩いていく女の子達、そしてポケモンを連れたトレーナー達の姿がある。
弟の姿はすぐに見つかった。噴水近くに座っている人物が手を挙げたからだ。隣には白いドレスのポケモンが座っている。
「待ったか?」
ベンチに近づいて俺が尋ねると、さっき来たところだとフタキは答えた。隣の介助ポケモン、サーナイトが見上げるようにじっと俺を覗き込んでいたが、俺は無視した。バッグにはモンスターボールがあったが、ここにクロはいない。
「ねえ、お昼はもう食べた?」
フタキが尋ねてきた。なんだか今日はやけに喋るな。そんな事を思いつつ、
「いや、まだ」と答えた。
「じゃあ先に飯にしよう。ライブまでは結構時間あるから」
フタキが言った。そして、サーナイトが先に立ち上がり、手を伸ばした。
「行きたい店があるんだ。そこでもいい?」
サーナイトの白い手をとりながらフタキが言って、「ああ」と俺は答えた。弟がベンチから腰を上げた。
弟の歩みは常人のそれと比べればだいぶゆっくりとしたものだった。足音が違う、とクロは言ったが、やはりぎこちなさがある。だがサーナイトは嫌な顔ひとつせず、弟を導いていた。手を繋ぐ一人と一匹、まるで恋人にも似たその姿に時折道行く人の視線が刺さる。けれどフタキはまったく気にしていなかった。俺はフタキの歩調に合わせ、その後をついていった。俺は改札口で、クロをボールから出した事を思い出していた。
――別行動にしよう。
クロがそう言ったのは前日の夜の事だった。やはりボールの中は退屈だ、と。何より弟の連れ合いの視線が痛い事が最大の理由らしい。
『にゃあ』
クロはボールから出されると俺を一瞥し、普通の声で鳴いた。そして雑踏の中へと消えていった。
道すがら、サーナイトは何かを気にするようにちらちらとあたりを見ていた。どうしたの、とフタキは尋ね、何でもないんです、という素振りを見せる。おそらくどこからかクロが見ているのだと思った。
弟に案内されたのはカイナシティ名物、カイナバーガーの店だった。バンスに大きなハンバーグ、豊富な具材を挟んだ特大のバーガーだ。地下にある店に入るには狭い階段を降りなければならない。なるほど、弟の選びそうな店だと思った。こんな店、車椅子では絶対に入れない。
「荷物見てて。注文してくる」
フタキはそう言って、俺に希望のメニューを尋ね、サーナイトとカウンターのほうへ歩いていった。しばらくして、スタンド付きの数字入りプレートを三枚持って戻ってくると向かい合う形で席につく。
「チケット渡しておくね」
そう言って鈍い銀色の券を俺に差し出した。
ハミングバードライブ――歌鳥音楽祭VOL.3と印字されていた。
「……ああ、ライブってハミィだったのか」
俺は言った。
ハミングバード、通称ハミィ。スマイル動画でも中堅どころの歌い手だ。「歌ってみた」。スマイル動画で自分の歌った曲を発表するジャンルがある。歌う曲は流行のアニメのテーマソングだったり、ボカロのオリジナル曲だったりする。ミミの曲の中には「歌ってみろ」というタグをつけられた曲が存在する。あまりにも高速だったり、使う音程が広すぎたり、間がなかったりといった曲だ。人間の滑舌と音域、息継ぎのタイミングを無視したミミの為の曲、それらを見事に歌い上げる事で名を高めてきたのがハミィだった。
「知ってるの!?」
フタキがやや身を乗り出して聞いてくる。
「ああ、まあ。そこそこ有名だし」
有名なのははらはらイーブイコレクションだ。元々はミミのオリジナル曲で、イーブイとその進化系達が毎度何らかの騒動や事件を起こすといった内容なのだが、曲が進む度に早く難しくなていく。イーブイ、シャワーズ、サンダース、ブースターと図鑑ナンバーが進む度に難易度が上がるのだが、グレイシアあたりまで来るともう何を言っているのか分からない。たいがいの歌い手はブラッキーあたりでギブアップする。
チケット裏を見た。ゲストもなかなか豪華だった。歌ってみた、弾いてみた、それにライブ活動をするボカロPの名前があった。実力派揃いだ。
「知ってるならよかった。兄貴の趣味に合わなかったらどうしようかと」
フタキは胸をなでおろすように言った。
まさかこいつがスマイルを見てるとは。そんな事を思ったが、よく考えてみればフタキは俺以上にインドアだったと思い出した。なんせ半年前までは歩けなかったのだから。スマイル動画という存在がどれだけカズキの時間を占めたか。それはきっと俺以上だ。
「スマイルは結構見るの?」
「まあ、そこそこな」
俺は言った。まあ一応ボカロPだし。ぜんぜん有名じゃないけど。
「好きなジャンルとか、ある?」
「ボカロとか? 週刊ボカロランキングはチェックしてる」
俺は答える。ただし、曲が入った事はない。エンディングで紹介される31位以下にかろうじてサムネなら載った事があるが。
「へえ、意外」
と、フタキは言った。悪かったな。どうせピラミッドの下のほうだ。
そんな事を言っているうちにハンバーガーが運ばれてきた。焼けたハンバーグのいい匂い。噂に聞くカイナバーガーは思った以上に具沢山だった。メインのハンバーグに加え、各種木の実を薄くスライスしたものがたくさん挟まっている。俺達はフォークとナイフを手に取る。具沢山すぎてとてもじゃないがかぶりつけない。
「これこれ、一度食べてみたかったんだ」
そうフタキは言った。
弟と、いや正確には弟とその相棒との食事。それは思ったよりずっと緊張のない、穏やかなものだった。何より驚いたのはフタキがよく喋るという事だ。食事会の時と比べてもその表情は豊かだった。
その様子を見つめながら、ふと俺は我に返った。
ああ、フタキは何も知らないのだ。俺がラルトスを交換に出してしまった事、それでブラッキーを手に入れた事、そのブラッキーはただのブラッキーではない事。今もどこかでこの様子を伺っている事……。
時折、サーナイトの赤い眼がじっと俺を見た。
だが残念、クロならここにはいない。君がフタキを守る事もたぶん出来ない。
「ねえ兄貴」
「ん?」
「ボカロ好きならこの後「ライコウのあな」行かない?」
「ライコウのあな?」
これまた意外な名前が出てきて驚いた。ライコウのあな、様々なジャンルのオタク向け書籍やグッズを扱う同人ショップだ。本店はカントーだが、ここカナズミにも支店がある。
「ちょっと探したいCDがあって」
そんな訳で今度はショッピングになった。ショッピングビルの八階にその店はあった。俺達は同人音楽コーナーに足を運び、思い思いのCDを物色した。久しぶりのライコウのあなはいろいろ目移りするCDがある。黄色のジャケットが印象的なスパークPや、著名なラノベのテーマ曲を作るので有名なミカルゲP、俺が好きで聞いているP達の新譜が結構出ている。鴨鍋というタイトルのごろ寝Pの新譜ジャケットでは土鍋の風呂でカモネギが入浴を楽しんでいた。ファーストアルバムはコイキングの生き作りだったが相変わらずのジャケットだ。
VOCALOID飛跳音ミミ。彼女はデスクトップミュージックの作者達が歌つきの曲を作る、というハードルを劇的に下げ、また聴き手に聴いて貰うというハードルも劇的に下げたと言われている。それはフタキを外に出させたサーナイトにも似ているかもしれない。
「決まった?」
と、お目当てが見つかったらしい弟がサーナイトとやってきた。しばし迷った挙句にミカルゲPのものを選ぶ。あるわけがないのは知りつつも、ヨロイドリ氏のものがあったら迷わず買うのに、と俺は思った。CDを購入した後、人気シューティングゲームのトゥーホーや某ポケモンアイドル育成ゲームのコーナーなどを覗き、店を出た。ハミィのコンサートまでにはまだ時間がある。俺達は会場近くのコーヒーショップで休憩をとった。今度は俺が注文に行って、テーブルにドリンクを三つ置いた。
「ありがとう」
とフタキは言って、サーナイトにモモンジュースを渡す。
「ミドリは甘いのが好きなんだ」
と、続けた。自分の彼女でも紹介するみたいにフタキの表情は明るかった。
ミドリが来てくれて本当によかった。フタキはそんな発言を繰り返した。カップに並々と注がれた俺達の飲み物は少しずつ減っていった。
「ねえ兄さん」
突然、フタキが改まって言ったのは、そろそろ出ようかと言う頃合になってきた頃だった。
「何だよ。急に」
俺が身構えるように返事をすると、
「その、ラルトスの件、悪かったと思ってる」
と、フタキは言った。本当は俺からお願いしなくちゃいけなかったのに、と。
「ああ、その事」
俺は言った。確かにありゃ迷惑だった、と。
「ごめん」と、弟は言い、「別にいいさ」と、俺は答えた。
「ラルトスは元気……?」
「いや、今はいないんだ」
「え?」
「欲しいって人がいて、譲った」
「そ……そう」
「だから気にしなくていい」
「……うん」
そう言って俺達はしばらく黙った。俺は思う。こうしている今だって俺はフタキの事が嫌いだし、しおらしい態度にイラついてもいる。だがもし、今こうしているみたいにいつも話せていたのであればこの弟に向ける態度も少しは違っていたのではないだろうか、と。
母のいない空間での弟は喋りもするし、それなりに主張もあった。食事会の時に比べればずいぶんとましだ。けれど長年溜め込んだものがすぐに氷解する訳ではない。今は付き合っているだけだ。弟に合わせ、付き合っているだけだ。これは気まぐれ。本番前の前座に過ぎない。
「しばらく父さんと母さんには内緒な」
俺は言った。
「うん」
弟は頷いた。
またサーナイトと目があった。真っ直ぐに見つめる両の赤い瞳。同じように今もクロはどこかで見ているのだと思った。
交換に出されたラルトス、グローバルリンクから来た黒い獣。俺が命じれば何でも盗んできてくれる。そう、何でも。
三つのカップ、飲み物もう空だ。少し氷が溶け、水が溜まり始めている。コンサートの時間が迫っていた。そろそろ出るか、そう言いかけた時、
「あ、あの……兄貴、俺さ……」
にわかに弟が語りだした。
*
恋が叶わぬジャンヌはブラッキーに男性の心を盗ませた。
けれど、ジャンヌは心配になった。
せっかく手に入れたこの心もそのうち誰かにかすめ盗られてしまうのではないか、と。
彼女は男性が他の女性と会う事を許さず、話かける事も見る事も禁じるようになった。
それでも男性の心はジャンヌのものだったが、彼女はもはやそれさえも信じる事は出来なくなっていた。
男性が誰も見ぬよう視力を盗んだ。
誰の声をも聞かぬよう音を盗んだ。
どこかに行かぬよう立ち上がる力を盗んだ。
男性は彼女無しでは何も出来なくなった。
彼は今や廃人同然だった。
*
コンサートもといライブ会場は中規模のハコでドリンク制だった。ジンジャエールを受け取って、テーブル席に着き、その時を待った。最初に登場したのはやはりハミィその人。顔は見た事がなかったのだが、声で分かった。歌い手にはしばしばどうせイケメンなどというタグが付くが、例に漏れずハミィはイケメンの部類だった。
まず最初に披露されたのは代表曲のはらはらイーブイコレクションだ。たっぷりと情感を込めてイーブイの一番を歌ったハミィの歌は次第にスピードアップしていく。
「サンダス、突っ込む、ミサイル針」
ハミィは軽い調子で歌う。このあたりはまだ俺でも舌が回りそうだったが、次第に曲は人の領域を超えていく。ついにエーフィを終え、ブラッキーに続く間奏に入った頃は間奏中に拍手が入るようになった。曲は瞬く間にブラッキーを終え、終盤のリーフィア、グレイシア、ニンフィアに移っていく。
「ニンファサザンドヨセカバッキゼッ!」
もう歌詞を知らないと何を言っているのか分からない。ちなみにニンフィアはサザンドラに妖精の風をお見舞いして効果ばつぐんで気絶。おおよそそんな意味の歌詞である。大きな拍手が起こった。ここまで歌いきれる歌い手はそうそういない。隣の席、フタキも興奮した様子で手を叩いてる。
ハミィが一旦引く。ゲストのスマイルピアニストが現れて、ボカロ曲のアレンジ演奏を披露し始める。さっきと打って変わってスローテンポの曲だ。場がしんと静まった。
だが、曲が変わっても同じ事を俺は反芻し続けていた。
――兄貴、俺さ……
ライブの間中俺の頭をよぎっていたのは、先のコーヒーショップでフタキが語ったその内容だった。
「俺、大学はホウエンの外に行きたいんだ」
突然の告白だった。驚いた。フタキはてっきり母の言う通りカナズミシティ内の大学に行くと思っていたのだが。
「ホウエン外は無理でも、カイナとかミナモとか。一人暮らしが出来たらと思ってる。一旦家からは離れようと思ってるんだ」
母には。俺は尋ねる。
「まだ言ってない」
弟は答えた。今はまだ時期ではない、と。けれど、こうも言った。
介助ポケモンの事を知って、どうしても欲しくなった。だからその為に今までで一番主張したかもしれない、と。
「もちろん出るなら、もっと訓練は必要だけどね」
フタキは付け加える。
「知ってた? シンクロって訓練すればサーナイトがボールに入ってても出来るんだって。今は手繋ぎが必要だけど、今にそうなってみせる」
母さんにはしばらく内緒でね。弟はそう言った。俺もラルトスの事は黙っておくからさ、と。
曲が転調する。激しくなる打鍵に人々は目をみはり、耳を傾ける。これは最近ランキング上位に入った曲だ。ここが一番の見せ場になる。再び横を見る。フタキもまた真剣に聴いていた。
プログラムが進んでいく。ゲストのボカロPがギターを手に自らの曲を歌い、また演奏者が出て、ハミィが混ざって時にセッションになって。そして、気が付けばもうプログラム後半に差し掛かっていた。再びプログラムに目を通す。ラストの三曲は曲名が伏せられている。シークレットらしかった。開場前にフタキに聞いた話によれば、ハミィのコンサートはいつもそうらしい。
暗闇に光る眼に気が付いたのは、会場の興奮が冷めやらぬ中、サーナイトの挙動が落ち着かなくなってきたからだ。
まさか。
そう思って背後を振り向いた時に見えたのは、一対の赤い眼と金の輪だった。
「! クロ」
おいおいどうやって入ってきたんだ? 微かに呟くとそっと席を立つ。途中でブラッキーを捕まえた俺はその首ねっこを掴んで、外の休憩場に出た。喫煙場も兼ねたその場所では男性が一人、タバコをふかしていたがそのうちに出ていった。俺達はベンチの端と端に座っている一人と一匹になった。
『で、いつぶんどるつもりだ』
クロが言う。
俺は夜風にあたりながら上を見た。都会の空は寂しい。星はまったく見えない。
「最初は分かれたらけしかけようと思ってた」
俺は答えた。
『思ってた……?』
予想通り月光ポケモンは怪訝な表情を浮かべた。
「あの野郎、俺が思ってたよりずっと考えてやがった」
再び星のない空を見て、俺は自嘲気味の笑みを浮かべる。
『どういう事だ?』
「お前は「特別」を盗れって言ったな。でもそれは今のフタキにとって好都合って事さ」
あいつカナズミを出たいんだと、と俺は続けた。それが意味するのは母との決別だ。あいつは決めていた。おそらくはサーナイトを手にした時から、既に。今更盗んだとて弟を利する結果にしかならないのだ。
「やるのが三年遅かったな。もうあれは自立してる」
フタキはいずれ母の元を去るだろう。一人で……いや一人と一匹で歩き始める。
――母さんは俺の事を不憫だと思ってるみたいだ。
店を出る前にフタキはそう言った。
――けど俺はそうは思っていよ。少なくとも今はね。俺は何だって出来るし、どこへだって行ける。その為にミドリに来て貰ったんだ。
「惨めだな。完全に負けだよ。俺の負けだ」
フタキは、もう。
自立できていないのは俺だった。俺のほうだったのだ。
惨めなもんだ。歯牙にもかけていなかったPに突如ヒット曲を出されたようなもんだ。
『カズキ。何も俺が盗れるのはそれだけじゃない』
「じゃあなんだ。フタキのサーナイトでも盗れってか? 冗談はよしてくれ」
心が冷めていた。欲しいのはそれじゃない。俺には殺生与奪権がある。けれどこのブラッキーに命じていくらフタキから盗んだって、いくら弟を不幸にしたって、俺が満たされる事はないだろう。虚しさが消える事は無いだろう。
「俺はこれ以上惨めになるつもりはない」
今だって十分に惨めだ。すべて俺の独り相撲だったのだ。
フタキを品定めするつもりだった。その上でブラッキーに盗ませようと。だが、俺の欲しいもの、望みは何かのその議論は散々遠回りをして振り出しに戻ってきた。
『じゃあカズキ、お前が欲しいものは何だ? お前が本当に欲しいものは』
クロは納得いかないという風に言った。立ち上がり、言葉と共に詰め寄ってきた。闇夜に赤い眼はますます光を増している。いつもより毛が立っている気がした。
『お前にはあるはずなんだ! 盗みたいものが!』
クロが珍しく、声を荒げた。
「知らねぇよ」俺は答える。
俺は母の特別を盗み取る事でフタキの反応が見たかったのだ。けれど、その結果は既に見えてしまっている。今更それを自分のものにしたところで。
――母さんは俺の事を不憫だと思ってるみたいだ。
母の特別、それをフタキは憐れみだと言ったのだ。そう、最初から分かっていたはずだ。
俺は最初から歩けるのだ。憐れみなんて必要としていなかったのだ。
『それなら……』
小声でブラッキーは言った。
『……母親の関心でないならなんだ。お前は何が望みなんだ』
四足で立つ黒い獣の脚は心なしか震えているように見えた。
『そうでなければ、俺は』
「クロ、」
ピンと立っていた長い尾と耳、それが力なく下がっていく。
『何の為にお前の所に来たんだ……』
「おいおい、落ち込むなよ!」
俺は慌てた。俺のすぐ横でへたりと座り込んだブラッキーはまるで捨てられたイーブイのようで、いじける子供のようで。今にも消え入りそうで。
「らしくない事言うなよ。お前はいつもみたくエラそうに構えてりゃいいんだよ。フードに文句つけて、気まぐれに窓から出たり入ったりしてさ」
クロ、お前はブラッキーだ。都市伝説上の存在、主人の欲望を叶える獣――けれどその前にポケモンで、ブラッキーで。
ああ、そうだ。昔こんな事があった気がする。
どんなに頑張っても相手にされなかった俺は、意地を張って現状を維持し続けて、それで。
中学に上がっても好成績を維持し続けた。けれどカナズミ有数の進学校に入って、それでしばらくして……。
俺はある日急に起き上がれなくなった。
プツンと糸が切れてしまった。立ち上がる気力がない。何もする気が起きない。
俺は学校に行けなくなった。
「戻るぞ」
そう言ってクロを抱き上げた。
温かかった。大丈夫、こいつは確かに存在している。
*
ジャンヌは心を盗ませた。けれどそれを信じる事が出来なくなった。
それで男が誰の声をも聞かぬよう音を盗んだ。
どこかに行かぬよう立ち上がる力を盗んだ。
男性は彼女無しでは何も出来なくなった。
彼は廃人同然だった。
これでいいわ。もう彼はどこにも行かない。ジャンヌは満足だった。
けれどある日、ジャンヌはふと正気に戻ったのだ。
それは街で楽しそうに歩く男女を見た時で。
彼女は気が付いた。
自分が欲しいものはこういう時間だった。
あれほど好きだった彼はもうどこにもいないのだと。
「彼から盗ったもの、全部を盗って」
彼女は盗み取ったすべてを男に返すと、ブラッキーを手放し、ミアレを去った。
*
ライブ会場に戻ると、ステージ上で歌っていたのはハミィだった。相変わらずのイケメンボイスだ。バックではギターを弾くボカロPに、鍵盤を叩く弾いてみた奏者が音を奏でている。アップテンポの曲は今が最高潮の盛り上がりだ。マイクが悲鳴を下げた。人間泣かせの長い長い音の伸ばし。だが難なくハミィはこなしてみせる。拍手が沸き起こった。
「みんな、今日はありがとう!」
汗をびっしょりと掻きながらハミィは言った。
「とうとうシークレットのラスト三曲です。一曲目はゲストのフェアリーPのリクエストにお応えします。ではフェアリーP、どうぞ!」
バックでギターを構えていた小柄の男がニヤニヤしながらマイクを取った。
「みんな知ってる? こいつさ、今でこそ歌い手やって人気出てきたけど、昔はこそこそボカロPやってたんだぜ? もう引退しちゃったし、ぜんぜん伸びなかったんだけどな」
え? そうなの? 俺はあっけにとられた。ハミィは歌い専門だとばかり思っていた。同じように会場がどよめいた。一部の人間は知っていた、という風に落ち着きを払っていたが。
「俺は好きな曲あるから消すなって言ったのにさ、こいつ全部消しやがって」
「それは言うなって!」
少々顔を赤らめてハミィは言った。オホン、とフェアリーPが咳払いし、続ける。
今ならもっとうまく歌えるだろ? と。
「それでは、昔のこいつの曲から一曲、リクエストします」
フェアリーPがその曲名を口にした。
「え?」
俺は小さく、声に出した。ハミィがマイクを構え、横の奏者は鍵盤を叩くべく指を構える。キーボードが穏やかな音を奏で始める。それは追憶を誘う旋律だった。
知っている。
俺はこの出だしを知っている。
高い空――高速の歌唱で知られるハミィはゆっくりと最初のフレーズを口にした。
高い空 君は見上げる
澄んだ空 晴れ渡る空を
けれど君は知っている そこには決して届かない
君は見上げる 切り取られた空
だってここは籠の中 茨の籠の中なんだ
身動きがとれないよ 棘が僕を傷付ける
ここからは出られないんだ
俺は目をみはった。視線はハミィに釘付けになる。いつか聴いたミミの声とは違う低音、けれど記憶を呼び起こすのには十分なそのメロディに。
昔、立ち上がれなくなった事があった。
起き上がれなくなって部屋から出られなくなって。
引き篭もった俺は無為に動画ばかりを見て過ごしていた。
高い空 君は見上げる
泣いた空 雫降る空を
それは君の心のよう そこには決して届かない
君は見上げる 切り取られた空
茨の網が裁った空 籠の鳥は今日も鳴く
身動きがとれないよ 棘が僕を傷付ける
本当の空は見れないんだ
ここは嫌いと君は鳴く
僕もあそこに行きたいって
けれど君は気付かない
両に生えるはがねのつばさ
高い空 今日も見上げる
澄んだ空 晴れ渡る空を
今日も君は憧れる 決して叶わぬ夢だけど
君は見上げる 切り取られた空
両のつばさ閉じたまま 茨の籠で今日も鳴く
いつか広げたその時に 鋼の刃籠を裁つ
本当はもう知っているんだ
いつか広げる時が来る
君に生えるはがねのつばさ
立ち上がれなくなったあの時、ミミは歌った。
あなたはどこにだって行けるんだよ、と。
それで俺は気が付いた。いつだって俺は自由だったのだ。自由にしていい。どこに行ったっていい。
俺は家を出ると決めた。
新しい場所で、新しい生活を始めよう。
いつかはこんな曲を作りたい。
「クロ、」
袖で顔をぬぐいながら、腕に抱いたブラッキーに言った。
「分かったよ。俺が欲しかったもの」
ようやく分かった。
俺が何を盗みたかったのか。
7
〔よー久しぶりじゃん どうしたの?〕
効果音が鳴った。リプライを返したのはネットでも数少ない友人、ドゴームPだった。
〔実はちょっと相談があって〕
俺はキーボードを打つ。
〔相談?〕
ミミにデスヴォイスを歌わせる事に定評のある彼は聞き返してきた。
〔動画師を紹介して欲しいんだ〕
俺は打鍵した。今作ってる曲があるから、それにPV――プロモーションビデオをつけて貰いたいのだと。ドゴームPはこれで顔が広い。知り合いには何人か動画師がいたはずだ。
〔へえ〕と、彼は返した。〔お前も欲が出てきたのか〕と。
〔まあそんなところかな〕
俺は返事をした。
〔もちろん無理は言わないよ。気に入ってくれたらでいいから〕
来週中には仕上げる。そう彼に約束し、俺は再びミミの打ち込みに戻った。白と灰のノートのような画面、そこに伸びるのは青の棒。クリックやドラッグ&ドロップを繰り返し、青の棒の繰り返しを作る。再生ボタンを押す。メロディラインを確かめる。あらかじめ用意していたテキストを流し込むと、文字の並びを確認し、再び再生をした。ヘッドフォンにつたない未調整の歌が響く。
「よし」
俺は小さく声に出した。歌詞の流し込みは問題ない。一音一音に必要な発音が乗った。
横を見る。クロはポケモン用ベッドで丸まり、眠っている。勝負は早朝と午前中。ブラッキーの活動時間は夕方から深夜。午後から夕方にかけてクロは起きだしてくるから、その間にメインの作業は終わらせる。午後が過ぎてクロが起きだしてからはフードを買いに行ったり、料理を作ったりした。幸い大学は休みに入っている。時間はたっぷりあった。
この曲を作っている事はクロには秘密だった。いや、クロは知っているかもしれないが、作業しているところは極力見せないようにした。元々クロは俺の欲望に関心はあっても、作る曲にはそう関心がなかったから、そこまでの警戒は不要かもしれないが。
「クロ、欲しいものがあるんだ」
コンサートの帰り道、俺はどろぼうブラッキーに言った。ただ、こうも伝えた。
ただし、それを説明するにはしばらく時間がかかる。今しばらく時間が欲しいのだと。
『いいさ』
と、どろぼうブラッキーは言った。
お前には散々待たされている。今更伸びたところで変わりはしない、と。
メロディに歌詞が乗れば俗に言う調教――調声だ。音の強弱やピット値をいじって、つたない歌を自然な流れに変えていく。一晩寝かしてまた次の朝にミミと対話する。何度も何度も声を聴いて、理想の音を探していく。日が傾いてクロが起きだし、散歩に出る。帰ってくればカリカリを開ける。そんな生活を二、三日続けてから、曲に伴奏を入れ始めた。打ち込んでは聴き、打ち込んでは聴き、何度も手直しをする。また三日程が経ち、ようやく弦楽器や打楽器の楽譜が出来上がってくる。ミミの声、それに楽器ごとの音をそれぞれ出力し、DAWソフトのSONARNS上で統合していく。ミミの声はほぼ真ん中に配置し、楽器の音をヘッドフォンの左右に振り分けていく。強弱も調整する。リミッターをかけて、出来るだけ音圧を上げる。このあたりはドゴームPにアドバイスを仰いだほうがいいかもしれない。言い方は悪いが利用できる限りのものを利用するつもりだった。
そうして一週間少しを費やした後にバージョン1.0が完成した。後々直したいところは出るだろうが、曲を知って貰うには十分だろう。
〔お待たせ〕
そう言って俺は約束の日にMP3ファイルをドゴームPに転送した。転送は数秒で終わり、五分ほどの沈黙があった後、反応が返ってくる。
〔今までの曲とえらく雰囲気が違うな〕
ドゴームPは言った。
〔そう?〕
〔だって今までのお前の曲ってさ、報われない感じのが多かったじゃん〕
〔悪かったな〕俺が返すと、
〔いや、褒めてるんだよ。いいよこれ〕と彼は言った。いい意味でらしくない、と。
なんかモデルとかあるの? ドゴームPは続けざまに聞いてきた。
〔ああ、それに関してはここを見てくれ〕
そう応えて、俺はURLを貼り付けた。やはり曲の下地は知っておいて貰うに越した事はないだろう。
〔なるほどね〕
またしばらくの間を置いて彼は返信すると
〔分かった。こういうの好きそうな奴あたってみるよ〕
と、言った。
『で、準備とやらは順調なのか』
新発売のエレガントニャルマーをカリカリと味わった後、クロは尋ねてきた。
「出来る事はやってるよ。後は波を捕まえられるかどうか」
俺は答える。
『波?』
「そう。今は待っている状態」
再び俺は答えた。
来る。来るような気がする。早く来い。早く。俺は頭の中で唱えていた。
〔返事貰ったぞ〕
ドゴームPからの報せが入ったのは三日後の夜だった。急にパソコンが鳴ったのでびびった。急いで席に座ると、
〔βがやってくれるって〕
というメッセージが追加で入っていた。
〔まじで?〕
〔うん、まじで〕
想像以上の結果に驚いた。
β(ベータ)、正式な投稿者名はポリゴンβ。様々なボカロPの動画担当を手広くやっている動画師だった。手がけたPVには殿堂入り曲も多い。
〔今いるから呼ぶわ〕
そう言ってドゴームPが会議モードでβを呼び出した。
〔Skar198です はじめまして〕俺が緊張気味に打つと、
〔どうもー曲聴きましたよー〕と、軽い返事が返ってきた。
三人での作戦会議が始まる。俺は半開きの窓をちらちらと見ながら、打ち合わせを進めていく。クロは夜の散歩中だった。
β氏の仕事は予想以上に速く、絵コンテを送信して見せてくれた。
〔素材としてこんな感じのカットが欲しい。最低十枚、多いなら多いに越した事はない〕
β氏は言った。
〔だったらピカプロで募集かけるか?〕
ドゴームPが言う。
〔でも俺 曲の絵なんて描いて貰った事ないですよ?〕
俺は答える。
〔まあやってみればいいじゃない 背景無しだしなんとかなるって〕
〔いざとなったらお前が描けばいいしな〕
〔ま、まあ そうですね 十枚くらいならなんとかなるか……〕
打ち合わせは進んでいく。
〔おっけー じゃあテンプレ渡しておくから〕
〔スレはお前のほうで立てろよ〕
〔分かりました〕
打ち合わせ、終了。俺はピカプロにアクセスすると、ドゴームPに渡したものから少し改良したバージョン1.1の曲をアップロードした。掲示板にアクセスし、募集をかける。条件を箇条書きにしていく。
動画用イラスト募集。サイズは詳細は下記をご覧ください。曲はこちら、動画はポリゴンβさんが作ってくださいます。
募集イラストは、ブラッキー。
全身が入っているもの。ポーズは自由。下記URLも参考にしてください。締め切りは――
俺はそこまで書き込んで、投稿ボタンを押した。ふうっと息を吐く。ブラウザを閉じて、電源を落とした。
そうしてちょうど半開きの窓から、赤い眼と金の輪が覗いた。クロが散歩から戻ってきたのだ。
『ボマイプでもしてたのか?』
「ああ、うん」
背もたれにもたれかかって俺は答えた。瞼が重かった。
「寝るわ」
俺はそう言うと椅子を回す。立ち上がって移動すると今度はベッドに潜り込んだ。
「ああ、そういえば」
『なんだ?』
「波、きたかもしんない」
俺はそこまで言うと目を閉じた。
『そうか』
クロの返事が聞こえた。同時に意識は急速に眠りの中に落ちていった。
俺は夢の中でもまだ作曲を続けていた。ここはこうしてあそこはああして、次々と課題が浮かび上がる。その度に俺はそれをやっつけるのだが、また新しく浮上してくる。上達する、という事は問題点を浮かび上がらせる事かもしれない。うまくなればなるほどにまずい部分が見えてくる。できるだけそれを潰していくのが上達するという事なのかもしれない。
不意にボマイプが入る。それはドゴームPからで俺は彼に相談をする。ここがうまくいかないんだがどうすればいい? と、アドバイスを求める。一人では克服できない事は誰かの力を使わせて貰う。
またボマイプが入る。今度はβ氏からだった。
〔よっ イラストの集まり具合どう?〕
β氏がそこまで聞いたところで目を覚ました。
朝日が窓から差していた。俺はベッドから這い出してパソコンの電源を入れ、メールを受信する。
〔投稿が二件あります〕ピカプロから通知が届いていた。
「え、うそ」
俺は思わず声に出す。一晩しか経っていないのにイラストが二つ、投稿されていた。そして夕方までかけてバージョン1.2を上げた頃に、イラストは五つになった。何が起こっているのかよく分からなかった。そして締め切りの一週間後、俺自身のカットを加えてブラッキーの数は三十を超えた。立っているもの、座っているもの、走っているもの、眠っているもの……。まるで我が家のブラッキーの行動を一つ一つピックアップしたように掲示板に月光ポケモンがずらりと並んだのだった。
〔上出来上出来!〕
β氏はそう言って、さっそくしかかり中の動画にブラッキー達を取り込むと言った。俺は彼にバージョン1.8の楽曲を渡した。
十日後の公開を目指そう。お互いにそう決めて、それぞれの仕事にかかった。β氏は動画編集にいそしみ、俺は掲示板にお礼を書くと、音を突き詰める作業に入った。ドゴームPに聴いて貰いながら、微調整をし、たまに思いついては楽器を変え、加え、外し、また加え、ミミにも何度もリテイクをさせた。ライトブルーのミミロップは嫌な声ひとつ上げず、健気に付き合ってくれた。
そして十日目はやってきた。
もうほとんどやる事は残されていなかった。β氏は夜型なので、午前のボマイプには上がって来ない事が多い。まだ眠っているのだろう。俺は先にピカプロに曲を上げると、そのURLをβ氏に送っておいた。オンラインになればそのうち気が付くだろうと思った。
横目にポケモンのベッドを見ると、クロもまた眠っていた。黒い腹を上下させながらすーすーと寝息を立てていた。俺は席を立ち、クロに近づくと腰を下ろして眠っている月光ポケモンの頭を撫でた。
「待たせたな。もうすぐそこだ」
俺は呟いた。
俺の欲しかったもの。俺の盗みたかったもの。その答えはミミの曲の中にある。
今なら分かる。人から人の手へと渡るどろぼうブラッキーの都市伝説。それになぜ惹かれたのか。
クロの長い耳がにわかにピンと立ち、黒い獣は寝返りを打つ。前足で何度か顔を洗うようにすると赤い眼をぱっちりと開いた。
「悪い。起こした?」
俺が尋ねると、
『気にするな。十分寝た』
と、クロは言いベッドがら出ると、屈伸した。くわっと口をあけて、尻尾を立て、伸びながら大きくあくびをする。そしていつもの立ちポーズになると、
『飯だ』
と、言った。
「もう? まだ午前中だぞ」
俺が尋ねると
『今日は腹が減ってるんだ』
と、クロは答える。
「エレガントニャルマー?」
『エレガントニャルマー』
「はいはい」
俺は部屋を出ると、キッチンに行き、赤の皿にエレガントニャルマーを山盛りにした。そしてもう一つ容器を取るそこにはモーモーミルクを注いだ。
再び戻る。部屋の引き戸を開け、フローリングに置く。
「……お待たせ致しました」
俺が軽妙にそう言うと、
『うむ』
と、返事があった。
そうしていつものようにカリカリと食べ始めた。山盛りにしていたエレガントニャルマーは目に見えて減っていき、容器の底が見え始めた頃に俺は再び話しかけた。
「なあ、クロ」
『なんだ?』
「欲しいものなんだけどさ、今日の夜に教える」
俺は言った。
『そうか』
クロはそう答えると、残ったカリカリに口をつけた。
結局β氏がオンラインになったのは、午後三時を過ぎた頃だった。動画自体はほぼ完成、細かい調整のみだという。
〔七時には渡す。ピカプロには今夜八時にアップロードって伝えて〕
β氏は書き込んだ。
〔出来たところまで見る?〕
〔いや 完成した時でいいです〕
俺のベッドでゴロゴロしているクロを警戒しなはら、答える。
〔じゃあ名前だけ確認してよ〕
そう言われ動画のキャプチャらしきものを渡された。それは151ちゃんねるの掲示板だった。名無しの誰かが書き込みをしていて「歌 飛跳音ミミ」続いて「作詞・作曲 Skar198」と投稿している。次のレスを見ると「動画 ポリゴンβ」とあった。
〔あと、もう一個〕
そう言われ渡されたのは同じく151ちゃんの絵で、今度は協力者であるドゴームPの名前、それにピカプロでイラストを投稿してくれた人達の名前が並んでいた。入念に確認するとOKを出した。
〔おっけー じゃあ楽しみにしててー〕
そう言うとβ氏は集中すると言ってオフラインになった。
『新曲か?』
ベッドでゴロゴロしていたクロが尋ねる。
「ああ」俺は答える。あとは夜を待つばかりだ。
『再生数が欲しいなら……』
「そうだな。あまりに伸びないなら考えるかな」
冗談めかして俺は言った。
「その前に、お前に批評して欲しいな。興味なんかないだろうけど」
以前にクロは言った。人は自分を特別に思いたい。だから人は創るのだ、実にくだらない、と。確かにそうなのかもしれない。あるいは満たされない空白を埋める為に創り続けているのかもしれない。けれど、そうだったとしても、たとえそれが数字に躍らされるだけの虚しい遊戯だったとしても、創らずにはいられないのだと俺は思う。
ゆったりとした午後だった。ブラウザの別タブで151ちゃんねるを開き、ブラッキースレを覗く。クロは相変わらずここにいるけれど、今日もブラッキーは交換に出されていた。ブラッキーはグローバルリンクを彷徨い続ける。欲望から欲望へ。どろぼう月光ポケモンは彷徨い続ける。
ブラッキーを追い続け、数年。俺自身が物語を書き出した事はなかった。けれど今夜、新しい物語を加えようと思う。
背中のほうで動く気配があった。音がする。クロは立ち上がると伸びをして、ベッドから降りたらしい。とたとたと窓のほうへ歩いていく。
『散歩してくるわ』
クロは言った。
「ん、わかった」
画面を見つめたまま、俺は答える。微かに振り返った時、黒い尻尾が窓枠を撫でていた。
〔お待たせー〕
そう言ってβ氏が再び話しかけてきたのは約束の午後七時ちょうどだった。今から送ると言われ、ボマイプ経由で受信した動画ファイルはさずがに重かった。
すぐさまアップロード画面にアクセスし、アップロードを始める。投稿予約時間を八時に設定する。
〔最近、ブラッキーを交換して貰いましたSkar198です。〕
動画に名前を入力すると、キャプションにはそう書いた。結局、アップロードには三十分かかった。クロの帰りを待ちながら残りの三十分を過ごす。長いようで短い時間感覚だった。
パソコンの画面下に映る20:00の五文字。十秒程待ってから動画のURLを押す。アップされた動画を最初に見れるのは投稿者の義務であり特権だった。読み込みが始まり三角のボタンが表示される。前奏が始まって、俺は最初のコメントをした。〔1〕と。
画面に映ったのはβ氏の作った架空の151ちゃんねるだった。スレの伸びたスレッドが高速で下へ下がっていく。最初に映ったのはあの時に確認したミミ、それに俺の名前で次がβ氏だった。スレは続いていく。1001に達した時に画面に足跡をつけながらブラッキーが横切った。
〔どろぼう月光ポケモン〕
曲名が表示される。ミミの歌が始まった。
黒い獣の 噂を 知ってるかい
グローバルリンク 渡って 現れる
金の輪 赤い眼 黒の毛皮 獣はお前に告げるだろう
『お前の欲しいもを言え』
一人目の主人は鳥使い
大鳥の強風 盗ませた
都市伝説 黒い獣 知ってるかい
グローバルリンク 渡って 現れる
闇夜に 溶ける その姿 獣は君に囁くだろう
『俺なら何でも盗ってこれる』
二人目の主人は歌うたい
澄んだ声と名声 盗ませた
どろぼう 月光ポケモン 知ってるかい
グローバルリンク 渡って 現れる
月夜に 光る その金環 獣はあなたに言うだろう
『才能 数字も 思うまま』
三人目の主人は筆使い
デッサン色彩 盗ませた
テンポよく曲が進んでいく。主人が変わるごとにブラッキーのカットが入れ替わる。
それはブラッキーの流転を意味していた。
どろぼうブラッキーは渡っていく。人から人へ。
流転。
それは都市伝説にある黒い獣の宿命、定められたルールだ。
前口上は終わり。曲は後半に移ってゆく。
四人目の 主人は 文字書きで
アイディア 読者 盗ませた
五人目の 主人は 恋する子
類稀なる 美貌を 盗ませた
六人 七人 八人 九人
誰かの 愛を 盗ませた
けれど 誰もが 手放した
月光ポケモン 手放した
降って沸いて 叶った欲望 誰もうまく扱えない
才能 数字 過剰な強さ やがて持ち主蝕んだ
次々とブラッキーのカットが入れ変わっていく。
十を越えて、二十、三十……人から人へブラッキーは渡る。ここで集まったブラッキーが底を尽きる。最後に現れたのは俺が描いたブラッキーだった。
ごくりと唾を飲み込んだ。
ここからは告白、一世一代の告白だ。
俺の今持つ全部を使って、クロ、俺の欲しいものを言おう。
黒い獣の 噂を 知ってるかい
グローバルリンク 渡って 現れる
金の輪 赤い眼 黒の毛皮 獣はお前に告げるだろう
『お前の欲しいもを言え』
何人目かの 主人 こう言った
私は何も 望まない
「ただ一緒にいて欲しい」
グローバルリンクの 噂を 知ってるかい
人から人へ渡る 黒い獣
けれど 獣は もういない
黒い獣は もういない
俺が盗み取りたかったのは、結末。
いつも変わらないお前のストーリーの結末。
お前の運命そのものだ。
半開き窓を見る。もうすっかり暗くなった外を。
今にその暗闇からお前の赤い眼が見えたら、お前が戻ったら、歌を聞かせて伝えよう。
俺は何も望まない。これからもここにいて欲しい、と。
〔おいやったぞ! すっげー伸びてる!〕
〔見てる? やったよ チルッターでもすごい拡散されてるよ〕
〔新着ランキングきた!〕
〔これは週刊狙えるかも〕
パソコン画面で二人の発言が交差する。
動画画面に途切れる事なくコメントが流れる。
再生数とマイリストのカウントがありえないスピードで回っていく。
それはまるで、ブラッキーがどろぼうをしたみたいに。
俺は待つ。パソコンの時計を見る。そして再び窓を見る。
遅いな、と呟いた。
いつもならとっくに帰ってくる時間なのに。どこで道草を食っているんだろう。
伝えたい事があるのに。
早く帰ってこないかな……。
結局、窓は一晩中開けっ放しだった。ただ部屋の中でミミの声だけがリピートされ続け、俺はいつの間にか机に突っ伏して眠っていたらしい。
目を開ける。ベッドにクロはいなかった。
ブラッキーはいなかった。
クロは帰って来なかった。
一晩経っても、一週間経っても、クロは戻って来なかった。
風が強い。ショップから再び外に出ると風が前髪を巻き上げ、身体を冷やしていく。百貨店の屋上広場、一番安い絵馬を片手に再び俺は小さな社の鳥居を潜る。記帳台でルール通りに記帳を済ますと、掛け所に絵馬を掛けた。
DOGO百貨店、以前弟と近くの広場で待ち合わせたが、こんな事をする為に来る事になるとは思わなかった。DOGOのそれ自体には何度か足を運んだが、屋上神社への参拝は初めてだ。つい最近までそのご利益も知らなかったし、こんな事がなければ関心を持つ事もなかっただろう。
百貨店の屋上にある小さな社――空中稲荷。
そのご利益は再会だ。
小さな社に五十円玉を入れ、鈴を鳴らす。別に信じてなんていないけれど、しないよりはいい気がした。たぶんこれは自身の気持ちを確かめる為なのだろう。そう思う。忘れていない事、想いが消えていない事を確かめる為の儀式なのだろう。
あれからもう二年近くが経っている。ミミオリジナル曲「どろぼう月光ポケモン」をきっかけにSkar198の知名度は一気に向上した。P名を持たなかった俺にもついに念願のその名が与えられた。
月光P。それはブラッキーの分類を示す称号だった。
どろぼう月光ポケモンは一位こそ獲れなかったものの、週刊ランキング上位に食い込んだ後に十万再生――殿堂入りをした。もちろん初の殿堂入りだ。
曲もずいぶん聴いて貰えるようになって、その後に発表したいくつかの曲も殿堂入りを果たしている。去年の秋にはドゴームPの勧めで同人アルバムも出した。まさかライコウのあなに自身のCDが並ぶ日が来るとは想像していなかった。
即売会とかオフ会とか、いくつかのイベントに出たせいか必然的にネットに顔が出てしまった。そのせいでスマイル厨の弟にボカロPをやっているのがばれ、会う度に言われる。
鈴から手を離す。二礼して二回手を鳴らす。そして再び礼。今度は一礼だ。付け焼刃の作法だがまあ構わないだろう。
再び鳥居を潜る。風はまだ強く、冷たかった。
「どうしてだ、クロ」
曲のカウンターがバカみたいに回り続ける画面を背に窓を睨んで俺はこぼした。
どろぼう月光ポケモン。
一番聴かせたい相手が俺の目の前に現れる事はついになかった。
〔黒い獣は もういない〕
ミミは歌を歌い続けた。
クロは戻らなかった。
時間が思考を冷やした今であればその理由はなんとなく分かる。
それはたぶん、俺がタブーに触れたからだ。
存在意義。クロはそれをそう表現していた。
――俺には役割がある。
以前クロはそう語った。交換先の主人の欲望を叶えろ。それが俺にプログラミングされた命令であり、存在意義であると。
存在意義。それはプライド、アイデンティティと言い換えてもいい。
俺はそれを盗もうとした。だからクロは去ったのだ。
俺が追い続けたブラッキーの物語。掲示板群の片隅で語られる続けるストーリー。
昔一度だけ、その連鎖を断ち切ろうとした書き込みを見た事がある。それは「どろぼう月光ポケモン」とほぼ同じ手法だった。その人物は書いた。物語の中の少女はブラッキーにこう言ったのだ。
〔私はあなたに望まない。ただそばにいてくれればいい〕
けれど、スレ住人達はそれを許さなかった。物語はスレッドの流れの中で上書きされてしまった。彼女はしばらくブラッキーと共に過ごしたが、やがて欲しいものが出来てしまった。そうして多くの主人達と同じ運命を辿り、やがてブラッキーを手放してしまった。
俺は残念に思うのと同時にほっとした。物語は続く。そしていつか自分の所に来てくれるかもしれないと。けれど、それが本当に目の前に現れた時、俺は彼女と同じ事をした。
彼女は媒体に文字のみを用い、失敗した。だから俺は絵と文字、それに音を、考えられるすべてを使った。考えられる限りの俺のすべてを使って、物語の舞台でない違う場所で存在意義を盗もうとした。
俺はクロという存在に自分自身を重ねていたのだ。
どんなに頑張っても、どんなに主人の望むようにしても、やがて手放される黒い獣に。
その物語の結末に省みられなかった自分自身を重ねていたのだ。
――名前なんて記憶しておく価値の無いものだ。
そうクロは言った。
もしその後に、どうせすぐに出て行くと続くのだとしたら、それは悲しい。
俺はクロを救いたかった。
繰り返される流転の運命から、宿命からクロを救いたかった。
そうする事で自分自身を救おうとしていた。
けれどクロは去った。まるで俺の心を見透かしたみたいに月光ポケモンはいなくなった。憐れみなどいらないと言うように。手元には黒いモンスターボールだけが残された。スレッドでは歌など知らないし聴いていないというように物語が続いていった。
――俺の存在を求める奴らがいる。だから俺は交換されてくる。
――俺はそういう渇望から生まれて、そういう風に出来ているんだよ。
俺はスレッドを見なくなっていた。
部屋は急に物寂しくなった。フードはキッチンの棚の奥に仕舞い込み、ベッドも片付けてしまった。その寂しさを誤魔化すように俺はミミに歌わせ続けた。投稿した動画達は以前と違う伸びを見せる。コメントが絶えず流れ、再生数は必ず五桁以上だ。
今でも時々疑いを抱いてしまう。もしかしたらこの再生数もコメントもクロがこっそり盗んできているのではないか、と。
空中から街を見下ろす。ここからはカナズミシティがよく見える。この風景のどこかに、ホウエンのどこかにクロはいるのだろうか。それとも別の地方だろうか。あるいは新しいボールに入り、再びグローバルリンクを彷徨っているのだろうか。
スマホにイヤホンを差し、曲を再生する。
ミミは歌う。
今どこにいるの。どこかで歌を聴いているの、と。
〔よー、新曲調子いいじゃん〕
夜、部屋に戻ってきてネットサーフィンをしていると、ドゴームPが話しかけてきた。
まあな、と返事をすると〔今回のイラストいいよなぁ〕とコメントしてくる。
〔そっちか〕俺がツッコミを入れると
〔ああ、お前にゃもったいない〕などと言うので、
〔いいだろ "月光ポケモン"以来のファンだってさ 貴様にゃやらん〕
と、やや自慢してやった。
すると、ドゴームPが妙な事を言い出したのだった。
〔月光ポケモンて言えばさ お前最近スレ見てる?〕
〔いいや〕
俺は答える。
〔前に曲作る時にお前に見せて貰ったじゃん〕
〔おう〕
〔その時から少し設定変わってるみたいなんだ〕
〔え?〕
急いで151ちゃんねるにアクセスした。双子鳥がマスコットの検索サイトに「151ch どろぼうブラッキー」と打ち込みキーを押す。
【都市伝説】どろうぼうブラッキーのあしあと【138】。
最新スレッドはすぐに見つかった。リンクをクリックして、その内容を目で追った。
スレのルール、ガイドラインに使う出だし最初の文言が始まった。
彼の種族はブラッキーである。
得意な技は「どろぼう」。
いつの頃からかネットで囁かれ始めた都市伝説。
始まりはそんな口上で語られる。
通常覚えないその技を覚える彼はただのポケモンではない。
その証拠にタマゴからは生まれなかったし、生まれた時からブラッキーだった。
彼はグローバルリンクを彷徨うポケモンだ。
何度も何度も交換されて、持ち主を転々としているという。
彼は喋るポケモンである。それは新しい主人に自らの能力を説明する為だ。
ここまでは同じだ。俺が知っているものと同じ文言。
問題はその先だった。その先で見た二文字だった。
持ち主はブラッキーに様々な名前をつけようとする。
『勝手にするがいい』
ブラッキーは言うけれど、彼には本当の名があるという。
数多くつけられた名の中で、唯一覚えている名があると。
その名前はクロ。
名付けられた名は、クロというらしい。
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