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27 拝啓、そちら側の僕 GPS


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 ――ねえ、この世界とおんなじ、でもちょっとだけ違う世界がもう一つあるんだって。
 ――ああ、聞いたことはあるけど……。
 ――あ、信じてないでしょ。それだから夢が無いって言われるんだよ。
 ――うるさいな、全く信じてないわけじゃないよ。でも、あまりにも非現実的だし……それにさ、
 ――それに?
 ――そんなの、確かめようが無いじゃないか。そうだろう?

 幼馴染たちと交わした遠い昔の会話がふと蘇った。僕らが住んでいるこの世界とは別に平行世界があるという、突拍子も無い言い伝え、都市伝説。何の根拠も無いものだから諸説あるらしいのだけど、彼女が話したのは恐らく一番シンプルなもので、僕も詳しくはわからない。揃って旅に出て、今では違う道を進み始めた彼らとはつい先日もポケモンバトルに興じたものだが、二人はこの話を覚えているだろうか。
 僕はそんなことを考えつつ、ぼんやりと激しい雨を降らす空を見上げた。数ヶ月前に初めて目にした「ポケモン様」ことボルトロスを追い続けていたところ、十四番道路に差し掛かったあたりでついに遭遇出来たのだ。しかしその喜びも一瞬のこと、迷惑者とは言え腐っても伝説のポケモンであるボルトロスは捕獲しようとした僕をからかうように素早くボールを避けたあと、高笑いのような鳴き声と共に大嵐を引き起こして去っていった。
 あのポケモンの得意とする雷鳴が轟いている。先ほどから断続的に光り、そして唸るような音を響かせている空の中を飛んで他の街へと移るわけにもいかず、大粒の雨から一刻も早く逃れたかった僕は無我夢中で地面を蹴った。そしてどれくらい走った頃だろう、気がついたら僕の目の前には一つの祠があったのだった。
 タウンマップで現在地を調べると、どうやらここは豊穣の社、という場所らしかった。とりあえず渡りに船だとばかりに僕は祠の下に潜り込んで雨に濡れることを免れる。僕と同じように雷から逃げてきたらしい、木の下へと走っていくドレディアとチュリネたちを横目に一息ついて辺りを見渡すと、そこかしこに広がる畑とぽつぽつと点在している民家が目に入った。わざわざこんなところまで来なくてもそこらの民家に入れてもらえば良かっただろうか。
 なんてことを考えている内に、走ったせいか、それともタマゴを孵化させようとこの頃睡眠時間を削っていたせいか急激な眠気が襲ってきた。こんな所で寝るのはどうなんだ、という思いとどうせすることが無いのだから一眠りしておけば良い、という重いが交差する。どうしようかと悩んでいる間にも眠気はどんどん深くなっていき、僕は重くなる瞼を抑えきれずに社を激しく叩く雨の音を耳に感じながらしばし夢の世界へと旅立った。

 はっ、と気がついて目が覚めた。
 思ったよりも長く眠ってしまったようだ。ボルトロスを追いかけていた時はまだ昼下がりだったというのに、寝起きの僕の目に映ったのはとっぷりと日が暮れた後の景色だった。まだ湿っている服のせいで身震いする身体を無意識に抱きしめながら立ち上がる。ボルトロスも完全にどこかへと去っていったのだろう、親と思しきエルフーンにモンメンたちがくっついて呑気に歩いている。あれほど酷かった嵐はすっかり止んでいて、空にはいくつかの星が輝いていた。
 とりあえず服を乾かしにポケモンセンターへと向かおうと思い、僕は雨宿りの場所となってくれた祠の下から這い出てモンスターボールに手をかけた。中から出てきたケンホロウが赤のトサカを自慢げに揺らし、僕の頼みはわかっているとでも言いたげな様子で背中を向ける。まるで乗れよ、と言っているような彼に苦笑しつつ、暖かな羽毛に腰を下ろした。翼を動かしたケンホロウが浮き上がったのが伝わり、次の瞬間には祠や畑、民家が眼下へと広がる。
 が、そこで僕は一つの違和感に気がついた。あれだけ雨が降って、そして雷が鳴っていたとは言え風は全く吹いていなかったはずだ。しかしどうだろう、畑の作物がてんでバラバラな場所へと散らばり、民家のものと思われる日用品があちこちへと飛ばされ、木々は数本倒れてしまっている。肉眼で確認しきれないが、無数のゴミも飛び散っているようだ。まるで暴風にでも襲われたような有様に僕は思わず首を傾げる。
 しかし、いかんせん僕は結構な時間眠ってしまっていたのだ。その間に風が強くなったのかもしれないな、と一人で結論づけて視線を前へと戻す。どこに行くんだと尋ねてくるかのように僕を振り返った愛鳥に「ここからだとホワイトフォレストが近いからそこに行こう」と地図を見せながら伝え、夜の冷えた空気が顔に当たるのを防ぐべく帽子をかぶり直した。

 「なあ、ここ…………本当にどこだ?」
 この質問ももはや三回目。当たり前と言えば当たり前のことだが、傍らに立つケンホロウは何も返事を返してくれない。ただ困ったようにぴるる、と心細げな声を漏らすだけだ。
 俺たちは確かにホワイトフォレストに降り立ったはずだった。それは間違いない。ケンホロウの方向感覚はとても優秀で今まで一度も道を誤ったことなど無いし、タウンマップで確認したところ僕の現在地を表すカーソルは、紛れもなくホワイトフォレストを指していた。
 しかし、僕たちの目の前に広がる光景は全く別のものだ。所狭しとそびえる高層ビル、派手な格好をした若い男女や風俗店の客引き、仕事の疲れを酒で癒してすっかり酔っ払った人々、意味深な黒のスーツの男。嬌声だの怒鳴り声だの店先でかかっている音楽だののせいで夜だと言うのに喧騒に溢れていて、ネオンがやたらと眩しかった。
 ここは、どこだ。
 頭の中をそれだけが占めている。立ち竦んでいる僕を心配そうに覗き込んできたケンホロウを安心させるように撫でてから、彼をボールへと戻した。見知らぬ場所で無闇にポケモンを出して危険に遭わせるわけにはいかない。ボールにセットして、僕はとりあえず手近な建物へと入ることにした。
 煌びやかな内装と、それに負けないほど輝いている宝石がショーケースに並んでいる。どうやらここは宝石店か何からしい。ふと売り物に目を向けるとそこには僕の知っている宝石にも知らない宝石にも、目玉が飛び出るような高価格がつけられていた。
 買える気がしない宝石には見切りをつけて、僕は近くに立っていた人に話を聞いてみることにした。誰かと待ち合わせをしているらしく手持ち無沙汰な男性を壁際に見つける。嫌味すら感じさせないほどに高級感の漂うスーツに腕時計に靴。この店にいても何ら浮くことの無い見た目に思わず溜息がこぼれた。
 「失礼します。あの、ここって……何て言う場所ですか?」
 いきなり話しかけた僕を見て、男性はそのことよりも僕の質問に衝撃を受けたらしい。「え!?」と飛び上がらんばかりに驚いた彼は半ば叫ぶように僕に尋ね返してきた。
 「ここはイッシュで最も有名な場所の一つなのに!? 君、ブラックシティを知らないの!?」
 「ブラックシティ……」
 必死に記憶の糸を手繰るが、そんな名前の場所を僕は知らない。黙り込んでしまった僕に男性は不安そうな目を向ける。
 「沢山の人が集い、絶え間なく発展を続けている、そしてここに来れば金で買えないものは無い。色々なところで紹介されているはずだけど」
 僕に負けない勢いで困惑している男性が説明してくれるが、何度思い返してみてもそんな存在は記憶には無かった。このまま悩んでいても埒があかないので質問を変える。
 「それじゃあ、ホワイトフォレストって言う場所を知ってますか!?」
 期待半分、諦め半分で僕は問う。この答え次第では、僕は今大変な状況に身を置いてしまったことになるだろう。
 「ホワイトフォレスト……? ごめん、知らないなあ……」
 全身を突き刺すようなショックに見舞われる。今度こそ何も言えなくなってしまった僕を「ちょっと君、大丈夫かい!?」と男性が揺さぶってきた。でも反応出来ない。だって、ここは本来ホワイトフォレストで。こんな進んだ都市なんかでは無くて。人とポケモンが共生するとってものどかな町で。
 しかし衝撃は止まらない。僕の意識を現実に引っ張り上げてくれたのは店内に取り付けられたテレビの音声だった。が、それは同時に僕を再び混乱へと陥れる。
 『先日、ポケモンリーグの四天王を突破し続いてチャンピオンにも勝利した、今最も注目を集めている少女へのインタビューです……』
 はっと顔を上げて見た画面には、一人の少女が映し出されていた。何か話しているが、もうその内容は頭に入って来ない。
 だって、四天王とチャンピオンを倒したのは、この僕なのだ。あの少女では無い。それなのに、テレビの向こうでは僕の知らない少女がエンブオーやムシャーナと共に嬉しそうな顔をしている。
 一体全体、どうなっているんだ。テレビを見上げた姿勢のまま動きを止めた僕を、男性がさっきよりも強く揺する。ねえ、ちょっと、どうしたの、など大声で聞いてくるけれども答えられない。頭の中が真っ白に、そして真っ黒に染まる。どうすればいい、どうなっている、どうしてこんなことに。意識ぐるぐると回って手が震える。
僕は、本当に、どこに来てしまったのか――。

「良かった、見つかって」
 その時、僕の腕が誰かによって引っ張られた。咄嗟に振り向くと、僕の視界に飛び込んできたのははっとするほどに顔の整った美少女だった。高い位置で結われた長い髪、二の腕から全てを露出させるノースリーブ、目のやり場に困るほどに丈の短いショートパンツ、そして何よりも意志の強そうな瞳からは活発な印象が受けられる。急いでこちらに向かってきたのか、彼女は少し息が上がっていた。
 しかし、僕はそれらを気にすることは出来なかった。だって、彼女は先ほど液晶に映し出されていた『殿堂入りしたという少女』と全く同じ姿形をしていたのだから。
 「君は――」
 彼女に問いたいことが山ほどある。だが僕の身体は固まり、喉はからからに乾き、言葉は声となって出てこない。そのまま何も言えなくなって立ちすくんだ僕に、彼女は頼りがいのある笑みを見せてこう告げた。
 「私はあなたを知っているわ。あなたはトウヤ――Nと名乗る青年と出会い、子どもながらにしてプラズマ団を壊滅させ、四天王とチャンピオンを倒して殿堂入りし、今はNの行方を探しながらさらにトレーナー修行を積んでいる、トウヤ」
 どうして僕の名前、いや、僕のことをそこまで知っているのか。驚きのあまり、思わず掴みかかろうとしてしまった僕をまあまあ落ち着きなさい、という風に押し返して彼女はもう一言付け加える。
 「そして私はトウコ――Nと名乗る青年と出会い、子どもながらにしてプラズマ団を壊滅させ、四天王とチャンピオンを倒して殿堂入りし、今はNの行方を探しながらさらにトレーナー修行を積んでいる、トウコ。いわば、この世界のあなたよ」

 「昔ベルがしていた、平行世界の話は覚えている?」
 「ベルを知っているの!?」
 トウコと名乗った少女は、未だ状況を把握しきれていない僕をなだめながらポケモンセンターへと連れて行った。彼女が現れたあたりから一層理解出来ないといった顔をしていた男性を適当にごまかしたトウコは、物騒な街だし立ち話もなんだからという言葉と共にミックスオレをくれた。ありがたくいただくと口の中に甘い味が広がって、僕は久しぶりの安堵感に包まれる。
 「そりゃあ幼馴染だもの。ま、あなたの知っているベルとは同じだけど違うわ」
 「同じだけど、違う……」
 「ここはあなたの住んでいる世界とは違う、もう一つの世界。二つの世界はほとんど同じで、街も人もポケモンも出来事も大した違いは無いのよ。だから私の世界にも、あなたの世界にもベルやチェレン、N、ジムリーダーやプラズマ団などあなたの知っている人たちはどちらにも同じように存在する」
 でもね、とトウコが僕を見た。形の良いつり目が真剣味を増す。
 「いくつか違う要素がある。例えば生息するポケモン、街の発展の仕方。ここ、ブラックシティはあなたの世界ではホワイトフォレストという場所のはずよね。それに、私とあなたのような人物の相違」
 ギリ、と僕の手の中でミックスオレの缶が音を立てた。トウコの話は限りなく突拍子も無いが、しかし確かに合点が行く。ホワイトフォレストが存在しないのも、ブラックシティという僕の知らない街があるのも、トウコが僕と同じ経歴を持っているのも全て説明がついた。
 でも一つ、僕は気になることがある。
 「君の話は何とかわかったよ、トウコ。だけど教えてくれ。どうして君は、そんなに平行世界の事柄や僕、そして僕の世界のことについて知っているんだ?」
 僕の質問に、トウコは一瞬きょとんとした顔になった。数度まばたきをして、すぐにああ、と表情を和らげる。言ってなかったっけ、と尋ねてきたので首を縦に振ると、「ごめんね」と彼女は少し悪戯っぽく笑った。
 「私、ちょっと前にトウヤの世界に迷い込んだのよ。ちょうど今のあなたみたいに」

 ソウリュウシティに行ったことで異変に気がついた、とトウコは話し始めた。トウコによるとこの世界のソウリュウシティはヒウンシティここ、ブラックシティに次いで近代的な街らしい。しかし僕の知っているソウリュウシティは伝統的な街並みが特徴的で、文化財として観光地になるほどだ。彼女も街に入ってその違いに驚愕したという。
 「おまけに、とりあえず入ったポケモンセンターではポケモンリーグでチャンピオンに勝利したってことであなたが紹介されているんだもの。それは私のことじゃないの、と思ったけれどもどうやら間違ってはいないみたいで。自分のパソコンにもアクセス出来ないしね」
 そして次に、トウコはポケモンセンターの壁に貼られたイッシュの地図からも違和感を感じた。それは彼女の知るブラックシティがあるはずの場所に『ホワイトフォレスト』という文字と、森のイラストが書かれていたからだ。あそこはポケモンと人がのどかに暮らせてとても良いところね、とトウコは笑う。
 「ってことは、トウコはホワイトフォレストに行ったの?」
 「ええ。本当にブラックシティが無いのか確かめたかったし、そこに行けば何かがわかるかもしれない、って思ってね」
 結果的に何か明確なことはわからなかった。しかしトウコはそこで、僕のことを色々と聞いたらしい。僕もあそこにはよく通っているので知り合いも沢山いるのだ。聞けば聞くほど、自分と同じで驚いたという。
 でも今のままだと、トウコが何故こっち側、トウコの世界に帰って来られたのかがわからない。僕がそれを尋ねようとしたのがわかったのだろうか、トウコは「焦らないで」と立ち上がった。
 「私もこっちに帰ってきてから平行世界に関する伝承を色々と調べたの。おかげで私の身に起きたことも、あなたの今の状況も大体わかったわ。安心して、あなたを元の世界に必ず返してあげるって約束する。だけど、その前に」
 そこで言葉を切って、トウコは一つのボールをパソコンから引き出した。その行動をいまいち理解出来ずに首を捻っている僕の手を取って、トウコは出るわよ、とポケモンセンターの自動ドアをくぐる。
 「どうしたの、なんでいきなり外に……」
 戸惑う僕の言葉を聞いているのかいないのか、トウコは黙って足を進めた。夜だというのに騒がしい街をしばらく歩くと、僕たちはいつの間にか一つの路地裏へとたどり着いていた。がさごそとゴミに埋れていたヤブクロンが、急に現れた僕たちにびっくりして逃げていく。
 「まさかあんな人中でこいつを出すわけにはいかないから。あと、目的地に着くには速い方が良いと思ってね」
 何のこと、そう問いかけた僕の言葉を遮るようにトウコがモンスターボールを空に投げた。ボールが開くとき特有の光が視界に溢れ、その中から巨大がシルエットが現れる。
 眩しいくらいに白い体躯。大きく広がる左右の翼。見るもの全てを震えさせる、しかし同時にありがたさを与える瞳。一度いなないて、身体同様大きな純白の尾に紅蓮の炎を宿したその白の龍は――
 「レシラム……!!」
 しかしこのポケモンは、Nが僕に別れを告げた時に一緒に旅立っていったはず。何故トウコがこんな、まるで僕のゼクロムみたいに扱っているのだろうか。
 「あなたの言いたいことはわかってる。私もあなたの活躍を人づてに『少年はゼクロムと共にこの世界を救った』と聞いて、なんでNのポケモンを知らない奴が、と思ったもの。まあ、これも相違点の一つなのよ」
 私も出来ることならそっちの世界であなたに会ってゼクロムを見たかったわ、呆然としている僕を他所に、トウコは身軽な動きでレシラムの背に飛び乗る。暗い路地裏をその身に纏った炎で照らしているレシラムが、乗れよ、と言うように僕をひと睨みした。慌てて僕も柔らかな背中にジャンプすると、トウコの掛け声と共にレシラムが飛翔した。先ほどのヤブクロンが数匹余波で飛ばされたのが見え、少し申し訳ない。
 「少し時間もかかることだし、同じ人生を歩んできたもの同士、空を飛んでいる間に思い出話でもしましょう」
 Nのことを思い出しているのだろうか。トウコの声は少し寂しげだった。僕もレシラムをちょっとだけ撫でて、この背中に乗って去っていった元王様を頭に浮かべる。どんどん小さくなっていく不夜城を眺め、うん、と彼女の言葉に頷いた。

 「着いたわ」
 トウコがそう一言言って、レシラムが下降する。徐々に見えてきた地上の景色を見て、僕はあ、と声を漏らした。
 「ここって……僕がこっちにやってきた時にいた……」
 「そうよ。私もそうだったの。ここ……豊穣の社で、二つの世界が交わり、互いの存在が行き来する」
 地面に降り立ったトウコが祠を見上げる。先ほど僕が潜り込んでいた祠は改めて見るととても威厳があり、豊かな森を背景にどっしりと構えていた。辺りは数時間前に見た景色と変わらず、暴風による被害がある以外はごく普通の農地である。
 ヨルノズクが鳴く声が聞こえてきて不意に木の上に目を向けると、ヤミカラスとドンカラスが揃って僕たちの様子を伺っていた。そう言えば彼らを野生で見たことが無い。もしかしたらこれもまた平行世界同士の相違点という奴なのかな、とぼんやり思う。
 「私、こっちの世界に帰ってきた後で色々調べた、って言ったわよね。それについてあなたにも話して置きたいの。もっとも平行世界に関する伝承は諸説、というか物凄い数に渡って分かれていたから全部は把握出来ていないし、これは自分の経験といくつかの説を合わせた私なりの憶測でしか無いけれど」
 そう前置きして、トウコは話し始めた。彼女の少し後ろでレシラムが真っ白な翼を月明かりに照らしている。
 「あなたの世界に迷い込む少し前、私は『ポケモン様』を追っていた。あなたも知っているでしょう? イッシュ地方を徘徊している悪戯な神様で、現れると暴風の嵐を引き起こして帰っていく……」
 「待って。確かに僕の世界にも『ポケモン様』はいるし、イッシュ中を飛び回っているのは同じだけれど。僕の方の『ポケモン様』はボルトロスっていう、雷を呼ぶ神様だよ」
 あら、とトウコが小首を傾げてポニーテールを揺らす。そんなところまで違ってるなんて驚きね、と溜息をついたトウコは「こっちじゃトルネロスという名前の風神様なのよ」と付け加えた。
 「でも、それぞれの『ポケモン様』に大差は無いみたいね。とりあえず私はトルネロスを捕まえようとしてここまで来たのだけれども暴風を起こされてやむなく撤退することにしたの。でもあまりにも強い風で遠くに逃げることも出来ずに、近くにあったこの祠に避難したわ」
 「僕も同じような経緯だ。それで、君も寝ちゃったの?」
 「……あなた、まさかこの下で寝たの?」
 「うん、そうだけど」
 肯定した僕に、トウコがじっとりとした視線を向けてくる。何かまずいことを言ったのだろうか、と首を捻っていると、彼女は先ほどとは何だか違う種類に思える溜息をついた。
 あの嵐の中で寝れるなんてすごいわ、と独り言のように言ってトウコは話に戻る。
 「祠の下でじっと嵐が収まるのを待っていたら、急に辺りが眩しくなるのがわかったの。耐え切れなくて目を瞑ったら、目眩のような、立ちくらみのような感覚に襲われた。一瞬だけ意識が飛んで、次に気がついた時には、私は雷鳴が轟く中に突っ立っていたわ」
 ああ、と僕は納得する。恐らくそれが彼女の世界移動の瞬間だったのだ。僕の世界での迅雷は、彼女の世界の疾風。生憎僕は移動の時に眠ってしまっていたけれども、ちゃんと起きていればきっと暴風による嵐を見ることが出来たのだろう。
 「後はさっき話した通り、ソウリュウシティに行って違和感を得て、あなたを知って混乱して、ホワイトフォレストに行ってさらに混乱して。それで自分の世界では無いことに気がついて」
 「そして、こっちに戻ってくる方法を知ったの?」
 「いいえ」
 予想外の答えに僕はえ、と間抜けな声をあげる。平行世界に限らずとも神隠しにまつわる伝承など山ほどあるし、てっきりどこかでそういう時の対処の仕方を学んだのかと思っていた僕にとってトウコの言葉は思いもよらないものだったのだ。
 そんな僕の困惑をどうとったか、トウコはふっと表情を緩めた。簡単なことよ、と彼女が肩を竦める。
 「何も手がかりが掴めずに、仕方なく元の場所――豊穣の社に戻ってきたの。途方に暮れてぼんやりしていたら、偶然にも」
 「偶然にも?」
 「雷が鳴り響いたわ」
 多分ボルトロスがまたしてもそこに現れたのだろう。トウコが来た時と同じ状況になり、強い雷鳴に身の危険を感じた彼女は急いで祠の下に隠れることにした。
 「しばらくしたら、少し前と同じことが起きた。眩しい光に包まれて、意識を失って。はっと気がついて目を開けると同時に、全身で強い風を感じたわ。そこでわかったの。ああ、私は帰って来れたんだ、って」
 
それから急いで色々な文献を漁ったわ、と彼女は少し早口になる。
 「まず一つわかったのは、平行世界だけじゃなくて神隠しなど異世界へと迷子になってしまう類の伝承の多くに神社が絡んでいたこと。神社っていうのは聖域で、そこは神様、つまり人間や普通のポケモンには本来及ばないはずの領域なのね。だから、違う世界へと繋がる入口になってしまう可能性が高いらしいの。この豊穣の社には無いけれど、鳥居なんてわかりやすい目印ね」
 確かな存在感を放つ豊穣の社。見るからに何かを祀っているこの建物は、僕たちとは別の領域に位置しているものなのだろうか。闇夜にそびえる祠に思わず冷や汗が流れる。
 「それから二つ目、どちらかというとこっちがメインね。調べていく内にわかったのだけれど、本当か嘘か、私たちだけじゃなくて今までもここで平行世界へと旅立ってしまった人が何人かいるみたい。ブラックシティは本来もう一つの世界に生きていた人たちが集まって作った街である、なんて説も出てきたわ。いずれにしても、平行世界同士を繋ぐ基準となっているのはここ、豊穣の社なのよ」
 だから、ここで嵐が起きたって聞いた時は誰かがそんな目に遭っていないかエスパーポケモンの力を借りながら確かめるようにしているのよ。ムシャーナの入ったモンスターボールを見せてくれながらトウコが続けた。
彼女の言う説は僕の世界だとホワイトフォレストに当たるのだろうか。そう言えば昔、ホワイトフォレストは元々移民たちが作り上げた集落だったという話を聞いた気がする。移民と聞いて何となく他の地方からの旅人かと思っていたけれど、もしかしたらこっちの世界から来て帰れなくなった人たちなのかもしれない。
 「それでね、この豊穣の社。何を祀っていると思う?」
 「え……そうだな、豊穣って言うくらいだし、豊作とか農耕とか?」
 僕の答えにトウコが正解、と微笑む。
 「ここで祀られているのは聞くところによるとランドロスという神様らしいのだけれど、その姿は滅多に……というかほとんど見た人はいないみたい。どんな姿をしているのか、どんな力を持っているのか、それははっきりとわかっていないわ。でも一つだけ、色々な伝承と私自身の体験から言えることがある」
 トウコが一度呼吸する。その時、僕の首筋にポツリ、と冷たいものが当たった。
 「豊穣の神様であるランドロスは、平行世界の悪戯な二神の悪さが過ぎる時に現れ、制裁をする。つまり、私の世界の『ポケモン様』であるトルネロスと、あなたの世界の『ポケモン様』であるボルトロスが同時に暴れた時にランドロスは現れる。そして――二つの世界を超えて存在するランドロスがこの祠に降臨する時に居合わせてしまった存在は、世界の交差に巻き込まれてもう一つの世界へと移ってしまうのよ!」
 瞬間、僕たちの身体を大きな雨粒が叩く。うるさいくらいの雨音が耳に響く。それと同時に空気がうねり、一瞬で暴風へと膨れ上がった。
 「来たわ!」
 トウコが天に向かって叫んだ。飛ばされそうになる帽子を押さえながら僕も上を見ると、そこには一匹のポケモンが僕たちを小馬鹿にするような動きをして見下ろしていた。それはボルトロスによく似た形をしていたけれど、色が全く違う。きっとあいつがトルネロスという奴なのだろう。
 立っていられないほどの風によろめいた僕の腕をトウコが引っ張った。そのまま祠の下に押し込められた僕は急いで這い出ようとする。しかし、彼女の強い力で僕は情けなくも押し戻されてしまった。
 「ちょっと待って、何をそんなに焦ってるんだ!?」
 「私の自説だけど、世界が交わる時はここで『ポケモン様』が暴れなきゃいけないのよ! きっとあなたの世界でも今頃『ポケモン様』が暴れているはず。今にでもランドロスが来て、あなたを元の世界へと返してくれるわ!」
 「でも、まだ――」
 君と話したいことが山ほどあるのに。冒険のこと、ポケモンのこと、伝承のこと、Nのこと、プラズマ団のこと。そして……もう一人の僕とも言える、君自身のこと。
 僕の思いは顔に出ていたのだろうか、僕を祠の下へと再び押し込めて素早く立ち去ろうとしていたトウコが何かに気がついたような顔をして駆け足で戻ってきた。風に長い髪をたなびかせたトウコは、雨で濡れてしまった手を僕に向けて差し伸べる。
 「大丈夫よ」
 トウコの手は暖かかった。僕と同じ、だけれども違う道を歩いて来た、そして歩いていくであろう少女は力強い笑顔を見せて言った。
 「私はあなたの世界に行けたし、あなたは私の世界へと来てくれた。そして自分の世界へと戻ることが出来る。一度可能だった事ならば、きっとこれからまた出来るわよ。またいつか、そうね……それぞれの『ポケモン様』を捕まえてここに来た時に、会えるに違いないわ」
 そうでしょう? とトウコが笑う。僕は少しの間だけ反応を返せずにいたけれど、黙って頷いた。
 僕に頷き返して、風を受けながらも立ち上がろうとしたトウコにもう一度待って、と呼びかける。急がないといけないのはわかっている、だけれども僕は一つのことを思いついたのだ。
さらに強まってきた風の中、怪訝そうにトウコが僕を見つめる。その身体がみるみるうちに濡れていくのを申し訳なく思いつつ、僕は最大限のスピードで鞄からタマゴを取り出した。寝る間を惜しんで育てていたタマゴ。ほんのりと熱を帯びた表面を一度だけ撫でて、僕はトウコにそれを押し付ける。
風が強すぎて口が開かないのと何と言って良いかわからないのとでまたしても無言になってしまったけれど、僕の意思は十分伝わったようだ。トウコは一瞬驚いた表情になったものの、すぐにタマゴを大事そうに抱えてくれた。その反応に安堵して、僕は今度こそ祠の下にしっかりともぐろうと体勢を整える。
しかし、今度はトウコが僕を引っ張った。何だと思うのも束の間、僕の胸に一つのタマゴが押し付けられる。あ、と口を開けた僕にトウコがにっと笑みを浮かべた。強風でもはや声が出せない。ありがとう、と口の動きだけで伝えると、トウコの口も同じように動いた。
一層強い風が僕らを襲う。トウコが素早く祠から離れた。僕も祠の下に戻ろうとして――見たのだ。
豊穣の神、ランドロスを。
その瞬間、僕は風も雨も、勿論雷も感じなかった。ただただ神々しい光に包まれて、自分が立っているのかいないのかすらもわからない。果たして本当に目を開けているのかも不明だ。でも、光の中に一つの姿を見た。ボルトロスやトルネロスと相似した姿形、だけど明らかに違う、神と呼ぶにふさわしい雰囲気を纏ったその存在は、豊穣の社と同じ威厳に満ちていた。
深みのある橙色の体躯を祠に預け、豊穣の神は僕を見た。その腕が来い、という風に広げられる。僕はその中へと足を踏み出して、そこで、あまりにも目映い光に耐え切れずに目を閉じた。
浮遊感のような、それでいて落ちていくような感覚にとらわれる。胸に抱いたタマゴを離さないようにしっかりと抱えるのが精一杯で、他のことは何も考えられない。薄れていく意識をどうにかして保とうとしたけれど、襲い来る未知の感覚にとうとう耐え切れなくて僕は止めていた息をついてしまった。

その後のことは、何も覚えていない。
僕が次に見たのは、たった今雷による嵐があったと見て取れる、落雷で倒れた木が幾本かある森と雨に濡れた農地だった。晴れていく夜空にヨルノズクが静かに鳴いている。木々の隙間から、ムウマとムウマージが揃って僕一人の様子を伺っていた。
長い夢を見たあとのような感覚に呆けている僕の腕の中で、タマゴがどくん、とまるで、今のは現実だと告げるように波打った。

「え? 平行世界? あー、あったねそんな話! 懐かしい!」
「あの話をしたのは何歳の頃だったっけ。もう随分前になるんだな」
あの後、僕もトウコと同じく平行世界に関する伝承を片っ端から探した。トウコの言う通りその量は並大抵のものではなく、整理するのには大分時間がかかりそうである。
しかしその作業も一段落したので、今日は幼馴染たちとヒウンシティのカフェで休憩することにしたのだ。
「昔はそんなことあるはずない、って思ったけれど、Nの事とか自分の常識を覆すような経験をした後だとそういう現象もあるのかなと考えてしまうよな」
チェレンがしみじみと言う。平行世界の話を持ちかけた僕に、ベルもチェレンもそこまで強い反応はよこさなかった。二人とも平行世界よりもむしろ昔のことを懐かしんでいる感じである。
トウコと彼女の世界のことを話したらまた別かもしれない。でも、僕が結局そのことを口にすることは無かった。この二人なら真っ向から否定したり全く信じないなんてことは無いだろうけれど、何となく、あの体験は僕だけのものにしておきたかったのだ。
わずかに残っていたコーヒーを飲み干して立ち上がる。チェレンが、どこ行くんだ、と眼鏡越しの視線をベルから僕に移した。
「十四番道路付近で雷が鳴り始めたらしい。今日こそボルトロスを捕まえられるかも」
「ああ、そう言えば追っかけてるんだっけ……頑張れよ」
チェレンの応援にありがとう、と返して身支度を整える。と、そこでベルが僕の足元にくっついているものに気がついて首を傾げた。
「あれ? トウヤ、その子もしかしてゴチム? ……珍しいねえ、どうやって手に入れたの?」
こっちの世界に戻ってきてからすぐ、タマゴからゴチムが孵った。僕はあの世界だけに存在している眠らない街からとって彼女にブラック、という名前をつけている。僕の世界では大分前に種族の数が激減し、今では野生での生息はもはや確認されていないポケモンの内の一種。ベルもそれを知っていて僕に質問したのだろう、彼女の問いに曖昧な笑みでごまかした。
店から出て、ケンホロウを呼び出して空へと飛び上がる。風を切っていく感覚が、向こうの世界と別れる時のものを思い出させた。豊穣の社まで急ごう、という僕の声にケンホロウが一層やる気を出した様子でスピードを上げる。
 今頃向こうでも、十四番道路で嵐が起きているのだろうか。『ポケモン様』が大暴れしているのだろうか。トウコはタマゴを孵化させてくれただろうか。あのタマゴからはユニランが生まれるはずだけど、もしかしたら、ホワイト、なんて名前をつけてくれてたりして。
 気になることは数え切れないほどある。でも、まだそれを確かめる時ではない。

 ――風神と雷神が自らの力を奢り、主なる者が祀られている社の前で暴走を始めた時。
 ――豊穣の神はその姿を現し、二つの世界を繋ぎ、二神を裁く。

 昨日最後に読んだ本にあった一節だ。以前の僕なら何のことだか理解出来なかっただろうが、今ではその意味がはっきりわかる。
 また、必ず、会おう。
 視界に入った雷神との戦闘準備を整えて、きっと風神と戦おうとしているであろうもう一人の僕へと、心の中でメッセージを送った。