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彼が消えたのは、4年前ーー2012年8月23日のことです。あの日、私は家で今月提出のレポートを書いていました。オリンピックに夢中になっていたら、書くのをすっかり忘れていたのです。
「ナオちゃん、タクオそっちに行ってない?」
幼馴染のタクオのお母さんから電話があったのは、もう日が暮れた20時頃でした。
「えっ、タクオ、帰ってるんですか?」
「……そうよね、知らないわよね」
話によれば、昼前からタクオの姿が見えないとのこと。しかも、外に出た形跡もなく、タクオの靴は玄関に置いたままだというのです。
「もしタクオから連絡が来たら教えてちょうだい」
しかし、タクオから連絡がくることは、ありませんでした。そして、その後彼に会うことも、ありませんでした。
あれからもう4年……オリンピックがなかったから、鮮明に思い出して悲しい気持ちになることはありませんでした。いいえ、本当は、心の奥底に閉じ込めて、忘れようとしていただけなのでしょう。生きているのかもわからない彼を待ち続けるのは、あまりにも苦しいから。
私はパソコンの電源を入れると、4年前と同じように、レポートを書き始めました。ドキュメントの中には、あの後結局提出できずにそのままのレポートが、ひっそりと残っています。書けなかったのです。私は、そのレポートを、書きあげられなかったのです。
「何の授業のレポートだったっけ……」
カーソルを合わせてダブルクリックすると、そのレポートは真っ白でした。あれ、おかしいな……私はあの日、途中までレポートを書いたはずです。真っ白なんてことは……
ナ
真っ白の画面に、突然文字が表示されました。打ち込んだのは私ではありません……パソコンが勝手に表示させたのです。
オ
ナオ、それは、私の名前。
オレハ
次々表示される文字に戸惑いながら、それでも私はその文字をじっと見つめていました。ゆっくり、ゆっくり、文字が打ち込まれます。
タ
ク
オ
オレハタクオ。俺はタクオ。私は無我夢中でキーボードを叩きました。
今どこにいるの?
デンシカイロノナカ
どうして?
ワカラナイ
どうしたらまた会える?
ワカラナイ
どうやら彼は、到底信じられないけれど、ゲームの中にポリゴンとして取り込まれたらしいのです。しかも、その後ゲームがリセットされたことでゲームの中から追い出され、その辺の電波に吸収されたというのです。
わかった、どうやったらそこから出られるか考えてみよう
ワカッタ
私は右上にあるバッテンマークをクリックしました。この文書は変更されています、保存しますか……はい。きちんと上書き保存をして……
自分の体から、血の気が引くのがわかりました。私は、レポートを、上書きしてしまったのです。変更を、保存してしまったのです。
彼を、心の奥底どころか、この1枚のレポートに、閉じ込めてしまったのです。
8月の終わりに、実家の母から呼び出しをくらった。自分の部屋にクーラーがないので、正直帰るつもりなんてこれっぽっちもなかった。今月提出のレポートも全然書けてないし、遊ぶ予定もバイトもある。でも、母があまりにしつこく電話をかけてくるので、しぶしぶ帰ってきたのだ。一浪して大学に合格し、この春一人暮らしを始めてから、実家に帰ってきたのはこれが初めてだった。
「タクオ、どうせ暇なんでしょ。部屋、なんとかしなさいよ」
部屋の中は、3月に荷物をまとめきれずにバタバタと出て行った、そのときのままだった。
「暇じゃねーし、俺の部屋なんだから別にいいだろ」
「住んでない人が文句を言わない、さっさと片付けて」
そんなこんなで俺は今、部屋の片付けをしている。
「へぇー、これまだ取ってあったんだ」
勉強机と壁の隙間から、懐かしいものが出てきた。誕生日に買ってもらったゲームボーイカラーと、それに刺さったポケモンのカセット。カセットのシールはほとんど色褪せて白くなってしまったが、ポケットモンスターの文字とフシギバナのイラストはなんとなくわかる。画面を指でこすると、指にかなりの埃がついた。電源を入れてみたが、つかない。そうだ、これは電池式だったっけ……
「これで、よし。データ残ってんのかな?」
単三の電池を入れ、電源を入れる。懐かしい音、Aボタンを連打しても飛ばせない最初の数秒。このカセットはゲームボーイ版だから、確かここらで十字ボタンを押すと、色が変わるんだっけ? へへっ、忘れちまったなぁ。
「おっ、『つづきから』、あんじゃん」
十数年も放置していたのに、データは奇跡的に残っていた。二頭身で色の少ない主人公。そいつは、ゲームコーナーの景品引換所の前にいた。確か……
「ポリゴンを引き換えたかったんだっけ」
手持ちのコインは6800枚。ポリゴンを引き換えるのに必要なのは6500枚。なーんだ、引き換えられるじゃんか。それなら……
「タクオ! ちゃんと片付けてるの!?」
「げっ」
俺は反射的にゲームボーイカラーの電源を切った。
「うっせーな! 今やってるよ!」
そう言いながら画面に視線を戻すと、ぽとり、としずくが落ちた。ゲームに集中して気が付かなかったが、体のいたるところが汗でベトベトしている。
「母さん、なんかジュースない? 今のでめっちゃやる気なくしたわ」
「なによ、私のせい? 冷蔵庫に炭酸入ってるわよ」
俺はゲームボーイカラーをベッドの上に放り投げて、リビングに向かった。
「あんた片付けしてなかったでしょう。自分の部屋だからって、まったくこれだから……」
母は手際よく桃の皮をむきながら、俺のことをちくちくと刺した。言葉は尖っているけれど、なんだかんだで俺が帰ってくるのが嬉しくてたまらないのだろう。俺がこの家に住んでいたときは「手がかぶれる」と言って缶詰しか買ってくれなかった好物の桃が、冷蔵庫に6つも入っていた。ソファに寝転んでテレビを見ていた父が、昨日鼻歌を歌いながら箱で買ってきたのだと教えてくれた。
「机の裏からさ、ゲームボーイカラーが出てきたんだよ。ほら、あの、確か誕生日に買ってもらったやつ」
「それであんた、ゲームやりすぎて夏休みの宿題が全然終わらなかったのよね」
「ちっ、俺に都合の悪いことだけ覚えてやがる……」
こんな嫌味の言い合いも、数ヶ月ぶりだとあたたかく感じた。
「そういえば、誕生日のお祝いしてないわね。1ヶ月遅れだけど、ちょうどいいから今日やっちゃいましょ? お父さん、いいわよね?」
「わかったわかった。今いいとこなんだよ、少し静かにしてくれ」
テレビの中では、大阪と青森の高校球児たちが、甲子園の決勝を戦っていた。
「もう一度……」
俺はベッドに置いたゲームボーイカラーを拾い上げ、電源を入れた。ポリゴンをゲットしてからじゃないと、掃除をする気になれなかった。もう少し思い出に浸っていたかったのだ。
『つづきから』、よし。手持ちは5匹だな……それと、コインもちゃんとある。ポリゴン、6500枚、引き換えますか、はい。
俺は小さく息を吐いた。そろそろ部屋を片付けないと、また母さんにちくちく刺されることになる。おっと、忘れてた。ちゃんとレポートを……あれ、どうした、体が動かない!? 声も出ないぞ……なんだこれ、やばい。かなしばり? なんかよくわかんないけどやばい。 汗をかいて暑いはずなのに、寒い。体は動かないのに、震えが止まらない。そして、画面いっぱいに映っているのは、ポリゴン。ポリ……ゴン?
ガガガガガ
ゲームボーイカラーが突然震えだした。画面の中のポリゴンが、無表情のままこちらにたいあたりしている。そうだ、思い出した。俺はポリゴンが引き換えられるのを友達に自慢するために、何度もここでリセットしてたんだっけ……
たいあたりを繰り返していたポリゴンが、ゆっくりと画面から出てきた。たぷんと画面に波紋が広がる。俺の体はまひしたみたいに動かない。無表情のポリゴンが、ただただ俺を見ている。
なんだ、怒ってんのか? 手に入れては友達にバレないようにリセットし、「2匹目ゲット」と嘘をついた俺に? 何度もポリゴンを引き換えたように見せてリセットし、結局ポリゴンをゲットしていなかった俺に?
ピカッ
ポリゴンが突然光った。あまりに眩しくて、俺は反射的に瞼を閉じる。こんなの、ありえない。ゲーム画面からポケモンが出てくるなんて、ありえない。これは、夢だ。そのうち覚める、大丈夫だ。
パッと目を開けると、やはりそこは俺の部屋だった。見慣れた天井。ほれみろ、夢……いや、体が動かない。それに、なんだか物が大きく見える。
「タクオ! 開けるわよ!」
母の声、部屋のドアが開く音。
「あら、いないじゃない。一緒にケーキ買いに行こうと思ったのに……」
いや、いるだろ。俺はここにいるだろ? なんで気付かない? なんで……
母が近づいてきた。すると、俺の体をひょいっと持ち上げて、俺の顔をじっと見つめた。
「ゲーム、つけっぱなしじゃない」
プチッ
レポートは、書かれていない。
彼とは私が卵の頃から一緒で、産まれた時も、キュウコンに進化した時も、彼は綺麗な笑顔で一緒に喜んでくれました。
親がいない彼は私を唯一の家族として大切にしてくれました。私もひとりきりでしたから、私達は互いを唯一無二の存在として想い合い、いつしか体を重ねる関係になっていました。
人の寿命は短い。私達キュウコンは1000年生きますが、人はその10分の1も生きられません。彼が亡くなった時、私は自身の運命を呪いました。
あれから800年と少し。
私は彼の墓の前で、ずっと眠り続けていました。彼がそばにいないのが寂しくて、悲しくて、辛くて。100年もの間泣き続けて、そのまま。
彼の墓も私も、生い茂った草花が覆い隠して外からは見えません。私も、外がどうなっているのかは分かりません。
ああ、今日もまた、彼が私を呼ぶ声が聞こえます。
ぶちぶちと蔓が引きちぎられる音に目を覚ますと、そこには小さな体で傷だらけになりながら私の名を呼ぶ男の子がいました。
私には、すぐに彼だと分かりました。
「やっと見つけた……」
彼は私の名を呼び、私は彼の名を呼び、互いに抱きしめあいます。
嬉しくて、嬉しくて、9つの尻尾が勝手に動いて彼を組み敷いていました。
「ひとりにしてごめんな、これからはずっとそばにいるから……」
彼は私の大きく膨れ上がった愛の象徴を受け入れながら、本当に久しぶりに頭を撫でてくれました。
懐かしい彼の体を味わいながら、私達はもう一度、愛を誓いました。
<笑うイトマル>
キョウコさん(仮名)の話。
サブウェイで三十連勝ほどした頃だろうか、車窓のガラスに一匹のイトマルが腹を見せて張り付いている事に気が付いた。
「イトマルって背中に人の顔みたいのがついているでしょ。そのイトマルには腹にも模様があってね、・へ・みたいな模様だった。あんまり機嫌はよくない感じ。まあ私は構わずバトルを続けた。出てくるポケモンもトレーナーもどんどん強くなるし、それどころじゃないって感じ」
それでも気になって時々バトルの合間に窓を見るとまだイトマルは・へ・の腹を見せて張り付いていたという。
「あれは四九戦目だったからよく覚えてる。もう少しで五○戦目だーって意気込んでいたら、ポケモンが技を外して、すんでのところで負けてしまって。まー負けは負けだからしょうがないかって、列車を降りようと思って……」
キョウコさんはまた、何気なく車窓を見た。
「笑ってたの。イトマルの腹が。さっき・へ・じゃなくてあきらかに口を三日月みたいな形にして。いかにもニターッって笑みを浮かべて笑っていたのよ」
<追いすがるギャロップ>
車窓とトンネルの間の狭い空間の間を何者かが移動していた、という話もサブウェイでは珍しくない。
「僕の場合はギャロップです。そう、ひのうまポケモンのギャロップ」
そう語るのはヒウンに住む会社員のジムさん(仮名)。
バトルに熱中していたのだがどうも自分の右方向が明るいような気がする。
窓のほうを振り向いたらものすごいスピードで走る車両に併走する形で、炎のたてがみの火の粉を散らしながらギャロップが走っていたという。
「いやびっくりしました」
だが、うっかりトレーナーが外に出してしまったとか、狭い空間なのになんて事を考える余裕はなかったという。
「というのもね、車窓にぴったりと併走しながらね、ギャロップがものすごい形相で私をにらんでいるんです。顔の左半分でね、目を異様なほどにと見開いて歯を見せてね。トンネルの中の風のせいなのかな。唇が煽られてぶるぶると震えていてね。裏側がばたばたとめくれて見えるんですよ。涎がね、飛び散ってね、窓にもついてね」
ギャロップに恨まれるような覚えはさっぱりないというジムさん。
だがそれはとにかく恐ろしい形相であったという。
そんなギャロップもジムさんがバトルに負けると減速し、瞬く間に見えなくなってしまった。
「負けた以上にほっとしましたね」
そうして今改めて考えると不可解な点がある、と彼は言う。
「これ、降りてから気が付いたんですけど、その位置にギャロップが見えるのっておかしいんですよね」
ほら、見てください。
と、ジムさんはホームの下を指さした。
「線路から、我々の立っているホームまで、少なく見積もって人一人分の高さはあるでしょう。さらに我々の足元から車窓のガラス部に達するまで一メートルくらいはあるでしょう。だいたい二.五メートルとして。でも、窓からギャロップの顔が見えていた」
ギャロップの頭のある位置は大きい個体でも地面から二メートルくらいでしょう。
地面を走って併走しても、絶対に顔なんか見えないんですよ。
でも、窓から顔が見えた。
なら奴は空中を走っていたという事なんですかねえ……。
女の子は机の上に、両手で抱えられるくらいの小さなネズミを二匹乗せ、教師のように人差し指を立て彼らに語りかけた。
「いーい? デデンネ、コラッタ。ネズミと言えばチーズと物語では相場が決まってらっしゃるみたいだけど、わたしはそれに反対なの」
デデンネとコラッタと呼ばれたネズミ二匹は、ん? と兄弟のように首を傾げ、これから始まるご高説に備えている。
「大体ね、ケーキみたいに切ってあるチーズに穴があいてるのはネズミがかじったから、なんてナンセンスなのよ。あれはね、チーズが美味しくなるために熟成していった結果、勝手に穴があくわけ。あんたたちはネズミだけど、勝手に冷蔵庫にあるチーズをカジカジする悪い子じゃあないでしょう?」
ネズミ二匹は、うんうんと頷いて、ご高説に聞き入っている。時折種族ごとの固有の鳴き声とは違う、チューチューというネズミ声が聞こえる。おそらく人間で言う、うん、とかああ、みたいな感嘆の声なのだろう。
「ネズミってやつは雑食性で、なんでもムシャムシャモグモグ食べるでしょう、だからチーズにこだわらなくてもいいと思うのよ」
ネズミ二匹にこうしてご高説を垂れている彼女こそが、実は一番ネズミにチーズをやることの是非に対してこだわっているのであるが、その場にいる誰もが、ネズミ二匹を含めて気がつかない。
彼女はその事実には全く気がついていないし、ネズミ二匹はそもそも事実を知ることに興味などないからだ。ネズミ二匹の意識は、ご高説を垂れている女の子の大きく開いた口と、立てた人差し指と、体の後ろに回されている利き手でない左手に向かっている。
「だからわたしはあなたたちにチーズをあげることはありません。イタズラネズミが家主の目を盗んでこっそり食べるに一番ふさわしいと思われるものをあげます」
左手がネズミ二匹の眼前に突きつけられた。その上には長方形の、チョコチップクッキーの箱が乗っかっている。
「意識の高いネズミとして、その頭にネズミにはチーズよりクッキーだということをよーく刻み込んでおくのよ」
女の子は定番に逆らう口調とは裏腹に、開け口にしたがってチョコチップクッキーの封を開ける。中の三つに区切られたプラスチック製の容器からクッキーを二枚取り出し、ネズミ二匹に一枚ずつ、景気良くくれてやった。
女の子はご高説を垂れて満足したのか、自身もチョコチップクッキーをサクサクかじる。
ネズミ二匹が女の子の言い分をしっかり頭に刻み込んでいるかは怪しい。チョコチップクッキーが美味すぎてそれどころではないからだ。
ミスターイ●ウのチョコチップクッキーが好きです。
天原町は、神域。神様のおわします、とても神聖な場所だ。出雲や伊勢に並んで、昔から特に大切にされてきた土地のひとつだった。
どうして、先人たちに尊ばれてきたのか。
それはなにも崇拝対象が先行するような、神ありきの理由ではない。天原は昔から、冷害に悩まされてきた。毎年冬になると、遠い北の大陸で生まれた冷たい空気が日本海を渡り、奥羽山脈を乗り越えてやってくる。その乾燥した冷気は鋭い刃となって天原に吹きつけ、作物を枯らした。
天原の人々は、その風が氷のように冷たい風だったので、「氷の神様」の怒りなのだと考えた。氷の神様は、長い尾を持った巨大な霊鳥の姿をしている。天原の農家の人々は収穫の時期になると、氷の神様のために祭壇を作って祀り、豊作を祈願した。
しかし、冷たい風はその後も治まることなく続いた。
これでは食っていかれない。まともに作物も獲れないこんな土地で、どうしてここにとどまり、飢えに耐え続けることがあろうか。そう考える農民たちが現れ、一軒、また一軒と天原を捨て、もっと暖かい土地を求めて出ていってしまった。農地を耕す者が減っていくと、土は荒れて、冷たく硬く強張っていった。
打ち捨てられた土地。飛鳥時代は慶雲期、天原はそう呼ばれていた。
頭を悩ませたもろの木さまは、出雲の国に住んでいた湯の神さまを呼び寄せて、この土地と人々を温めてくれまいかと願い出た。
天原の土地を眺め、湯の神さまは言った。
「長きに渡り凍てつく風に晒された天原を温めるには、うんとたくさんの湯を沸かすことのできる桶をこしらえなければなりません。鎮守の森の木々を切るわけにはいきませんから、本殿を取り壊して、その廃材を使うことになりますよ」
当時はまだ存在していたとされる「天原神社」。もろの木さまはその本殿に祀られていた。しかし、氷の神様を鎮めるためには、湯の神さまの言いつけどおり、本殿を取り壊さなければならなかった。
「本殿を取り壊せば、代わりにあなたが毎年、凍てつく風に晒されることになります。それでもよろしいのですか」
湯の神さまの提案には、天原に住む皆が反対した。八百万の神々も、獣(しし)たちも、もちろん農民たちも。
天原を守ってきたもろの木さまがどうしてそんな目に遭わなければならないのか。そもそも本殿を取り壊すなど、正気の沙汰ではない。ある神がそう言った。その他の大多数の神様たちや人々が、同じ意見だった。
ただ一人、もろの木さまだけが、本殿を取り壊し、桶を作ると言った。
「この老木が雨風に吹き晒されることは、なんら気に止めるようなことではない。朝日が昇り、また沈むのと同じ様に、些事である。今大事は、天原に人々が住まなくなることだ。作物が獲れなくなり、土地が痩せ、国として死んでしまうことだ。この社の木材が必要ならば、気兼ねなく使うがよい」
天原の全ての者たちはその言葉に感嘆した。
そして、神さまたちも人々も獣たちも、総出で桶作りに携わった。本殿は涙のうちに取り壊され、もろの木さまは剥き出しになった。
出来上がった大きな桶で、湯の神さまは湯を沸かし、天原を温めた。毎年冷たい風の吹く季節がきても、「天原の大桶」のおかげで、作物が枯れることもなくなった。凍える冬の夜は、皆大桶の湯に浸かり、身体を温めて寒さを凌いだ。
以来、もろの木さまに加えて、天原神社の祭神として湯の神さまも祀られることとなった。
しかし社の類は全て取り壊され、手水舎や鳥居も全て大桶の材料となってしまっていた。そこで、大桶の湯を皆に配る役目をしていた各所の「湯屋」で、二人の神様は祀られることになったのだ――
「自分の住んでいる場所の歴史くらい、ちゃんと勉強してください」
美景ちゃんが長い溜め息をついた。
「――津々楽さんも杠さんも、本当に聞いたことないんですか?」
私とユズちゃんは曖昧な笑みを浮かべて目を合わせる。
美景ちゃんと約束をした土曜日は、先週と同じくらい良く晴れていた。ユズちゃんを連れて、待ち合わせの午後四時五分前に駅前広場へ行くと、美景ちゃんはもうベンチに座って文庫本を読みながら待っていた。土曜日なのに、やっぱり前と同じ制服姿だ。美景ちゃんを初めて見たユズちゃんは、「ほんと座敷童みたいな髪してる」と小さく呟いた。
「その『天原の大桶』っていうのは聞いたことあるよ。でもそれが何なのかは今知った」
私がそう言うと、ユズちゃんもうんうんと頷いた。
「そうですか。あなた方に今の天原の状況を話す前に、成り立ちだけで日が暮れてしまいそうです」
そもそもどうして美景ちゃんに「天原歴史講座」を開いてもらうことになったかというと、早い話“浅学”が露呈してしまったからだった。麗徳のエリート少女は、我々一般の中学生に、とても厳しかった。
私がユズちゃんと美景ちゃんをお互いに紹介し、コノと挨拶をし、ひとまず三人並んでベンチに腰を下ろし、何気なくもろの木さまの話になったときに、ユズちゃんがぽろっと言った。
「天原の守り神ってくらいなのに、どうしてちゃんと祀られてないんだろうね? 普通大きな神社とか、そういうところにあるんじゃないの?」
私も不思議に思っていたことだった。駅前広場の真ん中でぽつんと佇むもろの木さまは、見ているとどうも不憫に感じてしまう。これからの寒い季節は特にそうだった。
しかし、ユズちゃんのその台詞を吐いた直後、美景ちゃんの表情がぴたっと固まったのだ。私はすぐに察して、ユズちゃんの台詞の後に「うん、そうだよね」なんて相槌を打たなくてよかったと思った。
そして美景ちゃんより――すでに綴ったように――天原神社が取り壊された理由が語られたのだった。
美景ちゃんの語ってくれた天原の神話は、「天原手記」という書物に収められているらしい。古事記や日本書紀に記載のある神話との関係も深く、歴史学的にも考古学的にも重要な神話なのだそうだ。
「湯の神さまは出雲の国から来たという記載から、出雲大社の祭神『大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)』の妻、『多紀理比売(タキリヒメ)』と同一神と考えられています。天原の神たちにとっては他所者でも、名のある神の言葉だったからこそ、言いつけ通りに桶を作ったのだという話です。そもそももろの木さまが迎え入れるほどの神ですから、きっと出雲の国でも広い範囲で信仰を集めていたのでしょう」
神話の詳細を語る美景ちゃんは、他の話題のときよりほんのちょっぴり生き生きしていた。
「とにかく、天原に神社がない理由は分かったわ。もともとこの駅前広場には、その『本殿』があったのね。なんか、全然イメージできないけど」
ユズちゃんが人差し指と親指で四角形を作り、もろの木さまにかざして覗いた。創建された時代も、「大桶」を作るために取り壊された時代も不明。「天原手記」が完成したのが奈良時代初期らしいから、今から千五百年くらいも昔の出来事ということになる。
そんなに気が遠くなるほど昔から、もろの木さまはここに立って、天原を守り続けてきたのだ。
「イメージはできないけど、大切にしなきゃいけないことは分かる。もろの木さまも、湯の神さまも」
そうさ、とコノが頷いた。
「それが、君たちの生活をきちんと続けていくこと、後世へと繋いでいくこととイコールなんだ。前に話したように、湯の神の姉さんをホームレスにさせてる場合じゃないよ」
コノがうちの浴室に現れたその日から、実は二つ、出来事があった。どちらもあまりよくないことだった。
ユズちゃんのおばあちゃんは、目を覚まして間もなく、認知症と診断された。脳血管性のものとアルツハイマー型が合併したものだろうと、担当医師は判断した。
木曜日に再度お見舞いに行ったときのおばあちゃんは、やっぱりとても小さく映ったし、言葉数が少なかったけれど、何もおかしなところはなかったように感じた。とにかくそのときは、目を覚ましてくれたことが嬉しかった。リハビリ次第で早期に退院できるだろうと、ユズちゃんのお母さんも言っていた。
しかし帰り際、病室の外でお母さんは「後々びっくりさせないよう、耳に入れておいてほしい」と、事実を伝えてくれた。
実際には症状が表れていたという。目を覚ましたその日から、おばあちゃんは一度食べた朝食を何度も催促した。夜に一人で病室から出ようしたところを看護師さんに見つかり、理由を訊くと「自分の枕を探していた」と答えたらしい。家ではお気に入りの蕎麦殻の枕を使っていたのだ。
事実、銭湯の運営再開が遠退いた。ユズちゃんにはもちろんそんなこと言っていないけど、うちでは――津々楽家では、そういう方向の話になっていた。
「うちも、喜美子さんのお母さんがそうだった」
お父さんが食卓でビールを片手に言った。木曜の夜のことだ。
「兄貴の嫁さんの母親だよ。杠さんのところも、むしろ早く銭湯の番台に戻してあげた方がいいんじゃないかな。病院は病気を治すところだけど、やっぱり息が詰まるんだよ。あなたは病人ですって言われ続けてるようなもんなんだ。特に認知症には、それがすこぶるよくないらしい。喜美子さんのお母さんもね、無理矢理病院から引っ張り出して趣味だった麻雀やらせたら、もうあっという間に回復しちゃって」
私はそれを聞いて、すぐにでも実行したくなった。
「でもねえ」お母さんが食卓の真ん中に鍋を置く。葱のたっぷり入った水炊きだ。「一度倒れちゃったら、もうあんまり無理は出来ないんじゃないかしら。銭湯を一人でやっていくのなんて、若くて健康な人でも大変なのに」
「私手伝う。ユズちゃんと一緒に」
どのくらいできるか分からないけど、結構本気の提案だった。
「あなたたちは学校の授業と部活があるでしょう」
「みんなにも事情を話して、交代で休むようにすれば? 三橋先生ならきっと賛成してくれるよ」
お母さんは取り皿を並べながら、困った顔をした。
「三橋先生は、茉里のクラスの担任だね」
お父さんが質問を入れる。
「うん」
「あの先生は分かってる人だから、茉里の意見には反対すると思う」
「なんで?」
「いいかい? 残念なことに、生徒たちの親御さんの中には大勢反対する人が出てくるだろう。『うちの子に何させてるんだ!』ってね。そうなっちゃうと、杠さんのところが非難を浴びることになるし、奈都子ちゃんも学校に行きづらくなる。そうなるのは、茉里はどう思う?」
「それは、嫌だけど。でも――」
「先生は、茉里のことだけ見ているわけじゃない。奈都子ちゃんのことだけ、見ているわけでもない。クラスの子供たちみんなを見ている。だから、反対すると思うよ」
溜め息が出るほど正論。分かっている。でも、私がやろうとしていることはそんなに非難を浴びるようなことなんだろうかとも思う。
「それに、杠さんのところはあのお父さんが、ね?」
お母さんが困った顔のまま言う。
「――まあそれを話し始めるときりがない。さあ、あつあつのうちに食べよう。父さんの育てた葱は美味いぞ」
お父さんがそう言って、話は終わりとなった。
思えばあのときお母さんは「口を滑らせた」のだ。
問屋さんを営んでいるユズちゃんのお父さんは、年がら年中仕事が忙しいらしく、私もほとんど会ったことがなかった。記憶では、たぶん中学校の入学式で見かけたのが最後だと思う。背がすらっと高くて、かっちりとしたビジネススーツを着こなしていた気がする。「町の問屋さん」というより、「ばりばりの営業マン」という感じだった。聞いていたイメージとあんまり違ったので、とても印象に残っている。
二つ目のよくない出来事は、ユズちゃんのお父さんのことだった。出来事というよりは、浮き彫りになってきた事実、と言った方が近いかもしれない。
ユズちゃんのおばあちゃんが倒れたこと知ったあの日、大人たちの言葉の行間からなんとなく“違和感”を感じていた。なんか変だ。とても大事なことで、みんなそれを何とかしなきゃいけないと思っているのに、誰もが気付かないふりをしている。触れてはいけない。自分達には関係ない、その“家”のことなんだから。
気が付いた。違和感の理由は、家族が一人倒れたというのに、誰もお父さんのことを口にしなかったからではないか。まるで関係のない他人かのように、全く一言も、言及されなかったからではないか。
しかしあの日、ただ一人ユズちゃんだけは、お父さんのことを口にしていたのだ。
――この銭湯はちゃんと経営してかないと、あの人に潰されちゃう――
「コノからもお二人に話したようですが、まずは杠さんのところの銭湯を“社(やしろ)”として機能させ続けることが急務です。そうしないと湯の神さまの力が弱まり、ますます多くの“毒”を天原に呼びこんでしまいます」
美景ちゃんは強い口調で言った。
湯の神さまのことも大事だけど、それ以前に、私は確かめなきゃいけない。
「ねえユズちゃん、よかったら話して」
「ん? 何を?」
ユズちゃんは指で作った四角形を下ろした。
「ユズちゃんのお父さん。一体何しようとしてるの?」
彼女の顔からさっと表情が消えた。目をまん丸にして、私を見る。
「――えっと。それ、誰から聞いたの? うちのお母さん?」
「ううん、誰からも聞いてない。勝手な予想」
ユズちゃんは目元にしわを寄せて、もろの木さまの方を見た。美景ちゃんとコノは、私たちのやり取りを黙って見守っている。
「――別に、うちの父さんはなんも関係ないよ」
「そしたら、前に言ってた“あの人”って誰のこと? “潰されちゃう”って?」
「あれ、そんなこと言ったっけ?」
不自然な笑い方で、ユズちゃんは返す。
「うん、言ってた。私、普段こういうこと遠慮してなかなか突っ込んで訊けないけど、今回はお節介を焼かせてほしいの。私でもできることがあったら、小さいことでも、何かさせてほしい。本気でそう思う」
しばらく彼女は足元を見つめ、それからもろの木さまに視線を戻し、それを二回繰り返した。そして、「やっぱり茉里だよなあ、そういうところ」と、笑って空を仰いだ。
「――やっぱりって?」
「お節介。今までだって散々焼かれてきたよ。悪いけど」
「そう、かな」
「そう」
ユズちゃんは一回洟をすすってから、真面目な顔で話し始めた。
記事の方ですが一つ没ネタがあったので……。勿体ないのでここに失礼します。
・グラシデアの由来的な。
やあやあ、お客さん。どうしたんだい、ぼーっと突っ立って。……え? ああ、お客さん、もしかしてソノオは初めて? ……ああ、やっぱり。そうかいそうかい。すごいもんだろう。毎年この時期になるとグラシデアが真っ赤なじゅうたんを敷き詰めたようになるのさ。まあ、ソノオで暮らして長い俺だってやっぱりこの時期になると圧倒されるんだ。初めてなら本当に「息を呑む」ってやつだろう。まあ、花は逃げないから……え? いやまあそりゃ確かに枯れはするが……。うまいこというね、お客さん。だが、それでも今日明日中にってわけじゃない。お客さんがソノオに滞在している間くらいは大丈夫だろうさ。
そうだ、お客さん。そんなにグラシデアに感動したなら、一つグラシデアの花についてのお話をしてやろう。……そんなほっといてくれって顔しないでくれよ。おっちゃん、傷つくだろ。まあまあ、花見を楽しみながらでも聞いてくれ。
グラシデアの花の、いやソノオの由来を知ってるかい。……ああ、そうそう、それそれ。元々荒れ地だったソノオに花を植えた話さ。「ありがとう」と感謝の言葉を伝えた時にグラシデアの花が開き、そしてそれからソノオは花園の町になった。グラシデアの花言葉が「感謝」なのもその話から来てるな。良く知ってるじゃないか。お客さん、ガイドブックを熟読するタイプだろ? ……花屋の娘が言ってたって? あそこの子、可愛いだろう? いやまあ、それはいい。とりあえず知ってるならいいんだ。
だが、お客さん。その話には裏があるんだ。おっ? ちょっと興味湧いた? 嬉しいねえ、おっちゃん張り切っちゃうよ。で、話の続きだけどお客さん、シンオウの神話を知ってる人かい? ……お、一通りミオの図書館で読んだ人か。なら話は早い。その中に「トバリの神話」ってやつがあるだろう。そう、剣を持った若者の話さ。……おいおい、そんな訝しげな顔をしないでくれよ。ちゃあんと話はソノオにつながるから、さ。実は、その「トバリの神話」にまつわる話が、ソノオにもあるんだ。今となっては、もう、伝わらなかった、剣の話さ。
「トバリの神話」は戒めめいたところがあるだろう。「命を忘れるな」とか「命をむやみに奪うな」とか。剣を持った若者が改心する話だからな。昔話によくあるパターンだが、この神話にもそういう意味が込められている。つまり、この話は相当丸く丸く……言い方は悪いかもしれないが、細部を削られた話なんだ。で、その細部の話が、ソノオの話に残ってる。ちょっと気分が悪くなるかもしれないが、良いかい? ……話始めたのは俺だろうって? はははっ、全くだ。じゃあ、遠慮なく。
ソノオに残った神話はね、剣の製造の話だ。剣なんてソノオには全く関係ない話のよう思うだろう。だが、結構これが関係あるんだなあ。そもそも「トバリの神話」になぜ「トバリ」と付くか知ってるかい? それはね、「トバリに残っていた神話」という意味じゃあない。神話に出てくる剣が生まれたのがまさにトバリだったからさ。……もちろん、根拠はあるよ。お客さん、せっかちだね。まあまあ、落ち着いてくれよ。順番に話していくからさ。トバリには昔から隕石が落ちるんだ。お、知ってるって顔だね。隕石、町中にも置いてあっただろ。でね、隕石には種類がいろいろあるんだが、隕鉄っていう種類がある。鉄を多く含んだ、鉄鉱石みたいなやつだ。……ちょっとぴんときたって顔だね。そう、先に言っちゃうけど「トバリの神話」の剣は鉄剣だ。隕石から作ったのさ。……あはは、なんだか信じがたいって顔してるな。いやいや、お客さん。歴史を紐解いて見て見るといい。中国ではその隕石を間に挟んで作った鉄剣が見つかってるし、古代ヒッタイト帝国が栄えた理由だって、他の国により先に地上の土から鉄を製鉄できたからなんだぞ。それまではどこも隕鉄を使ってたのさ。それでも信じられないなら後で調べてみてくれよ。隕鉄製の鉄器がでてくるはずだ。
で、だ。話を戻そう。だが、残念ながら鉄だけじゃあ剣は作れない。わかると思うが、火がいるんだ。高い温度の火がね。そんで、高い温度の火を作ろうと思ったら風がいる。……シンオウには炎タイプが少ないからね。昔に人たちはどうも自力で頑張ったらしい。風を起こす方法としてふいごを使って人力で風を起こす方法も勿論あるんだが……。ん? お客さん、ちょっと顔色が良くないね。わかってしまったかな? じゃあ、もったいぶらずにネタ晴らしと行こう。「トバリの神話」は戒め。なら、その元凶を作ったのは一体どこだったのか。そう、それこそここ、ソノオの町だ。風力発電所があることからわかるだろう。ソノオにはね、風が吹くんだ。強い、風が。その風で、隕石を製鉄したんだよ。ソノオが荒れ野になってしまったのもそのせいだ。火には薪をくべるからね。……まとめにはいろう。トバリの隕石を、ソノオの風で製鉄したんだ。周りの木を伐りまくってソノオを荒れ地に変えてね。……ああ、そうそう。タタラ製鉄所はその名残さ。お客さん、良く知ってるね。あそこ、結構見つけづらいところにあるんだけど。なんでソノオに製鉄所があるのか、これで理由がわかったかな? その昔、ソノオがシンオウ一の製鉄場だったからだ。…………あ、ごめんよ。お客さん。そんな哀しげな顔をしないでくれよ。ごめんってば。大丈夫、ちゃんと物語には救いがあるから。
これで、やっとグラシデアの花の話にたどり着くんだけど。お客さんの聞いた、ソノオの由来である感謝を伝えたらグラシデアの花が咲いた、ってのは本当はどっちが先かわからないんだよ。グラシデアが咲いたから「ありがとう」なのかもしれないし、「ありがとう」でグラシデアが咲いたのかもしれない。でもね、その時の人たちは忘れないようにしたんだ。花を植えようとしたことからわかるかもしれないけど、ソノオではいつごろか剣を作らなくなった。「トバリの神話」ではあるポケモンが若者を諭すけど、ソノオではそのポケモンはシェイミってことになってるんだ。そう、感謝ポケモンのシェイミさ。グラシデアの花の象徴でもある、あのポケモン。ただ単に木を切り尽くしたことと、製鉄技術向上が理由なのかもしれないけど、それじゃああまりにもひどい話だろう?
でね、シェイミに言われた人たちはそれを忘れないようにしようとした。咲いた花に感謝と戒めを込めたんだ。「トバリの神話」と同じく、「気づかせてくれてありがとう」という感謝。それから、戒めは。……まず一つ。そう、この花の色だ。真っ赤だろう。それこそ、血みたいに。それから名前。グラシデアの花の名前の意味を知ってるかな。知らない? なら、似たような名前なんだけどグラジオラスって花の名前の由来は知ってるかな? ……あ、そっちも知らない? あのね、グラジオラスの名前の意味は「剣」。その葉が剣の形に似てたんだ。で、グラシデアもそれと同じ。その名前の意味は「剣」。こっちは、祈りがそうさせた。いつまでも、忘れないように。と。
話が長くなったけど、これでおしまい。ちょっと気分を悪くしてしまったお詫びに、グラシデアの花の蜜から作った甘い蜜を一つだけお客さんに差し上げよう。気に入ったなら、また買ってくれると嬉しいね。おっちゃん、これが商売なんだからさ。
ほら、ほら。そんな顔しないで。引き続き花見を楽しんでくれればいい。感謝と戒めの花だなんて、そんな難しいこと考えず綺麗だなと思ってくれるだけでいいんだ。だって、ソノオはもう、花園に戻ったんだから。綺麗だと、そう思ってくれるのが花も一番喜ぶだろうさ。ただ、ちょっとだけ、もう二度と繰り返さないようにと、そう祈ってくれればいいんだよ。
帳の隕石を製鉄したのはソノオだった! グラシデアってこういう意味だった! 的な。
「トバリの神話」から巻き起こった一大妄想。100%作者の妄想でできています。諸事情で載せることをためらったんですが、使わないのも勿体ないなとも思ったのでここに捨てさせていただきます。失礼しました。
タイトル長いので割愛。
お初にお目にかかります。たかひな けいと申します。
この度、素敵な企画に参加させて頂き、ありがとうございました。
ツイッターでお話させて頂いている方もいらっしゃいますが、
ほぼ全員がはじめましての状況で参加してしまったので、改めてご挨拶。
鳩さんとの共通の知り合いの某ピジョンクラスタからの紹介で
この企画の存在を知り、ラプラス愛が高じたおかげでギリギリ一本書けました。
普段はツクールのシナリオを書いたり、二次創作の短編小説書いたりしてます。
とりあえずラプラスが好きすぎる人だと覚えていただけると、これ幸い。
さて本題。皆様ご評価ありがとうございました。
ご指摘頂いた点を踏まえ、加筆や修正など加えていこうと思います。
ページ数の関係もあるので、なるべく現在の文量と変わらない範囲で。
以下、箇条書きで修正予定部分を。
・段落頭の一字目
>すみません、他の方からもご指摘いただいたとおり、
ワードの自動改行をそのままコピペしたためです。すべて修正します。
・文章の大半が主人公の説明文
>内容上、致し方ない点ではありますが、纏められる分は纏めてみようと思います。
・ラプラスの存在が希薄
>上記を纏めて空いた分を、愛を以てこちらに充てます。
・笛の効果の広め方
>時間が許さなかったため、そのあたりを少し端折ってしまっておりました。
ここは字数的に余裕が出れば、もう少し書き込みたいところです。
・文体のブレ
>ご指摘の通り。浮いてしまっている箇所は修正します。
・村人の無用心さ
>一応本文内でも言及はしていますが、確かに印象が弱い気もするので、
少し文章を追加しようと思います。多分それだけで変わってくると思うので。
・「ほくと」
>平仮名の方が当時の日本っぽいなぁと思ったからです。確かに読みにくいですね。
特別思い入れがあるわけでもないので、「ホクト」に替える方向で。漢字の方がいいかしら。
・最後の段落
>削除しちゃっていい気がしてきました。浮いてる感が否めず。
今結構悩んでます。ここはちょっと蛇足かなぁ……
以上です。少々長くなりました。
この作品、お気づきの方いらっしゃったらぜひ握手を交わしたいところなのですが、
過去描写は主人公の回想のため、印象的なセリフ以外はすべて地の文を通しました。
地の文だけだと抑揚に欠けて単調になりがちなので、極力読みやすくなるよう努めたのですが、
ちと限界はあったみたいですね。ご指摘ありがとうございます。
読み易いって言っていただいた方、大変光栄です。
ということで、修正ができ次第、こちらに上げていく形をとって参ります。
どうぞよろしくおねがいします。
たかひな
そういえば、記事のネタとして「ポケモンバトルに反対する人たちは昔から存在してた」みたいなものを考えていたのですが |
鬱蒼と茂る木々は大きく葉を広げ、底まで届く太陽の光を削り取っている。
所々にはチョロチョロと冷たい水が流れ、何一つ騒ぐ者のいない静かで平和な森の奥。
サクサク…… と一匹のイーブイ。
静けさの中に響く枯れ落ちた葉の上を歩く足音。小豆色の好奇心に満ちた瞳、茶色に黄色を微量にまぶした様な体毛、首には無骨な灰色の石にキラキラ光る透き通った宝石をあしらったアクセサリを巻き、小さな足を踏みしめて、フサフサした尻尾を大きく振り回している。
与えられた自由時間を利用しての、近くの森を散策。寂しい森を明るく照らしているかのような、わくわくした表情で、誰もいない道を歩いていた。
周りの木々が空に向かって伸びて、葉と葉、枝と枝の間の縫い付けるように光が容赦なく降り注いでいる。一方、枝の下では行き場を失った空気があたりを潤している。空気が光に照らされて、時々笑っているかのように鮮やかにきらめく、そんな光景がイーブイは好きだった。
木と木の隙間の先には、何者かが森をそのまま抉り取ったかのような草むらが広がっていた。
「あら、こんなところにイーブイなんて珍しい、こんにちは」
そこに一匹のブラッキーが後ろから声を掛けた、黒光る体毛に紅い瞳と金色の文様を抱えて、声の調子から雌であることが分かる。
「あ、ごめんなさい、ここに住んでいる方でしょうか? すみません勝手に入ってきてしまって、綺麗な森だったのでつい……」
声を掛けられたことにイーブイはびっくりして、とっさに深々と頭を下げて謝った。
「いいえ、別に私はここに住んでいるわけじゃないし、気になさらずとも構わないから」
ニコリとブラッキーはイーブイに愛敬を振りまくかのように笑みを浮かべて、草むらに腰を下ろした。
草むらといっても、丈の高い草が繁茂しているわけではなく、背の低いポケモンが座っても隠れるようなことはないので、イーブイもそれに倣って腰を下ろした。
「見たところ、貴方は人間のポケモンね」
その言葉にイーブイは驚く。
「ほら、このけづや、そして毛並みが不自然に綺麗、きっといいものをたくさん食べているのね」
ブラッキーはそう説明して、自分の体を見つめた。黒い体毛の上からでも目立つぐらい、毛並みは酷く乱れ、全身に傷が残り、土で汚れている、自らの体と比べているのだろうか。
どこか棘のあるブラッキーの言葉にイーブイはむっとしたが、不快に思いながらも、とりあえず表面だけは社交的に装って返事をする。
「それは、ありがとうございます」
「ああそうだ、せっかくだから、一つ君におとぎばなしをしてあげるよ、人間とそれに飼われたイーブイの話をね」
出会ったばかりの相手に対してでなくとも、せっかくだからしてあげる、とはなんて失礼な口調なのだろうと思い。不愉快な顔をして閉口したところ、話すべきじゃないととれるというのにブラッキーは構わず、そのおとぎばなしというものを話し始めてきた。
「あるところに人間に飼われているイーブイが居ました。
イーブイはその人間のことが大好きでした、毎日毎日、ムックルやスボミーを倒して、強くなって人間の力になることを願っていました。人間もまた、イーブイのことを可愛がり、強くなってくれることを願っていました。そんなイーブイはある夜のこと、進化してしまいました。イーブイは自分が進化したことを大変喜びました、これでさらに人間の役に立てる、と。
しかし、人間はそのイーブイの進化した姿を見て、がっかりした顔をしました。どうやら、人間はイーブイをそれとは違う姿に進化させたがっていたのでした。それでも、可愛がっていたポケモンなのだから今までどおりに人間は接しようとは思っていたけど。かつてのイーブイは気がついていました、人間が自分への気持ちは冷めてしまっている、以前のように可愛がることはしなくなってしまったことを。
それに気がついた瞬間、そのかつてのイーブイは酷く居心地の悪さを感じ始めました。そのうちに人間の優しさもかりそめの言葉にしか聞こえなくなり、人間との間に距離を置かざるを得なくなりました。
そして結局、捨てられてしまいました。
かつてのイーブイは捨てられてしまった後、ただ呆然と何も食わずにふらふらと彷徨っていました。
なぜ自分は捨てられてしまったのだろう?
なぜ自分は進化してしまったのだろう?
かつてのイーブイは今の自分の姿を酷く憎みました。
この体さえ無ければ、人間は自分を捨てなかった。
この体で無くなれば、人間は振り向いてくれる。
そう思った、かつてのイーブイは、諸悪の根源である自分の体を痛めつけ始めました。自分の足を噛み付き、自分の胴体を引っかいた。そうすれば、昔の自分に戻れる、そう信じて痛めつけてました。
しかし、それでも足りないと、自ら岸壁の上に登り、そのまま崖底へと飛び降りて……。
落ちた先の岩に頭をぶつけ、首の骨を折り、亡くなってしまいました。
その後、その遺体は腐って無くなったけど、そのかつてのイーブイの心はその岩石へと染み込みました。
それが“かわらずのいし”
変わらずの意志が、石となったんだって――おしまい」
「それで終わり?」
イーブイは言った。首に掛かったかわらずのいしのアクセサリが光る。
「結構なおとぎばなしだね、それって僕に対して何が言いたいのかな? 僕に対しての忠告かな?」
ブラッキーはとぼけた様な笑顔を作って、ゆっくりと首を横に振った。
「忠告? そんなことは無いよ、君が人に飼われているイーブイだって聞いたものだから、こんな話を思い出しただけさ」
飼われている、というその言葉にイーブイはカチンと来た。
「ねぇ、君がどれだけ人間のポケモンにコンプレックスを抱えているのか知らないけどさ、からかうのもいい加減にしてくれないか?」
「からかうつもりなんて無いさ、ただ気をつけろってね」
ああ言えばこう言うと、質問をひらりとかわす態度にイーブイは馬鹿にされているように感じた。
それは紛れも無く、忠告じゃないか、と腹立たしく思いつつも、ブラッキーに言う。
「言っとくけど僕は君に心配される筋合いなんてない。それにさ」
イーブイはブラッキーのことを鋭く見つめ、はっきりとした声で尋ねる。
「さっきのおとぎばなしって、君がそのかつてのイーブイなんだろ?」
「…………」
「おとぎばなしにしてはやけに具体的な話だし、何に進化したとは言って無いのに、わざわざ夜に進化しただなんておかしいよね、それに傷だらけのその体が証拠さ、最後の死んだうんぬんの部分は真っ赤な作り話だろ?」
イーブイの視線に、ブラッキーはそっと目を背けて、溜息をつくようにして残念そうに言う。
「ばれちゃった…… あれぇ 何で分かったの? ああ、どうやら君は推理小説とか好きなタイプ?」
なんだよそれ、とイーブイは冷めた顔で睨んだ。
「僕はそんなものなんて読んだことも無い。こんなの、話を聞けば誰だって分かることだ」
イーブイはブラッキーの体の傷を一瞥する、見ているだけで痛々しく体中に残った傷はどれも引っかき傷や噛み付き傷だと思われるが、どれも自分で付けたかとしか思えない、傷の付き方をしている。しかし頭には、岩に打ち付けたような大きな傷というものは見当たらない。
「で、その君が僕に対してそんなこと言うってことは、もしかして、いまトレーナーのイーブイである僕のことを嫉妬している?」
「いや」
ブラッキーはゆっくりと首を振って否定する。
「別に君のことを嫉妬しているだなんて、そんなことはないさ。ただ、単純に君にはこういうことになってほしくない。私と同じことになって、トレーナーである彼女から離れて欲しくないだけ」
その言葉を聞いて本当に可笑しくてしょうがないかのような声で、イーブイはけらけらと嘲笑った。
「強がるなよ、本当はそう思っているのだろう? ほら、眼がそう言っているよ? 憎くてしょうがないって、幸せな幸せなイーブイなんて許せないって」
「…………」
ブラッキーの紅い瞳がぎらりと揺れる。
それでも、何も言わない。
「でもさ、それって見当違いだと思うよ。君が本当に憎むべきなのはそんなことじゃない、まぎれもない自分自身の心さ、でもその事実は受け入れられない。だから進化してしまった姿を悪者にして逃げている。違うかい?
姿が変わって捨てられた。でも、君は姿が変わった自分を認めてもらう努力をしなかった、だから捨てられた。例え、トレーナーが思っていたのと違う進化形になったとしても、その姿を誇れば良かった、トレーナーは普段通りに接しようとしていたのだろう? ならばそれが感じられないのならば、こちらからその気持ちを呼び覚ますように精一杯好きになって振り向かせてやれば良かったのさ、今の姿の力をトレーナーに示して、強い自分を見せ付けてやれば良かっただけだ。
でも、それすらも出来なかったってことは、所詮はそこまでの関係だったんだね。君はトレーナーを好きではなかったし、トレーナーも君のことなんてもともと可愛がってなんか無かった。それでもトレーナーは君のことを可愛がろうとしていたのに、君はその気持ちを裏切った、サイテイなヤツだね。だから進化して、捨てられた」
捨てられた、の言葉にブラッキーは、ゆっくりと口を開く。
「君の言う通り、だけどね。これでも一応は自分のことはそれなりに分かっている、君が言ってくれた言葉も既にね、今の自分は何も知らなかった私への報いだから。
私の勝手だけどね、いつかこうして伝えたかったんだ。君にはよく知ってほしい。君も、私も、人間の下に暮らす、暮らしていた、同じポケモンなのだから」
「はぁ? 同じ? 何を言っているの? 君と僕は違うさ」
イーブイはアクセサリを光らせて鼻で笑う。
「僕は君のように臆病なヤツじゃないから、自分の心の弱さで逃げてしまうことなんかしない。
だいたい、君と僕とではトレーナーが違うだろ? 君のトレーナーのように大事な仲間を見捨ててしまうトレーナーなんかじゃない、僕のトレーナーは僕のことを決して捨てたりなんかしないさ、たくさんのイーブイの中でも僕は選ばれた特別な存在なのだから。
ほらみろよ、僕のけづや、これは大きな素質があるって証拠なんだ。君のように、傷つけて台無しにするようなものじゃない。きっと君はそのへんにいるイーブイと変わらなかったから代わりはいくらでもいたのさ、でもね、僕には僕だけの価値がある、だから僕の代わりなどはそうは無い、だから進化しようが僕とはずっと一緒にいてくれる。
君と僕は違う。同じものなんて言われなく無いよ。例え君は捨てられても僕は違う、違う進化しようとも僕のトレーナーは捨てないし、僕はそれでもトレーナーと一緒に戦っていくつもり、たとえうまく行かなくても弱さゆえに逃げ出すことなんかしないよ。君と違って自分自身のことを信じることができるからね。
でも、君は進化して捨てられたけどさ、これで自分はたったそれだけの存在だったのだと知れたのだろう?
あははは、良かったじゃないか拍手してやるよ、そんなこと前から分かりきっていたことだけど愛されていなかった自分のことにそこでようやく気が付いたんだから、でもそんなことを未練恨みがましく、つまらないおとぎばなしにして話すなんて蛇足だね、負け犬は負け犬らしく去るのが礼儀だと言うのに、みじめのうわ塗りをしに来て一体何になると言うのだい? いっそ、本当に崖から身を投げてしまったほうが良かったんじゃないのかな? そうすれば誰にも迷惑が掛からないだろう?
まあでも、感謝しろよ、この負け犬、価値の無い自分のことをこうして誰かに知られてもらった分だけありがたいと思わなきゃね」
そう言い切ったイーブイはすっきりした満足気な笑みを浮かべて、みじめにすべてから逃げ続ける、哀れな姿を見た。
「分かっている」
ブラッキーはそう静かに、そしてはっきりと呟き、
「分かっているさぁ! 彼女は決して私のことを捨ててなんか無いってことくらいさぁ!」
箍が外れ金切り声を張り上げる。自らの憎悪と怨恨を込めたかのように、自分の牙をがきがきと軋ませ、前足の爪で顔や全身をがしがしと掻き毟り、叫ぶ。
「期待していたのと違うポケモンに進化した私にも、彼女は変わらない愛情を注いでくれていたよ! 彼女にはこんな全身真っ黒で目が真っ赤で吸血鬼みたいな姿は受け付けられなかっただろうけれど、それでも変わらない愛情を注いでくれていた! それでもさぁ! 私は堪えきれなかったんだよ!
いずれ私もあのトレーナーの下にいるのだから、大きな戦いの舞台に出て行くことになるだろう。そういう舞台に上るからには、きっと強い相手に当たり、私はきっと負けてしまうことがあるだろう。 そんなときにね! もしもあのときブラッキーになんか進化していなかったら、仮に期待通りの進化をしていたならば、と絶対に後悔してしまう。そう思うのは私自身だけじゃない、彼女もきっとそう思ってしまうだろう! 私はそれに堪えきれない!
そして今の私では、本来為るべきだった姿の代わりをすることは絶対に出来ない、この姿では出来ることが違う。彼女は為るべきだった姿の代わりを、代替をいずれは育てることになるだろう、それもまた私は堪えきれない! だから、私の方から逃げてきたんだよ、もう何もかも捨ててすべてから逃げ出して死んでしまいたかったよ!」
牙軋りをして、爪を更に立てる。
「もしもあの時あの場所で野宿をしていなかったらと泣き嘆いているよ! 月が綺麗だったあの夜は何かの鳴き声に目が覚めたら、いつのまにかデルビルの群れに囲まれていた。すやすやと寝息を立てる彼女を守るために、一匹でその群れに立ち向かった! それはすべては大好きだった自分のトレーナーを守るために、必死になって戦って、勝った! そんなことがなければ、私はずっと彼女のそばにいられた! 私はずっと彼女と一緒に戦えた!
悔しいよ、ちくしょう、悔しいよ、たったそんなことでさぁ! 夜じゃなければ良かったのに、昇っているのが月じゃなくて太陽なら良かったのにさぁ! そうして私の代わりに誰かが、私の代わりになった誰かが……幸せに、幸せになるなんて、幸せになるなんてさぁ……!」
そして、まるで空気でも抜けてしまったかのように突然、狂気染みた瞳がフッと消え失せて、色を失った。何かに惹きつけられるでもなく、ただ目の前の景色を写しとる澄んだガラス玉のように綺麗で虚ろだった。
「許せないよ……」
抑えきれない大粒の涙がボロボロと瞳から零れ落ち始め、足元の草を濡らしていく、叫び続けてかすれた声はそれでも未練を残しているのか、小さく同じことを何度も何度も紡ぎ始める。溢れたものを押さえ付けることができず、出てくる涙と声。
しかしそれでもなお、イーブイへ視線を向け続けて、顔を背けるようなことはしなかった。
「それで満足かい?」
イーブイは言う。
「ほらやっぱり、嫉妬しているじゃないか。それに」
「よして」
とブラッキーはやや枯れた声でイーブイの言葉を制止させた。
「それ以上の言葉は、君の口から言わせるわけのはいかない。 私は分かっているよ、いや、分かっているつもりでいる。 ごめんね、最後に君に聞きたいことがあるんだ」
ブラッキーはイーブイの目をしかと見つめる。泣いていたせいなのか紅い瞳はさらに紅く染まり、ギラギラとした刃物のような輝きを包み込んでいるが、何故かそこから感じられるものは怖さや恐ろしさではなかった。
「君はトレーナーのことが好き?」
「大好きだよ」
イーブイは即答する。
「それがどうしたんだい?」
「そう……ありがとう。でも、きっとね、そのうち分かるよ。同じではないだろうけど、似ているのだから。ごめんね、本当にごめんね、悪かったわ、こんな気持ちにさせてしまって。私からはもう君の前には二度と姿を現さないって誓うわ、だから君は私の道を辿って、私の元に来るようなことには間違ってもならないようして欲しい。君のお父さんとお母さんによろしく言って下さい、そして立派なサンダースになってください」
「え」
ブラッキーは腰を上げる動作から滑らかな動きで、たった一歩でイーブイの目の前に踏み込んだ、そして前足をていねいに開き、イーブイをゆっくりと抱擁をした。
ふわふわしたイーブイの綺麗な毛並みがブラッキーの肌を優しくくすぐる、イーブイはわけも分からないままにブラッキーの胸に顔を埋めることになる、その肌は漆黒の森に流れる風のように柔らかく感じた。
そして、そっと抱擁を解いて、一歩だけ下がる。果敢無げな瞳に、わずかに浮かんでいた微かな笑みを、イーブイは気づいた。
「私は、願っているよ」
イーブイの脳裏にいくつかの言葉がパズルのように組み合わさっていく。
――ムックルやスボミーを倒して?
――私の代わりになった誰かが?
――トレーナーである彼女?
――お父さんお母さん?
――サンダースに?
――このけづや?
――似ている?
「お」
イーブイがそう言いかけたところで、ブラッキーのだましうちが発動し始める、それは攻撃をするわけではない、イーブイの意識からブラッキーの姿が消えていき、視覚で認識することができなくなっていく。
そうして、まるで瞬間移動をしたかのように、スッと姿を消した。あとは何も残らない、ただ吹き付ける風とわずかに濡れた草がそこにあるだけだった。
「おねえちゃん!」
その日の夜のこと。
このポケモンセンターの宿泊部屋の明かりは消されて、外と同様にここにも静かな夜が訪れていた。
カーテン越しから漏れ出して来る月の光のみが暗闇をほのかに照らす。部屋には粗末な作りのベッドが置かれ、その中で一人の人間が小さな寝息をたてている。そのトレーナーの歳は十を過ぎたところで、どこかあどけなさが抜け切れない女の子だった、何日か旅をしているらしく、ベッドの横にはショルダバッグなどの荷物がまとめて置いてあった。普段は結んでいるであろう長く黒い髪もここではやわらかなベッドに解き放している、何日か野宿が続いていたのだろう、久しぶりの布団ですやすやと深い眠りに入っていた。
イーブイは彼女のモンスターボールから出て、思い出していた。
あのブラッキーはこれからもトレーナーだった彼女のことを思い出して、そのたびに苦しみ続けるのだろう。それは産まれてから狭い世界しか知らず、心が幼いままで成長してしまった哀れな末路だ。あんな抜け殻みたいに同じくことを言う無知の成れの果てには為りたくないものだ。
自分のことは分かっている、だって? それがどうした? 分かったからなんだ? 分かっても何も変わっていないじゃないか。黙って話を聞けば、私が私が私がって、自分のことしか考えて無い。世の中がそれで通ると思っているのか? そんなふうに、いつまでも過去をいじいじと牽きずっているクセしてさ。それに嫉妬なんかしていないとか、言っていたな、ははは、よく言うよ。どう見ても、嫉妬していただろ? 嘘つくな、この偽善者、素直に認めろよ、自分は敗者なんだ、ってさ。
そんなヤツの言葉なんて右から左。
しかし、
嫉妬ならば、自分自身がしていたかもしれない。
トレーナーである彼女は隠しているつもりだろうけど、こうして、ムックルやスボミーを倒す日々で、自分は何かに比べられている感じがしていた。何かの代わりとして、やり直される感覚は、つらい。その元凶が妬ましい。そしてそれゆえに強い不安を抱えて、つい言い過ぎてしまったかもしれない。
「……のど、渇いたな」
しばらく考え事をずっとしていたからなのか、それとも遅くまで起きていたからなのか分からないが、気がつくとのどがカラカラになっていた。
確か、バッグの中に水の入ったペットボトルがあったはずだ、それを飲むことにしよう、とトレーナーのショルダバッグにとことこと近づいて、頭をバッグにつっこみ、がさごそと鼻探り口探りに水の入ったペットボトルを探る。月の光はここまで照らしてくれないが、場所は覚えている。
すると中に、暖かい何かよくわからないものがあることに気がついた、不審に思い、試しに噛んでみる。
ガキリ
何か硬いものが牙に当たる。
これは一体、なんだろうか? と舐めてみようとしたとき。
口の中が燃えるような感覚がした。
熱い、熱い、熱い…… 体中が熱い。
視界がぐらりと歪み、全身の骨が軋み出す。
そういえば、あの森に一匹で行った理由、自由に過ごす時間があったからだった。
今日は手持ちのポケモンに長い自由時間を作って、彼女は一人どこかに行った。
普段バッグの底にあるはずのスコップとヘルメットが、今は上の方に置いてある? 地下に?
虹色に光る何かの鱗を採りに、そのついでに化石と何かのかけらと、石?
熱い! 熱い! 焼ける! 焼ける!
体中の毛皮が焼けつくされるように皮膚がチクチクと痛み出す。
それが自分の体毛が伸びていることに気がつくまで、しばらく時間が掛かった。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い
足を無理矢理引き伸ばされる感覚、骨が悲鳴を上げている。
ちらりと、自分の胸元に付けられた“かわらずのいし”のアクセサリを見つめた。
それは確かに、ついていると言うのに。変化は止まらない。
な、なんでだよ! なんで、働かないのだよ! このアクセサリは、何のためにあるんだよぉぉぉぉ!
繰り返さないために、彼女が僕につけてくれた、そんな石なんだろう? かわらずのいしだろぉぉぉぉ!
しんかしんかすてられたぶらっきすてられすてられたもういらないんだーすがほしいのだかいらないしかたないしかたないやりなおすしかたわーたおすほしいでんきはやいほしいふかさせてねばろせいかくもいちどやりなおしこたいちさんだーすもいちどしんかかつかつそれまでやりなおす?やりなおす?やりなおす?やりなおす?
次第に、焼ける、ような、熱い、感覚も、心地よく感じて―― 来て――
おめでとう! イーブイは
ブースターに しんかした! ▼
*************
イーブイ可愛いですよね
『物音に敏感』で『おくびょう』だった性格の『いたずら好き』で『気が強い』ツンデレなお姉ちゃんも可愛いですよね。
個体値と性格と性別を粘ったあと努力値を振って育てていたイーブイが、電源つけたら違う進化をしていたら、それでも愛情を持って育てられるでしょうか。
まあ逃がしたりはしませんが、ボックスの隅にでも置いてたまにネタパに使ったり、遺伝を狙って育て屋さんでタマゴを産み続けて貰うのも一つでしょう。
“変わらずの石”は石の進化を防ぐことができません。
“懐かし”とはなつくの語源になる古文用語で、慕わしくて心惹かれるとか、昔のことが思い出されて感慨深いという意味を持っています。
※R18がメインですので閲覧注意です。
――続いてのニュースです。
イッシュ地方の大手ショッピングモール「R9」がカントー地方へ進出します。
R9はイッシュ地方の9番道路に位置する、イッシュでも有数のショッピングモールですが、今回新たな市場を求めカントー地方への進出を試みた形です。出店場所は18番道路、店舗名は「R18」となる見込みで、オープン日は9月18日を予定しています。
この事についてセキチクシティの住民は、「タマムシシティまで行かずに済むのはありがたい。自転車を持っていない身としては非常に助かる」(36歳男性)、「便利になるのは喜ばしい。ただ名前が名前なので入るのに抵抗はある」(27歳女性)等といった反応を見せています。
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Rating 18だと思った? 残念Route 18でした!
っていうのがやりたかっただけの一発ネタです。はい。何かごめんなさい。せっかくですので注意書きも付けてみました。嘘は書いてませんね、えぇ。でも閲覧注意って何に注意するんですかね。えっときっとあれですよ、えーとほら、多分ショッピングモールアレルギーの方とかいらっしゃるかもしれませんからね、うん。きっとそういった感じの注意書きですよきっと。はい、無理矢理過ぎますね。でも嘘は書いてませんからね、えぇ。あっ、はい、ごめんなさい。
という訳でR9 18番道路支店です。イッシュだと立地が悪すぎますのでカントーで。ここでもタマムシデパートの存在があるので立地が良いとは言えませんが。安定した集客はセキチク住民位しか見込めませんね。何でここに建てるんですかね。ご都合主義って便利な言葉ですね。進出の理由も適当ですし。
せっかく店名が店名なのでそういう物も売ってくれれば良いと思います。タマムシデパートと差別化出来ますし。おじさんのきんのたまとかルカリオの【この文章は】とかイーブイを【当局に】させる為の【スナイプされました】とkごめんなさい何でもないです何も言ってません何でもないです何でもないです。
※6/17追記: 後書き微修正。
※6/28追記: (不必要な)注意書きを追加。後書きを修正。
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真っ白だ。
頭が真っ白なわけではなく、視界が真っ白なのだ。
航路が見えない。進む先が見えない。
道の半ばで男は問う。自問する。
私はどこに行く?
どこに向かって走っている?
出張でジョウト地方に行ったことは数え切れぬほどあったのだが、ホウエンは初めてだった。
ホウエン地方キナギタウン、海に浮かぶ町。アクセスはカイナシティから船で南下、あるいはミナモシティから北上が一般的だ。
どの民家も海上に浮かび、波でゆらゆらと揺れている。移動もまた海に浮かぶ筏(いかだ)のようなものを渡り歩く。歩くたびに少し海に沈むから、足がよく海水に浸かった。だからこの町ではビーチサンダルが必携だった。
「お前さん、道に迷っているね」
海に浮かぶ町の一角に木造、茅葺(かやぶき)屋根の家があり、そこに二人の男女の姿があった。よく言えば、風情があり、悪く言えばオンボロの建物――いや、浮かび物。いかにも近代化の波に取り残されたという風のその小さな家の中で、占い師の老婆が言った。
視線の先には一人の男。白髪まじりの髪の男は洒落っ気の無い眼鏡をかけており、背はそこそこ高かった。男は不服そうな顔をして老婆をじっと見つめていた。
お世辞にも美人とは言えないその老婆の後ろの窓からは、碧い碧い海が見えた。その先に続くのは131番水道。船の通り道、海の道だった。南下してミナモに近づく度に、水道は130、129と名前を変える。
老婆は男に背を向けると、窓の外を見て、言った。
「ふうむ、今日も見えないねぇ」
何のことを言っているのかさっぱり分からなかった。
いや、この町の人間、それにこの町そのものが男には理解できなかった。
この町は特殊だ、と男は思う。
船着場はれっきとした陸地である隣の島にあり、町に入るには、隣の島から筏を飛ぶようにして渡って来なければならない。しかも南国にありがちな台風で、よくそれらは流されるという。そのたびに性懲りも無く、町の人々は筏の道を渡し直すのだという。
誠に不合理じゃないか、と男は思う。なぜそうまでして、その場所にこだわるのか。隣の島ではだめなのかと思う。けれど彼らは先祖代々この場所を守り続け、住み続けているのだった。尤も今はそういったもの珍しさもあり、その存在自体が、観光資源足りうるから単純に不合理とは言えない側面もあるのだが……。
さらに、この男がこの風変わりな町に来たのは、言うなればたまたまだった。大学の学生が講堂に放置していた旅行会社のパンフレットを拾ったのだ。「南国を満喫! ホウエン四泊五日の旅!」というキャッチコピーであったと彼は記憶している。
春休みが近かった。男の勤めるその場所はこの国の最高学府、優秀な学生達は非常に研究熱心だった――……とはいえ、相手はやはり大学生だ。しかも時間のある一、二年生。夏より長いその長期休暇を前にして大学生達は浮かれていたのだろう。
普段なら見向きもせずゴミ箱に放り込まれたであろうそのパンフレットだったが、その表紙に載っていた写真が妙に男の心を捉えた。写真に写っていたのは今、男が立つこの場所、海に浮かぶ町、キナギタウンだった。
後になって男は言う。気まぐれだったのだ、と。
が、春休みに入り学生が減ったこともあって、時間をとるのは割合容易かった。研究室に残る学生や研究生達にしばらくの不在を告げ、教授職の男はホウエンへと旅立った。
海に浮かぶ町キナギは、豊富な海産物に恵まれる海女の町であり、人気観光地でもあった。
海産物の料理を食べ歩き、海女が案内するダイビングツアー等々にかまけるうちにすっかり日が沈み、男は宿舎に戻ることにした。
町の先端には宿泊用の宿舎がいくつも浮いていて、そこは洋上ホテルとなっている。空を闇が包み星が瞬きだした頃、各々の宿舎に灯りが灯りだした。そのオレンジの灯が揺れる海に投影されてゆらゆらと揺れる。それはまさに幻想的という言葉がぴったりであり、非日常の演出であった。
灯りに照らされた筏の道を男は渡っていく。両手には町の海女達が採った貝の、その串焼きやバター焼きをたっぷりと盛った皿を持っていた。落とさないように、慎重に一歩一歩渡っていく。男はやがて「321」と番号の書かれた宿舎へ入っていった。
「あ、博士、お帰りなさい」
ほのかに灯りの灯った宿舎に入ると、ルームメイトが待っていた。彼はベッドに横になり、するりと長い獣のポケモンと戯れていた。十歳に二、三を加えた年齢だろうか。白いシャツからよく焼けた小麦色の腕が伸びている。男の相部屋になったのはポケモントレーナーだと言う少年だった。名はヨウヘイと言うらしい。
男はカタンと部屋の中心にあるテーブルに皿を置く。ヨウヘイとじゃれていた縦縞のポケモン、マッスグマが顔を上げ、ふんふんと鼻を鳴らした。
「やらんぞ」
男は素っ気無く言うと、貝の串にかぶりついた。
「わ、わかってますよー」
ヨウヘイはマッスグマを抱いたまま言った。
男はもりもりと貝の料理を口に運んでいく。カントーで食べたそれより味が濃く、美味しかった。
「昨日も食べてましたね、それ」
ヨウヘイが笑う。うるさいな、と男はつぶやいた。
やがて皿は空になって、貝殻と串だけが残された。殻だけになった貝殻は窓から捨ててしまった。貝を食べた後の殻は捨ててもいいということになっていたからだった。
ちゃぽん、とぽんと小さな音を立てて、それは暗い海に沈んでいった。
「貝を海に捨てるのって、シンオウの昔話みたいですよね」
ヨウヘイが言う。
「なんだそれは」
「え、知らないんですか? カスタニさんって、本当にタマムシ大学の博士?」
ヨウヘイは意外だという目を向けてきた。少年は言う。ポケモントレーナーになる前、まだ学校に通っていた頃に、国語の教科書に載っていたのを見たのだと。それは食べたポケモンの骨をきれいにきれいにして水の中に戻してやると、また肉体をつけて戻ってくる、というものだった。
カスタニは言った。博士ってのは何でも知ってるわけじゃあない。専門以外はからっきしだったりするものさ、と。
「残念ながらそっちの方面は専門じゃないからな。詳しくないんだ。携帯獣文学史のオリベ君あたりだったらわからんがな」
男は言った。自分の専門はポケモンの医療だの、医療機器だの、栄養学だのそっちのほうの研究だと。だから伝説だの昔話の類には弱いのだと。
この町に来て二日が経っていた。初日の夜にルームメイトの少年といろいろ話してしまったものだから、かなり素性がバレてしまった。こんなに饒舌になったのは久しぶりだ。旅先だからかもしれない、と男は思う。あるいは……
あるいは誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。自分の人生のこと。何を思い生きてきたのか。その片鱗を聞いて欲しかったのかもしれなかった。旅先にいる、自分の地位や利害関係とは関係ない誰か。そういう人物を彼は求めていたのかもしれなかった。
――そうか。私が旅に出たいと思ったのはそういう理由だったのか。
ふと天から降ってきた答えに男は頷いた。
だから、男は――カスタニは、少年に徐々に話していった。自分の生い立ち、今日に至った過程、時にくわしく、時に端折りながら、話して聞かせていった。
「私はね、孤児だったんだ」
部屋の上で揺れるオレンジの灯を見ながら彼は言った。海に浮かび波に揺られる宿舎。テーブルを挟む形で、それぞれのベッドに横になる。カスタニの独白が始まった。
思い出せる最初の記憶というのが親戚達の囁きあう声だった。
どうするのよ。どうするって。誰が引き取るのよ。俺はいやだよ。私だって嫌よ。
誰が何を言っていたのかなどの詳細はともかく思い出せないが、幼かったカスタニにも概要だけは伝わった。ようするに彼らが話しているのは自分に関してのことで、この人たちは自分をよく思っていないし、存在を望んではいない。邪魔者、厄介者だと思っていて、できることなら知らないふりをしたい。関心が無い。あの時はうまく言葉にして表現できなかったけれど、それはともかくそういうことだった。詳細は知らないのだが、自分の親だった人間は両方とも死んでしまったか、行方不明らしかった。
気がついたらシオンタウンの養護施設に入れられていて、そこで生活していた。そこから学校に通うようになって、より多くの言葉を覚え、字が書けるようになった時、彼は明確にそういう表現が出来るようになった。
別段いじめられたりした訳ではなかったけれど、なぜか孤独がつきまとっていた。
自分は「普通の」彼らと違う。存在する場所が違う。まるで自分だけ別の次元に立っているように、クラスメイト達から見えない壁一つで隔てられている感覚をカスタニは覚えていた。
誰にも言ったりはしなかったけれど、少年は何度も同じ事を思った。
施設には様々な事情で身を寄せている子ども達がいたけれど、皆多かれ少なかれ同じ思いを抱えていたのではないだろうか。
カスタニは今、海に浮かぶベッドに横になり、その時をこう表現する。
いつもいつも同じ事を思っていた。
「俺達は顧(かえり)みられない存在だ。世間ってやつは俺達を世界の隅っこに隔離して、見ないことに決めているらしい」
施設の寮生活は様々な制約がついていた。毎日何時には帰寮しないといけないと決まっており、十歳になっても自らのポケモンを持つことは許されなかった。学校の学年が上がっていくにしたがって少しずつそれは緩和されていったが、やはり「普通の」子ども達に比べると制約がつきまとっていたように思う。
「だから羨ましかったよ。同級生でポケモン何匹も飼ってる奴らがさ」
今となっては逆によかったと思う部分もないではない。ようするにカスタニには飢えがあった。自由やポケモンへの飢えというものが。それは爆発的エネルギー足り得るものだった。
そうして、もう一つ……
「そういえば博士、ミチルさんのところには行ったの?」
話が遮られた。
思い出したかのようにヨウヘイが聞いてきた。
「ミチル……ああ、あの町の隅っこに住んでいる婆さんか」
「うん」
「行ったとも。お前がうるさく会ってみろって言うから仕方なくな。まぁ適当なことしか言われなかったよ。お前さん道に迷ってるどうこうってさ。占い師なんてそんなもんだ。当たり障りの無いことしか言わん。ああいう人種は好かん」
「博士にはぴったりだと思ったんだけどなぁ」
「とんだ時間の無駄だった」
「でも凄腕らしいよ? 海の神様の『声』が聞こえるんだって。なんとかって会社の社長さんとか、どっかの地方のジムリーダーとかこっそり彼女のアドバイス聞きにくるらしいよ。だから俺、えらい人も迷うんだなーって思ってさ」
「あんな窓の外ばかり見てる婆さんのどこがいいんだか」
カスタニは蒸し暑い昼の暗い部屋を思い出し、言った。
「ああ、あれはね、探してるんだよ」
「何をだ?」
「何だと思う?」
カスタニが尋ねると、ヨウヘイはじらすようにそう返した。
「わからないから聞いてるんじゃないか。しかし婆さんのことだからな、若かりし頃に海の向こうへ旅立ったまま帰らない恋人の船とかそんなもんだろう」
「ハズレ」
「なんだ。つまらん」
カスタニは残念そうに言った。婆さんが水平線の向こうに探すものときたら絶対そんなもんだと相場が決まっているのに。
「だいたいミチルさんには息子さんがいるし」
「お前、旅行客のくせにずいぶん詳しいんだな」
「何度も来てますから。ここは第二の故郷みたいなもんです。なんか、知らない土地ではない気がするんですよね。来やすいっていうか」
「……来やすいか? 海のど真ん中だぞ?」
「だってベクトルがいますもん。こう見えてもね、ベクトルは泳ぎが得意なんですよ」
ヨウヘイは寝息を立てるマッスグマ、ベクトルの長い体を撫でた。背中を走る茶色は額まで伸び、先端で矢印のような模様になっている。まるで行き先を示すように。
少年は言った。ベクトルの得意技は波乗りだ。この大きな長い体にまたがって俺は海を渡ることが出来るのだ、と。
「今回キナギに寄ったのはここで捕まえたいポケモンがいるからなんです。ベクトルもがんばってるんだけど、なかなかうまくいかなくて……ああ、話がそれましたね。何を探してるかはミチルさんに聞いてみるといいですよ」
続けざまにヨウヘイは言った。
「また行くのか」
「暇なんでしょ?」
「……私は暇などではない」
カスタニはそのように反論したが、自分の普段の多忙さをいくらこの少年に説明しても無駄だと思い、それ以上弁解するようなことはしなかった。
いい時間だったので、灯りを消した。穏やかな波がいい具合に彼らのベッドを揺らして、やがて二人は共に眠りに落ちていった。
……。
カスタニ君、カスタニ君。
どこからか懐かしい声が聞こえた。
気がつくと、若き日のカスタニはどことも知れない場所に立っていた。
周りは白い。その白い場所、白い大地にカスタニは一人で立っており、ここがどこなのかもわからない。ただ声だけが聞こえた。
けれど声は聞こえど、姿が見えなかった。
少し、寒いな。
そう思ってカスタニが目を覚ますと海の宿舎の窓からは、ぼんやりとした朝日が差し込んでいた。
体を起こし、隣を見ると少年、そして少年に抱きつかれたマッスグマはまだ寝息を立てていた。カスタニはビーチサンダルの紐に足の指を通すと、ドアを開き、宿舎を出る。
ドアの向こうに広がった光景を見て、カスタニは驚いた。
眼前には夢で見たのに似た白い光景が広がっていた。
「霧か」
と、カスタニは呟いた。白い霧が発生して海を覆っていた。海に浮かぶたくさんの宿舎群。少し離れた場所にある宿舎はそのシルエットだけが見え、カスタニの立つ位置から遠くになるにつれ、だんだんと白に飲まれ、ぼやけていく。
そして風景には色が無かった。その世界からは光の三原色が消え失せてしまい、まるで水墨画のようであった。
どおりで寒いわけだと彼は思う。霧は水蒸気が冷やされて発生する。ようするに成り立ちは雲と同じものだった。その違いは地に接しているかいないかの定義の違いでしかない。
「これじゃあ、水平線は見えないだろうな」
昨日、窓の外を見ていた老婆を思い出し、カスタニはそう呟いた。
すっかり目が覚めてしまい、二度寝をする気も起きなかったので、昨日の夕食の皿を持ち、宿舎を出た。とにかく視界が悪いので、方向と足元を確認しながら、慎重に進んでいった。
まだ人のいない食堂の窓口に皿を返却する。腕時計を見ればまだ短針が「5」を指していた。
二十代、三十代だった昔と比べるとずいぶん早起きになったものだとカスタニは思う。歳のせいかもしれない。二月ほど前に五十の誕生日を迎えた彼は、日の出と共に起き出し、日の入りと共に眠るという人間本来のサイクルに身体が戻りつつあった。灯りというものが開発されて人間の活動時間は変わってしまったが、本来人はそのように出来ているのだ。
にわかにどこかでシュゴッという奇妙な音が聞こえた。
「む?」
と、彼は声を上げた。ポケモンだろうか、と。あたりを見回すが、何せ霧に包まれているからわからない。たぷんという音と共に何かが潜ったような気もしたが、ちゃぷんちゃぷんと波が建物や筏に当たる音とあまり区別がつかなかった。気のせいかもしれない。
人々が起き出してくるにはまだ時間がありそうだった。カスタニは周囲を散策してみることにした。
食堂の浮いている大きな筏には案内板が取り付けられていたが、あえてそれは見なかった。
まだまだ霧は濃い。くれぐれも道を踏み誤って海に落ちないよう、カスタニは足元を確認しながら歩いた。何度かの分岐を選択し、ビーチサンダルと足先を海水で濡らしながら進んでいく。朝の海水は冷たかった。
そうしてしばらく歩くうちに、霧の向こうから小さな陸地が現れた。海に浮く筏が島に繋がっている。
おや、船着きの隣島に来てしまったのだろうか。
一瞬カスタニはそう思ったが、どうも違うようだった。うまく説明できないのだが、なんとなく雰囲気が違う。霧のせいも手伝ってか、島を包む空気は独特なものだった。
カスタニは上陸を果たす。島の土を踏み、その中へ入っていった。霧の中で大きな葉のクワズイモやトゲの葉を持つアダン、南国の植物が生い茂っていた。
しばらく歩くと死んだ珊瑚を積み上げた石垣にぶち当たった。カスタニはそれに沿って歩いていく。数十歩ほど歩いただろうかところで石垣が途切れた。カスタニは頭上を見る。まるで招き入れるかのように途切れた場所に鳥居が立っていた。粗末な木の板が石垣にもたれかかっていて、「喜凪神社」と書かれていた。鳥居を潜ってカスタニは進んでいく。
粗末な神社がそこにはあった。拝殿の前まで近寄ってみる。もうずっと手が入っていないのだろうか、平戸が斜めに傾いて、今にも崩れそうだった。
突如、頭上でがらがらと鈴が鳴って、カスタニは驚いた。見るといつの間にかカスタニの横で小さな男の子が縄を揺らし、鈴を鳴らしているところだった。男の子は、ぱんぱんとかしわ手を二度叩くと、礼をした。頭を上げた男の子の顔を見て、カスタニはまた驚いた。
「ヨウヘイ?」
と、カスタニは思わず声を上げた。年齢や身長はあきらかに小さいのだが、男の子の顔はヨウヘイにそっくりだった。無論、男の子は怪訝な表情を浮かべた。
「ヨーヘイ? わいは岬(みさき)丸(まる)さかい」
今度はカスタニが怪訝な表情を浮かべる番だった。「丸」とはずいぶんと古風な名前である。
「おっさん、見かけない顔やなあ。なんや着てる服もけったいやし」
「観光客なんでね」
カスタニは答えた。それにしても早起きの子どもがいたものである。それにしたって変な子だと彼は思った。早起きなのはもちろんだが、来ている服も麻と思われる布で出来た粗末なもので昔風だし、履いているのも草鞋(わらじ)だった。
「カンコウキャクっつーのはなんだ」
「旅をする暇な人種のことだ」
服装のことには言及せず、カスタニは答えた。
「なんじゃい。おまんも本土の商人(あきんど)かなにかか」
岬丸はまるで敵を見るように睨み付けてきた。
「いや、旅の途中だよ。ここで商おうとは考えておらん」
「ふん、どうだか」
岬丸は尚も怪しいやつと言った風な目を向けてきたが、少しばかり気を許したようにも見えた。
「おめー、名は?」
「カスタニだ」
「ふん、やはり本土もんはけったいな名じゃ」
名前を聞いて、岬丸はそう言った。
「ところでお前、何を願ってたんだ」
今度は逆にカスタニが問うた。こんな朝霧の出る早朝に神社に詣でるのだから、相当な願いがあったのではないかと考えたからだ。こんな時間に神社周辺をふらつくものがあるとしたら自分か神職あるいは巫女くらいのものであろうとカスタニは考えた。
「喜凪が元に戻るように」
岬丸はそう答えた。
「元に戻る?」
「でも今日は違う」
「じゃあ、今日はなんだ」
「宝(たから)丸(まる)のおっかあが無事に天に行けるように」
「タカラマル?」
「わしの友達じゃ。この前、あいつのおっかあが死んでしまっての」
「死んで……」
カスタニは反芻(はんすう)した。その言葉に思い出すものがあった。
「島はここんとこおかしいんじゃあ。誰か死んでも弔おうとせんし、宝丸のおっかあも放っておいてばかりじゃ。ちゃんと弔ってやるんが決まりじゃったのに。だからわし、祈りに来てたねん。タカラマルのおっかあさ、天ばいけるようにとな」
「そうか」
とカスタニは答えた。
「皆わいのことを頭おかしいと言うねん。けんど、おかしいのはあいつらじゃあ。いっつもいっつも潜りの海女まで連れ出して船ば出しおって、昔はあんなんじゃなかったのに……みんな油でおかしゅうなってしもたんじゃ。なぁカスタニ、おまんはどう思う? 死者ば弔うんはおかしいと思うか」
「いや」
と、カスタニは答えた。
「死者を弔うというのは、死んだ者はもちろん、残された者にとってこそ必要だと、私はそう思うよ。少し前、旧い知り合いが死んでね……葬式があった。その時になんとなく分かったんだ。お別れは残された者にとってこそ必要だ……とね。だからお前のいう皆という者達がおかしくなってしまったとすれば、弔いをやらなかった所為かもしれん」
「そうだよ。そうだよな? 俺は間違っていないよな?」
確認するように岬丸は訪ねた。
「ああ、そうとも。お前の信じた道を行くといい」
カスタニが言う。
「ありがとうカスタニ。何だか元気ば出たわ」
岬丸の顔がぱあっと明るくなった。
「そんなら俺、戻るばよって」
「ああ」
岬丸は手を振ると、駆け出した。そうして霧の向こうに消えていった。
「変な子だったな」
と、カスタニは呟いた。
カスタニは島を出る。筏の道をしばらく歩いているとその間に少しだが霧が晴れてきた。時計の針が「6」を指して、日の光もだいぶ明るく、暖かくなったのがわかった。
またシュゴッという謎の音が聞こえた。音の方向に振り返る。たぷんと海の中に何かが沈んだのがわかった。やはりその正体までは掴めなかったものの、ポケモンだな、とカスタニは確信した。
歩くたびに筏が沈む。カスタニは進んでいく。見覚えのある建物――浮かび物が目に入った。粗末な戸が開く。老婆が出てきたのがわかった。
なんだ、あの占いの婆さんじゃないか。そうカスタニが気がついたのとほぼ同時に老婆――ミチルもカスタニに気がついたようだった。
「なんじゃ。ずいぶん早いなぁ。お前さんが来ることはわかっていたが」
とミチルは言った。
「寒くてね、目が覚めてしまったんです」
カスタニが答える。
「ずいぶん霧が出ていたようだね」
「ええ、ずいぶん出ていました。今はだいぶ晴れたけれど五時ごろはかなり濃くて」
「うむ。お陰で海が見えんでな、難儀しておったところだがようやく見えそうだよ」
ううむ、と唸って水平線を老婆は望む。海の向こうに目を凝らした。そうして、
「だが今日も期待できそうにないねぇ」
と、言った。
「何を見ているんですか」
カスタニが尋ねる。昨日から疑問だったことだ。それにヨウヘイが言っていた。直接聞いてみたらいい、と。
「島だよ」
と、ミチルは答えた。
「島?」
「そう、島だ。我々キナギの人間は幻(まぼろし)島(じま)と呼んでいる」
「まぼろしじま、ですか」
ああ、そうだよ。とミチルは答えた。
「めったに見えない島でね。だから幻島と言うんだ。この方角で海を見ると見えることがあるらしい。らしいというのは私は見たことが無いからだ。私の父や祖母は二、三度見たらしいのだが、私自身はからっきしでね。見た者が出たという時に限って、出払っていたり、海が見れない時だったり、そんなんばっかさ。どうやら『声』が聞ける分だけ、そう天分には恵まれていないらしい。死ぬまでに一度くらいは見たいんだがね」
おしゃべりだな、とカスタニは思った。少し聞いただけでこうもべらべらとしゃべるのは女というものの特性かもしれない、と。が、直後に考えを改めた。それを言うのなら昨晩の夜自分だって頼まれもしないのに語ったではないかと思い出したからだった。人にはある。話を聞いてほしい時、タイミングというものがある。
「あんた、どうして私達が海の上に住んでいるか知っているかい?」
と、ミチルが言った。
「いいえ」と、カスタニは答える。
「遠い昔ね。ここにはちゃんと陸地があったんだよ」
ミチルは語り聞かせるように言った。
「キナギに伝わる昔話さ。遠い昔ここには陸地があって、漁をしながら私達のご先祖様は暮らしていたというね」
「じゃあ、なぜ陸地は無くなったのですか」
「海の神様との約束を破ったから、さ」
「約束?」
「そう、約束。玉(たま)宝(だから)には絶対に手を出さない。それがキナギの漁民が海の神様に誓った約束だった。だが、約束は反故にされた。怒った海の神様はキナギの陸地を取り上げてしまったんだ」
「ああ、いかにも昔話ですね」
カスタニは感想を述べる。玉宝、というのがわからなかったが、欲深い漁民の誰かが海の神様の宝物に手を出したということなのだろう。
「話はもう少し続く。その陸地ってのはね、泳いでいなくなってしまったと言うんだ」
「泳いで?」
「そう。鰭(ひれ)と尾をつけてな。はるか沖合いへ泳いでいなくなってしまった。まるで海のポケモンみたいにな。だけど時々かつて自分のいた場所をそっと見に来ることがあるらしい。だからごく稀にここから海を見るとその島が見えることがあるそうなんだ。だからそれを幻島って言うのさ」
老婆はそう語りながら再び海を見た。そして、やはり見えないと呟いた。
正直、荒唐無稽(こうとうむけい)だとカスタニは思う。いや昔話の類にリアリティを求めても仕方ないのだが。
しかし、なんとなくわかった気がした。キナギの人々が海に住処を浮かべている理由が。ここは彼らの土地なのだ。たとえ、陸地が失われたとしてもここは彼らの土地であるのだ。傍から見れば滑稽かもしれない。けれどキナギの人々はこの洋上こそが自分達の土地だと考えているのだ。
海の向こうに旅立った恋人を探している――。海を見る老婆に対し、昨晩カスタニはそう発言し、そしてハズレだと言われた。が、それは中(あた)らずとも雖(いえど)も遠からずだったのではないだろうか。
彼らは期待しているのかもしれない。いつの日か泳ぎ去った陸地が戻ってくると。そうでなくても島が見にきたときに場所がわかるように、と。そう考えているのではないだろうか。
それは海の向こうに旅立ってしまった恋人を待つ女、それと似てはいないだろうか。
懸命に水平線を見つめる老婆を見て、彼はそんなことを思ったのだった。
ジリリ、ジリリ、と黒電話が鳴る。
男に報らせが届いたのはチョコレートの季節を過ぎた頃だった。あの講師や教授はいくつ貰っただの、あれは義理だ本命だなどという話題が下火になってきたころだ。
カントー地方、タマムシ大学。
この国における最高学府と言われるその大学に教授として籍を置くその男宛てに珍しい人物から電話が入ったのはそんな頃だ。電話の主は懐かしい苗字を名乗った。男にとってはもう三十年ほど聞かぬ名だったが、たしかに聞き覚えのある名前だった。
「おお、カスタニ? カスタニか?」
受話器を取ると聞こえてきたのは、懐かしい声、声質そのものはどっしりとしているのに落ち着きの無いしゃべり方は昔のままで、ああ間違いないと彼は思った。
「おう俺だ。久しぶりだな」
かつての「同郷」にカスタニは挨拶をする。
「よかった。お前、忙しいってウワサで聞いてたからよ。電話通じないんじゃないかって心配したんだ。受付のおねーちゃんにもかなり怪しまれたしな」
「で、なんだ。三十年ぶりにかけてくるくらいだからよほど重要な話なんだろ?」
カスタニは問う。彼はいつだって結論を急ぐ男だった。論文は結論から書け。日ごろ面倒を見ている学生達にカスタニがしつこく教えてきたことだ。
「ああ、それがよ」
と、電話越しの声が曇る。
「一体なんだ」
急かすようにカスタニは言った。
「おう、あのな、落ち着いて聞けよ。ミヨコさんが亡くなったそうだ」
「…………ミヨコさんが?」
少しの沈黙の後、彼は確認した。
「ああ。なんでも一年前くらいから入退院繰り返してたらしいんだがな、今朝自宅で亡くなったんだと。喪主は息子さんで、通夜の場所はシオンさくらホール」
「施設の隣のあそこか」
「そう。あそこ。まあ昔はボロっちかったがな。今は改装されててきれいなもんだぜ」
「通夜の日時は?」
「明日夜だ」
「……そうか」
カスタニは少しばかり思案する様子を見せたが、やがて結論を伝えた。
「すまない。せっかく教えてもらったのに。俺は行けないよ」
「仕事か?」
「ああ、はずせない仕事がある。ジョウトに出張なんだ。二日掛かりでな」
「なんとかならないのか。だってお前……」
「残念だが」
「そうか……」
「本当にすまない。電報を打とう。香典と花を届ける。ご遺族と同期にはよろしく伝えてくれ。ああ、それと」
「それと?」
「伝えてくれて感謝している」
カスタニはその後、二、三の挨拶をして受話器を置いた。
本当にいいのか、と彼は聞いた。いいんだ、もういいんだと答えた気がする。
「だってお前、ミヨコさんのこと……」
「いいんだ。昔のことだよ」
結局、カスタニは出張を選んだ。それは仕事優先の精神だったのか。あるいは意地だったのか。
今になって思う。あの時、仕事を反故にしても駆けつけるべきだったのだろうか、と。
しかし彼女とは高校を出て以来会っていなかった。今更と言えば今更だ。
けれど、霧の朝、彼は言った。お別れは残された者にこそ必要だ、と。それこそが答えだったのではないか。
結論は、出ない。
「あの婆さんに会ってきた」
夜になって宿舎に戻り、カスタニはヨウヘイにそう報告した。
テーブルには昨日と同じ貝料理を置いている。
「なんて言ってた?」
「キナギの漁民は約束を破って、島に逃げられたんだと。玉宝とかいうものに手を出して」
カスタニは答える。
「おもしろいよね、その話」
「おもしろい? そういう類の話は嫌いだね。昔の人間ならともかく、今もその話にキナギ民が囚われているとしたら少し違うとは思わないか」
「そうかなぁ。俺はロマンがあっていいと思うけどなぁ。俺も見てみたいな、幻島」
「ふん、バカらしい」
カスタニは吐き捨てるように言った。
「そういえば、今日の朝は霧が出てたんだってね」
思い出したようにヨウヘイは聞いた。
「ああ、そりゃあ、もくもくと出てたぞ。雲みたいにな」
「俺も見たかったなぁ」
「いつまでも寝ているからだ」
まったく、最近のガキはとでも言いたげにカスタニは返した。
今朝のことを思い出す。ヨウヘイはマッスグマを抱き枕にして眠りこけていた。あれなら寒くて目が覚めるということもないかもしれない。寄り添う者がいるということは幸せなことであると思う。
カスタニは貝を一口、口に運ぶ。バターの風味が口に広がった。
「ねえ博士、昨日の続き話してよ」
ヨウヘイがせがんだ。
貝を咀嚼して飲み込む。殻を海に還した後に、今夜もカスタニの独白が始まった。
できるだけ早く、ここを出よう。
高校に入った直後だった。若き日のカスタニはそう決心した。どちらにしろ、高校まで出たらそうなる決まりではあったが、出来るだけ早いほうがいいと思った。
ここには庇護はあるが、自由が無い。自由を手にするためにはさっさと独立したほうがいい。ここにいる限り、世界の隅っこに取り残されたまま、無視され続けることになるのだと。
幸い高校まで上がったなら門限はずいぶんと緩和される。カスタニはいくつものバイトを掛け持ちした。そうして学年が一つあがるころになって目処がつき、彼は退寮した。
今までお世話になりました。自分はここを出て行きます。そのように言って。
カスタニは決めていた。次のステップを。奨学金をとって、大学へ行く。できればそう、学費が安くかつ一番いいところがいい。
「今となってはずいぶん無理したと思う。まぁ若かったから出来たことだな」
カスタニは語った。
「博士はどうしてそう決心したんだろう」
「そう決心した理由は、主に二つある」
一つ目は、昨日話した理由からだった。
カスタニを含む施設の子ども達は世間から隔絶された存在だったから。いや、正確にはカスタニ自身がずっと省みられない存在だったからだろう。だから見返してやりたいという気持ちがあったのだろうと彼は語った。
それは自分を引き取ろうとしなかった親戚達、空気のように扱ったクラスメート達へのあてつけ、反発のようなものだった。もう会う機会などなかったろうが、後悔させてやりたいという気持ちがあった。あの時はもったいないことをした。逃した魚は大きかった、と。
「だがもう一つあった。どちらかといえばこちらが大きい」
「どういう理由?」
「単純な話だよ。高校に入って、好きな人が出来たんだ」
するとベッドからヨウヘイが身を乗り出した。
「おお! 青春!」
「うるさいな」
と、カスタニは牽制する。昔のことだよ、と強調した。
まったく、人っていうのはどうして恋のことになると急に関心の度合いが上がるのか。
だが、話をはじめてしまった以上ここでやめるというわけにもいかなかった。
「名前をミヨコと言った。美人かといえば中の少し上くらいだったが、やさしい子でな。誰とも分け隔てなく接するというのか、とにかくことあるごとに声をかけてくれたよ。いや、別に私だけじゃなかったんだけどな」
いわゆる「普通の」人々に距離感を感じていたカスタニだったが、それで距離が縮まった気がした。なんとなく、だが。
自分を隅に隔離し、無視していた世界で、彼女は声をかけてくれた。
たとえば、学校の前で会った時、朝の教室で会った時。
「おはよう、カスタニ君」
と、彼女は言った。名前までつけて。
カスタニは世界が開けた気がした。急に朝日が差したように明るくなって、世界に受け入れられたような気がした。
「だからな。彼女と対等になりたかったのさ。世界の片隅に庇護されている私ではなく、この世界の一員としての私として彼女に接したいと、そう思ったんだ」
「彼女に告白するために?」
ニヤニヤしながらヨウヘイは聞いてくる。
「いちいちうるさい奴だな! ……まぁでも、そんなところだと思ってもらっていい」
それでカスタニは努力した。なるべくお金を稼ぎ、早く寮を出る。そうして彼女に向き合おうと。あの頃は食べ盛りだったのに、ランチはモーモーミルクの小瓶一本とメロンパン一つだけだった。その大事なメロンパンをピジョンに盗られ、子のポッポ達に食われてしまってからというもの、ポッポが大嫌いになったとも話した。
「それですっかり奴らが嫌いになった私だったが、ポケモンが稼げると知ったのもこの頃だ」
「稼げる?」
「バイト先で困ってるのがいてな」
と、カスタニは続けた。
ウインディを飼っている叔母が、腰を悪くしてしばらく入院することになった。その間に運動不足になるといけないからボールから出して散歩するように依頼された。が、頼まれた本人は犬型ポケモン恐怖症だった。だから、バカでかいウインディなどとてもだめだと言って泣きついてきたのだという。
「そこで私が散歩、世話全般を引き受けることにしたのさ」
幸いその家には数々の飼育書が用意されていたからやりかたは分かった。当初は言うことを聞かなかった巨大な赤犬だったが、カスタニもだんだんと扱い方に慣れてきて、退院してきた依頼主からはお行儀がよくなったと褒められたくらいだった。
「報酬を受け取って、後でこっそり開いた時には驚いたね」
と、カスタニは語った。それでバイトをそういった方面に切り替えた。依頼主の紹介もあって、いい具合に稼げるようになった。当時はポケモン関係の法整備や支援システムも遅れていたから、そういう穴場でそれなりに稼ぐことが出来たのだ。
もちろん勉学において手を抜くわけにもいかなかった。仕事の合間合間を縫ってカスタニは必死に勉強した。全国テストで優秀な成績をとれば、奨学金が手に入る。カスタニにはそのお金が必要だった。
問題は大学に入ったとして、どの分野を選考するかだったが、ポケモン関係だろうとはおぼろげに思っていた。
そうして彼の進路を決定的にする事件は起きた。
いや、事件といっても人が死んだり、怪我をしたりしたわけではない。けれどカスタニにとってそれは事件だった。
ある日、偶然に学食で一緒になったミヨコが言った。
ひさびさに恋人が帰ってくる。長いトレーナーの旅から帰ってくる、と。
「うわぁ、撃沈」
「うるさいな」
カスタニは悪態をついた。
チャンスだ。想いを伝えるために待ち合わせの約束を指定してしまおう。そう考えていたカスタニは見事に撃沈した。
できることならば今すぐにでもトレーナーになってそいつを打ち負かしてやりたかった。が、カスタニはポケモンを持っていない。施設で育ったカスタニはポケモンを持つことが許されず、トレーナーになる為のことは何もしていない。それにもう自分は適齢期を過ぎている、そう思った。絶対ではないにしろ、小さい頃からやっていたほうがトレーナーの才能は開花しやすい。それは統計的な事実であった。
「そうなんだ。よかったね」
顔は笑っていたカスタニだったが、腸(はらわた)が煮えくり返っていた。
その男の素性も何も知らなかったが、対抗意識がめらめらと湧いた。
トレーナーと言うからにはポケモンバトルの頂点を目指すのが宿命だ。ならば自分は違うポケモン分野から、頂点を目指してやる。決してお前なんかには負けない、と。彼はその時そう決心したのだ。
ああ、やっと対等になれたと思ったのに。
この女性(ひと)にとっても、自分はなんでもなかったんだ。
まだだ。足りないんだ。対等になるだけじゃだめなんだ。
「そのときに、見返したい奴らのその中にミヨコが加わったんだ」
カスタニは語った。
その後カスタニは勉強を重ね、この国の最高学府、タマムシ大学の難関区分に合格した。理系で最も難しいといわれる、医者なども目指せる区分だ。カスタニは迷わずポケモン――携帯獣を学べるコースを選択した。成績はすこぶる優秀だった。そして彼は着実に成果を上げ、教授職にまでのし上がることになる。
まるで、かつて自分を捨てた彼らに見せつけるかのようにカスタニは結果を出していった。
高校時代のアルバイトからカスタニが学んだ通り、この時期に爆発的な躍進を遂げた携帯獣研究は成果を出せば儲かった。さらには国の支援制度がそれを後押しした。特に医療分野がその筆頭だった。
カスタニは若き研究者達にアイディアを与えてやり、共同研究という形で面倒を見てやった。そのリターンは後々になって何倍、何十倍にもなって返ってきた。
様々なプロジェクトを同時進行し、ポケモンに関する技術において数々の特許を取った彼には多額の金が流れ込み、同時にそれは学科を潤すことにも繋がった。今や携帯獣学で名を知らぬものはいまい。挙げた成果からも、影響力からしても、次期学部長の座が確実視されるまでに至った。
「そんな私に電話が入ったのはつい一月ほど前だった」
カスタニは語りの速さとトーンを落として言った。
「施設の同期が教えてくれた。ミヨコが病死したと」
カスタニは静かに続ける。
「……私は葬儀に出席しなかった。ジョウトに出張があって行くことができなかった。電報を打って花と香典は送ったがな」
カスタニはごろりと、向きを変え、ヨウヘイに背を向けた。
「その時から何か分からなくなってしまった。私はどこを目指して、どこを向いて生きてきたのか」
葬儀に出なかったからなのか、彼女が死んだからなのかは分からなかった。だがそれ以来、妙に生きた心地がしないというのがカスタニの感じるところであった。張り合いがないとでもいうのか。ホウエンの長期旅行なんて気まぐれを起こしたのもそういう為だろうと彼は思う。
だが、言葉にすることでカスタニの中で散らかっていた何かが少し片付いた気がした。通路に落ちた紙くずを拾い、床から積み上がった蔵書を本棚に戻す。そうやって、人が一人通れる通路を確保した程度には。
――お前さん、道に迷っているね。
今ならばミチルの言っていた事が受け入れられる気がした。
「辛気臭い話をしてしまったな」
と、カスタニは言った。返事は無かった。
目を閉じる。ヨウヘイが返事に困っているのか、あるいは眠りについてしまったのかにはあまり興味が無かった。ただ、吐き出したことで少しだけ肩の荷が降りたような気がした。
一夜が過ぎ、次の日も寒さで目が覚めた。
テーブルを挟んだ反対のベッドを見ると、やはりヨウヘイはマッスグマを抱き枕にして眠っていた。昨日と違ったのはマッスグマの頭が入り口に向いていたことか。額の矢印がこっちだとでも言うようにドアの方向を指していた。ドアを開く。寒さの為か今日も霧が立ち込めていた。
今日は一段と濃いな、あたりを見回しながらカスタニは思う。
カスタニは昨日と同じように筏を渡り、食堂に皿を返却した。時計を見る。昨日と同じで短針が「5」を指している。ふうむ、どうするか。またあの神社にでも行ってみるか。そう思ってカスタニは霧中に身を投じた。
二回目というものは慣れるもので、さほど時間をかけずに彼は島に到着した。
まっすぐ歩いていくと珊瑚の石垣があって、今度はそれに沿って歩く。ほどなくして鳥居のシルエットが姿を現した。すると突如、がらがらという鈴の音が耳に響いた。
「岬丸か?」
霧中でカスタニは声を発す。するとすぐに、声が返ってきた。
「その声、カスタニか」
霧の中で何かが動いた。ぼんやりとしたシルエットしか見えなかったが、声は確かに岬丸だった。
「久々だの。もう別の場所に旅立ったのかと思っていたが」
霧の中で岬丸が言う。
「何を言ってる。昨日会ったばかりじゃないか」
怪訝な表情を浮かべ、カスタニは答えた。だが岬丸は言い張った。
「阿呆なこと抜かすな。わしとおまんが会ったんは一月前じゃろうが」
意味が分からなかった。
「……? まあそういうことにしておいてもいいが……」
やはりおかしな子どもだ、とカスタニは思う。
カスタニは霧中を通り、岬丸に近づいていく。あいかわらず粗末な着物を身に着けた姿だった。だが……
「お前……少しやつれたんじゃないか?」
と、カスタニは思わず尋ねてしまった。霧中から浮かび上がった岬丸は昨日とはまったく別の顔つきになっていた。一ヶ月だと岬丸は言ったが、どちらかといえばその数字が正しいように感じられた。
「カスタニ……」
と、岬丸は口を開いた。
「カスタニ、わしの友達が……宝丸が死んだ」
彼は力なく言った。
「……死んだ?」
「いや違う。殺された。宝丸は漁師達に殺されてしもうた」
「何があったんだ」
「もうこの島はおしまいだ。大人達は善悪の区別がつかなくなっちまった。油欲しさに狂っちまったんだ。そりゃあ、わしだって宝丸のおっかあは仕方ないと思ったさ。宝丸のおっかあはでかくなって玉宝じゃあなくなったんだ」
声がわなわなと震えていた。
「じゃがあ宝丸は違う! あいつはまだ玉宝なのに、やつら見境無く銛(もり)で突きやがったんだ! 玉宝に手をかけてしもた! この島はもうおしまいだ!」
「落ち着けよ」
カスタニはしゃがむと視線を合わせるようにした。そうして両腕で岬丸の肩をつかむ。小さな肩はがたがたと震えていた。
「宝丸だけじゃない! 宝丸の兄弟や友達もみんなみんな死んじまった。殺されちまった。玉宝には手を出さないのが約束だったのに、約束を破っちまった。油欲しさに約束を破っちまったんだ!」
「…………」
カスタニには理解が出来なかった。岬丸が何を言っているのか。理解ができなかった。
ただ一つだけ引っかかった点がある。「玉宝」だ。
何かの宝物……文化財的なものかと勘違いしていた。だが、岬丸の言葉から推察するにそれは生き物――おそらくはポケモンだ。玉宝だったという宝丸。その母は大きかったということだから、それはおそらく進化系なのだろう。
それなりに大きいポケモンで、油の取れるポケモン……カスタニは持てる知識を搾り出した。だが……。
ああ、いけない。と、彼は恥じた。
ここはホウエン地方。カントーとではポケモンが違う。何の目的も無いまま、何も考えずにぶらぶらと来てしまったものだから、生息ポケモンなどろくに調べていなかった。滑稽なことだ。何が次期携帯獣学科学部長だ。「専門外」にはことさら弱い。
「カスタニ、」
岬丸は震えながら声を発した。
「昨晩、わしの夢枕に海神様がお立ちになった。そして海神様が言われたんじゃ」
「何と言った?」
「明日の火(ひの)午(うま)の刻が終わるまでに島を出ろ。海中に振り落とされたくなければ、と」
「海中に振り落とされる?」
「今日、わしがここに来たのは許しを乞うためじゃ。けんどとても許してもらえる気がせん」
尚も震えながら岬丸は言った。
「だからカスタニ、お前も早く島を出ることじゃ。わしともここで別れじゃ。おまんとは短い間だったが……」
岬丸は肩に手をやって、それを掴むカスタニの手を握った。小さな手はひどく冷たかった。
「どうか、達者でな」
そう言って岬丸は、するりとカスタニの手を離れてしまった。そうしてぱたぱたと鳥居に向かって駆け出した。ふっと霧に混じるようにその姿は消えてしまい、追いかけたけれど見つからなかった。
直後、ぐらりと島が揺れた。
「地震か?」
カスタニはそう呟いた。そうして途端に、自分は立ち入ってはいけない場所にいるのではないかとふとそんな気がした。そう思った途端に無性に恐ろしくなって、駆け出していた。
彼は夢中になって海に向かい走っていった。海に行き着くと、飛び石から飛び石へと跳ねるように筏を渡り、なるべく島から離れようとした。海の水を踏みながら、彼は霧中を夢中で走ってゆく。あやうく海に落ちそうになりながら、それでも彼は走ってゆく。
同時に記憶が駆け巡った。
自分を見捨てた親戚達の事、疎外するクラスメート達の事、世界の隅に追いやった世間の事、顔も知らぬトレーナー男の事、そしてミヨコの事……駆けるカスタニの頭に走馬灯のようにそれが蘇った。彼らを見返してやりたくて、この道を駆けてきた。一心不乱に駆けてきた。
彼らは見ていたのだろうか。自分の生き様を。後悔させてやる。見せ付けてやる。そうやって虚勢を張って生きてきたこの五十年を。
カスタニは駆け足で、時に急ぎ足で筏の道を波打たせ渡っていく。徐々に視界が開けてきた。霧がだんだんと晴れていくのがわかった。
気がつくとカスタニは、キナギの占い師、ミチルの家の前に立っていた。
「……また来ちまった」
カスタニは悪態をついた。
ミチルはまだ起きてはいないのだろうか。粗末な家の粗末なドアは閉ざされていた。
「ふう。まあ、ここまでくれば……」
訳の分からない恐怖に支配されていたカスタニはほっと一息をついた。情けないものだ、と思う。もう五十になる自分はたいていのことに驚かない自信があったのが、と。
そうして気が緩んだカスタニであったから、誰であっても追い討ちをかけるのは簡単であった。
シュゴッ。ブシュウウウウウウウ!
途端にカスタニのすぐ後ろで海水が吹き上がったものだから、振り返ったカスタニは腰を抜かした。
吹き上がる謎の水柱。海水は3メートルほど吹き上がると、10秒ほどその高さを保っていたが、次第に勢いを失って、落ちていった。
「な、な、な……」
何が起こったんだとあっけにとられるカスタニの目の前には揺れる海面があった。直後に海面が盛り上がり、水がざあっと落ちていく。そこから大きな丸い生物が顔を出した。直径にして2メートルはあるだろうか。藍色の肌、クリーム色の腹のポケモンだった。丸い身体の中心からすこし前方に二つの穴があいている。
シュゴッ! 穴が鳴って、霧状の水が吹き出した。
「これだったのか!」
カスタニは叫んだ。
昨日の朝、霧の中で何度か聞いた謎の音。その正体は今自分の目の前に突如現れたこのポケモンの仕業だった。浮かび上がったポケモンがしてやったりという風にずらり並ぶ歯を見せて、口角を上げ、にんまりと笑みを浮かべた。玉のような丸い身体。絵で描いたたら間違いなく点を打って終わりのつぶらな瞳。とりあえずどこまでが顔なのだろう、カスタニは非常に迷ったと後に語る。
だが、何より最初に思ったのは「でかい」ということだった。直径にして2メートルはある玉の体は、まるで小さな浮島だ。波乗り用のポケモンにしたなら大いに役立つことだろう。
「なんだい、朝っぱらからうるさいねぇ」
腰を抜かすカスタニの後ろでドアが開く。
「おや、あんたは」
出てきたのはやはりというかミチルだった。
「お、ホエルコじゃあないか。なんだいお前さん、情けないねぇ。ホエルコに脅かされたのか」
「ホエルコ?」
「そうだよ。このへんじゃあ時たま見かけるね。昔話の玉宝っていうのはこのホエルコのことさ」
ミチルはしょうがないねぇという風にカスタニを起こして言った。
「しかし男のくせに情けない。こんなんじゃあホエルオーに遭遇した日にゃあ、気絶だよ。気絶」
「ホエルオー? もしかしてこれの進化系か何かですか?」
カスタニが問う。
「ご名答。進化するとね、これがもっとでかくなるんだよ」
「4メートルくらいですか?」
とりあえず倍の数字を言ってみる。
「うんにゃ。14メートル」
がくり、とカスタニは脱力した。それはもはやポケットモンスターではないと思うのだがいかがであろうかとカスタニは問う。いや、そういえば聞いたことがあったかもしれない。ホウエンにはとてつもなく大きなポケモンが生息していると。
けれど、カントーで、それも一般家庭やトレーナーがよくバトルに出すポケモンを扱っていた所為か海の、しかもホウエンのポケモンはノーマークだった。
世界の隅から脱出した気になっていた。だが所詮、狭い世界に生きていたのではないか。今更にカスタニは自身の無知を恥じた。
「まぁ尤もこのへんじゃあ見かけないがね。奴らよほど外洋にいるのか、キナギで見かけるのはホエルコばかりだよ。このあたりにもすごく昔はいたらしいけどねぇ。いなくなってしまったんだと。捕り過ぎたのさ、油目当てにね」
ミチルはそのように説明した。
そうして、ああ、そうかとカスタニは理解した。岬丸の語った友達――宝丸の正体はホエルコだったのだと。だから宝丸のおっかあというのはおそらくホエルオーだ。岬丸もでかいと言っていたし、間違い無いだろう。
ホエルオーか、とカスタニは頭の中で反芻した。せっかく来たのだ。ホウエンの土産に見ておくのもいいかもしれない。
「……そのホエルオーとやら、どこに行けば見れますかね」
「さあ、めったに見れないからね。ごくたまに129番水道にいると聞いたが。確証はないよ」
「129番ですか」
それならミナモシティ行きの船だな。カスタニは検討をつける。いつもミチルが海を見ているその方向そのものだった。
シュゴッ! ホエルコがまた潮を吹いた。それが別れの挨拶だったのか、満足げに笑うどこまでかわからない顔が海中に沈んでいった。
「ああ、それとミチルさん」
カスタニは老婆の名を呼んだ。
「なんじゃい」
「この町に神社はありますか。喜凪神社ってところなんですけれど」
カスタニは尋ねる。
冷静さを取り戻した彼は、ある確認をしたいと思った。
岬丸は言っていた。「島」はもうおしまいだ、早く「島」を出ろ、と。
そしてもし、「島」というのが自分の思っている通りだとすれば――
「ここだよ。ここが喜凪神社だ」
ミチルに案内されてカスタニが立ったのは、キナギタウンの南端にある、六畳間ほどの小さな筏の上だった。その中心にまだ真新しい小さな社があった。高さはカスタニの身長にも満たない。拝殿と本殿が一体になった簡素なものだった。
「他の町は歴史ある神社が多いのだけどねぇ。なにせ台風の度に飛ばされたり、沈んだりするものだから、その度に立替えさ」
と、ミチルが言った。
カスタニは拝殿に近寄ると腰を屈め、パンパンと二度かしわ手を打った。鈴は無かったから鳴らさなかった。
――どうか喜凪が元に戻りますように。
――どうか宝丸のおっかあが天に行けますように。
――どうか海の神様が許してくださいますように。
――どうか……
カスタニは思う。かつて陸があった頃の拝殿にそのように岬丸は祈ったというのだろうか。自分が霧の向こうに見た、ホエルコと友達だと語った男の子は。
もう行くことも無いのだろうと思った。たぶん島はもうあるまい。すべては晴れた霧の向こうに消えてしまったように思われた。
カスタニは目を閉じ、ずいぶん長い間頭を下げていた。
この町は自分に似ているのかもしれない、と彼は思った。
見返してやろうと走り続けた自分。そして、鰭をつけ、尾を生やして泳ぎ去った島を待ち続ける町。
ここは報われない場所なのかもしれない。台風の度に流されて、何度直したところで、もう島は帰ってこないのかもしれない。復讐したかった者達に顧みられなかった自分と同じように。だが、それでも町は続いていく。やがて時は移り、観光という新たな価値を生み出して。
それを否定する気にはなれなかった。自分の歩いた道もまた同じように。
「何を願ったんだい」
「……岬丸と宝丸がもう一度会えるように」
「ミサキ……誰だい? それは」
ミチルは不思議そうな顔をした。ずいぶん古風な名前だと思ったに違いない。
「昔ここに住んでたらしいです。たぶん」
カスタニはしれっと答えた。
直後、二人の後ろからぎしぎしと振動が伝わってきた。
「博士ー! ミチルさーん!」
二人が振り向くと、ヨウヘイとマッスグマのベクトルが筏を飛び跳ねながら向かってくるところだった。
「こら! あんまり揺らすんじゃないよ。縄に負担がかかるだろ」
ミチルがたしなめる。
「よお、お前今日はずいぶん早いじゃないか」
カスタニが言った。
ヨウヘイとベクトルは社の建つ筏に踏み入ってくる。
「実は、ビッグニュースがあって」
「ビッグニュース?」
へへへ、とヨウヘイは笑った。小麦色によく焼けた顔が笑っている。岬丸が成長したらこんな感じだろうかとカスタニは思った。岬丸と初めて会った時もそう思ったが、二人の顔はよく似ている。
そうして、老婆とカスタニの前にヨウヘイは何かを差し出した。
「じゃーん!」
少年が突き出す両手に丸い丸いボールが輝いていた。
「そのボールがどうしたっていうんだ」
カスタニは尋ねる。
「ああ、もうテンション低いなぁっ」
ヨウヘイが察してよと言いたげに声を上げた。
「ホホウ、もしや狙いの獲物をゲットしたか」
今度はミチルがそう言って、ヨウヘイの目はキラキラと輝いた。
「そーなんですよ! ベクトルが顔しつこく舐めるんで仕方なく起きたんです。それに外に出てみたら、ね!」
少年は興奮気味に早口で説明した。要約するとマッスグマに起こされて宿舎の外に出たらホエルコが二、三いた。勝負を挑んだところ一匹が乗ってきて、三十分ほどのバトルの末にゲット出来た、とそういうことらしい。
すでにカスタニは出払っていて、真っ先にミチルに伝えに行ったなら、カスタニと南に行ってしまったとミチルの息子が言うので、筏を渡り歩いて探していたのだという。
なるほど、狙っていたのはホエルコだったのか。通りで陸生のマッスグマが苦戦するはずだ。カスタニは納得した。
「キュウッ」
ベクトルが得意そうに声を上げた。あんたが主役、とでも言うように額の矢印がヨウヘイを指していた。
「じゃあね! 博士」
海上からホエルコに乗ったヨウヘイが手を振り、ベクトルが尻尾を振った。
ミナモ行きの船がプアーッと鳴って出発を告げている。
「おう、元気でな」
カスタニもまた船尾から手を振った。
船が出発し、波を裂いた。ヨウヘイの姿が小さくなる。ついに豆粒大になり、キナギの町も遠ざかって行った。
海風が身体に当たる。カスタニは昼間を回想した。
「行くのかい」
出発の前の昼に昼食を共にしながらミチルは言った。
「夕方の便で出るつもりです」
カチャカチャとフォークとナイフを使って、大きな貝を切り分けながらカスタニが言う。この町の貝料理は大変に気に入っていたので、これと別れるのは少々惜しいと思った。
「……出口は見つかったのかい」
「まだです。けれどここに居るべき時は過ぎた。そんな気がします」
「ふむ。それでいい」
貝を口に運びながら、頷き、ミチルが言った。
「それは凄腕占い師の勘ですか」
「まぁそんなところだね。時々海の神様からのお告げがあるんだよ。『声』がね、聞こえるんだ」
「海の神様の?」
「そうさ。まぁ、私が勝手にそう思っているだけなんだけどね」
カッカッカ、とミチルは笑った。よく焼けた顔だったから少し出た白い歯がひときわ目立った。
「で? 海の神様はなんと」
「『南に進め。そしてよく目を凝らせ』」
「……えらく抽象的な」
「まぁまぁいいじゃないか。お前さん、ミナモ行きに乗るんだろ? ならば方角は一緒だ。私はね、『声』が聞こえたときは外したことが無いのが自慢なんだ」
ミチルは再びカカカッと笑う。
「…………」
やはり占い師の類は適当だ。信用できないとカスタニは思った。
日は沈みやがて夜になった。満天の星の空を仰ぎながらミナモ行きの船は進んでゆく。キナギを離れてずいぶん時間が経っていた。
船内のまずい飯を食べ、もう船室の毛布に包まって寝るかとカスタニは思い始めた。明日は129番水道に入る。ミチルは可能性は低いといっていたが、運がよければホエルオーが見られるかもしれない。
だが、カスタニはそのように考えを巡らしている時、船内に放送が入った。
「お客様にお知らせいたします。朝方より本便は129番水道に入りますが、霧の発生可能性が高いとの予報。その場合、到着予定時刻より大幅に遅れる場合があります。海上の安全を期する為、何卒ご了承をいただけますようお願いいたします」
「ええー」
「ついてないなぁ」
船内から失望の声が漏れた。
また霧か、とカスタニは思う。急ぎの用もなかったから到着時刻など割合どうでもよかった。ただ、それだと海がよく見えないだろうな、ホエルオーは諦めるしかないかもしれない、とも思った。
カスタニはさっさと船室に戻ると、毛布に包まって寝息を立て始めた。食事は不味かったが、キナギの宿舎よりは上等な毛布で、カスタニは心地よい眠りに誘われていった。
……カスタニ君、カスタニ君。
どこからか優しい声が聞こえた。
心地よい春の日差しの中、昼食を終えたカスタニは昼休みの机に突っ伏して眠っていた。
疲れていた。連日のバイト、そして勉強で。
暖かい。今しばらく寝かせて欲しい。
「カスタニ君、起きて」
眠い。だが、声は尚も語りかける。
「起きて、カスタニ君。今起きないと見られなくなっちゃう。だから起きて」
見られなく? カスタニは眠い頭の中にはてなマークを浮かべた。
何を言っているんだい。なぜそんなことを言うんだい。ミヨ……
はっとカスタニは目を覚ました。
ベッドの脇に置いておいた眼鏡を拾い、かける。
何かにせかされるように起き上がった。
「ミヨコさん……?」
と、彼は口に出した。まったく、未練がましいものだと思う。
カスタニは洗面台に立つと顔を洗った。
「そういえば、霧が出てるって話はどうなったのだろうか」
カスタニは階段を駆けていく。上の階に上がって甲板に出る重い扉を開いた。夜間は出入り禁止の甲板だったが、すでに鍵は外れていた。
びゅうっと冷たい風がカスタニの身に染みた。やはり朝は冷え込む。
「すごい霧だな……こりゃあ下手に進めないぞ」
と、カスタニは呟いた。事実、船は様子見をしているのかこの場に留まっていて、視界は白く、進む先はまったくと言っていいほどに見えなかった。カスタニは甲板へ出る。船の先頭へやってきて、真近の海を見た。
ふむ、とカスタニは声に出した。やはり、ごく近くであればおぼろげに見ることが出来る。
身に染みる寒さを感じながら、海面を観察する。
冷やされた水蒸気の漂う中、色の無い波がゆらゆらと揺れている。
「期待しても仕方ないか」
カスタニはこぼした。
が、その直後、ざばんという大きな音が耳に入ってカスタニは視線を音の方向に移した。
黒い海の中、巨大な飛行船フォルムの生物が半分ほど身体を出し、洋上を移動していた。
「もしや」
霧中に彼は目を凝らす。黒い水面を航行する飛行船は海水という名の雲から身体を持ち上げ、ジャンプした。
次の瞬間、彼が見たのは大きな音と共に上がる大きな水飛沫であった。
「おお……」
カスタニは感嘆の声を上げる。
大きい。何が大きいって、スケールが大きい。
目測でもその大きさはゆうに10メートルを越すと思われた。
――遭遇した日にゃあ、気絶だよ。気絶。
ミチルの言葉を思い出す。
キナギで出会ったホエルコは大きかった。だがその大きさもこれの前には霞んでしまう。
ホエルコが小さな浮島ならば、この生物は島だった。れっきとした一つの島。きっと人が暮らせてしまうほどの。
「間違いない……ホエルオーだ! こいつが、こいつが……そうなんだ!」
カスタニは叫んだ。それはもういつが最後だったか思い出せないワクワク、ドキドキという胸の高鳴りだった。
そして、カスタニは気が付いた。海の中にいるのは一匹だけではないということに。一匹を見つけたことで芋蔓式にもう一匹、さらにもう一匹が見つかっていく。Y字の尾があちらこちらに覗いた。玉のようなホエルコには無い特徴。それは霧の中でも分かりやすいシルエットだった。
群れだ。ホエルオーの群れだとカスタニは確信した。霧中にあってその全貌は掴めない。だが全体に二十や三十はいるのではないかと思われた。
「おや、」
全体を見通して、カスタニは妙なことに気がついた。霧の向こう、シルエットが見える見えないのぎりぎりのラインに大きな島が見える。……ような気がする。
だとすると航行ルートは危うくないだろうか、とも思った。今は留まっているようだから構わないが。
そんなことを考えながら眺めていると、にわかにそのシルエットが動いたような気がした。
そうして彼は見た。
白く濃い霧の向こうでホエルオーのそれと同じ巨大なY字が揺れたのを。
「……、…………」
状況が飲み込めず、カスタニはしばし無言になった。
かつて、約束を破ったキナギの漁民は土地を取り上げられるという海の神様の罰を受けたという。
玉宝――ホエルコには手を出さない。その禁を破ってしまって。
だから島は水平線の彼方に泳ぎ去った。鰭と尾をつけて、泳ぎ去った。
カスタニは記憶の断片をほじくり返した。
ミチルは確か、一言も言ってはいなかった。それがホエルオーだった、とは。
だが……だがしかし……。
「……まぼろし、じま…………」
ぼんやりと霞む巨大なシルエット。それはやがて霧中へ消えて、もう二度と見えることがなかった。
カスタニは霧中の甲板に突っ立ったまま呆然としていた。
いつまでもいつまでも、カスタニはただ立ち尽くしていた。
朝霧 了
七夕の夜のこと。
都会を遠く離れた田舎にひとつの神社がある。そこは小高い丘の上にあり、鳥居に続く石段からは町並みを見下ろすことができた。
街灯が点々と夜道を照らす中、しかしその神社では軒下の電灯がひとつ、境内で虫を集めるのみ。管理が行き届いてないのか、主立った明かりは幽霊か狐の作る鬼火だった。
まさに肝試しの場にしかならないような場所だが、そこに人影がふたつ。石段に腰掛けて夜景を眺める男女の姿があった。
「やってるなぁ」
「まぁ、よう燃えとろうなぁ」
毎年の行事を男は微笑ましく思いながら、方や女は片膝に頬杖をついて眠そうに、目を細める。
両名の視線の先には、町の一角を橙に照らす大きな明かりがあった。もうもうと煙を立てるそれは七夕の笹を燃やす火だ。町中の短冊と笹を集め、まとめて火にくべられていた。
短冊にこめられた願い事は煙となって空の神様のもとに届けられ、やがて叶えられるだろう。そんな人々の神頼みを、あざ笑うように女が言う。
「ああも大量に送られては、お空の神様とやらも手一杯であろうに」
煙の中にどれだけの願いが詰まっているのか。無邪気な風習だと呆れつつ、男から手土産にともらったいなり寿司を頬張った。
そうぼやく女に、男が串団子片手に言い返す。
「確かに多いが、急ぎのお願いなんてのは短冊には書かないだろ。神様には、少しずつゆっくり叶えてもらえばいいんだよ」
「あの量を少しずつか。は、ずいぶんと気の長い」
「そういうもんさ。いつか自分の番が来る。そう信じるんだよ、人は。良い話じゃないか、夢があってさ」
「夢のぉ。そんな程度……」
偏見混じりの男の言葉に女は思う。その程度の願いなら、叶う頃には願ったことさえ忘れているんじゃないか。神に頼るほどのこともないのではないか、と。
「ん?」
「いや、そんな程度なら、神様に頼らんでもそのうち叶えられるのではないか、とな」
「あー、その時はその時だろ。神様が、自分で願いを叶えられるように導いてくれた、ってな」
なんとも前向きな思考だ。いよいよ女も呆れ果て、鼻で笑った。
「盲信ここに極まれり、じゃの」
「そう言うなよ。どうせ、将来の目標みたいな感じで短冊に書くんだからさ」
「将来の目標、のぅ」
我が事のように言う男に、女の興味が向いた。男の顔をのぞき込みながら、口の端は上がり、目がいっそう細くなる。
「かく言うお主は、なんと書いたのかや?」
「黙秘します」
いたって自然に断られた。しかしそれではおもしろくないと女は口を尖らせる。
「かーっ、なんじゃい、生意気な口をききおって。
目標と言うからわしが生き証人となってお主の行く末を見届けてやろうとちょいと世話を焼いてみれば、これか。
そんな人に言えんような目標なぞ墓まで持ってくが良い。どうせ達成できたところで自己満足にしかならんからな。
わしは知らんぞ。目標達成の暁には労いの言葉のひとつぐらいくれてやろうかと思うたが、もう知らん。勝手に一喜一憂するが良いわ」
「拗ねるなよ、面倒くせぇな。おまえ、こういう願掛けの類は他人に言ったら効果がなくなるって、よくいうだろう?」
「そんな迷信、気休めにもならんわ。だったら何ゆえ人目に付くような笹の枝に短冊を吊す」
「個人を特定されなきゃ大丈夫だろ」
「大雑把にもほどがあるのぉ〜……」
細かいのかいい加減なのか。苦々しく顔を歪ませる女に、男はため息をついた。
「そうは言うがな。忘れた頃に叶ってラッキー、そんな程度なんだ。ことさら、達成を労ってもらうようなもんじゃない。それに……なぁ」
「それに?」
「失敗したら、おまえ、笑うだろ?」
「…………」
女は目をそらした。
「……そんなわけだ」
「あ……いや、返事に窮したのは、笑うからではないぞ? 目標の種類によると思って、どう返そうか迷っただけじゃ」
「いーんだよ。どうせもう俺の短冊は煙になってる頃だ。神様、織姫様、彦星様、何卒よろしくお願いします、ってな」
言って、男は団子をかじった。
幸いにして今夜は晴天。明かりの少ない土地柄、見上げれば天の川がはっきりと見えた。しかし風に乗って夜の闇に消えていく願い事たちが、はたして空まで届いてくれるのやら。
だが男の投げやりな態度に、女は納得しない。
「これ、弁明も聞かずに不貞腐れるな。わしばっかり悪いようにされて納得できるか」
「あぁ、そりゃこっちも悪かった。いいからこれでも食って少し黙ってな」
「な……んむ」
女の前に串団子が一本、突き出された。それに女はかじりつき、男の手からもぎ取る。
食わせれば黙るという算段か。少々癪に障ったが、団子一本に免じて女は黙ることにした。
「…………」
その団子がなくなるまでの少しの間、男は夜の音に耳を澄ませる。
ひと気のない神社で聞こえるのは、虫の声と幽霊のすすり泣きくらいだ。泣き声は不気味と思うが、その正体が知れていれば怖くもない。複数のムウマによるすすり泣きの練習風景を見てしまって以来、むしろ微笑ましかった。
そんな折に、男の耳に遠くから拍子木の音が届いた。「火の用心」と声が聞こえ、もうそんな時間かと腕時計を眺める。
「……里の夜景は楽しいか?」
「いや、あんまり」
団子を食い終わったか、女が話しかけてきた。しかしその内容には、いささか同意しかねる。
田舎の夜は控えめに言っても退屈だ。黙って見ていると眠くなってくるし、眠れば幽霊からのいたずらが待っているのだから。
「その割には、向こうの明かりをじっと見ておったがなぁ」
「……そうだったか?」
言われて自覚がないことに気づいた。そろそろ眠気がひどいようだ。調子が悪いか、そろそろ帰って寝るか。思いながらまぶたを揉む。
「眠いか」
「それも、ある。ただ向こうの焚き火、雨降らなくて良かったな、って」
言って、男はふと思い出した。
「……そういや、天気予報じゃ雨じゃなかったか? 今日って」
「予報なぞ知らんな。しかし、昼ぐらいまでは確かに曇り空じゃったのう」
両名が見上げる空は、満天の星空。雲はひとつとして見当たらない。
「はてさて、どこぞのキュウコンあたりが“ひでり”で雲を消し飛ばしたのやもな」
「キュウコンなぁ…………おまえ……」
「さーて、わしには心当たりなんぞありゃせんなー」
白々しいというか胡散臭いというか。なんとも人を馬鹿にしたような女の態度だが、しかし女は続ける。
「言っておくが、わしはむしろ七夕は曇り空であるべきと思うとるからの」
「そりゃまた、ずいぶんひねくれたことで」
「ふん。七夕とは、愛し合いながらも離ればなれの男女が、一年の中で唯一会うことが許される日という」
「今更なことを言うなぁ」
「その今更じゃがな? 考えてもみよ。一年もご無沙汰の男女が再会したならば、ナニをするか……」
「……ぁ゛あ゛?」
何かを企むようにニヤニヤと語る女に、なんとなく理解した男は何を言い出すこの女、と信じられないモノを見る目を向けた。
「快晴にして見通しも良く、衆人環視の真っ直中で……というのは恥ずかしかろーなぁー」
「おまえ、それって……ぁあ、下品なっ!!」
「か、か、か! 下品で結構。そういう見方もあって、わしに“ひでり”の心当たりは無い。それさえわかってもらえれば充分じゃ」
それだけ言って、女は満足げに鼻で笑った。そう堂々とされては男は黙るしかない。これ以上口出ししても、自分ばかりが騒いでいるようで馬鹿馬鹿しいではないか、と。
「ったく……」
「何にせよ、今夜は快晴じゃ。こうして天の川を見れた。短冊を燃やすのもできた。それを幸いと思うが良い」
まったくもってそのとおりだが、男はうつむいて唸るばかり。騒ぎの原因にそう言われて素直に従うのは、ただただ癪だった。
しかしそうやって下を向いていたから近づく影が見えず、女に背を叩かれることとなった。
「……んむ、少々声が大きかったか。ほれ、お迎えじゃ」
拍子木の音と「火の用心」という声。顔を上げれば、石段の下で錫杖を持った男性と拍子木を手にしたヨマワルが鬼火に照らされていた。
男性とヨマワルの目がこちらを見上げて、
「ひのよぉーじん」
ヨマワルが拍子木をちょんちょん、と鳴らす。もうそろそろ夜も遅いぞ、と。そういう意味である。
「あー……じゃぁ、今日はこれまでだな。もう帰る、おやすみ!」
「おぉ、気をつけて帰るんじゃな」
「あぁ、またな」
団子の串などのゴミを抱えて男は石段を下りていく。やがて夜回りの男性達と共に夜の町に姿を消した。
そして夜の神社に女だけが残る。
「……どれ、わしもひとつやってみるかの」
つぶやき、女が取り出したのは町で配られていた短冊の一枚。本来ならば町の笹と一緒に燃やすものであったが、女はそれを今の今まで持ち続けていた。
願いを書かずに持っていたのだが、そうこうしているうちに焚き火は終わってしまった。だが女は構わない。
白紙の短冊を左手に持つと、右手の親指に歯で傷をつけ、出た血を人差し指につけて文字を書いてゆく。そうして願い事を書き込み、掲げる。
「この場に笹は無いが、ま、燃えれば同じであろう」
そして「いざ」と息を吹きかければ、短冊はたちまち火に包まれ、細い煙を残して灰となって消えた。
「さて、期待せずに待つとするかの」
その言葉を残して女は夜に溶けるように消え去り、後には、
――――コォーーーーン…………。
狐のような声だけが夜の境内に響きわたった。
* * * * *
まず、あつあつおでん様、ネタ拝借と言う形になりましたが、樹液に集まる虫のようにありがたく思いながら使わせていただきました。。
お付き合いいただきありがとうございました。MAXです。
あつあつおでん様のネタから「夜のひでり状態」を見て、「雲が晴れるだけなんじゃないか」と考えた7日の朝。
キュウコンとおしゃべりをするなら古びた神社でこんな具合でしょう、と地元を想起しながら作り上げたこれ。
ジジイ口調の女性と言うステレオタイプなキャラができましたけども……。
書いてて思いました。久方様のある作品と舞台が似てる、と。
だ、大丈夫でしょうか! ちとツイッタで聞いた限りでは概ね寛容でございましたが、自分の説明を誤解されてしまっていたやも……。
不安の残したまま動いたことを謝ります。難があれば即時退去いたします。と、これ以上はネガティブなんで、以上MAXでした。
【批評していいのよ】【書いてもいいのよ】【描いてもいいのよ】【申し訳ないのよ】
夜が明けるまでは七夕だぜ!
そう言い聞かせながら、短いながらも仕上げてみた二つの作品を上げておきます。
……やっぱり、日付的にはアウトな気がしますが、よろしくお願いします。(苦笑)
『まずは灯夢という狐からの願いでアル! みたらし団子をもっといっぱい食べられるようにでアルぜー!! 腹壊すなよでアルヨー!! 』
コジョンドの波動弾が思いっきり、夜明け前の空に消えていく。
『次は日暮山治斗という奴からの願いでアルぜ! みぞ打ちが週に一度だけに減りますようにでアル! っていうかあきらめんなでアルぜー!!』
コジョンドの気合の入った波動弾がまた夜明け前の空に消えていく。
『今度はわらわっちメタモンからでアル! 商売繁盛アルぜー!! にっくいでアルねー!!』
コジョンドの叫びと共に波動弾が夜明け前の空に消えていく。
『次はミュウツーっていうやつからでアル! 借金返せますようにでアルぜー!! というかさっさと返せでアルぜー!!』
コジョンドのおたけびと共に波動弾が夜明け前の空に消えていく。
『続いて長老っていう狐からの願いでアルぜ! 池月とエリスがいつまでも中むつまじくラブラブでありますようにでアルヨー!! 池月ー! また今度、ワタシの新技を受けてくれでアルぜー!』
コジョンドの力を込めた波動弾が夜明け前の空へと消えていく。
『気合だ! 気合だ! 気合だ! で、アルぜー!!!』
コジョンドの全身から爆発音を立てながら波動が溢れる。
『ワタシからのお願いでアル! ワタシより強いやつに出会えますようにでアルぜぇぇぇえええ!!!!』
コジョンドの――。
「あああああ!! もううるさい! だまれぇぇえ!! ワンパターンすぎなんだよぉ! この野郎がぁああ!!」
『おぉ、なんか夜空から現れたと思ったら。ワタシはあんにんどうふでアルね、よろしくでアル』
「あぁ、それは丁寧にどうも、ボクはジラーチ、よろしくね☆ ……って、アホかっ!! もう朝だ、朝!」
『およ? なんか、おでこにタンコブができているでアルが大丈夫でアルか?』
「てめぇにやられたんだよぉおおおお!!」
『おぉ! さすが、ワタシの波動弾でアルね! まさにビックバンでアル! 照れるでアルぜ、礼ならいらないでアルぜ?』
「あほかぁああああ! もういい! 話が進まん! ちょっと狐好きの蛇野朗こいやぁあああああ!!」
※この後、責任持って、(半黒こげの)巳佑が短冊を笹竹にくくりつけました。
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というわけで、かなり遅刻してしまいましたが、私も短冊をつけさせてもらいました。
『いっぱい絵や物語がかけますように、また出会えますように』
『単位がもらえますように』
『学生の間に一回は水樹奈々さんのライブに行けますように』
よし、後もう一つ。
『某ロコンにみぞおちでやられませんように』
ありがとうございました。
【七夕限定のコアラのマーチもぎゅもぎゅ】
【みんなの願い、星に届けー!】
滑り込みセーフ! ε=\_○ノズザー ……え? アウト? 気のせいじゃないですかね。きっとまだ7月7日です。そうに違いない。
と言う訳で数キャラに短冊書いて貰ったんですけどね、ライチュウの奴の以外名前が無いという事態。ポケモンは種族名で表記出来るから良いもののこういう時に困りますね。
とりあえずれっつらごー。
「ライチュウを使うトレーナーが増えます様に コッペ」
「早く良いイーブイが生まれる様に とあるトレーナー」
「イーブイ飽きた。他のが食べたい カイリュー」
「尻尾を枕にさせてくれるキュウコンが手に入ります様に 回答者5」
「いつかまた虹が見られます様に キュウコン」
「ヤミラミにじゃんけんで勝てます様に エビワラー」
「ルカリオのポケモン図鑑の説明文で波導と書かれます様に 門森 輝」
少し遅刻してしまいましたが願いが叶う事を祈ります。30分位なら許容範囲ですよね! 駄目ですかそうですか。
何はともあれ皆様の願いが叶います様に!
【滑り込みアウト】
【皆様の願いが叶います様に】
毎年こうだが、目の前は人、人、人。浴衣を着た少女が数人のグループで歩いていたり、家族らしき数人が固まって歩いていたり。年齢層は若い顔が多い。そりゃあ、老人がこんなところに来れば人混みで大層疲れるのは目に見えているけれど。
両脇に並ぶ屋台も、たこ焼きや綿飴、かき氷といった定番のものから、ハクリューポテトなる謎の食べ物まで多種多様だ。そしてその店の脇には、必ず一本の笹が立ててある。
今日はタマムシシティ大七夕祭り。老若男女ポケモンを問わず、誰彼もが星に願いをかける日だ。
『ただいま会場が大変混み合っております。モンスターボールの誤開や盗難を防ぐため、ポケモントレーナーの皆様はボールの管理に十分お気をつけください……』
そうアナウンスが聞こえる合間にも、きゃ、と短い女の叫び声がして、モンスターボールの開閉光が夜店の明かりに負けじとばかりに輝く。そちらの方を見れば、出てきたヒメグマが他の客に体当たりしそうになっている。
これが進化後でなくてよかったな、と心中で独りごちる。流石にこの混雑の中に大型ポケモンを持ち込むような非常識なトレーナーがいるのは困る。
隣を行くルージュラくらいが、常識的に受け入れられる最大サイズだろう。これでも道行く人の中には、たまに怪訝そうな視線を投げてくる人もいるけれど。
「とりあえず、一通り店回ってみようか。どっかの店でペン貸して貰って、それも書こう」
そう問いかけると、僕のシャツの裾を掴んでいるルージュラはこくこくと嬉しそうに頷いた。その手には、スターミーとピィの形をした紙が一枚ずつ。
入り口で配っていたもので、もう形からして短冊と言えるのかはよくわからない。配っていたのを見た限りでは、ヒトデマンやスターミーにピィとピッピ、それに三つの願い事を書けるジラーチのものなんかもあった。
三つも願うと欲張りすぎて逆に叶えてもらえないような気がする、と思って、僕らは一枚ずつ、一つの願いを書く短冊をもらった。
出店横に笹がありますので、と言われたが、もうどの笹も短冊でいっぱいだ。今まさに短冊を笹にかけていく人の姿も見える。
それを見ながら人波に流されるように歩いて行って、まずは気になった「ハクリューポテト」と大書された屋台の前で立ち止まる。ご丁寧に直筆らしいハクリューの絵もセットだ。
「いらっしゃい! どうだいお兄さん、そっちのルージュラと一緒に食べてかないかい? うちはポケモン向けの味付けもやってるよ!」
言いながら店主が示したのは、ジャガイモを厚くスライスして、原型を残したまま串に刺して揚げたような食べ物だった。フライドポテトの一種だろうか。
しかし何故これがハクリューなのか、僕にはちょっとよくわからなかった。ジャガイモがそれらしいというわけでもないし、フレーバーにそんなイメージのものがあるわけでもない。
「これ、なんでハクリューって言うんです?」
「ああ、これな。ちょっと切り方に工夫がしてあって……」
店主は刺してあった一本を手に取ると、僕とルージュラの前でくるくると回して見せた。輪切りだと思っていたそれはよく見れば螺旋状で、相当心を広く持って見ればなるほど、長いハクリューの体に見えなくもない、気がする。
「こうやって全部一繋がりにしてあってな、ほら、ハクリューが使うだろ?『たつまき』。形が似てると思ってな!」
「……そっちなんですか? てっきり、ハクリューの体が長いのに似てるからかと」
「いやー、最初はそのまま『たつまき揚げ』とかにしようと思ったんだが恰好がつかなくて」
がはは、と豪快に口を開けて笑う店主に、僕もつられて笑いを返す。ルージュラはじっと興味深そうにポテトを見ている。
「おじさーん、ケチャップ味とポケモン用の苦いのに渋いの、一本ずつちょうだい!」
「人間用一本とポケモン用二本で千円だよ!」
Tシャツ姿の少年が、隣から千円札を突き出している。僕はスペースを作るために、少し脇へ寄った。少年はお金と引き替えにポテトを三本受け取ると、手に持ったジラーチ型の短冊を店横の笹にかけて、後ろの人混みの中に消えていく。
少し内容が気になって、その中身をこっそり横目で覗いてみた。
『チャンピオンになる! トモキ』
真ん中の短冊に力強く大きな、でもお世辞にも読みやすいとは言えなさそうな字が書いてある。両脇の短冊には、「ガウ」「ポポー」の名前と一緒に、ポケモンの足跡。前者の方は短冊からはみ出して、ジラーチの顔に被っている。
なるほどこういう使い方もあったか、と感心した。一人が三つ願い事を書くのは欲張りかもしれないが、三人で一つの大きな願い事を書くなら、叶う確率はもしかしたら上がるかもしれない。
そう思っていたら、シャツの裾がぐいぐい引っ張られた。そちらを見れば、種族に特有の不思議な言葉を発しながら、ルージュラがポテトを指差し何事か訴えている。見ているうちに食べたくなってきたのだろう。
「わかったわかった。……おじさん、ガーリック味とポケモン用の辛いの一本ずつ下さい」
「はいよ! ……ん? 辛いのでいいのかい? ルージュラっちゃあ氷ポケモンだろ? 苦手なんじゃないのかい?」
「あ、いいんです。こいつ、氷ポケモンなのに辛い味が大好きで」
「ほー、見かけによらないモンだねぇ……人間用とポケモン用一本ずつで六五〇円だよ!」
小銭入れから七〇〇円出して、釣りの五〇円とポテトを受け取る。一本はすぐルージュラに渡しておいた。代わりに手の空いた僕が、ルージュラの持つ短冊を受け取った。
トゲトゲしたスターミーと、それよりは丸みを帯びて文字を書くスペースの取り易そうなピィの形をした短冊には、まだ何も書かれていない。
どこか空いたところを探さないとな、と思った。列を作っていた人が後ろから来ているのでは、願い事を書くために店の前を占領してはいられない。
『迷子ポケモンのお呼び出しをいたします。トレーナーID61963、タカノコウキ様。運営本部にてルリリをお預かりしております、至急運営本部までお越し下さい……』
そんなアナウンスが聞こえた頃に、僕らは通りの交差点へと差し掛かった。角に、ひときわ大きな人だかりができている。子どもたちとその手持ちの小さなポケモンが多い。
店の垂れ幕に大書されているのは、「あめ」の二文字のみ。店の隣に座って悠々としているのは、一匹のポニータだ。店主の男は棒の先につけた飴の塊をその体の炎で熱し、へらで細工してひとつの形に仕上げていく。
飴の塊は、既に頭の部分が大きく、尾にかけて細くなる流線型を描いていた。別の、本体に比べれば小さな塊をつけたへらによって、その尾に尾びれがつけられる。男が、集まった子どもたちに向かって問いかけた。
「おじさんは今、何のポケモンを作ってるかなー?」
子どもたちはまだ答えが出せないようで、隣の子どもと相談し合ったり、首を傾げている。その間に飴細工には胸びれがつけられ、頭に小さなツノがついていく。
その様子を見ながら、ピンときたらしい一人の子どもが叫んだ。
「ジュゴンだ!」
「正解! それじゃあここから顔を描くところを見せてあげよう」
外形の完成し終わったジュゴンは、食紅のついた筆で顔を書き加えられてますます本物に近づいていく。目と鼻、それに口を書き加えた飴細工は、最後に袋に収められて他の飴細工と一緒に並んだ。
子どもたちがわあわあと歓声を上げ、そこを見計らって店主が声をかける。
「すごーい!」
「そっくりー!」
「本物みたい!」
「飴ってメタモンみたいだな!」
「この飴細工一個九〇〇円! だ・け・ど、飴風船チャレンジに成功したら、この飴細工をタダであげちゃうぞー!」
目を輝かせて、やるやる、と殺到する子どもたちが受け取っているのは、何の細工もされていないただの飴の塊だ。子どもたちはまるで風船を膨らませるように、ぷうぷうと懸命にその塊を吹いている。
なるほど、これを大きく膨らませることができればOKというしくみらしい。しかし大半の飴は吹いている途中で薄くなって固まり、破れてしまう。
そうした子どもたちが悔しがって再挑戦をし出す間に、男は加工用の飴をまた熱し始めた。
「今度は何のポケモンを作ってみようかなー?」
「ヒトカゲ!」
「バタフリーがいい!」
「カイリュー作ってー!」
そのうちの一つを聞き届けたのか、それともそのどれでもないポケモンを題材としているのか。ひのうまポケモンの熱で暖められた飴は、ただの丸い塊から一つの目的へ向けて姿を変えていく。さながら、ポケモンが進化するように。
それを熱っぽく眺める子どもたちの、その大半の手にはもう短冊はない。もうどこかの笹にかけてきてしまったのだろう。
まだ願うべき夢を持っている年代だからだろうか、などと言うと、まだ若いのにと言われるのだろうか。見飽きてきたらしいルージュラが急かすのに合わせて、僕はその人だかりの前から歩き出した。
「現在、タマムシシティ大七夕祭り会場から生中継しております! 見て下さいこの人出、今年の夏も大賑わいです!」
浴衣姿のレポーターがカメラへ向けてそんな台詞を言っているのを後目に、その人だかりのそばを通り過ぎる。ピチューを頭に載せたあのレポーターは、名前は覚えていないがお天気コーナーか何かの顔だったはずだ。
そんなことを考えていると、不意に前に進もうとしていた体がぐっと後ろへ引っ張られる。裾を引きながら後ろを歩いていたルージュラが、急に立ち止まったのだ。
何だよ、とぼやきながら振り返ると、ルージュラの視線はこちらを見ていなかった。
その視線の先にあったのは、「氷」の垂れ幕と、店のテントの内側に貼られた「罰ゲーム用!? 激辛マトマシロップ」の張り紙。僕はそれへ向けて指を指して、ルージュラに聞いてみた。出てきた声は、自然と、なんとなく諦めたような声だった。
「……欲しいんだな?」
ルージュラはこの日一番じゃないかと思うくらいの笑顔で、大きく頷いた。
人混みをかき分けて屋台へ向かうと、丁度それらしき真っ赤なかき氷が、一人の青年の手に渡されていくところだった。連れらしいもう一人の青年にそれを突き出して、何やら揉めている。
「バトルで負けたら食うって言っただろーが! 俺覚えてんぞ!」
「やっぱ食えねえよこんなモン! どう見ても辛いの好きなポケモン用じゃねえか!」
本来の罰ゲーム用途に使うとああなるらしい、という図から目を背け、改めてかき氷を注文し直す。人間の食べられそうな味も売っているから、そのメニューにも一通り目を通して。
「あの激辛を一つと、メロン味一つ」
「はいよ。七〇〇円ね」
ルージュラが隣ですぐにでも小躍りを始めそうな様子で、氷が削られていくのを見ている。こいつにしてみれば好きな温度である冷たいものと、好きな味である辛いものが合わさった食べ物が食える機会なんてそうそうないから、楽しみにするのも分からない話ではない。
紙コップに山盛りの氷が盛りつけられ、その上に見るからに辛そうな真っ赤なシロップがかけられていく。この赤さはイチゴ味と間違わないためなのか、いや違うな。
最後にストローで作ったスプーンが刺さって、差し出された紙コップをルージュラが受け取る。続いて削られ始めた氷は僕の分だ。
その音を聞きながら、僕は店先のペンを取る。書くことがはっきり決まったというわけではないけれど、なんとなく、今のルージュラの様子を見ていたら書きたくなったのだ。他よりも少しだけ、待ち時間が長いというのもある。
スターミー型の短冊の上を、ペンの頭がこつこつと叩く。もやもやとした願い事は、うまく固まってくれない。
「はいよお兄さん、メロン味置いとくよ」
「ああ、ありがとうございます」
ことんと音がして、側に出来上がったかき氷が置かれる。短冊は真っ白なままだ。んー、と唸りながら悩んでいたら、ルージュラが置いてあった短冊のもう片方、ピィ型のものを取っていった。スプーンに頼らず飲んだんじゃないかと思うくらいの速さだ。氷ポケモンだしできてしまうのかも知れない。
何を書くのだろう、とその様子をしばらく見ていたら、ルージュラがペンで書き始めたのは、その口から出るのと同じ、人間にはよくわからない言葉だった。テレビの字幕で見たアラビア語を見ているような感じがする。
ルージュラはそのまま迷いなくさらさらと謎の文字を書き終えて、ペンを元あった場所に戻すと、満足そうに短冊を顔の前に掲げてみせた。何を書いたのかは分からないが、おそらくは心からの願いなんだろう。
そんな表情を見ていると、自然にこちらの筆も動いた。スターミー型の中心、本物ならコアのある部分に、小さな文字で詰め込むように。
『ルージュラの嬉しそうな顔が、もっと見られますように』
書き上げて隣を見てみると、頬を抱えたルージュラが真っ赤になっていた。そりゃあ、僕がルージュラのを見たんだから見られるだろうとは思っていたんだけど。
その様子を見咎めた屋台のおばちゃんが、にんまりとした顔でこちらを見ている。
「あらお兄さん、こんなに女の子真っ赤にしちゃって。まったく色男なんだから」
「は、はあ……えっと、ちょっと失礼します」
周囲からの注目もなんとなく集まっている。僕はかき氷の入った紙コップを取ると、さっと店の脇にある笹に、二人分の短冊をかけた。
トゲのある形の真ん中だけが黒いスターミーと、落書きされたみたいにぐちゃぐちゃの文字が並ぶピィが、他の短冊に混じって揺れる。
それを見届けると、視線から逃れるように、そそくさと僕らはかき氷屋台の前を後にした。
「……にしてもお前、何書いたんだ? まさか、あのかき氷がもっといっぱい食べられますように、とかじゃないよなあ」
道すがら聞いてみると、ルージュラは相当に驚いた顔でこちらを見返してきた。どうして分かった、とでも言いたげに。
図星か、と問えば、黙って頷いていた。
「わかったわかった、今度作るよ。タバスコとかだから、ああいう店で見たのみたいじゃないかもしれないけどさ」
言うが早いか、僕の頬を強烈な吸い付き攻撃……いや、ルージュラのキスが襲った。愛情表現は嬉しいけれど、正直毎回痛いと思っている。
ついでに今日は祭り会場の人の視線もプラスだ。ルージュラを引き剥がして、ふう、と少し溜息をついてみせる。
「そーいうのは家でやって、家で!」
……ただ正直、ここまで愛されるの、まんざらでもない。
――――
七夕と(私の)ノスタルジアとバカップル。
飴細工の屋台を全く見ないんですよ。地元限定だったのだろうか。
他にも屋台にしたら面白そうなのあったんですが、時間と息切れの関係上書けませんでした。
【お題:ポケモンのいる生活(ポケライフ)】
【スペシャルサンクス:#ポケライフ(Twitter)】
【描いてもいいのよ】
【書いてもいいのよ】
【10分弱オーバー】
先客がいたようだ。ついでだからみんなが何を願っているか見ていくか。
「ジムリーダーになりたい ガーネット」
トレーナーなのか。それにしてもハンドルネームではないのだから、本名かいていけばいいのに。織り姫と彦星だって本当の名前が解らなければ叶えようもないだろう。
「微生物研究にいきたい ザフィール」
理系の人間のようだ。字からして男子……だろうか。それにしても最近は短冊にすらハンドルネームを書くのが流行っているのだろうか。私が本名ばりばりで短冊かいてあるのがなんだか怖いではないか。
「商売繁盛。ついでに黒蜜がうるさいので早く諦めさせてください 金柑」
綺麗な字で書いてある。印刷物かこれ。こんな綺麗な字を書く人間がいるとは思わなかった。商人のようだが、きっと学校の成績もよかったのではないか。うーん、なんだか負けた気分だ。
「早くあの子が振り向いてくれますように☆ 黒蜜」
その札の隣にあったのがこれなので、おそらく友達なのだろう。面白いハンドルネームを考えるものだ。
「ゾロアークにお嫁さんが来ますように ツグミ」
ポケモン想いのトレーナーだな。けどゾロアークのお嫁さんなら、トレーナーが探すのがいいのではないだろうか。結構ポケモンセンターでもお見合い希望の紙はってあるし。
「ツグミに彼氏ができますように ネラ」
そこから離れたところに釣り下げられてるのがこれ。ツグミという子は友達に恵まれたのだな。友達に彼氏ができて欲しいというところをみると、ネラという子はもう彼氏持っているのだろう。
あ、この辺なら空いてるな。さて、吊るしてかえろう。
「人間の青いイケメンください。石マニアでもいいです くろみ」
今年こそ、かなうといいなー!
しゃらしゃらと涼しげな音を立てながら、大きな笹が夜風に揺れています。
その枝葉には、色とりどりの短冊がいくつも結び付けられていました。柔らかな風に踊るそれらには、人とポケモンの祈りや願いが書き込まれています。
道の向こうからくたびれた様子の駱駝が一頭、とぼとぼと歩いて来ました。
足を引きながら笹竹の前にやってきた駱駝は、大きな溜息を吐いて背中の荷を下ろしました。小さな袋に詰め込まれた短冊の束です。
あれからもう一年が経ったんだなあ、と呟きつつ、さらさらと手元の用紙に何かを書き付けています。
肉厚の蹄で器用に――どうやってという疑問は胸にしまっておきましょう――結び付けられたそれには、『藁一本で背骨が折れそうなこの現状を、なんとか打破できますように』とありました。なんとまあ、辛気臭いことです。
……それはさておき、自分の分を書き終えた駱駝は、預かってきたらしい短冊たちを次々と結び付け始めました。
『ブラック3・ホワイト3で主役級に抜擢されますように 風神・雷神』
『またポケンテンの新作料理を食べられますように 学生A・B』
『監督の尻をひっぱたいてとっととロケを終わらせて、年内には上映できますように 飛雲組』
『世界中での百鬼夜行を望む 闇の女王』
『第三部及び完結編まで続きますように! 甲斐メンバーの一人』
『今年の夏休みも、あいぼうといっぱい遊べますように 夏休み少年』
『いつまでも“彼”と一緒にいられますように 名も無き村娘』
『もう大爆発を命じられませんように ドガース』
『今年も美味しい食事にありつけますように。 桜乙女』
『僕たちが無事に「割れ」られますように タマタマ』
『彼らの旅立ちを祝福できますように…… マサラの研究員』
『この世界に生まれ出ることができますように 未完の物語一同』
さらさら、しゃらしゃらと笹が揺れています。
一年分の願いを括り終えて、駱駝はふうと息をつきました。
しばらくぼんやりと色紙の踊るさまを眺めていましたが、やがて意を決したように首を振ると、元来た道をのろのろと引き返して行きました。
おや? 駱駝の立っていた場所に、二枚の短冊が落ちています。どうやら、付け忘れてしまったようです。
仕方がないので、私が結んで締めくくりましょう。
『受験・就職・体調・原稿その他もろもろの、皆様の願いが良い方向へ向かいますように』
『自分の思い描くものを、思い描いた形に出来ますように。今後も地道に書き続けられますように』
七夕の夜に、願いを込めて。
ご無沙汰しています。
しとしと雨の降る七夕を迎えました。
それでも街中では浴衣を着た人たちに出会ったりちいさな七夕飾りを見つけたりと、すっかり七夕ムードですね。
「黄金色を追い求める最高のトーストマイスターになる ちるり」
「リーフィアといっぱいあそべますように ミノリ」
「今年もご主人さまのいちばんでありたい チリーン」
「さらに出番をよこせ ムウマ丼推進委員会」
「めざせコンスタントに短編投下 小樽ミオ
「池月くんがエリス嬢のもとに帰れる日が早く来ますように」
今年は夏コミにスペースを出される方もいらっしゃるので、素晴らしい祭典になるようにお祈りします。
個人的には、有明夏の陣2012で私自身が討ち死にしないようにと願うばかりです(笑)
短冊の願いごと、届くといいな!
※追記:読み返したら語弊ありげな箇所があったので直しておきました、すみませんm(_ _)m
梅雨の宿命だわな……
止まれ、不景気な事言っててもしゃあないので……!
『今年こそ日の目を…… 書きかけ山脈関係者一同』
『武運長久・凶運回避 ボックス対戦組』
『求むルカリオ 目指せ獣人パ結成! アジル(コジョンド)・シュテル(コジョフー)・グリレ(ゾロア)・ギブリ(ゾロアーク)・ケム(リオル)』
『神は言っている……仲間を救えと イ―ノック(コイキング move担当)』
『原こ(赤黒いものが飛び散っていて読めない……) **ウィ』
うーん、不景気だわ(
皆さんはもっと明るく楽しい七夕祭りをお過ごしくださるよう……!(笑)
では。ゲームも創作の方も、もっともっとギアを上げて行きたいですね〜。
『これからもこの場所により多くの作品が集まって、創作者の方々の良き憩いの場であり続けますように』。
サイコソーダ大好きダイケンキ、シェノンがてくてくと道を歩いていると、目の前に笹が立っていました。
その笹には短冊がたったの一枚だけ、ひらりひらりと揺れていました。水色の短冊には、太く黒々とした、おそらく筆ペンで書いたのであろうでっかい『合格祈願』の四文字。
「何かすっげぇ切なくなる光景だな」
ありのままを口にした後、そのシェノンは何も言わずに代表として持ってきた短冊をかけていきます。去年よりも数枚、増えている気がします。シェノンはまず彼の仲間たちの短冊をかけ終えると、見覚えの無い字形で書かれた残りの三枚を見つめました。
一枚目は、ひらがなとカタカナだけで書かれた、まるで小学生が書いたような文字。
『これからも おじさんと たくさん ほんが よめますように! ルキ』
二枚目は、綺麗な、大人が書いたような文字。名前はありません。
『平和な日々が続き、彼を置いていったりするようなことが起こらない事を祈る』
三枚目は、少し丸みがかった、女の子っぽい字。黄色い短冊です。
『今年も向日葵が沢山咲きますように。 再会できますように 夏希』
その三枚も掛け終えると、シェノンは「サイコソーダの季節だなぁ」などと呟きながら去っていきました。
夜空に、星々を湛えた天の川が輝いておりましたとさ。
【短冊 どうか増やしてほしいのよ】 【なんか今年もやっちゃったのよ】
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