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  [No.2882] ベトミちゃん 投稿者:レイコ   投稿日:2013/02/14(Thu) 22:29:19   117clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
タグ:ベトミちゃん】 【バレンタイン】 【チョコ

 青い静かな夜空を仰ぐと玉のような月が輝いていた。
 防犯灯の下までこぎ着けた彼女は、霜が降りたような白い路上に突っ伏して呻く。長く冷たい外気にさらされたせいで体の水分がすっかり凍り付いていた。こんな所で行き倒れるわけにいかない。彼女は自分を奮い立たせる。気をしっかり持てと――でも駄目だ。視界が徐々に狭まっていく。所詮、自然の力には敵わない。
 力なく閉じられた瞼の裏に、あの人の笑顔が浮かんで、消えた。彼女の意識は不意に途切れた。まるで舌の上でほろりと溶けた砂糖菓子のように。

 *

 彼女が最初に感じたのは温もりだった。
「あっ! 起きた」
「気分はどうだ?」
「ぐっすり眠れたかいマドモアゼル」
 マドモアゼル?
「きゃああ!」
 目覚めの第一声が甲高い悲鳴なのも無理はない。紫色の壁かと思ったものが実は、積み重ねた濡れ雑巾に劇物をかけて溶かしたような姿の三人組(トリオ)とあっては、誰でも驚いて当然だろう。まして彼女はこのようにどろどろで気味の悪い恰好をした連中を今まで見た事がなかったのだ。生きた心地もせず震え上がる彼女に、トリオは明るく話しかけた。
「おいらベトジ、よろしく」
「おれはベトイチ。ベトジの兄貴だ」
「ふ……僕はヘドラス。君と出会えた幸運に乾杯しよう」
「ここはおれ達の縄張りだ。いい地下水路だろ。人間はもう使ってないけど」
 ベトジ、ベトイチ、ヘドラス。彼女は心の中で名前を繰り返し唱えた。トリオの気さくな笑顔が危険とはかけ離れたものとして彼女の目に映った。
 だがしかし、安心するのはまだ早い。一体彼らは何者でここはどこなのか。詳しいことが分かるまで落ち着いていられる筈もない。彼女はまず辺りを見渡した。屋内のようだ。大きな水路が通っているので地下とも考えられる。明かり取りの窓はないが、青い火の玉が上に下にいくつも漂っているので見通しが利いた。ちなみにうずたかく積まれている家具や電化製品、その他諸々の廃品は元々置いてあったのか、それとも誰かが寄せ集めてきたのかどちらだろう。
「あの、私はなぜここに?」
「あいつだ。あのジュペッタ」
「チャックが気絶したあんたを見つけて運んできたんだ。ほら」
 ベトイチはそう言って古いソファを指差した。背もたれの上に乗っている、あの不気味な黒い縫いぐるみがそうだろうか。彼女は恐る恐るソファに近づいた。端まできっちり閉められた金色のチャックが相手の口を象っている。チャックという呼び名はそこから来ているに違いない。彼女がそんな事を考えていると、チャックの赤い目にじろりと睨まれた。視線が一つに交わった瞬間、密閉された口をもごもごと波打たせ、籠もった声で言い放たれたのは、彼の第一印象を底辺と位置づけるのに相応しい最悪の一言だった。
「おい、ウンコ」
 彼女は稲妻のような速さで言い返した。
「私はチョコレートです!」
 なんて酷い、たとえ今の暴言は天地がひっくり返っても許せない。恩人だろうと関係なしだ。彼女は怒りで歯を食いしばり全身をわなわな震わせる。チャックのせいでとんだ雲行きになってしまった。トリオは顔を見合わせ、せえのでチャックの頭に拳骨を喰らわせた。
「とんだ失礼を。チャックは口が悪くてね」
「そうだぞチャック、ただの汚物扱いはないだろ」
「でもチョコレートってなんだ。おめえみてえな茶色いベトベターのこと?」
 ベトベターとは何だろう。チャックへの怒りをぶつける訳にもいかず、彼女は深呼吸をして気持ちを鎮めてから訊いた。
「はー……すみません。べとべたーとは?」
「君は自分の顔を見たことがないのかい? そこで待ちたまえ」
 ヘドラスは廃品の山に向かい、すぐに戻ってきた。その手には四分の一ほどが割れて欠けた手鏡が握られていた。手渡された鏡を彼女がどきどきしながらそうっと覗き込むと。
「これが、私……?」
 鏡の中から唖然として見つめ返すのは、ぬかるみのようなどろどろの顔。紫色ではなく茶色であとは小柄という二点を除けばトリオと瓜二つだ。お世辞にも美しいとはいえないこの姿に、人間が好むお菓子の面影は全くと言っていいほど残っていない。
「嘘よ!」
 滑り落とした手鏡がぱりんと砕けた。信じられない。あり得ない。何かの間違いだ。しかし、否定の言葉を繰り返すうちに彼女はふと気がついた。そもそもお菓子が動いて喋るはずがない。なぜ今の今まで自分の異常さを自覚できなかったのだろう。
 では自分は一体何者なのか。それを考えると彼女は突然逆さ吊りにされたような気分に陥った。何もかもあやふやで、あの人に与えられた大切な使命さえ遠い夢の記憶のように思われる。
「私はバレンタインの贈り物だったのに。なぜベトベターに……」
 消えそうな声で呟くベトミの肩を、ヘドラスがぽんと叩いて言った。
「残念だけど僕らにその謎は解けそうもない。でもきっとファーザーなら解決してくれるさ」

 *

 群青色の夜空にぽっかり真珠のような月が浮かんでいる。散歩するには良い塩梅だ。一行はファーザーのねぐらを目指し、見晴らしの利く土手を摩天楼がそびえる方角に向かって進んでいく。チャックの鬼火が凍える寒さを和らげるおかげで、皆の足取りはゆったりしていた。道中の会話の大半はとりとめのないことだったが、彼女に名前がないと知った時はさすがのトリオも驚いた。
「ベトミ! おいらがファーザーなら絶対そう付ける!」
 ベトミ、か。照れと嬉しさで胸がじんわり温かくなる。ベトミはにっこり笑って礼を言った。
「ありがとうございます」
「なあチョコって美味い? 匂いは?」
「おれらよく悪臭っていわれるけどさ。チャック、ベトミに味見させてもらえよ」
「実体兼霊体だと五感を調節できて便利だね。特に君は第六感(おみとおし)もあるし」
 味見と聞いて焦るベトミに、トリオが笑いながら冗談だと請け合った。その後彼らはファーザーの話題で盛り上がった。
「こーんなにでっかいベトベトンだぜ」
「このタマムシシティにファーザーを知らねえ下水住民はいないな」
「度量もいびきの大きさも伊達じゃないさ」
 物知りだから相談すればきっとベトミのこともきっと分かる。トリオがそう断言するファーザーとは一体どんな相手だろう。ベトミは想像を膨らませた。チャックは相変わらず無言で、ベトミ達の後を少し遅れてついて来ていた。土手を越えてニンゲンの住宅街に差しかかると、始終穏やかだった一行に変化が訪れた。
「あっ」
 先頭のベトイチが皆に隠れるよう目で合図する。チャックはすぐに鬼火を消した。暖かみが失せたので吐く息がたちまち白くなる。蓋をこじ開けて近くの排水溝に潜り込んだトリオは、塀に踊る影を見てにやりとした。
「ヤブレシスターズだ」
 トリオの見立て通り、角からひょいと現れたのは三匹のヤブクロンだった。まるで耳と手足の生えた緑のゴミ袋だとベトミは思った。
「チャック、君はベトミを連れて先を行くんだ」
「ふざけんな!」
 ヘドラスに掴みかかったチャックをベトイチとベトジが取り押さえた。
「相手はシスターズだぞ。俺達のライバルだぞ。背は向けないぜ」
「よっ縫いぐるみの神!」
「てめーら! 適当な事言って祭り上げようったってそうは……」
「いーからいーから。ほら気づかれた!」
 仕方ない。チャックは溜息をつき、来いと顎でしゃくった。せっかく打ち解けたトリオと別れたくなかったが、ベトミにはどうすることも出来ない。彼女は渋々チャックに従い、「とりゃー!」だの「うはー!」だのと奇声が飛び交い始めた現場をこっそりと後にした。

 *

 寂しい交差点で信号機が黄色く点滅していた。ベトミはチャックから微妙な距離を保って歩いていた。冷気は嫌なので鬼火から離れすぎないように。それにしても、二人きりになってからまだ一度も言葉を交わしていない。ずっと静寂が続くのも気まずいが、不機嫌そうなチャックに話しかけるのはベトミにとって勇気のいる行為だった。ウから始まるアレ呼ばわりされた屈辱も彼女を消極的にさせている原因の一つだった。すると。
「……お前はなんで作られたんだ?」
 ぶっきらぼうにチャックが言った。意外だ。ベトミは戸惑った。あちらから話しかけてくるとは思ってもみなかったからだ。
「え……タマムシジムのエリカさんをご存じですか?」
「敬語はやめろ」
 ベトミはむっと黙り込み、気を取り直してもう一度聞いた。
「エリカさん知ってる?」
「ジムリーダーだろ。この辺じゃ有名人だ。そいつがどうした」
 相手の愛想の悪さに半ば呆れながらもベトミは答えた。
「ユキコちゃんが私を手作りしたのはエリカさんに贈るためなの」
「バレンタインに?」
 ベトミは頷いた。
「もちろんよ」
「……ユキコはせっかくお前を作ったのに贈らなかったのか?」
 それはベトミ自身も気がかりな点だった。少なくともエリカに贈られた覚えはないが、ユキコと引き離された経緯はまるで知れないのだ。
「でも、ユキコちゃんがとても幸せな気持ちで私を作ってくれたのは覚えてる。だから私はユキコちゃんの元へ戻りたい。ユキコちゃんの気持ちを伝えるのが私の大事な役目だから」
「違う」
 チャックが振り向いた。赤い目がぎらりと輝いた。
「本物だったから。お前に込められたのは本気の気持ちだったから。だからユキコは捨てたんだ」
 捨てた。
 情けも容赦も存在しない、冷たすぎるその言葉が、ベトミの脳内を凍り付かせた。
「お前のやろうとしてることは絶対に意味ねえんだよ。ユキコは臆病だったんだよ。なんせ相手は……とにかく無理だ」
 なぜそんな事を言われなければならないのだ。決めつけられなければいけないのだ。
「大体、気持ちを届けるのが役目とかよく言えるな。エリカが喜ぶ確証がどこにある」
 そんな事を考えたこともない。しかし。
「お前、本当は捨てられた恨みでベトベターになったんだろ」
「やめて!」
 ほとんど悲鳴に近い声だった。チャックに何が分かるのだ。御託はもうたくさんだ。
「そんな訳ない。私、ユキコちゃんに会いにいく。会って確かめるわ。さよなら!」
 震える声を絞り出したベトミは、チャックを置き去りにして出発した。興奮しているせいか、鬼火の側を離れても寒いとは感じない。チャックが追ってこないのを良いことに、彼女はぐんぐん距離を伸ばしていく。
 なぜだろう。不思議なことに行く先々の光景に既視感がある。もしかすると、ユキコの想いと一緒に記憶を一部受け継いだのかもしれないとベトミは思った。見覚えのある場所を繋いでいけば或いは。彼女はわずかな望みに賭けて夜の住宅街を奔走する。そして遂に一軒の二階建て住宅を突き止めた。ここだ。目の前にあるその家は、彼女の頭の中にある最も鮮明な映像と合致した。ユキコは間違いなくこの家の中。しかし、どうやって入り込もう。ベトミが悩んでいると、塀の向こうに植わっている大きな木が突然口を利いた。
「誰だ」
 ベトミはぎくりと身を引いた。声に凄味がある。門番だろうか。木は太い幹と大きな尖った葉っぱを持ち、木実型の顔が三つもあった。ナッシーだった。
 半ば睨み付けるように見下ろされたベトミは、及び腰で答えた。
「私は、ベト、いえ、ユキコちゃんが手作りした元チョコレートです」
 これが正しい名乗り方。そうは思うが、せっかくトリオに貰った名前をないがしろにしたようで彼女の胸は少し痛んだ。ナッシーが言った。
「元チョコレート?」
「ユキコちゃんがエリカさんのために作った、元バレンタインチョコです。どうかユキコちゃんに会わせて下さい」
「ははは!」 
 何が可笑しいのか。ひとしきり笑った後、ナッシーの三つ首が代わる代わる喋り出した。
「街を汚すベトベターめ。ユキコの捨てたチョコが化けたか」「ユキコがエリカに渡すのをせっかくやめたのだ」「蒸し返すような真似はやめてもらう」

 *

 ジュペッタになる前の記憶――ただの縫いぐるみだった自分が、持ち主に捨てられるまでの記憶。ベトミが去った後、チャックはその場に突っ立って哀しい回想に耽っていた。
 だが、背後に何者かの気配を察知した彼は突然現実に引き戻された。背後にそびえるその姿は、まるで緑のコンブを被せた巨大な土山。遠巻きに見かけたことは何度もあるがこれほど間近で対峙するのは初めてだ。彼を見下ろすヤブクロンの首領、ダストダスは逆光で陰った顔に薄笑いを漂わせていた。
「シスターズはあんたとあの三バカをうまく引き離したようだね。新入りのベトベト娘は誤算だったが、あんたが直々に厄介払いしてくれて助かったよ」
「俺になんの用だ!」
 チャックが凄んだ。ダストダスはどしんと地響きを立てて一歩下がった。顔に月明かりが差し込み、鋭い牙が銀色に光る。
「あちしは目利きでね。前から目を付けてたのさ。生ぬるいファーザーの側に属しちゃいるが、腹の底は怨念で真っ黒なあんたは子分にぴったりじゃないかとね。あちしも元々人間の棄てた生ゴミだった。生い立ちはあんたと似たり寄ったりさ。あんたの苦しみも分かってやれる」
 そんな馬鹿な。動揺するチャックに、ダストダスは猫なで声でさらなる揺さぶりをかけていく。
「さーあちしの所においで。捨てられて悔しいんだろ。この街のベトベターを一掃したら今度はニンゲンに復讐するつもりだ。そうすればあんたや、あのベトベト娘のようにニンゲンに捨てられた恨みで生まれてくる可哀想な奴はいなくなる」
 恨み。
「違う」
 チャックは握り拳を固めた。
「そんな理由でベトベターになったんじゃねえ。そんな寂しい理由でベトベターになってて欲しくねえ!」
「急にどうしたんだいボーヤ」
 それなのに。あんな心にもない言葉を吐いてベトミを傷つけてしまった。勝手に自分の境遇と重ね合わせて、八つ当たりも甚だしい。
「どうかしてた。あいつを放っておけねえ、あばよボスゴミ」
 冗談じゃない、とダストダスがチャックの行く手に立ちはだかった。
「どけよ!」
 チャックは両手の鬼火を燃え上がらせた。一触即発。両者が激しく睨み合う最中、どこからともなく太い声が聞こえてきた。
「まったく近頃の若いもんは」
 声はあそこからだ。見ると、地面から何かが迫り上がってゆく。防犯灯の光に浮かぶなだらかな輪郭。あの大きな影の主は。チャックとダストダスは、山一つにも劣らない存在感を放つそのベトベトンの名を、ぴたりと口を揃えて呼んだ。
「ファーザー!」
「おう。ちなみにコブ付きだぞ」
 ファーザーが言うと、その頭の後ろからヤブレシスターズがぴょこっと顔を出した。
「なんてこったい!」
 ダストダスが頭を抱えて叫んだ。体を丸めたシスターズが、ファーザーの勾配をころころと下り、そのままダストダスの足下まで転がっていく。
「お姉たまー! トリオに逃げられてしまったのー」
「ファーザーに捕まって全部喋っちゃったのー。お姉たまのせこい作戦が失敗なのー」
「ごめんなさいなのーついでに作戦失敗ざまあないのー」
「そうなのー……ってお黙り!」
 ヤブレシスターズは頭の耳のような部分を押さえて「きゃっ」と跳び上がった。さて、妹分が世話になった礼をしようにも正々堂々正面から対決するのはダストダスの腐れ根性に反する。ずばり言うと負けを見越したダストダスは、ファーザーへどぎつい視線と捨て台詞をくれた。
「今夜は引き上げてやる。でも覚えてな。いつかあんたも、あちしに楯突いたその毛玉小僧にも泣きを見せてやるからね!」
「なんでもいいがヤブクロン達に風邪を引かせるなよ」
 大きなお世話だ。顔を赤らめたダストダスは、シスターズを引き連れて一目散に走り去った。毎度慌ただしい顔馴染みの影を見送った後、ファーザーは笑みを浮かべてチャックに向き直る。
「月のいい晩は不思議と気もそぞろでな。お前達が夜遊びしてるような気がして来てみたら、案の定だ」
 チャックはくっと眉間にしわを寄せると、ファーザーに背を向けて言う。
「聞いてたんだろ。あのダストダスの身の上話、本当か?」
「さあなぁ」
「もっと危機感持てよ! ひょっとしたら今頃オレはお前らを裏切ってたかもしれねえんだぞ!」
「その時はその時だ。どんとこい」
 ああ悔しい。なぜこうも余裕な態度でいられるのだ。軽くあしらわれてしまって情けない。チャックはぐしゃぐしゃな気持ちになり、地団駄を踏んだ。
「第一オレはベトベターじゃねえのに。呪われ縫いぐるみのジュペッタ様だぞ!」
「なんで逆ギレしとるんだ。さっきのあれは、その逆ギレが原因で何か後悔しとったんじゃないのか」
 おまけに耳が痛い。顔から今にも鬼火が噴き出しそうだ。
「俺はベトイチ達を捜す。お前も来るか、逆ギレ縫いぐるみのチャック」
「変な徒名つけんなジジイ!」
 何も知らないくせに。そういうお節介なところが一番勘に障るのだ。熱くなった顔をぐいぐい擦り、チャックはその場で半回転すると、ファーザーを真っ直ぐに見据えて言った。
「オレの捜しものが先だ。ファーザー、一つ頼まれろ」

 *

「思いを明かせば、エリカとは今までのような関係でいられなくなるだろう」「ユキコはそれを知っている」「思い悩むユキコを見守るのは疲れたのだ。お前をユキコに会わせる訳にはいかない」
「私を作っている時のユキコちゃんはそんな風に悩んだりしていなかった!」
「渡す直前で気が変わったのだ」「ニンゲンにはよくある」「ユキコはお前を捨て、かくして女同士の友情は守られたのだ」
 信じない。手作りしたチョコレートを、そんな風に簡単に手放せるわけがない。それはチョコレートに込めた想いを手放してしまうのと同じ事ではないか。捨てる。二度と聞きたくない言葉だったのに。ベトミはナッシーに食い下がった。
「あなた達には私が捨てられたように見えたのかもしれません。でも真実は違うかもしれない。お願いします。ユキコちゃんと話をさせて下さい!」
「無駄だ。われらの言葉はニンゲンのユキコに通じない」「これ以上うるさくするならお前をやっつけてやる」「覚悟しろ」
 ナッシーの顔が険しくなる。尖った葉が青く光り始めた。おそらくは攻撃の前触れ。しかしベトミは動かなかった。恐くないと言えば嘘になる。けれども尻尾を巻いて逃げ出すくらいなら叩きのめされたほうがましだと思った。
 ところが。
 上空から飛来した謎の塊がナッシーの頭を直撃した。地面に崩れ落ちるナッシー。棒立ちになるベトミ。一体何が起きたのか。謎の塊に付着していた黒い影が、困惑する彼女によろりと近づいた。
「ベトミ?」
「チャックさん!」
 衝撃の再会だった。
「どうやってここに……」
「オレの特権、シックスセンス使った」
 理屈もへったくれもないが、ベトミは気迫だけで納得させられた。
 それにしても、とチャックは気絶したナッシーを振り返る。方角を特定したのは彼の力だが、ここまで飛んで来られたのはひとえにファーザーのヘドロ攻撃のおかげだ。威力、飛距離、命中率と、どれを取っても恐れ入る。格の違いをありありと見せつけられたようで、チャックは悔しげに頭を掻いた。
 そんな彼の後ろ姿を見つめていたベトミだが、不意に表情を曇らせた。
「助けてもらったお礼は言うわ。でも私、まだあなたのことを許し……」
「くだらねえ話は後だ。お前の手助けしてやらねえこともねえ。本気でユキコに会いたいならな」
 ベトミは目を瞬く。あのつれない態度はどこへ行ったのか。まるで別のジュペッタだ。
「こういう家は二階が寝室だ。けど見ろ、柔らかいお前ならこの雨どいに潜って上れるぜ」
 チャックが壁を沿う細い筒を指差して言った。確かにこれなら上まで登れそうだ。
「ぐずぐずすんな。行け!」
 迷っている暇はない。ベトミの表情が引き締まる。チャックの言葉を信じるのだ。彼女は意を決して雨どいに飛び込んだ。真っ暗で何も見えない。想像を超える窮屈さだ。しかし耐えなければ。ユキコに会うためにはここをくぐるしかない。
 ようやく出口が見えた。チューブから捻り出された糊のように雨どいから這い出した途端、屋根がびりりと震えた。ベトミは慌てて下を覗き込む。思った通り、ナッシーの仕業だ。猛烈な勢いで足を踏みならし、チャックを家の敷地から追い出そうとしている。パッと室内に明かりが灯った。揺れのせいで誰か起きたのか。気を取られたベトミは体勢を崩した。
「あ!」
 落ちていく。
 腹の中身がごっそり浮くようなスピード感。だが妙だ。この感覚には覚えがある。落下中にも関わらずベトミは既視感の虜となった。いつどこで味わったのだろう。これもユキコの記憶なのか。いや、違う。この感じはまさか――過去と現在がオーバーラップした瞬間、彼女は路上に叩きつけられた。
「ベトミ!」
 チャックが叫んだ。
 この時、ベトミはかろうじて意識を保っていた。しかし、その目からは見る影もないほど生気が失われていた。誰にどう呼び掛けられようと、もう永久に応じる事はないのではと思えるほどに。
 ナッシーがぺしゃんこになったベトミを横目で見た。えいと鬼火を喰らわせ、ナッシーが怯んでいる隙にチャックは急いでベトミに駆けよった。今の内だ。早速彼女を引き剥がしにかかるが、思いの外地面にへばり付いていて手間が掛かる。チャックが苦心していたその時、遠くから悠長な声が聞こえてきた。
「チャック?」
「ほんとだ、棒の倒れた向きに進んだら会えたっ」
「これがニンゲンの知恵だぜ。科学の力ってすげー!」
 トリオだ。トリオが呑気な足取りでこちらに向かって来る。どこで油を売っていたのだ。チャックはくぐもった声で怒鳴った。
「走れ、ベトミが大変だ! せんべいになった!」
 センベーだか何だか知らないが、ベトミと聞いたトリオは慌てふためいて速度を上げる。火傷騒ぎから落ち着いたナッシーが新手を認めて憤怒の形相になった。鋭い眼差しに射竦められたトリオは途端に根が生えたように動けなくなる。彼らが見た限り、このナッシーはニンゲンの仲間だ。つまり争えば当然ニンゲンの注意を引く。それだけは避けたい。しかし、逃げ出そうにもまともに隙を見出せない。絶体絶命だ。
 カチャ、とドアの錠の外れる音がした。ナッシーの注意が奇跡的に玄関へと逸れた。
 今だ。トリオはチャックとベトミを担ぎ上げ、近くを流れる用水路に颯爽と飛び込んだ。


 *

 岸に上がって体を乾かし、皆と地下水路に向かう道すがらベトミはずっと塞ぎ込んでいた。落下時に覚えたあの既視感は、彼女が意識の奥深く封じ込めていたある記憶を浮き彫りにした。ユキコの借り物ではない、彼女だけの記憶を。そしてそこからただ一つの答えに行き着いた。チャックとナッシーの言っていた事は正しかったのだ。
 ユキコに捨てられた。
 その事実が今ようやく、完全に思い出された。
 笑ってしまう。今までずっと、ユキコの想いを届けるための存在だと信じてきたのは何だったのか。ベトミは自虐的に自身を顧みた。そもそもユキコに捨てられたのは、自分というチョコに見込みがないと思われたせいだとしたら。恨みでベトベターになったというチャックの指摘が外れていないとしたら。これほどやるせない生の受け方はない。過去も未来も八方塞がりだ。なんなら今すぐ消え失せても良い。ベトミは打ち拉がれ、すっかり自棄になっていた。
 トリオとチャックはそんな彼女を気に掛けつつ、なんの策も打ち出せないまま縄張りの地下水路に帰り着いた。廃品置き場で待ち構えていたファーザーが彼らに手を振った。
「帰ったか」
「あ、ファーザー」
 トリオを合体したところで、ファーザーの体格にはまだ及ばないだろう。ベトミが失望に取り憑かれていなければ、その大きさに驚いて悲鳴をあげたに違いない。ファーザーは視線を避けるベトミを認めて、そっと穏やかな物言いをした。
「初めまして。チョコレートの嬢ちゃんだね?」
「……はい。初めまして」
「この水路は広い。お嬢ちゃんの寝る場所ならいくらでもある。気の済むまでいてくれ」
 優しく暖かな声。ベトミの目頭が熱くなる。いけない。彼女はぐっと堪え、首を横に振った。
「私、皆さんのお仲間にはなれません。見た目は確かに似ています。でも、捨てられた贈り物が恨みで化けるなんて、駄目です」
「そうじゃねえさ」 
 ファーザーはベトミの頭に優しく手を置いた。決まり悪そうなチャックをちらっと見遣り、言葉を続ける。
「嬢ちゃんはきっと、今夜の綺麗なお月さんの光を受けて生まれたんだ。ニンゲンによると月のエックス線とやらを浴びたヘドロは、ベトベターになることがあるそうだ。嬢ちゃんの場合はチョコレートか。可愛いじゃねえか」 
 誰かに褒められるのは初めてだ。顔が熱い。肩がむず痒い。ファーザーを直視できない。ベトミはすっと俯いた。そうか、恨みでベトベターは生まれないのか。きっとその通りなのだ。ファーザーを信じることでベトミの気持ちが少し楽になった。まるで傷の手当てを施されたかのような安堵感が彼女を包みこんだ。
 トリオは黙って会話を聞いていたが、「そういえば名前はあるのか」とファーザーが尋ねた時だけは先を争って口を挟んだ。にやけたベトジが「つけてあげてよ!」とファーザーに言うと。
「ふむ。ベトミでどうだ」
 予想的中。トリオがどっと笑い出す。ファーザーは首を傾げた。
「何を笑っとる。そういえばお前達、ヤブレちゃんと遊んだ跡がヘドロだらけだったな。今から片付けだ」
「えええー」
「あれは遊んだんじゃなくて決闘をー」
「プライドのぶつかり合いでー」
「尚更タチが悪い。人間の注意を引くから喧嘩はいかんといつも言っとろうが。掃除の間ベトミはまかせたぞ、チャック」
 あっ。ファーザーが片目を瞑った。さてはベトミと二人きりにするための策略か。ファーザーめ余計な真似を。チャックはぎろりと睨み付けたが、ファーザーはどこ吹く風だった。
 トリオとファーザーが地上に出向いてしまうと、残されたベトミとチャックの間に今までにないような居心地の悪い空気が立ち込めた。二人は隣り合い、水の流れに視線を投じる振りをしてお互いの出方を窺うことに神経をすり減らした。広いはずの地下水路が閉鎖的な空間のように感じられる。傍に誰かがいるのに、こんなに孤独な気分になるなんて。
 ややあってチャックが動いた。
「……言っとくが、オレは謝らないぞ。思った事を言っただけだ。言い方は少しきつかったかもしんねえが後悔はしてねえっ。そこ勘違いすんな!」
 ベトミは水面から視線を外さない。そしてそのまま、おもむろに口を開いた。
「あのね」
「な、なんだよっ」
「私思い出したの。チャックさんの言う通りだった」
 寝言のように儚い。それでいて覚悟の滲む声。
「私、捨てられたのよ」
 世界で一番見たくない表情から、チャックは目を背けなかった。
「とても悲しい記憶だから、ずっと忘れていたみたい。私、エリカさんに食べて貰いたかった。ユキコちゃんの気持ちを伝えたかった。でも、どんなに美味しいチョコレートも、食べて貰う相手がいなければ……ただのゴミなのよ」
 ウィッと奇妙な音がした。反射的にチャックを見たベトミは、涙で潤んだ瞳を大きく見開いた。なんと、チャックのチャックがぱっくり開いていた。開かずの金色チャックが今になってなぜ。彼女が反応に困っていると、何でも丸呑みできそうなチャックの大口から鮮明な声がはち切れた。
「バカ野郎!」 
 チャックはベトミの頭を素早く指で突いた。とろっとチョコレートが糸を引く。指にくっついたそれを、チャックは目にも止まらぬ速さで舐めとって言った。
「甘いじゃねーか! オレ、一瞬すっごく幸せな気分になったぞ。ベトミにもいいとこがあったんだ。オレが今見つけてやったんだ。だからもう、役立たずとか言うな!」
 これは励ましと言えるのだろうか。だとしても、こんなに押しつけがましいと普通ならちっとも有り難みがないとベトミは思った。
 それでも、チャックの懸命さは彼女の胸をどんと打った。曲がりなりの思い遣りは、涙を笑顔に変えるのに充分だった。彼の不器用な優しさに見合うだけの、精一杯の感謝の念を込めて、ベトミは言った。
「ありがとうチャックさん。でも……」
「まだなんかあるのかよ」
「うん」
 ベトミはすうと息を吸い込み、そして。
「勝手に味見しないでよ! ほんと、デリカシーの欠片もないのね!」
 チャックはずっこけた。
「んな事言って、喰ってみなきゃ味わかんねえだろ! オレはウンコを喰うリスクを冒したんだぞ! その覚悟がお前に分かるのかよ!」
「あ、またその言葉!」
「あん? はっ! てゆーか、チャックを開けたせいで呪いのエネルギーが逃げちまったじゃねえか!」
「ど、どういう意味よっ」
「くっそどうしてくれるんだお前、一生かけて償え!」
「一生とは大きく出たな」
 ファーザーの声だ。チャックとベトミは調子外れの叫び声をあげ、背後を振り返った。
「てめえら! いつの間に戻ったんだ!」
 チャックの言葉にファーザー、そしてトリオが揃ってニヤリとした。
「現場はすでに人間共が押さえててさ、仕方なく戻ってきたんだ」
「この程度で驚くなんて、自慢の第六感はどうしたんだい?」
「なあ、とっととベトミの歓迎会をおっぱじめようぜ!」
 わあと歓声を皮切りに、粗大ゴミの山に直行したトリオが壊れた楽器や箒など思い思いに道具を手に取って巧みに雰囲気を盛り上げた。「他の下水組も呼ぶか!」と招集する気満々なファーザーの豪快な笑い声も、チャックの「うるせー!」という怒鳴り声も、あらゆる音が壁に反響して何倍にも膨れあがり、地下水路中が騒音に埋まってしまうほどだった。
 こんなに賑やかでは、今後の身の振り方をじっくり考える事も出来ない。仕方ないので考えるのは夜明けにしよう。なんなら明日でも明後日でも良い。ずっと先延ばしにしても良い。ベトミは今この瞬間だけを、騒がしい彼らだけを見つめて、心の底から晴れやかに笑った。






* * * *

ハッピーバレンタイン。
お久しぶりの投稿です。マサポケベストに寄稿しました「ベトミちゃん」です。
いやぁポケスコ投稿時の物と比べるとかなーり加筆修正しましたね……
その節は皆様に大変お世話になりましたm(__)m ありがとうございます。
出現率は低めですが、これからもよろしくお願いします。


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