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「わあ…かーわいいー!!」
毎週日曜の夜7時半にやってるテレビ番組「オーキドが来た!」を見て、ぼくはそのポケモンに夢中になってしまった。
元々、ぼくは、世界のいろんなポケモンが野生で生きているところを見られるこの番組が大好きだ。でも、今日の番組に出てきたポケモンは、初めて見たけど、すごくすごくかわいかった。
モクローっていう、まんまるな鳥ポケモン。ちっちゃいのに頭が良くて、首をかしげたりふりむいたりして、とってもかわいい。最近見つかったポケモンで、アローラ地方という所にしかいないと番組で言っていたので、カントーにいるぼくはがっかりした。アローラ地方は、飛行機とか船を使わないと行けない遠くの島だからだ。
でもぼくは、モクローがほしくてしかたない。まだ「たび」は行けないけど、「たび」に出る時は絶対モクローといっしょがいい。お父さんにもお母さんにもお願いしたけど、ムリって言われてしまった。でもやっぱりぼくは、モクローと「たび」に出たい!
ばんごはんの時も、おふろの時も、しゅくだいしてる時も、ずっとモクローのことばかり考えてて、夜もずっとねられなかった。
ねてるのか、起きてるのか、よく分かんない感じだったけど、外で何かがギャーギャーさわぐ声がして、ぼくは目を開けた。
外がすごく明るい感じだったので、朝かなーと思ってカーテンを開けた。そしたら、うちの庭に、なぜかドードリオがいた。それに何だか様子がおかしかった。3つの頭が大げんかしている。よく見たら3つの首がめっちゃくちゃにからまっていた。
なんだこれ?ぼくはまどを開けて庭に出てみた。すると、庭中が鳥ポケモンだらけになっていた。しかも、みんな首を変なふうに曲げている。
ななめ後ろを向いたままのポッポと、真上を向いたままのオニスズメがぶつかって、けんかになった。でも頭の向きがそのままなので、つつくことができないで、でたらめに足でけったり砂をかけたりしている。
グエ〜、と死にそうな声が真横から聞こえた。見たら首がギューっとからまったオニドリルが苦しそうにしている。ぼくは何とかしてほどいてあげた。すると
「コウイチ君、ありがとう」
オニドリルがゼーゼーと息をしながら、しゃべった。しかもぼくの名前を知っている。でもぼくは、そんなにおどろかなかった。多分、庭の鳥ポケモンたちが変すぎて、おどろくひまがなかったからだ。
「みんな何してるの?」
ぼくはオニドリルに聞いてみた。すると別な方から声がした。
「オニドリルは苦しそうだから、私が教えてあげる」
ぼくがそっちを見ると、おばけのサダコみたいな長いかみを前にたらした女の人?がいたので、ギャーッと声が出てしまった。そしたら女の人?に怒られてしまった。
「私はおばけじゃなくて、ピジョット!まちがえないでよ!」
よく見たら体が人じゃなくて鳥で、羽があった。ピジョットは顔が後ろ向きで、頭の羽が前を向いたまましゃべっていた。
「あのね、頭を横にしたり、後ろにしたりする、すごくかわいい鳥ポケモンがいるでしょう」
「モクローのこと?」
「そうそう!今、みんなモクローみたいになりたくて、練習してるところなの」
「ええ〜っ?」
ぼくはびっくりして庭をもう一度見てみたら、本当にみんな頭を前や横、下や後ろに向ける練習をしていたり、そのままもどらなくなって困ったりしていた。
「全く、こんなむずかしいこと、できるわけないよ」
おんぷみたいな頭を真横に曲げたペラップがプンプン怒っている。こんなおんぷががくふにあったら、すごくじゃまそうだ。
アチャモとポッチャマは頭が大きいので、首を曲げるたびに転んでいた。マメパトはわけが分からなくなったみたいで、ひっくり返ったまま動かなくなっている。
みんなふつうにしているのが一番いいのに、変なことばかりしていて、ぼくまでおかしくなりそうだった。
「みんなおかしいよ!こんなの変だよ!」
ぼくはピジョットに言ったはずなのに、いつの間にかそこにはヨルノズクがいた。首を変なふうにしないで、ふつうにしている。ぼくはすごくほっとした。
ヨルノズクは落ち着いた感じの声で言った。
「うん、確かにみんな変だな。首を曲げたらかわいいのなら、首を一番よく曲げられる私が一番かわいいはずだ」
「でしょ?みんな変に見えるよね!」
ぼくはいっしょうけんめいにうなずいた。
「でも私はかわいいと言われたことがない。ふつうにしているのが一番かっこいいと言われる」
「うん、ぼくもみんながふつうにしているのが一番いいと思う!」
やっぱりヨルノズクは頭がいいなあと思って、ぼくはすっかり感心してしまった。
でも、ヨルノズクもやっぱり何か変で、ぼくにこんなことを言った。
「だから首をただ曲げたんじゃ、ふつうすぎてダメだということだ。ぐるりと回すくらいじゃないといけないんだ」
「えっ?そんなの、よけいに変じゃないの?」
「いや、それがとてもうまいポケモンがいるんだ。ほら、みてごらん」
ぼくがヨルノズクの向いた方を見ると、そこには、ネイティオがいた。ネイティオの頭が、パトカーのランプみたいにくるんと一回転した。
「ええーっ!?」
ぼくはさけんだけど、ネイティオは何も言わない。頭をくるんくるんと回し続けている。こわい、すごくこわい!
「やだ!ヨルノズク、助けて!」
ぼくはすぐ近くのヨルノズクに言ったのに、そこにいたのもネイティオだった。頭がコマのようにブンブン回っている。
ぼくは泣きそうになって逃げた。逃げた先にもネイティオがいて、いつの間にかぼくの周りはネイティオだらけになっていた。頭をぐるぐる回しながら、だんだんぼくに近づいてくる。
「やだーっ!!」
そこでぼくは本当に目が覚めた。しんぞうが飛び出しそうにドキドキ鳴っている。庭を見たけど何もいなかった。ぼくはすごくすごくほっとした。
ぼくは朝ごはんを食べて学校のしたくをしながら、よく考えたら夢だってすぐ分かるのに、何で分からなかったんだろう、と思った。
「行ってきまーす!」
お母さんにあいさつをして、ドアを開けたら、げんかんの前に何か落ちている。なんだろう、と思って見てみたら、ぼくは大声でさけんでしまった。
だってそこにあったのは、
まんまるで、みどりいろの、ネイティオの、頭。
それが、「たび」からもどってきたお姉ちゃんのネイティだったって分かったのは、家のふとんで目を覚ましてからだった。げんかんを出たところでぼくは気絶してしまったので、お母さんもお姉ちゃんもすごくびっくりした、とお母さんに言われた。
理由を聞かれて本当のことを答えたら、絶対からかわれるから、死んでも言わないけど、その後ぼくはしばらく、鳥ポケモンを見るたびに、ちょっとドキッとしてしまった。
今のぼくは、今すぐモクローがぼくの所に来ないことを、少しだけ良かったと思っている。
「ねぇ、テッカニンとヌケニンだったら、神崎くんはどっちがいい?」
カナカナカナ、という声が、湿った風を通す窓から聞こえてくる。
ホウエン地方はテッカニンが多く生息することで有名だが、彼らの鳴き方は何種かに分かれている。
焦げついた声を持つ者もいれば喧しく歌い上げる者もいるし、奇妙な呪文のように鳴く者もいる。中にはそれが人ならばそら恐ろしい言葉と思えるような、そんな声を響かせる者もいる。
しかし、カナカナというこの鳴き方は、彼らの中でも一層特別なものに思えてならない。美しくて寂しくて、儚くて愛おしい。朝と夕刻だけに聞くことの叶うこの声は、夏の暑さを乱す涼風のように、一抹の涼やかさと共に何とも言えぬ侘しさを与える力があった。
この声の在り方を、テッカニンの生き様と重ねたのは何処ぞの文学作家だったか。
切なくて、刹那。夏の終わりと共に死んでしまう彼らの泡沫的な命と、この儚い声は確かに似通っているようにも感じられた。あっという間に消えてしまう、夏の空に溶けてしまうような呆気無さがありながらも、裏を返せばそれは、限られているからこその美しさと呼ぶことも出来る。寂寥と陶酔を同時に覚える歌声は、夏であることを伝えながらも夏の終わりをじわりじわりと引き連れてくるかのようだと言われた。
「今日ねぇ、古典の時間に聞いたんだ。昔の人はね、テッカニンとヌケニンのどっちの生き方がいいか考えてたんだって。短く楽しく派手に生きるか、それとも抜け殻みたいにじっとしながら静かに密かにぼんやり生きるか」
文字通り耳許で囁かれる彼女の声が、テッカニンの声と重なっている。それは鈴を転がすような密やかさで、こそばゆい吐息と共に僕の耳朶と鼓膜を撫でるが如くに震わせた。
彼女が着ている、ブラウスの第二ボタンをそっと外す。影になった襟元から覗くのは、互いに隣り合って微かに揺れる柔い二つの塊。
「私は、すぐ死ぬのはヤだけど、でも抜け殻みたいなのも嫌だなぁって」
「決められてないじゃん。どっちでもないじゃん、それ」
「そうだけど。……ね、神崎くんは? どう思う?」
湿気と、蒸し暑さで濡れた唇がその言葉の形に動く。僕の頬をつうと滑った彼女の掌は、しっとりと汗ばみ気持ち良い。
「そうだなぁ」カナカナカナ、の声を聞きつつ僕は考える。ツチニンの進化系として知られる対極の二匹、テッカニンの真反対と言われるヌケニンはなるほど儚い声を響かせることもかなわない。「確かに、出来る限り楽しく生きたいところもあるしそれなりに長生きしたいところもあるけれど」
「だけど」
「だけど?」
だけど、それは今、重要な話であるとは思えない。
とりあえずさ、と、僕は彼女の黒髪をそっと指に絡ませる。
「今は、そういう、別なこと考えんのやめて」
――たかだか蝉ごときに、『この時間』を邪魔されちゃたまらない。
若干拗ねた風な僕の言葉に、暑さと微熱に頬を赤く染めた赤く彼女は「えへ」と悪戯っ子のように笑う。二つ外されたボタンの間から覗く、シンプルなデザインの白い肌着。夏服のブラウスと同じ色をしたそれは眩しくて、薄暗い室内でも尚明るかった。
「もちろん、そのつもりだもん」
「つもり、って」
「そういう別なこと。考えられないくらい、そういうふうにしてくれちゃうんでしょ?」
僕の首の後ろに腕を回した彼女が、指の腹で皮膚を押す。汗と汗がくっついて、ぺた、ぺた、とそのたびに体温が0コンマ1度ずつ、上がっていくような気がした。
一つずつ、ブラウスのボタンを外していく。最後に外した、下着のホックが取れると汗ばんだ乳房がふる、と揺れた。「あは」と軽く笑って僕の唇を啄んだ彼女の声も、間近で見た黒の瞳に思わず鳴った僕の喉も、荒くなっていく呼吸の音も全部全部、カナカナカナ、というそれに上書きされて消えていった。
カナカナカナ。カナカナカナ。綺麗で涼やかだと思えるそれは、西日の差し込む視聴覚室ではやけに煩い存在であった。
晩夏
彼女、黒沼百合亜のことを話すには、まずは僕のことから語らねばなるまい。
僕こと神崎青葉は少なくとも客観的に見て、優等生と呼ばれる部類に入るだろう。
成績優秀、品行方正。眉目秀麗などと自称するほどに自信家ではないが、差し当たって校則違反、常識はずれになるような外見もしていない。学級委員長を務めており友人の幅は学年性別を問わず広く、教員達からの信頼も厚い。
これが大体、僕が通うこの、カナズミに位置する一私立高校に出回っている僕という人間のデータとなる。
そんな神崎青葉は実際、中学二年生の初夏まではまさしくその通りの人間だった。
そこに、もう一つ、別な側面を付け加えたのは当時中学三年生であった一つ上の先輩だった。
先輩は僕と同じ放送委員会に入っていた。将来の夢はキー局の女子アナというだけあって、十五とは思えぬ大人びた美人だった。
僕の『初体験』は彼女の手ほどきによるものであった。
その時の衝撃と言ったら、初めてポケモンバトルをした時のそれを遥かに上回るほどだった。古びた機材が積まれた狭苦しい放送室、小さな窓から差し込む西陽。愉悦と興奮の入り混じった、先輩の獣じみた顔。女子の、というか他人の体臭をあれほど間近に嗅いだのは今思えばあれが初だった。
――「大丈夫、どうせ誰も気づかないから」
一連のことが終わって、軽く目を回して放心していた僕に先輩は言った。
――「私も神崎も、"そういうキャラ"だとは誰も思ってないからね。誰も疑わないし、みんな何を言っても信じてくれるから」
先輩の細い手が、僕の代わりにベルトを締めてくれる。僕の身体のあちこちを愛撫していた時同様、ひどく慣れた手つきだった。
――「イリュージョン、だよ。ゾロアークみたいにね。普段は別人になりすましてれば、こんなことしても」
秘密のままで、いれるから。
その言葉を最後に、先輩の表情からは妖艶さや獰猛さというものが一切合切消え去った。
じゃあ行こっか、もう歩けるよね、と微笑んだ彼女はいつも通りの、数時間前までの僕が知っていた、『優等生』の先輩だった。
僕が先輩の言うところの『イリュージョン』を使うようになったのは、それ以来のことである。
先輩が話した通り、なるほど僕の優等生ぶりは実に多くの人の目を欺いたものだった。校内で事に及んでも教師の誰も気づくことなく、むしろ準備室や特別教室の鍵を僕が借りることに何の違和感も抱かず、快く承諾してくれるほどである。
欺けるのは教師だけじゃない、生徒の皆も同じだ。先輩のように、ハナから遊びの一環でしかない子がほとんどではあるものの、中には僕が一途に自分を求めているなどと錯覚している人もいる。「こんなことするのお前だけだし」「他のヤツなんて見るわけないじゃん」という二つの文句を並べ立てればすぐに騙されるし、「二人だけの秘密にしようね」とでも言っておけば僕のことが明るみに出る不安も無い。特定の相手がいる女子だって、彼氏の方もまさかよりにもよってこの、『優等生』たる僕が手を出すなどとは思ってもみないのでさしたる不安も無く遊ぶことが出来る。
そういうわけで、僕はあの放送室で過ごした時間を境にして、優等生と下衆の二面性を持ち合わせるようになっていた。
「早く涼しくならないかなぁ」
沈んだ陽は西の空に落ち、視聴覚室は先程よりもさらに薄暗い。夏日は長いと言っても、電気を消した室内に届く光などたかが知れていた。
「まだ始まったばかりじゃん、夏。7月入ったばっかだよ」
答えた僕に、彼女、黒沼百合亜は「そうだけど」と口を尖らせる。
とりあえずスラックスと靴下、上履きだけは履いている僕とは対照的に、全ての衣服を取っ払った彼女は、透き通るように白い肌を惜しげも無く晒している。やや不健康なほどに白く痩せた肢体に平素色気は無く、こうして見ている分には劣情も沸き起こりそうにない。細くて長い手脚と折れてしまいそうな腰は、ミナモに飾られる美術品の、裸婦像のような印象を与える。
「靴下履いてると暑いんだもん」
「脱いでんじゃん」
「履いたままする方が好きなの」
「何それ?」
「へへへ」
答えにもなってない笑い声を零し、黒沼百合亜は露わになった指先で床を蹴った。脱ぎ散らかされた濃紺の靴下と、転がされた二つの上履き。幼児みたいに跳ねるこの子が、ひとたび事となれば娼婦の如く豹変するなど誰が信じるだろう。
「アン、ドゥ、トロワ」
鈴の音に似た声で口ずさみ、黒沼百合亜は軽やかにステップを踏む。
汚れた床を素足でぺたりぺたりと蹴って、くるくると回ってみせる彼女のシルエットはステージに舞う踊り子のようだった。実際、バレエをやっているだかいただかという話を以前に聞いたことがある。一糸も纏わず、身体の線だけを浮かび上がらせて薄闇を踊る黒沼百合亜からは情事に見る背徳的な色香は消え失せ、ただただ不可思議めいた綺麗さがあるだけだった。
浮き出た肩甲骨に黒髪を引っ掛け、片脚を上げて回転した黒沼は「ねぇ」と回り際に僕を見る。
「神崎くんも一緒に踊ろ」
「何それ。二回目やろうって?」
「んー、そうしたい気はするけど」
神崎くん好きだし。
小さな口で息をするよりも自然に、黒沼百合亜はそんなことを言う。
「多分、この後別の子来るし」
「そ。じゃ、僕は早めに出てった方がいいね」
僕の方も至極自然に、そんな返事をして立ち上がる。夕刻の涼しさのおかげで大分汗は引いていて、シャツを羽織っても不快感はほとんど無かった。
床に放り出した鞄を拾って扉の鍵を開ける。「んじゃ、ね」と軽く片手を振った僕は「一応服着とけば」と付け加える。黒沼百合亜は曖昧に笑った後、ステップをゆっくりなぞる裸体をぺたりと壁にくっつけた。
「また遊ぼうねぇ。神崎くん」
二面性。
あどけない少女としか思えないこの乙女が、幾人もを惑わす女だということに誰だって気づかない。
こちらこそ、と頷いた僕が扉を閉めたところでふと思う。カナカナカナという鳴き声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
「青葉くん」
そのまま廊下を幾らか歩いたところで声をかけられた。
「ちーっす」とおどけるように走り寄ってきたのは、同じクラスの女子の一人だった。テニス部の準エースだという彼女は快活で友達が多く、クラスでも中心的な存在である。
そして同時に、僕の遊び相手の一人でもあった。
「どうした?」
尋ねる僕に、彼女は声をひそめて「あのさ」と言った。耳にかかる囁き声。健康的な肢体に目立つ、おそらくテニスじゃ邪魔になるだろう豊かな胸部の弾力を肩に感じる。明るさの象徴のような表情が陰になり、妖しい風香となって色欲を掻き立てられた。
「今からどうかな、帰る前にさ」
誘い文句を意味する言葉。頭の中で瞬時に情報整理をすることも、もはや慣れきったことである。今使えそうな教室、自身の体力、ゴムの残機と完全下校時刻。諸々の条件を脳裏に浮かべてコンマ数秒、是の答えが下される。
「そういうことなら、喜んで」
「やった、探して正解だったよ」
そして僕は彼女と共に、何食わぬ顔をして廊下を進む。「今なら更衣室、使えるから」とプリーツスカートのポケットから鍵束を覗かせる彼女に視線だけで答えたところで教師の一人とすれ違ったが、少しだって気づきそうに無い。笑顔で挨拶する僕たちに、中年男性の社会科教師はにこやかに返事をした。
夏とはいえ、夕方の風通しの良い廊下は少し寒いくらいに思える。半袖のカッターシャツから出る二の腕が粟立った。それに気づいた彼女が、僅かに上気した自分の片腕をぶつけるみたいにして押し当ててきた。
『優等生』の皮を被って人を欺き、刹那の快楽に身を任す。
いつ死に時が来るかはわからないけれど、こんな僕はどちらかと言えばテッカニンのようだ。
などということを柄にもなく考えた僕の頭では、カナカナカナという彼らの声に重なって、黒沼百合亜のステップが聞こえた。
○
「ただいま」
「おかえりー」
バレー部女子と別れ、家に帰る頃には完全に日が暮れていた。
「遅かったなー、やっぱ学級委員って忙しいカンジ?」
手を洗い喉をすすぎ、リビングに入った僕を出迎えた弟、雄馬はソファに寝転がったまま顔だけをこちらに向けてそう言った。二年年前からトレーナー修行の旅に出ている彼だが、三週ほど前に我が家へ戻ってきている。一ヶ月ほど滞在するという彼は鍛えた腕を活かし、地元のトレーナースクールを手伝うなどしていた。
「まあね」僕は適当な返事をする。ふと、雄馬の見ているテレビの画面が目に入った。ポケモン関連の情報番組、家にいる時くらいそこから離れれば良いと僕は思うのだけど、我が弟ながらつくづく真面目な奴である。
「何見てんの?」
「ん? あー、バトルで相手を出し抜けるポケモン特集。こういうポケモンって、トレーナーが弱いうちは扱いにくいからまだ持ってないんだけど、俺もそろそろいけっかなあって」
いっぱしのトレーナー然としたことを抜かして雄馬は画面を見つめている。
映っているのは、剣のような姿をしたポケモンだった。「こいつ超強いんだ。ギルガルドってんだけど」雄馬が言い終わらないうちに、画面の中のそのポケモンは姿を変える。盾のような形はついさっきまでの、剣に似たそれとは違っていた。
「フォルムチェンジだよ、兄ちゃん」
僕の心を読んだように雄馬が説明してくれる。
「状況に合わせて、能力を使い分けられんだ。攻撃する時はアタッカーになれるけど、受身の時は防御力が上がるわけ」
「ふぅん」
「同じポケモンでも、二つの面を持ってるってこと」
まあ使い分けを上手く出来なけりゃ意味無いから、上級者向きなんだけどさー。などとトレーナーにしかわからないことを言う弟の言葉はを半ば聞き流し、僕は内心笑ってしまう。
状況に合わせて、二つの面を使い分ける。まるで僕や黒沼百合亜のようだと思った。普段は色の欠片も知らぬ風な顔をして、その本性は果たして何であるか。
「やっぱ強いよなぁー。ヒトツキ捕まえに行くかな」
バトルのVTRに切り替わった画面を見て、雄馬は言う。想像の中の黒沼百合亜は、校則通りの制服に身を包んでニッと笑った。
○
「神崎くんってさぁ、色んな子とこゆことしてるよね」
初めて黒沼百合亜に話しかけられたのは、去年の冬だった。
膝丈のスカートと、切り揃えられた黒髪。いかにも清楚な優等生といった彼女が僕の本性を見破っていることを知り、僕がどれだけ慌てたかはわからない。
しかし僕の焦燥に反し、彼女は怒ることも咎めることも嫌悪を示すこともなく、ただ嬉しそうな笑みを浮かべただけだった。普段の、箱入りの小さなお姫様の如き幼気な可愛さが掻き消え、入れ替わるようにして溢れ出すむせ返りそうな色気に息が詰まりそうだった。
「私もおんなじなんだよ」
黒沼百合亜の上履きが、一歩僕に近づいた。
ブレザーのボタンをとん、とつついた彼女の爪は丸かった。
「一人じゃ足りないから色んな子に愛してもらってるの」
ぷるりとした桃色の唇がそっと耳朶を噛んだ瞬間、僕は自分の心臓がそこに飲み込まれたのだと思った。
「だからぁ……神崎くんも、私のこと愛してくれないかな?」
「神崎くん、何ぼけっとしてんの?」
これ以上無いほど湿気の溜まった、不快極まりない視聴覚室に黒沼百合亜の声が響く。
例によって彼女は衣服を全部取っ払っており、羞恥の少しもせずに痩体を涼ませている。事が終わった後、こうするようになったのは何月頃からだっただろうか。カナカナカナ、というテッカニンの声にふと思う。少なくともこいつらの鳴き始めた頃にはもう、裸体を晒すようになっていた記憶がある。
「最初にやった時のこと思い出してた」
正直な僕の答えに彼女は全く興味を持たなかったらしい。「ふーん」とどうでも良さそうな返事をして、片足を膝にくっつけてくるくると回ったりなどしている。「これがピルエット、こうするのがピケ・ターン」とバレエの動作の一つ一つを黒沼百合亜は気まぐれに、こうして僕に教えてくれるのだけれどもあまり覚えられたためしはなかった。
彼女の踊り子ぶりはいつまでも見ていたかったが、そうもいかないので僕は目を離して立ち上がる。使ったゴムはまさか学校で捨てるわけにもいかないので、ビニールに入れて駅かコンビニかのどこぞで捨ててしまうことにしている。初めの方は黒沼百合亜に「潔癖ぃ」とか何とか言われていた行為だが、今はもう突っ込まれない。
「神崎くんってさぁ」
回転しながら僕の手元を見る彼女が言う。
「几帳面だよね」
「どこが」
「そういうとこ。他の子たち、みんなつけないもん」
彼女の言葉に僕は閉口する。別にこうしているのは相手の身体のためというよりも、僕の自衛のための方が大きいのだが。他の子、つまり黒沼百合亜を抱いている他の奴らというのは随分と、後先を考えない人間らしい。
「まずくないの?」流石に尋ねた僕に、黒沼百合亜は「平気だよぉ」とけらけら笑った。「だって出来ないもん、みんなとじゃ」浮き彫りになった鎖骨が、彼女が喋るのに合わせて上下した。その自信がどこから来るのかは謎だが、僕が言及することでもない。互いの『遊び相手』には決して踏み込まないのが、僕たちの中では暗黙の了解だった。
「六時半か……どうする黒沼、お前先に帰れば? ここの鍵は僕が返すから」
黒沼百合亜と僕は、決して一緒に帰らない。
彼女がどこに住んでいるのかも僕は知らないし、彼女の方もまた、僕の家に興味も示さなかった。
彼女は「んー」と少し考えるように間を置いた。形の良い瞳が、だらけた格好のままの僕を映す。
「神崎くん」
「なに」
「もっかいしよ」
童子のような声で囁かれたその誘いに乗らない理由は特に無い。
白い裸身をぐいと抱き寄せる。窓の外の空は未だ薄明るく、学校が閉まる時刻まではまだまだ時間があった。
○
「……あお、具合でも悪いの?」
雨音の響く体育館倉庫。軽い口づけを交わした後、僕の両腕に収まっていた彼女は怪訝さと不機嫌さの入り混じったような顔をした。
「いつもと違う」唇を尖らす彼女は、ダンス部に所属するコケティッシュな女子である。僕の肩ほどもない背丈にそぐわぬ豊かな肉付きと、マリルリに似た可愛らしい顔立ちは不思議と溶け合いさらなる魅力となった。やや我儘なところもあるがそれも愛嬌のうち、誰にでも愛される性格は一緒に過ごしていて楽しいものである。
僕がこんな人間でなければ真面目に交際を申し込んでいたかもしれない。
そんなことを、僕が真面目に自分だけを愛しているのだと信じきっている彼女の丸い目を見てふと考える。
「違うって」
「なんか、元気無くない?」
「そうかな」
そうだよ、と彼女はぷうとむくれてみせた。
「せっかく、私と…………、なのに」
ごにょごにょと言葉を濁らせた彼女に「ん?」と問いかけると、「やめてよ」と顔を赤くして怒った風な口を聞く。「聞こえなかったし」「言わせなくてもいいじゃん」「聞きたいなぁ」馬鹿みたいな会話を交わして、膨れた頬をつんとつつく。
「かわいいからさぁ」
ついイジメたくなっちゃって。
そんなことを言いつつ微笑めば、僕への疑いは彼女の中から完全に消える。「もう!」とぷりぷりする彼女の鼻に自分の鼻を押しつけて、僕たちは同時に密やかな笑い声を立てた。
「夏休み、どっか遊びに行こうよ」至近距離でされた提案に曖昧な息遣いを返し、再び唇を唇に押し当てる。僅かな声と息が彼女の咽喉から漏れるのを僕は確かに聞いていた。
屋根を雨粒が打つ音がする。
この悪天候じゃ、当然テッカニンも鳴きやしない。にも関わらず僕の耳の奥で響いているのは視聴覚室で聞くあの儚い声と、鼓膜をくすぐる黒沼百合亜の言葉だった。
『アン、ドゥ、トロワ』
カイスのような胸元に手を這わせても、ミミロップよりも張りのある腰に指を滑らせても、脳裏に繰り返し浮かぶのは白く痩せ細った黒沼百合亜の裸体であった。
○
そもそも、黒沼百合亜の幻想を、必要も無く見てしまうようになったのはいつからだろうか。
けっきょく雨は昨日のうちに降り止まず、翌日まで持ち越されることとなった。いつにも増して充満する湿り気の臭いが、教室に染み渡る汗臭さと黴臭さをさらに増しているように思う。決して新しくはないこの学校で過ごす者の不快指数は順調に右肩上がりを続けており、楽しくやっているのは校庭で合唱を繰り広げているルンパッパくらいのものだろう。
現国教師が、教科書に載っている物語を読み上げていく。見事なまでの棒読みで、授業を受ける皆の不快指数はますます上昇を極めるしかない。
雨垂れの音と教師の声を上塗りするのは、やはり今は聞こえるはずもないテッカニンの鳴き声と、黒沼百合亜の囁きだった。
アン、ドゥ、トロワ。半分が声、半分が呼吸のようなその言葉は、何千何万回も僕の脳裏を行ったり来たりしている。滑るように白い痩躯がくるりくるりと舞っては回り回っては舞い、僕の視線を翻弄した。色気も何も無い、骨董品のような彼女の身体はしかし確かな女の形をしていて、僕を誘うように踊るのだ。
カナカナという声に合わせているような、そのくせ頓珍漢にずれまくっているようなステップが、頭部の真ん中にこびりついて離れない。
回転と同時にちらり、こちらを向く流し目が夕焼けを借りて紅く輝くのが、何度も心臓を掴むみたいだった。
不意に、隣の席から汗にしっとりとした手が伸びてきて、折りたたんだ紙を僕の机にそっと置いていった。
横目で見たその主、長髪をツーサイドアップにセットした女子生徒の眼が光る。それで書いてある内容の大体は察しがついた。気怠そうに頬杖をついた彼女の、汗を伝う首筋が呼吸に合わせて上下する様子が何か恐ろしい怪物のように思えた。
開いた紙に書かれているのは予想通り、今日の放課後の誘い文句だった。校則違反も何のその、堂々と化粧を施した彼女の唇が教師の目を盗んで動く。よ、ろ、し、く、ね。その動きから読み取った言葉によると、どうやら僕に拒否権はないようだった。
頭の中で、黒沼百合亜の裸体が回転する。
以前の僕であったら、先約か用事が無い限り迷わず頷いていたのに奇妙なものだ。了承を示す微笑みを返すと、彼女は紅に染まった口許で弧を描く。
今頃、黒沼百合亜は何の授業をしているのだろうか。そんな気色の悪いことを考えたところでにわかに勢いを増した雨音が、教師の大根役者な音読を打ち消していった。
○
「テッカニンうるさくない?」
時計の針が四時四十五分を指す理科準備室。そこに響くのが鬱々とした雨音だということを思い出したのは、口からそんな言葉を吐いた直後だった。
「何言ってんの青葉?」棚にもたれた僕へとさらにもたれかかり、現国の時間に紙を回してきた彼女は切り揃えた前髪の下で眉根を寄せた。「鳴いてるワケないじゃん」何重にも短くされたスカートから、むっちりとした太腿を雑に晒して彼女が呆れたみたいな声を出す。「雨なんだからさぁ」
「青葉、最近ねぼけてんの? やってる間もなんか返事遅いっていうかずれてるっていうか、発情期のケッキングだってもうちょっとハッキリしてんでしょっていう」
「別に何も無いよ」
「私も人のこと言えないし、青葉が誰と何しよーが好きにしていいけどさぁ。……私としてんのに、その時に他のヤツのこと考えるのは流石に失礼でしょ」
図星を指すその言葉に驚きざるを得ない。「そんなんじゃないって」と何の説得力もない返事をしたものの、内心に思い浮かぶのは黒沼百合亜の踊る姿だけであった。
「まぁ、いいけどさぁ」ただでさえ湿気ているのにべたべたと引っ付き、肉のついた二の腕を絡ませてくる彼女のことは奔放で好ましい。化粧の濃い顔は可愛いとは言いがたいし、肉がつくべきところにはつかずどちらかといえばつかない方が良いところにばかりついた体つきも、お世辞にも見目麗しいとは言えないものであったが、しかし溢れ出るような自信と常に今を楽しむような姿勢からは言い知れぬ魅力のようなものを感じ取れた。似合わぬ髪型も大きなピンクのリボンも、カビゴンなどと罵られようとも限界まで丈を詰めたスカートも、これ見よがしに鞄につけたイーブイ族のぬいぐるみも、どれもが彼女とミスマッチであるのに不思議と一つの愛嬌となって相手のことを愉しませるのだ。
そんな彼女といる時間は好きであるし、相性も良い方だとお互い感じているものの、最近はとんと別であった。逞しい肩を抱けば薄い肩幅を思い出すし、弾力のある腰を引き寄せれば折れそうな脇腹を思い出すし、耳に砂糖の塊を詰め込むような甘ったるい声を聞けばあの、鈴の鳴るような囁き声を思い出すという始末だった。
雨音が残響になって室内をはね返る。「ねぇ青葉ー」手持ち無沙汰に、垂らした髪をいじっている彼女が羽織ったブラウスが化粧品の匂いを撒いた。開きっぱなしの前からは、僅かばかりに膨らんだ胸元と段を作った腹が覗く。
「今からどっか行かない? 駅前にさ、新しくさー……」
「ごめん、この後用事あるから」
正確に言うのなら、今思いついた用事だった。
「そうなの?」ややつまらなそうな顔をしつつも彼女は了承してくれる。ブラウスの襟を両手で弄びながら、実験器具の並ぶ棚に寄りかかる彼女に「鍵」チャラリと音を立てる鍵束を手渡した。
「僕に頼まれたって返しといて」
「わかったぁ。……ねー青葉、夏休みヒマ? どっか遊びに行こ、カイナとか」
「ん」
誰にしているのにも似た曖昧な返事。彼女のような、ハナから遊びのつもりである者なら別段構わないのだが、中には僕と秘密裏に交際していると思い込んでいる子もいるから迂闊な行動はしたくないのだ。「じゃあ」挨拶もそこそこに荷物をまとめて準備室を出る僕を、彼女はツーサイドアップを揺らして不機嫌そうに見送っていた。
「黒沼、いるか?」
向かった先は言うまでもなく、放課後の視聴覚室だった。
鍵は開いていた。雨音と水気に満ちたその空間で、黒沼百合亜の裸体が扉の向こうに描き出された。
「神崎くん」
くる、と爪先立ちで一回転して彼女は笑う。花の咲くような、それでいて花弁を一枚残さず毟り取ってしまうような笑みだと思った。
「そろそろ来るころだと思った」
後ろ手で鍵を閉めて彼女の元に歩み寄る。腕を伸ばして掴んだ肩は薄く冷えていて、肩の先まで肌が粟立った。
頭の中でカナカナカナという声がする。幻想だ。アン、ドゥ、トロワと囁く声も。しかし今両手の中に手に入れた、黒沼百合亜の存在だけは本物だった。脳裏の幻を現の雨は流してくれなかったけれど、そのどちらも本物になればいい。
合わせた舌と舌、黒沼百合亜の身体の中は炎天の灼熱よりも烈々たるものだった。
○
「兄ちゃん!」
黒沼百合亜と別れ、傘を片手に学校を後にしていると後ろから声をかけられた。
「雄馬」ビニール傘を右手に、コンビニ袋を左手に持って駆け寄ってくる弟に返事をする。ぴしゃぴしゃと水音を立てながら走る彼の後に続き、意外とそこまで遅くもない速度でこちらに向かってくるのは弟のポケモンであるヌオーだった。薄暗い、夏夜の雨空の中で、粘膜に覆われたその肌はてらてらと光り得体の知れぬ君悪さがある。ぼんやりとした丸顔が近づくにつれ、蒸せるほどの水臭さが増していくような気がした。
「コンビニ行ってきた。コイツの散歩兼ねて、雨だとすぐ出たがるからさ」
困ったように笑う雄馬の横で、ヌオーは太い前足を無意味にぐるぐる回している。濡れたそこから水滴が飛び、地面の水溜りに落ちて輪を作った。常時呆けた顔からはわからないが、どうやら喜びを表現しているらしい。
「帰ろうぜ兄ちゃん」強まったように思える雨足から守るように、雄馬は袋を胸に抱き寄せて再び歩き出す。隣を歩く弟に「何買ったの」と尋ねてみると、「トレーナー向けの情報誌」という答えが返ってきた。「人とポケモンが合体して戦うってのがイッシュで話題らしいから」おおよそ僕には理解も出来なそうな説明に、半ば聞き流して適当な相槌を打った。
「あ、見て、兄ちゃん」
その説明を中断し、弟は歩を止める。
彼の視線の先、陰気臭い雨粒を照らし出す街灯の一つに目を向けると、電灯付近に浮かび上がった影があった。
「ヌケニンだ! なんか久々に見たなぁ、他の地方だとあんまいないんだよ」
「まぁ、こっちはテッカニンが山ほどいるからね」
「ジョウトとかだとレアなんだよな。捕まえようかな〜でも野生の捕まえるの難しいよなぁ」
雄馬は独り言のように迷っている。
微かな明滅を繰り返す光の下に浮遊するヌケニンは、降りしきる雨にも動じずそこに留まっていた。弱い風に合わせて僅かに身体が上下してはいるものの、ヌケニン自身の意思で動いたり行動を起こしたりということは全く見られない。
いや、違う。
意思どころか、何かの意志もそこには感じられなかった。
「なぁ雄馬」
「どうした兄ちゃん」
「アイツって、何か考えてんの?」
僕の問いに、弟は「どうだろ」と煮え切らない顔をした。
「一応、指示出せば動くしポロックとかは食べるけど。タイプによるけど技だって受けるし戦闘不能にだってなるし」
「ふぅん」
「でも、……ちゃんと何か思って、自分で考えたりしてるのかって言ったらわかんない。生きてるかどうかも、普通のゴーストタイプ以上にわからないし」
抜け殻だから。
『テッカニンとヌケニンだったら、どっちがいい?」
弟の言葉に重なるようにして、黒沼百合亜が耳奥で囁く。
街灯の下のヌケニンは、ただただ虚ろな目をしてそこにいた。黒々としたそこは視覚器官でも意思を宿す部位でもなく、身体に空いただけの穴に見えた。その奥には何も無い、本当に抜け殻そのものとしか思えない。ひっきりなしに降る雨すら映さずそこに停滞する空洞は、深く暗い無と見えた。
テッカニンの生き様が良いとは言いがたいが、この抜け殻よりは幾分マシであるように思う。
「ま、捕まえるのは今度でいいや」雄馬が足元の水を跳ねさせつつ、街灯の前から歩き出す。その横を歩きながらもう一度振り返ると、寸分違わぬ位置のままヌケニンが相変わらず浮いていた。
ヌオーの両足がアスファルトを踏むたびに水の跳ねる音がする。ぴちゃりぴちゃりと鼓膜の奥底まで濡らすようなその音を浴びて、テッカニンの声に包まれた黒沼百合亜は雨粒よりも軽く、純白の羽を持つチルタリスよりも軽やかそうに舞っていた。
○
いよいよ限界が近いのではないか、と思ったのは薄暗い、プール脇の更衣室でのことだった。
ぼくの腕の中で断続的に身体を震わせているのは何人目かの遊び相手、昨年度同じクラスであった女子生徒である。
水泳部に所属している彼女の肌は七月を半ばにした今すでに黒く焼けていて、筋肉に引き締められた肢体は健康的な色をしていた。黴っぽい壁に両手をつけて喘ぐ、彼女のうなじにショートカットの襟足がかかって揺れている。掴んだ腰を引き寄せるようにして体内を強く突き上げれば、汗を伝せる細い喉から湿った空気を裂くような声が漏れた。
僕たちが付き合ってるの秘密にしよう、などとうそぶいたら、彼女は顔を真っ赤にして口許を緩ませた。それが今年の初め、温暖なホウエンでもまだまだ寒さが深かったあの日以来、彼女はずっと僕だけを愛しているようだった。
「あ、っ……あおば、くん…………?」
甘い嬌声、濡れた瞳。薄闇の中でもわかるほど、上昇する体温に赤くなった肌。
普段ならば醜い、優等生の皮の下に隠したどうしようもない劣情を掻き立てる以外の何でもないそれらはしかし、黒沼百合亜の幻想に残らず上塗りされていくようだった。網膜が見たいと叫ぶのは黒沼百合亜の華奢な体躯、鼓膜が聞きたいと喚くのは黒沼百合亜の囁き声、手が足が我が身の全てが触れたいと主張するのは低体温の白肌なのだ。そしてその欲求に応えるようにして、頭の中では黒沼百合亜が幻を舞う。
たとえこの、ポニータのような美脚を持つ女子生徒に愛されていたとしても、僕はきっと少しも満たされないのだとその時確信した。
彼女に限った話ではない。誰だろうと同じなのだ。たとえ何人の相手に僕が愛されたところで僕はもう、満足であると言い切ることが出来なくなっていた。
ただ一人、黒沼百合亜を除いては。
アン、ドゥ、トロワ。
カナカナカナという声が頭の中を埋め尽くす。
ここに来る前立ち寄った、鍵のかかった視聴覚室を思い出す。
今頃、黒沼百合亜は誰と何をしているのだろうか。誰とかなど考える意味が無かったし、何をだなんて考える必要も無い。ただ、彼女が今、自分を置いているのであろう状況を思い描くだけで言い様の無いほど鬱屈した苛立ちにも似た感情が、腹の底から臓腑を這い上がってくるのを僕は感じた。
『アン、ドゥ、トロワ』
ステップが耳奥を徒らにくすぐる。
それを掻き消すように僕は、目の前の日に焼けた身体を乱暴に抱き寄せ一層強く腰を打ち付けた。
○
黒沼百合亜の幻想を脳裏に持ったのはいつからだろうか。
それを思い出そうにも上手くいかず、記憶の糸を辿った先ではいつだって黒沼百合亜があどけない笑みを浮かべて糸をつまんでこちらを見ており、絡めたそれを放り出して僕の眼を見て首を傾げるのだ。
テッカニンが鳴き始めてからのことのようにも、テッカニンが鳴く前からのことであるようにも思えてならない。ただ、頭に浮かぶのは常に白い痩躯を全て晒して踊る彼女の姿であることに変わりはなく、カナカナカナという声の中を泳ぐように飛ぶように、あるいは駆け抜けるようにして踊っているのだ。
抜けるような白い身体でくるくると舞う黒沼百合亜は、校則通りの制服を脱ぎ捨てて、まさしく生まれたままの姿であるのだと思わせた。
まるでオルゴールの中にいる機巧人形のようなその姿を、ずっと見ていたいという感情は何であろうか。
遊び相手の女子の大半が好む、甘いメロドラマや少女漫画などによく見られる独占欲とはまた毛色の違うものだという確信があった。僕は単に、彼女を独り占めしたいというだけではなかった。そんなに簡単な、単純な、人情じみた話では無いのだ。それは相手を束縛したい、自分に縛りつけたいという感情というよりも、どちらかといえば。
『ヤミカラスは光る物や輝く物を集め、自分の巣に持って帰るという習性を持ち……』
そういった、心の根本に根差した欲望であるように思われた。
久々の帰郷の時ぐらいそこから離れれば良いのに、またもやポケモン番組を見ている雄馬と並んでテレビの画面をぼんやり見つめる。
愛してくれればいいの、と黒沼百合亜は言った。みんな私のこと愛してくれるから、と黒沼百合亜は微笑んだ。僕としてもそれで十分だったはずだ、遊び相手になってくれればそれでよし、好きだの愛してるだの睦言を囁いてくれれば尚のこと。僕が望むことは、黒沼百合亜と同じだったはずなのだ。
それが変わったのは何故なのか。黒沼百合亜の、夕陽に染まった紅の瞳が光る。
僕以外に愛されて欲しくない。
僕以外を愛して欲しくない。
おおよそ彼女の意向とはそぐわぬその欲望は、校庭に住み着くテッカニンの数と比例するように膨張を続けていた。
テレビのスピーカーから漏れる音を上滑りさせた鼓膜の奥では、相も変わらず視聴覚室の、重なっては解ける二種の声が響いていた。
○
その渇きが頂点に達したのは、夏休みの始まりを三日後に控えた放課後だった。
「ごめん」
時計の針が五時四十五分を指した音楽準備室。
それまで肩を抱いていた両腕をだらしなく下ろし、唐突にそんなことを言った僕を、その子はきょとんとした顔で見つめた。
「え…………?」
何言ってるの青葉くん、と僕の名を呼んだ彼女は、僕を一途に好いている隣のクラスの女子生徒だった。君だけを愛してるなどという僕の拙い甘言を易々と信じた彼女は、僕のその一言が信じられないとでも言うように、開かれたブラウスの前を閉じることすら忘れて引きつった笑いを浮かべる。薄桃色の肌着が、セミロングの髪とブラウスによって見え隠れする。
「ごめんって、……え? 嘘でしょ、青葉くん、」
「嘘じゃない。もう、君とこういうことは出来ないし、君のことを愛せない」
罪悪感も背徳感も、僅かにだって湧かなかった。
顔色を失って立ち尽くす彼女に僕はそれきり何も言わず、背を向けると同時に走り出す。音楽準備室を飛び出した僕の頭には、後から彼女に何と弁明するのかとかどう落とし前をつけるのかとか、一切を教師に言いつけられたらどうなるのかとか、諸々を考える余裕など残されていなかった。カナカナカナと鳴き喚く、テッカニンの声が響く廊下をひたすらに駆け抜ける。向かう先は視聴覚室、黒沼百合亜の居るはずの場所だ。
「黒沼ッ……!」
「っは、……あ、んっ…………あれっ、かん、……ざき、くんっ…………?」
疾走の勢いのまま、開けた先の光景に僕は絶句する。
予想していた光景だった。というより、わかりきっていた、ある意味では彼女から直接報らされていたことだった。示し合わせていない時間は『別の子』に『愛してもらう』のだと、いつだって彼女は言っていたのだから。
「あっ……!? 神崎!?」
「何でお前ここにいんの!?」
汗だくでこちらを向いた、黒沼百合亜の裸体に群がっていた男子生徒たちが驚いたように僕を見る。
入り混じる体液の臭い。床に脱ぎ散らからせた夏服。絡み合う熱気と湿気。痩せ細った体躯を貪っていたのは同じ学年の男五人、多分に黒沼百合亜の『愛してくれるひとたち』。
生々しくて、下品で、卑しさを極めた光景だった。
カナカナカナという繊細な声がそこを上塗りして、その下劣さはより一層際立った。
「神崎くん?」
彼女以外を愛することが出来なくなった。
彼女が僕以外を受け入れるのも許せなくなった。
積もり積もった感情が、心の内で叫び声をあげる。
もう、限界だ。
「そいつから離れろッ!!」
叫んだ僕に、男子生徒たちは一様に目を見開いた。黒沼百合亜でさえ、驚いた風に瞬きを繰り返した。
しかし皆の驚愕に付き合ってはいられなかった。胃の中のものがせり上がってくる吐き気も、頭に血の全てが昇りそうな怒りも、心臓を握り潰されそうな切迫も、爪先から脳天を駆け巡る興奮も、僕の外側にあるようだった。
ただ、ただ、感じていたのは限界だけだった。
「出ていけ」
僕の本性など、彼らが知る由もない。
『先生方からの人徳もある優等生』に命令され、彼らは口惜しさと腹立たしさと苦々しさ、そして怯えの入り混じった顔になる。「行くぞ」「……クソッ」「急げ」などと口々に言いながら、彼らは乱れた制服を直すのもそこそこに、慌ただしい足取りで教室の扉を越えていく。
「おい、神崎」最後に残った、最も体格が良く最も厳つい印象を与える男子生徒が退室間際に僕の肩を叩いた。
「チクんじゃねぇぞ」
誰が言うものか。そもそも言える立場じゃない。
そんな馬鹿正直な返事をするはずもなく、僕はただ「今はそれどころじゃない」とだけ答える。それは僕の本心ではあったが、彼はどう受け取ったのか険しい目で僕を睨み、そして乱暴に扉を閉めた。
彼らの出て行った視聴覚室で、黒沼百合亜はぼんやりと突っ立っていた。
いつものように、一糸纏わぬ惜しげもない全裸姿で。「怖かったぁ」体温の上昇のせいか、紅く染まった唇を前に突き出して彼女は言う。
「神崎くんも、あんな風に怒鳴ることあるんだね」
精巧な美術品みたいな裸体。翻る黒髪。
とぼけた顔をして、彼女はふざけてステップを踏む。アン、ドゥ、トロワ。まるで呪文みたいにそう口ずさんで、黒沼百合亜は踊っている。
この舞姫が僕だけのものにならないか、なんて。
思いもしないはずだったのに。
初めから、わかってたことじゃないか。
そもそも僕だって、同じことをしてたじゃないか。
同じ穴のマッスグマ、クズはクズ同士で楽しくやるのだと、全部そういうつもりだったじゃないか。
なのに、どうして。
「どうしたの、神崎くん?」
彼女の白肌を、僕以外の誰かが赤くすることが。
彼女の体内を、僕以外の誰かが埋めることが。
彼女の心音を、僕以外の誰かが速くすることが。
彼女の唇を首を肩を腹を腰を尻を太腿を膝を脹脛を踝を爪先を、その全てを、僕以外の誰かが触れることが。
彼女のことを、僕以外の誰かが愛することが。
「神崎くんも、したいの?」
こんなにも、嫌でたまらないのだろう。
「黒沼百合亜、お願いがある」
そう、口を開いた僕はどんな顔をしていたのだろうか。
少なくとも笑ってはなかったと思うし、外面用の優等生ヅラでも無かっただろう。おそらく無表情、少なくとも向けられて良い気のするものではない。
それなのに黒沼百合亜は、何も気にしていないようにこちらを向いた。ステップを踏む足は止めぬまま、あどけない笑顔で「なぁにぃ」とゆっくり、そう言った。
ころころと耳の中を転がるような彼女の声は、窓の外からカナカナと響いてくるテッカニンの声にともすれば掻き消されてしまいそうだ。美しくも儚いはずのその鳴き声が、今では喧しくてたまらない。ジィジィという声よりもミンミンという声よりも、どんなテッカニンの鳴き声よりも、それは厄介極まりない邪魔な音でしかない。
「黒沼百合亜」
その声を遮るように吐き出した僕だったが、テッカニンたちは気にせず鳴いたままである。
「僕以外と、もう、しないで」
カナカナカナ。
カナカナカナ。
「神崎くん。それは無理だよ」
カナカナカナ。
カナカナカナ。
カナカナカナ。
そこで気づいた。
僕は黒沼百合亜と出会ってから一度だって、この切ない鳴き声のことを、美しいとも儚いとも思ったことなど無かったのだ。
黒沼百合亜との時間において彼らの声はいつだって、喧しくて煩わしくて五月蝿くて厄介なものでしかなかった。
「どうして」
自分でも笑えるくらい、縋るような、必死さの溢れた声が出た。
しかし笑うことは出来なかった。そんな情けない僕に黒沼百合亜は何を感じたのだろう。きっと何も感じてはいないのだろう。片足を曲げて膝につけ、彼女はくるりとターンする。ピルエット、完璧な弧を描いた細腕が、蒸した空気を掻き乱す。
「神崎くんじゃ、私を愛せないよ」
腰から首を捻ってこちらを向いた黒沼百合亜はそんなことを言う。ぱさり、と黒髪が鎖骨を隠して揺れた。
「私を愛するのは、ひとりじゃ足りないもん。いっぱい、たくさんの人に愛してもらわないといけないんだもん。だから、神崎くんだけじゃだめなんだよ。もっともっともっと、たくさん、愛してほしいんだもん」
いつか聞いたみたいなことを黒沼百合亜は繰り返す。「いっぱい、いっぱいだよ」子どもみたいな声と口調と身体つきに、やや膨らむ乳房がアンバランスでやけに艶かしい。「いっぱい、いっぱい、愛してもらわないとだめなの」
「私はいーっぱい、愛してもらわなきゃ」
「愛せる」
僕は即答する。
「お前のことなら、いくらだって愛してやる」握り締めた両手に汗が溜まっていくのがわかる。「愛なんて欲しいだけくれてやる」何もしてないのにも関わらず、カッターシャツの下が熱くなっていくのを感じる。黒沼百合亜はこてん、と首を傾けて、上げていた片脚を床へと下ろして僕の方を見た。
「でも、神崎くんは私以外にも愛してる子、いっぱいいるんでしょ?」
爪先立ちで細かく床を踏んでいる彼女に僕はまたしても即答する。「僕は君しか愛せない」繊細な動きで足踏みをする、この動作のことは何といったのだっけ。彼女の教えてくれたその単語を思い出そうとするも、カナカナという煩い声がそれを邪魔する。
うるさい。カナカナカナ。うるさい、うるさい。
僕のこの時間は、この場所はこの耳は、彼女だけを愛するためにあるというのに。
黒沼百合亜が、足踏みをやめて僕の両眼を直視した。
「ホント?」
アーモンド形をした綺麗な瞳。
「本当だよ」
そこに映った僕が頷いた。
「じゃあ、神崎くんの全部、私にちょうだい」
彼女が言う。もう、僕に深く考える余裕など残されていなかった。「いいよ」熱くなっていく頭が口を動かしている。「全部あげるから、僕の全部あげるから」僕の意思とは関係無く、いや、僕の意思など何処かへ消えてしまったように、口が勝手に動いている。
「だから、僕だけにしてくれ」
「うん。わかった」
黒沼百合亜の唇が緩やかなカーブを描く。
カナカナカナという音を背負って、黒沼百合亜は僕に一歩近づいた。
「神崎くん、全部使って私を愛してくれるって誓う?」
理性なんてない。
「誓うに決まってる。だから」
本能で言葉を紡ぎ、誓いを立てる。
「黒沼百合亜も、僕しか愛さないって誓ってくれ」
カナカナカナ。
カナカナカナ。
鼓膜を揺さぶるその声は、高く聳える包囲壁のように僕を取り囲む。
まるで事の最中にも似た心地で、彼女の中に僕の全てを突き入れるような思いで、僕は彼女に言葉をぶつける。
不意に思い出した。
テッカニンのように生きるか、ヌケニンのように生きるか。刹那を謳歌するか、抜け殻として密み続くか。
神崎くんはどっちがいい? と問いかける、彼女の声。
もしも彼女を僕だけのものに出来るならば、僕は前者で構わない。
黒沼百合亜が僕のものになるのなら、今すぐにだって死んでもいい。
本気でそう思った。
「誓ってくれ」
「いいよ。誓う。神崎くんが全部で私を愛してくれるなら、大丈夫だから」
黒沼百合亜は、そう答えた。
「愛してるよ、神崎くん」
黒沼百合亜の声は、テッカニンの鳴き声を凌駕した。
「だから、私を愛してね」
黒沼百合亜の裸体が、薄暗闇の中に白く浮き上がった。
「私に全部、愛をちょうだいね」
黒沼百合亜の、二つの瞳が、窓から見える夕焼けよりも赤く赤く、輝いたようだった。
唾液に濡れた紅い唇で囁かれた黒沼百合亜の言葉は、魔法の呪文みたいに聞こえた。
彼女の指先が僕の頬をなぞる。しっとり濡れたそこは妙に甘ったるい匂いを醸し出し、湿気た視聴覚室では噎せるほどの強烈さだった。もう止まる理由も枷も理性も残っていない。今すぐ全ての衣服を脱ぎ捨てて、彼女と同じようになりたかった。全部全部邪魔だった。今はただこの目の前の、僕だけの踊り子となった黒沼百合亜の、黒髪も肢体も臓器も心も何もかも、この僕に染め上げなくては気が済まなかった。
そして僕は返事の代わりに、その唇に噛み付いた。
カナカナカナ、という声はもう、耳にすら入らなかった。
◆
目を覚ましたら、白のベッドの上だった。
あの視聴覚室で僕は、気を失って倒れていたらしい。授業に使う機器を取りに来た際に僕を見つけた社会科教師が救急車を呼び、病院に搬送されたということだった。
三日間意識を取り戻さずに眠り続けた僕は、四日目の夕方にようやく目を開けたのだ。
医者は僕の症状を、腎虚によく似た、またそれが酷くなったようなものだと説明した。
詳しい検査はまだこれかららしいけれど、おそらく一生、手足に麻痺が残ったり臓腑の不全がある可能性が高いだろうと告げられた。
そして、生殖機能はもう二度と、回復する見込みが無いと語られた。
淡々とした態度の医者も、顔色を失った父親も、泣き通しの母親も、神妙な顔で見舞いに来た担任も、誰も彼女のことは話さなかった。
黒沼百合亜のことは、誰も知らぬようであった。
「兄ちゃん、キルリアって知ってるか」
ベッド脇の椅子に腰掛けた雄馬が言う。僕はベッドに寝転んだまま、窓の外の紫がかった夏空を眺めていた。窓が開け放された代わりにエアコンの切られた病室は蒸し暑さと風の爽やかさが入り混じっていて、薄い病院着の下で汗ばむ肌はしっとりとしていた。
「あのな、その……兄ちゃんの症状、俺、すごい似てるやつ知ってんだ」
自分の肌が、いつかの彼女のそれと重なった。下着を外した弾む乳房、ブラウスの中の細い腰、スカートの奥に手を伸ばして触れる柔らかな太股。僅かずつに濡れていくのは彼女の肌か自分の手か、判別もつかなかった。
「ドレインキッス、って技使うんだ。相手の体力とか吸い取って、自分の力に変えるんだよ。サーナイトになるための力にする。バトルでももちろん使うんだけど、……たまに、人間がそれ、やられることがある」
窓の向こうから聞こえる声も同じだった。カナカナカナ、と鳴く種類のテッカニンの声。日が暮れてから鳴き始める彼らの声を、思えば何度も聞いたものだった。
「旅で知り合った人に聞いた。かわいい見た目につられた人間騙して、その人の全部を吸い取っちゃうんだって。キルリア一匹でも、獲物にされたら命沙汰だし助かっても、その…………」
言いづらそうに言葉を切った、バトル好きの弟の言わんとすることなど嫌でもわかった。カナカナカナ。弟の台詞を遮るみたいにしてテッカニンは鳴いている。
カナカナカナ。カナカナカナ。
カナカナカナ。
カナカナカナ。
繰り返されるその声はもう、綺麗だとも涼やかだとも儚いとも、そして、煩いなどとも思えなかった。
「これ、キルリア。見たことあるか?」
雄馬の差し出した図鑑に表示されたそのポケモンは、まるで踊り子のような愛らしさだった。
ほっそりとした白い手足、きゅっと見つめる大きな瞳。
黒沼百合亜が似てるのか、黒沼百合亜に似てるのか、その答えはもう、わからない。
命を燃やし尽くしたテッカニンの死体が、地面に一匹転がっているのが見えた。
テッカニンの一生は短くて、野生のものは夏が終わると同時に死んでしまう。明るく、楽しく、派手に生を謳歌して刹那なる時を送って地面に還ってしまう。そんな儚くも美しく生き様を、カナカナという鳴き声に重ねたのは誰だっただろうか。
僕の夏も終わったのだ。
しかし僕は還れない。
一生彼女のことを思い出しながら、抜け殻として生きていくのだろう。
あの虚ろな眼をした、ヌケニンのように。
「兄ちゃん…………」
カナカナカナ。
テッカニンは鳴いている。
夏は続いていく。
アン、ドゥ、トロワ、と口ずさみながら上履きで踏む、黒沼百合亜のステップが耳の奥にこびりついていた。
メッセンジャーは唐突に現れて、私にこう言った。
「この世界はもう、終わったんだよ」
私はそのポケモンの言葉の意味を、よく理解している。だからこそ、認められなかった。
レンガ造りの大きなおうち。たくさんのぬいぐるみに囲まれた、私好みの素敵な空間。
そんな私の部屋の中にそいつはずかずかと入ってくる。そいつに足は無いけれども。
その、水色の丸い身体にヒラヒラとした布が付いたポケモンはチリンと声を鳴らして、繰り返す。
「いいかい? この世界は終わったんだ。もうじきここは完全に消滅する。だからキミのご主人様の元に帰るんだ」
私は静かに首を横に振る。
そんな私の態度にそいつは呆れた表情を見せた。
宥めるように私に説得をするメッセンジャー。
「キミがいつまでもここから帰ろうとしないから、みんな困ってる」
知らない、そんなの。私はここに居続けるんだ。
そう拗ねる私に、メッセンジャーはため息をつきながらこぼす。
「ここに居ても、もう誰も来やしないよ」
聞き捨てならない言葉に、私は反射的に食いつく。
どうしてそう言い切れるの? ここは、みんなの夢の楽園だったのに。
「夢の楽園、ね。その楽園にも、始まりがあれば終わりがあるだけの話だ。終わってしまったから、みんなここを去っていった」
……嘘だ。
「キミだって、みんながもういないことに気付いてるはずだ。だからこそ、こんなぬいぐるみだらけの部屋に閉じ籠っている。もうキミはこんなものでしか、キミの心を誤魔化せない」
そいつはそう蔑む口調で呟いた後、私のぬいぐるみ達を片っ端から宝箱へしまい始めた。
私はその行為をとても不快に感じ、涙がこぼれそうになったがぐっと堪える。
口をぎゅっと一文字にして家から出ていこうとする私に、奴は宣告した。
「探しても無駄だ。キミがこの世界に残っている最後のポケモンだから」
私は小さくうるさい、とだけ返事を返して、扉を開けくぐった。
緑の芝生が敷き詰められた、空に浮かぶ小さな浮き島。お家の他に畑や棚がある、広くもなく狭くもない、私と私のトレーナーのテリトリー。
この世界にはこんな感じの浮き島がいくつも、数えきれないくらいたくさんあった。
他の島は、他のトレーナーのポケモンが所有していた。今は過去形である。
以前は友達になった子の浮き島に行くことが出来た。でも、今は出来ない。
友達の浮き島に行こうとしても、見つからなかった。
探しても、探しても。
あいつの言う通りならば、みんなここから去ってしまったのだろう。
「ほら、言った通りだろう」
いつの間にか隣に来ていたメッセンジャーが、むかつく声で言った。
私はそれでも現実に納得がいかず、今でもたった一つだけ空に見える、大きな浮き島を指差して尋ねる。
あの島は、どうなっているの?
私の問いに、そいつはチリンと透き通る声で答える。
「あの島は、今は立ち入り禁止だよ」
立ち入り禁止……いつもあの島に行くときに架かる虹の橋が現れないのは、立ち入り禁止だから?
「そうだよ。何、あの島に行きたいの?」
私は無言でうなずく。
「仕方がない、特別だよ。あの島に行ったら帰るんだよ」
と、そいつはしぶしぶ承諾してくれた。
そいつが合図を出すと七色の虹でできた橋が架かる。
私たちは足早に、その橋を渡った。
「ゆめしま」と呼ばれていた大きな島には、山や海、洞窟に洋館、公園などいろんな場所があった。
私はメッセンジャーに頼んで最後に行きたかった場所に連れて行ってもらう。
そこは、小さな森。
初めて私が「ゆめしま」にやってきた時に訪れた思い出の場所。
草むらや池、木の上などから色んなポケモン達が現れた時は、驚いたっけ。
お家にあるボードに貼られた数多くの友達の写真を思い返す。
私はここで、本当に多くの友達と仲間と出会えた。そんな出会いはこれからも続くものだと、無邪気に信じていた。
――想定はしていたけれど草むらは音沙汰なく、池の水面も揺れる様子もなく、木の上を見上げてみても誰もいない。
見知った顔も、見知らぬ顔ももう誰もいない。
私は思った。思い知らされた。
こんなにも、静かな場所だったのか。と。
そうして歩いていくと、とうとう島の中央にある終わりの場所、大樹の元まで辿り着いてしまった。
今まで大樹は、みんなの夢を集め、シャボンのような無数の光を携えていた。
けれども、今私が見ている大樹はまるで枯れてしまったかのように活力を感じられない。
それは、まるで終わりを迎えてしまったモノの、なれの果てのようだった。
メッセンジャーは三度、終わりを告げる。
「この夢世界は、終わったんだ」
メッセンジャーの一言に、ぐっと堪えていたはずの涙が溢れだし、私は大声で泣いた。
私にとって、ここは大切な居場所だった。
たくさんの思い出をもらった場所だった。
大切な友達と時間を過ごした場所だった。
私にはまだ、この世界が必要だ。
なのに、なのに、どうして!
「覚めない夢なんて、夢とは言わないんだよ。それともキミは、独りぼっちの夢を見続けたいのかい?」
メッセンジャーは現実を突きつける。
ああ、そうだ。
解っている。
私が望むのは、独りぼっちじゃない。
「いい加減、思い出にしてあげよう」
思い出に……でも、思い出にしてしまったら、いずれ忘れてしまうじゃないか。
どんなに大切な友達との記憶も、それぞれの未来へ歩み出したら消えていってしまうじゃないか。
「それでも消えないモノはあるよ」
それは、なに?
「繋がり、さ」
メッセンジャーが木魂するような音を放つ。
辺り一帯の大地が鼓動する。
大樹の根元が光に包まれ
透明なシャボン玉のような光がいっせいに浮かび上がった。
今まで見たどんな景色より、美しいと感じる私がいた。
私の意識も光に誘われて空へと引っ張られていく。
天高く、天高く、光と一緒にどこまでも上昇していった。
下方に見える大樹が、メッセンジャーがどんどん小さくなっていく。
メッセンジャーは最期にどこまでも通るような真っ直ぐな声で、こんなメッセージをくれた。
「今までこの世界を愛してくれて、ありがとう! バイバイ!」
咄嗟に私は叫んだ。
思い切り声を張り上げ叫んだ。
ありったけの感謝の気持ちを込めて、
はるか彼方に消えていく、
あそこに向かって、高らかに!
*************************
そして、ベッドの中の私に、ご主人はやさしく語りかけた。
「おはよう。おかえり――お疲れ様」
私は泣きじゃくりながら、一声鳴いて応える。
ただいま!
あとがき
BWのPDWが運営終了してしまった後に思いついたお話しでした。
揺れる。 揺れる。
「ぐらぐら」ではなく、かといって「ゆらゆら」という訳でもなく、
ゆっくりと鈍い音を立てながら、その柱は塔の中心で揺れ続けていた。
揺れ幅には一寸の狂いもなく、一定のリズムを保ちながら揺らぎ続ける柱。
気になったのでじっと眺めて観察してみたが、その動きはどうやら止まる事は無い様だった。
柱は、休む事を知らずに振れ続ける。
まるで、生きるために働き続ける私達の心臓のみたいに、マダツボミの塔の心柱は動いていた。
ふと思う所があり、私は手持ちのモンスターボールの中にいる相棒を眺める。
そのカプセル状の機械にすっぽりと収まった小さな命も、
「ゆらゆら」と弱々しくはなく、
かといって「ぐらぐら」と雄々しい訳でもなく、
静かに、だけどしっかりと揺れて――生きていた。
やはり、その一つの命から目を反らす事は、私には出来そうにも無かった。
……するつもりも、毛頭から無かったのだけれども。
◇ ◆ ◇
ジョウト地方、キキョウシティ。
古い建造物が多く残されているのが特徴的なこの町の北側、川を隔てた先にマダツボミの塔という名前の名所がある。
そこでは昔から、塔にいる坊主達とポケモンバトルをして見事勝ち抜くと、いあいぎりの秘伝マシンを譲り受ける事が出来るしきたりがあり、登竜門の意味も兼ねて多くのトレーナー達が訪れていた。
僕は小さな頃から、休日になると此処の手前の桟橋によく来て、このマダツボミの塔に挑戦しに来る人とポケモン達を眺める事を趣味の一環として生活していた。
何時から、どうしてこの趣味を始めたのかは、もう憶えていない。
だが、こうして道行く彼等を眺めたり、時には出会い、話をしたりして行く内に僕は何処かで“マダツボミの塔”という歴史を見ている様な奇妙な感覚を覚えていた。
些細な出来事からちょっと大きな出来事まで、同じ時間を共有出来る。
例え忘れてしまったとしても、その一瞬一瞬に遭えるのが堪らないのかもしれないから、今も僕は此処に来続けているのかもしれない。
そしてまた一人、今日も塔からトレーナーが出てくる。
出てきたのは、今朝方に塔に入っていった、ピクニックガールらしき恰好の女の子。
特に慌てた様子も無く、落ち着いて歩いているので恐らくは無事勝利と秘伝マシンをその手に掴む事が出来たのだろう。
何時ものノリで、話しかける。
「今日は、お嬢ちゃん」
「? 今日は、お兄さん」
いきなり話しかけて、驚かれるのはよくある事だ。一々気にはしない。
そのまま世間話を、振り始めてみる。
「秘伝マシンは、ゲット出来たかい?」
「ええ、はい。相棒が頑張ってくれました。今は少しボールの中で休んでもらっています」
「そっか。おめでとう、お疲れ様」
「はい。有り難うございます、私も相棒も疲れました」
「良かったら、お茶とお菓子があるし、少し休んでいくかい?」
言ってしまった後に、あ、しまった。これってナンパかな。と若干不安になりつつも、
「お言葉に、甘えさせて頂きます」
という彼女の返事を聞いて安堵した。
あらかじめ持って来ていた紙コップに水筒のお茶を容れて、少女に渡す。
少女はそれを受け取り一口飲み、「美味しい」と言葉を漏らす。お口にあって何より。
自分様の紙コップにお茶をいれた後、そのまましばし沈黙が続いたので、僕の方から彼女にいくつか質問をしてみた。
「お嬢ちゃんはこの辺ではあまり見かけないけど、トレーナーとして旅をしているのかい?」
「そんな所です。……と、言ってもまだまだ未熟者ですが」
「……ジム戦にはもう挑戦した?」
「はい、なぎ倒しました」
「なぎっ…… 最近の子達は、強いな」
「いえいえ」
話の区切りに二人で一服。
今度は逆に、僕が質問される番。
「お兄さんは、何をされているのですか?」
「フレンドリィショップの、店員だよ」
「店員さんでしたか」
「店員さんです。今後ともご贔屓に」
「はい。今度キズぐすり買いだめさせてもらいます」
「お買い上げ有り難うございます」
こういう機会にお得意様を作るのも、一興である。
また一服。その時にバッグから取り出したネコブ飴の袋を差し出す。
あまり、子供にはメジャーでは無いかなと思っていたが、案外どうやらそうでもないらしい。
「私、これ好きです。良く家で食べてました」と言いながら二つほど袋から取り出し、「頂きます」と食べていた。
しばらくして、少女がマダツボミの塔の方を見上げて、話を切り出し始めた。
「……そう言えば」
「そう言えば?」
一度咳払いをして、彼女は言葉を続ける。
「そう言えば、塔の試練を受けていて一つ疑問に思うことがありまして」
「疑問、というと?」
「このマダツボミの塔の、名前の由来になっている言い伝えについて、です」
「ああ、あの塔にあるいつも揺れている柱は実は巨大なマダツボミだったって話?」
この塔にある、有名な言い伝えだ。
「はい。30メートルもの巨大なマダツボミがその柱になったというお話は聞きましたが……この言い伝え、個人的には若干惨いと思うのです」
「……どうして?」
そう、問いかけると、少女は俯きながら
「いいえ、やっぱり何でもないです」
「私個人の感情論だというのは、分かってますから」
と、言葉を濁した。紙コップのお茶には、彼女の表情が映し出される。
「えっと、話がそれました」
「疑問、というのはですね、そのマダツボミがどういう風に、どういう事情で、どういう経緯で柱になってしまったかは、一切語り継がれていない事についてです」
「言われてみれば……確かに」
「僅かに残っているのはただ巨大なマダツボミが柱になった。という事実かどうかも本当には分からない不明確な結果だけ。塔の名前にもなっているポケモンの事なのに、アバウト過ぎます」
少し憤る彼女に、苦笑いで僕は返す。
「何百年も、昔の話だからね。仕方がないよ」
「だからこそ、しっかりして欲しかったです。出来るなら、腕の葉はどうなったとか、見えない最上階に頭部はちゃんとあるのか、どうして揺れ続けるのかとか、もっともっと詳しく知りたかったです」
ため息を吐き、心底がっかりした様子で、彼女は呟いた。
「これじゃあ、ちゃんと言い伝えられて無いじゃないですかー」
「ご、ごもっとも。だけど――そういう事は、お坊さん達に質問してみれば良いんじゃないかな?」
「聞きにくかったんです」
即答。まあ……内容が内容、だからなあ。
俯いてた彼女が、顔を上げた。
その表情は、すっきり……と言うよりはどこか腹をくくった様にも僕には見えた。
「……でも、やはりそうですよね。ちゃんと正直に話して教えて貰うのが、一番ですよね。うん」
そう、言い切って紙コップに残るお茶を一気に飲み干す少女。
この時、彼女が何に納得したかは分からなかったが、何か突っかかっていた物が吹っ切れたのだろうと、勝手に解釈させて頂く事にした。
「それじゃあ、私は一旦ポケモンセンターに行った後、もう一度塔を登ってくる事にします。お茶とお菓子、ご馳走様でした」
「いえいえ。あ、そうだ」
返して貰った紙コップを受け取りつつ、僕はふと、思いついた事を口に出していた。
「ねぇ君、マダツボミ、捕まえていないかい? もし良かったら僕のイワークと交換しようよ」
「持っていますが……嫌です。お断りします」
ありゃ。まぁ、口振りからするに、マダツボミ好きそうだもんなあ。
大人気なく、交渉を続けてみる。
「む、どうしてもダメかい?」
「ダメです。自分で捕まえて下さい」
「イワークはタフで大きくて、たよりになるよ?」
ほら、と僕は自分のモンスターボールから“イワーク”を出してみせる。
いわへびポケモンと呼ばれるだけはあり、そのゴツゴツとした頑丈そうな岩で出来た巨躯は、何時見ても立派な物だ。
「確かに防御は高そうですし、大きいですね」
「だろう?」
「しかし」
少女が彼女の手持ちのモンスターボールを開く。辺りが一瞬白い光に包まれた後中から“何か”のシルエットが浮かび出てきた。
ソレの身体は細くは無かった。
――太く、長く、最初は目の前に木があると勘違いした。
ソレの葉っぱは、決して小さくは無かった。
――急に暗くなったので、何事かと思い、僕は空を見上げる。
ソレの頭部は、僕のイワークの頭よりも微妙に高い位置にあり、しっかりと見る事は出来なかった。
――黄色。黄色黄色黄色。空の青がそこだけ切り取られている様だった。
ソレの頭が、此方を見下ろす。この時ようやっと、僕はコレがポケモンだと認識出来た。
そのポケモンの瞳は、つぶらだった。
「私のマダツボミの方が、強くて――大きいのですよ」
彼女がニヒルな笑みを浮かべながら言う。
僕は思わず背後の塔を見上げてしまっていた。
「がぶっ、ごぶっ」
べきべきと俺の体の骨が折れて行く。頭が沸騰しそうだ。意識が爆発しそうだ。
こいつの腹を裂いたというのに、こいつは最後の力を振り絞るかのように俺を締め上げた。
「あぐぅっ、いぎぃ」
両脚の感覚が消えたのが分かった。
そして、この野郎の締め付けは終わった。
指一本、爪ももう全く動かせねぇ。
ハブネークも、俺を締め上げた後は動かなかった。
くそったれ、相打ちかよ。
俺もハブネークもこのまま死ぬのだろう。馬鹿みてえにいつも通り、青い空と白い雲が流れて行くのを見ながら。
「げぶっ」
血を吐くと、目が霞んで来る。
死、はそう大して怖くない。後悔が無い訳じゃない。俺の子供は俺の死体を見た後に何を思うだろう。俺の番は泣き崩れるんだろうか。
そんな事も考えたが、すぐに消え去った。
「……なあ」
消え入りそうな声。ハブネークが話し掛けて来た。
「……何だ」
「楽しかったか?」
朦朧とする頭で、ゆっくりとした思考の後で俺は言った。
もう、青い空も霞んできやがった。ったくが。
「そうだな」
いつからこいつと戦い続けた。
何度爪を尻尾の刃を打ち合わせた。
何度こいつの毒をこの身に受け、何度こいつを切り裂いた。
そして、今、こいつの腹を掻っ捌き、その代償として俺は全身の骨を砕かれた。
当然の結末っちゃあ、そうなんだろうな。どっちかが強かったらさっさとどっちかが殺してる。
体が冷えて行く。俺が掻っ捌いた腹から出て来る血が温かい。
「お前に巻かれて死ぬなんてな」
「お前を巻いたまま死ぬなんてな」
互いの体温を感じながら死ぬなんてな。
俺達は敵同士でありながら、互いの事を誰よりも知っていた。
苦い物が好きだ何て事も知ってたし、こいつは俺が甘い物が好きだ何て知っていた。
吐き気がする。けれど、悪くない。
暗闇が近付いて来た。
「……なあ」
「何だ、早くしろ」
こいつも、近いか。
死ぬタイミングまでそっくり一緒らしい。悪くない。
「……いや、いい」
「……そうか」
いや、やっぱり、と口を開こうとしたが、もう口も動かない。
くそったれ。でも、まあ、後悔はない。
俺だけが死のうが、こいつだけが死のうが、こうなろうが、俺とこいつは全力で戦って来た。
それだけで、後悔はない。それ以外の事がどうだろうとも、それに比べたら全て些細な事だ。
体が軽くなる。全ての感覚が失せて行く。
「あの世でもな」
そう聞こえた気がした。
「ああ」
答えられた気がした。
ぼうっと空を見上げると、雲がゆらゆらと過ぎて行く。
夏の終わりの空は真夏の時の空とは何かが違う気がする。青空は青空で変わらないし、雲の形だって変わらないけれども。毎年そんな事を思っているけれど、それがどうしてかは良く分からない。
夜になれば、少し肌寒くなって来る時期。
良く分からない寂しさと共に、夏毛の役目が終わろうとしている。
そんな早朝、屋根の上で青空のような色の毛皮をしたルカリオを待った。
暫くすると、ひょい、と軽い身のこなしでルカリオが屋根に登って来た。
俺が持っていた小銭をちゃりんちゃりんと軽く手の平で遊びながら出すと、ルカリオも小銭を取り出す。
真夏のある日に、ルカリオと戦っている最中に人間の誰かの植木鉢を壊した。きっと誰かが隠していた金なんだろうけれども、その植木鉢の中から小銭がたっぷりと出て来て、全部盗んでとんずらした。
その小銭ももう、底を尽きかけている。
俺とルカリオの小銭を合わせて、後どの位だろうか。
数えてみれば、ヒウンアイスなら後3つ分位だった。
―――――
毎日毎日を過ごしていく。こいつと会ったのは俺がリオルからルカリオになってから、こいつもゾロアじゃなくてゾロアークだった。
街という場所で、小銭を拾い集めて偶に人間に混じって物を食べる。
街の子供達をあやして、貰った物を食べる。
捕まえられそうになったら逃げる。
夜になれば、雨を凌げる場所で他のポケモン達と寝て、心地良い場所が占領されていれば、偶にその縄張りを争う。
森の中やトレーナーに従う存在になるのとはまた別の生き方。
それに慣れたのはいつ頃だったか、もう覚えていない。
俺がリオルだった頃の記憶も、リオルからルカリオに進化した時の記憶ももう、断片的にしか思い出せない。
ちゃっちゃっ、と爪の音を石畳に響かせながら、ゾロアークと一緒に歩く。
気付けば良く一緒に行動するようになっていたし、仲良くもなっていた。一緒に寝る事も良くあった。
ゾロアークが欠伸をする。軽く猫背で気怠そうな姿。けれども、戦う時になればタイプ相性が悪い俺とも互角に戦う。
「おはよー!」
子供が俺達に手を振って朝っぱらから元気に駆け抜けていく。俺は普通に、ゾロアークは気怠そうに手を振り返す。
「おはよう。冷えて来たわねえ。大丈夫?」
二階建ての家の窓から、そこに住んでいる家族の妻が声を掛ける。頷いて答える。
「よお、今日こそ仲間にしてやる!」
若いトレーナーが、そう言って俺達の前に立った。
俺も気怠くなる。
―――――
付き合ってやる必要もないが、今から最後の小銭をぱあっと使う身としては、動いた方がその後の飯が美味くなるだろうな、と思った。
背伸びをすると、ぽきぽきと音が鳴る。ルカリオがそんな俺を意外そうに見た。
ま、俺だって偶にはお前以外と戦うぞ。
出してきたのはいつも通りのデンチュラとポッタイシ、じゃなくてエンペルト。
成程、進化したのか。
俺とルカリオは、軽く距離を取って、互いに爪と拳を相手に構える。
勝ったら金くれねえかな。
位置の関係上、俺がデンチュラと戦う事になる感じで、デンチュラも俺に電気を纏った糸を飛ばして来た訳だが、それを躱してエンペルトの方に走る。
ルカリオもエンペルトの方に走っている。
あの鋭い腕は当てられたら痛いじゃ済まさそうだな、と思いながらも爪に力を込める。
「デンチュラ! ゾロアークにシグナルビーム!」
後ろをちらりと見て、デンチュラの狙いを見る。
「エンペルト! ゾロアークにメタルクロー!」
両方俺狙いかい。
姿勢を低くしてシグナルビームを躱す。その次の瞬間、飛んだシグナルビームがエンペルトの腕に弾かれて飛んできた。
流石鋼タイプ。
そんな事を思いながら、まともに食らってしまった。
―――――
予想外の攻撃にゾロアークが怯んだ。
エンペルトにはっけいを打ちこむと、痛いな、と睨まれる。
ゾロアークは転がって、続けざまに飛んできたシグナルビームを躱した。
反射された分、あのシグナルビームはそんなに威力は無かったみたいだ。
エンペルトが人間の指示に従って、俺を無視する。アクアジェットで起き上がるゾロアークに追い打ちを掛けようとしているんだろう。
そこを足を引っかけて転ばせて、背中にもう一度はっけい。
動こうとしたから更にもう一度はっけい。
それで気絶した。
素早い俺を無視しようたって、こんな至近距離じゃ無理だろ。
ゾロアークも、デンチュラに距離を詰めていた。放電をナイトバーストで相殺して、爪を突きつけた。
気絶したエンペルトがボールの中に戻って行く。
デンチュラも戦意を失って、すごすごとトレーナーの方へ戻って行った。
シグナルビームを当てられた腹を擦りながら、ゾロアークが息を吐く。流石に少しは痛かったらしい。
ゾロアークがトレーナーの方を見る。何か小銭でも物でも何かくれよとでも言いたげな感じだ。
仕方なく、と言った感じに人間がゾロアークに缶を渡した。一本。
俺の分は?
そんな事を察したのか、人間が俺の方にもう一本投げて来た。
水色の缶、サイコソーダ。
―――――
俺が貰ったのはミックスオレ、ルカリオが貰ったのはサイコソーダ。俺の方が良いものだ。ま、ダメージ食らってしまったしな。
歩きながら、爪で開けて、一気に飲み干す。
少し温いそのジュースが一気に喉を潤した。やっぱりジュースって言うのは一気飲みするのが良いよな。
そんな俺を気付けばルカリオがジト目で見つめて来ていた。
その手は、カツカツと、蓋を開けられない指が必死に開ける部分を引っ掻いていた。
爪を引っ掛けて、開けてやる。
ぷしゅ、と音を立てて静かに炭酸が漏れ出て行く。ルカリオは慎重に飲み始めた。炭酸は一気飲み出来ないから、少し残念だよな。嫌いじゃないけれど。
空いた缶を宙に投げて、蹴ってゴミ箱に入れる。ルカリオも同じようにやって、外した。
溜息を吐いてルカリオがそれを拾って手で入れた。
目の先には、いつも朝早くからやっているアイス売り場が見えて来ていた。
小銭を確認する。いつものヒウンアイスなら3つだけれど、もう一ランク上のアイスなら、2つ。それを頼もう。
―――――
今年の夏は、途中まではいつも通りだった。
真夏、うだるような暑さだったし、そんな中の楽しみと言えば、小銭を集めて買うアイス。
俺とゾロアークで集めた小銭でいつも大体、アイス1個がやっと。
戦って勝った方が、動けなくなった体から小銭を奪い取ってアイスを買う。偶に体からもぎ取って逃げ切ってアイスを買って、そのまま口に突っ込む。そして冷たさで悶える。一回、食べようとした所に突っ込まれて地面に落としたっけ。
それは去年だったっけ。覚えてない。
途中から、誰かの金を見つけてそれからは、のんびりアイスを買った。
毎年に比べれば、幸せだったか。アイスを食べられた回数は多かった。けれど、意外と幸せだったかと聞かれれば、同じ位かもしれない。
ふと、のんびりとアイスを食べながら思った事がある。
達成感が無いな。
戦って、勝ち得たものがアイスだった。それがただ、手に入るようになった。
味は変わらないし、美味さも多分、変わらない。
けれど、勝てなかった時に生暖かい地べたで、次こそはと思う事も無くなったし、勝利と一緒に得る快感も無くなった。
毎日アイスを食べられる事が嫌だった訳じゃない。寧ろ、毎日食べられる事はそれはそれで幸せだった。
けれど、物足りなさがあった事も事実だった。
ゾロアークが爪を指して、もう一つ上のランクのアイスを注文しようとしている。一番上のアイスなら、1個だけ買える。
それと、いつも通りのアイスがもう1個。
ゾロアークの腕を掴んで、それを止めた。
―――――
ルカリオが最上級のアイスに指を指してから、俺の方を向いて来た。
……俺はダメージを受けているんだけどな。
時間が少し経って、ミックスオレも飲んで大体回復しているとは言え。
けれども、俺は笑った。
それを含めても良い提案だった。
「うん? それを頼むのかい?」
ちょっと待ってと首を振った。
アイス屋から距離を取って、街のど真ん中で互いにもう一度、今度は向かい合って爪と拳を構える。
賭けるものは、いつも通り、互いが持っている金。
それは夏に限らず、秋、冬、春、いつになっても変わらないだろう。
けれど、こうして毎日のようにアイスを買えるのは、今日が最後。一番きっとでかくて旨いであろうアイスは、今日だけしかきっと食えない。
静かに、涼しくなった風が吹く。太陽が俺とルカリオを家の上から照らし始める。
「こっちに被害を飛ばさないでくれよー」
その呑気な声が、始まりの合図だった。
Appendix 1:
局員の提言に基づき、稼働中の「POKKEN ver.D」のプロセスを一時的に停止させ、メモリダンプから何らかの情報が得られないかという実験が行われました。実験時、プレイヤーはルカリオを、コンピュータはカイリキーをそれぞれ操作しているという状況でした。
エミュレータの機能を用いてゲームを一時停止させ、完全なメモリダンプが取得されました。この時、ダンプの取得は想定されるよりも相当に長い実行時間を要し、最終的に約3.8GBのダンプファイルが生成されました。ダンプファイルの作成中、OS標準のタスクマネージャはエミュレータが占有しているメモリ領域について、異常性の無いゲームを動作させた時と比較しても有意な差異は無いことを一貫して示し続けていました。
生成されたダンプファイルを一般的なデータ解析の手法で解析したところ、ファイルの約半分に相当する1.85GBが、携帯獣の「ルカリオ」の一般的なデータパターンと89%の精度で一致することが判明しました。続く約1.94GBは、同じく携帯獣の「カイリキー」のデータパターンと92%の精度で一致していました。残りのデータは、ゲームを動作させる為に必要なプログラムやその他のアートアセットで占められています。
以上から、この「POKKEN ver.D」は何らかの未知の方法により、現代の技術から見ても異常に精度の高い「人工の携帯獣」を短時間で生成する機能を持ち合わせているという仮説が立てられました。プレイ中頻繁に発生する異常な挙動は、システムによって生成された携帯獣がゲームから脱出しようと試み、結果として外部からの制御を受け付けなくなったことによるものと推察されます。現在のところ、この仮説を覆す根拠は見つかっていません。ゲームが携帯獣を生成し戦わせる理由についても、局内で統一的な見解は出されていません。
ルカリオ・カイリキー共に、データが一般的なパターンと一致しないまたは欠落している箇所は、外見的特徴の情報が格納される領域に集中していました。ゲームプレイ時にディスプレイへ出力されるキャラクターモデルの品質が悪いのは、これら外見的特徴の極度の情報不足に起因するものであり、ゲームが持つレンダリングエンジンの性能とは直接的な関わりを持たないことが分かりました。これについては、開発に当たって携帯獣として正常に動作させることにリソースを割き、携帯獣の外見については実装の優先度が下げられたためと考えられます。
ゲームプレイ中に生成された携帯獣を一般的な情報工学の技術に基づいて救出する試みは、いずれも失敗に終わっています。生成された携帯獣はゲーム中の戦いで死亡するか、またはゲームがシャットダウンされることで消失するかのいずれかしか選択肢を持ちません。
管理局の倫理委員会は、生成された携帯獣は事実上死亡するほか無いという結論に基づき、2010-07-11をもってこれ以上のゲームの起動を禁止する裁定を下しました。
Subject ID:
#115444
Subject Name:
POKKEN ver.D
Registration Date:
2006-08-02
Precaution Level:
Level 3
Handling Instructions:
これまでの管理局の積極的な工作活動により、インターネットを経由して対象のROMイメージファイルをダウンロードすることは極めて困難、あるいは一般的に見て不可能な状態を作ることに達成しています。現在の本案件は、既にダウンロードされたイメージファイルを可能な限り回収すること、新たなクローンが作成されていないかを監視することの二点が主な活動になっています。
回収されたファイルは管理局が保持するオリジナルのROMセットと比較し、バージョンに相違が無いかを確認します。相違が見られない場合、対象のイメージは管理局の標準情報破棄手順に則って削除してください。何らかの相違が見られた場合は、対象を新規のROMセットとして登録してください。
管理局の倫理委員会の裁定に基づき、本案件で回収されたROMイメージはいかなる理由があろうと起動を許可されません。詳細は付帯資料を参照してください。
Subject Details:
案件#115444は、株式会社ナムコ(現・バンダイナムコゲームス)が開発した対戦格闘アクションゲーム「鉄拳2」の異常なROMイメージと、それに付随する一連の案件です。厳密には、正常な「鉄拳2」に大部分のモジュールを依存しつつ、異なるバージョンとして動作させるための「クローン」のROMセットが、本案件にて扱うべき主要なオブジェクトとなります。本来の「鉄拳2」のROMセットは、本案件の取り扱い対象外です。
出現した正確な時期は不明ですが、著名なアーケードゲームエミュレータである「MAME」が2006年中旬に行ったバージョンアップで、当案件のROMセットが「鉄拳2」のクローンとして新規に追加されていることが確認されました。そのため、当案件で扱うROMセットは概ねこの時期に出現したものと推定されています。ほぼ同時期に、多数存在するROMイメージの配布サイトに対して「pokken2ud.zip」の名称で一斉にファイルがアップロードされた記録が残っていることも、この仮説を補強している一因です。
このROMセットは「鉄拳2」の一般的なクローンの一つとして、「MAME」バージョン0.107以降及び「MAME」の同バージョン以降を元にした派生のアーケードゲームエミュレータで読み込むことが可能です。読み込んだ場合、画面には通常表示されるタイトルスクリーンではなく、黒い背景にごく簡素なフォントで「POKKEN ver.D」と書かれたタイトルが表示されます。エミュレータでコイン投入に相当する動作を行った後にスタートボタンを押下することで、通常通りゲームが開始されます。
起動後に一見して気付くのは、本来の「鉄拳2」に登場するキャラクターが選択画面に一人も存在せず、代わりにポリゴンで描かれた携帯獣のアイコンによってスロットがすべて埋められていることです。ここで操作するキャラクターを選択すると、シングルプレイヤーモードがスタートします。
ゲームの操作体系は正常な「鉄拳2」に準じ、レバー(あるいはレバーに割り当てたキー)でキャラクターを移動させ、ボタンの押下で攻撃や特殊動作を行います。プレイヤーはコンピュータが操作するキャラクターと戦い、最後に登場するボスキャラクターを倒せばゲームクリアとなります。プレイ開始から終了まで、プレイヤー自体には特段の異常は見受けられません。長期に渡る調査により、プレイそのものがプレイヤーに何らかの影響を及ぼすことは無いと結論付けられています。
ただしこのゲームの構成は、通常想定されるものと著しく乖離しています:
1.使用可能なキャラクターの変動
ゲームをリセットするか、ゲームクリアまたはゲームオーバーによってタイトルスクリーンへ戻るかのいずれかの条件を満たす毎に、使用可能なキャラクターが変化します。プレイヤーが選択可能なキャラクターは常に10体ですが、これまでに延べ287種類のキャラクターが選択画面に登場しています。特定のキャラクターを常に選択可能にするための方法も、選択可能なキャラクターが抽出される一定の法則も見つかっていません。また、正確なキャラクターの総数も判明していません。
2.キャラクター性能・性質の著しい変化
過去のプレイで選択できたキャラクターが出現した場合、そのキャラクターを次のゲームプレイで再選択しても、ほとんどの場合その性能や性質は大幅に異なっています。変更箇所は外見的特徴やキャラクターボイスといった比較的変更が行われやすい箇所に留まらず、使用可能なムーブセットや攻撃力・移動速度等のパラメータといった通常のゲームであれば変更されることは少ない箇所にまで及んでいます。特にムーブセットの変更は著しく、以前のプレイで使用できたキャラクター固有の技がまったく使用できず、完全に別の技に変更されているというパターンが度々見られます。
3.登場するキャラクターの全差し替え
このROMセットは明らかに「鉄拳2」を親としているにも関わらず、登場するキャラクターは一貫して携帯獣のみです。これまでのところ、人間のキャラクターは一切登場していません。当初は本来の「鉄拳2」のキャラクターモデルを携帯獣のものに差し替えたものと思われていましたが、その後の調査でモデリングやモーションも完全にオリジナルの物が使用されていると判明しました。
母体である「鉄拳2」で使用されていたテクスチャやモーションといった各種アートアセットはゲームプレイに際してまったく使われず、すべて独自のリソースに置き換えられています。これらのリソースをROMイメージから直接抽出する試みは、今のところ成功していません。
4.ゲームの完成度
ゲームの動作は極めて不安定です。プレイ中は頻繁な処理落ちやテクスチャの貼り遅れ、サウンドのクリッピングが発生し、負荷が高まるとしばしばハングアップを引き起こします。プレイヤーからの一切の操作を受け付けなくなりゲームが続行不能になることも少なくありませんが、その場合、プレイヤーキャラクターは相手から逃走するような動きを見せるか、もしくは極度に暴力的な動きで相手を倒そうとします。この暴走状態はゲームオーバーまたはゲームクリアまで続きます。
元となった「鉄拳2」と比べてレンダリングのレベルは数段劣っており、キャラクターは違和感を覚えるレベルのローポリゴンで描写されます。コンピュータのアルゴリズムは作りがおざなりであることが明らかに分かる程度の物で、あくまで動作するというレベルに留まっています。戦略的な動きや複雑な連続攻撃を繰り出すことは困難か、またはそのためのルーチンが組み込まれていません。
5.その他ゲームプレイ時の特徴
・このゲームは「対人戦」の機能を持ちません。クレジットを複数投入しても、対戦プレイには移行できません。
・本来時間経過で解放されるキャラクター選択画面のスロットは、規定の条件を満たしても「?」のまま解放されません。
・上記に加え、オペレーターコマンドによる強制的な隠しキャラクターの解放も不可能になっています。
・ゲームをクリアするかゲームオーバーになるまで、プレイヤーの体力は一度も回復の機会を与えられません。
・プレイヤーが敗北した場合、コンティニューはできません。事前にクレジットを投入していた場合も同様です。
・対戦相手の携帯獣は多くの場合最初から体力が減少しています。また、しばしば脈絡の無い動きをします。
・一部のプレイヤーは、相手の動きを「逃げようとしている」「苦しみもがいている」と表現します。
・最終ボスとして登場するのは、最後にクリアを達成した際に使用していた携帯獣です。この法則は一貫しています。
・最終ボスとして登場する携帯獣の体力は、前回クリア時のプレイヤー側の残体力と同一値です。
・ゲームをクリアした場合、携帯獣を正面から捉えた映像が映し出されます。この演出の意図は不明です。
・一部のプレイヤーは、上記エンディングの演出に強い不安感を訴えます。不安感の原因は分かっていません。
・スタッフロール及びネームエントリーはありません。ゲームクリア後は直接アトラクトデモへ移行します。
このROMイメージはエミュレータで動作させることを前提として開発されていると思われます。ROMイメージを適切な手順でフラッシュROMに書き込み、そのフラッシュROMを搭載したSYSTEM11基盤による稼働検証を複数回実施しましたが、いずれも起動中に本案件に対応する4つのフラッシュROMすべてでチェックサムエラーが検出されてシステムが停止するため、未だ完遂できていません。
以下は最初期に確認された、管理局が「オリジナル」と推定するROMセットの情報です:
pos1verd.2f 1,048,576byte C4F66A0B
pos1verd.2k 1,048,576byte ABCB4982
pos1verd.2j 1,048,576byte 668CA713
pos1verd.2l 1,048,576byte D936BF60
ファイル名は、このROMセットが「バージョンD」であることを示唆しています(これはzipアーカイブのネーミングとも一致するものです)。そのため、前身として「バージョンA」から「バージョンC」までが存在した可能性があります。これらのROMセットについては、継続して調査と捜索が続けられています。
2007-03-24 追記:
後に管理局が「MAME」開発チームにコンタクトを取り、当案件についてヒアリングを行う機会を設けました。ヒアリングの結果、開発チームはこのクローンセットが「MAME」の対応ROMセットとして追加されていることを一切認識していなかったことが明らかになりました。現在、更新履歴からはこのROMセットについての記述はすべて削除されていますが、ソースコード上に対応するルーチンが存在しないにもかかわらず、依然として「MAME」及び「MAME」派生のエミュレータは該当するROMセットを読み込み、正常にゲームを動作させることができています。
2010-07-11 追記:
管理局内部の協議に基づき、研究目的を含むこれ以上のゲームプレイは一切許可しないとの方針が打ち出されました。異議がある局員は、管理局の倫理委員会に対して異議申し立てを行うことができます。
Supplementary Items:
本案件には、1件の付帯資料があります。適切なセキュリティクリアランスを持つ局員のみが、付帯資料を参照できます。
>>あいがるさん
はじめまして、水雲です。コメントありがとうございます。遅れてすみません。
電脳世界(預かりシステムの中)ってどんな世界なんだろう、という妄想を文章に起こしてみた上記二作でございます。わたしは元々ポケモンを人間くさい感じに書いてしまうきらいがあるのですが、そこに「モノ」も登場させてしまったのですから、異質感満載です。そこに、ひとつの共通の「信念」を固定させることで、キャラを安定化させました。
お恥ずかしながらわたしはバリバリの文系でして、SFは本を呼んで影響を受けたクチです。リアルでのプログラミングなどはまったく存じ上げないのです。とにかく「それっぽい単語をばんばん出してハッタリきかせまくれば、それっぽい世界になるだろう」と思ってのアクションです。なので、二作とも、あまり意味のない単語が多かったりします。ノリや勢いで作った単語のほうが多いかもですね。
便利ですよね、預かりシステム。ポケモンも道具も瞬時に引き出せる、現実世界ではまだまだ信じられない高文明な技術。電位の祝福を受けた道具たちの帰る場所にある空気は、きっと暖かなものでしょう。
それでは、失礼いたします。
>>SBさん
はじめまして、水雲です。コメントありがとうございます。遅れてすみません。
そうそう、伊藤計劃さんです。ハーモニーに強くインスパイアされたのがこの作品です。これをそのままポケノベさんのの短編企画にもちこんだのですから、我ながらなかなかの神経だと思います。
パソコンの預かりシステムやモンスタボールなど、ポケモンの世界って初代から中々技術が高いイメージがあるので、そこにSFを組み込んでみました。ポリゴンやロトムなど、ひねればいくらでもSF風にできると信じています。
SBさんの感性にマッチしていたようで何よりであります。企画系の作品ですし、文字数や締め切りのこともあり、結構急ピッチで仕上げたものですので、こうしてマサポケさんに投稿するときには「やはり色々と甘いなあ」と自分でも指摘したくなる部分が目立ってきます。これからもこういう色の作品を書くときはもっともっとニッチな部分までこだわってみたいものです。
それでは、失礼いたします。
なみのり迷惑メールの原作にマジでありそう感も好きですが、ピッピちゃんのティータイムが特に好きです。
本当に謎って感じで。というか普通に読みたいです。
作者はセレビィとか色んな力借りてわざわざ謎っぽく経年劣化させたり紛れ込ませたりしてる、変わり者無害系知能犯だったりして。とか色々勝手に考えてしまう楽しさがあるなあと思います。
ポケモンだって、人と同じ仕事をしている。
何言ってんだお前、と言われるかもしれない。だけど考えてみて欲しい。格闘タイプのゴーリキー。彼らが引っ越し屋さんや運送業者で働いているのを、一度は見たことがあると思う。
人からしたら、ポケモンの手を借りているわけだけど、ポケモンからすれば、人と同じ仕事をしているのだ。
他にも発電所で働いているコイルやエレブー、花屋で働いているフシギバナ、工事現場で働いているワンリキー。職場の人がゲットしたポケモンではあるけれど、彼らは人と同じ仕事をしている。
休憩時間もあるし、お給料という名のエサもある。
でもこれらの例は、誰もが考え付く物だ。人の手が入っている。
私は前に、孤高のピアニストとして生活しているポケモンを見たことがある。
彼の演奏は素晴らしい。その太い指と短い腕と、ペダルを踏む足がないのを物ともせず、美しいメロディを奏でる。後で知ったけど、ペダルを操るのは自分の技”かげうち”だ。ペダルを壊さないように、絶妙な力加減でペダルを押す。
その一つの赤い目は、鍵盤を弾く自分の手と、目の前の楽譜を交互に見る。楽譜を捲るのはやはり”かげうち”だ。影を器用に操り、演奏に支障の出ないように素早くページを捲る。
聞き惚れている観客は、そのうち弾いているのがポケモンだということも忘れてしまう。天才ポケモンピアニスト、という肩書きなどどうでも良くなってくる。ただ、その演奏を一音漏らさず聴きたいという思いに駆られるのだ。
彼は人の言葉は話せない。しかし、筆談できる程度の言葉は知っている。演奏が終わった後、スタンディングオベーションを受け立ち上がり、一礼をする。傍の机にあったスケッチブックを手に取り、文字を書く。
その文字は感謝の言葉だったり、次の曲名だったりする。そして静かにそれを置き、再び鍵盤に向かう。
手がまごつくことは、ない。
彼にトレーナーは存在しない。かつて、彼にピアノを教えてくれた人間はいても、自分を所持している人間は誰もいない。マネージャーという存在もいない。
いつもピアノがある場所に現れ、勝手に弾いて帰って行く。それが調律されていなければ、弾かずに帰って行く。ホールに鍵が掛けてあっても、気にすることじゃない。
彼はゴーストタイプだ。彼の前では、障害物など無いに等しい。
ホールだけじゃない。放課後の音楽室に現れたこともある。
それがその学校の七不思議として認定されたのは、そこの生徒なら誰もが知っていることだ。『放課後、誰もいないはずの音楽室からピアノが聞こえて来る』と。
ちなみにそれを聞いた音楽室の先生曰く、曲目は『幻想即興曲』だったらしい。
私は、彼と会話したことがある。演奏が終わればそれこそ幻のように消えてしまう彼を追って、どうにか話をすることができた。
熱心に感想を語る私に、彼は少しだけなら、と私の質問に答えてくれた。
沢山聞きたいことがあったが、三つに絞って聞かせてもらった。
一つ。どうしてピアニストとして生活しようと思ったのか。
二つ。一番好きな曲は何か。
三つ。誰からピアノを習ったのか。
彼はその質問に答えてくれた。見せてくれたスケッチブックには、カクカクした文字でびっしりと答えが書いてあった。
次の文は彼の解答そのままだ。
『一つ。これは単純にピアノが好きだからだ。いや、音楽が好きなんだ。
知られていないだけで、演奏できるポケモンは割と多い。私は各地を回って来たが、歌を歌うだけでなく、ドラムやフルート、中にはコントラバスが弾けるポケモンもいた。
しかし彼らは、その特技を出すと大好きな曲が自由に弾けなくなると考えている。その才能に目を付けた人間によって、金儲けの道具にされることを嫌がっているのだ。
しかし私は、あえて人前で演奏することを選んだ。観客がいた方が演奏に身が入るからだ。
ポケモンに金は必要ない。食事さえあればいい。演奏が終わった後、木の実を投げてくれればそれでいい。
ホールに度々現れるのは、たまには良い場所で弾きたいと思う時があるからだ』
『二つ。一番好きな曲。これは難しい。ペトリューシュカもいいし、幻想即興曲もいい。しかし弾くのではなく、ただ聴くだけなら夜の女王のアリアがいい。
一度、これを歌ったムウマ―ジがいた。終わった時には、観客だけでなく演奏者全員がその場に倒れていた。本人はとても楽しそうだったがね』
『三つ。』
私が彼が書くのを見つめていたが、ここで筆が止まった。何かを書こうとしては止め、書こうとしては止めを繰り返している。しきりに考え込んでいるようにも見える。
もしかして、触れてはいけない琴線に触れてしまったのだろうか、と思った矢先、彼が少しずつ書き始めた。
『習ったのではない。彼女が弾いているのだ』
最後の質問の意味が、未だに私はよく分かっていない。
ただ、ピアノを弾いている時の彼の表情は(分かるのかって話だけど)、とても幸せそうだ。ピアノを弾けることが何よりも幸せという顔だ。
そういえば、この前招待状が来た。今度カロスで行われる、コンサートの招待状だ。ミアレシティの巨大なホールで行われるらしい。
演奏者は全員、ポケモンだという。マスコミはおろか、一般客さえ立ち入り禁止の、完全なる招待制コンサートらしい。
ピアニストとして彼が出るという。とても楽しみだ。
Subject ID:
#90734
Subject Name:
ピッピちゃんのティータイム
Registration Date:
1998-10-03
Precaution Level:
Level 1
Handling Instructions:
利用者の多い主要なオークションサイトを、本案件専用のクローラーを使用して常に巡回しています。本案件と推定される書籍の出品が確認できた場合、局員はオークションサイトの管理者に連絡し、出品物を接収してください。接収に際して、出品者がどのような経路で対象書籍を入手したかのヒアリングも併せて行ってください。
書籍に付いての基礎情報は既に広範に知れ渡っているものと推測され、情報封鎖は困難な状況です。書籍そのものには異常性が見られないことから、現状では情報の出現を監視するに留まっています。新たに書籍に対する言及が見られた場合、局員は書籍の情報がいかなる文脈で登場しているかについて詳細な分析を行ってください。
入手した書籍は、管理局の特殊書籍を収容する書架で集中管理されます。研究の為に書籍を持ち出す場合、様式F-90734に従い特例申請を実施してください。書籍は必要に応じて複写・電子化が認められていますが、一般的な機密情報拡散防止の観点から、不必要な複写・電子化は避けてください。
本案件では「ピッピちゃんのティータイム」のみを管理対象とします。類似する異常な書籍を発見・確保した場合は、別案件として管理してください。
Subject Details:
案件#90734は、「ピッピちゃんのティータイム」という出自不明の書籍に関する一連の案件です。主体となる書籍の正確な出現時期は明らかになっていませんが、少なくとも90年代後半から存在が確認されています。管理局の推定では1997年後半を出現の最有力時期としていますが、いくつかの物証はより以前からの書籍の存在を示唆しています。
当書籍の特徴的な点として、現時点ではインターネットのオークションサイトでのみ入手が確認されていることが挙げられます。通常の書店、特に古書を扱う書店において、「ピッピちゃんのティータイム」なる書籍が確認された事例はこれまで一件もありません。オークション出品者へのヒアリングでは、例外なく「蔵書を整理していたら買った覚えのない漫画が出てきた」もしくは「別のオークションサイト経由で購入した」との回答が寄せられ、オークションを除く正規の流通経路で入手したという証言は得られていません。多くの書籍は出版年から見て矛盾が無い程度に品質が劣化(日焼け・風化等)しており、出版年に付いてはある程度の信憑性があるとの見方が大勢を占めています。
この「ピッピちゃんのティータイム」は2015/3時点で第57巻までの発行が確認され、その内容は概ね70年代後半から80年代前半にかけての少女漫画の一般的な作風を踏襲しています。著者は「たかはしさゆり」、出版社は「芽吹書房」、元々の掲載誌は「別冊ショコラ」と記載されています。作家としての「たかはしさゆり」、出版社としての「芽吹書房」、及び漫画雑誌としての「別冊ショコラ」がそれぞれ実在した記録はありません。加えて、「別冊ショコラ」が「芽吹書房」から出版されていたという確証もありません。書籍に記載された情報はこのシリーズが1972年頃から連載・刊行され始めたことを示していますが、当時の記録からは「ピッピちゃんのティータイム」なるシリーズが存在した形跡は見つかっていません。
主人公は携帯獣の「ピッピ」で、風貌は一般的な携帯獣のものですが、少女漫画の作風に沿った擬人的なキャラクター付けが施されています。基本的に一話単位で完結するショートエピソードによって構成されていますが、時折複数話にまたがるロングエピソードも見られます。エピソードの粗筋は総じて平凡です。主人公であるピッピちゃんがレギュラーキャラクターである「ピカチュウくん」との恋愛を成就させるべく様々な努力をするという筋書きが大半を占め、時折「ライバル」が登場して他愛のない痴話げんかが繰り広げられるといった、何ら特筆すべき事項のないストーリーが展開されます。登場人物はほぼすべて携帯獣によって構成されていますが、まれに人間と思しき人物が登場するエピソードも存在します。
ただし、一部のエピソードについては一般的なエピソードと比べて明らかに作風が異なり、また総じて注目すべき内容が描かれていることに注意しなければなりません。
以下はこれまでの調査で発見された「特異な」エピソードの一部です:
・第40話「ピッピちゃんと殺人事件」(第7巻収録)
このエピソードでは、ピッピちゃんの隣人である「ラッキーさん」が何者かによって暴行の末に殺害され、またラッキーさんの娘である「ピンプクちゃん」が行方不明になったという事件がシリアスなタッチで描かれています。第7巻が刊行されたのは巻末の記載によると1973年2月ですが、当時種族としてのピンプクは知られていなかったことに注目すべきです。次の第41話は前々話である第39話の直近の続編となっており、この第40話での出来事は無かったものとして扱われています。
・第83話「ピッピちゃんとW.D.ビル」(第15巻収録)
それまでのエピソードではさして特徴の無い田舎町が舞台となっていましたが、このエピソードのみ唐突に都会が舞台になっています。ピッピちゃんが高層ビルにある職場で働く父親の「ピクシーおとうさん」の元を訪れるという筋書きですが、ストーリーの半ばで突如として携帯獣の「ホウオウ」及び「ルギア」がビル近くに登場して激しい戦いを始め、以後はピッピちゃんとピクシーおとうさんが命からがらその場を脱出するという緊迫したシーンが展開されます。このエピソードにおいては、レギュラーキャラクターを含む極めて多くの死者・負傷者が発生します。次の第84話は前々話である第82話の直近の続編となっており、この第83話での出来事は一切無かったものとして扱われています。第83話で死亡または負傷したキャラクターは、何事も無く以降のエピソードに登場しています。
・第160話「ピッピちゃんの激怒行進」(第27巻収録)
ピッピちゃんの友達である「ミズゴロウくん」が、恐らくは人間と思しきシルエットを持つ警察に追われ、結果として事故に巻き込まれて瀕死の重傷を負うところからストーリーが始まります。ピッピちゃん始め携帯獣の登場人物は警察の度の過ぎた追跡行為に憤慨し、以後エピソードの終了まで激しい抗議行動を繰り広げます。ページの終わりに至るまで、人間に対する苛烈な罵詈雑言が携帯獣の登場人物による台詞として延々と書き連ねられています。次の第161話は前々話である第159話の直近の続編となっており、この第160話での出来事は無かったものとして扱われています。ただしこのストーリー以降、ミズゴロウくんが再登場するエピソードは確認されていません。
2014年には、新たに第55巻・第56巻・第57巻の存在が確認されました。3冊すべて出版年は1982年となっており、接収された書籍はいずれも年月から見て矛盾が無い程度に劣化しています。シリーズの連載が未だ続いているのか、それとも何らかの理由で時間経過と共に新たな巻が「発見」されるようになるのかは、局員の間でも意見が分かれています。
書籍の巻末には「別冊ショコラ」に掲載・連載されていたと思しき他作品の単行本が多数紹介されており、そのすべてがこれまでの記録に存在しない漫画作品です。著者の中には実在する漫画作家の名前もごく一部発見されましたが、いずれも書籍の発行時期には漫画家として活動していないか、あるいは出生していません。また、紹介されている作品は例外なく当該作者の既知の作品リストに存在しません。
以下はこれまでに確認された他作品の一部抜粋です:
●ときめきドキドキ電子レンジ(著者:小石川れい/第9巻までの刊行を確認)
●思い出のプチキャプテン(著者:かたぎり翼/第17巻までの刊行を確認)
●ライムグリーン・カンバス(著者:かたぎり翼/読み切り)
●天翔ける赤いツバサ(著者:さいとうともみ/第8巻までの刊行を確認)
●Gene Girls(著者:荒川瞳/短編集)
●手のひらの上のアルカトラズ(著者:新庄まなみ/第11巻までの刊行を確認)
●ハート★スワップ!(著者:月梨野ゆみ/短編集)
●オクタン同盟(著者:松井かおる/第32巻までの刊行を確認)
●はるかぜエレジー(著者:牧下マユミ/第3巻までの刊行を確認)
●太陽と月は石の夢を見る(著者:大林みか/第6巻までの刊行を確認)
当書籍がインターネットのオークションサイトでのみ発見される理由は判然としていません。また一部の出品者については、オークションサイト並びに案件管理局からのコンタクトが完全な失敗に終わるケースも見受けられます。
Supplementary Items:
本案件に付帯するアイテムはありません。
まず、海が枯れた。気付かぬ内に人が枯れて、生物の多くは死に絶えた。世界の終焉と誰かが言った。
なし崩しに文明も終わる。海が無ければ導くものもなく、ここアサギの灯台も役目を終えて眠りに付いた。需要が無ければ光ることも出来ず、事実上の無職宣言を私は食らってしまったのである。
灯台守のデンリュウとしてそれなりに安定した後生を送れるはずだったのに、運命とは時として残酷なものだ。朝昼晩光ってさえいれば人間共は有難がって傅くし、食事だって不自由しなかった。だがそれは昔の話、今では昼と夜の合間を縫って一欠けの草根を死に物狂いで探す生活を送っているとなれば、私の落胆と絶望がいかほどのものであるかを想像するのは難くない。
無論、世界が終わったからと言って嘆くことばかりではない。世界が終わっていない頃には決して出会えなかったはずの、いくつかの繋がりが出来たのだ。ピカチュウ、と名乗るそのポケモンはとても気さくで、出会って直ぐに意気投合した。私が知らない遠い場所の話や、逆に彼が知らない灯台とアサギの街のことなど、様々なことを語り合ったものだ。
しかし、出会って三日後に彼は死んだ。
その日からだ。なぜ私は生きているのか、生き続けているのだろうか、疑問に思うようになったのは。終わってしまった世界でなお、生へと執着しなければならない理由などない筈なのに、私は今日も生き長らえるのはどうしてなのかと。ただ機械的に日々を流すだけの私は、果たして生きていると言えるのだろうか。それとも。
『太陽の墓標』
一
ピカチュウの亡骸は、灯台の根元に埋めることにした。遺骨には意志も目も備わってないとはいえ、やはりこんな僻地に埋めてしまうのには多少なりとも心苦しさを感じたが、この殺人的な気候の中出歩くのは危険だと判断を下した。墓掘りを埋める墓は、誰も作ってなどくれないのだ――そう自分に言い聞かせることで、涙が出るのを堪えたりもした。
本当ならば茜色の夕焼けが見られる丘の上にでも埋葬してやりたいのだが、それも行うことは出来なかった。そもそも、私達の知っている夕焼けを見ることすらも叶わなかったのだ。
その原因は枯れた海にある。厳しく吹き付ける風が、海が干上がったことでむき出しになった地表の砂を浚い、巻き上げ、まき散らすことで空に蓋をし、陽の光を届かなくしている。かつてそこに咲いていた筈の陽だまりの花は、もう私たちの手の届かないところへ行ってしまったのだ。
上がそうなら下も同じ。灯台のライトルームより覗いた世界、眼前に広がるぐずぐずの泥――かつて海と呼ばれていたもののなれの果て――は、腐った木の実の色に良く似ている。時折視界の隅に映る泥以外の色は、悉くがポケモンの死体だった。翌日には泥に呑み込まれて消えていた。
今日も月の光はない。人間たちの営みの光ももうない。一寸先はおろか自身の指先さえ見えないほどの完璧な暗闇は、これからの自分の行く末を示唆しているようで気持ちが悪い。指や毛先、心臓にまで纏わりついてくる泥闇はいくら触れ合っても慣れる事はなく、この時間は私にとって酷く憂鬱なものだった。
しかし、私はデンリュウだ。故に、頭部の球体から明かりを発することが出来る。その気になれば、この灯台から外へと光を漏らすことだって出来るのだ。だが。
だが、それをして何になるというのだ。確かに一時の不安や寂しさは紛れるかもしれないが、それ以上の意味合いはない。寂しさを紛らわせたところで私が一匹ぼっちであることには何も変わりがないし、不安を埋めたところで次に襲ってくるのは虚無感だけだ。そんな自己安心の為にエネルギーを消費するのは、この生き辛い世界ではご法度なのだ。より長く、生き永らえる為にも。
この終わってしまった世界の中で、私が唯一楽しみにしているのは眠ることだった。かつて職務に明け暮れていた頃は碌に眠ることも許されなかったのだから、その点に限っては今の世界の方が幸せだと言えなくもない。時間の概念も日付の概念も衰退した今は、好きなだけ起きて好きなだけ眠ることが可能だった。勿論空腹等々の生理的現象も考慮しなければいけないからずっと寝ている訳にもいかなかったが、大体一日の半分は床に就いていた筈だ。もっとも、他にやる事がないからという理由もあったが。
しかし、その錆びついた黄金サイクルは今日を持って崩れ去った。灯台に、新たな客が訪れたのだ。
「よお」
生の籠る声とは裏腹に、来訪者の身体はほぼ泥人形と化していた。あのどこまでも広がる泥の海を漂ってきたのだろう、被る紫紺の影帽子は泥を吸い込んでぼろぼろに煤けていた。
私は横たえていた体を起こすと、暫くぶりの来訪者を一瞥した。黒々しい泥に浸って変色してはいるが、彼は確かにムウマージというポケモンだった。この辺りでは見ないが、一応は知っている。ライトルーム勤務だった頃にトレーナーが引き連れていたのをはっきりと覚えていた。
「おれさ、久しぶりに見たよ、生きてるやつ」
ぽつぽつ。吐き出した言葉と共に、雫がはじける音がする。飄々と笑いのける彼の瞳には、涙が浮かんでいた。瞬きの際に零れ落ちたそれは、頬の泥をこそげ落としてコンクリの地面に叩き付けられていく。黒ずんだ涙に泥は吸い取られ、奥から覗かせた紫色の肌はまだ若々しい少年のものだった。
「なあ、聞いてくれよ。泥の中を進んでると、たまに固いものに触れるんだ」
彼は私の傍まで近寄ると、そっとしゃがみ込んだ。
死臭を帯びた泥の臭いと共に、ゴーストタイプ特有の冷涼感が伝わってくる。こうして誰かの温もりを感じるのが、随分と懐かしいことのような気がした。
「そいでさ、拾い上げると決まって誰かの亡骸なんだ。泥にまみれてぐちゃぐちゃだけど、形は綺麗に残っててさ。みんな苦しそうなんだよ。恨めしそうな形相で、おれの事を睨んでくるんだ。おれ何も悪いことしてないのにさ、ただ生きてるだけなのに、なんか生きてちゃいけないって言われてるみたいで」
心の底に押し込められていた不安をを押し出すように、彼は話を続ける。絞り出すような吐息が、かちかちと震えていた。
帽子に隠れ、その横顔から表情は窺えない。されど、彼が怯えているのは手に取るように分かった。私だって最初に死体を見たときは酷く狼狽したものだ、まだ若齢の彼がそういうものを見続ける状況に立たされなければならないというのは、想像を絶する責め苦に違いない。
「……悪かったよ。急に押し入ってきて、変な話してさ」
魂の抜けた笑顔と共に、彼は静かに立ち上がった。未だに癒えない痛みの影を引く背中は、今にも溶けて消えてしまいそうな弱々しさがある。
一度強い衝撃を食らった心は、それ以上何をしなくても勝手に壊れていくものだと聞いたことがある。まさしく今の彼がそうだった。これ以上野ざらしにしたらどうなるかなど、誰にだって予想は付く。
「おれ、もう行くよ。この世界で独りぼっちじゃないって分かったし、話も聞いて貰えたし、良かった」
――良くない。何一つとして、良い訳がない。
私は唇を噛み締めると立ちあがり、彼の紫装束を掴む。泥水でしとどに濡れそぼった身体を伝って、哀しさの匂いが鼻をつく。
そして私は、彼が何の脈絡もなく話し始めた理由をようやく理解した。孤独に今まで彷徨い続けてきた彼は、自分の負った痛みを吐き出せる時間を待ちわびていたのだ。そして私が、初めて見つけた、ただ一匹の――。
「お互い、死なずにいような」
彼は、顔を背けた。ムウマージの濁った瞳は、私の身体を映さない。それでも、私には彼が助けを求めているようにしか見えなかった。只でさえ多感で脆弱な子供の心が、悲鳴を上げ続けているようにしか。
ひび割れた心を包むように、私は彼の肩を抱いた。そうすることに抵抗はない。むしろ、そうするべきだという確信さえあった。
その確信を裏付けるように、彼は私の腹にゆっくりと顔をうずめる。小刻みに震える彼の頭を、ゆっくりと撫でまわす。
「水場からは泥しか出ない。食べ物は遠くまで探しに行かなければまともなものがないし、泥の臭いだってひどいものだ。夜になると真っ暗だし、寝床の硬さたるや外の方が幾分かマシなぐらいだ。……もし、それでもいいのなら、ここに根を下ろすといい」
「……いいところは、ないのかよ」
「寂しくはない。お互いに」
「なんだよそれ」
すすり泣きは止まっていた。彼は私の腹から顔を外すと、控えめに微笑む。
「サイコーじゃん」
二
気が付くと、私はアサギの灯台の目の前に立っていた。根元の白から切っ先の蒼まで、凛と晴れ渡る青空を切り裂いて佇む白無垢はいつ見ても惚れ惚れとするような出で立ちだ。建設から今まで随分と長い時を過ごしてきたのに、素肌には傷一つさえ走っていない。いかに町の人々に愛されてきたかが良く分かるというものだ。
アサギの砂浜の細やかな粒をまぶしたように、青空は燦然と輝きを放つ。毛先を撫でるように吹き付ける海風に合わせて、キャモメの群れが踊っていた。
「どうして」
思わず、そんな言葉が口を付いて出た。瞼の裏に過ぎるのは終末世界の空の色。今のこことは似ても似つかぬ、退廃的なまでの黒ずみ。今までも、そしてこれからもずっと黒ずんだままだと思っていた世界が、なんと晴れているではないか。それどころか、海も元に戻っている。命と潤いに溢れた、深い深い青色に。
居ても経ってもいられず、私は駆け出した。焼けつくような美顔の太陽に見つめられ火照る砂浜を踏み鳴らし、踝を海に突っ込む。冷たい。気持ちいい。そしてすごく、懐かしい感覚。
足毛の内側にまで入り込んでくる波にある種のくすぐったさを覚えながら、私はしばしの間水平線を見つめた。私の愛するアサギの町がまだ存在していたことに、言葉にできないような熱が目と喉の奥からじわりと這い上がってくる。もしかしたら、あの終末世界こそが只の夢だったのかもしれない。妙にリアルな、俗に言う明晰夢とかいうやつで――
「違うよ」
思考に、一閃。薄ぼけた闇をさらに薄めたように、それは不気味だった。
「これは、ただの夢だよ」
ききき、と重いものを擦るような笑い声が潮風を震わせた。さざめいていた海が微かに遠ざかっていき、代わりにそれの息遣いが深く強く聞こえるようになった。それは白い砂浜を洗う潮騒よりもか細く、しかし妙に耳にこびりつくような残響を纏わせ、私の耳毛をねっとりと舐る。
不快感に煽られて、私は糸を引かれるように振り向いた。飛び込んでくる黒い布を裂いて被ったような風体は、砂浜の白に異様なほど不釣り合いで、そこだけ切り取った別の空間を貼り付けているようであった。どんなに風が吹こうともなびく事のない白い髪の間に、夜の灯台よりももっと仄暗い黒を孕んだ瞳がぐるぐると渦巻いている。焦点をどこかに落っことしてきたのか、瞳の中は嫌に朧気だった。
「覚えておくといい。この感触を。素敵な世界を。風の声を。海の匂いを。空の青を。灯台の美しさを。そしてなにより、君が幸せを感じていたことを」
再び、そいつは含み笑いを浮かべる。
不意に意識が揺らめいた。大地に大きな衝撃が走り、崩れかけの土壁を蹴ったようにぼろぼろと零れ落ちていくのは海、それから空の青。空間を駆け回る亀裂に囲まれた所から、ぱっくりと裂けてとろみのある闇が噴き出して、今までそこにあった筈の世界を黒く塗りつぶしていく。
「――」
私のところへ確かに届いた言葉が意味になる前に消えていくのと、私の意識が消えていくのと。
どちらが早かったのかは、分からないまま、私は――。
「……おい、起きろってば」
ゆさゆさ。ぽすぽす。
海の底にいたような意識が、急速に引き上げられるのを感じた。目ヤニのへばり付いた重ったるい瞼を開くと、私の顔色を窺うように覗き込むムウマージの顔。
「おはよう。随分うなされてたけど、大丈夫かあんた」
「ああ、おはよう。……何でもない、変な夢を見ただけだ」
気にしないでくれ、と私はかぶりを振った。首元に鉛が流されたような気だるさを覚えたが、別段気にすることでもないだろう。原因がこの硬い床だということはとうの昔に分かっている。
彼との共同生活も、気が付けば二十回目の朝を迎えていた。
しかし、上空は相変わらず砂塵の蓋に覆われているので、その時間が本当に朝なのか推し量ることは出来ない。宵闇が去って、微かに自分の掌が見えるようになってきた頃を、私達は便宜上“朝”と呼んでいるだけだ。
「そうか。いや、変な汗かいてるようだったから心配でさ」
「そんなに酷かったのか」
「そりゃもう。“ゆめくい”で覗いてやろうかと思ったけど、面倒だからやめた。あれ結構疲れんだぜ」
ムウマージが本気で心配していたところを見るに、どうやら私は相当うなされていたらしい。どんな夢かはもう覚えていないけれど、確かに胸中には何か苦々しいしこりが留まっているような気がした。一体どんな夢を見ていたのだろうか。少なくとも良くない夢であることは確かだ。
「そんな顔すんなって、所詮夢は夢なんだし。ほらメシ食おーぜ、今日は木の実を見つけたんだ。一個だけだけど」
ぶゆぶゆに萎びた木の実を器用な手つきで半分に割ると、彼は私の前に大きい方を差し出した。お世辞にも食指が進む見た目とは言えないが、食べられてしかも味があるだけマシなものだ。
「……なあ」
噛む度に口に溢れる不快感と甘苦さは、なんというか、なんというか。とりあえず食に対する冒涜だと感じた以外には、特に語るべきではない。胸一杯に広がる生理的嫌悪感を語るには、奇麗な言葉では足りなさすぎる。ムウマージが何か言いたげに眉根を寄せていたので、私は沈黙を促すように首を振った。
「何も言うな」
「でも」
「いいから」
“味に関してとやかく言うな、食えればいい”という意を込めて睨みつける。そいつが伝わったのか単に私の形相が続きを言うのを思いとどませたのかは知らないが、不服そうに口を尖らせながら彼は黙った。途端に広がる気まずい雰囲気を払拭するべく、私は立ち上がる。呼応して、ムウマージの影帽子の鍔が、くいっと跳ね上がった。
「え、もうやんの」
「ああ。よくよく考えたんだが、夜より昼の方が不特定多数の目につきやすい」
「不特定はともかくさ、多数って呼べるほど生きてる奴が居るのかどーか」
いまいち洒落になっていない言葉を無視しつつ、私は階段を登る。もういない人間サイズに調整されているために、短い脚では結構な負担だった。ぜえはあと切れる息の隣をふよふよとなびく布のように通り越していくムウマージが、無性に恨めしくて腹立たしい。
目指すのはライトルーム。
まだ灯台が生きていた頃、私はあそこで、海へ向けて光を放っていた。その当時は嫌で嫌で面倒でしかたなかったものだが、無ければないで寂しいものだと感じたのはムウマージと出会って三回目の朝だったように記憶している。そのことを漏らすと、ムウマージはいかにも名案だというように顔を綻ばせ、私にこう告げた。“標になってくれ”と。
つまり、こういうことだった。数多く生息していたデンリュウの中でも、曾祖母アカリより繋がる私達の血筋は特に発光器官が発達している。かつては海を統治する管制塔としての働きを担っていたその光を、今度は陸に向けて放ち、まだ見ぬ生存者達がこの灯台へ集う切っ掛け――標となってほしい、と。
私としても、それは名案に思えた。というか実際、名案だった。私の退屈やフラストレーションはそれによって解消されるし、まだ生存者がいるかどうか確認するためにも、最良の行動だ。だが、あえて一つ、欠点を上げるとすれば――とても、困憊するということだ。
よくよく考えれば当たり前だ。発光に費やす電力は自身の肉体を動かすエネルギーと直結している訳で、私の今の行為は自ら自分の体力を削ることによって成立している。疲れない訳がなかった。
しかし、なにかしていないとどんどん鬱屈していくのもまた事実。打ち込めることがあるだけ、まだマシだと思いたい。
「よ、遅かったな」
様々な意味で疲れ知らずなムウマージのにたり笑みを通り越して、私はライトルームの中央に立つ。深く息を吸い、尾っぽと額の球に力を込めると、しならせた細鞭のような破裂音を立てて電気の糸屑が纏わり出した。耳先からつま先まで、ありとあらゆる箇所の毛が一斉に逆立つこの瞬間が、とても楽しい。
「すっげ……かみなり雲みてえ」
感嘆とも畏怖ともつかぬ彼の声は、跳ね上がっていく電圧と騒音に呑まれて聞こえなくなっていった。渦巻く雷撃の奔流の中央は、一周した爆音波が静寂へと姿を変える。台風の中心部も、きっと今のような空間が展開されている筈だ。
視界を走るは絹糸。流星の様に渦巻き、踊り、輝くのは電気の飛沫。ああ――なんて、楽しいんだ。
身体中を震わせる愉快さを噛み締めて、私はさらに電力を上げていく。
眩いばかりの閃光は、くすみ切った空のどこまで届くのだろうか。
そんなことを思いながら、私は、迸る。
三
「正直になりなって。楽しいんだろ、放電」
「そんなことはない。断じて」
ムウマージから繰り出される毎度恒例の問いを、私は毎度恒例に突っぱねる。そんな様子を見て、オーダイルとレディアン、オオタチは微かな苦笑を浮かべた。
オーダイル率いる彼らと私たちが出会ったのは一昨日、或いは彼と迎える二十二回目の朝だった。放たれた光を見つけて、泥の海を掻き分けここまで来たというのだから、私の消費した時間とカロリーは無駄ではなかったようだ。そういう事を気にする性分ゆえに、今までずっとやきもきしていたのだが、これで私の行動が理に適っているものだと証明できたのである。一安心。
「おい、オオタチ。身体はもういいのか」
「うん、もう平気。オーダイルさんこそ、疲れてるでしょ」
「ばっきゃろー。ガキは自分の心配だけしてりゃいいんだ」
何ともまあ、仲睦まじい事である。そこだけ向日葵の花畑もかくやと甘ったるく朗らかな空気が広がっていた。
レディアンの話を聞くに、彼ら三匹の関係は私とムウマージとの関係とよく似ていた。終末世界の泥の海を進んでいたところを、偶々出会ってそれからはずっと共に行動しているという話だ。なんでも、小柄なオオタチを泥から庇うように、オーダイルが背中に乗せて運んでいたら妙に懐いてしまったとか。まるで年の離れた兄弟のよう、とはレディアンの言である。
「ところで、オーダイル」なおも浸食を続けるおひさまぽかぽかワールドに太刀を切り込むのは中々苦しい事だったが、どうにか私は成し遂げた。オオタチを振り回して遊んでいた手を止めると、オーダイルは静かに私の方を向いた。海面から急に深海付近に引きずり込まれたかのように、取り巻く空気がとても息苦しいものに変わる。なんだか、酷く罪悪感。
「そろそろ聞かせて貰ってもいいか。オオタチもだいぶ良くなってきたようだし」
「ああ、いいぜ。っても、大部分はレディアンに頼ることになっちまいそうだけど」
覚えとくのは苦手なんだよ、と彼は苦々しく頭を掻く。
「構わないよ。その時はレディアンにお願いする」
「ええ、任せてください」
急に話の空気が変わって、オオタチが困惑していた。私はムウマージの方ににちらりと意識を傾ける。既に依頼が飛んでくることは察知していたのか、彼とは即座に目が合った。“後でたっぷり聞かせろよ”とでも言いたげに頬を釣り上げると、影帽子が微かに揺らんだ。
「オオタチ君。ちょっと、向こうで遊んでよっか」
「え、いや、あの」
幽霊という特性を生かして無音で近づくと、ムウマージは背後からオオタチを抱きかかえた。飄々と抱きかかえられるあたり、意外と力持ちだ。少し見直した。
しかし、ムウマージがオオタチを抱えるこの絵面は、人によっては幽世住まいの霊がいたいけな少年を向こうの世界へ連れて行こうとしているようにも見える。というか、ある意味、根本的なところでは何も間違ってはいなかった。ムウマージに言ったら“レイテキジンケンのソンガイだ!”などとどこで覚えたのかも分からぬ呪文を連呼されるのは経験上知っていたので、内緒。
ムウマージ達が去るのを見届けた後、私達は重苦しい空気を噛み締めながら話し合いを始めることとなった。議題は勿論、終末世界の有様についてだ。面子のどことなく底暗い表情を見るに、議論の行く末はもう決まっているようなものだったが、そのことについて触れてはならないことは既に暗黙の了解済みだった。
「……じゃあ、オレから行くぜ」
埃を被った空気に負けじと、オーダイルがひび割れた声を張る。本人は明快なつもりなのだろうが、言葉尻に微かに滲み出る諦念の意は消えそうもなかった。土台無理な話だ。
「この灯台を中心として、俺たちは右の方から来た」
「レディアン」
「東から、ですね。太陽が出ていないので曖昧ですが、地理的に考えるとそうなります」
「……もうレディアンが話せよ」
はあ、と口を尖らせるもレディアンはどこ吹く風。面倒なことは極力押し付ける、というのが彼女のポリシーだと聞いた時には脱力したものだが、実際にその現場を目撃するとまた脱力してしまいそうになる。いったいなんなんだ、このレディアン。
「話を戻してくれ」
「ああ、分かったよ。少なくとも、オレが見てきた中で泥に覆われていたのは低地部分だ。東の方は低地が多かったから、泥も多かった。ついでに言うと、泥に呑まれた死骸もな」
「私は飛べるので良かったのですが、オオタチくんとオーダイルさんは大変そうでした。このオーダイルさんでさえ沈んでしまいそうになったことが何度か」
「あの時ばかりはみずタイプに生まれて良かったと思ったね。じゃなきゃオレもオオタチもここにはいない」
シニカルチックな笑みの端に力はなく、楽観的な口調の奥底は恐怖に怯えていた。灯台に引き籠っていた私とて何度か死の恐怖に直面したことがあるので、オーダイルの恐怖は手に取るように伝わってきた。擦りつけようのない不安に、胃の奥が微かに痛む。
「そういえば、オオタチの体調は大丈夫なのか」
「本人はすこぶる好調だって言ってる」
「そんな訳がないだろう」
「ああ、オレもそう思ってる。あの痩せ方は異常だ」
向こうの隅でムウマージと戯れているオオタチを見やる。種族特有の寸胴体型は日陰に伸びた植物の様に頼りなく、力を入れたら根元からへし折れてしまいそうに華奢だった。肉という肉がこそげ落ちて、薄汚れた身体に病的な窪みをいくつも拵えている。
「理由は」
「栄養失調」
だろうな、と思った。
成体の我々と違いオオタチはまだ子供、栄養状態の良くない状況が続いた為に発育も止まってしまっている――と、彼は考えたのだろう。筋も通っていたし、理解出来なくはない。だが。
「本当に、そうなんだろうか」
「ん?」
「いいや、何でもない」
憶測だけで物事を言うのは憚られた。というか、単純に言葉にしたくなかったのだ。考えうる限り、最悪の可能性。
思考の末はみ出てしまった声の末端を握り潰すように、ひび割れた喉から咳払いを一つ。
「じゃあ、次は私から。と言っても私は灯台からあまり遠くに出たことがない。これはムウマージから聞いた話なんだが――……」
その日の私は、自分でも驚くほどに饒舌だった。
それはつまり、雑草の様に芽吹く不安の種を、目に入れないようにする為か――或いは。
四
オオタチが倒れたのはその日の夜のことだった。突然ぐったりと仰向けになったまま、彼は動かなくなった。身体は強張ったように固く、尻尾の先からは熱が奪われて冷たくなった。
鼻に手を当てると微かに息が通っていたので呼吸はしているようだが、時折不規則に乱れたり止まったりすることがある。もしかしたら呼吸器が弱っているのかもしれない、とレディアンは私に告げた。医療的な措置が受けられないこの世界では、それはつまり、死亡宣告でしかない。
暫くオオタチの看病に努める、というレディアンを見送った後、私は光のないライトルームに佇んでいた。窓の外は夜の帳が下りたように真っ黒で、腐敗しきったこの世界の行く末を暗示しているようであった。一寸先は闇、それも、悪い意味での。
一人きりになると、涙が止まらなくなった。オオタチのこともそうだが、何より、私達がいずれ彼と同じ道を通るという事が堪らなく怖かった。孤独になる事が怖いのか、痛いのが怖いのか、単純に死ぬという事実が怖いのか、そういう事を考える内に、考えること自体が怖くなっていく。やめようと思っても、一度こびり付いた恐怖は簡単に振り払うことは出来ない。
ふと、首筋に何かひやりとした感覚が訪れた。振り向くと、ムウマージが浮かんでいた。
「ムウマージか。オーダイルは」
「大分参ってるみたいだ。おれに掴みかかってきたから気絶させといた。その方がいいだろ」
「荒っぽいな」
「おれだってパニクってたんだよ。後で謝っとく」
彼は私を一瞥した後、傍に腰を下ろした。ここ最近色々と忙しかったせいか、ムウマージと二人っきりになるのは随分と遠い日の事だったように感じられた。彼から伝わってくる無機質な冷たさが、今はとても心地いい。
「泣いてたんだろ。目、赤いぞ」
伸びてきた手が、私の目を優しく擦った。
「オオタチのことか」
「当たらずとも遠からず、だ」
私は重い溜息を吐いた。もし空気が可視化できるのならば、その息はとても濁った色をしているに違いない。
「オオタチのあの姿を見て、なんか実感したんだ。死ぬって、案外近いことなんだって」
「それで、怖くなって泣いてたってか。あんたらしくないな」
「私だって怖くなる時ぐらいあるさ」
「それもそうか」
彼はわざとらしく微笑んでみせ、そしてふと真剣な表情を浮かべた。
「……でもさ、デンリュウ。おれ、こうも思うんだ。死ぬこととか生きる事自体には大した意味がなくて、真に問題にするべきなのはその間のことなんだって」
「……ムウマージ?」
金色に輝く瞳が、窓の外を通り越して、何億光年も離れた遠い場所を見つめていた。横目で見た彼の横顔は妙に大人びていて、凛々しくもどこか郷愁的な哀しみを孕んでいる。
「急にどうしたんだ」
「いや、何か言ってみたかっただけさ。たまには、らしくないことを言ってみたくなるじゃん」
「なんだそれ」
急に子供っぽくなったムウマージの姿を見ていると、なんだか笑いがこみあげてきた。いつの間にか、抱いていた恐怖の感情はどこかへ消えてしまっている。重苦しい雲に覆われていた筈の胸が、たちまちの内に晴れ空へと変わる。
「あ。デンリュウが笑ったの、おれ初めて見たかも」
「ああ、私も久しぶりに笑ったよ。キミが居てくれてよかった」
「よせよ。照れるって」
私と視線を合わせないよう萎びた影帽子を深くかぶり直して、焦げるぐらいに頬を赤らめて、彼はぽつぽつと呟いた。
「おれも、デンリュウが居てくれてよかったよ。じゃなきゃ、生きようと思えなかった」
奇妙なむず痒さに伏した瞼の裏には、出会った当時の私たちの姿が映っているのだろうか。こっ恥ずかしさで矮小に縮こまった彼を見ていると、なんだか穏やかな気持ちになれた。
「私もだよ」
そっと彼の頭を撫で、瞳を閉じた。かつての邂逅に思いを馳せる。寂しさと孤独に飲まれそうだった彼を匿った――というのは形ばかりで、誰かと居ることに最も飢えていたのは誰でもなく私なのだ。ムウマージが居なかったら、私は誰とも出会うことなく、寂しさの中で一匹死んでいただろう。例えば、今こうしていられるのも。
「お前が居てくれたから、だよな」
「ん?」
「いいや、何でもないよ」
ゆっくりと首を振って、私は床に寝転んだ。暗い天井のひび割れた部分から、暖かな闇が顔を覗かせている。静寂と孤独の象徴である筈のそれは、なぜだか陽だまりの様な優しさを孕んでいた。
私は粘っこい唾を呑んだ。そろそろ、私も覚悟しなければならないな、と思った。あれ程までに恐怖を抱いていた闇が、ムウマージが傍にいる時だけは怖くないのだ。それはつまり、ムウマージという存在が、私の中で大きなものに変わりつつあるということを意味している。だが、ムウマージだって、私だっていつかは死んでしまうのだ。もし、私より先にムウマージが死んでしまったら? 私は耐えられるのか? 一生埋まる事のない傷を抱えて過ごしていくなんて、私には重すぎるのだ。
恐ろしい何かに追われるように瞳を閉じた。瞼の裏に広がる幾何学模様。腫れぼったい目が、急に鋭い頭痛を運んできた。
「なあ、デンリュウ。……もう寝ちまったのか?」
まだ起きていたけれど、私は返事をしなかった。今返事をすると、私の中で守り続けてきた強がりが、音を立てて崩れてしまいそうだったからだ。
「まあいいや。おれ、さっき難しい事言ったけど、あれ気にしなくてもいいからな。デンリュウもおれも、今生きていることを楽しめれば、多分それでいいんだと思う。……それじゃおやすみ、デンリュウ」
※ポケモンオンリーです。死ネタもあります。苦手な方はお気を付け下さい。
Subject ID:
#95840
Subject Name:
なみのり迷惑メール
Registration Date:
2000-05-16
Precaution Level:
Level 2
Handling Instructions:
当案件にて保全されたメールは、管理局のファイルサーバに保管します。メールが保管されているサーバにアクセスするためには、様式F-95840に則った特例申請を提出する必要があります。メールはサーバ上で三重に暗号化された上で保持され、研究目的以外での閲覧・持ち出しは禁止されています。
新たに当案件にて管理すべきメールが確認された場合、可及的速やかにメールの回収を行います。その際、受信者がメールのコピーを媒体を問わず保持していないことを確認しなければなりません。
Subject Details:
2000年上半期から、一部のポケモンセンターより「トレーナーがボックスに預けたポケモンが、身に覚えの無いメールを持っている」という申し出が続けて寄せられました。案件管理局ではポケモンセンターの関係者にヒアリングを実施し、メールが発見された際の状況を調査すると共に、当該メールの確保に乗り出しました。申し出があったメールに付いては、いずれもメールの確保に成功しています。
ポケモンが持っているメールはいずれも「なみのりメール」と呼ばれるタイプのもので、発信者は「ユニティー・サイエンス」と名乗る団体です。時期や地域によって若干の差異が見受けられますが、内容は概ね「ポケモンと人との新しい関係」「一歩進んだポケモンとのコミュニケーション」を受信者に提案する内容になっています。メールの末尾にはパーソナルコンピュータ用と推定されるメールアドレスが記載され、同団体とコンタクトを取るよう受信者に促しています。
以下は文面の一例です:
ポケモンとの あたらしい コミュニケーション!
あなたと ポケモンが ひとつになるための
さまざまな おてつだいを いたします
くわしくは しりょうの せいきゅうを
ユニティー・サイエンス XXXXXXXX@unityscience.com
これまでのところ、案件管理局では「ユニティー・サイエンス」と名乗る団体とのコンタクトには成功していません。資料の請求を行ったところ、メールサーバは指定されたアドレスが存在しない旨のエラーを返します。広範な調査においても、「ユニティー・サイエンスと名乗る不審な団体からのメールを受け取った」という文脈においてのみこの団体の名前は登場し、具体的な素性は未だ明らかになっていません。
メールを受信したポケモンについての調査では、ポケモンには特段の異常は見受けられませんでした。ただし一部のポケモンについては、トレーナーにより預けられる以前と比べて、トレーナーへの信頼度が明らかに向上したとの報告があります。メールとの因果関係については不明です。
Supplementary Items:
本案件に付帯するアイテムはありません。
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