36 青の器 No.017(HP)
生まれる。炎を宿していた胎内から熱が漏れる。
今まさに登り窯の壁が崩され、生まれたての胎児が取り上げられんとしている。
彼はその瞬間が好きだった。
炎と登り窯が作り出す業、それはこの世の何よりも不思議な術だ。
うっすらと肌色の掛かった白、その素焼きの地に枯れた茶の色を滑らせ、茶の龍を描き入れる。その色はいかにも地味で、渋く暗く目を引かない。
それなのに、それを釉に浸し炎に晒すと、枯れた茶が鮮やかな青となって燃え上がるのだ。
しっとりとした白地に映える青、燃えるように咲く青。
かつて海を渡ってきたその美しい磁器に人々は青花という名をつけた。
その山に棲む二ツ尾の鳥はその目に見慣れぬ者を捉えていた。
日が暮れかけた薄暗い道、山間を縫うように足早に移動する何かがある。それは三つの長い首と長い脚を持つ鳥だった。三つ子鳥が地面を蹴り、山道を走っているのだ。そこに乗るのは一人の若い男であった。
思った以上に身体が揺れる。そう若者は思った。この状態を長時間維持するのは中々に骨が折れる。だがもう少しの辛抱だ。この山を越えたなら、村があるはずだ。
「どうっ」
男は三つ子鳥を鼓舞するように声を発した。振り落とされぬよう三つ子鳥の丸い身体を懸命に太腿で挟むと真ん中の首をしっかりと掴む。三つ子左右両端が鳴き声を上げ、地面を蹴る力は更に強くなった。
男は探していた。自分の行くべき場所を。自らの仰ぐべき師の存在を。この山を越えたなら、その手掛かりが掴めるかもしれない。
三つ子鳥は駆けて行く。道を登り切るとその先に集落の明かりが見えた。
「すみません、どこかに泊まれる場所は」
いくばくかの後に集落に辿りついた男は三つ子鳥の背中から降りると村人に尋ねる。するとよく外からの客人を迎えるという地頭の屋敷に案内してくれたので、今晩はそこに泊まる事にした。男が案内されたのは離れであった。一日中、三つ子鳥の背に乗っていた男の足は既に力が入らない。男は案内してくれた女中に礼を述べると、離れ近くに生えた青橘の木に三つ子鳥の手綱を結んだ。そうして離れに入り、むしろの中に潜り込み、すぐさま眠りへ落ちたのだった。暗い夜の闇は男の――四郎の意識を無意識の中へ引きずり混んでいった。
線を引くこと。それが四郎の仕事だった。
窯元には素焼きを終えた大小の白い皿達が積み上げられている。両の手の親指と人差し指で輪を作ったような大きさのものから、盥(たらい)くらいの巨大なものまであったが、彼が触れる事を許されたのはせいぜい自分の顔の大きさ程のものまでであった。
彼は筆を手に取り、素焼きの白磁皿に焦茶色の線を引いていく。まずは縁から線を引く。皿の輪郭を囲うように均等な太さで線を引く。縁から一定距離を保ちながら、彼は二つの線を引いた。その後、皿を横断させるように均等に何本もの横線を描いていく。それが終わると今度は皿の角度を変え、もう一度同じ事をする。均等に引かれた線同士が交差し、菱形を為していった。さらに角度を変えて同じ事をする。今度は菱形の頂点を狙うようにして線を引く。そして均等な三方向からの線達が皿の中で交わる事によって、幾多の正三角形が現れた。
それは神経を要する作業であった。均等さと正確な角度を欠けば三角形は大きく歪み、均一さが保たれない。四郎はふうっと息を吹く。さらに仕事を続行した。
三角形の頂点から中心に向かい、線を引く。残った二つの頂点からも同じようにして伸ばし、中心で結ぶ。同じ動作を残ったすべて正三角に施すと、菱形の葉を六角に結んだ麻葉地の模様が皿全体に規則正しく詰め込まれた。
そうして彼は次の皿に移る。また同じ模様を描く為に。
四郎は線を引き続けた。くる日もくる日も縁取りをして直線を引き、麻葉地模様を描き続けた。白磁の皿の上に焦茶の線を結び続けた。それが四郎の仕事であり、また修行であったのだ。修行は続く。朝起きて、日の沈むまで線を引き、夢の中でもまだ彼は線を引いていた。
四郎ははたと目を覚ました。気が付けばそこは見知らぬ集落の家屋の離れであった。そうして彼は思い出した。
そうだ、自分はもうあそこを出たのだ。焦げ茶の線ばかりが続く日常が嫌になり、飛び出したのだ。それなのに夢の中で尚、線を引いているとは。身に染み付いた習慣とはかくも呪いのように付き纏うものか。
そんな事を思っていると俄かに離れの戸が開いた。
「朝餉の準備が出来ております」
振り向けば昨日自分を離れへと案内した女中の姿があった。女中は四郎を屋敷へと案内した。
案内されたのは囲炉裏が中心にある屋敷の一室であった。そこにはこの家の主と思われる老人とその妻と思しき女性が座っていた。
「昨晩はよく眠れましたかな」
髭面の老人はそう言ってにこりと笑うと「まあ座りなされ」と席を勧めた。促されるままに藁で編んだ座布団に座る。目の前には足付きの盆に味噌汁の碗と茶碗が乗っていた。女中が碗をとり、囲炉裏から味噌汁をよそう。竈から持ってきた釜からも同じように玄米飯をよそった。
「これは恐れ入ります」
四郎はそう言うと、味噌汁を啜り、飯を食らう。すっかり平らげた後に宿を借りた礼を述べ、自らの目的を語り始めた。ある物を探している、と。
それは皿であった。青一色で描かれた皿を探していると四郎は言った。それは噂に聞く稀代の名人が描いたという染付の――青の器であった。豊縁は伊万里(いまり)の外れ、そのどこか集落にそんな器を作り出す染付の名人がいるという。その手掛かりを見つける為にあちこちを訪ね回っているのだと。
「ふむ」と、老人は一呼吸を置いた。そしてそういった話ならば瀬川様が詳しいかもしれないと言った。彼が詳細を尋ねるに、その人物はこのあたりの集落一帯を預かる役人であるのだという。老人は続けた。瀬川様は仕事熱心な方で、一帯の水田や田畑の様子を見る為に火ノ馬にまたがり行ったり来たりしている。前に来たのは一月程前だったからそろそろまたいらっしゃる頃だろう、とも言った。
それで四郎は待つ事にした。村々を渡り歩く瀬川という人物ならば、青の器の事も知っているかもしれない。四郎は待った。時に撒割りなどの手伝いをしながら、時に三つ子鳥を駆り、川辺で好物の草や虫を食わせたりしながら、到着を待った。当の人物が集落を訪れたのは、四郎がここで朝を迎えてから五日後の夕刻の事であった。
「これはこれは瀬川様、お待ちしておりました」
そう言って恭しくお辞儀をして老人が迎えたのは意外にも若い青年であった。二十に届くか届かないかの若い侍で歳は四郎と同じか少し下であろうか。丹精な顔立ちの好青年だった。
「ああ、こちらは四郎さんと言います。瀬川様の事をずっとお待ちでした」
老人は囲炉裏の前に瀬川を案内し、言った。
「私を?」
瀬川は少し驚いた風だったが、四郎が周辺の村々の事を知りたいのだと知ると合点したようであった。
「ふむ、青の器か」と、呟いた後、しばし考え込んでいたが、やがてそう言えばと思い出すように言った。そういう特徴のものでごくごく小さなものであれば見た事がある……と。
「それはどちらですか」
「椎葉村だ。ここからは何里か離れている」
瀬川は言った。そして提案した。村々を回りながらにはなるが、そこへも足を伸ばすつもりだから、着いて来るのは構わない、と。かくして三つ子鳥と一角の火ノ馬は共に道を進んでいく事となった。
瀬川の存在は土地勘の無い四郎にとって心強いものであった。彼自身は伊万里の生まれだったが、見知っているのはごく狭い範囲に過ぎない。彼の知っている伊万里とは時折、華露子(かろす)国などの異教の地へ向け、磁器を積んだ帆船が海那の出島へ出港する港町、加えて海の存在が確認できる範囲内であった。海の見えぬ所まで行ってしまえばそこは伊万里であって伊万里ではない。四郎にとってはまさに異界そのものである。道は荒れた獣道しか無く、大黒犬に追われる危険もある。道連れは多いほど好ましかった。
そして道中、やはり瀬川は尋ねてきた。
「四郎殿は何故に青の器をお探しか」
「それを語るには、私の事からお話せねばなりません」
三つ子の背中に揺られながら四郎は言った。
伊万里の地は磁器の生産地として発達してきた。かつて海を渡ってきた磁器、その青花の妖艶なる白と青に魅了された権力者達は自らの国でそれを作れまいかと考えるようになった。やがて隣国から連れてこられた職人が豊縁の山に材料となる石を見つけた事で磁器の生産は始まった。その場所こそが大陸に近しい豊縁であり、伊万里の地であった。
四郎は明かした。自分の実家は、関東、城都、それに出島の商人達に伊万里を卸しているのです、と。もちろんこの場合の「伊万里」とは焼き物である伊万里、磁器の伊万里の事だった。
彼の実家は商家であった。関東や城都、はては華露子国などの欧州に向け、相応しい伊万里を調達する事、それが実家の生業であった。四郎はその家の四男として生まれ、末っ子だった故に父や母に可愛がられた。裕福な実家で彼は気ままに過ごしてきた。
「一口に伊万里と言っても様々あります」
四郎は磁器を扱う商家の子であるだけにさすがに詳しかった。瀬川に伊万里の流派のいくつかを説明した。特に華露子に向けたものは柿右衛門(かきえもん)様式と言って、赤や緑、金等も使った極彩色の絢爛な品が多いのだとも教えた。
「けれど俺は染付が、青一色が一番好きです」
道中、三つ子鳥に揺られながら四郎はそう語った。
染付。青一色の伊万里を人はそう呼ぶ。その青一色は遥か関東の江戸の地で贅沢品を禁じる奢侈禁止令が度々出され、色数を制限された結果であった。だが、その制約こそが職人達の腕を磨いたというのが四郎の持論であった。大胆な構図、より効果的に見せる工夫、濃淡による緻密な塗り分け、青一色でいかに見る者達を魅了するか。職人達は常に上を目指した、と。
そんな四郎を魅了したのは生家の一室に飾ってあった一枚の大皿だったという。白地の円空間の中、扇を何十も敷き詰めたような波が立っている。そこに躍るのは青一色で描かれた凶龍の姿だった。鱗の一枚一枚が丹念に描かれた精密な描写の逸品。けれどそれ以上に細く、時に太く、大胆に変化する自由闊達に躍動する龍の輪郭、全体を染め上げる青の鮮やかさ。元々絵が好きでよく描いていた事もあって、四郎は強く惹かれたのだという。
「それで自分でもこういう物を作り上げてみたくなったのです」
十といくらかの歳を過ぎた頃、四郎は父に頼み込んだ。そしてそのつてでその大皿――染付凶龍文大皿の作者である絵付け師の下で修行をする事になった。もちろん積極的な賛成があった訳ではない。けれど最後には何もせずにぶらぶらさせているよりはいいだろうという事になった。
「末っ子でよかった。長男じゃこんな事、許されませんから」
そう言って四郎は苦笑いした。
「それで四郎殿は修行をなさったと」
瀬川が尋ねる。
「そうです。かれこれ五年はおりました」
四郎は答えた。けれどそこまで言った後に口を閉ざしてしまった。だが瀬川は四郎が話す以上の事を追求はしなかった。おそらくそのうちに自ら話始めるだろう。瀬川にはそんな予感があった。
やがて三つ子鳥と火ノ馬は峠を越える。林の向こうに次なる集落が見えてきた。
再び四郎が口を開いたのは、二つ程の山を渡り追え、二つほどの集落の田畑を検分して回った後の事、いよいよ目的の椎葉村に向けて出発する前の夜の事であった。それは集落の地頭の屋敷二人が同じ部屋の中、むしろに包まっている時だった。
「青の器の話を聞いたのは私の師からなのです」
唐突に四郎は言った。
暗い部屋、蝋燭の明かりすら無いその部屋でお互いの顔を確認する事は出来ない。瀬川が聞いているのかすらも分からなかったが四郎は続ける。
「師がまだ若かった頃、私の祖父にそれは見事な図変り大皿を見せて貰った事があったそうです」
闇の中、四郎は語る。江戸の大商人に収めるらしいその大皿には波打つ青い海原に青い凶龍が描かれていた、と。
「当時の師には迷いがありました。けれどその大皿の見事な絵付けを目の当たりにして、さらなる精進を決意したといいます」
師は思案した。はて、こんな神掛かった仕事をする窯元が近所にあっただろうか、と。思った通りそれは海辺に面する伊万里の窯元の作ではなかった。四郎の祖父に聞いたところに寄れば石の産する場所に近い、山間部の窯元のものであるという。師は詳細に興味を持ったが詳しくは教えてもらえなかった。窯元の親方は神掛かった技術を持っているが人嫌いで、皿をなかなか売ってくれない。面倒な事にならない為にもこれ以上は教えられないと言われたらしい。
「その祖父もずいぶん前に死にました。家にも記録らしい記録は残っていないし、父も知らないと言うのです」
「……四郎殿はそれが見たい、と」
暗闇に声が響いた。黙って聞いていた瀬川が初めて口を開いた。
「そう。できればその絵付け師に会いたいと思っております」
四郎が言った。
「けれどお祖父さんの代の話では……」
「そうです。ご本人は難しいでしょう。けれどお弟子さんがあるかもしれません」
「お弟子さんですか」
瀬川は思った。自分の検分する領内に伊万里の窯元がある話など聞いた事が無い。椎葉についてもあまり収穫は期待できまい、と。けれど、熱心に話をする四郎を思うとそういった事も言えなかった。
「その名人のお弟子さんとやらを見つけ出して、四郎殿はどうなさるおつもりか」
瀬川は尋ねた。
「出来る事ならば師事したいと思っております」
「あなたにはすでに師がいらっしゃるのでは……」
瀬川は言った。するとしばし暗い部屋はしんとした。
そしていくばくかの時間を経たその後に
「師と言っても、元、ですから」
と四郎は答えたのだった。
「元?」
「はい。元いた窯元は出てきました……」
「それは何故」
「師は私に最初から教える気など無かったのです」
いくばくかの沈黙の後、そのように四郎は言った。それどころか窯元の職人達も同期も皆自分を笑っているのだと。自分は職人の家の出ではないから。所詮は商家の四男、何も出来ぬのだと思われているのだ、と。
再び話は遡った。
伊万里の絵付け師として名高い師は厳しかったと四郎は語った。そもそも最初は筆すら持たせて貰えなかった、と。
最初に四郎が言いつけられたのは窯元中の掃除で、それからは竈の掃除であった。早朝、一番双子鳥も鳴かないような暗い時間に起きだしては井戸で水を汲み、床を磨き掃除をするのだ。生まれてこのかた下働きをした事の無い四郎は最初、雑巾がけ一つまともに出来きず、さっそく出自を理由に罵られた。やっと要領を掴んだ頃には既に一つの月が過ぎ去っており、そんな生活は数ヶ月続いた。
生家を出て何より辛かったのは寝床だった。職人達は長屋で寝泊りをしたけれど、そこに布団などという贅沢品は存在しなかった。あるのは藁で編んだむしろが何枚かで皆それに包まって眠るか、自身の着物を掛けて眠るかだ。夏はまだいいが冬は寒さが染み、足の指の感覚は無くなった。むしろの一枚で硬い床に横になる事にはなかなか慣れなかった。身体のあちこちが痛くなり疲れがとれなかった。
「今となっては慣れたものですがね」四郎は続けた。
やがて四郎は材料屋に出された。今度の仕事は山から採掘されてきた白い磁石を石屋から買い付け、運ぶ仕事であった。買い付けた石を車に積み、力士に似た使鬼、肥鬼(こおに)と共に運んだ。肥鬼は大変力があったが、よく道草を食おうとするし、食べ物の匂いがすればそっちに突っ走った。その上、交通事情に配慮するという事を知らなかった。人通りの多い道を構わず車を引いて走っていく為、四郎はよく肝を冷やした。謝り倒すのは彼の仕事だった。
石を運び込めば表面の汚れを洗い、大きな金槌でそれを砕いた。砕いて、砕いてやっと二本の指で摘めるような大きさになったところで粉砕は水車の動力に任された。砂粒程の大きさまで粉砕できたなら、今度は水に溶かしよく掻き混ぜる。すると大きな粒は底に沈み、細かいものだけが溶けて浮かび上がる。溶け出した部分のみを布敷きの容器に流し込み、幾日かかけて水を抜き粘土とすれば、それがあらゆる伊万里を形作る材料となった。
数ヶ月の後に窯元に戻った四郎は腕利鬼(わんりき)達の横に並びひたすらに粘土を練り上げた。ある時はろくろにかけて、ある時は手びねりで器の形を作り続けた。器が溜まってきたらまとめて釜で素焼きする。素焼きは竈鬼(かまどき)の仕事であった。筒状の口から火を吹くその鬼の姿は赤く、頭と尾も燃えていた。四郎は腕利鬼と竈鬼の間を往復する日々を繰り返した。
絵付け師達の部屋の一角にようやく座る事を許されたのはその後であった。ようやく筆を握る事が許された時、窯元の暖簾を潜ってから一年半の歳月が経過していた。
「苦労が報われたと思いました。これでやっと絵付けが出来ると喜んだものです。ですが……」
四郎は続きを語った。
絵付けはひたすら直線を引き続けるだけの日々が続いたのだと。
「もちろん最初はそのようなものだと覚悟はしていました。なんたって絵筆を持つまでで一年と半分ですから。これもまた修行なのだと思って線を引き続けました」
一年の修行の後に四郎は学んでいた。この器がこの場所に置かれ、線を入れるまでにどれだけの労を要するか。四郎は丁寧に線を引いた。けれど、時を同じくして入った者達には負けぬ速さでそれを引くことを意識した。誰よりも早く、けれど誰よりも正確無比に。神経を使いすぎて日が落ちる頃には頭が痛くなった。だが、手ごたえはあった。線を引いた素焼き皿を時折、師は検分した。最初の頃は眉を曲げ、首をひねっていた師も数ヶ月、一年の後に「ふむ」と小声で言って頷くようになった。だから次へ進める日は違いのだと確信していた。
けれど、麻葉地模様の絵付けから最初に抜け出たのは四郎では無かった。同じ頃に入った別の見習いが花を描く事を任された。四郎は線を引き続けた。だが次に一回り大きな皿の絵付けを任されたのも別の見習いであった。
「納得がいきませんでした。私の線は誰よりも早く誰よりも整った形を描くのに」
それでも許しの無い限り別の文様も別の絵も描く事は許されなかった。四郎はがむしゃらに線を引き続けた。
唯一楽しみだったのは絵付けをした皿が溜まった時であった。皿が溜まったなら竈で本焼きにかけられる。釉に浸して母の胎内とも言うべき窯に収める。それの開く時が四郎の楽しみだった。登り窯の壁が崩されて、中から竈鬼が現れる。その手の中に生まれたての胎児の姿がある。小さな皿、白い肌に青の文様が輝いていた。呉須で茶色く引いた線が、麻葉地模様が青く燃え上がっていた。四郎と竈鬼は目を合わせ、そして笑みを浮かべた。それはこの世の何よりも不思議な術であった。これが無かったらとうに線を引く事をやめていただろう。
竈鬼は次々に皿を取り出した。それは年長の職人が描いた大唐犬と牡丹の図柄だったり、鬼鶴が翼を広げた文様を並べたものだったりした。そして竈鬼が最後に取り出してきたのは決まって師の描いた図変り大皿であった。職人の皆が感嘆の声を上げる。今回描かれたものは青で描かれた鯉大将(こいだいしょう)だった。鯉大将はいつか滝を昇り凶龍へと化ける魚の化生だ。いつの日か来るその変化を想い、四郎の心は躍った。昔見た名人の見事な絵付け、図代わりの凶龍の事を師が皆に話して聞かせたのもこんな時のように竈から磁器を出す時だった。
「良い絵付けには使鬼が宿る」
と、師は言った。
「我々は使鬼(しき)を木の実の球に入れ、自在に出し入れする事で使役している。腕利鬼しかり、竈鬼しかり。同様に器もそうでなくてはならぬ。球に使鬼を入れるように、器には生きた使鬼を宿らせねばならぬ。筆でその姿を描き、炎で命を吹き込むのだ。使鬼を宿らせるのだ」
四郎は思った。いつか自分も大きな皿に青い命を吹き込もう。躍る使鬼を――生きた龍や鳥、獣を描くのだ。それを想い、日々に耐えた。四郎は線を引き続けた。たまに休みがあれば、紙に図案をいくつも描いた。いつかこれを白い肌の上に宿らせるのだ、と。
日々は続いていく。そしてある時、四郎は職人の一人に呼ばれた。それは師の息子だった。息子と言ってももう十数年は筆をとり続けている職人だった。龍も描けば獣も描いた。彼は素焼きの皿が大量に積まれた棚を見せた。今までよりいくらか大きい皿だった。師の息子は言った。
ここにある皿すべてに麻葉地模様を描くように。これが終わったら、次は唐草模様を描かせると父が言っていたよ。
四郎は目を輝かせた。使鬼を描くまではいかずとも唐草ならばうねる曲線で命ある題材だ。絵の幅が広く職人自身が遊ぶ余地もある。より描きたいものに近づく事になる。皿の数はゆうに五百はあったが、喜び勇んで、日の出から夜遅くまで、せっせと線を引き繋げ続けた。日を追うごとに一は十になり、十は百になった。
だが、その数が四百と五十に達した頃に事は起こった。
ひさびさの休みであった。図案を描く為の紙を買い求めた四郎が長屋に戻るその帰り、茶屋で一服していると偶然にも、師の息子、それに職人の一人がやってきたのだ。仕切り一つ隔てた場所に四郎がいる事にも気が付かず、彼らは話始めたのだった。多くは同じ部屋の職人が横恋慕したとか、見習いのなんとかは特有の癖が相変わらず抜けないとか下らない話だったが、そのうち四郎自身の事に話題が移っていった。
「そう言えば、四郎の奴、もう四百と五十は描いたそうじゃないか」
「相変わらず線を引くだけは馬鹿みたいに早い」
職人と息子はそんな事を話し始めた。
「そりゃあ麻葉地しかやってないからな」
悪かったな。四郎は思った。確かに自分は麻葉地模様の為に直線しか引いてない。だがあと五十枚分の線を引いたなら次の道も開けるのだ。だが、次の言葉の前凍りつく事になった。
「しっかしお前も悪い奴だよな。親父さん五百枚やったら次なんて一言も言ってないんだろ?」
耳を疑った。
「どんな顔するだろうな、四郎。毎晩遅くまでやってるのに」
「いいんだよ。お遊びで入ってきた商家のぼんぼんはひたすら線だけ引いてるのがお似合いだ」
前から気に食わなかったんだよ。師の息子は言った。
だいたい奴らは、俺達から伊万里を二束三文で買い叩くくせに城都や関東に高値で売って巨利を得てるんだ。ここで仕返しをして何が悪い。親父だって気持ちは一緒だ。
「それより今度の図案合わせはどうする」
「何かいい案は……」
四郎はその場を動けなかった。何か見えないものに頭が強く揺さぶられるような感覚を覚え、それがずっと収まらなかった。それ以降の会話は覚えていない。
幾日かの後に五百枚の皿の本焼きを見届けると四郎は姿を消した。焼きあがった伊万里を見つめるその眼差しから、竈鬼だけは何かを察していたもの、彼を引き止める手段を持たなかった。まだ暗い夜明け前に四郎は寝泊りしていた長屋を出た。一度、港に近い生家に戻った後、いくらかの金子を持ち出し、鳥小屋に繋がれていた三つ子鳥にまたがって、山へ向かい走らせた。
「もう窯元にはいられませんでした。かといって実家に長居する訳にもいかない。それで思い浮かべたのが山間部のどこかにあるという名人の窯元です」
師が憧れ、けれど知りえなかった陶工の姿と窯元の場所。もしも探し当てて伝説の絵付け師に会う事が叶ったならば。技術を学び、自分のものに出来たならば。
自分を見下し、顧みなかった彼らを見返してやれるに違いない。
「探し出したいのです。その場所を」
暗闇の中、四郎は言った。
いくつかの回り道をした上、辿りついた椎葉村は他の集落と変わらぬ様子に見えた。小さな畑や水田が点在し、人々は野良仕事に精を出している。瀬川と共に細い道を横切ると、通りかかる人々が会釈をした。
「青の器を見たのはここの地頭の家です」
そう瀬川は言って四郎を村で一番大きな家屋に案内した。馬から降りると門を潜って、家の者に声を掛ける。当主は留守であったが、しばし世話話をするうちに戻ってきた。頭を下げる地頭に瀬川は四郎を紹介し、さっそく話を通してくれた。
「ああ、それでしたらさっそくお持ち致しましょう」
地頭はそう言って四郎達を客間に通すと、両手で木箱を持ち、入ってきた。
箱の蓋が開かれる。そこには白地に青い模様が描かれた皿や碗がいくつか入っていた。
「特別なお客様が見えた時にだけ、お出ししているのですよ」
地頭は言った。
四郎は皿の一枚を取り上げ、検分した。それは彼が描いていたのと同じ、麻葉地模様の皿だった。裏返し銘を見れば亀羅模様があった。炭亀か。四郎は呟き、そして尋ねた。
「この品はどこで手に入れられたのですか?」
「はい、客人(まろうど)神社に鳥居を寄進した際に頂いたもので」
「客人神社?」
「この村の奥にございます神社です」
四郎と瀬川は顔を見合わせた。夜までには時間があったから神社へと足を運ぶ事にした。
「四郎殿の見立てではどうなのです」
道の途中、火の馬にまたがった瀬川が尋ねてきた。
「何がですか」四郎は返した。
「あの器の事です。名人のものだったのですか」
「まさか」
四郎は答える。
「模様も歪んでいるし、筆を持ったばかりの見習いの作でしょうね」
「では、はずれですか」
瀬川は言った。だが四郎は首を振る。
「ですが確かに伊万里です。器自体はいいですよ。良い磁石を使っています」
皿にはいくつかの値段のつけ方があるのだ。道の途中に四郎は説明した。材料ももちろんだが、どの職人が携わったか、そして出来によっても等級がある、と。
「あれは見習いが作って安く譲られたものなのでしょう。はずれとするにはまだ早いです」
やがて二人は畑を過ぎ、林の中へと入っていった。伸びた杉が道を影で彩る道を抜けると、ゆるやかな坂道になる。木の根が多く、二人は馬と鳥の背を降りた。彼らを手綱で導きながら、しばし坂道を登っていくとやがて大きな木の鳥居が見えてきた。これが寄進したという鳥居だろうか、四郎は呟いた。
鳥居の向こう、参道を神主と思しき老人が落ち葉を掃いていた。二人に気がつくと頭を下げた。
「おや瀬川様、こんな奥までどうしましたかな」髭を蓄えた神主は言い、
「ご無沙汰をしております」と、瀬川は返す。
貴方が地頭に譲ったという青の器についてお聞きしたい、と言った。
「焼き物に興味がおありとは存じませんでした」
「いえ、連れのほうが」
瀬川が事情を話すと、ほほうと神主は唸った。そして、しばし住居のほうに引っ込むとしばらくして戻ってきた。その手には黒い鍵が握られていた。鎮守の森がざわざわと鳴る。ついてきなさいと言われ、木陰が屋根にかかる拝殿を横を横目に二人が案内されたのは祭の時に出す神輿を収める倉であった。
「祭に使う神輿はごく小さなものでしてね。盗んだからといってどうこう出来るものじゃない。もちろん私は困りますが、こいつで鍵をかけるには別の理由があります」
神主は錠を手に取ると鍵を刺して回した。かちりという音がして錠が外れる。お入りくださいと二人を招き入れた。倉の中に入る日差しは少ない。その中心に小さな木造りの神輿があって逆光を浴びていた。が、四郎の目線はすぐに別のものを捉えたのだった。
「これ……伊万里だ」
彼が見たものは神輿の背景に並べられたいくつもの伊万里大皿だった。四郎の肩幅のそれを上回る直径の青の器が棚の上に十は並べられている。一枚には青で大唐犬が描かれ、もう一枚には大きな青い燕の姿がある。どれも獣や使鬼を描いた大皿であった。その見事な出来映えに四郎は目を見張る。
「これは祖父の代に奉納された大皿でしてね、近くにある窯元の頭領が毎年お持ちくださったと伝えて聞いております。出しているのはこれだけですが他にも仕舞っております」
神主は言った。
「その窯元はどこに?」
四郎は間髪を入れずに尋ねる。だが神主は少し悲しそうにして首を振った。
「残念ながら、今は」
「……もう、無いという事ですか?」
「名人でしたが、お弟子さんに恵まれませんでした。親方様が亡くなってから奉納も絶えたと聞いています。残念な事です」
四郎はへたり込んだ。弟子の一人でもいたならば教えも請えようものだったが、絶えているのではどうしようも無い。
神主は奉納されたという青の皿を様々取り出して見せてくれた。鯉大将の皿に、何頭もの火ノ馬が駆ける皿、鳥達の舞い躍る皿、天駆ける龍に、地の神、海の神――その出来栄えはどれも素晴らしいもので、今まで四郎が見たものとは比較にならなかった。そして絶えている事を惜しむのと同時に落胆が重く圧し掛かった。教えを請う事は叶わないのか、と。
「こちらは大皿と一緒に持参いただいたものと聞いています」
四郎をよそに神主は続ける。取り出したのはいくつもの小皿や小鉢で、青い文様が描かれていた。
四郎は皿を手にとってみた。咲き乱れる椿の背景に麻葉地模様が描かれていた。地頭の家で見たものに比べれば歪みも無く、形も整っているが全体の調和させる意味においてはまだ甘い。まだまだ伸びそうな予感はあるのだが。
こんなものがあるとは知らなかった。瀬川様はお父上の跡をお継ぎになったばかりですから。そんな会話が聞こえたが、耳に残らずにすぐに消えた。
もしかすると名人の弟子であろうか、四郎はそんな事を思っていた。名人は弟子と共にここにやってきた。そして名人は大皿を、弟子は小皿と小鉢を持ってきたのではないだろうか、と。
名人には弟子があったのだ。だが、なんらかの理由でその跡を継ぐ事はついに無かったのだろう。なんて勿体無い事を。彼は内心に毒づいた。
「……窯元自体は今も残っているのでしょうか」
「竈の跡くらいは残っておりますがね……建物はすっかり朽ちてますよ。何年か前に見ましたがそれきりですな」
縋るように尋ねる四郎に神主はそう言った。
ひとしきり奉納された伊万里を眺めた後、二人は神主に礼を述べる。鳥居を潜り再び元の道を引き返した。
「結局、来るのが数十年ばかり遅かった訳か」
神社に訪問した後、椎葉の田畑を検分して回り、空は赤く染まっていた。三つ子鳥に跨り道を行く四郎の前には、火ノ馬に乗った瀬川の後ろ姿があって、そう言った。
「四郎殿、これからどうなさる。私は明日にはここを発つつもりだが」
「決めておりません」
四郎はそう言ったきり返ず、放っておくしかあるまいと瀬川は悟った。
地頭の屋敷で一晩を過ごし、日が昇ると瀬川は出発した。四郎は今までの礼を述べると火ノ馬で駆けていく若者の背中を見送った。四郎は行く宛ても無く、それからの三、四日あまりを過ごした。三つ子鳥を連れて草の実や虫を食わせ、その傍ら神社に通った。名工の遺した伊万里を見せてもらう為だった。そんな四郎を神主は歓迎してくれた。それが唯一の救いだった。
四郎の目線は青い龍のうねりの間を何度も往復し、青い馬の躍動と燕の翼の輪郭をなぞった。奉納された皿の中に描かれていたのは吉兆に関わる逞しい獣、魚や鳥が主であったが、彼が見知らぬ使鬼の姿もあった。らっきょうのような形をした頭の使鬼は虫の触覚のようなものを生やし、背中にも虫のそれに似た一対の羽根があった。不思議な姿をした使鬼だった。だが、とりわけ彼の目を引き、慰めたのは豆狸のそれであった。その動きを象徴するような左右に蛇行する横縞の毛皮の豆狸が二匹、大きな皿の中に遊んでいた。彼らは丸い皿の中でお互いの尾を追い回していた。それは永遠に終わらない追いかけっこだ。いつまでもいつまでも四郎はそれを見つめていた。
そんな風にいくばくかの時を経るうちに、彼の心は次第に穏やかさを取り戻し始めた。窯元を出てがむしゃらに三つ子鳥を走らせていた時の衝動のようなものは消え失せて、彼は静かに現実を受け入れていった。生家に戻ろう。四郎は考えた。生家に戻って商いの助けをしよう。それが叶わぬなら伊万里の地を出て、どことなりと働き口を求めよう。そのように四郎は考えるようになっていた。それで明日には発つ事を決めて身体を横たえた。最初は硬くて寒くて仕方なかったむしろの寝床も今では慣れたものだ。
四郎は目を閉じた。夜の闇が眠りの淵へと彼を誘った。
木戸を引っ掻くようなかりかりという音がして四郎が目を覚ましたのは、まだ日も昇らぬ暗い時間だった。最初はうつらうつらしながら無視をしていたのだが、だんだん耳元でひっかくように音が近づいてきたような感覚があって彼は眉を曲げた。朝の寒さに身を震わせながら、寝ぼけまなこで上半身を上げる。音はまだ続いている。四郎は這いながら進むと庭先に続く開けた。そしてその先にいる音の犯人をその目に収めた。それは二匹の小さな獣であった。
「豆狸……か?」
四郎は少しばかり迷いながら声に出した。それは彼らを彩る毛皮の色の為であった。その色は白と青だった。二匹の白青の豆狸が人懐こい目で四郎を見上げ、ぎざぎざ模様の尾を振っていた。その色は明らかに周りの風景とは浮いており、四郎の知る豆狸とは異なっていた。豊縁の地に豆狸など数えきれぬほどいるがこの狸達はいかにも面妖である。
だが、彼は気が付いた。ああ、これは昨日散々見つめていた染付の豆狸じゃあないか、と。それで自分がまだ夢の中にいるのだと四郎は気が付いたのだった。二匹の豆狸は四郎を誘うようにして走り出した。地頭の家の門を出るとじぐざぐに蛇行しながら、神社のある方向へ向かい進んでいく。時折立ち止まっては四郎の方を見た。四郎は後を追いかけた。その道のりは三つ子鳥に乗っても少しばかりかかる程度には離れているはずだが、あっと言う前に木の根の坂道に入り、気が付けば鳥居の前に立っていた。
ぎゅう、ぎゅう。白青の豆狸達が上を見て鳴いた。鳴き声に導かれるように鳥居の天辺を見れば、あの時見た見知らぬ使鬼が腰掛けていた。虫のような触覚を生やした不思議な造詣の使鬼はやはり白青だった。にいっと笑みを浮かべると虫のような羽根をはばたかせ、宙に浮かび、飛んでいく。拝殿の横をするりと抜けてその奥へ姿を消した。ぎゅわう、ぎゅう。豆狸達が再び声を上げ、走り出す。彼は慌ててその後を追いかけた。あの使鬼と同じように拝殿の横を抜け、その奥に在る本殿の横も通る抜けてやってきたのは社を囲い守る鎮守の森であった。歳経た太い幹の木々が立ち並び、碧とも翠ともつかぬ色の葉が生い茂っていた。落ち葉を踏みしめながら豆狸達を目で追ううちにその森も開け、光が差した。気がつけば朝日が昇っていた。そしてまた見えてきたのは鳥居であった。その上にはあの使鬼の姿があった。
今度の鳥居は趣を新たにしていた。ちょうど両腕を外に向けて開いたくらいの間隔で並ぶ樹が二本あって、それぞれ大きな枝の又を持っていた。その二本の樹を結ぶように伐採された丸太が掛けられて、それが門の形を成していたのだった。それは野趣を残した不完全な、半天然の鳥居であった。鳥居には通常二本の横棒が入る。一本目は掛けられた丸太がそれを担い、二本目は二本の樹から伸びる枝葉が交差することで視覚的にそれを補っていた。
朝日が目に染みる。そう思って四郎は目を覚ました。僅かに開いた戸の間から光が差している。今度は完全なる覚醒であった。ああ、そうか夢であったかと四郎は思い出した。夢と知っていてその事を忘れていたのだった。そして同時に今日は発つ日であると思い出した。むしろから這い出て、外に出ると井戸の水で顔を洗った。
「長い間お邪魔をしてしまいました」
地頭にいくらかの金子を包むと、四郎は三つ子鳥の背中に跨って出発した。衝動的に始まった旅もこれで幕引きだ。海の見える生家に戻り、今後は絵付けをしていた事など忘れて過ごすのだ。彼は手綱に力を込めた。だが、村の入り口までやって来たのその時、三つ子鳥の足を止めた。愚かな。四郎は呟いた。あんなもの、夜明け間際に見た幻だ。それなのにあの豆狸達の白と青が瞼にこびり付いている。
気が付いた時、四郎は三つ子鳥を急きたて来た道を逆走させていた。あれは夢だ。そんな事は重々分かっていたのに確かめずにはいられなかった。夢で見たのと同じ道を再び辿る。いくつもの田畑の区切りを横切って、三つ子鳥の俊足は神社のある山の前まで到達していた。
三つ子鳥を鼓舞する声が響く。その身体はぴょんぴょんと根の坂道を駆け上がった。鳥居のを潜って参道を走り抜けると、器用に身体を曲げ、拝殿そして本殿の横を走り抜けていく。その裏に広がる鎮守の森の落ち葉を踏んで蹴散らした。森の暗い葉陰が彼らを覆ったが、再び光を取り戻すのに時間はかからなかった。彼らは森を抜けた。そして。
四郎は三つ子鳥を制止した。その目の前にあの不完全な鳥居が立っていた。又を持つ二本の樹が、伐採された一本を天に向かって捧げるかの様に持ち上げていた。
彼はしばし無言でそれを見つめていたが、やがて三つ子鳥の背中を降り、共にその鳥居を潜った。その先にの伸びているのは幅二尺程の狭い道で、両端に低い木の雑木林が続いていた。日当たりがいいのか野の花が咲き乱れている。枝や幹を何度も切られた林の木は独特のくねった伸び方をしていて、誰かが管理している事が一目で分かった。やがて聞こえてきたのは水の音だった。川だ。この先で水が流れているのだ。
そして彼らの視界に一軒の家屋が入るのに時間はかからなかった。茅葺の家屋の外には壁を覆うようにおびただしい数の薪が積み上げられている。そのすぐ近くに石を積み上げて出来た竈があった。
四郎は目を見張る。これは登り窯だ。大地から切り出した石の粘土を焼き固め、茶から青を燃え上がらせるが為の母体だ。すぐ下を見れば川が流れていた。岸近くに小屋が建てられ、水車が回っている。水車、それは動力源、砕いた石をさらに砕くための装置だ。それを証明するかの如く小屋の横には彼のよく知る白い石の大小が積み上げられていた。
彼は再び家屋を振り返る。間違い無い。此処こそが探していた場所だった。
「御免下さい。どなたかおられますか」
四郎は台所と一体となった土間の玄関に立ち、声を上げた。衝立の裏には囲炉裏の間があり、その奥にいきつかの部屋と廊下が続いている。何度も奥の部屋に向かい呼びかけたが返事は無かった。留守であろうか。四郎は玄関の、囲炉裏の間とを仕切る衝立の横に腰掛けると家主の帰りを待った。早速工房の中を覗いてみたい好奇心が逸ったが、抑える。三つ子鳥の手綱を近くの木に繋ぎ、彼は待った。
主人を待つ間、彼の中にいくつかの事柄が巡った。第一に浮かんだのは神主の言葉であった。
――これは祖父の代に奉納された大皿でしてね。
と、神主は言った。
名人であったが弟子に恵まれず、亡くなってから奉納も絶えた。窯元は朽ちてしまい、竈の跡しか残っていないと。
なぜ神主は窯元の存在を隠したのだろう。第二に浮かんだのは、かつての師に聞いた祖父の言葉だった。
――窯元の親方は神掛かった技術を持っているが人嫌いで、皿をなかなか売ってくれない。
だから、もう無いと言って隠したのか。四郎は思案した。
立ち上がり一旦家を出て、雑木林を歩き回る。空を大燕が滑り、藪から豆狸が顔を出したが、普通の色であった。そうするうち半刻程が経ち、再び四郎は戻ってきたが、やはり声を掛けても誰もいない。つながれた三つ子鳥は一つの首だけが起きて、残りの二つは身体に顔を埋め眠っていた。唯一起きている首が暇そうに川で回る水車を見つめている。水車か。思う所があった四郎は川の岸辺へ続く急な坂を下りてそこへ向かった。川原の石に足がつまづかぬようにしながら近づいていくと、小屋の戸の隙間から何か動く影が見えた。ああ、こっちに居たのだと思った。
「御免ください」
四郎は声を掛け、戸を開く。
が、その中にいた者の姿を見て、四郎は思わず悲鳴を上げ、腰を抜かしてしまった。そこに居たのが人ではなく、子供ほどの大きさの黒い何かだったからだ。
それは宙に浮いていた。橋の擬宝珠(ぎぼし)に似た大きな頭にはいくつもの赤い目と嘴のようなものが数珠繋ぎの様に配置されている。その下に壷のような小さな胴体がくっついていて、左右に独楽のような腕があった。それの頭が回転する。独楽のように回転する。けれど回っても回っても見えるのは同じ顔であった。それは数珠繋ぎの赤目を光らせたり消したりしながら近づいてきた。
「あ……あ……、」
異様な姿を目の当たりにして言葉が出ない。おそらく使鬼であるが、見た事の無い種類だった。あえて例えるなら陶器の化け物――陶鬼(とうき)と呼ぶのが適当であろうか。その表面は土を練って焼き上げた陶器のそれによく似ていた。黒とは対照的に数珠繋ぎの目を縁取り、乳房のような胴の模様を描く白が、焼き物に使う釉薬のように見えた。
陶鬼は腰を抜かしたままの四郎をしばらく観察するとすいっと小屋へ戻っていく。中では巨大な杵が上下を繰り返し、石を細かく砕いていた。そして陶鬼は自らの仕事を再開した。陶鬼の目が順々に輝くと、粉砕された砂状の白石だったものが舞い上がり、小屋にあったいくつかの水入り壷の中に吸い込まれていく。陶鬼がまた目を点滅させる。すると小屋の端に立てかけてあった木の棒がひとりでに宙に浮き上がり、壷の中を掻き回し始めた。
水簸(すいひ)だ。四郎は理解した。修行時代に材料屋でやらされた事と同じだった。
一通り壷の中を掻き混ぜると竿を取り上げ、陶鬼は別の仕事にかかった。小屋の外に出ると、独楽に似た小さな腕をかざし、光線を放った。直径四尺はあろうかと思われる石が真っ二つに割れて、四郎は絶句した。陶鬼は尚も光線を発射する。岩は西瓜を包丁で切り分けるが如く等分されていった。
そして不意に、宙に浮いた大きな金槌が四郎の前に現れた。四郎は思わず陶鬼を見る。求められている労働は明らかであった。彼は観念して腰を上げると、陶鬼が西瓜のように切った石を金槌で叩き、砕き始めた。陶鬼の目が順に光る。砕かれた岩が宙に浮かび、空中に集められる。十分に集まるとそれを水車で動く杵の機構の中に放り込んだ。杵が石を砕いていく。
陶鬼はそれを見届けると元の仕事へと戻っていった。先ほど水と砂とを攪拌した壷をじっと見つめると、水に溶け出した上辺の白い泥だけを空中に集め、別の布敷きの壷に注ぎ始めた。いくつかの壷に白の泥を溜めると、小屋の隅に並べていく。そして移動すると一番端の壷を見た。それは何日か前に同じようにして並べた壷で、水分が抜けたのか中のかさは随分と減っていた。水が抜けた白の泥は白の粘土に変化している。腕が胴を離れて壷の中身をつつき、感触を確かめる。よいと判断したのか、布ごと出来上がった粘土を宙へ取り出した。持っていろとでも言うように四郎の前にそれを差し出す。反射的に彼が受け取ったのを見届けると、浮きながら家屋のほうに移動を始めた。
「あ、あの……」
粘土を両手に抱えたまま四郎は思わず声に出す。
「こちらの親方さんはいつお帰りになるのでしょうか……?」
と、尋ねた。返事は無かった。
陶鬼は繋がれている三つ子鳥に一瞥をくれ、家屋の敷地に入っていく。四郎は黙ってついて行った。玄関は無視して外にある竈の側に回ると、縁側から中へと入る。そこには作業場とおぼしき部屋があり、ろくろやタタラ板、コテが置いてあった。中心の風通しのよい場所にある簡素な組み棚には素焼きされた皿が何枚も並べてあった。陶鬼は藁で編んだ座布団に胴を据えると頭で支え、くつろぎ始める。そして腕を胴から離すと部屋の角にある壷を差したのだった。四郎は持っていた粘土をそこに入れた。再び部屋を見渡すと。端にある釉薬などを並べてある棚の上に大皿がいくつか並べてあるのが目に入った。鯉大将、凶龍、鳳凰、鳳凰に仕える瑞獣(ずいじゅう)と言われる三匹の獣の姿、それに神社で見、夢の中で鳥居の上に座っていた虫羽根の使鬼の姿もあった。どれも勢いのある線で描かれたそれは今にも動き出しそうである。四郎はしばしその絵に魅入った。けれど一つだけ不可解だったのは、並べられた大皿の中にまったく絵の無い白磁の大皿が存在した事であった。どうして、これだけ。不思議に思った。満足行くまでそれらを眺めると縁側に腰を掛け一息ついた。
縁側からは登り窯が見えた。そして、しばらく過ごすうちに不意に竈の穴の中から何かがのそりと顔を出したのを見たのだった。炭亀だ、と四郎は呟いた。穴から出てきたのは二尺程の赤い亀だった。この使鬼ならば知っていた。元いた窯元では竈の番を竈鬼が務めていたが、炭亀を使う窯元は多いのだ。だから絵付け職人達の多くは銘の部分に炭亀の甲羅模様を描き入れる。この皿は炭亀の竈で焼かれたと感謝の気持ちを込めて描き入れる。竈鬼の場合はその手形模様を描き入れる。炭亀はのそのそと近づいてくると、くおっと鳴いた。気の抜けた声だった。四郎がじっくりとその姿を観察すると、通常は六角形である甲羅に開いた穴は珍しい菱形で、その奥で火が燃えているのが見えた。ふと思い立ち、棚に並ぶ大皿の一つをそっと裏返した。裏面の銘に見えたのは菱形を内包した炭亀の甲羅文様。それは神社で見たものとまったく同じだった。
何者かが玄関の戸を開いたのは、四郎が三つ子鳥を庭に入れてやり、空が赤らんできてからであった。音に気が付いて出ていってみれば、そこに人影がある。だが、玄関から入ってきたのは人ではなく、籠を背負った痩せた女のような使鬼であった。赤の袴のようなものをはき、正装した神主の冠に似た角が生えている。それは瞑想鬼であった。背負った籠から大根の葉が覗いていた。四郎はがっくりと膝を落とした。だが、瞑想鬼はむすっとした顔をしたもののそんな四郎を相手にする事も無く台所に入る。米びつから玄米を取り出し、おろした籠から大根を一本取り出した。米をとぎ、包丁を持つととんとんと野菜を刻む。鍋に汲んでいた水を入れ、打ち石で火をつけると米を炊き、味噌汁を作り始めた。
「あの、こちらのご主人はいつお帰りになるのでしょう?」
やはり返事は無かった。
日は沈み夜になる。玄関の衝立の向こう、瞑想鬼や陶鬼、炭亀、そして三つ子鳥と囲炉裏を囲みながら四郎はその帰りを待った。さすがに瞑想鬼は箸を持ち、人間らしい手つきで食事をしたのだが、不可解なのは陶鬼であった。瞑想鬼が碗に味噌汁をよそってやる。そして陶鬼の目の前に置くのだが、陶鬼がそれに一切触れもしないのに中身が少しずつ消えるのである。三つ子鳥の三つの首が目を丸くしてその様子に見入っている。四郎もまた味噌汁をすすった。昼間に労働力を提供したとはいえ、まだ主人に無断で上がりこんでいる事には変わりが無く落ち着かなかった。
戸を開く音がして寒い風が入り込んできたのは、皆が囲炉裏の前でうつらうつらし出した頃であった。がらがらと引き戸が開き、の視線が玄関へと注がれる。ああ、やっと会えた。四郎は衝立から顔を出し、その姿を確認した。
だが、今度もそれは人間で無かった。現れたのは、風呂敷包みを抱えた体格のいい使鬼であった。
剛利鬼(ごうりき)だ。窯元でよく粘土を練っている腕利鬼、それが成長し、力をつければ剛利鬼となる。その姿は人に似ているが全身が灰色だった。何よりその顔つきは人間と言うよりも大唐犬のそれに近い。誰だ、とばかりに四郎をぎろりと睨みつけた。
三つ子鳥がぎえっと声を上げ、四郎は少し身構えたが、剛利鬼はそれ以上をしなかった。足の裏の泥を払って、囲炉裏の前に座った剛利鬼は風呂敷包みを傍らに置くと瞑想鬼から碗を受け取る。器用に箸を持つとがつがつと食らい始めた。四郎は驚いた。人に体格や身体の構造が近い腕利鬼や剛利鬼は仕込めば小さなおたまで食事が出来るし、粘土の荒練りや菊練りも出来るようになる。だが、その人間離れした筋力の代償故か、細かい作業が苦手だった。ろくろを回させてみても器の形にならないし、ましてや箸を持つ事など考えられない。少なくとも四郎の常識の中ではそうだった。剛利鬼は食事を終えると風呂敷包みを持って奥の部屋へと入っていき、それきり戻らなかった。もう眠る時間だとばかりに陶鬼や、瞑想鬼炭亀も囲炉裏の場を去っていく。一度戻ってきた瞑想鬼がむすっとした表情でむしろを一枚、渡してくれた。
家主は結局、帰らず仕舞いか。四郎はこのまま三つ子鳥と共に囲炉裏の間で眠る事にした。
次の朝に四郎が目を覚ましたのは、陶鬼の独楽のような腕が彼をつんつんとつついたからであった。目を開けるとちょうどその上に陶鬼が浮かんでいて、四郎はぎょっとした。陶鬼は頭をぐるぐると回転させ数珠繋ぎの目のうちの二つを交互に光らせた。どうやらついて来いと言っているらしいと理解した四郎は目をこすると草履を履き土間へ下りた。陶鬼は壷の中をかき混ぜたあの不思議な力を使うと引き戸を開け、外へ出る。坂を下りて水車小屋へと移動した。そして今日も四郎は金槌を渡された。昨日と同じように石を砕けという事らしい。
四郎はどうにも不本意であったのだが、まだ主人が現れない状況と泊まる場所の事を考えれば仕方あるまいと思った。その人が現れるまでは付き合おうと決めて、川の水で顔を洗うと金槌を振り上げた。
陶鬼は両腕から赤い光の光線を放つ。石をある程度の大きさに等分すると四郎に砕かせた。そしてある程度砕かれたのを確認すると水車小屋の中の杵のからくりの中に入れた。そして昨日と同じように砕いたものを取り出し、壷の中に入れると混ぜ始める。共同作業は太陽が空の天辺に昇るまで続けられた。
そして、休憩を取る為に再び窯元に戻った時、彼は信じられない光景を目の当たりにする事になった。坂を登り、陶鬼の後を追いかけるように竈のある庭に回り、縁側に辿りついた時、四郎は驚愕した。
縁側のある作業場、剛利鬼がそこに正座し、絵筆をとっていたからだった。
台の上には直径一尺ほどの皿があって、剛利鬼が筆先を走らせていた。近寄ってみれば描かれているのは焦げ茶の唐草模様であった。いくつものうねる線が重ね合わさって、薇(ぜんまい)に似た草が皿の中心から増えていった。最初は握りこぶし程しか無かったその薇畑はだんだんと大きくなり、陶鬼が半刻程の休憩を終えて再び独楽のような腕でつんつんと四郎をつつくまでにはその全体を覆っていた。再び四郎が岸辺の小屋で仕事をすべく去る時には皿をひっくり返し、銘に亀甲模様を描き入れていた。模様の中にあの炭亀の菱形の穴を彼は見た。
なんということだ。陶鬼が刻んだ石を割りながら、四郎はずっとその筆の動きを頭の中に描いていた。何度も何度も描いていた。唐草模様をあの細かさで、しかも半刻で皿を埋め尽くせる職人など少なくとも四郎の知るうちでは一人もいない。いや、もしかすると師なら可能かもしれないが、そうだとしても、だ。あれは人間では無い。剛利鬼である。細かい作業を苦手とするあの種族があの高みへ登るのにどれだけの鍛錬を積んだのだろうか。本当なら石砕きを今にでも放り出して作業場に戻りたかった。あの動きを目に焼き付けたかった。
空が赤らんだ頃に粘土を抱え窯元に戻れば、剛利鬼はまだ筆を動かし続けていた。昼に見た一尺ほどの皿に加え、半尺の皿がいくつかと碗、水注、湯飲みなどに同じ模様が描かれていた。食器一式として使われる事を意識したもののように見えた。各々の食器に焦げ茶で描かれたそれを釉薬に浸し、火に晒して青く燃え上がらせたならばどんなに美しかろうと四郎は思った。そしてますます気になった。この剛利鬼にこの技術を仕込んだであろう師の存在が気になった。
だが、四日経っても、五日経っても人は一人も現れなかった。ただ淡々と人のように振舞う使鬼達の営みが続いていった。
陶鬼と共に作り上げた白の粘土が溜まってくると、剛利鬼はそれの荒練りを始めた。何度も押しつぶして粘土を均一な状態に練り上げると今度は空気を抜くべく菊練りを行う。粘土を押しつぶし、ひだが出来る度にそれを潰し、空気を抜く為の練りだ。ろくろを使うつもりなのだと四郎は思った。
ろくろを回すのは陶鬼の役割であった。陶鬼が目の一つを光らせながらくるくると頭を回すと同じようにろくろが回った。手も触れずに竿を動かし、砂を壷に入れるあの不思議な力と同じものなのだろう。そして器を形作るのはやはり剛利鬼であった。剛利鬼は回転する粘土の塊の形を整え指を掛けて、真ん中に穴をあける。さらに奥に腕を入れていくとそれは大きな筒型になった。次にコテを当てながら徐々にそれを押し広げていった。やがて回転する器は鉢型になり、回転を繰り返すうちにだんだんと平坦に近い形をとっていった。回転が終わった時、そこには似尺ほどの白の大皿の形が現れていた。
営みは続いていく。幾日も幾日も四郎が石を砕くうち、粘土は溜まり、成型された器も増えていく。それは棚に置かれ影干しされた。その器で棚が満たされた時、剛利鬼は竈の中に器を並べ、家屋の壁にびっしりと並べていた薪を竈に並べた。炭亀が竈の中に入り、炎を吹いた。 素焼きの器が増えたなら本焼きに向け、絵付けを進める。四郎はどうにもうずうずして、筆を持ちたいと思ったが、剛利鬼に近寄ると煙たがられ、半径三尺以内に入る事を許されなかった。領域を侵せばぎろりと睨みつけられ、とても筆を握れる状態ではない。自前の筆と炭で竈の周りに落ちていた陶辺に絵を描き、ちらつかせても見たのだが、まったく意に介さなかった。主が帰ってくれば交渉も出来ようものだが、未だその気配も無い。結局、四郎は石を砕き続ける他なかった。剛利鬼は筆を走らせる。先日に作った大皿に筆を滑らせ、豆狸を描いた。背景は雑木林と野の花、そこに二匹の豆狸が遊んでいた。この窯元の周りに広がる雑木林なのだろう。そう四郎は思った。弟子の絵は師匠に似る。その面差しは、いつか神社で見たあの皿の豆狸によく似ていた。棚はいつのまにか茶の模様がついた器で満たされていた。そうして次の日に剛利鬼が再び竈に薪をくべる事となった。本焼きの始まりであった。
作業場の隅のほうにあった巨大な容器を取り出し蓋を開ける。そこには釉薬たっぷりと入っていた。剛利鬼はそれをよく混ぜた上、陶辺につけ、よくよく具合を確認すると、いくらか石灰などを調合し、またいくらかかき混ぜた。そして絵付けした器の一つ一つを竹で編んだ網と箸で挟むと、釉薬に浸し、よく切ってから、板の上に並べていく。大皿は陶鬼の力で浮かせると傾けたままゆっくりと回転させ、そっと柄杓でかけ、全体へ伸ばしていった。 そうして釉掛けが終わった器を竈の中に並べ始めた。まるで神事を行うが如く、それは神聖な作業に見えた。陶鬼、瞑想鬼、炭亀はじっとその様子を見守っている。すべての作業を終えると、炭亀に目配せをした。炭亀は任せろと言うようにこおっと声を上げ、竈の中に入っていく。それを確認した剛利鬼は、石と粘土を積み上げて竈に蓋をした。そうして僅かに見える竈の窓から、中の様子を見守った。炭亀が火を吹いたのであろう。小さな窓の中がかっと赤く光ったのが分かった。
それから丸一日、剛利鬼は竈の側を離れなかった。僅かに見える登り窯の窓をずっと見守り続けていた。時折、中から炭亀の細い声が響く。すると新たな薪を窓からくべた。時々、瞑想鬼が水や食べ物を運んできた。それを口にしながらも、剛利鬼は決して竈からは目を離さなかった。炎の熱が吹きつけ、目元と額が赤く照らされ、汗ばんでいる。四郎はその姿を羨ましく思った。
ああ、この剛利鬼は師からこんなにも仕事を任されている、信頼されているのだ、と。
竈を開いたのは次の日の昼であった。剛利鬼があの時塞いだ石積みを拳で粉砕すると、まだ熱の残る竈の中から温かい空気が漏れる。にわかに四郎の心はざわめいた。
剛利鬼が竈の中へと入っていく。そして奥から炭亀と共に戻ってきた。その両手には生まれたばかりの胎児――青く燃え上がった大皿があった。野の花は青く咲き誇り、白青の豆狸達が走り回っていた。窯元を飛び出してから味わう久々の感覚であった。皆で手分けをして焼きあがった器を出し、作業場に並べる。質素な台の上を青と白が彩っていた。その様子を見届けると剛利鬼が奥の部屋へ去っていく。ほどなくして大きないびきが聞こえてきた。その日、彼を見かける事は無かった。
翌朝、四郎は自然と目を覚ました。また今日も石砕きかと思って、草履を履いて外に出たのだが陶鬼もいないし、何か様子が違う。中庭を回って作業場に続く縁側に行けば、陶鬼、瞑想鬼、炭亀の皆が集まっていた。そして作業場で剛利鬼が風呂敷包みに昨日焼いた大皿を包んでいた。四郎は訝しんだ。皿を売りに行くのだろうか? だがそれならば大皿の一枚だけというのもおかしい。そうしているうちに身支度を終えた剛利鬼が縁側から庭に出ると他の使鬼達が続いたのだった。
「どちらへ行かれるんです?」
そう四郎が尋ねると陶鬼の顔がぐるぐるとに回転ほどして目の二つが交互にちかちかと光った。どうやら黙ってついて来いと言っているようだった。三つ子鳥を留守番に置いて四郎はついていく事にした。
一同は窯元の横を流れる川の上流を目指すようにして山道を歩いた。時折、野生の獣や使鬼達に出会う。腕利鬼はぺこりと頭を下げると道を開け、豆狸の成長した縞穴熊が道を横切った事もあった。空を見れば海辺のほうではめったに見かけない綿鳥達が飛んでいる。四郎はしばしそれを見送った。美しい薄青の身体は伊万里の絵の題材にしたらとても映えるように思われた。山の中腹まで来ると瞑想鬼が手にしていた包みから木の実を一つずつ取り出し、皆に配った。それで腹を満たすとまた彼らは歩き出した。炭亀にとって登り坂が辛くなってくると瞑想鬼がひょいっとその身体を持ち上げ、彼は手足と首を引っ込めた。そのうちに道はだんだんと岩肌でごつごつするようになって、自生する木々が少なくなってきた。その岩肌は白かった。それで四郎はあの川原の小屋に積み上げていた石をどこから持ってきたのか理解したのだった。そして、頂上までもう少しというその頃に剛利鬼は足を止めた。その足元には山の花が咲き乱れている。剛利鬼は瞑想鬼に風呂敷包みを預けると、その花を摘み始めた。
その姿を見るに、四郎に何か予感のようなものがよぎる。もしや、これはそういう事なのか。予感はほぼ山頂にある岩壁に辿りついた時、的中する事になった。
山頂には塚のように白い岩がいくつも積み上げられていて、彼らはそれに近づいていく。瞑想鬼が炭亀を下ろしてやると、引っ込んでいた手足が再び出てきて、同じように歩み寄った。積み上げられた岩と岩の間に人一人がしゃがんで入られるくらいの空間があった。そこに何十枚もの大皿が積みあがっている。そしてその中の中心に「それ」はあった。
それは伊万里であった。直径一尺ほどの伊万里で、筒状の容れ物だった。上に蓋がつき、筒状の側面には様々な形の青い花の絵が散りばめられている。剛利鬼がその前に花を手向け、手を合わせた。使鬼達がそれに続く。陶鬼と瞑想鬼が手を合わせ、墨亀は頭を垂れた。吹き付ける風が冷たかった。
四郎はただただた立ち尽くしていた。同時に確信もしていた。
いつまでも帰らぬ使鬼達の主、剛利鬼に器を形作らせ、筆の扱い方を教えた人物――その人は今、目の前にいる。青い花に包まれて眠っている。
後悔した。使鬼達に何度も問いかけたあの言葉を。そして使鬼達の営みを思い描いた。炭亀が亡骸を炎で焼き、陶鬼が粘土を作り、剛利鬼が練り上げて形とした。茶の花を咲かせて焼き、出来た器に骨をいれ、瞑想鬼と共にここに収めた。
この場所を選んだのは、今は亡き人の遺言だろうか。風が吹くほうを見渡せばこの一帯がよく見渡せた。山と山との間に窯元に向かって流れる川のある谷が深く黒く見えた。
瞑想鬼が剛利鬼に風呂敷包みを渡した。彼はそれを解くと、しばし容れ物にかざして見せる。その後に中にある大皿の上に積み上げた。言葉が出なかった。
窯元にもう主はいない。いや、今目の前で皿を収める剛利鬼こそが今の窯元の主なのだ。
窯元に戻った頃には日がすっかり暮れていた。夕餉を済ませると、剛利鬼は奥の部屋へと消えていき、使鬼達もそれぞれ引っ込んでいった。四郎もまた三つ子の頭を撫で、むしろに包まった。だがなかなか寝付けなかった。
ここに来る前までの事、ここに来てからの様々な事。そんな事が囲炉裏の埋火が僅かに照らす暗い天井を駆け巡って、何度も何度も繰り返された。この窯元に人はいない。では自分はどうすべきなのか。何度繰り返しても明確な答えは出なかった。
そんな四郎の思考を途切れさせたのは奥に続く木戸を開く音であった。振り向くと火の玉のような赤い光が動いていて、四郎は一瞬悲鳴を上げかけた。が、すぐにその正体を理解して押しとどまった。光の数が増え、数珠状に並んだ。それは陶鬼であった。
「どうしたんです。こんな時間に」
そう四郎が問いかけると、陶鬼は一旦光を消し、たくさんあるうちの二つの目のちかちかと交互に光らせた。こっちに来いという合図であった。四郎が怪しみながらもむしろから出て、立ち上がるとふらりと赤い光が奥へと進んでいく。廊下を通りやってきたのは作業場であった。陶鬼のすべての目がぼうっと光る。かたんと部屋のどこかで何かの落ちる音がしたかと思うと、四郎の目の前に大皿が浮かび現れた。それはいつか作業場に初めて入った時に見た絵の無い白磁の大皿であった。四郎が触れると、力を失って腕の中に滑り込んだ。陶鬼の目から放たれる光に照らされて、白磁の肌は赤く染められていた。幻想的な光だった。すると不意に白磁を照らしていた光が青色に切り替わった。驚いて振り返れば陶鬼の目がいつもとは違う青色に染まっていた。そうして四郎は気が付いた。白磁の皿を照らす青に模様が刻まれている、という事に。
四郎ははっとして皿の表面を陶鬼に向けた。白磁の更に青の模様がついていた。そこにあったのは一面の麻葉地模様であった。直線を組み合わせて作った菱と三角が織り成す模様。彼がずっとずっと引き続けていた模様だった。四郎は陶鬼を見た。陶鬼が頭を回し、青い光がくるくると回転した。
四郎は陶鬼の明かりを頼りに部屋を見回した。そして先ほど棚から落ちたらしい大皿の皿立てを手に取ると作業場のろくろに乗せ、白磁皿をそこに立てた。すると陶鬼はかちりかちりと目の位置を切り替えながら頭を回し、目の光を皿に当てて、その度に様々な模様を映し出したのだった。
それにはいつか剛利鬼が描いていた唐草の草原もあったし、今日頂上のあの場所に収められた豆狸の絵もあった。どうやら陶鬼は今までに見た絵付けを記憶しているようであった。凶龍、鯉大将、鳳凰、三匹の瑞獣、大燕、名も知らない虫羽の使鬼、四郎の見た皿をすべて映し出すと、綿鳥や川を泳ぐ泥鰌に沼の底の鯰と四郎の知らぬ図案が次々と現れた。時に牡丹や梅、菖蒲に桜が咲き乱れ、福の神が笑い、猫が小判を撒き散らした。細密な模様である事もあった。
そのうちに現れたのは白磁に佇む一人の男の影であった。白磁の中で男は歩みを進め、そのうちにやじろべえのような土人形に出会った。さらに歩くと亀の影に出会い、共に旅をした。そのうちに瞑想鬼と思しき影が加わり、そして最後に道に倒れた何かに出会った。男が腰を落とし手を伸ばす。その手を取ったのは小さな子供のような使鬼、腕利鬼であった。彼は腕利鬼を介抱すると自らの一行に加えた。
次に移ったのは水車、そして見覚えのある家屋だった。男が作業場で皿に絵付けをしていた。腕利鬼は土を練り、瞑想鬼は茶を持ち、やじろべえが竿を操って壷の中身をかき混ぜていた。絵が描けると亀が火を吹き焼いた。どうやら男は窯元を構え、伊万里を作り始めた様子であった。そのうちに一人の人の子が戸を叩いた。ちょうど元いた窯元に四郎が入った歳と同じくらいと思われる男の子であった。男の子はやじろべえと共に壷をかき混ぜ、腕利鬼と共に土を練った。そして師と共に筆を取った。四郎はいつの間にか彼に自分を重ねていた。
日々は続いていく。男の子は日増しに身体が大きくなり、粘土を練るよりも筆を取る時間が多くなった。いつの間にかやじろべえに代わり陶鬼が竿を操るようになってもいた。時々、出来た皿や器を持って鳥居を潜った。神社に奉納する為であった。
師の指導は厳しい様子だった。白い磁器の空間に何枚も何枚も丸に囲われた麻葉地の文様が並んだ。それは青年が絵付けした皿だった。最初は歪んでいた模様も白磁に浮かぶ文様が増える度に正確さを増していった。だが、それでも模様は続いていく。それは青年が直線のみを引き続けているという事に他ならなかった。白磁の大皿が文様で埋め尽くされるまでそれは続き、すべてが麻葉地で埋まった時、陶鬼は場面を切り替えた。今度はほとんどの空間が白の絵であった。そこには麻葉地の皿一枚と筆が一本残されたのみで、青年の姿はどこにも無かった。青年は姿を消した。彼は窯元を去ってしまったのだ。
師は彼を探し山野を彷徨ったが彼の姿はもうどこにも無い。縁側に座って、晴れの日も雨の日もその帰りを待っていたがついに彼は戻って来なかった。それ以来、師は筆を取る事をやめてしまった。彼は青年に厳しくあたりすぎたのだと事を悔いている様子であった。
再び皿が白の画面になる。そこには一本の筆が転がっている。陶鬼が次の目に切り替えると、そこに腕利鬼の影が映った。
場面が切り替わる。腕利鬼が筆を拾った。
――名人でしたが、お弟子さんに恵まれませんでした。親方様が亡くなってから奉納も絶えたと聞いています。
四郎の家に神主の言葉が蘇った。
四郎は理解した。その言葉の後には続きがある。師の下にいた弟子はいなくなった。師はそれを嘆き筆を手にとる事を辞めたが、腕利鬼が投げ出した筆を拾った事によって、再び気力を取り戻したのだ。
青の画面が切り替わっていく。師と腕利鬼は共に粘土を練り、ろくろを回し、並んで絵付けをした。腕利鬼が何度、ろくろの器を崩してしまっても、何度歪んだ線を引いたとしてもずっとそれに付き合った。手先を鍛える為に箸も持った。腕利鬼は器用さに欠ける使鬼だ。血の滲むような努力をしたに違いなかった。
そのうちに腕利鬼は剛利鬼へと姿を変えた。それは強い拳を放つためではなく、ろくろで皿を形作り、より正確な線を引くための変化に四郎には見えた。
二人は更なる精進に励んだ。お互いがお互いを刺激したに違いなかった。だがその営みも、師が倒れた事によって幕を閉じた。師は死の床にあって剛利鬼に呟いた。何事かを呟いた。
後は四郎が思い描いた通りだ。師の亡骸は炭亀によって焼かれ、剛利鬼が器を作った。骨は器に入れられ、山頂の墓に葬られた。
大皿が白磁へと戻る。四郎はそれをしばし見つめていた。視線が動いたのは赤い光が彼を照らしたからであった。いつの間にか目の光が赤に戻った陶鬼は四郎に何事か問うように赤をちかちかと点滅させた。
四郎はごくりと唾を飲み込んだ。陶鬼は問うているのだ。この窯元の過去を知った上でお前は何を想うのか。どうするつもりなのか、と。
「私は……」
四郎は言葉に詰まった。確証などどこにも無かった。けれど陶鬼の映し出したあの青の世界を覗き見た時に一つの可能性を期待してしまった。縁側でずっと弟子の帰りを待つあの姿を考えてしまった。
もしかすると師は自分に期待していてくれたのではないか。だから自分に厳しく当たったのではないか。そんなはずは無い。けれど。
けれど、何より本人の言葉を聞かないままに自分はあそこを飛び出してきてしまったのだ。
許しては貰えないかもしれない。また石運びからのやり直しかもしれない。職人達には今まで以上に馬鹿にされるだろう。けれど今一度、真意を確かめなければならないのではないか、と。
そう思うと、もういてもたってもいられなくなった。
四郎は夜明けと共に山の窯元を飛び出した。三つ子鳥の背中に跨り、朝の寒さに震えながら雑木林を駆け抜ける。その先にあの天然の鳥居が見えてきた。どうっと掛け声を響かせると、三つ子鳥と共に潜り抜けた。
三つ子鳥は走った。一刻もすれば見覚えのある鎮守の森にたどり着いた。そのままその森を抜ければ見覚えのある瓦屋根が見えた。そこは客人神社の本殿の屋根であった。本殿を守る塀の横を通ると境内に出た。見覚えのある老人が箒で落ち葉を掃いていた。神主であった。四郎にとっては久方ぶりに見る人間だった。一方の神主は突然、おかしな場所から出てきた人と鳥に面食らって目を丸くした。
「おや、確か貴方は……」
神主は四郎に声を掛ける。これはどうも、と四郎は気まずいながらも返事を返した。
「四郎さん……でしたかな。ご無沙汰をしております」
神主は言って、そして続けた。
「ああ、もしかして、あれを見たのですかな」
四郎の心の臓が鼓動を高めた。同時にああこの人は全てを知っているのだと思い出した。
「はい……」
覚悟を決めて四郎は答える。
「そうですか。言った通り何も無かったでしょう。今は、大きな竈の跡があるばかりで」
「え?」
四郎は聞き返した。何を言っているんだろう、この人は。あそこには今もちゃんと窯元があって使鬼達だけではあるが、今も伊万里を作り続けている。なぜ、そんな事を。
だが、四郎は直後にはっとして、
「ええ、何も御座いませんでした」
と、答えた。おそらくこの神主は世間からあそこを隠しておきたいのだ。だから見た事は黙っておけと言いたいに違いない、と察したのだった。
「では、私は参りますので」
そう言って三つ子鳥の手綱を波立たせると神社の鳥居を潜った。朝日がずいぶんと差してきた。参道を足早に駆け、神社の鳥居を潜って抜けた時に四郎は俗世に戻ったような不思議な感覚を味わった。
小高い山を下り、三つ子鳥は林の道を駆け抜ける。林を抜け風景が広がるとそこには田や畑、人々の営みがあった。久々に見る椎葉の村の風景の中に三つ子鳥は飛び込んでいった。
道は続いていく。山をひとつ越えた頃に椎葉の隣にある村が見え、日も暮れた。その晩はそこに泊めて貰い、また日の出と共に出立した。そんな日々を幾日か繰り返すうちに目に入る川の幅は大きくなり、川は河へと変化していく。より海の道へと近づいた。四郎が故郷に帰り着いたのは山の窯元を出てから五日目の昼の事であった。
海に近い街の店々には様々な暖簾がかかっている。大勢の行き来する人々に混じって時折使鬼や獣の姿もあった。四郎は三つ子鳥の背中から降りると、目立つ大通りは避け、裏路地を回って生家へと急いだ。賑やかな大通りとは何区画か離れた先にはこの伊万里でも比較的豊かな商人達の家々が集まっている。
正面玄関から入るのも忍びなく、三つ子鳥と共に勝手口のほうに回ると、薪を割っていた女中とばったり出くわした。
「まあ、四郎ぼっちゃん!」
驚いたように声を上げたのは女中のお富であった。久方ぶりに見る顔だった。四郎の小さな頃から勤めている女中で兄弟達は皆、彼女の世話になっている。力士鬼(りきしおに)のようにがっちりとした体格の彼女は子を十人生んでもけろりとしているような豪傑であった。そんな彼女は四郎のその姿を見つけるや否や物凄い力で四郎に掴みかかり、そして抱きしめた。三つ子鳥は驚き植え込みの影に隠れる始末であった。
「おおお、ぼっちゃん。よくご無事でいらっしゃいました! 富はうれしゅうございます」
富は頬をこすりあわせながら言った。苦しいので離してくれと言ったがなかなかやめてくれなかった。気の済むまで抱擁をすると、再びまじまじと四郎を見た。
「ああ、本当に四郎ぼっちゃんなのでございますね……。徳治さんの窯元からいなくなったって聞いたきり文一つも寄越さないのですもの。奥様などどこぞの海に飛び込んで死んでしまったのではないかとそれはもうすごいお嘆きようで」
「……この通り足はついておりますよ」
四郎は答える。
「そうでございますね。目もちゃんとちゃんと二つありますし、夜廻(よまわる)か布巻鬼(ぬのまき)になってしまったという事でもなさそうです」
富はそこまで言うと、ああ、それにしても何てぼろぼろな服、とこぼした。
「急いで出てしまったので替えがありませんでした」
四郎は答える。使鬼達と生活するうちに、服はすっかり汚れぼろぼろになってしまった。時々河の水で洗ったが、破れまでにはどうにもならない。瞑想鬼がどこからか持ち出した針と雑木林に棲む虫の糸とを使って繕ってくれた事はあるのだが、それにも限度と言うものはある。富は四郎の腕を引っ張り、風呂場へ押し込むと、自分は薪をくべて風呂を沸かし始めた。どうやら両親や長兄は留守であるらしかった。顔を合わせれば仕置きの一つもあるだろうが、その前に綺麗にしておけと富は言った。
「お湯加減はよろしゅうございますか」
湯船の上にある窓から富の声が響いた。
「うん、ありがとう。だいぶいいよ」
久方ぶりの湯は身体に染み入った。たっぷりと湯を満喫した後に富は新しい着替えをくれた。富は四郎の髪を整え、髭を剃った。そこにいたのはもう下働きの見習いではなく商家の若旦那であった。
四郎の両親や長兄が戻ったのは日がとっぷりと暮れてからだった。母は泣き崩れ、兄は呆れ顔をし、父は腕を組んで黙り込んだ。四郎は床に頭を擦りつけんばかりに、ただただ平伏した。
父は人払いをした。広い庭の見える畳敷きの部屋には師の描いた凶龍の器がある。彼らはその部屋に二人きりになった。長い長い沈黙があった。
「四郎」
「…………はい」
「大事無かったか」
「……。…………はい……」
てっきり足蹴にされて殴られるかと思っていたが、そうはならなかった。ただ長い沈黙が再び続いた。かこんと庭で鹿おどしの音が響き渡った。うす雲の後ろにおぼろげに月の見える夜であった。
「窯元であった事は知っておる」
父は言い、四郎は顔を上げた。よくよく見た父の顔は四郎の知る顔より老け込んで、白髪も幾分か増しているように思われた。
「元々、お前が行く事には反対だった。同じ伊万里を扱う者同士とはいえ、形を作り焼く者達とそれを運び送り届ける我々とでは棲む世界が違うのだ」
いずれこうなる事は分かっていた。父は言った。
「最初は筆を持つ事も無く、お前が帰ってくると思っていたよ。むしろに包まって眠る夜はお前には寒すぎるだろと」
だがお前は音を上げなかった、と父は言った。
昔から変な所で頑固だった。思えば小さい頃から珍しい物を見に行く為なら喜んで遠出するような所があったからな、と。
「お前、三年も何処で何をしていた」
父は言った。
「……は?」
四郎は怪訝な表情を浮かべた。三年、とは。全く意味が分からなかった。
「どこで何をしていたと聞いている」
「いえ、そうではなく……」
あの使鬼達と共に過ごしたのはせいぜい一月がいい所だ。父は何かを試しているのだろうか。いや、こんな場面でおかしな冗談を言う人ではない。しかし三十日と三年を間違えるとも思えない。
「父上……」
「何だ」
「恐れ入りますが、今日は何年の何月何日でしょう」
「……何を言っている」
「長い間、暦を見ないで生活してきました故、感覚がずれております」
父は訳が判らぬとばかりに眉を曲げたが、
「弘化(こうか)四年十一月十日だが」
と言った。
四郎は絶句した。窯元を飛び出したのは弘化元年の九月の末だ。遥か遠く関東の江戸城の火災などの凶事が重なり、天保から元号が改められたばかりだったはずなのに。人と会わなさ過ぎて感覚が狂ってしまったのだろうか。
「何を驚いている」
「いえ……よく分かりました。長い間、ご心配を掛けてしまい申し訳ありません。山間部にあるとある窯元におりましたが、思うところがあり戻って参りました」
四郎は本題を切り出した。もう父はすべて知っていると言ったが、四郎は語った。修行に出て、窯元を出るまでの事を。それから後に見聞きした事を。剛利鬼達の事は神主の手前もあり、さも人間がいるようにぼやかして語ったが、自分が師の真意も確かめずに飛び出してきてしまった事を悔いている事を伝えた。また最初からになるかもしれない。だが、やり直したいと思っている事も。
「明日、師に会いに参ります。聞き入れて戴けるかは分かりませんが……」
四郎のそれを父は黙って聞いていた。だが、
「もういい」と、言った。
「もういいのだ、四郎。どうしても伊万里がやりたいと言うなら、お前の窯を持てばよい。無理をして職人達と枕を並べる必要もなかろう。お前とあの者達は相容れぬ。身をもって分かったろう」
「そんな。父上、私はそんなものを持てるほどの腕前も資格もございません。だからこそ……」
浮かんだのはあの剛利鬼の事だった。決して器用ではないあの種の使鬼があそこまでに技を練り上げた事を四郎は思った。それは血を吐くほどの鍛錬であったに違いないのだ。自分の窯を持つという事はあの剛利鬼にこそ相応しい。竈は金で買えるかもしれないが、それは四郎の中にある矜持が許さなかった。
「……お前の師は、徳治は、お前への仕打ちを悔いていたよ」
父は言った。
「師が……?」
「許してやりなさい。徳治はお前の事をかっていた。だがどうしてもお前を持ち上げるわけにはいかなかったのだ。我々は伊万里で繋がった共同体だが、私達は憎まれ役だからね」
「それでは、少なくとも、師は私を嫌っていた訳ではないのですね?」
四郎は尋ねる。にわかに雲が切れ、月明かりが差し込んだ。
「ああ、図案を練っている事も知っていた」
「それならば、私は」
だが、四郎の父は首を振った。
「父上?」四郎は父の様子を不振に思い、尋ねる。
四郎の父はしばし庭の上に浮かぶ月を見た。再び雲が月にかかり、その姿はぼやけてしまう。まるで手に掴む事を阻むように。
四郎、お前が帰ってきたその日にこんな事を言うのは憚れるが、と父は前置きし、言った。
「徳治は死んだよ。去年の冬だ。流行り病だった」
厚い雲が覆って、ぼやけた月が空から消えた。一瞬、世界から音が消えた気がした。
「嘘だ!!」
四郎は叫んだ。
「元々歳だったのだ。天命だ」
「嘘です……!! それは嘘です! ……嘘、です……」
四郎は叫んだ。掻き消すように。けれど否定の言葉は繰り返す程に弱くなった。
「残念だよ。あの絵付けは私も好きだった。彼の皿を欲しがる人は円寿や江戸にもたくさんいたのに」
父は淡々と言った。
「嘘です……だって私は……私は師に何も伝えておりません」
「諦めなさい」
父は言った。何事にも引き際がある。あの窯元にもうお前の居場所は残されていないのだ、と。
「嘘です……嘘です」
四郎は言葉を繰り返した。そして自問した。いつの間にか過ぎ去っていた三年という月日。これは罰か。師の本意を確かめる事もせず、飛び出してしまった自分への。いや、それともやはり自分の感覚がおかしくなっているのか。父が富に布団を敷かせたから眠るようにと伝えて去ったが四郎の耳には入っていなかった。床の間に立てられた凶龍の大皿だけが月の光に照らされて、青く光っていた。
あくる日の朝は雨が降っていた。布団から這い出たはいいが、四郎はどうにも力が入らなかった。ただ漫然と生家の庭を見つめていた。
「ぼっちゃん、ぼっちゃん」
そう声が掛かって振り向けば、庭の端に傘を差した富が小さな菊の束を抱えて立っていた。ああ、これですか。朝市で手に入れたのですよ、と富は言った。そして続け様に今から徳治さんのお墓参りに行きませんか、と言ったのだった。その墓があるという寺の名は四郎も知っているもので、多くの職人達はそこに葬られるのが慣例となっていた。
雨の為か大通りに人は少なかった。二人はそれぞれ合羽姿で三つ子鳥に乗ると、雨の道をひたひたと走った。雨で道が悪かった。菩提寺に到着するまでには三つ子の足でも一刻半かかった。低い山の入り口にある寺は雨の音がするばかりで静かであった。三つ子鳥を寺に預けると彼らは墓場に入っていく。
「さあ、ぼっちゃんこちらですよ」
富が手招きをした。
寺の裏に広がる山。それが人々の墓場だった。この山の中に空いている場所を探して埋葬するのだ。よほど身分が高いか豊かでない限り、境内の中に墓地の土地を所有するという事は難しい。墓石の高さも大きさにも制約がある。簡素なものは盛り上がった土の上にどこからか持ってきた石を一つ置いていただけであったし、もう誰も来ないのか立った墓石が傾いているものも多くあった。こうやって人は忘れられていくのだ。そのように四郎は思った。
雨音が耳に響いている。富に導かれるままについていく四郎の内に、あの日の光景が蘇った。使鬼達と歩いたあの山道が。剛利鬼が大皿を持ち、彼の師の墓参りに行ったあの光景が思い起こされた。人を嫌っていたという彼らの主、彼は俗世で何を思い、何を想ってあの場所に住み着いたのだろうか。何を考えて伊万里に絵を描いたのだろうか。人嫌いでありながら、一人だけ人の弟子を迎えた主。けれど彼はうまく付き合うことが出来なかった。弟子は山の窯元を去った。
雨が降り続いている。富に案内されたのは山の中腹にある一角であった。わずかに盛り上がった土の上に一尺半程の長い四角の石柱が立てられていた。石には戒名と思しき名前が刻んであった。
「その石は旦那様が用意してくだすったんですよ」
そう言って富は菊の束を渡してくれた。白い菊だった。四郎はそれを墓前へ供え手を合わせた。
また件の光景が蘇った。使鬼達が手を合わすその先には、青で描かれた骨の容れ物があった。野の花と一緒に供えられたのもまた伊万里だった。ああ、あれもまた花なのだと四郎は思った。伊万里は青い花なのだと。
かつて磁器は海を渡ってもたらされた。それに人々は魅了された。
白地に映える青、燃えるように咲く青。かつて海を渡ってきた美しい磁器に人々は青花という名をつけた――その意味をようやく四郎は理解出来た気がした。
墓石の前に供えた白い花を見る。彼は思う。ここにある花は誰かが育て、富が用意してくれたものだ。自分には何も無い。何も持っては来れなかった、と。
耳に響く音が強くなった。空から降る雨粒は次第に大きくなっていった。
四郎が姿を消したのは、その日から三日の後の事だった。文を書き残し、四郎はまたいずこへと消えた。
四郎は三つ子鳥を走らせた。目指す場所は決まっていた。いや、そこにしか行き場所は無かったと言うのが正しいのかもしれない。地を蹴って三つ子鳥は走った。川幅の大きい河を遡るようにして走った。やがて海辺の町は見えなくなって、川幅は狭くなる。あたりは山ばかりになった。三日ほどの旅の果てに再びやってきたのはかつて瀬川に案内された椎葉村であった。日が沈みかけていた。
四郎は手綱を鳴らした。田畑の道を駆け抜けて林を抜けると三つ子鳥は再び神社の鳥居を潜る。拝殿と本殿の横を通り、暗い鎮守の森を疾走する。にわかに耳元でくすくすという笑い声を聴いた。それは虫羽根を広げ、四郎と三つ子鳥の横を滑るように飛ぶと軽々と追い越していく。白と青で彩られたそれはあの名も知らぬ使鬼であった。二つ目の、天然の鳥居が見えてくる。使鬼はぐんぐん飛行速度を上げると、鳥居を潜って姿を消した。そして追いかけるように四郎が鳥居を潜ったその時に、上空に異様で恐ろしげな声を聞いた。
四郎は目を見開いた。上空を渡るのは鱗に覆われた長い身体の龍であった。白と青の巨大な凶龍であった。凶龍が長い身体をうねらせて旋回しながら何かを探している。その姿に四郎は見覚えがあった。ああ、これはあいつじゃないか。四郎は思い当たるところがあった。
それは生家の部屋に立てられていた大皿の凶龍だった。凶龍を描いた皿など珍しくも無いが、その筆運びに見覚えがあった。そして分かった瞬間に恐ろしくて動けなくなった。あれは自分を探している。そのように彼は理解したからだ。凶龍はしばらく上空の旋回を繰り返していたがやがて視線をこちらに向け、口を開けて向かってきた。四郎は悲鳴を上げた。
許して下さい。貴方の心が分からなかった私を。許してください。
凶龍が真っ直ぐにつっ込んできた。三つ子鳥と共に走るけれど、相手の動きは早かった。地面もろとも噛み砕く顎に捉えられ、牙が肩に食い込んで激痛が走った。再び悲鳴がこだました。
許してください。許して下さい。
「許して下さい!」
全身にぐっしょり汗をかいて四郎は目を覚ました。そこには見覚えのある天井があって、三つ子鳥の三つの頭、陶鬼のたくさんの目がついた顔、相も変わらずむすりとした瞑想鬼の顔が覗き込んでいた。
四郎は思い出した。ああ、そうだ。鳥居を潜り抜けた時に落鳥し、地面に投げ出されたのだと。それから気を失ったのか。
虫羽根の使鬼も、凶龍も幻だったのだ。けれど痛んだ。肩がずきずきと痛んだ。堰を切ったように押さえ込んでいたものが流れ出した。
「あ、あ、あああ、うああああ……」
これは、罰だ。
四郎は泣いた。声を上げて泣いた。全てを吐き出すように声を上げて泣き続けた。泣いて泣いて泣き続けて、その後にやっと真っ黒な眠りが訪れた。
再び目を覚ました時、山の窯元は昼を迎えていた。
四郎はむしろの中から這い出すと、戸を開け外に出る。川に下って顔を洗った。腕を動かす度に肩がずきずきと痛んだが、構わず腕を動かした。すっかり泣き腫らした顔を冷やすと再び窯元に戻っていく。今度は竈のほうに回って、作業場の外にまでやってきた。それは主に会う為であった。この山の窯元の主である剛利鬼に。
思った通り剛利鬼はそこにいた。人に近い体躯のけれど獣に近い顔をしたその使鬼は作業場で筆を動かして絵付けをしていた。
四郎は剛利鬼のほうへ向き、地面に膝をつくと言った。地面に両手をつけて、言った。
「私をここに置いてください」
剛利鬼はただ黙って絵付けを続けている。けれど四郎は引き下がらない。
「私をここに置いてください。ここに置いてください! お願いします……お願いします!」
何度も何度も四郎は繰り返した。窯元の主はまるで意に介さなかったが、それでも四郎はやめなかった。たとえ殴られても、外に投げ飛ばされたとしても、戻ってきてやるつもりだった。もう自分には此処しか無いのだ。
何年かかってもいい。もう一度筆を握らなければならなかった。
その者、私が貰い受けたい。などという台詞がよく浄瑠璃には出て来る。豊縁の伊万里近くに浄瑠璃一座が来る事は稀だったが、彼らが来ると聞いたなら多少遠出になっても四郎は見に出かけたものだ。機会を得る為なら手段を選ばないような所が昔から四郎にはあった。
あれは確か豊縁国盗合戦という演目の一場面で、異国から渡ってきたという黒い狐を赤の衣を来た知将が手にする場面であったろうか。
最も今回の場合は立場が逆であった。四郎に手を差し伸べたのは使鬼であって、しかもその手は球体に指が一本ついているだけで人の形をしていなかったし、顔を囲うように赤い目がびっしりと並んでいる異形の陶鬼であったが。この場所では使鬼と人の主従は逆転する。
陶鬼がいくつかの目を交互に赤く光らせると、剛利鬼の視線が動いた。剛利鬼は喉の奥から小さな低い声を何度か発し、それに答えるように陶鬼の目が素早く何度も点灯を繰り返す。「いいか?」「勝手にしろ」そんなやりとりを彼らはしているように思われた。
来い。陶鬼は二つの目を交互に点滅させて、いつもの合図を送った。結局、その立ち位置は最初にここに訪れた時の位置に収束した。だが、四郎はそれでいいと思った。近くにいれば機会は必ず巡ってくると信じた。
落鳥の時の打ち所が悪く右肩が激しく痛んだ。それからしばらくは左手で金槌を持ち、たどたどしく岩を砕きながら、水簸の補助のような事をした。
陶鬼は四郎を様々な場所に連れて行ってくれた。特には瞑想鬼と共に石を採りに山へ連れていき、一本しかない指から赤い光線を発射して石を切り出した。その切り出した大きな塊を運ぶのは瞑想鬼であった。彼女は細い見かけの割りに驚くような力があった。自分の身体の何倍もある白い石の塊を軽々と持ち上げた。瞑想鬼は筋力と共に陶鬼が使う念の力を兼ね備えていると聞いた事がある。その二つが彼女の運搬を可能にしているのだと四郎は思った。
陶鬼は山の中にある獣達に会える場所にも連れて行ってくれた。綿鳥達が利用する山間の空の道や、豆狸や縞穴熊達が通る獣道、鯉大将が泳ぐ深い川の水溜まり、たくさんの木の実がなる歳経た大樹の場所を。
やがて右肩が動かせるようになり、以前のように金槌を振り下ろして石砕きを始めたが、陶鬼が時折休みをくれたので四郎はよくそれらの場所に行って時間を過ごした。こんな山奥では紙の一枚も手に入らなかったが、やがてその場に円形の皿を想像で浮かべ、そこに綿鳥達や豆狸達を写し取る事を四郎は試みるようになった。朝から日の落ちるまで彼は獣、鳥、魚達を眺め続けた。
だが四郎が絶対にやらない事があった。それは外では絶対に眠らない、という事だった。今でも時々、夢に奴が出てくる。外で眠ってしまったらそれが襲ってくる。四郎にはそんな強迫観念が付きまとっていた。
死んだ師が描いた凶龍、かつて自分が伊万里を志すきっかけになった龍、自分が故郷から連れて来てしまった染付けの龍――それは今でも時折夢に現れる。凶龍はいつだって夜空を旋回し、四郎を探していた。その度に四郎は恐れおののいた。けれど、どういう訳かこの山の窯元の中にいる限りにおいて凶龍は四郎を見つける事が出来ないのだった。だから四郎は眠らない。窯元意外では決して眠らなかった。この場所以外で眠ってしまったら、見つかって食い殺されるに違いない。
――良い絵付けには使鬼が宿る。
かつて師匠はそう言った。今なら明確にそれが分かる。かつてこの山の窯元に自分を案内したのは、神社にあった大皿の使鬼達だった。使鬼はいるのだ。確かに大皿に使鬼は宿るのだ。
私はどうしたらいい? どうやったらこの凶龍は去る?
四郎は自問を続けた。それに答えを与えたのは再び夢に出てきた白青の豆狸達であった。豆狸が外を走り回ると、凶龍が襲ってくるが彼らは決して捕まらなかった。電光石火の技で追撃をかわし、穴を掘って地面に逃れる。豆狸達に凶龍を退けるだけの力は無かったが、彼らは決して捕らわれなかった。
これだ。四郎は合点した。退ける者がいないなら作り出せばいい。あの巨大な龍を退けるうる存在をこの手で描き出せばいいのだ。
だから四郎は探しているあの山の中にあの凶龍に対抗しうる獣や使鬼がいないか探しているのだ。そうして何より、その為に筆を持つ必要があった。だから四郎は待っていた。石を砕きながら機会の得られるのを待ち続けていた。
転機が訪れたのは山の窯元に戻ってから二月程が経ったあくる日であった。いつものように金槌で石を砕いていると、空に見慣れない影が横切った事に気がついた。鳥では無い。四郎が目に捉えたのは膜翼の竜であった。丸みを帯びた胴体からは翼の他に長い首と尾が伸び、先に炎が揺らめいている。
「飛炎竜だ!」
四郎は声を上げた。陶鬼と四郎は目を見合わせ、窯元に駆け戻っていく。膜翼の竜は空を旋回しながら、窯元の中庭に降り立たんとしている。着地の際に風が地を撫でた。この葉と砂塵が舞い飛んだ。同時に四郎と陶鬼は中庭に入ってきた。その時になって四郎は初めてそこに人が乗っている事に気がついた。膜翼の赤い竜に一人、括りつけた箱の間に挟まれるようにして人が乗っているのだ。それは若い男であった。
操り人だ。四郎は思った。使鬼や獣の中でも従順な種は多くの人々が所有し、使役しているが、一部の気性が荒い者達や竜の類は珍しい上に従えるのが難しいと言われている。彼らを所有し、難なく操り者達を人々は畏怖を込め、操り人と呼ぶのだ。それは同時に久々に見た自分以外の人であった。
操り人がこちらに振り向く。彼もまた突然現れた人に驚いた様子であった。
「こりゃおったまげたわ。人おったんか。椎葉のお人?」
「まあ、そんなところです」
説明するのも長くなるので四郎は適当な事を言った。
彼は竜次(たつつぐ)と名乗った。元々は関東のほうにいた御家人の家柄だったらしいが、何代か前に身分は捨てたらしい事を教えてくれた。
「そういう俺は城都で育ったねん。今はあっちこっちで飛脚の真似事をやっとる。ご先祖はんは黄金の陣やら関が原で戦ったらしいが、落ちたもんよ。ああ、こっちは鬼灯(ほおずき)言いますねん。これでも女子(おなご)やってん、よろしゅうたのんますわ」
飛炎竜を指すとそう言った。
そこまで語ると、彼は剛利鬼に視線を向けて、
「ほな本題やで。旦那はん、出来たもん見せて貰いまっせ」
そう言って縁側から作業場に踏み込むと、出来上がった伊万里を検分し始めた。剛利鬼がその様子をじっと見守った。
「ひい、ふう、みい。碗が二十に鉢が十、皿が三十と八……」
さらさらと紙に目録を記入した竜次は、懐から算盤(そろばん)を取り出す。ざらっと目を揃えるとぱちりぱちりと弾き始めた。それで四郎は様々な疑問が氷解していった気がした。この山奥で石は採るとして様々な道具をどうやって揃えたのか。背負って持ってくるにしても限界がある。だが、竜次の存在があればおおよその事は可能になるように思えた。飛炎竜の存在はまさに空飛ぶ火ノ馬、いやそれ以上だ。
「ここの親父さんに父が贔屓になってたと聞いとります。親父さん、変わったお人でな。持ってた伊万里全部父に渡して、ここに窯元建てましたん。何百回往復したかわからんと言っておりました」
まるで四郎が聞きたい事を察しているみたいに竜次は算盤を弾きながら語った。計算が終わったらしく、懐の袋からじゃらじゃらと銭を取り出した。
「では今回はこんなもんで」
いくらかの銭をひっかけた輪っかを剛利鬼に前に差し出して、竜次は言った。
「呉須なり筆なり、必要なものがあれば、そっから出してください。次に来る時には揃えて来ますよってに」
だが剛利鬼に受け渡されるその量を見た時に四郎はひどい違和感を覚えた。では貰っていきますと棚の伊万里に手を掛けた竜次だったが、その腕は四郎に掴まれた。
「待ってください」
竜次が振り向いた。
「これだけでは、お渡しできません」
四郎は言った。
「なんやて?」
竜次が四郎を睨みつけた。突然の事に剛利鬼や陶鬼も四郎のほうを見た。にわかに二人の言い争いが始まった。
「これだけの等級の伊万里にこの値付けは不当ではありませんか」
「いきなり何を言い出すんや」
「安すぎます。こんな値段で買い叩かれては、道具もろくに揃えられません」
「お前さん、何を言ってるんや。名人だった親父さんならともかく、使鬼が作った伊万里でっせ」
「使鬼かどうかなど関係ありません! あなたはお父様から伊万里の見方も習ってこなかったのか!」
言い争いは続く。何事かと廊下の側から瞑想鬼がやってきて、竈から炭亀までも這い出して来た。
「ちょっと貸りますよ」
四郎は床に置かれていた算盤を掴みとると言った。そして竜次が手にかけようとしていた碗を指差し、「例えばこの碗ですが……」と言って素早くぱちぱちと爪弾き始めた。
「いいですか。まず陶土にも等級があります。元の陶石の質が大変にいいので上質の白ですね。準最上くらいでしょうか。大きさはまぁこんなもんでしょう。さらに絵付けですが、唐草の大きさが揃っていて、狂いがありません。白地部分と絵付けの青の部分の配分も実に絶妙。これだけ全体の均整がとれて大変美しく仕上がっております。これだけ描ける絵付け師は人間にもそうはおりません。見る人が見ればわかりますよ」
竜次は目を丸くした。特に際立ったのは四郎の算盤をはじく異常な速さであった。こいつは椎葉の人間ではない。幼い時からそういう教育を受けてきた人間だと竜次は悟った。
「四郎はん、そんな殺生な。十倍だなんて」
弾き出された算盤の目を見て、竜次は言った。
「これでも良心的に見積もったつもりですがね」
淡々と四郎は言った。そこに立っていたのは窯元のしがない見習いではなく、正確に算盤をはじく商人であった。
「これじゃあ私が大赤字でっせ。商売あがったりですがな」
「それはあなたが相場を知らないからです。なめられているのですよ。どこの誰に収めているかは存じませんが、今度は十五倍くらいの値でふっかけて下さい」
四郎はさらに算盤を弾き、続けた。
「今の値段で貴方がさらにそれを卸した時、貰えるのはまあこれくらいなものでしょう。ただこれから正しい相場で売る事が出来たなら、貴方の取り分はこれだけ増えます。貴方にとっても悪い話では無いはず。更に……」
使鬼達は目を見張った。値段の事は彼らにはわからなかったが、時折やってくる操り人の顔がみるみる蒼白になっていっている事だけは分かったのだった。
「更に値段交渉の際の奥義を授けましょう」
四郎は竜次に耳打ちした。
「そんなんで……」
「いいからやってみて下さい」
そうして飛炎竜は飛び去った。いつもと違うのは背に積んでいた箱の中にいつもの四分の一しか伊万里を乗せていなかった事であった。最も置いていった金も当初示した四分の一であったのだが。
なんて事をしてくれたんだとも言いたげに剛利鬼が掴みかかって来たが、四郎は負けず、まっすぐ目を見て言った。
「貴方はあんな事をされて悔しくないのですか。今の今まで人で無いのだけを理由に不当に評価をされてきた事が悔しくは思わないのですか。あの人は必ず戻ってきます。戻ってきて必ずいい値でこれを買ってくれます」
四郎は熱弁した。四郎は悔しかった。これだけ素晴らしい伊万里がこんな値段で買い叩かれている事が許せなかった。
その言葉が現実となったのは十日の後であった。再び飛炎竜に乗ってやってきた竜次は言った。
「八倍だ。それ以上は譲れない」
「上出来です」
四郎は言った。まるでその数字を予想していたように言った。
「あの言葉、効果あったでしょう?」
「おう、効果てきめんだった」
「そうでなくちゃ困ります」
四郎はにやりと笑った。四郎が教えたのは自分の家の屋号だった。四郎は商売敵の名をちらつかせて値段を吊り上げさせたのだ。
竜次が銭を括りつけた輪を出した。伊万里の代金として剛利鬼の前に差し出されたそれは今までの八倍。今までが平地ならば山であった。すると四郎はそのうちの半分を掴み取り、竜次のほうに押し戻すとまた何やら耳打ちした。
そうして次の買い付けに竜次が訪れた時、山の窯元の使鬼達は驚いた。飛炎竜が背中に乗せてきた品々を竜次は気前よく広げてみせる。そこには何種類もの呉須に、釉薬の材料、図案を練る為の紙、様々な太さの筆が並べられていた。その他には米、野菜、山では手に入らない魚や貝の干物もあった。瞑想鬼のむすっとした顔が笑顔に変わる。彼女は嬉々として食材を台所へと運んだし、炭亀は木炭を貰って喜び、陶鬼は新しい壷や仕事道具を得た。四郎は真新しい着物を何着か手に入れた。
「それと、これを」
最後に竜次が差し出したのは菊の花だった。小振りながらもたくさんの聞くの花が竹籠に入れられて咲き乱れていた。ここに発つその直前に竜次が植木屋から仕入れてきたものであった。
「貴方の仕事が正当に評価されたのですよ。報告に参りましょう」
四郎は剛利鬼に菊の籠を手渡し、言った。
剛利鬼はしばし動きを止めたまま菊の花を見つめていたが、やがて黙ってそれを受け取ると、大事そうに水に差してから、そそくさと筆をとって仕事を再開した。山頂にそれが届けられたのは次の日の昼であった。
それから数日の後、四郎がいつものように陶鬼と共に石を砕いていると珍しく窯元から剛利鬼が降りてきた。剛利鬼は四郎と目が合うと、来いとでも言うように背を向けて再び窯元のほうへと歩き出す。陶鬼のほうを見ると目を何度か点滅させて行ってこいと彼は言った。上に登り、竈の側を曲がって剛利鬼についていくと作業場に、藁の座布団が二つ、敷かれている事に気がついた。その前には台が置かれ、素焼きした皿が置かれていた。四郎は剛利鬼の顔を見上げた。剛利鬼は頷いた。
座して真新しい筆を手にとる。それは久しぶりの感覚だった。
筆を持つ手が震えた。それは久々に筆を入れるという緊張の為ばかりでは無いと知っていた。反対の腕の袖で顔をぬぐった。筆が持てる。これであの恐ろしい凶龍に対抗できる。けれど違う。それはもっともっと根源的な何かなのだ。
瞼を閉じる。夢の中に沈み込むと、その中にある夜空を相変わらず凶龍は泳いでいる。四郎を探して泳いでいる。四郎が窯元の家屋から外を見れば周りには一面の唐草の草原があった。それは今日という日に四郎が唐草の器を描いたからだ。青で描かれたそれが夜の風に揺れてその中に豆狸が遊んでいた。時折空を綿鳥達が横切るのは、窯元の主である剛利鬼が描いたからだ。凶龍は鳥達を狙うが、綿鳥達はそれはなんなくかわしてみせる。だが四郎が描くとこうはいかなかった。動きの遅い綿鳥はあっと言う間にその顎に捕まって果ては飲み込まれてしまうのだ。
それを見るようになって、いつしか四郎は剛利鬼と共に絵皿を描く事に没頭するようになった。碗や鉢を作る事は少なくなった。彼らは皿に来る日も来る日も獣や鳥、魚の姿を書き続けた。
絵を描き、青く焼き上げる。するとその絵が夢に現れる。繰り返される昼と夜はいつしか現と夢の行き来となった。それは四郎にとって一つの指標であった。
相変わらず竜次が伊万里を買い付けに来るが、この数年で変った事は売れた代金を報告してそのうちのいくつかを手数料としてもっていくようになった事だ。結果は竜次によって詳細にもたらされる為、一枚一枚の評価が分かるようになった。
四郎はいつしかそれを凶龍を使って図るようになった。凶龍の攻撃を避ける事が出来るとその皿にはいい値がついた、飲み込まれてしまうとそこそこの値しかつかなかった。高値になる絵皿の大半は剛利鬼の作であった。
四郎は出かける事が多くなった。山に出てより獣達の動きを観察した。観察して想像上の素焼き皿にその姿を焼き付ける事を繰り返した。そうしているうちに少しずつ、白青の世界で喰われる獣が減っていった。
四郎が特に情熱を傾けているのが鯉大将であった。窯元の下を流れる川を一刻ばかり掛けて下っていくと、川の水が溜まった深い淵があった。そこたくさんの鯉大将が泳いでいるのだ。鯉大将ばかりではない。日によっては大泥鰌が姿を見せる事もあったし、鯰が底から顔を出す事もあった。角を持つ金魚が舞っている事もあった。四郎は時に一人で、時に剛利鬼や陶鬼とその場所を訪れて、魚達の観察に没頭した。そうしてから描いた魚は夜空をすいすいと素早く泳ぎ、凶龍には捕まらなかった。だんだんと竜次から報告される金額が大きくなり、個別にこれを描いて欲しいという注文が入るようになった。四郎は描き続けた。特に大皿に何匹もの鯉大将を泳がせる事もあったし、渾身の一匹を丹念に描く事もあった。そうして夜空にたくさんの魚が泳ぐようになった頃、淵にいる魚の一匹一匹の識別がつくようになった。
魚は減ったり、増えたりした。大雨が降った後だとその顔ぶれは大きく入れ替わったし、魚達を狙って大きな鳥が度々訪れた。黄と赤の長い長い冠羽をつけた茶色い鳥は大燕や綿鳥とは違い、四郎が見た事の無い種類だった。どこからか流れてきた漂鳥は二月ほど山に居座って時折淵の魚を獲ったものだが、季節が変わる頃にはどこかへと飛び発った。そしてもう二度と戻らなかった。そのうちに散った山桜の花びらが浮かび、季節が巡ると色とりどりの落ち葉が彩った。そんな事が何度となく繰り返された。
淵は変化を繰り返したが、変らずにそこにいる者もいた。四郎が錦と名付けた鯉大将もその一匹だった。彼は大雨にも流される事無く、鳥に捕まる事も無く、常にその淵に居続けた。他の鯉大将より一回り大きく、ほんのり橙のかかった鱗が美しいその個体は仲間達にも頼りにされているようだった。時折やってくる角金魚や東王が仲間をつつくような事があれば果敢に向かっていった。体当たりしか出来ない錦はしばしば彼らに傷だらけにされて、多くの鱗を散らせたが、その生命力は旺盛であった。七日もすれば新しい鱗が生えてもとの美しい姿に戻った。いや、むしろ鱗を剥がされて新しくしていく度にその姿は美しくなっていくように四郎には思われた。彼は心優しい鯉大将であった。いつか大雨の後に見た事も無いみすぼらしいぼろぼろの魚がやってきた時にも木の実をもってきて分け与えたりと、何かと世話を焼いていた。いつしか四郎はそんな錦ばかりを絵にするようになっていた。「また鯉大将ですか」と竜次に呆れられても彼を描く事をやめなかった。剛利鬼もその姿に魅せられたのであろう。しばしば錦を題材に絵を描いた。いつしか夢に出る夜空は四郎と剛利鬼によって描かれた錦を模した鯉大将でいっぱいになった。錦を模した彼らは、凶龍と戯れる余裕があった。特に元気のある錦は自ら体当たりしていく事もあった。春が巡り夏になってここへ来て十度目の秋になった。
突然の別れが訪れたのは、その年の秋に上陸した台風の時であった。激しい雨が打ち付けて屋根の一部が飛ばされた。それで大量の雨が作業場に吹き付けた。屋根の補修をすべく陶鬼の頭にしがみついて家屋の上に昇った時、四郎は増水した川の中に跳ねる何かを見た。それは一匹の鯉大将であった。
錦だ! 四郎にはすぐにそれが分かった。錦が跳ねながら川を昇っているのだ。鯉大将は濁流に流されも流されても懸命に跳ねながら、川を昇っていく。吹き付ける雨に半目を閉じ、顔をぬぐいながらもその姿を追っていると、途端に錦の身体が輝き出した。信じられない光景に四郎は目を見張った。
光を放つ錦の身体が蛇のように伸びていく。まるで流れる濁流にあわせるようにその身体はうねりうねって大きくなっていく。そして光が弾けたその時、まるで雷が落ちたかのような咆哮が当たりを包み込んだ。そこにいたのはもはや鯉大将ではなく、一匹の凶龍であった。咆哮と同時に凶龍は身体をうねらせて天へと上っていく。やがて雲の中にまぎれて見えなくなった。そうしてまるで消えた凶龍の後を追いかけるようにして雨と風は天に吸い込まれいった。半刻ほどして雨は止み、さらに半刻が経った時に空はすっかりと晴れていた。四郎は窯元の屋根の上にあって、呆然と空を見続けていた。その姿を目の当たりにした窯元の誰も呆然と空を見つめていた。
その日の夜は天井から星空が見えた。四郎と剛利鬼は陶鬼に部屋を照らさせると、素焼きの大皿に競うようにして絵を描き始めた。描画筆で瞬く間に輪郭を描き上げると、一枚一枚鱗を描いていく。それが終わるとダミ筆で鱗を塗った。長くうねる身体に大きく開けた口、三枝に分かれる角、鋭い牙――彼らが描くのは凶龍の姿であった。二匹の凶龍であった。荒れ狂う濁流の波から天に昇る凶竜の姿がそこにはあった。
朝になって目を覚ました彼らが行ったのは薪を乾燥させる事だった。雨で湿気を吸った薪を一本一本並べると。炭亀は温かい息を吹いて水気を飛ばした。すっかり水が飛んだ事を確認すると彼らはそれぞれの皿を登り窯に入れる。炭亀が入ると石と粘土で蓋をした。
炎が上がった。丸一日をかけて炎は燃え続けた。四郎と剛利鬼はその炎を見つめ続けた。再び窯を開いたのは日が暮れて、夜が過ぎ、もうすぐ夜が明けようという寅の刻の頃だった。剛利鬼が竈の壁を崩すと二人は中へ入っていく、出来上がった二枚の皿を見てその出来栄えに顔を見合わせた。
これならいける。今こそその時がやってきたのだと四郎は確信した。
今日も夜空に凶龍が舞っている。だが今空にあるのは前からいる一匹ではなく三匹であった。一匹の凶龍がたくさんの眷属の鯉大将と共に遥か上空で見守る中、二匹が雷(いかづち)が轟くような声を上げながら、争っている。彼らは互いに追いかけあい、時には絡まりあって揉みあいになりながら、噛み付きあった。雷が何度も何度も轟くように声が響く。膠着状態が続いたが、一匹が動いた。素早く喉元に噛み付くとまるで空を舞うようにぐるぐると旋回を始めた。それが何週目かに達した時、凶竜は勢いをつけ、もう一匹を地に向かって投げ下ろした。長い身体が地に落ちて世界が揺れた。一際大きく雷のような声が響いた。
窯元の中からその様子を見ていた四郎の肩を叩く者があった。それは剛利鬼だった。剛利鬼は縁側に下りると来いと目配せした。四郎はおそるおそる窯元から一歩を踏み出した。天空で四郎の描いた凶龍が雄たけびを上げている。地に伏した龍に彼らは近づいていく。その青の輪郭がぼろぼろと崩れ始めていた。
「ごめんよ」
四郎は言った。にわかに大きな風が吹いた。するといよいよ青の線はばらばらになって花が散るようにして舞い上がった。十年間、あれほど四郎を探し回り、怖れさせた凶龍はその姿を散らせていった。
「さらばです師匠(せんせい)……」
それはかつて四郎が憧れた姿だった。畏れた姿だった。崩れゆくその姿を見て夢の中の四郎は涙を流していた。
剛利鬼は天を刺す。天に残った二匹の龍が眷属と共に上空へ飛んでいくのが見えた。二匹は高く高く昇って月の光のうちに溶け、見えなくなった。四郎と剛利鬼は青い唐草の野に立って、その姿を見送った。白青の豆狸が寄ってきて四郎の足に顔を摺り寄せた。
秋が終わり師走に近くなった。瞑想鬼は柿を干したり、大根を干したりと冬の準備に忙しかった。炭亀は山の獣の内に恋人が出来たらしく、よく竈をあけるようになった。だが、四郎達のやる事は相変わらずだった。鯉大将を描きたいだけ描いた彼の次の興味は花を描く事にあった。冬に咲く花は無かったけれど霜月のうちに手に入れた菊の花を思い出しながら四郎はひらすらに菊を描いた。凶龍が出なくなって久しく、心境の変化起きつつあった。
それは先日、竜次以外の人間が尋ねてき事も大きかったかもしれない。二匹の火ノ馬を連れた若い男が窯元にやってきて皿を売って欲しいと懇願してきたのだ。噂をききつけてここを探しあてたという。先代から付き合いのある二代目の竜次は例外として、自分以外にそんな人間がいる事に正直四郎は驚いた。彼もまた四郎の家と同じ伊万里の商人であるようだった。屋号を聞くと明かせないという。おそらく竜次が世話になっている所とは競合関係にあるのだろう。
商人は凶龍の皿の二枚を欲しがった。一度は断ったが、窯元から彼はてこでも動かなかった。何日も何日も居座って住人達は困り果てた。それでそのうちに四郎が折れた。四郎はこの男と自分を重ねていたようだった。かつてここに置いてくれと懇願した自分自身もこの男のようではなかったか、と。四郎は自分の凶龍の皿を売ってやる事にした。自身の最高の作を手放すには抵抗があったけれど、こうする事で次に進める気がしたのだ。
龍を手放し、男が去った事で四郎はいよいよ花を描く事にのめり込んでいった。茶の花は日に日にその数を増やし、炭亀の手を借りて竈いっぱいの伊万里の皿に青い菊の花を咲かせた、
そして、剛利鬼に四郎は告げたのだった。
「今年は一度、故郷に帰ろうと思います」
と、四郎は言った。
父母にもとんと顔を見せていない。何より師の墓に青い花を供えたいのだと。
木の葉は落ち、山の木々は枝ばかりの裸体をあらわにしていた。すっかり年老いた三つ子鳥の背中に乗って、四郎は故郷を目指した。その身体を気遣いながら今度はゆっくり旅をした。故郷にたどり着いたのは七日の後であった。今度は大通りを通って生家を目指した。久しぶりの故郷はやはり人が多く、活気があった。十年前のあの時と同じように勝手口から入ると、
「ぼっちゃん!」
と声がした。それは富であった。ずいぶんと白髪が増えていた。
「一体どちらにいらしたんですか! どれだけ心配したとお思いですか!」
富が泣いてぎゅうっと四郎を抱きしめた。
「ご心配をお掛けしましたね」
四郎は言って、突然に出て行った事をわびた。長兄にすっかり商売を任せていた父母は家におり、四郎は今までの侘びと挨拶をした。母は予想通り泣き崩れた。父は呆れ、いろいろ問いただそうとしていたが四郎が持ち込んだ青い花の器を見るなり、すべてを察したらしくもう何も言わなかった。
生家で一夜を過ごすと、次の日には師の墓参りに行った。記憶を頼りに山を歩いていけば苔むした墓石があった。四郎は苔をすっかり取りのぞくと青い花を墓前に供えた。やっと自身の花を持ってくる事が出来たと四郎は安堵した。
四郎は大晦日と正月を生まれ育った町で過ごす事にした。暦がまた四郎の中でずれていたらしい事を知ったのはこの為による所が大きかった。四郎の感覚にして十年はこちらでは八年だった。もっとも歳など数えなくなっていた四郎にとって二年や三年などのずれなどもはやどうでもいい事だった。城都にいる帝の即位によって改元された嘉永(かえい)はいつの間にか過ぎ去って、世は安政へと移っていた。
年が明け、安政二年。その年は温暖な豊縁に珍しく雪が降った。
正月が終わって、山の窯元に戻る時がやってきた。川を横目に見ながら、上流へ上流へ遡り、山道を三つ子鳥とゆっくり歩いていた。正月に振った雪は量が多く、例年に無い積もり方をした。だいぶ溶けてしまったとはいえ、山の木々の下にはところどころ白い部分を残していた。馬の蹄の音が聞こえてきたのは、そんな風に寒々しい空気を感じながら進んでいる時であった。四郎は振り向いた。見れば帯刀した武士がこちらへ向かって走ってきているところであった。その姿に何か既視感を覚えた四郎がぼうっとその姿を見つめていると、馬に乗った男のほうが声を掛けてきた。人違いなら申し訳ないが……そう前振りをした上で。
「もしや、四郎殿か?」
四郎は俄かに目を見開いた。
「瀬川様、ですか」
馬に乗った男の顔がほころんだ。
偶然にも瀬川は椎葉へ行くところだった。四郎と目的地が同じと知って彼は大層喜んだ。ここの所一人で走り回ってばかりで話し相手が欲しかったのだと瀬川は言った。瀬川が言うに正月に振った雪で、山の中のあちこちの木が倒れたらしく、あちこちで道を塞いだりしている為に村々を見て回っているという。仕事熱心なのは変らずであった。
「四郎殿はなぜまた椎葉に?」
そのように尋ねる瀬川に、椎葉の山奥にある窯元で伊万里の修行しているのだと行ったら驚かれた。だってあそこは何十年か前に無くなったという話ではないか、と。だから四郎は真実を話してやった。あれは神主が隠していただけだ、と。名人はたしかに亡くなっていたが使鬼達だけでその営みは続いていたのだ、と。すると瀬川は大層興味を持ったようでぜひとも邪魔したいと言った。四郎は快諾した。神主には悪いが、相手が瀬川であれば致し方なかろうと考えた。
やがて椎葉村に入った二人は地頭の家に挨拶に行くと、おおよその話を聞いてから、客人神社のほうへ足を進めた。鳥居を潜る参道に神主の姿は無く、不在のようであった。四郎は拝殿横を指差し、二人はそこから鎮守の森へと入っていく。雪の被害は森にもあったようで、太い枝がいくつも無残に折れ、いくつかの木々が痛々しい様を見せていた。
「ここを抜ければ、二つ目の鳥居があります」
四郎は瀬川にそう説明すると先を急いだ。そうして二つ目の鳥居が見えてきた時に声を上げた。
「ああ、ひどい」
四郎は思わず声を上げた。丸太を支えていた二本の二又の木の枝は雪の重みで無残に折れてしまっていた。丸太は地面に転がって、まるで入るなとでも言うように道を塞いでしまっている。四郎は木を見上げる。上のほうの枝も折れてしまったらしく、一本は半分の枝を失っていた。二本の木は完全に鳥居としての体裁を失ってしまっていた。
もしかすると窯元にも被害があったのでは。瀬川と二人で落ちた枝と丸太を脇によけ道を急いだ。
鳥居の向こうの雑木林は静かだった。不気味な程に静かだった。四郎はなんだか違和感を覚えた。この林の木はこんなに高かっただろうか、と。
そして、水音の聞こえる場所に到達した時、目の前に広がる風景に愕然とした。
窯元があった場所、そこに家屋は存在しなかった。
ただ積み上げられた石だけがごろごろと大量に転がっているのみだった
四郎は呆然とした。にわかにはその光景を信ずる事が出来なかった。
三つ子鳥から降りた四郎は竈と思しき跡に駆け寄った。
よくよく見れば土の中に陶辺が刺さっていた。僅かに青く輝くそれは剛利鬼が得意な唐草模様であった。
「四郎殿……?」
瀬川の声が背後から聞こえた。にわかに神主の言葉が蘇った。
――名人でしたが、お弟子さんに恵まれませんでした。親方様が亡くなってから奉納も絶えたと聞いています。残念な事です。
――竈の跡くらいは残っておりますがね……建物はすっかり朽ちてますよ。何年か前に見ましたがそれきりですな。
四郎はただ漫然と立ち屈していた。
何が起きたのか分からなかった。ただ神主の言葉だけが確かな真実味をもってそこにあった。
ようやく彼がものを言ったのは、がらりと積み上げられた石の一角が崩れて、一匹の小さな亀が現れてからであった。
小さな赤い炭を燃やす亀。その亀の甲羅には特徴的な菱形の穴が六つ、あいていた。
時を渡る使鬼がいるらしい。
そんな話を四郎が聞いたのは、生まれ故郷に窯元を持ってから二年程が経った後になってからであった。それの頭はらっきょうに似て、触覚が生え、虫のような羽根を生やして飛ぶという。あの時、鳥居に座っていた使鬼がそれであった。
今になって四郎は思う。自分が踏み込んだ鳥居の向こう。そこはおそらく数十年前の世界であったのではないか、と。
弟子を失った名人は剛利鬼に自らの技を伝授した。だから主人を失ったしばらく後も窯元は続いていたが、剛利鬼が死んだときにいよいよ途絶えてしまったのだろう。自分はそれまでのいくらかの間に出入りをしていたのだ。時を渡る使鬼に導かれて、過去の世界にやってきたのだ。だがあの鳥居が壊れた時にもうその世界へは行けなくなってなってしまった。
おそらく生家へ戻った時の時間が体感とずれていたのもそのためだ。鳥居を出入りする度に度々時間のずれが起こっていたのではないか、今になって四郎はそう考える。いずれにせよ、山の窯元は消えてしまった。墓のあった山にも登ってみたけれど、もう何も残されてはいなかった。ただ花柄の陶辺だけがわずかに頂上に散らばっていた。今となってはすべては憶測に過ぎず。夢幻と変らない。
唯一残っていたのは残り火、崩れた竈の跡に住んでいた一匹の小さな炭亀だった。炭亀はかつて四郎が出入りしていたその窯元の竈番によく似ていた。四郎はその小さな炭亀を故郷に連れ帰り、自分の窯元の竈番とした。
四郎は絵を描き続けた。鳥居の向こうで出会った使鬼達、それをどうしても幻としたくなかった。炭亀、瞑想鬼、陶鬼、そして剛利鬼。四郎は絵を描き続けた。窯元の炭亀の甲羅の銘、それを彼は受け継いだ。それは六角の甲羅の中に菱形の穴がある独自の文様であった。
四郎は描き続けた。青の器を描き続けた。
花咲四郎。
それは江戸時代末期、十九世紀に活躍した陶工の名である。
伊万里を扱う商家の生まれであった四郎は、豊かな経済力を背景にして三十を越えた時に自らの窯を持ったという。
彼は特に魚や花の絵皿を得意としていた。現在でもそれらの大皿は高値で取引されている。特にコイキングやギャラドスを題材にとったものは大変に人気があるという。
けれど、その作品群の中に少し変ったものがある事を知るの人は割合に少ない。使鬼陶工作品群と言われるそれは窯元で活躍したポケモン達を描いたもので、石を運び、粘土を練るワンリキーにマクノシタ、チャーレム、念力でろくろを回すネンドール、火を吹いて伊万里を焼くブーバーやコータス……そんなポケモン達が青一色でで生き生きと描かれている。その中でも特に印象深いのは大皿に絵付けをするゴーリキーの一枚である。
だが、ゴーリキーは不器用でとても絵筆を持つ事など出来ない、というのが研究者達の見解だ。だから、人々はそれを四郎の遊び心溢れる一枚だとか、自画像だとか解説する事が多い。不思議な事に、四郎はこの絵皿だけは生涯手放さなかったと伝えられている。
絵皿はかつての伊万里、ミシロ市の美術館に今でもひっそりと飾られている。
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