マサラのポケモン図書館 カフェラウンジ
このフォームからは投稿できません。
name
e-mail
url
subject
comment

[新規順タイトル表示] [ツリー表示] [新着順記事] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

  [No.3796] 笑顔でさようならを 投稿者:GPS   投稿日:2015/08/04(Tue) 20:40:03   35clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

空腹に耐えかねて目を覚ますと、いつの間にか日が沈んでいたらしい空は紫色であった。沈んでいた、とわかったのは開け放した窓の外から聞こえてきた豆腐売りのラッパの音のせいである。間の抜けた音色が耳に障る。ヤドンだって、もう少し気合の入った声で鳴くに違いあるまい。
今日も自主休講を決め込んでしまったな、と思った数秒後、大学はとうに夏休みに入っていることを思い出す。わざわざ与えられなくとも日頃から積極的休暇を取っている僕にはいまいち実感がわかないが、今は一部の熱心な研究学生とそれに付き合わされる哀れな教員を除けば概ね、長期休暇の緩い空気に身を任せているということだ。もはや遠くなった記憶を呼び起こせば、なるほど確かに、この世の辛苦を掻き集めたかのような心地で受けた試験の数々が思い出される。後は野となれ山となれ、しかし単位はCでも良いから我が手の中に、などと願ったが最後、記憶から消すよう心がけたものだからすっかり忘れていた。

兎にも角にも夏休み、幾ら惰眠を貪っても誰も咎める者のいない時期である。別に夏休みでなくとも、咎める者がいる時であっても僕は構わず惰眠を貪っているのだが、やはり心持ちというものがあるのだ。とりあえず死なない程度に食事をとらなくては、と汗だくの身体を起こす。幾ら汗臭くとも誰にも咎められないのは素晴らしい。
狭い台所の物入れを漁る。使い終わった食器やら捨て忘れた生ゴミやらが突っ込んである、所々が凹んだシンクで蠢いている紫の軟体についた二つの目玉、ガサゴソと音を立てる僕を迷惑そうに睨んだけれども全く気にしない。この、シンクの汚れなのか区別がつかないベトベターは数ヶ月前から僕の部屋に勝手に住み着いた居候である。日々貧困に喘ぐ僕はポケモンなどという金のかかるものを持っていないし、仮に持つとしてももう少し良い匂いのものを選ぶと思う。マサラの実家にいるウインディを連れてくればもう少し部屋が華やぐのだろうが、タマムシはマサラと違って土地が高く、六畳一間が精一杯の僕がウインディなどと同居した日には圧死も免れないと予想するのは容易であった。

かくして僕は、何を考えているのかようわからん、悪臭スライムマンと今日も蜜月なのだ。どうせ居座られるならばもっといい感じのポケモンが来ないかとも思うのだが、窓から入り込んだニャースは部屋の散らかり具合を一瞥すると再び夜闇に消えていくし、一度は住み着いたイトマルも巣だけ残して去ってしまった。恐らくはベトベターよりも強い我が部屋の臭いなどのせいだと思うが、僕は来るもの拒まず去るもの追わずの精神である。適応出来なかった彼らのことは気にしないことにした。
やっと見つけたカップ焼きそばは賞味期限が三ヶ月ほど過ぎていたがそれも気にしない。お湯を沸かそうにもヤカンがベトベターの枕になっているので、そのまま食べることにした。空腹は最高のスパイスとはよく言ったもので、マサラの母親が見たら激昂しそうなこの食事もなかなかに美味しいものである。バリバリと、微妙に湿気った麺を齧りながら一人の食事を楽しむ。シンクのベトベターが無意味に蠢くから正確には一人では無いのだが、そういうとこには触れない方向で僕は生きているのだ。

「おい三下」

その、孤高にして至高の一人の時間を早速壊す奴がいた。何だコンチクショウ、と乾いた口で麺を飲み込みながら思いながら、邪魔者の選択肢を考える。僕の部屋には鍵をかけていないからきっと勝手に入ってきたのだろうけど、こんな見るからに盗る物ありません、と言っているようなボロアパートに踏み込む強盗などはいないから、大学のアホ共に違いない。
実際、僕のことを馴れ馴れしく三下と呼び、尚且つ部屋にやってくるような仲間内は大体推定出来る。山本は夏休みに入ったらすぐにヒワダに帰ったらしいし、大崎はバイトがあるとか無いとか言っていたから、きっと森田のバカだろう。声もそんな感じがした。僕はカップ麺から顔を上げ、恨み言の一つでも言ってやろうと、乾麺でジャリジャリした口を開いた。

「何者だコンチクショウ」

しかし口から出たのはそんな言葉と、唾液にまみれた麺の欠片であった。無理もないと思う。しわくちゃのTシャツにジーンズ姿の野郎がいると想定したはずの視界に映っていたのは、宙に浮かぶカボチャだったのだ。

「何者だコンチクショウ」
「うるさい、これ以上焼きそばを飛ばすんじゃない」
「これは失敬」

もう一度言ってしまった僕に、空飛ぶカボチャ野郎こと、バケッチャとかいうポケモンは吐き捨てるように呟いた。
憮然とした声の森田が言った。

「とりあえず名を名乗れよ」

阿呆面をぷるぷると振って、顔なんだか身体なんだかわからないが、顔らしきところについた焼きそばを振り払っているバケッチャに尋ねる。僕の名前を知っているのだから、こいつの名前も聞いてやらないと不公平だ。人の言葉を喋るバケッチャ、というかポケモン全般に渡ってそんな話は現実に聞いたことがないが、今こうして存在しているのだから騒ぎ立てても仕方ない。無駄におののきびっくりしたところで、散らかった部屋がさらに散らかり、ついでに僕が打ち身などをするだけである。

「俺だよ俺」
「なんだ、ミックスオレは高くて買えないから勘弁してくれ」
「ふざけるな。おいしいみずすらケチって人にたかるクセして。俺だよ、森田だ」

呆れた口調で、バケッチャはそんなことを言った。名乗られたのは我が友人にしてタマ大文学部の誇る駄目学生である。ちなみに森田は「駄目学生はお前だ」などと僕のことをなじるが、僕はあえてそれを否定しようという気概は無い。要するに五十歩百歩であり、要するに僕は面倒なのである。

「はぁ。それは奇っ怪なこった」
「てめぇ。信じてないな。俺は森田なんだよ、正確にはバケッチャの中に俺の魂が入ってる状態だが、ともかく俺は俺だ。わかれ」
「無茶言いなさんな」

僕は思ったことを正直に告げた。目にうるさいオレンジ色のカボチャ野郎が言うことはちっとも理解出来なかったため、僕はカップ麺を食べる作業に戻ることにする。放っておけば、このわけわからんちんなカボチャくんもおうちか八百屋へ帰るだろう。どうぞ、温かいご家庭の夏野菜カレーにでもなってくれたまえ、といった気持ちである。

「この野郎、こんな非常事態にカップ焼きそばなんぞ食いやがって。というか酷い食い方だな。せめてソースを水で溶くくらいはしろ」
「大きなお世話だ。この食べ方こそが至高なのだ。ほっといてくれ」
「相変わらず貧乏臭い奴め。そんなことはどうでもいい、いいから話を聞け。俺は死んだんだ。死んで、身体から抜けてしまった魂をこいつに運んでもらってるんだ」
「はぁ、はぁ。それは大儀なことであるな」
「真面目に聞こうという気はないのか。親友が死んだんだぞ。もっと悲しめ」
「だっていきなり言われても信じらんないんだもん。つーか死んだだって? この野郎、僕の貸した五千円はどうしてくれる」
「その点につきましては、誠に申し訳ございませぬな」
カップ焼きそばを放り出してバケッチャに掴みかかろうとした僕の腕は、腹立たしいことに機敏な動きをしたカボチャ野郎にかわされた。
「なるほど、この苛立たせる才能に関しては右に出ない感じ、確かに森田の魂だな。よし信じる」
「ふざけんな。お前が遥か右手にいるから安心しろ。一生かかっても敵うまい。死んだし」
「しかしなぁ。本当に森田なのかお前」
正直話がややこしいから面倒だったのだけど、聞かないのも失礼だと思ったので一応聞いてやった。
「なんだ、俺じゃ悪いか」
「良いか悪いかで言ったら、まあ、悪いかな」
「こんちくしょうめ。言わせておけばキリがない。いいから信じろ、このバケッチャは俺の育ててたバケッチャじゃないか」

森田は単位も頭も気遣いも可愛げも、その他諸々必要なものは何ひとつ足りない男であり、同時に色々と足りない部分全てを体毛へ注ぎ込んだと思われる男でもあった。下手すれば教授と見間違われる髭面のこいつがどうしてバケッチャなどという、似つかわしくないポケモンを連れているのかというと理由は明瞭で、かわいいポケモンを連れていればかわいいオンナノコと仲良くなれるのではないかという浅はかな考えからである。
非常に馬鹿らしい考えだが、その結果もまた非常に馬鹿らしいものであった。リングマにも似た剛毛の大男が連れるバケッチャは、愛くるしいポケモンではなく、腹が減った時の非常食としか見えないのだ。実際、僕はこいつを非常食と呼んでやまない。そう見えるのだから仕方ないだろう。バケッチャだって、可憐な乙女の隣にいればプリチーなマスコットキャラとも見えるナリをしているのに、森田なんぞの隣にいるせいで間抜けな非常食と成り果てる羽目になるだなんて哀れなヤツである。
ともあれ、オレンジ色をしたこのマヌケ面は、確かに森田のバケッチャと見て取れた。なるほど、こいつは死んで、近くにいたバケッチャに魂とやらを乗っけてここまで来たというわけか。さっぱりわからない。

「しかし面倒だからわかったことにしておこう。そもそも、死んだからと言ってなんで僕のところに来るんだ。五千円を返してくれるわけでもないのに」
「そればっかりだな。違う、頼みがあるんだ。俺の親だの妹だの親戚だのが来る前にお前、頼む、俺の部屋に行ってアレとかソレとかを回収してきてくれ」
「やだよ。こんなクソ暑い中、お前の家まで何分かかると思ってるのさ」
「十分もかからないだろ。頼むって。俺の部屋にあるやつ全部あげるからさ」
「僕おとなのおねえさんとかOLとか別に好みじゃないし」
「お前ポケモンごっこ派だもんな、マニアックなヤツ!」
「大体、無理だよ。何かの拍子に見つかりでもしたらタダじゃ済まないだろうし、お前の同意が得られないんだから完全にコソ泥じゃん」
「それもそうか。辛いなぁ」

森田はしょげた声で言った。しかしあくまでそこにいるのはマヌケ面のバケッチャであり、スピーカーのようにして森田の耳障りな声が聞こえてくるのだから、気味が悪くて仕方ない。これならば、ベトベターが意味も無く笑いを浮かべながらシンクでねちゃねちゃしてる音の方がまだマシというものである。
せめて掻き消してやれとばかりに焼きそばをバリバリ食ってやったのだが、森田は気にもしない様子で泣き言を口にしている。せめてパソコンは破壊したいだの携帯も爆発させたいだのとうるさいが、カビゴンのいびきみたいな声で涙ぐまれても気色悪いだけなので静かにしてほしかった。

「というか、森田、お前なんで死んじゃったわけ」
聞くに堪えない涙声をやめさせるためにそう聞いてみると、「お前はニュースも把握してないのか」と呆れたような返事をされた。「仕方ないじゃないか、さっき起きたばっかりなんだから」「しょうのないヤツ」などと言い合いながら携帯でツイッターを開く。この部屋は陽当たりと耐震強度と見た目に加えて電波の届きもよろしくないため、読み込みにはかなり時間がかかった。手持ち無沙汰な沈黙がやや続き、やっとこさ画面が動くようになる。
「ああ、あった。すごい話題になってる。ポケモンリーグで飛び降りだと。何、飛び降りなんぞしたのか森田。迷惑な奴だな」
「違う。俺はそんな血気盛んな真似はしない。記事をよく読め」
「なになに、飛び降りした本人は命に別状無し。着地点に偶然いて下敷きになった男が即死。なるほど、これがお前か森田。間抜けな奴だな」
「それは俺もそう思うよ。しかし不運だ。どうしようもあるまい」
「はは、推定四十代だとよ。身元の確認には時間がかかるねこりゃ。ははは」
「笑うんじゃない。見た目がこんなんなのも不運の一種だ。どうしようもあるまい」
「それにしてもお前、なんでポケモンリーグなんぞ行ったんだ。金も無いくせに」
「金が無いからだ。リーグの設営とか屋台とか、日雇いのバイトを渡り歩いてたんだ」
「なる」
「死んだ時もバイト中だったんだ。野外テントを片付けててな、鉄筋抱えてたせいで上から降ってくる野郎から逃げ遅れた。危ない、みたいな叫び声は聞こえたんだけどなぁ」
「なるなる」

適当になるなる言って相槌を打ちながら、関係ツイートをひたすら見ていくと、飛び降りた奴が誰なのかということがもう特定されていた。末恐ろしい世の中である。ツイッターのアカウントも平然と晒されているが、こういうことを出来る人たちにはエスパー能力でも潜在しているのだろうか。

「というか、待て。この飛び降りたって奴、リーグの準優勝者らしい」
「マジかよ。そんな勝ち組がなんで自殺なんかするんだ」
「一回負けたからじゃないかな。ほら、決勝戦終わった後の呟き」

見ているだけで気落ちする反面、どうにも全身がむずがゆくなってくるような、飛び降り男のアカウントをバケッチャの方に向ける。「げげ」と森田が声をあげた。
自他共に対する恨みつらみ、誰に向けているのかすらわからない泣き言、繰り返される『もう死んじゃおう』。負け組どころかゴミ同然、というかゴミと同居しているような僕から言わせれば、なんで決勝で負けたくらいでそんなに落ち込むんだ、と叱咤したくもなるけれど、エリートにはエリートにしかわからぬ苦しみがあるのだろう。そこに口出しする権利は僕には無い。

「にしても、実際死んじゃったのは自分じゃなくて、ゴミと同居してるヒゲ男だからな。運がいいんだか悪いんだかわからん奴だ」
「何を言うか。こいつ、元々死ぬ気なんかなかったに違いないさ」
「でもお前に当たらなかったら普通に死ぬでしょ」

森田がなんだか怒り出したので、僕は生返事をする。

「確かに飛び降りたのは本当だけど、それは気の迷いだろ。頭に血でも昇ってたんだ、こいつ、ただ目立ちたかっただけなんだよ。自殺予告までしてさ」
「うるさいな。静かにしたまえ。なんでそんなに断言するんだ」
「だってこの野郎、わざわざカイリューに空飛ばしてその上から飛び降りたんだぞ」
「ふーん良かったじゃん生き延びて」

掌を返しつつタイムラインを眺めていると、なるほどそんな旨を書いているツイートも多く見つかった。「本当に飛び降りたいんならそんな目立ったマネしないで高いビルでも行きゃよかったんだ」森田がぼやく。彼の言うことはもっともだし、もしかすると飛び降りたのではなく、飛び降りる感を出していたらうっかり足を滑らせたのかもしれないな、とすら僕は思ったが流石にそれは口に出さないでおいた。どちらにせよ、迷惑な話ではある。そのカイリューが決勝戦でボロ負けしたのではなく、大活躍したらしいというのが、また何とも言えないきもちにさせてくるものである。

「良いものか。こいつもう駄目だぞ、死ななかっただけで大怪我だろうし、俺が死んだからかなり叩かれるだろうからな。準優勝レベルまで戻れるかって話だ」
「飛び降りれたのも最後の晴れ舞台かぁ。まったく、お前が死ぬから」
「俺も余計なことをしたものだよなぁ」
「でも、命落としたおかげで単位落とさなくて済んだし」
「こんにゃろう。上手いことでも言ったつもりか。大体、卒業出来ないことには変わりあるまいよ」
「それもそうだ。つくづくどうしようもないやつ」

僕の言葉に、森田は「まったくだ」と吐き捨てるみたいにして言った。飛び降り男の末路については自業自得であるため追及しないとして、森田の単位はそれはそれで自業自得の話である。追及してもしょうがないことばかりだ。硬い面にかじりつく。粉末のままのソースが上顎に張り付いた。

「しかしもう終わったものは終わったんだ。グッド・バイだ」
「何ぞそれ」
「そういう話があるんだよ。いたわるような、あやまるような、甘ったるい囁きでグッド・バイって言うんだ。一度やってみたかった」
「お前に囁かれてもゾッとするだけじゃないか」

ぺっぺっ、と唾を飛ばして僕は森田を追い払う真似をした。それにしても、此の期に及んで『やってみたかった』とはなかなかに前向きな発言である。そのまま前だけ見続けて落とし穴にまんまと引っかかりそうな類の明るさだ。要するに馬鹿である。

「そういうものは、もっともったいぶってもいいんじゃないかと僕は思うよ」
「いいんだよ。別に大したことじゃないんだから。明るく、軽快に。そっちの方がよっぽどいい」
「阿呆らし」
「阿呆で結構。サヨナラは笑顔で言う主義だ」
「単位には未練タラタラだったくせによく言うや」
「それに関してはサヨナラを言う気が無いからな」

得意げに言うことではない。こんなやつにはサヨナラを言われる以前に、付き合いを持ちたくないと単位だって思ってるに違いないだろう。

「そうだ、お前バケッチャの世話頼むぞ」
「何をおっしゃる。なんで僕がお前の非常食の世話なんか焼かないといけないんだ」
「非常食じゃない。よく考えろ、かわいそうなのはこいつだぞ。こんな劣悪な部屋に住まわされることになるだなんて」
「お前の部屋だって似たようなもんじゃん。絶対やだ」

森田の部屋はゴミで出来ていて、多分この世で一番強力な悪臭が常に充満している。その強さたるや、臭いにつられてやってきたドガースやマタドガスが慌てて逃げ帰っていくほどだ。ベトベターが住んでいるだけ僕の部屋の方がまだ許される部類である。
しかしそれはそれ、これはこれであり、なぜ僕がこの浮かれポンチオレンジ野郎を育てなくてはならないのかというのは別の問題だ。床をバンバン叩いて抗議してみたが、森田は気にも留めない様子である。自分勝手な男なのだ。

「文句なら飛び降りた準優勝に言うんだな。あいつがあんなことしなけりゃこんなことにはならなかった」
「お前がリーグのバイトなんかするからダメなんだ。チクショウ」
「まあ落ち着け。所詮そういうものなんだ。俺たちみたいな世界にとっての脇役、エキストラもどきの下々は、ああいう主役級に振り回されるしかないんだよ。諦めろ」
「主役、って言ってやらないところにお前の意地の悪さがよく出ているな。こんな時だけ文学青年ぶるんじゃない。だいたい、どちらかというとお前の立ち位置はスタントマンだったじゃん」
「失敗したがな」

言いながらまた腹が立ってくる。脇役は主役に振り回されるしかない、という森田の言い分は概ね正しく諸手を挙げて賛同出来るところではあるが、しかし、脇役にも脇役の生活というものがある。たとえそれが、ゴミとか古本とか拾ってきた成人雑誌とかにまみれたものであったとしても、一応は立派な部屋である。世界というやつはちっともわかっていない。仕送りはすでに底をついていて、非常食の世話をする余裕など僕にはないのだ。

「かわいそうなバケッチャ。お前、変な病気なんかに罹らず強く生きるんだぞ」
「人が菌を培養してるみたいな言い方はやめるんだ」
「してんじゃん」
「してるかもしれない」
「じゃあいいってことだな」

何がいいのかよくわからないが、きっと何もよくはないと思う。窓の外から吹き込んできた生温い風が、粉末ソースとこぼれた麺のカスを飛ばしていった。飛んでいった粉微塵は、埃と混じってすぐに見えなくなる。なに、乾いているからカビる心配も腐る心配もないだろう。そういうことにしておく。
僕が麺を咀嚼する、バリバリという音だけがしばらく響く。いい加減口が渇いてきたが、水を取りに行くのが面倒だったので我慢してバリバリし続けることにした。ほっぺの内側に麺が刺さる。ムカついたので噛み締めてやった。

「どうせお前暇だろうし」

森田が腹立たしいことを言う。どうせ、とは何たることであろうか。

「僕も色々と忙しいんだよ」
「色々ってなんだ」
「色々は色々だ」
「どうせ寝たり部屋を汚したり酒を飲んだりする程度だろ。お前の色々は。それを暇というんだ」
「間違っちゃいないけど。でも、明日からバイトでも探そうかなとは思ってたんだ。それは本当だよ」

実家に帰る旅費も使い果たしたからね、と付け加えると、やめとけ、死ぬから、と森田が説得力に溢れかえった忠告をしてくれた。素直に聞いておこうと思う。旅費に関しては電話口で謝り倒すしかあるまい。

「しかしなぁ。お前、そんなに適当に生きてて虚しくならんのか」
「森田に言われたくないけどね。でもいいんだ。なるようになるさ」
「何か頑張ろうとは思わないのかい。」
「ポケモンリーグの優勝でも目指せって。ゴメンだね。そんなことしたくないもん」
「どうしようもないやつだ。安心するといえば安心する。それでこそお前だ。つくづくどうしようもないやつ」
「何とでも言え。いいんだよ。僕は適当に、主役級の人たちに振り回されながら生きてくから。誰かの害にはならないし、害になれるほどのやる気もないからね」
「そうだなぁ」

森田はそれ以上何も言わなかった。彼が黙っているので、僕はカップ焼きそばを食べる作業に戻った。口の中の水分はもはや失われ、イッシュにあるという広大な砂漠地帯もかくやという気になったが、それでも空腹は水分よりも焼きそばを求めているのだから仕方がない。バリバリというよりはもそもそという音であったが、僕はひたすら口を動かした。森田が無言なので、バックミュージックはベトベターの粘着音だけである。ベトベターだとわからなければ、美しく艶かしいシャワーズが尻尾を気怠げに揺らしている音に聞こえなくもない。所詮は想像力に帰結するのだ。

「でもねぇ、森田」

無事にカップ焼きそばを食べ終えたので、僕は息をついて声を出す。白の発泡スチロールには、僕の唾液が汗でこびりついた僅かな粉末が残っていた。指でこそぎとってなめていると、「汚いな」森田が自分を棚に上げて言った。
「なんだ」棚上げ野郎が返事をする。

「僕にとっては、この、空から飛び降りたリーグ準優勝よりも、リーグの優勝者よりも、お前の方がずっと主役みたいなヤツだったよ」
「リーグ優勝者が誰だか知ってるのか」
「いや知らんけど」
「適当なヤツだな」
「それでもそういうこと」
「そうか。悲しいヤツだなお前も」
「他でもない僕が一番そう思っているとも」
「しかしなかなか、それはそれで、楽しいものだったんだろ」
「人のト書きをとるんじゃないよ。文学部のクセしてその程度もわからないのか。そんなだから卒業出来ないんだ」
「お前も人のことは言えないだろうが」
「森田こそ、僕のことは言えまい」
「そうだな。悲しいヤツだな、俺も」
「そうとも。どうしようもなく不毛なんだ。僕たちときたら」
「一緒にすんな」
「とりあえず五千円返せ」
「来世はデボンの跡取りに生まれ変わるからそしたら返す」
「ほざけ。そうなったら五千円と言わず五億円くらいよこせ。利子だ」
「やなこった。五千円だ」
「うるせぇ。とりあえず五千円返せよ」
「うるさいのはお前だ。ばか者」
「化け物みたいなツラしてるくせに何を言うんだか。大ばか者」
「まあ、否定はしない」
「何度だって言うさ。大ばか者。この野郎め」
「うむ」
「アホ。たわけ。えーと、バカ。まぬけ。うーん、あとは何があるかな」
「語彙力の少ないヤツだな。こっちが不安になってくるわ」
「勝手に不安になってろ。ばか」
「ばかはお前だ」
「ばか。おおばか。すごいばか」
「それしか言えないのか、お前は」
「悪いか」
「いいや」
「そうだろ」
「そうだな」
「じゃあどんどん言うとも」
「そうしとけ」
「ばか野郎め」
「うるせえ」
「そうしとけと言ったのはお前だ」
「そうだったな」
「そうだったろ」


そこで森田の声が聞こえなくなった。バケッチャは何が起こったのかもわかっていないのだろう、相変わらずのアホ面を晒して浮遊している。わかっていたとしてもこのアホ面だ、そこに大差などきっとない。「このアホ面を見ているとお前をたびたび思い出す。非常に不快だ」森田はよくそんなことをのたまった。失礼な男とはあいつを指すための言葉であるに違いない。しかしアホ面であることを否定するだけの器量が僕に無いのも、悲しいことに事実であった。
アホ面が二つ、汚いシンクの汚いベトベターモ入れるならば三つ、取り残された六畳一間はやけに広いものであるとなと僕は思った。バケッチャが浮いていて、場所を取らないことを抜きにしても、この汚い部屋は僕にとっては広すぎる。精一杯散らかしてみているのだけれど、それでも尚、僕の部屋はまだまだ広い。

やはり、世界にとっての僕など無意味で無害な存在であるのだ。こんな狭い部屋一つ持て余す僕が、世界の隅っこを少しばかり占拠したところで誰が困る道理もあるまい。そうだ、誰も困らない。誰の迷惑にもならないなれないなりやしない、僕たちとはそういう存在なのだ。所詮はエキストラ以下、誰に怒られるはずも無いというのに。

バケッチャの二つの目には欠片ほどの知性も無い。ずっと見ていると阿呆が移りそう、これ以上移る阿呆も無いかもしれぬが念のため、僕はカボチャ野郎から視線を外して携帯を見てみることにする。ツイッターでは先ほど以上にリーグ飛び降り事件がホットなトレンドで、ご丁寧に現場の写真を撮って上げている猛者もいる。僕とは違って、エネルギーが有り余っている連中なのだろう。一生かけても分かり合えないと思う。
ニュースサイトでは続報を伝えていて、被害者男性の身元が確認されたと報じられていた。代理で出席票を書いてやるなど、何度か綴った文字列を目がなぞる。予想していたよりも早かった、あいつは学生証かトレーナー免許でも持っていたのだろうか。現役の学生だと判明した時の捜査員の驚きたるや計り知れ無い。

ツイッターのアプリを閉じて、代わりにあいつのラインのトーク画面を開く。一週間前に交わしたやりとりが表示された。『シンオウ神話学概論落とした』『とれる前提で話してるのおかしい』『出席しないで単位取れたら俺が神話になれたのに』『アルセウスに謝ってろ』『アルセウスの時間の無駄』『ごもっとも』まことにくだらない会話である。
ここはひとつ、僕が気の利いた言葉でも添えてくだらなさを払拭してやろうと思ったのだが、そもそも、気の利いた言葉を思いつこうとして思いつければ苦労しまい。そうだ、思いつけるはずなどないのだ。あいつはああやって言ったけれど、そうそう出来ることでもない。やはりあいつは稀代の馬鹿だ。あんな風に無責任なことを言いやがって、だから単位も取れずに人相ばかり老けていくのだ。そうだ。そうに違いない。大体、自分だって結局出来なかったクセして。

明るく、軽快に、阿呆らしく。
大したことなど無いのだから。
笑顔でさようならを。


無茶言いなさんな。


そんなメッセージを送ってやろうと思ったのだが、あいにくの電波状況のせいで『送信出来ませんでした』というエラーメッセージが表示されただけだった。全くもって間抜けな顛末である。全くもって、僕たちらしく、虚しく、馬鹿げた、酒の肴にもならないつまらん話だ。携帯をしまったポケットは、生乾きのを履いてきたせいであろう、少しばかり湿って気持ちが悪かった。
踏場もない床を踏み歩くと、足が何かを蹴る感覚がした。麻雀牌だった。あいつに負けた分の一万円を払い渋りしていることを思い出したが、何、来世に持ち越す五千円の債権が債務に変わっただけだ、さしたる差異はない。どうせ踏み倒すつもりだったのだし。

牌を放り投げてドアを開けると、夜の熱気がまとわりついた。排気ガスの臭いが漂っている。今この時間に空いている、ゴーストポケモン用のポケモンフーズを売っている店などどこにあるというのだろうか。戻って来る頃には汗だくになっているに違いない、と思った。
マヌケ面の非常食がふわふわとついてくる。髭面の大男もあんまりだが、貧相な痩せ男の隣はそれはそれで非常食にしか見えないだろう。こいつもつくづく哀れなヤツである。
タマムシの空は面白みのない明るさをしているものだ。星もロクに見えないし、月は薄らボンヤリという明るさである。閉じた扉の向こうからは、飽きもせずに蠢くベトベターの、ぐちゃぐちゃなどという音が聞こえてきた。それはすぐに、近くを走るパトカーだか消防車だかのサイレンに掻き消されてしまったが気にはならない。湿ったジーンズはどうにも気持ちが悪く、浮かれポンチのオレンジ色は目に痛い。夏休みは、まだ、始まったばかりである。


- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 削除キー