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再びガキの寝床に戻った。背後でうなされる声が聞こえたが、俺はさっさと部屋を出た。
失敗した。いや、純粋な意味で言えば失敗ですらない。俺は自分の意思で彼女に悪夢を見せた。実を言うと後悔すらない。それどころか達成感すら感じる。
「どうだった?」外で待っていたヨノワールが淡々と聞いた。まるでいつもどおり悪夢を見せてきた後のようだ。
「失敗だ」短く答えた。
「……そうか」と、一言。
「そうか……だ? それだけか?」あまりにそっけない反応に、逆に聞き返してしまった。
「それだけだ」
「俺は失敗したんだぞ。今あの子は悪夢を見て苦しんでる。お前ら組織の信頼に関わる事態だぞ? それでも、『それだけ』、なのか?」
「お前が失敗すれば、クラウンの居所が知れなくなる可能性が高まるだけだ。私には関係ない。組織のことだってお前に心配される謂れはない。ボスはそれくらいの事態ちゃんと見越している」
「見越しているだと? キリキザンは俺に失敗覚悟で良夢を任せたって言うのか?」
「そんな驚くことじゃないだろう」ヨノワールが鼻で笑う。何かいつもと様子が違う。
「そもそもこんな依頼ボスにとってみれば、数あるうちの一つでしかない。その中でも特に今後の影響が少ない物を選んでお前に任せた。失敗させてお前を切る建前を作っとこうってことだ」
――やはり緊急事態とかいう話も嘘だったか。
さらなるキリキザンの魂胆を知り再び怒りが盛り上がってきたが、その前にさっきからのヨノワールの様子が気になった。
「ヨノワール……何かあったのか?」
「何かとは、何だ?」
「さっきから変だぞ、お前。どうしてそんな話をする? キリキザンの意図が何だったかなんて、俺は聞いていないぞ」
「お前の方こそおかしいんじゃないか? 揚げ足を取るようなこと言って。失敗覚悟だったのかとお前が聞いて、私がそうだと答えれば、間違いなくお前はその意図まで聞いてきていただろうが」
「そういう問題じゃない! どうして急にお前が自分からキリキザンの事を話すようになったのか、それが聞きたいんだ。これまでお前は奴の事になるといつもはぐらかしてきたのによ」
「……別にお前に関係のない事だ」
突然ヨノワールが目を逸らして言う。やはり変だ。
「馬鹿言うな。関係ないってことは無いだろ。もう間もなく終わるが、それでも今はまだ、お前は俺の専属ブローカーなんだから」
「……違う」
「違うって、何がだ? ハッキリしろよ」
「もう私はお前の専属ブローカーじゃない。……私はさっきクビになった」
「どうして? お前はキリキザンのお気に入りじゃなかったのか?」
「フフッ……」
俺が聞き返すと、ヨノワールの喉がヒュウヒュウと鳴った。笑ったらしい。まるで壊れた笛に息を吹き込んだかのような、乾いた笑いだった。
「なぜ笑う?」
「変わったな、お前。私がクビになったと聞いても顔色一つ変えなくなってしまった。気が塞いでしまっている。確かに今夜はいろいろあったからなぁ……。この程度じゃ今さら驚きもしないか。……フフッ」
「馬鹿言うな。俺はただ……ちょっと疲れているだけだ。ほら、さっさと答えろ。お前、なんでクビになった?」
「……こっちの問題だ。気にするな」
なかなか答えを渋るのにムッとして声を荒げかけたが、すぐにその気が失せてしまった。ヨノワールの言う通りなのが悔しかった。
「……で、お前はこれからどうするんだ? 次の依頼は?」
「残りの二つも案内する。そろそろ次行くぞ」
「そうか……分かった」
俺はそれ以上なにも言わず、そそくさとムクホークの元へ進んだ。なぜクビになってもなお仕事を続けるのか、気にならなかった訳じゃない。ただ、気にしたくなかった。今の俺は自分の事だけで精一杯だったからだ。
ムクホークに乗って移動しつつ次の依頼について俺は聞いていた。次は、中年の男だそうだ。
聞いた話では今まで何度となく相手にしてきたタイプの人間だ。
独り暮らしで、無職。人付き合いはほとんどなく、ポケモントレーナーでありながら年中家に引きこもっている。
こういう奴らは大抵、若いころに意気揚々とポケモントレーナーの旅に出て、うだつの上がらないまま、実家にも帰れず旅する気も失せて腐っている場合が多い。
そして、人間はその状況をポケモンのせいにするのだ。
「コイツが弱いせいで……」、「コイツが使えないから……」、「コイツがコイツが……」
人間は自分の至らなさを棚に上げて、全てをポケモンのせいにする。「コイツが」と言って、自分のポケモンを罵倒し、暴力を振るう。
そういった人間の元にいるポケモンこそが、悪夢屋の「お得意様」だ。依頼の半分以上を占めている……いや、占めていた。
俺はムクホークの羽根を掴む手に思わず力を込めた。
――今さら……。
今さら何を考えても空しいだけだ。もう悪夢屋には、「お得意様」どころか、ただの一匹の客もいないのだから……。
しばらくの後、ダークライ達はターゲットの住むアパートに着いた。今度のはさっきの一軒家とは大違いだった。ボロくて今にも“何か”が出てきそうな、そんな建物だった。
「なぁ、ダークライ」
ムクホークから降りたヨノワールが声をかけてきた。
「何だ?」
「さっきの良夢、お前わざと失敗したのか?」
「……そうだ」
そのものズバリなヨノワールの聞き方にも、ダークライはさらりと認める。
「はぁ……やっぱりか」
ヨノワールが悲しげにため息を吐く。ダークライはその態度が無性に腹が立った。
「ハッ! 不満なのか? ヨノワール! 俺が真面目に良夢を見せないことが気に入らないか!? えっ? キリキザンに捨てられた分際で、どうせお前だって嫌々仕事してるんだろうがっ!」
「嫌じゃないと言ったら、嘘になるな。けど、私は引き受けた仕事はやり遂げる。必ず。お前と違って手を抜いたりなど決してしない」
「お前はそういう所、本当にマヌケだな。自分をクビにした奴の為に働いたって、お前に何の得がある? 無駄だって分からないのか?」
「私は『得』だとか『無駄』だとかで仕事していない。引き受けた仕事を達成することが、私の自尊心に繋がるからこそやっている。これは紛れもない私の意思だ」
ヨノワールの言葉の中には、ゆるぎない意思がこもっていた。
「……マヌケめ」
ダークライにはそれしか言えなかった。
部屋の中は見るも無残だった。
ターゲットの男の部屋は、散らかり放題で足の踏み場もないほどだった。溜りにたまったゴミ袋からは腐った食べ物の異臭がぷんぷん漂い、廊下に転がっている空き缶には虫がたかっていた。これだけでも充分男がどのような暮らしをしてきたかが知れるというものだ。
――今までと何も変わらない。
今まで悪夢の依頼をつけられてきた人間と、今回の男との間には何も違いが無いように思われた。こんな劣悪な環境に閉じ込められて、男のポケモンはさぞ辛い生活を強いられている事だろう。
「お、おい! な、なんでダークライがここにいるんだよ!?」
突如、部屋のどこかから声がした。焦りのこもった、うわずった声だ。
「だれだ!?」
ダークライの声が恐怖で裏返っている。そりゃ、こんな幽霊屋敷のような建物の中、どこからともなく声がしたら誰だって怖い。
「答えろよっ! なんでダークライがここにいるんだ!? クレセリアさんはどうした!?」また声がする。
暗闇の中でも視野の効くはずのダークライが、声の発信源を見つけられない。ここは言う通り説明した方が賢明だとダークライは思った。
「俺は今日ここへ人間に良夢を見せに来た。クレセリアはここへ来ない。恐らく別の仕事の最中だ」
暗闇の中、同じ部屋のどこかにいる何者かに向かってダークライは答えた。
「ダークライが良夢? 嘘だ! お前なんかに用はない! さっさと出てけ!」
謎の声の発信者はダークライを追い返そうと叫ぶ。
「……お前がこの良夢の依頼したのか?」
ダークライはその声を無視して質問した。
「だ、だったらなんだっていうんだ! お前には関係ないことだろ! いいからさっさと出てけよっ!」
――カラン。
ムキになって叫び続ける声がする。ダークライはその声に混じって、何か金属音がしたのに気づいた。
さっとその金属音の方向へ視線を向けると、空き缶の山が見えた。その山から一つ缶が零れ落ちて、斜面を下って、止まった。
しかし、何が空き缶を転がしたのかダークライには分からなかった。なぜなら空き缶の山の周りにあるのは、無造作に積み重ねられたいかがわしい雑誌やら、ホコリのかぶった汚らしいぬいぐるみやらといった、空き缶と同じゴミばかりだったからだ。
……ぬいぐるみ?
確かにそこには雑誌の束に埋もれる格好で、ぬいぐるみが置いてあった。いったい何をかたどったものなのか、手足らしきものをだらりとたらし、首は雑誌に押しつぶされて不自然な角度に曲がっている。正直、全くかわいらしくはない。むしろ、なにかおどろおどろしい天邪鬼のようにダークライには思われた。
――ふぅむ……。
ダークライはそのぬいぐるみを見て何か違和感を感じた。
半ば人生を捨て、自堕落な生活を送っているこの男の部屋にぬいぐるみとは、どう考えても不自然だ。
ダークライがじっとそのぬいぐるみを見ていると、不意にぬいぐるみが動いた。
完全なる不意打ちだった。突如動いたぬいぐるみに気をとられ、ぬいぐるみが放った“シャドーボール”をもろにダークライはくらってしまった――。
「ちっ、ジュペッタか。脅かしやがって」
目の前には先ほどまで大人しく雑誌に埋もれていた人形――ジュペッタがふよふよと浮いている。
ダークライは何事もなかったかのようにして、目の前のジュペッタに向かって悪態をついた。恐らくジュペッタ自身がゴーストタイプであることから最も得意な技を出してきたのだろうが、”シャドーボール“は悪タイプのダークライにそもそも効果の薄い技だ。その上、二匹の間のレベル差は圧倒的なものがあった。至近距離から攻撃を受けたにも関わらず、ダークライには傷一つなかった。
対するジュペッタの方は、怯えて声も出ないようだった。ダークライの目の前から、ふらふらとまた雑誌の束にもたれかけると、腰が抜けたといった様子でじっとしている。
「お前!」
ダークライが声をかけた。完全に威勢を取り戻したダークライと、酷く怯えて口のファスナーをわなわなと震わせているジュペッタとは、ついさっきまでと完全に立場が逆転していた。
「あ、あ……」
ジュペッタは返事をしようとするが、言葉になっていない。
「お前がこの良夢を依頼したのか?」ダークライが再び聞く。
「そ、そう……」ガチガチと聞き取りづらい声だったが、確かにジュペッタは認めた。
――なんでこんなトレーナーの幸せを願う?
そう聞こうと思った矢先、ジュペッタが泣き出していることに気づいた。
どうやらこのジュペッタ、やることの割りにかなりの臆病者らしい。ダークライのような強力なポケモンを脅迫し、さらには失敗して、心底震え上がってしまっているのだ。
「おいおい、俺は別にお前をどうにかするつもりなんかないぞ……? だから、な? そんな怖がらなくていい」できる限りの優しい口調でダークライが声をかける。
ジュペッタはがくがくと首を縦に振った。ダークライにはそれが了解の合図だったのか、ただ怯えて震えていただけなのか判断がつかなかったが、話を進めることにした。
「なんで――」
ダークライが質問を始めようしたその瞬間、
――ガッシャーン!!
大量のものが一斉に床に落ちる音がした。ごみの山の一つが崩れている。同時に部屋全体がパッと明るくなった。電気がつけられたのだ。
「てめぇ! 野良が人様の家に勝手に上がりこんで何してやがる!!」
どうやら男が起きてしまったらしい。30そこそこといった年のちょっと腹の出かけた人間が、くしゃくしゃの汚い髪の毛を振り乱し、パンツ一丁の姿でドシンドシンと奥の部屋からやってきた。
「ジュペッタ! コイツとっとと片付けろ!」
どうやら酔っ払っているらしい。ふらふらと体を揺らしつつジュペッタを指差して指示を飛ばしている。
「で、でも……」ジュペッタは困惑している。
ジュペッタは先ほどの不意打ちで、自分がダークライにとても敵わないと分かっている。しかも相手に攻撃してくる気配がないのに、また自ら喧嘩を売るような真似したくないのだ。
「この役立たずがぁー! さっさと言うこと聞きやがれ!」
――ドンッ!
男はよろめきながらもこちらへ進んできて、ダークライの目の前でジュペッタを勢いつけて踏み潰した。
――ぐぐぅぅぅ〜……。
雑誌の束と男の足の間から押しつぶされてくぐもった叫び声がする。
その様子をずっと見ていたダークライは、男を止めようとすれば止められたはずだったが、わざと何もせずに立ち尽くしていた。
男が足を上げ、痛みにうめくジュペッタを見ると、ダークライは右手に一つ真っ黒な球体を作り出し、男にぶつけた。
「おい、大丈夫か?」ダークライがジュペッタに声をかける。
「う、うん……」ジュペッタがその場でうなずく。そのすぐ足元で、さっきまで暴れていた男が倒れている。
「おまえ……何したんだよ? ケンに何したっ!?」ジュペッタが倒れている男を見て言った。
この男の名前は“ケン”という名前らしい。ジュペッタがわっと怒鳴る。ついさっきまでダークライに怯えていたはずが、また態度が変わった。
「はぁ? お前今コイツに何されたか分かってるのか? なんでそんなこと聞く? なんでこんな腐った人間のこと心配するんだ!?」
「ケンは僕の友達だ! 心配して当たり前だ! お、お前ケンに何かしたらただじゃおかないぞ!」
ジュペッタはどうやら本気で言っているらしい。例えダークライが“何か”をしていたところで、自分にはダークライをどうしようも無いと分かっているはずだ。しかし、間違いなくジュペッタは本気だ。
「……安心しろ、お前のケンは眠らせただけだ」顔を伏せ、ぼそりとダークライが言う。ジュペッタはさっとケンの寝息を確かめると、ふぅっと安心するように吐息した。
「なぁ、なんでだ? 何でこの人間がお前の友達なんだ? この人間はお前を『役立たず』呼ばわりした上、暴力を振るったんだぞ。それに……お前今までだって、コイツのせいで散々酷い目に遭わされてきたんじゃないのか?」
ダークライには意味が分からなかった。
横暴極まりなく、自分のポケモンを平気で足蹴にする。そんな奴のことをどうしてコイツは心配するんだ? この男はこれまで俺が悪夢を見せてきた人間となんら変わらないはずだ。かつてクラウンが、『なにも変わらなかったのさ』と言った状況そのままじゃないか。
わけが分からないという様子で質問するダークライに、ジュペッタは、逆にそのような質問されたという驚き半分と、そんな質問するダークライへの興味半分でぼーっとダークライを見つめていた。
「俺はな今までずっと悪夢屋をしてきたんだ」
ダークライが語り始める。
「悪夢屋っていうのは、人間に酷い目に合わされたポケモンたちの代わりに悪夢を見せて復讐する仕事でな、だから、お前みたいに被害に遭ってる奴を俺はたくさん見てきた。……と言っても実際に会った奴は少ないが。でもな、それでも分かる。人間にこき使われたり、暴力振るわれたり、まともに面倒見てもらえないポケモンたちがどれだけ苦しい目にあっているか。そいつらがどれだけ自分のトレーナーを憎んでいるか。
だから俺はそいつらのために、人間たちに死ぬほど怖い悪夢を見せてきたんだ」
ゆっくり、淡々とダークライが語る。それをジュペッタは注意深く聞いていた。
「だけどお前はこの男のことを『友達』と言って、俺からかばった。俺にはそれが全く理解できない。同じ目にあってるのに、お前と、俺が今まで請け負ってきた依頼人とは、いったい何が違うんだ?」
ダークライはやっと聞き終えると、ふぅーっと長いため息をした。
クビになっても仕事を続けるヨノワール。虐待を受けてもトレーナーを「友達」とするジュペッタ。人を知るため始めた悪夢屋で、さまざまな人間を見てきて、人間というものをあらかた理解できた自信はあったが、どうやらポケモンのことは全然理解できていないみたいだ。
――……沈黙。
ジュペッタは何も喋らず、難しい顔をしている。そして、しばらくそうしていたかと思うと、突然話し始めた。
「その……、悪夢を見せてってダークライさんに頼んだポケモン達は、それぐらいしか人間と『友達』じゃなかったってことじゃないの……かな?」歯切れの悪いジュペッタの回答。いつの間にかダークライが「さん」付けになっている。
「……ん?」
――それぐらい?
「だから……んー、なんていうのかなぁ……」ジュペッタが言葉に詰まっている。
「ケンはね、本当はとってもいい奴なんだよ。これまでずっと僕を育ててくれて、一緒にたくさんの町を旅して、バトルで僕のせいで負けちゃった時だってすっごくなぐさめてくれたし、他にもいっぱいいっぱい僕の面倒見てくれて……僕はね、ケンが大好きなんだよ!」
まだまだ言い足りないという様子でジュペッタが叫んだ。
「しかし、今はどうだ? こんな汚い場所に押し込められて、毎日毎日この男の暴力や暴言を受けて、それでもまだこの男が好きなのか?」
「好きだ!」
「どうして!?」
即答するジュペッタに、すかさずダークライが聞いた。
「んーー……それは……」
ジュペッタはうまく言葉に出来ないみたいだ。
「それは……僕がケンを好きでいたいから!」やっと言ったことはそれだった。
――……再び沈黙。
「……ダメかな」黙り込むダークライに、ジュペッタが小さく付け加える。
「いや……ダメじゃない」
それはジュペッタの「意志」だった。
それはデジャヴだった。
クラウンも同じことを言っていた。
こいつもか。結局は、「意志」なのか。ジュペッタが不可解そうな顔をしてこっちを見ている。
――続けていたいから。
昔、俺が自分の仕事の様子をクラウンに話していたときのことだ。毎度毎度、あんまり悲しげな顔をして話を聞くクラウンに俺が聞いた時のこと。
――なぜ、お前はそんな悲しそうな顔をする?
「そうか? 私はいつもこんな顔だが?」クラウンはいつものようにはぐらかそうとする。
「嘘をつくな! 何か俺の仕事に文句があるなら言ってみろよ!」
「文句なんかないさ。お前はこの短い間によくここまで成長してくれた。今やこの業界で、私も含め、お前の仕事に文句をつける奴なんて誰もいないさ」
「じゃあなぜお前はいつも……そんな悲しそうなんだ?」
「ふふっ。心配してくれているのか? 夜な夜な人間達を恐怖のどん底に落としいれる、最高の悪夢屋ダークライがツンデレとは。かわいい所もあるじゃないか。ふふふっ」にやにやと俺をからかう。
クラウンは時々こういう変な調子を出す。相手を自分の調子に巻き込み話題をそらそうとする。しかし、今回その調子に巻き込まれる気は無かった。
「ふざけるな。答えろ、何が不満なんだ?」ダークライが続ける。
「言っただろ、不満なんてないさ」自分の思惑が外れてもなお、さらりと答える。
「また嘘を――」
「まぁまぁ、ダークライ」さらに続けるダークライを制し、クラウンが言う。
「あんまり他人のことを詮索しないのは、最低限の礼儀ってもんだぞ。私達はただでさえしょっちゅう他人の心を覗く生活だ。仕事上仕方ないことではあるが、普段の生活ではマナーに反する。気をつけないといけないぞ。親しき仲にも礼儀あり、ってことだ」
相変わらず軽い口調ではあったが、その中には有無を言わせない重さがこめられていた。
最後にクラウンは、いいか、というように肩をすくめて見せると、その場を立ち去ろうとした。
「待ってくれ」ダークライが呼び止めた。
まだ何か、と言ってクラウンが振り返る。目元にうっすら、そろそろ「しつこい」の文字が見えた気がした。
「クラウン、お前は悪夢屋してて楽しいか?」
「楽しい……か」
ふぅむとクラウンは考え込むようにして腕をくんだ。
「楽しくはないな。毎度毎度腐った人間どもと顔を合わせないといけないし、その人間の被害にあっているポケモンと鉢合わせたりすると、いまだに悪夢屋が嫌になることがある」
「じゃあなんで――」
「なんで悪夢屋してるかって? それはずっとお前に話してきたことだ。この復讐の連鎖を終わらせて、ポケモン達を本当の意味で救うためさ」
「それなら別にお前じゃなくてもいいじゃないか。お前以外にも悪夢屋はいる」ダークライが言う。それではクラウンが嫌な思いをし続ける理由にはならない。
「続けていたいから」クラウンはこともなげに言った。
――……。
黙るダークライに「これじゃダメか?」とクラウンが付け加えた。
「ダメじゃない……」
「それは良かった。いい加減お前の質問攻めに殺されるかと思っていたからな。好奇心は百の魂を持つニャルマーをも殺すって言うんだ、お前の向学心は評価するが、ほどほどに頼むぞ」
クラウンはそう言い残すとさっさと行ってしまった。この頃急激に依頼が増えて、手練れのクラウンにはその中でも子供相手の難しい依頼が連日大量に舞い込むので、疲れているのだ。
立ち去るクラウンの後姿を見て、ダークライは結局はぐらかされてしまったんだと思った。クラウンが、何か自分の、自分の弟子の仕事ぶりに満足できない理由があるのは確かだが、結局それが何だかは分からずじまいだ。
そして、最後の「続けたかったから」という言葉。ダークライにはそれが、しつこい質問をあしらう為だけのものと分かっていたが、それでもなぜかあの言葉が疑問の中心を捉えているような気がしてならなかった。クラウンは悪夢屋の仕事に誇りを持っている。クラウンは悪夢屋を自分の意志で続けている。
その事実にダークライは、ただ漠然とした疑問に対する、ただ漠然とした解答を得られた、そんな気がしていた。
今、目の前にいるジュペッタもそうだ。虐待を受けながらも、「好きでいたい」その意志で今でもこの男についている。
俺は悔しくなった。外で俺の仕事を待っているマヌケも、目の前のガキも、みんな意志を持っている。なのに俺は……俺には、何もない。
いや、あるはずだ。しかし、今は見失っている。考えろ。思い出すんだ。俺の意志。
――悪夢屋を続けること?
いや、さっきのヨノワールの話を聞いて、もう俺の中に悪夢屋への未練はない。悪夢屋なんてもうどうでもいい。
――人間を知ること?
そもそもの俺の目的。まだまだ俺は人間を理解しきれていない。命の恩人は悪人なのか、いつか必ず突き止めるつもりだ。……だが、それも今はどうでもいい。
――クラウンに会う。
これだ。これしかない。何が何でも俺はクラウンとまた会って話さなければならない。
そしてそのためには仕事を続けるしかない。あのキリキザンから居場所を聞き出せる可能性はわずかだが、それでも俺は諦めない。どんな手を尽くしてでも、俺はクラウンに会う。
「分かった。つまらないこと聞いて悪かったな。それじゃ、仕事を始めることにしよう」ダークライが言った。
「えっ?」ジュペッタが少し驚いたかのように声を出す。
「何が、『えっ』なんだ?」
「だって……ダークライさんが良夢って……。それに、ダークライさんは『悪夢屋』じゃなかったんですか?」
どうやらこのジュペッタは幼いわりに頭の回転が速いようだ。しかもどうやら、ダークライの能力のことについても知っているらしい。
「今は違う。今夜俺はこの男に良夢を見せて幸せにしにここへやってきた。最初に言っただろうが。『ナイトメア』のことも心配要らない。さ、もう夜も遅い。お前は早く寝な」
ダークライがそう諭すと、ジュペッタは少しむっとした様子で目を細めた。
「嫌です。僕がこの良夢を依頼したんだ。ケンがちゃんと良夢を見れたか確かめたいんです。それに、僕の特性は不眠です。生まれたときから寝たことなんてありません!」
「気になる気持ちは分かる。だが、俺は仕事中回りに誰もいて欲しくないんだ。気が散るからな。ましてやお前はこの仕事の依頼人だ。頼むから、向こうへ行っていてくれ」
腰を低めて頼み込むダークライを見て、ジュペッタはしばらく思案していた。
ダークライが悪いポケモンでないことは、なんとなく分かった。だが、今一つ信用しきれない。元は人間を苦しめる仕事をしていたというし、そもそも、彼は“ダークライ”だ。ダークライといえば、大昔からたくさんの人を悪夢で苦しめてきたポケモンだ。
「それじゃ……一つお願いがあります」
ジュペッタがダークライを見上げている。その目はまっすぐダークライを捉えている。
「なんだ?」
「ケンに見せる夢は、山登りの夢にしてください」
「夢の内容について注文は受け付けていない。この男に見せる良夢は、“ケン”が求めている夢だ」ダークライは断る。
「ケンが求める夢は、絶対山登りの夢です!」ジュペッタがもどかしげに言う。
「なら構わないじゃないか。お前に言われるまでもなく、俺はこの男に山登りの夢を見せることになる」
「うぅー……だからそうじゃなくて……ケンの見たい夢は絶対山登りの夢なんだけど、もし……万が一……ホントはそんな可能性ちっともないんだけど、山登り以外のことが……もし……そうだったら……うっ……うわぁーーん」
言葉にならない不安がジュペッタの中で涙とともに爆発しかけていた。
ケンはあのテンガン山での遭難以来人が変わってしまった。時々短気になるとこもあったけど、僕にだけはいつでも優しかったケンが、毎日のように僕のことを叩いたり罵ったりするようになってしまった。何より山に登らなくなってしまった。
遭難の体験はケンに想像を絶するトラウマを植え付けてしまった。今のケンは大好きな山登りへの渇望と恐怖で頭の中がぐちゃぐちゃになっている。でも、それでも僕は信じている。
ケンはまだ山登りが大好きだ。それだけは変わっていない。あの時のケンはまだここにいる。
「ははっ、ジュペ! 落っこちるなよ!」
鋼鉄島からミオシティまで戻る船の中のことだ。一際大きく船が大きく揺れて、ケンがジュペッタに言った。
元から船酔いに弱かったのもあるが、予想外に険しかった鋼鉄島探索の疲労もあって、ジュペッタは完全にダウンしていた。ケンは潮風に当てとけばそのうち良くなるだろうと、あえてモンスターボールに戻そうとはしなかった。ジュペッタにしてみれば、ボールの中の方がよほど揺れも少なく、酔いもさめやすいだろうにと思っていたが、我慢してデッキの手すりにしがみついていた。
それにジュペッタにはポリシーがあった。それは、山登りとはその準備から出発、山を登り宿に帰ってくるまでと考え、それまではどんな事があってもケンの傍を離れないことだ。だからどちらにせよジュペッタにボールに入る気はなかった。そのことは、ケンも分かっている。
「船長!!」ケンが突然声を張り上げる。船のエンジン音と波を掻き分ける音に負けないようにだ。
「なんだぁ!?」船長が答える。
「あの島はなんですかー?」ケンが今しがた離れた鋼鉄島から東に少し外れたところにある二つの島を指差し聞いた。
「……別になんでもありゃせんよ! ただの孤島じゃー」
「無人島なんですかー?」
「……そうじゃ」
「今度連れてってくださいよー!」
ケンは船長の言うことを聞いていない。今さっき鋼鉄島をめぐってきたばかりだと言うのに、もうすでにあの島への興味でいっぱいだ。
「行っても何もないぞー! 野っぱらが広がってるだけじゃ、行くだけ損じゃぞ!」
「見てみたいんです! お願いします!」
必死に頼み込むケンを見て、船長は困ったように顔をしかめると、エンジンを切り船を停止させた。
「……船長?」
なぜか突然船を止めた船長にケンが怪訝そうに声をかける。
「悪いがあの島へは行けない。お前さんも行かんほうがええ」
「どうしてです……?」
「あっちの島には夢の神様、あっちの島には夢の悪魔が住んでいる……。下手に近づくと、恐ろしい悪夢を見ることになるんじゃ」
ここまで聞いたケンは急に気が抜けた。逞しい海の男が嫌がる程のことだから、どれほど恐ろしい事でもあるのかと思ったら、ただの迷信ではないか。
「はっはっ! 船長でも神様の祟りなんて、迷信を信じてるんですね! あはは」
「バカモン! これは迷信でもなんでもない! 本当のことじゃ」
すっかり調子づいたケンに、船長が憤慨する。
「正確に言うなら、夢の神様とはあの島に長いこと住んでいるクレセリアのことで、悪魔とはダークライのことでな、下手に近づけばどうなるか……」
「で、でも、神様って言っても、所詮ポケモンなんでしょ? なら、大丈夫! ポケモンなら俺がちゃちゃっとやっつけてやるから! だから、船長頼みますよぉー!」ケンは余裕たっぷりに言って、また船長に頼み込む。
「まったく……これだから若いもんは……。それじゃ、お前に一つ昔話をしてやろう。なぁに、長い話じゃない。昔、実際にあった話じゃ。ウチの街に巨大なポケモンハンター組織が巣食っていた時期があってな……――」
ここまで思い出してジュペッタは思考を止めた。その先は思い出したくない。船長の話はそれはそれは恐ろしい出来事だった。とにかくその話を聞いたケンは心底震え上がっていた。いくら悪人達に起こった事とはいえ、悲惨すぎる彼らの末路にケンはいつもの元気を失いしばらく青い顔してうずくまっていた。
しかし、ケンは結局あの二つの島へ向かって行った。
船長が最後の最後まで渋っていたのを覚えている。それでもケンは何度も何度も頼み込んで、やっと連れて行ってもらえるよう了解をとった。
たぶん、ケンにとってあの船長の話は怖さだけじゃなくて、知らないものへの冒険心を駆り立てるものだったんだと思う。
ケンはそういう奴なんだ。
知らないことを知らないままにしておけない。知らないことは自分の足を使って、目で見て、耳で聞いて、肌で感じないと気がすまない、そういう奴なんだ。
ジュペッタは目の前で深い眠りの中にいる親友を見た。その眠りはよっぽど深いようで身じろぎ一つしない。一瞬、もしかしたらもう二度と目を覚まさないのではと思ってしまいそうになるほどだ。
それでもジュペッタは信じていた。ケンはきっと目を覚ます。
「泣くな! コイツが目を覚ます」ダークライが慌てて言う。
「うっ……」目に涙をいっぱいにためてジュペッタがこらえる。
「どういう事情があるか知らないが、そんなに山登りの夢がいいならそのようにしよう」
「えっ? いいの?」
「特別だ。そもそもこれはお前からの依頼だし、俺の仕事は依頼主の希望を叶えることでもあるからな」
「ありがとうございます!」心からほっとしたという様子でジュペッタが言う。
普段ならダークライが他人の希望に合わせて仕事を左右することは絶対にない。今回ジュペッタ希望の通りにしたのは、ダークライはすでに仕事に対するモチベーションを失っていたからだ。依頼主の言うとおりにして、例えそれで失敗しても知ったことではないし、希望の夢を探る手間が省けて楽だと思ったのだ。
「それじゃそろそろ始める。お前は……」
「分かってます。向こうで待ってます」ジュペッタが言う。
「助かる」
ジュペッタの影が見えなくなるのを確認すると、ダークライは床に寝転がったままの男の寝相を整え、夢の中へ潜った。
良夢、第二の仕事開始だ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
吹雪、吹雪、吹雪。あたりは吹き荒れる雪に覆われ何も見えない。
俺は前を“見上げて”みた。雪の中に黄色い靄が人の形を作っている。あの男だ。
俺は初めの夢と同じように別のポケモンになっていた。雪の上30センチほど上を浮かびつつ、強い風にしょっちゅう吹き飛ばされそうになりながら男の後ろを必死について行っていた。
今、俺はジュペッタになっている。
この状況は全く予想外だった。この男は俺が用意する前から山登りの夢を見ていたのだ。しかもこの男、間違いなく遭難している。
良夢とは対照的なこの状況をまず打開することから始める必要があった。俺は立ち止まり空を見上げた。
そして空が晴れて……いくはずだった。しかし、なかなか晴れていかない。雪の量が多少減り、風が収まってはきたものの相変わらずの吹雪だ。
すべてこの男のせいだった。めずらしいことではない。夢というものが見る者の心を表す以上、強すぎる「想い」を持った夢はなかなか左右しづらいのだ。
ダークライはその後も何度か力を振り絞り、夢の様相を徐々に変えていった。おかげでやっと自分の周り半径5メートルほどの視界が保たれるようになったが、それでも吹雪は止まらない。これ以上はどれだけやっても変わらないようだ。
はっきり言って良夢とは程遠い。雪山で遭難だなんて絶望的すぎる。
しかし、ダークライはこのまま続けることにした。あのジュペッタに頼まれたことでもあるし、何よりこの状況が面白い。
あのジュペッタはこの男にとって山登りこそが幸せだと、むしろそうであって欲しいと訴えていた。だが、明らかにそうではない。それどころかこれではまるで悪夢だ。
どのような事情があったのか正確には分からないが、おそらくこの男は遭難を経験している。それも一歩間違えれば死ぬほどの遭難事故だ。その時の恐怖が今まさに夢に現れている。
ザクザクザク。男は進む。足音が聞こえるのは、俺が聞いているから。現実の猛吹雪では、風の音にまぎれて到底聞こえないような音も、夢の中では関係ない。
ダークライは考えた。このままの夢で、この状況を悪夢から良夢にする方法は一つだけ。この男を山頂まで連れて行くしかない。
「ふぅむ……」
本来ならここで吹雪を晴らし、山頂までの道を整えてまっすぐ移動出来るようにするところだが、今回はそれが出来ない。忌々しいが、大きな障害を避けられるように援助するしか方法がない。
黙々と先を進むうち、男がなにやらつぶやいているのに気付いた。
「ジュ……ぺ、ジュペ……」
いや、もしかしたらさっきからずっとつぶやいていたのかもしれない。男はすぐ真後ろをついて行っている自分(ジュペッタ)を呼んでいた。
俺は男の目の前に出てみた。が、つぶやきはやまない。男には俺が見えてないのだ。
目指すべきゴールも、相棒も見失いこの男は盲目的に歩き続けている。まったく不幸な男だ。
――不幸。
思えば今日俺はこの不幸な男を幸せにするために来たのだった。
忘れかけていた。今の俺にとって大切なのはクラウンにまた会うこと。それだけだ。
しかし、クラウンに会うにはキリキザンに居場所を聞かなければならない。奴を連れ出して拷問したいとこだが、居場所も分からず、キリキザンの勢力も強大で、ほぼ不可能だ。
こんな人間のことなんて、どうでもいい。でも、俺はクラウンに会わなければならない。そのためにはこの男をこの悪夢から救いだし、幸せにしてやらねばならない。
俺は覚悟を決めた。
相変わらず吹雪は止まない。男の、かつての相棒を呼び続けるつぶやきも止まない。
「おい、しっかりしろっ!」
夢の中で物理法則は通用しない。声が届くかは、聞く者次第だ。大きな声でも聞く者が聞こうとしなければ聞こえないし、逆に聞こうとしていればどんな小さな声でも届く。
残念ながら俺の声はこの男に届いていないようだった。耳元に寄り、何度大声で名前を呼んでも男は変わらずうつろな目をきょろきょろ動かして、「ジュペ、ジュペ」と“俺”を探している。
呼んでも仕方ないと分かっていたが、それでもひたすらケンに声をかけ続けた。必死だった。
なんだかあのジュペッタの気持ちがわかる気がする。どれだけ叫んでもケンに届かない。自分を見てくれない。こんなに近くにいるのに……。
でも、同じなのはそれだけじゃない。再び深く息を吸い込んだ。
諦めない。声が届くまで、諦めない。
今の俺は、あのジュペッタそのものだった。
ところが、次にまたケンを呼ぶことは叶わなかった。
――ゴゴゴゴゴォーー!
吹雪で薄ぼんやりとした視界が今、激しく揺らめいている。雪崩だ!
大量の雪の塊がこちらめがけて猛スピードで迫ってくる。
――マズイ!
それは雪崩のことではなかった。別にこの雪崩は所詮夢だ。幻だ。飲み込まれたところでどうということはない。
しかし、それは私にとってのみの話だ。
ケンの顔は恐怖に歪み、どうにも抗い難い危機に対し、固く目をつむっている。
それと同時に世界がぐにゃりと“捻じれ”た。目をつむって立ちすくんでいたケンの体がゆっくりと後ろへ向けて倒れていく。異様にゆっくりと、まるで無重力の中にいるかのように――。
これは悪夢屋の中で俗に『強制終了』と呼ばれている現象だ。悪夢の中で耐えがたい恐怖を受けた時に、極まれにそれを知っている人間だけが行う自己防衛の手段である。
これは名前の通り夢を強制終了させる。夢の中で目をつむり、目が覚めることだけをひたすら思う。そうすると悪夢は終わり、目が覚める。
ケンがこのことを知っていたのは予想外だった。だが今はそんなことを言っている場合ではない。このままでは夢が終わる。
悪夢屋にとって最悪の事態が、終わった夢に取り残されることだ。終わった夢は、虚無だ。それは経験した者にしかわからない、本物の地獄だ。何も感じず、何もできず、痛みと恐怖が恋しくなる……そんな世界に閉じ込められることになる。次に対象が眠り、夢を見るまで、決して抜け出すことはできない。
そして何より、今のダークライにはそんな時間は残っていない。次の夢まで待てば、残り一つの依頼は出来ない。そうなれば、キリキザンにクラウンの居場所を聞けなくなる。
ダークライは目の前の雪崩を消そうと全力を振り絞った。その間もケンの体はゆっくりと倒れていく。世界は捻じれていく。終了へ向かっていく……。
――止まった!
目がかすむ。あらん限りの力を使い雪崩を消したダークライはその場に崩れ落ちた。しかしまだ強制終了は止まらない。膝をつき、上体を片手で辛うじて支えると再び夢の中へ引きずり込むよう穴を作った。
ケンの体があと数ミリで地面に着くという瞬間に、ぽっかりと大きな穴が広がった。ケンはその中に沈み込んでいく……。
――ふぅ……。
これでもう安心だ。ケンはさらに深い眠りに入った。明日は寝坊することになるだろうが、今すぐ目を覚ますことは無くなった。
目の前でケンが目を覚ましつつある。しかし、ここはまだ夢の中。これでさっきまでのケンは、いわゆる「夢の中の夢」を見ていたことになる。
あたりの様子はさっきまでと何も変わらない。強い風、大量の雪。むしろさっきよりも強まってしまっているように感じる。さっきので体力を使いすぎてしまったからだ。
――ジュ……ペ、どこだ、ジュペ……。
ケンはまた歩き出した。そしてまた俺を呼んでいる。
『ケンの求める夢は、絶対山登りの夢です!』
ジュペッタはそう言っていた。きっとそれは本当のことなんだろう。でも、同時にそれは間違っている。事実、この男は今不幸のどん底にいる。
――では、いったい何がこいつの幸せなんだ?
目の前では、ケンが道なき道を盲目的に歩き続けている。自分が今山を登っているのか、下っているのかも分かっていないだろう。ただ一人、見失った相棒のことを呼びながら歩き続けている。
俺にはどうしてあげたらいいのか、どうやったらケンを幸せにできるのか分からない。これまでとにかくがむしゃらにケンの名前を呼び続けてきた。いつか気が付いてくれることを信じて――でも、それだけじゃ、届かない。
男の後ろをずっと着いていくだけだったジュペッタが突然、男の背中の高さまで浮かび上がった。そして、短い腕を目一杯伸ばし、肩に触れた。
『ケン、僕はここにいるよ。いつもと同じ。ケンが頂上に着いて、山を下りて帰るまで、僕はずっとケンのそばにいるよ……』
ささやくような声がこぼれ出た。
次の瞬間、目の前の景色が一変した。
突然吹雪はやみ、太陽が見えだした。足元の雪はぐっと減り、ところどころ地面が見える。
「わっ、あぁー……」俺はその変化よりなにより、見下ろした景色に圧倒された。
広がる雲海。自分よりもずっと下の方に雲が広がっている。そして雲の隙間からはミニチュアサイズの街や川が見える。視線を遠くにやれば、はるか向こうに地平線がまっすぐ伸びているのが分かる。
――なんて美しいんだ……。
これはケンの記憶。高いところからの景色というのは移動の間に何度も見たことがあるが、これは別格に美しかった。ケンのイメージが作り出した景色だから、その印象まで反映されているのだ。
「ジュペ!」
後ろから声がした。さっきまでの弱弱しい呼び声じゃない、ケンの声。
ケンは嬉しそうだった。顔いっぱいに幸せがあふれていた。
その顔を見て、俺はケンを幸せにできたと分かった。
――ふぅ……。
これで一安心。俺は気が抜けてその場にへたり込んでしまった。
――ドドドドドドーー
地響きがした。
――えっ!?
意味が分からない。
――ミシミシミシミシ……。
ケンの足元の地面が割れていく。
――ケン?
ケンが見えなくなった。
――どうして?
見えているものの理解が追いつかない。
ケンは暗い割れ目に落ちていった。
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第二の良夢、失敗。
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やっとここまで。
なかなか終わらない
ハッ! もしやこれが悪夢では……!
……違いますね。また頑張ります