――なあ、『 』を聴いてみたいと思わないかい?
誰だっただろう。昔俺にそんなことを訊ねた人がいた、と男は思い返していた。
もうその人が誰だったのか、何を訊かれたのかも覚えていないのだが。
「めずらしいな、雪が降るなんてハジツゲタウンくらいなものかと思っていた」
すうっと自分の横をかすめた白いものに気が付いて髭(ひげ)の男は呟いた。
ホウエン地方は亜熱帯の温暖な気候で知られ、この地方で雪が降るのはめずらしい。
言うまでもないがハジツゲタウンの雪というのはフエン山から降る火山灰のことだ。火山灰を集めて作ったガラスでベルを作ると非常によい音がするとどこかで聞いたことがあった。
空を見上げると、暗い灰色の雲に覆われた空から白い粉雪がひとつ、またひとつと降ってきて、男の座っているその下に広がる水面に落ちて、ふっと姿を消した。
波も高くなく、穏やかな夜である。
雪が舞う海に静かな波の音とシャンシャンシャンという鈴の音だけが響いている。
男は今、海上を、波で揺れる水面の少しばかり上をソリに乗って滑っているのだった。
ソリを引いているのは、四頭の、少々ムッツリとした顔をしたポケモンだ。そいつらは四足歩行でヒヅメを持っていて、頭からは立派なニ本のツノが生え、そのツノが左右に枝分かれするところには宝石のような玉がついている。
常識的に考えると、あきらかに海上を、しかも空中を移動できそうにない風貌だ。だが、彼らはあたかも自分たちが空中を走れるのは当たり前といった顔をして宙を蹴り闇夜を走り続けた。男が「秘密結社」から支給された、そこらの野生種とは違う特別な個体だった。
さらに彼らの手綱を引く男の隣には、男の着ている服を真似したような、赤と白の羽毛をまとった鳥ポケモンがちょこんと座っていた。首から胸にかけて伸びた白くふさふさした毛は、隣でソリを操る男の髭のようでもある。マスクのように顔を覆う白い羽毛の中から黄色い嘴が伸びて、きょろっとした目がのぞいている。ツノのように伸びた白くて太い冠羽は男の眉のようであった。
が、その男の髭もまゆげも本物では無く、つけたものだった。「秘密結社」の規則とやらで服装も風貌もきっちり定められているので、男は仕方なくこんな格好をしているだけなのだった。
シャンシャンと鈴の音が響く。
雪の降る海上を男と一羽を乗せた四頭は走り続けた。
……それにしても。
「なんだってあんな辺鄙(へんぴ)なところに人が住んでいるんだ?」
男はぼやいた。この問いかけを何度繰り返したことだろう。
今向かっている目的地の担当になって三年目だ。だが最初一回目でその遠さにうんざりした。ホウエンのミナモ港から船で二十五時間とかそういう距離に目的地があるのである。男の目的地は、ホウエン本土の南をずうっといったところにある小さな島なのだ。人口はたいしたことなく男が「荷物」を届ける家はせいぜい二十、三十。数えるほどしかない。そしてさすがに過疎が進んでいるらしく毎年その数が減っているのである。
前にここの担当者だった老人は笑顔で男に言った。
――荷物が少なくていいよ。手当もいいし。それに……
それに何だ?
バカみたいに距離がある。そう言いたかったのか? だとしたら笑えない……
男はハァ……と夜の闇に白い溜め息をついた。
この距離のせいで男が年一回の「仕事」を終えて戻る頃には、同業者はみんな引き揚げてしまって、船に帰って飲んだくれているのだ。その時に感じる疲れときたら。
今年で三回目だ。帰ったら結社にかけあって、来年こそ配置転換させてもらおう。
男はそのように決意していた。
雪の降る海上を進みながらそんなことを考えていると、男の隣に座っていた赤と白の羽毛のはこびやポケモン、デリバードがふあっとあくびをした。
『おめでとう! あなたを我らが秘密結社の名誉ある社員に採用いたします!』
そんな怪しげなダイレクトメールをデリバードから受け取ったのは、彼が成人してしばらくしてからのことだった。
いかにも怪しかったので、すぐに破って捨ててしまったのだが、破いても破いても郵便ポストに同じものが突っ込まれる。ついに郵便ポストが破裂して、近所の目がよそよそしくなったころ、男は業を煮やし、送信元の事務所に殴りこみに行った。
行ってみれば怪しげなビルの一室だった。
「素晴らしい! 期待通りの行動力! さすが支部長の推薦だけはある!」
勢いで中に入ると椅子に座ったサングラスの髭が嬉しそうにそう言った。
「さっそく採用します!」
一体どこにいたのか怪しい髭の一団がポンと出現して、男は瞬く間に取り押さえられた。彼は暴れに暴れて抵抗したが、とどめとしてデリバードのプレゼント――まばゆい光の玉が炸裂した。それを食らって男の目の前はまっくらになったのだ。
目が覚めると彼は、北の国の新人研修キャンプに送られていた。
世界中に秘密の荷物を運ぶこと。
それが男が入った「秘密結社」の目的だった。
指定された日の指定された時間に、誰にも見られることなく、荷物を待つ人物にそれを送り届ける。それが男の仕事だった。
あきらかに違法なやり方で引きずり込まれた結社だったが、何せ仕事量のわりに報酬が破格によかったので結局は入社することにしてしまった。
秘密結社の構成員達を乗せた秘密の黒船は母国を出ると、カラ海、ラプテフ海、東シベリア海という順番で、世界一広い国土を持つ何とか連邦をぐるっと半周するような形で進み、チュクチ海を南下する。そしてベーリング海をさらに南下すると、ホッポーリョウドという島々があるのでこれを横切る。そこから西へしばらく行くとこの国の北端にたどり着く。シンオウと呼ばれる地域だ。
そこで黒船は小さな船を出す。シンオウ師団とは一旦ここでお別れとなる。さらに南下する。シンオウ地方の南端に来たあたりで、カントー師団他、いくつかの師団が出発し、さらに南下した後にジョウト師団が、そして最後にホウエンに到着すると、ホウエン師団が出発する。
問題は黒船がミナモ港付近まで行って、それ以上は南下しないことにある。
おかげで、海を越えたサイユウシティ方面に行く連中は苦労するのである。
そしてロケットの街、トクサネで彼らとも別れることになる。サイユウ組は南南西へ向けソリを走らせる。だが、男はたった一組で南南東へ向かうことになる。
シャンシャンシャン。
あいもかわらず波の音と、この鈴の音だけが海上に響き渡っている。
「……」
ソリに少しずつだが雪がつもってきた。未だに目的地は見えない。
男の横に座ったデリバードはそんなことも気にせずのんきにグーグー昼寝をはじめた。いや、今は夜だから昼寝とは言わないか。それにしても雪の夜に外で寝ても平気とはうらやましい奴だ。
横の相棒の無神経さに呆れながら、男は去年と同じように自己分析していた。この配属がいやな理由の大きな原因はこの単調さにあるのかもしれない。延々と長い時間ずっとこの退屈に堪えねばならないのだ。
しかも寒い。ろくに動きもせずずっとソリにすわりっぱなしだから、足とか手の指先とか体の先端部からどんどん冷たくなるのだ。
都市部配属の連中はいい。配達の家は多いけれど退屈しない。それに入るたびに暖かい。この仕事をはじめたころはまだ都市部の担当だった。実際にやってみてわかったことなのだが、入るたびに配達先の家のいろんな様子がわかって面白い。
子どもの部屋に入ると、ああ、この子は乗り物が好きなんだとか、ポケモンが好きなんだな。将来の夢はポケモンマスターかなとか、ここの家、今日はいいもの食っているなとか。親がいい酒飲んでいるなとか。そういうのをたくさん見られるから退屈しない。
見学ついでに、ケーキとシャンパンの残りを失敬したりなんてこともある。もちろんそんなことは結社の規則で禁止されているのだが、みんなやっていることだった。
だから朝起きてきてみたら高級なシャンパンやワインが微妙に減っているとか、朝に片付けようと思ってテーブルに放置していた皿の数が家族の人数より一つ多かったとか、余ったショートケーキのイチゴだけなくなっているとかいうことがあったらたいてい同業者の仕業だ。うらやましいことに都市部の連中はそういうことが夜通しやり放題なのだ。
「ホウエン師団で一人さびしくソリ走らせているなんて俺くらいのものだ! クソ! 」
男は悪態をついた。
「おい、スピードが落ちているぞ! 島は遠いんだからな!」
男はソリを引く四頭のオドシシに向かって怒鳴ると、ぴしゃっと手綱を波打たせた。
ああ、おもしろくない!
男は、まだ見えない目的地を睨みつけた。
シャンシャンシャン。
雪の降る海上の、男と一羽を乗せた四頭はまだ走り続けていた。
あと一時間も走ったら目的地が見えてくるはずだった。
のんきに居眠りをしていたデリバードは、今さっきお目覚めのようで寝ぼけ顔だ。
やれやれと、男は思いながらまた手綱を波打たせた。
しかし、男がいくら手綱から合図してもオドシシたちのスピードが一向に上がらない。男に続いて今度はオドシシたちが疲れて、そして飽きてきたのだ。長い距離を走ってきたのだ。もっともな結果である。
そのやる気のなさを受けてかだんだんソリの高度が海面スレスレに下がってきた。
バチャッ。
ソリの足が海面に触れた。
危なかった。
ここでバランスをくずして、ソリが転倒でもしたら運んできた荷物がしょっぱくなってしまう。なにより運び屋一同海に落ちでもしたら寒いどころの問題ではないだろう。幸いソリは水にも浮かぶ仕様だから、なんとか全員を引き揚げられたとしても、もう海上から飛び立つのは無理だろう。海の上からでは飛び立つための助走がつけられないからである。
「波に足をとられるな! 高度を上げろ!」
男はあわてて叫んだ。
「ブモーオ!」
オドシシたちは体勢を立て直して高度を上げつつも、もういやだとばかりに声を上げた。
「がんばれ! 目的地まで持ちこたえるんだ。あと少しだから」
男はそういってオドシシたちをせかしたが、なおもオドシシたちは訴える。
「ブモー」
「なんだようるさいな」
「ブモッブモッ、」
「は、なんだって?」
聞きたくもなかったのだが、秘密結社の新人研修で「誰でもわかるオドシシ語! 二週間徹底リスニングコース」という半ばサブリミナルに近い教育を受けている男には、彼らが何を言ってるかわかってしまったのだった。ちなみにデリバードコースもあったのだがそれは説明を省略しよう。
とりあえず、男の聞き取りが間違っていなければオドシシ達の訴えは次のような内容だった。
「ブモーーオッ、ブモモ」
「何、スタミナ切れ。またそんなこと言って」
「ブモッ、ブモッ、ブモッ」
「何? 出る前に余裕ぶっこいてたら飯を半分食いそこなった?」
「ブモブモッ」
「だから一休みしたい。ついでに飯を食わせて欲しいだって?」
「ブモー」
「バカッ! 海上で休む場所なんてあるかッ!」
男は額にプッツンマークを浮かべながら叫んだ。
「せめてトクサネを飛んでる時に言えよ!」
ついでにそう叫んだがすでに後の祭りだった。
「これがわが秘密結社の誇る電磁浮遊ヘイキューブです!」
まるでホウエンのポケモン菓子ポロックのように四角くまとまった干草の塊を指でつまみ、白衣の白髭オヤジが得意そうに言った。
なんでも、世界の子ども達の夢の為に創始者のなんとかニコラス氏が開発したのだが、非常に不味くオドシシの皆さんに大変不評だった為、今日に至るまで改良を続けてきたのだという。
男は「なぜ電磁浮遊なんですか。素直に浮遊でいいじゃないですか!」と突っ込んだのだが「まぁソリも電磁浮遊式ですから。でも浮いてるだけじゃ進まないのでオドシシっていう推進力を付けました」という答えのような答えでないような返答をされたのだった。きっと創始者なんとかニコラス氏は浮遊のドガースより電磁浮遊のメタグロスが好きだったんだろう。と、男はそのように解釈している。
とにかくその電磁浮遊ヘイキューブなる魔法の干草でもって、オドシシ達は宙を走ることができるらしい。ただ製作コストが高いとかいう話で、それが振舞われるのはいつだって飛び立つ数時間前だった。
ん? まてよ。野生個体とは違う特別なオドシシなんじゃあ……という突っ込みが入りかけたが、今の男にそれを考える余裕はなかった。
「ええーと、つまり結論としては、魔法の干草、電磁浮遊ヘイキューブを半分食べ損なった。一生懸命食べていたのだが、甲板への集合をかけられて、それ以上は無理だった」
男がそのように要約すると
「ブモー」
と、オドシシが肯定の返事をした。ぐぬぬ、と男は唸った。
なんたることだ。オイルを入れない車が走るわけないじゃないか。しかも普段地を走るのとはワケが違うのだ。地を離れ宙を走る文字通り離れ業をやるのだからそれ相応のエネルギー補給を要するのだ。
いや、オイルはあるのだ、と男は思い返した。デリバードの袋にいざというときの非常電磁……以下略をつめてある。だが、この状況下――海上をけっこうなスピードで走っている状況下でどうやって食わせると言うのだ。
デリバードに飛んでもらって食わせてみようか……そんな考えが男の脳裏をよぎったが、却下された。空中走行中での受け渡しは、不安定な上に、食料の消化も悪そうだったからだ。勢い余ってノドにつまらせるかもしれない。なによりデリバードは飛ぶスピードがソリよりのろい。きっと飛び立った瞬間に海上に置いてきぼりを食らうだろう。ソリのスピードを落とすことも考えたが、そこまで落すとソリが着水しかねない。
いやそもそもだめだ、と男は思った。草っていうものは厄介でオドシシの消化吸収能力をもってしても消化までに数時間はかかる。そのようにあの白衣の担当者が言っていた。残念ながら、これを男ははっきり覚えていた。
「うあああっ! 根本的にダメじゃねーか!」
男は暗い海の上で盛大に絶叫した。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。……うん、どうしようもない。
三回唱えてみたが、どうしようもなかった。
「とりあえず落ち着け。落ち着くんだ俺」
男は緊急事態を想定した。
ええと、海上で走れなくなるとすると……まずオドシシが着水する。それにあわせて俺はソリの電磁浮遊スイッチを切る。ソリも着水する。そこでしょっぱくなったオドシシ四頭をソリの上に避難させ、デリバードの袋から救難信号を出す……。
海に浮かんだソリの上でしょっぱい荷物とこれまたしょっぱいオドシシを乗せて協会の助けを待つということか……男は顔をひきつらせながら想像した。緊急時の食料や防寒具はデリバードが持っている。考えただけでも寒そうで空しそうな時間だった。
――荷物が少なくていいよ。手当もいいし。それに……
という前任の言葉が思い出された。
それに何だ?
着水、漂流、救助待ちか? だとしたら笑えない……
かじかんだ手がよけいに冷えて、男はげんなりした。
そして、ひきつった顔で苦笑いするとこう言った。
「とりあえず走れ! 案外なんとかなるかもしれないし!」
シャンシャンシャン。
シャンシャンシャラッ……
そんな一抹どころでは無い不安を抱えつつ、一行は海の上を走り続けた、のだがついに限界が来たようだった。
男はオドシシたちの消耗が予想以上にはげしいことに気が付いた。
いつもの年と違って雪がふっているせいかもしれない。めったに雪がふらないホウエン地方で、雪。子どもたちは喜ぶかもしれないが、男にとっては厄介以外の何者でもなかった。
「なんとかなるかも」は「無理すれば」に、「無理すれば」は「いや無理だろこれ」に変わりつつあった。
いや、実際どう考えても無理なところを認めようとしなかっただけかもしれなかった。
――なあ、『 』を聴いてみたいと思わないかい?
こんな状況の中、男の脳裏に浮かんだのは、昔誰が言ったのかもわからないあの言葉だった。
いかんいかん、そんなこと思い出している場合じゃない。男はプルプルと首を振った。
シャンシャン、シャラッ。
シャンシャン、シャララ……。
オドシシたちは鼻息を荒くしながら必死に走っている。男は腕をまくった。腕の中から秘密結社特製現在位置特定機――ようするにGPSが顔を出した。男は島との距離を確認する。無理をさせた甲斐があってか、あと20〜30キロの地点にさしかかっていた。その甲斐あってかとうとう小さくだが灯台の明かりが見えてきた。明かりが回転しながら闇夜を照らしているのが見える。
男は灯台の明かりが見えたことに一種の安堵を覚えつつも、同時に焦燥感も感じていた。見えるといったってまだ距離があるのだ。
「あと少しだ。頼む! 踏ん張ってくれ」
男はオドシシにすがるように言った。もうそれ以外頭が回らなかった。
実は、男はもう一つのミスを犯していた。焦燥感が彼の判断を鈍らせたためだろうか、それともホウエンにはめずらしい雪のせいだろうか、男はその雪が積もって重くなったソリのことなどすっかり忘れていたのである。重量を重くするソリに積もった雪。それをデリバードに払わせるべきだったのにそこまで頭が回っていなかった。
そして、もちこたえて欲しいという男の願いをよそにいよいよスピードが落ち始めたのだった。
男は苦い顔をした。手綱の感覚からなんとなくわかる。もうオドシシたちに目的地まで走るだけの力は残されていまい。
ほうら、まただんだんとソリの高度が下がっている。もうこれは空を走ってるんじゃない、落ちるのに時間をかけていると表現するのが妥当だ。そのように男は思った。
無理をさせれば、あと何キロかは走るかもしれない……が、それでも島には届かない。どうせ着水するなら体力は温存しておいたほうがいい……。
男はついに覚悟を決めた……というか諦めた。
だんだんと近づいてくる暗い海面を見つめながら、男は急激に冷めていくのを感じていた。
秘密結社の規則なので、こんなときのために自分とポケモン達にはライフジャケットをつけている。溺れることはあるまい。とりあえず、無事ソリが着水できて、それでオドシシたちを引き揚げたらデリバードの袋から救難信号の発信機を取り出して……それで……。
「それで無事に帰れたなら、配置転換を申請しよう。来年は何が何でも絶対に変えてもらおう……」
海面はもう目の前に迫ってきていた。先頭のオドシシ二頭が意を決してボチャっと海に飛び込むと、崩れるように後ろの二頭が海に入った。男は斜めに傾いたソリに必死にしがみつきながらタイミングを見計らって電磁浮遊スイッチを切る。
そして、ソリの足が水について……、ソリは海に着水した。
着水時の勢いで一瞬彼らは海に浸かった。海水がかかって、赤い服はびしょびしょになってしまった。もう鈴の音は響かなかった。
――荷物が少なくていいよ。手当もいいし。それに…
それに……? なんだっけ? あの時、前任のじいさんは何て言ったんだっけ?
なんにしろ、これで救助待ちだ。
男は波に揺れるソリの上でバランスに気をつけながら立ち上がると、オドシシたちの手綱をたぐりよせはじめた。
だが、その時、予想もしないことが起こった。
ガタっとソリが揺れたかと思うと突然海面が盛り上がったのだ。
バランスをくずした男は、ソリから落ちて海面に突っ込んだ。
ボチャン!
海面に顔が突っ込む瞬間、そんな音がするかと思われた。
だが、代わりに伝わってきたのはブニョッという感触だった。
「ブニョッ?」
ブニョッとするものに三分の一ほど顔を埋めて、男はいぶかしげに声を上げた。
さらに、そのブニョッとするものは高度を上げた。
男が手をついて顔を上げると、海水がザバァーっと音を立てながら下に引いていくところだった。
そして海水の呪縛から自由になったオドシシたちが、ぶるっと体を震わせ海水を飛ばしてきた。
盛り上がってきたのは「海面」ではなく「陸地」だった。
「と、とりあえず助かったみたいだが……」
男が気を取り直し、あたりを確認しようとしたその瞬間、
シュゴォオオオオオッ!
男たちの目の前で急に海水が吹き上げられた。
目を丸くしてあっけにとられる男たちを尻目に海水は数秒ほど吹き上げられてそして収まった。
男が、突然盛り上がった海面――いや、ブニョブニョする陸地の正体を悟ったのはその直後だった。
男が、海水が吹き上がった場所までブニョブニョ歩いていってみると、そこには二つの大きな穴が空いていた。この陸地の鼻、である。
「オオオオオオオオオオーーーォウ」
陸地が唸った。それは海から盛り上がった陸地が――否、ホエルオーが仲間を呼ぶために使う唄であった。
うきくじらポケモン、ホエルオー。
現在確認されているうち最大のポケモンであり、その巨体は十数メートルに達するという。男たちが着地したブニョブニョする陸地は、ホエルオーの背中だったのだ。
そして、すぐ近くから、あるいはずっと遠くから、次々と潮が吹き上がって、返し唄が聞こえてきた。
「…………な」
男は言葉を詰まらせた。
本で読んだことがある。話には聞いたことがある。だが、男は今の今まで実物のホエルオーというものを見たことがなかった。百聞は一見にしかず。そのスケールの大きさは男に畏怖の念さえ起こさせた。
「ルォオオオオオオオオ」
男が乗っているホエルオーがまた声を上げた。
ああ、思い出した……今、思い出したと、男は回想した。
――なあ、『鯨の唄』を聴いてみたいと思わないかい?
誰だっただろう。
昔そんなことをいった人がいたのだ。
……知らなかった。
今まで二度までも通っているのに、こんなにも大きな存在に気が付かなかったことを彼は恥じた。今の今まで俺は何を見てきたんだ? いや、そもそも見ようともしなかったのではないか? と。
男がそんなことを考えているうちにも、一匹、また一匹とホエルオーたちが浮き上がって、海上に姿を現した。近くの海面を見る。進化前のホエルコたちもたくさん顔をのぞかせている。
男の横では、デリバードが自分の袋から、気前よくヘイキューブを取り出して、オドシシたちに配っていた。海水が引いたばかりのホエルオーの背中の上に置いてしまったものだから、少しばかりしょっぱくなってしまっていたし、改良を加えているとはいえまだ相当にまずいはずだった。けれどオドシシたちはお構いなしだ。空腹が何よりの調味料となっていたのだろう。
「ルォオーーーーーーウ」
そんなオドシシたちを尻目にホエルオーたちは唄い続ける。
男はしばし鯨たちの唄に聴き入った。
「オオオオオオオオオオーーーォウ」
「ルオオオオオオオオオオーーー」
「ーーーーーーォオ」
波音を伴奏にして鯨たちは唄い続けた。
唄い手はどんどん増えて、そして彼らは唄いながらある方向に向かう。男たちが目指していた島の方向である。乗せて行ってくれるつもりらしい。
刻々と島が大きくなって、島に建てられた灯台の光りが大きくなってきた。その光に合わせるかのように、合唱が盛り上がっていく。
チカチカと灯りが光る。チカチカと。
――思い出した。思い出したぞ。
男は遠き日の記憶を蘇らせた。
「なあ、『鯨の唄』を聴いてみたいと思わないか?」
遠い昔の聖なる夜、異教の少年は罠をしかけた。
さる宗教の信仰される地方では、その日の夜になると煙突から入ってくる不届き者がいるらしい――砂漠を越えてきた行商人からそんな話を聞いたからだ。
だからその日に網を仕掛けた。そうしたら案の定、赤い服に白い髭の不審人物とデリバードが引っ掛かったのだった。
「こりゃあまいったなぁ。私達を捕まえたのは君が初めてだよ」
にっこり笑って髭の不審人物は言った。
「なんで来たの? 俺、異教徒なんだけど」
少年がそう言うと、髭はにっこりと笑い、答えた。
「私達はね、私達を信じる子どものところだったらどこへだって行くんだよ。ただねぇ、こっちの宗教圏の子が欲しがるプレゼントっていうのがわからなくて。君、何か欲しいものはあるかね?」
「なんでもいいのかい」
少年は尋ねる。
「ああ、なんでもいいとも」
と、髭が言った。
だから答えた。海というものを見てみたい、と。どこまでも広がる水たまりというものが、どんなものか見てみたいのだと。内陸国の首都に住んでいた少年はそのように答えた。
すると髭の不審人物が言った。
「そんなら、私についておいで」
「ホエルオーはあの巨体で唄うんだ。繁殖期には恋の唄を歌う。驚いたことに年によって流行り唄ってのがあるらしい。そして、より巧みな唄い手がいちはやくパートナーを手にするんだ」
少年をソリに乗せて、髭は異国の海上を走った。
そうして彼が話したのは、別の国の海で見た大きな生き物の話だった。
だから彼はそれがずっと見たいと思っていた。
「ああ、そうだ。思い出したぞ。あの髭オヤジめ! 秘密結社の規則だからとか抜かして、あの後俺の記憶に蓋をしやがったんだ!」
今更思い出すなんて。男は舌打ちした。やり方はワンパターン、結社お得意のデリバードのプレゼントだった。取り出した光の玉がチカチカと星が光って、炸裂した。それ以来ずっと今まで思い出せずにいたのだった。
「記憶の蓋も期限切れってところかな。すっかり忘れてたよ。そんな気持ちさ……」
男は海上をゆく一団を眺めながらそんなことを呟いた。
鯨の歌が転調した。
強弱をつけて、ときに緩やかに、ときに激しく鯨たちは唄った。
雪が降る中を灯台の明かりがくるくると回る。それはまるで雪の闇夜という舞台で、海上に響くオーケストラを指揮しているかのようだった。
そして、鯨たちの唄声が長く細く響いて……、何十回目かの灯台の光りがこちらに向けられたとき、ライトを背に鯨たちがいっせいにジャンプ――ブリーチングをした。
ブリーチング、それは自分の力を誇示するためにすると言われている。
持ち上げられた巨体が海面に叩きつけられて、あちらこちらで水飛沫が上がった。海上という大舞台のフィナーレに相応しい演出だ。
――なんだってあんな辺鄙なところに人が住んでいるんだ?
今の配属になって以来、男はなんどとなくそんな問いを繰り返していた。
今夜、海上の丘の上に立って、その理由がやっとわかった気がした。
――荷物が少なくていいよ。手当もいいし。それに……それに、君さえその気ならきっといいものが見れるよ。きっとね。
そうだそうだ。また思い出した。あの時に前の担当はそう言ったんだ。
楽しい時はあっという間に過ぎ去った。着水から数時間、すぐそこまで迫ってきている目的地を前に「燃料」を補給したオドシシたちは威勢よく嘶(いなな)いた。その横で男は秘密結社から配布された資料に目を通した。
一番最初のページにはこう記されていた。
『我らが結社の目的はただ一つ。世界中の子ども達に夢を届けることです。我々の仕事はそのデリバリーです』と。
「たしか一番近いのは……この子の家だったな」
次のページを開く。そこにはリストが載っていた。それは目の前に迫った島で男の運ぶ「荷物」を待つ子どもたち、そしてその品目が書かれたリストだった。
一番上の項目に Toshiharu Tugumi と書かれていた。
「プレゼントは……双眼鏡、それにフィールドノート」
ああ、そうか、きっとこの子は……と男は理解した。男はその子の未来を想像し、リストをポケットにしまいこむと、ソリに乗り込み手綱を握った。
そしてこの地に生まれたその子の幸福と、この地に派遣された自分の幸運を思うのであった。
「素敵な時間をありがとう。そろそろ我々は行きます。子どもたちが待っているのでね」
男は手綱を波打たせた。オドシシたちが走り出す。四頭はホエルオーの背中の上で助走をつける。ちょっとブニョブニョしていて走りづらい滑走路だが、元気を取り戻した今なら大丈夫だ。 そして滑走路の鼻、潮の噴出孔のあたりでふわっと宙に舞い上がった。
手綱を握る男のかわりに、デリバードがホエルオーたちに手を振った。ホエルオーたちが潮吹きで応えた。
「メリークリスマス!!」
男は――いや、若きサンタクロースはそう叫んで口笛を吹くと、ぴしゃっと手綱を波打たせた。オドシシたちが中空で勢いづいて全速力で走り出した。
「みなさんお元気で、また来年に!」
鯨たちからソリが遠ざかる中、サンタクロースは確かにそう言った。
もう配属を変えて欲しいなんて思わなかった。
――なあ、『鯨の唄』を聴いてみたいと思わないかい?
ある夜のことだった。
少年に海をプレゼントした髭のおじいさんはそんなことを彼に聞いた。
そして、語りはじめた。巨体のホエルオーが唄う事、恋も唄うこと、流行り唄があること、昔、遠い異国の地でそれを聴いたことを。
「聴きたい! 俺も聴いてみたい!」
と、少年は答えた。
「そうかい」
と、おじいさんは笑った。
「それじゃあ、いつかは君に順番が回ってくるようにしてあげよう」
――本当? 約束だよ!
――ああ、約束だ。
シャンシャンシャンシャン。
シャンシャンシャン。
雪交じりのライトが照らす海上。
波音に混じって、鈴の音だけがいつまでも響いていた。