時間というのは最高の化粧だとサクヤは思っていた。どんなものも、時間さえかければしっくりと馴染む。どれだけの時間が掛かるかはまちまちだとしても。
そろそろこの大きな麦藁帽子も似合うようになってきたかしら、と壁にかけたそれを見ながらサクヤは思った。サクヤが果樹園に来て一週間が経とうとしていた。
「それじゃあ、ちょっとトレーニングに行ってきますね」
「おい」
夕食後、一声かけて出て行こうとすると、リビングでテレビを見るボトルに呼び止められる。
「食べたばかりで運動すると脇腹が痛くなるぞ」
「そんなに急に激しい運動はしませんよ。ランニングするつもりなので、ついでにギアルと交代で見回りに行ってきますね。あの子まだご飯食べていませんでしたよね?」
「ああ、そうしてもらえると助かる。仕事もしたんだから、ハードワークにならないように気をつけろよ。君もポケモンも」
「大丈夫ですよ。それじゃ、行ってきまーす」
日中はだいぶ暑い果樹園だが、夕方になると途端に涼しくなる。トレーニングは旅をしていた頃からの日課だったが、昼は仕事を果樹園の仕事をさせているポケモンも多いので、だいぶ軽めのメニューに変更されている。
「本格的に新しい訓練メニューを考えないとね」
正直言うと彼女も疲れがたまっている自覚はあったが、翌日のことを考えると自然と足取りも軽くなった。明日は初めての休日で、立てた計画を思い出すだけでワクワクした。
「リッキー」
ご機嫌のまま放ったボールからトゲチックが現れる。
「ギアルを探して連れてきてくれる? 見回りをしているはずだから、昼間にリッキーが通ったどこかにいると思うの」
任せろと言わんばかりに甲高い鳴き声を上げ、ふわりと浮かび上がるとトゲチックは飛んでいく。
「じゃあ、みんなリッキーが戻ってくるまで、まずは準備運動から。それが終わったらいつもの筋トレメニューね」
ボールから残りのポケモン五匹を出し、指示を出す。五匹が一生懸命体を動かす様を見ながらサクヤは考える。
私も育てるポケモンを増やしたほうがいいのかしら。
果樹園の主であるボトルはかなり多くのポケモンを操っていた。その数、実に十二匹。サクヤの倍だ。ローテーションでも二匹程しか休むことはなく、それでも十匹。ボトルに直接尋ねたところ、「仕事は全て覚えさせてあり、単純作業だからそんなに難しいことじゃない」と言っていた。
「でも、そんな簡単にできるかしら……?」
彼女の手持ちポケモンは全て出身のシンオウ地方のポケモンだった。一人前のブリーダーになるために父の出張についてイッシュ地方に渡り、そのまま旅に出てやっと半年。故郷のよく知ったポケモンですら手探りで育てているのに、未だよく知らないポケモンを育てられるのか不安で、イッシュのポケモンはまだ一匹もゲットしていなかった。もちろん、いつまでもそんなことを言っていられないのは彼女自身もわかっている。しかし自分の力量を信じられないのも事実で、彼女は悩んでいた。
「変わりたくてこの地方に来たし、そのためにこの果樹園で働き始めたのにな」
地面ばかり見ていた顔をふと上げてみると、トゲチックがギアルを連れて飛んでくるのが見えた。気を取り直して、ブリーダーの顔に戻る。
「見回りは私達が引き継ぐからね。ボトルさんが美味しいご飯を用意して待ってるわよ」
それを聞き、ギアルは回転を右、左と気ままに変えながらゆっくり回りつつ、ゆらゆらと帰っていく。ギアルの後ろ姿を見送ると、パン、と手を打ちポケモン達を横並びに整列させた。
「それじゃあランニングを開始するわ。果樹園の巡回コースの一番遠回りのパターンで。あなた達は時計回り。あなた達は反対回りでね。木々の間をぶつからないように走っていくこと。わかった?」
呼びかけに対し、全員が元気よく返事をした。
「合図をしたら一匹ずつスタートしてね。もちろん、誰かが木の実を食べようとしていたら追い払ってね。ただしあんまり手荒なことをしちゃダメよ。じゃあ、用意、ドン!」
合図と共にポケモン達が駆け出す。感覚を開けて合図を繰り返し、全てのポケモンがスタートしたのを確認すると、一番走るのが遅いスコルピと並走する。多脚の小さな体は戦闘中のスピードはあってもランニングには向かないので、並走、といってもほぼ歩くスピードだったが。
果樹園をサクヤとスコルピはゆっくり進んでいく。ホドモエシティから少し離れた山間の森にあるそこは、まだ彼女が敷地の全てを見たことが無いぐらいに広大だった。しかし、イッシュ地方はとにかく広く、農業の規模も桁違いのようだ。ドームと同じぐらいの土地一杯に広がる小麦畑もあったぐらいなので、イッシュでは当たり前のことなのかもしれない。しかし、ボトル一人で切り盛りしている所為か、半分以下の土地しか使っていないようだった。使用していない土地も実のなる木は同じように生えており、野生のポケモンも数多く生息している。そこからそのまま果樹園に入ってきてしまうポケモンも多いようだったが、追い払えばすぐに逃げて行く。わざわざ危険を冒してまで無理やり居座ろうとする、先日のナゲキ達のようなポケモンは少なかった。
だんだん暗くなってきて、建物まで帰るのに迷わないよう、道と方向をしっかり確認しながら進む。走りながら木々の間を飛ぶ光を見つけた。よく見るとエモンガだとわかった。根元にはクルマユ達が集まって眠っているのも見かけた。人の土地の中でこれだけのポケモンがいるのは彼女にとって不思議な感覚だ。
やがて、スコルピに他のポケモンが追いついて、トレーニングは終了となった。森の中から見える果樹園の明かりは随分頼りなく、距離はわかっているのに何故か実際の距離以上遠くに感じさせた。
戻ったサクヤを、ボトルは冷たい飲み物を用意して待っていた。お礼を言って一気に飲み干す姿を見て、ボトルは顔を背けて笑った。
寝ぼけながら見た時計の表示に、彼女の頭の中のギアルがボディーパージをしたかのごとく急回転を始める。顔面蒼白で急ぎ着替えると部屋を飛び出した。
「ちょっとボトルさん! 起こしてくれればいいのに!」
「体が休みを欲してたんだろ。そういう時は休めばいいんだよ」
「もうこんなに日が昇っちゃったじゃないですか! せっかくの休みなのに、もう……!」
「メシは?」
「街でブランチにしちゃいますから!」
「わかった。じゃあ、気をつけてな」
バタバタするサクヤを一瞥しただけで、いつものように彼は果樹園の仕事に向かった。
化粧をしてオシャレすると、悩んだ挙句、麦藁帽子を被った。ずっとズボンばかりだったので、鏡に映るスカート姿の自分は久しぶり会う友人のような懐かしさを感じた。
やっと出かける準備が出来た頃、外で車の止まる音が聞こえ、窓から覗くと、誰か降りてくる。客のようだ。灰色のツナギを着た女性はやや細い長身の、目をすっぽりと覆うサングラスばかりが印象に残る顔で、サクヤは虫ポケモン・スピアーの様な人だな、と思った。外に出るとすぐさま「誰?」と声をかけられる。淡々とした声で、少し怖いかも、と少々身を硬くした。
「最近ここで働くようになったサクヤと申します。はじめまして」
「アタシ、ポーター。配達屋。よろしく」
「よろしくお願いします」
「ボトルいる?」
「ああ、すぐ呼びますね」
携帯で呼ぶとすぐにボトルが現れる。ポーターは口数が少ないようで二人の間に会話無く、話しかけづらいオーラを放っており、サクヤはボトルの姿が見えるとホッとした。
「よぉポーター、いらっしゃい」
「次の出荷の注文」
「ああ、どれぐらい来てる?」
商談が始まり、長くなりそうなのでサクヤは一声挨拶して出かけようとする。それをボトルが呼び止めた。
「悪いんだが、君にちょっと用事を頼みたいんだけど」
空腹に襲われながらやっと辿り着いたホドモエシティは磯の香りとほんの少し錆の匂いがする街だ。イッシュを代表する大都市の一つで、ホドモエは大きな港があり貿易の拠点となっているので、店も多く様々な商品が溢れている。また、ジムもあるのでトレーナーも大勢訪れ、いつでも賑やかな喧騒で溢れかえっている。道を歩くと人だけでなく、コンテナを背負ったイワパレスの集団など、働くポケモン達の姿も多く見られた。
サクヤはさっそくオシャレなパスタ屋に入り食事をする。若夫婦がやっている小さな店で、以前ホドモエに来たときに気になっていた店だ。コジョフーが給仕を手伝っていて、格闘ポケモンらしい見事なバランスで料理を運んでいる。注文したリングイネのボンゴレロッソをテーブルに置くと、コジョフーはつぶらな瞳で羨ましそうに見てくる。彼女が口に運ぶとやっと名残惜しそうにテーブルから離れた。マトマの実のソースが少し辛めで酸味が効いていて暑い日には最適だ。少し豪快な盛り付けで値段の割にボリュームがあるのも港町らしい。彼女は料理を口に運びながら、ふと、周りの人は自分をどのように見ているのか気になった。旅のトレーナーではなく、街の住人だと思われているかもしれない、と考えるだけで少しおかしかった。
食事が済むと、やっとショッピングに出かける。行く先々で、目移りして困るほど魅力的な商品が多かった。そして何より買い物が楽しいのは、何を買ってもいいからだった。旅の途中では余計な荷物を増やすことができないので、気に入ったものだから買う、というわけにはいかない。最小限の買い物を余儀なくされ、家具を買うなどもってのほかだ。しかしその制約が無いというだけで、彼女は全てを手に入れたような気分で満たされていた。
ブランド店を見て、本屋に入り、屋台を覗き、ブティックで試着をして、どれだけ歩いたか、ふと目に留まったのはクイタランを模した看板の古い建物の店だった。木製の少し薄暗い店内には、これもまたポケモンを模した小物で一杯だった。ランプラーの電灯やダンゴロの鉛筆削りなど、商品は全てが手作りのようだった。工場などで大量生産されているものにはない温もりが感じられ、彼女は思わず手に取る。そんな客を店の隅にパイプをくわえた大柄な初老の男性が、安楽椅子を揺らしながら微笑んでいた。
「いらっしゃい。ゆっくり見ていってなぁ」
「はい。ありがとうございます。素敵なお店ですね」
「お気に召したようでなによりだぁねぇ」
白い髭をたくわえたユキノオーにも似た主人は、彼女が品物を見るのを嬉しそうに眺めている。しばらく手に取ったり戻したりで何を買おうか迷い始めた姿を見て、主人はおススメの商品を差し出した。
「お嬢ちゃんにはこれなんかどうだね?」
「あ、それってドレディアの!」
はなかざりポケモンの頭に咲く花を模したコサージュは、実際の花の半分程の大きさではあったが、その存在感は十分損なわれていない。細工も丁寧で、サクヤはすぐに気に入った。値段も思ったより安くて申し分ない。
「それいいですね。可愛い。それにします」
「はい。どうぞ」
「じゃあ丁度で」
「まいどあり」
「お世話様です。また来ますねー!」
購入するとすぐにコサージュを麦藁帽子につける。サクヤは駆け出し、噴水広場を見つけると水面を覗く。揺れる水面に薄っすらと大きな麦藁帽子の少女が映っていて、手櫛で髪を梳き始める。
悪くないかな。
そっと覗く自分の姿を見て、たまに果樹園で見かける野生のドレディアを思い出す。果樹園はサクヤが予想していた以上にたくさんのポケモンが訪れる。木の実を奪いにくるもの、通り抜けるもの、人間達を見に来るもの。彼女が果樹園に来るきっかけになったナゲキ達も懲りずに何度か姿を見せていた。メンドーサが大将をゲットしたためにその脅威は弱くなり、そこまで実力の高くない彼女でも返り討ちにすることができた。最後に見たときは、ズルッグの新入りを加えた妙な五人組になっていた。一体どんな経緯でスカウトされたのだろうか、新人は明らかに馴染んでいなくて、二人は思わず声を上げて笑ってしまった。
そんなポケモン達の中で、ドレディアもたまに姿を現しては、木の陰からそっと彼女を見ていた。単純に人間が珍しいのか、仕事姿が気になるのか。彼女が近づくと逃げていき、移動すれば追いかけてくる。その距離は一定に保たれていて中々縮まらない。
「誰かに見られながら作業するのって、やりづらいだろ?」
ボトルは面白そうに言っていたが、何か彼もそういう経験があるのだろうか、と彼女は首を傾げたものだった。
サクヤはそのまま果樹園の主であるボトルについて考える。
変わった人だ。
いつもボーッとしているような、何か考え事をしながら遠くを見ているような妙な雰囲気を漂わせている。食べ物の好き嫌いは無く、酒は飲まない。趣味らしい趣味はわからず、強いて言えばリビングでアメフトを見ていることぐらい。起きてから寝るまでスケジュールに沿って行動しているようで、そのサイクルを乱すのを嫌がっているように思える程、決まった生活を送っていた。
彼女は会った相手をポケモンに当てはめる癖を持っていた。ちょっとした外見や印象の特徴から勝手にどのポケモンに似ていると心の中でポケモンの名前で読んだりする。しかし、ボトルが一体何のポケモンに似ているのか、しっくりくるものが全く浮かばなかった。
「あ」
そして今、もう一つボトルについて気づいたことがある。
ボトルはまだサクヤを名前で呼んだことが一度も無い。
ボトルに頼まれた用事は手紙を渡すことだった。指示された場所には赤いレンガの店、パートラークがあった。やや緊張してOPENの札のかかったドアを開けると、クレタが温かい笑顔で客を迎える。
「あら、可愛らしいドレディアさん、いらっしゃい」
「どうも」
頬を赤らめながら帽子を脱ぎ、誘導されるままに席に付く。そして預かった手紙を取り出した。
「クレタさんですよね? あの、これボトルさんから預かったお手紙です」
「まぁ、こんな子をメッセンジャーに使うなんて、ボトルも偉くなったわね」
台詞とは裏腹に優しい声で笑みを絶やさないので、彼女はホッとする。緊張を和らげる空気を持った女性。理性的で涼しげな眼を持っていて、ラプラスの様な人だと彼女は思った。
「すみません、ここに行けばわかるって言われたんですけど、こちらは何のお店なんですか?」
「ここはレンタルポケモンのお店なの。あなたみたいなトレーナーの子にはあんまり馴染みの無いお店かもしれないわね」
「じゃあブリーダーさんなんですね?! 私もブリーダー目指してるんです!」
興奮して席を立ち、手を取り身を乗り出すサクヤにクレタは笑いかける。再び顔を赤らめて席に座りなおすと、憧れのブリーダーに質問をする。
「ブリーダーをしていて一番大変なのは何ですか?」
「そうねぇ。やっぱり他の人でも言うことを聞くポケモンを育てるのは大変ね。あとは、ペット用のポケモンを育てるのが一番大変かな? ポケモンってどんな温厚な子でも闘争本能があるでしょ? そういうのを抑えないといけないし、攻撃力や特攻の低い子を見つけないといけないから。えっと……、あなたは――」
そこで見せた僅かな困った顔から、彼女は自分が名前を言ってなかったことにやっと気づいた。失礼しました、と一言謝り、名乗る。
「私、この間からボトルさんの果樹園で働かせて頂いてる、サクヤです」
それを聞くと、クレタは信じられないものを見たように目を見開いた。そして、頷く様に首を何度か振ると、口元を緩めた。
「そっか。とうとう果樹園にも人が戻ってきたのね」
「戻ってきた?」
「そう。ずっとボトル一人で切り盛りしてたから」
その表情は、今までの笑顔と比べてささやかな感情しか浮かんでいないものだったが、強く印象に残るさりげない顔だった。
ちょっと待ってね、と断ってから脚を組み、クレタは手紙に目を通し始めた。
所在無げに店内をキョロキョロしていると、クレタが話しかけてきた。手紙の返事を書き始めていて、視線を下げたままではあったが。
「じゃあ、先輩から金の卵にアドバイスでもあげようかしら」
「あ、はい。お願いします」
ペンを取り、紙に滑らせながらクレタは言った。
「ブリーダーって、一生失敗し続けていくつらいお仕事よ」
「え?」
「トライアンドエラーしかないのよ。同じことを試すことはできないから。例えば今ここで、あなたに私の育成方法を教えたとして、果樹園に帰って行えば違う育成になってしまう」
手紙を書きながら、サクヤの表情も見ず、彼女の言葉は止まらない。
「あなたは自分を成長させるために最善を尽くした? それを成功させてきた? 自分ですらできないことをポケモンに強いなければいけない、それって傲慢だって思わない?」
「そうかも、しれませんけど――」
サクヤはもごもごと相槌を打つことしかできない。クレタの声はそれまでの話し方と全く変わらず、整った顔が余計に言葉を厳しく感じさせた。
「でも、それでも私はポケモンといるこの生活が気にいってるし、レンタル屋を辞めようとは思わない。私は嫌われてもいいから、誰かにそばにいて欲しいと思う。それは人間とかポケモンとか関係ない。だから私は私のやり方で人やポケモンと関わっていくわ」
「はい……」
「あなたもあなたのやり方を貫きなさい」
サクヤは慎重に言葉を選ぶが、相応しい台詞が浮かばない。そうこうしているうちに手紙が書き終わったようで、席を立ち、奥から大きな封筒を持ってくると、手紙と書類を入れてサクヤに渡した。
「それじゃ、それ、ボトルにお願いね。あと、あの人に怒っておいて頂戴。可愛い女の子を使い走りにせず直接出向けって」
「アハハ、わかりました。伝えておきます」
「じゃあ、これからよろしくね。何かあったらいつでも来て。相談にも乗るから。ブリーディングのこともそれ以外も。もちろんただ遊びに来ても大歓迎よ」
「はい。ありがとうございます!」
「それじゃあね。今度は美味しい紅茶とお菓子でも用意しておくわ」
「それじゃあまた。お邪魔しました」
店を出るとすっかり忘れていた暑さを思い出し、肌にじっとりと熱を感じる。冷房で冷えた体はすぐには汗を流さない。サクヤは麦藁帽子に付けたコサージュに触れた。どれだけ本物に似て美しくても、あのドレディアから漂う甘い香りを嗅ぐことはできない。
サクヤが去って、見えなくなってもクレタはドアの方を見続けていた。しばらくしてポツリと彼女は呟いた。
「綺麗な花は、嫌がられても愛でたくなるものよね」
果樹園に着くと、サクヤはすっかり疲れ果てていて、すぐに部屋に戻り、ベッドに身を投げ出した。今日寝ただけで疲れが取れるかしら、と少し不安になる。明日からはまた仕事だ。今日のように寝坊するわけにはいかない。
ベッドに寝たまま顔を横に向けると、本棚がある。誰でも知ってるベストセラーから、見たことがない文字で書かれた本まで、ジャンル問わず、様々なものが収まっている。そして、その上にはこれまた多くのブリキのおもちゃが乗っている。ほとんどがポケモンで、ゴビットのようなイッシュのポケモンばかりだったが、たまにノズパスなどサクヤも良く知ったポケモンの姿もあった。ここには誰かが住んでいて、その私物を置いてどこかに行ってしまったのだという事は、容易に想像できた。
リビングに行き、テレビでも見ようとリモコンを探すと、テーブルに倒れた写真立てを見つける。今まで何度もこの部屋を使っているが、初めてそれがあることに気づいた。はたしてずっと置いてあったのかもわからない。
それは大勢の人が立つ集合写真で、撮った場所はこの建物の入り口。中心に小柄な老婆が会心のVサインを突き出して豪快に笑っている。他の人々も楽しそうに笑っている。そして、写真の隅っこに、随分と若い、今のサクヤと同じぐらいの歳のボトルが緊張した面で写っていた。
「ああ、帰ってたのか」
いつの間にかボトルが立っていて、タオルで汗を拭いていた。彼女は慌てて写真立てを倒し、近くに置いてあった書類を手に取り差し出す。
「ただいまです。これ、クレタさんから預かった手紙と書類です」
「サンキュ。助かったよ。あとで見るわ」
ボトルはそれを受け取り、書類を元に置いてあったテーブルに置いた。
「晩飯は?」
「まだです」
「じゃあ、俺が作るわ。先にシャワー浴びて、それから作るからちょっと待っててな」
「あの!」
ワシャワシャと髪を掻きながら部屋を出ようとする所で声をかけられ、ボトルはその場で立ち止まり振り向いた。
「やりたいことがあるんですけど、聞いてもらっていいですか?」
サクヤの問いにボトルは視線を合わせ、無言で続きを促す。
「ボトルさんのポケモン、私にブリーディングさせてもらえませんか? ボトルさんのポケモン達も、あのナゲキ達を撃退できるような強いポケモンに育てられるか挑戦してみたいんです。いや、絶対強くして見せます! その変わり、私のポケモンをボトルさんのポケモンみたいに手足のように使ってもらって構いませんから」
「つまり、果樹園の仕事は俺に任せてトレーニングに専念したいってこと?」
「違います。私のブリーディングを果樹園のサイクルに入れたいんです。もちろん仕事はちゃんと覚えて身につけていきます。でも私も与えられるだけじゃなくて、私のできる何かをしたいんです!」
何も言わず、じっと見つめてくるボトルの視線はひたすら真っ直ぐで、何だか不安になってきて逸らしてしまいたくなる。が、我慢した。少しして、ボトルは鼻を鳴らす。
「お前、ここで暮らしてから初めて意見を主張したな」
「え? そうでしたっけ?」
「ま、せいぜい期待させてもらうよ。駆け出しブリーダーさん」
受け入れてもらえたのか流されたのか、曖昧でいい加減で、茶化した返事をするボトルに、サクヤは「もうっ!」と怒鳴り声を上げた。
翌日、太陽が天辺に昇り始めた頃、ボトルは作業が一段落したのでサクヤに何か教えようかと姿を探すが見当たらない。収穫を指示していたのでいないはずがなかったので、不思議に思っていると、遠くから彼を呼ぶ声が聞こえた。
「ボトルさん見てください!」
大声を上げ手を振るサクヤの前にドレディアが立っていた。
「じゃーん。さっきクイックボール投げたらこの子ゲットできたんです。今日からウチの子ですよー」
締まりない笑顔でサクヤはドレディアをギュッと抱きしめると、その髪の様な葉を撫でる。
「姿が見えないと思ったら、まったくこいつは……」
「いいじゃないですか。単純に人手が増えますし、賑やかになりますし、いいコトずくめじゃないですか。何よりこんなに可愛いのに」
「おいおい、そんなにベタベタ触ると――」
次の瞬間、果樹園に響き渡る声に、野生の飛行ポケモンが一斉に飛び立った。
「わー! 取れちゃった! 花びらが! 一枚! 取れた! 落ちた!」
「このバカ! ドレディアはデリケートで花を咲かせるのも咲かせたままにするのもメチャメチャ難しいポケモンなんだよ!」
「バカって何ですか! バカって! どーしよー! ドレディアごめんねー!」
「お前の麦藁帽子の花でもお詫びにつけてやれよ、もう」
「ポケモンセンターに行ったら治りますか? 元に戻りますか?! ごめんねドレディアー!」
「サクヤ! いい加減にしろッ!!」
時間というのは大抵意識すると長く感じるものだ。近くにある内はゆっくりで遠くに行くと驚く程早く進んでしまうことを二人は知っていた。