先日の土曜、彼の誘いで能楽堂に行きました。 誘われたのは公演の前日のことでした。いつもの事ではありますが、どうも彼はギリギリになってから誘う癖があるみたいです。まあ、暇だったらから行くのですけど。 「いつ買ったの? そのチケット」 私が訪ねると、 「国文学科なんだから伝統芸能くらい見とくもんだよ」 などと言ってはぐらかされました。
今回見るのは三番目物「鬘(かづら)物(もの)」と言われるジャンルに属する「羽衣」という演目だと彼は説明しました。優美な女性達を主人公とした作品群なのだそうです。 ポポンと打ちものの鼓が鳴ります。神秘的な増(ぞう)の面を被った役者が橋掛(はしがかり)を通って現れます。これがこの演目、「羽衣」の主役(シテ)である天女でした。 相手役(ワキ)である漁師、白龍はミホマツバラの浜で、美しい羽衣が松の枝に掛けてあるのを見つけます。白龍はこれを家宝にしようと考え、持ち帰ろうとしますが、そこに持ち主である天女が現れる、という筋書きです。 天女は白龍に羽衣を返して欲しいと訴えます。しかし、白龍は聞き入れません。天女は羽衣がないと天界に帰れないのだと訴え、悲嘆に暮れます。それでさすがに白龍も哀れと思い、条件付きで返してやることにしました。 天人の舞楽を見せて欲しい。それが白龍が出した条件でした。天女はそれに応え、羽衣を受け取ると、舞を披露しながら、シロガネ山を越え、天に戻っていくのです。 天女の舞は、序之舞から破之舞へと移り変わり、今まさに曲は最高潮に達しようとしていました。周囲に黄金を降らせながら、天女が舞い上がっていく様が表現されます。 ちらりと横を見ると、彼は感慨深そうにその舞に見入っていました。能は最小限の舞台装置と最小限の動きで事象を表現しますので、観る人の想像力に委ねるところが大きいのでしょう。彼はすっかり自分の世界に入り込んでいるように見えました。
「羽衣に出てくる天女ってクレセリアのことだと思うんだ」 夕食の席で彼はそう語りました。 クレセリアというのは、シンオウ地方での目撃証言があるとても珍しいポケモンです。 そのクレセリアの持つベールのような羽。羽衣とはまさにその羽のことだと言うのが彼の弁でした。 クレセリアは飛行する時、そのベールのような羽から光る粒子を舞い散らせながら飛んでゆく。その様子は黄金を降らせながら天に昇ってゆく天女の姿と重なるのだと彼は熱っぽく語り続けました。 きらびやかな衣装を纏った天女も彼の目を通すとポケモンに変換されてしまうようです。 「でもミホマツバラがあるのってジョウトでしょ。クレセリアはシンオウ地方のポケモンなのだから違うんじゃないかしら」 私はいつものようにちょっとだけ反論します。 すると彼はいつものように答えます。 「いや、天女の言う天界をシンオウと捉えることも出来るし、シンオウ地方であった話がジョウトのミホに伝わって定着するまでに形を変えたのかも……」 「でも羽を松の枝に掛けたりするかしら」 「それは演出とか物の例えさ」 彼は言いました。 ちなみに、能「羽衣」の天女は羽衣を返してもらい、天界に帰りますが、漁師が羽衣を隠してしまって、帰ることが出来ず漁師と結婚するというエピソードも説話の中には存在します。この場合、彼の大好きなシンオウ神話の「むかし、人とポケモンが結婚していた」という話に結びついていくわけですが、もちろんその手の話題が出たのは言うまでもありません。 「そういえば漁師の名前、白龍なのよね。白龍自体がポケモンのハクリューの例えだという可能性は? カイリューとかでもいいけれど」 「あ、それは気がつかなかった」 そんなやりとりがずっと続いて夜も更けていきます。
困ったことに、帰ろうという頃になって雨が降り出しました。 「あちゃー、傘持って来てない」 私が言うと、 「じゃ、送ってくよ」 と、彼が言いました。 「別にいい」と断ったのですが、何だかんだで押し切られる形になりました。駅への道すがら彼は言いました。 「実は人形浄瑠璃のチケットが二枚あるんだけど」 「いつ?」 「明日」 「…………」 私は呆れたような視線を送りましたが、彼は彼は視線を逸らして黙っています。 ……まあ、明日は日曜日ですし、いいですけれど。 ぱたぱたと雨粒が傘を鳴らします。 雨はまだまだ止まなさそうです。 もしあの漁師がハクリューであるのなら、こうやって、天女を留めたのかもしれない――私は密かにそう思いました。
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