「遅い!」 周囲の視線が一斉に声の主に注がれる。視線の先には一人の女性トレーナーが立っていた。彼女は待ち合わせ相手がこないらしくイライラしている。傍らには、一匹の獣人型のポケモンが立っていた。青と黒の体毛。黒がまるで素顔を隠すマスクのような模様を描き、耳の下に二対の黒い突起があった。その突起が何かを探るアンテナように、地面と水平方向にピンと伸びている。 「リオ、見つかった?」 彼女が尋ねると、ルカリオが首を横に振った。彼女はいよいよ辛抱が利かなくなってきた様子で、さらなるイライラのオーラを周囲に放つ。波導ポケモンの力をもってしてもあいつの気配を察知できない。会場に人が密集しているせいだろうか。 「リオ、探しに行くよ」 彼女はとうとう痺れを切らし、ルカリオと共に探索に繰り出した。 もりのなかで くらす ポケモンが いた もりのなかで ポケモンは かわをぬぎ ひとにもどっては ねむり また ポケモンの かわをまとい むらに やってくるのだった 「シンオウの むかしばなし」より ●第一話「まつりの はじまり」 「頭の中が真っ白」という状態は、こういう状況のことを言うのではないだろうか。 いわゆる西洋にある中世の城を模った建造物を見上げて、青年はただ立ち尽くしていた。 彼はにわかに握っていた拳を広げた。開いて握って、また開いて感触を確認する。 不意に寒気を感じた。妙に身体が冷たく、自分のものではないようだった。思わず両手でその対となる反対側の腕をぎゅっと掴んだ。確かめるように。 次に感じたのは視線。彼が立つ道にはあらゆる老若男女、多くの人々が行き来しており、時折ポケモンを連れた人もあった。ある人は青年にいぶかしげな視線を投げ、ある人は知らないふりをして素通りし、またある人は彼の存在を気に留めることなく歩いていった。 (……ここは?) 真っ白な頭の中にそんな疑念が生まれた。その疑念が浮かぶと同時に、彼は群集の行き先を見たのだった。群集のほとんどは目の前にそびえる西洋の城のような建物を目指しているようだった。青年はその流れに従ってフラフラと歩き出した。 (ここは何処だ? この人たちはどこへ向かっている? それに……) 彼は群集について、城内へと足を進める。人々はなんだか興奮したおももちで、ああでもないこうでもないと、とりとめのない話をしていた。やがて、城内に放送がかかる。それを聞いて、彼はようやくここがどこであるかがつかめてきた。 どおりで人が多いわけだ。にぎやかなわけだ。人々が興奮しているわけだ、と。 「ポケモンシンオウリーグ予選Aチケットをお買い求めのお客様は南窓口へ、すでにチケットをお持ちのお客様は、北2番ゲートにて整列してお待ちくださいませ」 城内にはそんな放送がかかっていた。 ここは祭が開かれる場。一年に一度の祭が。シンオウ中がこの祭に注目している。ある人は開催期間中ずっとテレビに釘付けになり、ある人は稼ぎ時だとこの場に乗り込み商売をする。ある人はこれを見に行くために仕事の有給のほとんどを注ぎ込むのだ。 ポケモンシンオウリーグ――古の神話が息づく北の大地、シンオウ地方で最も強いポケモントレーナーを決する、ポケモンバトルの祭典だ。 とりあえず彼は、自分が立っている場所を理解した。しかし、そのおかげで次の大きな問題に気がつくことになる。 (ここがどこなのかはわかった。……けれど、そもそも僕は誰だ?) 青年は再び自身に問いかけた。第一試合の時間が一刻一刻と迫っている。会場を取り巻く空気はいよいよ熱を帯びてきていた。 「アオバ! あなたこんなところで何やっているのよ!!」 不意にそんな声を聞こえてきたのは、青年が真っ白な頭の中に再び問いかけはじめたその直後だった。彼が驚いて声の方を見ると、目の前にトレーナーとおぼしき女性が立っていた。 「待ち合わせの時間、何分すぎたと思っているの!」 なぜ彼女をトレーナーであると判断したかと言えば、傍らに獣人型のポケモンがいたからだ。青と黒の体毛。胸と腕にツノのような突起物が生えていた。青年のおぼろげな頭の中にふとその名前が浮かんで、ぼそりとそれを口にする。 「思い出した。ルカリオだ」 「ちょっとアオバ! あなた私の話を聞いているの!」 さっきよりも大きな声で女性トレーナーが吼えた。無理もない。やっとの思いで見つけた待ち合わせ相手は、こともあろうに観戦者の列に加わってぼうっとしていたのだ。彼女はぐっと青年の腕を掴む。 すると青年がまるで他人でも見るかのように、彼女の顔を見た。そして、 「……アオバ? アオバって言うのか僕の名前は」 と、言った。 「…………は?」 女性トレーナーはなんとも複雑な表情を浮かべた。それは怒りを含んでいたが、それ以上に困惑の表情であり、勘ぐるようでもあった。こいつは私をからかっているのか、それともバカにしているのか。だが、それにしてはなんだか様子がおかしい。 なんというか、青年はそれなりにきめた服装(人によってはキザと言うだろう)をしているというのに、言動が妙に子どもっぽいというか頼りないのだ。彼が放つ雰囲気が、彼女の知る青年本来のものとはずいぶん違うのである。 ……本当に演技ではない? 「君は誰? 僕を知っている人?」 彼女がそんなことを考えているのをよそに、青年はさらなる質問を投げかける。さらには、 「よかった。気がついたらここにいたんだけどさ、自分が誰で何しにきたのかもわからないし、正直困っていたところなんだ」 と、のたまった。 女性トレーナーは顔を引きつらせた。今目の前にいるこいつが、本気でこのセリフを吐いているならばこれは俗に言うあれだった。まさか自分がこの目で見る機会が巡ってこようとは。 あれとはもちろんあれである――――記憶喪失である。 「あなたはアオバ。ポケモントレーナーのミモリアオバ。今から三時間後シンオウリーグの予選にBグループで参加する選手よ」 と、女性トレーナーは告げた。 彼女は半信半疑で根掘り葉掘り質問を投げかけまくった結果、やはり青年の記憶が喪失しているとうのは本当らしいとの結論に至った。 ポケモンとトレーナーに関する諸々の知識は一般人レベルかやや下くらいか。コミュニケーションはとれるものの、青年からは様々な記憶がごっそりと抜け落ちていた。 アオバという自分の名前にはじまり、自分の出身地、自分の所持ポケモンとそのニックネーム、自分はどんな人間で、どんな家族がおり、いままでどんなことをして生きてきたのか……。 そして彼は、目の前にいる女性トレーナーについてまったく答えることが出来なかった。正直、重症である。 その結果、彼女が導き出した結論は、自分が先導してやらねば、トレーナーとしては何も出来ないのが今の彼である、ということであった。記憶の戻し方はおいおい考えることにしよう。何かやっているうちに思い出すかもしれない、と彼女は考えた。 「私はシロナよ。シンオウリーグ予選にCグループで参加する」 まさか今日ここで自己紹介≠しなくてはならなくなるとは、彼女も予想だにしなかっただろう。青年もといアオバの手をとり、人ごみを掻き分けながら、彼女は名乗った。金髪の長い髪がたなびく。この状況で動くにはちょっと邪魔そうだった。 「私は今日、あなたと待ち合わせて、予選前にバトルの調整をする予定だったわ。それなのに約束の時間を過ぎてもあなたはやってこなかった。電話をかけても、メールを送っても何の反応も無い。会場にいるのかもわからない。リオにあなたの気配を探らせてみたけど、人が密集し過ぎているせいか、ちっとも見つからないんだもの。結局、目で探すしかなかった。やっと見つけてみれば、あなたはこんな状態。一体今日はどうなっているのかしら!」 そこまで一気にしゃべると、ちらりと青年の様子を見る。アオバと呼ばれた青年の反応は手ごたえなし。シロナは「はぁ」と溜息をつく。 「……その様子だと、まだ何も思い出さないみたいね。ということは、出場前の本人確認はまだよね。それならトレーナーカード出しておいて」 「トレーナーカード?」 青年がきょとんとした顔で聞き返す。 「ポケモントレーナーの身分証明書よ。受付でそれを提示して最終確認ってことになるわ。いくら記憶喪失っていったって持ち物にそれくらいは……」 彼女がそう言うので、青年はズボンのポケットと胸ポケットを漁ってみた。 しかし、 「…………………………」 「え…………、もしかして……ないの?」 「………………」 こくん、と青年は頷いた。 「え、それってさ、ヤバくない? ……ていうかヤバいよね?」 「………………」 「意味がわからないのはわかってる。わかってるけど、同意くらいしてよ」 トレーナーカード、トレーナーの身分を保証する証明書である。なくしたなんてことになれば、トレーナー生活に大きな支障をきたすことになる。すぐに届けないといけない。それくらいの公的な効力をもつものである。 「まずいことになったわ」 と、シロナは言った。 「このままだと、あなたはリーグに出場できない」 すぐさま、あごに手を当てて考え込む。深刻そうな表情だった。再発行してもらうにしたって、とても時間には間に合わないだろう。 それでは困る。目の前にいるこの青年が出場できないのなら、私は今まで何のために……。 だが、しばらくして彼女は何か決心したかのように、手をあごから放すと、 「……悩んでいてもしょうがないわ」 と、決心したように言った。 お、何か策でもあるのだろうか? という顔をする青年に、彼女はにっこりと微笑むと、 「こうなったら強行突破よ」 という作戦の内容を伝えた。 |