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町はようやく戦災から立ち直ろうとしていた。
空爆の焼け跡にはバラックが立ち並び、かつての繁華街には闇市が立ち、活気に溢れていた。道行く人々にも笑顔が戻りつつあった。
正午を告げる、時計台の鐘の音が風に溶ける。
闇市の立つ裏通りの場末では、ふと流れ出した音楽が人々の耳を捉えた。チェロの音色である。雑音交じりの、不器用な演奏であった。しかしそれでも人々は「おっ、始まったか」と賑わいだし、演奏者の周りにはすぐに人だかりができた。
目を丸くしているのは、人だかりに引き寄せられて初めてそれを目にした新参の者だろう。人垣の中、どっしりとした巨体を地に下ろし、古ぼけた大きなチェロを抱えて演奏しているのは人間ではない――雷電ポケモン、エレキブルである。
エレキブルの座している辺りでは、コードや電線が絡み合って、あちこち錆び塗装の剥げた変電器を取り巻いていている。時おりパチ、パチッと火花が飛ぶ。周囲のスラムに暮らす人々がめいめい勝手に電気を引くため、常にどこかしらショートしているのだ。電気ポケモンのエレキブルにとっては格好の「指定席」だ。
彼の演奏会は既にこの町の名物となっており、町の人々は彼を童話の主人公になぞらえ、『セロ弾きのエレキブル』と呼んでいた。
やがて彼は、勇壮で格調高いクラシックの演奏をたどたどしくも終える。
割れんばかりの拍手。演奏を終えた彼は聴衆に向けて丁重に礼をする。その顔つきと図体に似合わない上品なお辞儀に、聴衆の一人が吹き出したが、隣にいた常連客にたしなめられる。
セロ弾きのエレキブルは誇り高い音楽家なのだ。
さて、その日の夕方のことだ。
エレキブルは再び「指定席」に現れ、チェロの演奏を披露していた。第一楽章の展開部に入ったとき、急に、近くから、エレキブルの演奏とは全く違った調子の、美しい歌声が聞こえてきた。見ると、すぐ近くの街頭で、一匹のプリンが歌っていた。
エレキブルの周りに集まっていた人々の耳目が、プリンの歌へと集まる。音楽としては、その歌の方が自分の不器用なチェロ演奏よりも遥かに美しいことは、エレキブルも認めざるを得なかった。しかも、プリンの明朗で楽しげな歌声と、エレキブルのチェロの重く落ち着いたメロディーとが重なった結果生じるのは、ひどい不協和音であった。
「一緒に聴くと聞き苦しいわねぇ」
聴衆の一人の老婆がこぼす。
仕方なくエレキブルは、それまで演奏していた曲を止め、プリンの歌に合わせた伴奏を弾き始める。
ところが、その途端、プリンの歌はまた全く調子の異なった、哀愁漂う静かな曲へと変わる。
エレキブルがどうにか合わせようと自分の演奏を切り替えても、プリンは逃げるようにまた別の曲へと切り替えてしまう。まるで追いかけっこだ。不協和音は続く。
どういうつもりだ、とエレキブルがプリンの方を睨むと、プリンはエレキブルに向かってふふっとほくそ笑んだ。はっきりとした悪意を感じる笑みだった。
わけもわからぬ、唐突に向けられた悪意。エレキブルは混乱しつつも憤りを覚えた。しかしプリンの歌に聞き入っている人々の笑顔を見ると、そこに割り込んで怒鳴りつける気にもなれない。
仕方なくエレキブルは店じまいをし、ちょうど鳴り始めた晩鐘に追われるよう、その場を立ち去った。
それで終わりではなかった。
その後もそのプリンは、なぜかエレキブルの近くにばかり陣取って、自分の歌声を披露した。エレキブルがいくら場所や時刻を変えようと、すぐにプリンが近くにやってきて、エレキブルは追い出される、ということが繰り返された。
なぜだかはわからないが、プリンははっきりと嫌がらせのつもりで、エレキブルの邪魔をしていた。
とうとう耐えかねたエレキブルはその日、歌い終えたプリンを呼び止めて、その件について問いただした。
「なんだ、いつもボクの近くで下手糞なチェロを弾いているエレキブルじゃないか。何のつもりだ、とはどういうことだい?」
開口一番これである。危うく頭に血が上りかけたが、どうにか抑える。
「分かりきっているだろう。何故いつも俺の演奏の邪魔をするんだ? 俺に恨みでもあるのか?」
「邪魔だなんて、ひどい言いがかりだなぁ。ボクは自分の歌いたい場所で歌っているだけだよ?」
「ふざけるな!」
「アハハ、ふざけてなんかないさ」
エレキブルは声を荒げて怒鳴りつけるが、プリンはのらりくらりとかわし、取り合わない。愚直な性格ゆえ、真正面から言い合おうとするエレキブルは疲労感を蓄積させるばかりだ。
「わかった。そんなにお前が俺の近くで歌いたいというのなら、それはよしとしよう」
エレキブルは努めて冷静になろうとしながら、話題の矛先を変える。
「それならば、何故いつも俺の演奏と正反対の曲ばかり歌っているんだ? もしお前が望むのならば、お前の歌に俺の伴奏で協演してもいい」
「やなこったね。アンタの下手糞な伴奏なんか。ボクの歌の品位が下がってしまう」
エレキブルの内心でカッと怒りが燃え上がったが、言い返す言葉は出てこなかった。『下手糞』――そう言われても仕方ないほど、自分の演奏技術がプリンの歌の美しさに及んでいないことは事実だったからだ。
ぐっと言葉を詰まらせるエレキブルの様子を窺って、プリンはニヤリと笑う。
「聴衆はボクの歌を支持している」プリンは言った。「ボクの歌とアンタの演奏が衝突して、いつもアンタの方が追い出されるっていうのはそういうことだろう? アンタが自分の自由に演奏したければ、逆にアンタの演奏でボクの歌を打ち負かせばいい。それとも、そんな自信は無いかい?」
「貴様……!」
何か言い返したかったが、エレキブルは口をつぐむしかなかった。何を言っても負け惜しみにしかならない。
体格の差で言えば、自分より遥かに小さなこのプリン。だがこの場では、圧倒的な実力差の上に胡坐をかいて自分を見下ろすプリンを、エレキブルは見上げる立場にあった。
悔しさに歯軋りするエレキブルを見て、プリンはけらけらと笑って言う。
「まあ、身の程を知っているだけまだアンタは利口かもしれないね。で、話はそれだけかい? では、ボクはそろそろ失礼させてもらうよ」
風船がはねるような、ふらふらと地に足のつかない独特の動きで去っていくプリンの背中。
夕刻の街。エレキブルは地面の瓦礫を思いっきり蹴飛ばしたが、その音は、山へと帰っていくカラスの大群のけたたましい鳴き声にかき消された。
その夜。町外れにある、戦火に焼かれたかつての豪邸の跡。
ここをねぐらと定めているエレキブルは、今宵も独り、チェロの練習に励んでいた。
夕方、プリンとの言い合いで大いに気を悪くしたばかり。エレキブルは自分の気を落ち着けるため、最も得意とする、お気に入りの曲を弾いていた。自分が初めて覚えたヴァイオリン曲の、チェロ独奏のためのアレンジだ。
爆撃で空いた天井の大穴から、上弦の月が覗き見える。
月光が、弓を操る自らの右腕を照らす。おおよそ楽器を操るに相応しくない、大きくて太く、ごつい腕。
エレキブルはこの腕が今よりもまだ細く、器用に動いていて、弓を上手く操ることができた時のことを思い出さざるを得なかった。
かつてこの邸宅には、名の知られた音楽家の一家が住んでいた。
その家に生まれた彼は、しばらくの間自分もまた人間であり、成長したら音楽家になるものだと信じていた。
エレキッドから成長し、エレブーに進化した彼はすぐさまヴァイオリンの練習を始め、瞬く間に人間の音楽家たちさえ目を丸くするほどに上達した。
しかし、戦争が彼の運命を狂わせる。
「ごめんよ。お前はこんな姿になりたくはなかっただろうけど……」
今の姿に進化させられたエレキブルを前に、彼が母と仰いでいた人間が最初に告げた言葉は、今もはっきりと脳裏に焼きついている。
「どうかそのたくましい二の腕と、雷の力で、私たち一家を守っておくれ」
戦局が不利に傾き、敵軍の本土進攻の可能性が囁かれる中、音楽家の一家は身を守るためのより強力なポケモンを欲し、エレブーをエレキブルに進化させた。
それと引き換えに、エレキブルはヴァイオリンの演奏技術を失った。
進化してから初めて、ヴァイオリンを持とうとした時の絶望感は今も忘れられない。エレキブルのごつく、力強い二の腕は、エレブーのそれに比べて遥かに不器用であり、ヴァイオリンの繊細な演奏にはいかにも不向きであった。
だが、彼は音楽家の夢を諦めなかった。ヴァイオリンをより大型のチェロに持ち替え、死に物狂いで練習を重ねた。そうして彼は、エレブーだった頃には遥かに及ばないものの、どうにか聴くに堪えるほどのチェロの演奏技術を取り戻すことができたのだ。
やがて、彼の進化の甲斐もなく、音楽家の一家はあっさりと皆死んだ。軍需工場を狙った大型爆弾の直撃を前に、彼の力など何の意味もなさなかった。
幸か不幸かただ独り生き残ったエレキブルは、今更野生に戻ることも出来ず、路上でチェロを演奏し、通行人から食料を請う生活を始めた。
エレキブルは演奏を止め、自分の二の腕を月光にかざす。
何度、この不器用な二本の腕を切り捨ててやろうと思ったか分からない。それでもなお、この両腕を本当に失くしてしまったら、自分はもう死ぬしかないことも知っている。
潰した豆の跡。手のひらに刻まれた痕跡が物語る今までの努力が、確実に自分の演奏技術を上達させていることも、彼は知っている。
落ち込んだとき、彼は演奏を終えた跡に、自分に拍手をくれ、パンを投げてくれる聴衆の笑顔を思い出す。こんな自分の演奏でも、楽しみにし、応援してくれる人間はいる。そのことだけが彼の誇りであり、その誇りゆえ、彼は今まで努力を続けることができた。
あのプリンの歌は確かに美しい。
彼は美しく、かつ多彩な声の持ち主だ。低温から高音まで、どんな声でも自在に出せる。楽しげな曲から哀しげな曲、落ち着いた曲から激しい曲まで、どんな曲でもお手の物だ。
それは、チェロという音域の限られた楽器を扱い、しかも体格から演奏技術にも限界を抱える自分には望めない能力だ。
だがしかし、あのプリンには、決して自分のように、挫折や、努力の苦しみを知りはしまい。プリンという種族に生まれついたという幸運の上に胡坐をかいて、ひとを小馬鹿にするあんな奴には。
音楽が自己の表現であるならば、この苦しみを知っている自分の音楽には、決してあのプリンの歌には持ち得ない深みを持たせることができるはずだ。
エレキブルは曲目を変え、より難度の高い練習曲の演奏を始めた。その夜が果てるまで、彼はチェロを弾き続けた。
それから数日後のことだ。
エレキブルが指定席で演奏していると、またしてもプリンが邪魔をしに来た。プリンが歌いだすと、エレキブルの聴衆の何人かがそちらへ流れた。それどころか、プリンの周りにはすぐにエレキブルよりも多い人だかりが出来た。
だが、今度ばかりはエレキブルも負けられなかった。プリンが歌いだした後も、意地になって演奏を続けた。聞き苦しい不協和音が辺りを包み込み、聴衆があからさまに顔をしかめる。それでも構わず演奏を続けた。
「いい加減にしろ!」
聴衆の一人が怒号を発し、エレキブルに石を投げつける。
「オレはプリンの歌を聴きに来てるんだ! お前のヘタクソなチェロなんて聴きたくもねェんだよ!」
「ちょっとあんた! あたしたちのエレキブルになんてこと言うんだい!」
聴衆にはエレキブルを擁護する者もいたが、石を投げた男に同調する者もおり、真っ二つに分かれて大喧嘩を始めた。もはや演奏会どころではなかった。エレキブルはがっくりと肩を落とし、すごすごとその場を立ち去った。
「惨めだねぇ」
夕日に染まる、町外れの焼け跡。
チェロを背負い、瓦礫を踏み越えてねぐらに戻るエレキブルに、背後から声をかけたのはプリンだ。エレキブルはギロリと睨み返す。
「アハハ、ボクのことが憎いかい?」
もちろん憎くて仕方がなかった。だが、自らの誇りにかけて、そんなことは口に出せない。
「憎くなどはない。俺の演奏が至らなかったことが原因だ」
「アハハハハハハ!」
エレキブルの返答に、プリンが大笑いをする。エレキブルはひどく不愉快に思った。
不愉快には思ったものの、さすがのエレキブルも今回は、プリンとまともにやり合うことなくさっさと立ち去ろうと心に決めていた。だが、やがて、ひとしきり笑った後にプリンが愉快そうに切り出した台詞は、エレキブルにとって聞き逃すことができないものだった。
「なるほど、いつかはボクの歌を演奏で打ち負かしてやろうと、アンタは本気で思っているわけだ。滑稽だね! 自分のことをいっぱしの『音楽家』だなんて思っちゃってるんだからさ!」
ピクンと、エレキブルの眉間が引きつる。
「……なんだと?」
プリンはエレキブルが挑発に乗ってきたのを見ると、ニヤリと不敵な笑みを浮かべ、続ける。
「自分が下手糞であることは自覚しているけれど、一部の人間たちにきゃあきゃあと騒いでもらって、『こんな自分の演奏でも評価してくれる人間はいる』なんて、幸せな勘違いをしているのかな? つくづく、惨めなことだねぇ」
エレキブルは自分の手が震えていることに気づく。彼はその震えを握りつぶす。
プリンが何を言わんとしているのかは予測が出来た。それは、エレキブル自身が薄々気づきつつも、決して認めまいとしていたことだった。
「なぁ、本当は自分でも気づいてるんじゃないかい? アンタの曲を聴きに来ている人間が、ホントにアンタの『音楽』を評価していると思っているの?」
「……黙れ」
握り拳に力が入る。意識せざるとも、その拳は電気を帯び、パチパチと火花が飛び始めていた。
それ以上言うな、とエレキブルは念じる。
これ以上は、自分を抑えられそうに無い。
だが、プリンは言った。
「人間たちはアンタの演奏する音楽を聴きたくて来てるわけじゃない。チェロを弾けるだなんて芸のできるポケモンが物珍しいから見に来ているだけだ。アンタは『音楽家』なんかじゃない。言うなれば――そうだね、『猿回しの猿』さ!」
「黙れえええええええええ!」
逆上したエレキブルは、思いっきり腕を振り上げ、プリンめがけて振り下ろした。
プリンはすんでの所でかわす。エレキブルのパンチは空を切って、地面をえぐる。
「あは、あはは! そうだよ、アンタはチェロなんかより、そのぶっとい腕で暴力を振るってる方がお似合いさ! なぁ、やめちまえよ。音楽家の猿真似なんてさ!」
なおも挑発を続けるプリン。
エレキブルはがむしゃらに腕を振り回し、大振りのパンチを間断なくプリンめがけて打ち出すが、ふらふらと不規則な動きで跳ね回るプリンにはなかなか当たらない。
「目障りなんだよ、アンタみたいな奴は!」
プリンが叫ぶように言う。
「図体ばかりでかいオランウータンが、わざわざ自分から猿芸を演じやがって! そんなに人間を喜ばせたいなら、波止場で貨物の運搬でもしてた方がよっぽど有意義だろう。才能の無い猿は身の程を知って、身の丈にあった檻の中に納まってりゃいい!」
その罵倒がどこか悲鳴にも似た悲痛さを帯び始めていることに、頭に血の上ったエレキブルは気がつかない。
そして、ついにエレキブルの拳がプリンの身体を捉えた。
クッションのような感触。体中から湧き上がる激情に任せて、何度も何度も、エレキブルはプリンを殴り続けた。この感情が怒りなのか悲しみなのか、彼自身もうわからない。拳が割れ、二本の腕が壊れるまで、殴りつけてやろうと思った。
貴様に俺の気持ちがわかるか。種族に恵まれた貴様などに、人間の勝手な都合で永遠に夢を断たれた俺の気持ちが。
どれほど殴られても、不敵な表情を変えないプリン。
だがその様子が、突然に変化する。体を震わせ、ぐすんぐすんと少女のように泣き始めたのだ。
その様子に怒りをそがれ、我に帰ったエレキブルが腕を止める。
そのまま、しばらく泣き続けていたプリンだったが、突然、かすれた声で喋り始めた。
「……くだらない、身の上話でもしてやろうか」
怒りのやり場を失い、ばつが悪そうにプリンを見下ろすエレキブルを前に、プリンは話し出す。
「ボクのご主人様は、兵士だった。遠い外国の、ずっと北の方にある寒い町で、敵兵のポケモンにズダズダに体を切り裂かれて死んだんだ」
ひやりとした北風が、エレキブルの鼻先を撫でた。プリンは続ける。
「ボクらプリンは非力な種族だ。進化してプクリンになったり、高価なマシンで強い技を覚えたりしたところで、大して強くなんてなれっこない。美しい歌声なんて要らなかった――ボクは、ご主人様を守りたかった。守るための力が欲しかった」
――どこか身に覚えのある境遇。エレキブルはぐっと言葉を詰まらせる。酷使した両腕が、今になって突然痛み出したように感じられた。
「なぁ、なんでアンタは、音楽家になりたいだなんて思っちゃったんだ? アンタのたくましい体格と、雷の力さえあれば、物凄く強いポケモンになって、誰かを守ることのできるポケモンに――ボクがなりたくてもなれなかったものになれたはずだろう?」
それまで泣いていたプリンが、自嘲気味に笑い出す。雲が落とす影が周囲を包み込む中、彼は言った。
「身の丈に合わない夢なんて持ったって、不幸になるだけじゃないか」
既に日はとっぷりと暮れていた。
嗚咽を上げて泣き出すプリン。エレキブルは言葉を失い、がっくりと膝を落として、その場にうつむいた。
自分とは違う、恵まれた境遇に居る者だとばかり思っていたプリン。
だが目の前に倒れ伏し、泣いているのは、両腕を失った自分の死体だった。
――お前は刺々しくて、素直じゃない性格だから、もし僕がいなくなったとしたらその後が心配だよ。
プリンは主人の腕に抱かれ、その優しい声を聞いた。
主人の体温の温かさを感じ、ただその中で安らいでいた。
だが、やがて目の前の風景が暗転し、気づけばプリンは寒々しい廃墟の中にいた。
一時の混乱を経て、彼は自分が夢から覚めたのだと気づく。一筋の涙が、プリンの瞳から流れた。ゆりかごから放り出された衝撃は、この朝にもまた反復された。
あれから一ヶ月ほどが経っていた。
例の一件の後、二匹は和解し、翌日には和解のしるしとして一緒に演奏を行った。二匹の共演は、その後も何度か繰り返され、彼らは商売仲間となった。
「イテテ……。あの野郎、本気で殴りやがって」
皮肉屋のプリンと、プライドが高い上にすぐに手が出るエレキブルとは、その後も喧嘩が絶えなかった。昨日もちょっと調子に乗ってからかいすぎたばっかりに、エレキブルの拳骨を食らうはめになり、殴られた頬が今になっても痛む。
だがまあ、正反対な性格の二匹は、正反対であるがゆえ、まずまず気の合った凸凹コンビになっているのではないかと、プリンは頬をさすりながら思った。
ともわれ、今日もエレキブルとの演奏会の約束がある。
昨日の喧嘩のことならば問題ない。あいつがその程度の事を翌日にまで引きずらない性格であることは、プリンにももうわかっている。
プリンはねぐらを出た。
その日の演奏会も盛況のうちに終わった。
日も傾き始めてきた折、彼らは人通りの無い裏路地へ引きこもり、売上金として聴衆から得た小銭や食料を分け合った。
戦利品のコッペパンをかじりながら、ふとプリンは、エレキブルの荷物がいつもより大きいことに気がついた。いつも背負っているチェロとその他の演奏器具ばかりではなく、大きな風呂敷に缶詰やら酒瓶やらを詰め込んでいて、まるでこれから旅にでも出る、という具合だ。
プリンがそのことについて触れると、エレキブルは聞かれるのを待っていた、と言わんばかりに、自らの決意を語った。
「町を出るって?」
プリンは呆気に取られつつ尋ね返す。何の冗談だ、と思ったが、エレキブルの目は真剣そのものだった。
「ああ、いつかお前が言ったように、このままこの町にいると俺は『猿回しの猿』に甘んじてしまう。いつかはこの町を離れて、他の地を旅しながらチェロの修行をし直すべきだとかねてから思っていた」
「アンタ、まだそんな事を言ってるのかよ」
プリンが呆れ顔でたしなめる。
「何度でも言うけどね、身の丈に合わない夢なんて持ったって、不幸になるだけだよ。プリンが強くなりたくてもなれないように、エレキブルが一人前のチェリストになろうったって土台無理な話さ。野垂れ死にするだけだ」
「夢を追い続ける中で野垂れ死にできるなら本望だ!」
エレキブルが怒鳴るように断言する。
プリンの背筋が緊張した。エレキブルの決然とした瞳は、プリンの苦しい記憶を呼び覚ました――周囲の制止を振り切って、軍への入隊を決断した、彼の主人の姿だ。
二の句を継げられずにいるプリンに、エレキブルはにこりと笑って、言った。
「お前には感謝している。互いに野垂れ死にしていなければ、また会おう」
それが別れだった。
随分とあっさりとしたものだ。
夕暮れの町。古ぼけた大きなチェロを担ぎ、去っていくエレキブルの背中を、プリンはいつまでも見送っていた。
――いつかはこんな日が来ると思っていた。
エレキブルの姿が見えなくなった後、プリンは溜息を付き、独り言をつぶやいた。
「それにしても、たった一ヶ月、か」
さすが、考えなしの馬鹿は行動が早い。
馬鹿だ、とプリンは思う。あのエレキブルも、天国にいる彼の主人も。
彼らのような種族は、何故信じられるのだろうか? 目指した夢の先に何かがあると。その夢を叶えられずとも、例えその途上で死んでしまおうとも、夢を追うこと自体が幸福であると。
夢を断たれたところで死にはしないことを、プリンは知っている。かつて主人を亡くしてしまったら決して生きていけないだろうと信じていた自分ですら、こうして今も生きているのだから。夢なんて持っていなくても彼は生きてこらられたし、むしろ持っていないからこそ要領よく立ち回って、今後も生きていけるだろう。生きがいなんてものは、手ごろなものがいくらでも近くに転がっているものなのだ。手の届かない葡萄を取ろうと、わざわざ木に登る必要なんてない。
けれど。
あのエレキブルのように、一途に一つの夢を追う生き方に憧れる気持ちもまた、決してやむことはないのは、何故なのだろうか。
「……ふんだ、ばーか。ホントに野垂れ死んじまえ」
町の中心部へ向かう、路面電車の警笛が響く。
プリンの悪態が、エレキブルに届くことは永遠に無い。
また独りぼっちだ。
『セロ弾きのエレキブル』が町から消えた。
そのことはしばらく町の人々の注目を集めるニュースとなり、様々な憶測を呼んだが、時が経つにつれ皆忘れていった。とどのつまり、彼の存在感などそれくらいのものだった。
それでもなお、ほんの一握りの者だけは、いつまでも彼のことを覚えていて、その演奏が町から途絶えたことを寂しがった。
つまるところ、俺たちは“選ばれし者”らしい。
あのミュウがそう言ったのだから間違いない。
初夏のある日のことだ。”樹海”とも言えるほどのうっそうと茂る森の中に俺たちはいた。
額を流れる汗をぬぐって、木々の向こうの空を見上げる。梅雨の真っ只中にのぞいた晴れ間の空は雲量も多く、くすんだ水色をしていて――アイツが俺たちを置いて旅立っていったあの日の、鮮やかな瑠璃色の空と比べると、無残なほどに無感動だった。
「こらっ、遅いぞ。リョースケ! 何度も言うが、今、世界は危機に瀕していて、それを救えるのはボクたちだけなんだ。その使命感が君には無いのか?」
怒号を飛ばしてきたのは、前方十メートルほど先を歩いているアオイだ。
「わかってるよ! すぐ追いつくから、待ってろ」
悲鳴を上げ始めた身体にムチ打って歩調を速める。この森に入ってからもう数時間。起伏を乗り越え、茂みをかき分け、道なき道をずっと歩いてきた。いい加減もうクタクタだ。
じれったそうに俺を睨んでいたアオイのもとにようやく辿りつくと、彼女の表情はクルッと変わって、ハンティング帽のツバの下からニッと屈託の無い笑顔を俺に向けた。
「ミュウ……」
子猫の声をデジタル処理したみたいな、独特の響きの声で鳴いて、ミュウが俺たち二人の間をふっと風のように通り抜ける。
クスクスと笑って俺たちの回りをクルクルと飛び回るミュウ。木々の隙間から漏れる初夏の日差しの中、踊るように宙を泳ぎまわるミュウは、なんだかまるで空中に投影されたホログラム映像のようにも見え、奇妙に現実感を欠いていた。
「そっちでいいの?」
「ミュウ!」
ミュウはアオイの問いに無邪気な笑顔で頷いて、森の奥深くへ風のように飛び去っていった。
ミュウが飛び去っていった方向こそが、俺たちが進むべき道を示している。
「行こう、リョースケ!」
アオイが俺の手をとる。彼女は心からこの状況にワクワクしているらしく、まるで元気いっぱいの少年のようだ――事実、ボーイッシュな容姿の彼女は、まだ声変わり前の、それこそちょうど冒険への旅立ちどきである十一歳の少年のようにも見える。
こんなに楽しそうな彼女の姿を見るのは、いつ以来だろう。
「ああ……、行こう!」
俺たちは駆け出した。
そうだな、アオイ。俺たちはずっとこんな冒険に憧れていたんだ。ワクワクしてるのは俺だって同じさ。
――これから死ぬかもしれない、っていうのにな。
俺たちの幼馴染にはポケモンマスターがいる。
十一歳になろうという年、俺たちは小学五年生になり、アイツは修行のため旅に出た。
今やこの世界で知らないものはいないその少年の名はラピス。十二で犯罪組織ロケット団を壊滅に追い込み、十三でポケモンリーグを制覇し、そして今年、十四の誕生日を迎えた直後に世界一のポケモンマスターの座に登りつめた。
あの日の朝も、テレビはラピスの勝利を報じていた。チベットの奥地で秘伝の技を守り継いで来たという伝説的な一族の古老は、ラピス自慢のリザードンの前にあっさりとひれ伏した。もはやアイツに敵うものはいなかった。
テレビ画面の中。ジバコイルの十万ボルトが、メタグロスのコメットパンチが、リザードンのブラストバーンが飛び交うバトルフィールドの中心にアイツはいた。走り、跳び、ひっきりなしに動き回り、指示を叫ぶその姿はまるでダンサーのようだ。三色それぞれのスポットライトが照らす光の円がフィールドを駆け巡り、それを取り巻く観客席は何万という観客に埋め尽くされ、ラピスのポケモンたちがここぞと技を決めた瞬間、津波のような歓声が、カメラのフラッシュの奔流が一斉に噴き上がる。
一方のテレビ画面のこちら側。眠い目をこすり、ヨレヨレの制服を着て、朝食のアジの開きの骨をちまちまと取っては身をつついてる自分の姿がひどくちっぽけに思える。
俺たちとアイツとはもはや別の世界の住人だった。
森の奥深くへ、さらに一時間ほど歩いたところで、ようやく俺たちは一休みした。
休憩場所に選んだのは、樹齢千年はありそうな杉の大樹の根元だ。アオイのパートナーであるフシギバナがモンスターボールから出され、その巨体をどっしりと横たえる。フシギバナの発する、人の心を安らがせるという心地よい香りが漂う中、俺は腰を下ろした。
アオイはといえば、フシギバナの脇腹に身をうずめたかと思うと、すぐにすうすうと寝息を立て始めた。ああ見えて、彼女も結構疲れていたのかもしれない。
ジリジリと鳴くセミの声を聞きながら、ペットボトル入りのスポーツドリンクを何口か飲んで、ふっと一息をつく。
心地よい非日常感だった。空を流れていく雲を眺めながら、こうしている間にも、学校ではいつものように授業が行なわれているのだろうか、とぼんやりと思った。
「……ボクに、もっと才能があれば、」
アオイがフシギバナへ語りかける声が聞こえた。起きていたらしい。
「お前もラピスのリザードンみたいに、羽ばたかせてやることができたのかな」
それだけ言って、アオイはまた目を閉じた。
俺は自分のパートナーのカメックスが入ったモンスターボールを見つめた。
――ずっと考えていた。十一歳になろうとしていたあの年に、不安や恐れから逃げることなく、ラピスと一緒にポケモンマスターを目指す旅に出ていたら、と。今ごろ俺たちも、アイツと同じように、夢と冒険に満ちた輝かしい世界の中にいただろうか?
それは無いだろうな、と俺は首を振る。部活のレギュラーさえ勝ち取れない程度の実力。アイツとは最初からモノが違ったのだろう。
問題は、才能だけじゃない。
最近は学校も忙しくなり、他の趣味も増えて、ポケモンばかりにかまけている余裕がなくなってきた。試験期間には、一週間カメックスをモンスターボールにしまいっぱなしにして一度も構ってやらなかったことさえある。
そんなのはトレーナーとして失格だ。ポケモンは道具じゃない。トレーナーのことを“親”とも呼ぶように、トレーナーは自分のポケモンに対し、まさに我が子に対する親のような責任を負わなければならない。――わかっては、いる。
才能なんて無くたってめげずに、可能な限りの情熱と努力を全て一つのことに捧げることができるのなら、それはそれでカッコいいだろう。だが、俺にはそれさえできない。こんなザマなら、もうトレーナーなんて、すっぱりとやめてしまった方がいいのではないか、とも思う。
「ごめんな……、不甲斐ない所有者(おや)で」
その言葉を発したのはアオイだ。まるで俺の心を見透かされたようなタイミングにドキッとしつつ、そちらを向くと、彼女はどこか悲しそうな目をして、フシギバナの喉元を撫でていた。
「ミュウ」
ミュウが再び姿を現す。休憩時間は終わりだ、早く行こう、と。
俺は自分のモンスターボールを握り締めた。
――けれど、こんな俺でも、世界を救うヒーローになれるのなら……
今度こそは、決して逃げずに全力を尽くそう、と、俺は誓った。
いつも通りの一日は、あの日にもまた繰り返されていた。
授業の間の休み時間、五、六人の女子がアオイの席の回りに集まって、絡んでいた。彼女らはアオイの読んでいた本――図書室の奥から引っ張り出してきたらしい、開いただけで埃の立ちそうな分厚い文学全集の一冊――を取り上げて、口々にアオイのことをからかい、罵っていた。周りの男子もそれに乗って、女子どもに合わせて大笑いしたり、アオイへの悪口を飛ばしたりしていた。
アオイは終始無言で、表情一つ変えなかった。
やがてそんなアオイの態度に腹を立てた女子の一人が、アオイの本を教室のゴミ箱に放り込んだ。笑い声が響く。
その時、授業時間開始のチャイムが鳴った。女子どもがアオイの席から離れ、自分の席に戻っていく。自分の席の回りから人波が引いていくのを待って、アオイはすっくと立ち上がってゴミ箱の所まで行き、自分の本を拾い上げた。アオイは本の埃を払い、大事そうに抱えて、自分の席に戻った。
中学に入った辺りから、アオイは急にエキセントリックな言動が目立ち始めた。自分のことを「ボク」なんて呼び始め、女の子らしい服装を嫌い、理屈っぽい話し方をするようになった。俺にはタイトルの意味すらわからない難しそうな哲学書を読み始めたかと思えば、アフリカのどこかの小国の政治情勢だとか、鉱物の組成だとか身近な小さな虫の生態だとか、そういう奇妙なものに対し唐突に興味を示し出したりした。
アオイはまた、クラスメート同士の馴れ合い、特に自分を曲げたり抑えたりしてまで相手に合わせたりするような、そうした欺瞞的な社交関係を毛嫌いしているようだった。周囲はそんなアオイを理解しなかったし、またアオイの方も周囲の低レベルな連中を見下している節があった。
必然的に、彼女はクラスの中で孤立していった。
ミュウに導かれ、樹海の中をひたすら歩いていた俺たちは、やがて森の切れ目に差し掛かった。
その先にある風景を見て、アオイが叫んだ。
「見ろ、リョースケ!」
目を疑った。そこにあったのは、ピラミッド風の巨大建造物を中心とした、エキゾチックな遺跡群だったのだ。古代マヤ文明のものを思わせるピラミッドを中心に、神殿や祭壇らしい石造りの建物や、奇妙な様式にデフォルメされた人間やポケモンの像が森の中に開けた広場を取り囲んでいる。
唖然とする俺をよそに、アオイは遺跡を抱え込む大きな広場の中へ向かって駆け出していく。夏の陽射しの下、瓦礫に混じってレリーフや神像らしきものが散乱する広場を、アオイはフシギバナと一緒に「すごい、すごい」と大はしゃぎしながら駆け回った。
散乱するレリーフにはアンノーン文字が刻まれ、またそれぞれポケモンが描かれているらしかった。あれはネイティオ、あれはプテラ、あれは……ボスゴドラだろうか?
「ミュウ!」
周囲の景色に気を取られる俺たちを咎めるように、ミュウが再び姿を現す。
俺たちの周りをつむじ風のように飛びまわった後、ピラミッド風の建造物の方に向けて飛び去っていった。
俺たちはまたミュウを追いかけ、その方角へ向かう。
「こんな巨大な宗教施設、いったいどんな人々が建造したんだろ?」
アオイが漏らす。
宗教施設、か……。宗教といえば、アオイの奇怪な宗教観を聞いたのは、ミュウが現れる直前のことだった。
「この国の国民の大多数は無宗教だなんて言うけれど、実際にはみんな何かしらの宗教を信仰しているよね」
あの日、帰宅途中の道で、アオイは唐突にそんな話を切り出した。
俺の部活が終わった後、近くのコンビニで時間をつぶしながら待つアオイと落ち合い、一緒に帰るのが俺たちの習慣だ。他のクラスメートには秘密の関係である。
友人ぶっておきながら、学校ではアオイに対するいじめを見て見ぬふりをする。そんな俺の卑劣な態度をアオイは咎めなかった。むしろ、学校では自分に構うなと、重ねて釘を刺してきていた。
そんなアオイの言葉に寄りかかって、俺は自分の勇気の無さから目を背けていたのだ。
「まあ、そうかもな。シュンの家は神社だし、シンイチの家はカトリックだ。ウチは……浄土真宗だったかな?」
「そんな話をしてるんじゃない」
アオイは笑った。
「ボクの定義するところによれば、自分の人生に何らかの価値を与える価値観は全て一種の『宗教』なんだ。『夢』や『信念』と呼ばれるもの……、それに各種の自己認識(アイデンティティ)。無神論者を気取っていたって、実際にはどんな人間もそうした自分自身の『宗教』に縛られている――そうでなければ、生きることも、死ぬこともできないのだから」
くすくすと、おかしそうに笑いながらアオイは話した。俺には何が面白いのかわからない。
「純粋に論理的に考えれば、人生に何ら価値の無いことは自明だからね」
アオイはそう言い切って自論を結んだ。
――じゃあ、君は?
そういう君自身は、君のいう所の『宗教』を何か信仰しているのか?
そう問おうとした時、
俺たちの前にミュウが現れた。
ピラミッド風の建物には、地下へと続く階段の入り口が設けられていた。その先に伸びる地下道を俺たちは進んでいった。
通路は複雑に折れ曲がっていたが、おおむね螺旋状に地下深くへと下りて行っているようだった。
先を行くのがドータクン、くるくるとコマのように回りながらそれについていくのがネンドール。この二匹はミュウの手下のようなものらしい。そのミュウはドータクンの頭の上にちょこんと坐っている。俺も自分のカメックスを出した。アオイのフシギバナも合わせて、二人と五匹から成るこのメンバー構成で、俺たちは時々現れるアンノーンを追い払いながら進んでいった。
ミュウの体が蛍光灯のように光り、その周囲だけを照らしている。
行く手の先にはただ真っ暗な闇が広がっていた。
それでも、アオイといえば不安よりも好奇心からくる高揚感の方が勝っているらしく、意気揚々と前に進んでいく。
それはそれでいい。俺だって少しはワクワクしている。
だけど……
「なんだろう、この違和感……」
「ん? どうした、リョースケ?」
「……いや、なんでもない」
そう答えておいたものの、俺は全身にまとわりつくような、なんともいいがたい違和感を拭い去れずにいた。
俺は自分のカメックスを見た。かつて、アオイとラピスと一緒にオーキド博士から貰った長年の相棒は、俺の視線に気づくと、任せとけ、とでもいうかのように胸を張った。
つまるところ、俺たちは“選ばれしもの”なのだと、ミュウは言った。
あんな日常にはもう嫌気が差していた。いつもどこかへ旅立ちたいと願っていた。自分の限界なんてまるで無いかのように、パートナーのポケモンと一緒にどこまでも羽ばたいていくラピスのことが羨ましくて、また言いようの無いコンプレックスに常に蝕まれてもいた。
旅先でのいくつもの出会い、いくつもの別れを経て、自分のポケモンとの絆を深めていく……。ラピスが旅立っていった先にあるはずの、夢と冒険の世界への憧れは募るばかりだった。
新しい世界への扉の鍵は、ミュウによって唐突に与えられた。
聞いて驚け。俺たちには世界を救う責務が課せられたのだ。
ミュウが語ったところによると、かつてこの世界では『光』と『闇』の激しい闘争が行なわれていたという。百五十一億年に及んだ熾烈な争いは、二千年前にある一人の人間の戦士が『闇』側の最強の将であった冥界の王ギラティナを封じることによって一旦終結した。
しかし、長い年月を経て封印は徐々に解けていき、今ギラティナは復活を遂げようとしている。もしそうなれば、沈黙していた『闇』の勢力は息を吹き返し、『光』との戦いが再び始まることだろう。二千年間の『光』の支配の中で安定して発展を続けてきた人類の文明の存続は危うくなるだろうし、長い平和の中で『光』の勢力が力を弱めている中、今ギラティナが復活すれば両勢力の力関係は一気に逆転しかねない。『闇』が支配する世界への転換――それは今ある世界の滅亡を意味する。
事実、近年多発する異常気象や社会の混乱は、『闇』の勢力が息を吹き返しつつあることを示す兆候なのだそうだ。
なんとしてでも、再び封印をかけなおし、ギラティナの復活を阻止しなければならない。そのためには俺たち二人の力が必要になるらしい。
なぜ俺たちなのか? その理屈はいまいちよくわからなかったが、俺が理解できた限りのことをかいつまんでいえば、どうやら古代人が当時の誰かのDNAにギラティナを封印するために必要なプログラムのようなものを仕込んでおり、それが現代になって俺たち二人の中で発現したというようなことらしい。
シャッターの閉まった印鑑屋の前、タバコの自販機の光を浴びて、ミュウはそんな突拍子もない話をテレパシーのような何かで語ったのだった。
にわかには信じがたい話だったが、目の前にいるのは確かにあの幻のポケモンといわれるミュウである。ただ事じゃない事態が起こっていることは確かだ。
「行こう、リョースケ」俺が戸惑いを隠せないでいる横で、アオイは目を輝かせ、力強くそう言った。「世界を救うために!」
かくして、夕暮れの通学路上にて、俺たちは冒険への出発を決意したのだった。
地下道を歩き始めてどれほどの時間が経っただろうか。進んでいくにつれて、道はどんどん狭まっていった。
「この地下道は全体として、子宮へ至る産道をイメージして作られているんじゃないかな? 冥界の王が封印されているということは、おそらくこの遺跡群は『死者の世界』をイメージして作られたのだろうけれど……。古代人の宗教が『死』を『生前の状態への回帰』と捉えていたとしたら、『母胎への回帰』をメタファーとしてこの施設が建造されたというのもあり得る話だろう」
横を歩くアオイがそんなことを話す。
果たして俺たちは、程なくして、アオイの仮説が当たっているとしたら『子宮』にあたるのであろう、広々とした一室へと行き着いた。
部屋の中央には、奇妙な風貌の巨大な石像――いや、氷像? ――が置かれていた。
「これが、ギラティナか……」
その高さは俺たちの背丈の三倍近くはある。鎧を纏っているかのように、無機質な突起物や板状のものに覆われた六本足の竜の姿。
何か不安をかきたてるオーラのようなものが感じられるそのギラティナ像に俺たちが圧倒されていると、ミュウがドータクンの上からふんわりと飛び上がり、ギラティナ像の側まで行く。
「ミュウ」
ミュウはギラティナ像の手前に設けられた台のようなものを指差した。ミュウの身体が発する光に照らされ、台の上に二つの手形が描かれているのが見えた。
俺はアオイと目を見合わせ、台の近くへ進み出ていって、その手形に自分たちの手のひらを合わせた。
やはり、というべきか、二つの手形は俺たちの手のひらの形とぴったり一致していた。
台が青白く光りだす。青白い光はやがてギラティナ像の全身をも覆い、水面が波打つように明滅を繰り返す。台に置いた手を通じて、自分の身体がこの遺跡と繋がり、何かエネルギーのようなものが吸い出され、あるいは送り込まれているような感覚がした。
このまま順調に行けば、これでギラティナの再封印は完了するという。
――世界を救う冒険への出発だなんて意気込んできたけれど、これで終わってしまうとしたらずいぶんとあっけないな。
そんな想いが頭をよぎる。
あっさりとすむならそれに超したことはないはずだが、心のどこかに、これ以上の何かドラマティックな展開を期待する気持ちがあることは否定できなかった。
そのせいだろうか?
果たして、その願いは叶えられてしまった。
突然、エネルギーが逆流してきたかのように、雷に打たれたような衝撃が俺の身体を襲った。
「ぐっ……!」
「うわっ!」
バチン、と何かが弾けるような音と共に、俺たちの身体が台から弾き飛ばされる。
「ミュウ!」
ミュウが叫び声を上げ、ギラティナ像を指差す。
パリン、パリンと、ギラティナ像の表面を覆う氷のようなものに亀裂が入っていき、剥がれ落ちていく。やがて、その中から現れた不気味な風貌の竜が身を震わせ、咆哮を上げた。
「ビシャアアアァァァアアアン!」
時は既に遅かったのだ。
冥界の王ギラティナは復活を遂げた。
俺たちは抵抗を試みたが、かつての『闇』の猛将は到底俺たちの敵うような相手ではなかった。カメックスもフシギバナも攻撃する暇さえなく、相手のギラティナの先制の一撃で吹っ飛ばされた。
「フシギ……っ」
吹き飛ばされたフシギバナに気を取られアオイが背を向ける。
そのアオイに向かってギラティナが再び攻撃のモーションに入る。
「ミュウ、“トリックルーム”だ!」
咄嗟の判断だった。すかさずミュウは“トリックルーム”を発動。その場にいる者全員の素早さが逆転し、それまで俺たちを圧倒していたギラティナの動きが極端に鈍る。その隙に俺はアオイをかばって押し倒す。
逆にこの場で最高の素早さを得たドータクンがギラティナに対し“催眠術”を試みる。眠らない。レベル差がありすぎる。しかし、ギラティナの動きをさらに鈍らせる程度には効いている様だ。
一方のミュウとネンドールのエスパーポケモン二体も、実態の無いゴースト属性であるギラティナの身体を全力の念力で押さえつける。
一時的にギラティナの動きは封じられた。
だが、この状態が持つのはせいぜい“トリックルーム”の効果が持続している間だけだろう。
――その間に俺たちは、決断しなくてはならない。
「リョースケ」壁に打ち付けられたフシギバナの様子を気遣いつつ、アオイが言う。「もう迷ってる時間はない」
「ああ……」
俺たちは互いの手を握り、向かい合った。
ミュウは語った。仮に復活を遂げてしまった後でも、俺たちにはギラティナを封じるための最終手段が残されているのだと。
――自分の命を代償にすること。
俺たち二人が命を捨てることで、ギラティナに確実に封印をかける。
そんな方法を古代人は残していた。
「ビシャアアアアアァァァァアアアアン!」
念力の呪縛を押し破って、咆哮と共にギラティナが口から撃ち出した“波動弾”が爆音を上げて天井をえぐる。崩落する天井――危うく巻き込まれそうに俺たちを突き飛ばし救ったのはカメックスとフシギバナだった。
俺は身を起こし、自分のカメックスの様子を確かめた。もう力を使い果たしてしまったようで、苦しそうに身を横たえている。自分のポケモンの危機に、俺は激しく動揺した――幸いにも、反射的に、激しいショックを受けることができたのだ。駆け寄ってその身を抱き起こしてやり、その顔を覗くと、カメックスは優しい微笑を俺に返した。
――どうしてこいつは、こんな俺のことをこんなに慕ってくれるんだろう? 俺自身は自分の価値なんてまるで見出せないのに、こいつにとってはそれでも俺は価値ある人間なのか?
ありがとう、と俺はカメックスに礼を言い、最後にその身を抱きしめてから、モンスターボールに戻した。
リョースケ、と背後から声がかかる。俺と同じようにフシギバナをモンスターボールに戻し、意を決したような顔を向けてくる。俺たちは互いの意思を確認する。
「……決めたよ、ミュウ。頼む!」
アオイがそう声をかけると、ミュウはギラティナへの攻撃の手を緩め、こちらを向いて頷く。
直後、ミュウの身体がフラッシュのように光り輝く。
グラリと地面が大きく揺れる。部屋の壁が突如としてバチバチと鳴りはじめ、何条もの稲妻が表面を走る。
巨大な轟音。何かが崩れる音。ガラガラと音を立て、この部屋に続く道が崩壊し、埋まる――これで、どちらにせよ俺たちが戻る道は断たれた。
「グオオオオォォォォォォオオオオオン!」
唸り声を上げ、ギラティナがへたり込む。
青白い稲妻が網目のようにギラティナの身体を覆い、網に捕らえられた獣のようにその中でギラティナは呻き苦しむ。遺跡が持つ全てのエネルギーを、ギラティナの封印に費やしているのだ。その効果もまた一時的なものに過ぎない。
ミュウが俺たちの側にやって来て、儀式の準備を始める。俺たちを取り囲むように、蛍光色に輝く魔方陣が床面に出現する。
魔方陣の中で、俺はアオイの肩を抱いた。アオイの身体は少し震えていた。
「大丈夫か?」
「うん……。やっぱり、少し怖い、かな」
儀式の方法はこうだ。
――魔方陣の中、俺たち二人が口付けを交わすこと。
アオイの顔を見つめる。
それは幻想的な光景の中だった。魔方陣の放つ神秘的な光の輝きは、まるでここが透明度の高い南国の海の中であるかのような光の加減を演出していた。柔らく、ゆらゆらと揺れる光に包まれたアオイの姿は、いつもの凛とした印象とは違ってずいぶんと儚げだった。
俺は今までずっと、アオイを異性として意識することを避けてきた。自分が彼女に抱いている感情のことを「恋愛」なんて言葉に簡単にカテゴライズしてしまいたくはなかったし、何よりもアオイを自らの穢れた欲望の対象として見ることは決してすまいと心に誓っていた。けれど、今目の前にいるアオイは、男みたいな振る舞いの中に隠していた女の子らしさを無防備に露にしてしまっているようで……
透明な二つの瞳は少し潤み、その中に不安を宿している。彼女のその顔の――唇にキスをすれば、全ては終わる。
「リョースケ」
アオイの両腕が、俺の肩に回る。
「大好き」
その瞬間のアオイの笑顔は、今までに一度も見たことがないほどに輝いていた。
――終わり方としては、最高なんじゃないか、という気がした。好きな女の子と一緒に、世界の危機を救って消えていく。
だが……
俺は考えなければならなかった。
ずっと付きまとっていた“違和感”の正体を。
「やめよう、夏沢」
彼女が、きょとんとした顔で俺を見る。そうだ。なぜ忘れていたんだろう――中学に上がって以来、俺は普段、彼女――夏沢葵のことを下の名前では呼んでいなかった。
“違和感”の正体なんて、はじめから明らかだった。
『光』と『闇』の闘争だなんて陳腐な世界観。古代人がDNAにどうこうしたとかいう無理のある設定。
こんな荒唐無稽でご都合主義な物語が、現実であるはずがないのだ。
「こんな無茶苦茶な話、君だって本気で信じているわけじゃないだろ?」
「何を、いってるんだ……?」
「いい加減、目を覚まそう、夏沢。ただの中学生が二人死んだごときで、世界は救われも滅びもしない。それが現実だ」
耳をふさごうとするかのように上がる夏沢の腕を、俺は掴み止めた。
「思い出せ、夏沢――この世界に、ポケモンなんていないんだ」
空気が、シンと静まったように感じられた。
「ハハ……、何をいってるんだ、リョースケ」
俺の手を振り払って離れていった夏沢は、信じられないといった表情をしていた。
「ポケモンがいないだなんて、正気でいってるのか? ボクたちの目の前にいる彼らが、君には見えていないとでも?」
「これは夢だ――夢なんだよ、夏沢。ポケモンがいるのはゲームの中の世界だけだ。任天堂が出したゲームソフトの――」
「うるさいッ!」
俺の声をさえぎって、夏沢は叫ぶ。
うつむいて、身体を震わせ、ほとんど泣き叫ぶかのように、彼女は続けた。
「ボクは……信じないぞッ! この世界には……いるんだ! たくさんのポケモンたちが――ボクらに夢と冒険をくれる、素敵な生き物たちが……ッ!」
「お、おい……」
「来るなッ!」
俺が伸ばした手を叩き落し、夏沢は面を上げて俺を睨みつける。俺は慄然とした。怒りか、悲しみか、絶望か――烈しい感情に彼女の顔は歪み、その目に宿る光は炎のように熱くも、氷のように冷たくも見えた。
凍り付く俺に夏沢は背を向け、走り去っていく。俺は夏沢を追おうとした。だが、そこに突然ミュウが割り込む。目の前でミュウの身体がみるみるうちに変化していく。巨大化し、手足が骨ばっていき、筋肉が隆起し――ミュウツーの姿へと変身を遂げる。
ミュウツーの鋭い眼光が俺を射抜く。刹那、俺の身体は後ろに吹き飛ばされ、石壁に激突。全身を激痛を襲う。
「あが……ッ!」
凄まじい力で壁に押さえつけられ、声を出すこともできない。特攻種族値百五十四タイプ一致のサイコキネシス――それは夏沢が俺を拒絶する意志のメタファーだ。
――俺たちはいつから夢を見ていたのだろう?
俺は徐々に思い出してきていた。
家に帰らず、二人で夜明けを待ち、“樹海”の最寄り駅までの切符を買って、始発の電車に乗り込んだ。電車の中。いつもの無駄話。旅の目的は、お互いに一度も口に出さなかったけれど、はっきりと認識していた――彼女はそこで自殺するつもりで、俺はついていくつもりだった。
ミュウなんてどこにもいなかった。
宗教の持つ大きな意義は、『生』に価値を与え、『死』への恐怖を和らげることだ。急ごしらえで不出来な『宗教』――それでも彼女は信じる必要があった。大好きなポケットモンスターの世界の中で、最も幸福な形で自らの人生にピリオドを打つために……。
彼女は、ずっと戦い続けてきたんだ。人生に意味があるなんて本当は信じちゃいないのに、それでも何かになろうとする、何かを変えようとする戦いを決して止めなかった――戦う前から諦めて、ずっと逃げ続けてきた俺と違って。
そんな彼女がここまで追い詰められてしまう前に、なぜ俺は助けの手を差し伸べてやれなかった? できたはずなのに、彼女の苦しみに気づいていたはずなのに、そこからさえ逃げ続けてきた。
サイコキネシスの重圧は彼女の拒絶じゃない。俺自身の自責の念だ。
だけど、だけど俺は……
「君に……っ……生きていて欲しいんだっ! 葵!」
声を絞り出した。
その瞬間――光景が、フリーズした。
ビーッという不快な電子音と共に、白黒の画像の乱れが眼前を覆う。鳴り響く雑音、押し寄せる嘔吐感。ミュウツーの圧力が消え去った代わりに、五感すべてが混沌の渦に呑み込まれる。
強烈な眩暈。ぐるぐると世界が振り回されるような感覚。俺がようやくそこから立ち直ろうとした時、目の前の光景に変化が起こる。音と映像のノイズの中から、馴染みのあるあの穏やかなBGMと共に、最初に現れたのは――マサラタウン。
光景はめまぐるしく移り変わっていく。オーキド研究所。セキエイ高原。ウバメの森。シロガネ山。地下通路――
「葵! どこにいるんだ!」
ポケモン世界の各地を駆け巡り、俺は葵の姿を探した。
時間だけが空しく過ぎていく中、後悔と自己嫌悪の念が胸を去来する。
葵を見つけたところで、俺は彼女にどんな言葉をかけたらいい?
『死ぬ勇気があるくらいならなんだってできる』? 『生きていればいいこともある』?
そんな言葉、俺自身だって信じちゃいない。
ずっと戦い続けてきた彼女に、ずっと逃げ続けてきた俺がいまさらどの口で「生きていて欲しい」だなんて言える? だからせめて――と、俺は決めたんじゃないか。一緒に殉教してやろうと。彼女を独りで寂しく死なせてはやるまいと。世界の誰が認めなくても、彼女にとっては意味のある死を選ばせてやろうと。なぜ土壇場で壊した? 結局のところ、自分の命が惜しくなったというだけなんじゃないのか?
違う。それは――違う!
俺は、それでも俺は……
――俺は?
プチッ、と電源が切れるように、周囲が真っ暗な闇と化す。
暗闇の中、俺はやっと葵の姿を見つけた。
闇の果てで、彼女は独りうずくまっていた。すぐ近くにいるのに、歩いても歩いても手が届かない、そんな場所に。
――さあ、帰ろう。葵。ゲームの時間は終わりだ。
……泣くなよ? 仕方ないだろ?
いや……
――泣いているのは、俺か……
………………。
……………。
…………。
………。
……。
…。
俺たちは夢から覚めた。
生々しい現実の感触が、急に襲い掛かってきた。
全身の痛みに疲労、空腹。肌を打ち、滴り落ちていく雨水の冷たさ。
誰かの声が聞こえる……。
行方不明になってから三日目。俺たちは衰弱しきった状態で、捜索隊に救出された。
森の中で一冊のノートを失くした。
物語が綴られたノートだ。
ラピス・ラズリという名の、ポケモントレーナーの少年を主人公とした物語。
十一歳になろうとしていたあの年から、俺と葵はずっとその物語を二人で作り続けてきた。ラピスは超強くてカッコよく、冷酷さと心優しさの両面を合わせ持った少年だ。彼はポケモンマスターを目指す旅をしながら、様々な事件を解決し、人々を救っていった。ある時は犯罪組織の陰謀を阻止し、ある時は悪徳政治家の不正を暴き、またある時には市井の人々のささいな争い事を仲裁した。
彼は俺たちにとって、社会や周囲の大人たち、クラスでの人間関係など、様々な人や物事に対する不満の代弁者だった。
救出された後の俺たちは、すぐさま病院に運ばれた、らしい――その辺りのことを、意識が混濁していた俺はよく覚えていない。
ただ一つ覚えているのは、俺を搬送した救急隊員に、葵の義父を彼女への面会に来させるなと必死に訴えたことだけだ。
「家に帰りたくない」
あの日、学校からの帰り道、葵は俺の制服の裾を掴み、そう訴えた。その声は震えていた。
今夜葵の母親は用事で出かけていて、葵とその義父だけが家に二人きりになるのだという。
片親だった葵の母親は、去年再婚した。葵が新しく義父となった男のことをひどく恐れているらしいことは知っていた。
葵は詳しいことを話さなかった。俺も聞かなかった。
だけど、俺は彼女の悲鳴を聞いていたはずだった。
ある日、葵の綴った物語の中で、ラピスのリザードンはローティーンの少女をレイプしたロリコン男を焼き殺していた。
一緒に逃げてほしい、と葵は頼んだ。どこへ、と俺は尋ね返さなかった。おおよそのことは感じ取れたからだ。
一旦帰宅した俺は、例のノートを持ち出し、親の金をくすねて、家を抜け出した。葵と落ち合い、一緒に夜明けを待って“樹海”行きの切符を買った。
――現実は、辛いね。
いつだって無慈悲で、理不尽で、矛盾だらけで、キレイ事だけじゃ生きていけなくて。
だからこそ、俺たちはポケットモンスターの世界に憧れるのだろう。
生々しい暴力やセックスに汚されていないネバーランドに。
一人では何の力もない十一歳の少年でも、ポケモンという素敵な仲間さえいれば、どこまでも自由に旅していくことができる世界に――こどもでも、世界の闇を打ち破る術を持つことができる世界に……。
――どこかの評論家なら、こんな俺たちの姿を見て、『最近の子供はゲームと現実の区別もつかなくなって……』などと一論をぶつのかもしれない。ああ、言いたければ言うがいいさ。だけどな――そんなことを偉そうに言う奴らの、誰が葵を助けてやれた? 誰が葵に手を差し伸べてやれた?
例え親に、教師に、級友に、自分自身に裏切られたとしても――虚構(フィクション)だけは、いつも俺たちの味方だったんだ。
それから一週間が過ぎて、ようやく俺は葵と面会する機会を得た。
初夏の陽射しが窓から差し込む、病室のベッドに、葵は力なく横たわっていた。
葵の身体はやせ細り、頬はこけていた。腕から伸びる点滴の管が痛々しい。仰向けのままじっと動かずに、天井を向くその目は何物も捉えていない様だった。すぐ近くに行くまで、俺のことに気づきもしないようだった。
「笹本か」
虚ろな目でやっとこちらを向いた葵が、俺を苗字で呼ぶ。
俺は最初、努めて明るく振舞いながら、持参した見舞い品を差し出した。樹海で失くしたノートの代わりの、新しいまっさらなノート――けれど葵はついと目をそらして、見向きもしなかった。
そして俺は、葵にかける言葉を失った。何も言えぬまま、葵の傍で、ただ時間だけが過ぎていくのを待つ他なかった。
病室に射し込む陽射しが暗くなる。雲の影が通り過ぎたのだ。
開いた窓から、涼しい風が流れ込み、風鈴をチリンと鳴らす。
ジリジリと大声で鳴いていたセミの声が、唐突に途絶えた。
「……カッコ悪いね、私たち」
突然、葵がそんなことを呟いた。
くすくすと、自嘲気味に笑い出す葵の姿が、ただひたすら哀しい――頼むから、そんな何もかもを諦めたように笑わないでくれよ。
「……葵」
俺は葵の身体を抱き締めた。
葵はビクリと身体を震わせ、それから身をもがき始めた。
「……離せよ、笹本――離せ……っ!」
抵抗する葵を、しかし俺は離さなかった。
いつの間にか、俺の目からは涙が溢れ出していた。両目からこぼれ落ちていく涙が、葵の肩に落ちる。
――脳裏に蘇るのは、あの日の鮮やかな瑠璃色の空。
実際には見たはずのない、けれど記憶の中ではこれまでに見たどんな青空よりも鮮やかなそれは、葵の綴った物語の中に存在した空。小学五年生の葵が綴った、ラピス・ラズリの物語のプロローグ。
『そうか。今日からは俺が、お前の“親”なんだな』
瑠璃色の空の下、ラピスがその言葉とともに、滅多に見せることの無い笑顔を自らのパートナーと認めたヒトカゲに向けたとき、彼の旅は始まった。親の愛情に恵まれずに育ち、他人に心を許すことの出来ない少年に育った彼は、一匹の純真無垢なヒトカゲとの出会いによって変わっていく。
それは、葵が既に乗り越えてきた思考――今となっては、既に彼女の中で否定し去られた思想の痕跡。
けれど、語り得る全ての言葉が空虚なものになろうとも、その物語に感動した俺の存在は――物語の向こうにいた彼女に魅了され続けてきた俺の気持ちは、嘘じゃないんだ。
俺は――そう俺は……
――“君”という物語を、これからも読み続けていきたいんだ。
俺は、もう逃げやしない。これからは、君と一緒に戦っていくんだ。俺はもう二度と君のことを裏切らない。カッコ悪くたって、他の誰に笑われたって構うものか。
「……亮助……ぇ…………」
嗚咽を上げて泣き始めた葵を、俺は強く抱き締めた。
真っ暗な森の中を彷徨い歩く中見つけた灯火(ランプ)のような、この温もりを――もう二度と、手離すもんか!
――まっさらなノートから、また新たな物語を始めよう。
ポケモンマスターを目指す少年にだって負けやしない。
俺たちは、俺たちの旅路を続けていこう。
大丈夫。
俺たちには強いポケモンも、
ポケモンずかんをくれるオーキドはかせもいないけれど……
――いつもいつでも本気で生きている、
“仲間”だけは、いる。
しばらくリアルの方にかまけてて、ストコンベストのUGM改稿くらいしかできていなかった間に、こんな作品が!
……ええ、大変遅くなりましたすみません。
グッドでアルティメットでウルトラなおじさんが、おじいさんになった姿、ニヤニヤしながら読ませていただきましたよ!
まさかこんな未来が待ちうけていようとは!
アルティメットでグッドな未来が彼に、そして世界に訪れるのか、新天地で彼がその糸口を見つけられるのか、続きが気になって仕方ありません。ニヤニヤ。
また、UGM作者としては、三人称文になると、また全然違った趣になるなぁというのが印象的でした。
> 【書いていいのよ】
> 【好きにしていいのよ】
【むしろ続き書いてほしいのよ】
> 【レイニーさん、アルティメットグッドマンお借りしました】
ちなみに超今さらですが、アルティメットグッドマン自体パク…パロディなので、(出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A9%E3%81%8D%E3%81%A9%E3%81%8D ..... A.E3.83.BC)
私が「お借りしました」と言われるのもアレかもです。
しかし、マサポケ的にはおじさんはコピーレフトです。
スケベクチバシさんみたいに広まればいいのよ!
最後になりましたが、素敵な作品、ありがとうございました!
バレンタイン…… 正月気分がすっかり抜け、更に一月が過ぎた頃にやってくる。ちなみに一部の人間には『忘れた頃に』が付くという。関係ないが作者もそうである。だって男子にあげないし。
女子がチョコレートに義理や本気を込めて意中の男子に渡す。と、ここまでは皆さんご存知であろう。だがこんなカップル同士の甘いイベントとしているのは日本だけである。そりゃあ、海外でもカップルが関係することは間違いないが、その中に『お世話になっている人』や『家族』も入るのはおそらく向こうだけであろう。ちなみにイタリアでは男性が女性にバラの花束を贈る日ともされている。
まあどちらにしろ、信頼し合っている人の絆を深めるイベントと見ていいだろう。一部を除けば。
――そう、一部を覗けば。
鼻が溶けそうだ、とバクフーンは思った。ここ数日、街に出ると必ず鼻を押えなくてはいけなくなる。それだけ街に充満する匂いが一致していた。どこの店からも、甘ったるい香りが漂ってくる。それに付け加え、柑橘系の匂い、ベリー系の匂い。そしてブランデー、シャンパン、ワインのアルコール臭。
右の店からはバラの匂いが漂ってくる。花屋だ。凍えてしまわないように中で展示してあるのだろう。こちらから白やオレンジ、赤色が見えた。まだそこまで蕾が開いていないが、この状態のままあげれば家に飾る期間が長くなるだろう。
反対側の店はケーキ屋だった。アップルパイが美味しいことで有名な店だ。目印はフランスはパリにあるエッフェル塔の砂糖細工。だが今日はアップルパイの香りだけでなく、別の甘い匂いが漂ってくる。
チョコレートだ。
チョコレートをたっぷり使ったパイが、カウンターに所狭しと並べられていた。
バクフーンは甘味が嫌いではない。むしろ好きな方だ。だが、こうもギュウギュウ詰めに匂いを嗅がされてはたまったものではない。早いところ散歩から戻って、無糖のゼクロムを……
ライモンシティ、ギアステーション前。お馴染みとなったカフェ『GEK1994』は、世間のバレンタインイベントなど何処吹く風で、いつも通りの営業をしていた。ただ多少メニューに変わりはあるが。
寒さと匂いでへとへとになったバクフーンを、ユエが迎えた。
「お帰り。散歩はどうだった?気分転換に……
ならなかったようね」
様子を見てすぐに気がついたらしい。もぞもぞとカウンター下に潜り込むバクフーンに苦笑した後、カウンターに座っていた彼女らにカップを出した。
「はい。バレンタイン限定、ホットチョコレート」
まだほかほかと温かいそれは、寒空の中を歩いて来た学生達にひと時の安堵をもたらした。店内に笑顔という名の花が咲く。
「おいしい!そんなに甘くないし」
「皆はバレンタイン、どうだったの?友チョコとか本命チョコとかあげたの?」
ユエの言葉に、カウンターの花だけが萎れていく。あら、とユエは焦った。聞いてはいけないことを聞いてしまった……気がする。
「んー、友チョコ交換はしたんだけど」
一人の子が、持っていた小さな紙袋の中身をカウンターに出した。可愛くラッピングされたクッキー、ミにチョコレート、キャンディ、ビスケットの数々。流石女の子同士。それぞれのセンスが光っている。
「可愛いじゃない」
「でも、本命渡せなくて……」
「どうして?」
一人がユエをキッと睨んだ。察せ、という意味だろうか。ユエは恋愛に疎い。これ以上ないというくらい疎い。だが場の空気は読める女だった。肩をすくめて、話題を別に持っていく。
「まあ、ね。熱いカップルを見たらチョコレートも溶けるわよ。というわけでチョコが溶けるどころか固くなるくらい冷たい話でもしましょうか?」
「えっ」
「こんちはー」
グレーのスーツを着た女が入って来た。首にマフラーを巻いているだけの姿を見て、学生達が震える。一方ユエは特に気にせずに女に気さくに声をかけた。
「カズミ。久しぶりね」
「取材で近くまで来たから寄ってみたんだ。ほれ、お土産。あとゼクロム頂戴。熱いの」
カズミのお土産は、ココアパウダーがたっぷりかかったティラミスだった。タッパー一つ分あり、ユエ一人じゃとても食べきれない。そこでスプーンを渡して学生達にも手伝ってもらうことになった。
「グッドタイミングのお菓子ね。これ食べて来年は頑張りなさい」
「どういうことですか」
「ティラミスは、元々名前が『Tirami su!』……『私を引っ張りあげて』『私を元気付けて』って意味なの」
ああ、と皆が納得したところでカズミが言った。
「ユエ。さっきこの子らに言おうとしてた話を聞かせてよ。コラムに使えるかもしれない」
「あら、何処から聞いてたの?」
「ちょっと趣味で読唇術勉強してんだ。それで」
一般人がそんなの勉強すんなよ!と思うかもしれないが、カズミはフリーのジャーナリストである。なので表に出せない話を得るためにこれを勉強した、らしいが……
「アンタいつか殺されるわよ。モランの部下みたいに」
「1929年2月14日。よく考えたらまだ一世紀も経ってないんだねえ」
「なんでバレンタインってこう血塗られた歴史が多いんだか」
「ヴァレンティヌスが処刑されたのもその日なんだよね」
二人の会話についていけない学生達が固まっていた。ホットチョコレートは冷めてしまったようだ。
※補足
・1929年2月14日……アメリカ・シカゴで起きたギャング同士の抗争事件。アル・カポネが敵対するバックズ・モランの部下六人とたまたまそこにいた眼鏡屋をガレージの前に立たせて銃殺した。血のバレンタインとも呼ばれている。
・ヴァレンティヌス……ローマ時代、クラウディウス二世によって結婚できないようにされた法律を破り、恋人達を結婚させていた司祭。掴まり、2月14日に処刑された。
――――――――――
世間が甘い雰囲気に包まれてるのでここらで冷ましてあげようかなー……と。
ちなみに私は皆と交換して沢山もらいました(笑
知恵袋に寄せられた相談:
父が仕事で出張したっきり中々帰ってきません。手紙は週1で来ますが帰ってくる気配すらありません。ですので色違いのゾロアークを見かけましたら、父かもしれませんので書き込んで頂けたら嬉しいです。よろしくお願いします。
ベストアンサーに選ばれた回答:
こちらの質問 http://masapoke.sakura.ne.jp/lesson2/wforum.cgi?&no=2241& ..... de=msgview に色違いのゾロアークを見かけたとの証言が多々あるので見に行ってみてはいかがでしょうか?
質問者からのコメント:
情報ありがとうございます。ちょっと燃やしてきます。
――――――――――――――――――――――――
細やかなおまけ。質問者はロコンなんでしょうかねぇ? どうなんでしょうねぇ? ウェヒヒ
きとらさん回答ありがとうございます!
ついに知恵袋にまで当局が進出してきたか……。早い内に当局をスナイp(この発言は当局にスナイプされました)
そして回答8はスルーされているのに回答12は指摘されるという。回答12涙目。この質問にも「父親がゾロアークとかwww」みたいな回答とか有りそうです。
回答ありがとうございました!
【燃やしてもいいのよ】
【回答してもいいのよ】
【このタグは当局にスナイプされました】
【1】
それはとある街の近くにあります、ちょっとした森の中。
本格的な森と比べると、一本一本の木の間はそんなに密着しておらず、空からは太陽の光がさんさんと差し込んで地面まで届いています。
そんな平和そうな森の中で、一つ、違う空気がありました。
バチバチと火花が跳ねるような音が聞こえてきそうな雰囲気が漂っています。
「今日は、わちが勝たせてもらうわ」
「寝言は寝てから言いやがれ、この野郎。勝つのはこの俺様に決まってるだろ?」
一匹は白い毛皮に、お腹と目の辺りには赤い星模様、そして赤い爪を持ったポケモン――ザングース。
もう一匹は漆黒の縦長い体に、剣を連想させる鋭利な尻尾、そして毒々しい赤い牙を持ったポケモン――ハブネーク。
ザングースとハブネークは産まれながらにしてお互いの種族に敵対本能を持っているポケモンで、この二匹も例外ではありませんでした。今日も今日とて勝負を仕掛けあっています。
さてさて、殴りあいに、引っかきあってからの噛みあい、その場に響き渡る怒号と痛みによる悲鳴のバトルがこの後に想像されそうですが……ザングースが何やら一本の棒状のモノを出したところから何か違う勝負をするようです。ハブネークは何を出したのかと訝しげにザングースの顔を見やります。
「これはポフィッキーや。知らんかったん? 流行遅れやな」
「そ、そんなこと俺様が知らないわけねぇじゃねぇか! 俺様はただ、それで何の勝負をしようかって訊きてぇんだよ!」
説明しましょう。
ポフィッキーとはポフィンを棒状に伸ばしたポケモン版の某Pッキーのことであります。
なんでも一説によりますと、ルナトーンとソルロックが某Pッキーゲームなんてやったら萌えるよね〜、という謎の意見を元にオボン製菓会社が作り上げた商品でございます。
味はクセになる甘さのモモン味、爽やかな甘酸っぱさがウリのオレン味、口から火が出るほど辛いけど、そこにしびれるぅ! あこがれるぅ! というマトマ味、他諸々。
大きさもそれぞれのポケモンの大きさに合わせて作られており、小型ポケモン用のSサイズ(市販の某Pッキーぐらい)から大型ポケモン用のXLサイズ(市販の某Pッキーの十倍)まで取り揃えてあります。
「これでな、ポフィッキーチキンゲームをやろうと思うねん」
「ポフィッキーチキンゲーム、だと?」
なんなんだ、何をやろうとしているんだとハブネークがザングースを見やると、ザングースは勝つ自信が大いにあるのか、得意げな顔を浮べながら更に説明を続けます。
「一つの端をわちの口に、もう一つの端をあんさんの口につける。先にポフィッキーから口を離した方が負けや、どや? シンプルなゲームやろ?」
「面白そうなことを考えるじゃねぇか。いいぜ、その勝負買ってやるよ」
ビビッた方が負けという分かりやすい勝負に乗ったハブネークは勢いよくポフィッキーの一つの端を口に入れました。ザングースももう一つの端に口を入れ、これでお互い準備万端、目線と目線がぶつかりあって火花が飛び散るかのような雰囲気がそこにありました。空から「すばぁ」と鳴くスバメの鳴き声を合図に二匹の勝負が始まりました。
約四十五センチメートルの間、まずはザングースがプレッシャーをかけようとしてじりじりと一、二歩、前に進みます。どうだと言わんばかりの挑発的なザングースの目付きに反応したハブネークも負けじと身をよじらせ前へと進みます。両者譲らない勝負の下、少しずつお互いの距離が縮まっていきます。まだ行けると踏んだザングースが先に仕掛け、ハブネークにプレッシャーをかけますが、なんのこれしきとハブネークも更に前へ行きます。行き過ぎれば嫌な奴との口づけが、しかし仕掛けなければプレッシャーを与えることはできない、シンプルだけど心理面では奥深いゲームにザングースとハブネークの胸の鼓動は速くなっていきます。
気がつけばお互いの距離は残り五センチメートル、一歩間違えれば、キスが待っています。それだけは嫌だが、しかし、その状況の中ですから、うまく仕掛ければ大きなプレッシャーを与えられる距離でもありました。
さて、どのタイミングで仕掛けようかと、ザングースとハブネークは機会を伺っていました。
どくん、どくんとお互いの脈が早くなっていき、ハブネークの額から汗が一筋垂れ、ザングースの尻尾は緊張で逆立っています。
風が一つ吹き抜けます。
先に仕掛けたのはザングースでした。
大きく足を振り上げて、一歩前へと動きます。
実際には前へと言っても、一、二センチ程の小さな動きですが、大きく足を振り上げたのはハブネークに大きなプレッシャーを与える為でした……これで驚いたハブネークが口を離して勝利を得る、というのがザングースの狙いでした。
しかし、ハブネークは動じませんでした。
ザングースの目論見は外れた――わけでもなく、この彼女の仕掛けにはハブネークは心臓が飛び出てしまうのではないかと思うほど驚いていました。しかし耐えたのです。ザングースとの勝負にかける本能がなんとかハブネークをポフィッキーから離さなかったのです。
ギリギリなところで踏み止まったハブネークに対して、ザングースの目が丸くなったのは言うまでもありません。
これでお互いの距離は残りたったの二、三センチメートルとなり、ここからは我慢の勝負となりそうです。お互いの顔が間近となった今、一歩間違えればキスが待っています。なんとしてでもポフィッキーから相手の口を離さなければとザングース、ハブネークの両者は頭をひねらせます。嫌いな相手の顔が目の前にある中、なんとか勝てる方法を編み出そうというのは中々疲れるものです。どうすればいいのだろうかと考えていく旅にお互いの額から薄っすらと汗が浮かび上がってきます。そのままお互いに何も仕掛けないままただ時ばかりが過ぎていった後――。
先に動き出したのはハブネークでした。
そのぎょろっとした大きな赤い瞳をあちこち動かしています。寄り目にしたり、離し目にしてみたり、面白おかしくその芸を見せていきます。どうやらハブネークはザングースを笑わせて彼女の口をポフィッキーから離そうと試みたようですが……残念ながらザングースには効果はイマイチのようでした。やがてハブネークのターンが終わりますと、ザングースはお返しだと言わんばかりに両目に力を込めますと目玉をちょっとばかり飛び出させました。いわゆる目玉が飛び出ちゃったというよくありそうなネタなのですが、ハブネークには効果抜群のようでした。まさか彼女がそんなことできるだなんて想像にもしていなかったと一瞬、どきんと胸が驚きで高らかに鳴りましたが――なんとか耐えました。これもザングースに対するプライドが成せる業なのでしょう。
その後、二匹は身振り手振りで相手にプレッシャーをかけていきます。
ハブネークの尾がうねうねと変に動きますと、今度はザングースが左腕を頭の上に、右腕を横腹近くに持って行き、シェーとやってみせます。
まさに勝負の行方はこの芸対決に委ねられたと言っても過言ではないでしょう。
しかし、残り二、三センチメートルというのに、顔を動かさないようにしているとはいえ、そこまで動きを入れても大丈夫なのかと思っている方々もいるかもしれません
これが、不思議なことに残り二、三センチメートルから距離が変わらないのです。
まさになんとしてでも勝つという意地がそこにある証拠です。
さて、芸対決はお互い一歩も退かないまま、このまま続いていくのかと思われたおり――。
「おっと、ごっめんよぉー!!」
突如、ザングースの後ろからマッスグマが現れ、そのまま激突!
マッスグマは急には止まれないのです。
ド派手な衝突音が森の中を駆け抜けていくのと同時に、マッスグマもその場を駆け抜けていき、そしてマッスグマに後ろを押された形となったザングースはその勢いのままに一気にハブネークを押し倒してしまって――。
気がつけば、二匹の距離はゼロでした。
ザングースもハブネークもお互いの唇を重ねたまま、動きません。その目はこの世の信じられない物を見ているかのような形になっており、とてもじゃないですが、イチャコラといったような雰囲気ではありませんでした。お互いに嫌いな奴の唇に自分の唇を乗せたなんて、そんなこと認めない、認めたくない、信じたくない。そういった気持ちが限界まで膨らんだとき、ようやく二匹の唇が離れました。
それから体の距離も離して、お互いに改めて相手を見ると、なんだか顔の紅潮(こうちょう)が止まりません。このままだと混乱して目がパッチールみたいにぐるぐるんになってもおかしくありませんでした。
「あんさんのどあほおおおお!!」
先に叫んで気まずい沈黙の間を破ったのはザングースでした。顔を真っ赤にさせているだけではなく、全身の毛まで逆立っています。
「おい、ちょっと待てよ!」
ハブネークがそう声を上げましたが、ザングースはわき目も振らずにその場から走り去ってしまい、ただ一匹だけ、そこにぽつんと取り残される形になってしまいました。
「……なんだよ、最初にこの勝負にしたのはてめぇじゃねぇか、この野郎」
そんな愚痴を吐きながらハブネークに一つの風が吹き抜けます。
しかし、全身ほてりまくった彼の体には全然足りないものでした。
一方、ハブネークの前から去ったザングースは森を抜けたところにある川まで行きますと、その足を止めました。
はぁはぁと肩で荒く息をしながら、ザングースはやがて地面に尻もちをつけました。静かな場所だからか、なんだか自分の心臓の高鳴りがよく聞こえています。
これは全力疾走での疲れからくるドキドキなのか、それともハブネークとキスをしてしまったことからくるドキドキなのかはザングースには分かりませんでした。それほど彼女は混乱していたのです。
そのまま少し時が経ちますと、ちょっと落ち着いたのか、ザングースはこういうときは水を飲んでもっと落ち着くのが一番だと思いつき、目の前にある川へと顔を近づけさせました。
そこに映っているのは自分の顔。
それとハブネークとキスしてしまった唇。
その自分の唇を見た瞬間、ザングースの顔に再び火が上がりました。
そして、必死で忘れようと、水を飲むのではなく、ひたすら顔を洗い始めました。
相当、焦っていたのか、ばしゃばしゃ、とにかく水を自分の顔にザングースはぶつけ続けます。
自分が勝つつもりだった。
あんなことになるなんて思いもしなかった。
こうして、何度も水を自分の顔にぶつけていたザングースでしたが、やがてバランスを崩して川の中に落ちてしまいました。
幸い、川の深さはザングースの胸元辺りで、なおかつ流れも緩やかだったので、なんともありませんでしたが――。
「……顔が熱い」
冬の川は冷たいのに、顔だけはその熱さを保ったままで。
ザングースは困ったようにそう呟いていました。
【2】
さて、あのポフィッキー事件から三日後のこと。
とある街にある一軒の赤い屋根の家。
その家の一室にあるリビングルームに一人の小柄で亜麻色の髪を持つ女性と、一人の小太りで眼鏡をかけた男性がいました。
そしてその女性の傍らにはザングースが、そして小太りの男性の傍らにはハブネークがいます。
実は、このザングースとハブネークはそれぞれのパートナーだったりします。
「さてと、今日は麻呂也(まろや)とちょっと大事な用があるから、二匹はここで留守番して欲しいのよ」
「えっとね、とりあえずポケフーズは机の上に置いておくから、お腹がすいたらそれを食べてな。あんまり食べ過ぎてお腹を壊さないように」
「……麻呂也も太りすぎには注意してね」
「うぐ、気をつけるよ。さてとそろそろ行かないと。まずは会社の方に行かなきゃ。行こう? 亜美」
「お土産ちゃんと買ってくるから、いい子でね?」
それだけ言い残すと女性――亜美と、男性――麻呂也は一緒に玄関の方へと姿を消していってしまった。やがて留守番を任されたザングースとハブネークの耳には扉の開閉の音、それから鍵が閉まる音が届きます。こうしてテレビやソファー、本棚が置かれてある広々としたリビングルームにはザングースとハブネークの二匹っきりとなりました。
「ちぇ、なんだよ麻呂也のヤツ。俺様をあんなヤツと留守番させるなんてよ、おかしいぜ」
ソファーの上でとぐろを巻いていたハブネークは、窓際でカーテンの間から庭を見つめているザングースを見ながら愚痴を吐いていました。しかし、ザングースの耳には届いていないのでしょうか、彼女は庭を眺めているばかりで黙ったままです。いつもならここで怒って文句の一つや二つ言ってくるはずのザングースに対してハブネークは調子がちょっとばかし狂いそうになります。こんな変な空気が嫌でハブネークが思わず舌打ちをしたときでした。
ザングースが倒れたのです。
「おい? 何やってんだよ、日向ぼっこか、おい」
嫌みったらしくそう言いながらハブネークがソファーから降りて、窓際で倒れているザングースに近づき、顔を覗きこむと、彼の顔は困惑の色に変わりました。
ザングースの顔がなんだか赤く、それに苦しそうな顔で、息もなんだか辛そうにヒューヒューと鳴っていました。流石にこれは日向ぼっこではなくて、風邪だと気がついたハブネークはどうすればいいのだろうかと考えました。今、ここにいるのは自分一匹だけ。一体全体どうすればいいのだろうか。
そういえばと、ハブネーク主人の麻呂也のことを思い出します。
麻呂也が風邪を引いたときに何をやっていたことが、もしかしたらここで活用できるかと思ったからです。
『風邪のときはよく寝て、安静にしとかないとなぁ。というわけで、ちょっと早いけどお休みハブネーク』
そうだ、風邪には睡眠とかといった休養がいい、そしたらここはザングースを起こすわけにはいかない。
しかし、このままにしておくわけにもいかない、何か他に風邪に効きそうなことはないかとハブネークは思案します。
『寝るときにはやっぱり抱き枕だよね、これで疲れを取るのがやっぱ一番だよ』
抱き枕という単語にハブネークは妙案を思いつきます。
ザングースの横に寝そべり、背中の方をぐいっとザングースに寄せます。
うまくいくかどうか分かりません。嫌な相手を抱き枕にするなんてこと、ザングースだったら絶対にしたくないはずですし。
しかし、なんということかザングースはハブネークの体をぐいと抱きしめたのです。
もふっという感覚がハブネークの中で広がります。
「はぁ……なんで俺様ったらこんなことしてんだよな、本当」
本来なら嫌いな相手なのだから、風邪を引いていたって放っておいて、ざまぁ見やがれの一つでも言えてもおかしくなかったのに。いいや、これはあれだ。ザングースとの決着が着いていないのだから、ここで彼女ともう争うことができないなんてことになったら自分のプライドが許さないとハブネークは考え直して、こう呟きました。
「別に……てめぇの為じゃねぇんだからな、勘違いするんじゃねぇぞ」
その顔は若干、赤くになっていたのはハブネーク自身も気がついていませんでした。
そういえば、ザングースと会ってもう何年経っただろう?
ふとハブネークは昔を思い出します。
それは今から約三年前のこと。
麻呂也のパトーナーになったと同時にハブネークはザングースに出会いました。
気の強いメスで、変なしゃべり方してんじゃねぇぞとハブネークは最初からザングースに対して敵対心を持っていました。ハブネークの思い切りにらみ付けに、ザングースもお返しとばかりににらみ返してきたことも覚えています。それから毎日、因縁をつけてはザングースと色々なバトルを繰り広げていきました。ちなみに麻呂也も亜美も働き先の会社がポケモン禁制の為、家で放し飼いすることが多く、ハブネークもザングースも様子を見計らって、家からよく抜け出し、そしてあのちょっとした森の中で白黒つける為にバトルを繰り広げていたというわけです。
かけっこを始めとして、にらめっこに、どちらがかっこいいポーズを決められるかなどなど。
ハブネークが勝った日もあれば、もちろんザングースが負けた日もあります。
他人から見たら、よく飽きないなと言われるぐらいですが、二匹にとってはいつでも本気でした。
だから負けないで欲しかったのです。
ザングースに勝つのは自分だから。
風邪なんかに負けるなよとハブネークは自分を抱きしめながら眠っているザングースのに向けて、そう呟きました。
「ほわぁ……わちのだいしゅきなポフィッキー……」
まさかさっきの呟きで起こしたかと思えば、なんだ寝言かとハブネークがやれやれと思ったときのことでした。
なんだか背中に刺激が来ます。
「むひゃ、みゅふ、みゃふ……」
ポフィッキーを食べている夢でも見ているのでしょうか、ザングースがハブネークの背中を噛み始めました。しかし、本気の噛みつきと比べるとソレは弱く、どちらかというと俗に言う甘噛みでした。ザングースの白い鋭い八重歯がハブネークの背中に優しくチクチクと口づけをしていきます。
満足そうな寝顔でハブネークを甘噛みしていくザングースに対し、ハブネークはあまりのくすぐったさに戸惑っていました。このまま起こさない方がいいのか、しかし、このままだとなんか変な気持ちになりそうだとハブネークは必死に耐えていました。
意識をずらそう、そうだ、別のことを考えようとハブネークは麻呂也と亜美のことを考えることにしました。そういえばあの二人、仲がいいけど、どういった関係なんだろうかといった感じになんとか背中の刺激を振り払おうとしますが――。
甘い吐息が温かくてなんだか心地良い、白いもふもふとした毛も心地良い、白い牙がいい感じに背中をチクチクさせてくる、そしてときどき当たる赤い舌は熱くて――。
なんだよ、これ! 無理だろ、これ!
ハブネークはそう叫びたい気持ちでしたが我慢、我慢。
なんでこんな奴相手に惑わされなきゃいけないんだ、おかしいだろう、一体全体どうしてこうなったんだとハブネークは自身の心に尋ねてみますが、返事はもちろんありませんでした。
ハブネークの顔から沸騰でもするのではないかというぐらい赤くなり、心なしか湯気も立っているかようにも見えました。
「みゅふ、むひゅむひゅ、これ、食べて……早く、元気になってぇ、ハブネークと早くバトりたいでぇ、わち……むひゃ、むひゅ、みゅふ」
ザングースから出たその奇跡的な寝言に、ハブネークはなんとか鼻を鳴らして、こう言いました。
「……早く治しやがれ、この野郎」
顔は依然と真っ赤のままで。
【3】
買い物袋を提げた麻呂也と亜美が家に戻ってくると、そこにはリビングルームでハブネークを抱きしめているザングースの姿がありました。もちろんお互い眠っております。
「なんか心配したけど、そうでもなかったみたいかな?」
「だから言ったでしょ? 大丈夫だって」
二匹の様子を見ながらなおも不安そうな顔を浮べる麻呂也に亜美が家の中の様子を示しました。確かに、なんかしら暴れた形跡があるのなら、テレビが壊れたり、本棚が倒れて本が散乱したり、ソファーが破れて中からエルフーンの綿が飛び出ていたりしてもおかしくありません。しかも二匹隣同士で眠っていますし、どう考えても暴れたような形跡はありません。
「まぁ、要は麻呂也の杞憂に終わっただけって言うやつよね」
「ぐ、なんかカッコがつかないなぁ」
麻呂也が困った顔を浮べながら頭をポリポリとかきます。
「だってさぁ、本能的に敵対心を持っている二匹だろ? そりゃあ心配の一つや二つするよ。それにしてもなんで、こんなに仲がいいんだろうなぁ」
「さぁね。もしかしたら、私達が見ないところでバトルしてるかもしれないわよ?」
「え、そんな。傷なんてそうそうなかったけどなぁ……」
「馬鹿ね、バトルって言っても殴り合いだけじゃないでしょ」
「うーん、言われてみればそうだけど」
「それにさ、よく言うじゃん」
買ってきたものの整理が終わり、亜美も眠っているザングースとハブネークのところに行くと微笑みながら言いました。
「ケンカすればするほど仲がいいって。今日の敵は明日の友、明日の友はいつかの恋人ってね♪」
「え、そんな言葉ってあったけ」
ザングースとハブネークの寝顔はなんだかとても満足そうな顔を浮べていました。
【書いてみました】
え、2月14日って、2人で1本のチョコ味のポッキーを食べて幸せになろうというバレンタイン オブ ラブポッキーの日では(勝手につくんな)
……というわけで、バレンタインの日にチョコ代わりにと今回の甘い物語を投下しようと思ったのですが、間に合わず、一日遅れになってしまいました、無念。(汗)
ケンカには本気だけど、こういうことにはきっと不器用だよねこの二匹、と思いながらザングースとハブネークを書かせてもらいました。甘い味がしたのなら嬉しい限りです。(ドキドキ)
ありがとうございました。
【何をしてもいいですよ♪】
【今年は一個(母上から)だけだったぜ。後は自分に買ってあげ(以下略)】
某月某日。
女性が男性に愛でとろけたショコラを送り、愛の言葉を囁き合う、そんな日。
女性は恋の行方に一喜一憂、男性は貰ったチョコレートの数に一喜一憂、いや、チョコレートを貰えるかどうかに一喜一憂している。
お菓子屋ならずとも、店という店にチョコレートが並び、町は数日前から独特の甘い匂いに包まれる。
数年前までそんな日だったはずなのだが、いつの間にやら友チョコとか逆チョコとか自チョコとかが出てきてなんかよく分からなくなった。しかし、町が嗅覚的な意味で甘い匂いに包まれているのは変わらない。
目の前の彼女も、非常に甘い匂いをさせていた。確か、事務の仕事をやっている子だったか。
「はい、どうぞ。エルフーンちゃん」
そう言って、腕に抱えた甘い包みのひとつを、足元のフワモコで可愛いと巷で人気の草羊に渡した。
「ココロモリくんにも」
彼女は机の上で丸くなっていたハート鼻の蝙蝠にもチョコレートを渡すと、今は持ち主が留守の机の上にも包みを置いて、部屋を出て行った。
「……僕の分は?」
ひとりチョコレートを貰えなかったキランは、彼女が去っていった方向を見つめて僻みたっぷりに呟いた。
エルフーンはそんな彼の様子は気にせず、貰ったばかりの包み紙を短い手でビリビリと引き裂いている。ココロモリはチョコレートの包みを足で押さえながら、キランの方を気にしていた。
「食べていいよ」
その言葉に安心したようで、ココロモリは風技と念力で器用に包み紙を切ると、箱を開けた。
キランは上司の机に目をやった。そして、見なければ良かったと後悔した。彼女の机の周囲は甘い有様になっている。
机にはまるでチョコレートしかないように見えた。もしかしたら、机もチョコレートかもしれない。隣り合った机や足元の床にまで、彼女の机に乗らなかったり、崩れたり落とされたりしたチョコレートが積み上がって、甘ったるい山を形成していた。今にも蟻が集ってきそうだ。
朝、キランが出勤していない時間帯からチョコ責めに遭い続けて、昼休みでこれだ。夜には家の一軒ぐらい建つだろう。今はチョコ攻勢から逃亡を図っているが、彼女、帰ってきたら胸焼けで倒れるんじゃなかろうか。
視線を感じてそちらを見ると、トリュフチョコを咥えたココロモリと目が合った。
くい、と顎をしゃくるようにしたココロモリに、キランは手を差し出す。噛み跡の付いたチョコが手の中に転がった。
「……ありがと、ノクティス」
心優しいココロモリは気弱そうに笑うと、エルフーンと貰ったチョコレートを交換する作業に入った。
つきそうになったため息を堪えた。自チョコならぬ自ポケチョコって何だよ。いや、いいんだ。自分を気遣ってチョコレートをくれるポケモンなんて最高じゃないか。うん、そう思うことにしよう。きっとそうなんだ。そうに違いない。
「……はあ」
堪えていたため息が出た。
ハート型チョコはそんなに美味しいのか。せめて向こう向いて食べてくれよ。
という指示をポケモンたちに出すのは空しかったので、キランの方が部屋を出ることにした。廊下に出ると空気が清浄に感じられた。あの部屋はよっぽど甘かったのだ。三回深呼吸して肺の中の空気を入れ替えると、気分がずいぶん良くなった。別に大量のチョコを貰うことが幸せではないと気付いたからではなく
。そして、息抜きついでにご不浄に行って用を足していると、真上の換気扇からエルフーンが出現した。
「そんな所から出るなよ」
換気扇から頭上に落下してアフロみたいになったエルフーンを離しながら文句を言う。しかし、エルフーンはキランの言葉も耳に入らない様子で、短い手足を振り回して酷く慌てている。顔はいつもと同じだが。
「分かった。分かったからズボンの裾引っ張らないで」
キランがそう言うと、エルフーンはひとまず安心したようで、握っていたズボンを離した。そして、キランたちの居室の方向へ走り出す。
しかし、エルフーンは背負った綿に風を受けて、少し走っては舞い上がり、少し進んではまたフワフワ……。
真面目に移動して欲しいが、こいつが本気で移動すると、白い綿だけ残って本人が行方不明になるので、それはそれで面倒である。
仕方ないので、エルフーンを両手に抱えてダッシュした。
見たままを言うと、蟻が集っていた。アイアントが。
部屋の壁を破壊して、鉄蟻の行列がチョコレートの山から外まで続いている。色とりどりの包みを鋼鉄の顎でガキッと挟み、回れ右して壁の穴から外へ這っていく。行列の先頭に出た次の鉄蟻がまたガキッとチョコレートを咥えて回れ右、そのスペースにまた次の鉄蟻が進み出て。
ココロモリが困ったように天井付近を旋回していた。キランも困った。
チョコレートが無くなれば彼らはお帰りしてくださるだろうが、それまで壁は半壊、吹き曝しのままというわけにもいくまい。
それ以前にライモンシティにアイアントはいないのだから、飼い主を見つけてポケモン管理義務違反で注意しに行かなければならない。仕事が増えた。それと、いつの間にか白い綿を残して姿を消したエルフーンも後で探さなければ。
「ああもう」とぼやきながらボールを手に取ったキランを押し退けて、ひとりの女の子が現れた。
先程やって来た事務職の女の子だ。
オコリザルも吃驚なぐらい目を血走らせ、ドン! と部屋の床を踏みしめて仁王立ちになると、ボールを取り出して手の血管が浮き出る程強く握り締めた。触れたら火傷しそうな程、怒っている。
「アンタたち……私がレンリ先輩に渡したチョコレートに汚い顎で触るなあ! 始末なさい、クイタラン!」
ひび割れた声でそう叫んだ彼女が繰り出したのは、縞模様のアリクイ、クイタラン。アイアントの天敵とされるポケモンで、
「ああっ、クイタラン!」
アイアントのストーンエッジで倒されるのはご愛敬である。
アイアントは人に教えられないとストーンエッジを覚えないから、彼らは人飼いであることが確定したわけだが、嬉しくも何ともない。厄介だと再認識させられただけだ。ついでみたいにココロモリも撃ち落とされてしまったし。
そう、後、厄介と言えば、この子も。
「何よ! 他のはいいけど、私のだけでも返しなさい!」
彼女は倒れたクイタランを戻すと、懲りもせずに鉄蟻の群れに向かって行く。無謀だ。
食料の運搬を邪魔されたアイアントたちが、彼女に不気味な鉄顎を振りかざした。
一斉に鋼色の蟻たちが下顎を傾ける様は、見ていて恐ろしい。事務職の女の子もそれは感じたようで、アイアントたちのはるか手前で足を止めた。
シャン、とアイアントたちの顎が同時に鳴る。そして、同時に顎を開いた。次には攻撃が来る。が、その時キランはこいつら息ぴったりだなと全くバトルに関係ないことを考えていた。それから、つい癖でペンドラーのボールを選んでいて、室内でどでかいムカデは出せないと気付き、ならばとドリュウズのボールを探して非常時に限って必要な物は見つからない、つまり詰みだ。
と思ったその時、
「ウィリデ、コットンガード」
いつの間にか戻って来た草羊が、綿の大玉となってアイアントたちの前に立ちはだかった。
先陣を切っていった鉄蟻の顎の脅威をモコモコの綿が吸収する。アイアントの攻撃に思わず立ち竦んだ彼女がホッとした様子でキランを見た。しかし、指示したのはキランではない。
黒髪に紅色のメッシュを入れた女性がキランを押し退けて現れた。キランの上司であり、チョコレートを売る程貰っていた当人、レンリである。
「ウィリデに引っ張られたんで慌てて来たんだが、こりゃ酷いな」
そう述べながら左手で事務の子の肩を掴んで部屋の外に出し、右手でモンスターボールを掴むと、彼女のポケモンを呼び出した。大きな紅色の花を頭に乗せたドレディア。
「ウィリデ、身代わり」
彼女は当たり前のようにキランのポケモンに指示を出すと、続けてパンツスーツをパン、と払った。
それを合図に、ドレディアがわざとリズムの狂ったダンスを披露する。それを見たアイアントたちは、次々と何かに感染したかのようにおかしな行動に移った。アイアント同士で頭をぶつけあったり、チョコレートの包みを粉々に砕いたり。
混乱したアイアントたちを花びらの舞で部屋の外に追い出すと、レンリはいつも肩に乗せているバチュルを使って大穴を蜘蛛の糸で覆わせた。
網の隙間から鉄蟻の恨めしそうな顔。しかし、バチュルの巣は電気が通っているから、いくらアイアントと言えども簡単には突破できないだろう。レベルも違うし。
ほっとするのも束の間、
「これ、修理するの大変そうだな」
上司のひと言で、キランは現実に引き戻された。
穴から吹き込む風が、冷たい。
通りすがりのローブシンに頼んで壁の穴を塞いでもらった。アイアントの持ち主も探してしょっぴいた。それが終わった時には日付が変わっていた。
「疲れた」という間も惜しく、上司は貰ったチョコレートの分類作業に入っていた。ただ単に部屋の隅にチョコを投げてるだけに見えるが。ホワイトデーにお返しをする気はなさそうだ。そう思って見ているキランの目の前で、上司が「あった」と声を上げた。嬉しそうだが、歓声と言うには大人しい声で。
「アイアントに持って行かれたかと思った」
そう言って、彼女は小さな箱を持ち上げた。飾り気のない白い箱が、彼女の白い手の中に包まれていた。そういう風に扱うのは、一体誰からの贈り物だろう。投げ打つ程にチョコを貰う彼女に選ばれるのは――それは、幸運に思えた。
彼女から選ばれる可能性があるのなら、じゃあ何か渡せば良かったと思って、その直後にその考えが嫌になった。上司の姿を視界に入れないよう、キランはそっぽを向いた。その肩が叩かれた。
キランの手に、白い箱が押し付けられた。白い手から。
引っ込められた白い手を追って、キランは肩越しに彼女を見上げた。目が合うと、彼女は髪をかき上げながらも目を伏せて、
「ほら、こういう日だから」
静かに言った。
戻ってきたエルフーンと顔を見合わせて、キランは箱を開ける。紙を一枚敷いた上に、ちょこんと丸いチョコレートが乗っていた。もう一度上司の方を窺うが、彼女はもうキランに背を向けて自分のチョコの山に取り掛かっている。
キランも彼女に背を向けた。慎重に箱の中から甘い塊をつまみ出す。手の平に転がすと、ココアパウダーがチョコを中心に散らばった。小さなトリュフチョコは体温で溶けて消えてしまいそうで、そうなる前にとキランはチョコレートを飲み込んだ。
甘さだけで出来た塊が舌の上で溶け
舌に激痛が走った。
反射的に口を手で覆い、出すのはまずいと思い切って飲み込んだ。すると喉が痛い。辛さが喉の中を上って鼻に回って涙腺も刺激して涙が出てきた。
口を開けて息をした。新鮮な風が当たると、少しだけマシになる。でもまだヒリヒリと、痛い。涙を堪えて上司の顔を見たら、いつもの悪ぎつねみたいな笑みを浮かべている。彼女はそういう人だということを忘れていた。
「ひっかかったな」
そう言って、風のように去って行く。
大量のチョコレートと一緒に部屋に取り残されたキランは、口の中のヒリヒリが収まるのを待つことにした。手持ち無沙汰なので、貰った箱を捨てる前に畳もうかと指先を動かす。底に敷いた紙を引っ張り出す。と、その下にまだもう一枚紙が入っていることに気が付いた。二つ折りになっていたそれを開いたキランは、やれやれとため息をつく。
『いつもありがとう』
そして、唐辛子爆弾を仕掛けた彼女と、これを書いた彼女と、どっちが本当なのかと思い悩む羽目になるのだ。
あそこをくぐり抜ければNがいる。ゲーチスが何か言っていたけれど、関係ない。わたしはただ、Nに言いたいことがあるだけ。
心臓が暴れまわり呼吸が乱れる。パートナーの入っているモンスターボールを握りしめて、わたしは覚悟を決めた。
行こう、Nのもとへ。
Nが、ゼクロムを呼んだ。呼びかけにこたえて、玉座の向こうから黒い竜が現れる。黒い竜は力を誇示するように吠え、電気のエネルギーを撒き散らす。圧倒的な力。あれが、伝説の竜。
体が震える。勝てるだろうか。違う、何をしてでも止めるって決めたんだ。
大きく息を吸う。若草色の目を見据えて、わたしは告げる。
*
N。わたしはきっと英雄なんかじゃない。だってそうでしょう? ゼクロムが現れても、ライトストーンは反応しなかった。
わたしは、あなたに言いたいことがあって来たの。わたしには求めるべき真実なんて分からないよ。この世界のことをほとんど知らないもの。
あなたは多分戸惑っているよね。わたしがこんなに喋るところを見たことがないだろうし。ベルもチェレンも、今のわたしを見たら驚くだろうね。でも、わたしにだって言いたいことがたくさんあるんだ。
聞いて、N。
わたしには分からなかった。なんでわたしが英雄なのか。どうしてNはわたしにこだわるのか。これは、今でも分からないよ。
あなたは何度も接触してきては、一方的に喋り、勝負を仕掛けてきた。電気石の洞穴では、勝手にわたしをニュートラルだと決めつけた。たしかに理想も、真実も知らなかったけど。それに、わたしの意思なんかお構いなしにわたしを選んだなんて言う。竜螺旋の塔でもそう! わたしにライトストーンを探せと言った。
なんで! どうしてわたしなの!
あなただけじゃない。みんな、みんなそう。わたしにやれと言う。わたしの気持ちなんて知ろうともせずに、英雄になることを強制した。流されるままのわたしも悪かったよ。でもさ、だんだん、言えなくなった。言える雰囲気じゃなかった。
みんなわたしに期待して……押しつけて。わたしは、まだこどもなのに。大人たちも、アデクさんくらいしかあなたに挑もうとはしなかった。そのアデクさんだって、わたしにライトストーンを持てと言った。正直怖かった。なのに、受け取れって。押し付ける形になってすまない? だったらやめてほしかった。でも、受け取る以外の選択肢なんてなかった。
あはは、こどもだよねえ。わたしもみんなに負けず劣らず自分勝手だよねえ。でも、もうやめるわけにはいかなかった。わたしだって、ポケモンのいない世界は嫌だったから。わたしがやるしかないって、言い聞かせてた。
ねえ、N。わたしね、あなたの考えには少し共感しているの。傷つくポケモンがいるのはやっぱりいい気はしないよ。たとえば、ずっと一緒にいるこの子たちが誰かに傷つけられるのは、嫌。でもさ、方法が間違っていると思う。たしかに、ポケモンと人間を引き離せば、人間に傷つけられるポケモンはいなくなるよ。でもその代わり、新しい悲しみが生まれると思う。
N。あなたは言ったよね? わたしたちみたいな人ばかりだったら、ポケモンの解放なんてしなくていいって。あなたは迷っているんじゃない?
あなたの部屋を見せてもらったよ。ずっとあの部屋の中で過ごしていたんだってね。
あの部屋を見て、ずっと迷っていたけど分かったんだ。言ったでしょう? 自分がどうして英雄なのか分からないって。ここに来るまであなたと戦うことに踏ん切りがつかなかった。英雄であるだけの、理由なんてなかった。でもこの城に入って、あなたの部屋を見て、あなたの過去を聞いて、自分がどうしたいか分かった。
あのね、N。あなたの見ていた世界はすごく狭くて小さいよ。
わたしも似たようなものだけど。わたしだってカノコタウンから外に出たことがなかったから。
ねえ、あなたは「外」で何を見た?
わたしはポケモンをもらって、外に出ていろんな経験をした。トレーナーとはポケモンバトルをしたし、ポケモンを交換することもあった。ミュージカルに参加したこともあった。人の仕事を手伝っているポケモン、ううん一緒に働いてた。みんな、楽しそうに笑ってた。ポケモンの言葉は分からないけど、見ていてそう感じた。
たくさんの人たちと、ポケモンたち。お互いがお互いを思いやっていた。
N、あなただって見たでしょう?
うん、そう。あなたがあの部屋で見てきたことも本当のことだよ。実際、人間に苦しめられているポケモンもいる。でも、ね。わたしが見たのはたいていプラズマ団のせいだったよ。ムンナの煙が必要だからって、蹴ったりして煙を出させようとしていたことがあったんだ。あの時はすごくびっくりした。この人たちはポケモンを大切に思ってないんだって、口先だけだったんだなって思った。あなたとはずいぶん違っていた。思えば、あれがあったからわたしはここにいるのかもしれない。
それから、ポケモンを解放するんだと言って、ポケモンと人を引き離していたよね。でもポケモンたちは、大切な人と引き離されてつらそうだった。ベルがムンナをプラズマ団に奪われたとき、ベルもムンナも、両方とも悲しんでた。やっぱりそういうのを見ると、こんなのは違うって思ったんだ。
ポケモンと人が出会って、たしかに悲しみが生まれたと思う。でも、それ以上に喜びが生まれたんじゃないかな。あなたは今ある喜びを、幸せを、すべて悲しみに変えるの?
それがあなたの『理想』なの? 目指すべきなのは、今ある幸せを壊すことなんかじゃなくて、悲しみを減らすことなんじゃないの?
わたしはこの子たちと出会えてすごく嬉しかった。喧嘩することもあったけど、一緒にいられて幸せだったよ。
ねえ、N。あなたはポケモンと一緒にいて幸せじゃなかったの? 幸せだったはずだよね?
それはあなたもわたしも、そして他の大勢の人も一緒なんじゃないの? あなたはきっとそれを見てきたはず。
なのに、あなたは自分が見てきたものを否定するの?
あなたがしようとしていることは、今まで見てきたことを否定してまでやるべきことなの?
わたしたちが見たのは、『真実』じゃないの?
*
そこまで言ったとき、バッグがもぞもぞと動いた。はっとして、バッグを開ける。
ライトストーン、が――――。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
超今さらですが書いてみました。
書く書く言ってから大分たったのでわたしが言ったこと自体、皆様忘れてると思いますw
ぶっちゃけプレー中は、電気石の洞穴あたりから完全に置いてきぼりされてたので、こんなことは考えてないですw
これを書くためにプレー動画見てみたんですが、ゼクロム登場からレシラム登場までほとんど間がなく、思わずずっこけました。
もうね、明らかにゼクロム現れたから出てきただけだろ状態。
実際にプレーしてたときはあんまり気にならなかったんですけど。
というわけで、こんな感じのことがあったんじゃないかなあという妄想でした。
今更過ぎてごめんなさい!
【書いてみたのよ】【今さらでごめんなさい】
ガサ、ガサ。
子供はおろか、背の低い大人ならすっぽりと隠れてしまうような草むら.
その湿った中を掻き分けて進む一人の男がいた。
彼が背負っている革色のリュックはリズムよく踊る。
空にはどんよりとした雲が浮かび、今にでも大きな雨粒を落としてやろうと言っているかのようである。
男は、煙たい匂いが鼻の奥を刺激するのを感じた。
お香か。
男は、思う。
匂いの風上を頼り、草むらを抜けると、その元はあった。
高く聳える塔。
タワーオブヘブン。
イッシュ地方最大の、ポケモン用の墓地だ。
各地のポケモンの御霊がこの塔で供養されている。
塔の頂上には大きな鐘があり、それを鳴らすことでポケモンたちが安らかに眠ることが出来るといわれている。
内部の各フロアごとに墓石があり、お参りへ来る人が毎日いる。
しかし、天気があまりよくないからか、あたりに人の気配はなさそうだ。
男はキョロキョロとあたりを見回すが、薄暗い影の中の草木しか視界には入らない。
男は、この塔に鐘を鳴らしにきた。
ただ、鳴らしたいと思っただけだ。
それ以外に理由なんてない。
漠然とした理由で来た男は塔を眺めた。
見上げ、霞の向こうにある頂上が透けて見えるかのようにじっと見つめる。
その先の、なんとも形容しがたい魅力を感じる。
男は、すっかり心を奪われていた。
「あの」
という透き通った声が聞こえるまでは。
その刹那、男は体を震わした。
何者なんだろう?
声の主に意識を向けた。
「はい?」
男は振り向いて、その姿を瞳に焼き付ける。
少女が、いた。
ぴゅう、と吹いた風に栗色の髪はさらりとなびく。
栗色のワンピースを着た少女は男をじっと見つめていた。
「おにいさん、塔にのぼるの?」
透き通って、消えてしまいそうなその声は、どこか悲しげだと男は思った。
「そうだね、今から塔の頂上に行くんだ」
ふぅん、と少女は言った。
「あのさ、あたしも、ついて行っていいかな?」
「君もかい?」
「うん」
少女はうなずいた。
「一人で行くの、こわいから」
塔の中は昼間だというのに薄暗い。
壁にかけられた蝋燭の灯はぼんやりと光、墓石を、床を橙に染めている。
中には人はいないようだ。
だが、何かが見つめている。
そんな感覚に襲われた。
「おにいさん、きをつけて。このあたりはヒトモシがすんでいるの」
「そういえば、そんなことを聞いたことがあるよ」
この塔にはヒトモシが生息している。
彼らは人の魂を好んでいるため、下手な行動をすると命取りになりかねない。
そんな話を昔聞いた覚えがあった。
「あの蝋燭もヒトモシよ」
「えっ?」
男は壁の蝋燭を見つめた。
ゆらゆらと炎が燃えている。
蝋がにやりと笑った。
「!?」
男は正体の顔を見たと同時に、腕を引っ張られる感覚に襲われた。
右腕をつかんでいたのは、少女だった。
「はやく行きましょう。こわいでしょ」
少女は足早に歩き始めた。
男は崩しかけた体勢を整え、付いていく。
「危なかった……。しかし、よく知ってるね。ここ何回か来たことあるのかい?」
男の質問に症状はビクッと体を震わした。
もしかして、聴いちゃいけなかったかな。と男が考えていると、
「……うん、何回か」
消え入るような声が答えた。
「一人で来たら危ないから、だれかいないかさがしていたの。そしたら、あなたが来たからたすかった」
少女の手はひんやりとしていた。
塔の薄暗さがそのまま体に出ているかのように。
少女に引きつられて、螺旋階段までたどり着いた。
一段踏み出すごとに、こつん、こつん、と音を響かた。
ヒトモシの灯に映し出されたひとつの影は、鐘へと近づいていく。
長い長い階段の先を超えると鐘があると期待した男は墓が並ぶフロアが続いたことに肩を落とした。
「まだまだ先よ」
少女の発した言葉に重なって、
「……ぼう……」
という声が聞こえた気がした。
「なんだ?」
と男は振り返ったが、人がいる様子は無い。
「ヒトモシのしわざよ。はやくしなきゃせいめいりょくをすい取られるわ」
少女は声の方向に目もくれず、次の階段に向かっていた。
「おにいさん、いそぐわよ」
少女は、駆け出した。
おおっと、と男は声を漏らした。
駆ける少女に引っ張られながら、次の階段へと向かっていく。
彼女の冷え切った手につかまれながら。
幾段もの階段を上り、規則的に並ぶ墓石を目にし、進んだ。
そして、最後の階段にたどり着いた。
「もうすこしで頂上よ」
「ああ、そうかい」
最後の階段の先から光が屋内に差し込んでいる。
一歩、一歩階段を踏みしめる。
外気は少女の手のようにひんやりとしてきていた。
間違いなく、頂上が近いんだ。
男は思った。
「君のおかげでヒトモシに襲われることもなかった」
「そうね……ありがとう」
少女はぽつりとつぶやいた。
階段を踏みしめるごとに、体の重みが男を苦しめた。
ずっと歩き続けたからだろう、男は痛みを堪える。
視界は次第に明るくなっていく。
そして、最後の一段を踏んだ。
頂上は、ぼんやりと霞がかっていた。
その中にうっすらと大きな鐘が見えた。
「これが、頂上か…」
男は鐘へと歩み始めた。
一歩足を踏み出すたびに重くのしかかる感覚を堪える。
そして、鐘の前に立った。
鐘から垂れた紐を手に取り、引っ張った。
ごおおん、ごおおん。
鈍い音がん響き渡った。
遠く、深くまで。
男の心の奥底にまで染み込む。
重い体から何かが離れていくような、そんな感覚に包み込まれた。
目的を達成してすっきりした男が鐘に背を向けると、少女が立っていた。
「もう、かえるの?」
「ああ、やりたいことは終わったしね」
少女は拳を握った。
「……つまんない」
少女は、拳を振り上げた。
「つまんないつまんないつまんないつまんない! もっとあそぼうよ!」
「お、おい……落ち着け!」
少女は体を震わせて睨み付けた。
「あそびたいんだよ? この子たちもあそびたいんだよ?」
刹那、男の肩に重みを感じた。
視線を右肩に向けると、いた。
白い体に、赤いともし火。
ヒトモシだ。
「なっ……」
男は、意気揚々としたヒトモシの姿を見て、頭にぐるぐると何かがめぐり始めた。
「なっ、なんで……ヒトモシがいるんだ……?」
渦の中から拾い上げた言葉を発した。
「あそびたいんだよ? ミ……ンナ、アソビタ……インダ……ヨ?」
少女の顔は、ゆがみ始めていた。
口は左頬の位置まで伸び、鼻は斜めに、目は右頬に傾いている。
口から、目から、鼻から、緑色の液体が流れ始めた。
男は、息を呑んだ。
瞬きをすると、歪んだ少女は消えた。
そこに、一匹のポケモンがふわふわと浮かんでいた。
灰色の体に大きな頭。お腹の4つのボタン。
オーベムである。
「あ、あぁ……」
そこに、少女などいなかったんだ。
最初から幻影だったんだ。
男は、体中の力が抜けきってしまった。
ぺたり、とつめたい地面に尻をついた。
肩のヒトモシはぴょこん、と降りた。
……遊びたいんだよ?
「……やめてくれ……頼む……」
男の体はすっかり冷え切っていた。
次第に近づいてくるオーベムが大きく、そして恐怖に感じられた。
……なんで、遊んでくれないの……?
「やめろ……やめるんだ……この化物……!」
ぴたっと、オーベムの動きが止まった。
……化、物……?
体をぶるっと震わせた。
……ボクって、化物なの……?
悲しそうな瞳で男を見つめた。
潤んだ瞳の奥には何か、淋しげな感覚があるように見えた。
……そうだよね、怖いよね。
オーベムはがっくりとうな垂れた様子だった。
さっきの一言が重くのしかかったらしい。
……ボク、ただ遊びたいだけだったんだ……
「オーベム……」
男は膝をついた。
「酷いこと言っちまってごめんな」
男はオーベムの頭をなでた。
オーベムは驚いた様子で男を見つめる。
潤んだ瞳に男の顔が映りこんだ。
……許してくれるの?
「こっちこそ酷いこと言ったしな。お前はただ遊びたかっただけなんだろう」
オーベムはコクリと頷いた。
「そうだな、ちょっとだけ遊んでもいいぞ?」
……え? 本当に?
オーベムは目を丸くした。
男はああ、と言った。
オーベムは踊るように喜んだ。
……やった、ありがとう!
その姿を見ながら、男はにっこりと笑った。
後ろから、ヒトモシがぴょこんと肩に乗った。
そして、にやりと笑った。
「次のニュースです。フキヨセシティ郊外のタワーオブヘブンそばで男性の遺体が発見されました。
遺体は死後数週間が経過したものと思われ、警察が身元の確認を行っています。
近辺には革色のバッグがあり――」
――――――――――――――――――
お久しぶりです。名前のとおりのものです。
最近ご無沙汰だったので、リハビリがてら。
ところで、書いていくうちにオーベムが可愛く見えてきたんです。
あのくりっくりとしたおめめ。なにこれ可愛い。
もっと怖いってイメージだったんですが、気づいたら抱きしめたくなってました。
そんなノリで無理やり乗り切りました。
【好きにしていいのよ】【オーベム抱きしめてもいいのよ】
回答8:
色違いのゾロアークなら、この前借金を返しにきた。
子供手当が出たからやっと返せるー!ルーピー・ポッポ大統領万歳とかいいながら団子も食ってたな。
回答9:
私の友達が青いブラッキーを持ってました。
普通のブラッキーとは違って、夜に見ると青く光って綺麗でしたが、迫力はやっぱり黄色い方がよかったと思います。
回答10:
(この発言は当局によりスナイプされました)
回答11:
この前、ラブカスを釣ろうとしたら、変な色のホエルコつり上げちゃったよ。一瞬目がおかしくなったのかとおもった。
回答12:
色違いのゾロアークがこの前お店にきました。
先輩と親しいようだから、試作品を食べてもらったら全部まずいって言われた;;
それから口直しに賞味期限が近いやつを食われたけど、小さい子がいるっていうから包んであげたら喜んで宣伝してくれた。いいやつだったよ
回答13:
>12
貴方なにをいってるんですか?ゾロアークが喋るわけないじゃないですか。半年ロムってろ
回答14:
>12
お前ポケモンかよwwwwwwwwwwうぇwwwwwwwwwいいやつwwwwwまじwwwwwwwwステマwww
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