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  [No.3725] 波紋 投稿者:GPS   投稿日:2015/04/20(Mon) 20:22:28   62clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

天井から垂れた水滴が湯船に落ちて溶けていく。

元はここから上っていった湯気がまた本来の姿に戻り、そしてまた湯気に変わって天井に向かうのだろうか。少々逆上せてきた頭は霞がかってそんなことを考える。そろそろ上がらなければ倒れてしまう、という思いと、もう少しのんびりしていたいという思いが緩く絡み合って思考を邪魔していた。
別に暇な身というわけじゃない、やるべきことも溜まっている。だけど、知らないフリしてこのまま眠ってしまいたい気持ちだってある。いやいやそれは流石に危険だろう、浮かんだ考えを否定して浴室に一人、髪の濡れた首を横に振る。

その動きで浴槽の湯が波打つ。薄く微かな波紋が一つ、二つ。ならばこうすることにしよう、生まれては途端に消えてしまうそれが全ていなくなるまで。この狭い空間に揺蕩うことにする。
しかし所詮は頭を動かした程度、生まれる波などタカが知れている。そう時間もかけずに収まってしまったそれは凪と呼ぶまでもない、浴槽の水面も浴室の空気も、すっかり静まり返ってしまった。

多少の名残惜しさと悔しさ、そしてこれで踏ん切りがついたことへの安堵に新たな水滴の音が混ざる。こうなっては仕方あるまい、いざ行かんとばかりに立ち上がろうと心に固めたその時、不意に視線がその心を呼び止めた。
収まったと思った波紋が、本当に僅かながらだが、しかし確かに未だ生まれ続けていた。私の左胸を中心として、余程に気を張らなければ認識出来ないであろう波は、それでも緩く、幽かに、密やかに声をあげていた。

なるほど、なるほど。容易く裂ける皮膚を越えて、ここにいるのだと主張をする心の臓はこんな時にまで自らを見失わない。考えてみれば当たり前のことであるけれど、揺れる水面は決して同じ場所で留まることなどあり得ないのだ。
水面が揺れる。波紋が生まれる。何故なら心が動いているから。その因果こそが、生きている証拠足り得るのだろうか。

「おいで」

白く霞んだ視界、どこを向くともなく呼びかける。時折垂れる水滴の生み出す音以外に音らしいものもない、応える声など存在しない空間。それでも私はもう一度、あたかも虚空に話しかけるかのように声を響かせる。

「おいで」

湿った空気が揺れて数秒、白の壁に黒の斑点が現れた。次第に膨らみゆく斑点は紙魚となり、繋がった模様となり、そして壁を塗り潰す影と変わる。そしてその影が壁から完全に離れてしまえば、薄らぐ雲のような靄になるのだ。
ゴース。学名上ではそう呼ばれている。靄の中に浮かぶ鬼面に生温かな蒸気が纏わりついて、白と黒との彩を生んだ。湿り気に漂う、その気体とも思える姿に向かって私は手を伸ばす。

「ほら、こっちだ」

此の種族は、私とは違って肉体というものを持ち合わせていない。ガス状の身体は今に蕩けてしまいそうな程に頼りなく、時に自分の思惑通りにすら動かないことを知っている。湯に濡れた私の腕に戸惑いながらも飛び込んできた紫色の煙霧に動く、対の眼球はあるものの、そこには実体の無いことを知っている。
心音は無い。血流も無い。体温などは言うべきにあらず、むしろ触れたところから順々に凍りついていくようだ。当然のことながら、此の種族によって生まれる波紋も、無い。

ならば、此の種族が生きていないことの証明足り得るとでもいうのだろうか。
そんなはずはあるまい。この冷ややかな熱、静まり返る鼓動。これこそが、此の種族の生きている証であるのだ。霊に属する彼らに、生きているという表現を手向けるのは些か可笑しいことかもしれない。だけれども、今ここに存在していると云うのを生きていると呼ぶならば、確かに此の霧は、今私の腕で生きている。

そうだ、もっと言うのならばこの波紋。紫色を抱き留めたことでより一層揺れ動く水面に、喜ばしげに生まれゆく波紋こそが証である。此の、臓を持たない煙霧を出迎えたことにより、私の臓はこうして自己の生命を歌うのだから。


天井の水滴が、また落ちる。
心の響きと熱と冷、私達は今、生きている。


  [No.3727] 蝋燭と将軍 投稿者:GPS   投稿日:2015/04/22(Wed) 20:12:14   63clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

時は戦国。全国津々浦々、名だたる武将達は領土と力を求めて刀と携帯獣を操り、日夜戦いに明け暮れていた。四ツ脚の獣は地を駆け抜けて、翼を持つ者は大空を舞い、人型をした者は時に主人と同じく武器を揮って戦場に躍り出た。人も獣も、皆戦いに生きる時代であった。
彼もまた、戦場を生き場所とする人間だった。生まれこそほんの僅かな土地を持つ、城都の片隅に位置する小国の大名、しかし天から才を与えられた男だった。武芸、学問、統治、何を為しても彼の手にかかれば揃って功を奏するのだ。彼の刃は怪龍の鱗も切り裂いた。彼の命を受けた鎧鳥は極めて素早く猛虎を仕掛けた。炎馬の背に乗る彼が率いる軍勢は、疾駆の如き時を先導するも同然だった。

そしてそのような将軍が、他国からの恨みを買うのも当然のことであった。関東は玉蟲の都に向かって領地を広めたその男の元に、新たな領地に住まう職人からだという贈物が届いたのは、男が二十を過ぎて間もない頃だった。
その時勢では呪術の方法として、盆栗と呼ばれる木実を用いたものが秘密裏に行われるようになっていた。盆栗は不可思議な性質を持っており、術師の力によって殻の中に携帯獣を閉じ込めることが可能だった。おまけに一旦閉じ込めてしまえば、外側からはどの獣が入っているのかわからない。そう、それが例え、呪詛と憑拠の力を持った者だとしてもだ。
影に取り憑き命を奪う悪霊、怨恨ごと心を喰らい尽くす影鬼、苦痛を呼び起こす呪禁を操る夢魔。呪術を生業とする者達は彼等を盆栗に閉じ込めて、命を受けた通りの相手に呪いの獣を送りつけるのだった。

その将軍が見舞われたのは可能な限り微小な盆栗を、これまた極限まで殻を薄く削り、呪う相手の手元に落ちた瞬間開いてしまうように仕掛けるという手口だった。勿論勝星の数だけ怨嗟を請負う時代、彼の手中にも呪術を専門とする者がいて、盆栗始め将軍を呪詛から護るべく、贈物に込められた念が如何なるものか等も逐一調べ上げていた。
が、其の時は違ったのだ。呪詛を感知することに長けた術師も、術師と共に鍛錬を積み霊を嗅ぎ分ける術を憶えた炎狼も、其の盆栗にだけは気付けなかった。其の盆栗に閉じ込められた霊気は、今迄彼等が出会ったどの霊とも異なるものだったのだ。

それも当然の事であろう。酒樽に仕込まれた黒の盆栗から現れた霊は、将軍の治める国は元より城都、関東、豊縁にすら姿を現すことの無い携帯獣であったのだから。
其れは蝋燭によく似ており、稚児のような顔は熱く蕩けて寒気を誘った。最早蝋燭は将軍に取り憑いたらしく、一つの瞳で真直ぐに男を見詰める其の携帯獣に、此のような者は見たことも聞いたことも無い家臣達は慌てふためいた。

「此の霊は、恐らく西洋から来たのでしょう」

そう判断したのは、治世に助力していた学士だった。学士は携帯獣の学にも明るく、海の果てに棲息する者についても多少の知識があったという。恐らくは西の大陸からの刺客であろう、学士は紅の炎を灯す蝋燭を見やって言った。

「此奴等は、他者の生命を喰ろうて自分の焔とすることで存在を保つ種族だと聞いたことがあります。其れが送られてきたということは、考えるに早死の呪いをかけられたのだろうが……はて、しかし絵巻に見た姿は蒼の焔であったな。何故此奴は緋色を……」

怯む様子など欠片も見せずに将軍と対峙する紅の蝋燭に、学士は思わず首を捻った。しかしその言葉を遮るようにして「焔の色など知ったことか」と家臣達がまた騒ぎ出す。如何なる種族だろうと呪詛は呪詛、自分達の仕える存在にとって好いものだとは決して思えなかったのだ。
一刻も早く祓え、種は違えど同じ霊なのだから可能だろう。蝋燭なのだから水をかけてしまえば辛抱堪るまい。家臣も術師も一緒になって、此の呪具を消し去る方法を早くも探り出していた。

「まあ、待て」

だが、其の話を遮る者がいた。
蝋燭に睨まれた将軍は、地獄よりも深い其の瞳をやはり真直ぐに見詰め返して、落ち着き払った声で話し始めた。

「此の霊、人の生命を喰らうと言ったな。ならばつまり、今こうして燃えてる此の焔も儂の生に依るものということか。なるほど、此奴はなかなかに愉快だ」

口角を吊り上げ、将軍は僅かに細めた両眼で蝋燭に告げる。

「西洋から来たという霊よ。御前は確かに儂を呪い、孰れは殺す為に遣わされた。だが……其の力は直ぐには働くまい。蝋燭よ、儂と共に戦うつもりはないか」

「お待ちください! 何を仰るのです、其奴は危険な存在で御座います! 御近くに居て許されるはずが……」

「そう言ってやるな。折角の客人、それも海を越えた先などという遠路を渡り、我が国まで遥々来てくれたのだ。無下に扱うべきには在らず」

人では無いにしても、だ。慌てて諌めようとした家臣を手で制し、将軍は少し戯けた様に言う。自棄になっているわけでも無さそうな将軍の様子に、家臣達もそれ以上は口出し出来ずに黙り込んだ。

「さて、蝋燭。本来、御前の焔は蒼であるという。なのに何故、御前は緋色の焔を燃やしているのか」

緩めた顔を元の様に引き締め、将軍は蝋燭へと向き直った。問われた蝋燭が応える事など勿論あるはずも無く、唯々将軍の目を見詰め続けるのみ。畏れを知らない童のようにも思える其の顔に、将軍は息を吐いて言葉を紡ぐ。

「其の色が、儂の生の色だということか。だとすれば、此れほど縁起の良いこともそうそうあるまい。我が軍勢の色は赤、其れを率いる儂の生が当に赤だと云うなら、そう教えてくれた御前のことを、最早呪具とは呼べぬだろう」

将軍の言葉を黙って聞いている蝋燭の瞳には、肯定も否定も見て取れない。真意の一片すら掴ませない其の眼はしかし、確かに将軍を見返していた。

「儂の生を燃やすがよい。そして其の焔で、儂の生を照らすのだ」

儂と御前は、一蓮托生となるのだ。紅の炎が、将軍の吐く息に吹かれて揺れ動く。其れが本当に彼の生命を奪って燃えているのかは、此処にいる誰にもわからない。八大地獄に有ると云う焦熱地獄、其処は此の様な炎が絶えず罪人を焼き尽くしているのだろうか。そんなことを、家臣の一人は考えていた。
だが、対する将軍は地獄の業火などに臆する器の持主では無かった様である。一層激しく揺れた炎よりも強く輝いている風にさえ感じさせる両の眼で、蝋燭と自分を取り囲む者達を見渡した。

「なに、戦を率いる者が生命を削られることを恐れても意味が無い。寿命を尽かせることなど出来るとは甚だ思っておらぬのだ。此奴の呪いが無かろうと、儂の死は何時でも起こり得る」

それに呪具を操るなどとあれば、我が軍にも箔が付くに違い無い。未だ何か言いたげな家臣達に、将軍は不敵に笑ってみせる。反論を許さない其の声音に異を唱える者は誰もおらず、揃って黙りを続けるしかなかった。彼等を見回し、満足気な微笑を浮かべた将軍は霊へと其の視線を戻す。
生命を喰らう、紅の炎。薄暗い広間に揺らめく其れは、対峙する将軍の瞳に輝きを宿している。小さな体躯を僅か足りとも退ける事無く相対する其の霊に、将軍は微塵の迷いも無い声でこう告げた。

「さぁ、緋の焔の蝋燭よ。儂の生を燃やしてくれ」


そして、今。残された記録から判断するのならば、その将軍は宣告通りに呪具の蝋燭を手懐けて、より一層戦に邁進していたという。彼の生を喰らうと云われた蝋燭はやがて豪奢な洋燈と成り、まるで本当に彼を生き写したかのような強靭さを誇り、敵を残らず焼き尽くしていた。他に操る者のいない、絢爛豪華な洋燈霊は人も獣も全ての影を、一瞬にして灰に帰したという。将軍の刃と洋燈の焔、何処に行こうと敵うものなどいないように思われた。
だがその名声もやがては終わりを迎えることになる。三十を半ばに差し掛かったところで男は大きな戦に負け、斬首の刑に処せられた。皮肉にも自らの言葉の通り、寿命も何も無い死に様であったが、それが呪いの所為かどうか、それが定かで無いことは言うまでもないだろう。喰らう生命が潰えたからか、処刑が為されてすぐに洋燈も動かぬ器と成り果ててしまった。
将軍の治めた領地は全て敵国の物になり、やがて全国統一の日が訪れて、洋燈使いの将軍の国は何処にも無くなった。今や単なるジョウト地方と呼ばれる此の地で、当時の国の名を呼ぶ者も一人として存在しない。


しかし、それでも彼の姿絵を見れば何時でも思い出すことが出来る。
天賦の才と不屈の精神、そして呪詛までもを我が力に転じさせてしまう程の豪胆の持ち主であった一人の将軍の隣には、あの時より常に漂う存在があった。地を駆け、人を斬り、獣を討ち、自身の生を風の如く進んだ彼には、文字通りその生を共にした者が寄り添っていた。

澄んだ硝子に燃え盛る紅蓮の燭、全てを燃やし尽くさんとする地獄の灯火。
一蓮托生、その言葉の意味が洋燈に理解出来るとも思えないが、詛呪の霊獣は確かに将軍の生を燃やし、将軍の生に炎を宿したのであった。


  [No.3742] 僕の愛しい女王様 投稿者:GPS   投稿日:2015/05/11(Mon) 19:58:45   104clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

僕の愛しい女王様。
輝く冠と黄金のドレス。
その身を纏いて包むのは、畏れ多くも瀟洒な力。
天道に照らされ輝く御身、見る者全ての目を奪う。

僕の愛しい女王様。



僕の愛しい女王様。煌めく羽は空を行く。

だけども貴女に王は居ない。隣の玉座に王は居ない。
貴女と共に君臨し、統治す王は此処には居ない。

それなら僕は何になろう。愛する貴女の何になろう。
貴女の隣で威厳を放つ、王の代わりに何になろう。

僕は王にはなれないだろう。貴女の王にはなれないだろう。
それでも僕は此処にいる。貴女の隣に何時もいる。
冠も羽織も無いけれど、いつでも貴女と共にいる。

僕の愛しい女王様。


僕の愛しい女王様。燃ゆる紅美の骨頂。

だけども貴女に皇女は居ない。花にはにかむ皇女は居ない。
貴女の美と愛生き写し、綻ぶ皇女は此処には居ない。

それなら僕は何になろう。愛する貴女の何になろう。
貴女によく似た御顔で咲笑う、皇女の代わりに何になろう。

僕は皇女になれないだろう。貴女の皇女になれないだろう。
それでも僕は此処にいる。貴女に向けて微笑みかける。
純情可憐となれないけれど、溢れる笑顔を貴女に捧ぐ。

僕の愛しい女王様。


僕の愛しい女王様。国色天香轟かせ。

だけども貴女に皇子は居ない。風に輝く皇子は居ない。
若葉の薫と星の歌、届ける皇子は此処には居ない。

それなら僕は何になろう。愛する貴女の何になろう。
駆けた世界を貴女に伝う、皇子の代わりに何になろう。

僕は皇子になれないだろう。貴女の皇子になれないだろう。
それでも僕は此処にいる。貴女に幾多を物語る。
木の芽の瑞とは遠かれど、空と海と地貴女に歌う。

僕の愛しい女王様。


僕の愛しい女王様。気高き美貌は蜜の味。

だけども貴女に騎士は居ない。剣の見初めた騎士は居ない。
如何なる危機から貴女を守る、不屈の騎士は此処には居ない。

それなら僕は何になろう。愛する貴女の何になろう。
苦痛の全てを貴女と分かつ、騎士の代わりに何になろう。

僕は騎士にはなれないだろう。貴女の騎士にはなれないだろう。
それでも僕は此処にいる。貴女の横に立っている。
せめて寒風くらいなら、貴女の代わりに受けてやる。

僕の愛しい女王様。


僕の愛しい女王様。毒すら甘露に変わり果て。

だけども貴女に侍女は居ない。影に寄り添う侍女は居ない。
何時でも貴女の輝き担う、静かな侍女は此処には居ない。

それなら僕は何になろう。愛する貴女の何になろう。
貴女の六つの手と代わる、侍女の代わりに何になろう。

僕は侍女にはなれないだろう。貴女の侍女にはなれないだろう。
それでも僕は此処にいる。貴女の美麗を咲かせたい。
二つの手腕と二つの足を、貴女のために使いたい。

僕の愛しい女王様。


僕の愛しい女王様。花すら恐れるその婉美。

だけども貴女に兵は居ない。剣盾掲げる兵は居ない。
貴女の命受け一蓮托生、闘う兵は此処には居ない。

それなら僕は何になろう。愛する貴女の何になろう。
忠実たり得る貴女の力、兵の代わりに何になろう。

僕は兵にはなれないだろう。貴女の兵にはなれないだろう。
それでも僕は此処にいる。死ぬまで貴女に全てを託す。
心の臓が潰える日まで、この身は貴女だけのもの。

僕の愛しい女王様。


僕の愛しい女王様。鋭き針には神器も霞む。

だけども貴女に御殿は無い。贅を尽くした御殿は無い。
貴女の息づく処となった、輝く御殿は此処には無い。

それなら僕は何になろう。愛する貴女の何になろう。
貴女に恥じない絢爛豪華、御殿の代わりに何になろう。

僕は御殿になれないだろう。貴女の御殿になれないだろう。
それでも僕は此処にいる。貴女の還る場所になる。
夜の帳の夢を見る、貴女の休まう場所になる。

僕の愛しい女王様。


僕の愛しい女王様。憐香惜玉引き起こし。

だけども貴女に都は無い。民衆息吹く都は無い。
溢れる活気は貴女の誉、幸なる都はは此処に無い。

それなら僕は何になろう。愛する貴女の何になろう。
善政極まり憧憬満たす、都の代わりに何になろう。

僕は都になれないだろう。貴女の都になれないだろう。
それでも僕は此処にいる。貴女を映す鏡に代わる。
どんなに貴女が素晴らしく、輝けるかを映し出す。

僕の愛しい女王様。


僕の愛しい女王様。天より高く地よりも深く。

だけども貴女に御物は無い。寄進をされし御物は無い。
世界を遍く七珍万宝、召されし御物は此処には無い。

それなら僕は何になろう。愛する貴女の何になろう。
此の世の金塊全てに勝る、御物の代わりに何になろう。

僕は御物になれないだろう。貴女の御物になれないだろう。
それでも僕は此処にいる。貴女に絶えない言葉を送る。
玉石絵画に調度品、どれにも負けない想いを告げる。

僕の愛しい女王様。


僕の愛しい女王様。何にも持たない女王様。

ある日晴れの日花畑、僕の旅路に添うてから。
小さな蜜蜂身を養て、女帝となったその時も。

貴女は一匹僕といる。何も持たずに僕といる。
紅白球に御身を収め、一匹きりで生きている。

僕は王にも騎士にもなれず、都も御殿もあげられない。
それでも僕は此処にいる。此処で貴女を愛してる。

貴女を慕う無二の民、永遠なる忠誠貴女に誓う。

僕の愛しい女王様。


僕の愛しい女王様。

とても愛しい、女王様。


  [No.3743] そして、ここにも春が来る 投稿者:GPS   投稿日:2015/05/12(Tue) 19:58:35   68clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

換気の終わった部屋の片隅、置かれたストーブを付けようとして、やめた。九時を回った室内はひんやりした空気が漂っているものの突き刺すような、と形容する程の寒さでも無くて、柔らかな冷たさが肌を撫でる程度である。ほんの一週間前までは、窓なんて開けたら震えが止まらなくなったというのに随分と違う。
そろそろカーテンも一度洗わなくては、と思いながらベランダに続く窓を見やる。と、室外機の傍に張り付いて、じっとしているトランセルを視界に入れる事が出来る。今はともかく冬真っ盛りの時節も、雪が降るような寒空の下にも、この蛹はこうして外に居続けている。寒くは無いのだろうか、と思ってもトランセルを外に出しているのは、君がそうすべきと言ったからだ。
急激なレベル上げをしない限り、自然界のトランセルの多くは春に羽化をする。彼らがバタフリーとなって蛹から出てくるためには、厳しい冬の寒さに耐えうることが条件になるそうだ。寒さと戦うことが彼らにとってのレベル上げであり、バタフリーとなってからの健康な身体の生成にも関わるらしい。だから、暖房で温められた部屋で育てるよりも外に出しておいた方がトランセルのために良いというのだ。

その君は、ストーブが消せない寒さの時分に出ていった。
君もまた羽化を待つカラサリスを連れていて、君がまだ僕の部屋にいた頃は、あの緑色の蛹の隣に純白の蛹が寄り添っていたものである。霜が降りる朝も北風が吹きさらす昼も、星までもが凍り付くのではないかと思われるほどの寒い夜にも、ベランダで隣り合ってじっとしている一対の蛹を、君は窓から少しも飽かずに覗いていた。寒くは無いのかな、そう僕が聞いてみると、「それが大事なんだよ」と君は決まって返してきた。


ストーブのコンセントを抜く。その行為を自分でするのは久しぶりだった。こういったことは、いつだって君がやってくれていたのだから。
君がいなくなったこの部屋は、ずっと静かになったと思う。だけど、ずっと寒くはならなかった。君がここを出ていった辺りから今年の寒さは徐々に和らぎ始めていて、冬の影は町から少しずつ消えている。
君がいないために広く感じる布団も、君がいた頃よりも冷たくない。君がいないために誰も座らなくなった椅子も、君がいた頃よりも暖かだ。君がいないためにその半分以上が空になってしまったクローゼットの中も、君がいた頃よりも幾分穏やかな空気をそっと漂わせている。


『寒いね』


僕と君、どちらが先に言い出したのかはわからない。僕だった気もするし、君だったようにも思える。しかしどちらにしても僕たちは、冬の終わりと同時に自分たちにも終わりを迎えたのだ。寒くて厳しい冬に耐えて、春に蝶と成る日を夢見てひたすら待ち続ける蛹とは違い、春を待つことが出来なかった僕と君は、冬の寒さに別れを告げるようにして、お互いからも背を向けていた。
寒いね。僕の言葉に、君は「だからここにいたくないんだ」と乾ききった声で言った。ここ、というのが僕の部屋を指しているのか、それとも僕の住まうカントー地方を指しているのかまでは測り兼ねる。ホウエン地方で生まれ育った君は、いつだって温かいということが当たり前だと思っていた。ホウエンの冬はこんなに寒くないんだ、そう文句を言いながらストーブの前に陣取る君を、僕は目が覚めるごとに見ることが出来た。
寒いから。君は寒さを忌み嫌っていた。僕も寒いのは好きじゃないよ、と言うと君はいつでも僕の腕を引っ張って、そう温かくもない肌を触れ合わせるのであった。しんと冷え切った夜を隔てたガラス窓の向こう、緑と白の蛹を眺める君の吐いた息が、手を繋ぐ僕たちを映し出すガラスを白く曇らせたものだ。

『なんでカントーはこんなに寒いんだ。カラサリスだって、寒いのは嫌いなのに』

『なら、やっぱり家に入れてあげた方がいいんじゃないかな』

『それは駄目なんだ、だって、寒さに耐えることが必要なんだから』


『きれいなアゲハントになるために』


ここからいなくなった君がどこに行ったのか、僕に知る術は無い。大雪の予報がテレビやネットを騒がせた晩に僕の部屋から出ていった君は、僕に行き先を告げること無く荷物を抱えて靴を履いた。玄関の扉を開く君に、僕が何かを聞くこともまた無かった。これからどうするのかとか、どこに向かうのかとか、そういった話はまるでしなかった。
ただ、君はホウエンに戻ったのだろうと僕は確信している。君の大好きな町に、君の生まれた故郷の町に。君の好きな、春がいっとう早くやって来る町に。冬が満ちたこの場所から旅立って、君は春の町へと帰っていったのだ。


『よい春を』


カラサリスをボールに収め、ここを発つ君は最後にその一言だけを残していった。別れの言葉も罵りの意も、これっきりの愛の文言なんてものなど一つもなかった。よい春を。それだけが、僕に残された君のひとひらだった。


『よい春を』


だから僕も、同じようにそう言ったのだ。その僕の言葉に君は浅く頷いて、何の名残りも見せない呆気無さで扉を閉めて、ここから消えた。僕の部屋には、僕とトランセルだけが取り残された。バタフリーになる日を待つ、トランセルだけが。
きっと今頃、君はもう春を迎えている。ホウエンに春が来たというニュースを見たのは数日前で、カントーよりも幾分暖かそうな映像がテレビに流れていた。
僕たちは春を迎えられなかった。厳しい冬を乗り越えて、共に羽化することは叶わなかった。だけど、君が迎えられていれば、そして僕が迎えられれば、それできっと十分なのだろう。春を迎えたその町で、君が温かい風に吹かれているのなら、僕はそれ以上何も望むことはない。美しい羽を広げたアゲハントと一緒に、君は春の町で笑っている。それがきっと、正しいのだから。


「よい春を」


ふと口から漏れた呟きは誰に向けたものだっただろう。君へのものか、アゲハントとなっているであろうカラサリスへのものか。それとも、澄んだ青空の下に見える、ガラスの向こうで春を待っているトランセルへのものだろうか。それかはたまた、緑の蛹と共にここにいる、自分自身へのものだったのかもしれない。
どの道、もうすぐそこまで春が来ている。君は春を迎えてアゲハントになった。僕も春になったら君のように、バタフリーになれると良いとは思う。
窓を開けてベランダに出ると、トランセルの眼だけが動いて僕を見た。二月終わりの空はよく晴れていて、どこまでも続くようにすら感じられる。この空は繋がっていて君のいるところまで届く、だなんて陳腐なラブソングのようなことを言うつもりは毛頭無いけれど、それでも春は君のいる町から、僕のいる町までやって来る。


柔らかな風が僕とトランセルを包み、その日が近いことを知らせていった。


  [No.3744] ぼくと僕の損得勘定 投稿者:GPS   投稿日:2015/05/13(Wed) 19:54:38   71clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

「そのモココは『わるい』モココです。新聞に載っていました」

ぼくの言葉に、お姉さんが伸ばしかけた腕を止める。

「近づいてはいけません。研究所の悪い人たちが、ポケモンを悪者に作り変えているのです」

「ふむふむ。悪い奴、か」

お姉さんは真面目な顔で頷いて、ぼくの方を振り返った。図鑑で見る姿よりも黒みがかったピンク色をした『わるい』モココは、ぼくたちに怒るでもなくぼうっとしている。
ぼくを見て、お姉さんは質問した。

「その『わるい』っていうのは、誰が決めたんだい?」

「偉い学者さんたちです。悪い人たちは、悪いポケモンを作っているのです。もう少ししたら警察や政府の人たちが、悪い人たちや悪いポケモンを連れていくとニュースでやっていました」

「そうかそうか。なるほどね。君は相変わらず物知りだ」

「ぼくは沢山のことを知らなければいけないのです」

ぼくはそう答えた。お姉さんは、そうだな、君は物知りな大人になるのだもんな、と笑った。

「でもなぁ、君」

お姉さんの顔が、ぼくから離れて『わるい』モココの方を向く。ぼくはお姉さんの横顔が好きだ。ぼくやお母さんや、学校の先生よりも高い鼻が綺麗なシルエットを作っている。
その横顔で、お姉さんは言った。

「大人というものは、良いか悪いかで判断するんじゃないんだ」

ここは一つ、大人の判断をしたらどうだろう。
お姉さんは、ぼくにそう言った。

「大人とは、損か得かで物事を決めるんだ」

「では、この『わるい』モココから逃げることはぼくたちにとって損なことということでしょうか。連れて帰ることが、ぼくたちにとって得なのでしょうか」

「損かもしれない。得かもしれない。それは君が決めるんだよ」

わかりませんよ、ぼくはそう言いたかった。だけどそれはかっこ悪いような気がして、ぼくは言われるままに頷いていた。お姉さんは、そんなぼくを笑って眺めていた。
曖昧なその微笑み方は、お姉さんがよくするものであった。ぼくたちから数メートル離れたところで、『わるい』モココは逃げもせず、かといって襲ってくるということも無く、ただただこちらを見ているのだった。




寒風が僕の頬を掠っていく。今年の冬は一段と厳しいという予報は果たして正解だったようで、道行く人々は皆寒さに堪えるように俯いていた。
あれからもう二十年が経った。あの後すぐに『わるい』ポケモンを作っていた組織が明るみに出て、ロケット団の息がかかっていたこともあって間もなく粛清されたという。ポケモンの肉体改造を行っていた研究所は差し押さえられ、関わっていた者は全員警察の手に捕らえられたか、或いは何処かへ姿を消した。哀れ手にかけられたポケモンは研究所で観察されていたのも、近くに放されたものも、その全てが政府によって回収されたらしい。研究所が置かれていたせいで一躍大騒ぎとなった僕の故郷の島はしかし、やがては世間の意識からも薄れていき、同時に僕の淡くも苦い恋も終焉を迎えることとなった。

島を出て長いことが経った。僕は確かに大人になった。
でも、あの日夢見た物知りからは程遠い。知ってることなどほんの僅かで、僕はわからないことばかりで生きている。どうしてロケット団はポケモンを改造したのかも、『わるい』モココが何を以て悪いとされているのかも、『わるい』モココと出会ってから数年後に結婚し、薬局の受付を辞めて島を出ていったお姉さんが今どこにいるのかも。

お姉さんの言っていた、『損か得かで物事を決める』という大人のやり方も。

僕は何もわからないまま、損得勘定も出来ないまま、今までただただ生きてきたのである。
都会の生活にも大分慣れた。何だかんだで『わるい』モココは今日までずっと、僕のポケモンとして暮らし続けている。『わるい』ポケモンが回収された時はどうなることかと思ったけれど、普通の個体よりも体毛や皮膚が多少黒いだけの『わるい』モココの正体は誰にも言及されることが無かったのだ。母親や潔癖の友人から、風呂に入れてやった方がいいんじゃないかと苦い顔をされることが何度かあったくらいである。
しかしそれでも、僕にはわからなかった。あの日、彼女は『得な方を選びなさい』と言ったのだ。そしてその言葉に、僕は『わるい』モココを連れて帰る選択肢を選んだのだ。だけど、それが果たして得だったのか、僕にとって有益な選択であったのか。
僕には知る術が無い。

一際強い風が吹く。出来る限りの防寒をしているつもりだけれど、全身が鳥肌を立てるようだった。マフラーを巻いた首だけはまだ温かい方であったけれど、無いよりはマシであるという程度である。
毎年夏になるとモココの毛を刈らなくてはならないのだけど、この前の夏に刈った毛で編んだマフラーだ。肉体改造の影響か、通常のモココと違って『わるい』モココの毛は電気を溜め込む力が劣るらしい。素人の、何の加工もしていない状態でも静電気を起こしやすい程度である。日常的に使えるマフラーを手に入れた、という観点で考えると、あの日の選択は確かに得であったのだろう。
だが、全体的に見るとどうだろうか。ポケモン一匹育てる手間も費用も馬鹿にならないし、毎年毎年毛を刈ってやらないとならない現状はちっとも得なんて言えやしない。毛刈り器を買った店の従業員に乗せられて購入してしまった編み物セットと入門書だって、紛れも無い散財である。不慣れな両手の作ったマフラーは目が粗く冷たい風をよく通し、これなら既製品の、それも静電気を帯びにくいものなどを買った方が遥かに有用だったであろう。
そう考えてみても、果たして、僕の選択は得だったのだと言えるのだろうか。


大人は損か得かで物事を決めるのだと。
自分の得になる方を選びなさいと。
あなたはそう言ったけれど、僕はまだわからないままだ。
沢山のことを知った大人になる、と言ったのに。


「えー!? 迎えに来てくれないの!?」

不意に、高い声がして我に返る。
視線だけで声の方を見ると、僕と同じくバスを待っていたと思しき女子学生が携帯電話を耳に当てて、何かを抗議するように話をしていた。

「今日すごい寒いのに! だって天気予報雪だよ!? 歩いて帰るだなんて嫌だよ!」

彼女の言う通り、空は今にも冷たいものを降らしそうな重い灰色で覆われている。どうやらバスでは無く迎えの車を待っていたらしい彼女は、ストラップを沢山つけた携帯に向かって不満げな声をあげていた。
だけど、僕は空模様も携帯の飾りも、そんなものはどうでも良かった。視線のみならず、彼女の方へ顔が向く。
怒ったように口を尖らす、彼女の横顔。その横顔は、確かに僕の記憶の中にあった。

「…………あの、」

電話を切った女子学生に声をかける。普段ならば、いや、有事の際ですらしないであろう行動は、半ば無意識のうちにしているようだった。
少女が怪訝そうな顔で僕を見る。その顔に向けて、僕は言葉を続けていく。

「寒い、ですよね。歩かなきゃいけないみたいですし。雪ですし」

少女の顔に浮かぶ色が、怪訝から不審者を見るそれに変わっていく。当然だ。僕だって彼女のたちばだったなら、同じことを思うであろう。
だけど口は止まらなかった。こんなの、絶対損であるだろうに。それでも、僕の言葉は止まってくれなかった。

「これ……この、マフラー。使ってください。無いよりマシでしょうから。冷えるといけない、と思いますし、今日寒いですから」

「………………あ、いえ、ちょっと……」

微かに震える声で、少女が後ずさる。怖がらせていることなど、誰の目にも明らかだ。やめろ。自分の中で声がする。やめた方がいい。そうに決まっている。
だけど。

「わかってます、気持ち悪い、ですよね……僕もそう思います、こんなの悪いことだと思ってます。……ですが、良いか悪いかではなく、…………では、なく」

「…………………………」

「損か得かで、物事を決めてみてもらえないでしょうか」

乾いた口でそう言うと、女子学生の目が丸くなったのが見てとれた。瞬きもせず、僕を見つめるその視線は僕の時間を止めているようにすら思えてくる。夕方の駅前は慌ただしく、行き交う人たちは僕たちのことなど気にも留めていない。ただ、灰色の空の下で、僕は少女と相対していた。
そして、時間は動き出す。首から解いた、僕の差し出していたマフラーを、少女はすっと受け取った。「わかった」と曖昧に微笑んだその頬が、記憶のそれにぴたりと重なる。

「こんなの、どう考えても怪しすぎるけど……でも、お母さんと同じこと言ってるから」

ありがたく頂戴します、少女はそう言ってはにかんだ。寒さのせいだろうか、平均よりも高い鼻が紅く染まっているのがどこか幻のようにすら見えた。
僕は何も言えないまま、彼女の首にマフラーが巻かれていくのを眺めていた。じゃあ、ありがとうございましたと歌うように言いながら、彼女が軽い足取りでロータリーから消えてしまっても、まだ。
防寒具の無くなった首筋は酷く寒々しかった。見計らったように降り始めた雪は、外気に晒された僕の素肌に落ちては溶ける。バスが来るまでの十分間、感じる寒さが増す一方であることは容易に予想出来た。

損か得かで言えば、紛れも無く損である。
何もかもが、誰がどう見たって損である。


しかし、『わるい』ことは。
何一つ。


あの日、あなたが教えてくれたその理論を、僕はまだわからないままである。それでもあなたの言ったことは、僕とあなたの中に残っているのだろう。知らないことばかりの僕の中にも、まだ。
かつての彼女に面影の相似した少女がいなくなったロータリーで、首筋に寒さを覚える僕は、モココの待つ家へと帰るバスを待つ。


  [No.3745] 夕陽の少年 投稿者:GPS   投稿日:2015/05/14(Thu) 20:38:29   60clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

「ああ、やっとみつけた。こんな所にいたんだ」

身を隠していた草むらが掻き分けられ、人の声がした。疲れたような、安心したような、そして何より、何かを達成したことによる充足に満ちているようなその声は、森の夜風によく溶ける。二つの手に分けられて揺れる草むらから、声の主たる顔がこちらを覗いていた。

「この世界はどうにも複雑だから、随分時間がかかってしまったよ。先も見通しにくいし、まだ感覚が掴めない。それに俺にとっては、ここは少し色鮮やかすぎる」

その人間は、そう言って笑う人間は、背にした夜の森からなんだか浮いているように見えた。浅いとはいえ眠りに落ちていた、まだ夜目に慣れない自分の視力がそうさせているのかと思い至ったのだけれども、恐らく理由はそれだけでは無い。ここにも人間はよく訪れるが、目の前にいる存在はその、いつも目にするような人間とは大きく異なっていた。
まるでそこだけ切り取られたように、ぼやけて見える彼の姿。前つばの帽子と動きやすそうな軽装、半袖のジャケットと長いズボンという装いから辛うじて少年であることだけは読み取れるが、顔の造形や服の細部までは知り得ることが出来ない。彼を構成するパーツは酷く粗いものとして目に映り、周囲の草木や空と比べると、像が崩れ落ちてしまったようにさえ思えてくる。
顔を初め、個人を特定出来る要素がまるで欠落した少年。不出来な映像を投射したように、不自然にそこに立つ人間。

しかし自分は、自分だけは彼を知っている。

「久しぶりだな。やっぱり、お前は今でも森にいるんだ」

少年はそう言ってしゃがみ込み、目線をこちらに合わせてきた。覗き込む瞳は髪と同じ黒。帽子と上着は赤い色。背負ったリュックと長ズボンは、それよりもやや薄い橙色。それ以外は、みんな白。
紺碧の空と新緑の森、黄金に輝く星を背景にして、彼は、白。

「お前は、こんな色をしていたんだな」

彼の表情が笑みへと組み変わる。人間の表情の変化を「組み変わる」と形容するのはおかしいかもしれないけれど、彼に対してはそうとしか言えなかった。

「黄色い体、赤い頬。それに、こんなにぷくぷくしてるだなんて知らなかった」

笑顔の少年の手が、頬や脇腹をつついていく。やめてくれくすぐったい、と言おうとしたけれども当然、自分の声は人間の言語になどなりやしない。同族にだけ伝わる間抜けな泣き声が夜の森に響く。それを聞いて、「いつの間に、そんな可愛らしい声になったんだ」と彼はあの頃と変わらぬ、平らな声で笑って見せた。

「でもな。そうだよな。もう、17年も経ったんだもんな」

そう呟いて、頭を撫でる彼の姿はオレンジ色。色鮮やかな景色を背にしても少しだって染まることの無い、黒と白と赤と橙だけで構成された、たった一色のオレンジ色なのだ。まるで夕焼けに照らされているように。夕陽を浴びて、眩しく光っているように。
ここには夜がある。朝も来る。昼だって訪れる。雨が降ることもある。春が来て夏が過ぎ、秋が去れば冬がやってくる。だけど、昔は違った。彼と共に大地を駆け、海を渡り、空を飛んでいたあの頃は、世界は永遠に夕方であったのだ。どんな時でも、何があっても、世界はいつだって優しくて温かくて、終わりを迎えそうで迎えない、夕方だった。何もかもがオレンジ色に染め上げられる、そんな、世界だったのだ。
彼は、夕方の世界の英雄だ。

「なあ、ピカチュウ。俺は楽しかったよ」

かつて、彼と共に夕方の世界を旅していた。沢山のポケモンと出会って、沢山のトレーナーと戦った。八つのジムバッジを集めて、三匹の鳥の伝説を知って、四天王とバトルをして、幼馴染と勝負を重ねて、最強のポケモンと恐れられた科学技術の産物と友達になった。
色々な所に行った。色々なものを見た。あの、夕方の世界で。
彼と、一緒に。

「それだけ言いにきたんだ。これから、この、夜と朝が訪れる世界で旅を始めるお前に」

少年は笑う。ちっとも鮮やかじゃない、綺麗なんかじゃないその姿で。昔は自分とて似たようなものであったのに、今ではもう、少年と自分は別のものなのだと思ってしまう自分がいた。
それは果たして喜ばしいことなのか、それとも嘆くべきことなのか。そんなことは自分にとっても、少年にとっても少しも重要では無かった。もう、旅は終わったのだ。遥か昔、こうして森で待っていた自分を少年が見つけたことで始まった旅は、夕方の世界が紡ぐ旅路は、とっくの昔に終わっている。これから先に待っているのは、この世界での旅なのだから。

「お前と一緒に、旅を出来て良かったよ」

それじゃ、さよなら。明るく弾んだ声でそう告げて、少年が立ち上がった。その姿は相変わらず、夕陽に照らされたようなオレンジ色のままである。朝の光も夜の闇を知らない、夕方の少年は、粗っぽい表情を緩ませながら背を向けた。
少年が去っていく。追いかけはしなかった。自分のするべきこと、自分のやれることは少年と共に夕方の世界へ帰ることではないとわかっているから。少年と一緒に旅をする、夕方の世界の物語は、とうの昔に終わっているのだ。
今の役目は、この世界でこうやって待ち続けること。あの日のように。あの時と同じように。
少年の故郷からそう遠くない森の中で、少年を待つことが、今の自分に出来ることである。

遠ざかった足音が近づいてくる。それは少年のものではなく、しかし新たに「少年」たり得る者のものだ。
揺れる草むらの間からそっと覗く。草木や空と同じだけの彩と質感を持つ、その姿。サングラスを乗せた赤い帽子に青のジャケット、ブーツに入れたズボンと品の良いショルダーバッグ。
この少年との旅は、どんなものになるのだろう。夕方が終わって夜が来て、朝を迎えるこの世界での旅は。

そんな思いを胸にしまって、草むらの向こうに顔を出す。
さあ、次なる旅に連れて行ってくれ。色鮮やかな世界の、少年よ。